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jacket

生きづらさを感じている、あなたに。
そして、わたしを愛してくれた
大切なあなたに。
あたたかな日々があることを願って。

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それでも生きていくって、
約束しよう

斎明寺藍未

京都芸術大学 文芸表現学科



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もくじ

・はじめに

・「わたし」と、この四年間について
  とにかく河原町を逃げたくて
  コンビニにも、スーパーにも行けなくなっていく
  十九歳、シルバーアクセサリーのジンクス
  コロナ禍と、夏と、パニック障害
  一年がかりで「病院に行く」こと
  ヘルプマークをつけて歩いた
  サングラスと、帽子と、ネイル
  「あと十年も、生きられなかったと思うよ」
  快速〝未来〟の自分行き
  祝!三か月通院継続
  「しあわせになる」と決めることについて
  ただ立っている、ということのきせき
  ひとめぼれ
  生きていくって、約束しよう

・さいごに
  「パニック障害」と、四年間を生きてみて
  あなたに

はじめに

 みなさま、はじめまして。
 そうでない方は、いつもわたしを支えてくれて心からありがとう。
 わたしは、名前を斎明寺藍未と申します。珍しくてかっこいい名前だねとよく言われます。わたしも、そう思います。大切なひとが愛をこめてつけてくれた、綺麗ですてきで、だいすきなお名前です。
 わたしは、二〇〇一年二月一二日に愛知県のちいさな海まちで生まれ、体を動かすのが苦手で、夜と、絵を描くことが好きな女の子に成長しました。高校生になってからは演劇やファッションに興味を持ち、舞台の衣裳デザインやメイク、お洋服のスタイリングをさせていただくこともありました。高校時代から、演劇活動や、学校でいろいろな夢を持つ大切な方々との出会いを経験し、伝えたい感謝や愛おしい想いにどんどん気付いていく度に、ことばというものの奥の深さやあたたかさに気がついて。わたしは、いつしか「ことば」をとても大切にして、ひと同士のつながりやそこからくるぬくもりになによりも感謝する、そんな大学生になりました。
 それまでのわたしは、運動は苦手なものの、とてもアクティブな高校生活を送っていました。夜遅くまでお芝居の稽古やアルバイトに力を注ぎ、全力を尽くしておしゃれして、友達と週末になる度ショッピングに行ったり県外まで観劇に行ったり。家にいる時間がほとんどないほど、当時のわたしは活動的でした。
 今でも、高校生時代の予定でいっぱいの手帳を見返すと、あの頃の息つく間もないほどにキラキラ楽しかった日々が思い返されます。
 
 ですが、わたしは、大学生になってから不安障害のひとつ、「パニック障害」という精神疾患を患いました。
「パニック障害」とは、突然何の予兆もなく誰にでも起きる〝死んでしまうんじゃないか〟と思うような「パニック発作」をきっかけに「またあの発作が起きたらどうしよう」「あの時のような場所に行ったらまた発作が起きるに違いない」と『予期不安』を持つようになってしまうことで、不安感やストレスを感じやすくなってしまう病です。ほとんどの方がこの『予期不安』によって過呼吸発作などの息苦しくなるような症状が出るため、刺激を怖がり、外出が難しくなったり公共交通機関に乗れなくなったり初めて行く場所へ行くのが怖くなり、その結果うつを併発してしまうこともある病気です。
 わたしは、大学生一年生の冬にこの病気と出会いました。そして四年間、鬱々としながらも自分なりにこの病気とぶつかり、付き合い、向き合い、寄り添いあってきました。
 正直に言って「パニック障害」と過ごしたこの四年間は、『当たり前に生きる』ということすらとても大変な四年間でした。外に出られず、息をするのも眠るのも生きていくのを決断するのも何にもできなくて。酷くつらく、きつく、真っ暗な日々を重ねてきました。
 ですが、病気と出会ってから時間を重ね、通院を続け、生活を営んでいくうちに、わたしはこれまでの日々を振り返れるようになってきました。そして、少しずつわたしは、わたしがこの病気から得たものは何なのだろう?と思うようになりました。
 わたしは、「パニック障害」という病気との出会い、付き合いから受け取ったものが何かしらあるのではないか?と思うようになりました。
 わたしは闘病の日々の中でいろいろな「ひと」と関わりました。だめだめではあれどそんな日々や生活を重ねてきました。そんな日々の中でわたしは、「じぶん」がこの病になったことに意味があるのではないか、そこにある〝何か〟を大切なひとに伝えなければならないだろう、と思うようになりました。
 
 この四年間は、当たり前ではあるけれど「わたし」だけが経験することのできた四年間です。たくさんの優しく温かいひとたちといて。ことばや景色の中に生きてきた。そんな毎日をこれからは末永くずっと、ちゃんと生きていけるようになるために。
 いくつも、いくつも重ねてきた約束を、ここでもう一度したいと思います。
 この本は、そんなわたしの「約束」と、「あなた」のための一冊です。
 死にたくて仕方ない日がまたいつものように来ても、もう死ぬしかないって思う日が来ても、「この本を書き上げたからには、」って思いとどまれるような。そんな約束をここに固く、記しておきたいと思います。
 
 わたしはこの「パニック障害」という病に出会ったおかげで、生活や生きることがとても難しい時期がありました。ですが、「病を抱えている」ということは、「ふつう」の日々とは、違うリズムで、ゆっくり自分と生きていけるように訓練をさせていただけるということだと、今のわたしは思っています。
 そんな「人生の療養期間」を重ね、いろいろなひととことばを交していくうちにわたしは、病名のないひともパニックがないひともみんな「それぞれのしんどさ」を抱えていることを深く感じました。
 
 生きるということは、楽しいばかりじゃありません。
 誰しもが心や体に何かしらを抱え、ストレスや悲しさや不調と闘い、些細な、ささくれみたいな痛みをみんなが何処かに携えながら、それでも生きているのだと、わたしは思います。だからこの本はそんな、楽しいことだけじゃない人生を、あわよくば幸福に。「幸せに生きていきたい」と思うわたしと、どこかでこの本を手に取ったあなたのための本です。
 もちろん、この本を読んだところであなたのPMS(月経前症候群)や人間関係の縺れ、憂鬱なことがらがなくなってくれるわけではありません。わたしのパニック障害が治るわけでも、わたしのからだが抱える生きづらさが薄れるなんてこともありません。そして、「しあわせ」が何なのかも。それは誰もが同じかたちをしているものを指すのかも、分かりません。
 だけどこの本は、一生懸命に「生きること」を握りしめ続けたあなたが、少しでも生きてきたことやこれからの日々を前向きに感じられるように、わたしが毎日たくさんのあたたかい方々に支えられながら、愛しいひととの記憶と協力のもと出来上がった本です。
 生まれつきの生きづらさに対してや、生きている中で生まれるもやもやをうまく吐き出せないようなコミュニティの中にいるあなたも。人と関わり合う、この「生きること」に対して生まれてしまう複雑な気持ちに悩むあなたも。自分の心や体と今はうまく一緒に生きていけないあなたも、「しあわせだ」とうまく今は言えないあなたも。どうか少しでも一緒に、生きることを好きになれたらとわたしは思っています。どうか少しでもこの本が、あなたが生き方に迷ったとき何かの助けになれることを祈っています。
 
 こんなでも、それでも。「生きていく」って約束をしましょう。

「わたし」と、この四年間について

◇とにかく河原町を逃げたくて

 あの日から何年も経ったけれど、わたしは今でも自分のパニック障害との日々の「はじまり」と、その感覚を覚えている。
 
 今思えばわたしは、大学生になってすぐのころから体がうまく動かなくなっていたり、思い通りに自分の情緒と過ごすことが出来なくなっていた。集中したいのに何故かその教室から逃げ出したくてたまらなくなったり、頭のなかがぐるぐるとしてしまって思考がうまくまとまらなくなったりしていた。はじめは、それを「疲れのせい」とか、「無意識にストレスを感じているだけ」と思って無視をしていた。そんなふうなうつ兆候のようなものは前からいくつもあったと感じるのだけれど、それでも、わたしはあの日こそがすべてのきっかけだということを、昨日のことのように〝決定的な瞬間〟として覚えている。
 わたしがはじめて不安障害を意識し、「自分は、まわりとは違う何かを抱えている」と気づいた瞬間は、大学一回生の冬、二〇一九年一二月の四条河原町だった。
 
 あのころのわたしは、正直に言えばとても疲れていた。
 当大学内には「リアルワークプロジェクト」という、学外から実際にお仕事の依頼を受け、企業や自治体、病院などのクライアント先が抱える問題を芸術大学に通い、日々それぞれの分野での学びを重ねている生徒たちの持つアートの力で解決しよう、というものがある。わたしはこの「リアルワークプロジェクト」より、病院という暗い印象や重たい空気が立ちのぼる場所をアートの力で利用者の方や、そこで働く医療従事者の方にのため「改善する」ことを目的としたプロジェクト。『HAPii+(はぴいプラス)』プロジェクトに参加していた。
 京大病院をクライアント先とした大きなプロジェクトのプレゼンを直前に控え、日々ぴりぴりした空気の中、プレゼン時に使用する原稿作成とプレゼンテーターを任されていたわたしは、本当にずっと気を張って、毎晩遅くまでPCに向き合っていた。夜中の何時になろうと、プロジェクトに関わり続けることは終わらない。プロジェクトメンバー皆で通話を繋ぎながら深夜まで作業をするひとたちや些細な色味ひとつひとつまで繊細にこだわりながら作業を進めるひとたちのなかで、わたしも確実に少しずつ、心を縛る何か糸のよ
うなものが縺れ、きつく結ばれては締め上げられているような、焦りの中にいた。
 
 そんな、プレゼンテーションに向けた日々も、とうとう本番前日となった。
 わたしたちプロジェクトメンバーは、大学構内が受験のために入構禁止になっていることを受け、大人数で会議のできる場所、として四条河原町のカラオケ店に向かっていた。
 わたしは、そのときからざわざわした場所へ行くことやバスで移動をすることに苦手意識があった。大学生になる前は、まったくそんなことはなかったのだけれど。たぶん、大学に入学してすぐのとき、車生活が中心の愛知県を離れて、乗り慣れないバス移動で一度帰れなくなってほとほと困ってしまうような失敗をしたことをきっかけに、京都で移動をすることが、少し苦手になったのだと思う。バス停が多すぎてわからないし、そもそも越したてでどちらが家かも分からない。泣きながらべそべそと河原町を歩いて、結局タクシーに乗って帰宅したあの日の苦しい思い出がむせ返ってくる。だからこそ、ここは京都のどのあたりなのかも分からないまま、自分が普段住んでいる閑静な町を離れて、人でいっぱいの四条に向かうことや、自分ひとりでは行ったこともない場所に、どう行くかもあまり分からないまま赴くことに対し、プロジェクトメンバーと一緒だとしても(ちょっといやだなあ)と思ったことを覚えている。
 あの日はわたしたちは、学校から大人数で並んで自転車をぜえはあ言いながら漕いだのち、真っ赤で広い部屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれた。緊張と疲労でどうにかなっているであろうからだを必死に奮い立たせて、わたしたちはああでもないこうでもないと頭を悩ませ合いながらプレゼンの資料や原稿を詰めていった。
 
〝そのとき〟は、カラオケ店からの帰り際にやってきた。
 わたしは、真っ白な空間にやたらキラキラした照明が反射する眩しいロビーで、先輩たちがごちゃごちゃと計算をしながらお会計を済ませているのを見ていた。同じ一回生のメンバーは、みんなへとへとに疲れ切ってロビーのソファでぐったりとのびていた。わたしは、その光景や空間全てに、もやもやというか、いらいらというか、はらはらというか。胸がぎゅううっと絞められて呼吸がしづらくなるような感覚を覚えていた。疲れ切ってしまったのか、もう言葉というか、声が出ない。ふらふらとした柔いめまいの中、(もう帰りたい、でも、きっと帰れない)とふと思った。
 カラオケ店の自動ドアが開いた。四条河原町のど真ん中の、音と光と人の熱量が一気にわあっとわたしのからだを包む。わたしはそれを、とにかく「こわい」と思った。泣き出したくなるような、吐いてしまいそうになるような、とにかく言いようもない不快感と不安感で呼吸がおかしくなる。声の出し方や、表情の作り方が分からない。過呼吸発作が起きていたかは覚えていないけれど、とにかく前後不覚になるほどの恐怖で、立てているのか起きているのか、意識すら定かにならない。目の前が真っ暗な感覚が怖くて、泣いていたような気が、なんとなく今でもしている。誰かが助けてくれたか、助けようと思われるほど症状が表面に出ていたか、それすらも覚えていない。
 まるで、交通事故にでも遭ったみたいだった。何が起きたか分からなくて、気づいたら友達に連れられて駐輪場から自転車を引っ張り出していた。そうするなり、わたしは人ごみの河原町の中を自転車で無茶苦茶に走った。全速力を出して、泣き笑い叫んで、もはや半分吐きそうになりながら赤信号も無視して繁華街を駆け抜けた。道もろくに分からなかったけれど、とにかくそこから逃げるようにめちゃめちゃな運転をした。人を何人も轢きそうになった気がする。軽い過呼吸もあった気がする。冬の四条で、ハンドルを握りしめながら泣いていたことだけは、はっきりと覚えている。
 とにかく、何でもいいから、そこから逃げたかった。逃げたかったというか、心を覆い締め付ける不快感や不安感を振りほどきたかった。とにかく、河原町から逃げたかった。
 あのときの、「もう死んでしまうかもしれない」という強い恐怖感と焦りを、わたしは今でも覚えている。
 
 あの日の夜の心臓の締め付けを、わたしは今でも自分のパニック障害の「はじまり」だと思っている。
 わたしはその日から、自転車に乗るのも、人ごみに向かうことも、ちかちかと眩しい明かりを見ることもこわくなった。「知らない場所に行く」ことが、限りなく、〝無理〟になった。高校生のあいだは、こんな気持ちを味わうことはなかった。はじめて、家の外を震えるほどに怖く感じた。

◇コンビニにも、スーパーにも行けなくなっていく

 わたしはあの恐怖感を体験してから、自室の白くて煌々と眩しい明かりが目に痛くて、家にいるだけで具合が悪くなった。自室の真っ白なシーツや机、食器やドレッサーに反射するキラキラしたどれもがあの日を思い出させ、家にいるだけで涙が出た。あの日着ていた、ビビッドグリーンのパーカーに触れない。気に入って使っていた極彩色の柄物リュックサックがなんだか怖くて、あの日から中身をずっと置いたままにしてしまっている。
 みんなの努力の甲斐あってプレゼンは大成功を収めた。けれどあの日からわたしは、あの日より前の自分に、戻れなくなった。漠然と、生きているのが不安になった。
 空気の流れ、時間の流れ、音や光、些細な何もかもの積み重なりが、怖い。呼吸が自然と浅くなっていってしまって、血の気が引いて、過呼吸発作が出そうになっている、ということがまた怖い。怖いものだらけで、単純に心が痛くなる。とても、つらい。
 朝のまぶしくきいろい明りも、夜中真っ暗な部屋にちいさく鳴る室外機や冷蔵庫の音も気になって気になって、気持ちが悪くて仕方がなかった。時計の秒針のちいさな音に、心臓に迫られているような不安感を爆発させてしまって、深夜泣きながら時計から電池を引っこ抜いたこともある。「あのとき」をきっかけに、わたしはいわゆる感覚過敏(聴覚、視覚、嗅覚などが過敏になり、些細なことでもとても大きな音や眩しい光に感じてしまうこと)の持ち主となった。
 朝起きてまず、肌にあたる布団や下着の感触がつらい。布も空気も床も、何にも触ってほしくなくて痛々しい気持ちで胸がむせ返った。どんな温度や湿度だろうと、「空気の中に生きている」という感覚が気持ち悪い。冷房も暖房もエアコンからする微かなにおいも、どうやったって体に合わなくて、わたしはただただ吐き気の中で生きていた。自分の涙の味だけが、五感の中で唯一許せるものだった。
 何処にいても、何をしていても、何を着ていても、痛い、つらい、気持ち悪い。そして、悲しい。
 気持ちが落ち込んでしまって、わたしはもともとごく狭い範囲だった行動範囲を狭めていった。スーパーと、学校と、あのカラオケ店と自宅にしか行ったことがないまま気が付けば大学一回生が終わろうとしていた。
 今思えば、あのときのわたしはうつ状態だった。直射日光が怖くて部屋に閉じこもっているから当たり前だとは思うけれど、憧れていた大学生活がこんな風にめちゃくちゃになっていくのを見て、「死にたい」と考えた。
「あの蛍光灯の下になんか立ってしまったら」と思うと外に買い物に出られなかった。
 食べ物を買いに出られないうえに、生きていること自体がなんだかもうばかばかしくなってしまった。目を開けているだけで何の情報も動画も悲しく滑稽なものに映り、何にも興味がなくなる。あれだけ大好きだった、自分のなかでとても大切にし続けてきたファッションやメイクにも興味を無くした。メイクを自分にしてあげることや、スキンケアに手をかけることで自分に愛情表現をしていたわたしは、まったく自分で自分を愛してやれなくなった。白いドレッサーから顔を背け、ぼろぼろの髪や肌で、わたしはやつれながらに息をしていた。生きていたって仕方がない、かわいくないから外に出るのなんか許されない、誰にも助けてもらえていないような気がする、さみしい、つらい、死にたい。生きていてもしんどいだけだった。こんなみじめな自分がこれまで話したこと、成し遂げたこと、全てが痛々しく思えた。業務連絡以外にひとと連絡を取ることはもともとほとんどなかったけれど、わたしは二月になって春休みになるなりそれすらもぱったりとやめた。食べて、生きることになんかまだ追い縋ろうとすることはただただ恥ずかしいと思った。こんな人生を、これ以上紡ぐ勇気がなくて。生きることをさっぱり諦めようと思って拒食にもなった。
 当時は「感覚過敏」という自覚はあったけれど「パニック障害」という病気の存在を知らなかった。ただ、外に出る=あのときの〝死んでしまうかもしれない〟という強い衝動に襲われるのが怖くて、毎日めそめそと泣きながら過ごした。必死だった。とにかく必死に、もう既に死にたかったけれど、「泣いちゃだめだよみょんちゃん、よしよし」と自分で自分の頭を撫でて過ごした。今日も何にもできてないし、不細工で時間を浪費しただけで生きてるだけでつらくて最悪だけどそれでも偉いよ、と唱えながら息をしていた。感情が、いつまでもどす黒い沼の底から上がってこられないまま。足掻けば足掻くほどにつらさを増して心を突き刺してくるようだった。
 朝から晩まで、寝ても覚めても何をしていても気分が悪くて、「生きる」とかそれどころではなかった。ただ、泣いているしかできなかった。泣いているということだけが、自分が今感情のある生き物であるということを証明してくれているようで、だからあの頃のわたしは飲まず食わずでただただ、吐きながら泣いているみじめな十八歳の女だった。
 SNSは、悲しくなるからあまり見なかった。みんなは普通に生きられている、普通に食べて笑って、そしてそうするための友達がいる、ということだけで嫉妬や劣等感でからだが裂けそうだったし、みんな忙しいからどうせ、わたしのことなんか助けてくれないのは分かっていた。わたしなんかみんなからすれば死んでもいい存在なのだな、と思うと誰からも声がかからないことに合点がいき、毎日死について考えていた。限界までさみしくなって苦しくてもうそれだけで死ぬ、と確信した時だけSNSに「助けて」と投稿した。振り返ってみると、何度も、何度も「誰でもいいので電話に出てください、お願いします」というような文面と共に助けを求める投稿をしていた。
 
 ある日、そんなわたしの投稿や状況を心配して、心の病に詳しい友達がわざわざ大阪から時間をかけて会いに来て、わたしでも食べられそうなもので献立を立ててくれた。いっしょに、びびりながらスーパーを歩くわたしの手を引いて買い物をしてくれた。かわいい猫のメモに献立を書いてくれた。全部、全部がうれしくって、あのときは感情の出し方が分からなくって変なリアクションをしてしまったけれど。そのメモは今でもわたしの手元に残っている。いつも見える、玄関のドアに手書きの献立が今でも貼ってある。あの〝ちゃんと食べてね、そして生きてね〟という祈りのこもったメモこそが、わたしのあの地獄の日々にふっと一瞬だけ灯ったひかりだったと思う。生きてていいかとかは、まだ分からなかった。でも、生きるということのためには切り離すことのできない「食」というものの手綱をあのころはあの友達が握ってくれていた。

◇十九歳、シルバーアクセサリーのジンクス

 ある日、そんな自分に「どうしても生きてほしい」と思うことがあった。
 二〇二〇年二月十二日。自分の誕生日に、ポストの中にちいさな箱にかわいいリボンの掛けられたプレゼントが届いていた。妹たちふたりと母親が選んだというそれは、二センチ程のマリア像のペンダントと、それによく似合う少し太めのチェーンが通されたシルバーネックレスだった。パニック障害になる前、年末年始に会ったわたしが髪型も含め派手な格好をしていたからだろう。到底ひとの誕生日プレゼントに選ばれるとは思えないような、存在感のある、笑っちゃうくらいいかついネックレスがわたしの手元に届いていた。 
「女の子は十九歳の誕生日にシルバーアクセサリーをもらうと幸せになれる」という異国のジンクス故の選択だとはわかっていても、鈍く光るシルバーの輝きが、その可憐なジンクスとは程遠くて、それはまるで渋いお兄さんのつけるアクセサリーみたいで、たまらなくおかしくて、愛おしかった。久々に笑った気がした。すごく、すごくそのマリア像が愛おしくって仕方がなかった。
 箱の中にはそのほかに、「いつもおもしろくてやさしくて笑顔がすてきなあいちゃんが大好き。あいちゃんはまいのあこがれでじまんの姉です。」「一九歳のおたんじょうびおめでとう!これからも優しいお姉ちゃんでいてね♡」「アイミ、お誕生日おめでとう。あいみがあいみらしくゆっくり大人になっていってくれるといいなって思う。頑張りすぎてるから、頑張らなくてもいいよ。ゆっくり生きていこう。」という家族からのメッセージカードが入っていた。
 愛されているんだ、と直感で分かった。はっと気づいたら泣いていて。久々に、誰かと自分は、ちゃんと関わって生きている社会の中の生き物であることを思い出した。そして、のんびりだとしてもわたしは、これからの一年を自分なりに、自分らしくやってやろうと何故か熱く思った。愛されているし、誰かが遠くで見ていてくれている。だから、頑張らなくてはならないのだ。わたしは、ここで折れてしまいたいけれど、でもきっとそうするべきではない女なのだ、と思った。
 思えば、久々に誰かから向けられた愛情が単純にうれしかったのだと思う。
 そして、うつ状態で生きている、という状態は「さみしい」ものだったんだと、痛いほどに感じた。
 まず、まずは。今はひとりでいるよりも、無理をしてホスピタルアートプロジェクトに顔を出せそうな日なんかを待つより、家族のもとにいた方が自分の心は前を向けるんじゃないかと思いたって、ずっと(はやく行けるようにならなきゃ、もっと頑張らなきゃ)と思い続けていたプロジェクトをすっぱり休むことに決めた。ずっと心配をかけていたメンバーに、「元気になるために、お休みをいただきます。みんなのことが何よりも大好きだから、だからちゃんと帰ってきます。」というコメントをインスタグラムに投稿した。迷いなく、名古屋に向かう高速バスに乗った。少し怖かったけれど、わたしはちゃんと、高速バスに乗れた。それだけで、震えるほどうれしかった。
 
 胸元で凛とマリアが揺れるたび、このネックレスを落としてしまわないように自分の首の皮はまだつなげておこうと思えた。アクセサリーというものは、メイクも同じなのだけれどとても不思議なものである。ただ装っているだけなのに、勝手に自分が強くなったように感じる。まるで何かに守られて、背を押されて、支えられているような。自分のなかでくたりとしている芯がかっと熱くなるような心地がする。だから今でも、アクセサリーが好きだ。あのとき、ネックレスをプレゼントしてくれた家族には、本当に心から感謝している。
 十九歳になってすぐの冬、わたしは家族のもとに帰ってきた。高校生のときはバイト三昧に生きていたからなかなか顔を合せなかった家族だけれど、離れて暮らしてみて、漸くわたしは家族への異様な愛おしさに気づいた。自分がどうであろうとそばに居てくれるひとがいる。そのことが、当時はあんまりにもうれしくて、心の支えだった。
 帰ってきてすぐに連れていかれたラーメン屋で、わたしは真っ赤なラーメンを食べた。辛かったかは覚えていない。でも、どうしてか心があたたかくて仕方がなくて、うれしくて、インスタグラムのストーリーにそれを載せたのを覚えている。行きつけのラーメン屋に、また来られているということだけで心臓がどくどくと鳴った。生きていて。生きるために香辛料を楽しんでいて。それがとてつもなく尊いことに思えた。
 次の日には、弟のわがままでココイチのカレーを食べた。その最中に、どんな脈絡かは覚えていないけれど「ブス」という音を聞いた途端息が出来なくなって、涙が馬鹿みたいに止まらなくなってびっくりしたのを覚えている。心が誰かと関わることに対してなまっているのだと思ったし、長らく希死念慮や美醜、生きる価値について考えていたせいで芽生えてしまった醜形恐怖症の片鱗がやっぱり自分の中には刺さっているのだと自覚した。自分のなかに深く深く根付いた「自分はかわいくないからだめなんだ」という考えが一気に押し寄せてきて、その場で発作を起こしそうなほどぼたぼた涙をこぼして泣いた。あの日のカレーは、涙の味がしたことよりも店内の明かりのことをよく覚えている。まあるいオレンジの光りが、くすんだころんとしたスプーンを照らしていた。うつむいて、心が静かになっていくのを待つ。泣かないで、一日を終えられたらいいのに、と漠然と思った。
 
 わたしはたぶん、不細工だった。ひとりで泣いていたあの頃はとても、かわいい生き物ではなかった。けれど、なんだか普遍的ではあるけれど「家族」のあたたかさにそっと触れて、心がふやけていくような感覚に連れられて、あのときのわたしは少しずつ〝ひとのかたち〟になっていったような心地があった。
 まるで、赤ちゃんが生き方を覚えていくように。
 わたしはパニック障害になってからの時間を通して、生き方を考え直す機会を得たのだろうと思う。今思えば、わたしがこうしてあの日々を客観的に今こうして振り返ることが出来ているのは、こうした「人生の療養期間」を、家族や家族みたいに温かいひとたちが用意してくれていたからだと思う。
 ひとはさみしいと、周りに誰がいて何が起きてるかすらも分からない、どうしようもなくぶっ壊れた馬鹿な怪物になってしまう。不安をどうにもできなくなると、だんだん迫ってくる不安をなにかのせいにして自分を守るしかなくなってしまう。あのパニックの瞬間。そしてそれよりも前からのわたしの日々にこびりついていたのは、きっとそんな深い闇の奥の奥にあるさみしさだった。「ひとり暮らし」をはじめて、正直さみしくて死にそうで、でもうまく他人を頼りきれなかった結果、わたしはさみしすぎてぶっ壊れてしまった。死にたいという鳴き声しか発せない、馬鹿な怪物になってしまった。常に自分なんか愛されなくて当然と思いこんでいたし、自分なんかかわいくも何でもないのだから友達がいなくて当たり前だし、生きていくのがこんなにも不安なのは、それでもこんなに愛されるべきでかわいいわたしを救おうとしない「だれか」たちのせいとずっと思っていた。ただ誰かに会って、何でもない話が出来たら。気を遣わず、自分の笑顔を作り固めないでいられれば、きっともっとやわらかくて暖かい日々があっただろうに。わたしは勇気がなくてそれが出来なかった。さみしいという四文字にとらわれすぎて、「もうさみしくなりたくない」と思った結果、誰かとちゃんとつながることを恐れていたんだと思う。もしくは、もう「知らない場所で生きていく」ことに必死過ぎて、誰かと人間関係をゼロから築いて頼る、なんてことをするような、そんな余裕が、なかったのだと思う。
 でも、そうして前も向けないで、俯いたりうずくまってばかりで、「死にたい」ばかりを繰り返してはどう足掻いても死ねずに、また朝を迎えてしまった罪悪感の中。身を切られるような痛みに襲われていた日々に、ちゃんとこんな怪物にだって寄り添ってくれる「だれか」がいてくれたこと。そのことと、そのことの尊さを、いつまでも忘れずに、いたいと思う。だまってわたしが泣いたり寝たきりでいることを放っておいてくれた家族。ずっと燻るようにぐずぐず鬱々と息をしているだけの怪物を、人間扱いしてそばにいてくれた家族。それだけのことが、とっても嬉しかった。
 十九歳になったばかりの冬。生きてていいかは置いといて、まあ、死にたくてもずるずる、この身体でやっていくしかないんだと漠然と思った。

◇コロナ禍と、夏と、パニック障害

 三月も後半のあの夜。その日は、実家のキッチンで揚げ物をしていた。そろそろ新学期だって近いし、なにより、当時おやすみをしていたプロジェクトのメンバーたちに早く会いたくて、体調は万全というわけではなかったけれど、もう明日にでも京都に帰る支度をはじめようと考えていた頃だった。そんな夜に、プロジェクトの中止を伝えるLINEが届いた。「新型コロナウイルス感染防止のため」という理由で、あんなにおおきなホスピタルアートプロジェクトが、休止になると聞いた。
「新型コロナウイルス」。テレビのガチャガチャした感じが嫌いになってしまって、ほとんどテレビを見ないわたしにとっては、そこで聞いたその言葉が、はじめての「コロナウイルス」という音との出会いだった。
 曲がりなりにもとてもやりがいを感じていてチームとしても大好きなプロジェクトだったから、正直に言えばみんなの活動が止まってしまうのもみんなに会えなくなるのもショックだった。わたしにとってあのプロジェクトチームは、大切な居場所だった。だから、帰らなくていい。帰れなくていい。帰ってこなくていい。どう捉えていいかわからない状況を目の前に、言いようのない、むなしさみたいなものが胸にじわじわと染みを広げていった。体の調子は良くなくとも、みんなに会いたかった。だからきっと、さみしかった。プロジェクトが止まってしまったのが理解できなくてただむなしかった。自分を待ってくれている唯一に近い居場所が、なくなってしまったような気がした。わたしを心配しながら送り出してくれた仲間や先輩は激務のなかそんな知らせを受けて、元気なのだろうか。少し休みがちだったあの子は、今はどうだろうか。ひとりひとりのメンバーの顔を思い浮かべては、ひとりひとりに長文で連絡をしてしまいそうになるほどみんなが心配だったし、みんなとその感情をその場で分け合いたかった、引き取りたかった。わたしがいない部分を必死に埋めていてくれたひとは、どんな気持ちだったのか。一体みんながどれだけの絶望感に呑まれたのか。はかり知ることさえできなかった。
 みんなが、本当に好きだったのだ。だからこんなに、会いたいし傷ついてほしくないと思ったのだ。なんでもいいから、にこりとでも笑いかけてあげたり、したかったのだ。
 離れてしまっているからこそそこにいて守ってあげたかったし、物理的に離れてしまっているぶんだけ、心だけはそばにいてあげたくて。こんなにも、わたしはあの場所が好きだったんだな、と思った。どれだけわたしに激務を食らわせて、こんなになるまで「さみしさ」をぶつけてきた元凶があのプロジェクトだとしても、わたしはたしかに、あそこが好きだった。大切だった。一〇〇%うまく笑えていたわけじゃなくても、素直でいられたわけでもないけれどあの場所はわたしにとってとても特別だったんだと、あの場所から遠く、遠く離れてから思い知った。
 
 傍から見れば「ただ春休みに帰省をしているだけのただの大学生」なわたしにとって、コロナ禍になってからの日々に特に変わりはなかった。けれど、小学生の妹の卒業式の規模が縮小されたり、四月になってもなかなか大学からの連絡がなかったり、マスクが手に入らなくって困り果てる父を見て、なんとなく空気が重苦しく感じたり、もやもやした感覚があった。「コロナ禍」のはじまりをなんでもなさそうに受け入れて、他人事みたいに思っていられたのは、わたしがただ単純にそんなことに興味を向ける余裕がなかったせいであるし、あるいは、家族がずっとそこにいて、生きていてくれたからだと思う。仕事や学校から帰ってきた家族がわたしにとっては「部屋の外」と「わたし」を繋いでくれる唯一だったから、何が本当かもわからないニュースよりもわたしは、家族が元気であることを何よりも信じて生きていた。
 
 五月ごろから実家で受講することとなったオンラインの授業は楽しかった。一生このまま、夏休みみたいな日々が続いていくんじゃないか、と勘違いしそうになるほどの青い空とふわふわ部屋に吹き込んでくる海風が気持ちよくて、だんだん生きることや、書くことを好きになってきた、ような気がした。田舎の実家に閉じこもって、家族と過ごして、週に一回大学の友達と電話をする。わたしは、そんな日々がどうしようもなく好きだと思った。ちゃんと、「余裕」みたいなものが見つかった気がして、ときどき「幸せになりたいのかも」と思うことも多くなった。何十枚もファンアートを描くほど好きな漫画も出来て、心がまさに、呼吸をしているような感じだった。世間は外に出られなくてつらかっただろうけれど、心がそれまでへにゃへにゃだったわたしにとっては、好きなだけ海風に吹かれて、ぼんやりして、引きこもって眠っていられたあの日々はすごく気軽だった。
 家族とごはんを食べて、たまにおしゃれをしてほんの少しだけ出かけて、マスク越しだとしても目の前のひとが笑ってくれているのがちゃんとあたたかく伝わる。そんな当たり前のようで少し変わった夏の実家での日々は幸せだった。朝も昼も夜もある家の中。まるごとあの夏を抱き締めたくなるような愛おしさとともに眠った夜をわたしは今でも覚えている。わたしはあまりに高校時代にバイトや稽古にばかり行っていたものだからあたりまえのように家族と〝家族の時間〟を過ごすのははじめてで、家族といるということだけでも、毎日が本当に幸せだった。自分がメイクやファッションに興味を持っているのに憧れて、メイクをしてほしいとか髪を巻いてほしいとかねだる末の妹。わたしが好きなアイドルに興味を持ってくれて、毎晩自分の推し同士の話で盛り上がれる真ん中の妹。へらへらしていて何を考えているのかよく分からないけれど、それでも構ってほしがってそばに寄ってくる弟。みんながみんななりに、わたしのことを好いてくれていて、とても、嬉しかった。元気になったら絶対この子たちのためになるような生き方をしたいと、うつなりに、とても強く思っていた。わたしは、こうして愛してもらったぶん、お姉ちゃんとして生まれた意味と、こうして救われた意味を気が付かせてくれたきょうだいのことを真摯に想うことを決めた。うつだろうと、パニック障害だろうと、あなたたちの姉として生まれたからには絶対にしあわせを、しあわせで返すんだと決めた。
 
 自粛期間が明けるころ、季節は大学の後期授業がはじまろうとしていた。わたしは、後期からはひとり暮らしを再開することになった。学校は、オンラインの授業と対面の授業をハイブリッドに使い分けながら、学修が進んでいくことになった。
 コロナ禍になってはじめての登校には、日傘をさして、大きくて黒いサングラスをかけて、黒いマスクを着けていった。あまりのいかつい格好に、学科の友達に笑われたのを覚えているけれど、あとでちゃんと説明をしたらきちんと分かってくれた(視覚過敏のことを「知覚過敏」と聞き違えられたのが当時やけに面白かった)。白いマスクは反射が眩しくてしんどいから黒しかだめで、素材はウレタンマスクしか付けられない。というか、マスクをしているだけで呼吸が薄くなっていく感じが恐ろしくて、正直マスクはほとんどつけられないに等しかった。当時はマスクを少しでもずらしたり外したりしているとすごい目で見られることもあったし、わたしの一見健常そうな見た目のせいでときどき「コロナ禍を受け止められていない若者」に見られているんじゃないかと不安になることもあった。でも、残暑のきつい京都でマスクをして生活をすることは、当時のわたしにはコロナウイルス感染より怖いことだった。
 二回生後期がはじまるなりわたしは、先生方に未だ知ったばかりの「パニック障害」という病と「感覚過敏」についてきちんとお話をして、可能な限り窓辺などの安心できる席を用意してもらったり、マスクを外しての受講を許してもらったりした。そのこと自体はありがたくて仕方がなかったけれど正直、はっきり言えば当時は生きるのに精一杯過ぎて、授業どころではなかったのを覚えている。ぼんやりと窓の外の風景を眺めて、こっそり音を流さずにはめたイヤホンでまわりの音を少し小さくして、身体が教室になれるのを待つ。そうしているうちに、授業が終わってしまう。そんな日々を過ごしていた。
 ひとり暮らしの部屋でオンライン授業を受けることは、何故かできなかった。実家ではできたはずのことが、ひとりになった途端出来なくなるのは不思議だと思った。ノイズまじりで機械越しの声が、気持ち悪くて仕方がない。どの授業も五分も聞き堪えることが出来なかった。授業を少しでも聞いた日には一日中ぐったりしてしまって、しんどさが体の上にずっしりとのしかかってくるような息苦しさのせいでよく家の中なのに発作を起こしたのを覚えている。夏のあいだ、どうにかひとり暮らしをやっていけるように試行錯誤して、部屋の明りもベッドカバーもインテリアも床の色もぜんぶ安心できるように変えたのに。それでも、ひとり暮らしはなんだかうまくいかなかった。部屋の電気をあたたかいオレンジ色の電球に変えて、ベッドカバーは眩しくなくていつでも安心できる色、を一生懸命考えて黒色にした。床の色も部屋を借りた時とは違う、明るい白色の木目のフローリングに張り替えた。とにかく殺風景だった部屋を大改造して、「わたしはここで生きていくんだ、この空間を好きにならなくては」と思って必死だった。でも、生活は、うまくいかなかった。
 今になって、この「しんどさ」は大きすぎる「さみしさ」のせいではなかったのかと、よく考える。実家にいた時はまるでなかった、あのときの漠然とした呼吸のしづらさや重たい不安感、そして酷い恐怖感は、やっぱり家族みたいに、「だれか」がいてくれたら取り除けたんじゃないか、と。
 もちろん、常にべったり誰かが隣にいてほしいというわけではない。ただときどき、疲れたねとか、気軽に連絡をし合えるようなひとが欲しかった。心が沈んでしまって、俯いてもう前を向けなくなったとき、心の方向転換をしてくれるひとが欲しかった。わがままだとは思うけれど、ちゃんと「ともだち」だと思える距離感であのときは誰かに愛してほしかった。まだ人間関係が出来上がりきっていないまま、なあなあに一年生を終わってしまったからわたしに「ともだち」と言って動いてくれるひとがいなかっただけかもしれないけれど、そうだとしても誰かに守ってほしかった。ただ、そばにいてほしかった。忘れないでほしかったし関わってほしかった。きっと、心配をしてくれているひとは、もちろんいたと思う。最近になって、「「助けて」という投稿を見て連絡したかったけどどうしてあげたらいいか分からなかった」と言われたこともある。友達だとこちらが勝手に思っているひとは京都にも何人もいる。でもわたしは、一度はひととして腐った成れの果てみたいだった自分から、誰かに連絡をするのは少し怖かった。自分から吐かれる言葉はすべて、誰かの気を悪くしてしまうどうしようもない愚痴だと思っていたから、だから誰かに会いたくても話したくても、自分に限りなく自信がなくてそれが出来なかった。一度は体調を崩してみんなを置いていった自分が、誰の一番でもないわたしが、ひとを頼っていいわけがないと思っていた。
 でも、救われたかった。どうしていいかわからなくなって声をあげて泣いた。
 息が出来ないほど、さみしかった。
 さみしいだけで息が出来なくなるほど、「わざわざ」しないと「会えない」ことは苦しみだった。外にも出られないひとりの夜。誰からも連絡のないスマホには、「ともだち」が誰かと遊びに行ったり、いっしょにいる投稿がいつもされていた。
 わたしがどれだけさみしさで死にそうだとしても、わたしは誰の一番でもなければ会う価値のある人間でもない。その事実が、ただ二年生の秋に冷たく横たわっていた。
 

◇一年がかりで「病院に行く」こと

 さて、わたしは、二〇一九年冬にパニック発作を起こした日からほぼ一年をかけて、「パニック障害」という病ときちんと向き合い、治療をしていこうとやっと、やっと思えるようになった。一年も時間があったのにいつまでも病院にかかれなかった理由は、正直いっぱいあった。
 あのときは、自分自身とも、自分自身の持つ病とも向き合えるような余裕がなかった。生きていていいのかも分からないのに生きようとして、病院なんかに縋る自分を許せなかった。こんなに頑張ってもどうにもならない不安感が、お医者様になんか分かるわけがないと思った。なにより、〝知らない〟病院という場所に行くのが不安で不安で、外になんかとても出られなかった。白い蛍光灯のひかりの下、ひとがざわざわと待合室にいる病院で、一秒だって座っておとなしく待っていられる自信がなかった。「病院に行く」ことを想像するだけでむせ返るように恐怖がやってきて、わたしはそのおかげで一年も病院に行けなかったのだ。ずっとずっと、薬か何かで日々がほんの少しでも楽になるのなら病院には行きたかったのに。それでもずっと、知らない場所に行くのがこわくて、精神科にかかることが出来ていなかった。
 それでも、一年という長い時間をかけて自分の心をなだめて、やっとのことで「ここならいけそうかも」と思った徒歩で行ける範囲の病院に、向かってみることにした。ただそれだけに一年もかかった事実を思うと、改めてこの病のめんどくささを痛々しいほどに思い知った。Googleに、「近くの精神科」と入力するだけのことが一年も出来なかった、そのみじめさをわたしはひとり、噛みしめていた。あんまり、病院には期待していなかった。ただ、「行く」ということでいっぱいいっぱいで、その後のことなんて考えられなかった。
 行きつけの小さなカフェで、何時間もかけて自分の病状、苦手な環境や気候、必死に今生きるため実践していることなどをメモして、病院に向かった。わたしの選んだ病院はいろいろな科がぎゅっと集まった総合病院で、人がたくさんいた。精神科の待合には疲れた感じのおじさんが何人かいた。(このひとたちもみんな目には見えない病と闘っているんだな、前に進もうと頑張ってるんだな)と思うと、まだばくばくとしている心臓が、少しうれしくなった。
 でも、わたしがその病院にかかったのは、二度や三度程度だった。白い床に真っ白で眩しい蛍光灯。大きな声や電子音。ざわざわした重い空気感や、生ぬるいひとの温度。そして、そこかしこから向けられているような気がする(若くて派手な女の子が何の用だよ)と言いたげな視線。そこにあるすべてが不快だった。泣いて暴れだしたくなるほど嫌で嫌で、病院からの帰り道は、いつも泣いていたのを覚えている。
 人間不信気味の心に、淡々としたタイプの先生は相性が良くなかったのだろう。病院にかかるたびにおまじないのようであんまり効かないお薬を持たされて帰る帰り道が、なぜかいつも心細かった。世界に一人だけ、わたしだけがこんな風に病気を抱えていて、さみしく生きているのではないかと思うと、とてもつらかった。治るのかな、こんなペースで、こんな感じで。と、そう何度も考えた。若いからってファッションメンヘラか何かと思われているんじゃないかとか、メイクだけはしっかりしているから実は元気と思われているんじゃないかとか、いろいろなことにもやもやしながら、お医者様を信じきれないままに病院にかかっていた。
 ある日、感覚過敏が良くならないのはどうしてだろうと思い立って「感覚過敏」について調べてみたことがある。すると、どうやら感覚過敏はADHDなどの発達障害をもつ方にも多く見られる症状らしい。それを聞いてわたしは、「自分は発達障害なのではないか」と思い込んでは焦ってしまって、病院に急いでADHDの検査を申し込んだ。その場にじっとしていられなかったり、運動や数字だけがやけにできないのはそのせいだったのかもと思うとすべてに合点がいき、いつしか「自分はADHDで感覚過敏があるからパニック障害になりやすかったのだ、」と勝手に仮説を立てるまでに至っていた。わたしは、雪の降る朝早くに病院へ向かって、ADHDの検査を受けた。かんたんな、計算や絵を見て回答をするような短いテストだった。けれどその結果を、わたしが知ることはなかった。とにかくあの病院が怖くて嫌で、お金をかけて検査を受けたにも拘わらず検査結果を聞きに行けなかった。
 
 「精神科はガチャ」という言葉を、いつか精神科に詳しい友達に聞いたことがあった。
 わたしは、はじめてかかったその病院を変えてみようかな、と思い始めていた。

◇ヘルプマークをつけて歩いた

 毎日鬱々とした波がやってきては、死にたさや消えたさで心がボロボロになって、引き潮のように掴みたかった感情が全部流されて持っていかれてしまう。そんなきつい夜が何度もあった。けれど、二年生後期のわたしは思ったよりも活動的な日はしっかりと動けていたし、病をどうにかする第一歩を、必死に探して足掻いていたような気がする。友達の何人かや先生がわたしの病気について知ってくれていて、応援をしてくれている、ということがきっと自分のなかで前に進んでいく勇気になっていたのだと思う。
 パニック障害とは、些細なことがきっかけで当たり前の生活が当たり前でなくなる病だと、わたしは解釈している。だから、電車に乗るとか買い物に行くとかの「あたりまえ」をもっとそばに引き寄せることが出来たのなら。ゆっくりこれまでや、これからの自分に慣れていくことが出来たのなら。わたしはそれが病と向き合い始めることが出来るきっかけになるのではないだろうかと思うようになった。
 そして、その第一歩としてわたしは、「ヘルプマーク」を持つことに決めた。ヘルプマークとは、各地方自治体で無料で簡単にもらえる赤いキーホルダーのようなもので、目には見えない病気やけが、日常生活の中で助けが必要な方がつける〝目印〟のようなものである。
 わたしはこのヘルプマークをつけて、一度だけ友達と河原町に行ったことがある。こわごわバスに乗って、びびりながら河原町を歩いて、映画を観た。たったそれだけのこと。でも、そのたったそれだけ、が自分にも出来た。誰かの中での「あたりまえ」に、少し近づけた。そのことがすごく、すごくうれしかった。理解をしてくれる人がそばにいてくれて、いざ何かあったとしてもヘルプマークが自分にはあるから、だからちょっとだけだいじょうぶ、と思えたあの日のことを、わたしはきっとずっと大事に思い続けていくのだろう。
 

◇サングラスと、帽子と、ネイル

 二年生後期になって、わたしは学内で雑誌づくりのお誘いを受けていた。聞けば、わたしの参加していたホスピタルアートプロジェクトの、これまで数年間の活動をまとめた本をつくりたいから、文芸表現学科で雑誌づくりをしている斎明寺さんもよければ、とのことだった。
 体調は正直あまり良くはなかったし、しっかり活動できる自信もなかったけれど、頼ってもらえたこと、思い出してもらえたこと、そして、大好きなメンバーとまた何かをつくれる、お手伝いができるという事実がうれしくて、わたしはすぐにお返事を返してHAPii+編集部のメンバーになった。
 けれど、雑誌の制作は想定していた何万倍も難航した。窓がなく、蛍光灯の明かりがひたすらに眩しい編集室の中ではわたしは思うように動けなかった。それに、ほとんどのメンバーはデザインやイラストが専攻の学生ばかりで、今回わたしたちが想定するような雑誌づくりは経験したことがなかった。ほとんど未開の地の方へ、手探りながらに過密なスケジュールをこなしながら、同時に学科での学修も進めなければならない。その状況に、編集部一同ストレスを抱えてしまっていたのが、正直なところだった。思うように作業が進まないことに対するストレスが、地下にあるプロジェクトルームに次々と降り積もっていくのを感じていた。誰しもが気丈に振舞ってはいても、みんな、ひとだから少しずつ消耗していた。ひとり、ひとりとメンバーが体調不良やうつ気味になって休みがちになっていくのを見ながら、わたしも日に日に消耗していった。
 
 自分の見ていないところで先輩がコピーを始める。するとわたしは、突然コピー機の動き出す大きな音にびっくりして、そのまま泣き出してしまって机の下から出てこられなくなる。サングラスをひっかけたまま床をずるずると這い、そのまましばらく心臓のばくばくが収まるのを待つ。
 お昼ご飯を買いに大学の向かいのスーパーに友達と行く。車の騒音や人ごみにびびりながら、蛍光灯と色鮮やかなパッケージが眩しい店内を冷や汗まみれで歩いた。やっとのことで買い物を終えようとして、ちいさなモニターから宣伝のために流れているコマーシャルの音にびっくりしてまた、わっと叫んではしゃがんで泣き出してしまう。べそべそ、とぐずりながら友達と大学に戻ろうとした途端、〝あの〟感覚が来た。普通に生きていればおおよそ意識して聞くことなんてなさそうな、自動ドアの「ごごーっ」というような、「ギュガーッ」というような音が爆音で耳に届く。通りを走る車の音とスーパー店内の音や空気が混ざり合って、あのカラオケ店で経験したような恐怖で思わずわたしは店内を飛び出し、目の前の大通りに駆け出してしまった。慌てて歩道に戻ろうとしたけれど、もう恐怖と吐き気と帰りたさで頭がぐるぐるになって、足が思うように動かなかった。泣きながら友達にしがみついて、何とかからだを引き摺って編集室に戻ったはいいものの、当たり前のようにさっきの恐怖がぬぐえなくて、床に転がってめそめそと泣いた。
 あのころのわたしの日々は、そんなものだった。かわいい服やお気に入りのスニーカーで自分の機嫌を取って、やっとのことで家を出たとしても。外にはもっと強い刺激が山ほどあって、感覚過敏はどんどん酷くなるばかりだった。
 
 わたしは、いつもZOZOTOWNにあるなかでいちばんつばの深いPUNYUSのバケットハットを目深にかぶって、サングラスを相変わらずかけたまま原稿作業をしていた。このころのわたしの心の支えは、爪先に丁寧に塗ったネイルだった。安物のネイルだったけれど、ピンクや紫、赤色なんかの好きな色がぺかぺか、ラメがちらちらと光るのを見ていると少し元気が出た。もともと文芸表現学科に身を置いているからこそ、自分の指先に宿る力にはみんなのためになる力があれば、なんて思っていた。そんな気持ちがあったからこそ、かわいいネイルでキーボードを叩くのはなんとなく嬉しかったのを覚えている。前期にとてもしんどい課題を乗り越えたとき、自分へのご褒美に買った限定モデルのポンプフューリー。黒地に赤いブロックチェックがかわいいX-girlのストレートジーンズ。紫とピンクでキラキラに囲ったメイク。あの頃は、そんなスタイルで自分を奮い立たせて息をしていた。俯いてしまっても、足許には自分がこれまで頑張った証と、自分が自分自身に「死なないでね」って約束を込めた赤色が燃えている。泣いてしまったとしても、触れた髪がよく手入れされている。そういうひとつひとつを、あの頃はとても大切な足掛かりにしてこの世でがんばろうと思っていた。
 
 パニック障害を患ってからの出来事はどれもとても思い出深く衝撃的であったけれど、この頃のわたしには、とても大きな悩みがあった。
 あの頃のわたしは、ひとりでは、生きて家に帰れる自信がとてもなかった。
 その日は授業が終わっても教室から出ることが出来なくて、気分転換に手でも洗おうかと思ったのだけれど、眩しくて狭いお手洗いを思うと、行くのが怖くなった。同じ授業を受けていた友達についてもらって、うずくまって、ただただ、心臓の音が静かになるのを待つ。それは、帰れるように心を整えなければ、彼女が一緒に帰ってくれなければ、わたしは今日も死んでしまうと思ったからだ。
 わたしの学校から家への帰り道には必ず叡山電鉄の踏切がある。その頃のわたしは、その踏切の真ん中に飛び込もうとする衝動を抑えるので精いっぱいだった。いつもいつも目の前を通り過ぎていく電車を見送り、遮断機の向こうでがたごとと過ぎていく電車を見上げて、呼吸を荒げて(よかった、今日も耐えられた、よかった)と泣きながら帰った日々を覚えている。
 当時はよく、車が勢いよく通れば「轢け」と言わんばかりに体が勝手に駆け出していた。どうしてそうなってしまうのか分からなかったけれど、体がもう、死にたがっていた。怖かった。気を付けて生きていないと、踏切や駅を見かけるたびそこへ駆け出しそうになる自分が、心の底からおぞましかった。生きるのも怖かったけれど、体が反射的に生の終わりを求めることの方が、よっぽど怖かった。
 もちろんこんなことを毎日続けていては身が持たないから、死んでしまった方がよっぽど楽だとは思っていた。正直まだまだ自殺願望もあったし、自傷に興味もあった。だけど、本能が理性よりも先に死を求めていることは、なんだか自分のなかに知らない裏側の自分がいるようで。いつか無意識に死んでしまっていそうで、それがものすごく怖かった。あの日抱えた「死んでしまうかも」みたいな発作によく似た、抑えられそうにない自分のなかの不安感と孤独感が、二回生の終わる冬に声をあげて泣きながら暴れていた。ほんとうに、死んだ方が楽だったと思う。死んでおいた方が知らなくて済んだ恐怖が、あの頃の冬にはたくさん降り重なっている。身体と心を守るためにも。早く死んでやりたいと思っていた。どれだけ着飾って心を塗り固めてみたってもう、日々がみじめでみじめでどうしようもなかった。冬休み中かけて必死に制作と会議をしたものの雑誌は結局完成せず、編集部のほとんどが体調不良になって全滅してしまったまま、卒業していく先輩ひとりが続きをつくる運びとなり、わたしたち編集部は、雑誌編集を終えた。
 

◇「あと十年も、生きられなかったと思うよ」

 大学三回生の四月まで、わたしは自分の体がいつもしんどくてぐったりとしてしまうことや、すぐに落ち込んだ気持ちになってしまうことについて、うつよりもまずは「貧血」が関係していると考えていた。高校生の頃、貧血だろうと保健室の先生に言われて体育の時間をベッドでよく過ごした。朝や食前が何となくだるく、いつもふらりとめまいがあり、息が出来ない感じというか、脳にもやがかかったような感じがあって。鉄剤を飲むとなんとなくそれが楽になったような気がするから、おそらく自分は貧血気味なのだろうと思っていた。
 三回生になってすぐの健康診断でそれを相談したところ、「血液検査をしてみては」とお医者様にすすめられ、わたしは家から一番近い、とてもちいさな内科にかかった。そこにかかるのさえ正直こわかったし、心臓もひどくばくばくしていたけれど、なんとかその日は必死に内科のドアを押した。そこで採血をされて、すぐに帰った。「三日後くらいには結果が出ると思うから、そのあたりに」と言われて、病院を出た。
 翌日、何故か真昼間に病院からわざわざ電話があった。話を聞けば、先生がお昼休みも返上して直々にお電話をくださったそうだ。緊急だからとにかくすぐに、早く病院に来てくれと焦った声で言われて、ただの貧血だと呑気に構えていた心がざわついた。それは何事か。パニック障害のあるうえに、そのうえこんな呼び出しを食らうような体調の異変が未だこの身体にあるなんて。半分こわがりながら、半分は(これで何か体調不良の原因が分かればいいな)と思ってあのちいさな内科に向かった。看護師さんたちに神妙な顔で病室に通されるなり、わたしは、お医者様から人生でおそらく一番におぞましい言葉を投げかけられた。
 
『斎明寺さん。このままじゃ、あと十年も生きられなかったと思うよ』
 
 二十歳になってすぐの春のことだった。
 何が起きたのか、何と言われたのか、まるで意味が分からなかった。
 HbA1c十三。食後血糖値三三三。Ⅱ型糖尿病だった。
 
 すぐにちいさな内科から近い、もっと大きな病院への紹介状を押し付けられて
「もう大きい方の病院さんには電話してあるから。すぐに向かって。」と先生に焦った声で病院を追い出された。
 何がなんだか、分からなかった。ただただ、先生のあの焦った声にせっつかれるようにしておおきな病院に駆け込んで、おじいちゃんおばあちゃんばかりの科のなかで看護師さんに紹介状を押し付けた。
「はあい、ありがとうございます。連絡は受けてますよ。紹介状確認致しますね。」
 にこりと微笑んで看護師さんが紹介状の封を切る。
 わたしはそれを側に座って見ていた。
 看護師さんは、紹介状に目を通すなりさっと顔を青ざめさせて隣の看護師さんに声をかけていた。それをきっかけに、にわかにわたしの視界に映る限りの看護師さんたちがばたばたっと焦った様子で走り始めた。まわりの患者など関係ないかのようにわたしの渡した紹介状が看護師さんたち、お医者さんたちの手をまわりにまわって、最終的にわたしは、気づけば採血をされていた。誰もが神妙な顔をしている。医療従事者の誰もが信じられないというような目でわたしをじっと見つめては、言葉少なに仕事をしているのが分かった。
 採血の後に通された診察室で、何を言われたのかは、覚えていない。
 ただ、先ほどされたのと同じ〝糖尿病〟についての説明を受けたことと「あんた若いのに。かわいそうやなあ」という言葉を投げかけられたことだけを覚えている。
「血糖値を下げる」という薬を処方され、もう風に流されていくかのようにふらふらと家に帰った。一息つけるわけなどなく、わたしはぼうっとしたままシャワーを浴びてすぐにベッドに入った。ベッドの中で、同じ血糖値や数値の人のブログやニュースを読んだ。そこに書かれていたのは、わたしとほとんど同じくらいの数値の方が『「余命五年、失明してしまうまでは、あと三か月」と宣告されました』という文章だった。
 あと、三か月足らずで目が見えなくなってしまうのかもしれない。
 あとどれだけ生きられるのか。そもそもわたしは生きたいのか。どうしてこんなことになってしまったのか。狂ってしまいそうな不安のなか、どうしていいかわからなくて、大学生になってはじめて、しゃくりあげるほど声を上げて泣いたのを覚えている。二十歳になって二か月半。パニック障害のせいでなにもかもがままならない人生は、こんなかたちで、さみしく終わっていくんだと思うと、やるせなくてどうしようもなくなった。長くて三十までしか生きられない。それならまあそれでもいいけれど、そうなのだったらわたしが今までがんばってきたいろいろは何のためになるのだろうか。そんなに短い人生じゃきっと、末の妹はさすがに泣いてしまうんじゃないか。いろんなことを考えた。生きたくはなかったはずなのに、いざ、こんなことを言われてしまうと、わたしは案外生きることを頑張ろうとしていたことに気が付いた。
「血糖値を下げる」薬の威力は、半端ではなかった。よくわからないけれど、目が見えない、という感覚がする。目の前が暗い。ちかちかともする。いきなり低血糖の世界にぶちこまれると、とんでもない勢いでうつっぽい状態が大口をあけて襲ってくる。呼吸もままならない身体は途端に視力を不確かにされ、とめどのない憂鬱な気持ちが、嵐のようにぶち当たってくる。苦しい薬だった。あんなに荒療治を働かれたのははじめてで、はじめて、暴力的に『死』を体感させられた気がした。
 
 今まで「死にたい」と漠然と思うことはあったけれど、このときのわたしは、例えば「何処に行きたいか」「何が欲しいか」とひとが欲しいものや未来のお話をするように、「死ぬこと」を考えていることの方がずっと好きになっていた。これから先を生き続けていくと決める勇気も気力もなかったからこそ、そのとき提示された「死」という可能性がいつしかとてもあたたかく眩しいものに思えた。死ぬことだけを希望にして、死ぬことを将来の夢かのように胸に掲げると、何故か明るい気持ちになった。
 どうにもならない身体を引き摺って、何ひとつ楽しくない世界で、ままならない呼吸をするくらいなら。「起きている間はずっと悲しいことを考えてしまう」精神からもし、抜け出せるのなら。そう思うと、終わろうと思えば簡単に寿命を縮められるこの身体が突然愛おしくなった。死が近づいてきてくれた。そのことがうれしくて、その思考からわたしはどんどん抜け出せなくなっていった。「助けて」と何度も何度もSNSに投稿したのにほっとかれる日々も死にたさに拍車をかけていた。
 でも、それじゃ危ないこともうっすらと分かっていた。
 わたしは、その〝宣告〟から間もない二〇二一年の初夏、実家に帰ろうかと考えた。
 家族のそばにいないと、「さみしさ」から早く離れていかないと、狂って暴れて死んでしまうんじゃないかとずっとずっとそればかりが頭を巡っていた。

◇快速 〝未来〟の自分行き

 五月の半ば。あの言葉にわたしはまだまだ囚われたままだった。死にたくて、死だけが希望で、どうしていけばいいかも何も分からないまま何もできずに泣いていた。本気で、死ぬんだと思った。これで終わりなんだと何処か諦めづいた心で、「助けて」「誰か話を聞いて」「死んだらごめん」と投稿し続けていた。
 そして、そのタイミングで、二年半ずっとずっとたった一枚の立ち絵に恋焦がれて、片想いし続けていたキャラクターの新規絵が更新された。彼は「ウインドボーイズ!」という当時リリース前のソーシャルゲームのキャラクターで、わたしは、彼のことが二年半ずっと好きだった。顔と名前、誕生日、いくつかのボイスと、表情差分ぐらいしか彼のことは知らなかったけれど、それでもわたしはここまでの日々を、彼への思いと共に生きてきた。ストーリーも何もなければ、三年近く公式に動きすらなかったコンテンツだったけれど、わたしはただ彼のことばかり考えて、彼への好きでいつも胸がいっぱいいっぱいのまま、彼と出会ってからずっと彼を追いかけていた。わたしは彼の居るコンテンツが動いてくれないのは自分のせいだとか思ったり、彼が存在しない世界で幸せになんかなるのは、「彼がいなくてもいい」という証明になりそうで幸せになろうとするのを避けたりしていた。だから、彼のせいで落ち込んでしまったことも、このコンテンツのおかげで自尊心がぼろぼろになったことも正直に言えば事実だった。でも、今はパニック障害になる前から愛おしく見つめ続けた彼が、今までとは少し違う、嬉しそうなやわらかいほほえみでこちらに指ハートをつくってくれている。とてもかっこよかった。世界じゅうのなによりもやさしい笑顔に涙が出るほど感動して、コンテンツが未だ動いていることがうれしくて、「生きてきてよかった」と本気で思った。彼がわたしを救いに来てくれたんじゃないかと勝手に思いたくなってしまうほど、その新規絵は綺麗だった。
 だからだろうか。わたしはその瞬間に彼のことを「こわい」と思った。公式アカウントに記載された彼の身長は一八二センチ。そのことをまざまざと見せつけるように、彼の手は大きかった。思っていたよりも彼の胸板が厚いことを、その絵で初めて知った。努力家な彼らしい手と体つきだと思った。だからこそ、一気に解像度を上げた彼の存在をわたしはこわいと思った。ただ、このひとの傍に自分が立つことを想像して、そんなの無理だと思った。高校生のとき、酷い痴漢に遭ったことをきっかけにうっすらと残っていた男性恐怖が何故か、心の支えで、人生のひかりだった愛おしい存在に対して働いてしまった。もう、どうしていいかわからなくなった。彼なしで、彼のことを好きじゃない自分と生きていく想像も出来なければ、一八二センチの彼のことを今まで通りにひかりと思って生きることも出来ない。それでも、パニック障害とうつを抱え、あと十年もないかもしれない日々を、糖尿病の治療をしながら生きていかなければならない。ぜんぶが、無理だと思った。
 もう全て、終わってしまうのだと思った。
 大好きなひとに、こんな理由で「好き」を向けるのをやめてしまうのはやるせなかったし、そんなにも彼に依存して息をしていた自分が情けなかった。大好きだった。大好きだったからこそ、ほんの少しの解釈ちがいで、永いわたしの片想いは終わることになった。
 泣いた。泣いて、とにかく苦しい気持ちを全部まとめて、そして、わたしは彼から離れていくことを決めた。もともと、彼のことは好きでも、コンテンツに対しては自分が傷ついてばかりだったし、この気持ちがいつかどこかで歪んで誰かを傷つけてしまいそうなのも分かっていた。だから、彼の笑顔に依存して立ち止まるのも、不誠実にいつまでもリリースされないコンテンツを一途に待つのも、もうやめようと思った。彼とは、別の道を歩いていくんだと、時間とことばを尽くして決めた。
 
 気が付くと、心は、空っぽになっていた。わたしは、さみしい気持ちをかき消すように、一心不乱に、手当たり次第にサブスクリプションで配信されているアニメを一気見して過ごしていた。ただただ、アニメや映画のような映像作品を乾いたこころに浴びせてやるのは心地が良かった。音楽や色合い、人の感情やその場に存在している空気感。それまで、彼以外は見まいと決めて心がはしゃぐのをせき止めていたぶんだけ、エンターテインメントはわたしにやさしくしてくれていた。現実世界では感覚過敏で受け入れられなかったものたちが、間接的だけれど自分の中で生き生きとはじける感覚は楽しかった。
 なんだか憑き物が落ちたかのように純粋に、何を見ても「たのしい!」と思った。
 
 ふと、以前どこかで聞いたアニメのタイトルが頭に浮かんだ。
 そしてその日突然、人生のぜんぶをすくい上げるような出会いが訪れた。
 
 その作品との出会いは、とんでもなく突然だった。ただ、何の気なしに見てみただけのアニメに、わたしはどうしようもなく心を救われた。生きる力をもらった。〝夢を見る〟ことのきらめきに触れ、自分も前に向かってちゃんと進んでいきたい、ちゃんと、自分の人生を生きたいと思うようになった。
『新幹線変形ロボ シンカリオン』。それがわたしの人生を変えてくれた、かけがえのない作品のタイトルだ。
 この作品は二〇一八年から二年半にわたり放送されていたキッズ向けのアニメで、名前の通り、新幹線が変形して、ロボットになって敵である存在と戦う〝運転士〟たちの姿を描いた作品だ。わたしはこの作品に登場する人物たちの、まっすぐな「好き」という気持ちと、そこにある人間らしさの描き方に深く感動した。困難に対して悩みながらも自分のなかで言葉で正解を見出し、自分らしく、嘘をつかずに生きていくキャラクターたちの姿がとてもかっこよくて、憧れた。運転士たちの関係性に、勇気をもらった。キャラクターのことば選びひとつひとつに、細やかなジェンダーや教育に関わる配慮がされていて、キッズ向けアニメとしてこんなにも視聴者に対してあたたかく、やさしい物語がつくられる世界のことを、ほんとうにうれしいと思った。この作品に出会えて、この時代を生きてきてよかったと心から思った。わたしは本当に、何度も登場人物たちのことばや姿に勇気をもらった。
 
 シンカリオンという作品を通し、わたしのなかではじめて、夢が生まれた。
 それは誰かにとってはとても簡単で、些細なことかもしれないけれど。
 いつか、秋田から大宮区間を走る秋田新幹線、「E6系こまちに乗りたい」と強く思った。
 こまちは、茜色の車体が特徴的な、わたしのお気に入りで、大切な新幹線である。
 ずっと死にたくて、呼吸もままならなくって、一時期は家から一歩も出られなかったはずのわたしが、「いつか」と思えるようになったこと。そして、あんなに苦手だった公共交通機関に「乗りたい」と思ったこと。
 それは、奇跡のような出来事なのだと、今でも思う。
 シンカリオンという作品に出会えていなかったら、きっと今のわたしはなかっただろう。今この世を生きている「わたし」は、シンカリオンという作品が繋ぎとめておいてくれた「わたし」だ。
「わたし」は、二十一年という時間をかけてやっと、自分の人生を生きていきたいと思った。そうでなければならないと、強く、思ったのである。
 

◇祝!三か月連続通院

 大学三回生の夏は、不安定に綱渡りをするような日々だった。学業は相変わらずうまくいかず、「未来を考える」ということがあんまりに怖くて就活に手を付けることも出来ず、ただただシンカリオンを繰り返し視聴しては「前に進まなくてはならない」と気持ちだけが焦っていた。
 そんな八月。徒歩圏内にまだ精神科があると知った。じっくり初診でカウンセラーの方が話を聞いて下さる病院だと聞いて、前の病院より自分の病状や生活に合わせた診断をしてもらえるんじゃないかと思って嬉しくなった。まだまだ知らない場所に向かうのは怖かったけれど、精神を少しでもまともに軌道に乗せるにはこれしかないと思ってその診療所に向かった。
 
 そしてしばらくの通院期間が過ぎ、秋口になって、ふと「自分が三か月も連続して通院が出来ている」ことに気が付いた。言いようもなくうれしかったし、とんでもなく、自分が誇らしかった。いちにち、いちにち、と日付を重ね続け、自分の体調をよい方に連れていくためにわたしは何か月も行動が出来ている。いつも必死で「行ってみる」をやってはやらなきゃよかったと思うほどに傷ついて帰ってきてしまう自分が、この病院には何度も何度もきちんと通えている。
 半年前じゃまるで考えられなかったところにいるのが、あまりに嬉しかった。自分の体調にきちんと合うお薬を処方していただいている間は、少しづつだったけれど外界に対する不安感や息苦しさ、しんどさも薄れていく感覚があった。「就活とか学校のこととか、とにかく頑張りたいことがたくさんあるんです。でも、あと一歩、身体が動かない感じで……」とある日病院の先生にお話をしたとき、わたしはイフェクサーという名前の薬を処方された。そのお薬は「がんばるためのエネルギーややる気を出す薬」と説明をされた。薬にしては正直結構なお値段がするのだけれど、でも、そのぶん効果は絶大だった。あのときと同じように冬が来ることを、怖くないと思えた。毎日生きていることがつらくなくなった。身体が思うように動く日が増えてきた。泣かなくても眠れるし、一緒に出していただいている睡眠薬や抗うつ薬のおかげで少しずつ学校にも向かえるようになった。
 ただ病院に数か月連続して通えるようになっただけ。ただ自分に合う薬を処方してもらっただけ。でもそれでも、わたしにはそれこそが自分が自分自身の〝これまで〟をまるごと抱き締めて褒めてあげられるとても大きな理由になっていた。生きていけるかも、と思うと、嬉しかった。生きていこうと前を向いたとき、そこに道があったことが、びっくりしたけど嬉しかった。頑張ろう。そう思った。
 

◇「しあわせになる」と決めることについて

 さて、病院に数か月通ったことでほんの少し生活が出来るようになってきたり、少しずつ人並みの心の振れ幅で生きていけるようになってきた大学三回生の冬の入り口頃。
 わたしは、自分が「しあわせになる」ことを許せなくて、そうしようとすることがとても怖くて、すごく苦しんでいた。
 それは、わたしの中で「普通に生きていくこと」と、「しあわせを求めて生きていくこと」は、全くもって次元の違う人生の歩み方だったからだ。「しあわせ」とは、ときに誰かに迷惑をかけてしまったり、協力をしてもらわないとならないものだと、当時のわたしは思っていた。それに、「しあわせ」を一度得てしまったら、その感覚を失うことになったとき、自分はまた、ぶち壊れたさみしさの怪物になってしまうのかと思うとたまらなく怖かった。幸せになるために生きていくことを選ぶくらいなら、怪物になってまた暴れだす前に、いつも通り平坦で孤独で楽しいことなんて何もない間延びしたような日々を重ねていくほうがいいんじゃないかと思った。
 自分ひとりが自己満足のように幸福を得るためには、誰かの時間や気持ちを消費してしまう可能性があること。そしてこれまで願ったこともない自分のなかでの「しあわせになりたい」という欲の現れにわたしはひどく怯えていた。幸福を得るのが、怖くて嫌だと思った。自分なんかが幸せになろうとすれば、なにかしらの罰が当たったり、自分だけが幸せになれないなんて現実とぶつかることになるのかもと思うととても前には進めなかった。
 幸せになりたがる自分との共存は、気が狂うほど怖かった。「しあわせ」のほうへと歩みだしたい自分と、そんなことを絶対に許したくない自分がいつもせめぎ合っていて、その結果はいつも、わたしの腕に現れた。わたしは自分の腕を無意識のうちに噛んだり抓ったり、苦しいときには殴ったりなんかして、自傷行為で日々自分の気持ちがしあわせな方に、浮かれてしまっている方に流れていかないように繫ぎ止めるので必死だった。
 
 だって、もう三年半ほどうつをやっているのだ。落ち込んでいるのが当たり前で、死にたいのが当然で、孤独に色も音もない世界に閉じこもって生きてきたのだ。毎日苦しくて生きづらくって泣いてばかりの自分が、まさか幸せになりたがるなんて。そんな、全くちがう人の人生を急に生きるような日が来るなんて思いもしなくって怖くて仕方がなくなるのは、当たり前だった。「わたしなんかが笑って生きてもいいのか」が、分からなくて怖かった。だから、誰でもいいから「あいみちゃんは幸せになっていいんだよ」と言ってほしかった。このまま鬱々と生きるのはもう嫌で、わたしも、ひかりが差すほうでやわらかく人に囲まれて生きていきたい。だけど、〝しあわせ〟を掴んだ先のことやそのために誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないのは怖い。おんなじことをぐるぐる考えながら、毎日自分はどうやって生きていくべきか、考えていた。
 わたしがそこまでして「しあわせ」になってみたいかも、自分なんかでもそうなりたいかも、と思うのにはとても強い理由があった。
 大好きな作品、『新幹線変形ロボ シンカリオン』に出会ってから、わたしはずっとこの作品にもらった勇気やドキドキを表したいというか、きちんと感謝をしたいと思うような気持ちがあった。シンカリオンに出会えて、憂鬱さでからからに乾いていた心が本当に前向きな気持ちでいっぱいになったこと。幸福に向かうレールが自分にも敷かれているんじゃないかと思えたこと。シンカリオンに出会えたことで、生きてみたいと思えたことを、「しあわせなわたし」になることで少しでもあの作品に伝えたいとわたしは思っていた。「自分が幸福になったのは、シンカリオンのおかげだ」ということを、もちろん制作会社におてがみを書くような直接的な形ではなく、進化したわたしをわたしは愛せるようになる、というかたちで表したいと、そう強く思ったのだった。
 
 何か月もかけて、わたしは自分がしあわせになるべきか、そもそもなれるのか、なにをもってひとは「しあわせ」を定義するのか考えた。シンカリオンのため。シンカリオンが出会ってくれたわたしのこの人生のため。その人生の主人公としてどうあるべきかをずっと考えていた。
 そして、時間をかけて考えた末に〝こたえ〟としてわたしが掲げているのが、以下の考え方だ。
「わたしが、「自分の抱える〝好き〟という気持ち」と共存し、シンカリオンという作品と共に「唯一無二」の幸福を探していく〝日々〟のこと」を、わたしは「幸福」としたいと思う。なにかが「はじまる」ということ、幸せに向かおうとするということはいつか「終わり」が来るということでもあるけれど。シンカリオンという作品に対してならわたしは、そんな選択をしないだろうし、あったとてそれはとても誠実なものになると思った。なにがあっても。シンカリオンという作品に出会えたわたしならば、立ち止まらずにいることだけはきっと約束できるから、わたしはこの人生を、なによりも特別なこの作品とともに、生きていきたいと思った。
 
 二十一歳になろうとする人生の中、わたしはやっと、「幸せになること」を心から決めた。たとえそれを諦めようとしてしまう日があったって、シンカリオンという作品に出会えた人生を、シンカリオンとのためにだとしてもきちんと、楽しく笑ってまっとうに生きていくとやっと、やっと決められた。
 
 大学四年生の七月十一日、わたしは新宿で開催されたシンカリオンのポップアップショップに行った。その日はちょうど応援している登場人物の誕生日が近くて、ショップ内に展示されただいすきな彼の等身大パネルには、零れるほどハート形の付箋に彼のお誕生日を祝うファンの方々の言葉たちがあった。シンカリオンE6こまちの運転士で、愛される才能のある彼が好きなわたしにとってその景色は、「新宿なんてところまで来られた」ということも含めて夢のような光景だった。
 わたしも、生きようと思わせてくれたひと。しあわせになりたいと思ったきっかけの彼へメッセージを贈った。彼へのメッセージカードには、「生まれてきてくれてありがとう、あなたのおかげで夢を見つけました。」と書いた。心の中で、夢にいつも真摯に向き合う彼に(いっしょにがんばろうね)と声をかけた。このポップアップショップのために新しく描き下ろされたアロハシャツ姿の彼は相変わらず世界で一番かっこよく微笑んでいて、わたしはどうしてもパネルの前から離れたくなくて、ぐずぐず、泣きそうになりながらショップを後にした。
 わたしにたくさんの夢を掴む勇気をくれた彼に、会いに来られた。そのことは、わたしの人生の中でどんなことよりも誇らしく、幸福なことだと思う。東京駅では、彼の搭乗するシンカリオンであるE6系こまちにお会いした。駅構内に入るためだけの入場券を友達と買って、駅のホームへと向かう。こまちがそばにいるという事実だけで涙が出そうだった。ホームへと昇るエスカレーターに乗りながら、手が小さく震えているのが分かる。うつの日々から、シンカリオンという作品がわたしを救ってくれてから一年近く。ずっとずっと会いたくても会えなかった大好きな機体。そんな特別が、もうこんなにも、そばにいる。画面越しじゃなくて、会える。その事実に胸がいっぱいに、苦しくなった。もうすぐそこにこまちがいるのだろう。エスカレーターの金属部分がこまちに反射して赤色がかっているのを見て。みじかい深呼吸をして、わたしは東京駅のホームに立った。
 目の前にわっと広がるピンクがかった赤色に、わたしはもう思わず言葉を失って、立ち尽くしてしまった。こまちの特徴的なロングノーズの横顔に思わず涙がぼろぼろ零れてしまった。できるならずっと、ずっとこまちのそばに居たいと思った。秋田から東京に向かって走ってきたこまちと、京都から東京に向かって色んな気持ちを抱えながら走ってきたわたしが重なり合えた奇跡のようなことが本当にうれしくて、思わず「お互い頑張ったね、」と、泣きながら小さな声でこまちに声をかけた。しあわせってこんなにも満ちたものなのかと、わたしはこの瞬間のためにたくさんのことを乗り越えてきたんじゃないかと、そう本気で思った。走り去っていく茜色の車体を、今でも思い出してはわたしはあんな風に雪の中でだって、どこでだってまっすぐに生きていきたいな、と思った。E5系はやぶさと連結したこまちが、わたしの目指す〝しあわせ〟だと思った。誰かと寄り添って、ときに支えてもらいながら、生きていく。そんな風にあれたらと東京駅のホームで、考えていた。
 

◇ただ立っている、ということのきせき

 この作品を執筆中の夏、わたしは生まれてはじめてリストカットをした。自分の腕を嚙むだとか抓るだとか、殴るだとか、そういう自傷行為は去年にしていたけれど、〝自分に刃を立てる〟のは本当にはじめてだった。
 きっかけは、些細なことだった。そこにはさみがあったからだ。
 わたしは、友達と何でもない通話をしながら、水色と黄色のポップなデザインのはさみですうっと左手首に傷をつけてみる。なかなか血は出ないし、思ったより痛くないのねと思いながら短い傷をいくつもいくつもつけてみた。あっという間に、うっすらと血のにじむ、ぼこぼこにミミズ腫れした手首が出来上がった。
 そのときの、何という安心感。何という満足感。単純に驚くほどに、心がすうっと軽くなっていった。「自分がものすごく頑張っている」ということが〝可視化〟されたようで、ほっとした。何度も赤く腫れた手首を眺めては傷を日に日に増やしていった。数日もすれば自傷行為はわたしの中でなくてはならないものになっていて、「ご飯を食べたら少し切ろうかな」「今日は頑張ったしゆっくり深くいってみようかな」と考えることが当たり前になっていた。
 その頃のわたしは、多分かなり疲れていたのだろう。
 四回生になって、周りがどんどん就活を進めていく。卒業制作や、まだまだ卒業には単位の足りない状況のために授業をぎちぎちに詰めていることや、相変わらずうまくいかない自分の生活や思い通りにいかない身体に、四月ごろからわたしはもうほとんど限界を迎えていた。寝たきりの生活だった身体は少し動くだけで限界なのに、気持ちだけが薬の影響で「前に進みたい!」とわめいては真面目に何もかもをこなそうとするから、あのときはもう、端的に言ってつらかった。らんらんとした瞳で夢を見ながら、動かない身体を抱えるのはあまりの自分の無力さをまざまざと見るようで。頑張れそうで頑張れないもどかしさと情けなさに何度も泣いた。何度も自傷行為をしては必死に、息も絶え絶えに生きていた。
 四回生の四月から、体があまりにだるくてさっそく学校に行けなくなった。「家を出る」ということひとつがどんどんきつくなっていって、また食事に気を遣うどころでなくなっていった。季節の変わり目の寒暖差に振り回されて、毎日毎日泣き出したくなるほど体が重かった。桜はすぐそこに咲いていると知っているのに。春が来ていると分かっているのに。それでもわたしの身体は言うことを聞かなかった。
 ずっと、酷い胃痛に悩まされていた。泣けちゃうくらいの激しい胃の痛みに耐えられなくて、思わず救急車を呼ぼうとしたこともあった。理由は分からないし、お医者にかかっても「ストレスですね」としか言われなかったけれど、そのころから数か月にわたって酷い吐き気がずっと続いていた。
 また、というか。本気で、食べるということが、できなくなった。
 はじめは吐き気のせいで食欲がわかないというだけの理由だった。でも、だんだんと、「もうなにも食べたくない」と思うようになっていった。「食べたいけど食べられない」と、「食べなくてはならないけど食べられない」は全くもってちがう。
 わたしは、こんな文章を執筆しながらに酷い拒食につまずいていた。そして、その心の落ち着く場所が自傷行為だった。あまりに、情けないと思う。こんなはずじゃなかったのに。ちゃんとお薬も飲んで、きちんと寝て、出来る限り楽しく暮らせるように必死に生きると決めているのに。ちいさな、些細なストレスの重なりや疲れをきっかけに、ひとは、こんなところまで落っこちてしまうのだ。ずたずたでぼろぼろの左腕手首は、夏の陽の下では直視できない程のコントラストを放っていた。身体が追いつく間もなく真夏が来て、一気に呼吸が下手になった感覚がした。外に出られる身体を、わたしはまた失った。
 

◇ひとめぼれ

 まったく「食べる」という行為も就活にも手を付けることもできないままわたしは「病院ツアー」を目的に夏休みになるなり実家に帰った。わたしの抱える強い吐き気は、ストレスからくるめまいが原因で起こる吐き気らしかった。ほかにも、おばあちゃんの家に泊まりがけでおおきな病院へ行ったりもした。糖尿病の数値の検査や食事療法についての講習、入院の検討などをしたけれど、二年近くで糖尿病はほとんど完治しているようだった。名古屋のおおきな精神科ではバウムテストという心理テストを受けたり、自分が少しでもしっかり生きていけるように、親や家族がいつも「病院ツアー」を見守ってくれていた。
 
 そんな帰省中のある日、母や妹たちと名古屋の大須商店街をふらふらと歩いていると、プラカードをもってお店の呼び込みをしている女の子が目に留まった。
 ふわふわのパニエを仕込んだミニスカートに、にっこりとした笑顔がなんとも癒される、本当にかわいい女の子だった。彼女はメイドカフェの前で、ピンクのリボンを胸に飾ってぴょんぴょん跳ねながらこちらに手を振ってくれた。彼女の長いツインテールの髪がそれに合わせてふわふわと揺れる。わたしはその瞬間に、どうしようもなく一目惚れしてしまっていた。
 ふと、わたしのなかではじめて、「働きたい」という思いが湧き出た。これまで三年間ずっと、お金をわざわざ稼いでまで生き延びたくなんてないと思っていたのに。働くことがすごく怖くて、アルバイトすらまともに出来なかった大学生だったのに。「メイドさんになりたい」という気持ちだけがとても強くわたしの胸の中で燃えていた。帰り道にはもうそのお店の求人に申し込んでいたし、なんだか働けそう、と思えた自分があんまりにうれしくって、就活なんかそっちのけでずっと黒髪だったままの髪のインナーを、ブリーチしてピンク色に染めた。
 結局、帰省先の愛知県で短期間メイドさんとして働かせていただくことは難しかったけれど、わたしは実際にメイドカフェでお給仕をしている彼女たちを見て、自分もこんな風に働きたいと思った。ドリンクやフードにおまじないをかけたり、自分にふわふわのミニスカートをちょんとつまんで「お帰りなさいませ、お嬢様♡」とお辞儀をしてみせるメイドさんを見て、わたしはその世界観に本気で恋に落ちていた。
 今思えば、あの雷に打たれたかのような「メイドさんになりたい」という気持ちは、わたしの〝社会に対する恐怖〟が解ける瞬間だったのだと思う。
 「働く」ということがとても漠然と怖かったわたしに、メイドさんという存在は「自分の〝かわいい〟や〝好き〟を守りながら楽しく働くことも出来る」ということを教えてくれた。社会はハードモードなだけじゃなくて、同い年くらいの女の子に囲まれながら歩み出すことだって出来る。その事実を、当時視野の狭かったわたしに「メイドさん」は教えてくれたのだ。
 
 あの日、あのときはじめてのパニック発作を起こした河原町で、八月後半からわたしは、メイドとして晴れてお給仕を始めることになった。勤務地に対して怖がる気持ちは、もう一つもなかった。
 慣れたような手つきでバスに乗って、慣れたような手つきでご主人様方にお給仕をする。でも、そんなわたしの通勤やお給仕の傍にはいつでもE6系こまちがいた。不安な時のために、わたしの持ち物はいつもこまちだった。こまちのパスケースで移動をして、こまちのショルダーバッグをお供にメイドとして働いた。だから、メイドちゃん達のなかでわたしのイメージカラーはいつしか赤色になっていた。
 わたしは、「好き」を「好き」のままに生きられることが、どんなに幸せかと噛みしめた。こまちに生かされたようなこの命を、幸せに向かって、大好きでかわいい世界に囲まれて生きられている。これ以上ないしあわせのぬくもりに、いつしかわたしは、「死にたい」と思う気持ちを溶かされていた。こまちとおんなじ、ピンクがかった赤色をインナーカラーにツインテールをして、にこにこと笑う自分を、わたしは「かわいい」と思った。

 まさかメイドとして、ここ、河原町で働くことになるなんて三年前のあのわたしには想像もできなかっただろう。
 でも、今でも毎日メイクが楽しいこと。ちゃんと外に出られるようになって、今では乗り換えの多い移動も平気になったこと。ときどき悲しい気持ちになることはあれど、それでもわたしは今を「しあわせ」と思っていること。いつか、あのカラオケ店の前で発作を起こしている緑色のパーカーの女の子に会えたら、伝えたいと思う。
 

◇生きていくって、約束しよう

 四回生の秋、十月十五日に、わたしはシンカリオンとの撮影会のために品川駅のSL広場に来ていた。着ぐるみ姿のシンカリオンE6こまちは思わず叫んでしまいそうになるほどかっこよく赤色に輝いていて、撮影を待つあいだじゅう、わたしの心臓はずっとばくばくしていた。今日のために染め直した髪も、新しくおろしたリボンもワンピースも、少しでもこまちの目に印象深く映ればいいな、と思った。
 わたしは、シンカリオンE6こまちの運転士であるキャラクターが甘党なことを受けて、このイベントに「差し入れ」として京都のお菓子をたんまり買って持って行った。甘党な彼が喜んでくれたらいいな、なんて思いながら京都駅でお菓子を選んでいたら案外京都にはかわいくておいしそうなお菓子があることを知って、ついつい、たくさん買い込んでしまったのを覚えている。そしてわたしは、そんな大きな紙袋の中に、赤い封筒の手紙をそっと添えておいた。
 シンカリオンという作品に関わってくださった誰かに。わたしの大好きなこの作品に、少しでも感謝を伝えたくて。「シンカリオンという作品に出会えてしあわせです。」という、ただ、ただ素直な言葉を主にした手紙を書いた。これからもシンカリオンと生きられる未来をとても喜ばしく思っていること。作品に活きていく勇気をたくさんもらったこと。夢を追いかけて戦う登場人物たちに、わたしも夢を見る勇気をもらったこと。どれもこれもを、とても素直に書き綴った。

「これまでもこれからも、シンカリオンがだいすきです。ずっとずっと応援しています。」と、手紙の最後に、そう綴った。それがわたしの全てだった。

 「これからも」も、「ずっと」も、死んでしまっては遂げられない約束だということを噛みしめて、わたしはシンカリオンにこの手紙を渡した。

 「人生、やっとここまで来られた」、という、不思議な達成感がわたしの中にあった。「好き」に「好き」と伝えて、感謝を伝えて、将来も応援していくよと、直接約束を出来たことが心から嬉しかった。嬉しそうに差し入れと手紙を受け取ってくださったこまちとスタッフさん方の笑顔が嬉しかった。

 生きてきてよかったと、本当に何度も思った。
 これからも生きていくって、ちゃんと約束を出来たことが、ただ幸せだった。
 

さいごに

◇「パニック障害」と、四年間を生きてみて

 わたしが大学生活の中で学んだことは、授業の中だけではなくって、〝生活〟の中にきっと多くあった。「生活」。生きていくための活動。わたしは、この「生活」と、そして「さみしさ」の獲得のために高い学費を払い、ここまで、生を学んできたのだと思う。
大学四年間の中で、このことを学ぶためにここに来て、ここで言葉と共に生きてきたのだと今では思う。
 とても長い、ようであっという間だった、コロナ禍も含めた四年間。
 数えきれない程の過呼吸発作の合間合間。はじめて発作が起きた日のこととその感覚が絶え間なくずっと再生されている頭の中。苦しくて死んだほうがましだと思って駅まで走っていった夜。いつかも分からない適当な時間に起きて、何かを食べたり食べなかったり、外に出たり出なかったりして。泣いたり笑ったり、落ち込んだりもしながら、生きるため、自分自身のことを必死に手放さないようにしながら『生きる』ということを自分なりに積み重ねてきたつもりの、わたし。
 それはとても簡単なようで、難しいことの連続だった。真っ暗なさみしさの中。くすぶるように熱く、死にたさで身を焼かれる夜。そしてそれを乗り越えるにはまるきり落ち切った体力と生き抜くのははっきり言ってめちゃめちゃしんどかった。いつも、苦しいときは枕が涙と涎と冷や汗と絶望でぐちゃぐちゃになって、ぺちゃんこになる。そしてそれから、悲しくてどうしようもなくてただ枕を殴っては暴れてしまう。その時の感覚は、いつでも自分のすぐ裏側にある。
 今思えば、うつで寝たきりなのは大学の間、ほとんど変わりがなかった。
 これを書いている今も日々の生きづらさにもがいていて、必死に生きているのには変わりはない。「ふつう」の顔をしながら、心のうちはなんだかもう泣きだしそうで苦しいと思うときもたくさん、たくさんある。今日だって、睡眠薬がうまく抜けなくて、また授業を休んでしまった。その罪悪感で胃が痛くて少し泣いた。
 でも、わたしはそれでも、自分は一歩一歩前に向かって進んでいけている、と信じたい。後退してしまう日もあるし、もう辞めたい、終わりたい、疲れてしまった、って途方に暮れる日もあるけれど。それでもわたしは、今はわたしと、わたしを大切にしてくれて、愛してくれた作品やひとたちのために、生き延びて、ちゃんと感謝を伝えていきたい。
 わたしは、わたし自身がこうした精神的な病によって得たものを、「強いさみしさ」、あるいは「そばにいてくれるひとのかけがえのない大切さ」だと思っている。
 自分を、「ひとりぼっちでさみしい人間だ」とどうしようもなく強く思う日もあるし、やっぱそんなに前向きにばかり生きていられないけれど。でも、わたしはわたしを愛してくれた〝だれか〟が生きていてくれて、〝斎明寺藍未〟というひとを信じてくれる分だけは、頑張ってみたいと、今は思う。出来るだけ笑顔で、かわいく、キラキラ瞬くような愛おしい日々がこれからもたくさんの方との思い出や言葉と共に続いていけばいいと、心から思っている。一枚一枚の写真のひとひらひとひらが、いちいち愛おしいような、めんどくさいくらい思い出を大事にする女でありたいと思う。
 
 思い返せば、わたしは、「いきること」とは文字通り、生命を日々、服を着て、食べて、眠って、明日に繋ぐことなのだとばかり思っていた。だけれど、この本の企画・執筆を通してわたしは、「いきること」とはそんなに簡単なことではなくて。なんとなく、他者が介在してこそのものなのかなとか、誰かと、関わるということなのかもしれないと考えるようになった。手帳に、誰かしらの名前がある。このあと、かわいくして会いたい人がいる。そんな小さなときめきや、目標や、刺激によって人は生きているんじゃないかと、思うようになった。
 大学四年間を通し、最悪な体調の中わたしはいつでも制作の中で、読者に対して「衣食住」「推し活」などを中心に〝「あたりまえ」を考え直すきっかけを与える〟ような記事や企画を制作してきた。
 それはきっと、わたしが「生きる」というあたりまえのことすら出来なかった日々があったからだと思う。あたりまえをほどいて、生きるということを好きになるため、自分を大切にするために「生活」を考え続けてきたからだと思う。「自分をひとりじゃない」と思うために、何度もシンカリオンを観たし、『LOVEグラフィティ』という大切な曲を聴き続けては〝「いつもそばにいるよ」〟という言葉に何度も救われてきた。前を向きたいときや、落ち込んで眠れない夜は『ガッタンゴットンGO!』という、シンカリオンにとってもわたしにとっても本当に特別な曲を、何千回も繰り返して聴いた。インターネット上のお友達に励ましてもらったり、弱音に反応をもらうだけで少し安心が出来て。だからこそ毎回の精神科通院の度に「もう自分なんかいいや」と腐らずに生きてくることが出来たのだと今では思う。また、落ち込んでしまった日には「いつかの自分」のために自分の「好き」を思い出すことを意識していた。お洋服やお化粧品を眺めたり通販するだけで、一か月はそのときめきで、息をしていられる。お花を飾ったり、ベッドカバーをピンクにするとかでお部屋を意識的にかわいく整えておくと、気持ちが一気に落ちていくのを食い止められる。
 わたしはそんな風に、必死に必死に〝ひと〟以外にもたくさんのものごとや、音楽、色やアクセサリーなんかに延命処置をされながら生きながらえてきた。

 わたしは、大学生の四年間をかけてこの身体での「生きてゆきかた」をたくさんの方に教えてもらい続けていた。その「生き方」は、ほんとうにいろんな色や形、温度があって。どれひとつだって、「ふつう」なんて思えるものはなかった。
 どれもこれもその人自身の「こころ」と「からだ」と「環境」が密接に関わり合った末の、奇跡のようなライフストーリーだったと、わたしは感じる。

 「他人」と「自分」を比べずに他人と生きていくのは、すなわち「自分」を「自分」として責任をもって生きるということだとわたしは思う。だから、生きていくって難しい。
 自分のことを客観視したり、好きでいたり、機嫌を取ってやったり。「ひと」ってなんて面倒なんだろうかとわたしは今でも思う。
 でも、パニック障害になって。うつ病にも苦しんだ日々の中。とても淋しくつらく苦しい闇の中。わたしが結局死にきれずに生き延びてしまったのは、ただ単に「生きる」「死ぬ」ということがとても難しいというだけではなかった。たぶん、この本を手に取ってくださるような、あなたのような方がいるから、日々にほんの少し、光があると信じられたのだと思う。
 日々には、たのしい日もあればそうじゃない日もあって。わたしはそれが当たり前だと思う。そして、ときどき、その振れ幅の大きさに傷ついてしまうこともあるんじゃないかな。だけど、どんなあなただって、きちんと「あなた」が「あなた」であることは変わりがないと思う。すっごく当たり前のことだとしても、わたしは、もしこの本を手に取っているあなたが少しでも日々に生きづらさを感じているのならはっきりとあなたに、「誰か」「何か」にならなくても、「あなた」が「あなた」であるだけでわたしはそれをとても素晴らしいと思う、と伝えたい。手を握りしめて、しっかりと。
 
 うつも、精神疾患も、生きづらいことも。あなた一人だけではないということを、わたしはこの本を通して伝えられていたらいい。
 もちろん暗闇の真ん中にいるときはそんなことが救いになるわけがないのも分かっているし、「みんなしんどいんだから」なんて言われたところで一つも安心はできないのも、わたしは当事者として痛いほどに分かっているつもりだ。でも、これだけははっきりと言える。
 あなたは、決して孤独ではない。
 あなたは、ひとよりも少しゆっくり、人生のいろいろを味わっているだけなのだと、わたしは思う。ひとよりもマイペースに、のんびりに生きる必要があなたにはあるから、だからあなたはそこにいるのだと、わたしは思う。わたしはこんなに病に人生をぐちゃぐちゃにされて、それでやっと、「おおきいさみしさ」と「そばにいてくれる人の大切さ」に気が付けたから。
 だからきっと、あなたのしんどさにも、なにか意味がいつか生まれてくるはずなのではないかとわたしは思っている。
 ひとの心や身体はとても脆く、きちんとメンテナンスをして、宝物のように大切にしなければすぐにぽんこつになってしまうものだ。だから、この本をここまで読んでくれた優しいあなたには、特別な約束を。
 マイペースに、のんびり、素直に生きていきませんか。
 痛いときに痛いと。悲しいときに悲しいと。子供の頃はあんなにも簡単に言えていたのに、ひとはみんな、大人になっていくたびにそれが出来なくなっていく。もちろん、社会の中に生きるということは多少でも無理をして、嘘をつく必要があることも分かっているけど。でも、社会のためについた嘘は、あなたの心身のためについた嘘ではないだろうから、どうか自分の言葉に流されず、社会の決めたペースに呑まれず、あなたもわたしも素直に笑って生きていければいいなと思う。
 息をすることしかできないような日があっても、わたしはこれからも誰かと〝ともに〟、生を紡いでゆきたいと思う。あなたもわたしも、孤独だから繋がれて、孤独だったから幸せにきっとなれる。そういう約束を、いますぐにじゃなくてもいい。いつか絶対、あなたとしたい。

◇あなたへ

 この本を手に取ってくれた、あなたへ。
 わたしのために、この本を手に取ってくれたあなたに。
 自分のために、この本を手に取ってくれたあなたに。
 自分以外の誰かのために、この本を手に取ってくれたあなたに。
 なんとなくこの本と出会って、〝わたし〟のこれまでを見守ってくれたあなたに。
 心から、最大級の感謝を致します。
 わたしは、生きてきてよかったです。つらく悲しく痛く、さみしく、もどかしい日もあるけれど。それでも。〝あなた〟という人が、〝あなた〟でいてくれるから、だからこれまで必死に、必死にいのちをつなぎ続けてよかったと、今は思います。生きてゆきたい、と思う気持ちを信じさせてくれた、この世に生きる大切なあなたが、今日も明日もその先も、ずっとずっと幸福でいてくださいますように。
 どんなときも、それでも、生きていくって約束をしましょう。
 あしたもあなたが、少しでも誰かとの〝つながり〟で、自分が生きてきたことを喜ばしく思えますように。
 いっしょに、生きていけますように。

 わたしも、わたしと末永く最期までずっと、好き合ってちゃんと生きていけますように。ね、約束しよう。

それでも生きていくって、約束しよう

2023年2月4日 初版 発行 

著者:斎明寺藍未
装丁:髙木果琳(情報デザイン学科3年)
カヴァーイラスト:植田百香(情報デザイン学科4年)
発行:京都芸術大学 文芸表現学科

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斎明寺藍未

がんばって生きてきました。
この本を通してその片鱗を少しでも感じてもらうことで、
この本が少しでもあなたの人生の何かになれたら幸いです。

赤色とピンク色が好き。
これからもがんばって生きていきます。
つらいこといっぱいあると思うけど
なんとか楽しくやってくぞー!おー!

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