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湿りきった愛

赤星翔太

京都芸術大学 文芸表現学科



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 大学に来たのは久しぶりだった。
 朝の日差しの中を爛漫と咲き誇る桜に新年度ということを痛感させられる。去年の後期はほとんどサボったはずなのに進級させられてしまった。ゼミの教授の善意なのかエゴなのかはわからないけれど、僕にとっては迷惑極まりないことだ。ため息がこぼれそうになるが、それも無駄なことだと思って喉に押し込める。
 研究室はやはりがらんとしていて職員の他に生徒の姿は見えなかった。この後に控えている講義が少ないというのもあるだろうけど、日当たりが悪くてじめっとした雰囲気で寄り付きにくくなっているのが原因だろう。そのことを研究室側も理解しているようで、掃除もざっくりとしたものになっていて空調からはほのかにカビ臭い香りがする。大学に足を運ぶのは憚られるものがあるけど、この匂いは何故だか少しだけ好きだった。
 しばらく誰も来ないだろうからしばらく滞在しても良かったけれど確証があるわけではない。変な名残惜しさがあったけれど本来の目的を果たすために職員に声をかけた。めんどくさそうな顔をされたが仕事は迅速で用件を伝えるとすぐに書類を手渡してくる。書類は新年度についての案内と就活の進捗を逐一報告するためのものだった。これを取りにくるようにとメールで伝えてきたのだからデータ化して送ることもできるはずなのに、こうしたところが遅れているなといつも思う。目をざっと通してみたが想像していた通り大したことは書かれていない。だから研究室を出てすぐに近くに備え付けられていたゴミ箱に丸めて捨てた。
 省庁大学校でもなんでもないし、働きたくて大学に来たわけでもない。だけど大学は就職率の高さを謳っていて、学年を重ねるごとに社会通念を押し付ける講義が増えるカリキュラムを組んでいたので自然と嫌気が募っていった。だからと言って、未来を約束してくれる芸なんかがあってくれるわけでもないので、僕には意味もなく生き続ける選択肢しか残されていない。
 構内を少し歩くと派手な髪色をした学生がたむろしているのが目についた。陽の光があるだけでこれほどまでに雰囲気が変わるのかと感心もするけれど、有象無象が視界に入るのは気分が悪い。何も考えていないようなこいつらには色んな選択肢が与えられているのだろうか。考えれば考えるほど胃が熱くなっていくのを感じた。奥歯を噛み締めて足早に校門へと向かう。
 やっとの思いで外にたどり着いても学生の波が押し寄せていた。頬を撫でるうららかな風が今は鬱陶しくて仕方がない。呼吸が小刻みになり始めたそんな時、不意に「きゃ!」という短い悲鳴が聞こえた。声がした方を見てみるが誰が発したのかはわからない。しかし、桜の近くで人の波が乱れているので原因はその付近にあるようだ。帰路に着くのにも都合がよかったので、その乱れを縫いながら様子を窺うことにする。
 近づいてみると桜の幹がわずかに蠢いていた。目を凝らしてみると夥しい毛虫たちが這い回っているのがわかった。こんなものに悲鳴が上がったのかと思うと小気味よさがある。しかし、学生の波と毛虫たちの群れに挟まれたことで虚しい孤独さが溢れ出し、静かに胸の奥底を締め上げた。

 1

 申し訳程度に防音された歌声が今日も廊下に漏れ出している。特段、耳を傾けるようなものもなかったから、僕は気怠さと押し殺して床にぶちまけられたゲロを片付けることにした。
 僕がバイトをしているカラオケ屋、インスタントスパークルは二十四時間営業で酒あり飲食の持ち込みありなどなど、客に対して比較的寛容なので地方を中心に展開している割には客入りがいい。そのため二次会や三次会の舞台になることも多く、床にゲロというのはもはや見慣れた光景になっている。今週だけでも五回はこうして掃除をしているので、カラオケ店でバイトをしているというよりもゲロの掃除で給料をもらっているのだと言った方が正確かもしれない。
 マニュアルに従ってゲロに漂白剤をかけていく。僕はこの漂白剤の独特な匂いがどうしても苦手だった。鼻腔を突き刺すような匂いに危うくゲロのミルフィーユを作ってしまいそうになってしまうが、そんなことをしてしまえば店長に後で何を言われるかわかったものじゃないから、何とか堪えてキッチンペーパーでの回収作業に移行した。できるだけ口呼吸を意識する。ゲロや漂白剤からいろんな成分が立ち昇っていて口の中に、なんて変な妄想をしかけてたまらなくなってしまったから思考回路を切り替えたい。けれど、この状況下では否が応でも意識がそちらに向いてしまうので、心の中で僧侶が念仏を唱えるようにマニュアルをひたすら繰り返し唱え続けてやり過ごすことにした。
 一通りの処理が終わり、消毒をしてしばらく放置する段階になったのでくすんだピンク色のビニール手袋をさっさと外した。これでようやく一息入れることができる。愛用のリストバンドで額に浮かんでいる嫌な汗を拭った。ビニール手袋の中で蒸されたみたいになっていたのであまり意味はなかったが幾分か気持ちが楽になる。
 掃除を終えた解放感とリストバンドがくれる心地よさに浸っていると、不意に背後からコツコツと靴音が聞こえてきた。防音加工がされた歌声をかき分けるように大きくなってくる靴音に、また接客をしなくてはいけないという意識が湧き出してげんなりしてしまう。床を掃除したばかりなのも伝えなければならない。「いらっしゃいませ」に続く文章を頭の中で構成してから笑顔を無理やり作る。口角が上がっている感じがあまりしなかったから、きっと気持ち悪い表情になっていることだろう。
 振り返ると同時に会釈をすると、蝶があしらわれたブレスレットが一瞬視界に飛び込んできて生唾が口いっぱいに広がった。それをごくりと飲み込んでから吃るように挨拶をしてから顔を上げると、やはりそこには〝ミャーちゃん〟が立っていた。
「こ、こちらお足元が滑りやすくなっていますので気をつけてください」
「あ、は〜い」
 ミャーちゃんはスマホに夢中で僕のことなんか気に留めない。ミャーちゃんにとっては店員の一人に過ぎないだろうし、僕が一方的に知っているだけなんだから仕方がないけど目が合わないのはやっぱり少し悲しい。緑色のタイトなショートワンピースからすらっと伸びるミャーちゃんの綺麗な脚が五◯四号室に入っていくのを見送った。今日も誰かと待ち合わせなのだろうか。友達とは先週遊んでいたとはず、などと考えてはみるものの未だにミャーちゃんの名前すら知らない僕に推測することなんて不可能だった。
 ミャーちゃんを知ってかれこれ二年くらいになる。真面目に大学に通っていた頃にキャンパスで見かけたのが一方的な馴れ初めだった。違う学科のミャーちゃんがうちの学科に所属している男と話しているのを見かけることがあった。そのときミャーちゃんの顔と脚に惹かれたのだ。綺麗な顔と脚を「あの」という代名詞で括ってしまって思いを馳せるのは何だか無粋な気がしたから、ミャーの由来は何も知らなかったけれど、そこで呼ばれていたのに倣って僕もミャーちゃんと呼ぶことにしている。
 ミャーちゃんを見かける度に出会った時のことを思い出してしまう。異性に対して変な感情を抱いてしまうのは僕にとっては珍しいことではなかったけれど、最近は推しと呼べるような人を更新できていないこともあってインスタントスパークルを訪れてくれるミャーちゃんを必要以上に意識してしまっている節があるのかもしれない。
 脳裏に残り続けるミャーちゃんの脚を思い起こしながら、消毒液で濡れた廊下を雑巾で乾拭きしていると再び靴音が聞こえてきた。空気が読めないなと思いながら音源の方を向いてみるが、従業員用の制服が見えたので僕は安心して作業に戻る。
 廊下を拭く僕に近づいてきたのは先輩の高木だった。
 金髪に浅黒い肌、耳にはピアスといかにもな風貌でミュージシャンを目指しているらしい。バイトを始めた頃の自己紹介で聞かされた。だけど、どんな音楽をやっているのかは知らないし高木の名前に関しても僕は知らなかった。
 しかし、ミャーちゃんのフルネームを知らないのとは訳が違って、名前が「悠生」という漢字で表されているのは名札からわかっている。ただその読み方が素直に「ゆうき」と読むのか、はたまた「ゆうせい」や「ひさお」といった読み方をするのかはわからなかったから苗字だけをとりあえず覚えることにしていた。
「おっ、瑞人じゃん。何してんの」
 話しかけてくるとは思わなかった。見ればわかるだろと言いたいところだが、そんなことを言ってしまえば無法者になってしまう。ミャーちゃんも近くにいることだし、変な店員が働いていると思われてしまうのはよろしくない。だから努めて自然な表情を意識して高木の相手をしてやることにする。
「お客さんの嘔吐物を」
「嘔吐物? あー、ゲロか。ゲロ掃除とかマジおつかれじゃん」
「い、いえ。別に大したことでは」
「大したことっしょ。俺なら店長とかにやらせるわ」
 返答に困ってしまって「はあ」と適当に相槌を打つと高木は「ま、がんばれ」とヘラヘラ笑いながら去っていった。別に悪い奴ではないと思うがどうしても好きにはなれない。たぶん高木が掃除をしないから僕の方に仕事が回ってきてしまうのだ。同じバイトのはずなのにヒエラルキーを感じてしまう。なんだか大学にいるような有象無象たちと対面しているようでざわざわするものがあった。
 掃除に戻りつつも何か注文でも入ったのだろうかと高木の行先を気にかけていると、高木はミャーちゃんが入った五◯四号室に入っていった。注文のなら室内のタブレットか壁にかけられた電話のようなものでできるはずなのになどと考えていると段々と嫌な考えが頭の中を巡ってしまったので、僕は部屋の扉に近づいて室内の会話を聞くことにした。
 しばらくは普通の会話が続いていたが、それは客と店員の関係の中で行われるにしてはあまりにもフランクな口調だった。しばらくすると室内の会話は聞こえなくなり、次第にミャーちゃんのよがるような声が防音加工されて聞こえてきた。とりあえずスマホで録音しようかとも思ったけれど、そんなところを店長に見られてしまっては給料を減らされてしまうかもしれないと冷静な判断が僕を躊躇わせたので大人しく廊下の乾拭きに戻る。
 窮屈なズボンの中を意識しながら掃除を続け、他の部屋での接客などもこなしているといつの間にか五◯四号室は空室になっていた。部屋に入ってみるといつもと違う匂いが漂っている気がして仕方がなかった。どれくらい二人がいたのかと時計を見てみると五十分くらいが経過している。これが長いのか短いのかは僕には想像もつかなかったけれど、高木のシフト終了の時間を過ぎていたから二回戦に向かって街に繰り出していたのかもしれない。
 部屋の中には飲みかけのコップが置かれっぱなしになっていたから仕方なく片付けることにした。
 どっちがミャーちゃんのものであろうかと見定めているとソファーの上に口が結ばれているコンドームがあるのを見つけた。中にはサラサラとした精液が入っている。見ず知らずの使用済みコンドームがあればこんな目の着く場所に置きっぱなしにしているとも考えにくいのでおそらく高木のものであろう。コップにしてもコンドームにしても自分が用意したものであるならきちんと片付けて欲しいものだが、わざわざ文句を言うのもめんどくさいので目の前の作業に徹するしかない。
 机やマイクの消毒をしていると、コップはどちらかわからないがコンドームに関しては確かにミャーちゃんの体内に入ったものだと妄想が頭を巡る。作業を一時中断してコンドームを手に取り表面を指でなぞってみると、まだ少ししっとりとしたものを纏っているような感じがした。
 誰かに見られているわけではなかったが思案するふりをした。
 そしてコンドームを舐めた。
 一度は落ち着いた股間のざわめきがぶり返しはしたものの人工的な甘い匂いと舌先を這う柔らかい確かな液体の感触が嫌悪感を誘う。抜くものを抜いてしまおうかと思った。けれど味のなくなった安いガムが喉に侵入してくるような感覚に耐えられなくて嘔吐してしまう。夕食は軽食に済ましたこともあってほとんど胃液だった。ピリピリとする食道を感じながら舌先に確かに得たはずのミャーちゃんを想うと虚しさだけ残る。
 作業に戻る気には到底なれなくてソファーに横になった。部屋に備え付けられた液晶モニターが広告を流し続けてうるさかったが、静かに明かりを灯し続ける蛍光灯が僕を慰めるようで甘えてしまう。これでは店長にどやされてしまうと嫌な未来が見えるが何もする気にはなれなかった。興奮が鎮まっていく頭で考える。
 金稼ぎの術はゲロを片付けることで、自分には関係のないコンドームを舐めてしまうような僕が生きている意味なんて果たしてあるのだろうか。

 家にたどり着いても店長の暴言が耳から離れない。吐いたことはバレなかったが五◯四号室の掃除に時間をかけすぎたのが気に入らなかったらしく罵詈雑言を浴びせられてしまった。たぶん出るところに出れば訴えることなどもできるのだろうけど、そんなことをしては最後っ屁に給料を無くされたりクビにされたりしてしまいそうなので逆らうことはやはりできない。行く末には暗い未来だけしか見出せないが何はともあれ自宅に着いたので肩の荷はとりあえず下りてくれる。
 一応の大学生という身分を条件に入居が許された古いアパートだが、僕以外の侵入は防いでくれるのでここ以上に落ち着ける場所はない。ただでさえ狭い部屋にベッドを置いているので窮屈な感じはしてならないが、風呂とトイレが別でキッチンには二口コンロもあるのでコインランドリーに行かなくては服が洗えないことに目をつぶれば比較的快適な住居なのだ。だからといってやることもないので、ここでは最低限の人間らしい行動しかしない。
 入居した時からあるボロ臭い収納からタオルを取り出し、ベッドに服を脱ぎ捨てて浴室に向かう。浴室に着いたところでリストバンドを外しタオルと一緒に百均で買った台の上に置く。すると手首にある醜く隆起したいくつかの傷跡がいつものように僕と目を合わせた。傷跡を少し撫でる。今日はどうしようか。少し考えてから洗面台に置いてあるうがい用のコップに立てかけられたカッターを手に取って浴室に入った。
 暖かいシャワーを軽く浴びてから風呂椅子に座り覚悟を決める。覚悟というよりもやる気を湧き上がらせると言った方がニュアンス的に正しいのかもしれない。指の動きに合わせてカッターの刃がカチカチと小気味良い音を立てて伸びる。伸びた刃先を手首に導き、ゆっくりと力を込めて這わせた。すると痒みに似た感覚が刃の動きに沿って手首を伝い、じんわりと熱くなってから次第に痛みが現れる。痛みに移り変わるまでは気持ちよさがあるけれど、変わりきってから感じることは特にない。ただ、流れ出る血液を見てこんな自分でも生きているんだなという安心感と嫌悪感が混じった不思議な気持ちに包まれる。嫌悪感に身を任せてもっと深く刃を案内しても良いのだが、これ以上は痛みが勝って気持ち良くなれない。
 しばらくぼうっとしながら排水溝に飲まれていく血液を眺める。自分がふさわしい場所に吸い込まれていく感じがするその光景が好きだった。もっと血液を流すために横ではなく、肘窩から手首にかけて縦に切ってみようかとは常々思っているのだがそこまでの覚悟はいつも決まらなかった。死んでもいいと思いながら死を恐れて意気地なしになっているだけだと考えてしまうとこんな時にまでネガティブになってしまうので、本能が理性を邪魔しているだけなのだと自分に言い聞かせる。
 こんなことを考えてしまうのであればバイト先からコンドームを持って帰ってきたらよかった。また吐いてしまうことになるだろうけど、余計なことを考えずに快楽に集中できたかもしれない。余計な思考ばかりが働いてせっかくの流血鑑賞が楽しめなくなってきてしまった。今日はいつもより短い時間だったから明日に続きをしても大丈夫なはずだ。またバイト帰りすればスッキリすることができるだろう。
 浴室の外からリストバンドを取って応急処置にも満たない止血をしてから、シャンプーを髪の毛で泡立てる。目に泡が入って感じる痛みは嫌いなので瞼にしっかりと力を込めた。しばらく洗髪をしていると足先で水かさが増しているのを感じる。泡をある程度流してから髪をかき上げて目を開けると排水溝が仕事を放棄していることが見てとれた。まだ流れ切っていなかった血液が広がり所々にコントラストが生まれている。これはこれでいい気はしたが留まり続ける血液には価値を感じられなかった。
 億劫ではあったが明日のためにも掃除はしておかなければならない。排水溝のカバーに手を掛けると、指先に小さな気泡が当たったので髪の毛や埃が詰まっているのだと高を括る。
 しかし、カバーを外して見えたのはゴミ受けに張っている膜のようなもので中心から気泡がぷくぷくと上がっていた。ためらいもあったが除去しないと血液が未練がましく留まってしまうので膜を剥がすしかない。膜に指を刺しゴミ受けの円周に沿って動かすとクラゲを触っているような弾力はあったもののすんなりと僕の指に合わせて破れてくれる。
 破れた隙間から水が流れ始め排水溝が仕事を再開したことを確認することができたので、膜を手に取ってみると血液が溶け込んだ水の中から現れたとは思えないほど綺麗な白色をしていた。膜はぬるぬるとしていて見た目からは想像できなかった厚みがあるものだから手のひらから滑り落ちてしまいそうになる。
 ぬるぬるしているということはカビなのかもしれないが、こんな風に膜を張るような種類というのは聞いたことがない。たしかに最近水の流れが緩やかになってきているとは思っていたが、昨日の今日でここまで顕著な変化をもたらすとは凄まじい繁殖力だ。こんなものが一体どこからやってきたというのだろう。何もないところに突如として姿を現すカビというものが昔から不思議でしょうがなかった。この厚みに何か秘密が詰まっているのだろうかと変な好奇心が湧いてきて、純白の膜の中央に爪を軽く立ててみると中から水が溢れてきた。それはシャワーから流れ出たお湯ではなく、テレビで見たことがあるヌタウナギが身を守る際に出す粘液のようだった。
 指の間で糸を引くのが何だか楽しい。
 シャワーを流しながら粘液を薄めて処理をすると排水溝に問題なく飲み込まれていってくれた。僕の血液もこの粘液と同種なのだと思えてきて何だか心地よかった。あとはこの膜の部分をどう処理しようかと悩みながら観察していると膜の中に親指くらいの大きさをした塊があることに気がつく。何かの器官なのかと思って目を凝らしてみると僅かに動いていた。切った腕に合わせて震えていたという小刻みなものではなく、まるで呼吸でもしているかのような緩慢な動き。
 あまりにも安らかな動きで胎動とはこのような動きを指すのではないかと思えた。
 これがカビの一種なら呼吸をすること自体には何の疑問もない。しかし、ここまで明確に生命力の溢れる呼吸をするカビが存在するならばヌタウナギなんかよりも先に名前が出てきているはずだ。
 新種なのか、あるいは突然変異なのか。
 いずれにしても得体の知れない生物と対峙しているのが気味悪かった。それに、何にもないところから現れた存在が見せつけるように息吹いているのが気に入らない。塊を摘んで徐々に力を入れる。ピクピクと暴れるように指に跳ね返ってくる感触が伝わってきた。相手は得体の知れないものだからと大義を得たつもりであったのに、黒カビにスプレーを吹きかける時には決して感じることのない確かな罪悪感と恐怖が僕を侵蝕していく。
 結局、それには耐えられなくて塊から指を離して手のひらに膜を広げるしかなかった。中の粘液はほとんど流れ出ていったからもう滑り落ちてしまいそうな不安定さは感じない。手のひらの上ではゆったりとした呼吸が再開していて安堵するが、同時に得体の知れない生物に対する嫌悪感とそれを殺す残忍さすらも持ち合わせていない自分自身に嫌悪感もあった。排水溝に流れていく血液を見ている感覚に近いものがある。ともすれば、嫌悪感を奮い立たせることもできない。
 殺すことができないのであれば死ねない僕ように生かしてやるしかないが、カビを飼育しようなんて当然考えたことがなかったから見当もつかない。
 とりあえずカビを手のひらに乗せたまま浴室を出た。体をろくに拭いていないので床が水浸しになっているが、カビから粘液の名残が垂れていたので特に気にならなかった。とはいえ寝床を汚すのは少し気が引けたので、キッチンのワークトップに置いてからスマホを手に取った。「カビ 好むもの」で検索をかけるとカビ発生防止の看板を掲げたホームページがいくつか出てきた。まったく逆の目的で使わせてもらいますよ、なんて楽しくなりながら調べていると、石鹸カスや垢といった浴室に自然にあるものの他にアミノ酸や糖分などを好むのだという情報がヒットする。なるほど食パンが黴びるのはこのためかと納得はするものの、パンが家にないことを思い出す。コンビニに行けばすぐに手に入るだろうが一応風呂上がりなので外に出るのは躊躇われた。
 何か代わりになるものはないかと冷蔵庫を開けてみると、一昨日に買って結局食べなかったカットパイナップルがあった。パイナップルの成分がカビにどのように働くのか何一つとして知識がなかったが、画像検索で「パイナップル カビ」と調べると該当するものがいくつか出てきたので、深いことを考えることなくパイナップルの待つプラスチックの容器にカビを入れることにした。カビが白いこともあって見た目は給食に出てくるフルーツポンチのようだ。
 ここにアミノ酸を追加した方が良いのだろうか。とはいっても糖分のように思い浮かぶものが何もない。仕方がないので僕はリストバンドを絞って血を与えることにした。血液中にアミノ酸が含まれるのかは知らないが垢を好むくらいなので血だって何らかの役には立つかもしれない。露わになった傷は生傷そのものであったが流れ出る赤色はすでに止まっていた。こうして見ると生かされている感じがして人間の自己治癒力が疎ましくてたまらない。力一杯リストバンドを握りしめて血液を出し切る。
 カビを生かすためにできることは全てやった。この後に生きるか死ぬかはこいつ次第だ。しかし、生きてほしいと思った。死ぬところを見たくなかったからだ。僕が生かされているようにお前も生かしてやる、と考えたところでカビと自分を重ね合わせているようだと気づく。そんな自分に嫌気が差したが、だからといってカビを殺してしまおうとはやはり思えなかった。

 2

 奇妙な音が不規則に鳴り続けるのに気がついて目が覚めた。どこか懐かしいような感じのする音だがどこで聞いたのかは思い出せない。寝ぼけ眼でスマホを見ると十時半を示している。大学生らしい時間に目を覚ましたのは久しぶりだった。
 こんな時間に目を覚ましていては頭が回らなくても仕方がない。二度寝をしたいところではあるが今も鳴り続けている音の原因を突き止めなければ叶わないので重たい体を起こす。あくびをしながら部屋を見渡してみるとどうやらキッチンの方に音源があるらしいことがわかった。ベッドから這い出てよろけながらもそちらに向かう。
 すると、寝ぼけ眼でも音源を見つけることはできた。昨日のカビを入れたプラスチックの容器である。この数時間で化学反応でも起きたのであろうか。音源はわかっても未だに音の正体まではわからない。容器を手に取って観察してみることにする。
 寝起きの目には優しくないパイナップルの黄色に目を瞑りたくなるが、妙なものを視界に捉えて釘付けにさせられてしまった。
 容器の下部には色鮮やかな黄色が映えているが、カビの膜が半分ほど侵食して二層になっていて色の褪めた絨毯みたいになっている。その絨毯の上を全身真っ白な小さい人の形をしたものがソワソワと歩いていた。頭から足までの全長は親指ほどあるかどうか。あの塊から出てきたのだろうか。小さなそれは容器の端に辿り着くと腕で押すように叩いている。音の正体が明らかになったと同時に虫籠に捉えられた昆虫が動き回っているような音だと思った。
 覗き込んで観察していると今度は僕の方へ歩いてきて小さな双眸と目があった。よくよく観察してみると、小さな子どもが遊んでいるような人形のような造形で可愛らしさも感じられなくもない。立ち止まってしばらく何かを考えているようであったが、突然走り出すと容器にぶつかって転んでしまう。しかし、すぐに立ち上がって僕に手を伸ばしてきた。自身を包んでいた組織が剥がれ切っておらず服のようになったものを揺らしている。その組織が頭部と思しき箇所にもあったので一見して小さな女の子のようでもあるなと思った。手を伸ばすその様から必死さが確かに伝わってくるものの蓋を開けてやるのは少し躊躇ってしまう。
 容器を一度置いてみるが予想だにしない展開を噛み砕くことができずに頭が痛くなってくる。この生物は一体何なのだろう。新種や突然変異という言葉の範疇を超えているものな気がする。非科学的な結論だと決めつけてしまいたくはないが他の考えが浮かばない。昨夜の気味悪さがぶり返してきた。
 こんがらがってしまった頭を落ち着けたくてテレビをつけてみると『アンパンマン』が流れた。お堅いニュースや情報番組を見ていては落ち着けないだろうとチャンネルをそこに固定する。ちょうど〝かびるんるん〟が出てきた。このくらいディフォルメされたものであったら、すんなりと受け入れることができていただろうか。よくよく考えればメインキャラクターは胴体のあるパンだし、敵キャラは科学技術を身につけた雑菌だ。そんなものを多くの子どもたちが受け入れている作品として成立させたやなせたかしはすごい人なのかもしれない。
 現実逃避もこのくらいにしておかなければとプラスチックの容器の生物と向き合う覚悟を決める。緩衝材のような働きをしてほしくてカビのことはルンルンと呼ぶことにした。
 容器を再び視界に捉えてみるもののルンルンは相変わらず僕に向かってひたすらに手を伸ばしていた。何を考えているかはわからない。けれど、同情にも似たような感情が次第に湧いてきて、蓋を開けて触れ合ってやるべきなのかもしれないと思えてきた。音にびっくりしてはいけないからとそっと蓋を開けてみる。しかし、ルンルンはその変化に気がついていないようで僕だけをじっと見つめているだけだった。
 人差し指だけを伸ばして頭を恐る恐る撫ででみるが我関せずといった感じ。
 意識というものがないのか、蚕でも触っているかのような落ち着きっぷりである。何かコミュニケーションを取れないかと考えて、パイナップルを指で掬って口元に運んでみる。しばらく警戒しているように振る舞っていたが、匂いを嗅ぐような仕草を見せたかと思うとパッと笑顔のような感情を作ってパクパクと食べ始めた。相変わらず得体の知らない生物ということもあって気味悪さも感じていたが、可愛らしさも同時に感じられてきて不思議な気分になってくる。野良犬や野良猫と出会って可愛らしいと思っても、同時にダニだったり病気だったりを媒介していないかと思ってしまうような気分だった。
 しかし、その可愛らしさには抗えなかった。手のひらに乗せてみる。すると、落ちてしまう危険性を感じ取ったようで少しだけあたふたとしていたが、僕の腕によじ登ってリストバンドにしがみついてきた。何を考えているのかは汲み取れなかったが、しばらく観察しているとリストバンドを匂い始めてちゅうちゅうと吸い始める。なぜそんなことをするのかと考えてみると思い当たるのは血液が滲んでいることだった。やはりアミノ酸代わりに与えてやったのが正解だったのだろうか。
「ルンルン」
 勝手に名付けた名前を不意に呼んでみる。当然返事なんてしなかったが、呼びかけに合わせて僕の顔をじっと見つめてきた。そして小首をかしげるような仕草をして見せるルンルン。どうやら聴覚はあり、自分に呼びかけられているということは認識しているらしい。「あー」というような言葉にならないようなことを発声して手を伸ばしてくるが、その際にリストバンドから落ちかけてしまって慌てて掴んでやる。それでも暴れるような様子は見て取れなかったのでそっと容器の中に戻してやった。すると、ルンルンはゲージの中に入れられてしまった子犬のように動き回る。どうやらリストバンドを気に入っているらしく両手を伸ばして求めているように見えた。しかし、僕としても外して与えてしまうわけにもいかない。さて、どうしたものかと考えていると血液の成分に反応しているのかもしれないと思ってカッターを取りに行った。
 指先を切って血液をルンルンに与えてやる。躊躇いはなかった。赤い鮮血が白い体に包み込むように垂れていってしまって、少し心配になってしまったが特に気にしていない様子で吸い付いてきたので胸を撫で下ろす。指先を切ったにも関わらず痛みはそんなに感じなかった。むしろルンルンの舌先の感触がくすぐったくて気持ちよかった。得体の知らない生き物にここまで接触してしまう危険性は感じていたが、一心不乱に指先を吸い続けるルンルンを見ているとそんなことはどうでもよく思えてきた。
 元はカビだからこんなことをしなくても本当はいいのかもしれない。だけど、こうしてルンルンを見ていると僕が生かしてやっているという確かな感覚が芽生えてきた。初めて僕の血液が有意義に働いているように思えてくる。僕が生きていく術なんていくらでもあるのだろうけれど、ルンルンは僕がこうして世話をしてやらないといけないのだ。捕まえられた昆虫に待ち受けているような運命にあるとも思えてくるが自然界に生きていることが必ずしも幸せにつながるとは限らない。こうして世話をしてやることがルンルンのためになるに違いないのだと頭の中で反芻する。
 相変わらず指を吸い続けるルンルン。その様子がどうしようもなく可愛らしく思えてきてスマホで写真を撮ることにした。特に気に留めていないようで大きく動くこともなかったからブレずに綺麗な写真が何枚か撮れる。変に警戒をさせてしまってもかわいそうだと思って正面からは撮らなかったがそれでも十分満足がいく成果を上げることができた。自然と口角が上がってくるのを感じる。久しぶりに感じた自分の純然たる感情のようにも思える。
 できることならこうして血液を与え続けていたいという庇護欲が湧いてきたところで、今日のバイトはどうしようかと変な冷静さが問いかけてきた。言い訳をすれば休むことはできるはずだ。しかし、金がなければルンルンを養っていくことも難しくなっていくに違いない。ならば下手に店長の反感を買うようなことをするもの気が引けた。
 しかし、ルンルンは僕がいなくても平気だろうか。
 この小さな生き物が僕なしに過ごしていくのがどうしても想像することができない。だからといって誰かに頼んで代わりに世話をしてもらう気にはなれなかったし、そもそも僕にはそんな人はいなかった。どうしようかと考えてティッシュに血を染み込ませて与えてみるとそれでも満足はしてくれているようだった。
 夕方になれば家を出なければならない。その場しのぎのような対処しかできなくて嫌になってしまうが他に術はないように思える。もちろん大学に行くなんて選択肢はなかったから、バイトまでの数時間を僕はルンルンを見守り続けることにした。時折、言葉をかけてみる。理解をしているのかはわからないけど、その都度小首を傾げる仕草を見せてきたので飽きなかった。

 相変わらず歌声が漏れている廊下で、特にやることもなかったのでモップがけをしているふりをして時間を潰していた。今日は年配の客が二次会か何かで盛り上がっているらしい。テレビで「あの時流行った曲」として特集されているような不思議と懐かしく感じる曲がよく聞こえてくる。酒なんかも持ち込んでいるらしくて注文もほとんど入らなかったから楽でよかったのだが、手持ち無沙汰に拍車をかけて退屈でしょうがなかった。
 周りを見回してみる。人の気配は特にない。誰かがやってこないか最低限の警戒をしながら、僕はスマホを取り出してルンルンの写真を開いた。写り込んでいる鮮血が自分を見ろと主張してきた。自分の血なんて言うまでもなく見慣れていたけれど、ルンルンの一生懸命さが切り取られていたのでグロテスクだとは思わなかった。写真の中のルンルンに目を奪われるばかりだった。ルンルンは今も僕の部屋でプラスチックの容器の中に入っている。
 一人で大丈夫だろうか。寂しがってはいないだろうか。
 意思疎通もとれていなかったから子犬を残して外出したような不安があった。写真のルンルンに触れる。ちょっとした動きにスマホが反応して画面が切り替わってしまいそうになるが、左右どちらに動いてもルンルンの写真が表示されるだけだったので特に気にしなかった。
「また掃除してんじゃん。ようやるわ」
 背後から聞こえてきたのは高木の声だった。急いでスマホを背後に隠す。意識の外からの呼びかけに焦ってしまっていたのもあって、変な間を作ってから「どうも」と返事をしてから振り返った。その間は気にしていなかったようだが、咄嗟に隠したスマホの方が高木は気になったらしく覗き込むような視線を送ってきた。
「なに、スマホいじってるなんて珍しいじゃん」
「す、すみません」
「気にすることないって。俺も人に説教できるような感じじゃないしさ。彼女でもできた?」
「そんなんじゃないですよ」
 高木の問いに冷静な声色で返したつもりだったが、それが逆に興味をそそってしまったのか「隠す必要ないじゃん」としつこく絡まれることになってしまった。店が暇ということもあってこの場を離れる言い訳をして立ち去ることもできない。めんどくさいなとは思った。きっとこの感情を素直にぶつけても高木は怒らないような気はするが今後の出勤のモチベーションに関わるような行動は取りたくないので適当に合わせるしかない。
「でも、女っ気のなかったお前になぁ。ここはいっちょ先輩として女との付き合い方を教えてやんべ」
 失礼なことを言われてしまったが事実であることに違いはないのでイラつきはしなかった。これが陽キャかと自分との違いをひしひしと感じていると「着いてこいよ」と高木が言ってきた。一体どこに連れていくつもりなのだろう。いくら暇だとは言えども堂々とサボっているところを見られてしまったら説教は確定だ。ルンルンが気になるので今日はさっさと帰りたい。だからそんなリスクを背負いたくはないが、断り方を見出すこともできなかった。言われたままについていくことしかできない自分がなんとも情けなかった。
 高木に連れていかれたのは四一二号室だった。ここは確か空き部屋のはずだが、だからといって店員が好き勝手使っていいというわけにはならない。
「勝手に部屋使うのはヤバくないですか」
「大丈夫だって。知り合い呼ぶっつって部屋押さえてるから」
 どうしてそこまでのことができるのだろうと至極真っ当な疑問がよぎる。しかし、どんな理由があったとしてもきっと僕には同じようにはできないだろう。ここまで黙ってついてきてしまっているのが何よりも証拠になるだろう。
 高木が扉を開ける。仕方なく付き従っていたが、部屋の全容が視界に入ると背筋がまっすぐ伸び切ってしまうのを感じた。
 部屋にはミャーちゃんがいた。いつも通り蝶のブレスレットをつけていて、今日はミニスカートから足をのぞかせている。
「え、えっと」
「俺の〝これ〟よ」
 言い淀む僕に高木は小指を立てて見せた。そんなことは想像がついていたが、面と向かって合わせられるなんて思ってもみなかったことなのでドギマギしてしまう。高木がミャーちゃんに僕を紹介する。「はじめまして〜」なんてテンプレ通りの挨拶が飛んできて、やっぱり認識されていなかったのだと理解した。しかし、虚しさは激しい鼓動にかき消されていく。
「こいつさ、初めて女ができたっぽいのよ」
「え〜、そうなんだ。おめでと〜」
 ミャーちゃんが僕に話しかけてきた。信じがたい事実が間違いの訂正なんてどうでも良く思わせてきて何も言うことができなかった。
「でさ、初めてってことは右も左もわかんないわけじゃん」
「そうなの?」
「そうに決まってんじゃん。だから直々に教えてやろうと思ってさ」
 不名誉極まりない発言も今は気にならない。高木がいても夢心地な空間であることには変わりがなかった。それにしても教えてやるとは一体何をするつもりなのだろう。
 ひたすらに受け身になるしかない僕をよそに二人は肩を寄せ始めた。高木がミャーちゃんの胸に手を伸ばして揉み始める。そしてお互いに見つめ合うと舌を絡めてキスをし始めた。ミャーちゃんに抱いていたのは好意と呼べるものではないので別に何をされたって構わない。だけど、妙な心のざわめきがあった。それにも関わらず僕のモノは反応してしまっている。
 教えてやると豪語していたのはこんなことなのかと蔑みにも似た感情が湧き上がってきた。変なプレイに付き合わされるのであれば早いところ退室してしまいたい。しかし、スカートの中に手を入れられているミャーちゃんから目を離すことができなかった。いつか脳内で作り出したものなんかよりもずっと艶めかしい表情だった。股間は痛いほどそそり立っていたが、ミャーちゃんが僕なんかの前でこんな姿を晒しているという事実は複雑だった。
 ふと、ルンルンの姿が頭によぎる。こんなことをしている間にもあの容器の中で歩き回っているかもしれない。ここでミャーちゃんたちの行為を見届けたところでルンルンのためになることは何もないだろう。時計を見ると僕のシフトがもうすぐ終わることを告げていた。
 ミャーちゃんたちは本番を始めようとしているところだった。高木に脱がされたミャーちゃんのパンツが床に落ちていた。ピンクだった。名残惜しさを感じてしまう自分が本当に嫌になってしまうが自己嫌悪に浸るのは後でいい。
「すみません。これ以上はお邪魔になってしまうでしょうから」
 引き止められてしまったらどうしようという不安はあったが杞憂だった。獣のような激しい息遣いをしている高木は思考が単純になってしまっているようで、「そうか」と短く答えるだけだった。結局、なんで僕に情事を見せつけてきたのだろう。そんな趣味だというならミャーちゃんが少しかわいそうだと思うけど、拒む様子も見せていなかったから何が何だかよくわからない。一応、二人に頭を下げてから部屋を出た。僕の股間はすっかりと萎えていた。
 嬌声が漏れ出す扉を背にスマホを開く。写真のアプリを開いたままだったのでルンルンとすぐに目が合った。頬が綻んでいくのを感じる。こんな僕をも微笑ませてしまうルンルンの可愛らしさは凄まじい。帰りにお土産を買ってやることにしよう。何が一番喜んでくれるだろう。スマホの時計が帰宅の許可を出していたのでスタッフルームに向かうことにした。
「おい、木下! 仕事中にスマホ触ってるなんていい覚悟してんじゃねぇか」
 背筋から凍りつくような感覚が全身に広がる。迂闊だったと後悔しても遅い。恐る恐る振り向くと店長が立っていた。高木から逃れられたことに安心して気を抜いていまっていたのかもしれない。
「すみません。でも、もう上がりの時間なので」
「んなこと関係ねえよ。触っていい理由にならないだろうが」
 肉食獣に相見えたような圧が降り注ぐ。どんな言い訳も通じないような気がして頭を下げることしかできなかった。
「お客さんのために動いての店員だろ」
「すみません」
「この後もお客さんの予約入ってるんだわ。ちゃんと接客やっとけよ」
 いつも通りの「はい」という返事が喉を通りそうになった。だけど、このまま帰ってしまってはルンルンを待たせてしまうことになってしまう。
 それだけはダメだと思った。
「でも、もう上がりなので」
 初めて反抗した。そんな僕の勇気を身体は予想だにしていなかったようで心音が激しくなってくる。痛いくらいの変調に吐きそうになってしまう。だけど無理を通してでも振り切ってしまわなければならないと思った。
 見る見るうちに不機嫌な感情が露わになっていく店長。また怒号を飛ばされてしまうかもしれない。でもそんなことにされてしまえばイニシアチブを握られてしまうことになってしまう気がしたので、何とか鞭打って自分を奮い立たせる。
「仕事なら他の人に頼んでくださいよ。部屋の中に高木先輩いるんでそっちに頼めばいいじゃないですか」
 それだけ言ってスタッフルームに走る。言い逃げだった。背後から店長の罵声が飛んでくる。不機嫌さが嫌というほど伝わってきた。明日からの仕事に支障が出てしまうかもしれない。けれど、今はそんなことどうでも良いように思えた。
 脳裏に僕の指を吸ってくれているルンルンの姿がよぎった。
 そうだ。今の僕にはルンルンがいる。
 それならば何とかしていけるという万能感が湧き上がってきた。そんなものは仮初めに違いないというリアリズムな思考が後ろ指を指してくる。店長の怒号がそれに説得力を持たせるようだけれど、今更引き返す度胸なんてものは当然持ち合わせていない。
 店長と心音のうるさい主張を無視する以外の選択肢は持ち合わせていなかった。

 ただただ逃げるように家まで足を動かした。それでもルンルンのことだけは頭から離れなかったので途中でコンビニに寄って食パンは買った。見慣れた扉を前にしてようやく呼吸が落ち着いていく。ここまで来たならば待ち受けているのは平穏だけだ。
 鍵を開けて扉に手を掛ける。自分の部屋の匂いが鼻腔をくすぐってアドレナリンが引いていくのを感じた。いつも通りの光景が僕を出迎えている。呼吸も心音も落ち着いてはいたけれど、深呼吸をしっかりとしてもっと奥深くにあるものを落ち着かせた。
 靴を脱いで家に上がる。廊下を歩いているとテレビの音が聞こえてきた。点けっぱなしにしてしまっていたようだ。ルンルンのストレスになっていないと良いが。
 慌ててキッチンに向かう。相変わらず容器の中にいるルンルンが出迎えてくれる。
 はずだった。
 ワークトップに置いていた容器が横倒しになっている。ドロドロになったパイナップルがシンクに往生際が悪いように垂れていた。ルンルンの姿がそこにはない。
 どこに行ってしまったのだろう。どうして出ることができたのだろう。
 まとまらない思考が呼吸を再び乱れさせる。ルンルンの存在を知っているのは僕だけなのだから捜索願いなんて出せやしない。この部屋から出て行ってしまったのなら見つけ出すことなんて僕には到底できないやしないのだ。涙が視界を滲ませる。湧き上がってくる喪失感はとてつもなくて、気がつけばコンビニの袋を包丁を持ち替えていた。リストバンドを投げ捨てて左手首に這わせる。いつもとは違う切れ味を見極めることがなくて痛みを伴った血液が止めどなく溢れ出る。
 こんなすぐに別れが訪れてしまうのなら、これまでのことが夢だったら良いのと思った。ルンルンとなんて出会っていなくて、ミャーちゃんのあられもない姿なんて見ていなくって。けれど、手首を包むような熱い痛みと幻肢痛のように思い返されたルンルンの舌先の感触が現実だったのだと知らしめてきた。
 一世一代のつもりだった店長への足掻きも全て無駄だったのか。いくつもの失意が重なると右手に握っている包丁の重みがずっしりと感じられた。今なら死ねる気がする。順手から逆手に持ち替えて腹に向ける。
 腹を刺すのはやっぱり痛いのだろうか。切腹をした人間に介錯が施されたのは負担をなくして即死させてやるためだと聞いたことがある。けれど、その負担も一時的なものに過ぎないはずだ。あれこれ考えても仕方がない。手首を切るのと同じようにやればいいと刃先を腹にゆっくりとつけてみる。包丁に付着していた血が服に滲む。内側から滲ませるには覚悟が必要だった。深呼吸をする。もう少しだけ押し込むだけでいいのに本能が引き止めてくる。それでも今回は譲る気が起きなくて包丁を握り直した。
 気がつくと嫌な汗を顔にかいていた。汗が輪郭をなぞって顎から落ちたときに突き刺せばスムーズにいけるかもしれない。
 タイミングを測る。額から流れる汗がゆったりと流れる。頬骨を乗り越えると徐々にペースを上げた。顎先にねちっこい汗が溜まっていくのを感じる。重力に抵抗しているようであったが自然の摂理には敵わず呆気なく落ちていった。
 あとは刺すだけだ。
 しかし、すんでのところで手が止まってしまう。服に変な違和感があって邪魔をしてきたのだ。ずいずいと裾のところを引っ張られる感覚がした。振り返ってみる。
 すると、そこには小学生くらいの女の子がいた。白いワンピースのような出立ちで健康的な手足がすらりと伸びている。訴えかけるような眼差しを僕に向けてきていた。包丁についていた血が落ちて、床に出来上がっていた血溜まりに加わっているのに気がついて慌てて包丁をシンクに置いた。女の子はそんな僕を観察していたようだったけれど、床の血溜まりに気がつくと綺麗な手を浸した。波打つ様子を見つめていたかと思うと、不意に血のついた手を顔の前に持ってきてペロリと舐める。
「ちょっと」
 女の子の腕を掴んでやめさせる。不服そうな顔で抗議をしてきたが、僕の手首から床にあるものと同じものが流れているのに気がつくと目を輝かせた。
「あー、もっと!」
 鈴を振ったような声で血をせがんでくる女の子。左腕にしがみついてくるものだから、せっかくの白いワンピースに赤い染みが広がってしまっている。異様な光景だった。けれど、僕の家には昨日から異様なものがあったはずだ。早る気持ちが体を震わせる。
「ルンルン?」
「あーにー?」
 血を舐めようとして舌足らずになっている返事をしてきた。確認のつもりだったのに呼びかけとして捉えてられてしまって少し驚いてしまったけれど頬は次第に綻んだ。
「まだ飲みたい?」
「うん!」
「ここじゃ汚れちゃうからお風呂場に行こっか」
 猫撫で声なんて初めて出した気がする。僕にとっては聞くに耐えないものだったけど、ルンルンはそれでも喜んでくれているようだった。浴室に向かうとスキップをするような足取りでついてくる。
 それにしてもバイトに行っていたわずかな時間でここまで大きくなっているなんて成長速度が凄まじい。体だけじゃない。言語能力も目に見えて発達している。この子は一体何者なのだろう。
 浴室に着くと血の流れは緩やかになっていた。カッターを手に取るものの包丁で切ったところをなぞるのは少し怖かったので、少し位置をずらして手首に傷をつけた。ルンルンをバスチェアに座らせて腕を差し出してやる。すると、わかりやすくご機嫌になって手首の傷を口で覆った。
 ルンルンにはしっかりと歯が生えているのだと気づく。しかし、歯を立ててはこなくて、あくまで吸うことに徹していた。動く舌先の感触がくすぐったい。傷口を舌が這うと多少の痛みもあったけれど不思議と気持ちよさも介在していて止める気にはならない。
 ルンルンは口の周りを唾液で濡らしていて夢中になっているのが見てとれた。こんな僕の血液で喜んでくれるのはやっぱり嬉しい。
「ねえ、ルンルンはどこから来たの?」
 満足そうに食事をするルンルンの邪魔をするのは心苦しかったけど、手持ち無沙汰であったこともあって話しかけてしまった。孫と会話をしたがる祖父母の心情とはこんな感じなのだろうか。
「んー? わかんない」
 ごくりと音を立てて嚥下するルンルン。傷から口を離すと唾液が糸を引いた。一心不乱に吸っていたために呼吸することを忘れていたのか頬がうっすらと紅潮している。それを指で拭ってやろうとすると目を瞑って受け入れた。一つ一つの可愛らしい仕草が目を奪ってしょうがない。
「お父さんとかお母さんとかっていないの?」
「おとーさんとかおかーさんってなあに?」
「ううん。変なこと聞いてごめんね」
 ルンルンは小首を傾げていた。親という概念を知らないのか、あるいは存在しないのか。この様子だとルンルンの正体について知ることなどできそうにもない。まあ、そんなことは今更どうでもいいことだ。近縁種などでもわかればルンルンの世話をしやすくもなるだろうけど、言葉が通じるのであれば支障をきたすことも少ないだろう。
「喋るの上手だよね」
「おしえてくれたから」
「誰が?」
 教えられたという言葉に、実は群体生物で言葉を担当する存在がいるのだろうかなどと妄想する。けれどルンルンの答えは至極簡単なもので僕を「ん」と呼称し指差していた。教えるようなことをした記憶はない。容器の中にいたときに一方的に語りかけたり、テレビをつけっぱなしに出かけてしまったりと思い当たる節がないわけでもない。でも、それだけで文法や語彙を理解して自在に操っているというのは信じ難い。なんか僕の知らない要因があるのだろうか。
 思考を巡らせているとルンルンが僕のことをじっと見つめていることに気がついた。どうやら話しかけすぎたせいで、血液にありついて良いのか考えあぐねているようだ。「ごめんね」と謝って手首を差し出した。ルンルンから解放されて所在なくなっていた血液が滴り落ちている。ぱあっと表情が明るくなったルンルンは愛おしそうに流れる血を舌で迎え入れた。
「おいしい?」
「うん。やさしーあじだよ」
「そっか。じゃあもっと──」
 言葉を紡ごうとすると突然頭が重くなって足元がおぼつかなくなる。ルンルンに向かって倒れてしまってはいけないと急いで壁に手をついた。そのままゆっくり座り込んでしまって視点がルンルンと同じ高さになってしまう。そういえばキッチンにいた時から血を流しっぱなしだ。いつものなんちゃって止血も今日は行っていない。ルンルンが心配そうに覗き込んでくる。
「どーしたの?」
「ごめんね、血が出過ぎちゃったみたい」
「ルンルンのせい?」
「そんなわけないよ。でも、今日はもうあげられないかも」
 血を流す行為はいつも行っていることなのだからルンルンが気に病む必要なんて一ミリもない。このままあげ続けても良いのだが、僕の死がルンルンにとってプラスに働いてくれるかはわからなかった。少なくともルンルンの世話をするために生き続ける選択をした方が安心していられる。
「血はダメだけど、パンを買ってきてるから後で食べさせてあげるね」
「……うん」
「パンもきっと美味しいから、ね?」
「あっ、そうだ!」
 寸前まで暗い表情だったのにルンルンは得意そうな顔をして見せた。何を思いついたのだろう。ぼんやりする頭でも上手くノってあげられるようなひらめきだといいけど。
 ルンルンはバスチェアから徐に立ち上がると浴槽の淵に置かれていたカッターを手に取った。そして、慣れない手つきで刃を伸ばして自分の手首に沿わせた。止める間も無かった。躊躇うことなく引かれたカッターが赤い線を描く。白い腕に伝う鮮血は一際美しく見えて精彩を放っていた。ルンルンが手首を僕にずいっと近づけてくる。痛みなんて感じていないような満面の笑みを浮かべていた。
「はい、あげるー」
「ダメだよ。手首切ったりしちゃ」
「なんで?」
「だって切っても気持ち良くないでしょ」
 説得の言葉にしてはあまりにも力を持たないものである自覚はあった。でも、僕にはこれくらいの理論しか作り出すことができない。僕はいいけどルンルンは駄目だといっても納得してくれないだろうし、納得してしまったとしたら上下関係を作り出すことに直結してしまいそうなのでそんな詭弁は用いたくなかった。
 ルンルンは僕の言葉を理解することに手間取っているようだった。僕の言葉なんていくらでも流してくれていいのに。まっすぐな心意気に胸が痛む。これ以上ルンルンを悩ませるのも嫌だったので、未だに伸ばされている手をとって口に近づけた。ルンルンの傷口に唇をつける。鉄っぽい匂いが鼻口をくすぐった。血の成分も人間に近いのかもしれない。恐る恐る舌を出して傷口をなぞるとルンルンは身をよじらせた。生傷を舐められると誰でもくすぐったくなってしまうものなのかもしれない。舌先から広がる血の味と匂いは決して良いものではなかった。
「おいしー?」
「ねぇ、こんなことをするのは最後にして」
「や」
「ルンルンの傷つくところなんて見たくないんだ。お願い」
 頭を振っていたルンルンだったが、僕が懇願すると難しそうな顔をしながらも受け入れてくれた。きっと、僕の涙が見えたからだろう。本当に優しい子だと思った。
 それと同時に危うさのようなものも感じた。ルンルンが生きていく上での基準は僕しかない。テレビなどで例外的に知識を得ることはあるだろうけれど、手首を切って見せたくらいだから正しいかどうかは僕を見倣って判断するかもしれない。僕がこの子の見本になってやらなければいけないのだ。
 ルンルンをそっと抱きしめた。優しい匂いがする。近づいてみると本当に小さい。守ってやらなければいけないという気持ちが湧き上がってきた。守り続ける大変さは容易に想像することができたけど、この子のために生きることはきっと幸せなのだろうと妙な確信がある。
「ありがとね、ルンルン」
 小首を傾げるルンルンを撫でる。サラサラとしている髪をいつまでも撫で続けていた。

 3

 ルンルンの世話をし始めてからというもの時間の流れが早くなったような感じがして仕方がなかった。相変わらずルンルンの成長速度は凄まじくて、一週間も経たないうちに高校生くらいの背丈になっている。モデルのようにすらっとしている風貌には無駄がなくて本当に綺麗なプロポーションだ。
 出会っていた時から着ていた体を覆っているワンピースのようなものも、やはり組織の一部のようで体の成長に合わせて大きくなっている。血で汚れてしまっていた染みも気がつけば綺麗になっているという便利な機能付きだった。顔立ちも整っているので色々着せてやりたかったけれど、成長速度に合わせて服を買っていてはとんでもない出費になりそうだったので手を出せなかった。けれど、ワンピース姿がルンルンらしい感じがするからこのままでもいいような気もする。
「ただいま」
「おかえりー。晩御飯なに買ってきたの?」
「コンビニ弁当だよ」
 出先から帰っただけの僕をルンルンが笑顔で出迎えてくれる。言語能力に関しても成長が凄まじくて日常会話程度ならそつなく話せるようになった。そんなルンルンが家にいてくれる日常が嬉しくて気付けば生活の中心となるものを得ることができている。
「今日もチンしなくていいの?」
「うーん、やっぱりあったかいものは食べたいって思えないかも」
「まあ、好みは人それぞれだから好きなように食べたらいいよ」
 背丈が大きくなっても中身の変化はそれほどでもない。子供っぽいところは健在で感情にリンクした表情がすぐに浮かんできた。
 向き合って座り、「いただきます」と声を揃えて同じコンビニ弁当を二人でつつく。冷たいご飯に割り箸を突き立て口に運ぶとルンルンは頬に手を当てるわざとらしいジェスチャーをして見せた。テレビで覚えたのだろうか。それにしてはまだ箸の持ち方がなっていないので締まらない感じになっている。毎月の微々たる仕送りとバイトでの稼ぎを切り崩して買い物をするしかないので、こんなものしか用意できないけれどルンルンが喜んでくれているのなら気にしすぎることもないかもしれない。
 ルンルンを見つめていると不意にチャイムが鳴った。無粋な音に感じたけれど、この音を招いたのはたぶん僕だ。ルンルンは初めて聞く音に戸惑っていたようだった。「大丈夫だからね」と声をかけてから財布を持って玄関の方へと向かった。
 ドアスコープを覗くと配達員が立っていた。ドアを開けて五千円を支払い荷物を受け取る。思ったよりも小さい段ボールに不安になってしまうけど、とりあえずネットの評価を信じるしかない。
 部屋に戻るとルンルンが不思議そうな表情で僕を見つめてきた。
「さっきの何の音?」
「荷物が届いたんだよ」
「荷物?」
 小首を傾げるルンルン。この仕草は大きくなっても変わらないのだなと思うと微笑ましかった。ルンルンがしげしげと興味深そうに段ボールを見つめていたので手渡してやった。しばらくは耳をつけてみたり、振ってみたりと原始的な確認の仕方をしていたけれど、段ボールのミシン目に気がつくとすぐに用途を察してガムテープを剥がし始めた。
 段ボールの中から緩衝材に包まれた箱が出てくる。注文したものが届いてくれたようで一安心だ。ルンルンは箱の方にもミシン目がついていないか探していたけど、見つけることができなくて緩衝材のプチプチを指で潰し始めていた。
「何が届いたの?」
「カメラだよ」
 箱を開けて実物をルンルンに見せてやる。届いたのはペットを見守るためのカメラだ。手に取ってみると小さい割にはレンズなどがしっかりしているように見えた。ただデザインは無機質な感じだ。ルンルンが怖がってしまわないかという懸念が注文する時からあったのだが、興味津々な様子を見る限り問題はなさそうだ。
「カメラって?」
「ここに映ったのをスマホで見ることができるんだ。これがあればバイト中でもルンルンの姿が見ることができるんだよ」
「ルンルンも?」
「いや、ルンルンは見れないね」
 言葉通り肩を落とすルンルン。心苦しくなってしまうけれど、僕の姿が見れないことにガッカリしてくれるのは嬉しく思ってしまう。
「でもね、このカメラは音声のやりとりができるんだ。バイトが暇な時になっちゃうけどお話しすることができるよ」
「ほんと!?」
 ルンルンがカメラを愛おしそうに抱きしめる。機嫌を直してくれたようで何よりだ。しかし、会話ができるというだけでここまで喜んでくれるのは寂しい思いをさせてしまっているからかもしれない。本当はスマホを買ってあげたかったけど、最近は中古のものでも値が張っているから手が届かなかった。
 できることならずっと一緒にいてあげたい。しかし、インスタントスパークルに連れていくのは気が引ける。高木を頼れば部屋の確保だってできるかもしれないけれど、ルンルンに変なことをされてしまう危険性を考えれば留守番させておくのがいいだろう。
 ルンルンは黙々と、しかし楽しそうに微笑みながら弁当を食べている。米を中心に口に運んでいた。やっぱり、糖質を含んだものが好きなんだろうか。じっと眺めているとルンルンの箸が止まった。
「どうしたの?」
「飽きてきちゃった」
「昨日もコンビニだったもんね。ごめんね」
「ううん。そうじゃなくって」
 僕の謝辞は気に留めていない様子でルンルンが四つん這いでゆっくりと近づいてきた。そして、僕の左手を掴むと口元に運ぶ。柔らかい唇が手の甲に当たる。
「血、飲みたい」
「血はお風呂の時って約束でしょ」
「少しだけでいいから〜」
 上目遣いで強請られてしまう。体が成長していくのに比例して可愛さも凄まじくなっている。だから絆されてしまうのも仕方がないのかもしれない。ルンルンと一緒に浴室に行くために立ち上がった。
 しかし、無粋なアラームが鳴り始めて阻まれる。スマホを見ると家を出なければいけない時間を示していた。
「ごめん、そろそろ行かないと」
「えー、血はー」
 今度は子供っぽく駄々をこねてくる。欲張りセットのような属性の移り変わりに悶えそうになってしまうけど、脳内で頭を振って何とか堪えた。正直、バイトを休んだって構わないのだが、世話をしていくためには必要なものがあるのが現実だ。家にいながらできるような仕事もなくはないだろうけれど、賃金は大きく減ってしまうことが目に見えている。
「帰ってきたら好きなだけあげるから」
「約束?」
「うん、死なない程度ならいくらでも」
「大丈夫。殺したりなんてしないよ」
 ルンルンは玲瓏な声で笑った。駄々をこねてはいたけれどバイトがあることを留意した上でのものだったのだとわかった。
 名残惜しいけれどバイトに向かう支度をする。どうせ制服に着替えるので服はこのままだが、財布とモバイルバッテリーを忘れるわけにはいかない。身支度はさっさと済ませてカメラとあらかじめ入れていたアプリの同期ができているか確認した。レンズの向きを変える挙動や、音声の具合なども問題ない様子だ。カメラ自体の電力は、と確認してみると電池のアイコン中に二つ緑の光が灯っているだけだった。内部バッテリーの残量が半分しかなかったらしい。確認しておいてよかった。箱に同封されていたコンセントを繋いで充電をする。「これ差しっぱなしにしておいてね」とルンルンに伝えるとサムスアップで答えてくれた。
 スマホとカメラ周りの念入りな確認を終えて玄関へと向かう。いつも通り「人が来ても開けなくていいからね」と注意をすると、ルンルンはわかっていると得意げな顔をして「いってらっしゃい」と手を振って見送ってくれた。いつまでも見続けていたい欲求に駆られてしまったけれど、何とか笑顔を作って手を振り返し重いドアを押して家を出た。

 インスタントスパークルはいつもと変わらない様子で、僕は今日も今日とてゲロ掃除をすることになった。いつもなら億劫なだけな作業だけど今日は都合がいい。ゲロをさっさと拭き取って消毒をすれば少しの間、手持ち無沙汰になるのでスマホを開いてカメラで覗いてみることにする。ホーム画面に設定しているルンルンの笑顔がまず出迎えてくれて心が踊る。
 ルンルンはこっくりこっくりと船を漕いでいた。段々とその揺れが大きくなって危うく転んでしまいそうになるが、すんでのところで目を覚まして可愛らしいあくびをする。血を飲みたいからという理由があるからだけど、それでも僕を待ってくれているというのは素直に嬉しい。
「ルンルン、眠たいなら先に休んでてもいいよ」
 イタズラをするつもりでスマホに話しかける。ルンルンは驚いた様子で辺りを見回した。そしてカメラを視界に捉えると駆け寄ってきてレンズを覗き込むと、くりくりとした目を瞬かせる。寝ぼけていたのかカメラの存在を忘れていたようだ。
「お話しできるの?」
「少しだけなら大丈夫そうだよ」
「やった!」
 カメラが安物ということもあって音質はそこまで良いものではなかった。それでも仕事中に聞くルンルンの声というのは格別で嫌なことを全て忘れられる。
「ねぇ、まだ帰ってこれないの?」
「まだ始まってあんまり経ってないからあと三時間くらいは帰れそうにないね」
 ルンルンがまだ時間の概念をどのくらい正確に捉えられているのかはわからない。けれど、「まだ」という単語の機微は感じ取っているようで、膨らませた頬に不安を溜め込んでいる。僕にとっても三時間という拘束は永劫そのものなので同じ気持ちだ。
 しかし、最近は店長からうまく逃げ切りシフト通りに帰ることができる日が続いている。高木によると本部の人間とのごちゃつきがあって店内を闊歩するような時間も取れていないらしい。そういった情報はどこから手に入れてくるのだろうか。わざわざ会話をして聞き出しているのであれば、ミャーちゃんとの時間を削りつつということになるはずだ。つくづく自分とは違う人間なのだと思う。
「うぇーす」
 ルンルンとの他愛のない会話を楽しんでいると背後から声がかけられる。噂をすれば影というやつだった。というよりかは僕が掃除していることを知っていて暇潰しにきたのかも知れない。高木はミャーちゃんとの情事を見せつけて以来よく絡んでくるようになった。ルンルンに「また後でね」と声を掛けてからスマホを後ろ手に隠す。冷静に考えてみるとせっかくのルンルンとの会話を邪魔されたことに気がついて腹が立ってくる。
「何か注文とか入りました?」
「いやいやそんなんじゃねえって。サボりよ、サボり。お前と一緒」
「僕は別にサボっては」
「仕事中にスマホ触ってる奴が何言ってるんだよ」
 高木は僕の肩を叩きながらカラカラと笑った。仕事がないならわざわざ話しかけてこないでほしい。やはり、ここ最近やたらと距離が近くなっているような気がする。
「消毒中は離れられなくて暇だし、だからと言ってお客様も見えないんでサボってるうちには入らないと思います」
「あーね。それいいかもなあ。俺も宮と喋るときはゲロ探すかな〜」
 宮とはミャーちゃんのことだろうか。高木が普段そうやっているならミャーちゃんのフルネームを知る機会は金輪際ないのだろうけど、今となってはもうどうだっていい。話しているところを見られていたのは確実のようだったので「ゲロ基準で電話したら全然話せないですよ」と高木に言うと、「じゃあ家に行くまで我慢するしかねぇな」とヘラヘラとしていた。家に行く、という言葉を僕は聞き逃さなかった。帰ると言う言葉を使わなかったあたり同棲はしていないのかもしれない。ミャーちゃんに用事でもある日には一人寂しく家で過ごしているのだろう。高木に対して初めて勝ったと思った。別に今まで負けていたと思っていたわけでもないが、家で待ってくれている人がいるのといないのとではかなり違うものがあるはずだ。
「でもお前は〝これ〟と話すのに時間掛けなくていいわけ?」
 相変わらず小指を立てながらいやらしく聞いてくる。小指を立てて恋人を意味させる人って今どのくらいいるのだろう。大学の風景を思い出してみるけど彼氏彼女という言葉がしっかりと使われていた気がするし、もしかしたら高木は僕よりもひと回りくらい歳が離れていたりするのかもしれない。
「別に誰と話すにしても必要以上に時間かける必要なくないですか」
「あれ、ついに〝これ〟って認めた?」
「いや、そんなんじゃない」
 家族です、なんて言ったら話がこじれてしまいそうになるから口を紡ぐ。「じゃあ、セフレ?」と無垢な瞳で聞いてくるので「断じて違います」と否定した。ルンルンの成長が顕著になり始めた日から、いつか僕と同じくらいになった時にそういうこともするのかなと考えたこともある。しかし、端麗になった今の姿を見ても、しどけないワンピースで眠る姿を見ても僕のものはそそり立ったことはなかった。動画サイトの広告なんかでムラッときてしまうことがあったから使い物にならなくなったわけではない。ただただ邪な情念がつけ込んでくる余地がルンルンにはないのだ。
「じゃあ結局何なのよ。電話するような仲なんでしょ」
「電話なんて誰とでもするでしょ」
「嫌いな奴とは話さないっしょ」
 確かにその通りだ。何の用事もないのに電話をする間柄というのはよっぽど親密なものだと僕も思う。けれど、友達だと誤魔化すのも無理があるような気がするし、そんな誤魔化し方をしてしまうのも何故だか嫌だった。
 考えあぐねているうちに押し黙ってしまい、次第にそれは高木の言葉の肯定を意味していってしまう。もう少し落ち着いて周りを警戒してからスマホを開けばよかった。店長に見咎められてしまった時もそんな反省をした気がする。それほどルンルンが魅力的だというのは確かなことだけど、そんな言い訳をしてしまいたくはない。ルンルンの見本になるのだろう、と自分に言い聞かせる。
 「写真とかないの?」と的を射たつもりでいる高木が聞いてくる。ないです、と咄嗟に言えればよかったのだが、隠していたスマホをひったくられてしまい逃げ場がなくなる。
「待ち受けにしてんじゃん」
 見られてしまった。めんどくさくなってしまうだけなら我慢もできたが、ルンルンを高木のような人に知られてしまったのはどうしようもなく嫌だった。嫌な汗が頬を流れた。
「へぇ〜、銀髪に染めてんだ。ほっそ。メンヘラ系?」
「そんなんじゃないですし、染めてもないです」
「じゃあ何、生まれつきなの。ハーフとか? めっちゃいいじゃん」
 あれやこれやと高木が言葉を重ねる。「そう言われると日本人ぽくない気がするわ」「胸は小さめかあ」「肌白っ」「唇プニプニしてそう」「宮よりも良さそうじゃね」。聞きたくもない評価に耳を防ぎたくなる。下世話なキャプションでルンルンを飾られてしまうのが嫌で殴ってしまいたかった。けれど、警察沙汰になってしまったらルンルンの世話ができなくなってしまう。妙なところで冷静さを保ち続けている自分は正しいのだろうか。グッと握り拳に力がこもっていく。
「一緒に住んでんの?」
「まあ」
「いいじゃん。じゃあさ今度、この子連れてきてよ」
「……何でですか」
「俺さあ、複数人でっての一回やってみたいんだよね」
「は?」
「だからさ、宮呼んで、その子呼んでさ。代わる代わるでやってみても面白そうじゃない」
「ふざけないでください!」
 怒鳴ったのなんていつぶりだろう。自分の声が耳の奥に残り続けている。好きにはなれないと思っていた高木への感情が明確な嫌悪に変わっていく。殺意めいたものも沸々と湧き上がってきた。拳にこめていた力が放出されそうになったけれど、情けない歌声が聞こえてきて力がふっと抜けていった。
 そうだ。僕が今いる場所はこんな場所なのだ。夜のしじまの中を歩くときのような静かな息が鼻から抜けていく。
「何よ、怒ってんの?」
「はい。仕事に戻ります」
 これ以上、話す必要はないと思った。廊下の消毒液は乾きかけていて手間は省けそうだったけれど、改めて消毒液をかけてから拭き取り作業を始めた。
 僕にとっての楽園は、ルンルンのいるあの家しかないようだ。

 スマホのアラームがポケットの中で鳴って、いつも以上に長く感じられたシフトの終了時刻が告げられる。あの後、ルンルンと話さなかったのが退屈を加速させていた。ルンルンには寂しい思いをさせてしまったかもしれないけれど、ここの空気感が少しでも伝わってしまうのが怖かった。
 すぐに店を出てカメラに接続しよう。ルンルンは眠ってしまっているだろうか。それとも再びあの笑顔を見せてくれるだろうか。どんな反応をしてくれても、それはきっと今の僕を癒してくれるものになるはずだ。
「木下。今日も時間通りか」
 スタッフルームに入ると予想していた通りの声色が浴びせられる。店長の目の下にはクマができていた。顔も浮腫んでいる気がする。高木が言っていたように本部とごちゃついているのかは定かではないけれど疲れ切っているのはどうやら本当らしい。
「そういうシフトなんで」
「今日もまだまだ客が来そうで人手が欲しいんだけどなあ」
「人手が足りないなら新しく雇えばいいんじゃないですか」
「お前が働けって言ってんだよ。馬鹿じゃねぇの」
「いやです」
 店長の言葉にはどれにもきっちりと圧が込められていたが、僕はこれまでの会話の中で一番淡々と返すことができていた。こんなことをしている間にも高木の下びた言葉と目つきが脳裏に思い起こされる。一刻も早く帰りたい今、店長の言葉は邪魔以外の何者でもない。こんな場所も、こんな会話ももう散々だ。
「あの、突然で申し訳ないんですけど今日でやめます」
 心の奥底にあった感情が言葉となって口をつく。
 これまでは生きるための金を稼いでいるだけだったので、どうだっていいと切り捨てることができていた感情だ。けれど、ルンルンと過ごすという生活を得た今となっては大切にしたい感情だった。
 すぐさま怒号が飛んでくると高を括っていたのに店長は不気味なほど静かだった。ただ、僕のことをじっと睨んでいる。しばらく沈黙が続いたので帰ろうとすると「やめたって女のためにならねぇぞ」と口を開いた。店長にルンルンの存在を悟られる要因は作っていないはずだ。いつなのかはわからないが話したのは十中八九、高木だろう。もはやルンルンとの関係を訂正するのもめんどくさい。無視して更衣室に向かう。
「お前みたいなやつ他で雇われるわけないだろ」
「ここで努力してこなかっただけなんで」
「ここで努力できないやつがどこでできるんだ」
「できないじゃなくて、してこなかったんですよ。ちゃんと聞いてください」
 店長はそこで減痺れを切らしたようだった。肩を掴まれて向き合わされると間髪入れずに頬を殴られる。手を出されたのは初めてだった。高木を殴らなかった僕の方が器が大きいのかもしれない。口の中に血の味が広がっている。ルンルンがいれば飛びついてくるかもしれないけれど、さすがにこんなところを吸わせるわけにはいかない。だけど止めたとしても無理を通して吸いにくるルンルンの姿が容易に想像できて笑えてきた。
「お前さあ、誰に雇ってもらったと思ってんの。俺だよ? 俺。俺がいなかったら働けてなかったわけじゃん。感謝してるような行動してもらわないと困るんだわ。新しいの雇えとか簡単に言ってくれるけどさ、人件費とかかかるって知ってる? お前が働けば払う必要のない経費なんだけどさ。社会のこともうちょっとお勉強しようや」
「そんなことどうだっていいです。今、殴ったこと黙っててあげるんで早く帰してもらっていいですか」
「黙ってるなんて当たり前だろうが。こっちがあくせく働いてる中でさ、女ができたぐらいでいい気になりやがってよ。お前が変わったところで環境が変わるわけじゃないんだよ。変わったなら変わったでさ、せめてここに還元してくれや」
 馬乗りになって胸ぐらを掴んでいる店長は僕の言葉に怯むことなんてなかった。平和的な解決方法はないのかもしれない。一発、また一発と殴られる。でも、店長だって大人なのだ。きっとどこかで気がつくはずだ。殴ってしまった以上、黙っててもらえること以上のメリットなんてないことに。
 何度か殴られて鈍痛が停滞し始めると、スタッフルームの扉が開いた。入ってきたのは高木であった。殴られている僕を見ても驚いたような様子もない。
「あーあ、殴っちゃったんすか〜。上と揉めてるとか言ってませんでしたっけ」
「うるせえ。上に伝わらなかったらこんなもん大したことになんねぇだろ」
「いやいや、ほっぺた痣なってるし。従業員の誰かに見られたら報告されてもおかしくないっしょ。あっ、俺はもちろん黙ってますよ。明日以降も部屋を押さえてていいならっすけど」
 高木は得意げな顔を店長に向けていた。そして「さっきぶり」と僕に手を振ってくる。助けてくれるわけでもなさそうだったので無視をした。
「転けたことにしとけばいいだろ」
「いや、どんな転け方したらほっぺただけに痣ができるんすか。転けたことあります? まあ、瑞人がうまく誤魔化してくれれば問題はなさそうでもありますけど、いやあ、黙ってるメリット別にないもんなあ」
 店長に凄まれても高木は飄々としていた。二人の関係性を知っているわけではないけど、僕とはやっぱり根底から違うものがあるらしい。スタッフルームは店長と高木だけの空間になっていた。「あ、そうだ」と高木がわざとらしく手のひらをポンと叩く。口元にはどうしようもない下品さが滲んでいた。
「黙ってなきゃいけない理由、作りましょう。俺、こいつの女とちょっと話してきますよ」
「ルンルンは関係ない!」
「ルンルンてどんな呼び方よ。まあ、店長。そういうことなんでそいつの住所教えてもらっていいですか。履歴書とかに書いてあるっしょ。俺が出向いてる間に二人で話つけといてください」
 最悪な形で利益が一致したと二人は頷き合った。「もう辞めるなんて言いません」「無給で働きますから」と懇願するのも虚しく、店長が履歴書の保管場所を示して、僕の個人情報は呆気なく高木の元に渡った。スマホで僕の住所を検索して「めっちゃ近いじゃん」と高木は言うと、僕の方なんて見向きもしないでスタッフルームを出て行った。
 さっきまであんなに怒っていたのに、店長は笑顔になって僕を見た。
「ちゃんと働いてくれてたらこんなことにはならなかったのにな。まあ、高木が帰ってくるまで頭冷やしとこうや」
 ごめんなさいと言えるだけ言った。きっと店長の目には音声つきのGIF画像のように映っているに違いないけれど、誠心誠意の謝罪のつもりだった。僕の振る舞いのおせいでルンルンに危害が及んでしまうかもしれない。何が見本になるだ。そんなものはお互いが平穏の中にあることが前提のはずなのに。
 店長は僕の言葉を聞き入れてくれなかった。罰のつもりなのかもしれない。頭を下げ続ける僕の服を引っ張って更衣室に押し込めた。無情すぎる施錠の音が狭い部屋に響く。これではもう謝り続けても仕方がない。
 ポケットからスマホを取り出す。僕の無様さに満足して没収されなかったのは幸いだった。アプリを開く。しかし、進捗インジケーターがグルグルと回って映像をなかなか読み込まない。電波を確認してみると立っているアンテナはわずか二本だった。客が来るような場所ではないので回線の配慮がされていないだろう。部屋の四隅にスマホを向けて電波を探る。
 こうしているうちにも高木が家にたどり着いてしまうかもしれない。家から近いという理由だけでバイトをしていたので時間の猶予はほとんどない。タクシーなんて使われたら、あっという間に辿り着いてしまうだろう。
 ようやく三本のアンテナが立ってくれる場所を見つけるとカメラの映像が読み込まれた。映っているのは真っ暗な映像だった。最悪なタイミングでの故障かとも思ったけれど、チラチラと光が差し込んでいる。レンズを操作して動かしてみると、ルンルンがカメラを抱き抱えていることがわかった。随分と待たせてしまっているから僕に向けて話しかけてくれていたのかもしれない。その表情は穏やかなものだった。眠っているらしく、それはまだ厄災が訪れていないことを知らせている。
「ルンルン!」
 呼びかけるものの音声がうまく伝わっていないらしく、ルンルンは船を漕ぎ続けている。抱えているからプラグが外れてしまっているのかもしれない。だけど、映像が届いているということは内蔵されているバッテリーの充電はまだ生きているということだ。そうなると、純粋な電波の問題が立ち塞がっているのかもしれない。
 呼び続ける。らしくもない大きな声で何度も何度も。それでも音声はルンルンの元に届かない。
 すると、更衣室の扉が勢いよく開いた。店長だった。取り上げ忘れたスマホで警察を呼ばれるとでも思ったのだろう。険しい表情でスマホをひったくろうとしてきたけど、決して手は離さなかった。その間もルンルンの名前を呼び続けた。扉が開いたことで一縷の光に繋がるかもしれない。そこに賭けて店長のことなんて気にせずに叫ぶけど、不意に飛んできた膝蹴りが呼吸のタイミングでみぞおちに飛んできたから倒れ込んでしまった。店長が背中に座り込んできてスマホも取り上げられてしまう。
「これビデオ通話ってわけじゃないよな。監視してんのかよ」
「返して、ください」
 呼吸が整わなくて切れ切れな懇願になってしまう。聞き入れてもらえる道理なんてどこにもなかった。冷ややかな目で僕を見ていた店長が電源ボタンに指を添える。
 涙で視界が滲み始めた。もうどうすることもできないという失望が大きくのしかかってきて項垂れることしかできない。それでも断片的にすぎない怒りはあって店長を睨ませた。視界に映った店長はまだ電源を落としてはいない。それどころか嫌な笑顔を僕に向けて「遅かったみたいだぞ」とスマホ画面を見せてきた。
 スマホが見せている映像は流動的なものだった。ルンルンが起きて、カメラを抱えたまま動いているらしい。動いた理由は明白だ。きっと僕が帰ってきたと思わせることがあったのだろう。なかなか開かない扉に小首を傾げてルンルンが鍵に手を伸ばした。「出ちゃダメだ!」と叫ぶ。
「え?」
 と、ルンルンがレンズを覗き込んだ。声がようやく届いてくれたらしい。だけど、ルンルンはすでに鍵を開けてしまっていた。
 扉が勢いよく開くと画面に高木が映り込んだ。くっつけたような笑顔が不気味な雰囲気を醸し出している。後退るルンルンの歩調に合わせて近づいていく。
「だ、だれ? 人が来ても出なくていいって言われてるから帰って」
「ガキかって。君がルンルンちゃんでしょ。俺、瑞人の友達で招待されたのよ」
「みずひと?」
 ルンルンに自分の名前を教えていなかったことに気がついた。意思疎通が取れればそれでいいと思っていたから、名前を教えていなかっただけにすぎなかったけれど、今はそれが功を奏した。戸惑って足を止めてしまっているルンルンに「違う!」と叫ぶと、音声の方を信じてくれて部屋の奥に逃げてくれた。だからといって逃げ場があるわけでもない。大きな騒ぎになって、それを聞きつけた人がやってくるのを祈るしかない。
 この状況においても店長はスマホの電源を落とさない。店長は僕に罰が与えられることを確信しているのだろう。そして、その確信は僕の祈りを無情に踏み躙った。
 映像がしばらく揺れて乱れていたけど、カメラが床に落ちたことで現実を映し始めた。倒れたままの映像だったが、自動的にスマホ画面に合わせたものになる。きっとペットがカメラを倒してしまうことを想定してつけられた機能だと思うけど、メーカーの心遣いが今はあまりにも残酷だった。
 腕を掴まれたルンルンが必死に逃げようと暴れている。そのままベッドの方へ向かおうとする高木だったが、カメラの方を向いたかと思うとルンルンを引っ張りながら近づいてきた。
「さっき、声聞こえてきたけどさ、見えてるって認識でいいの?」
「録画機能がついてたら立派な証拠になるくらいに映ってるぞ」
「うわ、店長も見てるんすか。まあ、二人で見てもらった方が楽しめそうなんでいいっすけど」
 「やめろ」という僕の叫びもルンルンの嫌がる声も聞こえているはずなのに届くことはなかった。高木はルンルンに馬乗りになってワンピースの胸元を力一杯引っ張った。バリッと紙を破ったかのような軽い音が聞こえて、ルンルンの乳房が露わになる。人間のものと変わらない小さくて可愛らしいものであった。それを見た高木はわざわざカメラを移動させて映し「見えてる? まあ、見慣れてるだろうけど」と嘲りを含んだ笑顔を浮かべる。
 見慣れているわけなんかなかった。入浴をする際にルンルンがついてくることはあったけど、浴槽に張った湯面にワンピースを広げるのが好きで脱ぐことはなかったのだ。それに合わせて、僕も服を脱がなかったからお互いの裸を見たことはない。
 高木がルンルンの乳房に手を伸ばす。「揉むほどもねぇな」などと愚痴をこぼしながらも手を止めることはなく、興が乗り始めたのかその手つきは激しくなり始める。ミャーちゃんの大きさを揉む感じでいるのか、指先に力をこめているから柔らかそうな肉がひしゃげて痛そうだった。苦悶の表情を浮かべるルンルンのことなんか、もちろんお構いなしだ。揉むことに満足したのか、次は撫子のような優しい色をした先端に舌を這わせる。ルンルンが僕の傷を舐める時とは全然違う、獣のような品のない舐め方だった。
 ルンルンの助けを求める声をスマホが聢と伝えてくる。全て、僕に向けられたものだった。だけど、助けに対してルンルンの名前を呼んで答えることしかできない。このまま名前を呼ぶことや、スマホの画面を見続けることが正しいのかわからなくなる。
「もうやめてください。ルンルンは関係ないじゃないですか」
「ここまででお預けってそりゃ無理な相談よ」
 僕の願いなんて当然叶わない。未だに舌を動かし続けている高木が発する音が耳障りで仕方がなかった。店長も画面を食い入るように見ていて、スマホを返してくれそうにはない。
「ごめん、ルンルン。助けられなくて、ほんとうにごめん」
 僕は泣くことしかできなかった。その姿は誰が見たって無様に違いない。ルンルンがやってきて変わったつもりになっていたけど、環境が変わっただけで本質的な変化は何もなかったみたいだ。結局、僕ではこの人たちに敵わないのだ。猛烈に手首を切りたくなった。切り落としたいほどの衝動で、刃物を手にしたなら命に関わる切り方になるだろう。刃物があったらと考えるなら、まずは目の前の店長を刺すと考えなければいけないはずなのに自分に向けたがっている、こういうところが本当に嫌になる。爆発的に膨れ上がった死への渇望が弾けてどこかへ消えていく。
 ルンルンの悲鳴が音割れして聞こえてくる。スマホに目を向けると高木の指がルンルンの太腿の間に運ばれていた。着々と汚されるための下準備が進められている。もう見たくなかった。重力に身を委ねて突っ伏した。目は閉じることができても、耳は塞ぎことができないからルンルンの悲鳴と嫌な音から逃げることはできない。かき消すために叫んだりしようという気概ももうなくて、どうしようもない諦念が僕を包み込み始めていた。
 しかし、不意に音が消えて、店長の「おい!」という怒号が飛んだ。何が起こっていようともどうでもよかったのだが、店長がようやく立ち上がったのでそちらに目がいった。スマホを持って部屋の中を歩き回っていて、その画面は真っ白になっていた。電波が悪くなってしまったのだろうか。だったら「ざまあみろ」と言いたくなるけれど、高木はまだ家にいてルンルンは苦しめられているから店長の不幸の蜜を味わうことはできない。
 それにしたっていい歳をして、店長を任せられているような大人がどれほど熱中していたというのだろう。高木の名前を呼び続けて、何があったのかの説明を要求している。店長が途端に惨めな人に見えてきた。電波が途切れているなら何をしたって意味がないのだと、スマホを見てみると進捗インジケーターが表示されていないのに気がついた。となるとアプリかスマホ自体の不調にやられてしまったことが考えられるが、だったら落ちていてもおかしくない。カメラから接続切れのメッセージも届いていなさそうなのでカメラも生きているはずだ。なら、真っ白になっているスマホの画面はカメラが映しているものということになってしまうが、僕の家のベッドはあんなに綺麗な白ではない。
 得体の知れない不安がもたげた。その不安に呼応するように床が揺れる。感情がいい加減には参ってしまっていたのが原因だと思った。でも、次第に揺れは大きくなり、店長も揺れだして、更衣室のロッカーが倒れた。小学生の時にトラックで体験させられた大地震の揺れを思い出していると、それを凌駕するような揺れになり始めた。立っていられなくなり、床に手をつくとヒビが入っていることに気がつく。何が起こっているのか、全く理解することができない。
 地鳴りが耳元で鳴っているほどの大きさになり、不意に浮遊感がやってきた。周囲を見渡してみると壁や床のヒビから白いものが侵食してきている。店長が情けない悲鳴をあげて白いそれに飲み込まれていった。そして僕の視界も真っ白に染められて、意識が静かに消えていった。

 意識が覚醒するも視界は未だに真っ白で生きている自信が持てなかった。しかし、辺りには更衣室のロッカーだったり、コンクリート片だったりが転がっているので意識を失う前にいた現実世界の中に今もいるらしい。
 しかし、パレットで灰色を調色する際に白を入れすぎたように、真っ白な何かが空に広がりを見せているので現実感はまるで感じられない。わずかに見えている本当の空が灰色ということは少なくとも日が昇るくらいの時間は経過しているようだ。明らかな非常時だというのに僕の頭は冷静に機能しているのはこれまでの日常があったからだろうか。
 空に届かなかった真っ白なものがふわふわと雪のように降ってきた。手にとってみると冷たくはなくて不思議な感覚だった。タンポポの綿毛のような形だけれど、指で摘むと形を崩して粉になる。粉は僕の呼気によって簡単に飛ばされてしまったけれど、その時よく知っているカビの匂いが鼻腔をくすぐった。
 これまでに何が起こったのかはわからないままだけど、これがルンルンに関係しているものなのだとは察することができた。ならば、ルンルンの元にいかなければならない。ただでさえ、怖い思いをさせてしまっているのだ。早く会って安心させてあげなければいけない。
 インスタントスパークルの建物は完全に崩壊してしまっている上に、真っ白な光景が広がっているために方向感覚は全く機能してくれない。しかし、不思議なもので自分の家の方向はなんとなくわかった。帰巣本能というやつかもしれない。あるいはルンルンに呼ばれているのだろうか。
 その本能的な導きに従って歩き出す。雪が降り積もっているかのような真っ白な地面だけど、新雪のような心地よさも氷のような危うさを感じるような踏み心地はなかった。ただ絨毯の上をスリッパで歩くような違和感だけがある。気温も到底冬と呼べるものではない春らしい暖かなもので息が白くなるということもないために奇妙さが拭えそうにない。小春日和という言葉が冬の季語であるというのが今ならすんなりと受け入れられそうだ、なんて馬鹿みたいなことを考えていると何かに躓いてこけそうになってしまった。見てみると硬く真っ白な何かが僕の足を掬うように飛び出している。真っ白な表面を払うと木のようなものが正体を表した。先端部分が五本の細長い枝のように分かれていて、それが人間の手の形のようだと思った。
 そういえば、もうしばらく歩いた気がするが僕以外の人の気配を感じない。直感と好奇心に駆られて地面を掘り起こす。すると、立派な木にできた瘤のような塊が見えてきた。歪な窪み三つあって、中央にわずかな隆起がある。人の顔だった。発掘に失敗したミイラのようだったけど、どことなく既視感のある顔たちのような気がする。しげしげと観察をしていると「あっ」と声が漏れた。店長だ。息は当然していない。見知った人の死を見たのは初めてだけど、死体に対する驚きはこの世界の衝撃には勝らなかった。相手が相手なだけに感情が揺れ動くということもない。だけどこの人物が店長ならと期待できることもあって周りの白いものも払った。
 少し手間取ってしまったがスマホを見つけることができた。画面に大きなヒビが入っていたけど、内部に故障はないようで問題なく起動することができる。正午前を示すホーム画面には地震速報のメッセージが表示されていた。しかし、スワイプしてヘッドラインを表示してみても地震を報じているものは一つもない。
 その代わりに『未明に現れた白いドーム、関東全域に拡大。被害は甚大か』『首相はじめ、内閣の安否不明。外遊中の外務大臣が急遽帰国へ』『分かれる専門家の意見。一部では菌類との見方も』など様々な小見出しが並んでいる。扱われていたのは一つの話題だけだった。記事を一つ開いてみると衛星写真が表示された。小見出しの通りに関東地方だけが塗り残されたように白い。
『ドームの外壁を採取したところカビのような菌糸の構造が見られたという。一部の学者は四億年以上前のシルル紀に生息していたプロトタキシーテス、あるいはその近縁種の大型の陸生菌類なのではないかと見方を示すが、爆発的に出現したことには依然説明がつかず「はっきりしたことはまだわからない」と話す』
 菌類ということはやはり一面の真っ白いものはルンルン由来のものなのだろう。早々に菌類だと導き出す研究者が素直にすごいと思った。
 ニュース記事を閉じて位置情報を確認してみる。衛星からの電波は妨害されていないようで問題なく現在位置が表示された。なんとなく感じていた方向は正しかったけど、代わり映えしない風景の中を歩くのは不安だったからスマホのナビアプリを立ち上げて進むことにした。
 ずっと白い景色があるだけだと思っていたけれど、目を凝らしてみれば大きな柱のようなものがいくつも立っていていた。記事にあったプロトタキシーテスの図によく似ている気がする。元々の帰り道にはビルなんかがあったはずだから、それが白く染められているのかもしれない。ウィキを開いて調べてみるとプロトタキシーテスが巨大化した理由ははっきりとわかっていないようだが、胞子を遠くまで飛ばすためという考え方があるらしい。ルンルンが巨大化しているなら、その理由は逃げ出すためか、それとも助けを求めてのことだったのだろうか。足元の真っ白な胞子を手のひらに掬ってそっと胸元に近づけた。あまりにも軽くて残酷なほどに無機質なものに思えた。
 逸る気持ちに足を連動させる。ルンルンの元へ近づくほど胞子は積雪を敷き詰めたような厚みがあって歩きにくい。それでも足を止めることはなんてできない。早く、少しでも早くルンルンのところにいかなくては。
 それにしても、どんなに歩いてもやっぱり誰とも出くわさない。そのかわりに干からびたような人体がたくさん転がっていたので、被害が甚大という予測も間違っていないらしい。この分だとミャーちゃんも同じようになっているのかもしれない。ミイラになった姿を想像してみる。生前の顔たちを上手く保てているなら何十年後かに展示されて悲劇のヒロインのようなキャプションがつけられたりするのだろうか。でもきっとそのミャーちゃんの前では僕は足を止めたりなんてしない気がする。
 ふと足を止めて見ず知らずの死体を見つめてみると、ルンルンに最初にあげたパイナップルのようだと思った。もしかして養分としているのだろうか。これほどまでに爆発的な速度で巨大化したのだから人間を取り込んだとしても不思議なことはない。僕のことを取り込んでくれなかったのは生かしてくれているからだろうか。何にもないところから突如として姿を現したルンルンだから、特定の人間を判断する術を持っているのかもしれない。でも、それなら僕の元に姿を現してくれないのはなぜなのだろう。ルンルンと出会えないことほど残酷なこともないのに。錯綜する思考が頭の余白を塗りつぶしていくようだった。
 いつも以上に時間がかかってしまったけれど、自宅と思しきアパートにようやく着いた。道中ですでに気づいていたことだけど、アパートはビルなんかよりも大きなプロトタキシーテスになっていて迫力がある。だけど、真っ直ぐ空に向かって伸びている姿はどこか儚げに感じた。エントランスがあった場所に向かうけど白い壁が阻んでいる。壁は固く中に入ることはできそうにない。
 「ルンルン!」と叫んでみても反応がなく、静寂の中に僕の声が響くだけだった。にっちもさっちも行かなくなってしまった。壁にもたれて座りカメラのアプリを開いてみる。しかし、「カメラに接続されていないか、電源が入っていません」という無情なメッセージが返ってくるだけだ。どうしようもない孤独感に襲われる。
「どうして出てきてくれないの?」
 小さく漏れた声ですら静寂に飲み込まれていくのがわかる。僕以外の人間は真っ白な世界の中にいない事実を改めて認識させているようだった。この際プロトタキシーテスが語りかけてくれたっていいのに。怖い思いをさせてしまったことを怒っているのだろうか。
 後悔、無力感、焦燥感。渦巻く感情が制御できなくて崩れていく。
 リストバンドを外して手首を晒した。辺りを探してもカッターは見つかりそうになかったから、瘡蓋を思いっきり剥がす。痛みも気持ちよさも何も感じない。ただただ流れていく血が降り積もった真っ白な胞子に染みていく。初めてルンルンに血をあげたことを思い出した。あの時は確か、人差し指からあげたんだったっけ。結局、帰ってきたら好きなだけ血を上げるという約束を果たすことはできなかった。
「ごめんね、ルンルン」
 血を眺めながら呟くと、ふわふわと胞子が舞ってきた。きっと偶然に違いない。だけど、意図的に舞ってきたのだと思いたかった。「殺しなんてしない」と話していたルンルンの言葉が脳裏に蘇る。
 血は止めどなく流れている。綺麗な切り口を作ったわけじゃないので流れ方は綺麗とはいえない。こんなのでもルンルンは満足してくれるだろうか。許してくれるだろうか。どうしてもこれでは足りない気がして傷口の中に指を突っ込んだ。筋肉なんてろくについていないとは思っていたけれど、肉はそれでもあるわけだから指でほじくっていくのはやはり難しい。それでも爪の先で細い何かを捕まえることができたから、それを思いっきり引っ張った。血管なのか筋繊維なのか、はたまた別の何かなのかは全くわからなかったけれど血の勢いは増していく。これは良くない溢れ方だと瞬時にわかった。今までに体験したことがない死を感じる脱力感がやってきた。次第にふらついてきたのでプロトタキシーテスに手をついた。じっと見つめるとルンルンと対峙しているようで、傷口に懐かしい気持ちよさを思い出す。
 この感覚だ。久しぶりの生きている心地は絶頂にも似た夢心地で全身にすぐさま広がっていく。僕はルンルンに生かされたからこそ、今初めて死に直面している。今までは死ぬための理由すら持っていなかったと思うとやるせなくもなってしまうけれど、それももうどうだっていい。ルンルンへの贖罪が僕の死因になるのだ。養分になっただけの奴らとは違う僕だけが実感できる特別なもの。ルンルンにとって僕の結末は予想していたものであるかはわからない。もし戸惑わせてしまっているのならその償いができないことだけが残念極まりないけれど、それについての償いということでもこの命を使わせてもらうことはできないだろうか。
 頭の中で考えられるだけの僕の死因が堆積していく。それは自己愛にかまけたどうしようもないものなのかもしれない。だけど幾重にも重なった死因の存在感が今はただただ僕を慰めてくれているようで身を委ねてしまう。結局のところ僕はルンルンのために何かをしてあげることができなかったのかもしれない。
 立っているのも辛くなったのでプロトタキシーテスを背もたれに座り込むと僕たちを垣間見ていた空にはけたたましい音が響いていた。翳みだした視力では報道なのか、自衛隊なのか区別することができないけれど、何機ものヘリコプターが飛んでいる。いつから飛んでいたんだろう。僕の姿をとらえている機体もあるのだろうか。だったらこうして二人きりでいられる時間もあと少しなのかもしれない。
 最後にルンルンの姿を見ておこうと聳え立つプロトタキシーテスを見上げる。空を穿つように伸びる姿はどこか気品があるように思えた。灰色の空に点描のように舞っている胞子はここを中心に対流圏の風に乗っているらしい。今となっては方角がわからないが胞子の帯が一方向に流れている。となればルンルンは間違いなくここに息づいているのだろう。ここにいてくれていると実感できただけで幸福感に包まれるのを感じる。これが僕のものだけではなくてルンルンにも幸せがありますようにと祈りを込めて傷口を指でなぞった。ルンルンはこれからどこに行くのだろう。関東だけに留まらず地球を丸々包み込んでしまうのだろうか。もしくはそれすらも過程に過ぎなくて宇宙に胞子を飛ばすのかもしれない。その場合は何を動力にして羽ばたいて行くんだろう。そんな中で過ごすことができたらきっと毎日が楽しいんだろうな。今になって生きたいだなんて感情も湧いてくる。優柔不断な自分の心持ちに思わず笑ってしまった。
 視界の端に映る血液が胞子の絨毯にじんわりと染み込んでいく。自分の血を心の底から綺麗だなと思えたのは初めてだった。

湿りきった愛

2023年2月4日 初版 発行 

著者:赤星翔太
装丁:岡本志音(情報デザイン学科3年)
カヴァー写真:宮田紗花(美術工芸学科3年)
発行:京都芸術大学 文芸表現学科

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