2022年度 法政大学第二高等学校3年生選択B現代文特講を選択した生徒による小説集。
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今日で十一月になった。三軒茶屋の街は今日も多くの人が足早に駅へ向かっている。駅から徒歩五分くらいの喫茶店でバイトをしている中野颯太は店の営業の準備をしていた。渋谷のハロウィンはどんな感じだったのだろうと思いながら、店に並べられた飾り物をしまう。そこに店のバックヤードから持ってきたモミの木を置く。店長は頑固な人で、「行事は一日だからいいんだ。例えば子供たちはその一日を待ち遠しくするだろ、そういうもんだ。」と口癖のように言っていた。だから、店長はハロウィンなどの行事の準備に全く興味を示さない。この店では形だけのクリスマスを迎えるのだ。十二月二五日までは、このモミの木に星がつくこともなければきれいな飾りもつかない。昨日もバイト仲間とお菓子交換する中、店長は売り上げの帳簿を黙々とつけていた。
翌日、バイトに向かうとモミの木に飾りが付けられていた。颯太は不思議に思い、今日来ていたバイト仲間全員に誰が飾り付けたのか聞いてみた。しかし、だれがやってくれたのかはわからなかった。後は、店長しかいないと思ったところで、十一時になったので店の看板をひっくり返しに向かった。毎日、オープンと同時に来るお客さんがいる。「いらっしゃいませ。ご自由な席へどうぞ。」と一声かけると、窓際の席に座った。窓の外には空色の世田谷線がガタゴトと音を立てながら走っていた。お客さんは高橋さんといい、店長の古くからの知り合いらしい。高橋さんがこちらに手を振っている。注文の合図だと気づき、颯太は素早くテーブルのわきに立ち、「注文はいかがなさいますか。」と尋ねる。高橋さんは「ホットとサンドウィッチ。…にしてもきれいねぇあの人が飾り付けたんでしょう。」と言って店長のほうに視線を送る。店長は相変わらず表情を変えずにピークタイムに向けて準備をしている。「なんでわかったんですか。」と颯太は尋ねると高橋さんは笑いながら、「あの人、ほんとは誰よりも行事を楽しみにしてるのよ。この前だって、クリスマス限定メニューを考えたんだけどって、メールを送ってきたのよ…。」と聞いているうちに店長から声がかかった。「颯太、もうすぐランチの客が増えるぞ。準備しろ。」と声がかかった。高橋さんの話をもっと聞いていたかったが渋々、厨房に戻った。厨房でホットコーヒーを注ぎながら店長に「クリスマス限定メニューやらないんですか。」と尋ねてみた。店長は颯太から目をそらし、「サンドウィッチできたからもってけ。」と呟いた。颯太は「はい。」と言いながら高橋さんのもとへ向かった。「お待たせいたしました。」と言いながら、ホットコーヒーとサンドウィッチを差し出す。高橋さんはホットコーヒーを飲みながら「30年前のクリスマスの日にいろいろあってね。その日以来は、無理して行事には興味ない。っていうスタンスをとってるんだろうね…。」と話し始めたところで、店に何人か入ってきた。颯太は「いらっしゃいませ。ご自由な席へどうぞ。」と声を少し張り上げて伝えた。時計を見るともうすぐ十二時になろうとしていた。高橋さんに「失礼します。」と一声かけて、慌てて厨房に戻りランチ営業の準備を始めた。ランチ営業中、颯太はなんで店長が行事嫌いを装っているのかが気になって仕方なかった。しかし、ランチ営業はかなりハードで多くの注文が飛び交う。店長と話す時間はほとんどなかった。
ランチ営業が終了の時間になった。気づくと店内に高橋さんの姿はなかった。店長はディナー営業の準備をするから休憩するようにと言うとすぐに、バックヤードに入って行ってしまった。颯太は仕方なく、店を後にした。一度、家に帰ろうとしたが店長のことが気になって仕方がなかったため、街をフラフラすることにした。街の中で一番目立つキャロットタワーに入るとケーキ屋の壁に「クリスマスケーキのご予約承ります。」というポスターが張られていた。一昨日まで、パンプキンパイのポスターだったのにいつの間に変わったのだろうか。店内のBGMもクリスマスソングになっている。颯太は仕事が早いなぁと感心していた。二階にあるTSUTAYAでもすっかりクリスマス仕様になっていた。街のクリスマスムードを目の当たりにして颯太はさらに店長のことが気になってきていた。「クリスマスになったらお父さん帰ってくるんだよね。」「そうね、十二月二十五日には帰ってこれるって言ってたわ。」「クリスマスケーキはどうしようかなぁ。お父さんショートケーキが好きだよね。」小学生くらいの男の子とお母さんの会話が聞こえてきた。そんなに帰ってこられないなんて大変だなぁと思うと同時に、颯太は、店長の言葉を思い出していた。ふと窓の外に目をやるとそこには夕日に照らされてオレンジ色に光る世田谷線が走っていた。
店のディナー営業は十七時から始まる。店長は相変わらずテキパキと仕事をこなしている。颯太はオムライスを作りながら店長の事務机をふと眺めてみると、クリスマス限定メニューのレシピと書かれた紙が置いてあった。「あいつの好きだったサツマイモを用いたケーキのレシピ」と大きく書かれていた。颯太はレシピをこっそり見ようとしてページをめくると実際に店長ともう一人の女性が楽しそうにケーキを作っている写真といっしょにレシピが細かく記載されていた。店長が厨房に戻ってきたのでその場を離れ、急いでケチャップライス作りに戻った。
二十一時になったので店の看板を裏返し、バイト仲間は明日の営業に向けての準備を始めようとしていた。店長が一人で店の外のモミの木を眺めていた。颯太は店長に向かって問いかけた。「どうして、店長は飾り付けをしてくれたんですか。行事は一日だけだからいいんだってずっと言ってたのに…。」店長は少し困った顔をした後、真剣に語り始めた。「三〇年前のクリスマスの日、妹が帰らぬ人になった。十一月から一緒にクリスマスに向けて準備をしていたんだ。突然のことだった。それ以来、行事の準備をするのが怖くなった。ほんとは、行事が楽しみでしょうがなかったのにな。だから、行事は一日だからいいんだ。っていいながら逃げてきたんだ。」颯太はさっきの写真を思い出しながら店長に「妹さんと準備するのが楽しかったんなら続ければいいんじゃないですか。わざわざ、行事が嫌いなんて無理しなくてもいいと俺は思いますけどね。準備も含めて楽しいクリスマスですから、いいじゃないですか十一月からクリスマスだって…。」と伝えた。すると店長は少し涙ぐんだように見えた。颯太は恥ずかしくなって「すみません。勝手なこと言って…。」と囁いて、明日の準備をしているバイト仲間のもとに加わった。店長は何かを決心したようにその場にいた全員に向かって、「クリスマスの支度を始めるぞ。今年からは盛大に準備をして、どんどん売り上げを上げるんだ!」と大声を張り上げた。それを聞いた瞬間からバイト仲間は歓声を上げていた。颯太も必死になってクリスマス限定メニューのポップを作り始めた。今日は何でもない一日のはずが、今までで、一番活気にあふれていた。店長は心の底から楽しそうにクリスマス限定メニューのケーキの試作を行っていた。
ふと時計を見上げると、だいぶ遅い時間になっていた。颯太は店長に「明日、大学一限からなんで失礼します。お疲れさまでした。」と言って店を出ると、冬の夜の街に立派なクリスマスツリーが輝いていた。
僕はもともと人間だったらしい。もう記憶には、ないけれど。
1
太陽は音もなく昇りカーテンの隙間から一筋の光を差し込ませ僕を起こす。かろうじて見える睫毛の間から立つべき床を探す。こうしていつまでも動くことのない人生が今日も始まる。まだ肌寒い空気を吸いながらコーヒー、ではなくココアをいれる。ココアよりもコーヒーの方が好きなはずなのに、なぜか朝はココアでないと気がすまない。一息ついてスーツに着替え、身支度を整える。ドアを開ける前に鏡で髪型の最終チェックをし、胸ポケットにささっているシオンの花に触れながらいってきますと呟き外へ出る。返事はもちろん、返ってくることはない。眩い光に顔しかめながら目の前の仕事場へと足を進めた。
「トキくんおはよう!」
仕事場に入って一番に聞こえるこの声は今日も元気だ。
「おはようございます、シナさん。」
シナさんは僕直属の上司である。
「今日もトキくんは真面目だなあ、たまにはその胸にさしてる可愛らしい花みたいにパッと挨拶してみてよー。」
「はぁ…すみません。」
「まあそこがトキくんの良さなんだけどね! ところで早速だけど今回の仕事はこの子ね。」
シナさんは慣れた手つきで僕に書類を渡す。
「まだ若い女の子で可哀そうだけど、仕事熱心なトキくんなら安心して任せられるよね! じゃあ今回もいつも通りによろしくねー。あ、一応言っておくけど、くれぐれも規則、破らないでね。」
そう言い残してシナさんはリズムよく足音を鳴らしながら去っていった。改めて視線を書類へ移す。二八歳、今回はかなり若い子だな、お気の毒に、なんて不憫に思いながら鳥の頭のようなマスクを被り、白い旗を持つ。僕の仕事は死期通知人。名前の通り、もうすぐ死んでしまう人のもとへ出向き旗をふり、死期が近い事を知らせる。死ぬ日には黒い旗をふる。死んだあと未練があって地上に留まる幽霊が多すぎる問題を解決するためのまだ試行段階のプロジェクトだ。事前に知らせることでやり残すことがないようにしてもらってすがすがしく成仏してもらおう、という実にシンプルな魂胆だ。今回この子が亡くなるのは一か月後、普通よりも早めだ。きっと年齢的なものや突然亡くなることを考慮しているのだろう。僕は一通り書類に目を通し彼女のもとへと向かった。
2
旗は彼女が見えるところならばどこからふってもいい。ちなみに僕の姿は彼女しか見えないことになっている。今回の彼女はあまり周りが見えていないのか、僕が旗をふっているのに気づかず三日が過ぎた。このままでは埒が明かないと踏んで、大胆にも彼女の家のベランダでふることにした。そしてやっと彼女はカーテンを開けたときに気が付いたようだった。僕を見た瞬間は少し驚いたような表情を見せたが、意外にも彼女はすぐに冷静になったようだった。そして窓を白く小さな手で開け、透き通った茶色の目で僕を見つめた。
「あなたは…誰?」
小さいが、芯のある声が頭に響く。なんとなく懐かしい雰囲気に一瞬とらわれる。
「…死期通知人です。」
これが僕たちの始まりだった。
ココアから溢れでる湯気を目で追いながら彼女からの視線に耐える。痺れを切らし、声を出そうと息を吸う。
「私って、もう死ぬの?」
いきなり聞こえた質問に息を止める。
「あ…もうすぐで亡くなります。」
「そっかぁ、いつ?」
「申し訳ありませんが規則で具体的には教えられないんです。」
少しむっとした表情をしたがすぐににこやかに微笑む。そんな彼女の対応に僕は困惑していた。今まで僕を見てそんな表情を見せた者はいなかった。毎日どこかで旗をふる僕を、死期が近づいていると伝える僕を気味悪がり、皆恐怖が宿った目で僕を見た。まるで僕が、死神のように。
「私、紫苑って名前なの。君は?」
「ト、トキです。」
「トキくんかぁ、よろしくね、トキくん。」
きっと、慣れていないせいだ。ドクンと心臓が鳴ったのは、笑顔を向けられることに慣れていないせいだ。決して僕に微笑みかける彼女に惚れてしまったとか、そんなんじゃない。
3
紫苑と出会ったあの日から一週間がたった。毎日ベランダで旗をふる僕を紫苑はいつも快く家へ迎え入れ、温かいココアをいれてくれた。紫苑は、コーヒーが苦手らしい。
「ずっと思ってるんだけど、なんでその変な鳥みたいな被り物取らないの?」
紫苑はきょとんと目を大きく開き首をかしげる。
「そういう規則なんだよ。」
「もーいつもそればかり! 私トキくんについて名前と仕事と、コーヒーが好きなのにいつもココア飲んじゃうことしか知らないよ!」
この一週間で紫苑とはため口で話せるぐらいにはたくさん会話をした。まあほぼ僕が紫苑の話を聞いていただけだけど。
「じゃあ被り物はもういいよ。うーん…あ、じゃあ、そのシオンの花、なんで胸にさしてるの?」
「僕もそれ、なんでか分からないんだよね。気づいた時にはもうささってたんだ。」
「へぇーなんか不思議だね。」
納得できないといった顔で相槌をうつ紫苑。
「そもそもよくこの花がシオンって分かったね。」
そんな彼女を見て僕は慌てて話を変える。
「私、この花が一番好きなの! なんて言ったって私と同じ名前だしね! それに…」
「それに、何?」
何かを思い出したかのような表情を見せ、止まる彼女に聞き直す。
「それに…大好きだった人が…プレゼントしてくれた花なの。」
そう言って軽く俯きながらまどろんだ目で話す彼女は、目が離せないぐらい美しかった。彼女が思い浮かべているその人を、嫉妬してしまうほどに。そんな僕の醜い心とは裏腹にシオンは薄紫に輝きながら胸ポケットから顔を出していた。
4
それからまた時は流れ、彼女が死ぬまであと十日に迫った頃だった。
「トキくん! 最近の調子はどう?」
シナさんが朝日よりも明るい声で僕に話しかける。
「どうもこうも、いつも通りですよ。」
「そうかなー。最近、調子いいみたいだから何があったんじゃないかって思ったのに。」
「気のせいですよ。」
「気のせいじゃないと思うけどな?。明らかに前よりも顔が緩いし。」
ドキリとした。実際に最近笑顔でいることが多い自覚はあった。前よりも毎日が楽しく充実した気持ちで満たされていた。
「…同情しちゃ、ダメだよ。」
シナさんは全てを見透かしたような目で僕を見る。頭のすぐそばで鐘を鳴らされたような衝撃が体中を駆け巡る。
「…分かっていますよ。」
きっとこの気持ちは気づかれている。分かってる。分かっている。彼女に死んでほしくないと思ってしまうこの気持ちが死期通知人として間違っていることなんて。それでも、本当に願ってはいけないことなのか。そんなこと、誰も僕に教えてはくれない。
「あ、トキくんだ、やっほー。」
僕の心情も知らないで紫苑は僕にいつも変わらない笑顔を向ける。僕はいてもたってもいられなかった。
「死ぬのが怖くないの?」
なんとなく聞いてはいけない気がしていて今まで聞けなかったこと。彼女は初めて僕を見たときと同じ表情をして同じように僕を見つめる。
「怖くない。」
「どうして?」
間髪を入れずに僕は聞く。
「私、実は死にたくて死にたくてたまらないの。」
そんなことを言いながらも彼女の目は記憶の中のどの彼女よりも輝いていた。
「前も話に出た大好きだった人、私のせいで死んだの。私をかばってトラックに轢かれてそのまま私の目の前で死んだの。全部私のせいなの。彼の命を奪っておいてのうのうと生きている自分を私は許せない。ずっと死にたいって思ってた。だから、トキくんが私の前に現れたとき、やっときた、やっと死ねるって思ったの。」
声が出なかった。ずっとそんな思いを抱えていただなんて、気づかなかった。気づけなかった。そんな自分に腹が立って仕方がない。僕は情けなくも声を出すことができなかった。その代わりといったように、目から溢れる涙が止まることはなかった。なぜだか無性に無性に悲しくて、歯を食いしばっても被り物の下で泣き続ける僕の姿を彼女は切なく微笑みながら見守っていた。
5
あれからも変わらず笑顔で接してくれる紫苑が死ぬのは、今日となってしまった。僕はもう、決めていた。
「シナさん。」
めったに僕から声をかけないからか驚いたような表情をしてこちらを見たがすぐに僕の言いたいことが分かったようだ。
「本当にそれでいいんだね。」
いつもの元気な声ではない。
「はい。」
「そうか。自分が決めたことなら私は止めないよ。」
「…ありがとうございます。」
今までのお礼も込めてそう告げた。
いつも通り紫苑の家へ行く。いつもと違うことといえば、旗を置いていくことと今日は雨ということぐらいだ。
「紫苑。」
「トキくんおはよー今日はいつもより早いね。」
彼女は相変わらず天使のようだ。そんな彼女に僕は「生きてほしい。」
「え?」
あまりに急な展開に寝起きの彼女は追いついていない。それでも僕は続ける。
「君が死ぬのは今日だよ。通り魔に刺される。」
彼女は目を見開く。
「はは、これで紫苑が今日死ぬことはなくなっちゃった。」
そう、通知人が規則を破ることを言えば言われた当人が死ぬことはなくなる。
「なんで…」
「君には生きてほしいんだ。どんなに辛くてもね。ただそれだけだよ。」
僕の体は消え始める。何事にも代償はつきもので、これは規則を破った罰。もう僕という存在自体消えてなくなって、生まれ変わることもなく僕の魂は誰も知らないところで永遠に彷徨い続ける。
「うそ、待って、トキくん」
「こんな僕にココアをいれてくれてありがとう。紫苑のおかげでつまらなかった毎日が、世界が色づいて見えたんだ。」
もう本当にあと少しで消えてしまう。
「トキくん、ごめん、本当にごめんね…私、頑張って生きるから、だからお願い、最後に顔、見せて。」
僕は彼女の望み通り被り物をとる。
「あはは、やっぱりそうだ。」
彼女は笑ってそう言った。最後に見えた彼女が笑顔でよかった。白い光に包まれながら僕は願う。君の抱える傷や苦痛全てがこの雨にしなだれて全て流れ落ちますように。
「あれ、私、なんで泣いているんだろう。」
手には何かを握っている。
「シオン、だっけ? なんでここに?」
―シオンの花言葉を彼女は知っているだろうか。
―君を、忘れない。
今この瞬間、私の肉体を最も多く廻っている感情の名は、劣等感である。
名もなき大陸。大陸には五つの国が存在しており、それぞれの国が土地不足や食糧不足に日々悩まされていた。「お互い手を取り合って平和に共存するのだ!」とはならず、五国が問題の解決のためにとった手段は戦争であった。各国は軍事力の強化を進め、日々お互いの存亡を懸け戦い続けた。私がこの世に生を受けたとき、既に戦争が始まってから数百年が経っていた。
私が住んでいる国は他の四国の中央に位置していた。そのため四方から攻撃に晒されていたのだが、あいにく国力の高い国だったため他国から侵攻を許すことはなかった。
私は国の中でも名を知らぬ者などいない名家で生まれ育った。私の家は代々軍人の家系で、父は私が生まれるより前の戦いで活躍し国を救った英雄だった。私が生まれてすぐに退役したため、私は隠居生活の姿しか見たことはなかったものの、父の武勇伝は家の者からも外の者からも耳に胼胝ができるほど聞いてきたため、自然と父を尊敬し父の武勇を想像していつか父のようになりたいと思って育ってきた。
私は幼少のころから武芸に励み、家の血筋が関係しているのかは不明だが才能を開花させていった。それも人々から「天賦の才」と称されるほどの才能だ。格闘術、剣、槍、弓矢、馬術など、何をやっても圧倒的に出来た。そのおかげで周囲の人間で私に盾突く者は誰一人としておらず、両親も私の逞しい成長を喜んでいた。
前述のとおり、基本的に私の機嫌を損ねるようなことをする者が周囲にいなかったため、私も誰かを嫌ったり憎んだりすることはなかった。ただ、唯一にして最大の例外が存在していたことを忘れてはならない。私の双子の弟、ペネ=アレスである。
ペネは私とは対照的に身体が弱く、武の才もまったくと言ってよいほどなかった。そのため私が剣の稽古をしている間も弟は邸に籠って本を読んだりしていた。そんな弟を私は強く嫌悪していた。双子ということは、ペネのような弱い遺伝子を私も持っているということになる。強さの追求がすべてだった私にとって、そのことがただ一つの汚点だった。いや、ペネの存在そのものを汚点とみなしていた。
私はその後も順調過ぎるほど成長していき、国のエリート士官学校へ入学、常にトップの成績を収め続けた。気が付けば十七歳になっていた私は既に並みの現役兵士よりも武力で優っていた自信があったが、私の国では軍への入隊は満十八歳以上と法律で決められていたため、次の誕生日が待ち遠しかった。
幼少期となんら変わらず武を極めんと志していた私は、同じく幼少期となんら変わらず邸で読書しかしていない弟のことをますます嫌っていた。家族四人で食事する時も、両親と私、両親と弟で会話することがあっても、私と弟が話すということは一切なかった。
ある日、祝日で学校が休みだったため、私は邸の庭で木剣を素振りしていた。そんな私にティーカップを左手に、父が話しかけてきた。
「ソドよ、武の道で大成しようと日々研鑽を積んでいるお前の姿を見ると、私もたいへん誇らしい気分になる。だが最近のお前の鍛錬を見ていると、少し無理をし過ぎている気がしてならない。息抜き程度に座学をもう少し学んでみたらどうだ。座学といっても戦術学ではなく政治学や経済学のことだ。私も士官学生時代、手を付けてみたことがあるが意外と面白いぞ。」
私は政治学や経済学などといった学問は戦争の役に立たないと決めつけ、不要だと考えていた。そもそも私は卒業に必要な単位を既に取得していたため父の言う座学を学ぶ必要がなかった、同期の連中のほとんどは「お前と違って戦闘分野だけだと単位が足りないんだよ。」などと言ってそれらの学問に勤しんでいた。
「ご助言ありがとうございます。検討してみます。」
私はいつも通りハキハキと父に応答した。父はしばしば私や弟に助言をすることがあったが、基本的に放任主義の育児体制を構えていたため、助言をするだけで強制したり強要したりすることはなかった。そのため私は父の助言を無視することも少なくなかった。事実、私はこの時も助言とは裏腹にその後一切それらの学問に手をつける気はなかった。手をつけることは己の人生の中で絶対にないと確信していた。
私の完璧な人生の構想は、一八回目の誕生日の前日に突如崩壊した。
その日、誕生日当日に軍へ即入隊することが決まっていた私は、来るべき輝かしい明日を待ちわびていた。そんな日の夜、未成年最後の晩餐の最中に、とある一報が届いた。
それは、我が国の軍が北方への大規模侵攻に成功し、壊滅状態となった北側は全面投降を決定し、国まるごと我が国に吸収されることになったのである。これだけでも歴史を揺るがす出来事なのだが、なんと、東、西、南の三ヵ国までもが我が国に下ったのである。
北の国は五国の中でも最大勢力と言われていたのだが、その北が我が国に投降したことによって、他の三国は勢力図の変化を察し、戦争をしても利益がないとの判断からであった。
結果的にたった一日にして五国統一が成し遂げられ、戦争は終結、数百年ぶりの平和が訪れようとしていた。そして政府の方針で、再び戦争が起こらないように武力の放棄、すなわち軍隊の解体が決定した。
父や母は、生きている間に平和が来るなど思っていなかったなどと涙を流し歓喜しているが、私は頭の中が真っ白になって食卓から立ち上がったまま動くことができなかった。
私はそれまで、戦争が終わるなんてことは全くもって考えたことがなかった。なぜなら生まれた時から一度も戦いが途切れることがなかったからである。それは私以外の人も同じだろう。幼少期から今に至るまで、私は己の武力の向上に全てを捧げてきた。それは紛れもなく、将来軍で活躍するためだった。だが、その目的のはずの軍が無くなってしまったのだ。それも入隊前夜に。
訪れようとしていた平和に私ほど絶望した人間は恐らくいないだろう。そう思えるほど、その時の私は絶望の淵に叩き落された気分だった。
平和は、私から生きる目的を奪ったと同時に、私に強大な劣等感を抱かせた。
私は軍への入隊という悲願が事実上不可能になったため、父の推薦で政府の役人として働くことになった。が、政治のことなどまったく分らない私が上手くやっていけるはずもなく、わずか半月でクビになった。もう一度父に世話になることも考えたが、成人にもなってこれ以上親の力を借りることは嫌だった。が、まともに職に就けないまま、結局私はプライドを捨てて実家にて親の脛をかじる生活に至ってしまった。
そんな中、身近に私とは正反対の道を歩みだしていた者がいた。弟のペネ=アレスである。
ペネは私と同じように父の口利きで政府関係の職に就いたのだが、そこで着実に結果を出していき、出世を果たしていった。
私が幼い頃から武の道に励んでいたのと同じように、どうやら弟も幼い頃から膨大な量の書物を読み、膨大な量の知識を身に付けていったらしい。その知識を生かして政府でも一目置かれるような働きを見せているという話を、士官学校時代の同期数人から聞いた。
数年後、私は必死に少年時代に疎かにしていた政治学などを勉強し、ようやく定職に就くことができた。弟はというと、出世の勢いそのままに、大臣へと昇格を果たした。史上最年少で。
私はずっと弟のことを下の存在だと思って生きてきたのにも関わらず、今では完全に弟の方が優れた人間となっている。いや、最初から私の方が劣っていたのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は毎晩床に就くのであった。
1
ニンゲンは、快楽の副産物として生まれてきたから、快楽を求めて生きて消えた。そしてその次に生まれてきたのが私たち。快楽の落し物を拾い集めて飲み込んで、その体はやわやわになって、役目を終えたら大地に溶ける。地に還るなんて素敵なおしまいだ。
「体がやわらない人は神様のサイダーを飲めば、すぐにやわやわになれるんですよ。事前に知らせたようにまだの人には明日配りますから、」
扇風機の音と教師の間延びした声。肌にまとわりつく湿気。
「サナはまだだから貰うんでしょ。」
「うん。」
「飲んでみたいな、柘榴って甘いのかな?」
「見た目キモイから、マズそう。」
柘榴風味の神様のサイダー。ナンセンスな名前の飲み物で、私の人生が変えられる。不死身とうたわれる小鬼の命は、何気ないレモンの実に集約されていたという昔話のように、ニンゲンは未来への希望を柘榴に残したと言われている。ニンゲンが残した命の卵って何味?
「これでサナも楽になれるねぇ。おめでとう!」
嬉しそうに笑う隣の女の子の顔は、半透明でぶよぶよしていた。
快楽の落し物は、苦くて苦しい。私たちはそれを濾して、再び快楽であふれた緑の星を取り戻すために生まれた、究極のお掃除屋。十七歳になってもやわやわにならないのは珍しいから家族も友達も、私の「その時」を待ち望んでいた。やわやわなんてキュートな響きだけど、体はぶくぶくした半透明のスライムのようになり、年齢を重ねるほどに五感が鈍り、薄汚く美しくない生き物になる。
私は、美しくありたいのに。
「ありがと。でも、私は苦しみも愛せるし。」
苦しみから逃げたニンゲンと、苦しみを感じられないあなた達、苦しみを受け止められる私。私の言葉が理解できない彼女を置いて教室を後にした。
2
夏、命であふれる季節。草が風に踊らされ、虫たちが愛を叫ぶ、増水した川の荒々しい音。非情な太陽光を受け止め必死にペダルを漕ぐ私に、それらが襲い掛かる。汗をかくのは嫌い。でも夏は賑やかで、一人ぼっちの帰り道の寂しさがまぎれるから好き。高校に入学したときは三人並んで帰ったけれど、もう私だけになってしまった。
やわやわになったら自転車は漕げない。
「明日はサナちゃんがやわやわデビューだから、じゃーん!」
オレンジ色の光に包まれた食卓、赤飯とトンカツ。
「わざわざこんなことしなくていいのに。」
「いいから、ほらお父さんサナちゃんの箸取って。」
「サナはやわやわになったらもっとかわいくなるぞ。」
ウィィィィィィ。父と母はフードプロセッサ―でドロドロになった赤飯とトンカツをチューブでじゅるじゅると吸い込んだ。
「これで、やっと服を選ぶのもご飯作るのも楽になるわ。」
あぁ、そうだね。
私は硬くて、酸っぱくて、どうしようもないほどに不味い苦しみを水で流し込み、笑った。
3
夏は夜も騒がしい。スズムシの鳴き声、冷蔵庫の駆動音、製氷機から氷が落ちる音、秒針が規則正しく刻まれる音。しかしそれらがほんの一瞬途絶え、深海に引きずり込まれたように感じる瞬間がある。そんな時は、両手を組んで神様にお願いをする。いつも通りの明日を呼ぶための祈り、私を連れて行かないで。神様のサイダーなんて飲ませないで。
神様なんて信じてないのに、こんな時だけ縋り付く。指先から伝わる手の骨の硬さが、私が確かにここに存在する事を証明する。私を連れて行かないで、と祈ったかぐや姫もこの感触を味わったのだろうか。いや、彼女は手を合わせて祈ったのかもしれない。
当然神様への祈りなんてどうにもならないわけで、無力な私は職員室に呼び出された。アタッシュケースなんか渡されたらどうしようと勝手に考えていたが、手渡されたのはただの紙袋だった。
「こっちが材料で、これは作り方。ちゃんと飲んでね。」
「はい。」
「おめでとう、これで楽になれるよ。」
職員室から自電車置き場までほんの少しの距離なのに、誰にもこの袋を見られてはいけないような気がして、ドキドキした。こっそりと袋から柘榴を取り出した。吸い取られていく体温、掌の嫌な熱がすうっと癒されていく。冷たく湿った母に触れる時の感覚。なんとなく怖くて、自転車のかごに投げ込んで力任せにペダルを踏みこんだ。
4
「その時」はこんなにあっさりと、暴力的に私に立ちはだかった。何故皆祝福するのだろうか。この体は、ふくらんでぶよぶよのべたべたになり、美しくなくなる。そんな私を、私は愛せない。なら、誰が愛してくれるのか。目的地もなくひたすらに漕ぎまくって、低木しか生えない山の頂上まで来てしまった。人生で初めて、自分の故郷を上から見下ろした。私が十六年間過ごした町は見事なまでの盆地だった。この山を越えて逃げてしまおうと思い振り返ったが、その先には何も見えなかった。くしゃり、と草を踏む音だけが私の鼓膜を揺らした。
パチパチパチパチ、鼻孔を刺激する独特の香りに思わず足がとまった。橋から河川敷を見下ろすとカップルが花火をしていた。花火禁止の看板を背に、大声で笑う男と女。ぼうっと見つめていたら女と目が合った。
「ねぇ、何してんの! こっちおいでよ!」
「ユウコやめろよ、なんで声掛けんだよ。」
「だってあの子ひとりだし。」
「お前空気読めよ。」
二人は花火を振り回し、言い争っている。やわやわになると、頭も鈍ってしまうのだろうか。
「ねぇ! 置いていかないでよ!」
男は不機嫌な様子で、女を置いてその場を去ろうとした。すれ違いざまに、「あんたも早く帰った方が、」と言いかけたが私を視認した途端「うわ。」と言って走り去った。再び河川敷に視線を戻すと、女は泣きながら花火をしていた。
最後の花火が真夜中の空に落ちていく。
「あの、そんな所で泣いてるなら、ウチに来ませんか。」
何故こんなことを口走ったのか。夏夜の熱に浮かされていたのだろうか。
「やだ、まだ花火する。」
「もう何も残ってないですよ」
そう言うと女、ユウコはノロノロと土手を上がり「連れてって。」と、自転車の荷台に飛び乗った。
5
「この風を切る感じ、きもちい。」
「そうですね。」
遠慮のないユウコと絶妙な距離感を保つ会話をするのは難しい。本当に何故、声を掛けてしまったのだろう。
「その紙袋さ、神様のサイダーでしょ。」
「どうして。」
「ちょっと前に飲んだの。激マズだったぁ。」
「怖くなかったですか?」
「えー? そんなこと考えないで飲んじゃった。何、ビビってんの?」
私は漕ぐのをやめて答えた。
「美しいままでいたいんです。だから。」
「確かに、やわやわになる前の方が可愛かったしモテてたかなぁ。でも私は中身もかわいいから今もモテてる。」
「男に置いていかれましたけど。」
「あんなのどうでもいいし。」
「その割には泣いてましたけど。」
「泣いてる私もかわいいから、いいでしょ。」
私は再び生ぬるい空気を振り切るように足を動かした。
突然ユウコが歌を口ずさんだ。ジャミロクワイ、ヴァーチャル・インサニティ。あまりにも無知で無力な私たちに、ニンゲンは魔法をかけた。狂気で満ちた世界では、何も見えなくて息ができない私たちから苦しみを取り除くために。世界を取り戻すその時まで。
特段上手いわけでもない歌声に、私の意識は吸い込まれていった。
6
目が覚めた。全身筋肉痛だ。部屋はすでに蒸し暑く、とっくのとうに昼を過ぎてしまったように感じる。部屋にユウコの姿はなく、扉は半開きのまま。ほかに家族がいる気配もなく、とりあえず重い足を引きずりゆっくりと階段を下りた。
とにかくのどが渇いて仕方ないので、冷蔵庫から適当に飲み物を引っ張り出し流し込む。ひんやりとした液体が喉から食道へ、そして胃にたどり着く感覚。一息ついて、何か食べようと振り返るとシンクの中で真っ赤な果物がぱっくりと口を開けて中身を見せていた。
ああ、今日は何を作ろうとしていたっけ。
「つづみちゃん! 学校遅刻するわよ! 起きなさーい!」
いつものように二階から母の呼ぶ声が聞こえてきた。寒がりの私は布団から出られないまま「起きてるー!」と返事をする。そんな高校二年生の秋。
急いで顔を洗って制服に着替えた。時間がなくても髪の毛とメイクだけは納得のいくまで時間をかけてセットしてしまうのはいつものことだ。
荷物を全部持って階段を駆け下りながら、リビングに向かって「行ってきまーす!」と叫ぶと「つづみちゃんお弁当忘れてるわよ! ほら、朝ごはんも食べていかないと倒れちゃうわよ!」と母が言う。
お弁当を受け取って「大丈夫! お弁当ありがとう! 行ってきまーす!」と、私は急いで家を出た。
少し聞き飽きてきたプレイリストの曲を聞きながら学校までの道を歩いていると、後ろから「わっ!」と晶に驚かされた。
「もう、びっくりした! やめてよー」と言うと晶は「そんなに驚くと思わなかったわ」と笑っている。
私と晶は幼稚園からの幼馴染だ。親同士が仲が良かったため、私たちは昔から一緒に遊ぶことが多かった。なんだかんだ高校も同じ所に通っている。
周りからはよく「晶のこと好きなんじゃないのー?」と聞かれるけれど、私は友達として晶と仲良くしているだけで、恋愛感情を抱いたことはない。
「そうだ、ちょっとプレイリストの曲増やしたいと思ってるんだけど、なんかいい曲ない?」
「あー、ちょっと昔の曲だけど『金木犀』って曲いいよ、俺最近聴いてる。」
「金木犀ね、オッケー。ちょうど秋だしいいね! 後で聴いてみる。」
忘れないようにスマホに曲名をメモして歩き始める。晶が聴かなそうな題名の曲だったから、聴くのが少し楽しみだった。
晶とは毎朝約束して一緒に登校しているわけではないが、登校中に会うことが多く、会った時は学校まで一緒に行っている。
何気ないことを話しながら歩いていたら、いつの間にか学校に着いていた。
「じゃあ、またね。」と廊下で晶と別れて教室に入ると親友の桃がいた。
「桃おはよう! なんか肌寒くなってきたね?。」
「つづみおはよー! 桃、秋好きだから涼しくなって嬉しい!」と桃が無邪気に笑う。
桃とは中学校からの仲で同じ高校に入るために二人で受験を乗り越えて、高校生になった今もこうして仲良くしている。
「ねえ、桃ん家の昨日の夜ごはんなんだったと思う?」と、桃が聞いてくるから、きっと桃の好物だったんだろうなと思った。
「んー、オムライスかな。」
「正解! なんでわかるの!」
「なんでもお見通しなの!」と、今日も何気ない会話をするけれど、きっとこういう日常が幸せなのだろうと思う。
眠たい授業を六時間受け終わって帰る支度をしていると、他のクラスの友達の所に行っていた桃が教室に戻ってきた。
「つづみー! 今ね、二組行ってたんだけどかっこいい人いた!」
桃はいつもイケメンを見つけては私に報告してくるが、私はあまり興味がないから「またー?」と呆れて笑う。
「もう、たまには見に行こうよつづみ?」とねだる桃に「んーじゃあ次は見に行くから。ほら帰ろう桃!」と言って、不満げな顔の桃を連れて学校を出た。
会話が盛り上がって、気づいたら桃と別れる道まで来ているのはいつものことだ。
「じゃあまた明日ね! 次かっこいい人見つけたら絶対つづみに見せるから!」
「わかったわかった、見せてね、明日ね!」
次の日、晶と登校中に出会わなかったので一人で学校へ向かった。ふと甘い香りがして上を見上げると、たくさんの金木犀の花が咲いていることに気がついた。
そういえば、昨日晶が教えてくれた曲の題名が「金木犀」だったことを思い出した。調べて聴いてみると、落ち着くメロディーと素敵な歌詞に惹かれてすぐにプレイリストに追加した。
晶に会ったら伝えようと思った。
学校に着いて教室に入ると、今日も桃は先に教室にいた。
「桃おはよ!」
「おはようつづみー! 被服室いこー!」
「あ、そっか、一限家庭科か!」
教室から被服室に向かう途中、隣にいた桃が急に騒ぎ出した。
「ねぇ、つづみ見て見て! 昨日言ってた二組のイケメンあの人! かっこいいでしょ?」
なんだ、そのことかと思って桃が指差す先に目線を移した瞬間、時が止まったようだった。そこから目を離すことが出来なかった。
「つづみ聞いてるー?」
「え、あ、うん。」
「きゃー! 見て! 笑顔も素敵!」
桃が何か話しているみたいだが耳に入らなかった。
「キーンコーンカーンコーン」
チャイムが鳴って我に返った。
「やばいつづみ遅れちゃう! いそげー!」
二人で被服室まで猛ダッシュして、なんとか授業に遅刻せずに済んだ。
その日の授業は何も頭に入らなかった。初めての感覚に戸惑いを隠せないでいるとやはり桃にもそれが伝わったらしく「つづみ今日なんか変だよ? どうしたのー?」と言われてしまった。
「なんかね、さっきの二組の人が頭から離れなくて。これ一目惚れっていうのかな? 私こんなこと初めてだからわからなくて。」
一番信頼している桃にならと小声で打ち明けた。するとももは「えー!」と大きな声を上げた。「しーっ! 聞こえるから」と言うと桃は申し訳なさそうに謝った後「桃、応援するからね!」と言ってくれた。
桃と話しているうちに、私は多分、あの人に「好き」という感情を抱いているのだと思った。
次の日の朝、あの人が頭から離れなかったせいでほとんど眠れず、頭がぼんやりとしたまま家を出ると、晶が少し前を歩いていたので走っていった。
「晶おはよう!」
「おー、つづみおはよ。なんか眠そうだね?」
「え? そうかな。全然寝てないとかじゃないよ。」というと晶は笑っていた。
今まで自分から恋愛の話を切り出すことがなかった私が自分から昨日の話をするのはなんとなく恥ずかしくて「ねぇ、晶は好きな人とかいないの?」と遠回しにその話題に持っていこうとした。
「好きな人? 別にいないけど。」
「えー、じゃあ可愛いと思う子くらいいるでしょ?」と聞いた時、晶の顔が一瞬曇ったような気がしたが、すぐに馴染みのある表情に戻って「いないよ。つづみからそんな話題珍しいじゃん、つづみこそ好きな人でも出来たんじゃないの?」と聞いて来た。
「実はね、私、一目惚れしちゃったみたいなの。」と言うと晶はとても驚いた。
今まで恋愛にそこまで興味がなく恋愛経験もほとんどない私が突然こんなことを言い出すから驚くはずだ。
「まだ名前も知らないんだけどね。」と私が笑うと、晶は「上手くいくといいな。なんかあったら相談して。」と少し嬉しそうに言ってくれた。
その日の昼休み、桃が一緒に二組の友達のところに名前を聞きに行ってくれた。
教室にはたくさんの人がいたが、昨日見たあの人をすぐに見つけることができた。
「あーあの人? 綾瀬蘭だよ。」
数日後、二組の友達のところへ行く桃に着いて行き、勇気を出して蘭くんに話しかけた。
初めは少しそっけない蘭くんだったが、話していくうちにだんだん心を開いてくれるようになった。私は用がなくても蘭くんに会いに二組へ行った。
そんなある日、珍しく教室でイヤホンをしている蘭くんを見た。私は蘭くんのところに駆け寄って行って「何聴いてるの?」と話しかけた。
蘭くんは片方のイヤホンを外して私に渡してくれた。赤くなっているかもしれない頬をどう誤魔化そうかと考えながら、蘭くんに渡されたイヤホンをつけると聴き覚えのある曲が流れてきた。
「蘭くんこれ『金木犀』だよね?」
「そうだよ、隠れた名曲。」と蘭くんが笑った。
「私もこの曲好きなの! 幼馴染に教えてもらったんだけどね。」
「幼馴染かー、いいな。この曲知ってる人あんまりいないからなんか嬉しい。」
私はなんだか蘭くんと晶も仲良くなれるような気がした。
晶は最近、朝は学校で勉強をしているらしく、一緒に登校することがなかったが、久しぶりに晶が前を歩いていたから一緒に登校した。
「ねぇ、晶。この前一目惚れしたって話したじゃん? その人と結構仲良くなれたんだけどね、その人も『金木犀』聴いてたの!」
「えーまじで? それは何か嬉しいわ。まあ、俺も他の人に教えてもらった曲なんだけどね。」と晶が言った。
「あ、そうだったの? でも晶も蘭くんも知ってるなら隠れた名曲じゃないね!」と私が笑うと、晶はどこか不安げな顔で「え? 蘭くん? その人、苗字何?」と聞いてきた。
晶も知ってる人だったのかと思って「綾瀬蘭くんだよ! もしかして晶の知り合いだった?」と言った。
「いや、知り合いっていうか…。」
晶は苦しそうな表情で言葉に詰まっていた。そして「ごめん。」と言って走って行ってしまった。
「待って晶!」と叫んでも晶は止まってくれなかった。その場に置き去りにされた私はどうしていいか分からなかった。
ぼーっとしたまま学校までの道のりを一人で歩いていたら遅刻してしまった。何も頭に入らないまま一限が終わると、いつものように桃が駆け寄ってきた。
「つづみおはよー! 遅刻なんて珍しいね。どうしたの?」
「桃、私ちょっと蘭くんのとこ行ってくる。」
朝あったことを蘭くんに話そうと思って二組に向かった。
二組は二限が移動教室なのか、教室の電気は消えていて人が沢山出て行くのが見えた。二組を覗いて蘭くんの姿を探すと、晶と一緒にいる蘭くんを見つけた。
「蘭くん。」
私の声に気づいた蘭くんと晶がこちらを向いた。
「晶、なんでさっき逃げたりしたの? 蘭くんと友達だったならそう言ってくれればよかったのに。それなら私嬉しいよ!」
二人も仲が良いなら、これからもっと楽しくなる予感がした。しかし、そんな風に思えるのも束の間だった。
晶は真剣な表情で蘭くんの手をとって強く握った。そして蘭くんも晶の手を握り返した。私が戸惑って何も言えないでいると、晶が口を開いた。
「ごめん、つづみ。実は俺たち付き合ってるんだ。」
晶が何を言っているのか、訳がわからなくて私は呆然としてしまった。
複雑な感情に喉の奥が詰まったように苦しくなり、目から溢れそうな涙を必死に堪えて
「え、どういうこと? 付き合ってるって何? 私、蘭くんのことが好きだよ。」と言うと、ずっと黙っていた蘭くんが口を開いた。
「つづみちゃん、ごめんね。」
蘭くんの言葉で、二人はちゃんと想い合っているのだと分かってしまった。私はどうしたらいいかわからなくて晶に当たってしまった。
「なんで言ってくれなかったの? 私そんな話聞いたことなかったよ!」
「つづみの相手が蘭だったとは思わなかった。ごめん。でも、俺だって、女の子好きになるってことを前提に話されて辛かったよ。」
晶にそう言われて、私は人は異性を好きになるものだという前提で恋愛の話をしてしまっていたことに気づいた。そして晶を傷つけてしまっていた自分を責めたくなった。
しかしそれと同時に、報われなかった蘭くんへの想いが行き場を失って胸が張り裂けそうになった。
「ごめんなさい。」
それ以上言葉を発することも二人の顔を見ることも出来なくなって、私はその場から走り去った。
すると廊下で「つづみ!」と私を呼ぶ声が聞こえた。桃だった。桃の顔を見ると今まで必死に堪えていた涙が一気に溢れてしまった。
「桃、私、わたし…。」と泣いて何も話せない私を、桃は黙って抱きしめてくれた。
「もう、今日の授業は全部寝てていいよ! 桃が許す!」と精一杯の桃なりの優しさで包んでくれた。
六限が終わって、帰る支度をして桃と一緒に学校を出た。
学校からの帰り道、今日あったすべてのことを桃に話した。桃は「つづみは頑張ったよ!えらい! つづみには私がついてるから大丈夫ー!」と笑ってくれた。
ふと甘い香りがして上を見上げると金木犀の花が咲いていた。この前見た時は満開だった金木犀の花は、もう枯れ始めていた。隣にいた桃も金木犀に気づいたみたいだった。
「ねぇ、つづみ。金木犀の花言葉、教えてあげる。」
桃は真っ直ぐ私の目を見て「真実の愛。」と呟いた。
目の前の女子高校生は、か細い手で僕があげたスポーツドリンクを包み込んで飲んでいた。正確な年齢は全くわからないが大体十七歳か、それくらいに見える。僕のクラスにいる女子高生はだいたいそんな感じだ。その手はひどく悴(かじか)んでいる。今すぐひび割れしそうな指先で、そっと飲み物を支えている。こんなに寒いのだから、もっと温かい飲み物にすればよかったと後悔した。人は急いでいるとこうも冷静な判断ができないものかと自分の頼りない脳みそに落胆する。
「今日まだ何も食べてなくて…。」
街灯の下で小さい雪だるまのようにうずくまっていた彼女に飲み物を渡して二〇分ほど経った。もう飲み物を渡した時点で僕は去っていってもよかったのだろうが、タイミングを完全に失ったので、彼女が完全に動けるようになるまでは様子を見ておこうと思った。なんと言おうとこんなに雪が降りしきる夜に少女を一人にしておけない。君はどこから来たの、なんで一人なの、どうして倒れてしまったの、ご家族は、家は…全部聞こうとしても僕が不審者に思われてしまっては仕方がないのでそっと見送ろうと思っている。駅くらいなら送っても大丈夫だろうか。
安堵のため息をつく少女に僕は声をかける。
「美味しいですよね。これ。」
彼女は僕を見上げてしばらく見つめたあと首を細かに何度も縦に振った。
美味しいと思ったものを共有したいのは、相手に喜んでもらいたいからか、それともそれを美味しいと思っている自分を肯定して欲しいからなのか。僕にはまだわからない。
やがてそれまで白かった椿の蕾はゆっくりと花弁を開いた。頬、鼻、そして唇。やっと血が通ったようで安心した。彼女の身体にはたっぷりと蜜を含んだ花が沢山咲いていた。項、鎖骨、そしてスカートから微かに見える限り太ももにも咲いている。色とりどりの花が咲き誇っているが、ところどころ花弁が欠けているものもある。
「この花たち、気になりますよね。」
僕の視線に気づいたのか、彼女はそっと項をなぞった。そんなに長く見つめていたつもりはないけれど、視線を感じるほど眺めてしまっていたのは申し訳ない。僕は急いで視線を逸らす。
「あなたも美味しそうに感じますか?」
「は?」
予想外の質問に思わず気の抜けた声が出てしまう。美味しそう? 項の花を? 思うわけがない。僕は蜂なんかじゃない。
「あぁそうですか。助けていただいたことですし、特別にいかがかと思ったんですが。…本当はお金とるんですけどね。」
少女はそう言いながら微笑んだ。この上なく悲しそうに。穏やかにカーブを描く睫毛が静かに上下して僕の瞳を捉える。そう言えば聞いたことがあった。世の中には自分の体に生えた花の蜜を虫に吸わせて生計を立てる人がいると。僕にとっては全く興味のない話であったので人から聞いても何も気に留めてはいなかったが、そんな人がいま目の前にいるとは。
「僕は大丈夫です。…でもお仕事大変なんですか?」
少し花弁が欠けた花をもう一度ちらっと見たあと、彼女の顔に視線をずらす。
彼女を入れてあげるようにさしたビニール傘には雪が降り続いている。最初は当たってすぐ溶けていたが、さらに気温が下がったのだろうか。いよいよ溶けずに傘の上に溜まっていくようになった。
「中には金を渡さないで蜜だけ吸って行こうとする虫がいるんです。それに比べたらお金払ってくれるだけマシですね。」
「僕も、あなたにとって虫に見えているんですか?」
傘が重くなっていく。傘を持つ手は少し震え出していた。
「うーん、でもイモリみたいな顔してますし、蜜は食べなさそう。」
彼女は黒く伸びた髪を耳にかける。栄養が足りていなくて、今にも折れそうな小枝のような手指。
「どういうことですか、それ。」
なるほど、確かに僕の顔は両生類のような顔をしているかもしれない。だが顔で蜜を吸うか否かを判断されるような問題なのか。少しいただけない言われようだ。
「冗談ですよ。でも最初は虫っぽくない、そう思うんです。途中で虫に変わる人もいます。」
「そんな仕事いますぐやめた方がいいですよ。あなたに負担がかかる。何もかもを信じられなくなりますよ。」
僕はしゃがみ直して、彼女に向き合った。傘に積もった雪は雪崩を起こして、地面に降り注いだ。
「みんなそう言うんですよ。」
そう言って彼女はスポーツドリンクを飲み干した。カバンの中に空のペットボトルを入れ、僕の方に体の向きを変える。
「私が蜜を売る仕事をしている理由はいくつかあります。そうは言ってもこの仕事にプライドがあって、他の女の蜜を吸って満足そうにしている虫を見るのは気に食わないですし、私の蜜で満足してくれるならこれ以上に幸せなことはない…。こんな奇妙な体で生まれて、家族は私に嫌気がさしてるんです。誰にも認めてもらえなかったこの気持ち悪い体も、誰かに認めてもらえるなら私は幸せだと思ってしまうんです。」
僕を見上げているのか、睨んでるのかわからないが、しっかりと僕の目を見つめていた。僕は瞬きができなかった。その瞬間彼女に喰われそうな気がした。
きっと言い慣れているんだな、この言葉も。紡ぐ言葉には言い淀みがない。きっとこれまでもこうして、上辺だけで「そんな仕事は今すぐやめろ」とか「君のために言ってるんだ」とかそれらしい言葉を並べられてきたのだろうな。僕ときっと年も近くて、僕より小さくて、頼りなさそうな背中でそれを受け止めてきたのだろう。
「それに、今私からこの仕事を取り上げたら、私はどこにも居場所がない。何も食べるものがない。」
それでもまだそんな無責任なこと言えるんですか。とは口に出さないものの、そう言いたげな瞳だった。唇を噛み、寒そうな指の関節にはサザンカが咲いたようだ。
「恵まれている人からそう言われるのが、一番堪えるんですよ。申し訳ないけど。」
彼女は僕の傘からするりと抜けて立ち上がった。膝の関節の音が聞こえて、僕は彼女を見上げる。僕も膝を鳴らしながら急いで立ち上がる。傘に積み上がっていた雪は雪崩を起こし、僕の背後に滑り落ちた。彼女を引き留めて何か言ってやりたい。けどそれには僕は無力すぎる。同い年の女の子を養ってあげる経済力はない。彼女の手を引いて花園から抜け出す行動力もない。
彼女の背中が小さくなる。雪を踏む足音も小さくなる。猫のように細い彼女の髪の毛に雪が降り注いでいく。僕は、ただ男というだけでなんとなく安全な人生を送っていたけれど、彼女はきっとそんなことはなくて。きっと僕がこのまま彼女に背を向ければ、有限な花をさらに消費して、生き急いで。その花を枯らしたらどうやって生きていくつもりなんだ。それならば…。
僕は傘を畳んで雪の中に放り投げた。彼女が踏んだ後の雪道を僕も踏んで行く。僕のほうが足が大きいので雪を踏む音が小さく暗闇に溶けた。心もとない街灯から離れてしまったので、僕らは真っ暗だ。街から漏れる微かな光でしか、僕らは僕らを確認できない。なんとか彼女に追いついて腕をつかもうとしたが、指が肘に触れそうになったところで止めた。ここで僕が彼女の腕をつかんだら、僕も虫になってしまう気がしたのだ。
「待ってください…!」
振り返った勢いで項の花が揺れる。せっかく潤ったはずの身体なのに。彼女の瞳から水分が抜けていきそうだった。僕は急いで着ていたコートを脱ぐ。途端に脇に北風が入り込み、身震いをした。でも君はきっと、もっと凍える夜を過ごしているんだ。脱いだコートを両手に持って僕は駆け寄る。彼女の肩に優しくコートを掛け、ボタンをかけた。薄暗がりの中、困惑している彼女と目が合った。白兎のように小さく、体を震えさせて見上げる彼女を見ていると、なんとなくその花もおいしそうに見える気がして、僕は虫の気持ちがわからないでもなかった。彼女はボタンをかける僕の手をどうやら見つめているらしい。
「あ、あの…なんですかこれ。」
「僕にあなたの仕事を止める権利はありません。だってあなたがそれで今日寝る場所を確保して、明日食べるものを手に入れているのなら、それを取り上げるわけにはいきません。…だから少しでもその仕事を安全に行ってほしい。このコートであなたの花を隠すんだ。」
えっ? と僕を見上げた彼女と再び目が合う。
「これ以上、不本意に花びらを散らさないように、虫に蜜を吸われないように。それはあなたが、この仕事を全うしてやめる日が来るまでです。終わってしまうのではなく、終わらせる時まで、自分を大切にしてほしいんです。」
彼女は口を半開きにして何度も瞬きをした。
「…はじめて言われましたよ、そんなこと。やっぱりあなたって変わっているんですね。」
僕がかけたボタンをそっとなぞった。
「…ではこのコートは無事に私がこの仕事を終えられたらお返しします。その時まで、お互い頑張りましょう。」
小枝のような手を差し伸べられた。僕のやけに大きく分厚い掌がそれを握り返す。
「死んでもあなたを探しだします。」
「死なれたら困ります。なんのために働いているんですか。」
「そうですね。」
うつむいて笑った彼女の前髪が一瞬浮かんだ。彼女の前髪に落ちる結晶が見えなくなって、雪が止んだことに気づく。
「では、どうかご無事で。」
深くお辞儀をして、どんどん煌びやかな光を放つ街に溶け込んでいく彼女を僕はただずっと見つめていた。一度も振り返らず、しっかりとした足取りで遠くなっていく。もし振り返ったら、僕はどうしてしまうのだろう。白い息を一つ深く吐き、彼女が消える前に僕も街の光に背を向けて、歩き出した。街灯の下で一人取り残されたビニール傘と目が合う。夜に溶ける薄いブレザーを、僕は自分で握って抱きしめた。
その日島のダイヤと称される眩しすぎる朝日は僕の顔を不自然なまでに煌々と照らしていた。
錆びついた自転車に乗って学校へ向かういつもの朝。木々たちのきつい匂いが六月の生ぬるい風に乗って、僕の制服にまとわり付く。その感覚が気持ち悪くてペダルを漕ぐ脚を早めるけれど漕げば漕ぐほどべったりと僕に付き纏う。この間自然文化遺産に認定されたばかりだという海に背を向け自転車を走らせる。僕の心まで透かしてしまいそうなほどまっさらな海は泳げないほど浅い。
この島の自然は人工的だ。完璧すぎる島の自然は不自然なほどに美しい。夏になると観光客が大勢やってくる。こんな島で生活できて羨ましい、ここで生まれ育ちたかったと皆は言うけれど都会のビル群となんら変わらないデザインされた都市だ。何もないただそこに人がいるだけ。
今日は遠くから講師を呼んでいると水野先生が告げた。
「入ってどうぞ。」
「いやぁそんな立派な奴じゃないねん。大袈裟や。」
半笑いで教室に入ってきた男はヤマガミと名乗った。小太りの中年男性でこの島で量産されている、いかにもな観光客の風貌だった。
「普通の『山』に上下の『上』で山上って言います。GODの方の『神』じゃないねん。水野くんとは昔の職場が一緒でな、たまたま島に来たからなんか教えられたらええなーって。」
そう言って山上はカメラを取り出して教卓に並べた。
「結構前からカメラが趣味でね、この島にも写真を撮りに来たんや。良かったら皆さんにもカメラに触れてもらえたらええなーって、ね?」
水野に目をやる。
「ということですので、今日は特別にカメラの授業を設けたいと思います。とりあえず教卓に置いてあるカメラ一人一台ずつ取って席に座ってください。」
僕を除く生徒四人は立ち上がりカメラを選んだ。四人は教室の中に高くて大きな波を作った。僕はあの波に乗ることはできない。みんなが選び終わったのを確認して僕は教卓へ向かった。教卓の上には大きなものが二台と小さいシンプルで小さなカメラが一台並べてあった。
「ゆっくり選んでええんやで。」
僕はパッと目に入った小さくてシンプルなカメラを選んだ。
「お? 君、お目が高いな。それはな、フィルムカメラゆうてちいちゃいけど他のとは一味違うんや。」
見渡せば皆大きめのチワワくらいの大きさはあるカメラを選んでいた。片手で収まるサイズは僕だけだった。
「んじゃみんな席ついてーな、説明していくで。絞りとかシャッタースピードとか色々あるねんけどまあ難しいことは置いといて右上のボタン見てくださいな。ここにAって書いてあるボタンあるやんな? これにダイアルを合わせてくれ。」
みんながカチカチとダイアルを合わせる音がする。
カチカチカチカチカチカチカチカチ
「おいおい誰か回しすぎてる奴おらんかー。壊れてまうで、壊れたらたっかいカメラ弁償やでー。」
「おいお前? 回しすぎんなって。」
「俺とちゃうわ!」
教室は海に似ている。満ちたり引いたり荒立ったり心地よい音で響いたり。たった今教室で起こる笑いの渦の中で僕は直立している。
「これさえやっとけばどんな風景もとりあえず綺麗に撮ることができるんや。魔法みたいやろ。」
カシャ
「うわほんとだ! すっごい綺麗に映ってる。こんなぼろい学校でもきれい映るんだ!」
「ぼろい言うな!」
教室が満ちていく。
どんな風景も綺麗に写せる魔法のボタン。僕もそのボタンを探してみたが見当たらない。
「あ、そこの最後に選んだ君のカメラはちょっと特殊やからAのボタンはなかったな。すまん気付けやんくて。」
「あ、全然大丈夫です。」
渦を巻いていた教室がスッーっと静かになる。波が収まっていく。みんなが持つカメラで今のこの教室を撮っても綺麗に写すことが出来るのだろうか。水野先生と目が合う。
「はい、ようやく静かになったところでこのカメラを持って実際に街に出てみましょう。お題は『この島で一番好きな場所』です。今日は暑いから水筒も忘れずに。」
「え、今から?」
「今からやで。」
めったにない校外学習に喜んだ四人はワイワイと教室を出て行った。
「この島で一番好きな場所」このお題が僕の頭の中でリピートする。みんなが出て行った教室は好きだ。僕にとって心地のよい波が押し寄せる。カーテンが少しなびく程度の風に校庭の砂が混ざって教室の床が少しざらつく。これ以上暑くなれば窓を閉めてクーラーを付けてしまうので今しか味わえない感覚だ。写真にこの感覚を映せるとは思わないけれど、ここが好きな場所であることは確かなのでシャッターを切ろうとする。
「がきんちょは元気やなぁ。」
僕の心地よいシャッター音は山上に遮られた。
「そうやんな。その元気分けてほしいわ。」
水野先生は関西弁を話した。根っから島っ子だと思っていたので違和感しかなかった。
「あ、そういえば清水君さっきはありがとうな。清水君には感謝せんとあかんな。」
僕に二人の視線が向けられる。
「あいつらちょいと元気すぎんねん。もうすぐ高校生なんやから少しは落ち着けて。なぁ? 清水くんだけやで、年相応なん。今日もありがとうな。清水君のおかげやで、教室静かになったの。」
「そんなことないです。」
「あのなぁ。何君言うたっけ。まあ君、もっと若いんだからアクティブいかなあかん。もっと自分出してええんやで。」
「ありがとうございます。」
心地よい波風が漂っていたはずの教室が一瞬で白波を立て始めたので僕は外へ出た。
―この島で一番好きな場所
僕は海へ行くことにした。完璧な島にある浅すぎる海はどこか僕に似ていると思ったからだ。
僕は浜辺へ降りるための階段に座った。海に来たのは久しぶりだ。本物の海は教室よりずっと穏やかで冷たい。一定のリズムを刻んでそれ以上早くなることも遅くなることもなくただ淡々と満ちて引いて満ちて引いて。
「お、清水君来ていたんですね。急にいなくなるから何事かと思いましたよ。」
「やっぱそうやんな、この島といったら海やんな。」
大きな海の横にまた小さな海が生まれた。その海は変則的に波が変わり僕はそれに合わせて流されなければならない。
「そういえばこの辺って金色のイルカ見えるとか見えないとかいうよな。あれって実際どうなん?」
「あ、その話嘘嘘。ただの神話や。太陽の光がたまたま一匹のイルカに当たって、それが金色に見えてただけの話やねん。」
「そうやったんか。でも素敵な話や。君も座ってないでなんかええと思うところ撮ってみいや。」
あてもなく浜辺を歩く。水遊びをする子供、犬を散歩しているおばあちゃん、割れた貝殻…どれも写真に残すに値しないものばかりだった。
すると水平線とほぼ重なっている所あたりに微かにイルカの大群が見えた。肉眼ではよく見えないのでカメラでズームする。カメラのレンズ越しに見えたイルカの大群の中に金色に光るイルカが見えた。確かにそこにいた。金色のイルカは群れとは少し離れたところを泳いでいた。まるで自分だけがみんなとは違うことを恐れているように。自分が金色で悪目立ちしていることを嫌がっているようだった。僕はシャッターを切った。
一ヶ月くらい後、山上から現像された写真が送られてきた。そこには何も映っていなかった。写真は全て白飛びしていて海であるということさえ分からなかった。
僕は写真をぐちゃぐちゃに握りつぶしポケットに入れた。そして自転車に乗りいつもの通学路を走りみんなのいる海へと向かった。
一
「配信始まっちゃう…」
脱いだパンプスをそろえることなく通勤カバンをフローリングに捨て置きスーツのシワも気にすることなくベッドへと身を投げる。
スマートフォンを操作する指は考えるよりも先に動き、いつもの待機画面を表示させていた。
「…映ってるかな?はぁい、皆さんこんばんは十時になりました。カナートの配信のお時間です。今夜も来てくれてありがとー…」
最近新調したばかりのイヤホンから聞きなじんだ声が流れる。
女性にしては少し低めの落ち着きのある声は私を一瞬で現実世界から連れ去ってくれる。
「…そうなの!でも逆にいっぱい歩けたから運動になってラッキーみたいな」
「『カナポジティブ過ぎーけどそこが好き』ニコさんありがとう。私も好きだよー。自分のこと」
ケラケラと楽しそうに話している彼女の名前はカナート。
「道を開けろ」と声高々に宣言しハイブランドの広告に出るような彼らやコスメを自らプロデュースしブランドまで立ち上げた彼女らほどではないが持ち前のポジティブさと巧みな話術を売りに根強いファンが多くいる。
私も彼女に魅了された一人だった。
「『私もカナちゃんみたいになりたいなー憧れ!』ナガリエさんありがとう。でもね私なんて自分のこと大好きなだけだから。誰でもなれちゃうよ」
彼女は私には無い物を持っている。どんなことがあっても楽し気に話すことができる前向きさ。自分のことが好きだと堂々と言える自信。だからこそ私はこれほどまでに惹かれているのかもしれない。いわゆる無いものねだりというやつだ。いや、もし彼女が私でも彼女はきっと自信をもって自分のことが好きだというのだろう。
「そういえばこの前コンビニでめちゃくちゃおすすめのスイーツあるって言ったでしょ。あれがね…」
彼女の発する全てを拾うため瞳を閉じて聴覚だけに意識を集中させていると無機質な通知音が侵入してきた。
瞼をこすりながらスマートフォンの通知を見るとそこには職場の上司からのメール。開いてみればそこには今日頼まれた企画書の締め切りが来週から明後日になったというような内容が書かれていた。頼まれたと言えば聞こえは良いが実際は押し付けられたと言った方が正しいかもしれない。それでも結局は自分の意見を出して断れない自分が悪いのだが。こんな性格になったのも社会人になってからだっただろうか。最初こそは自分の意志だってしっかりと持っていたはずだ。しかし自分の上位互換のような人間がいくらでもいるのだと悟った時、いつ切り捨てられるかが不安で何よりもまず人の顔色を見て行動するようになっていた。人の意見ばかり気にしていたらいつの間にか自分の意志も解らない様な人間になってしまった。そこに残っていたのは「永野理恵」ではなく周囲に都合が良いだけのマリオネットだったのだ。
透明な水に一滴の泥水を垂らしたように自己嫌悪がこれまでの幸福感を侵食していく。
重い手つきで上司へ承知の連絡をし再び配信画面に移る。しかしどれだけ水が多くてもどれだけ落とされた泥水の滴が小さくても、一度泥が混ざってしまえば新たに水を足そうがそれはもう純粋な水ではなくなってしまう。
あれだけ逃すまいとしていた彼女の声はノイズがかかったように断片的にしか頭に入ってこない。
「…だから…しないで…ありのままね…」
ありのまま…ありのままか。彼女の様にちゃんと自分を持っている人間ならそれで良かった。ありのままの自分すら見失ってしまった私はどうしたらいいのだろうか。
二
「それじゃあ皆また来週のこの時間に待ってるね。おつカナート!」
一時間の配信を終えて固まっていた身体をほぐすように伸びをする。
配信を始めてからもう十数年は経っているが今でもやはり緊張してどこか体に力が入ってしまう。
青い鳥のアイコンをタップし来週の予告をしてから検索欄に自分の名前を打ち込む。配信をしてからエゴサをするのはここ最近のルーティンとなっていた。
画面をスクロールしていくと見知ったアカウント達が今日も感想を呟き褒め称えてくれている。これがあるからエゴサはやめられないのだ。下へ下へと情報を流していくと見慣れない黒塗りのアイコンが目に入る。
「カナートってマジで個性ないのに馬鹿みたいにおもしろおもしろいって囲み共に持ち上げられててきっしょい
話してたコンビニの話も何番煎じの話だよ
あと前向きの押し売りうざすぎ」
いわゆるアンチというやつだろう。全く知らないはずのアカウントの呟きに既視感を覚える。学生時代のクラスメイトの、私がこの道に入るきっかけとなった人間の顔が脳裏に浮かんだ。
「上松さんって普通だよね」
あの頃の私はこの言葉の真意を理解できない程子供ではなかったが素直に受け取れる程大人でもなかった。ある日何気なく放たれたクラスメイトのこの言葉は真綿で首をしめるようにじんわりと私の心を蝕んでいた。普通であることが悪いことではないし世の中では普通と呼ばれる人の方が多いことは分かっている。しかしそれでもお前の代わりなんていくらでもいると言われているようで、代えのきかない特別な存在になりたくて、個性への憧れは増すばかりだった。そんな時に出会ったのが「配信」という行為だ。配信をしていた人々は皆自分の個性を、才能を、存在を眩しいほどに誇示している。私はこれしかないと引き込まれていった。
始めたばかりの時は配信者であるというだけで優越感を得ていたが次第にもっと特別になりたいという欲求がふつふつと湧いていた。ありのままの自分のままでは駄目だと学校で人気だった子達のキャラクターを少しずつトレースしてサンプリングしていった。リスナーは増えていったが、増えていけばいくほどカナートの中から私は消えていく。リスナーが求める「カナート」に「上松花菜」は不要になったのだ。
配信ではありのままでいれば良いなんて事も言っていたがそんなの幻想以外の何物でもない。ありのままの、凡庸で無個性な面白みのない自分を自分が嫌うのならばどうすればいいのだろう。作り出すしかないのだ。幾重にも仮面を被せた自分を。たとえそれが本来の自分を暗闇に押し込めることになったとしても。
今日も来週もずっとその先も。私は創られた「ありのまま」をまとっていく。
三
「花菜今日来てないのかな」
数年ぶりに開かれた同窓会。かつての旧友たちが各々着飾り、思い出話に花を咲かせるなかで私は上松花菜を探していた。花菜は高校時代の数少ない友人だったが高校を卒業すると共に私は上京、彼女は地元に残ったので段々と疎遠になり連絡も取れなくなってしまった。
あちらこちらと視線を向けていると広い会場で群れから離れぽつんとしている一人が目に入り思わず声をかける。
「りえちゃん久しぶり。元気してた?」
彼女は永野理恵。席替えで数回席が近くなったことがあったはずだ。
「元気だよ、葵ちゃん…だよね?」
話し始めたところでなにかが引っかかる。永野理恵は常にクラスの中心にいて笑顔を絶やさず周りの空気を明るくする太陽のような人間だった。間違っても同窓会で一人になるようなことはないだろう。そう思って彼女を見つめるとと微笑みは浮かべているもののどこか表情にくもりがあるようにも思える。
こんなにも人が変わることがあるのだろうか。そう思うと同時にその姿は高校を卒業する直前の花菜と重なっていた。
本来花菜は理恵のような教室での中心人物達を中心にクラス全体が騒いでいても自分の席から静かに眺めているような内気な性格だった。何かに対して強く主張するような事はなくゆったりとした口調で微笑しながら話すような子だった。
しかし、ある時を境に段々と彼女は変わっていった。私とでさえも自分からあまり喋ることのなかった花菜がクラスメイト達と自分から交流するようになっていく。ゆったりとした口調もハキハキとしたものに変わっていった。
最初こそは心配になるくらい内気だった友人が社交的になったことに対して安心すると共に嬉しく思った。
次第に口元をほころばせるような笑い方から歯を出して高らかに声を出して笑うようになっていた。
私が違和感を覚えたのはこのあたりからだった。その笑い方があまりにも理恵の笑い方にそっくりだったからだ。一度気づいてしまえば話し方も笑い方もそのどれもがクラスメイトのそれと瓜二つだった。私はこれまでの自分を構成しているものを全て捨てその代わりにクラスメイト達の一部分をつぎはいでいく花菜のことが薄気味悪くなっていった。
誰かをつぎはいでつぎはいで創り出された今の花菜は私が友人だった頃の花菜なのか、この世に本当の「上松花菜」は存在するのか不安になっていったのだった。
「…ちゃん?葵ちゃん?どうしたの急に難しい顔して」
理恵に声をかけられ急速に意識が思考の沼から現実世界へと浮かびあがる。
「ううんなんでもない、ちょっと考え事」
もし今日の同窓会で花菜に会えたら彼女は今どうなっているのだろうか。教室の隅で微笑みを浮かべていた頃の彼女に戻っているのか、人々の中心で大口を開けて笑っていた頃のままなのか、それとももっと違う存在になっているのか。まだ見ぬ花菜への畏怖に悪寒が走る。
「そっか。そういえばあっちの方にも美味しそうなお料理いっぱいあったよ、一緒に行こ?」
少し心配そうに理恵が話しかけてくる。そうだ、せっかくの同窓会なのだ。花菜のことは一旦忘れてこの機会を楽しもう。
「そうだね私も食べ…」
「葵、久しぶりだね」
急に肩を叩かれ振り向いたその先には歯を見せて笑う花菜の姿があった。
もしかしたら。と少し期待をしながら目を開ける。ああ、やっぱり今日も変わってない。白黒の世界。また無駄な期待をしてしまった。
「おはよ、りほ」母が私を起こそうと部屋に来た。「おはようお母さん」「りほ目の調子は?」少しの期待を持って母が聞く。「あー変わらないね、いつも通り」と私が言うと母は「そっか、ごめんね」と言い申し訳なさそうな顔をする。そんなごめんねなんて言わないで、そんな暗い顔しないで。母は悪くないのは分かっているけどごめんねを聞く度にその顔を見る度にまた一つ心に棘が刺さる感じがする。
色盲。これは私が今患っている病気である。色盲とは目にある色彩の機能が失われてしまうことである。そのため私のみえている世界には色がない。全てが白黒にみえる。この病気は生まれつきのものである。だから私は生まれてから一度も色のついた世界を見たことがない。色を知らない。だから私にとって白黒しか見えないのは普通だった。もちろん色を見てみたいと思ったことは何度もあるがどれだけ病院を回っても手術しても治ることはなかった。だからできるだけ期待しないように生きていた。
小学生、中学生のときはみんな私が色盲だと知っていた。けど「かわいそうな子」扱いをされた。周りからは障害があるということだけで壁を作られる。仲良くしてくれる子でも変に優しくされ距離を感じた。それが嫌で高校に入ってからは誰にも気づかれないように過ごした。これで壁を感じることはなくなるだろうと思った。けれど逆だった。周りに合わせることが多くなり自分の気持ちを押し殺して過ごすようになった。思ってもないことに共感したり面白くないことに笑ったりその度に段々自分に対する嘘が積み重なる。自分のことが嫌いになるだけだった。あ、自分は周りと違うのだな。普通じゃないのだな。そう思えば思うほど自分の殻に閉じこもっていった。
十七歳の冬。その日は雪が降っていた。雪は白しかないから私でも分かる。だから好きだった。どれほど月日が経っても私に色が分かることはなかった。
普段通り検査のために病院に行ったときのことだった。検査を終え待合室で待っているとき、急に見知らぬ男の子に話しかけられた。その子はひどく端整な顔立ちをしている子だった。「ねえ、君って色が見えないの?」「は?」あまりに唐突すぎて理解に追いつけなかった。今日初めましてだよ、いくらなんでも失礼すぎないか。と思い、少し冷めた目で見てしまった。それに気づいて焦った様子で彼は「急にごめん! けどなんかさっき病院の人と話てるのが聞こえちゃってそれで思わず気になっちゃって」と言われた。どうすればいいのか分からなくなったので無視して立ち去ろうとしたがそれはできなかった。彼がまるで少年が好奇心で満ち溢れているような眼差しの瞳で私を見ていたから。こんな目で誰かに見られるのは初めてだった。この人は違うかもそう思えた。だから「そうだよ。色盲っていって色が分からないの」と言った。自分から言うのは初めてだった。あー引かれるな、困った顔をするだろうな。「じゃあ僕が色を教えてあげる」予想外すぎる発言だった。だいたいの人は「え、そうなの。辛いよね」と分からないくせに同感しているように言う。けれどもちゃんと考えれば「色を教える」も根拠のない無責任な言葉だと気づいた。何も知らないくせに言わないでという怒りの意味を込めて「色を教えてあげるって? 意味分かっている? 衝撃を与えない限り見えないの。それでもそう言うの?」あ、まずい、言い過ぎた。と思った。けれど彼は私の発言なんてお構いなしに「え、衝撃を与えればいいのでしょ? じゃあ僕が君の目を治してあげる。だから仲良くしよう」と言ってきた。あまりにも単純すぎておかしくなって思わず吹き出してしまった。初対面なのになぜか彼には壁を感じなかった。こんなに心の底から笑ったのはいつぶりだろうか。いや初めてかもしれない。彼は今まで会った人とは違うのかも。「じゃあ私に色を教えて」これが彼との出会いだった。
彼は拓真という名前だった。拓真にはなぜか今まで感じていた思いを吐き出せた。白と黒以外の服で出かけたいとか写真も沢山撮りたいとか色が分るようになったらしたいことを話した。そして彼はよく私にドッキリを仕掛けてきた。理由はドッキリの衝撃で見えるようになるかもらしい。「ドッキリ程度じゃ見えるようになんないって」「そんなの分からないじゃん。ドッキリの衝撃が積み重なっていってそのうちバーンって一気にくるかもしれないじゃん?」「うわ、出た単純な思考」「うるせー」こうやって拓真と他愛もない会話をするときが私が唯一本音で話せるときだった。そして学校帰りに拓真の病室に行くときは毎回アネモネを持って行った。彼はこの花が好きらしく買っていくと「ありがとう」と言ってくれた。けれどもどれだけ聞いてもこの花の色は教えてくれなかった 。
いつも通り病院に行くと拓真の病室まで行く通りがやけに静かだった。どうしたのだろう。嫌な予感がして拓真の病室を勢いよく開けた瞬間倒れてしまいそうな感覚になった。「え?」頭が追いつかなかった。横たわっている拓真の顔には布が覆い被さっていた。「あ、どうせ嘘でしょドッキリでしょ今回のは再現度高いね」どうしても嘘であって欲しかったからいつもの調子で言おうとしたけど声の震えが止まらなかった。もしかしたら「ドッキリだよ」と言っていつものように馬鹿にしてくるだろうと思ったから。だけど、どれだけ体を揺さぶっても彼の体はびくりともしなかった。その瞬間堪えられないくらい涙が大量に溢れ出た。あまりに急すぎる衝撃に私は座り込んだ。透明な涙が止まらなくて目が開かなかった。彼に抱きつきながら泣きやむまで泣き続けた。やっと落ち着いた頃、彼の母親が私宛に手紙をくれた。開けてみると手紙以外になにか入っているのに気づいた。中には私が彼の見舞いに持っていった青い色のアネモネが手紙と一緒に入れられていた。
「りほへ 色のついた世界はどう? 綺麗だろ。」青のアネモネの花言葉は「生まれ変わっても会いたい」。
僕は胃癌を患っていた。発覚したときにはもう手遅れだった。せいぜい余命長くて半年だと告げられた。言われたときはもちろんショックだったが意外とすぐ吹っ切れた。残り半年楽しもう。そう思えた。ある日診察しに行ったとき一人の女の子とすれ違った。間違いなくあれは一目惚れだった。なにか話すきっかけはないのかと考えていると看護師との会話が聞こえた。「色盲」彼女が患っている病気らしい。すぐに調べてどう声をかけようか考えた。チャンスは突然やってきた。それは雪の日だった。彼女が帰ってしまう今しかないと思い「ねえ、君って色が見えないの?」絶対おかしいやつだと思われた。だけどこれしか思いつかばなかった。「衝撃を与えないと治らないの」その言葉を聞いて、じゃあ僕と彼女と仲良くなれば僕が死んだことを知った衝撃で治るのではないか。一緒に見ることはできないけど彼女に色のついた世界を見せてあげたい。これが僕の残りの人生を生きる目標になった。
僕の高校生活を回想すると、三年間ずっと、「マスク」を外せなかったような気がした。物理的にも、心理的にも。十八年前、自然豊かな千葉の地に生まれた僕は、小学校を卒業するまでの十二年間、トラブル続きだった。そんな僕が、両親からも先生からも常套句のように言われたことは、「思ったことをすぐなんでも口にする」ということ。小学生時代は、白髪が少し生えた同級生に白髪のことを指摘したり、あまりにも早く体中に毛が生えてしまったことに悩むクラスメイトを本人の前で面白おかしく話題にしたりした。そのくせ意地っ張りで、うるさい目立ちたがり屋だった。こんな自分の言動がたたって、十二年間友達はほとんどいなかった。その過去があって、中学からはとりあえずおとなしく過ごしていた。たまに余計な事を口走ったりしたが、周りが大人だったこともあって、トラブルは減った。しかし、本当の自分をさらけ出さず、集団の中にいるときは、思ったことや意見をほとんど口にしなくなった。そんな僕も、いつかドラマで見たような「青春」とやら言うものを体験したいな、なんて思ったりした。そんなことを考えていたうちに、十五回目の夏が終わり、秋が吹き去り、冬峠を越えていた。あゝ、時というものはすぐ間抜けな僕を置き去りにしていく…。
そんな僕の隠された内面を受け入れてくれた、仲のいい友達は何人かいた。その友達と同じ高校に進学した。しかし、テレビドラマで見るような明るく、楽しく、甘酸っぱい密な「青春」とは全く違うものになっていた。海外から渡来した新型感染症で、自粛、自粛の毎日。密になることが多い学校生活は、制限ばかりだった。外の世界では皆がマスクを着けて過ごしていた。
「学校はいつ始まるんだろう」
「知らねえよ。このままずっとグダグダして過ごすほうがいい」
僕の友達、将宏も友達が少なかったが、僕との違いは、「青春」に対して諦観を抱いているところだった。
六月になって、ようやく「青春」が始まった。初めての登校日、初めて見るクラスメイト、見覚えあるクラスメイト。可愛い子はいるかな、担任はどんな人かな、期待と不安の狭間に揺れていた。
しばらくして、クラスで自己紹介をすることに。自分の番が来た。ああ、緊張する。しらけたらどうしよう。おどおどしている僕を見て、
「がんばれー」
「来いやー」とクラスメイトの盛り上げようとする声やヤジが聞こえた。
「僕の名前は、西野和樹です。えーっと、趣味は、音楽を聴くことと、えーっと、テレビを観ることです。えーっと、ええ、部活は、えーっと、ま、まだ考え中です。よろしくお願いします。」
まったくもってうまくしゃべれなかったが、拍手は貰えた。
自席に戻るときに、「よろしくな!」一年の初っ端からパーマをかけた浩太が言った。かなりコミュ力が高いのだろう。
「うちの部活来いよ」
スポーツ刈りの祐樹から勧誘を受けた。多分野球部に入るのだろう。バットの形をしたキーホルダーをつけている。野球に限らず、スポーツは見る分には好きだが、僕は細身だし、文化系なので、文化部に行こうと思う。あと、寝ぐせ直すのは面倒くさいけど、スポーツ刈りはもっと嫌だし…。でも、何にも言うことが出来なかった。
あっという間に自己紹介が全部終わった。自己紹介では何を言ってもいいことになっていたので、マスクに隠れた皆の個性を深く知ることができた。ゴーヤを丸かじりするのが好きな人、昆虫ゼリーをつまみ食いしたことがある人、爬虫類を触ることが趣味な人など、皆個性豊かで、なんで僕だけありきたりでつまらないことを言ったのだろう、なんて思ったりした。
秋になって、最初の学校行事、体育祭が近づいてきた。僕の学校は体育祭で競技のほかに、ダンスパフォーマンスをする。僕はクラスの人に言われるがまま、ダンスを踊っていた。その準備の時、クラスでトラブルが起きた。
「ねえ知美。もっとまじめに踊ってよ」
「そうだよ。なんだよその気の抜けた動きは。何度注意してもうまくならない」
ダンス部の日菜と孝が、全然まじめにやろうとしない知美に怒っていた。
「……」
言葉を発そうとしない知美に、ほかのクラスメイトも不満そうだった。
「なんか言えよ」
「やりたくないならそう言えよ」
自己紹介の時のクラスの明るい雰囲気と一変した、火薬庫のようなピリピリした空気。知美は教室を抜け出し、一人走り去った。
「なんだよあいつ」
いつもは温厚な孝がここまで怒っているのを、僕は初めて見た。学校行事にものすごく熱心な孝は、真面目にやらない知美を見てイライラしていたのだろう。それからというもの、知美はクラスからも姿を消した。彼女は頭がよく、スポーツの才能にも溢れているので、嫉妬の対象だったなんてことは、この時の僕には想像することすらできなかった。
ある日の放課後、校舎の隅でうつむく影が一つ。「誰だろう」とおそるおそる近づいてみると、知美だった。眼には光るものを浮かべていた。
「大丈夫?」
声をかけようか迷ったが、気づいたら声をかけていた。二人きりのシチュエーションになると、「トラブルを起こしても大丈夫だろう」と、なぜか僕の本能が判断してしまう。これは何年経っても治らなかった。
「誰?」
なんでわからないんだ、同じクラスで自己紹介もしたじゃないか、と思ったが、そんな言葉は発さなかった。
「和樹だよ、ほら、三組の」
「何急に? 絡まれて怖いんですけど」
そりゃそうだよな、突然話したことのないやつに話しかけられたら、誰だって怖いだろうし。
「だって、泣いてんじゃん」
もっといい言葉選びがあっただろう、と我ながら思った。
「あんたには、関係ないでしょ」
こんなに口悪いのか、と思った。クラスでもかなり顔面が整っている方なので、このギャップには驚いた。
「君、ダンス下手だよね。だから怒られて、泣いてるんじゃないの? 素直に教えてって言えばいいのに」
ああ、余計なことを言ってしまった。自分だって全然踊れていなかったのに、なんで人のダンスを下手とか言ってんだ。
「下手なんかじゃない」
「じゃあ踊ってみろよ。自分が下手じゃないっていうなら」
めちゃくちゃ喧嘩腰になってしまったが、これくらい言わなきゃ踊る気になんてならなかっただろう。
僕は持っていたスマホを出し、曲を流し始めた。知美は目つきを変えて踊り始めた。すさまじいキレだった。
「ダンスうまいじゃん。なんで初めから真面目に踊らないんだ?」
僕が問いかけると、
「だって、嫌いだから。このクラスが」
「どういうこと?」
「私がテストで百点を取った時も、体育のテストで満点を取った時も、周りの女子から睨まれたんだもん。私が何かするたびに周りが睨んでくる。そんな周りの奴らと協力して何かをすることなんてできない。だから、ダンスをしなかったの」
彼女は嫉妬の対象になっていたということらしい。実際、容姿端麗で多才だった。しかし、それでクラスから嫌われていると勘違いして、体育祭のダンスをやらないのはおかしくないか? と思った。
「君が思ってるほど、クラスの皆は君を嫌ってないと思う。そういう考え方をしてると、もっとクラスの皆が君と距離を取るようになる」
「そうだよね…」
「今ならまだ間に合う。早いうちにクラスメイトに謝って、みんなで一緒にダンスをしよう。周りが嫉妬するのは、君の実力を認めているから。別に威張ったりしないだろうし、この体育祭でいいとこを見せたら、皆が受け入れてくれるはず」
「ありがとう。そしてごめん、ひどいこと言っちゃって。これから頑張ってみる。じゃ、またね」
「じゃあね」
一度思いっきり口を滑らせたが、人助けをしたみたいで、なんか清々しかった。
翌日、僕のクラスでは朝練を行っていた。そこには、知美の姿もあった。
「今までごめん。これからは、ちゃんとダンスをやるから」
そんな彼女のダンスを見た後、孝たちは笑顔だった。彼女はそのダンススキルを買われ、クラスパフォーマンスを最前列でやることになった。
体育祭のクラスパフォーマンスは投票制だった。繭を突き破り、内なる才能を遺憾なく発揮した知美によってクラスが引き締まり、見事一位を獲得した。彼女はクラスメイトから受け入れられ、物凄く楽しそうに過ごしていた。僕もなぜか競技で活躍し、初めて「青春」を味わった。
本来の自分の性格や言動を隠し、隠すことでうまく世渡りしてきた僕は、素の自分を受け入れてもらえない代わりに、周りとトラブルを起こすことなく、なんだかんだ楽しい三年間を過ごしていた。そんなある日のことだった。三年になって知り合った弘樹が、自らが望まぬ性的少数者のカミングアウトをさせられたという。
「あいつ、この前スカートはいて海岸にいたよな? しかも男と手をつないで」
「やっぱり弘樹か。物凄く見覚えのある顔だった」
クラスメイトが彼を噂するのも無理はない。毎年クラスでかっこいいと持て囃されているがこの前の日曜日、館山の海岸でパートナーと思われる男性と一緒にいたところを目撃され、その様子がSNSで拡散された。
「弘樹くん、そうだったのね。なんか意外」
「知りたくなかったなあ。でも弘樹くんがかっこいいことに変わりはないけど」
女子の間でも弘樹の噂が広がり、弘樹はとうとう学校に行けなくなった。
週末、僕は何気なく散歩をしていたら、弘樹を公園で見つけた。彼は、口数の少ない僕を不思議がっていたが、趣味が合い、ある程度話す仲だった。
「やあ弘樹。最近学校来ないから心配してた」
あまり直接的なワードを言うと彼が傷ついてしまうので、僕は慎重に考えながら話しかけた。
「心配してくれるのはうれしいけど、君には関係ない話でしょ」
「でも心配だよ。友達だから。弘樹のこと、友達だと思ってるから」
「ごめん。友達相手でも、言えないことはある。これは私自身の問題。関係のない君は、首を突っ込まないほうがいい。だから今まで友達が少なかったんじゃないの?」
「気にしてんだろ、自分がトランスジェンダーなこと。苦しいんだろ、イケメン、イケメンって言われることが、男でいなくちゃいけないことが」
また余計なことを言ってしまった。そう思ったのもつかの間「そうだよ。自分と周りの価値観の違いに戸惑ったし、男を演じなきゃいけないことが、ずっと苦しかった。絶対何かひどいこと言われると思って、隠してきたのに…私が皆と違うってだけで、すぐ離れていく」
弘樹の眼には光るものがあった。彼は周りとの違いに苦しみ、ずっと隠してきた。自分の見られたくない部分を見られてしまったということだろう。
「最初はそりゃみんな戸惑うよ。でも、性的少数者であることは、何にも変なことじゃない。もう知れ渡ってしまったことだし、隠さずちゃんと自分の口から言えば、受け入れてもらえるんじゃない? 僕らのクラスメイトは、そんなに冷たい人たちじゃない」
こんなことを言っても弘樹の心は救われないけど、彼がこれから生きていくために必要なことをアドバイスできたような気がする。
「ありがとう」
「こちらこそ、余計なこと言ってごめん。これからもよろしく」
このアドバイスが、彼のためになればいいな、と僕は思った。
数日後、弘樹がクラスメイトの女子たちと仲良く話している姿を見た。どうやら、自分がトランスジェンダーであることを隠すことはやめたらしい。次第に周りが彼を受け入れるようになり、彼自身にあった、性的少数者であることへのコンプレックスはなくなった。
「ありがとう和樹、おかげで自分に自信が芽生えたよ」
あの時は物凄く失礼なことを言ったが、彼はその言葉に大事なことを気づかされたようだった。弘樹と違い、本来の自分を隠し、中学からの六年間「普通の学生」を演じていた僕とは違い、心の底から「青春」を満喫しているようだった。
当たり前のように毎朝七時に起き、同じ海岸沿いの道を歩き、毎日学校へ通った。そこには友情があり、恋愛があり、人間同士のドラマがあった。しかし、僕が入学前に思い描いた高校生活とは全く違うものだった。とある高校野球の監督が、「青春は密」と言ったけど、本当にその通りで、密を避けなければいけない社会情勢から、とにかく規制と禁止ばかり。マスクをしろ、黙食しろ、学校行事は規模を縮小して行う…。見えないものに縛られ、あっという間に「青春」は散った。将宏が、「青春なんて幻想だ、くそくらえだ」なんて言っていたけど、規制ばかりなうえに、思いや考えを内に秘めてなかなか口外しない僕も、友情にも恋にも恵まれなかったので、こう吐き捨てたくなる気持ちもわかるのだ。思ったことを何でも口にしろとは思わないが、自分の意志は最低限持ったほうがいい、というアドバイスになればいいと思い、ここに僕の青春失敗例を記した。
大層疲れた時、私は床にうつ伏せになって、うさぎの尻を目で追う。
うさぎの尻は茶色くて、丸くて、忙しない息遣いに合わせてプルプルと揺れていて、ところどころはみ出た冬の毛だけ白く盛り上がっている。
尻の下にちょこんとついた、どこかで落としてきても気づかないくらい小さな尻尾は、常に上を向いている。
そんなうさぎの尻を、床に伏せた私が目で追い続ける。
────床は、じっとりと濡れている床だ。
勿論本当に水を含んでいるわけではないが、横たわるとそのまま、私の形の分だけ沈んでいきそうな湿っぽい床だ。
カーペットは敷いていない。前は、あの人が買ってきた長毛のラッグを敷いてあったが、いつしか邪魔くさくなって、なるだけ細く丸めて、端に立てて置いてしまった。思えば、ラッグを取り除いた日からあまり調子が良くないので、ラッグは存外、私と私の部屋を守ってくれていたのかもしれない。しかし今の私には、立ち上がって、紐を解いて、広げて敷くだけの気力がない。
だから、フローリングの木の継ぎ目の窪みに詰まった土や白い毛や、私の長い髪の毛が、うさぎの尻を眺めていると視界の端に移る。うつ伏せの格好では、あんまり深く息をするとその塵たちが全て肺まで入ってきそうなので、なるべく浅い息を心がける。
最後に部屋を掃除したのは四十九日前だ。以前は毎日掃除していたが、うさぎが家に転がり込んできた四十九日前から、掃除が億劫になってしまった。
裏にある山を自由に駆け回ったうさぎは、その足に自然の香りを引っ提げて帰ってくるので、床は方々に薄く土が被さってしまった。日を重ねるごとにその土から茎の細い雑草が図太く生えるのを見て、私はため息をついた。
雑草は、その名の通り雑な草なので、雑な世間話をペチャクチャと喋る。
「ねぇ、ねぇ、あなた、あなた。うさぎが部屋にいるんでしょう?」
「嫌ね、嫌ね、うさぎが部屋にいるなんて、とっても悲しいわね」
飛び散る泡立った涎が、細かく積もった土にかかるのをぼおっと眺めていた。唇の薄い皮の上に、いやらしくひかれた赤い紅が、素早く開閉していた。口端には唾の塊が汚くついていた。
雑草を引っこ抜くのも気怠かった。雑草を一から百まで抜き去るより、プライベートの尊重されない井戸端会議を甘んじて受け入れる方がよっぽど楽だった。
このまま掃除をしなければ、いつしか私の部屋は一種の生態系を創造し始めるだろう。最初は土の中にいたビセイブツから始まって、どこからかミミズが住み着いて、後にモグラがそれを食べて。ただの部屋が、やがてイキモノたちの苗床になるのだ。
まあ、それもそれでいいのかもしれない。
生態系が築かれたのなら、机の上に置きっぱなしの賞費期限がとうに過ぎたコンビニ弁当を、あわよくばプラスチックの容器ごと分解してくれれば嬉しいと思った────
そうして、じっと尻を目で追いかけていると、さすが野生と言うべきか、うさぎは私の視線に気付いてこちらを振り返る。
真前から見たうさぎの顔は、少しだけネズミに似ていた。ふる、と震える長い髭の先が縮れているのが可愛らしい。
うさぎがこちらを向くと丸い瞳と視線が合う。うさぎの瞳は、表面に張った透明な水分と只管真黒な虹彩で構成されているが、こちらを注視しているときは目頭の方に白い強膜が見える。その膜がうさぎの動きに合わせて見えたり見えなくなったりするのだ。尻には劣るが、忙しないその動きも、また私は目で追ってしまう。
私はうさぎが大好きだ。雑草がなんと言おうと、自由なうさぎを愛している。私は今、我が物顔で部屋に居座っているうさぎを愛しているのだ。
翌日、私は仕事を休んだ。今日から仕事を再開すると伝えていたのに。
というのも、朝起きたら二段ベッドの二段目の高さまで土が積もっていて、ビセイブツはコンビニ弁当にとどまらず、パソコンまで分解してしまっていたのだ。ノートパソコンの液晶がチカチカと等間隔に光っていたが、やがて間隔が緩やかになって、終いには消えてしまった。これでは仕事ができない。欠勤理由が「パソコンが分解されたから」だなんて、誰が信じてくれるだろうか。
私の部屋は、頑丈な壁とベッドだけ残して全て土に埋まってしまっているけれど、それを事細かに話したって、気狂いだと思われてきっと相手にもされない。そんなふうにあしらわれるのは、考えるだけでも癪だった。実際このように、部屋は大変に土まみれだというのに。
そういえば私の部屋にうさぎがいることを皆に知らせるためのサインを出し忘れていた。ヘッドボードに置いてあった松虫草の種は、水も与えていないのに花を咲かせていた。土の湿り気のおかげだろう。なるほど、これだけ青紫色で綺麗に咲いていれば、サインになるかもしれない。本当は花なんて私の部屋には似合わないが、雑草達が「花を、植えなさい。花を、植えなさい。」と頻りに騒いでいたので仕方がない。
ふと思い返して見回してみると、雑草は軒並み枯れてしまっていた。はて、なぜ突然枯れてしまったのだろうか。昨日まであれだけうるさかったものが一気に静まると、それはそれで、シーンと、静かな耳鳴りが止まない。
さてと、億劫だが花を部屋の外へ植えようと天井を気にしながら立ち上がった時、運悪く足元のヌメヌメとしたミミズに滑って、私は土の上に転んでしまった。ミミズは私に踏まれても生きていたようで、転んだ私の足の甲を悠々と這って、去っていった。
途端に、思っていた通り、私の体の形の分だけ土と床が沈み始める。止めることなどできない。瞬く間に床は、惨めな私の形で窪んでしまった。
丁度、大自然の中に作られた採石場のような、そんな歪さを持つ私の形の穴を、いつやって来たのか、うさぎが上から見下ろしていた。
小さく血色のいい鼻が、ヒクヒクと絶え間なく動いているのが見える。そういえばうさぎを下から見上げたことはなかったな、と思った。
熱い息でいつでも艶っぽい小さな鼻は、しばらく私の形の穴の匂いを嗅いだ後、ふいっと後ろを向いてしまった。顔の代わりに現れた尻に、強い安堵を覚えた。
顔より尻が好きなんて物好きだろう。しかし、静かで、感情を読み取れないその背中が大好きだったのだ。
ふわふわの抜け毛と土が落ちてくる。うさぎが後ろ足で土をかけ始めたのだ。当然の結果だろう。部屋がこんなになってしまうまで掃除を怠ったのは紛れもなく私だ。土で汚れて、一杯一杯になってしまった部屋で穴に落ちた私は、うさぎに埋められても仕方ない。
パラパラと落ちてくる土は冷たい。誰かの悲しみをそのまま閉じ込めたようにじっとりと冷たい。
うさぎがかけてくれる土の冷たさに任せて、私はゆっくりと目を閉じた。
静けさで目が覚めた。規則正しく鳴っていた秒針が止まると、狭い部屋は雪原のようにシンとするのかと驚いた。時計は八時丁度で止まっていた。そういえば衛生時計だったなと思い出した。雨戸をぴったりと閉め切っているので、いまが夜か朝か確かめることはできなかった。
ヘッドボードに残ったわずかなコーヒーが揺れている。いや、目眩のせいで揺れているような気がしただけだ。私は、蜂蜜の壺をひっくり返したような、チェリーとアンゼリカの砂糖漬けのような、そんな人生を送ってきたからか、あの日から、闇の中から立ち直れない。
詰まるところ私はひどく脆いのだ。あの人がいないと家事もろくにできなくなって、部屋にはゴミから喪服に至るまで乱雑に堆く積もってしまった。
人の噂も四十九日、と言う誤用表現はあながち間違いじゃなかったと思う。実際、ご近所さんの様々な色を含んだ言葉は五十日目に鳴り止んだのだから。もう、どうでもいい人達の発言が混じり合った色で、私は黒くなりたくなかった。哀れみの言葉をかけられるたびに沈む感覚を長い間味わいたくはなかった。周りが私をどう見ようと、私の心にはひどく冷たい土が積もっているのだ。
──そういえば、机に置いていたコンビニ弁当が、容器ごと綺麗さっぱり無くなっていることに気がついた。
あのときはちょっとおかしかっただけなんだ。
何かが僕から抜け落ちていた。
少しだけ、僕の黒さが滲み出ただけ。
ほら、たまにあるでしょ、急にペンのインクが滲むこと。
しばらく使わず、ふたをずっとしたまま、インクを出さずにいて、急に使うと滲んじゃうやつ。あれといっしょ。ちょっと溜ってた。それだけ。ふいに出ちゃっただけ。こんなつもりはなかった。こんなはずじゃなかった。
僕が悪いの? ねえ、誰か教えて。誰か、聴いて…。
足取りが重い。足に重りをつけているみたいだ。それにもすっかり慣れたが。
受け入れられない僕はどこへ向かえばいい?
「相変わらず黒いね、東京。」
東京の上空に広がる「掃除屋」の世界。
「今日も新入り来るらしいな。」
「ああ。ちょうど来たようだ。」
よう、新入り。
俺は「掃除屋」、お前も今日から俺たちの仲間。
ここで、掃除をしてもらう。
お前はまだ何者でもないが、一人分掃除すれば「掃除屋」になれる。
―何者でもない、のか。
そこはとりあえず気にするな。
下を見ろ。東京だ。黒いだろう? 俺たちはあの黒いのを掃除する。
「したい」と俺たちは呼ぶ。
ひとが己の気持ちをころす度、「したい」は生まれる、いや、しぬというべきか。
よくわかんねーって顔だな。まあいいさ。とりあえず聞け。
ひとが気持ちをころした瞬間、そのひとの身体の一部が剥がれ落ちる。髪とか皮膚とか。
気持ちをころすっつーのは、なんていうか、まあ我慢とかで自分の意思を無視し続けることとかだ。俺もよくわかんねえ。
で、落ちていく中で、身体の一部だったものはどんどん元居た人間の姿に変わる。
地面に着く頃にはクローンの完成、そんでひとの踵にくっつく。「したい」は黒くて小さい。意識はない。要するに、空っぽなクローン人形が踵からどんどん連なっていく。
よーく下見てみな。ひとの踵から金魚のフンみたいのがまっすぐ伸びてんだろ。あの黒い長いのが「したい」の列。
気持ち悪いって? たしかにそうだな。
だがひとには見えていない。
普段は後ろに連なっているだけ。
だけど、ふとした瞬間、その「したい」の列が一気に、一瞬にしてひとに巻きつく。すると、ひとは苦しくなっちまう。息ができなくなる。
―…。
ここからが大事だ。よく聞け。
苦しみから放たれようとした結果、そのひとは誰か、あるいは何かに危害を及ぼそうとする。
軽いいじめや物を壊すことですっきりする奴もいれば、命を壊そうとする奴も出てくる。
そうなると平和がやべーだろ?
だから俺らは「したい」を掃除する。なんかの拍子に、そのひとに巻きついて、苦しめる前にな。
特に最近の若いひとはたくさん抱えている。
だーから東京が黒く染まっちまってる訳だ。
―よく、わからない。とりあえず、掃除、すればいい? 誰、のを?
自分で探してもらう。勝手に惹かれるもんだ。分かるさ。
(東京を見下ろしてみる。半刻が過ぎた。
目がひとりの男を捕らえた。外見は、まあ普通。目の下のホクロが印象的、くらい。
だけど長い。たくさん「したい」くっつけてる。足取りが重そうだ。僕の担当、あの人だ絶対。案外、早く、見つけた。)
―ねえ、見つけたよ。あいつの、掃除、する。やり方、教えて。
あいつか。分かったが、少し待て。
掃除するっていうのは、そいつの、今まで殺してきた心、感情を完全に消し去る。二度と取り戻せなくなる。
一部だけでも、心を失くすってのは、そいつを貧しくする。
掃除屋はな、よく見極めなくちゃならない。
責任を持って、選択しろ。「したい」を掃除するのかしないのか。掃除は最終手段だ。
―しない道もあるの?
あるさ。たださっき言ったみたいに、そのまま何か、あるいは別のひとが危なくなるがな。
だがそのひと自身の心は守られる。
(よく、わからない。最初から、この世界に来た時から全部、よくわからないままだ。なんなんだここは。いつこの世界に来た。僕はなんだ。まあいいや。めんどくさい。掃除? っていうのをしよう。)
―やるよ。
<現在>
俺は人の顔が見られない。いつも地面を見る。
身体が重い。足取りが重い。足に重りをつけてるみたいだ。それにもすっかり慣れたが。
この世界、何もかもが嫌い。みんな俺の敵なんだ。俺をけなしているんだろう?
前を歩くやつ、見覚えが…。
あいつか! あの、いつもちやほやされてる…!
「うっ…。」
なんだ、息が詰まる、苦しい。あいつを…。
「…」
「殺らなくては。」
「???」
ピタっ。
手が止まる一人の男。
前のやつを見る。
今、このひとに何しようとしていたんだっけ。
そういえばもう苦しくない。
というか、身体が軽くなったな。
ああ、なんか空っぽになれたようだ。何も感じない。すべてが心地いい。
「『掃除屋』になったな、お前も。」
「そうなんですか、何も変わらないですね。」
「そんなことはない。自分の顔見てみろ。そんなに笑顔になりやがって。さっきまで下ばっか見て、俺たちの顔なんか見向きもしなかったくせになあ。ハハハ。」
顔、
ああ、そういえばこの人たちの顔見てなかったな。
「皆さん、いい笑顔ですねっ!」
良い、張り付いて取れない、一様な笑顔。
僕の目の下のホクロが傾いた。
天の国、それは「したい」を掃除しない選択をした者が行き着く場所。
「掃除屋」にならなかったものがいる世界。「掃除屋」の世界の少しだけ上にある世界。
「相変わらず黒いね、東京。」
昔は優しい、五時のチャイムを聴いて見上げる、あの夕焼け色の景色だった。
だけど、ここ十数年で変わり果てた。もう黒い。
「掃除屋」の心はいまだ枯れたまま、上を見ようとはしないらしい。
枯れた、かつて生きたところばかり見つめる。だから気かづかない、意外と身近にある天の国の存在に。
彼らは一生気がつかないだろう。天の国の住人が手を伸ばし、掬い上げない限り。
だが、天の国の住人もまた、そうはしない。
天の国の住人は思う。よくわからないものは怖い。関わらなければ、見て見ぬふりをすれば、何も起こらない。
なぜ東京は黒いのか。全部掃除をすればいいのか。
そうじゃない。全部掃除すれば、そこは無になる。
彼らが上を見ない限り、彼らが下を見ない限り、自分ばかり見つめていた者と他人にとらわれていた者が互いに歩み寄らない限り、
「掃除屋」も天の国もなくならない。
ひとには戻れない。
天の国の住人、ある小さな女の子は思う。友達が欲しいなと。
女の子は想像する。下の人たちに呼びかけたら? 手を伸ばして、ここにいるよと教えたら?
ある「掃除屋」は思う。自分とは何か。自分は好きか。いや、自分だけじゃない。
あの人はどんな人だったか。あれ、今まで自分は何を見て生きてきた?
20××年、「掃除屋」も天の国も存在しない。
1章
いつだったかは覚えていないが
ある日を境に僕の小さな世界は大きな渦に飲み込まれた。
飲み込まれた「世界」に僕は閉じ込められた。
目の前には長い長い「道」だけがそこにあった。
僕の横にはフードで顔を隠した案内人がいて
「前に進み続ける事がこの世界の規則」と言った。
「振り返る事はよくても、何があっても決して戻ってはいけない」とも言った。
最後に僕にこれで身を守るようにと小さな鉄の盾を渡した。
僕を囲むひび割れた壁の人工的に作られたような
不自然な割れ目は不思議と町の風景や人の顔に見えた。
割れ目に向かって蹴りをいれた事もあるけどびくともしなかった。
いくら歩き続けても同じ風景。同じ毎日の繰り返し。
時々壁に手でこじ開けられそうな隙間を見つけることがある。
隙間からは淡い光が漏れていて覗き込んでも眩しくて何があるかはわからなかったが
僕はこの隙間こそが世界の果てではないのかという気がしていた。
ただ、行き方がわからなかった。世界の果てに何があるのか、どうやっていくのか。
そんなことを考えながらひたすら歩き続けた。
足の痛みも空腹も世界の果てに比べたらどうってことなかった。
何日歩いたかはわからない。もしかしたら数年経ってるかもしれない。
しばらく一緒に歩いた案内人が突然いなくなった事にも気づかず歩き続けた。
歩き続けたのだ。この世界の果てを目指して。
2章
「道」を歩いていると突然、不変の僕の世界に「異変」が起こる。
大きな地震だったり、道に灯された松明が点灯したり
そんなとき至って、僕の側の壁に扉が現れる。
ピンク色の可愛らしい扉、スチール製の冷えきった扉、
ボタン式のガラスの自動ドア…常に違った姿を見せる扉は
僕の少しの好奇心と巨大な恐怖心を掻き立てる。
遠い昔、一度だけ扉に入ったことがあるが入った瞬間
耳をつんざくような怒号に驚き逃げ帰ってしまった。
その時の扉の見た目は覚えていない。
そして今「災害」が起きた。また大きな揺れだ。
眼の前に扉が現れた。一般住宅にありそうな新しめの木の引き戸だ。
でも、ただの引き戸にしては重々しい空気と異臭を放っていた。
そこは果てしない花畑で、一面に水色の花が咲き
見上げれば雲ひとつない空が広がっていた。
でもそこにも確かに「道」はあった。
そこだけは雑草一つ生えておらず、綺麗に整地されていた。
しばらく道を歩いたところで「世界の主」はいた。
主の風貌はまさに人型の木だった。
全身水色の服装の彼は大きな籠を背負い、花を摘み入れながら歩いていた。
僕が声をかけると彼は驚いたような顔をして
「どこから入ってきた!!」と大声で叫んだ。
僕は自分が入ってきた扉を指さした。
男は咳き込んだ後、しばらく黙り込んだかと思うとその場に腰掛けた。
そしてボソボソと口を開いた。
「君にはこの世界がどのように見える」
もう一度この世界を見直すと、果てしなく広がる花畑というより
ドーム状の庭園のようになっていて庭園と何処かを繋ぐトンネルが一つ。
トンネルの出入り口は花畑を独占するかのように
数多の木板で入念に塞がれていた。
何者かが何度もこじ開けようとしたのだろうか?修復した跡もあった。
僕は彼に見えたままの風景を伝える。
最後に僕の世界より心地よさそうです、とつけ加えた。
「…そうじゃないんだよ」
彼はつぶやくとため息を吐き黙り込んでしまった。
彼の態度は威圧的なものだったが、
それだけで終わらせるには違和感のある悲しみが含まれているような言い方だった。
僕にとってそれは誰かとの出会いを惜しみ、別れを告げる風のようだった。
道を歩くうちに、僕はこの道が円を描くように繋がっていることに気づいた。
この木の男は同じ道を周りひたすら花を摘み続けながら歩いていたのだ。
「お前にはどのように見える?」この言葉の意味が理解できた気がする。
彼はこの世界に対して無理やり満足している。
本当は出たがっているのかもしれないけれど、本人はわかっているのだ。
この世界に終着点などないのだと。
僕がこの花畑について綺麗だと述べると彼は笑みを浮かべた後、
「海香」という一人の女性について語りだした。
彼は彼女の特別な友人だそうで彼のもとへ降りたち花を添えてくれるのだという。
だからその間は大丈夫なんだと。
男と別れ扉に手をかけた時、
扉の隣に大きな石が。
そこには「また来るからね。約束」と書かれていた
僕は似たような光景を昔みたことがある。
ただその淡い記憶は僕の手の掴めないところに逃げてしまったようだ。
あの木の男の顔もどこかで見た記憶がある。それも思い出すことは出来なかった。
……僕は「永遠の花畑」を後にした。
3章
出口の扉からは、カレーの匂いが漂う。鼻をつんざくような僕好みの辛いカレーの匂い。
カレーなんて最後に食べたのはいつかもわからない。でも、とっても懐かしい匂い。
入るとそこは砂浜にある海の家、そこには頭がビー玉の三人の子供たちがいた。
僕の世界に戻るはずの扉は何故かこの世界に繋がっていた。
脳の整理が追い付かぬまま、目を輝かせながら僕に群がる子供たちに手を引かれ、
僕は海に留まっている巨大な海賊船に乗ることになった。
彼ら曰く自分達を少年海賊団と名乗り様々な島を旅しているそうだ。
それがこの世界の「道」なのだろうか?
カレーの匂いについては
「さっきの島はカレー島だからみんなカレーを食べてたんだよ」と教えてくれた。
みんなそれぞれ辛さやトッピング好きなカレーを食べたそうだ。
船には僕以外に三人の他にも同じく頭がビー玉の四人の子供がいて
全員と話したがそれぞれ趣味も嫌いなものも違う個性豊かな子供たちだった。
「この島はチョコレー島だからみんなチョコを食べてるんだよ」と教えてくれた。
チョコをたくさん口に頬張る子、チョコを口に詰め込まれ咳き込む子、
チョコを溶かして飲み干す子、様々な子供がいた。
この世界はとても微笑ましい世界のようだ。
しばらく色々な島を旅したあととある島にたどり着いた。
「この島はサッカー島だからみんなでサッカーをしよう」
そうはいったもののボールがなく、船に乗っていた子供たちは
突然一緒に乗っていた「髪の長い一人の子供」を蹴り始めた。
彼女は泣き叫び、身体中に靴跡がつけられる。
みんなで悲鳴など気にする様子もなく楽しそうにサッカーをしていた。
僕は一人この狂気じみた集団の外にいる少年を見つけた。
木のように痩せ細った彼は何食わぬ顔で海を眺めていた。
「とめないの?」と僕は言った
「なんで?」少年は驚いたような顔をしていた。
「だって蹴られている子が」
「じゃあ、止めたとしてどうなるの?その後は?」
最後に「…どう? 思い出した?」と付け加えた
思い出す? 一体なんのことだろうか?
「なんで、君は止めに行かなかったの?」彼はそう呟いた
簡単なことだ…あれ? どうしてだろう。
いじめられている子がいるなら止めに行けばいい。簡単なことだ。
でも僕にはそれを封じ込める「お札」が貼られていて何も動けなかった。
「何故?」という言葉が僕の心を覆いつくした。
彼らのもとへ戻るとリンチ島から船が出ていくところだった。
いじめられていた子は顔では個人の判別がつかないぐらいにボロボロで、
倒れたまま島に取り残され六人をのせた船は出発していた。
僕は船内に飾られていた写真を思い出した。
その写真には二十人前後の子供たちが写っていた。
つまり、この島に至るまで何人もの子供が
このように犠牲となっているということだろうか?
僕は無言で扉から立ち去るしかなかった。
次の扉は草花で飾られたきれいなアルミ製の扉だった。
4章
そこは一本木が生えているだけの空に浮かんだ小島だった。
常に雷鳴が響き渡る中、世界の主はいた。スーツを着た顔も手もない透明人間。
彼は何かを考えているかのようにたちつくしブツブツと僕に語りかけた。
「いつもの日常を当たり前だと思わずに一日一日を大切に生きていって下さいね」
「大切なものは突然なくなってしまう事もありますから常に気にかけてあげて下さいね」
「もし貴方の事を百人が全否定しても、
貴方に寄り添ってくれる人がいたらどんな時もその人の味方になってあげて下さいね」
彼は、常に悲しそうな声で僕に語り続けた。
僕が何か話しかけても彼はそれに答えることなく語り続けた。
「人を見た目で判断せずに中身を見てあげてください、意外な発見があるかもしれません」
「生きることに疲れたら誰かに相談して下さいね
大切な人の異変に気づいたら相手がドン引きするまで気にかけてあげて下さい」
「私の発言は私が生きてきて思ったことです
例え権威ある者に諭されても少しでも疑念を持ったのなら
くれぐれも全て真に受けないで下さいね」
「貴方の旅した世界は、近からず遠からず貴方の世界と繋がっていますから
いずれ皆思い出してあげて下さいね」
そういって彼は僕に「貴方の記憶」とかかれた「箱」を渡したのだった。
別れ際、木の根本に墓がひとつたてられていることに気づいた。
墓にかいてある死者の名前は殴り書きで読むことはできなかったが、
草の冠や木の枝、水色の花が供えられていた。
5章
一つの世界の旅を終える度に不思議と「道」の果てまでの距離が短くなったような気がする。
鐘の音が聞こえるのだ。その音が歩く度に少しずつ大きくなっていく。
その鐘がある場所がきっと僕の世界の終着点なのだ。
扉がまた一つ現れる。両開きの真っ赤なスチール製の扉。
そこは歌声の響き渡る小さなライブ会場。
持ち主のいない無数のペンライトが同じリズムを刻みながら揺れている。
舞台の上に世界の主であろう水色の髪の少女がいた。
仮面を被っていてマイクをもつ手にはよく目立つアザがあった
彼女が歌い終わると僕は思わず拍手していた。
同い年とは思えぬ力強く独特な歌声と
彼女の堂々とした歌いっぷりは圧巻だった。
彼女が歌い終わるとゆっくりとペンライトの光が消えていき
ライブ会場は静寂に包まれた。
舞台に吊るされた看板には「ONE LIFE ONE LIVE」とあった。
終わると関係者以外立入禁止とかかれた扉を開けて僕を招くと「道」を歩き出した。
そこは僕と全く同じ真っ暗な廊下だった。しかし、彼女の道は所々に
薄暗い電球が吊るされていて、壁にはあちこちにほつれた紐が蛇のような
模様を描いていた。
彼女は僕と同じ境遇ながらあの空間に自分の力でライブ会場を立てたのだ。
彼女とはゲームや好きな音楽の話題が合って話していて楽しかった。
ただ、彼女の笑いは一貫して本物と見紛うほどの一級品の偽物だった。
偽物だったというのは僕の偏見に過ぎないかもしれないが、
精密機械で作られたような量産型の笑顔。パターンAの笑顔、パターンBの笑顔のように
タイミングや人を選んで無数にある笑顔を選択しているような…そんな笑顔
心のなかで思っていた言葉がふとした拍子に外に出ていた。
「僕の話つまらなくない?」
彼女は
「大丈夫、楽しいよ。」と微笑んだ
彼女と一通り話し終わったあと、僕は今までの世界の冒険を語った。
彼女は僕の話を聞き終わったあと
「そっか」とだけ呟いた。
しばらく歩くと彼女は止まって
「ここから先は私だけの道だから」
というと別れの言葉もちゃんと言わぬまま手を振り、闇に消えていってしまった。
彼女とわかれたあと更に道を進むと
博物館のように彼女の日記のようなものが展示されていて
冒頭にはこうかいてあった
私にとって生きることは歌うこと
苦しいことも悲しいことも歌にして空に送れば
きっと誰かが捕まえてくれる。それが私の生きた証となる。
こうしてこの日記を見ている貴方のように私の世界と繋がる事もある
貴方の旅路に幸多からんことを
その後のページはメモ帳のようになっていて彼女の書きためた歌詞が並んでいた。
最後まで僕は彼女を理解することはできなかった。
別れ際の彼女の後ろ姿は覚悟を決めたような、それとも悲しそうな?
何か憤りを覚えているかのような?たくさんの色をのせたパレット。
それらの色が全部混ざったような言葉には表せないような何かを感じた。
日記の最後にはこうかいてあった
「逃げるな、立ち向かえ」
汚いが力強く呼び掛けるような文字でたしかにそう書いてあった。
6章
鐘の音がどんどん大きくなる。これが最後の扉だろうか?
ボタン式の自動ドアを開ける。
そこは街だったが僕の知っている街とはかけはなれた世界だった。
タイヤのない異形の車が空を飛び、人も空を移動して
あちこちに画面のようなものが浮かんでいる色彩豊かな世界。
歪みも割れ目もない世界。見渡せばカラフルな特徴的な形をした建物が立ち並び
目の前には巨大な風船のような形をした図書館
僕は招かれるように図書館に入った。
入るとどこからか呻き声が聞こえるので
声のもとへ向かうとダンボールの山に埋もれている人がいた。
「はは、すまないね。整理していたら崩れてしまって」
ダンボールの山から出てきた女性は、髪はボサボサで
寝不足かのようで目に濃いクマができていた。
彼女は腹は減ってないかと僕の前に見たこともないホットケーキのようなものを出してくれた。僕がそれを平らげている間、彼女は僕の顔をまじまじと見つめると
何かに気づいたかのように
「自分の世界を歩む」という見たこともない分厚い本を貸してくれた。
料理百科。自分だけの家の借り方、買い方ガイド。
ワークスタイル。社会の私とプライベートの私。
最低限のコミュニケーション辞典などなど。
本を渡すと彼女はいなくなり、僕は本に読みふけった。
多くの章に分かれていて読みやすく、何日も何日も椅子に座って読み続けた。
本に手紙が挟まっていて、
「これは私が書いた本だ、これが君の助けになれば嬉しい。
あのとき助けられなかった私の償いだ。」と書いてあった。
さらに読み進めると生活知識の本とは関係のなさそうな物語が乗っていた。
ベストフレンドという題名だ。
内容はというと、双子の兎とその隣に住む豚のお話
兄兎と豚は仲がよかったが兄兎は弟兎が事故に巻き込まれかけたところを
かばい意識不明となる。豚は毎日のように見舞いに向かった。
しかし兄兎はいつまでも意識が戻ることはなかった。
もともと兄兎は学校で人気者で仲のよかった豚は妬まれていた事もあり、
兄兎がいなくなると学校でいじめられるようになった。
そのいじめはやがてクラス全体を巻き込み
いじめのターゲットから逃れるために弟兎は豚がいじめられている事から
目をそらし、二匹は会話を交わすことさえなくなった。
やがて豚は見舞いにも学校に行かなくなり家に引きこもるようになった。
大切なものを全てなくした弟兎は自分をひたすら責め始め、人と関わることをやめた。
その後、全てを諦めた結果全てを忘れて一から歩むことを決めた。
という題名とはかけ離れた胸糞悪い物語だった。
その物語を読み終わった時、突然世界は真っ暗になった。
真っ暗になった世界に今までで一番大きな鐘の音が鳴り響く。
7章
気づくといつもの世界に僕はいた。
久しぶりの僕の世界。またこの暗い道を歩き出す。
すると突然世界が崩れ落ち始め、びくともしなかった亀裂がさらに割れ始めた。
僕は崩れ落ちる道から全速力で駆け抜けた。
決して後ろを振り返らずに無心で走り続けた。
たどり着いた場所は世界の果て。僕の世界の終着点。
僕の世界の終着点は光と闇の分かれ道。
今まで幾度となくてきた「入れそうな隙間」隙間は今「道」となって僕の前に現れた。
真っ暗な今までと同じ道と光あふれる道。
僕は光あふれる道へと飛び出した。
やがて僕の世界はパラパラと崩れ始め前が見えなくなって足の感覚が失われた。
僕の世界は砂のように崩れ去り気を失った。
目が覚めるとそこは病院のベッドだった。
看護師からは道端で気絶していたようですが大丈夫でしたか?等といわれた。
この病院も見覚えがある。遠い昔に誰かに会いに来た。
僕の側には箱が置いてあって、箱の裏には小さな文字で「貴方の記憶」と記されていた。
中にはボロボロで僕より一回り大きいパーカーと使いふるされたマイクと
水色の押し花の栞が挟まった分厚い本…そして
「やり直す」と書かれたボタンが入っていた。
窓から偽りのない本当の空を見つめながら僕は全てを思い出した。
数日後病院から退院した僕の新しい旅が始まった。
To be continued…
良く晴れた空からは窓を通して強い陽の光が差し込んでいる。攻撃的な日差しを手で避けながら今日も僕はみんなの話に相槌を打つ。
「あいつ何考えてるかわからないし、話しかけても全然返してくれないしなんなの。」
「たしかに。いつもぼさっとしてるしなんか嫌だ。」
「分かるー。」
昼休み、ご飯を食べながら一番盛り上がったのはあの子に対する棘だらけの会話だ。愛とは正反対の汚く醜い言葉の投げ合い。あの子が下ばかり向くようになったのは一カ月前くらいから。みんなそれぞれが思っていることを口々に言い合う。わざとあの子に聞こえるように。周りは共感の相槌を間に入れながら話を聞き、手を叩いて、大きな口で笑う。笑いが起きたときには更に声を大きくして注目を集めるかのように話を続ける。悪気なんてものは感じられない。この集団にとって彼女への行為はゲームのようなものでしかないのかもしれない。
みんなはお弁当を美味しく食べているのだろうか。そもそもお弁当の中身や味を気にしてすらいないのかもしれない。母の作る甘い卵焼きが大好きだが、僕は最近甘味をあまり感じない。
本当は分かってた。なんてあとから言っても、きっといい訳にしか聞こえないだろう。
僕は自分の中で感じていた不快な気持ちをないことにしてこの集団の中で一緒に笑っている自分に呆れていた。最近の自分の笑顔が引きつった状態になっていることには気づいていた。多分あの子が標的になった時期からだろう。客観的に自分をみた時、僕は僕という人間を鼻で笑うことしかできないのだ。そして、それでいいのか、と問う。僕はいつも何も答えられない。
一週間がたった。きっと伝えたらみんなは僕を空気の読めない人だと思うだろう。楽しい雰囲気を壊したのは僕だと機嫌を悪くするだろう。当然、今まで僕の居場所であったあの集団の中での僕の席はなくなるだろう。自分から一人になることを選び、クラスの中心となっているグループから離脱し、わざわざ面倒を起こした僕のことを拾ってくれる霖雨蒼生なグループは現れないだろう。
それでも僕は覚悟を決めた。僕は自分に嘘をついている僕に嫌気がさしたんだ。
いつも通りみんなが不快で楽しい話をしている。今日もあの子は下を向いて、集団は上を向いて大きな口で笑っている。
「なんで笑うの?」
僕は言った。「もうやめよう。」心臓がうるさい。足はすくみ、立っているのが精一杯だった。集団は不思議な顔をする。「なんでって何が?」とでもいっているような違和感なんてものは何も感じてない顔が並ぶ。
少し間が空いた。僕の言いたいことを察したのか表情に変化が現れた。
「何がいいたいの?」
「急になに? きも。」
「うわ、うぜえ。」
不機嫌を全面に出した様子で集団は言う。
こうなることは分かっていた。それでも僕はこの壁をどんなに高く感じても乗り越えると決めた。あの子のためではない。僕自身のためだ。
「きっとこのままじゃつまらないよ。このままじゃダメなんだよ。」
僕はあの子に言う。あの子からの反応はない。
警戒した目で僕をみる人もいれば、軽蔑した目で僕をみる人もいた。
五、六時間目。教室の空気は二酸化炭素が溢れているかのようだった。まさに地獄そのものだ。あの子の姿は見えない。
帰り道はいつもより長く感じた。
クラスの子が一人、声をかけてきた。
「届いた。」
はっきりと言ったその子の言葉に対して僕の身体全体が「うん」と強く頷いた。震えはおさまっていた。
明日からどうしようか、そんなことを考えながら駅のトイレで手を洗う鏡越しに映るの目は生きていた。僕は真っすぐ黒い瞳で僕をみていた。
冬が近づいて少し肌寒く感じる。頭上に広がり続ける雲で埋もれた空はいつもより明るく、澄んで感じられた。
最寄りから二駅分離れた公園のベンチでさっき買ったおしるこの缶を開ける。ベンチが二つと滑り台が一つだけあるこの小さな公園が今はとても居心地が良い。
おしるこの温かさと甘味は僕の心が今一番求めていたものを与えてくれた気がする。
あんこの粒も一粒も残さず飲み、空っぽになった缶を手にして帰ろうと立ち上がったとき、野良猫が茂みから出てきた。真っ白な体に一か所だけ黒の斑点模様がある。いろんな人から食べ物を与えてもらっているのだろう。「おまえは人懐っこいんだな。」近づいてくるまん丸の猫の頭を撫でた。
気持ち良さそうに撫でられる猫はとても幸せそうにみえた。僕は言った。
「僕はね、今の僕が嫌いじゃないんだ。」
吾輩は長野の髪である。名前はまだない。
吾輩の毛根が生まれたのは、一九八〇年一月二十九日。この年はうるう年だった。まだまだ未熟でシャキッと吾輩のご先祖様をたたすことができなかった毛根は、その年の十二月初めてテレビで射殺を見た。ジョン・レノン氏が殺されたのだ。ご主人が眠ったばっかだったのに銃声で起きて母親が疲れて泣き出してしまい大変だったということが毛根の歴史に書いてある。この事件は初めてご主人が母の涙を見たことで優しさを少し赤ん坊ながらに覚えたそうだ。
そうだ。吾輩のご主人の紹介をしよう。
生物。哺乳類ヒト科。名前は長野英明。性別は男といわれているがわからない。一九八〇年一月二十九日に広尾病院で生まれ、東京都港区赤坂で育つ。兄弟は兄が五人と妹が四人。今は所帯を持ち息子と娘と妻の四人で暮らしている。妻の章子は、毛量が多く毛が細い。息子は章子に似ている。娘とご主人は、毛量も多く毛も太い。職場は神奈川県川崎市高津区にある中高一貫の私立で社会科教師をやりつつ、フェンシング部の顧問をやっている。
まあざっとこんなところだ。
ご主人の頭は居心地がいい。見える景色も高くて楽しい。
「まるぼろ! そっち行っちゃだめよ! まる!」
ご主人のタイプそうな露出の多い黒髪のロングの毛の女の人が犬に連れられて走って暗闇に消えていった。ご主人の頭から離れることができない吾輩は犬が羨ましかった。自由に動きたいと思う。毛れど、自由に動くということは吾輩にとっては毛涯で一度、ご主人の頭から抜けた時しかない。複雑だ。からまっちまう。ご主人に伝えたいことはない。毛れど、最近上からの眺めがよくないのだ。白くかすんできている。ご主人の娘には日本一高い山、富士山と呼ばれている。ご主人も四十二年生きているし、吾輩も三八二代目の毛だから、見えずらくなってしまうことはしょうがない。が、眺めが悪いと生えている理由がわからない。そういう理由でもう、毛根から生えるのをやめたところもある。五年休んでまた生えてやろうと思っている毛根もあるようだが、最近閉じ込めていた毛を生えさせてしまうほど、嫌な匂いのする吾輩たちを洗う液体がある。妻と子はいい匂いのする液体を使っているのだと、部屋の片隅に落ちている髪の情報屋が、ご主人が呼吸に合わせて大きな音を立てながら横になっているときに教えてくれた。
さあ今日はご主人の身だしなみが整う日だ。いつもは妻に「章子ちゃん?」と泣きついて髪を切ってもらっているが、今日は一人になりたかったみたいだ。一人になりたくても、吾輩たちがいるから一人になんかなれないのに。吾輩たち毛も、心臓も、目も、膵臓も、ご主人が生きている限り離れることなんてできない。ご主人にとっては自分のなかの一つで、吾輩たちにとっても、ご主人が生きていなかったら生えていられない。なくてはならない存在なのだ。お互いに。理解してもらいたいものだ。
まあ、それはおいといて、千円払って毛を切ってもらうようだ。ご主人は、フェンシング部の上司に圧力をかけられている。松本というやつに話しかけられているときは、ご主人自慢の吾輩たちも、シュンとせざるを得ない。七年前までは吾輩の先祖も松本の毛と仲良くしていたみたいなのに、諏訪というヒトがフェンシング部の顧問を始めてから、松本は権力に屈し、ご主人に対しあたりが強くなっていったそうだ。ご主人は息子が小学生になり安定した収入が必要だったから諦め、全細胞に諏訪と松本に逆らうことを禁止した。
「カっかっかっかっかっかっかっカっかっかっかっかっかっかっ」
ああ、先っちょがなくなっていく…枝みたいに道から外れた分かれていたあいつらもなくなっていく。ゴミになっていく。ざまあみやがれ!!!!
「毛立ちにでてるぞ」
横の毛αがふさふさしてきた。αは毛根が強くなかなか抜けないから、威張っている。
「何本もの毛を見送ってきたが、善い毛も悪い毛も最後はチリだ。ほこりに交じって捨てられる。差異はない」
「抜ける前兆はわかるのかい」
「主人の精神状態が不安定になった時は危ない。主人が立ったときにドバっと抜けたりする」
「どうすれば」
「シャキッとしよう。主人にはわれらの違いなんてわからない。全部同じ髪の毛だからな。毛我があるなんて思っていない。ワックスなるものをつけて自分でコントロールしていると思っている。毛が自分のためを思ってシャキッとしているなんて、考えるはずもない。それがヒトだからな。でも、それでいいんだ。それが主人の髪の毛に生まれたわれらの使命なのだから」
αが伝えてくることはもっともなことだった。吾輩は、圧力をかけられ、追い詰められているご主人を頭上から支えることを決めた。娘が富士山と笑ってくれる毛をシュンとさせることはできない。シャキッとしようと決めた。
社会から脱落しないように。
あの日たてた誓いから数日がたった今日、ご主人は朝から仕事だ。少しむかつく毛のふさふさな高校生を相手し、今日も松本の靴をなめる。
「綺麗になめろよ。靴の端までしっかりと。そのあと、靴を水拭きしろよ。ああ、あと諏訪さんの目を今日はちゃんと見ろよ。言わないと分からないもんな。お前は!!!!!!」
下から見るあいつの見下した目は生えている中で、一番いやな毛持ちがする。授業が終わりご主人は走った。土砂降りの雨が降っていた。吾輩は、今にも社会から零れ落ちそうなご主人を助けることができない無力さと、気持ちも毛持ちも考えない雨の二重苦でシュンとした。その時だった。αが抜けた。あまりの雨の強さに反動で抜けてしまったのだ。吾輩たちのなかでは古参だった。αがいないと理解できないご主人の気持ちもあった。吾輩は彼が威張っていたから好きだったわけではないけれどありがたいとは毛ながらに思っていた。αもまたチリになった。
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なぜか道路が近い。なぜだ。なぜ? わからない。赤い。白だった髪の毛βや髪の毛γが真っ赤に染まっている。知らないヒトが近づいてくる。騒がしい。毛穴が詰まっていく感じがする。苦しい。
全細胞の働きが停止した。もう吾輩も動けない。シャキッとならない。あの日の誓いを破ってしまったからなのか。うううううう。
ピーー-----------ー---------------ポーー----------------------------ピーー--------------------ポーー-----------
いつもとは違う赤と白の車の中で聞いた話では、頭を強打したことによる失神だとの予測だが、出血多量で危ないかもしれないから、家族に連絡するということだった。吾輩が動けたら、喋ることができたのなら、なんて思っても自分の生えてきた役割にそんなことは含まれてなんかいないから、諦めるしかない。その代わり、絶対シュンとなんてしない。毛根に頼んだ。
「全毛根に伝えてくれ。αがチリになった今、全毛の指揮は吾輩がとる。頭のてっぺんから、足の先までのすべての毛よ。絶対にうなだれるな。シャキッとしろ。ご主人が生きているということを吾輩たちで主張するのだ。たとえ細胞が動いていなくても、吾輩たちだけは、頑張るんだ!!」
三時間後、ご主人の体は吾輩たちも含め検査された結果が出た。章子も辛く心配そうな毛になっている。もともと細い毛が今にもミジンコのひげのように見えなくなりそうだ。
「検査結果からいうと、なにも異常はありません。しかし、万が一記憶障害などがあったら困るので、目が覚めて二日間は入院しましょう。この人がご主人を担当する看護師佐久です」
「お世話になります。主人をよろしくお願いします。そうですか。あの大量の血は大丈夫だったのですか」
「佐久さがっていいぞ。お子さんの血を輸血したので大丈夫だと思います。他に心配な点はありますか」
「先生はいつ離婚されるのですか。私は多額のお金を払って事故ってくれる運転手を探したのに」
「病院でその話はしない約束だろう。俺の家で話そう。今夜も待ってるから」
「ほんと?! 最近全然音沙汰ないから心配していたの! かったわ! じゃあね、チュッ」
吾輩はびっくりした。章子の毛がうなだれていたのは、先生との不倫関係が上手くいっていなかったからで、辛そうだったわけではなく、ご主人に万が一があることを期待していたからである。そして、ご主人が痛い思いをしているのは、章子のせいだった。
吾輩はもう一つびっくりしたことがある。ご主人も黒髪ロングの女と不倫していた時期があるのだけれど、それがなんと佐久という看護師だったのだ。まさかまた出会うなんて、ヒトは面白いな。
佐久の賢明な看護でご主人は事故から五日後に目を覚ました。章子は毎日先生と話し、イチャイチャして帰っていった。ご主人は、事故直前の記憶こそないが、佐久のことは当たり前に覚えていた。不倫していた十一年前の気持ちがよみがえり、ご主人は照れた。そういうところだと毛ながらに思う。かわいそうなのは、娘と息子だ。両親の不自然さに気づかないほど馬鹿ではない。ご主人が入院している間、子どもたちは、コロナの影響でお見舞いに来ることができなかった。そんな異常事態の時に浮ついて、夜いなくなる母親を子どもたちは見ないようにしていた。昔、ご主人が不倫していたことに章子は気づいていた。相手を探すためにわざわざかかった病院で、章子は先生と恋に落ちてしまった。どうしようもない二人だ。それでもお互い離婚しなかったのは、不倫相手の先生と佐久は結婚していたからだ。複雑にからんだ髪の毛のような話だ。吾輩たちはすべてを知っている。隠したいことも、逃げだそうとしていることも、嬉しいことも、幸せなことも、ご主人のことを一番知っているのは吾輩たちだ。
おっと、ご主人が起きる。シャキッと頑張らなければ。おかしいな。あれ、なんで吾輩だけ枕にくっついたままなんだ? おーい。忘れてるぞー。
「あの事故で何も異常なしは嘘だな。あのやぶ医者め。肋骨がいてえ。あれ、今日も抜けてる。太いのが一本抜けたな。仕方ない。抜けるのが当たり前なのだから。捨てとこ」
ああ、吾輩もチリになった。
hair is beautiful
完
わかっていてもやってしまう。
やりたくなくてもやってしまう。
なぜいつもやってしまうのか自分には分からない。
横殴りの雨が窓ガラスに叩きつけられる音で目が覚めた。部屋を見渡すと家具が散乱している。昨日もやってしまったと思い落胆したいが娘の学校があるので急いで朝食の準備をする。娘の大好物であるフレンチトーストを作り、洗濯物を取り込み次の洗濯機を回す。そうしているうちに娘が起きて顔を洗い始めていた。
「かんなおはよう」
と一言声をかけると、消え入るような声で
「おはようございます」
と奏愛は言った。奏愛に急いで朝食を出し、服を着替えさせ弁当を渡し小学校に行かせる。家に一人だけになり自分の時間ができたと思いたいが朝食の片付けや洗濯物の残りと部屋の掃除が残っているのでそんなことはなかった。やっとの思いで家事を一通り終わらせて一息つこうとしたがパートの時間が迫っていてゆっくりすることも許されなかった。
外に出るとさっきまで降っていた雨が止んでいた。途中にあるコンビニでサンドウィッチと飲み物を買って職場であるクリーニング屋を急いで目指す。今日も時間ギリギリだったがなんとか間に合った。急いで来たせいで前髪がとても乱れてしまっているが治す暇もないので仕方がなくそのまま制服に着替え準備をする。仕事の時間は現実を忘れ、心をリラックスできる。真っ白なワイシャツやシーツを見るだけで心が浄化されているような気がするからだ。いつも通り何気なく仕事をしているとバックルームからパート仲間の佐藤さんの呼ぶ声がした。どうやら私のスマホに電話が何回もかかってきていたらしい。仕事をしたい気持ちにブレーキをかけて佐藤さんと入れ替わるようにバックルームに入る。スマホを見ると知らない番号から電話がかかってきていたので仕方がなく電話に出ると奏愛の通っている小学校からだった。私は電話を終えた後、急いで小学校に向かった。小学校に向かっている途中雨が降ってきたので風邪を引いてしまわないか心配だった。
学校からの電話は少し前から奏愛がいじめをされているという内容だった。雨の中しばらく歩き学校のすぐ近くまで来るとフェンス越しに先生方とうずくまっている奏愛が見えた。二人のところに行くと先生がすぐに声をかけてくれた。
「かんなちゃんのお母さんでございますか」
「はい、かんなの母親です。かんながいじめを受けてたというのはどういう事ですか」
「奏愛ちゃんのことについて詳しくはこちらの応接室でご説明いたします。お入りください」
言われた通り応接室に入ると部屋には大きなソファ型の椅子があり、テーブルを挟んだ反対側に小さめの椅子が二つあった。私と奏愛は大きい椅子の方に一緒に座り、担任の浅田先生と今井校長先生は向かい側の席に座った。
「この度は本校の生徒が奏愛さんを傷つけてしまい申し訳ごさいません」
「担任として迅速に対応出来なくて申し訳ごさいません」
と先生方は深く頭を下げた。何が起きてしまったのか知りたかったので私はいじめの経緯と内容を質問した。すると浅田先生は
「奏愛ちゃんへのいじめが始まったのは三週間前からです。最初の方は男女間のからかいのような雰囲気で物を隠したりする程度だったのですが、どんどんエスカレートしていきました。加害者である上野くんはやってないと証言をしますが、殴ったり蹴るなどの暴力まで発展してしまいました。周りの友達はクラスの中心的存在である上野くんに逆らうのが怖く、先生方に伝える事も出来なかったような状況だったそうです。そのため担任である私も発見が遅れてしまいました。そして今日、奏愛ちゃんの腕に痣があるのが見えて詳しく聞いたらいじめがあった事が分かりました」
と慌てながら答えてくれた。そうすると今度は浅田先生から
「奏愛ちゃんについてご家庭では何か変わったことはありませんでしたか」
と質問をしてきた。
「はい、そうですね…特に変わった事はないと思います。毎日いつも通り学校に通っていたと思います」
と私は答えていた。その後もしばらく話し合いをしていたが窓の外を見てみるとすっかり暗くなっていた。
「もう日が暮れてしまったのでまた後日続きを話しましょう。今日は遅くまでありがとうございました」
と先生が話を終わらせてくれた。外に出ようとしたが土砂降りの雨が降っていた。小学校を出て家への帰り道の途中奏愛と二人きりで外を歩くのは随分久しぶりな感じがした。そういえばあの時応接室内でずっと下を向いていた奏愛の顔は、何かを訴えたかったように見えた。
大粒の雨が地面を叩きつける音で目が覚めた。部屋を見渡すと部屋は綺麗なままだったので安堵に包まれた。今日は奏愛と一緒にお昼頃、学校に行って昨日の話の続きをする予定なのでのんびりと朝食の準備をする。オムレツを作りながら洗濯物を取り込み次の洗濯機を回す。いつもならこの時間になると奏愛は部屋から出てくるが今日は出てこない。
「かんないつまで寝ているの。起きなさい」
と部屋の前から声をかけても一向に出てくる気配がない。仕方ないので部屋を開けて叩き起こそうと思ったがドアに鍵がかかっていて入ることすらも出来なかった。何をすれば良いか分からなかったので奏愛を起こすのを諦め、一人で朝食を食べ奏愛のご飯を用意し学校に出かける準備をした。家を出発する際、奏愛に家を出る事を伝えたが、やはり返事はなかった。学校の傍まで来ると今日もフェンス越しに浅田先生が居るのが見えた。校門をくぐるとすぐに声をかけてきた。
「本日もよろしくお願いします。奏愛ちゃんは居ないようですが体調不良ですか」
「えーと、はいそうです。今朝部屋から出てきそうになかったのでここには連れて来ることが出来ませんでした。体調が悪いのかどうかも分かりません」
私の言葉に浅田先生は驚き、その後困った顔をしていた。
「この件は後にして先に昨日の話の続きをしましょう」
話は日が沈むまで続いた。これからの学校生活をどう送るか、加害者である上野くんと両親からの謝罪、そして後回しにしていた話。特に奏愛が今日学校に来られなかったことについて話した。浅田先生が仰るには奏愛が学校に来られなかったのはいじめが原因なのではないかとのこと。もし奏愛が引きこもりになってしまったら私はどうすれば良いのか全く分からない。家への帰り道は不安で頭がいっぱいだった。家に戻ると相変わらず奏愛は部屋の中にいたがリビングに置いていた食事は食べてあった。この調子で夜ご飯も作って置いとけば良いのかもしれない。案外気負わなく良さそうで安心した。
雷のゴロゴロという音で目が覚めた。部屋を見渡すと家具が散乱していた。またやってしまったという気持ちになったが今日は奏愛のために病院に行くので急いで朝食の準備をする。パンをトーストして洗濯物を取り込み次の洗濯機を回す。今日も奏愛は部屋から出てこないので食事の用意をしておく。浅田先生のアドバイス通り近くにある大学病院の精神科で奏愛の症状を見てもらおう。奏愛を家に置いておき一人で病院に向かう事にした。症状を聞いただけだが精神科医曰く、心的外傷後ストレス障害とのこと。長期間によるいじめが奏愛の心を蝕んだのが原因らしい。回復に向けて出来ることは自然回復と精神療法の二つしか無いため私は母親としていつも通りに接することしか出来ない。家に帰ると奏愛は部屋に引きこもったままだった。私は母親として何をしてあげられるのだろうか。
横殴りの雨が窓ガラスに叩きつける音で目が覚めた。部屋を見渡すと家具が散乱していた。わかっていてもやってしまった。やりたくなくてもやってしまう。なぜ今日もやってしまうのか自分には分からなかった。
「人の中身が見てみたい」
僕は、幼き日から永らくこの好奇心に取り憑かれていた。初めは、路上で猫が死んでいるのを見た時だった。本来あってはならない方向に首が曲がり、辺りには血が滴っていた。あともう少しのぞき込めば中身が見えるというところで、母の手が僕の視界を遮った。
「あんなものは見ちゃだめよ! いい? 命というものは大切なのよ!」
母の必死な剣幕に気圧されて、幼いながらも中身は嫌悪するべきものであり、見てはいけないのだと、また命は大切であり、死んでしまったらきっと誰かが悲しむことを理解した。以後、僕はあの日の母の教えを律儀に守り、外に出るたびに誤って虫を踏んでしまわないように気を付け、ゴキブリや蚊ですら殺さないようにしていた。しかし、あの日抱いた確かな憧れは、静謐にそして強烈に、僕の心の深い部分に、まるでヘドロのように沈殿していたのである。
僕は、そんな救われない感情を匿いながらも高校生になった。朝の通学の途中、駅のホームで電車を待っていると、隣から中年の男が自然な感じで線路に飛び降りた。周りの人が
「危ないから早く上がってこい!」
などと呼びかけていたが、男はそれらを聞き流し二言三言声にならない言葉を叫んだのち、間もなくやってきた電車に轢かれて死んだ。砕けた頭蓋、ひしゃげた手足、腹が裂けて飛び散った内蔵をよく観察することができた。辺りには血の海が広がり、ソレはもう数秒前の人ではなく文字通りの肉塊といった感じだった。しかしどうしてだろうか、ずっと見てみたかったはずの人の中身を生で拝めたはずなのになんの感動も沸いてこない、いやむしろ酷くガッカリしてしまっている自分がいることに気付いた。飛び込んだのが冴えない中年の男じゃなくて、面のいい女だったらもっと感傷に浸ることが出来たのかな…なんて自然に考えている自分は心底クズなのだと自覚した。しかし、僕にとってそんなことよりももっと衝撃的だったのは、周りの野次馬共の反応だった。最初のうちは悲鳴を上げ混乱している様子だったが、少しすると今度はそれがスマホのシャッター音と共に好奇の目に置き換わっていくのがよくわかった。駅員がアナウンスで
「お客様の良心に問います! スマホでの撮影はご遠慮ください!」
と必死な声色で叫んでいたが、まるでスコールの様なカメラのシャッター音は鳴りやむことはなかった。ふと隣を見ると、さっきまで男に線路から上がって来るように促していた人たちも、ニタニタと気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべながらスマホを構えていた。僕は、いままで自分が培ってきた道徳観念から大きく逸脱した異常な光景に言いようの知れない不気味さを感じ、その場から逃げるように家へと帰宅した。
それからというもの、僕はなぜ命を大切にしなければならないのかがよく分からなくなっていた。倫理の授業で「命は大切にしなければいけません!」なんて四角四面に言われても、もう素直に納得することが出来なかった。なぜなら、人生の最後に勇気を振り絞って電車に飛び込んだはずの彼の命は、僕を含め周りの人の好奇心を満たす程度の存在でしかなかったのだから。そんなことを考え続ける日々の中で、僕は「死んでしまったらきっと誰かが悲しむ」と思っていたが、「死んだらきっと誰かが喜ぶ」とも言い換えられることに気付いた。命の価値というものは、本来平等で不変的であるが、個人の価値観によって可変的になるのだと思う。人は、家族の命は見ず知らずの他人の命より重いと思っているが、他人からしてみれば他人の家族の命など飼っているペットの命より軽いだろう。カワイイ動物を殺める時は躊躇するくせに、目の前を飛び回る虫を叩き殺すのには一切躊躇わないし、指摘されるまでこの差異に気が付くことはない。つまり、誰しもが無意識にその人の価値観に準じて命の価値を裁定しているのだ。本来平等であるはずの命に倫理観という付加価値を設けているのは人間だけであり、虫の命が無意味で無価値であるなら、人間の命も同じように無意味で無価値なのだ。このことに気付くと、いままで思い悩んでいたのが嘘のように晴れやかな気持ちになってきた。「人生は壮大な暇つぶしだ。」誰かがどこかでこんなことを言っていたのを思い出した。心の底からその通りだと思う。なぜなら命に価値などなく、人生に意味などないのだから。だからせめて、死ぬ間際に自分だけでも己の人生が良いものであったと振り返れるように、今日という日を一生懸命に生きていこうと思う。
「ママ、イチゴ食べたい。」
七月の初め、鬱陶しい暑さを感じる昼下がりに、スーパーマーケットの近くを歩く少女が言う。二つ結びの髪の毛にいちごの髪飾りをした彼女の視線の先には、二十代後半くらいだろうか、若くてきれいな母親がいる。そうだね、イチゴ食べようか、と母親は微笑む。そうして親子はスーパーマーケットへと入って行った。イチゴみたいな子だな。なぜそう思ったのだろうか、私はあの少女をイチゴのようだと思った。大学三年生の夏。着古したTシャツを着て、髪を大雑把な一つ結びにした自分の姿が、スーパーマーケットのドアに反射して映る。あの子は私とは真反対の人間だ。イチゴらしさなんて私には微塵もない。私はたまに自己嫌悪に似た感覚に陥ることがある。可愛い女達が可愛いものを写真に撮り、それが毎日のようにSNSに投稿されている。可愛いの供給過多だ。自分の生活と比べると自己肯定感の低下にキリがない。日常生活だってそうだ。さっきのような親子をみると、自分の将来に不安を感じる。家庭を持つなんて想像もできない。彼氏の一人もいたことがなかったのだから仕方もないが。あれこれ考えているうちに私の思考はどんどん腐っていく。家に帰る足取りも重い。家の近くのホームセンターを通り過ぎようとした時、ふと目に入った「ストロベリーポットセール中」と描かれた看板。それに視線を向ける。なんだか可愛らしい名前だ。私は珍しく少し寄り道をすることにし、ホームセンターへ足を運んだ。ストロベリーポットの売り場へ行くと、店員のおばさんが私に話しかけてきた。
「お姉さんいらっしゃい! ストロベリーポットはね、苺を栽培する時に使う鉢なんですよ!穴がたくさん開いているでしょ? これは、苺の茎を出すための穴なんです、面白い形してますよねー! 家庭菜園なんかされるんですか? もし興味があるんだったらこのストロベリーポットで苺育ててみるのもいいかと思いますよ! ちょうどセール中ですし!」
よく喋る店員だな、と思った。このままでは長話に付き合わされてしまいそうだ。そんな私の脳内独り言はお構いなしに、おばさん店員は私に話しかける。
「家庭菜園いいわよねー。私もよくやるのよ。実った時の達成感がね、気持ちいいわよねー。」
「わ、私、家庭菜園なんかしたことないです。ただ、ストロベリーポットって、可愛らしい名前だなと思って立ち寄っただけで…。」
「そうだったんですね! でも、どう? これを機に家庭菜園始めてみるのも、いいと思いますよ! ほら、一つ買っていきな!」
「は、はいそうですね。これも何かの縁ですし、やってみようかな。イチゴ育ててみます。ストロベリーポット一つください。」
私の性格上、こういった押し売りにはめっぽう弱い。断れない性格ゆえ、ストロベリーポットを買ってしまった。実際、このストロベリーポットでイチゴを育てるかどうかはまだ決めかねている。が、買うまで店員と会話を続けなくてはいけないと思うと億劫であったので、セールで四百円になったストロベリーポットを家に持って帰った。
帰り道、住んでいるアパートの階段の前で、隣の部屋の羽山くんに会った。今年の四月に引っ越してきた彼は、私より二歳年下で、とても人懐っこい。こんな私にも気さくに話しかけてくれるので、羽山くんは私にとって弟のような存在になった。
「川谷さん、こんにちは! それ、何持っているんですか?」
「これねえ、ストロベリーポット。イチゴを育てる時に使う鉢なんだって。」
「へぇー、川谷さん苺育てるんだ、いいですね!」
「いや、店員さんに乗せられて買っちゃっただけで、育てるとかはまだ。羽山くん、いる?」
「いやいや、俺そーゆーの向いてないんで! 川谷さん、育ててみればいいじゃないですかー、苺育ててるって、なんか女の子らしくて可愛いですよ!」
そうか、可愛い、か。イチゴを育てれば私もあの少女のようになれるのだろうか。私は少しおかしな期待をした。
「可愛い、か。私にそんなの似合わないけどな。でも、うん、やってみようかな。」
「おお、いいですね! じゃあ、出来たら俺に苺食べさせてください! それじゃ!」
そう言って羽山くんは自分の部屋へと入っていった。
その後私はイチゴの栽培について独学で調べてみた。十月ごろに植え付け、五月から六月にかけて収穫、というのが、イチゴ栽培の一般的なスケジュールらしい。私は十月がやってくるまで、栽培に使う土や苗を探して待つことにした。私はだんだんと自分がイチゴの栽培に夢中になっている気がした。美味しいイチゴを育てられたら、私もイチゴに近づけるのではないだろうか。可愛い、を手に入れることができるのではないだろうか。そんな期待をしつつ、秋が来るのを待つ。
十月、冷たい風が吹き始めた頃、私はストロベリーポットを手にする。土もイチゴの苗も、しっかり下調べをしてちょうどいいものを買った。準備は万端である。私は意気揚々とストロベリーポットの中に土を入れ、まるでイチゴのための布団であるかのような茶色のそれに、苗を植えた。うん、それらしくなってきた。それから私は毎日イチゴの苗を気にかけ、土が乾く前に水をやり、イチゴが育つのを待った。コンビニエンスストアへ行った帰り道、羽山くんに会った。
「川谷さん、こんにちは! 今日は一段と寒いっすね。そういえば、ちょっと前に言ってたストロベリーポット? どうなりましたか?」
「イチゴ、今育ててるんだ。今月植えたばかりだからまだそんなに大きくなってないけど。来年の五月ごろにはイチゴできると思うから、できたら持っていくね。」
「ほんとっすか、楽しみっす!」
私のイチゴを楽しみにしてくれている羽山くんのためにも、私は可愛いイチゴを作らなくては。そう思った十月の終わり。もうすぐ冬がやってくる。
十一月中旬。大学から帰宅する途中の私は、女の子と一緒に歩く羽山くんを見つけた。私は羽山くんに恋愛感情を抱いたことはないので、彼女いたんだなあ、と思う程度であった。が、羽山くん、面食いなのかな、やるなぁ。羽山くんの隣を歩く彼女はとても可愛い。こういう時にまた自己嫌悪に陥るんだ。私も可愛ければ、大学時代に一人や二人彼氏ができたのではないだろうか。充実した人生を送れていたのではないだろうか。残り一年とちょっとの大学生活を充実させるために、早くイチゴを育てなければ。私は家に帰ってイチゴに水をやった。
しかし、今月も終わろうとした頃、イチゴの成長が止まってしまった。隣の部屋からは微かに羽山くんと彼女の声が聞こえる。私は眠気で重くなっていた瞼を目一杯見開き、ストロベリーポットへ視線を向ける。これは一大事だ。何よりもまず、イチゴをなんとかしなくては。翌朝すぐに、私はストロベリーポットを買ったホームセンターへ行った。家庭菜園のコーナーにいた暇そうな店員を見つけ、いちごの容態を事細かく説明した。
「お客さん、大丈夫ですよ。苺は寒くなると、冬眠してしまうんです。だから、二月くらいまでは成長が止まるんですよ。春になればまた成長するので、安心してください。」
なんだ、そう言うことだったのか、イチゴの冬眠か。可愛いな。私は、小太りの優しい声をした男性店員の言葉に安堵し、家に帰ってストロベリーポットを抱きしめた。私にはこのイチゴしかない。早く実らないかなぁ。
二月下旬。特に何かあったわけでもない私の冬はあっという間に過ぎ、大学生らは春休みに入る季節だ。イチゴも少しずつ大きくなり始めた。春はもうすぐそこまできている。
三月に入ると、ようやくイチゴの花が咲き始めた。私はとても嬉しかった。我が子の成長を見守っているような気分だった、きっと。羽山くんにもこの喜びを共有したい、と思った時、隣の部屋から羽山くんの彼女らしき人の大きな声が聞こえた。恐る恐る私が扉から顔を出すと、羽山くんの彼女らしき人は泣きながら外に飛び出していった。羽山くんの部屋を飛び出していった彼女の背中はどんどん遠ざかる。喧嘩でもしたのだろうか。私はそっと扉を閉め部屋に戻った。その日私は一人でイチゴの人工授粉をした。いちごが実るまでもう少しだ。
五月。私の大学生活最後の年の春。周りは就活やら卒論やらで騒いでいる。ストロベリーポットでイチゴが実った。四つ五つは既に赤く熟れて今にも食べてしまいたくなる。その中に一つだけ、まるでちぎられた蝶の羽のような、いびつでおかしな形をしたイチゴが実っていた。私はそれを見るなり、不思議と涙が溢れ出た。このいびつな形のイチゴがまるで、今の自分のように思えたのだ。肥料だって水やりだって一度たりとも手を抜かなかったが、なぜか一つだけこんなになってしまったのだ。イチゴを育てたって私は変わることがなかった。伸び切った髪を大雑把に一つ結びし、着古したTシャツを着て泣いている。私はどうしても、あのスーパーマーケットの少女のようにはなれないのだ。全部が完璧なんて私にはありえない。いびつでどうしようもないのだ。これを一人で食べるのは、今の私には何故か出来なかった。寂しさゆえだろうか。
翌日実ったイチゴを持って隣の羽山くんの部屋へ行った。
「イチゴ、できたから食べて。一つだけ変な形のあるから、嫌だったら食べなくてもいいけど。」
「おお、すごいっすね川谷さん! 変な形のいちご、なんか個性的でいいっすね、これいただきますよ!」
そう言って羽山くんは、いびつな形のイチゴを積極的に口に運んだ。
「あ、めっちゃ美味しいっす! 見た目あんま関係ないんすかね、苺って。全然いけますよ!」
羽山くんは優しい。いびつな形のイチゴを美味しいと言ってくれた。もっと食べていいよ、と言う前に、羽山くんは綺麗に実ったイチゴを手に取り頬張った。
「んー! やっぱ綺麗な形の苺の方がいいっすね! 味は大差ないけど、気持ち的になんか違うっす! やっぱ見た目って大事っすわー。苺ってこのフォルムが可愛いっすよね。ショートケーキの上に乗ってるやつとか! 俺、あのいちご食べるの好きなんすよー。ほら、川谷さんも一緒に食べましょうよー!」
私は羽山くんのこの言葉に、何故か少しの苛立ちを感じた。が、私は羽山くんと一緒にイチゴを食べることにした。イチゴを口に運ぶ。おい、羽山くんが言うほど美味しくないじゃないか、このイチゴ。私には合わないな。
私はその夜に、コンビニエンスストアに行った。スイーツコーナーにあるショートケーキが、ふと目に入った。可愛いな。そんなことを思いつつ、隣の棚にあるインスタントラーメンを手に取った。家に帰ったら一人で食べるんだ。
そのうらぶれた廃屋のような酒場には、ある不思議な噂があった。
それはこんな噂だ。余程の常連にならない限り、決して出してくれない秘密の酒があるという。元バーテンダーの老境のマスターの信頼を得た一部の常連客だけに、ある特別なカクテルを出してくれるという。もとより、川崎南部のディープサウスサイドと呼ばれ、まともな人間なら近づこうともしない、くたびれた年寄りや働きあぶれた連中たちが昼間から飲んだくれているような、トタン屋根アーケード「おもひで横町」の更に奥まったところにある「和風スナック夢屋」という意味不明の名前の酒場の噂だ。そのカクテルには合法ギリギリの薬物が混入されているというが、合法でないドラッグが入っていたとしても全く不思議ではない雰囲気だ。
この噂は、今俺が勤めている老人介護施設の、認知症の爺さんの譲治さんから聞いたのだから真偽のほどは推し量るべしではある。普段はテレビのリモコンと枝豆豆腐の違いも分からなくなっている爺さんだが、急に認知症の波が収まるときがあって、そういうときは川崎港の港湾労働者として働いていたときの話をベラベラとよくしゃべった。そんな中に、「おもひで横町」の「夢屋」の話があった。俺以外のヘルパー達は、譲治さんのそんな真偽不明の話を軽く笑って受け流していたのだが、どうしても俺にはその話がひっかかって、昼食時間のギリギリまで譲治さんから詳しく話を聞いたのだった。
その夢屋という酒場には隠し部屋があって、そこで出してくれる特別なカクテル、その名も「ビューティフル・ドリーマー」は、飲むとまもなく睡魔に襲われ(そりゃ、薬物が入っているはずだ)、「特別な夢」を見ることができるという。その夢は、自分が一番幸せだったときの記憶をあたかもそれを目前に見ているかのように味わえる夢だという。眉唾であることは勿論なのだが、俺にはもうそんな真偽不明な噂話にすがりつきたくなるくらい、今の暮らしにうんざりしていた。昔のあの頃に戻れるなら夢でも良い、一時でも戻れることができるのならその話に騙されても良いから、賭けてみようと思った。
でも、譲治の爺さんはその話の最後にいつも認知症とは思えないような真顔で警告していた。「そのカクテルを飲むと脳が溶けるからな、飲み続けると、俺みたいになるから気をつけなきゃいけねえ」って。普段は五分前に昼食を食べたことさえ忘れてしまうような爺さんがその時だけは焦点の定まった目でこちらを見るので、ぞっとした。
それでも、構わない。一度だけなら。一度だけでも。
そうして、ふらっと立ち寄ったふりをして「夢屋」に通いはじめてもう三ヶ月になる。確かに噂通りのうらぶれたアーケードで廃屋のような入り口はそこに店があるという事前情報がなければ見落としてしまうような入り口だ。「夢屋」の中もやはり廃屋のようだが、いわゆる昭和レトロを狙って作った酒場ではなく、本当にただ古めかしいだけなのだが、祖父母の家にきたようで妙に落ち着くのが不思議だった。しかし、出してくれるつまみのラインナップは労働者の町だけに、ニンニクたっぷりの特製餃子やもつ煮などで、カクテルの噂のことは抜きにして気に入った。実際、週に三日は開けずに通っている。
もうそろそろ、閉店時間の二十三時が近づいている。俺以外の客も誰もいない。あの噂話のことについて今なら聞いてみてもいいだろう。
「マスター、実はこの店で出してくれる妙な酒があるって噂を聞いたことがあるんだけど…」と、切り出してみた。
白髪をオールバックにしたマスターは、そんなことは端からお見通しだったよとでも言いたげな、薄笑いを浮かべて「やっぱり山内さんも、夢が見たいのかい」と言った。
俺は身を乗り出して「じゃあ、噂は本当なのか」
「もちろん。でも、リスクのことも聞いてるかい」
「ああ、脳が溶けるって」
「ははは、そうねえ、それもそうかもしれないけど、それはそれは幸せな夢が見られるからね、どちらかというと、夢から帰ってこられなくなるリスクの方が大きいかもね。それでもいいかい」
俺の頭の中にはとっさに、川崎南部のこの辺のヤクザがらみの臓器ブローカーの噂が頭に浮かんだ。なるほど夢から帰ってこられなきゃ、きっと自分の体もバラされて売られるのかもしれないなと思って、瞬時躊躇ったが、もう後に引く気もなかった。
「ああ、構わない。夢を見ながら死ねるなら本望さ」
「ほお。ささ、ではこちらへ」
マスターにカウンターの奥に案内され、通されたのは想像していたようなビップルームのような特別な部屋ではなく、薄暗がりの二畳ほどの物置部屋にハンドル付きで揉み玉が直接二つ穴から覗いている古びた一人用ソファー型のマッサージ器とサイドテーブルがあるだけの小部屋だった。マスターに促されるまま、その埃臭いマッサージ器に腰掛けてしばらくの間待っていると、カクテルグラスにまるで夏祭りの縁日のかき氷屋で出てくるブルーハワイのような真っ青な色をした酒が俺の目の前に突き出された。
「お待たせしました。こちらがビューティフル・ドリーマーです」
俺は、それを受け取り、一気に飲み干し、グラスをサイドテーブルに置くと、マッサージ器に勢いよく寄りかかった。
「それでは素敵な夢を」
「一体今、何時だと思ってるの」
マンションの玄関を開けて帰宅するなり、突然妻の美樹の機嫌が最悪の状態だと分かる。
「あんた、毎日毎日、飲んで歩いてきて、いい気なもんだわね。こっちは朝から晩まで子育てに追われてるっているのに」
「ああ、分かったよ」
「分かった、ってあんたいつも分かってないじゃないの」
変な店で妙な酒飲まされて悪酔いしたせいで、妻の金切り声が余計に頭に響いてくる。
「ごめん、ごめん。悪かったよ」
妻が、大声を出したので、座敷で寝ていた紗智が夜泣きをし始めた。
「ああ、ごめんねぇ。あんたのせいなんだから、あんたあやしに行きなさいよ」
「分かった、分かった」
リビングから繋がる座敷のベビーベッドで寝ている紗智を抱きかかえ、あやそうとするが、酒臭い父親が嫌なのだろうか、癇癪を起こしたように泣き止むどころか、誘拐されるのを拒む乳幼児のように泣き叫び続ける。
「美樹い、ちょっと何とかしてくれよ」
襖越しに呼びかけるが、未だに美樹の機嫌の悪さが収まる気配すらなく、返事はない。ふと、紗智のお尻の辺りをさすると、明らかに湿っておりおむつを代える必要がありそうだ。酔いで痛む頭を耐え、そのまま風呂場に駆け込み、お尻を洗い、おむつを代えた辺りで、ようやく紗智が泣き止んだが、それでも美樹はリビングの奥のソファで無視を決め込んで、深夜放送のテレビ番組を見続けている。
ようやく、泣き止ませてベビーベッドに寝かしつけ、リビングに戻るとダイニングテーブルに、冷めた夕食の肉じゃがが置かれているのに気がついた。確かにあらかじめ一本電話すれば良かったことを反省する。
「美樹、悪かった。今度からちゃんと飲んで帰るときは電話する」
返事がない。
「なあ、謝ってるんだから、返事ぐらいはしたらどうだ」
顔を上げて、リビングソファに視線をやったが、誰もいない。
誰もいないどころか、電気すらいつの間にか消えている。
「おい、美樹! どこにいったんだ?」
薄暗がりで、月明かりだけが刺す家の中で美樹を探して回るが、風呂場にもトイレにもキッチンにもどこにもいない。茫然として、立ち尽くしながらはっとして「紗智!」と叫んで、先ほど寝かしつけたばかりの座敷に行くが、ベビーベッドごとなくなっていて、俺はその場にへたり込み、そして泣いた。
「そうだ、もう君たちはいなかったんだ」
そうだった。
「マスター。噂は本当だったみたいだね。ほんの一瞬だけでも幸せだったよ」
あの頃の俺は、不動産会社で毎日残業続き、営業成績を上げることだけに必死になって全く余裕がなかった。美樹に対しても、可愛い紗智にすら何もしてやれなかったし、不甲斐ない自分に当たる代わりに、美樹につらく当たってしまっていた。あの日も、飲んで帰ったときには「さよなら」とだけ書かれたメモだけがテーブルにあって、妻と子は家を出て行き、二度と帰ってこなかった。一週間後に離婚届だけが送られてきたので、印鑑を押して送り返した。
俺は、そのまま部屋が薄明かりに白んでくる時間まで、ただ泣き続けた。
あの頃の俺は、自分に足りないものしか見えてなかった。自分に与えられている幸せには全く目が行っていなかった。今、一人きりになってはじめてあの頃が本当に幸せだったことが、痛いほどに分かる。ただそこにいてくれるだけで、良かったんだと。それが本当の幸せなのだったと。失った今になってやっと分かる。
そして、俺はそのまま営業成績だけに追われる不動産会社も辞めて、貯金を食い潰すまで一年ほど死んだような生活をしていたが、古くからの友人に紹介されて嫌々ながら食うためだけに始めた老人介護の仕事に就いた。不動産会社の頃は、とにかく客に契約させて営業成績を上げることしか考えてなくて、時には問題物件や事故物件であることを伏せて、押しつけるように、強引に契約させたことすらあった。他人の幸せなんて少しも考えてなかった。 でも、今は老人介護施設で働く今の仕事がとてもやりがいがある。自分が働くことで直接誰かが助かる感覚が初めて分かったからだ。誰かの役に立つことで、自分が必要とされる、この感覚があの頃に分かっていたら、もう少し違ったかかもしれない。あの頃の俺は、足りないものだけを見て、不平不満ばかりを家族にぶつけていたが、優しさや思いやりを与えてあげられる相手がいることが、本当の幸せなのだと、今更気づいても遅いのだ。
朝焼けの太陽が少しずつ、強くなっていき、俺の顔を強い太陽が照らしていった。
※現代文特講の創作講義内で学んだ脚本家・笠原和夫の「シナリオ骨法」を用いて書かれた演劇の脚本を特別付録として採録する。2022年度の二高祭にて宇野の担任クラスで行われた、この演劇は「シナリオ骨法」を前提に生徒との話し合いによって作り上げたものであり、見事「企画賞」を受賞することができた。
主人公:よしお…いじめられている高校生
不良A(男)まこと:いじめっこ・腕っぷしが強い、不良になる前は剣道部
不良B(男)けんた:まことの相棒的存在
不良C(女)みき:女ヤンキー
不良D(女)ひな:みきの相方で成績が悪く、留年しそう
担任の先生(女)宜保亜衣子先生…新任の若い生物担当の担任教師。ピエロの正体のひろしとの幼馴染だった。
ピエロ(男)ひろし
ピエロ(ひろし)をいじめていた同級生(回想シーンのモブ多数)
宜保亜衣子の高校生時代
高校時代のひろし(ピエロ)
開演ブザー
○教室暗い状態。舞台の真ん中で主人公よしおが体育座りをしながら頭をうずめている。
よしお録音ナレーション(独白)「ぼくはピエロだ。嫌なことがあっても、道化師になってごまかして逃げてしまう。今夜もあいつらに呼び出されてしまったけど、断れなかった。僕は一生このままピエロなのだろうか…」
明かりがつく
○セット1 夜の公園 不良A~不良Dまでがしゃがんでたむろしている。
不良Bけんた「なぁ、まこと、明日の期末テストマジだるくねぇ?」
不良Aまこと「だりぃだりぃ、けんたと一緒。1秒も勉強なんかしてねぇよ」
不良Cみき「そういや、ひななんて今度の期末で平均評定3以下だったら、留年確定じゃなかった?」
不良Dひな「あ、そうだった。そして、勉強してない。みきー、まこともけんたも、なんとかしてよ、あたしを助けて!」
不良Bけんた「何とかしろって、俺ら全員勉強なんてしてねぇんだから、どうしようもねえって」
ここで不良Aまことが、急に何かを思いついたように手を叩く。
不良Aまこと「そういえば!おれ、今日生物準備室に呼び出されたとき、担任の宜保ちゃんが明日の定期テストを、机の右下の引き出しにしまってたのちらっと見たんだよね。」
不良Dひな「そういえば、噂で定期テストは各教科それぞれの先生の右下の引き出しにしまう学校の規則があるって聞いたことがある」
不良Cみき「まじかー!てことは、それが手に入れば」
不良Dひな「明日のテストで何が出るか分かるってことじゃん!」
ここで急にみんなの動きがストップモーションになって、ひなにだけスポット当てる
不良Dひな「良いこのみんなはマネしちゃだめだよ!」と観客に向けてEテレっぽく言う
再び動き出して
不良Bけんた「おおお、まじでお前ら天才だな!」
しばらく、はしゃぐ不良たち。
不良Aまこと「…で、どうやって学校に忍び込むんだ?」
不良Cみき「そうそう、学級委員長のよしおは教師たちに信頼されてるから、生徒会の合鍵持ってたはずだぜ。生徒会室から学校の中に忍び込めるはず」
不良Aまこと「みきーまじ天才だな!よしじゃあよしおをよびだそうぜ」
不良Bが携帯を取り出して、(SE:携帯の呼び出し音)よしおが携帯に出る。
不良Bけんた「おう、よしおか! ちょっと今すぐ公園にこいや、あ、うるせえな早く来いったら来いや、あ、そうそう学校の生徒会の合鍵お前持ってたよな? それと懐中電灯を持って来いよ。あ?いいから早く持って来いって言ってんだろ」
よしおの心の声(あああ、またあいつらに呼び出されたよ。やだなあ、しかもなんか企んでそうだし、本当は断りたいなあ)
不良Bが電話を切る。→暗転(数分後の設定)→パジャマを着たよしおがいやいややってくる。
よしお「(ああ、いやだなぁ。)グッドイブニーン! よしお君の登場だよー。みんな待ったかなー?」
不良Aまこと「おせえよ、それで、生徒会の合鍵はもってきたんだろうな?」
よしお「テッテレー、ここにありまーす。(ドラえもんの声まねで)生徒会の合鍵~」
不良Bけんた「よっしゃ、じゃあ、今から学校に行くぞー!」
よしお「学校に何しに行くんだい? 今からお勉強会?」
不良Cみき「お前のそのカギを使って、学校に忍び込んでテストを盗み出すのさ」
よしお「ええええ、そんなことしてバレたらみんな退学だよん」
不良Dひな「うるせえな、どちらにしろ留年するなら一か八かかけるしかねぇだろ」
不良一同「おおー、いくぜ!」
一番最後に、誰も見えないところでよしおは、肩を落として嫌そうに付いていく。
舞台暗転
○セット2 学校内の昇降口(下駄箱)の設定
よしお「いや~、うん良くないよ、良くない。こんなことしちゃ~ダメダメ!」
不良Cみき「ていうか、うるせえよ、誰かは知らないけど宿直の教師が宿直室にいるんだから、静かにしろよ」
不良Aまこと「よし、じゃあ確か宿直の教師が見回りに起きる時間が、夜中の12時だったはず。(時計を見る)だからあと30分だからあまり時間がないな。ここは手分けすることにしようぜ。」
不良Bけんた「だな。明日以降の期末テストの科目が生物・体育・音楽・数学・情報だから、生物はまこと、体育は俺、音楽はみき、情報はひな、数学はよしおでいこう。で、それぞれの教員の机からテストを盗み出して、ここで待ち合わせだ。いいな?」
よしお「う~ん、やっぱり良い子は絶対マネしちゃだめだよ」観客に向けて言う
不良Cみき「お前、誰と話してんだよ」つっこむ
舞台暗転
○セット3 生物準備室(プロジェクターで夜の理科室の映像を映す)
忍び足で、懐中電灯を手にしながら
不良Aまこと「うわぁ、ここが生物準備室か。気持ち悪ぃ居場所だな。担任の宜保ちゃんは確か今日、ここにテストをしまってたはず。」
机を探すが、なかなか見つからない。ごぞごぞ探しているうちに、さまざまながらくたが出てくる。その中に、薄気味悪いピエロの人形を見つける。
不良Aまこと「うえ、何だこの気持ちわりいピエロは。宜保ちゃん、やっぱ怪しげな雰囲気だけど、趣味も悪いな~。」
と言って、ピエロをその辺りに放り投げる(SE:ガラスが割れるような音)
暗闇の中に、ピエロデスが入れ替わりで登場。
不良Aまこと「ん、何か変な音がしたな? おい誰かそこにいるのか?」
ピエロデス「ヒヒヒイヒヒヒヒヒヒヒヒ」
不良Aまこと「うわあああ、何かいる!」と腰を抜かしながら逃げ出す。
ピエロデスがゆっくりと、不気味な雰囲気で誰もいなくなった生物準備室で、観客に向ってピエロステッキを持って不敵な笑いを浮かべる。
舞台暗転
○セット4 体育教員室(プロジェクターで夜の体育館の映像を映す)
跳び箱を出しておく。
懐中電灯持ちながら不良Bけんた登場
不良Bけんた「うわぁ、ここが体育教員室かぁ、夜来るとやっぱり不気味だな」
「期末テストはどこにしまってんのかな? やっぱり机の引き出しかな?」
跳び箱から、ピエロデスが「わっ!」と飛び出して、観客を驚かす。
不良Bけんた「ぎゃあああああ」
赤の照明で照らす。死んだと思わせる演出(実は気絶しているだけ)
舞台暗転
○セット5 音楽室(プロジェクターで夜の音楽室の映像を映す)
ピアノやベートーベンの肖像画を出す(眼だけ穴をあけておく)
懐中電灯持ちながら不良Cみき登場
不良Cみき「やっぱり夜の音楽室は気持ちわりいな~」
ここで不気味なピアノの音が流れる。
不良Cみき「え?何、誰かいるの?」
ベートーベンの眼だけが動く(ピエロデスの眼)
不良Cみき「え、何?ベートーベンの眼が動いたような気がする!」
その肖像画を手で持ったまま、ピエロデスがみきに襲いかかる。
不良Cみき「きゃあああああ!」
赤の照明で照らす。死んだと思わせる演出(実は気絶しているだけ)
舞台暗転
○セット6 PC教室(プロジェクターで夜のPC教室の映像を映す)
不良Dひな「やっぱり、良くなかったかな~、バレたらやばいけど、留年は嫌だからしょうがないか、皆だいじょうぶかなあ」
プロジェクターに、PCのモニターが写っている動画を流す。このPCが急に砂嵐になる。これで、観客も驚かす。
「きゃあ!え、何々?何で急にパソコンがついたの?」
そのモニター画面に急に不気味なピエロが映し出される。(SE:大きめショッキング音)
それに驚いているひなの背後から忍び寄る、実態のあるピエロデスがひなに襲いかかる。
不良Dひな「きゃあああああ!」
赤の照明で照らす。死んだと思わせる演出(実は気絶しているだけ)
舞台暗転
○セット7 教員室(プロジェクターで夜の教員室の映像を映す)
よしお「ああ、なんであいつらの言いなりになっちゃったんだろう。何で僕はいつも、心で思っていることと、行動が合わないんだ。結局、ふざけてピエロになって、ごまかして逃げちゃうんだ。情けない。」
しばらくうなだれている。
「うん、やっぱりこんなことに協力しちゃだめだ。あとで、下駄箱で合流した時に、あいつらを説得しよう、もうこんなことはやめるんだって、言おう!」
と、よしおが決意したところに、おびえた様子の不良Aまことが飛び込んでくる。
不良Aまこと「おい!やべえぞ」
よしお「なぁまこと、もうこんなことはやめようぜ」
不良Aまこと「それどころじゃねぇんだよ! 何かピエロみたいなやばい奴が学校の中にいるんだよ! きっとみんな今頃殺されてる!」
よしお「え!大変だ、警察に電話しなきゃ」
不良Aまこと「そんなことしたら、俺らがテスト盗みに来たこともバレるだろ!」
ここにピエロデス登場(ステッキを持っている)
二人「うわああああ」
ピエロデス「キヒヒヒヒヒ。君たちのトモダチには眠ってもらったよ」
不良Aまこと「なにい、あいつらに何をしやがったんだ。ゆるせねえ」
ここで、まことは教員室に置いてあった竹刀を手に取る。
不良Aまこと「おりゃあああ」
ここからは、クライマックス格闘アクションシーン。ピエロデスとまことで事前に打ち合わせしていた通りの殺陣どおりに進めていく。
不良Aまこと「剣道部退部の俺をなめるなよ!」
最後は、ピエロを追い詰めてとどめを刺そうとして、竹刀を振り上げたところで、よしおが、ピエロをかばって止めに入る。
不良Aまこと「てめえ、なにしやがる!」
よしお「もう、勝負はついているだろ! それに、もうお前らの言いなりも、うんざりなんだよ!」
それを聞いて、竹刀を振るのをやめて、下におろすまこと。
ピエロデス「そうか、僕もそうやって勇気を出せばよかったんだ」
舞台暗転
○回想シーンの映像(ビデオ映像)
シーン1教室
昔のピエロデスと、女の子の二人がいじめられているシーン
ピエロデスの声「ぼくと亜衣子ちゃんは、幼馴染でいつも一緒だった。それで、それをあいつらにからかわれて…」
回想の不良たち「おい、いつも一緒でお前らラブラブだな、ここでキスしてみろよ!」
亜衣子「もう、やめて!」
うつむくピエロデス「亜衣子ちゃんは、ただの幼馴染さ~。好きなんかじゃないよ。幼稚園でおねしょ漏らしたのも知ってるもんね~はははは」
回想の不良たちが一斉に笑う。
亜衣子「ひどい!ひろし君」
泣いて、その場でうずくまってしまう亜衣子
シーン2夕方の道路
うつむいて、激烈に落ち込んでいるひろし(ピエロデス)
その通学かばんにはピエロのマスコットが付いている。
「ああ、もう僕は最低の人間だ。大好きな亜衣子ちゃんにまであんなことを言って、またみんなの前でピエロになってしまった」
青信号が点滅する映像。赤に変わる。
大型トラックが走ってくる映像。
うつむいたまま赤信号をわたってしまうひろし(ピエロデス)
SE(車のブレーキ音・衝突音→救急車のサイレン音)
道路に横たわる、ピエロの人形がアップになる。
映像終了
○教室の舞台シーンに戻る
ピエロデス「僕も(よしおを見ながら)君みたいに、亜衣子ちゃんを守るべきだったんだ。ありがとう、君のおかげでそれがやっと分かったよ」
ここで、宿直当番だった懐中電灯を持った現代の宜保亜衣子先生が登場する。
亜衣子先生「君たち、こんな夜中に一体何をしているの!」
よしお・まこと「宜保亜衣子先生!すみませんでした!」
それには目もくれず、その向こうにピエロデスを見つけた亜衣子先生は駆け寄り
亜衣子「ひろし君!」
ピエロデス「亜衣子ちゃん。あの時は本当にごめんよ。本当は君のことが好きだったのに、僕はあいつらが怖くて、ピエロになってしまった…」
亜衣子「良いのよ。また会えてうれしいわ」
そこに、死んだと思われていた不良B~Dたちが合流してくる。
「先生、本当にすみませんでした!」先生の前で一斉に土下座する。
亜衣子「何があったかは聞かないから、もう顔を上げなさい。…あの時ひろし君が亡くなって、私はひろし君の形見のピエロ人形を大切にしまってあったの。もう、いじめで苦しむ子を一人も出したくないって決意とともにね。私も、本当はおどけているけど、よしお君が色々とつらい思いをしているんじゃないかと思ってたのに、勇気が出なかったの。ごめんね」
よしお「先生、良いんです。僕が勇気がなかっただけですから」
ピエロデス「みんな、ありがとう。僕の魂にもようやく迎えが来たみたいだ」
SE(讃美歌的な天国に行くようなBGM)
消えていくピエロデス。その後には、ピエロの人形がきちんと座っている。
終わり
舞台暗転
エピローグで、ひなが0点の期末テストの答案をもって撃沈しているのを、よしおを含めたみんなが、慰めている動画を流す。
スタッフロール
&役者一同が出てきて挨拶「企画賞への投票よろしくお願いいたします。」
子と熊や共に祈りし流れ星 旭飛
サクラガイ子らを彩る戴冠よ 旭飛
盛夏の晩廃墟に喚く蝉の声 晴歩
陽炎を掴めど触れず淡い夢 晴歩
暗闇へ花火上がらぬ我が町よ 秋夢
梅雨曇テラスの味をまだ知らず 秋夢
自転車を漕いだ二人の夏の空 晴一
鰯雲群れて流れる日光線 晴一
茎立や増えたろうそく願い吹く 彩未
ソーダ水審判鳴らす開始ブザー 彩未
クリスマス最終便を飛びおりる 塁
宵時や石楠花色の忘れもの 塁
お参りや冷めたカイロと単語帳 真明
五月富士芝生の上の赤コーン 真明
滝汗に飲み干す麦茶は君の肌 さら
夏日影飛び込むあの子は蛙の子 さら
短夜や鳥鳴く音と参考書 帆波
久方の想い変わらぬトマトかな 帆波
夏の月いつも照らすは君の顔 柚太
有明や遠ざかりゆく君の影 柚太
熱燗や青雲へ発つ祖父の煙 風香
朝霧やアスファルトに落つカップ酒 風香
梅雨明けてリモコンどこだ怒号飛ぶ 慶
アップルティー友と乾杯夏日陰 慶
夏日影探して辿る帰り道 伊吹
汗落ちて前髪乱れ夏の昼 伊吹
扇風機過去の風を吹いている 心乃美
初桜周りは恋人目黒川 心乃美
向日葵の瞳に映る子どもたち めい
夕焼けや恋焦がれては赤い頬 めい
巴里祭や取り残された大太鼓 華也乃
アイスバーおどるスカート溶けていく 華也乃
高架下花火のかすが散っている 里桜
梅雨明けに燃ゆる地面坊主頭 里桜
銀杏散る渡す相手のない手紙 瑠々花
春麗ら不揃いな家具のワンルーム 瑠々花 ※全国高校生俳句大賞入賞
プリントのしわのばしたり盆休み 明信
クーラーのきかぬ図書室紙のにおい 明信
私の開講している現代文特講は丸5年となった。こうして毎年最後に生徒たちに書いてもらった短編小説を活字にして残している本も、これで5冊目となる。
毎年、生徒たちの小説の新鮮さや、その才能の片鱗に触れられることが何よりの喜びであるからこそ、ここまで続けてこれたのだと思う。今回の小説集の中にも、粗削りなものもあるが、圧倒されるような才能を感じさせる小説もあった。私などは彼らが生きた年数よりも長く、国語教師を務め、文学に触れてきたにもかかわらず、到底それらの小説にはかなわないと思ってしまう。小説を書く才能とは何なのか? どのような素質を備えていれば優れた小説を書けるのか? この問いは永久に分からない。分からないからこそ、魅力的なのだろうと思う。
優れた小説を書けるか、書けないかということはさておき、そもそも我々人類=ホモ・サピエンスはおそらく「物語」を創らずには生きていけない動物なのだろうと思う。そしてまた、それが他の動物とは決定的に異なる人類の特徴なのだと思う。
人間らしくいるために、これからも小説を書き続けていきたいし、国語教師として文学の魅力を伝え続けたいと、改めて思う。
是非、現代文特講受講者諸君も、小説や文学というものを気負うことなく、人生を豊かにするエッセンスだという気構えで構わないから、携えた鞄の中にいつでも文庫本が入っているような、生き方をして欲しいと願ってやまない。
二〇二二年末 宇野明信
2022年12月29日 発行 初版
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1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。
著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
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