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房州避暑案内を読む

前田宣明

保田文庫



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館山市街地と鏡ヶ浦の景色(令和五年二月城山公園より撮影)
明治二十二年 房州鏡浦略図(館山市立博物館蔵)

 目 次


まえがき


解説


凡例


木村楼雑詠


房州避暑案内


拝告 (現代語訳)


諸名家唫詠小録


脚注


鼎談 房州避暑案内を語る


あとがき

『房州避暑案内』原文画像(国立国会図書館デジタルコレクションより)

まえがき

 本書は、山﨑房吉(天保五年-大正三年)が、明治二十五年に著した観光案内書『房州避暑案内 : 附・諸名家唫詠小録』を翻刻し、これに解説と脚注、同書にまつわる鼎談を付したものである。山﨑房吉は、千葉県館山市北条に存在した木村屋旅館の主人であった。同書の実物は国立国会図書館関西館に所蔵されており、インターネット上の「国立国会図書館デジタルコレクション」からその全文を閲覧することができる。

 私は、房州の玄関口鋸山の南に位置する保田(鋸南町保田)に生まれ育ち、高校時代を館山で過ごした。ここ七年来は、明治期から昭和戦前期における避暑地保養地としての保田の地域文化史に興味を持ち調査に取り組んできたが、『房州避暑案内』は夏目漱石の『木屑録』と共に比較的早くに出会った資料であった。木屑録は夏目漱石(当時二十三歳)が明治二十二年に学友と房総半島を旅行した時のことを記した漢文旅行記で、これに対し『房州避暑案内』は漱石が訪れた三年後に地元の旅館主人が記した観光案内書である。いずれも保田に関することが細述され、私にとっては旅行者・夏目漱石と常住者・山﨑房吉の両者が残した文章の呼応によって地域の歴史が炙り出されているように感じられ、感慨深いものがあった。
 昨年、安房地域全体のかつての避暑保養地としての地域の様子を知りたいと思い立って、改めて房州避暑案内を再読したところ、改めて同書が持つ房州地域文化における資料としての価値の高さを再認識した。同時に学生の頃から親しんだ館山の歴史文化についても興味が惹かれた。
 房州避暑案内の文中には経済活動も含めた地域の様子が記され、詩歌を通した文芸的な豊かな世界がある。同書は単にかつての地域の姿が記された書物ではなく、地域の風土と人の営みを考えるきっかけを与えてくれる貴重な房州の郷土資料であると思う。本書は山﨑房吉という先人が残した書物の存在を現代に伝えつつ、その案内を頼りに同好の知人や読者の皆様と共に地域の文化を見つめ、味わう旅に出ようと企てたものである。

 二〇二三年四月十三日

編者・前田宣明

解説

『房州避暑案内』について

 「房州ぼうしゅう」とは、房総半島南部の旧国名「安房国あわのくに」の別称である。自然環境豊かで気候温暖なこの地には古来多くの文人墨客が訪れ、景勝地の風光を詩歌に詠み、絵筆を執った。安房地域の中心都市館山市の西岸は館山湾(別称鏡ケ浦・古称菱花湾りょうかわん)を形成し、江戸時代から港町として栄えた館山地区(旧館山町)や船形地区(旧船形町)といった地域がある。館山地区に隣接する北条地区は、明治十一年に安房郡役所が設置され、安房地域の政治、経済、文化の中心地として発展してきた。
 明治二十年代から三十年代にかけて国内各地で鉄道が開通したことにより、大磯や軽井沢、日光といった東京近郊の海浜地や高原地、温泉地も観光地として発展していった。神奈川県相模湾に面する大磯町では明治十八年に初代陸軍軍医総監の松本順が海水浴場を開設し、同二十年に大磯停車場(大磯駅)が開業したことにより、多くの人が訪れるようになった。近代における鉄道の開通は、それまでの骨の折れる「徒歩」での旅を快適にし、楽しむための「観光」に変えた。大磯では政財界の要人が別荘を構え、明治三十年代には「明治政界の奥座敷」と称される海浜避暑地別荘地となった。
 『房州避暑案内』が発行された明治二十五年当時、房州にはまだ鉄道は届いておらず、東京からは汽船で訪れる時代が続いていた。房州における汽船の歴史を振り返ると、明治十一年に館山町の運送業者・辰野安五郎が海運会社・安全社を設立し、北條海岸の汽船場と東京霊岸島新船松町の汽船場を結ぶ貨客汽船を就航した。以降、多数の汽船会社が設立され旅客の獲得競争が繰り広げられた。汽船により往来が増えたことで、内房の海岸地は避暑避寒の海浜保養地・療養地として広く知られるようになり、中でも房州の中心地である北條の鏡ヶ浦一帯には、明治末期には多くの実業家や政治家などが訪れる別荘地が形成されていた。ちなみに、明治二十二年に発行された『房州鏡浦略図』(本書巻頭に掲載)には植木音太郎という発行者の名が記されている。植木は日本初の養鶏団体「日本家禽倶かきん楽部」の設立者で、明治二十二年ころより病気静養のため北條に居住していた。療養のため北條に来た人物が地域の発展に寄与した例といえよう。

 『房州避暑案内』の本文冒頭には、当時の汽船の便に関して「霊岸島ヨリ汽船ニ御乗リ遊バシ、時分柄トテ海上殊ニ平穏、正午十二時ニハ早既ニ北條浦ニ着船シ」との記述がある。明治三十年の房州航路は、東京の霊岸島から浦賀、金谷、保田、勝山、富浦、船形、那古、北條、館山を結び、往路復路共に一日に三便が運行されていた。当時の時刻表には午前六時四十分霊岸島発の便が、午後十二時二十五分北條着とある。房州避暑案内に記された便はほぼこの便と考えて差し支えはないだろう。東京と北條は六時間弱の船旅によって結ばれていたのである。ちなみに当時の乗船賃は片道二十五銭。当時の一銭が現在の二百円とすると、現在の五千円相当、特別室は六十銭であった。荷物の持ち込みについては、酒一樽が五銭、米一俵と石油一箱は共に四銭、魚籠一台が二銭から四銭であった。これら持ち込み品の内容を見ても、汽船が東京と房州を結ぶ物流インフラであったことがわかる。 
 北条線安房北条駅(現在のJR内房線館山駅)が開業したのは大正八年のことであるから、房州に鉄道が開通したのは、東京西方の海浜保養地大磯と比べ約三十年後の事ということになる。房州ではその間、汽船という交通手段が独自に発達していった。逆に言うと房州は、当時の首都近郊の観光地のなかで、汽船でしか行けない土地という、独特の趣を持った旅行先として映っていたのではなかろうか。『房州避暑案内』は、まさにこの汽船時代の観光地に生きた先人の営みや時代の様子を今に伝える貴重な郷土資料である。
 安房北条駅が開業すると、劇的に多くの人が往来するようになり、北條町はより文化的な発展をみた。大正時代、各町に鉄道駅ができたことで、房州の東京湾沿岸地域には数々の文化人たちが移住や別荘を営むようになっていた。房州の最北に位置する保田は、大正六年に鉄道が開業した。大正十年代には物理学者・石原純と女流歌人・原阿佐緒のほか、日本画家の山内多門や金森南耕ら多数の文化人が集っていた。彼らは当時東京から館山に移り住んでいた出版実業家・中村有楽や、画家で眼科医の齊藤光雲などの地元の文化人とともに「安房美術会」を発足した。同会は令和三年に創立百周年を迎えている。大正十五年に発行された『安房郡誌』によれば、北條町は「安房郡第一都邑にして、町民の大部は商業に従事し、西部沿岸諸町村の中心地をなす。(中略)殊に避暑地として有名にして、都人士の遊ぶもの多し。鏡が浦は白砂青松相連り前には近く沖の島・鷹の島を望み真に好風景の地たり。」とあり、当時から繁盛していた街の様子がわかる。

 『房州避暑案内』の実物は、現在、国立国会図書館関西館(京都府相楽郡精華町精華台)に所蔵されている。同館によると、同書は木版を用いた印刷で、大きさは縦二一・六センチメートル、横一四・九センチメートル、厚さ〇・一センチメートル。こより綴じによる簡易的な製本が施されている。全二十ページの小冊子ながら、その内容は濃い。『房州避暑案内』の表題には「暑中御見舞」の文字が添えられていることから、夏場の避暑客に向けて作られたものと思われる。構成は、『木村楼雑詠』『房州避暑案内』『諸名家吟詠小録』の三部から成る。最初の『木村楼雑詠』は、同館を訪れた漢詩人や学者らによる漢詩や詠歌を掲載。「鏡浦」「菱花湾」(鏡ケ浦の別称)などの地域の情景を詠んだものを挙げ、読者の旅心を誘う。続いて本文の『房州避暑案内』では、来房する避暑客に向け、自館への投宿を勧め、地元北條町を皮切りに白浜、千倉、鴨川、三芳、保田、勝山といった房州全域の名勝名跡を取り上げ、各地への道程や見どころ、土産品などを紹介する。最新の道路の修繕状況も意識的に記され、旅行者目線、まさに御客の「足元」を気遣う旅館主人らしい人柄を感じるところである。明治初期の房州の街道は狭く、まだまだ整備が行き届いておらず、時には磯伝いに歩いたり川の中や砂漠のような土地を歩くこともあった。このような状況は明治十五年頃から徐々に修繕され始め、本格的に改善され始めたのは、大正時代に入ってからであった。つまり、『房州避暑案内』が発行された当時は、まだまだ房州各地の交通は困難な時代だったわけである。山﨑房吉が道路状況について多く記したのはこのような背景もあってのことだろう。巻末に附された『諸名家吟詠小録』では、北條近隣に限らず、鴨川や鋸山など房州各地の景勝地を詠んだ詩歌が選ばれている。
 『木村楼雑詠』『房州避暑案内』『諸名家吟詠小録』の三部をとおして、交通事情が決して良くない当時において、房州をひとつの「旅行空間」として提案しその風光を伝えようとする、宿屋の主人の意志が感じられる。
 明治二十七年五月二十日に発行された『東京茗溪会雑誌 第百三十六号』には教育者・小西信八による紀行文『憂喜うきぶくろ』が収録されている。小西は東京盲唖学校および東京聾唖学校の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した人物である。これは、小西が体調を崩し房州北條に療養旅行をした時の紀行文である。小西はこのなかで木村屋に泊まった時のことにふれ、主人(山﨑房吉)との会話やその人柄について記している。小西は山﨑と安房の名所古跡についての会話をした際に、主人が配布する「自作の暑中見舞と題せる案内記」を手に取る。この案内記は本書で翻刻する『房州避暑案内』のことと考えて間違い無いだろう。小西はその内容について、各名所の縁起、行程、車賃、旅宿等について丁寧を尽くした記載であると評価し、利益を優先するための客引文句が見受けられず、遊客の利便を図ることを念頭に置いた内容である点を挙げ「同地方を益する陰君子」であると山﨑房吉の人柄を讃えている。さらに温良博雅にして詠歌など文芸を愛好するが、あえて人に示さない。気性が強くて、信念を曲げない君子であると評価している。同書には、主人はもともと木村屋の料理人であったがその仕事ぶりを愛され、家業を譲り受けたとある。このほか、書生や一般人の客が入っている場合、軍の将校や皇室関係者が来ても先客を優先し部屋を譲らなかったという逸話も記されている。これらの記述からも山﨑房吉の人柄が垣間見える。ちなみに、明治三十一年に北條に移り住み、亡くなるまでの約三十五年間を過ごした万里小路通房までのこうじみちふさ(幕末の公家、明治期の官僚・政治家。貴族院伯爵議員)という人物がいる。近代農業の指導や文化活動などを通して地域の人々とも交流した篤志家で、大正時代の町民有志による私設図書館「北條文庫」の設立やその他にも寄付を惜しまず、地域に多大な影響を与えた人だった。その娘の跡見李子は北條の父のもとを訪れたことを『汲泉』(明治四十一年)に記している。盲唖学校生徒の手を自ら引き万里小路邸を訪れた校長・小西信八の姿を見て「をしへ子のいとしさまさる師の君の あつき情におもはずぞ泣く」と感動の思いを詠んでいる。

木村屋という宿について

木村屋右上の海岸に「北條船付港」の文字がある
明治二十二年「房州鏡浦略図」(館山市立博物館蔵)より抜粋
明治二十五年「日本全国商工人名録」より

 木村屋は、房州の中心地北條町で明治期初期より営業していた宿で、複数の地元住民の話によると昭和四十一年ころに閉館したという。『房州避暑案内』の表紙には「北條町浜通 旅人宿 木村屋」と記されているが、この「浜通り」とは現在の館山銀座通り(国道四一〇号)のことである。木村屋の跡地には現在館山信用金庫本店があり、広大な敷地から宿の規模が偲ばれる。出版人・坪谷善四郎は、著書『漫遊案内』の中で、木村屋についてこう記している。


「北條浜通りの木村屋は海水浴客の便利を謀りて別亭を浜辺に新築し、その結構善尽せりとまでは至らねども、また紳士貴婦人の来り泊するに適せり」
明治二十五年七月発行『漫遊案内』(坪谷善四郎 編・博文館)

この記述から、当時の木村屋は、別館を作るほどの避暑客のニーズを取り込んでいた旅館であったことがうかがえよう。また、同書の発行は『房州避暑案内』と同年の夏であることも興味深い。

 明治二十五年四月に発行された『日本全国商工人名録』(白崎五郎七 編・日本商工人名録発行所)には「北條町 旅人宿兼料理店 木村屋 山崎房次郎」との記述がある。館山市立博物館収蔵の土地台帳によると、明治三十二年に木村屋跡地の敷地は山﨑房次郎から山﨑房吉にその所有が移っていることから、房吉は房次郎の跡継ぎであったと思われる。このほか明治四十二年七月発行の『房総名勝案内 : 房総半島 二版』(萩谷金七 編・芳叢閣)には、北條町の宿泊先として、吉野庵、木村屋の二館があげられ、次いで大正七年に発行された『房総静養地案内』(小山田清 編・東洋旅行案内社)によると、木村屋は、吉野庵、松岡館、幸田館といった旅館とならび紹介されている。これらの記述からも木村屋は明治初期から大正期にかけて長く営業していたことがわかる。明治三十一年発行の『日本商工営業録』(井出徳太郎 編・日本商工営業録発行所)には、安房の商工業者の名とその税金年額が紹介されている。同書の中で木村屋は、料理店業としてその名が記され、同業と比べると最も税金年額が高い。このことからも、木村屋は房州を代表する料理店であったと考えて良いだろう。

昭和三十年代頃の木村屋旅館
木村屋旅館跡地の現在

 北條町の街並みを記した地図は明治二十二年、明治三十一年、大正四年、大正一一年、昭和五年の五つがあり、いずれも木村屋の位置は定位置に記されている。このなかで、大正四年の版には「旅館木村屋」と記されていることに注目したい。明治二十五年に発行の『房州避暑案内』と『日本全国商工人名録』では「旅人宿 木村屋」とあるため、木村屋は大正期には「旅人宿」から「旅館」と名称を変えていたことがわかる。そもそも「旅人宿」という言葉は、近世において旅籠(はたご)と同じ意味で使われていた名称で、「旅人を宿泊させ食事を提供することを家業とする家」のことを指した。明治時代にはいると警察令による「宿屋営業取締規則」にもその名称が定められており、同規則によれば、宿屋は「旅人宿」「下宿」「木賃宿」の三種に分類されていた。一方で「旅館」という言葉は、明治時代に入り国土全域に鉄道が進延し観光や旅行が拡大していく中で、それまでの宿泊施設よりもより高級な施設を意味する言葉として使われ始めた。しかし、一般にこの語が実際に広く用いられるようになったのは昭和になってからであった。木村屋の名称の変化から、観光地としての地域の発展の過程を垣間見ることができよう。

 房州随一の宿木村屋には多数の著名人が訪れた。『房州避暑案内』に記された漢詩詠歌の作者以外にも、江見水蔭(小説家・翻訳家・編集者・冒険家)、谷干城たにたてき(土佐藩士・軍人・政治家)、巌谷小波いわやさざなみ(作家・児童文学者)、徳川家正(徳川宗家第十七代当主・外交官・政治家)、松岡康毅(日本大学初代学長)、中浜東一郎(医師、医学者、ジョン万次郎の子)、長谷川天渓(文芸評論家)、斎藤宗次郎(内村鑑三の弟子、キリスト教徒)、井上円了(仏教哲学者、東洋大学創設者)、饗庭篁村あえばこうそん(小説家、演劇評論家)、小幡重一(物理学者、東京帝国大学教授)、林芙美子(小説家)、など様々な人物が木村屋に訪れたことを書き残している。このほか、昭和二十三年と三十二年には皇太子が宿泊した。明治四十四年六月十五日から十七日にかけては鉄道院総裁・後藤新平が鉄道敷設視察のため北條に訪れた際に宿泊した。房総線敷設のため、東京に「房総線建設事務所」が設置された年である。当時の北條町長・加藤音城は木村屋滞在中の後藤を訪ね、停車場設置を訴えた。北條停車場が開業したのはこの九年後のことであった。後藤は宿泊した当時「これからは房州の人も足が弱くなりますね」などと語ったという。加賀出身の日本画家・田村彩天は大正六年に『木村屋旅館の松』という作品を残している。
 鏡ケ浦一帯は明治時代に軍人や実業家、政治家などに親しまれた別荘地となっていった。古来著名人を受け入れてきた木村屋の存在は、海浜避暑地・古別荘地としての館山地域の文化史を考えるうえでも重要といえるだろう。

凡例

一、本書「房州避暑案内を読む」は、明治二十五年に北条町(現館山市北条)の旅館主人・山﨑房吉が著した「房州避暑案内 : 附・諸名家唫詠小録」を郷土資料として捉え、その翻刻と解説によって現代に紹介するものである。
一、翻刻に当っては、読み易さを第一の方針とした。難読文字には傍訓(ルビ)を訂した。用字は原則として新字表記に改めたが、旧漢字を用いた箇所もある。従って、学問上の資料として引用されるような場合には、原本の表記を参照されるようにお願いする。
一、合略仮名はカタカナに訂した。
一、文中の「など」の字は、原文では「杯」と記されている。誤記と考えられるため差し替えた。
一、本文中に句点「。」、読点「、」を加えた。
一、本文中の※印の番号は「脚注」の番号に対応している。
一、原本の誤記等により解読不明の文字には右傍に(ママ)と付した。
一、房州避暑案内本文末の拝告については、現代語訳を付した。

木村楼雑詠

  廣瀬青村先生
万象媚簷端東南帰一望桜花接回欄入坐春雲上

  石井南橋先生
好是朝吟又夕哦延賓楼築勝観多起来先対玻璨鏡暁海当窓無一波

  森山半蒼先生
遠影亭頭午夢還菱花湾上浴鷗閑春風忽払寒雲去現出中天倒扇山

  正二位伊達城公
面白や塩の満干に鷹島の いそのみるめはおもかわりして

 従三位 楫取素彦公
見渡せは空ものとけき鏡浦 老のなみこそかけうつるとは

 佐々木弘綱君夫人 光子
いのちあらはまたも来てみんくもりなき かゝみのうらのあかぬけしきを

房州避暑案内

午前七時東京※①霊岸島ヨリ汽船ニ御乗リ遊バシ、時分柄トテ海上殊ニ平穏、正午十二時ニハ早既ニ北條浦ニ着船シ、先ツ弊屋ヘ御投宿被下くだされタル事ト致シ、当北條町ヲ元トシテ各所ヘ御案内申スベシ。
さて、西ノ方塩見※②臥龍松迄ハ路程一里三十町、何ノ風情ハナケレドモ松ノ下ニテ御一服。それヨリ鉈切※③明神迄ハ僅カ六、七町。是迄ノ処ハ昨年中道路修繕行届キ御運動ニハ相応ノ処ナリ。洲ノ崎ハ鉈切ヨリ西一里六、七町ナリ。大洋ニ突出シ壮観限リアラサレトモ、今ハ修路計画中ニシテ歩行甚ダ難渋ナレバ、御運動ハ先ヅ鉈切明神迄ト致シ御帰條遊ス方然ルベシ。扨、此近傍ノ浦々ニテハ盛暑ノ頃鰹鮪網ナルモノヲ使用致シ、キハダ鮪又ハ鰹類ヲ漁シ甚ダ面白キ漁業ナレバ都人士ニハ亦一層ノ御興味アラン。

○官弊大社安房※④神社ハ藤原通リ路程三里。御参詣ノ上ニテ布良迄ハ凡十二、三町。布良※⑤岬神社ハ眺望殊ニ佳絶ナリ。同所ニ新設セラレタル海軍※⑥望楼ハ、鳥渡ちょっと御登覧六ヶ敷むつかしき由。望楼ノ下道路ニ沿ㇷタル山腹ニハ、兼テ有名ナル根本※⑦養寿院アリ。避暑凌寒ノ客ハ申迄ナク、御一泊ニモ極メテ御便宜ナレハ、当所御滞留中一度ハ御出掛然ルベシ。

○朝夷郡白浜ハ養寿院ヲ出デ東行一里十余町。北條ヨリ中山新道ヲ直行セバ約三里半ナルベシ。白浜ハ里見氏ノ古跡多ク、殊ニ野島※⑧灯台ノ辺ハ名ニシ逢フ勝景ノ地ナレバ、是非一度ハ御勧メ申上タシ。又本州外海岸ハ夏期一体ニ潜水※⑨器械ヲ使用シ鮑ヲ採リ、清国輸出ノ乾鮑ヲ製造シ、就中布良ヨリ白浜ニ連ル海面最モ盛ナレバ、滝口丸屋辺ニ御一泊、漁船ヲやとヒ御遊覧然ルベシ。乾鮑ハ御帰京ノ御土産ニハ至極上品ノ物ナレドモ其価随分高貴ナル故ニ鳥渡見栄悪シカルベシ。布良名産ノ赤脊むろあじノ干物ハ流石幕府時代ニ献上品ニ択マレタル程アリテ其風味モ亦一入ナレバ房州ヨリノ御土産物ニハ先ヅ第一ノ品ナランカ。

○朝夷郡あさひ村千倉ハ同郡中第一殷賑いんしんノ地ナリ。白浜ヨリ大川忽戸ヲ経テ三里二丁、北條ヨリ「タケ※⑩ノドフ」墜道通リ約三里十余町ナリ。同地ニハ旅店蕪料理店数戸アリ。就中温泉亭※⑪ハ四時浴客絶間ナク、殊ニ手広ノ建築ナレバ御休泊共ニ御便宜ナルベシ、総テ布良白浜曦辺ヘ交通スル数線ノ道路ハ前年既ニ成工シ、北條館山ヲ元トシテあたかモ扇子ヲ開キタル如クナレバ日帰リ又ハ御泊リ掛共御随意ナリ。御逗留ニ御倦怠ノ御客様方ハ互ヒ御一遊ヲ試ミラレ然ルベシ。

○朝夷郡南三原村大原ハ千倉ヨリ白子ヲ経テ二里、又北條ヨリ県道ヲ直行スレバ四里七町ナリ。此辺ニテ人力車ヲ継替又ハ和田江見辺迄乗通シ暫時御休息、夫ヨリ長狭郡太海村浜波太ニハ著名ナル仁右衛門島アリ。同島御一覧然ルベシ。大原ヨリ縣道ヲ走リ浜波太迄三里六、七町アリ。其間ニ源判※⑫官駿馬太夫驪所出ノ古跡ナドアレド今ハ一顧ノ価値アラザルベシ。波太島※⑬ハ鎌倉源右府石橋山ノ敗逃レテ房州ニ入リシ時、仁右エ門ナル者之ニ事フル甚ダ謹メリ、故ヲ以テ此島ヲ賜フト言伝ヒ今尚ホ子孫繁昌ナリ。島外ニ奇石林立厳下ニ翠浪澎湃ほうはい実ニ壮観ナリ。尤モ御泊リノ御都合ニテ御帰條ノ際御立寄モ亦可ナラン。

○長狭郡鴨川町ハ郡中ノ首邑ニシテ戸数千余戸アリ。商漁相雑あいまじリ一市街ヲ成セリ。波太島ヨリハ凡ソ一里、北條ヨリハ八里十三町ナリ。故ニ朝凉ニ発車スレハ十二時前ニハ早既ニ前原ニ着スベシ。同所旅人宿吉田屋相模屋ハ久敷営業シ、共ニ手堅ク且ツ清潔ナル旅店ナリ。同家ニテ御中食御急ギナレハ直ニ小湊誕生寺※⑭へ参詣シ、夫ヨリ清澄ヘ御登山同所山口屋へ御一泊明日御帰條然ルベシ。然レドモ暑中殊ニ御遊山(ママ)テラノ御旅行ナラバ先ヅ前原へ御一泊緩リト御休息遊サレ御入浴ノ後、同旅店ノ裏手ニテ地曳網ヲ一覧シ大鯵ノ塩焼ニテ御晩酌モ亦御旅中ノ御一興ナラン。

○翌朝宿ヨリ車ヲ命シ浜荻天津ノ市街ヲ過ギ内浦境ノ墜道ニ達ス。此辺往時ハ崎嶇きく巉巌ざんがん、往来殊ニ困難ナリシガ、今ハ全ク新道成リ、車中夢ヲ載テ疾駆スル事ヲ得ベシ。同墜道ヲ出レバ内浦湾ヲ隔テ粉壁皚然がいぜん白玉楼閣ノ如キモノヲ見ル。是即チ誕生寺ナリ。前原ヨリ山門迄路程三里余僅カ一時間ニ達スベシ。同寺ハ日蓮聖人御降誕ノ地、境内広潔堂廡閎壮どうぶこうそう香花ヲ奉スルモノ、日夕相属あいつケリ。殊ニ先年来貴顕方ノ御帰依厚ク、客秋新ニ一宇ノ御霊屋御建立遊サレ一層盛観ヲ添ラレタリ。同寺御参詣ノ節ハ納所ニ御名刺ヲ通ジ、所々御参拝御宝物ノ拝観モ亦可ナルベシ。御霊屋ノ後ノ方山巓いただきニ登レバ一覧台アリ。東ハ上総勝浦八幡崎ヨリ南ハ朝夷忽戸岬、西ハ嶺岡ノ山巒さんらんヨリ北清澄ノ諸峯ニ至ル皆悉ク一眸ノ下ニ集リテ浦溆ほしょハ百転シ乱山ハ重畳シ実ニ一大奇観ナリ。又鯛ノ浦御見物ノ方ハ小湊ノ旅人宿塩喜などヘ御下命アレバ、早速小舟ニテ御供申スベシ。同所ノ御一覧モ相済ミテ塩喜又ハ天津町井筒屋辺ニテ昼ノ御支度遊サレ清澄へ御登山然ルベシ。

○天津ヨリ清澄寺山門迄一里二十四町、従来険阻ノ道筋ナリシガ今ハ全ク新道落成シ、二、三町ノ処ヲ下車スレハ一人曳人力ニテ登ルヲ得ベク、二人曳六拾銭ノ車賃ヲハヅムトキハ更ニ一層安全ナルベシ。清澄寺ハ境内幽邃ゆうすい。人ヲシテ仙境ニ遊フノ思ヒアラシム。実ニ房州ノ霊場ナリ。門前六、七ノ旅店アリ。就中山口屋小梅屋等ヲ最トス。避暑ノ客常ニ入リ込ミ西洋人抔モ稀ニ見ル処ナリ。脚気患者ノ転地療養ニ来ルモノ殊ニ多シト云フ。同所ヘ御一泊又ハ下山シテ前夜ノ御泊ヘ重宿シ其翌即チ三日目ニ北條ヘ御帰館ハ極メテ御楽ナル旅行ナルベシ。

しかレトモ房州第一周ノ目的ニテ天津ヨリ長狭※⑮街道ヲ金束へ出デ、平郡保田ニ御一遊モ亦妙ナルベシ。前原ヨリ保田迄ノ路程ハ凡ソ八里ナリ。保田※⑯ハ京房間往来ノ汽船寄航シ、長狭郡及ビ夷隅郡南部ノ人必経ノ地ナレバ可ナリニ繁昌シ、暑中海水浴ノ人抔モ毎年来遊シ、吉田屋桝屋等ノ旅店ハ申迄モナク、吉浜ノ妙本寺※⑰、元名ノ存林寺等ノ禅林ニ迄僦居しゅうきょセルモノアリト云フ。殊ニ妙本寺ハ日蓮宗不二派ノ本山ニテ古文書及絵画ノ類多ケレバ、好古家ノ先ヅ第一ニ杖ヲ曳ク所ナルベシ。

鋸山※⑱日本寺公園ハ星移リ物換リテ今ハ堂宇モ空ク旧趾ヲ存スルノミニシテ昔時ノ観ハアラザレドモ然レドモ天然ノ勝景ハ千古変ラズ。亦以テ無比ノ偉観ナリ。此地ニ遊ブモノ必ズ登覧ヲ試ムベキ名区ナリ。

○勝山村ハ保田ヨリ一里程手前ニアリ。同所モ汽船ノ寄航所ナレバ旅店中甚・沼平・稲松抔ニテ御中飯ヲ済シ、汽船ニテ御帰條モヨシ。又御逗留ナラバ浮島辺舩遊ビモ御一興ナルベシ。陸路ヲ御帰リノ積リナラバ人車ヲ御雇ヒ遊サレ市部通リ木ノ※⑲根墜道百余間ヲ通リ抜ケ那古ニ出デ順路弊屋ヘ御帰館ナサルベシ。勝山ヨリハ里程りてい五里、車賃通例三拾五銭位トス。

○扨、房州海岸ト通リ御案内ヲ終リタレバ、之ヨリ近傍館山北條辺御運動御散歩ノ場所ヲ御案内申サンカナレドモ、狭キ土地柄とても御逗留中自然御分リニナル事ナレハ、寧ロむしろ御自身御探訪ノ方興アルベシ。由テ延命寺那古観音小松寺位ヲ案内シ一ト先ヅ御暇おいとま申受クベシ。

○延命寺ハ一里半ばかりへだテ、平郡本織村ニアリ。里見家※⑳ノ御菩提所ニテ代々霊屋アリ。亦世ニ珍シキ絵画ノ類乏シカラサレバ、御弁当御持参ニテ緩々御遊覧然ルベシ。

○那古観音堂ハ一里余ノ処ニ在リ。境内最モ眺望ニ富ミ御散策ニハ至極適当ノ処ナリ。門前ノ山月楼ニテ御一酌ハ亦極メテ妙味多カラン。

○舩形観音ノ高閣、多々※㉑良増井氏ノ別荘、共ニ風景佳絶ナリ。就中増井氏ノ眺望ハ朝夷安房二郡ノ連山遠ク菱花湾ヲ囲繞いにょう大武岬※㉒角ト相抱合シあたかモ一大園地ヲ為シ内ニ舩舶ノ来往スルモノ点在シ其景色殊ニ絶佳ナリ。加ルニ主人ノ豪富ヲ以テ建築ノ美ヲ極メタレバ其結構温雅喋弁ちょうべんタサルベシ。

○小松寺ハ朝夷郡大貫村ニ在リ。北條町長須賀ヨリ新道ヲ古茂口ニ至リ目下開鑿かいさく中ナル大貫山墜道成功スルトキハ、腕車※㉓一駆寺門ニ達スベシ。境内殊ニ幽邃ゆうすいニシテ避暑ニハ無上ノ場所ナレバ御休暇中著述其他調査ニ鞅掌おうしょう遊サルゝ御方々ハ寺僧ニ請フテ御寄寓最モ然ルベシ。


   拝告   
当北条町ハ五、六年来避暑凌寒又ハ御病後御保養ノ為メ四時大方ノ御来遊ヲじょくシ、殊ニ鏡浦湾内一波起ラズ。海水極メテ清絶ナルヲ以テ御婦人方ノ御遊浴ニ適シ、暑中御来遊年毎ニ増加仕リ、私共ノ営業ハ申迄ナク多少土地ノ潤沢トモ相成リ難有仕合ニ奉存候。殊ニ京房間往来ノ汽船ハ旦夕たんせき発着致シ、電信局ハ開ケ、病院ハ増設シ医学士方モ開業被成、其他新聞牛乳ノ配達等ニ至ル、極メテ迅速精良ヲ旨トシ諸商人ハ勿論車夫ノ如キモ誠実ヲ主トシ、決シテ不当ノ請求仕ラズ。益々御便利ヲ相図リ、取分ケ弊屋ノ義ハ大方ノ御愛顧ヲ辱シ逐年規模モ整頓仕候。事ニ付、尚一際勉励仕リ調理向其他万般心底ノ限リ御丁寧ニ御対遇申上候間、何卒旧ニ倍シ御眷顧けんこ被成下度、自負ヶ間敷恥入候得共、弊屋ノ眺望ニ於テ大方各位御投唫被下名誉ノ至リニ付、巻首エ登載仕リ候。又各地ノ実況ヲ御案内申上兼テ諸名家ノ唫詠ヲ輯録仕候義、専ラ大方たいほうノ御便宜ヲ図リ、併セテ自国ヲかくセントノ微意ニ御座候。呉々永ク御引立被成下度奉祈候。誠惶拝白

                        安房国北条町浜通リ
 明治二十五年六月                旅人宿 木村屋 山﨑房吉

拝告 (現代語訳)

当北条町は五、六年来、避暑凌寒又は御病後や御保養の為、四季を通して年中、御来遊をいただき、とりわけ鏡浦湾内は一波起らないほど穏やかです。海水は極めて清絶でありますから、御婦人方の御遊浴に適しています。暑中の御来遊は、年毎に増加し、私共の営業は、申し上げる迄もなく多少土地の潤沢とも相成り、ありがたき幸せに存じます。東京と房州を往来する汽船は朝暮発着致し、電信局は開け、病院は増設し、医学士の方々も開業されています。その他新聞牛乳の配達等に至っては、極めて迅速精良を旨として、諸商人は勿論、車夫の人々も誠実を主とし、決して不当の請求をすることはありません。
益々御便利を相図り、弊屋の義は識者からの御愛顧をいただき、年々規模も整って参りました。これに際して、尚一際勉励し、調理やその他万般において心底丁寧に待遇していただきましたので、どうにか以前にも益してご愛顧いただけますようお願い申しげます。自負がましく恥ずかしい次第ですが、弊屋の眺望においては識者各位より御投吟を下さりましたことは名誉の至につき、本書の巻首へ登載いたしました。又各地の実況を御案内申上げ、兼ねて諸名家の吟詠を輯録したことは、専ら識者の御便宜を図り、併せて自国の名誉に輝く様を伝えようという微意に存じます。くれぐれも、永く御引立下さいますよう、お祈り申しげます。誠惶拝白。

諸名家唫詠小録

 廣瀬青村先生
   房州作
舟楫頻来往、輸漕不暫間、赤鱗魚満海、文理石成山、蓑影雲濤外、鎚声霧露間、終年扠羨利、不見土民艱
   
 重野成斉先生
   乙酉中秋房州北條客舎即事
菱花湾上月明開、九世雄図安在哉、領得唐賢詩句好、山囲故國晩潮回、

 並木栗水先生
   館山駅即事
三面成囲海上山、英雄基業在斯間、徘徊欲問当年事、幾日淹留滞鏡湾、

 伊藤桂洲先生
   登鋸山雑詠之一
攀躡雲根望海門、雄心自訝領乾坤、星翁碑畔碧潭水、倒写龍形昼亦昏、

 石井南橋先生
   観潜水漁
銅䥐皮衣装太奇、能泅海底 二 三 時、百千巌鰒一撈尽、恰如拾遺無子遺、

 長岡 護美侯
   山月楼即事
数里青松那古湾、観音巌在白沙間、海波不起夕陽闊人倚高楼看遠山、

 舩越衛君
   北條客亭作
房山尽処夕陽舂、万頃烟波眼界濃、鏡浦湾頭秋色好、分明描出玉芙蓉、

 森山茂君
   房洋舟中口占
飄然逐暖試返游、買得南洋一葉舟、岸上青山迎我立、吸煙数次達房州、
  
 川口翯君  東京人、明治癸末八月従于細川中央衛生会長歴巡
   鋸山
職在衛生巡総房、鹿峰鋸嶺討探忙、寒郷自古医師乏、到処名山祭薬王、自註鹿峯鋸嶺、皆有薬王宮、

 堅山理一郎君
   房州巡覧口占
水村興山郭、到処愜吟心、柿子紅如玉、橘柚黄似金、乗晴訪郷校、値雨宿禅林、老枘慇懃語、方知民俗深、

 安積艮斉先生
   小湊阻雨
房州雨是江都雪、遥憶窓前修竹折、妻子不知風土殊、応憂客袖春寒徹、

 松平忠国侯  忍藩主
   天保癸卯季春登鋸山
幾層攀上鋸山頭、俯視相房水路喉、群艇集洲飄葉布、巨涛撲岸落花稠、東西隔海置双塁、遠近交峰算十州、点検多時思任重、不同閑客恣吟眸、

 大槻盤渓先生
   鋸山作次忍侯韻
地在蜻洲欲尽頭、排空峭壁扼咽喉、陰雲昼暗通天窟、落木秋高呑海楼、群嶂看来連十国、風帆走処定何州、辺防籌策非吾事、好縮煙嵐入寸眸、

 梁川星巌先生
   天保辛丑季夏遊鋸山
流舟万丈削芙蓉、寺在磅磄第幾重、巻地黒風来海角、有時微雨変山容、三千世界帰孤掌、五百僊人共一峯、恠得残雲狭暒気、老僧夜降石潭龍、

 亀田鵬斉先生
   登羅漢寺石仏洞絶頂
鋸嶺界分房総脊、滄溟一望呑太霊、披襟欲攬冨峰雪、側足擬窺蓬島居、石々転頭皆羅漢、山々入眼尽真如、捫蘿更渡石橋得、蹲頂翻将釣若魚、

 佐藤一斉先生
   登鋸山
攀来指領寸眸忙、撫景差無句可償、夕陽千仭鋸山影、割取滄溟界総房、

 寺門静軒先生
   遊鋸山
倒雪狂瀾怒躍龍古木欺、楼前蚕海処洞口吐雲時、一仏分千体、十州攅両眉、悠然覚神逝、厭景得詩遲、

 芳川崋山先生 会津人
   妙鏡崎 在房総之間大自山巌小至樹石
       各為向背自然表州界奇甚矣
詩翁泉石作膏盲、追勝来遊山水郷、此地人言邦界正、奇巌向背画総房

 西島蘭渓先生
   登鋸山
苔逕細於縷、曲々八雲通、垂蔦含渓雨、老松鳴海風、龍眠深澗底、僧語半天中、回看紅霞上、日輪峰正東、

 鈴木松塘先生 
   癸卯中秋鋸山呑海楼観月酔中作歌
天上何夜無明月、中秋月色分毫末、人間何処無清景、鋸山景物非塵境、君不見鋸山峯々如剣矛、割破人間万古愁、我来適逢中秋夜、座看冰輪出九幽、西風吹暑天高朗、寒光横海万丈流、浮雲明滅千山影、独立絶頂縹緲之飛楼、夜深山愈静、万壑絶鳴籟、光射魑魅驚、明逼鬼神恠、悄然座我上清界、伹覚䔥爽襟懐快、雲間玉簘一声落、仰見飛僊駕鸞背、道人勧我醽醁杯、一酔沓然忘形骸、吾将揮手従此去、雲霧咫尺是蓬莱、千年華表見老鶴、便是呑海楼上客

脚注

【本文脚注】

① 霊岸島・・東京都中央区東端、現在の新川一丁目二丁目にあたる地域のこと。隅田川の中州であるため地形的特徴から「江戸中島」とも呼ばれていた。慶長年間に江戸幕府がこの地に港を築くと、江戸の経済を支える水運の中心地となり、昭和十一年まで伊豆七島や房州など諸国への航路の発着地であった。現在では「霊岸橋」にその名を残す。また、亀島川河口にある霊岸島水位観測所の近くには「江戸湊発祥の地」碑が建てられている。明治期以降の房総への紀行文などに、汽船の発着場としてしばしば霊岸島の名が登場する。

② 塩見臥龍松がりゅうまつ・・館山市塩見海岸の観音堂境内にかつて存在した巨大な松の老木のこと。現在同境内には「臥龍松跡」と記された看板と石碑が建てられている。看板の説明文によると、古来地域では「一烈松」と呼ばれていたが、文化年間に白河藩主松平定信が訪れた際、臥龍松と名付けたという。館山市立博物館のホームページには、その大きさについて、江戸末期の資料に「高さ約二丈(約六メートル)、幹廻り一丈二尺(約三・六メートル)、範囲は南北に二十四間(約四十三メートル)、東西二十八間(約五十一メートル)」もの大きさだったとある。
 古来安房の名所のひとつであったが、大正時代の関東大震災のころから枯れ始め、戦時中に消滅した。東京都江戸川区善養寺の松は、国の天然記念物の指定を受けており、現在日本一の繁茂面積の松として知られる。これが、高さ約八メートル、枝ぶりは、東西約三十一メートル、南北約二十八メートルであるから、塩見臥龍松の偉観の様が偲ばれる。

塩見臥龍松


③ 鉈切明神・・館山市浜田区と見物区には船越鉈切ふなこしなたぎり神社と海南刀切かいなんなたぎり神社が祀られている。二つの神社は県道を挟んで位置している。県道から山側にあるのが船越鉈切神社、海側が海南刀切神社である。船越鉈切神社の本殿は、拝殿背後の「鉈切洞穴」とよばれる海蝕洞穴の中にある。洞穴内からは縄文時代後期の土器や、動物や魚の骨で作られた漁具が多数出土した。古墳時代には一部が墓として利用され、中世期の人骨も出土している。海南刀切神社は、拝殿の背後にある高さ約十メートルの断崖が、約一メートルの幅で真っ二つに割れており、この岩の形状から「なたぎり神社」の名がつけられたといわれる。

④ 安房神社・・安房神社あわじんじゃは、千葉県館山市大神宮、房総半島最南部の吾谷山(あづちやま)山麓にある神社。安房国一宮。神話時代に阿波地方(現徳島県)から渡ってきた忌部氏による創建と伝わる。

⑤ 布良崎神社・・館山市布良にある神社。本殿からは平砂浦海岸を一望することができる。令和元年の台風十五号では本殿が傾き神輿蔵が倒壊するなど大きな被害を受けたが、地元の有志が寄付を募り修復した。

⑥ 海軍望楼・・明治二十二年(房州避暑案内が記される約三年前)に、館山市南部の富崎地区大山の山頂付近に、日本海軍によって作られた物見やぐらのこと。東京湾口部の海上監視や気象情報の収集、水難報告などの電報を行うための施設であった。大正時代には中央気象台の布良測候所の施設としても使用され、昭和戦中期には再び海軍の所管の見張所となり、地下壕の中には水墨画家・岩崎巴人はじんによって戦後に描かれた禅画が残る。現在は海上保安庁の白浜送信局となっている。望楼は海沿いの山の頂に建っていたため、登れば絶景が広がっていたことであろう。房州避暑案内本文には「ちょっと登覧は難しい」と案内されていることから、当時は軍事機密上登ることはできなかったのではなかろうか。

富崎地区大山の山頂付近より太平洋を望む


⑦ 根本養寿院・・明治二十二年に白浜の根本区に作られた、療養施設のこと。『女学雑誌(第二百二十二号)避暑地案内』には同院の場所について、次のように記されている。「昨年はじめて浴客の便に供せんがために養寿院(病院)を設く。布良と根本との間の鼻の上にあり、戸数僅に数戸に過ぎずといえども、その位地甚だ高爽にして眺望頗る宜しく夏時の避暑にはもっとも適当の場所なり」。また、明治三十一年九月発行の『日本商工営業録』には主人の名は高津駒十郎、住所は根本一二六九とある。場所は船柄稲荷の近くであったと思われる。下記の画像は『衛生談話』(明治三十五年発行)に記された養寿院の広告。

根本養寿院の広告 『衛生談話』(明治三十五年)より


⑧ 野島灯台・・南房総市の野島崎に立つ野島埼灯台のじまさきとうだいのこと。洋式灯台のこと。白亜の八角形をした大型灯台は江戸条約灯台の一つで、日本の灯台五十選に選定され、国の登録有形文化財に登録されている。明治二年にフランス人技師、ウェルニーの設計によってつくられた日本最初の洋式八灯台のひとつ。現在も南房総の観光地として広く知られる。

⑨ 潜水機器ヲ使用シ鮑ヲ採リ・・特殊な潜水服を身にまとった潜水夫が海底に降り、船上からパイプで空気を出し入れしながら貝類などを採る潜水器漁業のこと。房総での機械を用いた潜水は、明治十一年に白浜根本村の森精吉郎がアワビ漁などに導入したことに始まった。潜水士は「カブト」と呼ばれるパイプとつながったヘルメットをかぶり、浮力で体が浮き上がらないようにするため、重い潜水靴を履き、胸には鉛製の錘を掛け海底で作業をした。

機械式潜水服を着用してのアワビ漁の風景
館山市立博物館蔵


⑩ タケノドフ隧道・・県道一八七号にある館山市と南房総市千倉の境にあるトンネルの事。その名は、トンネルが通る山の上部に「嶽の堂」という小さな社があることに由来する。

⑪ 温泉亭・・明治十八年、安房勝山藩士・長島永峰によって発見された朝夷群㬢村(現南房総市千倉町北朝夷)にあった鉱泉のことと思われる。現在は同所近くに「南房総市温泉組合南房総温泉スタンド」が設置されている。明治二十一年には渡邊太十郎(初代㬢村長)、鵜野源重郎(第八代㬢村長)らが冷鉱泉の湧出を確認し「千倉温泉場」を開設。以降、渡邊がこの温泉を運営した。明治二十年代には堤長發(官吏・銀行家)や松平斎(男爵)、安田篤(植物学者)志賀直道(小説家志賀直哉の祖父)らが訪れている。明治三十二年には鵜野源重郎が経営に参加、同三十年代には有島武郎(小説家)、荻原井泉水(俳人)、井上円了(仏教哲学者、教育者)といった著名人も訪れている。房州避暑案内に記された当時は、まだこの鉱泉は広く知られておらず「千倉温泉」の名称は使われていなかったと推察され、そのため同書では「温泉亭」の名で記されたのではないかと思われる。『房州みやげ』(明治四十五年)には「千倉の温泉は㬢町にあり、空気清爽にして、療病に効験ありとて、遠近より来浴の客絶えたことがない」とある。

⑫源判官駿馬太夫驪・・みなもとのほうがん しゅんま たゆうぐろ。源義経別称・判官ほうがんの愛馬「太夫黒」の意。この馬は一ノ谷の戦いで義経が乗った名馬として知られ、その産は岩手県一関市千厩町との説もある。鴨川市江見太夫崎には源頼朝が洞窟の中で馬を発見し「太夫黒」と名付けたという伝承がある。

⑬ 波太島・・鴨川市太海の沖合二百メートルにある仁右衛門島の事。太海は古く波太なぶとと呼ばれた。全島砂岩よりなる周囲約四キロメートルの島で、千葉県では最も大きな島かつ唯一の有人島である。源頼朝や日蓮の伝説で知られ、個人所有ではあるが千葉県指定名勝となっているほか、新日本百景にも選ばれている。現在も手漕ぎ船で渡る観光地として知られる。ちなみに港町太海はつげ義春の漫画作品「ねじ式」の舞台としても知られる。

仁右衛門島の景色


⑭ 誕生寺・・鴨川市小湊にある、日蓮宗の大本山。山号は小湊山。日蓮の誕生を記念して出生地に建立された寺院のこと。

⑮ 長狭街道・・ながさかいどう。鴨川市横渚から鋸南町保田までの全長約二十六キロメートル、安房地域の北辺を東西に横断する街道。古くから外房(太平洋沿岸地域)と内房(東京湾沿岸地域)をつなぐとともに、房総半島の南北の道と交わる南房総の主要な街道のひとつであった。現在の千葉県道三十四号鴨川保田線。

⑯ 保田・・現在の鋸南町保田地区のこと。安房最北の町であり、古くから房州の玄関口として栄えた。鋸山への旅人も多く、古来避暑客を受け入れてきた土地である。明治後期より、療養施設や旅館が営まれていたが、大正六年に安房で初めての鉄道駅「保田駅」が開業すると避暑避寒の地として知られ、多数の実業家や学者、文化人が別荘を構えた。中でも大正十年に当時著名な物理学者・石原純と歌人・原阿佐緒が保田に家を構え移り住むと、安房の中心地北條町にいた文化人らと交流。安房美術会が作られた。大正時代の房州の文化において北條と保田の芸術上のつながりは大きな影響を持っていた。

⑰ 妙本寺・・鋸南町吉浜にある日蓮宗の寺院。正式呼称は中谷山妙本寺。戦国時代には里見氏の保護を受け、また寺側も同氏に城砦として寺を提供して対後北条氏との戦いにおいて最前線基地となっていた事が里見氏の古文書などから明らかにされている。鎌倉時代から江戸時代までの歴代の住職と檀家が厳格に受け継いできた資料群は県指定有形文化財(歴史資料)となっている。

⑱ 鋸山日本寺・・安房の代表的な景勝地、鋸山にある寺院。山号は乾坤山けんこんざん。本尊は、薬師瑠璃光如来。日本寺大仏がある。寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基によって神亀二年(七百二十五年)に開山。境内にある五百羅漢像(千五百羅漢)は、江戸時代後期にこの寺を復興した高雅愚伝禅師が発願したもので、上総国望陀もうだ郡桜井村の石工・大野甚五郎英令が門弟二十七人と共に約二十一年の歳月をかけて彫った。約千五百三十三体の石仏があるという。明治時代に入り、神仏分離に伴う廃仏毀釈や昭和十四年の火災などにより、多くの堂宇が消失した。鋸山は古来多くの文人が訪れた房州を代表する景勝地で『房州避暑案内』で取り上げられた漢詩にも多数詠まれている。

⑲ 木ノ根隧道・・南房総市の富山町高崎と富浦町丹生の間に木ノ根峠がある。両地区の海岸線の地形は断崖絶壁が続いているため、古来この峠を歩いて往来した。『房州避暑案内』が書かれた約七年前の明治十八年。この峠にトンネル「木ノ根隧道」が開かれたことで、行き来は以前よりも楽になったが、同時に古道は徐々に廃れていったようである。全長は180メートルあり、房総半島に多数ある素掘りトンネルの中でもかなり長い方と思われる。

現在の「木の根隧道」


⑳ 里見家・・戦国大名安房里見氏のこと。安房里見氏は房総に割拠し、江戸時代初頭には安房一国を治める館山藩主となったが、千六百十四年に里見忠義の代で改易された。

㉑ 多々良増井氏ノ別荘・・南房総市富浦町多田良字西浜の熊野神社の海側隣接地にあった別荘。現在同地には何も建っていないが、土地台帳には明治二十四年以前からの土地所有者として増井熊之丞という名前が確認できる。地域の高齢者の話によると「増井家は豪農で、主人は増井熊之丞といった。古くから多田良西浜一帯の土地を所有する大地主だった。増井家の本邸の敷地には立派な家屋が複数建てられ、地元では「増井の八棟やつむね」と称されていたが、関東大震災で倒壊した」という。『大日本篤農家名鑑 第一冊』(明治四十三年)内、富浦村の項に「増井熊之丞」の名がある。
衆議院議員・農商務大臣などを務めた政治家・大石正巳(一八五五 - 一九三五)は、大正末期に館山市船形字新山に別荘を構えていたが、これ以前(大正6年)に多田良の増井別荘を購入し住居としていた。『房州案内 楽土之房州七月号』(大正15年)にはこうある。
 「富浦村大武岬の下多々良に桝井(ママ)の別荘が売られるといふので、とふとふ其方を買ふことにして移つたのであるが、此処は景色は佳かつたが其頃海軍の射撃場であつたから、其響きといふたら、それは非常なもので、兎ても永くは住めないと思つて居る内に、大正七年下のあの大荒らしに、ひどくあらされてとうとう此新山の方へ来ることにした」

㉒ 大武岬・・大房岬のこと。千葉県南房総市富浦町多田良にある館山湾と富浦湾の境目に突き出た岬である。黒船来襲の時代から太平洋戦争まで、日本の防衛の砦として使用され、今も大房岬砲台跡(東京湾要塞)が残っており、観光地としても親しまれている。明治大正期の随筆家、大町桂月は紀行文『房州の一夏』(大正十一年)のなかでこう記している。「洲ノ崎を左にし、大武岬を右にせる一大灣を館山灣と稱し、又鏡ヶ浦と稱す。浪はおだやかなり。遠淺にして水清く、最も海水浴に適す。八幡の濱邊には、松林つゞきて、逍遙するに快し。この一帶の濱邊より海をへだてて富士山を望むの景色は、われ幾たび見ても、飽くことを知らざりき。」

㉓ 腕車・・人力車の異称。

大房岬

【収録詩歌の作者について】


広瀬青邨・・(ひろせ せいそん、文政二年-明治十七年)日本の儒者。諱は範、字は世叔、通称は卯三郎のちに矢野範治、号は青邨。広瀬淡窓の門で学び、詩を能くし、書にも画にも優れた。

石井南橋・・(いしい なんきょう、天保二年-明治二十年)明治時代の漢詩人。広瀬淡窓にまなぶ。明治五年上京し、成島柳北の『花月新誌』に狂詩を発表。雑誌新聞の記者をつとめ、狂詩の個人雑誌『東京竹枝』で世相を描写した。筑後出身。名は隆驤りゅうじょう。字は子竜。通称は滝治。

森山半蒼・・不明

伊達宗城・・『房州避暑案内』の原文では伊達家城と記されているが、正しくは伊達宗城である。(だて むねなり、文政元年-明治二十五年)江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族(伯爵)。第八代伊予国宇和島藩主。島津斉彬(鹿児島)・山内容堂(高知)・松平春嶽(福井)と並び幕末四賢侯の一人と称せられた。

楫取素彦・・(かとり もとひこ、文政十二年-大正元年)幕末の長州藩の志士、明治時代の官僚、政治家、男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助(おだむら いのすけ)と改め、後に文助・素太郎といい、慶応三年九月に藩命により、楫取素彦と改名した。号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。

佐々木弘綱・・(ささき ひろつな、文政十一年-明治二十四年)幕末明治期の歌人、国文学者。号は鈴山、竹柏園。伊勢国(三重県)生まれ。父は徳綱、母は鳰子。学者の家系に生まれ、幼くして学問を授けられ、十七歳で千首の歌を詠んでいたという逸話が残る。明治十五年、東京大学古典講習科の創設とともに講師に就任。のちに病気のため辞職してからは著述に専念し、多数の著作を残した。著書に『竹取物語俚言解』『土佐日記俚言解』『伊勢物語俚言解』などがある。

重野成斉・・(しげの せいさい、文政十年-明治四十三年)本名、重野 安繹(しげの やすつぐ)。江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。

並木栗水・・(なみき りっすい、文政十二年-大正三年)千葉県香取郡御所台(多古町)の人。名正韶、字は九成。幕末の朱子学者。門下に成徳学園を創立した菅澤重雄などがある。著書に『栗水漁唱』(明治二十一年)、『宋学源流質疑』(明治三十六年)など。

伊藤桂州・・(いとう けいしゅう)江戸安政期の漢学者、書家。明治浅草森田丁の士族。名明徳、通称信平、字明卿、号を桂洲・天香・菊逸などと称した。著書に『女十二月状』(明治六年)、真隷行草『千字文』(明治十一年)『女大学小学習字』(明治十三年)などがある。

長岡護美・・(ながおか もりよし、天保十三年-明治三十九年)最後の熊本藩主・細川護久の異母弟。明治期の外交官、華族(子爵)、貴族院議員。皇居内麝香の間に仕え、天皇の相手などをする麝香間祗候じゃこうのましこうを授かっている。

舩越衛・・(ふなこし まもる、天保十一年-大正二年)広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。初代千葉県知事。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆。幼名は洋之助。号は松窓。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。

森山茂・・(もりやま しげる、天保十三年-大正八年)日本の外交官、政治家。外交官の時には朝鮮との外交交渉に携わり、退官後は元老院議官、富山県知事、貴族院議員などを務めた。
  
川口翯・・(かわぐち かく)天保七年生まれ。愛知県士族。名古屋県、愛知県、群馬県、入間県、文部省、元老院の官吏を歴任した。『明治官員録三冊』(明治十四年五月発行)には中央衛生会の会議委員として川口翯の名があり、同書には中央衛生会長、細川潤次郎(元老院幹事)の名が記されている。細川は明治癸未みずのとひつじ(明治十六年)に中央衛生会長として各地を視察した際の紀行文『採訪餘録』を著している。同書には、同年八月の千葉県巡歴についても記述があり、川口がこれに同行したことが記されている。諸名家吟詠小録本文の「東京人明治癸末 八月 細川中央衛生会長歴巡」とは、同書に記された巡歴の事であり、この時に木村屋に立ち寄ったのものと思われる。

竪山理一郎・・・(たてやま りいちろう)千葉県の官吏。改正官員録(明治十六年七月)の千葉県下総国千葉郡千葉町の項にその名が確認できる。また、『千葉県教育史 第二巻』には、明治十七年度の千葉教育会の副会長に「堅山理一郎(教育課長)」との記述がある。

安積艮斉・・(あさか ごんさい、寛政三年-万延元年)幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、吉田松陰、岩崎弥太郎、高杉晋作、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが門人として学んだ。

松平忠国・・(まつだいら ただくに)江戸時代後期の大名。武蔵国忍藩三代藩主。官位は従四位下・侍従、左近衛少将。奥平松平家。天保十三年には房総半島沿岸の警備、嘉永六年には品川台場の警備を務めている。

大槻盤渓・・(おおつき ばんけい)日本の幕末から明治初頭にかけて活躍した仙台藩士、儒者、漢学者。文章家としても名高い。名は清崇。 仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。父は蘭学者の大槻玄沢。

梁川星巌・・(やながわ せいがん、寛政元年-安政五年)は、江戸時代後期の漢詩人で、当時の詩壇の中心的存在であった。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。幕末の京都で佐久間象山ら勤王の志士らと接触。安政の大獄で捕えられる直前にコレラに罹り没した。

亀田鵬斉・・(かめだ ぼうさい、宝暦二年-文政九年)江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興。字は国南、公龍、穉龍、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。千代田町に亀田鵬斉翁誕生之地碑がある。

佐藤一斉・・(さとう いっさい、明和九年-安政六年)美濃国岩村藩出身の江戸後期の儒学者。諱は坦(たいら)。通称は捨蔵。字は大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒がある。育てた弟子には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等があり、西郷隆盛が終生の愛読書とした『言志四録』は、佐藤一斉が四十二歳から四十年かけてまとめ上げた著書である。

寺門静軒・・(てらかど せいけん、寛政八年-慶応四年)幕末の儒学者。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。自らを『無用之人』と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

芳川崋山・・本文に「会津人」との説明があるが、『会津人物文献目録』『会津人物事典(画人編・文人編)』いずれの資料にもその名は見つからなかった。会津人ではないが、近しい名前の人物に常陸国潮来出身の儒家・詩人で武蔵おし藩(埼玉県行田市)の教育に貢献した芳川波山(よしかわ はざん)がいる。芳川波山は、江戸の儒家・山本北山(亀田鵬斎と終生の仲)の門に入り、梁川星厳らとともに「山門の四傑」と称された。ちなみに、亀田鵬斎と梁川星厳はいずれも房州避暑案内に収録されている漢詩の作者である。会津藩と忍藩は、江戸幕府から江戸湾防衛を命ぜられたという共通項がある。江戸幕府は、開国を迫る西洋からの防衛のため、江戸湾沿岸に各藩を配置した。天保十三年に忍藩が房総の警備を引き受けると、富津・竹岡の陣屋に九百名を超える人員が配置された。芳川波山はこの翌年に房総行きを命じられ竹岡陣屋に赴いている。この四年後の弘化四年、房総の警備に加わったのが会津藩である。会津藩の加入により防備体制が強化されると、忍藩は竹岡の陣屋を会津藩へ引継ぎ、新たに北条(八幡)に陣屋を築き、のちに大房岬をはじめ房州各地に台場を建造。ペリー来航までの十二年間、警備を担った。あくまで推測の域を出ないが、忍藩が北条の陣屋に移った際などに「芳川波山」が木村屋に訪れたのではなかろうか。

西島蘭渓・・(にしじま らんけい、安永九年-嘉永五年)江戸時代後期の儒者。江戸の人。名は長孫、字は元齢。号は蘭渓、坤斎など。本姓は下条氏。西島柳谷の養子となり改姓した。養父のあとをつぎ、江戸西久保に塾を構えた。人との交遊が盛んで、渋谷や深川に別荘を持ち、風流な生活を送った。詩学にも一家言持っていた。

鈴木松塘・・(すずきしょうとう、文政六年-明治三十一年)幕末から明治時代の漢詩人。谷向村(現南房総市谷向)の出身。江戸に出て梁川星巌に学ぶ。慶応元年には浅草に私塾をひらいた。名は元邦。字(あざな)は彦之。別号に東洋釣史、十髯叟堂。著作に『松塘詩鈔』『房山楼詩』など。

鼎談 房州避暑案内を語る

-本書の編集に協力いただいた宮坂さん小宮さんと編者前田の三人で、『房州避暑案内』に関することを自由に話してみました。明治25年当時の館山や房州の様子、旅行や観光の在り方の変遷など、会話の中でいろいろなテーマが浮かび上がります。-

〔参加者〕

宮坂 新(みやさか あらた)・1978年、東京都出身。2011年より館山市立博物館に学芸員として勤務。現在、学芸係長。専門は江戸時代の地域史で、人・モノの動きや交流に関心がある。担当した企画展に、特別展「房州と江戸・東京」・企画展「よみがえる近代安房の風景」・収蔵資料展「健康地・房州」等がある。

小宮 壽夫(こみや としお)・1958年、千葉県富里市出身。杉並区の図書館司書を退職後、南房総市千倉町に移住。2000年から約15年間、同町にて本のあるワインバー「リブロス」を経営。多くの客に愛された名店の蔵書は、閉店後白浜町の紋屋旅館に「リブロス文庫」として引き継がれている。現在は明治時代以降に房州各地を訪れた文人の記録や、同時代に館山市に移り住んだ著名人の足跡についての文献調査に取り組んでいる。

前田 宣明(まえだ のぶあき)・1984年、千葉県鋸南町保田出身。明治時代から昭和戦前期にかけて保養地・古別荘地として親しまれた地元の歴史文化を、高齢者への聞き書きを中心に調査し、「保田文庫」として書籍を自作している。避暑地保養地としての房州の文化に興味を持つ。主著は「松山吟松庵という人」「保田震災記 石原純が残した記録」。

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前田:今日は『房州避暑案内』(以下避暑案内と表記)の感想や、まつわるあれこれを気軽に話してみましょう。そうすることで新たに見えてくるものがあるんじゃないかと思い、このような企画をもうけてみました。よろしくお願いします。
小宮 宮坂:よろしくお願いします。
前田:避暑案内には当時の房州各地の名所が紹介されてますね。
小宮:安房地域の見どころの要点を簡潔に拾ってますよね。
前田:ですね、現在も名所として知られる所も多いですが、中には現存しないものもありました。例えば、布良のところで、潜水機器で採ったあわびを清国(中国)に輸出していたと書いてあります。そんな物産があったんですね。
小宮:当時から干あわびを輸出していたってことだよね。あれはもともと献上品だもんね。
宮坂:アワビは、奈良時代のころから館山、白浜、千倉あたりからも税として都に納められていて。産地の地名を書いた木簡が、平城宮などから発見されてますよね。
小宮:ずーっと伝統的な物産品だったわけだ。熨斗あわびなんかは古代から重要な儀式に使われていたものですしね。
前田:そうだったんですね、アワビひとつとっても、半島の海洋文化と長い歴史的な営みを感じますね。それから、千倉の「温泉亭」というのはどんな様子だったんでしょうかね?
小宮:千倉こども園の正門を正面に見て左側の一角です。そこに「千倉温泉」というのがあった。ほぼ間違いなく、避暑案内に出てくる温泉亭は千倉温泉の事でしょう。つい先日わかったんですが、官報をみると明治時代にはすでに「千倉温泉」という商号が登録されていたようです。その後大正8年ころは株式会社千倉温泉というのが登記されているんです。あそこはちょうど高台になっているから、海を一望できたはずです。正岡子規の弟子筋の石井露月なんかも泊まって療養していた記録が残っています。
宮坂:白浜のところに書かれている根本養寿院というのは全く知りませんでした。小宮さんよくあの広告の資料を見つけられましたね。
小宮:国会図書館のデジタルコレクションで知ったのですが、あのサイトには貴重な資料がまだまだあるはずです。
宮坂:現在地域でも知られていないものが載っているってところが、魅力的ですよね。面白い。
前田:鴨川町のところで、旅館で入浴した後、宿の裏手で地引網を見て、大きなアジの塩焼きで晩酌するの楽しいよ、おすすめだよって書いてあるんです。いいですよね、なんか素朴な街歩き感のある過ごし方。そんな旅行してみたいなぁとつい思っちゃった。
宮坂:江戸時代に旅をしに来た人も、地引網のことを書いてるんですよね。地元の人が普通にやっている仕事としての風景。都会から来る人はそういうのが面白いんですよね。
小宮:目の前で大人数が網を引いて魚が上がってくる風景、あれは見ごたえがありますよね。
宮坂:今の観光用の体験地引網っていうんじゃなくて、ほんとにリアルなもの。
前田:地元の生活のなかの普通の営みが旅人にとって見どころだったんですね。

【避暑保養の地・房州のすがた】

宮坂:もう少し後の時代なんですが、大正末になると、都会風というか観光地化されてしまった逗子や大磯に対して、房州の素朴さや物価の安さが紹介されてますよね。むしろ今でもそういうことを言う人もいますね。だからこういう庶民の普通の暮らしというか見世物ではない営みをみて楽しむというのがあったんでしょうね。ある意味時代を経ても変わらない特徴なのかもしれませんね。
前田:解説にも書いたんですが、大磯、湘南方面は明治二十年代初期に鉄道で海水浴別荘地として発展しました。その当時、房州は鉄道はないが汽船という交通手段が独自に発達していった。ある意味で汽船でしか来れないという独特の魅力・旅情があったんじゃないでしょうか?
小宮:船だと江戸時代には朝とれた魚を昼には江戸の市場に出して、夕方の晩飯には行商人が売り歩いたっていうくらいだから。もともと海での行き来はわりと近い、そんな距離感だったんですよね。それがまだ明治時代には残っていた感じでしょう。
前田:ちょっと房州でも行ってみよっかくらいの感覚だったんですかね?
小宮:ただ明治時代の汽船航路だといくつか港に停泊していくから、逆にゆっくりにはなったけど、房州までの移動感覚ってのはそう遠くなかったんじゃないかな。
前田:川本三郎さんの『火の見櫓の上の海』という本。房総半島の性格を知る上で大切な一冊だと思ってるんですが、「近所田舎」という言葉がでてくるんですよね。江戸から見ると房総半島は海の向こうに見える。それは経済的な交流も含めて、割と遠くない。むしろ古来精神的距離としても近くにあったというような意味合いで房総半島をそう定義してるんです。
小宮:近所田舎、川本さんのいい言葉だよね。あれはいい本です。

前田:宮坂さんがいまおっしゃっていたように、早くに観光地化した所と対照的な、素朴な庶民の営みがのこる近所田舎。房州のそんな性格は今も続いていそうですね。
小宮:一方で、明治20年代前半。大磯や湘南に財界人が別荘を構えたそのころ、時同じくして北条にも別荘はできてるんです。確かに房州は汽船でしか来れなかったけれど、彼らはあえてこちらを選んでいたのかもしれません。「俺たちはちょっとちがうんだよ」というようなそんな意識を感じますね。
宮坂:小宮さんの研究成果によると、陸軍系の人々が別荘を構えていますよね。それは、先に行った人がいて、その人のつながりから近隣に別荘ができていったという。そんな人と人とのつながりというのが見えてきますよね。
小宮:おそらく、そのなかでも最初期に北条に目を向けた先駆者が、私は軍人の金近虎之丞(かねちかとらのじょう)だとおもうんです。彼は、湘南の方に海水浴場ができたのとちょうど同じころ、館山の北下台(ぼっけだい)に転地療養のために屋敷を構えた。明治21年には金虎亭という下宿風呂を開いています。
前田:なるほど、近代観光の歴史は鉄道の拡大ともに発展していったことはよく語られますが、鉄道が来ていないからといってこちらの発展が遅かったというわけではないんですね。
小宮:遅かったということではなく、館山にも同時代的にあった。ただそれが知られていなかっただけなんです。湘南の方は時の陸軍軍医総監・松本順とかその辺のトップの人たちがはじめて、さらに当時取り組みを世に伝えるための本も書いていますね。一方で、金近は松本と比べると、階級も下の下ですが、同時代にこちらにも避暑療養のための施設を作る動きがあったのは確かなんですね。時代性的に、軍医という組織の中に地方に海浜療養みたいなものをつくるという気運があったのかもしれませんね。湘南方面でそれをトップがやり始めていた時に、すでに館山でも金近が始めていたといった感じなのでしょう。いろいろ調べてみると、明治10年代には陸軍関係者が房州に療養願を出しているのが多数確認できています。だから海浜保養地としての動きは意外とこっちも古くからあったんです。
宮坂:金近が館山の北下台に金虎亭を構えてから、そこに知り合いなどが来るようになったんですもんね。
小宮:金近の上官だった軍人で男爵の滋野清彦がすぐそばに土地を求めていますね。
前田:たしかにそういうのありますよね。保田では茶道研究者の松山吟松庵がそれと似た状況を作り出しています。大正9年に彼が移り住んでから、親類や親しい学者や実業家がすぐ近隣に別荘を構えていった。いずれも私の家の近所で、当時はその小さな海岸地界隈が文化人が点在する空間になっていたことがわかりました。吟松庵もまた、房州の素朴さを愛し移住を決めた人物でした。時の大実業家で茶人の益田孝が小田原にぜひ来ないかと誘っても、吟松庵は保田がよいからと一人自適な生活を続けました。当時の小田原は益田ら数名の著名な茶人たちがいて、それこそ知人が知人を呼びこみ、茶人のソサエティが出来上がっていた頃です。保田の吟松庵の元には、さまざまな研究者が訪ね、当時の茶道文献学研究の総本山と称されたそうです。きっとそれぞれの保養地には草分け、メルクマールとなる人がいるのかもしれません。意識的にその地を選んだ人の周りにその良さを共有する近しい人が集まってくる。そんな文化がどうもありそうです。
宮坂:金近と交流のあった家の方によると、大正初期に館山に移り住んだ彫刻家、長沼守敬もこの家の人物を頼って館山に来たという話が残っていて、家族ぐるみの交流があったそうです。
小宮:長沼守敬は親友の辰野金吾(建築家・東京駅を設計)とともに晩年は館山に来ようと言っていたようですし。明治20年に入ると天狗たばこの岩谷別荘、高崎男爵、万里小路通房など著名な人物が海岸近くに土地を取得しています。明治10年代に金近が下宿風呂を構えたのち、軍関係者の往来が生まれ、明治20年代に入ると著名な人物が別荘を構えたり移り住んだ。そんな流れが浮かび上がりますね。
前田:やはり様々な著名人が、人を介してこの地を選んだのですね。


****


前田:房州避暑案内の全体を読んでみておもったんですが、言葉に情感があるっていうか、どことなく話しかけているような柔らかさを感じました。
宮坂:読むって感じじゃないですよね。普通の文章とは違って、やっぱりガイドブックのような感じがありますね。
小宮:文語体、文学的な文章ってよりはちょっと砕けた感じがあって、漢文体なんかがあったこの当時の他の文章なんかと比べてもそんなに読難いものじゃないし。情報をわかりやすく知らせようっていう書き方なんでしょうね。この当時だと例えばさ、講談本とかあるわけじゃないですか。講談をそのまま文章にしたもので。意外とこの地域は講談師が来てるんですよね。
前田:旅芸人てやつですね。
小宮:各町に当時は寄席みたいなのがあって、金がなくなると出稼ぎに房州に行ってやってくるみたいなそんなのがあった。そういう記録もあるんですよ。講談資料って言って、これもなかなか面白いんです。例えば北条のどこどこでやったけど、お客が入んなくて、今度は千倉の方に行って云々とかそんな芸人の日記みたいな。
宮坂:へぇ、いろんなところを周っていたんですね
小宮:宿屋の主人だった房吉は、講談師の芸に触れていたかもしれないし、その語り口みたいなものを取り入れた可能性もあるかもね。
前田:たしかに「宿屋」っていうのは、地域外からくる人を受け入れてコミュニケーションする仕事だから、その主人である山﨑房吉は、ニュアンス、伝え方みたいなものには敏感だったのかもしれませんね。

【房州避暑案内に見る当時の街のすがた】

前田:本文は伝わりやすい砕けた感じですが、最後の拝告の部分は候文ですね。内容も商人として襟を正している感じが伝わってきます。この部分は案外面白くて、当時の町の様子が割とにじみ出てるんですよね。たとえば、冒頭に5、6年前から町に避暑客などが来るようになってにぎわい始めたというような内容が書いてある。つまり、近代における館山北條の避暑地としての発展は明治19年から20年ころからだったということなんでしょう。
小宮:たしかにいろんな資料を見ていくと、ちょうどそのころから「療養」とかって言葉がでてくる。明治10年代にはまだ少ない。20年前後から増えてくるのは確かです。
前田:山﨑房吉さんはどんな人に読んでもらおうと思って避暑案内を書いたのでしょう?
宮坂:割と上流階級だったんじゃないかな。どうでしょう?
小宮:まぁ「来る人」に向けてでしょうけれど、庶民に向けてというよりかそれなりの人なんじゃないかな。
宮坂:おそらく東京周辺に住んでいて、ある程度お金があるか教養があるか、芸術に興味があるとかなんかそういう人を想定してたんじゃないかなって思います。
小宮:だって、構成を見ても、こんな歌人や立場ある人がきてこんな歌を残しているんだよってのを伝えてるわけだから。
前田:「わかる人」に伝えたかった?
小宮・宮坂:そうですよねきっと。
宮坂:うんうん、なるほどってうなづいて読めるような人じゃないとわからないですもん。
小宮:こんな人が来て書いてるのか、それはなかなかだなぁとわかるお客さんていうのかな。
宮坂:それが木村屋旅館独自の客層なのか、はたまた当時の房州、北条自体がそうだったのか。どうでしょうね。
小宮:それははっきりはわからないですが、木村屋はこの地域でも一番の顔というか名実ともに知られていたわけですから。そういう上流層のお客さんもついていたと考えてもおかしくはないでしょうね。

木村屋を写したものの中でも最も古いものと思われる(戦前期発行の絵葉書より)


【著名人が訪れた旅館・木村屋】

小宮:木村楼雑詠に佐々木弘綱の奥さんの歌がありますね。弘綱の『鏡ケ浦日記』(明治23年)には、妻光子と息子の昌綱を連れて木村屋に来た時のことが書いてあって、弘綱は、房吉に書画帳への揮毫を頼まれたとあります。家族全員で歌を詠んでいますが、房吉は木村楼雑詠でチョイスしたのは奥さんの方だった。
前田:佐々木弘綱は幕末から明治の国学者歌人、東京帝国大学の教授もつとめた人ですよね。素朴な疑問なんですが、著名な人が来た時に、房吉はどうしてわかったんでしょうね?
小宮:まずね、そりゃ庶民とは身なりも違うでしょう。(笑)
前田:たしかに。一目見て「お、こりゃ違うな」ってなりますね。
小宮:おや、この人違うなと思って宿泊者の名前を見れば「おっ、貴方は!」てなったと思いますよ。古い宿屋の主人てのは文化的なことに詳しかったものですし、あの当時官報に位階の発表も出ていたでしょうから、「名前に見覚えが」ってなったかもしれませんね。
前田:木村楼雑詠には作者の位階が書いてありますし。以前に旅館で働いていた経験があるのですが、仕事柄たまたま著名な方に応対する機会が何度かありました。宿屋ってのは今も昔もさまざまな地域外の人を呼び込む機能があるんですね。
小宮:昔の宿屋の主人てのは「文化的」なものに興味を持つんですよね、経済的より文化的な方が強いんだろうな昔はね。それはいろんな人を迎えるからでしょうね。
小宮:諸名家吟詠小録に川口喬の詩が載ってますね。脚注で触れているように、この人は、中央衛生委員会長・細川潤次郎(土佐藩士・男爵)に同行して来たんですね。その時の様子が「採訪余録」にあります。
宮坂:細川潤次郎は「万石騒動」(江戸時代に起きた安房国北条藩で起こった農民一揆)の本も書いてませんか?
小宮:書いてる書いてる。細川は歴史とかにも造詣が深かったようですね。
前田:木村屋以外の宿にも当時著名人は来ていたのでしょうか?
小宮:那古寺のすぐ近くにあった山田屋も文士に親しまれていたみたいですね。資料を色々見てみると、木村屋は特に多いです。当時北条には吉野庵という老舗宿もあって、この宿の別館は木村屋の並びにありました。吉野庵の滞在記もありますが、やはり木村屋の方が多い。例えば本書解説に出てくる「憂喜ぶくろ」を読むと、最初は吉野庵に泊まったけれど、翌日に泊まった木村屋の方がよかったと書いてある。やっぱり宿としても木村屋の方が質が高かったんじゃないかな?
前田:やはり木村屋は文人や上流階級の人々も訪れた北条を代表する宿だったのでしょう。木村屋も海辺に別館を構えていたようですね。
小宮:資料でも「北条木村屋別荘」に療養にいったという記述がいっぱい出てくるんです。これが海岸の方の別館ですね。
前田:旅館業は装置産業だから、利益をあげるにはハコが必要。逆に言うと、もうかってきて需要が見込めたら別館を作るのが自然流れなんですよね。木村屋や吉野庵といった宿屋が別館を営んでいたということは、明治20年代にはそれだけお客が来ていたのでしょう。そういう活気の中から避暑案内は生れたのかもしれません。
小宮:30人から40人くらいの学校単位で宿泊した記述もあるんですよ。たぶん海水浴水泳実習などを目的に木村屋別館に泊まっていたんじゃないかと思います。
前田:別館は海のすぐ近くだったようですしね。本館の楼にのぼると、鏡ケ浦との沖ノ島が見渡せたようです。今は家がたくさん建っていて見えませんが。
小宮:古い地図をみても、海までは何にもない。二階、三階まであったのかな?上に上がれば一望だったんでしょうね。
前田:あのあたりの地形は、今の国道を境に土地が段丘状に高くなっていますよね。木村屋は地形が上がった最前列にあった。
宮坂:大正時代、関東大震災で館山の市街も全体的に土地が隆起したんですよね。だから、避暑案内が書かれた当時は、砂浜や波打ち際がもっと近かったはずですね。
前田:木村屋の前の道は浜通りと呼ばれていたようですし、小字にも浜通りというのがあるそうで、やはりそれらも当時の地形を考えると自然なことなんですね。

木村屋旅館館内の様子(戦前期発行の絵葉書より)


【旅行のかたち いまむかし】

前田:現代主流の国内旅行は非日常と贅沢を求めるところがあると思うんです。それと対極なのが避暑案内の世界観。全体として素朴なんだけど味わいがある感じ。大衆社会が生んだレジャー以前の旅行の形なんでしょうね。
宮坂:療養とか、病院の充実とか、最後の拝告にある「新聞や牛乳の配達」云々のくだりとか、今の観光で売りにするポイントとは違うところが面白いですよね。現代だとむしろ病気とか療養って隠したり、宣伝でもマイナスにとらえられている傾向があるように感じます。でも当時って、むしろ療養しにどんどんきてねっていう姿勢がありますよね。それが面白いですよね。一般の人がどう感じていたかはわからないけれど、少なくとも宿屋とか観光産業に携わる人々は受け入れようとしていたのは確かですね。それを営業の手段として割り切っていたのか、本当に元気になってほしいと思っていたのかよくわからないけれど、観光に携わる人は当時積極的に宣伝してます。
前田:新型コロナウイルスが流行っていたここ数年来の観光の在り方ともつながるテーマですね。
宮坂:新型コロナが流行り始めたとき、地方では感染拡大を恐れて、都市部の人が来るのを断ったじゃないですか。だけど、明治~昭和初期にはむしろ「患者さんはどんどんこっちに来て療養してよ」っていう営業方法ですよね。ちょうどコロナ禍の最初の年に、まさにそういったことをテーマにした「健康地・房州」という企画展をやっていたので、今こそ当時のことが参考になるのになと内心思っていました。みんなが来ないで来ないでって言ってるときに、どうぞ都会の方こちらでゆっくりしてってねって。まぁ現代では難しい問題もありますが、当時を考えると、よく言えばいろんな人を受け入れる土壌があったのかもしれないなって感じました。ちょっと陳腐な言葉になりますが、過去の人びとに学ぶべきところがあるような気がしています。
小宮:千倉にも館山にも結核療養所があったしね。
前田:保田でも明治45年には療養を受け入れた病院ができてますね。病が今ほどネガティブなものではなかったのかな?
小宮:療養ってのは人が出かける理由、人を呼び込む理由として大きいテーマだったんでしょうね。病気でも、数日間英気を養ってまた日常に帰っていくという、ひどくない程度のものも療養になるんだろうから。目的とすると、観光というより療養の方が当時は大きかったんじゃないかな?たぶんこっちに来て何するって言ったてさ、遊び歩くようなとこもあんまりないわけじゃない。海行って歩いて、ちょっと船出したり、誰かに会ってとか、そんな感じじゃない、きっと。夜どっかに飲みに行く食べに行くとかもそんなにあるわけじゃないでしょう。たしかに娯楽っていう娯楽が当時はあんまりなかったんでしょうね。
宮坂:きっと旅館で過ごしていたんでしょうね。むしろ「ゆっくり過ごす」っていう娯楽だったんじゃないですか?田舎暮らしを楽しむ、親しむみたいな旅行だったんではないでしょうか。
前田:その流れ今改めて生まれてきてません?例えば旅行代理店主導の大衆型ツアーやリッチな高級リゾートみたいな、商業的な贅沢を楽しむのとは対極的な旅行の形。贅沢したいというよりも精神衛生もふくめて整いたいみたいな欲求の、素朴な感じの旅。経済低成長時代とネットの発達で出てきたんじゃないですかね。その感じとどことなく近しいような気がします。
小宮:ボッチキャンプとかもあるしね、みんな共通のなにかを求めてるんですよね。
宮坂:そうそう。何するってわけではないんだけどのツーリズム(笑)。避暑案内の内容だって、この名所を見ろって感じじゃないですよね。なんていうか「来た人」が余暇をどう過ごすかにゆだねてる感じがします。
前田:ここへ行けというより、道中のありかた「ビーイング」Being、程よいあり方を大切にする旅行ですね。
小宮:やっぱり今に合ってるね。
宮坂:なんか新しく最近生まれてスタイルみたいに見えるけど、実はすでにここにあったよね、みたいな感じしますよね!
小宮:それでいうと、今人気になっている、富浦の岡本桟橋がそれなんじゃないかな?
前田:あぁ!それすごいわかる気がします。地元の人にはなんてことない普通の風景。それが妙にフォトジェニックで、郷愁があって、素朴で、エモくて、、みんな何となく立ち寄っていくっていう。確かに避暑案内で紹介されている世界観にしっくりきますね。

南房総市富浦町の岡本桟橋

小宮:こないだNHKの「ドキュメント72時間」で特集されたでしょ?前半にでてきた地元のおじさん。覚えてる?「昔からみなれた景色だから、いまなんでここが人気なのかよくわかんネェよ」って言ってたよね。(笑)あの感覚あの感覚。
前田:似てますね。地域内外の視点のズレがまた味わい深い。地元の人にはふつうなんだけど、訪れる人にとっては素敵に見える。文人はそういう領域をことばにしてくれているのかもしれませんね。
小宮:ツイッターとかインスタとかネットのツールがあるから、文人じゃなくて普通の人でも気持ちを発表できるのが今だよね。
宮坂:そういう意味では、同じかもしれませんね。昔は文人のような限られた人が発表していたものが、今はメディアが発達して普通の人でもできるようになった。
小宮:昔は記録を残す人がほんの一握りだったわけで、彼らが残してくれたものが、この「房州避暑案内」なのかもしれないね。いわゆる「観光」とは違う「旅行」の形がかつてあったんだってことなんでしょうね。避暑案内が書かれたのは、国内で「海水浴文化」がはじまって何年か後ってタイミングじゃないですか。
前田:ちょうどその頃ですね。
小宮:大磯に海水浴場が開かれたのが明治10年代後半でしょ。その同時期に館山には金近がもういたわけじゃないですか。金近は軍医の組織のなかできっとその動きを見ていて、影響を受け自分でやってみたって考えてもおかしくはないでしょう。そこに軍の関係者が来るようになったというのも、館山の海浜保養地、療養地としての成立の大きな源流だったんだと思いますね。
宮坂:こういうふうに人と人とのつながりで集まってくるってのもなんか今っぽいじゃないですか?
前田:多拠点居住、アイターン、交流人口とか色々な言葉が地方と都市部の間にはありますけど、結局「人と人」って側面は大きいですよね。
小宮:時代が巡り巡っている感じでね。(笑)結局、人と人なんだよね。
前田 宮坂:ね!そうですね。
小宮:いまはいろんなツーリズムがあるからさ、そのなかの一つなんですよきっと。

あとがき

 房州避暑案内の文面には、当時のことを後世に伝えようという、いわゆる「歴史書」としての意図はあまり感じ取れない。当時の旅行者に向けて書かれたもので、その名の通り「観光案内書」というのは疑いのないことである。しかしながら、私は始めて同書を読んだ時も、本書制作に際して再読した時も、同書の文面から時間を超えて伝わってくる何かが感じられてならなかった。またその伝わり方が、なんとなく心地よいのだ。今思うとその正体を見出すことが本書の制作の大きな動機であったように思われる。
 同書が記されてからの長い間には交通や経済の変化、さらには戦争もあり、地域社会の諸相は当時と大きく異なっているのは確かである。たとえば、館山に限らず、国内の多くの地方都市で見られることだが、直近の三十数年をみても、商業の中心が鉄道駅周辺から郊外の商業施設や幹線自動車道路沿いに移動したことに伴って街並みや人の賑わいの場も大きく変化した。かつて汽船で往来した東京湾の海底にはトンネルが開通し、自家用車で旅行に来る形が一般的になった。これだけ変化があるにもかかわらず、古い観光案内書に惹かれたのはなぜなのだろう。私は本書の制作を通して、その理由がわかったような気がしている。一言で言えば、地域に変わらない風光・風土がまだ残っているからではないだろうか。
 今年の二月中旬、息子を連れて房州避暑案内に書かれたいくつかの場所を車で巡ってみた。冬空が数日続いていたが、その日はちょうど晴天だった。鋸南を出発して富浦、塩見などいくつか回って、最後に布良の望楼跡地付近に行くことにした。国道410号から不老山 能忍寺に向かって細い急な坂道を登り、境内に車を停めた。あたりは風に揺れる草木の音のみで、丘の上は春を思わせるほどの暖かい陽だまりだった。息子と二人で崖まで歩くと、眼下にはどこまでも続く太平洋が見渡せた。息子はその光景を見るや「うわぁ」と驚いていた。誰もいない何もない海辺の山上で、すぐ近くにはトンビが縁を描いて飛んでいた。吸い込む空気がおいしかった。足元からは温風と思えるほどの暖かい風が優しく吹上げていて、私たち二人は大変心地よい空間に佇んだ。理屈ではなく、これが避暑避寒の保養地「房州」なんだと思えた瞬間だった。私は山﨑房吉の案内を頼りにこの半島南部の風土を体感することができた。百三十年前に山﨑房吉が書き残した房州避暑案内は、房州の風光を時代を超えて再認識させてくれる書物なのかも知れない。改めて先人の営みの上に現在があることの尊さを感じる。
 また、本書の制作を同好の知人の協力を得ながら行ったことで、テーマを多角的かつ共有的に見ることができた。ちなみに、館山市立博物館発行の『館山の観光事始め』は地域の観光史を知る上で大変参考になる書籍である。本書と共に読むことで、観光地としての地域文化史により理解を深めることができるだろう。このあとがきを結ぶにあたり、校閲・校正・情報提供に至るまで多大なるご協力を頂いた宮坂新氏、小宮壽夫氏、岡田晃司氏(元館山市立博物館館長)に心より感謝申上げる次第である。


〇主要参考文献
関宏夫(2009) . 『房総紀行「木屑録」漱石の夏休み帳』 . 論書房出版.
池田和弘(2001) . 『北條村史』 . 精文社 .
館山市立博物館(1997) . 『館山の観光事始め』 . 館山市立博物館 .
館山市立博物館(1996) . 『万里小路通房』 . 館山市立博物館 .
館山市役所(1999) . 『だん暖たてやま』 . 館山市役所 .
福田祐泉(1934) . 『房総に踊る人々』 . 房総時代社出版部 .
鋸南町史編さん委員会(1995) . 『鋸南町史 通史編(改訂版)』 . 鋸南町教育委員会 .
井出徳太郎(1898) . 『日本商工営業録 明治31年9月刊』 . 日本商工営業録発行所 .
東京市市史編纂係(1907) . 『東京勧業博覧会案内』 . 裳華房 .
関屋為性(1897) . 『安房名勝地誌:一名 房州名勝案内』 . 鳥海書店 .

房州避暑案内を読む

2023年7月25日 発行 初版

著  者:前田宣明
発  行:保田文庫

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