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* この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

Garofano  ガローファノ
                                 蒼星転幻

  第1話  赤色の花が咲く



温かい風が頬をそっと撫でる…

 目を瞑っていても外の世界は太陽の日差しに包み込まれ、生命の営みに活力を与えてくれているのを感じる事ができる…
芝に覆われた小高い丘に寝そべって、過去の記憶をただ漠然とたどっていた。

ここは幼い頃に兄とよく遊んだ丘だ。

 この丘からは自分たちが住んでいた街の様子が良く見える。
ここから街を見下ろしていると、自分がまるで王様にでもなったような誇らしげな気分になったものだ。
兄はいつも俺の横に寝そべって、王様になったら何がしたいかを聞いてきた。
俺は腹いっぱいアイスクリームを食べたいとか、おもちゃの国を作りたいとかそんな話ばかりしていたのを覚えている…
ある日、俺は兄に王様になったら何がしたいかを尋ねた事があった。
兄は目を輝かせて世界で一番強い王国を作りたいと言った。あの時の兄の顔は今でもハッキリと記憶に残っている。

当たり前だと思っていた家族の存在。

何気なく過ぎてゆく日常。

それがある日突然、当たり前で無くなってしまった…

全てが、暴力と言う名の悪魔に奪われてしまった…

ちょうど2年前、決して忘れる事のない最悪の日...



 その日は朝から初夏の香りを乗せた風が、木立を騒がしく揺らしていた。
俺は部活でやっていたバスケの試合が長引いてしまい、家に帰る時間が遅くなってしまった。


「ただいま!」

いつもならすぐに返事を返してくれる母の声は無く、リビングからテレビのニュース番組の音声だけが聞こえていた。
他に物音は無く、家の外で木々たちの騒めきがやけに大きく聴こえていた。

何かがいつもと違う… 


玄関で靴を脱ぎながらもう一度声をかける。

「母さん?居ないの?」


やはり返事は帰ってこない… 

誰の声も聞こえない…

おかしい…

何か嫌な臭いがする…

鉄のような生臭い臭い…



ドクン、ドクンと、鼓動を打つ音が頭の中に響く。
玄関からリビングのドアにたどり着くまでに、いつもの何倍も距離が遠く感じる…

リビングのドアを開けた瞬間、大きな塊が目に飛び込んできた。
その塊が、自分の母親なのだと頭が理解するまでに少し時間がかかった...
俺は叫び声をあげたが、音にならない息を吐き出しただけだった。

壁のそばに、後ろ手に縛られて座り込んだまま、動かない母の姿がそこにあった。
項垂れて顔は殆ど見えなかったが、何か硬いもので殴られた為か頭はいびつに変形し、ドロドロとした赤黒い血が顔を伝って床に滴り落ちていた…

床に溜まった血だまりに、花びらのような物が浮かんでいた。
思考がはっきりせず、それがカーネーションの花びらだという事に気付くのに時間が掛かった。

今日は母の日だ… 

母の日…


突然目から涙が溢れだし、嗚咽とともに胃からこみ上げて来た酸っぱいものが口を塞いだ。
頭の中が、ぐちゃぐちゃにかき回されてどうして良いかわからず、キッチンの方へ向かった… 

血の匂いでむせ返り、嗚咽が止まらない…
フラフラと歩きながら何かを探していた…

もう一人…

兄の姿がまだ…

母親の血で粘り着く足跡をつけながら、リビングを出て二階へと上がってゆく…

階段を上がり切ったところに兄の体が横たわっていた。
うつ伏せになったシャツの背中には、複数の穴が空いていて血で真っ赤に染まっていた…
俺は思わず眼をそむけてしまった…

すべて失った…

全てが奪われてしまった…

今までに感じたことのない、悲しみと憎しみが入り混じった喪失感が全身を麻痺させ、その場に呆然と立ち尽くす…



ふと、視界の端で兄の体が微かに動いているのが見えた。

まだ息がある!?

今度はハッキリと声が出た。

「兄さん!!」


そこからの記憶は曖昧だった…

兄は病院へ運び込まれたが、意識を取り戻すことはなかった。

肉親を突然失った俺は祖父母の家に引き取られ、そこで新しい生活を始めることになった。
兄は意識がないまま病院で生きている…

毎週、週末には兄の所へ行くのだが、天気の良い穏やかな日はこうして、丘の上で兄との思い出をめぐらせてから病院へ行くのが習慣になっていた。


 それから1年と半年ほどが過ぎた頃、兄の主治医からある提案を持ち掛けられた。
最先端の研究の実験体として、治療を受けさせてみないかと…
その内容は、失った意識の代わりに、人工的に作った意識を移植するというものだった。
話を聞かされた時は、いくら意識が無いからと言って、残された最後の家族を実験に使うなんてとんでもない事だと思っていたが、このまま意識を取り戻さないなら…と治療を受けることに承諾した。

手術はあっけなく済んだ。

脳に直接接続された電極から、コンピューター内の人工意識をパルス発生回路を通して、兄の脳内に人工意識を書き込むと言う作業だった。

 手術が無事終えたことを告げられ、兄の居る病室に向かった。
兄は、病室のベッドに横たわったまま顔を俺の方に向け、作ったような笑顔で言った。

「やぁ、ジョバンニ!元気そうですね」

兄が喋っているのが不思議な感じがしたが、何か不自然な感覚もあった。

この兄はホントに俺の兄なのか…

それとも兄の形をした別のものなのか…


しばらくは状態観察と、リハビリが必要だという事だったが、半月後には外に出ることができると言われ、その日が来るのが楽しみだった。
この事を誰かに話したくて、家に帰ると早速祖父母に話した。

「リカルドが生き返った!?」

祖父は目を丸くして、興奮しながらパイプタバコをふかした。
祖母は兄がロボットになるのかと気味悪がったが、ロボットではないと言う事を、うまく説明する事ができずに苛立ちと無力さを感じたが、実際に兄に合わせるしかないと結論付けた。

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 大学の講義が終わると、飛び出すように教室を後にした。
今日は、兄を外に連れ出して良いと主治医に言われていたので、その事ばかり考えていて他の事が頭に入って来なかった。

 病院に着くと、兄と主治医の伊邪弥(イガミ)医師がロビーのソファーに座っていた。
リハビリの為か兄の顔は半月前より引き締まり、少し筋肉質になったように見えた。

兄は俺に気が付くと、にっこり微笑んで言った。

「やぁ、ジョバンニ、元気そうですね」

人工意識となった兄が最初に俺に言った言葉… 
同じことしか言わないのだろうか… 

俺は少し不安そうに伊邪弥の顔を伺った。

「リカルド、今日は君の弟と少し外に出てみないか?」

伊邪弥は、俺に微笑みながら兄にそう言った。

「はい、弟と外に出られるなんて、とても嬉しいです」

俺は笑顔を伊邪弥に返したが、その笑顔が少しひきつっていたのを隠せていなかったと思う。
確かに姿も声も兄だったが、その口調は兄ではなかったからだ…
そんな不安を感じ取ってか伊邪弥は俺に説明をした。

「ジョバンニ君、これから君がお兄さんの思い出を、たくさん教えていってあげて欲しい」

「兄との思い出を?」

「お兄さんの記憶の断片と人工意識は少しずつ繋がってゆくんだ、でもその記憶の断片とどれくらいリンクされるかはわからない… そこで君がお兄さんとの思い出話や、思い出の場所に一緒に行くことで、以前のお兄さんにより近づけるはずなんだ」

理屈は理解できたが、目の前で笑みを浮かべて座っている兄の姿に、違和感しか感じなかった。
とにかく俺ができることは全てやるしかない、かけがえのない家族を取り戻すために。

まずは兄と家族を会わせるために、祖父母の家に連れてゆくことにした。

病院の玄関の車寄せに、祖父の車が迎えに来ていた。
祖父は俺達の姿を見つけると、車の窓を開けて手を振った。

兄は祖父の姿を見て、あれは誰かと尋ねて来たので簡単に説明をしておいた。

「お爺さん(セバスチャン)ですね」

祖父はリカルドを見ると一瞬いぶかしげな顔をしたが、すぐににっこりとほほ笑んで、早く車に乗れと手振りで促した。

 俺と兄は後部座席に乗り込んだ。兄の隣に座ると整髪料の良い香りがする。
今日は出かける為か、長い入院生活でだいぶ長くなっていた髪は綺麗に刈り揃えられていた。
兄の髪は父親譲りの明るい金色で、少し長めを中央で分けていた。
そんな兄の横顔に父親の面影を思い起こしていた時、祖父がバックミラー越しに兄に話しかけた。

「リカルド、気分はどうだ?」

「はい、気分は問題ありません」

「なんかよそよそしいな、もっと気楽に行こうや!」

「はい、気楽に行きましょう」

祖父は大声で笑うと、車を走らせた。

祖父母の家までの道中、兄は車の外に見えるものを色々と尋ねて来たので、俺は一つ一つ丁寧に答えて説明した。
基本的な知識は、人工的に学習されてはいるようだったが、普段あまり見慣れないような車や建物、人や動物についてまでは、その学習内容には入っていなかったようだ。
兄と言うよりは幼い弟ができた気分だった。

家に着くと、祖母が飛び出てきて兄の両手を握りしめた。

「リカルド!リカルドなのね!おお、神様…」

祖母の目に涙があふれ出てくるのを見て、思わず俺も泣いてしまった。
祖父は反対側の空を見あげていたが、肩がわずかに震えていた...

「とにかく家の中に入りましょう、温かい紅茶を用意するわね」

「はい、紅茶は好きです、ミルクティなら嬉しいです」

兄は昔からミルクティが好きで、良く飲んでいたのを覚えている。
記憶の断片から、その情報をリンクしたようだった。

「嬉しいです…か... リカルド、そんな余所行きの言葉を使わずに、もっと気楽に喋れんのか?」

「気楽に喋る… という事はどういう事でしょうか?」

祖父はバツが悪そうに俺の方を見たので、仕方なく兄に説明した。

「兄さん、お爺ちゃん達には、敬語を使う必要は無いって事だよ」

「敬語を使わない?じゃあ、ミルクティ良いね~」

「おー!そうそう、リカルド良いね~」

祖父は右手でグーサインを出すと、兄さんも真似してグーサインを出した。
また兄さんが居る日常が戻ってきたような感覚がして嬉しかった。
祖父母も嬉しそうだった…

兄と再び食卓を囲む日は二度と来るはずが無いと思っていたので、目の前で兄と祖父母が楽しそうに会話をしているのが不思議な光景に思えた。
そんな時間はすぐに過ぎてしまうもんだ。


 玄関のチャイムが鳴り、インターホン越しに病院から兄を迎えに来たと伝えられる。
兄との別れを惜しむ暇も与えられず、迎えの車に押し込められるように兄の姿が見えなくなると、またすぐに会えるとわかっていても寂しさだけが取り残された。
ただ、迎えに来た車が黒の大型SUVで、さらに迎えに来た人達、運転手を含め三人は全員黒のスーツを着込んで居たのに違和感を感じた。

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 黒のSUVは、リカルドが入院している病院の前を通り過ぎると、そのまま高速道路に入った。

後部座席に座っていた黒いスーツの男、クリスチャンが隣に座っているリカルドに話しかける。

「家族との再会は楽しめたか?」

「楽しいという感覚はわかりません」

「そうか... ではこれからの任務の詳細を伝える」

黒のSUVは高速道路を二区間走ると、最初のインターチェンジで降りた。
すぐにオフィス街が現れ、メイン道路に面した高層ビルの前を少し過ぎると車を停車させた。

「ターゲットはあのビルの最上階だ」

「任務を遂行します」

 リカルドは車を降りると、ターゲットの居るビルの反対側に歩いて行く。
尾行が無いかを確かめる為だった。
ビルの裏にまわり、裏口の扉から中に入る。裏口の扉の鍵は開いていた。
あらかじめ守衛にも仲間が潜入していて、ターゲットの居るオフィスのセキュリティは切られていた。
リカルドは警備室に入りロッカーを開けた。そこに用意されていた明るいグレーのスーツに素早く着替え、偽の社員証を胸のポケットにつけた。警備室を出るとエレベーターに乗り込む。
最上階に着くとオフィスの正面から入り、事務室を通り抜けVIPルームの扉を開けた。

「ん?君は誰だね?」

大柄で恰幅の良い、上質なグレースーツに身を包んだその男はこの保険会社のCEOだ。
リカルドは愛想のよい笑顔、よくビジネスマンに見られる営業スマイルを作り、後ろ手でVIPルームの重い扉を閉めた。
CEOは来客の時間を確かめるように、リカルドの頭上に壁に飾ってある凝った装飾の柱時計を見た。
リカルドは何の躊躇もなく、脇のホルスターから38口径のリボルバーを取り出すとその大柄の男の眉間に穴を開けた。
銃声はVIPルームの防音壁に吸い込まれ、静寂に包まれる。
リカルドは10秒間その場で待ち、外の気配に神経を研ぎ澄ませた。

今このVIPルームで起きた事以外何も変化はない事を確かめると、そのままVIPルームを出て事務室を通り抜けエレベーターに乗り込む。
あまりにも堂々としたその態度から、部外者の侵入だと思う者は誰も居なかった。

 警備室に戻ると元の服装に着替え、着ていたスーツを紙袋に押し込みダストシュートに投げ込んだ。
今度はエントランスから堂々と外に出ると、正面に停車していた黒のSUVに乗り込む。

「ご苦労、よくやった」

「問題なく任務遂行しました」

「15分きっかり、まるでマシーンね… ターミネーターさん?」

助手席から黒スーツの女性が悪戯に笑って言った。

「不用意な発言は控えてくれイザベラ」

「はいはい、相変わらずお堅い事で…」

イザベラは、そう言いながらリカルドの方へ手を伸ばし、人差し指をチョイチョイと動かした。
リカルドは無言でうなずくと、脇にしまってあった38口径のリボルバーを渡した。
その時、複数台の警察車両と救急車が、けたたましいサイレンを鳴らしながら通り過ぎて行った。
SUVはゆっくりと高速道路に入り、リカルドの入院している病院の方へ向かった。

クリスチャンは窓の外を眺めながら呟いた。

「汝、一切の望みを捨てよ…」

空は夕日で赤色に染まり、地上の建物は黒い影に飲み込まれ始めていた…



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「ジョバンニ、リカルドの様子が変なの…」

母が後ろを向いたまま俺にそう問いかける… 母さん?なんでここに居るの?
肩に手を伸ばそうとした瞬間、母親が振り返る… 
その顔は血まみれで無表情なまま… 俺は思わず叫び声を上げた…

「はぁ、はぁ、夢か…」

汗でびっしょり濡れた上着がとても気持ち悪く、嫌な夢とともに悪い気分にさせた。
忘れたくても忘れられない過去、いや、忘れてはいけないものだと母は言っているのかも知れない…

嫌な気分を洗い流すためにシャワーを浴びた。
自分の部屋に戻り、手早く身支度を済ませるとキッチンへ向かった。
廊下までバターの焼けた甘い香りが漂っていた... 祖母の焼くクロワッサンはとても美味しく、ジョバンニの大好物になっていた。

キッチンのテーブルには、ビーンズサラダとカットフルーツの皿が並べられていた。
色とりどりの野菜や果物が、センス良く盛り付けられ感性を目覚めさせてくれる。

「お爺ちゃん、おはよう」

テーブルに着くと、祖父は新聞に目を落としたまま話しかけてきた。

「おはようジョバンニ、今日はリカルドと出かける予定だったな?」

「そうだよ、兄貴と子供のころ遊んだ丘に行ってみようと思う」

「ああ、あの丘か、懐かしいな... わしも子供のころ良く登ったな」

「そう、良いわね~ 私もあの丘は好きよ、そろそろお花も咲くころよね…」

祖母が、焼きたてのクロワッサンを載せたバスケットを持って話に入って来た。

「おはようジョバンニ、クロワッサンのお代わりはまだあるからね」

「おはよう、お婆ちゃん」

ジョバンニは祖母に朝の挨拶をしながらクロワッサンにかぶりついた。

「うまい!何度食べてもおばあちゃんのクロワッサンは飽きないよ!」

祖母は嬉しそうな笑みを浮かべ、うんうんとうなずいた。

「そう言えば、昨日の夜殺人事件があったらしいわね... 怖いわね…」

「ああ、なんでもあの保険会社は裏社会と繋がってたらしいぞ、それで消されたんじゃないかって噂だ」

「裏社会と繋がってた?あの有名な企業が?」

俺は大学で経済学を専攻していたので、その保険会社の事は知っていたが、日本のトップクラスの大手企業が裏社会と繋がりがあるとは思いもしなかった。

「あら、あら、お父さん、また都市伝説ですか?」

祖母が茶化すと、うるさいと剥れてテレビの電源を入れた。

そのCEO殺人事件のニュース番組が流れ、副社長がインタビューに答えていた。
この副社長の顔には見覚えがある、現財務大臣の次男だ。


「いけね、そろそろ時間だった‥」

「気を付けて行ってらっしゃい」

祖母は朝食のかたずけをしながら笑顔で言った。
祖父はまだ新聞を広げながら、コーヒーのおかわりをすすっていた。

「リカルドにまた来いと言っておいてくれ」

「そうよ、ここはあなた達のお家なんだから」

俺は笑顔で答えを返すと、足早に家を出た。
いつもなら、兄の病院まではバスと電車を乗り継いで行くのだが、今日は祖父の車を使って良いという事で車で向かった。

 病院の正面玄関の車寄せで停車すると、玄関から兄が手を挙げて微笑んでいた。
兄の姿を見るとなんだか安心感を覚えるが、微かな違和感も拭えなかった…

「俺が信じてあげなくちゃな…」

ジョバンニが車を降りようとした時、リカルドはそのまま待っててくれと手でゼスチャーをしながら足早に車に駆け寄った。
開きかけた車のドアを閉め直したと同時に、リカルドが助手席に乗り込んだ。

「今日は何処に行くんだい?」

兄が親しげに話しかけて来た。
最初の頃のよそよそしさはだいぶ無くなっていた。これも祖父達のおかげだなとつくづく感心させられた。

「今日は、兄貴とよく遊んだ丘に行こうと思ってるんだけど...」

「丘? ここからだと、2丁目、3丁目、5丁目に丘があるね」

「うん、最初の2丁目の方だよ。子供の頃に、兄貴と登った大きな楓の木が目印になってる」

「木登り? 木に登ることにどういった意味があるのかな?」

「意味なんて無いよ、ただ楽しいと感じる事をして遊んでただけだよ」

「楽しいと感じる事?」

人工的に植え付けられた意識という物には、感情が欠落しているのだろうか…
昔ような感情豊かな兄に、俺が連れ戻す事が出来るのか…

兄との会話が途切れ、ラジオから流れて来る音楽と、タイヤが路面を掻きむしるノイズ音を聴きながら車を走らせていると、目の前に小高い丘が見えて来た。
丘の頂上には、空に向かって突き上げられるように楓の木がそびえ立っていた。

麓には小さな公園があり、車が3台だけ停められる駐車スペースが設けてあった。
俺は車を降りると両腕を上げ、軽く背伸びをするように肺一杯に新鮮な空気を吸い込んだ。
兄は好奇心に満ちた目で丘の上の楓の木をじっと見つめていた。

空は蒼色が鮮やかで、春の雲と夏の雲が重なり合って、平面的な空間に立体的な印象を与えていた。
この景色がとても好きだ。
空の蒼、雲の白、丘の緑、楓の木の黄緑色を纏ったこげ茶色...
この世界は様々な色で包まれていて芸術的だ。

「兄さん、上まで行って見よう」

「あの楓の木の所か、歩いて17分40秒で着くね」

「細かっ…」

まるで人間ナビだなと引きつった笑顔で兄を見た。
兄は自分が言ったことなどに気を止めることなく、丘を登って行った。

丘の上までたどり着くと、楓の木の下に腰を下ろした。
そこから下に広がる街を眺めて居ると、兄がちょうど丘の反対側に花が咲いているのを見つけた。

「ジョバンニ、花が咲いているね」

そこにはポピーの花が咲いていた。
淡いピンクや白の花びらが、優しくそよぐ風に気持ちよさそうに揺らいでいた。

「一つ違う種類の花があるね、何の花かな?」

兄が指さした先に咲いていたのは、真っ赤なカーネーションの花だった。

赤色のカーネーション…

その花を見た瞬間、あの事件の記憶が頭の中に流れ込んで来た…
思考が記憶に占領され、眩暈と吐き気が襲い掛かる…
頭の中で殺された母の映像がぐるぐると回る…

血で汚れたリビングの壁…

血だまりに浮かんだカーネーションの花びら...

血にまみれた母の姿...

血の匂いがする…


その場で倒れ込み、起き上がろうとしても全身の力が入らなかった…

「ジョバンニ!大丈夫か!?」

傍に駆け寄る兄の足音と気配を感じるが、何か恐ろしい物が見えてしまいそうで眼を開けることができない…

兄の気配と声がだんだんと遠ざかる…

何も聴こえない…
 
何も感じない…

何も…

Garofano ガローファノ 1

2019年12月4日 発行 初版

著  者:蒼星 転幻
発  行:Arts Porpora

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