spine
jacket

───────────────────────



宇宙の真理と幸せについて

大前岳夫

岳大出版



───────────────────────

 目 次

はじめに

1.無限について(宇宙の果てはどうなっているのか?)

2.永遠について(「すべて」は永遠に存在する)

3.全宇宙は無限にして永遠、時を超えている

4.宇宙の有限論等との対話

5.幸せとは何か?どうすれば幸せになるか?

6.平和の基礎理論

7.正義の復讐者への手紙

8.地獄から人々を救う2人の天使:「ベーシックインカム」と「ヘリコプターマネー」

9.みんなの幸せと自由至上主義(リバタリアニズム)の両立

あとがき

はじめに

デカルトの「我思う故に我あり」が科学的測定を必要とせずに「我」の存在の証明を果たしていることで、論理の力はわかると思いますが、この本では、その論理の力で「「全宇宙」(全世界)は無限であり、永遠であり、時を超えている」という真理を証明しようとしています。表現の硬い論文が主ですが、その前にそれの基となった、わかりやすい論文を2本掲載しました。

そして、次に「幸せ」について述べました。「幸せ」は無限にして永遠である全宇宙の生命体に共通する普遍的価値だと思います。さらには、他の論文や記事をいくつか加えました。

大体、私のホームページ「JC Station」(https://www.jcstation.info/)に掲載してあるものですが、紙の本も作成するために、今回改めて出版しました。

この本によって「宇宙の果てはどうなっているのか?」「宇宙はいつ始まり、いつ終わるのだろう?」「幸せとは何か?」「どうすれば幸せになるのか?」といった疑問がすっきりと解消されると思います。

この本が暗闇を照らす光となることを願っています。

1.無限について(宇宙の果てはどうなっているのか?)

果ては無い。無限に広がっているのである。

具体的に述べると以下のようになる。
宇宙の果てを目指して、宇宙船を飛ばしていく。しかし、果てはない。その先が必ず存在するからである。

仮に壁のようなもので、囲まれているとする。しかし、これも果てではない。壁とその厚みとその向こう側が必ず存在するからである。

仮に宇宙の広がりが風船の内側のようになっていたとする。しかし、風船の外側がかならず存在する。そして、かりに「何もない状態」に囲まれていたとする。しかし、その「何もない状態」も含めると、無限なのである。

仮に、もし宇宙が空間の曲がった3次元トーラス構造だとしても、有限の3次元構造体である以上、それはXYZ軸からなる無限の空間の中に納まるはずであることからも全宇宙は無限である。すなわち、有限の3次元構造であるからには、無限であるXYZ軸に内包されるはずであり、逆に言えば、3次元トーラス構造の外側にXYZ軸が(その先はどこまでも)広がっているのである。

ちなみに、「真っ直ぐに突き進む」ことによっても、ループして一定地点より先に進めない(どこまでまっすぐに突き進んでも、堂々巡りなどになってしまう)ことも、空間が曲がらない3次元トーラス構造などもこのループ構造に等しく、宇宙がプログラム上のものである場合、ありうるが、一定地点より先の「無」なども含めると、やはり全宇宙は無限なのである。

本当だろうか?と疑問を持つかもしれない。
しかし、論理的に考えれば明らかなのだ。

世界をどこかで限っても、かならずそれ以外の範囲が存在する。そのため絶対的な無など含めた「すべて」の広がりは無限である。
これは理解いただけただろうか?

詳しく述べると以下のとおりである。
ある領域Bを想定すると、同時に領域B以外を想定しているのである。
では領域Bを想定したところで、領域Bは存在するのだろうか?存在していないのかもしれない。領域Bが存在しなければ、領域B以外を想定できない。

では逆に領域Bが存在すればどうだろうか?当然領域B以外も存在するのである。

それでは領域Bの存在を論証しよう。これはデカルトの言葉による。

デカルトの「我思うゆえに我有り」は、「存在しなければ思うことはできない。思っている我は実際に存在している」ことを表している。まず「我」の存在は論証された。そして我の存在する場所である世界(領域B)も存在することも明らかである。ゆえに領域Bの存在も同時に論証された。

ちなみに「存在する」とは行為、知覚の主体、客体となっていることである。存在しなければ行為できないし、受け手ともなれない。キャッチボールを考えれば良い。「存在する」とは行為、知覚の主体、客体となっていることである。

では、「無」とは何だろうか?この質問は「我」や世界(領域B)以外の存在を考えるために重要である。

「無」とは正しくは「無のような存在」である。 端的に言えば「無」とは存在の一つなのである。わかりにくいだろうか?「無」を分析して考えてみよう。

この「無のような存在」は、「相対的な無」と「絶対的な無」にわかれるのである。相対的な無とは、ある存在、その状態にとっては行為、知覚の対象になるが、ある存在、その状態にとっては行為、知覚の主体、客体とならない状態である。例えば、紫外線は存在するが、人間にとってはそのままでは五感で知覚できない「無」である。計測器を使えば間接的に人間の知覚にとっては存在となる。

これに対し「絶対的な無」とは、いかなる存在にとっても、言葉以外に、行為、知覚の主体、客体とならない状態である。この「絶対的な無」は一般的に言われる「無」である。しかし言葉によって対象化できない事象はない。感覚的に述べれば、「無を対象化する、無と名づける」ということである。言いかえると、言葉以外に「ほとんどの存在にとって」行為、知覚の対象とならない状態でも、それを「絶対的な無」と名づけることができる。対象を正しくとらえたうえで名づけることができているので、すなわち、知覚の対象となり存在しているのである。したがって対象化できない、存在しない「絶対無」はありえない。「絶対無」は言葉の誤りである。
「存在」と「無のような存在」を以上のように定義する。

それでは本題に戻る。

宇宙の果てはどうなっているのか?

果ては無い。無限に広がっている。

世界をどこかで限っても、かならずそれ以外の範囲が存在する。「我」が存在する場所が世界であるから「我」と「世界」が存在することは明らかであり、同時に「それ以外」も存在する。そのため「絶対的な無」など含めた「すべて」の広がりは無限である。

言い換えると私の述べるこの「すべて」は「存在」と「無のような存在」によって構成される、例外のない、実際に存在する、無限に広がる世界なのである。

「すべて」とビックバン

「すべて」は永遠に存在し続ける。無くならないからだ。このことに始まりも終わりもない。
なぜなら、始まりとは「それ以前が無いこと」終わりとは「それ以後が無いこと」を表すが、
全てはあり続け、無くならないからである。
つまり、全ては、始まりも終わりもなく、永遠に存在し続けるのである。

この真実に違和感を覚えるのであれば、それはおそらく錯覚に起因する。
私たちは経験上、ほとんどの物事に始まりと終わりがあると認識しているだろう。
しかし、それは仮にほとんどであったとしても、絶対ではない。
「全てが存在し続けること」のように、始まりも終わりもないことがあるのもまた真実なのだ。
さて、現在の宇宙論では、ビックバン(の特異点、特異領域)が宇宙の始まりであるという。
この宇宙論は「「全て」に始まりも終わりもない」ことと、一見、矛盾している。

しかし次の考え方では矛盾しない。
それは、
ビックバンは「全て」whole universe の一部の始まりである。
という考え方である。

現在から過去に遡ればビックバンの特異領域は時間と空間の生まれるところ、なのだそうだが、それは「永遠に存在している全体」のうちの、ほんの一部の始まりに過ぎないと考えるのである。

なぜなら、特異点、特異領域という考えは、その周辺に「無」を想定しているはずであるが、
私の述べている「全て」は「無」も含めた存在であるからである。

無限にして永遠である「全て」は始まりもなく終わりもない。そのうちの一部分でビックバンが起き、一部の時間と空間が始まったと考えるのである。

ひろがりが無限であるため、物理的に果てに到達できないけれど、そのなかで、わずかでも創造の力を発揮することはできる。広大な宇宙のなかではほんの小さな地球でさえ、平和でない状況が続いている。力を合わせて改善すべきだろう。

*「すべて以外」、「すべてを限る」は言葉の誤りである。
*幻覚は無ではなく、誤った知覚である(すなわち何らかの存在である。)
*「絶対無」という言葉は厳密には言葉の誤りである。あり得ないのである。

2.永遠について(「すべて」は永遠に存在する)

「すべて」は存在する。「我思うゆえにわれあり」から初めて、「すべて」が存在することは先に述べた。(前述「無限について(宇宙の果てはどうなっているのか)」を参照されたい」

さて、存在するということは必ずいずれかの時(時点・時刻)において存在していることである。

だから、少なくとも時(時点・時刻)において存在する。

ここで「すべて」の存在の性質を考えてみよう。

「すべて」は「絶対的な無」も含むから、無くならない。存在し続けるのである。

例えば、宇宙空間が「何もないような状態」になってしまったとしても、その宇宙は「何もないような状態」として存在しているのである。「無」を言葉で認識しているのである。

以上のことから「すべて」は無くならない。変化や差が生じたとしても、消滅することは無い。言い換えると永遠に存在し続ける。

「すべて」は永遠に存在するのである。

さて、一方時間は「すべて」である全宇宙の一部では永続しないかもしれない

私たちは経験上、私たちのいる世界が変化に富むことを知っている。変化に富むということは、すなわち存在の瞬間である「時」と「時」の差、変化、そのままのひと続きである時間は存在している。

それでは変化がなくなったらどうか?

すべては存在し続けるが、その一部である我々の住む世界は消滅する可能性はある。時間は全宇宙の一部では永続しないかもしれない。

とはいえ、「すべて」は無くならない。無限であるのだから、我々の住む世界が消滅したとしても、全宇宙のうち、どこかで世界は続いていくのである。

絶望することは無い。確信的な希望を持てるのである

ところで、Something Greatが宇宙を創造したならば、その創造の範囲内では時間を超えられるかもしれない。

コンピューターでは時間のモデルがプログラムできる。そのプログラム上では、時間を超えられる。時間を止めることができる。過去に遡れる。未来に進むことができる。時の複製もできる。削除もできる。速めることもできる。遅くすることもできる。

ではSomething Greatが宇宙をプログラムしたと考えたらどうだろうか?
その場合、宇宙において時間を超えられる可能性はある、と考えられるのである。

補足1:時間と時の違い

*時間とは、時刻と時刻の間、時の間
*時刻とは時間の或る一瞬における時点。時の或る短い点
*間とは、一続きの時間

(*広辞苑より)

これらの定義を踏まえて、この論文では
時間とは時と時の間
時とは時点・時刻
時点・時刻とは何かが「存在」している1つの瞬間
間とは差、変化、そのまま、のひと続き


と定義している。

補足2:save とload

コンピュータ-用語の「保存」を表す言葉はsaveである。
saveは「救う」という意味もある。したがって「世界を救う」という英語save the worldは「世界を保存する」ことであるのかもしれない。
また、コンピューター用語のLoadは「読み込み」を表し、機械であるハードがプログラムで動くようにすることである。 これに関連して、「わが主、神」を表す英語はMy Lordである。Loadとlordはスペルが違う。しかし「人間の肉体を動かす意識を吹き込む(loadする)」のは、My lordだとも考えうるのではないだろうか?

3.全宇宙は無限にして永遠、時を超えている

序論

この論文では「全宇宙」(すべて)は無限にして永遠、時を越えている」を論証しようと思う。それは、わたしたちがそれぞれの立場に執着せず、「全宇宙を幸せにしよう」という願いの基礎となる世界観(真実)だと思うから。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。

要旨

この論文において、「全宇宙(すべて)は無限にして永遠、時を越えている」という真実を提示する。

(これまで「ビックバンが宇宙の始まりであり、従って宇宙は広がりと時において、ある程度限度がある」と広く信じられてきたようだが、それでも私は真実を提示する。)

ビックバンは全宇宙のうちの一部で起きたのだろう。
この真実を証明するために、私は論理とデカルトの言葉「我思う、故に我あり」を用いた。
主な結論は次の通り。
「すべて」は「全宇宙」と「自我とそれ以外」に等しい。
「すべて」は「絶対無」にならず、完全に消滅しないので、ありつづける。
「すべて」には始まりも終わりもなく、したがって時を越えている。永遠である。
私が提示した真実は、私たちが平和を考えるとき、「「幸せ」を広めるべきだ」と示唆するものでもあるかもしれない。なぜなら、私たちは同じ生命体であるから「幸せ」は普遍的であり、
したがってそれぞれの信仰や思想などに執着し過ぎるべきではないからだ。しかし、それらの多くは、たくさんの宝物を含むので、尊重されるべきだ。宝物のうち「敵を愛せ」「互いに愛し愛し合いなさい」などのイエスの言葉が特記される。(イエスはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒にとって、「共通の聖なる存在」である)。

私たちは、普段の生活のなかで「ともに生きることを喜びとする社会」を築くべきである。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。

セクション1
「すべて」とは、(無限の)「全宇宙」あるいは「自我とそれ以外」を意味する。それは無限で、実際に存在し、ありつづける。なぜなら、第一に、宇宙には必ずその先が存在するから、「すべて」は無限である⑴。第二に、「すべて」(自我とそれ以外)の実在性は、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」から証明できるので、「すべて」は実在するのである⑵⑶。第三に、「すべて」は全体としては消滅しないからありつづける。なぜなら「絶対無」はあり得ず、もし世界がいわゆる「無」になっても、それは存在していると見なすからである。(いわゆる「無」は存在の一つとする)⑷。このように、「すべて」は無限にして、実際に存在し、ありつづける。
⑴ 例えば宇宙船を飛ばしていっても、その先が必ず存在するはずである。仮に「無」に囲まれていたとしたら、その「無」も「その先」(the beyond)と考える
⑵ 存在していなければ思うことはできない。すなわち存在していることとその領域の証明、同時にその領域以外の存在の証明でもある。
⑶ ある領域を想定すると、同時にそれ以外も想定している。(数学の「集合」を参照してほしい)。では、その領域が実在すると、同時にその領域以外も実在する。
⑷ 前提:①正しく名づけられるものは「存在する」とする。この「無と名づける」あたりが今の私の言葉の限界だろう②「絶対無」は言葉の誤りで、あり得ない。

セクション2
「すべて」(全宇宙)は、始まりも終わりもないこと、時間を越えていることから、永遠である。またこの事実は、時間や宇宙には始まりと終わりがあり永遠を否定する有限論とは一見反対である。有限論では、始まりとはすなわち「それ以前にはない」ことを表し、終わりとは「それ以後はない」ことを表す。しかし「すべて」はありつづけるのだから、始まりも終わりもなく、永遠である(5)。第二に、ありつづけるということは、時を越えているということである。なぜなら、時間とは、時(moment)と時(moment)の差か、そのままのひと続きであるが(6)、それはいかなる時においても絶え間なく継続して存在していることを意味するからである。したがって「すべて」は永遠である。
(5)経験上、わたしたちは、ほとんどのことに、始まりと終わりがあることを認識しているだろう。仮にほとんどであったとしても、それは絶対ではない。「すべて」が存在することに始まりと終わりがないこともまた真実なのだ。
(6)私は時間とは時(moment)と時(moment)の差か、そのままのひと続きであると考えている。その連続性は絶対視しない。日々の経験から、私たちは時間には流れがあると感じているが、絶対そうだとは限らない。なぜなら、時間がコンピュータープログラムのようなものならば、時間を越えられるかもしれないからだ。

セクション3
結論。このように「すべて」は無限にして永遠、時を越えている。それゆえ、一部にこだわりすぎるべきではなく、全宇宙で最高の価値となりうる、「幸せ」を広めていくべきである。一部とは民族、宗教、思想、国家といったものだが、それらのうち多くは宝物のようなものをたくさん含む大事に尊重されるべきものだろう。例としては「敵を愛せ」「互いに愛し合いなさい」といったイエスの言葉が挙げられる。(イエスはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒にとって「共通の聖なる存在」である。私たちは皆同じ生命体であるから、幸せの価値は普遍的である。私たちは普段の生活のなかで「ともに生きることを喜びとする社会」を築くべきである。全体(whole)という単語は神聖さ(Holiness)を含蓄する。私は全宇宙のありように神秘性を感じている。


補論1: 「すべて」とビックバン
現在の宇宙論では、ビックバン(の特異点、特異領域)が宇宙の始まりであるという。
この宇宙論は「「全て」に始まりも終わりもない」ことと、一見、矛盾している。
しかし次の考え方では矛盾しない。
それは、
ビックバンは「全て」whole universe の一部の始まりである。
という考え方である。
現在から過去に遡ればビックバンの特異領域は時間と空間の生まれるところ、なのだそうだが、それは「永遠に存在している全体」のうちの、ほんの一部の始まりに過ぎないと考えるのである。
なぜなら、特異点、特異領域という考えは、その周辺に「無」を想定しているはずであるが、
私の述べている「全て」は「無」も含めた存在であるからである。
無限にして永遠である「全て」は始まりもなく終わりもない。そのうちの一部分でビックバンが起き、一部の時間と空間が始まったと考えるのである。

Something Greatと宇宙のプログラム
Something Greatが宇宙をプログラムしたのかもしれない。だとするとそのプログラム(創造)は不完全かもしれない。しかし、こうポジティブに考えてはどうだろう?
プログラムは全宇宙レベルではほぼ完全で私たちが日常経験する悲劇はほんの一部の修正可能なエラーであると。
また、コンピュータープログラム上では私たちは時間を越えられる。時間を止めることもできる。過去に遡れる。未来に進むことができる。時の複製もできる。削除もできる。進めることもできる。遅くすることもできる。
では、Something Greatが宇宙をプログラムしたと考えたらどうだろうか?
その場合、宇宙において時間を越えられる可能性はある、と考えられるのである。
補足: ひょっとして、何もないところから空間が生まれるという感じは、空間のあるコンピューターゲームのプログラムを走らせた時のような感じかもしれない。

4.宇宙の有限論等との対話

<<1>>宇宙には終わりがある、という見解との対話

2017年発行の講談社ブルーバックス『宇宙に「終わり」はあるのか~最新宇宙論が描く、誕生から「10の100乗年」後まで~』によると、最新の科学的見解に立てば、宇宙には終わりがあるという。
<引用~>虚無のマザーユニバースからビックバンの混沌として誕生した我々の宇宙は宇宙歴10の100乗年後頃にビックウィンパーと呼ばれる永遠の静寂を迎える<~引用>(p.13)

この本の著者、吉田伸夫氏は、この「マザーユニバース」の広がりが有限か、無限かは明言していない。

しかしながら、

「マザーユニバース」の広がりが有限だとしても、”全”宇宙の無限の広がりと永続性を前提とするならば、「マザーユニバース」は一つとは限らない。したがって、一つのマザーユニバースが「ビックウィンパー」で「静寂」を迎えたとしても、別のマザーユニバースで、別のビックバンが起こりえる。別のビックバンが起こりうることを前提とすれば、”全”宇宙は全体としては「静寂」を迎えない。終わりを迎えることがあるのは無限の宇宙のほんの一部分であろう。繰り返すが、無限の”全”宇宙は全体としては「静寂」を迎えない。

逆に「マザーユニバース」の広がりを無限としているとすると、「我々の宇宙」がビックウィンパーと呼ばれる永遠の静寂を迎えるとしても、無限の全宇宙の中に別の宇宙が存在していたり、新たな宇宙が誕生しうるのである。

ただし、同書の著者によると、無数の宇宙が誕生する可能性は指摘できても、アイデアを出すだけでは不十分で、多くの物理学者を納得させるだけの理論はいまだ作られておらず、計算可能な具体的モデルを作らなければ、物理学では、まともな議論と見なされない、とのことである。

とはいえ、「マザーユニバース」が有限であれ無限であれ、以上のことから「論理上は」”全”宇宙は全体としては「静寂」を迎えない。終わりを迎えることがあるのは無限の宇宙のほんの一部分であろう。繰り返すが、無限の”全”宇宙は全体としては「静寂」を迎えないのである。

<<2>>宇宙は時間的に有限であるという考えとの対話

”全”宇宙は時間(*)的にも無限に存在する。ビックバンに始まる宇宙には空間と時間に始まりがありうるとすると、無限の時間と一見矛盾するが、その矛盾は、ビックバンに始まる有限宇宙を無限に広がる"全"宇宙の一部と認識することを前提として、多層時間モデルで解決しうる。

まず、(1)全宇宙が時間的にも無限に存在することを説明し、次に(2)多層時間モデルについて説明する

(1)結論を端的に述べると全宇宙は空間的広がりを無限に持つ無(絶対的無Ⅰ)を含み、それは、一切変化せずあり続けることから時間的にも無限に存在するのである。ゆえに全宇宙は時間的に無限に存在するのである。

前提となる全宇宙の説明は次の通りである。
端的に言えば、全宇宙は「無」と「有」を合わせたものである。「無」とは、「絶対的な無」と「相対的な無」に分けられ、いずれも、認識の対象となるため「存在」の一つである。

すなわち、全宇宙=すべて、とは、「絶対的無Ⅰ」+「絶対的無Ⅱ」+「有」(「相対的無=相対的有」を含む)

(「絶対的無Ⅰ」=言葉によってしか認識しえない無のうち、空間のあるもの)
(「絶対的無Ⅱ」=言葉によってしか認識しえない無のうち、空間もないとする無)
(「相対的無」=「相対的有」でもある=ある存在にとって5感などで認識できないもの。たとえば紫外線。人間はそのままでは5感で認識できないが、存在する。計測器などで、目に見えて認識できる)
(「有」→存在を認識できる対象のうち、便宜上「絶対的無Ⅰ・Ⅱ」を除いたもの。「相対的無」、「相対的有」を含む。)
(「絶対的無Ⅰ・Ⅱ」も言葉によって認識しうるのだから、存在の一つとする。)

である。

さて、「絶対的無Ⅰ」とそれが時間的に無限に存在することの説明は次の通りである。

「絶対的無Ⅰ」は「言葉以外では認識できない、空間的広がりを持つ無」である。空間的広がりを持つ理由は、空間から一切の「有」を取り除いたものであるからである。(「有」はモノだけでなく、電波、光、におい、エネルギーなども含む)ゆえに、一切の「有」を含まない。また、空間の膨張、縮小、ゆがみを仮定しても、そのためには、膨張、縮小、ゆがみを許容、内包する場(スペース)が必要であるが「絶対的な無Ⅰ」はそうした場(スペース)である。つまり変質する要素を一切含まないので一切変化しない。別の表現をすれば、「有」を取り除いたものであるがゆえに、逆に、「有」の位置する背景的場とも言える。一切変化しないとは、変わらずあり続ける、無くならないということであり、したがって時間的に無限である。

「絶対的無Ⅰ」が空間的に無限に広がっていることの説明は下記のとおりである。

ある領域を想定すると、同時にその領域以外も想定している。ある領域の内外を合わせると無限空間であるが、「絶対的な無Ⅰ」はある領域の内外に内外と同じ広さ(無限の広さ)で存在する(領域の内側、外側、それぞれから一切の「有」を取り除いたものであるがためである)。
ゆえにある領域を宇宙とすると、その領域の内外である全宇宙は無限に広がり、また、「絶対的な無Ⅰ」も無限に広がっているのである。

したがって、「絶対的無Ⅰ」は「有」の位置する場として、背景のように無限に広がり、無限の時間に存在するのである。

ちなみに、このことから「全宇宙(すべて)の時間的始まりと終わり」は言葉の誤りであり。ありえないことがわかるのである。

(2)多層時間モデル

ビックバンに始まる限定的宇宙では時間の始まりが想定されているという。(*)

この想定は、時間も多層的であるとするモデル上では全宇宙の時間的無限と矛盾しない。

すなわち、「絶対的無Ⅰ」の空間的、時間的無限を背景として、ある層の時間の始まりを想定できるのである。

例えば、わかりやすいように時間の進む速度が異なる(通常より早い/遅い)ストップウォッチを動かし、止めることで、ある時間の中に別の時間が存在しうることがわかる。したがって、無限時間の中に別の時間、あるいはさらに別の時間の始まり、終わりが存在しうる。時間は多層的でありうるのだ。

ちなみに、全宇宙は無限にして永遠であるから、ビックバンも一つとは限らない。宇宙は複数存在しうると考えるべきであろう。

(*)ここで論じている「時間」の定義についての私の理解と限界は次の通りである。

  時間=時と時の間
  時=時点、時刻
  時点・時刻=何かが「存在」している一つの瞬間
  間=差、変化、そのまま、のひと続き。
 
  それ以上のことは今現在(2023年5月現在)よくわかりません。

(*)ビックバン理論では時間に始まりがあるとしている:佐藤勝彦. “相対性理論における時間と宇宙の誕生”. 時空のデザイン. 2007. http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2006jiku_design/satou.html, (参照 2023-5-2).

<<3>>3次元トーラス構造による宇宙の有限論との対話

3次元トーラス構造とは、ある長方形の上下、左右のつながった2次元トーラス(輪環面)(ドーナツの表面のような構造)が前後にもつながったとされる構造である。2次元の場合と違って、辺ではなく面を考えて、離れたところにある面を同じものとして繋げたものとされる。これにより、どの方向へまっすぐ進んでいっても、結局は同じ世界をぐるぐるとまわっているだけになる、と言われる。
ドーナツの形の例えは、あくまで類推としてのものであり、どこにも曲率がなく、すなわち、空間が曲がることなくくっついた構造である。
(参考:松原隆彦『宇宙は無限か有限か』光文社新書 2019年)

そして、宇宙がこのような3次元トーラス構造であり、その広がりは有限であるという考えがある。

しかし、もしわれわれの住む一部の宇宙がこのような3次元トーラス構造だったとしても、”全”宇宙は無限であると考える。あるいは、”全”宇宙が3次元トーラス構造であり、したがって有限であるという考えは、誤りであると考える。

まず、3次元トーラス構造が物理的にありうる有限の構造体であると仮定しても、有限の3次元構造体である以上、それはXYZ軸からなる無限の空間の中に納まるはずであることからも全宇宙は無限である。すなわち、有限の3次元構造であるからには、無限であるXYZ軸に内包されるはずであり、逆に言えば、3次元トーラス構造の外側にXYZ軸が(その先はどこまでも)広がっているのである。

次に、3次元トーラス構造は、ドーナツのような曲がりを持たない、すなわち上下、左右、前後に曲がりを持たずにつながった構造だとされているが、それは、一定の広さを持った、ある地点から先に進めず、堂々巡りになるループ構造に等しい。すなわち、そこでは「真っ直ぐに突き進む」ことによっても、ループして一定地点より先に進めない(どこまでまっすぐに突き進んでも、堂々巡りなどになってしまう)とされる。このループは、我々の住む宇宙がプログラム上のものある場合、ありうる。しかしながら、仮に、我々の住む宇宙がそのようにループする3次元トーラス構造だとしても、やはり、全宇宙は、その一定の広がりの外側、ループする地点のその先(が「無」であったとしても、それ)を含むものであるから、無限である。

ちなみに、全宇宙は無限であるから、3次元トーラス構造の宇宙や、そうでない宇宙が複数同時に存在している可能性もある。


<<4>>「空間は物理的存在であり、「無」とは異なる」「無」は空間的広がりを持たない」という見解との対話

言葉の上で空間を持たない「無」(私はそれを「絶対的無Ⅱ」と名付けた)が存在することには同意する。だが、空間から、物質だけでなく、波、光、エネルギーといったあらゆる「有」を取り除いた「絶対的な無」(わたしはそれを「絶対的無Ⅰ」と名付けた)も、空間的広がりを持つものとして存在するはずである。(空間がゆがむといった性質を仮定しても、それを背景的に許容、内包する場が必要であり、「絶対的無Ⅰ」とは、そうした場(スペース)でもある。空間は多層的でもありうる。すなわち背景として物理的にも一切変化しない層と、変化する層が共存すると考えるのである。

言い換えると、空間的広がりを持つ「絶対的無Ⅰ」を背景のように(と多層的に)物理的な性質持つ空間が広がっていると仮定できるのである。空間が物理的な性質を持たず「有」を一切含まなければ「絶対的無Ⅰ」と等しい。

空間が多層構造でありうる例としては、仮想現実の世界が挙げられる。コンピュータの仮想空間が一つの現実として存在するが、背景的に我々の住む世界が存在しているのである。

もう一つの例(例示としてやや弱いかもしれません)は、実験で使うような容器を想定するものである。その容器の中の空間と実験室の空間の差が生じれば空間の多層構造の例となりうるかもしれない。すなわち容器の中の空間だけが物理的に変化して、実験室の空間と差が生じ多層的になりうる、と考えるのである。

要はつまり「無」には、空間を持つものと持たないものがある。「無」の一部に空間がないものを含むからと言って、それが「無」のすべてを表すと考えるのは認識の誤りである。「無」には空間的広がりを持つものも存在するのである。


<<5>>空間曲率による宇宙の有限論との対話

松原隆彦著『宇宙は無限か有限か』光文社新書 2019年

には、空間曲率による宇宙の有限論が述べられている。

以下引用

・・・実際の宇宙において、空間曲率がどこまでも正であると何らかの方法で証明できたなら、宇宙は有限に閉じている、と結論づけることができるのだ。この場合は宇宙が無限に続いているかどうかという問題には終止符が打たれる。そのような宇宙でまっすぐ進んでいくと元にいた場所に戻ってしまい、空間が無限に続いていることはない。

・・・引用終わり

しかし、空間が曲がっていると仮定しても、本当にまっすぐに突き進めば、その閉じた空間を突き抜けていき、その先は、どこまでも無限に広がっているのである。

このことは、「地球上をまっすぐに進む」ということから生じる認識の誤りから理解することができる。
普通、地球上ひたすらまっすぐに歩いていけば、元の場所に戻る。球面上を一周することになるからである。そこから、「本当に」まっすぐに進んでも、元の場所に戻るという誤解が生じる。

どのような誤解かは次の通りである。

この場合、本当にはまっすぐに進んでいないのである。地球上をまっすぐ歩く場合は「地球の曲面に従って」まっすぐに進んでいるのであって、本当にまっすぐに突き進んではいない。

本当にまっすぐに突き進めば、球体である地表の曲面には従わず進むことになり、
次第に地表を離れてやがて宇宙を突き進むことになる。

同様に、宇宙を「本当に」まっすぐに進んで行くと、空間の曲がりに従わないため、その閉じた空間を超えた、無限の先へと進むことになるのである。

空間の曲がりの存在を仮定して、その曲がりに従わず進めるかどうかと、曲がりに従わず進む先が存在するのかは別の問題である。

すなわち、曲がりに従わず進めるかどうかは、技術的な問題であり、
曲がりに従わず進む無限の先は、論理的に考えて、明らかに存在するのである。

以上のことから、我々の住む宇宙が有限の空間として閉じていても、その先には無限の広がりが存在するのである。

<<6>>宇宙空間は膨張、収縮する有限のものであるという考えとの対話

ビックバン理論などによる宇宙の有限論の一つとして、宇宙空間は膨張、収縮するものであるという意味での有限論が存在する。
すなわち、宇宙の膨張に限界があるかは、物質の「臨界量」によって決まり、臨界量以上であれば宇宙はビックバンと反対の現象が起き、最後に宇宙は一点に縮み、臨界量以下であれば宇宙膨張は永遠に続く、とされている(二間瀬敏史『図解雑学 宇宙論』ナツメ社 2002年 p.100)
しかしながら、空間が膨張するにせよ収縮するにせよ、全宇宙は、「無」も含んで背景的に存在するのであり、「無」も含むからその広がりは無限である。(「無」や全宇宙の無限については、「無限について」を参照してください)

ちなみに、我々の住む宇宙は全宇宙の一部であり、それがビッククランチと呼ばれる収縮による終焉を迎えたとしても、無限である全宇宙のどこかでは、別の宇宙が存在し、続いているはずである。

5.幸せとは何か?どうすれば幸せになるか?

(1)幸せとは何か
(2)どうすれば幸せになるか?
(3)エターナルハピネスとは何か?


(1)幸せとは何か
要は「心が満ち足りていること」「運が向くこと」の2つであると考える。

「幸せ」は国や文化によって様々である。同じ国でも辞書によって異なる場合がある。しかしながら、その定義の良い一例として広辞苑の定義が挙げられる。

広辞苑:
【幸福】心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ       
【しあわせ】③幸福。幸運。さいわい。また、運が向くこと・・。

要は、幸福の定義はこの定義で十分だと考え、幸せという言葉に変に期待しすぎたり、意味を足し引きしないことだろう。さもなくば、それがなんだか得体が知れず、よくわからなくなってしまうだろうからだ。

なぜなら、この定義は、これまで様々言われてきたであろう幸せの意味を、単純明快かつ、広く豊かにほとんどカバーしているだけでなく、満ち足りるという主観的定義だから、意味に不足がないだろうからだ。

また、人がそれぞれ違う心を持ち、何で満ち足りるのかも、共通する部分はあるが異なる、という面も十分カバーしている。

(英語の辞書でも幸せの定義は出版社によって異なるようだが、この広辞苑の定義はOxford English Dictionaryの「Happiness」の 2.a: The state of pleasurable contentment of mind; deep pleasure in or contentment with one's circumstances.にほぼ相当すると考える。)

なお、しあわせの定義について世界的比較は難しいと考える(*)。それは翻訳の問題でもある。なぜなら、相当すると考えられる単語の選択は権威によっても恣意的にならざるを得ないからである。また、「幸福」の定義には歴史的変遷が含まれる可能性があるのである。

例えば、世界的に見て、Happiness(に相当する語)は「幸運」と「好ましい外的環境」と定義されることが最も多いが、米語のそれは「好ましい内的感覚の状態」に焦点を当てた定義に取って代わった。
(30の言語を比較したところ、しあわせに相当するとされる語は、幸運という意味を含むものが24/30=80% アメリカ英語では含まない。)

とはいえ、さまざまな言語でまだうまく定義されていない「幸福」の実体がどこかにあるのかもしれない。あるいは、私たちは「幸福」という言葉に過剰な期待や幻想を抱いているのかもしれない。

しかしながら、以上のことから「幸せ」の要点は「心が満ち足りていること」「運が向くこと」の2つであると考えるのである。

幸せな社会とは

簡単に言えば、みんなハッピーな(満ち足りている)社会。「みんな」というところがポイント。一部、恒常的に苦しみ、悲しんでいる人がいたら、幸せな社会だとは考えない。幸せは人それぞれ違うかもしれないけれども、みんなそれぞれが幸せ(心が満ち足りている)な社会、それが幸せな社会である。

(2)どうすれば個人(それぞれ)は幸せになるか

それでは、どうすれば幸せになるのか?心が満ち足りるのか?

それは個人においては、①欲求を満たすこと、②足るを知ること、③欲求を(ある程度)調整すること、④幸せになる考え方をすること、⑤運を向かせること、などにより実現すると考える。

以下に説明する。

①欲求を満たす
限定的に考えると、どうしたら幸せになるのか、という問題の解決策は、これが欲しい、つながりたい、こうなりたいといった、すべての欲求を満たすにはどうしたらよいか?という問題を解決していくことである。ほとんど意識せずに解決できる問題もあるだろうが、解決のために相当努力する必要な問題もあるだろう。

心理学者マズローの説から考えると、人は共通して5段階に分かれる欲求を持つ。それらは「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」である。その人の状況によってどの欲求を持つのか異なるのである。

生理的欲求とは食べ物、水、酸素などに対する欲求で、社会的欲求とは、友人、恋人、集団における居場所の切望である。

承認欲求とは自尊心や他者からの尊敬、地位、達成感に対する欲求であり、自己実現の欲求とは、自分自身を見つけたい、より成長させたいという欲求である。
ちなみに、この自己実現の欲求は他のすべての欲求が十分に満たされた場合にのみ生じるとされる。
例えば、普通、お腹がすいた、トイレに行きたいといった生理的欲求は比較的容易に満たされるだろう(それすら困難な人々が日本にも、世界にも存在するが)。
仲間が欲しい、愛する人が欲しい、みんなに認められたいといった欲求解消のための問題解決方法は、自分で考えたり、知恵者に聞いたり、GOOGLE検索を試してみると良いだろう。
そうした欲求が満たされてはじめて生じるとされる「自分を見つけたい」という欲求であれば、次のように考える。
すなわち、自分とは何者で、本当は何をしたいのか知り、その目標と現在の差を認識し、どうすればなれるのかを自分なりに考える。
あるいは、自己啓発本を読んだり、友人や知恵者のアドバイスといった他人の助力を得るなどを経て、実現する。自己実現の欲求は比較的満たすのが難しいが、達成可能だろう。
自己実現の欲求についてもう一言。
人間は基本的に快を求め苦を遠ざける単なる生物(被造物)である一方、理想を掲げ、それに向かって努力するという生物でもあると考える。したがって今の自分をそのまま愛することと、理想の自分を実現する両方が、自己実現の欲求を満たすために必要だと考える。

②足るを知る
「足るを知る」ことによっても幸福感が得られるはずである

「状況により欲求は変わり続けるから、「常識的には」満たされ続けることは困難」さらには、「普通、人はより多く、より深い快感を求めるのだから、欲に限りがない」のも真実だが、意識のレベルで増加したり減少する、つまり、コントロールできる欲求もあるのだろう。

人は意識を何に向けるか、ある程度コントロールできる。自分が足りないこと、欲しいもの、ことに意識を向けると、欠乏「意識」が生じ、その結果、それに関わる脳内物質が分泌されるのだろう。つまり意識から実際の欠乏感が生じるのだろう。

とすれば、満足していることに意識を向ければ、それに関する脳内物質が分泌され、体感として、ある程度は満足が得られるのだろうと考えられる。(例外として注意や意識は勝手に向く場合がある。その場合、衝動的な欠乏感が生じる時もあるだろう)
つまり、「足るを知る」ことによっても幸福感が得られるはずである。

課題:とはいえ「一流を知ったら2流、3流では満足しなくなる」という問題に対する答えは、まだ知らない。どうすればよいのだろうか?

③欲求の調整 ④幸せになる考え方
ところで、人の欲求は考え方を変えることで、ある程度調整できるようだと推論する。

すなわち、考え方を変えると、状況認識が変わる。状況認識が変わると分泌される脳内物質も変わる。分泌される脳内物質が変わると、欲求が増減したり、幸福感が増減するはずであると推論する。

例えば、同じ出来事や事実に対して、「××たらどうしよう」とただ不安感が増えると、いやな思いをして、実際に不幸を感じる。
そうではなく「不安は注意信号」「〇〇たらいいな、ではどうしたら」と対策や理想を前向きに考えると、不安をあまり感じず、積極性からドーパミンなどが分泌され、幸せを感じる。しあわせを感じるかは、このような場合はまさに考え方次第である。

これは本田時生氏の『幸せになる考え方』による。

不安が生じたとき、

不幸になる考え方は「××たらどうしよう」で、
幸せになる考え方は「不安は注意信号。」「〇〇たらいいな、ではどうしたら」「なるようになる」「その時はその時」

なのである。

つまり、幸せになるためには、幸せになる考え方も大切なのだ。

ところで、欲求が多様であるから、幸福のあり方は多様であるはずだ。

例えば「生理的欲求」のうちの「食欲」の満たし方も人それぞれ多様である。

より高次の欲求に属するはずの「趣味」においても、人それぞれである。

また「自分がなりたい自分になる」という自己実現の欲求が満たされると、ひとは、最高次のレベルで満ち足りることになるのとのことであるが、どう生きたいか、何になりたいかは、人それぞれ異なるはずである。

⑤運を向かせる

幸運は、偶然の要素として認識されがちである。しかし、ある程度は自分の意志で改善できるのである。まず第一に、機械論的な世界観からすると、因果律が一般的に正しいからである。つまり、良い行いをすれば、良い結果が返ってくるのが普通だからである。言い換えれば、良い行いをすれば、幸運に恵まれるのである。

第二に、「自分は幸運だ」と信じることで、幸運が期待できるからである。
人間には選択的注意と呼ばれる認知能力がある。人間は、意識して注意を払わないものは認識しにくいが、注意を払ったものは認識しやすい。つまり、「自分は運がいい」と考えると、幸運が訪れやすくなる、言い換えれば、「運が良くなる」のである。

ここで、精神科医樺沢紫苑氏の2020年11月のセミナー「幸せになる方法」をこの論文に援用する。具体的な行動という観点からの幸せになる方法である。

端的に言えば、「心と体を整え、つながりを強くし、仕事を頑張る」ことが幸せになる方法である。

すなわち、心と体を整え、つながり・愛といった「そこにあるもの」を感じ、成功やお金といった何かワクワクするようなことを得ることが大事である。
そして、それぞれ、またはそれらのバランスの良い複合により、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンといった脳内物質がバランスよく分泌している状態=「幸せの状態」になれる、との説明であった。

より具体的方法のいくつかは次の通り。「万人に共通する策はない」という前提だが、

・良質な睡眠
・適度な運動
・朝の散歩
・良質な人間関係
・孤独を避ける
・親切の施しやありがとうといった感謝
・ちょっと難しい目標設定→達成→さらなる目標設定の繰り返し
・遊びのを含めたTo Doリストの作成と実行とご褒美

などがそれらである。
また、「何をしている時が一番幸せですか?」と(自ら)問い、それをする時間をたくさん持つこと、という方法も紹介していたが、これは大変有効な具体策だろう。

さらには、その日にあった楽しかったこと3つを簡潔に記し、その楽しかった気持ちのまま眠ることを紹介していた。そうすれば幸せが強く記憶され、その連続が幸せの記憶の期間(例えば50年続けば50年間幸せ)になるとのことだった。

これらのことを樺沢氏は科学的根拠を交えながら詳しく述べていた。


それでは、幸せな社会のためには何が目標となるのだろうか?

幸せな社会の実現を目標とすると、社会(人々の集団)においてそれぞれ異なる人の心が満ち足りることが目標となる。
したがって、生物として共通する必要や欲求を満たすことと、多様な心の必要や欲求を満たすことが各個人の、また、政策の目標となる。
具体的には、水、食料、教育、治安、娯楽、といった共通するものを、各人の多様な欲求を満たすようバラエティ豊かに提供することが目標となる。

そうしたことを現実的に考えるならば、生物学、社会学、経済学、心理学、宗教学といった様々な学問を活用することが有効だろう。

(3)エターナルハピネスとは何か?
それでは「エターナル・ハピネス」(永遠の幸せ)はどのようなものか?

それは「生死を超えて満ち足りた状態」である。

霊魂や精神世界やデジタルの世界などを想定すると、それにかなり近づくことは可能かもしれない。(永遠は現実だが、永遠に不変の状態であることはおそらく不可能だろう。
生・病・老・死の制限を超えれば、より「永遠に近い」幸せに近づくことができるかもしれない。)
一方、現世における、エターナルハピネスに近い状態とは「平和=ともに生きることを喜びとする、不老不死、ずっと幸せ、遊んで暮らせる」といった状態だろう。
わたしたちは、現世を完全に否定するのではなく、現世(生物のあり方)をより幸せにしていくべきだろう。
現世の否定は危険であるし、現世での生であれ、医学や社会の改善により、より豊かで「永遠に近い」幸せを実現できそうだからだ。

仏教では人生には四苦八苦が伴うと言われる。科学的にも、生物として生きることには、生、病、老、死という苦(不幸せ)が伴うと考えられるだろう。空腹であれば不快。病気になれば苦痛、老いて衰え、死には通常、消滅への恐怖や苦痛が伴うはずだ。

しかし、遺伝子操作や高度な医療などによって、恒久的な若さであるとか、病気の克服であるとかを実現し、生物としての人の生をより、苦の少ない、長期間の満ち足りたものに変えていくことができるだろう。
また、人の心はそれぞれ異なるけれども、多様な人生のあり方を保障する社会体制を確立することにより、それぞれの心が満ち足りるようなあり方が実現するだろう。

そのためには、高度な治安や自由、安全保障により「恐怖や欠乏」から解放し、安心した暮らしを守る社会であることがまず求められるだろう。

他の命の尊重も大切である。

現世においては、人間だけでなく、他の生き物も幸せであるべきだと考える。なぜならすべての存在は、幸せであるべき同じ命だと考えるからである。
とはいえ、現世においては、弱肉強食や、猛獣、病原菌や害虫などとの闘い、といった現実がある。理想の完全な達成のための方策は、私の頭では思いつかない。
とはいえ、住み分けや遺伝子操作、肉食についても代用肉や人工培養肉などによって、できるだけ、犠牲を少なくしていくことはできるだろう。

一方(私にとってはほぼ未知であるが)霊魂や精神世界があるとするならば、そうした四苦八苦から解放された人のあり方を、そこに期待することができる。コンピューターに意識を移植することができるならば、デジタルの世界でも、同様に解放されたあり方を期待できる。 

つまり、現世におけるエターナルハピネスに近い状態は、人とその社会の改善によって近づけていくものであり、まだよくわからない霊魂、精神世界、デジタル世界のそれについては、現世を否定することなく、「期待する」程度にとどめるのが「無難」だろう、と今は考えている。


参考

広辞苑第7版
メルマガ:しあわせのトキオ通信2020年10月9日号
『幸せになる考え方』本田時生 アルファポリス
『超カンタン英語で仏教がよくわかる』小來尚順 扶桑社新書
『心理学辞典』丸善
『脳を最適化すれば能力は2倍になる』樺沢紫苑 文響社
(*)Shigehiro Oishi, Jesse Graham, Selin Kesebir and Iolanda Costa Galinha "Concepts of Happiness Across Time and Culture" SAGE Journals 2018.

6.平和の基礎理論

「真の平和」とは「ともに生きることを喜びとする社会」である

ポイント

1.社会は人と人のつながりから成る
2.平和の概念は多様だったが、要は人と人のつながりのあり方
3.それが快→喜びであれば良い
4.さらにはそれがずっと続くのが理想
5.そのために「敵を愛せ」という言葉を守るのが大事

”いちばん大事なのはみんなが仲良く楽しくあそべることでしょ。 それから、世の中に戦争がないこと。”
リビツァ (旧ユーゴスラビアの女の子)

”汝の敵を愛せよ”イエス

”私はあなたがたにあたらしい掟を与える。互いに愛し合いなさい”イエス


まえがき

作者自身の誤りや不完全を認識しつつ、平和の実現を目標として述べます。 もし、ある生命、集団が他の生命、集団に対して優越であると主張するならば、その心と行動と、何より結果についてはどうでしょうか? 本当に優越しているのならば、愛においてはどうでしょうか?敵をも含めて共に生きることを恒に喜びとする状態を目標として、それを現実の中でより高く実行する心と行動と何より結果においてはどうでしょうか?  そして、暴力に対する暴力の報復は、「ともに生きることを喜びとする社会」という目標に反して、結果として、苦しみやかなしみを増加するのではないでしょうか?  社会には様々な関係があり、時には相反することもあると思います。しかしながら生命には時間と空間と位置という制約のなかで、様々な形でともに生きることを喜びとする関係を築ける可能性を恒に持っていると思っています。

「真の平和」をより詳しく定義すると「すべての生命が恒に共に生きることを喜びとする状態」である。その観点においては、いずれの戦争、紛争も、多くの人を苦しみや悲しみに追い込む、決して正当化されるべきものではない。だが、これまで人は争いによってどれだけ多くの血を無益に流したのだろうか。
平和の完全な達成は不可能であるから、理想の実現は現実という制約を受ける。そして世界の各地では今もなお、戦争、紛争、そしてそれらが残した爪痕に苦しむ人々が多く存在する。
人類の果たすべき課題は多い。子供たちに明るい未来を。


平和の基礎理論

(「真の平和」とは「ともに生きることを喜びとする社会」である)


1.はじめに
2.平和とは何か
3.平和概念の分類
4.その限界
5.人間の実存
6.ともに生きることを喜びとする社会
7.上記の理想は実現不可能か
8.敵を愛せ
9.具体的にはどのようなものか
10.課題

1.はじめに

現在も世界の各地で紛争が起こっている。現代日本に生きる我々は、戦争や争いの悲惨さを実際に知ることはほとんどない。時々飛び込んでくるどこかの国のニュースか、もしくは歴史書に刻み込まれたわずかな文字によって、その片鱗に触れるのである。そこには戦火を逃れて、自分の家が焼かれるのをただぼうぜんと眺めていた者たち、また、何よりも大切だった人の亡きがらに涙を流した者たち、そして原爆の地獄の炎にすべてを奪い尽くされた者たちの姿があったことを想像することができる。 こうした悲劇の中にいた者たちが、 平和という言葉によりよい社会を求めてきたのだろう。 それでは平和とは何だろうか。この論文ではこの問いに対する答えを導きだし、それを平和の基礎理論として提示したい。

2.平和とは何か

まず第一にいくつかの言語から「平和」に相当する概念を提示し、比較する。
シャーンティ(santih):サンスクリット語。主として霊的に満ち足りた心の平和、内面的な安らぎ、苦痛や快楽にわずらわされない心の平静さ。
パックス(pax):ラテン語。平和にくわえて協定という意味を持つ。
 ミール(mir):ロシア語、セルボ・クロアチア語:平和に加えて「世界」を表す。
フリーデ(friede):ドイツ語。平和を表すことに加えて、「自由な」を表すフライ(frei)や 「友人」を表すフロイント(froint)に関連しているといわれ、さらにそのインド・ゲルマン語の語根”pri”は「愛する」や「いたわる」という意味を持っているとされる。
エイレーネ(eirene):ギリシャ語。戦争のない状態。戦争と戦争のつかの間の状態。
シャローム(shalom):基本的に全体性、完全性を表す。さらに成就、完成、成熟性、成熟性、健全性、一体性、共同体、調和、平静、安全、幸福、福祉、友情、一致、成功、繁栄などの多様なニュアンスを含む。
サラーム(salam):アラブ系の言語。平和に加えて、健康、挨拶を表す。「コーラン」においては現世と来世の平和を表すのにもちいられている。
平和:日本語。「平」は平等、公平、バランスのとれたこと、調和を表す。「和」は ”やわらぎ”を表す。また、諸説によると、人々が穀物を口にして飢えていない状態、稲の穂がなびくような柔らかな言葉遣いを表す。


3. 平和概念の分類

 これらの平和の概念は「内的平和」「外的平和」消極的平和、積極的平和に分けられる。 「内的平和」とは、人間の内面的平和、すなわち心の平和を表す。シャーンティがこれに相当する。一方「外的平和」とは社会関係における平和である。 また消極的平和は「戦争のない状態」であり、エイレーネがこれに相当する。積極的平和は「戦争がないばかりでなく、社会が豊じょう、繁栄、調和、安全、公正、民主、秩序、福祉、人権尊重、豊かな芸術などに満ちた状態」として定義される(*この論文での「積極的平和」はヨハン・ガルトゥング氏の定義と異なる。ガルトゥング氏の定義は「暴力の不在または低減である」「人類社会の統合(integration of human society)」である)。 この積極的平和は、「戦争のない状態」であっても、 圧政、貧富の差の拡大、植民地的関係などのある状態は、「平和ではない状態」と見なして考えられたものである。

4.その限界

だが、従来のいかなる平和概念の中にも、人間の争いや苦しみを想定し得る。例えば心の平和であるシャーンティを達成していても、傍らに飢え、凍える者が存在しうる。戦争のない状態、すなわち消極的平和のなかにも流血の対立があるだろう。"ものや芸術が豊か"であってもそうであるし、"人権が尊重"されていても、人々が、違いに異なる人権を主張し、争うことがある。また、現在法的効力のある人権が尊重されていれば、 人間の幸福が満たされるとは限らないからである(例えば、日照権などは最近出来たものである)。 こうした限界を補足した平和概念を、人間の実存に立ちかえって論じる。

5.人間の実存

人間の生活が位置づけられた外界は常に移り変わる。人間の体も誕生から死に至るまで変化を続ける。生理的状態も一定ではない。したがって恒久的な心のやすらぎはあり得ない。もちろん、ある程度の恒常性は認める。だが、たとえ悟りの境地にたどり着いたとしても、生理的欲求を完全に解消することはできないだろう。人里はなれた場所で、ミイラになるまで欲望を断ち続ける即身成仏の修行のすえにそれが果たされるとしても、現代を"生きる"われわれには無意味かつ不可能な要請である。 人間の生存において実現可能な心のやすらぎとは、絶えず移り変わる外界、自己のなかでつかみ、失い、またつかむといった断続的なものである。 つまり「内的平和」とは、断続的にのみ得られるのである。 このようなことは、「外的平和」においても同様である。人間はその関係において、 お互いにほぼ完全に不快にならない行動をするときもあるが、反対にお互いに反目するときもある。 つまり人間の一生、人間の関係においては、常に喜びに満ちあふれている状態、常に苦痛に満ちあふれている状態、の二つの極を想定することが可能であり、実存としてはその二つの極には決して至らず、その間を揺れ動くに止まるのである。

6.ともに生きることを喜びとする社会

このようなことを踏まえて新しい平和概念を述べる。それは「ともに生きることを喜びとする社会」である。より詳しく定義すると「『人間が、お互いに、常に、喜びをもって生き、その関係においても、喜びに満ちあふれている状態』を、理想として、ある程度を過ぎると現状に満足し、余力があればより良い状態を漸進的に志向して行く状態」である。 常に喜びにあふれる状態を理想として、その目標が「達成」ではなく、「漸進的に志向する状態」となる理由は、現実的には「快」の極には決して至らないからである。これをわたしは先に述べた従来の平和概念の限界を補足した平和=「ともに生きることを喜びとするする社会」であると考える。

補足:

「ある程度を過ぎると現状に満足し」とする理由は、現状を肯定せずに完全を求めすぎることは、逆に喜びに反するからである。「完全を求めることは、人間の心を悩ませる最悪の病である」という言葉がある。また「足るを知る者は富む」という言葉もある。完全を求めることは尊いことだが、現状を肯定せずにそれを求めすぎると、かえって不快や不満、不幸になる。完ぺき主義は鬱の原因ともなりうる。ゆえに、現状を満足とし、その後に改めてより良い社会を志向することも必要である。

しかしながら、例えば飢餓や争いの絶えないような極端な状態であれば現状に満足できない。改善の余地があるのは明らかである。

そこで、まずは現状を「受け止める」べきであろう。

つまり、大まかにいって生物的、社会的に必要とされるある程度が満たされるまでは、現状を受け止めつつも直ちに満足とはせず、ある程度を過ぎると現状を満足として、その後、改めて改善を図るべきである。

また、一部の問題や理想を知らないことも大事かもしれない。それらを知り、それが解決、改善、対応、達成できなければ不快や不満が生じる場合がある。それらに対し、直接の関係が無い場合であっても、知ることがその人の不幸につながる可能性があるからである。

7.上記の理想は実現不可能か

上記の理想は、人間は利己的であるから実現不可能だという批判があるだろう。 確かに完全な実現は不可能である。そもそも、先に述べたとおり、理想の目標は、あくまで「漸進的に志向すること」である。また、人間が利己的であるからという批判については、以下の様に考える。確かに、人間は利己的であることから、利害の対立を生じ、先に述べた理想に大いに反することがある。たとえば人は時として争いを望む。たとえそれが他人を犠牲にすることがあっても、そうである。こうした事例は多いが、一つに挙げるとすればラテン・アメリカにおけるインディアスの虐殺であろう。   また、飢餓が克服され、人によって作られた物質にあふれた状態でもそうである。すなわち、必ずしもすべての人がそれを望まないのである。

 しかし、人間は、また、利害の調節を行うことによって、完全にではないが、お互いに利己的でありながら、先に述べた理想に合致できることもあるのである。 例えば、分業するとき、自分を利する行動が、完全にではないが同時に他を利することになる。利己と利他は必ずしも相反するものではない。そして、人間には調整能力があり、利己行動と利他行動を一致に近づけていくことができる。これらが「ともに生きることを喜びとする社会」のために重要なのである。 言い換えると、人間の利己行動が、すべて否定されなければならないのではなく、利己行動と利他行動のバランスが大切だと思うのである。 そもそも人間が利己行動を行わなければ、先に述べた欲求の理論に基づいて考えると、自分に喜びはなく、そうであれば、ともに喜びであることは不可能である。また反対に、人間が全く利他行動を行わなければ(ある人間の行動の結果が、全く他を利するものでなければ)ともに喜びであることは不可能である。 だから、利己行動と利他行動を一致に向けて調整していくことが重要であると考えるのである。

8.敵を愛せ

 このとき重要なのは敵をも愛する行動であると考える。憎み、傷つけてしまうかもしれない相手が「敵」であるのだが、反対に愛することによって(愛=ここではアガペー:見返りを期待しない無償の愛。好きであること、や性愛(エロス)とは異なる。尊敬であったり、慈悲や恵みを与えることも意味すると考える。)、時には殺したいほどに高まった対立関係を改善するのであろうと考えるのである。この敵を愛することによって、相手を理解する機会をそこなわず、相手との関係改善の可能性を積極的に保つのである。

9 .具体的にはどのようなものか

ところで、この平和:「ともに生きることを喜びとする状態」は、人間関係が多様であるため、それだけ多様でありまた、どの状態においても、現実には、不完全な状態を含むため、具体例を挙げるとすれば、比較的に、より、ともに生きることを喜びとする状態に近い状態ということになる。 例えば、現在、パレスチナにおいて、ユダヤ人と、パレスチナ人の対立は、いまだに多く残り、テロで多数の死傷者が出たり、パレスチナ人の雇用が事実上制限され、彼らの生活が打撃を受けている状態がある。こうした状態に対して、ユダヤ人とパレスチナ人が、お互いの生活を尊重し(旧ユーゴスラビアにおいて、異なる民族、宗教同士でも、隣人として共存していたように)お互いに恵み(食料であったり、微笑みであったり多様なものであろう)を与えあうような関係が、前者と比較して、ともに生きることを喜びとする状態であると考えるのである。

10.課題

こうして提示した新しい平和概念から現実社会を照らすと、多くの解決すべき課題が残されていることは明らかである。人類はこれまで様々な夢を実現してきた。 残された課題も、実現することができるだろうと思う。

主な参考文献、資料
*飯坂良明:「平和の課題と宗教」中央学術研究所編
*『国際政治学辞典』(東京書籍)
*『平和学-その理論と課題-』(早大出版)
*ラス・カサス:『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)
*M・L・キング:『汝の敵を愛せよ』(新教出版)
*Baljit Singh Grewal: Johan Gultung: Positive and Negative Peace (2003.08.30)
*「完全を求めることは、人間の心を悩ませる最悪の病である」:エマーソン
*「足るを知る者は富む」:老子
(注)冒頭の言葉、2.平和とは何か、3.平和概念の分類の、大部分、は引用。特に、2.平和とは何か、3.平和概念の分類、は飯坂良明:「平和の課題と宗教」中央学術研究所編、『国際政治学辞典』(東京書籍)、『平和学-その理論と課題-』(早大出版)より引用。

7.正義の復讐者への手紙

まず、正義を実現するために、悪と定めた存在を害する、「正義の復讐者」がいるとするならば、 もはやあなた方は正義ではない、と言いたいです。

「殺すな」「汝の敵を愛せよ」という言葉に反することはあきらかです。キリスト教的には真の正義に反するのです。

「同害復讐」や「一罰百戒」は社会秩序の維持に有効であることには同意します。

また、悪を憎み正義を求めることが、社会に秩序をもたらしてきたと思います。

しかし、悪を懲らしめるということは、悪と定めた人々を苦しめ、悲しませ、時には殺すことに他なりません。

生まれること自体に悪はありません。ひとがどうなるのかは、乱数のように創造者の全くの気まぐれです。

責任があるとすれば、創造自体です。創造者が悪にしたひとびとも善に変わるように世界を変革すべきでしょう。

刑や罰は秩序を維持するための一時的なやむを得ない措置であって、それ自体は真の正義ではありません。

人は自分が正義だと思うときに悪と定めた人々を喜び楽しんで、苦しめ、殺すのだと思います。ヒーローものの観すぎかもしれません。

では、どうするのか。

復讐を行ってきた人々がいるとするならば、その強大な力を、復讐ではなく、一人一人を守り、育てることに用いるのはいかがでしょうか?

悪をも善に変えていくのです。

真の正義があるとするのならば、それは悪と定められた人々も含めた「全ての人の永遠の幸せ」だと思います。

どのような人に対しても、いかなる理由があれ、不幸にすることは真の正義に反するのです。

そこでは、自分も他人も害さないことが要求されます。

そのためには敵をも愛するという、偉大な愛が必要でしょう。

もし、ある個人や組織が、他より優れていると主張するのならば、そうした「愛」において優れるべきだと思います。

「正義の復讐者」がいるとするならば、

「愛の教育者」に自己革新してそれを実行してください。

わたしにはできないかもしれませんが、あなたがたは(存在するのならば)できると思います。

究極の平和:「永遠の幸せ」のために。

8.地獄から人々を救う2人の天使:「ベーシックインカム」と「ヘリコプターマネー」

アフガニスタンの難民キャンプを訪れた日本の若者が目にしたもの(*1)。

<引用:道の両脇に数えきれないくらいの大勢の物乞いがすわり込んでいたんだ。戦場から逃げてきたのだろう、腕のない人、足のない人、全身にヤケドを負っている人など様々だった。そんな彼らが地獄の亡者のように手を伸ばしてこう訴えてくる。
「1ルピーください」
1ルピーは、日本円にして2円くらいだ。2円でもいいからお金をくださいと言っていたんだ。
物乞いの中には子供の姿もあった。はっきりと覚えているのは小学生くらいの女の子だ。彼女は眼球を二つとも失っていた。目のない顔でヨロヨロと近づいてきて「1ルピー、1ルピー」と悲痛な声を出している。>

1ルピーくらい恵むことは可能だった。でもその光景に圧倒されてできなかった。

ルワンダでは、彼はストリートチルドレンに話を聞いた。

<引用:「残飯はいろんなご飯が混ざっているからおいしいよ。たくさんもらった時は別の子供たちとの物々交換に使うこともあるんだ」>

彼は残飯の残りとマッチを交換したことがあったそうだ。マッチは寒い夜にたき火をするための必需品だという。

同じ引用元のジャーナリスト、石井光太氏の話によると、こうしたストリートチルドレンは洗濯や水浴びをできない。シャツもズボンも穴だらけ。橋の下や建物の陰、寒い時にはマンホールや貨物列車で過ごすという。

そんなストリートチルドレンの数は世界で1億人(*2)。1億人いるのだ。

2021年5月現在の「国境なき医師団」のホームページの記事(*3)によると、、世界で年間約350万~500万人の5歳未満の子どもたちが栄養失調やそれに伴う免疫力の低下、感染症などで命を落とすという。1日にすると約1万4千人。2018年現在のUNICEFの記事によると、世界では8億人が飢餓で苦しんでいるという(*4)。昨日も死んだ。今日も、そして明日も。

目を転じて日本。

コロナ禍は、特に、ホテルや飲食、サービス業で働く女性へ大きなダメージをもたらしたという(*5)。

関連すると思われるほんの数例:かろうじて寝泊まりのできるネットカフェのパソコンで、腎臓を売るルートを検索する若い女性、毛羽立ち茶色く汚れたマスクを着けて「生活保護は受けたくない」と歌舞伎町に消えて行く若い女性。

それら自体が地獄と決めつけるのではなく、身がひどく犠牲になるようであれば、地獄のようなのだ。

そうした地獄に空から舞い降りてくる天使がいる。

その名は、「ベーシックインカム」と「ヘリコプターマネー」だ。(*6)

ベーシックインカムは国民一人一人に継続して一定額の給付を行っていくというもの。

「ヘリコプターマネー」はその財源の一端を担うリアル打ち出の小槌だ。
「ヘリコプターマネー」政策とは、ヘリコプターで上空からお金をばら撒くように、お金を国民に直接給付するという政策。その財源は、貨幣発行益である。貨幣発行益とは、例えば10万円の金貨を発行する時の、原価4万円との差額だ。1万円札で言えば、発行原価20円との差額、9980円がそれにあたる。この「ヘリコプターマネー」をベーシックインカムの財源の一端に充てるのだ(*7)。

ところで、ヘリコプターマネーは下手に使えばインフレ、うまく利用すれば、リアル打ち出の小槌だ。
国の借金は直ちにインフレに結び付かない。インフレにならないようなレベルで、うまく、財源を確保できるのだ。
例えば、世界の政府債務残高は約90兆ドル(約9000兆円)だが(*8)、世界はインフレになっていない。
日米欧はそれぞれコロナを理由に100兆円ほどばらまいたが、インフレにならなかったのもその一例。

こうした国の借金は永久債か帳消しにすれば良いという意見に賛成だ。国の借金とは結局は国民一人一人の借金であり、適度な返済も必要な時もあるようだが、借金を帳消しにしても問題が生じなければ、国民の借金を帳消しにすることにもなるのだ。(2021.12.2追記:帳消しではたいてい問題が生じるであろうため、ヘリコプターマネーを用いて、適度に返済していくことではどうだろうか?)

先に述べた「地獄」はこの「ベーシックインカム」と「ヘリコプターマネー」という二人の天使によってだいぶ変わる。地獄を脱する人も多く出る。

想像してみよう。もし、先に述べた地獄のような状況でお金が給付されるとすれば。

1ルピーと言わず、もう少しでも給付金があれば、アフガニスタンの難民たちは食料、衣類などを得られる。給付金が増えれば、医療も受けられるかもしれない。先ほどの難民たちが、家族とともに安心して笑顔で食卓を囲んで、病気やけがであれば医師の手当てを受け、傷や痛みを癒す。明日の食料を心配せず、笑顔と希望で新しい生活を探していくことを想像できる。

ストリートチルドレンは、もはや食べ物に困らず、清潔な服装で、まともな環境を求められる。ヘリコプターマネーの利用方法によっては、スラム街をきちんとした住環境に再整備したり、子どもたちが学校に通えるようにすることができるだろう。道端で虐げられていた子どもたちが、笑顔で、お腹いっぱい食べ、たくさん遊び、ぐっすり眠れるようになるのである。

日本ではどうだろうか?

例えば月7万円が無条件で支給されるのである。先ほどの女性でも、腎臓を売らなくとも、生活保護を受けなくとも、何の負い目もなく(*9)、生存を続け、よりよい生活へのチャンスを期待できるのである。

歌舞伎町で働こうとしていた女性についてはどうだろうか?例えば月7万円の支給で、それ以外に思いつかないから仕方なく夜の仕事に就くのではなく、別の機会を探すという余裕や選択肢も提供できるのである。

要は、無条件で定期的な収入が得られ、収入が増加するのである。月7万円だけでは生活は困難でも、それは生活保護を改善したセーフティネットとして機能するだけでなく、収入を増やし、貧困を改善するのである。

また、多くの人がより余裕をもって仕事を選べるようになるのだから、劣悪な労働条件の改善が期待できるのである。たとえば、3K労働においては賃金上昇や労働強度・労働時間の緩和が期待できるのである。

そして世界は、全体的には、飢餓、貧困、労働が緩和され、地上により幸せが降り注ぐのである。

この時、第3の天使「逆子ども手当」が必要な地域もあるかもしれない。

「逆子ども手当」とは、子どもを産む数の少なさに応じてその女性に定期的に支給する給付金である。人口多寡を抑制すると同時に女性の保護を推進する効果を併せ持つ。すなわちそれは、ベーシックインカムの世界的導入になどよって一部地域で起こるかもしれない人口の過剰な増加や、人口多寡を抑制する力を持つ天使でなのある。

もう一つ大事なのは、ベーシックインカムは一部の国だけでなく、国際協調のもと、世界規模で実施すべきだということである。なぜなら、例えば、一部の国だけがベーシックインカムを導入、自国の通貨を大量に発行し、そのお金で諸外国、例えばアメリカの財を買い漁ろうとした場合、それらの国の通貨は国際的に暴落するはずだからだ。

(<2021.5.31追記:とはいえ、ある国の通貨価値の決定要因のいくつかは通貨発行量の程度と外国との相対性であるとも考えられる。

それゆえに、過度の通貨発行を控え、かつ、EUやアメリカといった主要国も同時にベーシックインカムを導入するならば、日本やイギリスといった国はベーシックインカムを安全に導入することができるのかもしれない。(2021.5.31追記)>)

今日と明日を変えていこう

わたしたちができることはベーシックインカムを推進する政党に投票することである。そして国連やサミットを通じて、ベーシックインカムが世界規模で実施されるように活動するよう、日米政府に働きかけていくことである。

まとめ:
世界の多くの国でヘリコプターマネーやそれを利用したベーシックインカムが導入されれば、貧困、飢餓、労働が世界規模で緩和され、地獄を脱する人が多く生じると期待できるのである。まずは、そのための投票をしよう。


参考文献など

(*1)アフガニスタンの難民キャンプの話、ストリートチルドレンの話
『本当の貧困の話をしよう』石井光太 文藝春秋 2019年
(*2)ストリートチルドレンの数=3000万~1億とも。
https://www.unicef.or.jp/children/children_now/philippines/sek_ph02.html
(*3)国境なき医師団のウェブサイトより
(*4)8億人が飢えで苦しんでいる
ユニセフのウェブサイト
https://www.unicef.or.jp/news/2018/0151.html
(*5)日本で苦しむ女性の例
 週刊女性PRIME 2020/12/13
「女性の貧困・自殺者が急増!政治に求めるリアルな声と「日本死ね」の叫び」
(*6)ベーシックインカムとヘリコプターマネーについて
『AI時代の新・ベーシックインカム論』井上智洋 光文社新書 2018年
『毎年120万円配れば日本が幸せになる』井上智洋 小野盛司 扶桑社 2021年
(*7)ベーシックインカムの財源のもう一端は、税収である。*6の文献の著者、井上智洋氏は税収とヘリコプターマネーによる2階建てのベーシックインカムを構想している。
(*8)世界の政府債務が90兆ドルくらい
 日経電子版2020年10月14日「世界の政府債務 GDPに匹敵 IMF20年予測」

(*9)今の生活保護のいくつかの問題点
例えば、まずは家族や親せきに頼ることを勧められたり、場合によっては財産を一部没収されたり、あるいは、収入を得ればその分給付が減ることなど。
『ルポ・生活保護』本田良一 中公新書 2010年
『AI時代の新・ベーシックインカム論』井上智洋 光文社新書 2018年


9.みんなの幸せと自由至上主義(リバタリアニズム)の両立

~自由を愛する人よ、愛に力を与え、委ねてはどうでしょう!~

結論:「最小国家」の解釈を拡大することと、博愛主義に力を十分持たせることによって、みんなの幸せと自由至上主義は両立することができる。

前提となる理解:
自由至上主義(リバタリアニズム)とは、「自由市場・最小国家・社会的寛容(個人の自由や財産への相互不可侵)を基調とする、「自由」を最も大切なものとする主義」であると理解している。その前提に基づき、その「最小国家」と「社会的寛容」に着目しこの記事を進める。

その問題点:「互いに干渉しない」ことは、聞こえは良いが、傍らで、飢え、渇くものを放置することでもある。それでは皆が幸せでない。弱っている人を助け、時には強くすることが、皆の幸せのために必要なのである。だが、それでは自由が妨げられるという。「必ずしも助けないというわけではない。助けるのも自由、助けないのも自由、あるいは助けるのは政府でなく民間の慈善団体にほぼ任せる」「自分の財産から税金を払って他人を助けるのは違和感がある」ということらしい。

政府が皆を助けるということは、一見「最小国家」と矛盾するが、「皆の自由と幸せを守るための必要最小限」と考えてみてはどうだろうか?

自由至上主義者(リバタリアン)は無政府主義者を除いて政府や税金を完全に否定しているわけではない。
必要最小限の権力を与え、税金を払うというのだ。

だから、その必要最小限を「皆の自由と幸せ」と考えることにより、みんなの幸せと自由至上主義は両立できるのである。

慈善活動は民間の慈善団体に一任すればよい、とする問題点は、比較的だが民間ならではの不安定さと力の弱さである。もちろん、指摘されるように、公による慈善も問題点はある。一長一短である。すなわち、比較的だが、民間による慈善の長所は「融通が利きやすい、深く関われる」ことであり、短所は先に述べた通り「不安定で力が弱い」ことである。政府による慈善の長所は「安定し、力が強い」ことであり、短所は「融通が利きづらく、浅く関わる」ことである。

したがって、博愛主義者と慈善団体が、公でも民間でも両方とも十分に力を持つべきである。そうした人たちが特に貧しきもの、病めるものといった弱者をも保護することにより、自由至上主義者が他者に干渉せず、個人の自由を追求しても、すべての人の人権、暮らしが保護され、幸せの基礎が得られるのである。 言い換えると、まず政府が飢えや貧困といった地獄的束縛からの自由の基礎をすべての人に与え、民間がそれを補完し、自由至上主義者は自由に生きるのである。

要は「最小国家」の解釈である。すべての人々を守り、自由を侵害しない「大きな力を持った「最小限」」だと解釈していただきたい。

「自分は自由に生きる、慈善は博愛主義者に任せる。自分たちが自由に生きるために、そうした人たちに多少のお金と力を与えよう」といった境地が望まれるのである。

具体的には、博愛主義の、政治家、ベーシックインカムといった政策、企業、慈善団体などに資金援助や投票を行うといった支持活動を展開するか、税金を払いつつ寄付などしてあとは自由に生きられるのである。

自由を愛する人よ、愛に力を与え、委ねてはどうでしょう!


参考:
渡辺靖 『リバタリアニズム』中公新書, 2019.
コトバンク:「リバタリアニズム」:https://kotobank.jp/word/リバタリアニズム-18598989/

あとがき

いかがだったでしょうか?

「宇宙は無限にして永遠、時を超えている」という真理と「幸せとは何か?」「どうすれば幸せになるか?」という問いに対する答えが見つかったと希望します。

その他の記事もいかがだったでしょうか?
この本に掲載した以外の記事はホームページに掲載しております。
是非訪問してみて下さい。

「平和のホームページ JC Station」
: https://www.jcstation.info/ 

ご意見、ご感想は:omaetakeo@gmail.com まで

大前岳夫

1972年生まれ。千葉県八千代市在住。1996年法政大学社会学部卒業。卒業後、旧ユーゴスラビアへの留学を志すも断念。以後、派遣や契約社員など様々な職を経験。現在に至る。ペンネーム:平 和志

宇宙の真理と幸せについて

2023年6月30日 発行 増補改訂第3版

著  者:大前岳夫
発  行:岳大出版

bb_B_00176259
bcck: http://bccks.jp/bcck/00176259/info
user: http://bccks.jp/user/149099
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

大前岳夫

1972年生まれ。千葉県佐倉市出身。現在八千代市在住。1996年法政大学社会学部卒業。卒業後、旧ユーゴスラビアへの留学を志すも断念。以後、派遣や契約社員など様々な職を経験。現在に至る。ペンネーム:平 和志

jacket