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釈迦生誕地・探査行 
~仏教の過去・現在・未来~

清水正弘

深呼吸クラブ出版

目次


巻頭言:意外に知らない『釈迦の生涯、そして仏教』

(1)ルンビニの中心・マヤデヴィ堂
(2)日本人とルンビニの関係史
(3)近代における仏教刷新・復興の動き
(4)日本における近代仏教の展開
(5)世界各国・各地における今日の仏教

    南アジア・東南アジアの諸国
    東アジアの諸国(大乗仏教)
    内陸アジアの大乗仏教諸国・地域
    伝統的には仏教国ではない国々

(6)ルンビニ世界遺産の背景
(7)ルンビニにおけるツーリズムの現状
(8)ルンビニ広域調査報告

    〇 ティラウラコット周辺

       カピラ城址
        ※玄奘・義浄が見たルンビニ
       発掘と日本支援
       博物館
       旧シャンティビハーラ
       ツインストゥーパ(釈迦両親の墓)
       カンタカ(釈迦の愛馬)墳墓
       クダン遺跡
       二グリハワ遺跡
       アラウラコット遺跡
       ゴティハワ遺跡
       サグリハワ

    〇 ラマグラマ周辺

       墳墓ストゥーパ
       旧コーリア国中心地
       カンヤマイ寺院跡
       アジア最大級の巨樹神木





(注)ルンビニ開発トラストが管理する、ルンビニ公園内にある寺院群(2023年1月現在にて、大乗仏教圏寺院20+1、そして上座部仏教圏寺院9)ならびに、建築予定国、宗派などについての調査報告は、『釈迦生誕地探査行Ⅱ』を参照してもらいたい。

巻末には、ルンビニ開発トラスト(ルンビニ公園管理機構)が2012年に作成した、ルンビニ公園内の寺院群リストを添付している。

意外に知らない『釈迦の生涯、そして仏教』

日本人の多くは『貴方の宗教はなんですか?』と問われると『仏教・・・、かな~?』なんていう返事が多いのだろう。海外の国に入国する際に記入するイミグレカードの(宗教欄)には、『ん~、Noneと書くのもなぁ~、まあ、面倒だから Buddhistにしとくか・・』てな具合かもしれない。かく言う私も、ほぼ同じような対応をとってきた。そのBuddhistというのを紐解く機会は今の日本の都会生活では殆どない。私も都市部に住んでいた際には、まったく蚊帳の外状態であった。

が、中山間地域に居住するようになり、地域の催事や習俗などにBuddhist的匂いが残存していることに接すると、『あれ?そもそも仏教って、何だっけ?』さらには『お釈迦さんって、どんな人生をおくった人だっけ?』などの初歩的な疑問が湧くのである。そんな初歩的な疑問に答えてくれるような、現代日本ブッディズム世界はなかなか見当たらない。仏教アカデミック世界には、初心者には相当理解に苦しむ仏教理論が充満している。

葬式仏教と揶揄される一般寺院では、残念ながら素直にリスペクトできるモンクは少ない。密かに『文句』を言いたくなるようなモンクさんもいるのが現状ではないだろうか。そんな現代日本仏教世界に満足していない人も多くいるはずであろう。では、その打開にはどうすればいいのか。多くの宗門もその課題に悩んでいる。

仏教に不勉強だった私自身が、今回のルンビニ調査旅で実感しているのは、やはり『仏教の原点回帰場所』からの『新たな気づきと学び直し』が必要ではないか、ということである。

現代の知の巨匠とも称せられる、編集工学研究所の松岡正剛氏は次のように述べられている。
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ともかくもどんな本でもいいので、ブッダその人の一部始終の大枠に一度は溺れるべきである。

ぼくが確信するに、21世紀は仏教こそが新たな価値観や世界観をもつはずなのだ。

ただし、日本の坊さんたちの実情はこの半世紀ほど、かなりヤバイものになっている。これではまずい。

そういうことをモンダイにするにも、まずは男シッダールタを実感しておきたい。

仏教は21世紀の世界思潮のいくばくかの思考領域や行動領域に食いこんで、何事かを少しずつおもしろくさせていくだろう。

きっと、そうなると思う。そうなって、ほしい。
===========

この報告書は、松岡氏の言葉に従うがごとく、釈迦という一人の人間の生涯を見つめ直し、そして『仏教』における、過去・現在・そして未来を俯瞰する為の、小テキストになることを目指してもいる。

ルンビニ中心部にある『消えずの火』

ルンビニの中心部・マヤデヴィ堂(設計構図から考える)

ルンビニ開発トラストの上級職員のガイダンスによると、マヤデビ堂は、お釈迦様の母・摩耶夫人の胎内をイメージした設計であるという。マヤデヴィ堂を摩耶夫人の(子宮)として捉え、それを中心としてその周囲円環の堀には水(羊水をイメージ)を溜めた池(2023年1月時には建造中)を配置している。

胎内から上部(方角的には北方向へ)に水路(これは産道をイメージ)がまっすぐに伸びていく。その水路移動には船もある。そして、その船をおりた場所には、「消えずの火」が灯されている。
すなわち、マスタープランの設計者・丹下健三氏は釈迦生誕地とその周辺を、摩耶夫人(釈迦の生みの母)の母体として全体構想を立てたのであろう。

前述の水路(産道のイメージ)の両サイドには、数多くの僧院・寺院・瞑想センターが現在も続々と建造中なのである。この僧院ゾーンは、42の区画(プロット)に分かれており、2023年1月現在すでに41のプロットは、建造済み・建造中・契約済みとなっている。(※ルンビニ開発トラストへのリサーチによる)

現地にては、5年後くらいには、すべてのプロットにおいて寺院・僧院・瞑想センター・アシュラム(修行場)が完成形に近くなると聞いている。現在でもそうであるが、完成形に近づくと、そこはグローバル・ブッディズム・パビリオンの様相を呈してくるはずだろう。現在建造済の国名(宗派・宗教組織は別として)だけでも、タイ・ミャンマ・カンボジア・スリランカ・インド・ネパール・中国・韓国・日本・フランス・スイス・オーストリア・カナダなど。

そして、契約済みの国名は、マレーシア・ブータン・アメリカ・ロシア・バングラデッシュなどである。これに各宗派・宗教組織が加わるのである。(※国名はルンビニ開発トラストのリストに従う)

ユネスコの保護観察下においては、各国、各宗派、宗教組織などがルンビニのプロットに建造物を建てる時には、建築様式・絵画スタイル・そして僧侶の行動様式などは、必ず伝統様式に従わないといけない条件下にある。

となると、このマスタープランエリアの僧院ゾーンを歩くだけで、現代における世界の仏教諸活動の多くを短時間で俯瞰できるのである。さらに、各国・各宗派の伝統建築様式・絵画スタイル・祭儀・経典などなどから、仏教伝来(北伝・南伝問わず)における各地民俗・習俗との混合形態や、歴史的変遷なども一望できるのである。

まさに、釈迦生誕地より派生・伝搬していったブッディズムの大いなる歴史の概観が手に取るように把握できるのである。もちろん、多くの寺院・僧院では修行滞在プログラムなども設定しており、滞在型での各僧院独自のディープで濃厚なスタディ・プログラム参加も可能である。

インドのブッダガヤも、ルンビニと同じくらい世界各国、各宗派などの僧院が建っているが、ルンビニのようにユネスコ世界遺産区域内という限られたエリアではなく、立地も分散し全体像が把握しずらいのである。

巨大資本を投下している中国のルンビニでの自国寺(中国寺)は、建造様式や高さなどにユネスコからの規制がかけられており、彼らの希望する巨大な仏像建立は不可能な状況である。

このように、仏教4大聖地の中でも、ここルンビニ(特にマスタープラン内)においては、仏教の過去、そして現在のグローバルな展開、さらには、近未来の在り方について思考を重ねていく、唯一無二の『トポス=場』なのではないだろうか。

 釈迦生誕地(マヤデビ堂)とアショカ石柱


日本人とルンビニの関係史

日本人が最初にルンビニに入域したのは、明治36年2月22日の事であった。明治36年とは1903年。浄土真宗本願寺派が派遣した『大谷探検隊』の3人の青年僧である。大谷探検隊の3人とは、井上弘円・清水黙爾・本田恵隆である。

1903年2月22日、インドのゴラクプール駅を出発。ネパール領内の悪路に悩みつつ、牛車や馬を雇いタライ州ルンビニに到着した。アショカ王石柱は、彼らが訪れた明治36年の7年前、1896年にドイツ人によって発見されたばかりであった。アショカ王の石柱が発掘された事によって、この地が釈迦生誕地である可能性が現実化したのである。

清水黙爾は日記に「三人がおそらく日本人最初。親しく聖地に立てることのなんと幸福な身の上でありましょうか」と記述している。石柱碑面の文字を拓本に取ろうとしたが許されず、3人は夜陰に紛れて釣鐘墨(水を使わないで拓本をとるために使う墨)を使いかろうじて写したという。この石柱は建立後落雷により上部が中折れしている。上部には現在のインドの国旗にも表現されている獅子像があったといわれている。

注)文中記載の清水黙爾とは明治の巨僧・島地黙雷の息子である。

同じ明治時代には、チベットへの求道僧・河口慧海が、後にインド学の権威となる高楠順次郎を案内してルンビニに来ている。戦後は、日本とルンビニとの関係は年代を経るごとに強固になっていく。

がしかし、現代はそれが薄くなっているのである。それは、第二次世界大戦後における東アジアの仏教国では、唯一日本が経済復興を成し遂げたことが背景にある。高度経済成長期の1960年代くらいより、日本の諸機関・大学などがすすんでルンビニの復興・開発などに力添えをしていく。
主なものには、下記のような事案がある。

〇立正大学=釈迦族居城比定地・カピラ城の発掘調査
〇丹下健三=国連委託を受けてのルンビニ・マスタープラン
  ※これは、現在も東大関係者によって検証継続中。
〇全日仏教会=マヤ堂の発掘・保存(特に印石発掘)
〇日本山妙法寺=ルンビニにてのワールドピースパゴタ建設
〇法華宗(陣門流)=カピラ城隣接地でのシャンティビハール(休息所)
〇総教(茨城県の宗教団体)=マスタープラン内での日本寺建設
〇ルンビニ法華ホテル=法華クラブの経営だったが売却済み。
〇ルンビニ笠井ホテル=現地での慈善活動に力をいれている。

※21世紀に入ってからは、中国その他東アジア諸国の仏教組織が、ルンビニへのさまざまな投資・支援などを増大させている。2023年1月の調査時にては、タイ国ならびにタイ僧院のルンビニへの支援は非常に高い評価を得ていることが判明している。

地域住民や巡礼者への慈善事業などを年間通じて高い頻度で実践されているらしい。これは、笠井ホテルも同様の評価を得ている。逆に中国は、巨大な宿泊施設を建設(中国人のみ宿泊許可)したけれど、このコロナ禍の3年間は、一切の門戸を閉じているという。

ルンビニは現在ユネスコの世界遺産に登録されている。その登録基準の礎石として、丹下健三氏による「ルンビニ開発マスタープラン」というのが1972年に発足されている。1978年までに検証と改良を重ね、現在においても東京大学工学部建築学研究室によって継続検証が為されている。

この丹下氏のマスタープランが礎となり、1997年にユネスコから世界遺産の登録がなされたのである。ただ、中国などの巨大資本投下なども含め、ユネスコの方針とは異なる開発を計画している動きもあると聞く。

ルンビニ開発トラスト オフィス内
上級職員(ルンビニ開発トラスト)
ルンビニ・マスタープランの構図





近代における仏教刷新・復興の動き(1)(大谷栄一氏の論文より参照)

ルンビニにある各国僧院の背景を調査していくと、やはり近代に入ってからの各国・各地における仏教刷新・復興の動きを見過ごすことはできないと痛感する。特にアジア諸国においては、西洋の植民地時代に圧迫されたり、日本の廃仏毀釈のように自国内での危機を乗り越えた近代の歴史がある。

逆に、西欧諸国においては、1960年代以降のニューウェーブ指向や、環境・人権問題とリンクさせた仏教への関心の高さが如実に表れてくる傾向を有している。仏教学者の大谷栄一氏は、このような近代仏教の抱えた諸問題を下記のように整理されている。

(1)近代仏教の特徴

スリランカ僧のダルマパーラや日蓮宗の新しい活動家・田中智学らは伝統仏教の僧侶ではなく、仏教モダニストであり彼らは、伝統的な仏教を再解釈したり、編成しなおした「近代仏教(Modern Buddhism)」(あるいは「仏教モダニズム(Buddhist Modernism)」)の立場から活動を行ったと指摘する。

では、近代仏教(仏教モダニズム)とは何なのだろうか。さらに大谷氏は指摘する。

近代仏教の特徴として、儀礼的・呪術的な要素の拒否、階層性に対する平等性、地域性に対する普遍性、共同体に対する個人、ブッダへの回帰を挙げている。また仏教モダニズムの概念は近代という時代に発生したあらゆる仏教を意味するのではなく、モダニティの持つ支配的な文化的・知的影響力との関わりの中から現われた仏教の新しい形式を意味するという。

そして西洋化、脱神話化、合理化、ロマン主義化、プロテスタント化、心理主義化の特徴があるとも言われている。また、そもそも『近代』ということそのものが、欧米とアジアでかなり異なっているのであって、西欧人によって提起された「プロテスタント仏教(Protestant Buddhism)」とアジアにおける仏教復興運動とは微妙に差異が生じているとも指摘している。

インド、タイ、ミャンマー(ビルマ)、スリランカ、中国、ベトナム、日本という十二地域における近代仏教改革運動の比較分析を行った、島岩氏の研究から大谷氏は次のようにその特徴を整理している。

(2)各地域の運動に共通する特徴として、

①原点・原典回帰主義、
②合理主義的・人間主義的仏教解釈、
③在家主義的な宗教的平等主義、
④社会改革的傾向、
⑤知識人中心の啓蒙主義、
⑥キリスト教に対抗しうるものとしての仏教、
⑦ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教。

そして、これらの特徴が、対・西洋近代合理主義、対・西洋列強、対・キリスト教という対立軸に規定されたとする。つまり、西洋とキリスト教、そして合理主義的価値観に対するプロテストによって成立していることを指摘している。さらに、これらは西洋とキリスト教だけではなく、伝統仏教に対するプロテストも見られるとも言っている。

さらに西洋とキリスト教へのプロテスト(とくに西洋の植民地主義に対するプロテスト)は、アジア各地域の近代仏教の形成を考える上で重要な分析視点となり得るとも指摘する。

ただし、東アジア世界での植民地主義に対するプロテストを考える時、西洋のみならず、帝国日本へのプロテストも考慮する必要がある。つまり、西洋=日本=中国=植民地(朝鮮・台湾)の重層構造の中で、東アジア世界の近代仏教の形成過程は検討すべきであろうとも言われている。

このように、当時の帝国主義的な世界システムの中で、アジア諸地域は、西洋列強に対抗しながら国民国家(Nation State)を建設することが不可欠だった。そうした国民国家形成に、仏教者がどのように関わるのかという視座を有しながらアジア、西欧各国の近代仏教問題を捉えなくてはならないだろう。

田中智学



近代における仏教刷新・復興の動き その2(日本の明治以降における動き)

明治期における日本の仏教徒のインド留学動向を高野山大学の奥山先生が次のように論述している。1886年(明治18年),釈興然(真言宗)が上座部の戒法研究を目的にセイロンへ赴くのが最初の動きである。

それ以降に、臨済宗・浄土真宗のスリランカ留学僧侶が続いていくのである。このスリランカ留学への動きを加速させる出来事が1889年(明治21年)にあった。それは、スリランカ僧侶ダルマ・パーラ師と神智学協会のオルコット師の来日である。

日本からの留学僧侶の多くは、コロンボの神智学協会の支援を受けている。1903年には留学僧侶らによって、日本俱楽部や日本人用レストハウスまで建設されている。

1890年3月には、イギリス留学途上の高楠順次郎が、当時の浄土真宗留学僧らと懇親している。この頃から、浄土真宗僧侶らの間にて、インドへ転学の動きが加速しはじめる。高楠も1890年に当時の仏教通信(反省会雑誌=後の中央公論)にて「印度留学の諸兄に望む」という一文を掲載している。

前述のスリランカ僧・ダルマパーラ師を中心として、コロンボに大菩提会([Buddhagaya ]Mahabodhi Society)が結成される。これに呼応するように、日本でもインド仏跡興復会が結成され、資金の募集や調査員の派遣などが勘案されていく。

1893年(明治25年)には、日本郵船によってボンベイ(現・ムンバイ)への航路が開設されている。その前後には三井物産ボンベイ支店、在ボンベイ日本領事館も設立されている。

1902−1903年(明治34~35)は、とりわけ日本からのインドエリア留学僧や調査員などで賑わうのである。その中には、第一次チベット潜入後の河口慧海や大谷探検隊などもいる。

それ以外にも、岡倉天心、井上円了、姉崎正治らの著名人物もいる。このような動向の中で、初期の日本人ルンビニ探査や訪問などが行われているのである。

釈興然
岡倉天心。


近代における仏教刷新・復興の動き その3 インド・タイ編
(島岩氏の論文より参照)


インドにおける西欧近代との出会いと宗教の変容

[戦前] アジアにおいて西欧近代との出会いによる宗教の変容がもっとも早く起こったのはインドにおいてだった。その動きは、「ヒンドゥー・ルネサンス」と呼ばれるヒンドゥー教復興運動として現れ、古代の純粋なインド的精神にたちもどろうとするものであったが、内容的には大きく二つに分けることができる。

一つは、ウパニシャッドやヴェーダといった古代以来のインド的精神に基づきながら、西欧的・近代的な形での社会改革を押し進めようとする動きである。その代表的なものには、1828年に設立されたブラフマ協会や 1875 年に設立されたアーリア協会による寡婦殉死廃止やカースト制反対の運動がある。

もう一つは、精神主義的な動きで、ウパニシャッド精神を復興したシャンカラ(700-750)的な一元論的神秘主義の中に、西欧近代精神にも対抗しうる普遍的なインド的精神を見いだそうとするものである。その代表的な人物には、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、オーロビンド・ゴーシュ、ラマナ・マハリシ、ナーラーヤナ・グルなどがいる。

そして、この二つの動きはともに、西欧近代との出会いのなかで、西欧近代精神に対抗しうるものを求めて古代のインド的精神に立ち戻ろうとする原点回帰主義的な運動であり、かつ、西欧近代精神に触れることのできたインド知識人層の啓蒙主義的な運動であるという共通点を持っている。

その後は西欧近代精神とインド的精神のはざまで、両者に対する距離の取り方の差異から、西欧開明派とインド正統派との対立を生み出しながら、最後には、ティラクとガンディーの登場によって、啓蒙主義的な限界を越えて大衆運動と結びつき、インド独立へとつながっていくことになるのである。

[戦後] その後、第二次世界大戦後のインド独立以降には、前者の社会改革的運動のほうは、その役割を終えることになるのだが、他方、精神主義的な動きのほうは逆に、形を変えて世界に広まっていくことになる。

すなわち、1960 年代以降の先進諸国におけるカウンター・カルチャーの中での「神秘の国インド」への関心の高まり、および、その中で生まれてきたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギの超越瞑想法、バクティヴェーダンタ・スワーミのクリシュナ意識運動や、ラジニーシあるいは最近のサティヤ・サイババなどのインド系新宗教の世界的広がりへと、つながっていくことになるのである。

ラーマ・クリシュナ
オーロビンド・ゴーシュ



タイ王国

インドの宗教近代改革運動「ヒンドゥー・ルネサンス」が共通して持っていた二つの特質、すなわち原点回帰主義と啓蒙主義は、アジアにおける仏教近代改革運動もまた共有した特質であった。

アジアの仏教のなかで、近代主義的な仏教改革がもっとも早く生じてきたのはやはり、西欧列強の侵略をもっもと早く受けたスリランカ・東南アジアの上座仏教圏においてであったが、そのなかでももっとも早かったのが、タイのモンクット親王による1830年代の仏教改革であった。

仏法が王権の正統性を支え、王権が仏法を保持する教団を保護するという構造を持った仏教王国タイにおいては、仏教こそが国家社会文化統合の鍵であり、西欧列強の侵略に対抗するナショナリズム形成に欠くことのできない基盤だったのである。

彼は、タマユット派という新たな派を作り出して仏教改革を押し進めていったのだが、その特質はまず、上からの近代化という啓蒙主義的なものであった。

さらに、その改革には、タイ語の仏典に基づく仏教理解から釈迦のころのもともとのパーリ仏典に基づく仏教理解へと立ち戻ろうとする原点(原典)回帰主義と、現世来世利益的な功徳を積めば善いことがあるとする民衆仏教を否定して(合理主義的仏教解釈、社会改革的)、戒律を重視し、近代科学の合理主義に反しない形で仏教を再解釈して(合理主義的仏教解釈)、キリスト教のプロテスタントの伝道と対抗していこうとする(キリスト教に対抗しうるものとしての仏教)特徴も認められるのである。

タイの僧院にて

近代における仏教刷新・復興の動き その4 
ミャンマ・スリランカ編(島岩氏の論文より参照)


ミャンマー


独立を守ったタイとは異なってイギリスの植民地となり、仏教が国民的レベルでのナショナリズムの基盤として成熟することのなかったミャンマーでは、仏教は千年王国運動的な民衆の反乱を生み出す基盤として働いた。すなわち、超能力者 Weikza を信仰するセクト Gaing を中心に、超人Weikza を末法の世に現れる未来の仏である弥勒あるいは未来の王すなわち輪転聖王として、イギリス支配を打ち破り、この地上に千年王国を築こうとする反乱が頻発した(なかでも 1930 年頃のサヤ・サンの反乱が有名)のであった。

またその一方では、これまでの出家のみが悟ることができるとする考えを廃し、在家でも瞑想により悟ることができるとする、在家主義的な宗教的平等主義に基づく仏教改革も現れた。たとえば、サヤ・テトギ(1873-1945)という在家の修行者が確立したヴィパッサナー内観瞑想法がそれであり、この瞑想法は戦後、特に70年代以降には、欧米とインドを中心に、世界各地に広まっていったのである。

スリランカ

上座仏教圏における仏教改革のなかで、その後もっもと大きな影響力を持った運動が現れてきたのは、スリランカにおいてであった。それがダルマパーラ(1864-1933)の大菩提会(1891 年設立)の運動である。

が、この運動はまた、それ以前のあるいはそれ以後の仏教近代改革運動の特質をすべて、集約的に含み込んだものでもあった。この運動は、現在では、西欧(なかでも特にイギリス)およびキリスト教(なかでも特にプロテスタント)にプロテスト(抵抗)する仏教であり、かつ、プロテスタント的な世俗内的禁欲を説くという二重の意味で、「プロテスタント仏教」と呼ばれることが多いが、次のような五つの特質を備えたものであった。

(1) 仏陀ともともとのパーリ聖典に戻りそこから規範を選択する(原点・原典回帰主義)、

(2) 仏陀を最高の人間ととらえ、また、民衆的な儀礼と呪術を非仏教的なものとして排除する(合理主義的・人間主義的仏教解釈、社会改革的)、

(3) ピューリタン的な世俗内禁欲による救済を説く(在家主義的な宗教的平等主義、キリスト教に対抗しうるものとしての仏教)、

(4) 仏教を中心にシンハラ人がまとまって西欧列強支配に対抗することをめざすという意図を含む(ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教)というものであり、また、

(5) パンフレットなどの活字による媒体を通して、大衆の教化をはかるという啓蒙主義的なものでもあったのである。

そして、この運動はその後、スリランカという範囲を越えて広まり、インドにおける仏教復興の動きや、ネパールにおける上座仏教の受容に大きな役割を果たしたばかりか、西欧および日本においても仏教に関心を抱く者のあいだでは好意的に受けとめられたのであった。

だが、スリランカ独立以降の戦後は、一方では、この運動が持っていた在家主義的傾向が、サルボーダヤ運動(仏教的世界観に基づく農村開発運動であった。ここでは本来世俗とは関わらないはずの出家が労働や社会改革運動と関わる)や、仏式結婚(ここでは出家が結婚という在家的・世俗的な事柄に関わる)や、出家教団の持つ宗教的権威外のところで私度僧が出現して社会的影響力をもつ、といった変化を生み出していくことにつながっていった。

他方では、そのナショナリズム的な思想が、シンハラ人仏教徒を中心とする国家形成を目指す方向を支えるイデオロギー的基盤となり、シンハラ人仏教徒とタミル人ヒンドゥー教徒の民族紛争を生み出すことにもなっていったのである。

ダルマパーラ

近代における仏教刷新・復興の動き その5 
中国・ベトナム編(島岩氏の論文より参照)

太虚(1889-1947)

スリランカ・東南アジアの上座仏教圏におけるものとは少し遅れるような形で、次に仏教近代改革運動が生じてきたのは、中国とベトナムと日本という東アジア大乗仏教圏においてのことであった。

中華人民共和国


中国において、太虚(1889-1947)が、中国仏教協会を再建したのは、1929年のことだが、その再建にあたっての主張は、仏教は、人道的・科学的・論証的(人間主義的・合理主義的仏教解釈)で、世界的でなければならないというものであった。

さらに彼は、仏教をこれまでの中国語訳の仏典(漢訳仏典)に基づく研究から、もともとのインドのサンスクリット語の仏典に基づく研究への転換の必要性を説き(原点・原典回帰主義)、自らも原典に基づきながら仏教の唯識思想の近代的解釈を行い、唯識的世界観は近代物理学の世界観と矛盾するものではないとする主張を行ったのであった(合理主義的仏教解釈)。

この太虚の運動は、彼の死後、中国の共産化とともに、そののち中国国内ではほとんど影響の跡をとどめることはなかったが、世界的な外遊を通して、特にベトナムの仏教に大きな影響を及ぼすことになった。

ベトナム

太虚の訪問を契機に、ベトナムでは、1930 年代に、仏教復興運動が展開されるようになった。ベトナムはもともと、上座仏教が主流の東南アジア仏教諸国のなかでは例外的に、中国系統の禅が伝えられてベトナム的な形で発展していたところであったが、そのなかから、大乗仏教と上座仏教とが協力して仏教の国教化をはかり、遅れたベトナム社会の社会改革を行う(社会改革的)とともに、フランス植民地支配に対抗してベトナムの独立をはかろうとする動き(ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教)が生まれてきたのである。

この動きは、共産主義勢力がそののち独立に際して中心的役割を果たした独立運動のなかでは、それほど大きな役割を果たすことはなかったが、戦後のベトナム戦争のなかで抗議の焼身自殺を行った僧たちや、ティクナトハンなどの、反戦運動家としての仏教僧を生み出していくことにつながっていったのであった。

ティク・ナット・ハン
清沢満之

近代における仏教刷新・復興の動き その6 日本編
(島岩氏の論文より参照)

日本における近代仏教の展開

これまで日本以外の例で見てきたことから明らかなように、アジアにおける仏教近代改革運動は、

(1)原点・原典回帰主義、
(2)合理主義的・人間主義的仏教解釈、
(3)在家主義的な宗教的平等主義、
(4)社会改革的傾向、
(5)知識人中心の啓蒙主義、
(6)キリスト教に対抗しうるものとしての仏教、
(7)ナショナリズムの政治的・社会的・文化的基盤としての仏教、

という特徴を、地域による程度の差や力点の置き方およびさまざまな組み合わせ方の違いは認められるものの、多かれ少なかれ備えたものであったと言うことができるだろう。そして、このような特徴は、日本における仏教近代改革運動のなかにも、多かれ少なかれ共通に認めることのできるものなのである。

まず、原点・原典回帰主義的な動きとしては、日本における近代仏教学の成立があげられる。明治初頭以来、南条文雄、高楠順次郎、渡辺海旭、荻原雲来などにみられるように、多くの留学僧が西欧に渡航して、西欧の仏教研究を日本に導入し、漢訳からではなくパーリ語やサンスクリット語の原典からの研究を行った原典回帰主義といわれる運動である。

そして、原始仏典と大乗経典との比較から、村上専精(1851-1929)や姉崎正治(1873-1949)の大乗非仏説が生まれてきたのであった(原点回帰主義)。そして、このような主張の背後には、人間釈迦の説いた合理的な仏教という人間主義的・合理主義的仏教解釈が認められるのである。

一方、在家主義的な仏教改革運動としては、古河勇や渡辺海旭などを中心とする新仏教運動があげられる。その動きは、彼らの「新仏教徒同志会」が1899年の結成当時には、「仏教清教徒同志会」と名乗っていたことにも認められるように、キリスト教のユニテリアンとの関わりが深いもので(キリスト教に対抗しうるものとしての仏教)、近代市民道徳の建設をめざす、ピューリタン的で、仏教社会事業による社会改革的志向の強いもの(社会改革的傾向)であった。

他方で、このような社会改革的傾向の強いものとは対照的な仏教改革運動に、内面に沈潜して信仰仏教を樹立しようとした清沢満之(1863-1903)の精神主義運動がある。

この運動は、先の二つの動きが、西欧近代合理主義に矛盾しないような形での仏教のあり方を求めたのとは対照的に、西欧哲学を吸収しながらも、むしろ、西欧文明のもつ生存競争を伴う我執性を仏教的信仰に基づいて克服しようとする、西欧近代合理主義との対決の姿勢を明確に打ち出したものであった。

その意味では、禅的な精神のなかに、日本的文化・東洋的文化あるいは日本的精神・東洋的精神の根底となる宗教的生命を見いだそうとした、後の鈴木大拙(1870-1966)や久松真一(1889-1980)の思想ともつながるものがあるものと思われる。

最後に、ナショナリズム(国家主義)の基盤としての仏教を説いたものには、田中智学(1861-1939)や本田日生(1867-1931)がいる。彼らはともに、日蓮主義の立場にたって、法華経の精神に基づく日本国家(仏国土)の建設をめざすことで、日蓮主義と国家主義との融合を計ったのであった。

それに対して、同じく日蓮主義に基づきながらも、反国家主義的立場に立ち、社会主義的活動を行ったものに、妹尾義朗(1889-1961)を中心とする「新興仏教青年同盟」(1930 年結成)の活動がある。

だが両者はともに、前者は戦前のファシズムに吸収されるような形で、後者はファシズムの弾圧を受けて壊滅するという形で、消滅していくこととなった。なお、ここで最後に、日本における以上の動きはすべて、いわゆる既成宗教側から生まれた仏教近代改革運動であり、知識人を中心とする啓蒙主義的な仏教近代改革運動であった、という共通点を持っているということに注目しておきたい。

すなわちこれらの近代主義的な仏教改革運動は、逆に言えば、現実の生活のなかで、貧・病・争などの問題をかかえて、そこからの現世利益的な形での救済を願う民衆が持つ宗教性や、霊の世界などの目には見えない生命に対する土着的な信仰を、プロテスタント的な近代主義の影響をも受けながら、前近代的な迷信として切り捨てることで成り立っていたのだ、と考えることもできるのである。

事実、明治末の日露戦争から昭和恐慌期の農業国から工業国への日本の転換期において、このような社会変動のなかで迷い苦しんでいた民衆をすくいあげて、大衆的広がりを見せたのは、上述のような仏教近代改革運動というよりはむしろ、その直後に現れた大本教やひとのみちなどの新宗教のほうであった。

そして、これらの新宗教は、仏教代改革運動が前近代的な迷信として切り捨てた日本的民俗信仰(自然霊信仰や祖霊信仰)のほうに基盤を置くような形で登場してきたのであった。そしてそののち、戦後の混乱期や高度経済成長に伴う都市化の時代に大きな役割を果たしたのはむしろ、この新宗教のほうであったのである。

もう一つの問題点は、アジアの仏教近代改革運動が、合理主義的・人間主義的な仏教理解に基づきながら、知識人の手によって啓蒙主義的な形で押し進められたということに内在する問題である。

このような形の運動は確かに、戦前においては、それが在家主義的な宗教的平等主義とも結びつきながら、前近代的な社会の改革に大きく役だっていったのではあるが、逆にそれは、日本における仏教近代改革運動の民俗信仰のとらえ方に端的に現れていたように、プロテスタント的な近代主義の影響をも受けながら、貧・病・争からの現世利益的な救済を願う民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰を、前近代的な迷信として切り捨てていくものでもあったのである。

すなわち、言い替えれば、その近代主義的・啓蒙主義的仏教改革は、民衆の願いと宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる感性的な土着的基盤を、仏教の側がみずから切り捨てていったということにも、通じるものだと思えるのである。

世界各国・各地における今日の仏教 
(アレクサンダー・ベルゼン博士の資料から)

南アジア・東南アジアの諸国


インド

仏教は7世紀にはインドで影響力を失いはじめたが、極北のヒマラヤ山脈地域以外では、12世紀にパラ帝国の滅亡とともに消滅している。

19世末にインド仏教の復興が見られたが、スリランカの仏教徒のリーダーであったアナガリカ・ダルマパラがイギリス人の学者たちとともにマハ・ボーディ・ソサエティー(大菩提会)を設立した。

彼らの主な目的はインドにおける仏教徒の巡礼地を復興させることであったが、それは大きな成果をあげ、全ての巡礼地で寺院を立て、それらの寺院には現在でも僧侶が定住している。

1950年代には、不触賤民カーストの人々の間でアムベードカルが新仏教運動を始めたが、それにより(最下部)カーストの汚名を避けるために何十万人もの人々が仏教に改宗している。

また、ここ10年ほどは、都市部の中流階級の間で、仏教への興味が高まっている。現在では、仏教徒はインド総人口の約2%ぐらいを占めている。

マハ-ボディ僧院



スリランカ

紀元前3世紀にインドの皇帝アショカ王の息子であるマヘンドラ(Mahendra)により仏教が紹介されて以来、スリランカは仏教を学ぶセンターになっている。

スリランカは仏教が最も長く継続してきた歴史を持っている。スリランカもまた戦争の際や、16世紀に島が植民地化されて以来、そしてヨーロッパ人の宣教師たちがキリスト教への改宗を迫り、仏教は長期の低迷期を何度も経験したのである。

イギリスの学者や神智学者の助けにより、仏教は19世紀に力強い復興を経験している。スリランカ仏教は時には「プロテスタント仏教」と特徴付けられる時もあるが、それは学術を強調し、在家コミュニティーへの僧侶による宣教活動、そして在家の人々のメディテーション(瞑想)修行などによる。

スリランカは1948年に独立したが、それ以来、宗教としての仏教と仏教文化への興味が復活している。今日では、スリランカ人の70%が仏教徒で、大多数の人々が上座部(テーラワーダ)仏教の伝統に従っている。

30年内戦の後は、スリランカはボドゥ・バラ・セーナ(BBS 仏教徒勢力)などのような組織が反イスラム教徒暴動を起こし、穏健派の仏教徒のリーダーを攻撃するなどと、国粋的(ナショナリズム)仏教の勢いが高まっている。

スリランカ寺院内部の壁画



ミャンマ(ビルマ)

歴史的な研究によると、ミャンマにおいて仏教は2000年以上の歴史があり、現状は人口の約85%が仏教徒であると認識している。出家者たちはメディテーション(瞑想)と修学をバランスよく強調する長い伝統を持ち、在家の人々は多大な信仰を維持している。

ミャンマ人の仏教徒で最も有名な一人は、在家のヴィパッサナー・メディテーション(観行の瞑想)のテクニックの教師であるS. N. ゴエンカ氏である。ミャンマは1948年に大英帝国から独立して以来、一般市民政権と軍事政権の両方ともが、上座部(テーラワーダ)仏教を促進させている。

軍事政権下では、仏教は厳重に管理され、反体制派を住まわせた寺院は日常的に破壊された。例えば民主化運動や2007年のサフラン革命の時など、僧侶たちはしばしば軍事政権に反対する政治的なデモの最前線にいた。

この10年ほどは、仏教を復興させイスラム教に反対しようと、さまざまな国粋(国家主義)的なグループが現れている。僧侶のリーダーであるアシン・ウィラトゥは、自分自身のことを「ビルマのビン・ラディン」と呼び、店主がイスラム教徒である店をボイコットしようと提案している。

「仏教を守る」という見せかけの下で、モスクやイスラム教徒の家々に対する暴力が起きることは日常的で、イスラム教徒による対抗の攻撃がさらに炎を煽っている。

バングラディシュ

11世紀までは仏教はこの地域の主な信仰であった。今日では、人口の1%以下が仏教徒であるが、彼らはビルマに近いチタゴン丘地帯に集中している。首都ダッカには4つの仏教寺院があり、東部の村々には数多くの寺院がある。しかし、ビルマから隔離されたことにより、仏教の修行のレベルや理解度は非常に低いものとなっている。

ミャンマ寺院

タイ

仏教は東南アジアの諸帝国に5世紀から紹介され始めた。民衆信仰とヒンズー教さらには大乗仏教に強く影響された、上座部(テーラワーダ)仏教が盛んである。

スリランカやミャンマと違い、正式な女性の出家者(比丘尼)の系統はなかった。国のほぼ95%が仏教徒である。タイの僧侶のコミュニティーはタイ王室をモデルにしているため、最高責任者の法王と大長老会議があり、彼らには伝統の純粋性を保つ責任がある。

森林地帯に住む僧侶たちと村に住む僧侶たちのコミュニティーがある。両者とも在家のコミュニティーの深い尊敬と支援を受ける対象になっている。森林系伝統の托鉢僧たちは人里離れたジャングルに住み、集中的にメディテーション(瞑想)に取り組み、厳格な僧院の規律を守っている。

村の僧侶たちは、主として経典のテキストを暗記して、村の人々のために儀式を行う。タイ文化の精霊の信仰に従い、これらの僧侶たちはまた守護のためのお守りを在家の人々に提供している。

僧侶のための仏教大学があるが、そこでは主に仏教経典を古典パーリ語から現代タイ語に僧侶たちが翻訳できるような訓練が行われている。

ラオス

仏教は最初7世紀の間にラオスに到来したが、現在では人口の90%がアニミズムと混合した仏教の信仰を公言している。共産党政権の間は、政権はすぐには外面的に宗教を抑制することはなく、仏教徒サンガを自らの政治的な目標に近づけるために利用していた。

時間が経つ間に、仏教は深刻な抑圧の対象になっていった。1990年代から、仏教は復活し、ほとんどのラオス人は非常に信仰深く、多くの男性が短期間だけでも僧院や寺院に参加している。ほとんどの家庭が僧侶たちに食事を捧げ、満月の日には寺院へ参拝している。

カンボジア寺院内部

カンボジア

上座部(テーラワーダ)仏教は13世紀以来の国教とされ、人口の95%が仏教徒である。1970年代はクメール・ルージュが仏教を破壊しようと試み、それはほとんど成功しかけ、1979年までには、僧侶はほとんど一人残らず殺害されるか亡命に追い込まれ、寺院や図書館は一つ残らず破壊された。

シアヌーク王子が王として再即位の後は、制圧は次第に緩くなり、仏教への興味が復活していく。カンボジア人はまた占いや占星術や霊界の強烈な信者で、僧侶たちはヒーラー(療法士)でもある。仏教僧侶たちは子供たちの命名式や、結婚式そして葬式などと幅広く儀式を行っている。

ベトナム

仏教はベトナムに2000年前に到来したが、最初はインドから、その後は主に中国から伝わっている。しかし、仏教は15世紀の支配者級の寵愛を失い始めた。

20世前半に復興が起きたが、共和党政治の間、カトリック傾倒の政策が仏教を敵にまわしている。現在は、人口の16%が仏教徒と公言しており、仏教は最大の宗教となっている。

政府は仏教に関して今では緩やかになっているが、当局から独立した機能はどの寺院でも許可されてはいない。

ベトナム寺院


インドネシア

仏教は2世紀ごろ、インドとの貿易のルートを通して、この地域に到来している。その歴史のほとんどを通して、仏教はヒンズー教とともに修行されていたが、それも15世紀に最後のヒンズー教と仏教の混在した帝国マジャパヒトが崩壊した時までであった。

17世紀の初めまでには、イスラム教がこれらの宗教に取って代わっている。インドネシア政府の「パンチャシラ」政策によれば、公式な宗教は神への信仰を断言しなくてはならない。仏教では神を一個の存在として断言していないが、1000年前にはインドで盛んであった『時輪(カーラチャクラ)』で論じられている本初仏(Adibuddha)を断言するために公式の宗教として認定されている。

本初仏は全ての現象の全知の創造主で、時間などの限定的なものを超えていて、象徴的な形態で表されてはいるが実際に存在するのではない。本初仏は全ての生きとし生けるものの中に心の光明性として見られている。これを基礎に仏教はイスラム教、ヒンズー教、儒教、カトリックとプロテスタントとともに認定されている。

スリランカの僧侶たちは上座部(テーラワーダ)仏教をバリ島やインドネシアの他の地域で復興させようと努力してきたが、非常に限られたスケールである。バリ島に興味を持つ人たちは、ヒンズー教と仏教と現地の精霊宗教の混ざった伝統的なバリ島の複合的宗教に興味を示している。

インドネシアの他の地域では、中華系のインドネシアンコミュニティーで、仏教徒は人口の5%ほどを占めている。上座部仏教と、中華系伝統とチベット系の側面がハイブリッドになった非常に小さいインドネシア仏教の宗派も存在している。

ボロブドゥール遺跡


マレーシア

マレーシアの人口の20%が仏教に従っているが、主に海外からの中華系(華僑)のコミュニティーである。半世紀前に仏教への興味の減少があったが、1961年に仏教の伝搬を目標にしたブッディスト・ミッショナリー・ソサエティーが設立されている。

ここ10年は、若者の間でさえ、仏教修行が盛んになっている。現在では、財政面でも支援にも恵まれた上座部(テーラワーダ)仏教、大乗仏教、金剛乗(密教)仏教の数多くのセンターがある。









東アジアの諸国(大乗仏教)


中華人民共和国

仏教は過去2000年の間、中国の歴史に大きな役割を果たしてきたが、中国の仏教そのものは東アジアにおける仏教の伝搬にダイナミックな役割を果たしている。初期の唐朝(618 - 907)では、芸術や文学の繁栄とともに、仏教の黄金期を迎えている。

1960年代から1970年代にかけての文化革命の間は、仏教寺院のほとんどが破壊され、修行に熟練したほとんどの僧侶、尼僧と教師たちは虐殺されるか又は投獄されたのである。チベットや内モンゴルでは、仏教の鎮圧はさらに熾烈なものであった。

中国が改革され開放的になると、伝統的な宗教への興味は再び増大していく。新たに寺院が建設され、古い寺院は修復されている。しかし、僧院に入る者のほとんどが貧しく教育の無い田舎の出身で、教育レベルは低いままである。

多くの寺院が、切符の販売と寺の案内役として、観光の場としてのみ存在している。今日では、数多くの中国人が仏教に興味を持っており、特にチベット仏教へ献身する人々が顕著に増えている。現状では、仏教徒は人口の20%と推定され、中国中の寺院が開放された時間の間はにぎやかである。

人々が富を蓄え忙しくなり、その多くがストレスから逃避しようと、中国仏教やチベット仏教に注目している。多くのチベット人のラマ(仏教教師)が中国語で教えるようになり、多くの漢民族系の中国人にとっては、チベット仏教は特に興味の対象になっている。

中国寺

台湾、香港、そして海外の中華系の地域

中国から派生した東アジアの大乗仏教伝統は、台湾と香港で最も強い勢力を持っている。台湾には在家のコミュニティーに寛大に支えられた僧侶や尼僧たちの僧院コミュニティーがある。 仏教大学や社会奉仕のための仏教プログラムもある。香港でも盛大な僧院コミュニティーがある。

マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、そしてフィリピンでの海外の中華系の人々(華僑)の間での仏教徒コミュニティーで強調されるのは、祖先のご利益のための儀式と、現世の人々のための繁栄と富のための儀式を行うことである。

仏教の神託が霊媒を通してトランス状態の中で話し、そのような多くの霊媒が、在家のコミュニティーへの健康に関することや心理的な問題に関してのコンサルタントになっている。

韓国

韓国には、仏教は中国から3世紀に到来した。韓国での仏教は、原理主義のクリスチャンの組織からの攻撃が増えつつある中でも、未だ比較的に健在である。ここ10年は、そのようなグループにより、数多くの寺院が破壊されたり放火でダメージを受けたりしている。人口の23%は仏教徒である。曹渓宗が最大教団。

韓国寺


日本

仏教は日本に5世紀に韓国から到来したが、日本の社会や文化において大きな役割を果たしている。13世紀以来、禁酒の戒を守らない妻帯した寺院の僧侶の伝統がある。伝統的な妻帯しない僧侶より、そのような僧侶の方が徐々に増えてきた歴史がある。

歴史的には、ある仏教の伝統は極端に国粋(国家主義)的で、日本は仏教の浄土だと信じてきた。現代においては、自らを仏教徒と名乗る狂信的な終末的世界観のカルトもいくつかあるが、実際は釈迦牟尼仏陀(ブッダ)の教えとは全く関係を持っていない。人口の約40%が仏教徒として特定しているが、ほとんどの日本人は日本古来の宗教である神道を仏教と混合して信仰している。

子供の誕生祝いや結婚式は神道の伝統に従い、葬式の行事は仏教の僧侶が担っている。日本の寺院は旅行者や訪問者のために美しく保たれているが、その多くが商業化されている。多くの部分で修学や修行はひどく弱体化しているのである。世界一の規模の仏教徒団体の創価学会は日本で発足している。

内陸アジアの大乗仏教諸国・地域


チベット

仏教はチベットに7世紀までには到来した。何世紀にもわたる王権の保護や貴族の支援により、仏教はチベットの生活のさまざまな側面に入り込んでいる。中華人民共和国によるチベット占領後は、チベットにおける仏教は厳しく制圧されたのである。

6500あった寺院や尼僧院のうち150以外は全て破壊され、学識ある僧侶たちは処刑されたか、強制収容所で亡くなっているのである。文化革命以後は、政府は数件の寺院再建を助けただけで、ほとんどの寺院の再建は、以前僧侶であった者たち、地元の人々、そして亡命チベット人の努力によるものである。

中国共産党政府は無神論の立場であるが、五つの「認定された宗教」を許可していて、仏教もその一つである。当局は宗教的なことには干渉しないと宣言しているが、ダライ・ラマが幼いチベット人の少年をパンチェン・ラマの転生者であると認定した後すぐに、彼とその家族が行方不明になっている。

その後すぐに、中国政府は当局の捜査隊を出し、中国人とチベット人の混血の少年を選定している。ダライ・ラマが選出した少年はそれ以来消息を絶ってしまっている。現在では、それぞれの僧院、尼僧院や寺院が政府のワーク・チームを持っている。

これらはさまざまな職務を「助成する」私服の警察官や婦警である。基本的には、彼らは僧院コミュニティーの警視を行い報告することを意味している。時には、僧院の総人員であったりして、これらのワーク・チームは大がかりなものになっている。

政府の干渉以外にも、チベットにおける仏教徒が直面している主な問題の一つが、資格のある教師の欠乏である。僧侶、尼僧、在家の人々は皆さらに学びたいと非常に熱心であるが、教師の大多数が実に限られた訓練しか受けていないのである。

この10年ほどは、政府はラサ近郊に仏教「大学」を設立した。それは若いトゥルクのための訓練学校として、彼らが仏教哲学とともに、チベット語、書道、医学、鍼灸などを学ぶ場になっている。

チベット人巡礼者
ポタラ宮殿(チベット・ラサ)
チベットの精神的指導者・ダライ・ラマ14世


亡命チベット人コミュニティー

内陸アジアにおけるチベット仏教伝統圏の中で、一番影響力があるのが亡命チベット人コミュニティーであるが、中国軍の占領支配に対して起きた1959年市民の蜂起以来、亡命しているダライ・ラマ法王の周りにできたものである。

彼らは多くの主要僧院や数カ所の尼僧院を再開し、伝統的な学者僧、メディテーション(瞑想)の大家、教師のための完全な訓練プログラムなどがある。チベット仏教伝統のそれぞれの宗派の全ての側面を保存するために、教育、研究、そして出版のための施設もある。

亡命チベット人はインド、ネパール、ブータン、ラダックやシッキム地方を含むヒマラヤ山脈地域に教師を送り、生きた血脈を再度伝承することで、チベット仏教の復興を支援してきている。これらの地域の多くの僧侶や尼僧たちが、亡命チベット人の僧院や尼僧院で教育や訓練を受けている。

東トルキスタン(新疆ウィグル自治区)

東トルキスタン(新疆ウィグル自治区)に住むカルムイク系モンゴル人のほとんどの寺院は、文化革命の間に破壊されている。今では数カ所の寺院が再建されたが、チベット以上にさらに深刻な教師不足の問題がある。新たな若い僧侶たちは修学のための施設がないことに非常に落胆し、多くが去って行ってしまっている。

内モンゴル

中華人民共和国政府の規制の下でのチベット仏教の最悪な状況は、内モンゴルにおけるものであった。西部のほとんどの寺院が、文化革命の間に破壊されてしまった。

東部は、以前は満州国の一部であるが、第二次世界大戦の終戦時に、ロシアが中国北部を日本から解放する支援をする中、スターリンの軍により、すでに多くの寺院が破壊されてしまったのである。結局、文化革命はただ壊滅を完遂させただけであった。以前の内モンゴルにあった700の寺院のうち、わずか27の寺院だけが残っている。





モンゴル

モンゴル(外モンゴル)には、何千もの寺院があったが、スターリンの命令で、1937年には全ての寺院が部分的または壊滅的に破壊されてしまっている。しかし、1946年には首都ウラン・バートルで形ばかりの象徴的な寺院として一寺院が公開されている。

そして1970年代初期には僧侶のための五年制の仏教修行大学が設立されている。そこのカリキュラムは、マルキシズムの勉学が非常に強調されており、仏教修行に関しては非常に短縮されたもので、僧侶たちは限られた数の法要を行うことを許可されている。

1990年に共産主義が崩壊した後は、インドに亡命しているチベット人の支援で、仏教の復興が勢い強く進んでいる。多くの新たな僧侶たちが修行のためにインドに送られ、200以上の寺院がささやかな規模で再建されている。しかし、1990年以降、モンゴルにおける仏教が直面する最大の深刻な問題は、アメリカの野心的なモルモン教とアドべンチスト系とバプテスト系のキリスト教の宣教師たちである。英語を教えるとの見せかけでやってくる。

モンゴル人の子供たちが改宗すれば、その子たちがアメリカに留学するための支援として資金を提供し、口語体のモンゴル語で書かれ、きれいに印刷されたイエス・キリストに関する無料の小冊子を配られる。モンゴルでは、今では積極的な改宗活動は禁止されている。2010年には、人口の53%が仏教徒で、2.1%がキリスト教徒であった。

ウランバートルにあるガンデン寺法要


ネパール

ネパールの人口の大多数はヒンズー教徒であるが、このブッダが生まれた国では仏教の影響は未だ強く残っている。ネワリ族やグルン族やタマン族はネパール仏教の伝統的な形式を実践している。人口の9%が仏教徒である。仏教とヒンズー教の複合体に従い、ネパールは僧院においてカースト制を持つ唯一の仏教徒社会である。過去500年は、妻帯する僧侶が許可され、寺院を守り儀式のリーダーとなるカースト血統が存在しているのである。

ロシア

ロシアにはチベット仏教の伝統的な三地域がある。それは、ブリヤート共和国、トゥバ共和国、そしてカルムイク共和国である。これらの地域にある寺院のすべてが、(ブリヤート共和国では例外的に三寺院だけあるが)、1930年代後半にはスターリンにより完全に破壊されている。

1940年代後半には、スターリンは厳格なKGBの監視下におかれた二カ所の象徴的な寺院を再公開している。還俗した僧侶たちはその頃は、昼間はユニフォームとして袈裟を着て法要を行っていた。共産主義の崩壊後、これらの三地域全てで仏教の大規模の復興が見られる。

亡命チベット人は教師を送り、新たに若い僧侶たちがインドにあるチベット仏教僧院大学で修行している。ブリヤート共和国、トゥバ共和国、そしてカルムイク共和国では、20以上の僧院が再建されている。

伝統的には仏教国ではない国々

仏教についての詳細の知識は、ヨーロッパが仏教徒の国々を植民地支配したこととキリスト教の宣教師や学者たちにより、19世紀にはヨーロッパに到来している。同じ頃に、中国や日本からの移民が北アメリカで寺院を建設している。

全ての伝統的な仏教の形式が世界中で、系統的には仏教国ではない国々で見受けられる。アジアからの移民とアジア人以外の修行者の二つの主要グループが関わっているといえるだろう。アジアからの移民は、特にアメリカ合衆国とオーストラリアで、規模は小さいもののヨーロッパでも、それぞれの民族の伝統的な寺院を建てている。

主に強調されることは献身的な修行を勧めることと移民先のコミュニティーがそれぞれの文化と民族のアイデンティティを維持するためのコミュニティー・センターを提供することであった。
現在では、アメリカ大陸で400万以上、ヨーロッパで200万以上の仏教徒がいるといわれている。今では、どの大陸においても、世界中で100カ国以上の国々で、全ての伝統的な仏教の「ダルマ・センター」が見られる。

チベット系、禅系、上座部系の伝統に属するこれらのセンターのほとんどが、アジア人ではない人々が頻繁に通っているが、メディテーション(瞑想)修行、修学、儀式の修行が強調されている。

これらのセンターでの教師は、アジアの伝統的仏教徒のみならず西洋人も含まれている。多くがアメリカ合衆国、フランスとドイツにある。多くの真剣な学生たちは、より深く修行するためにアジアを訪れることもよくある。

さらに、世界中の多数の大学が仏教学のプログラムを持ち、他の宗教や、科学や、心理学や、医学と仏教間では、対話と意見交換の機会が今でも増え続けている。ダライ・ラマ法王はこの面で最も重要な役割を果たしている。

(注)各寺院の写真は、ルンビニならびにその他地域での撮影分を含む

釈迦生誕地・ルンビニ 広域的現状調査(2023年1月時)

ユネスコ世界遺産登録の意義

(優れた普遍的価値)

ブッダは、紀元前 624 年(諸説あり)にネパール南部のテライ平原にあるルンビニの神聖な地域で生まれた。これは、紀元前 249 年にマウリヤ朝アショーカ王によって建てられた柱の碑文によって証明されている。ルンビニは、世界の偉大な宗教の1つの最も神聖な場所の1つであり、その遺跡には、紀元前3世紀の仏教巡礼地の性質に関する重要な証拠が含まれている。

考古学的保護地域内の構造物にはさまざまな歴史的史実が含まれる。マヤ・デヴィ寺院内の遺跡は、紀元前3世紀から今世紀にかけての交差壁システムのレンガ構造と、ブラフミー文字でパーリ語の碑文が刻まれた砂岩のアショカ柱で構成されている。さらに、紀元前3世紀から紀元5世紀までの仏教の僧院 (僧院) の遺跡と、紀元前3世紀から15世紀までの仏教のストゥーパ (記念碑) の遺跡が発掘されている。この場所は現在、仏陀の誕生に関連する考古学的遺跡が中心的な特徴を形成する仏教巡礼の中心地として開発されている。

登録基準 : ルンビニの聖域は、アショーカ王柱の碑文によって証明されている仏陀の生誕地として、世界の偉大な宗教の1つにとって最も神聖で重要な場所の1つである。

登録基準  : 紀元前3世紀から西暦15 世紀までの仏教僧院 (僧院) と仏塔 (記念神社) の考古学的遺跡は、非常に早い時期からの仏教巡礼地の性質に関する重要な証拠を提供している。

ルンビニの完全性は、財産に顕著な普遍的価値を与える財産の境界内に考古学的遺跡を保存することによって達成されている。プロパティの重要な属性と要素は保持されている。緩衝地帯は、財産にさらなる保護層を与えます。潜在的な遺跡のさらなる発掘と遺跡の適切な保護は、財産の完全性にとって最優先事項である。

ただし、敷地境界には遺跡全体が含まれているわけではなく、さまざまな部分が緩衝地帯で発見されている。緩衝地帯を含む全財産はネパール政府が所有し、Lumbini Development Trust によって管理されているため、開発や放置の脅威はほとんどない。境界内の考古学的遺跡の信憑性は、1896 年にアショーカ柱が発見されて以来、一連の発掘調査を通じて確認されている。マヤデビ寺院の遺跡は、ルンビニが昔から巡礼の中心であったことを証明している。

考古学的遺跡は、自然劣化の影響、湿度の影響、および訪問者の影響を確実に制御するために、積極的な保存と監視が必要である。プロパティは、その考古学的遺跡を通じて、その優れた普遍的価値を表現し続けている。巡礼者に提供しながら、財産の考古学的痕跡を保存することの間で微妙なバランスを維持する必要がある。

保護と管理の要件

敷地は、1956 年の古代遺跡保存法によって保護されている。敷地管理は、独立した非営利組織であるルンビニ開発トラストによって行われている。全施設はネパール政府が所有している。この物件は、1972 年から 1978 年にかけて丹下健三教授によって国連と共に計画が開始されたマスター プラン地区の中心に位置している。プロパティの保護と管理の長期的な課題は、訪問者の影響、および湿度や地域の産業発展などの自然の影響を制御することである。資産の考古学的痕跡を長期的に保護すると同時に、世界中からの巡礼者や観光客が引き続き資産を訪問できるようにするための管理計画が作成されている。



日本人建築家・丹下健三

ルンビニにおけるツーリズム(巡礼・観光)の現状

マヤデビ堂近くのネパール寺院にて

(2023年1月ルンビニ開発トラストへの取材による)

ルンビニは 2022 年における巡礼・観光客は、対前年比 77% 増を記録しているらしい。その増加率においても、コロナ禍前2019年(計150万人)の半分強程度の数字なのだそうだ。2022年ルンビニ訪問者を国別に累計したのが下記である。

(※ルンビニ開発トラストへの調査にて)
〇 ネパール人  649,063 人、
〇 インド人   230,863 人、
〇 それ以外の国 23,942 人、

となり、合計 90万3,868 人が総数とのこと。
前年度2021年度の同じ項目数はというと、

〇 ネパール  463,963人、
〇 インド    43,732人、
〇 それ以外の国 1,197人、
となり、合計50万8,892人が総数。

この数字を見る限り、2022 年は前年よりも 39万4,976 人増加している。特にインドからの訪問数が急増している。これには背景があるという。2022年5月16日にインドのモディ首相がブッダ・ジャヤンティ(仏教祝事)を祝うためにルンビニを訪問している。これを契機として、ルンビニへのインド人巡礼・観光客が急増するようになったというのである。

また、この訪問時にモディ首相は、インドのIBC(International Buddhist Confederation)という仏教組織による、ルンビニ・マスタープラン地区内での新たな僧院建造への最終合意も締結している。このインドの国を挙げての動きは、コロナ前における中国のネパールへの極度の肩入れに対する対抗措置として捉えられてもいる。確かにコロナ前には、中国によって壮大なルンビニ・プロジェクトが立案されていた。

まず、チベット鉄道(青蔵鉄道)敷設をヒマラヤ越えの上、カトマンズ経由でルンビニまで延長させる。さらに、全高115メートルの巨大な仏像建造、巨大ホテル、会議場の建設などなどである。この中国立案は、ユネスコからの強い反発をかっていたが、中国は強引に計画を推し進めようとしていた。その矢先にコロナ禍に見舞われ、ありがたい?ことに現在は頓挫している。

最近(2023年1月)発足したネパール新政府は、再度中国寄りの政治姿勢が強まると観測されており、インド・中国間の綱引きがさらに加速されることが懸念材料となっている。最後に、2022年度、ネパール・インド以外の国からの訪問者の内訳(多い順に上から5番まで)は下記のようになっている。

〇 ベトナム  6673 人、
〇 タイ    4380 人、
〇 スリランカ 1885 人、
〇 ミャンマー  1495 人、
〇 ドイツ     950 人、

ネパール・インド以外の国からの訪問者数も、2021年と比較しても急増しているという。諸外国からルンビニへの訪問渡航はすでにコロナ禍中のマイナス影響を脱しはじめている。

ルンビニ広域調査・ティラウラコット周辺

カピラバストゥの古代都市

カピラ城址

考古学的研究により、(釈迦の王子時代)シッダールタ王子が幼少期を過ごした城跡が発見され、彼が悟りへの出家旅を始めるために通った東門も特定されている。。カピラヴァストゥの古代都市は、ブッダがかつて王子であったサキャ王国の首都である。ティラウラコットでの発掘調査により、かつて古代都市を埋め尽くしていたであろう壮大な住居や公共の建物のいくつかのレイアウトが明らかになっている。カピラヴァストゥ城の東門は、シッダールタ王子が従者のチャンナと愛馬カンタカを連れて、修行僧としての生活を求めて出家旅に出門した場所である。カピラ城の広大な遺跡の多くは未発掘の状態でもある。この城は、シッダールタ王子が生まれてから 29 歳になるまで育てられた、かつての古代都市である。

紀元前 9 世紀頃から紀元 3 世紀までの釈迦族の主要な中心地として、かつてここには多くの壮大な建物があったといわれている。すでに、専門家は宮殿の建造物、寺院、道路、池を発掘してもいる。発掘中に発見された遺物の一部は、近くのカピラバストゥ博物館に展示されている。このカピラ城は、ヒンズー教にとっても重要な場所でもあり、人々が定期的に礼拝に訪れる古代の城壁の中にあるサマイ マイ神に捧げられた素朴な礼拝所があり、現在でも多くの参詣者が訪れている。
(日本の立正大学による貢献)

立正大学は、1967~77年の10年間、中村瑞隆教授 (元立正大学学長)を中心とする調査団をインド・ネパールに派遣し、カピラ城跡 を探索している。その結果、ネパールのティラウラコット遺跡こそカピラ城の有力候補遺跡と想定して発掘調査を実施してきた。その発掘の結果、釈迦時代の多量の出土品を得ることに成功している。また、あわせて、ティラウラコット遺跡が、城跡であつたことを再確認し、規模 ・構造 ・年代などと出土品の時代観とをあわせて釈迦の故城であつた可能性を明瞭にする報告をしている。

発掘調査が継続中
城址内にはヒンズー寺院もある
釈迦出遊の東門跡

5~7世紀のルンビニ

中国求道僧・法顕や玄奘にとってのルンビニとは  

現在、このカピラヴァストゥ所在問題は William.C.Peppe により発掘され舎利容器が発見され、さらに舎利容器やシーリングが確認されたインド領ピプラハワ(Piprahawa)説と、 Purna Chandra Mukherji により玄奘の『大唐西域記』などの史料をもとに、ルンビニー、サガルハワ、ニガリ ・ サガルの位置関係や記述に残る地理的特徴から推定されたネパール領ティラウラコット(Tilaura kot)の2説が有力視されている。 

現在、この2遺跡は国境を隔てて隣り合わせの位置関係にあり、以前は同じ国家、地域という見方もできる。ピプラハワは仏塔と僧院跡のガンワリア遺跡による、仏塔+僧院の構造であるのに対し、ティラウラコットは『法顕伝』や『西域記』の記述による、川の流域 ・ 王城跡構造をもち、周辺域の仏塔 ・ 僧院跡やアショカ ・ ピラの存在、地理的特徴を精査しカピラヴァストゥ(Kapilavastu)跡とみているのである。

このカピラ城は5世紀の法顕の『高僧法顕伝』では「迦維羅衛城」、7世紀の玄奘の『大唐西域記』では「劫比羅伐窣堵」と記述され、その所在をめぐってはアショカ・ピラの所在やルンビニー等の遺跡との距離などの問題とあわせてこれまで諸説が展開されてきた。

『高僧法顕伝』に以下の通りの記述がある。

〈ここより東行すること一由延たらずで迦維羅衛城(カピラヴァストゥ)に到る。この城中にすべての王民なく甚だ荒廃している。衆僧と民戸が数十家あるのみである。白浄王の故宮の処に太子の母形像が作ってあり、および太子が白象に乗り母の胎内に入る時の像がある。太子が城の東門を出て病人を見て車を回し還った処にみな塔が立ててある。阿夷が太子の相を見た処、難陀と象を撲ち捅射した処がある。箭は東南方三十里の地に入り泉水が出る。後世の人、治して井戸を作り行人に飲ませる。仏が得道して還り父王に会われた処、五百人の釈迦族の者が出家して優波離に向かい礼をなし、地が六種に震動した処、仏が諸天のため法を説き四天王らが四門を守り、父王が入ることを得なかった処、仏が尼拘律樹(榕樹)の下で東向きに坐り、大愛道が仏に僧伽梨を布施した処、この樹はいまなおある。瑠璃王が釈迦の種族を殺し、釈迦の種族が死んでことごとく須陀洹を得た処にも塔を立ていまもまたある。城の東北数里に王田があり、太子が樹下に耕者を見た処である。城の東五十里に王園あり。園名を論民(ルンミンディ)という。夫人は池に入りて洗浴し、北岸に二十歩、手をあげて樹枝をつかみ、東を向いて太子を生んだ。太子は地に落ち七歩行き、二竜王が太子に水を浴びせ身体を沐浴させた処に井戸を作った。〈中略〉迦維羅衛国は非常に荒れはて人民は稀で、道路は粗末で恐ろしく白象や師子が現われ、みだりに行くべきではない。〉

このように、釈尊滅後800年後の法顕のみたカピラヴァストゥの荒廃きわまりない様子が記されているが、仏説 ・ 伝承のある各所には仏塔が建てられ、カピラヴァストゥから東へ五十里でルンビニーに達すると記されている。法顕と玄奘では約200年の差があり、その記述内容にも異同がある。よって次に『大唐西域記』を見てみる。

『大唐西域記』では『法顕伝』にくらべカピラヴァストゥのことが詳細に記されている。伝承 ・ 伝説の部分を省き、遺構の記述のみを列挙する。

〈劫比羅伐窣堵(カピラヴァストゥ)國、周囲は四千餘里なり。空城は十数にして荒廃はすでに甚だしい。王城は頽れ周囲の量も不詳。そのうち宮城は周囲十四、五里。煉瓦を積みあげ基礎とし堅固である。空しく荒れて久しく人の住む所も稀である〉

〈伽藍はゆえに基礎が千余ヵ所あり。宮城の側に一伽藍あり。僧徒は三千余人。小乗の正量部の教えを習学している。天祠は二ヵ所。異道(の人々)が雑居している。〉

〈宮城の中に古い基礎がある。浄飯王の正殿なり。その上に精舎を建て王の像が作られている。その側の遠くない所に古い基礎がある。摩訶摩耶(唐で大術夫人と言う)の寝殿なり。(その)上に精舎を建て中に夫人の像が作られている。その側の精舎は釈迦菩薩が母の胎内に降神された処なり。中に菩薩降神の像がある。〉

〈城の南門に窣堵波あり。太子が諸釈迦族と角力し象を擲げた処なり。(中略) その象が地に堕ち大深坑ができ、土地の俗説では象堕坑と相伝されている。〉

〈東南隅に一つの精舎あり。中に太子が白馬に乗り虚空を凌ぎ駆ける像なり。これは踰城の処なり。城の四門の外にはそれぞれ精舎がある。中に老 ・ 病 ・ 死の人や沙門の像が作られている。これは太子が遊観され、人々の姿を見て感懐を増し、深く俗塵を厭われ、ここに於いて悟りを感じ、僕者に引き還すよう命じられた。〉

このように、『大唐西域記』ではカピラヴァストゥの当時の状況、特に建造物や遺物の位置 ・ 内容が詳細に記されている。『法顕伝』との合致をみる部分も多く見られ、当時のカピラヴァストゥ領内の仏塔や城、アショカ ・ ピラの位置関係 ・ 配置などを知る上で重要な史料である。

ヨーロッパの先学達も当然ながらこの史料をもとに発掘調査を行い論拠を説いているところである。特にルンビニーやサガルハワ、ニガリ ・ サガルなどの遺跡の位置関係、アショカ ・ ピラの位置関係などから見えてくるのは、広義のカピラヴァストゥと狭義のカピラヴァストゥが混在して取り扱われている点である。

広義のカピラヴァストゥとは国としての存在であり広い地域を指すものである。狭義のカピラヴァストゥは首都あるいは首城としてのあり方である。ドイツの A. Fuhrer などは前者のカピラヴァストゥであり、インドの P. C. Mukherji などは後者の考え方とも言えよう。 いずれにしても釈尊が29歳まですごし、四門出遊(出家動機)をおこなった釈迦族の居城は存在したのであり、これを紐解くことは仏教史上のおおきな課題であることに違いはない。

カピラ城に隣接する博物館

紀元前1~2世紀のシュンガ朝時代に使われていたとされる赤土の土器や、2~3世紀のクシュナ朝時代のテラコッタポット、それ以降の3世紀~8世紀頃の灰色陶器など、時代を経た歴史ある陶器などが発掘展示されている。

また、ブッダ(Buddha)釈迦の石像をはじめ、ヒンドゥー教の神様のシヴァ・パールヴァティー(Shiva Parvati)やヴィシュヌ(Visnu)、ガルーダ(Garuda)などの石像などもある。さらに、紀元前8~12世紀のチョーコパーニ洞窟(Chokhopani Cave)からの陶器群。同じ洞窟からは歯や顎、頭蓋骨など、人骨も出てきている。遺跡からは時代ごとの銀や銅製の硬貨なども発見されており、紀元前3~8世紀にかけて使用されていた銀製のコインもある。


(日本の立正大学による発掘成果について)
立正大学がネパール王国政府考古局と共同してティラウラコット遺跡の発掘調査を開始したのは昭和42(1967)年のことであった。それ以来十数年間、8回にわたって調査が行われた。その発掘調査に関する報告書が出版されている。博物館に展示されてある発掘物などに関しても、同書において報告もされている。





目次

第1章 ティラウラコット遺跡と周辺の遺跡
     (カピラヴァストウ探索の歴史;周辺の遺跡)
第2章 ティラウラコット遺跡の概要と調査経過
     (ティラウラコット遺跡の概要;調査の経緯 ほか)
第3章 ティラウラコット遺跡第7号丘の調査
     (層位および文化期;遺構 ほか)
第4章 ティラウラコット遺跡第2号丘の調査
     (遺構;出土遺物)

付載(『釈迦の宮殿カピラ城跡調査の記録』;『ティラウラコット遺跡―発掘30年の回顧』 ほか)

博物館内部
立正大学・調査報告書
展示物その1
展示物その2
展示物その3

法華宗による発掘調査基地

2023年1月時点のシャンティビハーラ

日本の立正大学によるカピラ城発掘プロジェクトにおいて、重要なベースキャンプとなってきたのが、立正院シャンティビハーラである。このシャンティビハーラは法華宗村上東俊の師父村上日源が、ティラウラコットに仏教寺院が無いことを嘆き、Risshoin Shanti Vihar Trust(ネパール現地法人)を設立して仏跡護持のために発起発案した寺院である。本ビハーラの初代法人会長には、元ビレンドラ国王第一秘書兼初代ルンビニー開発トラスト会長のローク ・ ダルジャンが就任し、当時はネパール政府公認の一大事業であった。

しかし1995年2月の本ビハールの上棟式後、4月に日源が突然遷化。その意思を東俊が引き継ぐこととなる。この惨劇から2年後の1997年、法華宗陣門流総本山本成寺八十六世 ・ 鈴木日艸が初代住職として就任し、3月にようやくシャンティビハーラの入仏落慶大法要を営むこととなる。1998年12月には中村瑞隆氏も本ビハールを訪れ、翌1999年4月に村上東俊がシャンティビハールの住職に就任した。

2014年1月より“Strengthening Conservation and Management of Lumbini, the Birthplace of the Lord Buddha, Phase2”プロジェクトよりティラウラコット発掘調査のベースキャンプにとの要請があり、以後、本ビハールはティラウラコットの発掘の拠点として、Robin Coningham やダラム大学研究者、ネパール考古局、世界各国の発掘調査団の受け入れ、宿泊、バックアップ機関として精力的に活躍してきた。村上東俊も積極的に関わり、その成果などを学会等で公表している。

しかしこのシャンティビハーラは現在、ネパール政府の世界遺産登録に向けた公園化事業計画の中で存続の危機に瀕している。これまで無償で全日本仏教会のマヤ堂マーキングストーン発見やルンビニー世界遺産登録の発掘拠点として、その足がかりを作ってきた本シャンティビハーラが、政治的思惑の見え隠れする中で接収されようとしているのである。

2023年1月調査時には、メイン管理棟はすでにネパール公的機関に売却済みであり、寺院も閉鎖され内部には何も残されていなかった。

ブッダ両親のストゥーパ

ブッダの両親を荼毘にふした場所との説

カピラ城址から北へ約 500mいくと、「双子仏塔(ツイン・ストゥーパ)」とよばれる大小2基の墳墓がある。発掘調査の結果、シャーキャ国があった時代のものであると推定され、大小よりそってたっている様子から王と王妃のストゥーパであると推定されている。

発掘調査によると、この 2 基は、ブッダの父・スッドーダナ王と母・マーヤー王妃のものであると比定されている。



両親の墓へのアプローチ道
釈迦の父親の墓と比定されている。

釈迦の愛馬・カンタカの墳墓

一見すると、なんでもない小さな盛り土である。がしかし近年の調査によって、この場所も非常に重要な遺構であることが判明しつつある。この場所は、通称カンタカ・ストゥーパと称される。場所的には、カピラ城の東門の少し東南東側。東門から徒歩数分の場所である。

『カンタカ』、『東門』と聞いてハッとされた方もいることだろう。そう。29 歳の釈迦は居城の東門から出家の旅に出るのである。その際に、一人の従者(チャンナ)と一頭の白馬のみ連れていた。そして、空を飛ぶような速さにて出奔していくのである。この際に、釈迦が乗馬していた白馬の名前が『カンタカ』である。

王子時代には、釈迦はこの愛馬カンタカをこよなく愛していたのである。従者チャンナは、釈迦が別れを告げた後、カンタカを連れてカピラ城に戻ってくるのである。カンタカは釈迦との別れの後、悲しみのあまり亡くなってしまうのである。仏教の経典によると、カンタカは死後にバラモン(ヒンズー教僧侶)として生まれ変わり、ゴータマ・ブッダの法話に参加して悟りを開いたともいわれている。

近年の発掘調査では、このカンタカ ・ ストゥーパの南側に 250m×100mの大規模の僧院跡が発見されている。これは玄奘三蔵法師の、『大唐西域記』の中で記述されている、『三千人の僧がいた僧院』跡ではないかとの説が浮上している。

何でもない盛り土にも見える

クダン遺跡

解脱の後、故郷に帰った釈迦と家族の再会場所

クダン遺跡にある一連のストゥーパは、ブッダが悟りを開いてから7 年後に父であるスッドーダナ王と会った場所である。クダン遺跡の主塔は、釈迦の父との出会いを記念して、釈迦時代に建てられたと考えられている。

また、ラーフラ ストゥーパは、仏陀の息子であるラーフラが仏教集団に受け入れられた場所であり、この出来事を記念していると考えられている。 通称クダンとして知られているニグロダラマの古代遺跡は、ティラウラコットにあるカピラ城跡から約 6 km (3.5 マイル) の場所にある。

注)ブッダの息子であるラーフラは、8 歳でこのクダンの地にて初めて父親である釈迦と出会ったと言われている。そしてその場所で、仏陀が率いているサンガ(僧侶集団)に入信したと言われている。

このように、釈迦の父や息子(一説には妻も)といった当時の釈迦族の主要な人たちは、解脱後の釈迦との再会の為に、この地に池を作ったともいわれている。現在では、そのラーフラストゥーパの上には八角形のシヴァ寺院があり、後の時代のヒンズー教徒によって建てられたといわれている。

二グリハワ遺跡

那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷

ティラウラコットから二グリハワに行くには一旦、タウリハワ方面に1キロばかり戻り、バワニ・ビクッチュ交差点から北東方面に折り返し 6.3 キロほど進んだ田園地区の右手にある。ここは拘那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷であり、いわゆる「ニーグリ・サーガル」のアショーカ王石柱所在地として知られている。

ここの石柱にはアショーカ王の教勅文が刻まれている。一説には、一時この石柱が別の場所にあったものが、後世ここに移されたといわれてもいる。数十年前、ここに灌漑用の貯水池が作られたために、元の石柱が一部水没したことが確認されている。現在では池の辺に管理用の保護柵が出来、その中に石柱は横たわっており、傍らにはカナカムニ佛の立像が祠堂に祀られている。普段は保護柵に施錠されているが、傍らに管理小屋があり、見学の意思を告げれば開けてくれる。

アウロラコットはここから、僅か 500 メートルほど東に行った所にある。

アラウラコット遺跡

釈迦族の軍隊が駐屯したというアラウラコット遺跡

二グリハワのアショカ石柱場所から東へ約 500m 行った場所にあるが、現在は荒れた野となっている。この場所は、その昔釈迦族の軍隊が駐屯していた場所としてしられている。この野原の西側には人工的に掘削された水路がある。そして野原との境には、昔からの土盛りのような堤の痕跡が見られるのである。

ゴティハワ遺跡

過去七仏の一人を祀る、アショカ石柱

ブッダを含めて過去に誕生した過去七仏の 1 人であるクラクチャンダ仏(倶留孫仏 ・サンスクリット語(梵)、そしてパーリ語ではカクサンダと呼ばれるブッダ(仏)が誕生し入滅したとされる場所である。それを記念するアショカ王の石柱がある。

石柱の基部はこの場所にあるが、柱頭部はクダン遺跡の僧院跡に祀られている。カクサンダ(パーリ語)は、古代の仏陀の 1 人であり、その伝記は、パーリ語のカノンの本の 1 つであるブッダヴァムサの第 22 章に記録されている。上座部仏教の伝統によれば、カクサンダ仏は 29 名仏の 25 番目であり、古代の 7 仏の 4 番目であるといわれている。

カクサンダは、上座部仏教の伝統に従ってケマヴァティで生まれている。ケマヴァティは現在ゴティハワとして知られており、カピラバストゥの南東約 4 km (2.5 マイル) に位置し、ネパール南部のルンビニ ゾーンにあるカピルバストゥ地区にある。彼の父は、ケマヴァティのケマンカラ王の導師であるアギダッタであった。彼の母親はビサカといい、彼の妻はヴィロチャマナ(ロカニとしても知られている)。彼には息子のウッタラがいた。アショーカがルンビニを訪れた際にこのゴティハワを訪れ、ネパールと石の柱を設置し、柱に彼の訪問を刻んでいる。

古代の井戸跡

サグラハワ

釈迦族の滅亡の地

タウリハワ市街の北約 12 ㌔の場所にある。この森林地域は 1895五年に発掘された古代の池である。この古代遺跡の廃墟は、「ニグリハワ村のランブー池」Lumbusagar として、この地で知られていた大きな長方形の池で、その西および南岸に遺構は位置している。この地で、シャカ族は復讐の王、毘琉璃 Virudhaka によって虐殺されている。当時この辺り一面はシャカ族の血で塗りつくされたと伝えられている。

約7万人のシャカ族が大虐殺されたともいわれている。その後、シャカ族長老の記録には、数百の仏塔が彼らの子孫によって建立されたと伝えられている。ドイツ人・ヒューラー博士 A.Fuhrer は 1897 年から 1898 年にこれらの仏塔を発掘して調査している。シャカ族は本来、毘琉璃王Virudhaka の侵略軍と戦うことができたのだが、彼らは、流血を好まずに、戦うことをしなかったと言われている。

あえて戦うことはせず、自分たちの生活を犠牲にすることを選んだのであった。釈迦族の悲劇は貴賎の区別から始まったと考えられている。それは人種、貴賎、貧富、男女、一切を区別せずに等しく見ることがブツダの教えであるのに、シャカ族は自らの出自を自慢し、他の部族、ことにコーサラ国王の出自を忌み嫌ったところが復讐心をあおった根本の原因だったようである。ブッダの青年時代には、そんな釈迦族の貴賤区別社会を忌み嫌い、出家の旅へと駆り立てたのかもしれない。

巨大な池が横たわっている。
説明版
長閑な田園風景が展開している

ラマグラマ周辺

墳墓ストゥーパ

釈迦の母の故郷コーリヤ国の首都・ラマグラマ

ゴータマ ブッダの両親は、太陽王朝の2つの異なるマハージャナパダ(王国) の出身である。彼の父 (スッドーダナ) は釈迦王国に属し、母親 (マヤ) はコーリヤ王国に属していた。仏典によると、ブッダの大涅槃の後、彼の火葬された遺骨は、16の大法師のうち 8人の王子に分けられ、分配されました。それぞれの王子は首都またはその近くに仏塔を建設し、その中に遺灰のそれぞれの部分が安置された。これらの 8 つのストゥーパは次の場所にあった。

1.ブリー族の集落、アラカッパ。この場所の正確な場所は現在不明である。
2,カピラヴァストゥ、釈迦王国の首都 (このストゥーパの場所はいくつかの論争の対象となっている。実際にピプラワ(インド領内)に建設されたという説もある。
3,Kusinārā , 2 つのマッラ共和国のうちの 1 つの首都。
4,Pāvā , 他のマッラ共和国の首都
5,ラージャガハマガダ王国の主要都市
6,Vajjikaリーグの首都Vesāli
7,Veṭhadīpa、Veṭhadīpaka Brahmins の集落。

そして8つ目が、コリヤ王国の主要都市 (この入植地はコリヤナガラと呼ばれることもある)である、ラーマグラマである。

ブッダ涅槃の約300年後、アショーカ王はこれらのストゥーパのうち 7つを開き、ブッダの遺物を掘り出した。アショカ王の目的は、マウリヤ帝国全体で建設を計画していた 84,000 のストゥーパに遺物を再分配することにあった)。この時、伝説によると、蛇の王(ナーガ神)はラマグラマの仏塔を守っていて、アショーカ王が遺物を発掘するのを防いだと言われている。

その結果発掘されていない唯一の仏塔として残されたのである。その重要性から、ラマグラマ ストゥーパは新しい世界遺産として検討されている暫定リストに載っている。現在は草むらのマウンドしか見えないが、発掘調査の結果、その中にストゥーパがあることが判明している。このマウンドは 1899 年に初めて発見され、1964 年のさらなる調査により、その中にストゥーパが含まれていることが確認されている。

訪れると、マウンドからそびえ立つ大木にも気づくことだろう。実際、よく見ると、実は4本の異なる種の木が絡み合い、調和して生きていることがわかる。巡礼者にとって、仏教の理想を反映する重要なシンボルでもある。

日本からの側面支援・日蓮宗大本山・池上本門寺の事例

このラマグラマのある土盛り手前には、小さな公園様のスペースがあり、そこに釈迦像が安置されている。この釈迦像の土台には、アジア各国の言語で説明書きがある。日本語にても記述されている。その記述は、日蓮宗大本山・池上本門寺がルンビニ開発トラストとの協力によって、この像を建立したという内容である。

巨大な墳墓ストゥーパ
巡礼者も絶えない
墳墓丘へのエントランス

旧・コーリア国の中心地

コリヤ(パーリ:コリヤ) は、南アジア北東部の古代インド アーリア人の一族であり、その存在は鉄器時代に証明されている。コリヤ族の領土は、サラユ川から北のヒマラヤの丘まで広がる細長い土地であった。Rohiṇī川はKoliyasの西の境界であり、北西の隣人はSakyasでした. 南西では、アノマ川またはラプティ川がコリヤをコーサラ王国から分離し、東では彼らの隣人はモリヤであり、北東ではクシナラのマラッカと国境を接していた。

コーリヤの首都はラーマガマで、他の入植地の1つはデーヴァダハであった。部族の名前は、パーリ語のコーリヤで一様に証明されている。コーリヤはもともとコラの木が豊富な地域に住んでいて、コラの木が彼らのトーテムだったので、コラ(ナツメ)の木からこの名前を得ている。

歴史

コリヤ家の初期の歴史はほとんど知られていないが、彼らが結婚した西側の隣人であるサキャ家と関係があることは確かである。紀元前 6 世紀までに、コリヤ、サキャ、モリヤ、マラカは、西のカウシャリヤと東のリチャヴィカとバイデハの領土の間に住み、コーサラ王国からヴァジカ同盟を分離した。コーリヤ貴族の娘であるマーヤー王女は、サキャ族の支配的な貴族的寡頭制のメンバーの 1 人であるサキャラージャースッドーダナと結婚した。

マヤとスッドーダナの息子は、歴史上の仏陀であり仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタである。ブッダの在世中、サキャ族とコーリヤ族は、2 つの州の境界を形成し、両国が作物の灌漑に必要とするロヒニ川の水をめぐって武力抗争を繰り広げている。ブッダの介入により、最終的にこれらの敵意は終焉を迎えている。ブッダの死後、コーリヤはクシナラーのマラッカからブッダの遺物の分け前を要求し、その上に彼らの首都ラーマガマにストゥーパを建てている。

コーサラによる征服

ブッダの死後まもなく、父パセナディを打倒したカウシャリヤ王ヴィダバは、かつてコーサラの一部だったサキャとコリヤの共和国を征服しようと侵略した。長い戦争の末、ヴィダウダバはついにサキャ族とコリヤ族に勝利し、両陣営で多くの人命を失った後、彼らの国家を併合したのである。サキャ族は併合後すぐに民族グループとして姿を消し、コーサラの人口に吸収され、その後サキャ族のアイデンティティを維持しているのは数家族だけであった。

コーリヤも同様に、併合後すぐに組織として、また部族として姿を消している。コーサラがサキャとコーリヤを征服した際に被った莫大な人命の損失は、コーサラを著しく弱体化させ、それ自体がすぐに東の隣国であるマガダ王国に併合され、その王ヴィドゥダバはマガディー王アジャータサットに敗れ、殺害されている。

階級社会

コーリヤとサキャの社会は階層化された社会であり、その中には少なくとも貴族階級、土地所有階級、従者階級、労働者階級、農奴階級が存在していた。サキャ族と同様に、共和国の領土の植民地化に参加したインド・アーリア出身のコリヤ族は、土地を所有する権利を持っていたといわれている。




現在はヒンズー教の祠もある。

カンヤマイ寺院跡

釈迦の養母を記念した寺院跡

釈迦の養母とは

摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい)とも称せられ、釈迦の叔母であり養母である。また孫陀羅難陀(そんだら・なんだ)の母である。後に釈迦が悟りを得て仏となると、最初の比丘尼(びくに、女性の内弟子)となった。サンスクリット語では:Mahā-prajāpatī(マハー・プラジャーパティー)、パーリ語では:Mahā-pajāpatī(マハー・パジャーパティー)とも呼ばれる。

摩訶・波闍波提は、サンスクリット語のMahā-prajāpatīの音写で、摩訶(Mahā)は、インドにおける、「大きな、偉大なる」という意味の称号。波闍波提(prajāpatī/pajāpati)は、世主などを意味する。なお彼女は、喬答弥(きょうどんみ、ゴータミー)とも呼ばれる。釈迦族の女性はすべて同じくゴータミーと呼ばれるが、彼女は特に釈迦族の女性を代表して呼ばれることが多い。その理由は、彼女が釈迦族と同じ祖先である拘利族(コーリヤ)出身であること、また釈迦族の浄飯王(じょうぼんのう、スッドーダナ)に嫁いだことによるものである。また仏典の中には、『大愛道比丘尼経』などのように、彼女を大愛道、あるいは大愛道比丘尼と表記することも多い。

カンヤマイ寺院跡

釈迦牟尼仏陀の継母であるプラジャパティ ゴータミ女王を記念して建てられたと考えられている。寺院で見つかった主な画像には、蓮の花を片手に持つロケシュウォレの立像(もう一方の手は折られている)と、多くの石の偶像が含まれている。近くのマウンドには古代の陶器が今も見られる。
ネパール考古学局 (DoA) とルンビニ開発トラスト (LDT) によって実施された発掘調査により、この場所でいくつかの構造上の遺跡と石の遺物が発見されてもいる。2011年の発掘調査では、伝統的な宮殿と井戸の構造も発見されている。ただ、この辺りはユネスコ暫定登録はされておらず、まだまだ保全整備などが行き届いていない。遺構の周辺のほとんどはヒンズー教徒の集落である。よって、管理者などはおらず、簡単な案内看板があるのみである。残念ながら生活ゴミなども散乱しているのが現状ではある。

アジア最大級の巨樹神木

パカリ・ブリクシャ=Pakari Brikshya

この巨木は、お釈迦さんのお母さんの故郷・コゥリア国だったエリアにある。パカリ・ブリクシャ(Pakari Brikshya)と呼ばれ、イチジク科「ウィーピング・フィグ」(Ficus benjaminaは学名)である。常緑樹であるが、さすがに1月は緑の色合いが一年で一番薄くなる。

幹の周囲は約 82 フィート、高さは約 96 フィートある。枝は広く広がり、周囲は約 500 フィートにもなる。この木は伝説によると、釈迦もこの樹下にて瞑想をしていたという。当時から巨木で神聖な木とされており、木に関連する多くの神話や伝説が残されてもいる。

地元の人によると、この木には古来鳥が巣を作ったり、ハゲワシやカラスが止まったりすることはなかったという。また、ゾウは決してこの木に近づいたりしない。唯一、ナーガ(蛇・龍)はこの木の守護神となっており、木の下部にはその守護神を祭る祠があり、地元のヒンズー教徒はこの祠を大切にしている。

ルンビニ開発トラスト制作(2012年時点)の、ルンビニ公園内にある各国・各宗派寺院リスト

2023年1月時点においては、このリストより物件(寺院)数は増加している。

※ ルンビニ公園内における各国・各宗派の寺院群についての詳細レポートは、『釈迦生誕地探査行Ⅱ』を参照してほしい。

釈迦生誕地・探査行 ~仏教の過去・現在・未来~

2023年4月7日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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