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子供のいる風景

清水正弘

深呼吸クラブ出版



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目 次



「物語ーものがたり」の復活へ

見て、聞いて、心の目を育てる

ぬくもりの記憶

ひとときの待ち時間

背中の荷物

心の糸を紡ぐ

家族旅行

木陰の下にある教室

極北の教え

心安まる風景

まなざし

命の連続性

しあわせのリズム感

「物語ーものがたり」の復活へ

ここ数年来、とみに思うのは、「物語ーものがたり」ということである。人生にも、対人関係にも、なんにでも「物語」が存在している。

人間である限り、自分で考え、悩み、そして、自分のオリジナルの言葉で自分を表現したりしていると、必ずそこには「考える過程-プロセス」の蓄積がおこなわれているはず。

その「物事を考えたプロセスの蓄積」が、自分自身にとってのオリジナルな「ドラマ」を生むのではないだろうか。もっと、簡単にいうと、「自分の身体や思考」を通した「生の体験」の蓄積が「自分自身のオリジナルの人生物語」である、ということだ。

現代の私たちの周りを見ていると、「自らの体験や思考」を放棄できる環境がいくらでも存在している。インターネット上では、バーチャルな世界がすぐに目の前に展開する。五十年くらい前までは、「家業」という言葉があったが、現在では、「誰でもできる仕事」があまりにも多くなりすぎている。

コンビニエンスな社会とは、体験や思考までコンビニエンスやファーストフード化してはいないかと疑問に感じている。 自分自身の生の体験から紡いできた「言葉」や「表現」は、他者に対して、重く深く響くだろう。それは、紡ぐ過程において、悩み、苦しみ、右往左往して自分自身を絶えずシャッフルしているからなのだろう。

この「シャッフル作業」をせずに、「他人の言葉や表現」を借りて、その場しのぎだけのコミュニケーション手段として利用する人に、いとも簡単に騙される人があまりにも多いのはなぜなのだろうか?

その場しのぎの、いわば、風見鶏的な、いつも人真似だけの人生は、あまりにも寂しいものがある。というのも、その人の人生には、オリジナルな「物語」が感じられないからなのだ。

「物語」を持たない人からの、上澄み液のような薄い内容のない言葉に、いとも簡単に騙されてしまうのは、やはり現代社会に「実をもった物語」があまりにも少なくなっているからだろう。

また、その真実性を見極める眼力が社会から失われていることにも原因があるのではないだろうか。いかがわしい宗教性をもった勧誘などもそのひとつであろう。

手仕事が多かった時代、世界のどこの国でも、その生の体験から生み出された「物語」があった。その代表格が、伝説になったり、昔物語になって継承されたりしたのだろう。

「百姓」という言葉は、「百の仕事をする人」という解釈もできる。百姓とは、自分の身の回りのことは、なんでも自分で考え、自分で解決してきた人のことなのだろう。

私たちは、もっと日常生活の中に、「自分自身の物語」を「復活」させる必要があるのではないかと思う。

人工物の中に囲まれた生活環境では、その物語の復活は困難さを伴ってしまう。なぜかというと、そこには、「計算された合理性」は存在するが、「予測されない、ハプニング」は存在しないからなのである。

予測されないハプニングに対して、どれだけ自分自身のこれまでのシャッフル体験で、そのハプニングにアドリブで対応できるか・・。

それが、「物語」の奥深さではないだろうか、と考えると、予測不可能な自然環境の中に身を浸す行為というのは、自分自身の物語再構築への序章なのかもしれない。

世界の秘境・辺境の地とは、そんな人間にとって『不可知』な自然現象に寄り添いながら毎日を送っている。その地に住む子供たちにとって、『不可知』なものへの畏怖と同時に、寄り添う術を『智慧』として育んでいくのだろう。

このエッセイ集は、そんな『子供のいる風景』を描いている。

中国・西域のバザールにて
 インドの列車内。物売りの少年
 バングラデッシュの水辺にて
 ネパール山村の小学校
 ブータンの僧院にて
 ニューギニアの昼下がり
 インドネシアの湖にて
 ベトナムの川辺にて

見て、聞いて、心の目を育てる 
~好奇心~

世界の秘境や辺境と呼ばれる場所で必ず出会う目がある。それは、はにかむ頬の上で光り輝く子どもたちの目である。テレビやコンピュータ―のない辺境の土地に住む子どもたちにとって、異国人との出会いほど刺激的なものはないだろう。

「ナンダ、コイツ?」

から始まり、「どこから来たのかな?」、「ケッタイな服着とるな?」などなど。彼らにとって、異国人は不思議の館からの来訪者なのである。

中国奥地のパミール高原を訪れた時のこと。

遊牧民の移動式テントの生活ぶりが珍しくてビデオ撮影に熱中していた。その時の私を写した友人の写真を見て驚いた。撮影者である私は、隣にいる遊牧民の子どもたちにしっかりと観察されていた。戸惑いとはにかみを示す距離を保ちながら、好奇心の光線を私の全身に浴びせている。

その光はまるで絵本をみている時に宿る、幼児の目の輝きに似ている。そういえば、撮ったばかりの映像を彼らに見せた時も、同じ目だった。先ほどまでの自分達が、小さな画面の中で動き、目の前の生活の品々が収まっている。異次元の世界をただじっと、食い入るようにみつめていた。

秘境や辺境の地は、大自然の奥深い場所にある。私たちが当たり前と思っている便利さはほとんどない。得られる日々の情報は、自ら感じたことや見聞したこと、父母や近隣の人から教えられたものくらいである。

それでも彼らの目に出会うたび、人間にとって大切なことは獲得する知識の量ではなく、好奇心という『心の目』を育てることではないかと思う。

ぬくもりの記憶

知人の写真家が、アマゾン河の源流奥地にある密林を訪れた。

電気やガスなど文明の恩恵を一切受けないジャングルの中、狩猟生活をする人たちの村で住み込み取材をした。

帰国後、彼はこんな話しをしてくれた。

彼の滞在中、親が子供を叱る声を聞いたことがなかったという。

緑深い森の中からは、絶えず鳥や生き物の声が聞こえてきた。しかし、村の中はいつも穏やかな時間が流れていた。

誰かの怒鳴り声やヒステリーな声は一切聞こえてこなかったという。

確かに、世界の辺境や秘境の地で、親が子供をむやみに叱り飛ばす風景に出合うことは少ない。

ましてや親が子供に肉体的暴力を加える話しはまず聞かない。

現在の日本にはあって、辺境の地には絶対ないものがある。それは、親による子供への虐待死である。

自分の命と連続性を持つ、子供の命の光を消す行為は、自らの未来を虐待死させることに等しい。

辺境の土地の多くは、平均寿命が日本より三十歳ほども低い。学校や病院など社会的環境も満足ではない。

それでも、人々は自分たちの未来を穏やかな時間の中で大切に育んでゆく。

かたや、物質的に豊かになった日本の家庭では、ますます家族が共有する心安らぐ時間が減ってゆくのは何故なのだろうか?

私は思う。辺境の土地ではぬくもりの記憶が途切れることなく親から子へと伝わっている。

ベビーカーなどなく、母親は絶えず乳飲み子を背中に背負うか、腰や胸に抱いている。

母親の体温や家族の声は、きっとぬくもりの記憶となって乳飲み子に伝わってゆく。

子供の時に記憶したぬくもりのひと時を、自分が親になった時にわが子と共有しようとする。

こんな当たり前のことが、どうして日本の社会で困難となってきたのだろうか。

幸せの原風景とは、身近な家族の体温を感じることなのかも知れない。

ひとときの待ち時間

私が子供だった頃、いつも何かを待っていたように思う。

それは授業終了のチャイムであったり、友達からの遊びの誘いや外出した母親の帰りなどであった。

待つことは退屈であったり、時にはウキウキしたりする、何とも不思議な時間だった。

そして待つことの記憶が一番多いのは、ご飯ができるまでの時間ではなかっただろうか。

これまでに訪れた世界の辺境の土地でも、いろんな待ち時間に巡りあった。

一番素敵な待ち時間との出会い、それはニューギニアのジャングルの中だった。

飛行機を幾度も乗り継ぎ、ようやく3日目にダニ族が住む谷あいの空港に到着。

緑の魔境とも呼ばれる熱帯雨林のジャングルを歩いて彼らの集落を訪問した。

男性はひょうたんで作ったぺニスケース、女性は腰ミノと頭からぶらさげた袋が彼らの衣裳である。

夜になればその格好のまま、灯りのないキノコ様の家の土間にゴロンである。限りなくシンプルな彼らの生活には、ダイナミックに生きる力が溢れてもいた。

我々異邦人の訪問を歓迎し、芋の石蒸し料理を用意してくれた。料理を作るとなると、大人から子どもまで一族全員が手伝うのである。

しかし料理はいたってシンプル。

まず、集落の広場に穴を掘る。次にジャングルに繁る木の葉を集めその穴に敷き詰める。畑で取れた芋をその上に入れ、再度木の葉を敷く。

その上に芋、そして木の葉と繰り返し置いてゆく。最後には焚き火で熱した石を重しのように入れ、全体を木の葉で包み込み完了。

しばらくすると、木の葉の間からモクモクと湯気が立ち始めた。そして、その湯気に誘われるように幾人かの村人がその周りに腰を下ろし始めた。

芋が蒸し上がるまでの時間、村人たちは穏やかに、そしてにこやかに隣の人と話しをしていた。

久し振りのごちそうに嬉しさを隠し切れず、子どもたちは広場を歩き回っていた。

そこには静かな、そして温かいひとときの待ち時間が流れていた。

背中の荷物

少年たちの背中には四十キロから五十キロくらいの荷物があった。年恰好は、連れて行った息子とおなじ十二・三歳くらいだろうか。

小学校最後の春休みに、父親と二人でヒマラヤを歩いている我が息子は、彼らを見て何を思ったのだろうか。

世界の屋根・ヒマラヤ山脈のポーターたちは、質素な竹で編まれた籠を一杯にして荷を運ぶ。

その重さは女性一人分の体重に相当する。

なかには電柱サイズの長さと太さの丸太をバランスよく運ぶ人がいたり、家の扉や窓ガラスをそのまま背中に背負って運ぶ人もいる。

まだまだ母親に甘えたい年頃の子どもが、大の男と一緒になって額から労働の汗を流している。

一日五~六時間程の荷運びで彼らが得られる現金収入は、日本円で約五百円ほど。

生活物価の違いはあるが、その金額はあまりにも安い。

ここは、標高三千メートルを越す雲上の街道筋。冬は朝晩の気温が零度を下回る日が多く、夏は深い雨雲が一日中空を覆う。

この街道筋の集落のほとんどは、いまでもマキをかまどにくべて食事をつくり、そして暖もとる。

水汲みと家畜の世話、これが学校に行く前の子どもたちの日課である。

そして身体が大きくなった少年たちは、街道筋の荷運び人となる。

正直に告白すると、息子と日本を旅発つ前、私は少々気負っていた。

二週間という旅の間におこなう息子との男だけの会話。父親として息子に言うべき言葉を私は探していた。しかし、途中でその作業を諦めた。

息子と私の前で繰り広げられる、驚くほど慎ましい人々の日常。

その日常の光景のひとつひとつが、息子に対する無言のメッセージのような気がしていた。

街道筋にはコンビニ店や自動販売機などもちろんないが、峠の茶屋には世話好きで話し好きのオバサンが旅人を待ちかまえている。

荷運びの少年たちも、大人の話しに耳を傾けながら社会への目を磨いてゆく。少年たちの背中の荷物の中には、一人前の男としての自負心と責任感が入っているように思えた。

息子にとって、ヒマラヤに生きる同世代の少年たちの姿は、教科書や父親の言葉を遥かに超える生の教材だったように思う。

心の糸を紡ぐ

ギッタンバッタン、ギッタンバッタン、この織り機が奏でる音から日本の子どもが思い浮かべられるのは、昔話の物語くらいかもしれない。

しかし、アジアの僻地を旅していると、今でもこの音は日常生活には欠かせない音として残っている。

アジアの伝統織物の担い手は、一般の家庭の主婦たちである。各地に残る伝統的な技法で織られる布には、独特の色彩と図柄が施されている。

その色彩感や神秘的な文様には、土俗の信仰心や宇宙観などが反映されていると聞く。

驚かされるのは、彼女たちが描かれたデザインなどを見ずに織ってゆくことである。

豊かな配色や複雑な図柄を、彼女たちはどのように伝承してきたのだろうか。

バングラデッシュ東部のある大家族の農家を訪れた時のことである。

朝ごはんのかたづけがひと段落した主婦たちは、簡素な織り機の前へと移動した。

織り機は、風通しの良い軒下と、庭の木陰の下に置かれていた。

洗濯物が風に揺らぎ、庭先では犬が昼寝を始めた。そんなまことに長閑かな風景の中を、織り機の音はゆっくりと流れはじめた。

しばらくすると、近くで遊んでいた女の子たちが織り機の傍らに座り、じっと母親たちの手元を眺めはじめた。

母親たちは、絶えず糸を紡ぎなからも明るく朗らかに娘たちに語りかけている。

娘たちは、母親の指先と顔を交互に見ながら、話しに聞き入っている。

はっと気がついた。いままさに母から娘へ何かが伝わろうとする瞬間なのだ。

母親たちの指先からは伝統の技法が、言葉からは民族の精神的な拠り所が、そして笑顔からはそのやさしいまなざしが、娘たちへと伝えられようとしているのではないだろうか。

そして娘時代の母親たちにも、このような長閑かな時間があったのだろう。

アジアの僻地に残る織物には、伝統の工芸技法とともに母から娘へと伝えられた、庭先での長閑かなひと時が織り込まれているに違いない。

家族旅行

日本人と結婚し、大阪に住んでいるチベット人女性から聞いた話である。

彼女はチベット高原を遊牧しながら生活する家族の一員として育った。大家族で、いつもうるさいくらい家の中は賑やかだったらしい。

子どもにもしっかりと労働の役割分担があった。燃料とする乾燥した家畜のフン拾いや水くみなどである。

夕食時間には、家族全員が食卓を囲み、一日の出来事を話し合うのが習慣だった。

そんな団欒の時間から、彼女は父親の力強さと、母親のやさしさを学びとったという。

そんな彼女が日本に来て一番驚いたのは、家族が食事のときにテレビを見ながら、ほとんど会話を交わすことなく食べることだった。

家族が一緒にいながら、そこには共有する時間が流れていないことに彼女は戸惑った。

彼女の故郷・チベットは、標高四千メートル前後の乾燥した高原地帯である。

物質文化が徐々に浸透しているとはいえ、厳しい自然条件と仏教への強い信仰心が、大半の人々の生活からシンプルさを失わせていない。

チベットの中心地・ラサの都には、セラ寺やチョカン寺など有名な寺院も多くある。

街中では地方から巡礼に来た人たちの姿も多く見かける。遥か遠く離れた土地からの巡礼に、数ケ月から一年前後の月日をかける人もいる。

家族や一族を単位とする巡礼団がほとんどであり、その多くは徒歩を移動手段としている。

粗末なテントで野宿し、僅かなおかずを分け合いながらの家族の旅は、遊牧をする家族の生活と似ている。

その旅で共有する時間の濃密度が、家族同士の心の絆をより一層強固なものにしている。

日本でも家族とともに旅行する人も多いことだろう。

あまり積極的に家族サービスをしていない者の言い訳かもしれないが、家族旅行の価値とは、どれだけ費用をかけ、どこまで遠くの観光地へ出かけたかではない。

どんな近場の日帰り旅行であっても、どれだけ家族の心に深く関わったかが大事なのではないだろうか。

家族旅行は、家族の絆を確認するとともにその絆をより太くするチャンスなのだから。

木陰の下にある教室

海外に出た時、時間があれば、早朝の散歩を楽しむようにしている。さわやかな空気とともに、意外な出合いのひと時を味わうこともある。

ネパールの南西部に、お釈迦さんが生まれたといわれるルンビニという町がある。

町外れにある知り合いの農家で迎えた朝は、けたたましい鶏の鳴き声からはじまった。

顔を洗っていると、牛がのそっと庭先へ入ってきた。嬉しいことに、この日の朝は牛車に乗って散歩に出掛けることになった。

しばらく荷台に寝転びながら、まことにのどかな田園風景を眺めていた。

そのうち、「ガタ」「ゴト」「ガタ」「ゴト」と木製の車輪が回る音にまじって、幼い子どもたちの元気な声が聞こえてきた。

いつのまにか牛車は、樹木が繁る林のそばまで来ていた。林の奥を見てみると、そこには三十人くらいの子どもたちが座っていた。

なんと、そこは『木陰の下にある教室』だった。

一つの木の下に十人ほどが輪になっている。木陰ごとにクラスが分かれているのだろう。

一番小さい子どもたちのクラスでは、黒板に書かれた数字のような文字を元気一杯復唱している。大きい子どもたちのクラスでは、先生の話しを静かに聞いている。

ルンビニは亜熱帯性の気候なので、日中は四十度近くまで温度が上がる。しかし、朝七時前の木陰の下は、幾つかの小さな風が心地よさを子どもたちに運んでいた。

おもわず私も木陰の下に座り込み、しばしの間生徒の仲間入りをさせてもらった。

突然の珍入者の出現にもかかわらず、木陰の教室は先生のおおらかな笑顔と、子どもたちのはにかんだ笑顔で包まれていた。

お釈迦さんの時代も、子どもたちの教室は、おそらく木陰の下だったのだろう。そこでは穏やかな時間が小さな風とともに静かに流れていたように思う。

そんなことを思っていると、和やかな笑みが私の顔にも自然に浮んできた。

その瞬間あることに気がついた。小さな林の木陰の下は、笑顔をつくりだす教室でもあったのだ。

そして、小さな子どもたちと一緒になってネパールの数字を読んでいるうちに、私の心はしだいにホカホカと温かくなったのである。

極北の教え

「ヒューイ!ヒューイ!」

雪煙が舞う氷原上を男たちの声が飛び交っていた。と同時に、長いムチが鋭い音で空気を切り裂く。

「ビシッ!」「ビシッ!」

ムチの先端は、容赦なく前方を駆ける犬の横腹を赤く染めてゆく。十頭もの犬が引っ張るソリは、時速三十キロくらいで滑るように氷上を走っていた。

ただでさえ外気温はマイナス二十度を下回る厳しい寒さ。犬が後ろ足で舞い上げる細かい雪煙で、極地用の防寒着が見る見る間に白く、そして凍りついてゆく。

極北の島グリーンランドの西岸、五百人くらいのイヌイット(エスキモー)の人たちが住むカーナーク村に滞在し、犬ぞりで氷山を周遊する小旅行に出掛けた。

見渡す限り、白・白・白のみの単一な色彩世界である。陸地と氷原との境目も判別できない。氷原上には、五階建てのビルくらいの巨大な氷山が不気味な姿で乱立していた。

私が乗るソリの御者台には、四十代の父親と十歳くらいの息子が乗っていた。父親の野太い声に混じって、少年の「ヒューイ!」という声が飛ぶ。

寒さで父親のまつ毛や髭が白く凍りつき、少年の頬は真っ赤である。

荷台から薄目を開けて見ていると、少年の右腕が絶えず回転しながら空を切っていた。そして少年はチラチラと右横の父親の動作を盗み見ている。

彼は父親のムチさばきを真似ていたのである。

カーナーク村は、一年のほとんどが雪と氷に閉ざされる。極北の厳しい自然環境下では、狩りや移動の手段として犬ぞりの役割は重要である。

命令を聞かない犬へは厳しい体罰も加えられる。逆に犬に舐められるようなムチの扱いは、それこそ極北に生きる男にとって死活問題である。

そのムチさばきの感覚を、イヌイットの少年は自らの五感で体得しようとしていたのである。

厳しい自然と対峙している土地では、ほんとうに必要な『生きる力』はこのようにして伝承される。

レイチェル・カーソンは、子供にとって「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でない、と語る。

子どもたちが五感で体感する感覚には、私たちが忘れている大切なものが含まれているような気がしてならない。

心安まる風景

人それぞれの人生というアルバムには、忘れられない風景が刻まれている。

時としてそれは、予定外のハプニングから生まれることがある。その浜辺も立ち寄る予定ではなかった。

インドネシア・ヌサテンガラ諸島を旅をしている途中、夕陽を眺める為に海辺の漁村で休憩した。浜に出てみると、大きな太陽の下端がちょうど水平線に接しようとしていた。

淡く柔らかな夕暮れ時の光線は、穏やかな海面と浜にいる人々を、薄紅色に包み込んでいた。

浜には小船に乗って漁から帰ってきた男たち、それを出迎える女たち、そして裸で波と戯れる子ども達がいた。

女たちの頭には、魚を入れる為なのか、洗面器のようなタライがのっていた。やがて男たちは小船から降り、取ってきた魚を女たちに預けた。そしてみんな総出で、大きな網を取り込み始めた。

女たちはというと、浜にしゃがみこみ、賑やかに喋りながら魚のウロコをタライの中で取りはじめた。

お喋りの輪の端には、学校帰りの少女の姿がある。浜で遊んでいた男の子たちも、父親たちの傍で作業を眺め始めていた。

夕暮れ時のその浜には、小さな漁村のほとんどの人がいたのではないだろうか。大人も子どもも、みんな日焼けした顔の中で白い歯がこぼれていた。

それはまるで一幅の絵を見ているような時間だった。沈みゆく太陽を見ながら、私は嬉しくてそしてなぜか物悲しい複雑な気持ちになっていた。

思い出してみると、私の子ども時代の日本の田舎には、インドネシアの浜辺のような夕暮れ時が残っていた。

子ども達は、明日の事など関係なく晩ご飯のおかずのことだけを考えていた。

大人たちは粛々と一日の作業を終えていた。寂寥感と同時に一日の充足感も感じられる風景。

夕焼け空の下では、家族の小さな幸せが色鮮やかに浮かび上がっていた。

私たちは、いつから心安まる夕暮れ時の風景を忘れはじめたのだろうか。物質的に豊かになると、小さな幸せに満足できなくなる。

多くの場所で、ため息が生まれる現代の夕暮時はあまりにも悲しすぎる。次世代を担う子ども達へは、微笑みが一番夕暮時に似合う風景だと伝えたい。

まなざし

見るたびに、その少年のまなざしは、私の心を揺さぶる。

シルクロードのオアシスで何気なく撮ったバザールでのひとコマ。

撮影時、目的の被写体は手前にいる生活具の細工職人であり、少年の存在は私の眼中にはなかった。

思い返してみると、大人の職人に混じって見習い中の少年たちが作業をしていた。そのなかのひとりなのだろう。

鳥打帽をはすかいにかぶり、ちょっと得意げに腕を組んだポーズをとる。かすかに微笑みながら、カメラの向こうにいる私を見ている。

心の底まで見透かされるようなそのまなざしに、いつも私はタジタジとしてしまうのである。

辺境の地でのバザールでは、このような子どものまなざしに遭遇することが多い。

路地裏で鼻歌まじりに笑いながらミシンを踏んでいた少年。
生地屋の店先で、黙々と経典を読んでいた少年。
軒先に吊られた絨毯の陰には、妹をあやす店番の少女。

注意深くバザールを歩いて見ると、多くのまなざしに出合うことができる。このまなざしに出合うたびに私はいつも考え込まされる。

辺境の土地では、まだまだ子どもたちも貴重な労働力である。彼らは働きながら、バザールの中で学校や親以外の人間と接触する。

多くの人々の喜怒哀楽の表情を見ながら、自分も社会とつながっているという実感を日々獲得してゆく。

彼らにとってバザールは、大人への階段の場所であり、人生の学習場所でもある。彼らの顔には、子どもと大人の表情が同居している。

だからこそ、ふと見せる彼らのまなざしには、明日を夢見る希望と今の自分への小さな誇りが同時に感じられるのだろう。

残念ながら、今の日本でこのまなざしに出合う機会は非常に稀なことである。

いつの間にか子どもから大人になってしまう現代の日本の社会。

自分の強さ、弱さを自覚しないまま大人の世界に入ってしまう現代社会。

自分の弱さに真摯に向き合う時間が、他者の痛みを共有できるココロの栄養素となるのだが、

カラダは栄養過多なのに、ココロは栄養不足のまま大人になってゆく。

果たして大人への階段のない社会を、ほんとうに豊かな社会と呼べるのだろうか?

命の連続性

アフガニスタンの東隣にある国・パキスタン。その北部の山岳地帯に『不老長寿の里』と呼ばれる谷がある。

断崖絶壁につけられた道を車に揺られること丸2日、ようやくこの里に到着できる。

フンザと呼ばれるこの里からは、「天使の首飾り」と呼ばれるラカポシ峰をはじめ、万年雪を抱いた秀麗な山々を望むことができる。

春になると、桃の花やアンズの花が谷あいに点在し、紺碧の空の青、巨大な氷河の白といった広大な自然のカンバスを豊かな色で染める。

夏の到来は、氷河からの流水が増したことでわかる。そして短い秋の後、足早に冬が訪れ、山々と里が白一色に染まる期間が長く続く。

この里に生まれ、日本人女性と結婚した友人がいる。彼は、妻の父親に痴呆の症状が出た時、はじめて痴呆症という言葉を知ったという。

不老長寿の里には、痴呆になった長生き老人はいないらしい。確かにこの里では、歳を重ねた人たちを多く見かけた。

穏やかな昼下がり、陽だまりの中で畑仕事をしたり、家の白壁にもたれながらタバコを吸っているシワだらけの老人たちである。

季節が変化していくスピードと同じ速度で、日々の生活が営まれる。

大自然が日頃のストレスの濾過器となり、山あいの小さな谷で、常に土と接しながら人生が完結してゆく。

フンザの老人たちは、生きてゆく上で何が最小限必要なのかを選択し終わっているのだろう。

フンザでは、三世代や四世代同居などはあたりまえである。ボケない長寿の老人の存在は、子ども達にとってそれこそ生きた教科書ではないだろうか。

朝な夕な、その教科書は常に生きる意味について無言のメッセージを発している。

子ども達は、命の連続性を実感しながら生きる意味を模索してゆくのだろう。

片や日本では、生きた教科書の多くは遠く離れた田舎か郊外の老人ホームにいる。

彼らからの無言のメッセージは、核家族の個室や子供部屋までは届かない。

平均寿命が世界でトップレベルの国では、命の連続性がより不鮮明になってゆく気がしてならない。

しあわせのリズム感

『日本人はミラクルだ!』

ヒマラヤの山中にブータンという小さな王国がある。数年前、この国から来日した僧侶が私に言った言葉である。

広島に来た彼は、原爆投下直後の写真と、現在の街の景観を見比べながら、頭を悩ませていた。

悠久の自然景観・ヒマラヤを背後に生活するブータンの人にとっては五十年や六十年くらいで、街の景観や物事の価値観は変わらないのであろう。

インドと中国という二つの大国に挟まれたこの国の住民の多くは、リアルな海を見ることなく人生を終える。山間部にはテレビなどなく、バザールでの会話や祭りの時などが貴重な情報交換の場でもある。

少し前まで外国人の入国を制限していたので、禁断の国とも呼ばれていた。物質文化が徐々に浸透しているが、現在でも学生や公務員は、日本の着物に良く似た民族衣装を着て学校生活や仕事をしている。

寺子屋のような教室では、伝統的な文化や価値観がゆっくりとしたリズムの中で、次世代に受け継がれてゆく。

子供達の輝く瞳が、そのことを確実に物語っていた。これまでの辺境の旅で出合ってきた子供達に共通して言える事は、この輝く瞳を持っていることだ。

世界の辺境の子供達から私が学んだことがある。

人間にとって生きる幸せとは、他人との比較の上で感じるものではなく、自らの瞳の中に明日への夢や希望を宿すことではないだろうか。

コンピューターがどんどん身の回りの世界をスピーディに変化させてゆく現代。常に後ろから何かに追い立てられている気分がつきまとう。

先の見えない焦りと苛立ちが、ゆとりという言葉から意味を失わせる。街の外観をスピーディに変化させたミラクルさは、しあわせのリズムも急激に変化させた。

私達親の世代こそ、自らの心の外観に日々の小さな感動や感謝の風景を取り戻す作業を始めなければなるまい。

家族のしあわせのリズム感は、その作業の中から生まれるのではないだろうか。

子供のいる風景~辺境の旅から~

2023年4月10日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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