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人生には数々の出会いがある。
後で振り返ると、その時の出会いが人生のターニング・ポイントであったと思うことがある。
来日中のダライ・ラマ十四世と出会った同志社の学生時代が、まさに私にとっての『その時』だったように思う。
ヒマラヤの山河を馬の背に揺られながら、『その時』からの日々を私は振り返っていた。
学生時代は無鉄砲で荒削りで、無分別な、思慮より先に足が出てしまう若者特有の行動者であったと思う。
社会人となり分別と責任感が多少身についたと感じた頃、下腹と魂に余計な贅肉がついていることに気がついていた。
喉の渇きを覚えるように、『これではいけない』と思っていた頃に、大学の先輩から今回の遠征の誘いを受けたのである。
遠征のテーマは、『河口慧海』。
身内の顔をチラチラと横目で見ながら、どうしても心はチベットの青い空へと浮遊してしまっていた。
文献や資料の中では、明治時代の熱き情熱をもった青春群像が躍動していた。遠征隊への参加を決断してからも紆余曲折の日々・・。
しかし、『その時』から約二十年後、私は再び馬上から熱き吐息をヒマラヤへ投げ掛けていた。
そして緊張感という名の鋭利なナイフは、私の魂と下腹の贅肉を見事に削ぎ落としてくれたのである。
でも、日常っていう厄介なシロモノは、音をたてずに新たな贅肉を身の回りに侵入させてきている。
許されるのであれば、新たな贅肉を削ぎ落とす旅への準備を始めなければ、と思っている今日この頃である。
~明治の旅人・河口慧海~
本年(ニ〇〇四年)は、日露戦争開戦百年である。一九〇四年秋、乃木将軍率いる第三軍は、二〇三高地を含む旅順のロシア軍要塞に幾度となく攻撃をかけていた。
同じ秋のある日、ひとりの日本人僧侶が二回目のチベット旅行に向けて神戸港を出発した。僧侶の名前は河口慧海。
その秋、彼は三十九歳になっていた。一九〇四年は明治でいうと三十七年。明治という時代は彼が二歳の時に産声をあげたのである。
そして昭和二十年、彼は脳溢血で八十年の生涯を終える。明治、大正、昭和とまさに彼の人生は、日本の近代史とともに歩んで来たといえる。
川喜田二郎氏は、『第二回チベット旅行記』(講談社学術文庫)の巻末に次のような一文を寄せている。
「河口慧海は、あの偉大な明治という時代の生みおとした精華である」
西欧列強が驚愕した明治維新という大革命は、なにも外部からの圧力や文化の流入という消極的な受けいれの精神だけではできるはずがない。
新生日本の深部から胎動する精神のうねりというエネルギーが、明治という時代を築いていった。その「明治の凝った美しい花のひとつ」が河口慧海であるとも述べている。
私はチベット高原にてこの一文に触れたとき、遠征にかける自分の動機の根源に出会ったような気がしていた。
今回の遠征は、日本山岳会百周年記念事業でもあり、日本山岳会関西支部七十周年を記念する学術登山隊であった。
私は大学山岳部の先輩で、東海支部の和田豊司氏と二人だけで構成する河口慧海足跡踏査隊に所属した。
昨年八月中旬に日本を出発し、その三日後には西ネパールのドルポ地区へと向かう馬上の人となっていた。
いきなり四千メートル台の峠越えが待ち受けていた。
『チベット旅行記』にも記述されている、千尋の谷やいまにも崩壊しそうな断崖絶壁の道などが百年の時を超えて行く手に立ち塞がっていた。
ムスタン地区のジョムソンを出発し、約一ケ月後帰着するまで総移動距離約四百五十キロのほとんどを四千メートルを越える高地で過ごす調査が続いた。
今回のネパール側における調査の主な目的はふたつあった。ひとつは、慧海師のチベットへの潜入ルートの策定。
チベット旅行記には、当時潜入に関係した人たちへ迷惑がかかることを配慮し、詳細なルートの記述をあえてしていない。
このことが後世に謎解きの作業を残しておいてくれたのである。もうひとつは、慧海師の百年前、そして川喜田二郎氏の隊が訪れた約五十年前から現在へと、ドルポ地区の自然環境ならびに生活環境の変遷を記録し比較検討することである。
日中は絶えず地図とにらめっこだった。毎日のように「あっちの峠かな~?、こっちの谷かな~?」と無精ヒゲ面の中年男が額を寄せての、全く色気のない二人談議。
また交易商人や遊牧民、そして巡礼団の姿を遠くに認めると、左手はポケットに忍ばせたフィールドノートへ、右手は胸に差したペンへと、早業師の如く反応している自分がいた。
学生時代にインドのチベット難民キャンプで半年勉強したチベット語が二十年の年月を超えて蘇ってもきた。
毎日毎日の行動記録や取材事項を、キャンプサイトに着くなり、その日のレポートとして厭わず清書している自身の意外な一面を再発見したことも収穫のひとつであった。
神話や伝説などの物語や、敬虔な信仰心や伝統医療などが色濃く残る、まるで童話や昔話のような世界を旅していたように思う。
一旦、カトマンズに戻り後半の一ケ月はチベット。
高原での調査にあてることになっていた。空路太陽の都ラサへ飛び、そこから四輪駆動車にて延々とヒマラヤの北側で、ドルポ地区の反対側にある未開放地域へと向かった。
未開放地域への入域はいつもワクワク・ドキドキするものである。手つかずの自然景観もさることながら、そこに住む人々の異邦人に対する態度も手つかずだからだ。
荒削りで、素朴で、時にはあからさまだけれど、どこか奥深い部分で温かい体温が感じ取れる態度。
私にとってそれは、なぜか背中を後押しされるような、ほのぼのとした応援歌のようにも感じられるのである。
ナクチューシャンという未解放地域での滞在中も、期待通りのほどよい温度で、身体から余計な力が抜けていった。
ナクチューシャンには、慧海師がチベット潜入後立ち寄ったと記述している白巌窟らしき場所がある。
この白巌窟の場所が特定できれば、旅行記の記述をその場所から逆算してゆき、慧海師の越境ルートも策定できる。
旅行記に白巌窟は、(ゲロン・ロブサン・ゴンボ・ラ・ギャプス・チオー)なる高僧の住む洞窟となっている。
洞窟の場所確定への手がかりといえば、早口言葉のように長い高僧の名前くらいだった。ネパール側でも交易商人やゴンパの僧侶たちなど出会う人すべてより、この早口言葉のような名前からの糸口を掴もうとした。
しかし百年前の記録と記憶の残り香は、現在の人々の生活周辺から少しも嗅ぎ取ることができなかった。
そんな閉塞的な調査の進捗状況の中、私には遠征出発前から心の片隅に絶えずあった疑問がふつふつと湧き上がって来た。
それは河口慧海という人物の情熱の源泉とは何だったのだろうか、ということである。
現在でもなお過酷で危険度数の高い地域を、充分でない情報や装備しか持たず、幾度も絶体絶命のピンチを目の前にしながらも初志貫徹する。
そんな彼自身を幾多の苦難から守ったもの、それは自らに課せた使命感と誇りある信念という心の装備だった。
その心の装備は、私を含め現代の日本人が忘れがちになっている、人生への清涼感を育んでゆく。慧海師の情熱の源泉は、そんな人生への清涼感を求めることにあったのではないだろうか。
そんなことをチベット高原で考えていた時に、川喜田二郎氏の一文に触れたのである。
越境ルートの策定や洞窟の場所の特定といった地理上の調査を行いながら、もしかすると私は明治時代の格調高い精神の軌跡を追おうとしていたのではないだろうか。
それが私をこの遠征へと駆り立てた動機の根源にあったような気がしてならないのである。
司馬遼太郎氏は、『明治という国家』(NHKブックス)の中で明治という時代を次のように記述している。『明治は、リアリズムの時代。それも透き通った、格調の高い精神で支えられたリアリズムだった。』と。
探検家として、求道者としての慧海師の偉業は、西ネパールや西チベットの情報が公開されるほど評価の度合いが増すことだろう。
それは、彼の行動の一部を追体験した者として確実に言える。昨年十二月、慧海師の自筆の日記が発見された。
そこには旅行記の謎を解き明かすヒントが数多く記述されている。
それ以上に淡々とそして克明に行動の記録が記されており、その一字一句からは、彼の明確な使命感と意志の強靭さが滲み出て来ている。
日記の発見は、彼への賞賛の言葉にさらなる重量感を与えてゆくことだろう。
『河口慧海は、明治という時代の精華である』この川喜田二郎氏の言葉に私は共鳴感を覚える。
慧海師の行動は、明治時代の青春群像という氷山の一角だったように思う。百年前の私たちの国では、一人一人の市井人が心の清涼感を求めて生きようとしていたように思う。
そこには時代の「うねり」というエネルギーが胎動している。これから増えてくるであろう慧海師への賞賛の言葉は、同時に明治時代の透き通った、格調高い精神へも向けられるようになるであろう。
私は今回ヒマラヤ山中やチベット高原で、巡礼団や交易キャラバン隊の馬のひずめの音とともに、百年前の時代に生きた人々の跫音を訊いていたのかも知れない。
2023年4月11日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。