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牛頭天王とは何か

清水正弘

深呼吸クラブ出版



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 目 次

牛頭天王からの誘い

牛頭天王と蘇民将来、そして『能』の祖・秦河勝

高楠順次郎氏からのメッセージ

備後三大祇園社について

祇園祭の原点とは

各地の祇園社(※調査は継続中)

牛頭天王と祇園との関係

広島市内(祇園町・新羅神社)と牛頭山

牛頭天王からの誘い

広島市安佐北区小河内地区に『牛頭山(うしづやま)』という里山がある。この地区の古老と一緒にその山麓の古道を歩いた時のことであった。古老から、「少し前のことじゃった。西アジア方面の容貌をした外国人が来て、この牛頭山のことを聞いてきたことがある」と聞かされたのである。それまでは、「変わった名前の山だな」というくらいの印象しか持っていなかった。が、西アジアの容貌をした外国人が、何を求めてこの地へとやって来たのか、俄然好奇心の芽が、私の中でニョキニョキと芽吹き始めたのである。

まず最初に文献調査したのは、「牛頭山」というネーミングの山についてである。日本山名辞典などにて調べると、全国にたったニ山しかない。ニ山とは、この広島県の山ともうひとつは、山口県にあった。そして、地元の古老から頂いた郷土資料の中には、『牛頭山』の命名には、『牛頭天王(ごずてんのう)』への信仰が背景にあったのでは?との一節があったのである。そこからは、私の中で『牛頭天王』への多角的なリサーチ作業が始まっていくのである。

牛頭天王と蘇民将来、そして『能』の祖・秦河勝

家の門前に、注連縄と対になった「蘇民将来子孫之家門」と書かれた護符(※写真)を目にすることがある。その蘇民将来(そみんしょうらい)とは以下のような説話上の人物である。

遙か昔のこと、頭に牛の角が生えた容貌魁偉な牛頭天王(ごずてんのう)が妻探しの旅の途中に立ち寄った村で、裕福な巨旦将来に宿を請うたところ、邪険に断られた。しかし、巨旦の弟の蘇民将来が貧しいながらもこころを込めてもてなしたことに感謝して、牛頭天王は彼に「茅の輪を身に着けておけば、お前の一家はすべての災厄から逃れられる」と言い残して立ち去ったのである。

やがて天王は、無事妻を娶って帰る途中に件の村を再び訪れ、茅の輪を着けた蘇民将来の家族だけを残して、巨旦将来一族を根絶やしにしてしまったという物騒な話なのである。牛頭天王は、神仏習合でスサノヲとも解釈され、京都の八坂祇園社のご祭神として知られる。彼の無慈悲で暴虐な振る舞いは、流行り病・疫病を象徴しているともいわれ、病魔退散を祈願する祇園祭の起源にもなっている。

ちなみに牛頭天王には八人の王子がおり、東京の八王子市の地名の由来ともいわれている。この説話の原典は、密教の「武塔天神王」や『備後風土記』に出てくる武闘神である「タケタフカミ・武勝神」とか、また朝鮮半島の土俗宗教「巫堂(ムーダン)」との関連が説かれたりもしている。中国山東省の八つの神の一柱・兵主神(ひょうずしん)は、別名を蚩尤(しゆう)という牛頭人身の荒ぶる神で、石や金属を食べると信じられたことから、この神を鉱山開発や冶金に関わった一族を例えたのではないかとも考えられてもいる。

この山東省の八神を芸能化したものが、後世の中国王朝の宮廷儀式の余興である百戯や散楽として催行され、そのなかの角觝(かくてい、角力、相撲)という格闘技は、牛の仮面をかぶって行われたということで、まさにこの兵主神こそが蘇民将来説話の原典ではないかともいわれている。そして山東八神を連想させる八幡神を奉ずる渡来系・秦氏は、鉱山の探索や貴金属の精錬を得意とし、養蚕や紡績のほか、散楽などの芸能に関わる職能民を束ねた一族であったので、牛頭天王の説話は、秦氏とともに広まったのかも知れない。

現代でも、雅楽や能楽に携わる人には秦氏の後裔を名乗る人たちがいる。また、かつての黄金郷の岩手県黒石寺などで牛頭天王を祀る「蘇民祭」が盛大に行われることも納得できる。天平時代から銅の採掘場として知られていた福岡の香春(かわら)町は、古代朝鮮語の「カグポル(金の村)」に由来するといわれ、また記紀神話の火の神「カグツチ」は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を指し、もしかしたら、良質な陶土の採掘で知られた橿原の天香具山(あめのかぐやま)も、どこかで秦氏と関係していたのかもしれない。

中国の秦王朝に起源を持つと称した秦氏は、山背国の太秦(うずまさ)に本拠地を構え、長岡京や平安京などの山背遷都に大きな影響を与えたと考えられている。そして八幡信仰とともに、歌舞音曲の芸能民や職能民を束ねて、日本の歴史に闇然たる影響を与え続けていたのである。

牛頭天王を日本へ招来したインド僧・法道は、兵庫県の赤穂に上陸しその後姫路の広峰山へ籠るのである。奇しくも、世界最古の舞台芸術「能」の祖とされる渡来人・秦氏の族長的な人物、秦河勝(はたかわかつ)が晩年をこの赤穂近くの坂越という土地で過ごしている。

高楠順次郎氏からのメッセージ

牛頭天王について文献狩猟していると、偶然にも高楠順次郎氏の書かれた『牛頭天王・バラモン僧法道』についての文節に出会ったのである。※高楠氏の文節は別途掲載している。

明治時代を中心に活躍した、インド学の大家・高楠順次郎氏に関しては、十数年前にも氏の生家(広島県三原市八幡町篝)を別件にて調査したことがあった。その際にはまさか、その高楠氏と牛頭天王とが繋がるとは露知らず、であった。

さらに、高楠氏の文節を通じて、『インドからの渡来バラモン僧・法道』、さらには、その法道が立ち寄った『象頭山(香川県琴平市)』そして、私自身の故郷である兵庫県姫路市にある『広嶺山』と関連地が続々と広がっていったのである。

高楠順次郎


高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう)とは

1866年6月29日(慶応2年5月17日) - 1945年(昭和20年)6月28日)

明治時代から昭和初期にかけての日本の仏教学者・インド学者。学位は、文学博士。号は雪頂。
東京帝国大学(東京大学の前身)文学部教授、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長などを歴任。

経歴

備後国御調郡篝村(現・三原市八幡町篝)の農家沢井家に七人兄弟の長男として生まれた。幼いころから祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ進学するだけの余裕はなく、十四歳で小学校教員として働き始めた。

その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって、二十一歳の時、西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現龍谷大学)に入学した。在学中は同志を集めて禁酒運動を始め『反省会雑誌』(後の『中央公論』)を刊行した。

その後、請われて神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事した。その後、ドイツやフランスにも留学。

帰国すると東京帝国大学で教鞭をとり、1897年に梵語学講座を創設、自ら研究に励んだだけでなく、宇井伯寿、木村泰賢、織田得能、辻直四郎など多くの逸材を育てた。




高楠氏による文節
(東洋文化史における仏教の地位より)

これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。

播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭(ごづ)天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。

孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同羅拝なされたということである。

五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経講会ともいい、一切経の書写、供養、もしくは転読の法会であるが、この法道が宮中で初めてこれを行ったのであります。

それから説戒会も行われた。これは一週間に一度戒律を読んで復習し、それに触れたものがあるならば告白懺悔する。そういう儀式を説戒会といい、または布薩会ふさつえまたは斎会というこれが宮中で行われた、これが今の日曜学校に当ります。これは仏教の最初からあることであります。

姫路の広峰神社について

姫路市の広峯神社に伝わる伝説の一つには、天平五年(七三三)吉備真備が鎮祭したことに始まるとある。また、播州を中心に多くの寺院を開基した、インドからの渡来バラモン僧・法道が牛頭天王をこの地に招来したことを始原とする説もある。いずれも、神秘的な伝承伝説(法道は空鉢伝説。吉備真備は陰陽道)に彩られた幻想的世界を感じさせてくれる。吉備真備により、インド祇園精舎の守護神である牛頭天王と須佐之男命を同一であるとする説が流布されていくとも伝えられている。

この説によれば、真備が唐から帰国する途中、播磨の沖で陸を眺めると、気高く崇高な峰が見えた。あまりに脳裏に焼きついていたので後日登ってみると、一人の老人が現われ、「自分は、武塔天神の化身、牛頭天王である。民を守るためにこの峰に登って久しく住んでいる。速やかに自分の事を流布せよ」と言ったという。そこで真備はこの播磨の広峰に牛頭天王社を造営し、武塔天神が降臨していると宣言したという。

その武塔天神(牛頭天王)が降臨した場所が、神社境内の裏手にある白幣山(はくへいさん)山頂にある、磐座(※写真)である。広峰神社へ参拝しても、この白幣山まで行く人は少ない。というのも、アプローチ道が陰陽道御師(おし)らの住んでいた廃屋が点在する道なのである。現代人には、ある意味で『薄気味悪さ』を感じてしまうのだろうか。でもその薄気味悪さが、神秘世界へのゲートウェイでもあるのだが・・

広峰神社に伝わる古文書

広嶺神社と牛頭天王、そして、インド・中国・韓国などの渡来系との関係性を調べていると、国会図書デジタルに、広峰神社の神職が、神社の歴史や由緒を記した文献は残されていた。記されたのは、大正七年。広嶺神社の広嶺忠胤という方の著になる。この文献によると、牛頭天王は朝鮮由来(列記されている古文書の一部には、天竺由来の説もあり)とされている。素戔嗚(スサノオ)の尊が、その息子・五十猛命(イソタケル)とともに、新羅国へと渡ることが記紀神話にもある。その新羅の国で、彼らが居住していた場所が、ソシモリという地名の場所である。

そして、半島の言葉で『ソシモリ』とは『牛の頭』を意味しているという。豊臣秀吉の朝鮮派兵(文禄の役)の際の記録に牛頭山が記されている。豊後・大分の将・毛利高政が半島遠征の際、この牛頭山の麓を平定したとの報告がなされているのである。この広嶺神社の由緒では、遣唐使として入唐し、卜占や天文学を学んだ吉備真備が帰朝時に、この広嶺(旧・白幣山)山に立ち寄ったところ、素戔嗚(スサノオ)の尊からの神託(メッセージ)を受け取る。そのメッセージに関する表記とは、

『吉備真備は播磨難航行の際、広峯山より放つ奇しき光を見、山中深くわけ登り「われはこれ素盞鳴尊なり」と唱う老翁に遭い「諸民の守護、五穀の豊饒をおこなうため出雲より移り住んだが、年久しくして知るものも少なくなった。汝は都へ帰り、この状を奏上せよ」との神託を蒙った。』というものである。それを、帰朝後に聖武天皇に報告すると、天皇がこの地に神社を建立することを吉備真備に命じたのが始原だという。この始原時には、なんとこの神社名は『新羅国神社』であったという。ここにも、新羅→出雲→播州というルート軸も垣間見える。この『新羅国神社』命名の背景には、神功皇后の三韓征伐時に、神功皇后が往路も復路もこの山に立ち寄り、勝利の祈願、報告をしたという言い伝えもある。

その際に、神功皇后は新羅国に滞在(治世の為?)した、スサノオノミコトに願掛けをしたとされている。確かに、現在においても、広嶺神社のある広嶺山の麓には、『白國(しらくに)神社』なるものがある。この白國神社も、新羅国神社と密接な関係があると、この文書に記されている。広嶺神社の神職さんが記述しているので、祇園社のオリジナルはこの広嶺神社であると強調されてもいる。

インドからのバラモン僧・法道関連地

法道は、中世に播磨一帯の山岳寺院を開創した人物にみなされている。十一面観音仰を広める一方で、陰陽道の術もわきまえていたことから、法道仙人の系統から蘆屋道満という強力な陰陽師が出現し、のちに安倍晴明と対決している。

加古川市の正岸寺 (しょうがんじ )は、道満の屋敷跡といわれ、道満像・道満碑が存在している。蘆屋道満は、仏教と陰陽道を巧みに結びつけた呪術者の一人と思われるが 、民間の布教活動も盛んで 、医薬を用いて病気治しを行っていたともいわれている人物である。

法道は『方道』とも書かれており、播磨からさらに能登(石川県)の石動山まで、方道仙人の奇蹟伝説が語られている。六~七世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされ、播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺し、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。

法道仙人が開基した兵庫県加西市にある一乗寺

播州(姫路、加古川、加西、加東、揖保郡)周辺には、法道仙人開基のお寺が点在している。その中でも、一乗寺はその筆頭格ともいえる場所。年にニ回しか一般公開しない(ただ事前予約すれば大丈夫みたいだが)、法道仙人像もある。ここは天台宗の寺院であるので、本堂では木製(一木彫り)の『びんづる様』が出迎えてくれる。

播州は陰陽道の中心地のひとつであり、佐用郡には蘆屋道満と安倍晴明の塚などの伝説地もある。どうして播州にはこのような、古代から中世にかけて『神秘的な伝説』を有する人物群が輩出しているのだろうか。やはり、播州という風土は、大陸や半島からの渡来系氏族と深い歴史的関連性を有しているのだろう。

加西市を中心とする『結構ユニーク』なゆかりの地

まずは、札馬大歳神社の境内にある法道仙人の『手跡』である。まるで妖怪の手形のようである。これは、古墳時代の石棺を利用したものと言われており、「手跡石」とされている。その近くには、大歳神社付近で法道仙人が座って伽藍を建立するための霊地を探したと言われる「腰掛岩」もある。そして、加古川市と加西市の村落の境界として設置されたと思われる「駒の爪」。ここは、法道仙人が乗った馬がここから大きく飛び跳ねて法華山(一乗寺)に向かったと言われる馬の蹄の跡である。そして、圧巻なのは法道仙人が投げたといわれる『投げ松』である。地元の方々によって、今は祠の中に納められている。

※ その他の関連地:兵庫県内では、

高薗寺(稲美町野寺 )、摩耶山天上寺 ( 神戸市灘区 )、伽耶院 ( 三木 市 )、清水寺 ( 加東市社町 )、朝光寺 ( 加東市社町 )、また、他地域では長谷寺( 鳥取県倉吉市 )、 仙龍寺 ( 愛媛県 四国中央市 )、 羅漢寺 ( 大分県中津市 )などが知られている。

加西市にある投げ松














牛頭天王とスサノオノミコト

高楠順次郎氏の文節(続き)から

平安朝になって貞観十八年円如法師が広峰山から牛頭天王を招待して、京都の今の八坂神社の所に移した。これを感神院祇園社と謂う。これは新羅の牛頭山に在ます素盞嗚(スサノオ)尊を勧請して祭ったともいう。ともかくインドの牛頭天王と合祭してある。それが維新後神仏判然の時代となり仏教系の神を棄てた。牛頭天王と素盞嗚尊とうまいぐあいに関係を付けたと思いますのは、牛頭天王も素盞嗚尊も朝鮮に行かれた。また出られたともいう。

朝鮮の牛頭里いまは「ソシモリ」というが、ソシというのは牛ということで、モリというのは頭という意味に相違ない。頭を「おつむり」というから「モリ」は頭の意と思います。それでソシモリの里、即ち牛頭山に素盞嗚尊がおられた。素盞嗚尊というのも「スサ」というのは牛の意かも知れない。ところが牛頭天王は祇園精舎の北方角の鎮守神であるが、インド祇園の山の名前は知れていないが多分牛頭山といったに相違ない。牛頭山は雪山の尼波羅(ネパール)国にもある。中央アジアのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。

この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている。これが象頭(ぞうづ)山というのである。一名は毘富羅(ヒブラ)山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。

香川県琴平にある象頭山(ぞうずやま)




韓国のソシモリとは

スサノオが高天原を追放された後、朝鮮半島に降り立ち、その後出雲に来るという伝説に因んで、牛頭天王は朝鮮半島の『ソシモリ(牛の頭)』から渡来したともいわれる。

その朝鮮半島の『ソシモリ』とは、いずこにありや?という疑問が数年前にも沸々と湧き上がり、その候補地の一つに出掛けたことがある。それは、韓国の伽耶山(かやさん)山麓である。下記は、韓国内における(ソシモリ)2大候補地に関する根拠説である。

(一)高霊説 (地図上の赤矢印)

韓国慶尚北道高霊の郷土史研究家金道允氏は、高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという。その山は高霊の現・加耶(かや)山である。加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名で、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうだ。

「牛の頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」。その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという。

さらに白雲里には「高天原」という地名まである。高霊は洛東江の上流にあり、伽耶の奥座敷と言える。また、この伽耶山近くには、韓国仏教の名刹・海印寺があり、現在でも多くの参拝者で賑わっている。

562年新羅はこの地を併合したが、ここは南朝鮮有数の鉄の産地であった。新羅は半島の鉄資源を独占することになり、後に半島を統一する力を得たのである。軌を一にして日本でも製鉄が盛んになりはじめる。伽耶と任那(みなま)は一体で、倭国との人的交流の多い地域であった。

(ニ)春川説 (地図上の青矢印)

故・金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化(四)』の「伊太祁曽から隅田八幡へ」の中で、曽尸茂梨とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。と一つの説を紹介している。

また京都の八坂神社の真弓宮司は『新撰姓氏録』八坂造の項に「狛国人の之留川麻乃意利佐(シルツマノオリサ)」とあり、春川には古くから狛国があったことを指摘されておられる。斉明天皇二年に来日した狛人八十一人は春川の狛人ではないかとの仮説を出されている。

三韓覇権争いの地であり、その頃の高句麗の南下で、狛人の亡命が想定され、それに該当するとの見方である。「ソシモリ」が古朝鮮語のよみで牛頭であったならば、牛頭山に比定されるのは不自然ではない。

牛頭天王と素盞嗚尊が記紀編纂の頃には習合しつつあったとすると有力な説と言えよう。また、八坂造の出自が春川の狛国との仮説も、「ソシモリ」春川説が成りたてば、八坂神社創建の由緒にも関わる重要な仮説となる。

※上記の他にも、済州島説、対馬説、その他国内説などなど諸説が乱れ飛んでいる。

備後三大祇園社について

備後三大祇園社

〇 素戔嗚(すさのお)神社

沼名前神社以外のニつは、まさにスサノオにダイレクトになる神社名である。『備後国風土記』には、『蘇民将来伝説の本拠地』として、この神社があげられている。蘇民将来とは、牛頭天王伝説と大きく関係する人物の物語である。その蘇民将来伝説の始原は、この神社である旨、備後風土記は記しているのである。

広い境内の中には、大きな巨樹・神木が何本もその存在感を示している。そして、茅の輪くぐり発祥の地との石碑があり、その背後に蘇民神社と疱瘡(ほうそう)神社がある。疱瘡神社はまさに、疫病に関係する神(牛頭天王)が祀られている。牛頭天王とは、インドの祇園精舎の守護神なのであり、日本各地の『祇園社』や『祇園』という町名の多くは、牛頭天王に関係していると考えられる。

〇 須佐(すさ)神社

往古より”小童(ちさ)の祇園さん”と崇められている。創建は不詳。社伝によると四十九代光仁天皇の宝亀五年(甲寅)四月(七七四)、天下に疫病蔓延人心恐々たる時、小童(ちいさいわらべの意)があらわれて、”我は須佐之男命の化身であるが、当地は昔から自神の鎮座の地であるが、年積りて祭祀もすたれ、祀る人もないのが甚だ残念だ、今復活して我を祀るならば、この里人等は悪病に悩まされることは無いだろう” と託宣があり、社殿を再建と伝わっている。

毎年七月に催される祇園祭では、五百年前に作られ県の重要文化財に指定されている重さ一点八トンの朱塗りの大型のみこしが練り歩く。さらに興味深いのは、この神社からさほど遠くない場所に、武塔(むとう)神社があることだ。(武塔天神)とは、まさに牛頭天王の化身である。
※ 武塔神社=広島県三次市甲奴町小童

〇 沼名前(ぬなくま)神社(※日本三大祇園社の一つ)

鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命をお祀りしている。今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀りになったのが始まりとされている。

さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになった。須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆町内の関町に鎮座していたが、慶長四年の火災で焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治九年綿津見神を合祀し、相殿として奉斎されている。

須佐神社
素戔嗚神社の境内にある蘇民神社にて
沼名前神社入り口

祇園祭の原点とは

牛頭天王に関して各地をフィールド調査していると、京都のみならず全国各地にて催される『祇園祭』のオリジンについても、興味深い説に出会ったりもする。下記は、その一説からの抜粋である。
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祇園祭りの山鉾巡行のルーツを南インド・タミール地方のクマーリー信仰に置くという。少女を祭主とする民俗行事だそうだ。このクマーリーを祀った有名な寺がインド最南端のコモリン岬にあり、ここの牛頭山のルーツであるマラヤ山があるとのこと。 『大唐西域記』にマラヤ山について「高い崖に嶮しい峰、洞穴の様な谷に深い谷川がある。」などと記されている。このような景色は日本では熊野地方(花窟神社)や南朝鮮の海岸、済州島の東の小島などがよく似ていると指摘される。
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※クマリという少女神を祀り山鉾巡業をする祭りは、ネパールのカトマンズで幾度かで会っている。

ネパールの祭り・インドラジャトラ

各地の祇園社(※調査は継続中)

〇 熊本県

その昔(明治始め頃)は、祇園社と呼ばれていた『北岡神社』。熊本市内のほぼ中心地にある。近くには今も『祇園橋』と呼ばれる橋がある。明治に入り、神仏分離政策によって全国の祇園社の名前が変えさせられている。

京都の八坂神社しかり、愛知の津島神社しかりである。全国天王社本宮である津島神社の旧名は、『津島牛頭天王社』である。この熊本の北岡神社は、花岡山と呼ばれる山の麓にある。この花岡山も、その昔は『祇園山』と呼ばれていたのである。

全国の『祇園社』の多くにては、祭神にスサノオを始め、牛頭天王も神仏集合して祀られている。
牛頭天王は、『疫病退散』のシンボル神である。

牛頭天王と祇園との関係

法道というインド僧(王舎城から)の後に、インドから渡来してくる僧・菩提仙那(ボーデイセーナ)が乗った船は、当時の遣唐使船の帰路便であった。そして、同じ帰路船には、吉備真備と玄昉が乗船していたという。吉備真備、玄昉ともに帰国後、当時の天皇や宮中にて重宝がられている。玄昉はそのことで嫉妬を買い、最終的には太宰府に左遷され、かの地で亡くなっている。

太宰府にある玄昉の墓は、これまた独特の雰囲気がある。普通の民家の横に、さりげなくチョコンとどこまでもシンプルな墓石があるのみである。吉備真備、ならびに玄昉は必ずや同船していたインド僧・菩提仙那(ボーデイセーナ)と親しくなっていたはずであろう。彼ら二人がインドからの僧侶にその後影響を受けた事は間違いないであろう。

一説には、吉備真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、姫路の広峰社にて陰陽道を始めたとも言われている。七~八世紀の渡来僧といえば、唐からの鑑真が著名ではあるが、同時期にインド僧(法道や菩提仙那)も来日しており、インド僧からの仏教オリジナル招聘とその影響も見逃せないはずである。

その一端が、牛頭山という山名ではないだろうか。広島県小河内にある牛頭山は、鎌倉時代に武田氏の居城(銀山城)の北の守護として築城されている。さらに、銀山城のある土地名はなんと『祇園』なのである。インドの祇園精舎の北の守護神が牛頭天王であることを考えると、牛頭山の山名由来にも奥深いものがありそうだ。

※追記・山口県にも牛頭山があると記述した。そして同じ県内には、象頭山もあるのだ。山口県山口市にある標高九十メートルの山である。

牛頭山の山頂から

広島市内(祇園町・新羅神社)と牛頭山

『新羅神社と古代の日本』

この著書の中で、出羽弘明さんは次のように記述されている。※武田山は広島市祇園にある山

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武田山は武田氏の銀山(かなやま)城が築かれていた。広島市のどこからでも見える。神社の境内からも広島市内が一望できる。新羅神社の西側武田山の中腹に「銀山城主武田氏の墓」の石標と、竹林に囲まれた所に石の積み上げた墳墓が三基ある。

境内の説明板に「創建は鎌倉時代後期の正安二年(一三〇〇年) 安芸国守護職であった武田信宗によって甲斐から勧請された。銀山城落成後も里人が氏神として祭ってきた」とある。一時「新田八幡」と称したこともあったようである。 流造の本殿と幣殿、拝殿を持つ。当社の拝殿には武田氏の系譜と神社の由緒が書かれている。

「新羅三郎は崇徳天皇大治二年十月二十日七十一歳にて卒す。…..」から始まる。さらに事実のほどは不明であるが、源氏と当地方のつながりが仁平元年(一一五一年)に源頼信から始まったことや、子の頼綱は可部に本拠を置き可部三郎と言われていたこと、代々水軍を持っていたことなどが書かれている。
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武田山にある銀山(かなやま)城は、甲斐の国から来た武田氏によって創建されている。また、同時期に山麓には、『新羅(しらぎ)』の名を冠した神社も同じ武田氏によって建てられている。この銀山城のある武田山のある地名が、『祇園町』なのである。

そして、一説には、この銀山城の北の守護城として建てられてのが、『牛頭山城』であると言われている。すなわち、祇園町の北の守護城が牛頭山にあったということである。

高楠順次郎氏の牛頭天王招来説によると、インド仏教聖地である『祇園精舎』の北方角を守る守護神が『牛頭天王』である。『祇園』の北側を守護する神が『牛頭天王』ということだ。

であるならば、武田氏が現在の広島市内の祇園に銀山城を建造し、その後に北方角を守護する神=牛頭天王を招来する山城を捜した際、現在の牛頭山を選択し、その山の名前を『牛頭山』としたという仮説はあながちピントはずれとも言えないのではないだろうか。

確かに、その由来説が明確に記述されている古文書などは、未だに発見されてはいないので、確かなことは誰にも言えない。ただ、この仮説をもとに、広島の里山から日本各地のみならず、韓国、そしてインドへと『牛頭天王』がご縁を結んでくれているように思えるのだが・・。

牛頭天王とは何か

2023年4月12日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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