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清水正弘

深呼吸クラブ出版



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 目 次


私はその時、ニューギニアで「鳥」になっていた

トルコに光と影を見る

玄奘三蔵法師の足跡をたどる

アテネの国立考古学博物館

アンコールワット調査

極寒シベリアでの休息タイム

渡来系・秦氏の故郷説がある『中央アジア一帯』

旧東欧諸国を巡る

欧州における定点観測地点・イタリア

ドイツ南部での『気候性地形療法』調査

五感の磨き方を学ぶ

トルストイに憧れて・ロシアの大地を体感する

ヒマラヤでの『養生プログラム』

身体に記憶された『揺れ』

アルピニズムという世界

チベット仏教圏・ラダック地方への探査

ネパール震災復興プロジェクト

エスノグラフィーの師匠たち

インドで沈没す

ブータン探査時の危機一髪

変貌するチベット

ヒマラヤ・孤高の魔術師

砂漠の屍になりかける

その時ニューギニアで「鳥」になっていた

極楽トンボとは、良く言ったものだ。「極楽鳥」の本場で、私は半人前の「トンボ」くらいには精霊化できていたのだろうか。四十年も前から、私は今と変わらず浮浪雲のような日々を送っていたような気がしている。この写真を見る限り、それは否定できない。二十四歳の時、パプアニューギニア・シンシンダンスに飛び入り参加した際のスナップである。このシンシンダンスは、頭部に極楽鳥の羽を付けて、地面を飛び跳ねる、野太く運動量豊富な踊りでもあった。

おそらくや、肉体の内外に、鳥の精霊を呼び覚ます意味を含めているのであろう。浮浪雲人にはピッタリだったかもしれない。しかし、密林の住民達は、飛び入りの「色白なお調子者の若者」を、大歓迎してくれた。簡素な造りの「精霊の小屋」の中での、衣装替え、顔や皮膚へのペインティング、頭部への羽飾り、など集落の長老が直々に整えてくれた。

踊りの輪にジャンプインした後も、最前列にての位置取りを優先的に用意してくれた。そして、何よりの「優遇」は、私の一挙手一投足に、笑いの渦が巻き起こっていたことである。その笑いは、ゲテモノを蔑む笑いや、異質なものに距離を置く為の笑いでもなかった。長老から幼子まで、老若男女問わず全ての人が、まるで鳥の賑やかな囀りのような笑い方であった。

それは、南洋の森を包み込む、穏やかさに溢れた温かい風のようにも感じられたのだ。「 肌の白い、遠来から来た極楽トンボよ。ここまでよく来たな〜。今日からは、オマエも囀りの仲間に入れ〜」と、そんな感じだった。私もカラダの何処で「スイッチ」が入ったまま、およそ半時間ほど密林を咆哮しながら、半裸のハダシでジャンピングしていたように記憶している。

踊りの輪にて、ダンシング・ヒーローになった私は、終わった後も引っ張りだことなっていた。広場の真ん中に座らされ、両サイドをうら若き女子に挟まれ、両側の脚を、其々別の女子脚に絡め取られていた。「ああ、このまま密林の王になる儀式が始まるのかなぁ。もう二十世紀の世界には戻れないのかなぁ〜」

なんて、朧げながら浮かぶ母親の顔に別れを告げようとしたら、「はい、これで記念撮影を終わります」と案内通訳の声が聞こえ、マボロシの森から無事(?)に帰還できたのである。一九八四年の五月、パプアニューギニアの密林にて私が学んだことは、『人生はアドリブである』ということだった。

人生いくつになっても、「緊張」と「弛緩」が適度に入り混じることが必要なのだと思う。「ウツツの森からの離脱旅をする」ということは、それがどんなに小さな旅であったとしても、その緊張と弛緩の発生源になり得る。ただ、そこでは、自律的ではなく他律的とでも言おうか、『場の流れ』に逆らわず身を任せるということが、結果として自分の殻を打ち破ることに繋がるのだと思う。

一番重要なことは、『どこが、自分にフィットする流れの場なのか』を、直観で捉えきれるかどうか、ということだろうと思うのだが・・。

"最後の秘境"と呼ばれ、五百以上の民族が暮らすパプアニューギニアには、様々な伝統文化や風習が各地に残されている。ニューブリテン島のトーライ族は、世界最古の貝貨とされる「シェルマネー」と呼ばれる貝殻を加工して作った伝統通貨を、特殊な儀式や冠婚葬祭の行事のときだけでなく日常生活でも使用している。

また、パプアニューギニアには、様々な伝統儀式が各地に残されている。中でも「シンシン」と呼ばれる伝統的な踊りは、古くから各民族がそれぞれの村で、戦闘の前に士気を高めるために行っていた儀式。「シンシン」の最大の特徴は、全身を飾り立てた男たちの扮装。頭には大きな鳥の羽飾りやかつら、顔には色彩豊かな化粧、腰には木の枝や葉で作られたミノ、そして、胸元には大きなアクセサリー、というように飾られている。

美しく着飾った男たちが弓や槍などの武器を持ち、リズミカルな打楽器の音に合わせて、飛び跳ねるように踊りながら歌う。"山奥の人"と呼ばれるバイニン族に伝わるのは、夜明けまで続けられる"ファイヤーダンス"という伝統的な火渡りの踊りもある。

トルコに光と影を見る

トルコには数回(主にシルクロード遺跡の調査・地震被災支援)訪れている。ここも、私の地球上での定点観測地点がある。それはイスタンブールにある、とあるタワーである。ボスポラス海峡を望むことができる、ガラタ塔である。このガラタ塔界隈は、トルコでも歴史のある下町が広がっている。明治時代、この塔に毎日のように登っていた日本人がいた。

イスタンブールの虎、と呼ばれた『山田虎次郎』である。彼のことはこのFB上にて確か十一月下旬ころに記述している。山田虎次郎は、とある目的のためにこの塔に登っていた。それは、ロシアの動向を監視するためである。トルコという国は、地政学的にも、文明学的にもやはり境界線上にあると思う。西洋人にとってみれば、この国から『アジア』が始まり、『イスラム教』との接点である。さらに、この国は海峡を抱えている。

ボスポラスは、東に『黒海』、西に『地中海』を結ぶ結節点である。地中海は、ジブラルタル海峡を通過すると大西洋へとつながる。一方黒海は、どんづまりとなり、その最奥部分にはクリミア半島などがある。

ロシアという大国は、この『どんづまりにある黒海』に、いつも悩まされてきた。不凍港を求めて南下政策をとる歴史の中で、国土の東(沿海州)はあまりに首都から遠すぎる。バルト海は、一年を通じての不凍港とはならない。

そうすると、黒海のクリミア半島あたりしか選択肢がないのである。クリミア半島から海路、外洋(大西洋という意味)に出ようとすると、まず接触するのがトルコなのである。

ウクライナへのロシアの侵攻は、二〇一四年のクリミア半島侵攻から始まっている。やはり、ロシアにとって、「不凍港」の確保、そして海洋への進出というのは、帝国時代からの悲願でもあったのだろう。その黒海から地中海への出口に位置しているのがトルコなのである。

トルコは、西洋と東洋、キリスト教とイスラム教の接点だけでなく、ロシア文明とも長らく背中越しに、肌を合わせてきているのである。それだけに、この国の動向や内情は、大きく世界情勢に影響を与えることが歴史上でも証明されている。

ガラタ塔のあるイスタンブールの下町には、あらゆる国からの情報収集屋(スパイ)が集っていると聞く。言ってみれば、ガラタ塔は、現代のバベルの塔なのかもしれない。ややもすれば、一気に崩れかねない世界情勢の象徴的建造物といってもいいかもしれない。それだけに、定点観測点としているのである。

ブルーモスク内部

玄奘三蔵法師の足跡をたどる

遥か昔に、現代人の想像の域を超える、時と空間を移動した人物の一人が、玄奘三蔵法師であろう。唐の都からシルクロードの砂漠地帯を越え、そして当時天竺と呼ばれていたインドへと向かう。
経典を携えて再び往路を引き返した、その歳月たるや十七年。西暦六百年代のことである。帰朝後に記した『大唐西域記』は、西遊記のモデルとなっていく。孫悟空の活躍する世界である。

その玄奘法師の旅の中でも、最大クラスの難関が、今回紹介する『パミール高原』である。パミール高原には今なお遊牧民がいる。その遊牧民調査に出掛けたことがある。遊牧民たちが、夏の間家畜の餌用の草を確保のために滞在する高原から、さらに南下した場所に、秀麗な七千メートル級の巨峰がそびえている。

ムスターグ・アタ峰である。手前にはカラクル湖があり、朝夕の湖面に輝く、逆さムスターグアタには言葉を失うほどである。このムスターグ・アタ峰への遠征隊に帯同して、地域の探査行も数度おこなった。

そのうちのニ回くらいだと記憶しているが、探査終了後、カラコルム山脈を越えてパキスタン側へと、クロスボーダーしたことがある。国境通過が外国人に開放された年には、通過第二団を率いた探査行であった。

最大の難所は、標高五〇〇〇m近いクンジェラブ峠であった。当時は、味も素っ気もない標識石が建っているいるだけであった。いつも寒風が吹きすさび、国境警備の人民解放軍の兵隊もブルブルと震え切っていた。

パミール高原から連続する高地性の広大な草原状台地が延々とこの峠まで続くのである。が、峠を越えると景観は一変するのである。急峻で危険な崖に僅かながらの車の轍道があるのみ。

四輪駆動車は慎重にハンドル操作しながら、静かに下っていくのみであった。中国とパキスタンとの国境検閲地点は、結構な距離があった。

互いの検閲所間には、所属する国が明確でない緩衝ゾーンがある。その緩衝地帯の風景は、まさに人為の侵すことのできないほどの、美しさと厳しさをもった雄大で荘厳なものだったと記憶している。

パキスタン側の最初の町は、不老長寿の里フンザである。このフンザにも北側から、そして南側から双方からアプローチをしている。

パミール高原の秀峰・ムスターグアタ

アテネの国立考古学博物館

ギリシャへのフィールドワークの主たる目的地のひとつに、アテネにある国立考古学博物館があった。この博物館は、とうてい一日では廻り切れない。しかし、そこはなんとか踏ん張って約半日をかけてじっくりと巡ってきたのである。

歴史の順に展示されてあるが、その中でも特に、『先史時代』と呼ばれる年代の発掘物などに注視する時間割りを試みた。ギリシャ時代といえば、都市国家などにスポットライトが当たりやすいが、その都市国家時代の前が先史時代である。日本でいえば『縄文時代』とも重なる年代である。

人間が集団組織化し都市を形成する前には、どのような精神構造であったのか、を日本の縄文文化とも対比・比較したいとの思いからである。この国立考古学博物館は、やはり欧州文化のルーツを自認しているのか、『全面的に撮影OK』なのである。

『どうぞどうぞ、お撮りください。』、『ここにしかございませんよ~』、『はい、いくらでも撮ってお国の方へ知らせてくださいね』、『いかようにも解釈を加えてくださいね~』、『でも、忘れないでね~、ここが始まりの土地なのよ~』とでも呼びかけられているようでもある。

やはり地球規模での俯瞰的思索を行おうとすれば、悔しくても、この考古学博物館の前に、頭を垂れなければならない。いくら写真集や学術論文を読んでも、やはりその土地の匂いを纏うナマの発掘物には到底かないっこないのである。

まだまだじっくりと見ることのできなかった展示物や、そしてその展示物が発掘された現場、などなどへのフィールドワークを続けなければいけないと思っている。

それは、明治時代に来日した、ラフカディオ・ハーンや、フェノロサ、イザベラバードらが、虚心をもって当時の日本の基層文化を眺めたように、出来うる限り、自律的に組み立てる複合的アングルからの目線と、絶えずシャッフルできる虚心をもって現場に臨みたいと願うばかりである。

内戦の爪痕が残る時代のアンコールワット

この頃(一九八〇年代前半)のアンコールワット遺跡は、現在のように管理されたものではなかった。遺跡というのは、管理しすぎても違和感があるし、管理されなさすぎると崩壊のリスクがある。ほどよい維持管理というのは、相当の智慧が必要となるだろう。

さて、カンボジアには一九八〇年代半ばから後半にかけて幾度か訪れたことがある。この時代は、まだまだ地方では内戦状態にあり、遺跡の管理まで手が届いてはいなかったのであろう。だが、そのことが私にとっては、とても幸い(当時のカンボジアの社会には失礼な言い方だが)でもあった。

アンコールワットの遺跡の建造物の多くは、『石』でできている。その石や岩を蔦などの植物が纏わりついているのである。中には、巨大な樹木の幹が遺跡の一部に、とぐろを巻くように繁茂している。まさに、アンコールワットが再発見された時に戻ったかのようでもあった。

当時は、ツーリストの姿などほとんどなく、インドからの技術者や職人さんらが遺跡の修復作業を手作業にておこなっていた。まだまだ、カンボジアは内戦状態にあったのだから、インドからの技術者らもひやひやしながらの作業であっただろう。

シェムリアップという、遺跡に一番近い町のホテルに滞在中、夜半に何度も砲撃音が聞こえていた。当時は、開高健氏の『ベトナム戦記もの』などを熟読していた頃である。カンボジアへの渡航も、ベトナムのサイゴン経由であった。特に、サイゴンにあった『マジェスティックホテル』には、絶対宿泊をしてみたかったのである。

そして、その願いが叶えられ、開高氏も座った『バーラウンジのカウンター』に腰を下ろすこともできた。この頃、よくアンコールワットやアンコールトム遺跡、そしてインドネシアのボロブドゥール遺跡を毎年のように訪れていた。

前述のように、二十歳代半ばから後半の頃は、まだまだジャーナリスティックな目線での観察が多かったように思う。反省すべきは、もっと歴史や宗教、そして求道僧や交易商人らの軌跡などに関心を深める目線が未熟な状態であったことである。

アンコールワット遺跡をバックに
アンコールトム遺跡にて

極寒シベリアでの休息タイム

毎年、冬の寒さが厳しくなると、思い出す雪上の乱痴気騒ぎ?がある。

厳冬期の、ロシア沿海州である。それも、一九八〇年代。まだまだロシア経済は、停滞したままの時代である。ウラジオストクや、ハバロフスク辺りを視察調査した。現地案内は、なんとKGBのOB。プーチンよりも、いかつくガタイのいいロシア漢(おとこ)。

また、朝鮮系、モンゴル系など人種の坩堝的カウンターパートナー達。そんな、ガッツ溢れる男達に、まるで拉致?されたかのように、凍てつくシベリアの大地を旅した。とある、民家での一夜は、今でも忘れられない思い出である。

よくぞ、その時の写真を残しておいたものである。思うに、下記に書いたような「シベリアの一夜の出来事」は、日本でも、明治時代には各地で繰り広げられていたのだろうな。

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手荒な男の休日

数年前、厳寒の二月に極東ロシアを訪れた。ダイヤモンドダストが空気中に舞うぐらい凍りついていたある日、ロシア人の知人が「伝統的な男の休日の楽しみ方を教える」と私を誘った。アルセニエフという町から車で三時間ほど。

周りに何もない田舎の一軒家へと連れていかれた。氷と雪が家を取り巻き、雪の上には狼の足跡が残っていた。マイナス二十度。誰も住んでいないその家に入ると、外気温以上の薄ら寒さを感じた。部屋に入るなりペチカの火をつけ、ロシアの男たちは安物のウオッカの瓶を回し始めた。

二時間後、暖炉の上ではボルシチの鍋がグツグツと煮えていた。部屋の温度は二重窓によってどんどん上がり、われわれは全員上半身裸となった。そのうちに夜も更け、素朴で骨太のロシア男の休日は佳境に入っていく。

「俺は、狼の遠吠えを子守歌にしていたんだぞ!」、「なに!俺はオフクロからウオッカの乳をもらったんだ!」、「ならば、俺もいわせてもらうが、このヒゲは熊の王からもらったんだぞ!」

他愛もないホラ話の合間には、男たちの哀愁をおびたロシア民謡が夜のしじまに流れてゆく。ウオッカ、ボルシチ、歌ですっかり体と心がホッカホッカ状態になったとき、男たちはみんな服を脱ぎ始めた。

「サウナヘ行こう!」

庭先には、隙間風が吹き込む掘っ建て小屋があった。私も素っ裸で、雪の上を走りその小屋へ駆け込んだ。隣り合った人の汗を落とすために、白樺の葉で背中を叩き合う手荒い歓迎が待っていた。最後の仕上げは、素っ裸のまま奇声をあげて小屋の外へ出て、雪の上にジャンプするのである。

私は雪の中でガチガチと震えながら思っていた。日本でも、男たちが素朴で力強い休日を過ごしていた時代があった。粗野で手荒いが、互いの心の力こぶを共感していた時代が。しかし、現在・・・。

休日はうかうかゴロ寝もできず、買い物につきあうと、階段の踊り場で待ちぼうけ仲間がいるが、悲しくも共通の話題がない。男たちは、所属する組織の外での心の鎧の脱ぎ方を忘れてしまい、加齢とともに無口になっていく。休日には、接待ゴルフで作り笑いを浮かべるよりも、ユーモアあふれるジョークの一つでも考えてみたいものだ。

興に乗じて、素っ裸でマイナス20度世界へジャンプする
極寒のシベリアで、ペチカの温かさで半裸となる

渡来系・秦氏の故郷説『中央アジア一帯』

古代に大陸から日本へ渡来してきた「秦氏」のことについて、長年個人的探求を深めている。

それは、広島に移住した三十年前頃からスタートした、山陰地方に残る古代の史跡・神話の調査研究から波及していったことである。と同時に、『秦氏研究』は、十代後半から始まった、私の世界の山岳辺境地帯への「エスノグラフィー・プログラム」にも繋がってきている。それは、「埴原和郎先生」の『日本人二重構造論説』によって、両者の結び目が顕現したのである。これまで、世界の山岳辺境地帯の各地にて、エスノグラフィ・プログラムの調査研究を実践してきたことはすでに述べている。

そして、三十歳後半くらいからは、並行しながら『日本の里地里山』もそのフィールドに加わった。特に、中国山地・山陰地方・九州・四国・瀬戸内海をはじめ、日本各地の霊山や聖地などがその足跡場所であった。古代より、大陸から渡来してきた集団が、北部九州から山陰、そして能登半島や佐渡島あたりまで船で着岸している。(もちろん、南洋渡来の集団もあったであろう。)

その中の『秦氏』。この渡来ルートを遡っていくと、魅惑的なワールドが無限に広がっていく。ある大胆な仮説は、『秦氏=ユダヤ系説』も提示したりする。いろんな説が、学会や民間を含め玉石混交状態である。それは、ひとえに『秦氏のルーツを辿れる史料がほとんど残されていない』ことが背景なのであろう。

ただ、形態人類学という遺伝子を解析する分野の研究者『埴原和郎』先生の著作などから、秦氏を含め大陸からの渡来系集団の一部のルーツは、中央アジアくらいまでは遡れることがだいたい判ってきているらしい。俗説(学会ではまだ認定はされていない)によると、秦氏の発生場所は、諸説あるという。そのなかでも、一番可能性が高いのは、『中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)』であると聞く。※破線以降は文献より

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弓月国(秦氏の祖先には、日本にも渡来してきた、弓月王がいる)を、ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。伊寧市、グルジャ市は、中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。
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さて、その新疆ウイグル自治区周縁であるが。これまで幾度となくこのエリアをエスノグラフィ・プログラムにて探訪してきている。写真は、一九八〇年代の新疆ウイグル自治区である。その当時、日本では『異邦人(久保田早紀)』が人気であり、CMにて写真のような景色が連日流されていた。そう、『こどもた~ちが、そらにむかい、りょうてを、ひ~ろげ~』で始まる、あの愁いを帯びた旋律である。

渡来系秦氏のルーツが、新疆ウイグル自治区にあり、また古代のシルクロード上を伝搬しながら、東端の日本まで渡来してきたとすると・・。異邦人のメロディーと写真のような景観が、一九八〇年代当時の日本人の心を、なぜ鷲掴みにできたのか、と妙に納得できるものがある。

西域南道のオアシス・ホータンのバザールにて

旧東欧諸国を巡る

二十一世紀に入ると、急に憑りつかれるようにして、旧東欧諸国へのエスノグラフィ探査が増えたのである。それは、一九九〇年代後半のオーストリア、そしてルコを重点的に探査したことに端を発しているかとも思う。

私の十代後半から三十代くらいまでは、どちらかというとアジア・南米・北米などがその活動の中心であったように思う。そして、一九九〇年代前後には、ドイツ、フランスなど欧州(旧西ヨーロッパ)諸国などを重点的に探査や視察を繰り返してきた。

その上で、いずれは旧東欧諸国(ロシアを含めて)へという思いが募ってきてはいた。オーストリアのウイーンやイスタンブールに立ち寄ると、西欧諸国とは異質の香りや匂いが流れていたのである。東洋と西洋の接点と言われたイスタンブール。この街の魅力は、学生時代からのものでもあった。映画「ミッドナイトエキスプレス」を見た際の衝撃は、忘れられない。

アメリカの若者が、それまでに培ってきたキリスト教的価値観を、イスタンブールの街や牢獄の中で、カオスにまみれ崩壊させられていく、というストーリーである。その映画を見た時以来、西欧が接している東洋の西端・トルコや旧東欧圏というのは、どのような魔力を有しているのだろうか、との興味があった。

しかし、東ヨーロッパの混乱や、ユーゴ内戦などにより、訪問の機会は限られてもいた。そして、二十一世紀に入り、重点的に旧東欧諸国にてのエスノグラフィ探査行を増やしたのである。ルーマニア、ポーランド、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルチェコビナ、ブルガリア、ハンガリーなどなど、ギリシャも含めて数年の期間で探査したのである。

その際の視点の大きな柱は、「正教会」と「修道僧」であった。旧東欧諸国やロシアには、「○○正教会」という宗派が存在する。カソリックやプロテスタントとも違う世界観があり、その地域に住む人々への、文化・習俗、果ては政治経済にまで強い影響を及ぼしている。その「正教会」には、「男の修道院」があり、「山深い辺鄙な場所で、無言の修行をする僧」が今でもいる。

この修行僧らには、アジアでいうところの、「行者」「修験者」「森禅定」にも繋がる「通底路」があるはずだと感じていた。ブルガリアのリラ僧院、そして、ルーマニアのドラキュラ寺院、そして、ギリシャでのメティオラ修道院などにて、その背景を調査してきた。これからも、その地域への探査は継続していく予定であるが、未来への予想として言えることは、「旧東欧世界が有している修道僧の精神文化」は、西洋と東洋、さらには、キリスト教価値観とイスラム教価値観との間への、ブリッジ的役割を果たしていくのではないか、ということである。

ブルガリア・リラ僧院

欧州における定点観測地点・イタリアに学ぶ

私にとってのイタリアは、欧州各地にある定点観測地点の一つであり、大きな観測ゾーンである。イタリアへのデビューは意外にも遅いのである。四十歳代に入ってから初めてかの地に足を運んでいる。今から振り返ると、その年齢でデビューして良かったと思っている。イタリアは、なかなか手強いのである。二十歳代や三十歳代の私であれば、到底太刀打ちできていなかっただろうとも思う。地中海に、大きな盲腸のように、また、女性のブーツのように伸びるイタリアの国土。

海に囲まれ、火山帯も有しているので、日本人にも親近感が湧きやすい。もちろん、歴史的遺産も多い。なぜイタリアを定点観測ゾーンとしているかは、少々複雑な理由からでもある。それは、キリスト教的価値観の欧州(アメリカも含め)と、他の価値観(東洋諸国、イスラム諸国、北アフリカ圏、ロシアを含めた旧東欧圏)との接着剤は、このイタリアとギリシャの古代史を読み解くことにあるのでは、と感じるからである。ギリシャに端を発する現在の欧州文化のルーツは、ローマ時代にその繁栄を極める。

しかし、その古典的価値観は、意外にもイスラム圏からの回顧運動によって再発掘されているのである。北アフリカを含み、地中海においてその覇権をほしいままにした、古代のイタリア海洋国家群。中世の混乱や、ナポレオンの時代などを経て、イタリアが統一国家になるのは一八六一年と、欧州の中では意外なことに遅いのである。この七年後の一八六八年、日本では『明治維新』とされている。

近代日本の統一国家の始まりと同じ時期に、イタリアも統一国家となるのである。そして、第一次大戦では局部的中立を維持し、第二次世界大戦では、日本と同じくドイツと組むのである。

戦後の経済的発展は、日本のスピードには追い付かないが、敗戦国にも関わらずG7のメンバーには入っているのである。すなわち、東洋の端っこの日本とは、同じような時代背景を過ごしながら、ローマをはじめ、諸都市が独自の文化を維持し、さらには、バチカンという大きな『勾玉』をも内蔵しているのである。

初めてイタリアを訪れた際には、その奥底の見えない深さにたじろいたものである。何を見、どう感じ、そして、身体のどこにそれを収めたらいいのか。戸惑いながら、フィレンチェやベネチアの町を流離っていた。四十歳代でもこれだから、二十歳代、三十歳代ではキャパオーバーだったろう。ガイドブック通り歩くしかなかったかもしれない。

数度のイタリア通いくらいでは、なかなかこの『手強い対手』には太刀打ちできはしない。まだ未踏地帯である、イタリア南部や島嶼部、この辺りを継続的にエスノグラフィックなフィールドワークで攻めてみたいと思っている。

フィレンツェの下町を歩く
ベネチアの下町を歩く

ドイツ南部での『気候性地形療法』調査

我々が普段、なにげなく口にしている『自然』という言葉。『自然保護』といえば、ちょっとお硬いイメージ。『自然な感じで』となると、柔らかな風がふく。『自然薯』とくれば、地面の下へと目線が落ちる。こんなふうに、ワイドな概念を有する、ある意味で便利な言葉である。この『自然』という言葉。明治以前には、もっと別の概念で使われていた。『じねん』。そう、『じねんじょ』の『自然』である。読んで字のごとく、『自(オノズ)から、然(シカリ)なり』である。

『自ずから然りなり』となると、宇宙の彼方から、地殻の深くまで一気に想念が漂い始める。古来、日本人は現在でいうところの『外なる環境としての自然』への目線を、ホリスティックな視野で捉えていた。仏教が渡来した後にも、そのホリスティックな視野を、『山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)』と、かくも短く、しかし的確に表現してきた。

明治時代に入り、欧米から『nature(英語)』、『natur(ドイツ語)』という語彙が上陸する。当時の知識人(ドイツ留学経験のある森鴎外など)は、この『nature』や『natur』の背景にある西欧的概念を、すでに使用されている日本語の中から変換する際、『自ずから然りなり』という概念でもって相応させたのである。

これは、ある意味で、大きな誤解も生じさせたが、私は大正解だったと思っている。西欧の自然に対する、キリスト教を背景とする概念が、そのまま『自ずから、然りなり』という東アジアのアニミズム的概念にピッタリというわけではない。

しかし、森鴎外などの知識人が、『自然(自ずから然りなり)』との語彙を訳語にしてくれたことにより、日本古来の『自然観』を常に回顧させてくれる結果ともなっている。数年前、地元の広島大学の大学院(医歯薬保健学)修士課程にて『健康開発学』という分野に新たに取り組んだことがある。その際、世界各国・各地における『自然観、およびその自然環境下での健康(wellness 生き甲斐)概念』というのをテーマのひとつに設定した。

そして、東西比較調査対象の一つに、ドイツ南部の小さな街で行われている『気候性地形療法』に焦点を絞ったのである。日本では山岳地帯や雪のイメージは『北』である。しかし、ドイツ人にとってのそれは、『南』なのである。この小さな街は、ファンタジー小説『モモ』の著者である、ミヒャエル・エンデ氏の故郷でもある。

現地では、実践編として一般募集されていたプログラムに参加した。写真にも写っている、若い美女(指導の有資格者)が先導してくれるのである。参加者には、ドイツの医者もいた。彼がドイツ語から英語への通訳もしてくれたのである。

五感の磨き方を学ぶ

グリーンランドで犬ぞりに乗ったときの話である。十頭もの大が引っ張るソリは、時速三十キロくらいだったろうか。極地用の防寒具の繊維の隙間からは、肌をさすような寒風が容赦なく入り込む。犬が後ろ足で舞い上げる雪煙が目に入り、伏せた顔も凍り付くようだった。ソリの御者台には、イヌイット(エスキモー)の四十代の父親と十歳くらいの息子が乗っていた。父親は「ヒューイー ヒューイー」と声を発しながら犬たちヘムチを飛ばす。父親の横で、息子は頬を真っ赤にしながらもムチを操るしぐさを真似ていた。横目で父親を見る目には、憧憬と尊敬が感じられた。寒風の中、少年は自らの右腕に大人の男としての感覚を覚え込ませているようだった。

越冬前の十一月のヒマラヤ。家族がひと冬無事に過ごすため、家畜のヤクを一頭犠牲にし、解体する作業を見たことがある。その作業は大人の男たちだけで始まった。大型の牛くらいのヤクを、数人の屈強な男たちがとり囲む。ジリジリと男たちの輪が狭まると、普段はおとなしいヤクも、後ろ足で大地を蹴り上げ、口角から粘液状の糸を垂らし始める。足輪をかけられ、ひっくり返され、断末魔の如く四つ足と角を振り回すヤク。

と、一人の若者が右手にナイフを握り締め、仰向けで暴れ回るヤクの懐に飛び込み、心臓に刺し込んだ。体中を傷だらけにしながらも、若者は右手からナイフを難さない。家族以上に時を共有した家畜の最期。泡を噴く口へ、死に水を与える。男の子たちは、その作業が終わるまでを、コチコチになりながら凝視していた。過酷な自然条件下での共生は、命をかけた格闘であることを強烈に感じ取っているはずだ。

レイチェル・力-ソンは、子供にとって、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でない、と語る。教科書などに書かれている文字の知識から、子供が生身の感覚を受け取るのは困難だ。でも自らの五感で感じ取った感覚の記憶はなかなか消えないだろう。子供たちは、大人より研ぎ澄まされた五感で、大人たちの生きざまを見ながら、生きる感覚を磨いてゆく。

であるなら大人は、若者や子供に夢やロマンがないと嘆く前に、大人自身の心の素肌を研磨しなくてはなるまい。

グリーンランドでの犬ぞり探査

トルストイに憧れて・ロシアの大地を体感

ようやく、その時は訪れた。ロシアという国は、すでに一九九〇年代初頭に沿海州(ウラジオストックやハバロフスク)に足を踏み入れていた。もちろん、ソ連時代崩壊すぐのことである。ので、現地では、元KGB幹部だった人間がカウンターパートナーだった。さすがにKGB出身だったので、フィールドワークなどにも長けていたことを思い出す。

中国もそうであるが、ロシアにおいても、この二十年間における変化スピードは、尋常(これまでの歴史的にみても)ではなかったと思う。二十二世紀の人々が、この二十世紀後半から二十世紀初頭における、世界主要国の内情や国際情勢の変化などを振り返った際、必ずや『歴史の大きな転換点』だったと記述するだろう。

さて、ロシアである。ロシアの文学や芸術には、昔から関心があった。特にトルストイにはなぜか惹かれるものを感じていた。それは、彼の文学作品の中に散りばめられた、珠玉の言葉群であった。

『悔恨がないのは、前進がないからである。』、『慈善は、それが犠牲である場合のみ、慈善である。』、『逆境が人格を作る。』、『もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とは言えない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。』

などなど、トルストイの生い立ちや人生経験から紡いできた言葉の数々である。当時の各国の著名人が、彼の自宅を訪れている、日本からは徳富蘇峰などの知識人らである。そんな世界的に名の知れた文豪は、なんと八十歳にて、妻との長年の不和を理由に家出(トルストイは大金持ちであった)するのである。

そして、小さな鉄道駅舎内にて、肺炎をおこし、亡くなってしまうのである。後世の人を唸らせる名言の数々を創作しながらも、自らの足元の『ぐらつき』を修正することはできなかった。なんとも『ロシア人』らしくて、大好きなのである。

誰もが聖人君子に憧れるだろう。悩み多き時代であればこそ、『大きな善』や『清廉な導き』に期待をかけるだろう。しかし悲しいかな、得てしてそれは『弧を恐れるばかりの、もたれあい』に留まってしまうことが多くみられる。

トルストイは、なぜ八十歳にもなってから『家出』をしたのであろうか。それが、私の彼に対しての最大の疑問であった。その疑問に対する答えを、やはりトルストイは用意してくれていた。それは、彼の墓にあった。その墓は、森の中にひっそりと墓標もなにもなく、ただ緑の苔むした『盛り土』があるのみ。

トルストイの墓

ヒマラヤでの『養生プログラム』実践編

私は、『祈りの国』ネパールで、長年にわたり『養生プログラム』を実践してきた。プログラム参加者へは、もちろん癒し旅の極意を味わっていただくために、最良のプログラムを用意する。写真にあるような、朝陽とともにする太極拳、禅の導師僧侶と共にするヒマラヤ瞑想時間(動画)、そしてアーユルベーダの体験教室など。

一方、主催する私にとっては、『ネパールの持つ場の力(自然や文化・歴史)が、日本人への身心変容に与える効果とその可能性』という見地から、エスノグラフィックな健康開発学の構築も視野に入れている。その趣旨を、私なりにまとめた文章がある。

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『心身の養生場づくり』

現在、プロの山岳ガイドと鍼灸師である私は、単なる登山やトレッキングの目的地として、ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域と付き合ってきた訳ではありませんでした。「場としてのヒマラヤ」は、その地を訪れるあらゆるタイプの人を、深遠さと温かさ、そして豊穣さをもって抱擁してくれるのです。また、中国を発祥とする鍼灸の基礎には、移り行く自然の変化とわが心のありかを、皮膚感覚で対峙させる中で生まれた独特の自然観や宇宙観を構築してきました。

古代中国の人は、人間の体を小宇宙とみなし、「気」という肉眼では見えないエネルギーが出入りする磁場を「ツボ」と呼んだのです。私たちの住む星・地球にも、人間の体と同様に磁場としてのツボが存在すると思うのです。こちらは、人間への癒しと明日ヘの活力を発するエネルギーを流入してくれる土地といっていいでしょう。多くは辺境の地にあり、悠久でかつ厳しい自然環境下にあります。

文明の恩恵をあまり受けておらず、人々の生活はシンプルで余分な欲を膨らませなくてもすむ場所です。そこでは、環境に応じた人々の知恵の結晶である伝統医療が息づいている場所でもあるのです。

呪文を唱えながら治療を施す呪術師のいるボルネオ島の熱帯雨林。
薬草と熱した金の針などが治療に使われるヒマラヤ山麓の国・ブータン。
祈祷師が崇拝されているアフリカのサバンナ。
インディオの薬草知識を伝えるアマゾン奥地の密林地帯など……。

それらの土地では、自然の中で心と体のハーモニーを奏でている人たちが住んでいることを我が目で確認してきました。別の表現をすれば、『幸せの在り処』をしっかり見据えている人たちだとも言えるでしょう。私は、これら伝統医療が息づく辺境の土地は、地球のエコロジカルな調和状態を知る定点観測地ではないかと思い、その『場のエネルギー』を感じる養生の旅を続けてきたのです。

「心身の養生場」としてヒマラヤや世界の秘境・辺境地域を捉え直してからは、多くの方をその場へと案内してきました。コンピューターでは管理できない「匂い」や「触感」「味わい」を大切にしながらの、『地球のツボ・世界の秘境辺境』への旅は、今という時代を生きることの意味を探す旅でもあると思います。「ヒマラヤ養生塾プログラム」では、曙光に淡く輝くヒマラヤを前にしたメディテーション(坐臥や歩き瞑想など)、チベット医学のアムチ(伝統医療従事者)やアーユルベーダの術師からの講習、曼荼羅制作現場の見学、そしてパーマカルチャー的ライフを実践するヒマラヤ山村での滞在などのエッセンスを組み込んできました。

同行者の多くは、二十歳代~七十歳代くらいの女性です。彼女らの行動もなかなかユニークなものです。朝陽に輝くヒマラヤと気の還流をするのだと、緩やかに太極拳を始める人。乾燥した水牛の糞が点在する牧草地で、ビニールシートを広げていきなりの瞑想タイムに入る人。着ぐるみ状態でブルブル震えながら、満天の星空を見上げ、流れ星の数をいつまでもカウントする人。また、現地の子供達に話しかけ、即席でのネパール・日本友好「歌と踊りの交流会」がはじまったりもします。

至るところで笑顔が輝き、笑い声が弾けています。ヒマラヤ養生塾では、時間を厳密に区切ったスケジュールは特には設定していないのです。予測不可能で絶えず移ろう「自然環境」の中で、参加者の「心の環境(その時の気分)」をどう調和させてゆくかがコーディネーター役としての私の腕の見せ所でもあると思っています。

なにも、「心身の養生」や「デトックス(心身の解毒)」を目的とする環境設定は、ヒマラヤなどの圧倒的で壮大な自然環境下だけではないと思っています。古来より日本の各地においては、山、森、巨木、岩、泉、滝、島、岬などには「タマ=霊」や「カミ=守」が宿るとされ自然崇拝の対象ともなってきました。里地や里山、里海とは、人間の俗なる生活の場であると同時に、「浄めの場」や「癒しの場」といった、聖なる非日常空間との接点場でもあったのでしょう。

虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け山野の香気に全身が洗われる気がする時があります。自然界のささやかではありますが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのを体得する瞬間があります。その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのです。

突然降り注ぐ森の木漏れ日に全身が包まれた時や、ふと顔をあげた瞬間に鳥のさえずり音で身体の動きが止まった時などなど。このように自然界からの恵みを受けながら歩くことは、「見る」「聞く」「匂う」「味わう」「感じる」という五感を新たに研磨できるだけでなく、「何ものかに包まれる」とか「何ものかとつながる」、といった六番目以降の感覚に気づく機会を与えてくれるのかもしれません。

里地・里山・里海・里森といった「里」という文字の付く土地は、大切な何かについての気づきの場ではないでしょうか。秒針が刻むリズムで管理される都市に住んでいると、予測不可能な自然から得られる「手応えのある至福感」といったものは、なかなか感じにくくなってきています。

自らの五感や直観で感じる「至福感」は、人間の心身や魂に本来内在されている「自然治癒力」をあるべき姿へと導いてくれる源泉ではないかとも思います。ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域から、身近な里地里山での「心身養生の場」の設定・プログラム実践の主目的はここにあります。これまで、山岳・秘境・辺境世界と東洋医学の世界に身を浸してきた者として、『ホリスティック・ツーリズム』の普及活動が、豊かで成熟した社会の構築への一助となればと願っています。

朝陽に輝くヒマラヤに向かっての気功プログラム
アーユルベーダ治療所

高度五千の上空、身体に記憶された『揺れ』

中国の西端・新疆ウイグル自治区と中央アジアとの境目あたりに、『天山(てんしゃん)山脈』がある。一度、この天山山脈の奥深くに入域したことがある。とある県の山岳連盟遠征隊への帯同である。

それも、中央アジア側のカザフスタンからである。首都のアルマトイまで空路韓国の航空機でのアプローチ。その後は、延々と草原地帯を東へ東へと向かった。そして、天山山脈の名峰・ハンテングリ峰エリアへと入域した。

そこは、標高四千メートル近くであり、大氷河が見事な景観を形成していた。こんな山脈周囲を遊牧民は移動しているのである。おそらくや、古代の秦氏祖先も、このような景観を眼にしながら、シルクロードの旅を続けていたはずである。

さて、この遠征の際にアクシデントが発生したのである。遠征隊の登頂班メンバーが悪天候により、標高五千メートル付近にて降雪により閉じ込められてしまったのである。

幸い、アクシデント発生時には、彼らの持参したトランシーバーは、バッテリーの予備時間と感度においてまだ余裕があった。しかし、山の上での天候はなかなか回復せず、通信状況からも、刻一刻非常事態が近づいていることが、その切迫した音声からも十分に伺えてくるようになっていた。

ベースキャンプ地では、当時ロシア側の山岳チームと救出作戦について、あらゆる事態発生を想定した上での対策がいくつものパターンで検討されていた。

しかし、三日目くらいからは、最悪の事態を想定した対処も検討されてきた。それは、救援物資をヘリコプターにて上空から投下する、というものである。

しかし、標高五千メートルを超える場所は、絶えず乱気流の危険性があり、また、上空まで飛べたとしても、閉じ込められている箇所への正確な物資の投下の可否は未知数である。

飛んだヘリそのものが、乱気流に巻き込まれて墜落・遭難してしまう可能性が高く、ヘリのパイロットは非常に難色を示していた。

しかし、すでにそれ以外の選択肢がないくらい、閉じ込められた上部からのトランシーバーを通した声が、刻一刻、弱弱しくなっていたのである。すでに重度の凍傷(実際に事態は深刻であった)の兆候を示す内容の通信もあった。

そこで、最終判断が下され、危険を承知でヘリを飛ばすことになった。詳しい経過は述べないが、私もそのヘリに搭乗することが決定された。そしてテイクオフ。ベースキャンプ地から三十分も飛行すれば、遭難現場の上空に到達した。

閉じ込められた場所の上空にてホバリングをしながら、ヘリの扉を開けた瞬間、とんでもない冷気を含んだ突風が内部に入り込み、ヘリが大きく揺れたことは覚えている。そして、下方で手を振る人影が確認できた。その瞬間に物資を投下したのである。

結果として、その救援物資にて命を繋ぐことが出来、ベースキャンプ地からの救援隊により無事に生還されたのである。これまで、幾度かにわたり「危機一髪!」という場面に遭遇したが、このアクシデントもそのひとつである。そして、『高度五千メートルで体感した揺れ』を、いまだに身体が記憶している。

もう一つの記憶の一コマは、写真にあるように、ベースキャンプ地にての鍼灸治療の風景である。標高四千メートルでの『にわか往診風景』である。

この時ほど、すがすがしい気持ちにて患者さんの背中に対峙したことはなかっただろうと思う。それは、やはり空気が薄い高地では、余計な雑念が入り込まないせいなのかもしれない。

ヘリの中から撮影
ベースキャンプでの鍼灸治療

アルピニズムという世界

一応、高校時代からワンダーフォーゲル部に所属し、いわゆる『登山活動』もしていた時期がある。登山、という言葉は、『頂上を目指す』という運動行為のイメージであろうか。十代半ばから二十代後半くらいまでは、まだその運動行為にも多少の未練が残っていたように思う。それが、今回の写真のように、欧州アルプスへと足を運ばせていたようにも記憶している。

しかし、二十代後半くらいからは、その世界にはほとんど魅力を感じなくなってしまった。誤解のないように申し上げると、『単純な運動行為』のフィールドとして『山や森』を捉えることができなくなった、ということである。『山や森』をはじめとする『自ずから然りなり』の自然環境への視線は、ますます深まったのであるが、そこから単なる運動行為が抜け落ちていった、ということである。

その意味では、これらの欧州アルプスへの登攀行為写真は、貴重といってもいいだろう。それ以降、ほとんどそのような世界での写真はないのだから。そんな欧州アルプスについて、過去新聞連載時にエッセイを寄稿している。

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アルプスの国スイスを訪れる日本人は年間百万人近いといわれている。スイスやオーストリアに対して私たちが抱くのは、アルプスの峰々や高原の湖などのクリーンなイメージ。アニメの「アルプスの少女・ハイジ」や映画「サウンド・オブ・ミュージック」によって素晴らしい山岳風景に親近感を抱いているからだろう。

スイスの国土は九州よりやや小さい程度なのにもかかわらず、その中になんと約五万キロにも及ぶハイキングコースが整備されている。地球一周分の四万キロを超えるほどの距離だ。夏ともなれば、世界各国から、絵のような山岳風景をバックに、自分の足で「思い出」という絵を描きに訪れるハイキング客で賑やかになる。

山麓を歩いていると、シルバー世代の夫婦連れ、子供を肩車した家族、明るい学生グループなどにすれ違う。「ハーイ!」「ボンジュール」「コンニチワー」など、各国の挨拶が笑顔とともに飛び交う。高原の牧草地からは、カウベル(牛の首に付けた大きな鈴)やアルペンホルンの音色が、心地よい風に乗って、どこからともなく聞こえてくる。その音色は、自銀のアルプスの峰々から緑深き谷間まで静かに流れてゆく。

そうしてマッターホルンを仰ぐ位置にたどりつき、ザックをおろしての休憩となる。そこで、足を投げ出し、草地に寝そべる。山頂を見上げると、流れる雲。風の強い日には、まるでまつわりつくように刻一刻とその形を変えてゆく。私たちは、ただそれをじっと見つめている。だれも何も話さない。静かな時間だけがそこにある。そしてふと気がつけば、地面からは花や草の香り……。

極上の時間の費やし方といえないだろうか。スケジュールに追われる旅にはない旅である。スイスアルプスのハイキング道は、世界でも最も贅沢な散歩道なのである。旅とは、移動距離をいたずらに長くして多くのモノをただ単に「見る」ことではないと思う。帰国後アルバムに張る写真の数の多さでもない。旅先で感じた心の贅沢をこそ、人生というアルバムに記憶させたかどうか。それが、旅の質の深さを計るバロメーターではないだろうか。

スイスアルプスにて

チベット仏教圏・ラダック地方への探査

二十四歳の年の五月。

まだまだ。大学を卒業したばかり(自主的ユーラシア大陸・大学院修士課程にて六年修行の後)の年であった。

機会を得て、当時秘境のひとつであった、インドラダックへと探査行に出かけた。学生時代には、当時入域禁止であったチベットへと潜入を試み、失敗した苦い記憶がまだ鮮やかな時である。

なんとしても、チベット文化圏に、との思いがこのラダック地方への探査となったのである。インドのラダック地方とは、インドの北西部にあり、国境問題、民族問題、そして宗教問題と、すべてが絡み合い、入域するには特別許可が必要であった。

確か記憶では、『ラダック地方における経済振興・交流団』などという、いかがわしい団体名での特別許可取得だったようにも思う。ラダック地方は、インドの中でもチベット文化(本土のチベットとも少し異なる文化を有する)を色濃く残している土地である。

それは、写真をみていただいてもお分かりのように、標高が高く、乾燥少雨地域であるので、生活するには厳しいものがある。それだけに、他文化の流入があまりない、隔絶された場所としての歴史が長かったのである。

オンボロのバスで幾度となく峠越えをし、乾燥大地を砂誇りにまみれながら、地域最大の町レーに到着するのである。

そして、草木がほとんど視界に入らない土地を、丘の上に立つチベット寺院へと調査に出かけていたのである。

この後、再訪もしているが、一旦速くなった観光地化へのスピードを止まらせることは、なかなか困難であり、一九八〇年代半ばの雰囲気をもう一度味わうことはできなかったのである。

ラダックのチベット寺院
調査チームとチベット僧

ネパール震災復興プロジェクト

ほぼ毎年のように、ヒマラヤのある国・ネパールへ出掛けている。近年は、二〇一五年に発生した地震被害復興支援のプロジェクトにて現地へ出掛けた頻度が多くなっている。第一次支援から第二次支援プロジェクトは、食料調達や医療支援などの緊急性必要度に応じた編成とした。(写真は、医療キャンプでの鍼灸治療)

第三次(震災発生後約半年経過後)くらいからは、地域経済の立て直しへの側面支援とともに、『祈りの場・再興計画』がメインの柱となっている。ネパールでは、首都カトマンズにおいても、まだまだ『祈る』行為が、日常の生活と密着している。ヒンズー教、仏教、イスラム教、そして少数だがキリスト教などが混在しながらも、それが社会不安の大きな要因となったことがない国である。

お隣の大国インドでは、イスラム対ヒンズー、ヒンズー原理主義などなどが社会問題化している。世界の中でも宗教混在の国で、『祈り』が原因によるトラブルが殆どない、そんな世界的な希少さもネパールは持ち合わせている。宗教が平和に混在している長所として、年がら年中、どこかでお祭りがあることも言えよう。

いつも、どこかで誰かが祭に興じたり祈ったりする。そして仕事はもちろん休みとなる。と、こうなれば、必然的に日常はゆっくりとしたリズムを刻むしかない。そして、『経済的には、世界最貧国』のリストにも掲載されてしまう。しかし、よく言われることだが、物質的には最貧国かもしれないが、精神的には、最富国のひとつであることは間違いない。

その、精神的最富国の基盤をなしていた、『祈りの場所』の多くが、地震の被災を受けたのである。ネパールの復興は、経済面の支援も大切であろうが、この『日々の祈りの場』の再興プロジェクトは、もっと大事なことだと思っている。なので、第三次支援からは、ご縁のあるチベット仏教寺院の崩落壁(お釈迦様の生涯が描かれていた)への復興支援・募金活動を継続している。

もうひとつは、三十年以上の付き合いのある弟分的ネパール人が関与する、被災キャンプ地(タマン族)復興支援へも募金・支援物資運搬活動も継続中である。これらの活動の主たる目的は、もちろんのことながら『震災被害発生から継続する募金・支援活動』である。

ただ、私個人的には、この活動を継続していく上において、もう一つの大きな関心事がある。それは、『ネパールの人にとって、(祈る)という行為の社会的意味とその影響』といったことである。我々日本人がすでに忘れてしまっている『日々の祈り』。裏腹に日々発生する、悲惨で陰湿な事件の数々。自分の身体に流れている、命の連鎖を実感できず、安易にその鎖を自らの手で断ち切ってしまう若者たち。

日本は外的には平和かもしれないが、内的には、『心の内戦状態』にあるともいえよう。それに比して、ネパールなどを始めとする、世界の辺境地に住む人々の『日々の充足感や手ごたえ感』。もしかすると、募金などの支援活動を通じて、私自身がネパールの人達から、『 心の被災への処方箋支援』を受けている側ではないのか、と自問自答している。

医療キャンプでのボランティア鍼灸治療

エスノグラフィーの師匠たち

二十歳代から三十歳代まで、私は幾人かの師と出逢い、導きも受けてきた。同志社大学時代のクラブ諸先輩方、ゼミの教授である故・岡満男先生(元・毎日新聞編集委員)。二十歳で出逢ったダライラマ十四世(当時四十代半ば)は、人生のターニングポイント的な存在でもある。三十八歳にて広島に居を移してからは、県の元・山岳連盟会長であった、故・種村重明先生。先生には、広島で『弧』を貫く心構えを御伝授いただいた。

学術の世界では、インドネシア・大衆文化論や比較文化論がご専門の故・沖浦和光先生。そして、世界の山岳辺境地帯文化の分野においては、文化人類学の故・藤木高嶺先生(写真右中・左から三人目。私は右端)である。

感化もされ指導も受けてきた『師匠達』は、すべて実践行動者群であったように思う。その行動スタイルが私の血肉にもなっているのだろう。藤木高嶺先生は、朝日新聞記者当時に、本多勝一氏とペアを組まれ、世界各地から数多くのルポルタージュを日本に送られ、朝日新聞紙上にて連載された。

『ニューギニア高地人』『アラビア遊牧民』『極北のイヌイット』などは、文献学者の目線ではないエスノグラフィ・レポートとして今でも評価されている。そんな、藤木先生は新聞社退職後、大阪の女子大にて実践・フィールド学を教えられていた。一度、民族学博物館を創設された、故・梅棹忠夫先生と、藤木先生との対談を私が企画し、その編集をさせていただいたことがある。

当時すでに、視力を失われていた梅棹先生であったが、弟子である藤木先生との対談は熱気に溢れていた。梅棹先生の弟子を自認される藤木先生とも、世界各地の山岳辺境地帯での『エスノグラフィ・プログラム』を伴にさせていただいた。藤木先生の実践フィールド学の手法の一つに、『定点観測法』といったものがあった。

それは、同じ調査地を数年単位で再訪を繰り返すのである。そして、そのフィールドの生活環境の内的・外的変化を記録していくのである。ベトナム奥地(解放戦線への調査取材地)、インドネシア領ニューギニア、(ニューギニア高地人の調査取材地)、ネパール山地(ヒマラヤ遠征や民族調査取材地)など。

その多くをご一緒させていただいたのは、ほんとうに幸運でもあった。そして、写真のパミール高原も同じ手法がとられ、私も計3度ご一緒している。映像のプロ(朝日新聞社時代には写真部にも属されたことがある)でもあった先生は、その継続記録写真をフィールド調査地の人達へ還元もしていた。

カメラなどがない山岳辺境地帯の人達へ、祭儀の様子や日々の営み風景の『保存記録』として還元されていたのである。この再訪手法や映像による記録重視の姿勢は、学ぶべきところ大であり、私もネパールなどにて、しっかりと実践している。

パミール高原にて

インドで沈没す

まるで、インディージョーンズの映画の世界であった。

インドのヴァラナシ。しかし一九七〇年代から一九八〇年代にインドを放浪していた者としては、やはり『ベナレス』と呼びたい。学生時代には、この街に約ニ週間ほど滞在し、実質的に沈没していた。その後も幾度か、調査などにて訪れている。その度毎に、この街の持つ威力(異力)に座標軸が揺すぶられる。

写真の時も、そうであった。夕暮れ時まで『ぼ~』っとガンジス河畔にて荼毘の様子などを見ていた。そうすると、ザワザワとしはじめ、何やら舞台のセッティングなどがはじまったのである。

あれよあれよという間に、ガンジスの川面も漆黒に融けていき、かがり火などが点灯し始めるのである。さらに、なにやら怪しげな(この街自体が怪しげであるが)な一団がす~と登場してきたのである。

手には、お香を焚き、煙もうもうのお鉢のようなもの。隣のおばさんは、手に持った鈴を鳴らし始める。そこへ、ぬ~っと、悪魔のような輩が顔を出す。もう、幻覚でもみているかのような2時間程度の時空であった。

ドラッグなんか、ひとつもヤッテいないのに、飛びまくりのガンジス河畔。いや、私はヤッテいないが、舞台上や聴衆はその限りではなかったろうなあ~。いずれにせよ、ベナレスは、ぶっ飛んだ街というのは現代でも変化なさそうである。

そんなベナレスについて、エッセイを書いている。
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混在する生と死

大阪に住むバングラデッシュ出身の友人から、インドのコルカタ(カルカッタ)へ飛ぶと聞いた。おじさんが亡くなったという。彼は二十年ほど前、単身日本へわたり皿洗いから始め、今では貿易商社を営むまでになっている。スケジュールをやりくりし、葬式のために海を越える。彼によると、インドなどのヒンズー教徒は、身内の死後約半月から一ヶ月後にお葬式をする。その期間、家族は白装束となり、男性は髪の毛を剃るという。

話を聞きながら、私はインドにある聖地・バラナシ(ベナレス)を思っていた。ガンジス河畔にあるガートと呼ばれる所では、昼夜を問わず遺体を荼毘に付す炎と煙が絶えない。初めてその光景を目の当たりにしたとき、気を失うくらい圧倒された。焼き場の人が長いさおを持ち、死者の内臓をひっかきまわしたり、頭蓋骨を叩き割ったりしている。

火の通りをよくするためだ。煙っている灰と薪は、さおでガンジス河に流し落とす。次から次へと遺体が運ばれ、淡々と同じ作業が昼夜を問わず繰り返されている。夜は川面に、死者を供養するための花と灯明を載せた小さな葉が流される。

ところが、朝日が昇る前から、死者の灰を流した下流で、身を清める沐浴が始まる。すぐそばでは、洗濯屋が心地よいリズムでシーツを洗濯石に叩きつけている。子供たちは喚声をあげて、河に飛び込んでいる。

多くの人生の終末が、日常の風景と背中あわせに混在している。まるで、生と死のスクランブル交差点。私の頭の中は、こんがらがった。人の一生って何なんだろうか。生きる、死ぬってどういう意味。なぜ、人は生きようとするのか…。酷暑の中、泣きたい気持ちで物思いに耽ってしまっていた。

ガンジス河の水は、インド洋へ注ぎ、水蒸気となり、雲になってヒマラヤ上空へと戻る。そして雨となり再びガンジスヘと帰ってくる。亡き人のことを、喪に服しながらゆっくりと心に納めてゆくヒンズー教徒の死生観の背景には、大きな自然のサイクルがある。その大きな循環と比べれば、人の一生なんて、なんとはかなく短いものなのだろうか…。

だからこそ、永遠に続くと思いがちな大切な人たちとの時間を、私たちは心の中でもっと大事に輝かせたい。

ガンジス河の早朝風景
まるでインディジョーンズの世界

ブータン探査時の危機一髪!

GNH(Gross National Happiness) = 国民総幸福量という、GDPなどの経済指標とは異なる目標を設定し、国民の幸せ向上を目的とする施策をとる、ヒマラヤの国ブータン。ここには、GNH施策調査などを含め、一九八〇年代より十回以上の渡航をしている。私にとって、地球の定点観測地点のひとつである。

二〇一六年の訪問時には、イギリスのウイリアム王子がブータン滞在中であったり、また、帰路の飛行機(ブータン・インド間)にて、まさに墜落一歩手前というスリルを味わったりもした。ウイリアム王子がブータンを出国するのをパロ空港で見送り、そのニ時間後くらいのテイクオフであった。結果的には、このイギリス王子一家のチャーターフライト出発の為に、遅れて出発したのも影響したのである。

ブータンを飛び立ち、「次の来訪はいつにするかな」なんて気持ちになっていた頃である。飛行機は、経由地のインド・アッサム州の州都ゴハティの空港へと着陸態勢に入らんとしていた。ゴハティは、学生時代に延々十数時間もバスに揺られてやってきた懐かしい町。機窓から遥か眼下に見えるアッサム州の山並みを見下ろしていたら、突然、窓の外が暗雲に変化していくのである。

あれよあれよという間に、機体が大きく揺れ始めた。インドなどでよくある限定的な雷雲の中に入っていったのである。問題は、ここからである。機体が大きく揺れ始め座席にしっかりと掴まろうと思ったとき、鈍く激しく、そして打ちのめされるかのような音響が機内を包んでいくのである。

「バリバリバリ!!」「バババババ!」

経験はないが、それはまるで機銃掃射をまともに受けているかのような音響と、体感なのである。当然、機内は大パニックに陥り、女性の悲鳴が機内をこだまする。今でも悔しいのは、その機内の様子や、音響を録画録音できなかったことである。機体は大きく揺れながらも、高度をどんどん下げていく。その下げ方は通常のものではなく、「落下」というイメージを想起させるに近いものであった。

「ああ、ここがそうだったのか。学生時代にバスに揺られてやって来たゴハティの街、それは、私の墓標を事前に造る為だったのか・・・」などと思いながらも、まだまだ続く機銃掃射の音響に、ただただ全身をこわばらせているのみだった。やがて窓から空港らしき風景が接近してきた。「ああ、空港に激突か?」と思いきや、機体はバウンドしながらも、滑走路に着陸したのである。

そして、しばらく機内に留められた後、アナウンスで、「すんませんが、全員降りとくんなはれ~」全員がぞろぞろとタラップを降り、迎えのバスに乗り込んだ。そして、そのバスが乗ってきた飛行機の前で、停車したその瞬間、

「オーマイゴッド!」「オムマニパメホン!」「合掌!」

写真のような、機体の前面に大きな穴がいくつも見えたのである。コックピットの窓ガラスには、大きなヒビが亀裂として入っている。そう、機銃掃射は「天の雷集団からの、豹?ヒョウ、雹の襲撃」だったのである。おそらくや、人間の頭か拳大くらいの、雹の弾丸が我がブータン航空を来襲したのである。

しかし、そこは、雷龍の国・ブータンのナショナルフラッグ! 雷には雷で、豹?雹には、ドラゴンで対抗してくれたのである。ドラゴンに護られた私達は、ゴハティの空港にて、代替飛行機の来訪を数時間以上にわたり待ったのち、バンコック空港へ。そして、奇跡的に当初の乗り換え便に間に合って、日本に戻ったのである。やはり、ブータンという国は、来訪者にも必ず「生存の幸せ実感」をお土産としてお持ち帰りさせてくれる国なのだ。

雷雹にて穴の開いたコックピット付近
ブータン探査にて

変貌するチベット(私の定点観測地点)

チベットは近年ますます様変わりしていっている。この変化のスピードを加速さえたのは、ラサまでの「高原鉄道」の開通である。中国の青海省からチベット自治区への「青蔵鉄道」である。一度この鉄道に乗車しながら、私自身とチベットとの関係史を振り返っていたことがある。 

それは、京都にある都ホテルでの出来事からはじまる。その年に来日されていたダライ・ラマ十四世とスイートルームで個人的に会談をもつという僥倖に恵まれた。二十歳の大学生の時のことである。高校時代から山登りを始めていた私にとって、ヒマラヤやチベットの高峰群は垂涎の地であった。大学に入り山岳部や探検部に所属し、それらの地への文献を読み漁る時期を迎えた。

そんな中でチベットの精神的指導者であった、ダライ・ラマ十四世の名前は書籍の中に数多く登場していた。「生のダライ・ラマに逢えるかも」というチャンス到来は、来日されたという新聞のべ夕記事を偶然目にしたときだった。それが結果として、人生のターニング・ポイントとなるとは露ほども解らなかった。

生(ナマ)のダライ・ラマ十四世は、重厚で、深遠で、超然とした雰囲気を、体全体に漂わせながらも、どこかお茶目な視線も感じたのである。京都の冬は特に冷え込みが厳しいのであるが、当時二十歳の私は、どこか温かい掌に包まれる感じがしていた。俗にいう「マイッタ!」のである。

それからの私は、チベットやヒマラヤを「より高み」への目線である望遠レンズだけではなく、よりワイドに、よりヒューマンに、よりスピリチュアルに」という広角レンズも併せもつようになったのである。それから幾度となくチベットやヒマラヤヘは出かけてきた。
 
二〇〇四年には、日本山岳会創設百周年記念事業として、念願だった「河口慧海師の足跡調査学術隊」へも隊員として参加した。ダライ・ラマ十四世やチベットやヒマラヤという場所は、私にとって人生のターニング・ポイントの人やエリアであり、さらには世界へ向けた私の広角レンズの定点観測地点でもある。

かつて「太陽の都」と呼ばれたラサは急速に近代化が進み、数年前に街角に立った時、一瞬どこの街かと戸惑った記憶もある。それは青蔵鉄道というインフラによって、東の方角から人や物、そしてルーツの異なる文化が毎日車両を連ねてラサヘ、そしてシガツェヘ、さらにはチャンタン高原やカイラス山麓へと流れていってるのである。

「近代化と伝統文化の軋轢」「創造と破壊」「変化と喪失」といったことは、すべての民族や社会にとって、歴史の通過点ではある。しかし、消化吸収の道筋を今までの数倍のスピードで通過する食物には、人体のどこかに歪みがくるように、変化への順応度に温度差が出ないかと不安でもある。また、個人的には定点観測のリズムも高速化しなければついてゆけないのでは…、とため息まじりに思うのである。

ライトアップされるポタラ宮殿
五体投地での参拝

ヒマラヤ・孤高の魔術師

大地に根づいた足

薄暗い明かりに照らされた、その足を前に私はとまどった。簡素な家の窓を吹きすさぶ寒風が揺すっている。近藤亨さん、当時七十八才(一九八〇年代)。ヒマラヤの大地を踏み締めてきた彼の足に、私は東洋医学の治療として鍼を刺そうとしている。野太い足だ。異郷の地をほとんど一人で歩いてきた、彼の足の力強さに、私は圧倒されていた。鍼先が跳ね返りそうな気がするほどの、生命力を感じる足に出会ったのは、この時が初めてである。

孤高の魔術師―近藤さんは、ヒマラヤの奥地・ジョムソンに住む。ムスタン地域の中心地であるジョムソンは、標高二七一三m。ダウラギリ、アンナプルナという八千メートル峰の背後にある、ネパールでも最も過酷な生活環境下にある村のひとつである。大ヒマラヤ山脈の裏側にあるので、雨の恵みは少ない。乾燥した大地に絶えず烈風が吹き、冬は雪に閉ざされる。

人間の足にも年輸というものがあるとすれば、彼の足にはヒマラヤの風雪の時の年輪が刻まれているであろう。近藤さんは、大正十年に新潟で生まれる。新潟大学農学部助教授を経て、五十五歳の時に国際協力事業団の派遣にて初めてネパールを訪れる。果樹栽培専門家としてネパール各地にて農業指導に従事された。彼がその本領を発揮するのは、国際協力事業団退職後である。

七十歳を超えてから、ネパールの中でも最も過酷な自然環境下である、ムスタン地区に入域。農業だけではなく、教育、医療など幅広い地域改善の事業を、個人の立場で取り組み始めた。七十歳を過ぎた老人が、後ろ盾のない個人としてヒマラヤの僻地へ、単身乗り込んだその勇気には頭がさがる。彼には夢があった。「自分ならあの特異な気象条件・地理的悪条件を逆に武器として活かして、きっと彼等に貢献できる」。

馬上の近藤さんの背中からは、大正人の気骨が感じられ、自髭が風に揺らぐ。彼の夢への挑戦の舞台へ、馬が案内してくれた。彼のプロジエクトを紹介しよう。山腹の地形を利用したリンゴ栽培、氷河からの天然流水を活用したリンゴの冷温保存室、淡水魚の養殖場、野菜栽培、激流河川への橋梁建設援助、医療施設建設、教育施設建設、などなど。

技術と経験の蓄積がなければ着手できない事業ばかりである。もちろん現地の人々の理解と協力も必要である。ネパール各地の不毛の地にて、果樹栽培を今までにも成功させてきた近藤さんは、いつしか『くだもの作りの魔術師』と呼ばれている。

私が最も感動した、彼の魔術はチューリップ栽培にもみられる。七年前、最初にフイールドを案内された時、その可憐さに心を奪われた。荒涼とした大地に、赤や黄、紫など色彩豊かなチューリツプが畑を覆っていた。灰色と赤茶色が視野の多くを占める中、その空間だけがまさに桃源郷の風を感じさせてくれた。(写真参照)

馬上の近藤さんは、時に威風堂々と、時に瓢々と夢への挑戦を語る。その上半身は、彼の意志の強さと同じく揺らぐことはない。烈風の中で聞く馬上の私の背筋も自然とピンと張る。彼と会う度に、私は勇気づけられる。夢への挑戦には年齢は関係ない。逆に夢への挑戦を忘れた時に、人の加齢スピードは加速する。

『気骨』などという言葉は、もはや現代の日本の中では死語に近い。だが、ドッコイ、ヒマラヤの山奥にて、この言葉が生きている。数年前に脳梗塞で倒れ、車椅子での生活を余儀なくされた近藤さんは、気骨という名の鐙に足を乗せ、再び馬上の人となった。

『夢探しを忘れた人をここに連れてらつしやい』。

鍼を刺す私に、彼は静かに、そしてにこやかに語られた。ボランティア・国際協力といった言葉が汎用される時代である。大学や高校でも国際交流の講座や授業がおこなわれる。机上での学問は基礎理論の習得には役立つが、生身を削る作業ではない。物質的な豊かさを享受できる世界では、生身を削る作業は疎んじられる。それだけに、七十八歳の近藤さんの夢への挑戦を広く紹介したいのである。

※近藤さんは、二〇一六年六月九日、九十歳代にてご逝去されている。

在りし日の近藤さん(左)
桃源郷のようなお花畑

砂漠の屍になりかける 

中国領内のシルクロードは大別すると三つのルートがある。天山北路は天山山脈の北側の草原を通過する。天山山脈南麓のオアシス群を結ぶのは天山南路と呼ばれる。そして三つのルートの中で一番過酷な条件下にあるのが、タクラマカン砂漠の南縁を結ぶ西域南道である。

「タクラマカン」という言葉の意訳は、一度足を踏み入れたら二度と出て来れない、ということ。

この砂漠のことを「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と昔の旅人は記した。西や南を崑崙山脈やアルティン山脈、北は天山山脈などに囲まれるこの砂漠は、日本の山岳・探検分野の人にとって昔から垂誕の地であった。特に砂漠の東方には、スウェイン・ヘディンの探検で有名な楼蘭やロプ・ノール湖がある。

登山や探検行動の源泉であるパイオニア精神を鼓舞された学生時代、「タクラマカン」という言葉は、しっかりと私の心にも楔となって剌さっていた。近年になり、幾度目かのタクラマカン再訪の旅に出掛けてきた。

その砂を手にとりながら、初めて砂漠に対峙した一九八〇年代後半のことを思い出していた。その頃の中国西域地方は、現在の経済成長がウソのような時代だった。

複雑な許可取得手続きに悩まされた後、カシュガルの町を四輪駆動車で出発した。ニ週間強で西域南道を走りぬけ、総走行距離二千三百キロを超す敦煌までの旅だった。ラクダによるキャラバン隊の苦労には及びもつかないが、想像を絶する強烈な自然環境が幾度となく私達の行く手を阻んだ。
 
しかし同時にその荘厳な大自然は、あえてこの過酷な道を通過する旅人への僥倖を数多く用意してくれていたのだ。アルティン山脈を横断中の夕暮れ時。道標としていた轍がいつの間にか消失した。

その時、茫然自失の私達の眼前を、野生鹿の集団が疾風怒濤の如く走り抜けていったのだ。砂埃と地鳴りが収まった頃、まるで魔物の住処のような奇岩群が夕闇に浮かび上がってきた。それはまるで冒険映画のクライマックスのようなシーンだった。

また満月に近い夜のこと。米蘭(ミーラン)の遺跡に疲れ果てて辿り着いた。月明かりの下で、野晒し状態の遺跡群が淡く仄かに浮かび上がっていた。月の光と遺跡の影は見事なまでのハーモニーを奏でており、栄枯盛衰の歴史に想いを馳せながらの野営を満喫することができた。

そしてなんといっても烈風に舞う砂塵に巻き込まれた時の記憶は忘れられない。その日の午前中は快晴無風だったが、午後急速に空模様が変化した。烈風が砂の粒子を巻き上げ、灰色のベールとなって進行方向を覆い始めた。

砂漠から流れてくる砂は路面にも積もり始め、路肩がしだいに霞みはじめた。それは砂地と道との境が無くなり、道路という言葉が消えてゆく瞬間だった。消えていったのは道路だけではなかった。

大気中に溢れ出た砂塵は、空と地面との境界線-すなわち地平線を視界から消失させていった。
それからの数分間、我々の車は一切の「枠」というものが見えない空間を移動したのだ。耳にするのは、風の音と車のエンジン音。

体が感じるのは、小刻みに揺れる車体の振動のみ。確実に動いているのだが、距離感や速度感、さらには重量感といった「実感」が無くなり、心地いい浮遊感を砂の大海原にて体感できた。

このように自然が展開する非日常の諸現象は、旅人たちの心象風景に強烈なインパクトを与え、その旅にも彩りを添えてゆく。「一度足を踏み入れたら、二度と出て来れない」と称せられるタクラマカン砂漠。もしかすると、自然現象の奥深い魅力に取り付かれた人が命名した言葉なのかもしれない。

アルティン山脈でルートロスする
遥か彼方にミーラン(米蘭)の遺跡を遠望する

回想のエスノグラフィー

2023年4月13日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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