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回想のエスノグラフィー2

清水正弘

深呼吸クラブ出版



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 目 次

星野道夫さんを偲んで

イカット=くくる、インドネシアにて

文明の交差路・シルクロードを分割調査

支援ミッション団としてカシミールへ

赤道直下にての危機一髪

タイのアヤシイ入れ墨師

神話と伝説の土地での『世紀』というスパーン

ダライラマ十四世との出逢い物語

トラベルセラピー・正解のない時代の癒し術

標高四千メートルでの『脈診』

南米大陸最南端・パタゴニア探査行

泰澄が導いた、ヒマラヤへの道

マチュピチュの祈祷台にて

凍てつくオホーツクの海にて

馬乳酒にて草原に沈没す

地球のテッペン・北極点

地球の軸足・南極に立つ

日本海の水を太平洋へ運ぶプロジェクト

韓国・慶州のナザレ園にて

危機一髪、九・一一には北米にいた

旅のエスノグラフィーとは

これからの展開について

星野道夫さんを偲んで  

アラスカには特別な思い入れがある

これまで、世界各地を訪れてきているが、アメリカという国への渡航は『時期がまだ来ていない』という内なる声が聞こえてくるのである。ちなみに、アメリカ本土は、シアトルに数時だけ(九・一一の時に急遽カナダからシアトルに移動した)。鳥取県の羽合(はわい)町は行ったことがあるけど、本場?ハワイはまだ未踏の地である。

しかし、アラスカだけは数度渡航している。ここは、星野道夫さんや、植村直己さん所縁の土地である。冒険家・植村直己さんについては、あまりにも有名な方であるからご存知の方も多いだろう。ただ、植村さんが兵庫県出身者で、明治大学の山岳部出身ということもあり、世間以上に、私は親近感を覚えている。

そして、先日歯医者の待合室で偶然出会った本にも、植村さんらしい記事が掲載されていた。それは、『著名人に、ほんとうはこの職業に就きたかった』という昭和四十年代前半の週刊誌特集を一冊の写真集にしたものである。

その中で、すでに著名であった植村さんは、『小さいころから夢のようなものはなかった。あえて、今就いてみたい職業といえば・・』その上で、『ルンペンかな~』と答えているのである。その特集は、なりたかった職業の衣装を着けて各著名人が写真におさまっているのである。

山口瞳氏は、魚屋の恰好をし、太地喜和子さんはタイの踊り子の姿で写真に納まっていた。確か中曽根康弘氏は、下町の金魚売りだった。その本の最終頁に掲載された植村さんは、東京の高層ビルの谷間を歩く『ルンペン』の恰好をして写真に写っていたのである。 さすが・・。

そんな植村さんは、アラスカのデナリ峰で消息を絶つ。一方、星野道夫さんにも親近感を覚える。彼は、慶応義塾大学の探検部の出身者なのである。一九五二年生まれの星野さんとは、八歳しか歳が離れていない。いわば、同世代の大学探検部世代である。

星野さんは、アラスカを拠点として、野生動物や、またその動物たちと共生するアラスカの人々の生活を、静謐さと熱情を伝える『写真』と、まるで手のひらに受ける新雪の如き、すぐに肌に沁み込んでしまうような、『詩と言葉』で綴ったひとである。多くの、写文集を出版されてもいる。

残念ながら、カムチャッカの地にて熊の精となり冬の空へと昇られたのである。そんな、植村さん、星野さん所縁のアラスカは、この地球上に残された、数少ない『精霊のフロンティアランド』ではないだろうか。

アラスカの氷河末端にて

イカット=くくる、インドネシアにて

一九八〇後半から一九九〇年台後半までの約二十年間。一万七千前後の島を持つといわれるインドネシア各地をフィールドワークで巡っていた。その多くは、比較文化論の学者・沖浦和光先生との帯同調査であった。さまざまな島嶼部を巡ってきたのである。 なかには、外国人と初めて接触する人々との出逢いもあった。その中でも、印象深いのが、ヌサテンガラ諸島と呼ばれる地域である。ここには、「イカット」と呼ばれる継承された染織文化が残っているのである。その文様は、彼らの宇宙観を現わしていると言われている。複数回の訪問で幾枚かのイカット織も購入してきた。

その中で、京都にある「川島織物・テキスタイル研究所」とのタイアップした現地リサーチプログラムがあった。私は二十九歳だったと記憶している。そして、その時に感じたことをエッセイとしている。

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宇宙観の伝承

アジアはファッションの素材の宝庫だと思う。特に辺境部に住む少数民族の女性が担う染織技法にそれを感じる。男性の民族衣装の多くは機能性重視のデザインであり、文明化が進むにつれて画一化してゆく傾向にある。 なぜ辺境部の女性は、独特の色彩と配色で質の深い衣装を保っているのか、とインドネシアのヌサテンガラ諸島を旅しながら考えていた。観光地で有名なバリ島の東に点在するロンボク、スンバ、フローレス、ティモールなどの島々である。

各島で伝統的な技法でつくられるイカットと呼ばれる絣の腰巻スカートは、独特の文様、色彩、配色があり、欧米のデザイナーも注目している。いまや絣を意味する世界共通語にさえなりつつあるイカットは、インドネシア語で「くくる」という意味がある。 スンバ島の農村でイカットの機織りの現場を見た。朝の家事を終えた女性が、木陰に置かれた織り機に座っていた。傍らには母の手元を眺めている女の子。女性が座るゴザの横で鶏がエサをついばんでいる。高床式の家の下から涼しい風が吹き抜ける、まことにのどかな光景である。

ふと気が付いた。彼女は描かれたデザインを見ながらではなく、黙々と手元だけを見ながら織ってゆくのだ。頭の中には文様の完成図がイメージされているのだろう。スンバ島独特の文様は、動物を多用する特色がある。ワニやニワトリ、馬、亀など、すべて精霊が宿るとされる生き物である。 自分の母親の手元を見て、その文様の織り方を覚えたと彼女は言っていた。その彼女の手元を娘らしき少女が見ている。アジアに残る独特の染織の多くは、タイ北部やインド、中央アジアの辺境部に住む女性の手による。彼女らの多くは、独自の精霊や祖霊の存在を心に宿しながら生活している。

科学的にものごとを判断しがちな男性に比べ、女性は感性が鋭く、現実を超越する事柄にも柔軟である。言葉や図柄では表現できない、彼女たちの宇宙観が手先の動きによって伝承されてゆくのだろう。

「イカット=くくる」

という言葉からは、母と娘の心と心を紡ぐ意味も感じる。紡がれた心から生まれる文様や色彩は、心の無形文化財としていつまでも伝承されていってほしい。

イカットを織る女性

文明の交差路・シルクロードを分割調査

シルクロードは、一応イタリアのローマから唐の都・長安を結ぶ、文明・文化の交差路とも呼ばれている。そのシルクロードに対する関心は、高校時代からのものであり、どうにかしてすべてを歩き通してみたいと願っていた。しかし、当時の中央アジア情勢などからも、分割して探査することしか選択肢はなかった。

そこで、まず改革開放政策をとっていた、一九八〇年代の中国・新疆ウイグル自治区を重点的に探査することから始めたのである。中国・新疆ウイグル自治区内のシルクロードには、大別すると三つのルートがある。天山北路、天山南路、そして、西域南道である。

天山北路は、いわゆるステップルートと呼ばれている。新疆ウイグル自治区でも北方、モンゴルとの国境あたりの草原地帯を抜ける道である。天山南路は、タクラマカン砂漠とゴビ砂漠の間を抜ける道である。西域南道は、タクラマカン砂漠の南縁を敦煌を経由していくルート。そして、一番自然環境が厳しいのが、西域南道である。

改革開放政策をとる一九八〇年代の中国では、天山南路が一番早く、経済投資の対象となっていた。今では、すっかり『石油開発』などのエネルギー資源供給地となってしまったが、当時は、その端緒でありまだまだ昔日往時の雰囲気が残ってもいた。北京から空路約六時間(現在では約二時間だと聞く)にて、自治区の区都・ウルムチへ。そこから、陸路にて高昌故城、交河古城、ベゼクリク千仏洞などを探査した。

トルファンなどのオアシスでは、ブドウ棚の下で、ウイグル娘たちの舞踏も見学することができた。それは、観光地のショー化される前の時代であるので、華美な装飾は一切なく、ブドウ棚横の倉庫で衣装替えや化粧をしていたのである。天山山脈からの、地下水路である『カレーズ』の内部にも入ることもできた。いまや高層ビルが乱立するウルムチでは、単に重苦しいだけの、旧ロシア領事館だった招待所が宿であった。

そんな時代ではあったが、二〇〇〇年代初頭に再訪した時には感じられない『熱気』や『賑わい』があったように思うのである。ニ〇〇〇年代初頭の新疆ウイグル自治区は、石油開発による超高度経済成長を遂げており、ウルムチの町では昔の面影を追うことができなかった。どこにも、シルクロードの香りがしない。単なる中国の一地方都市であり、他との区別が難しいのである。

タクラマカン砂漠北縁には、無数の風車が巨大なプロペラを回していた。石油の掘削機も、ギュアンギュアンと回転音を鳴らし続けている。砂漠に機械の回転音は鳴り響いているが、街中からは馬車の車輪がたてる回転音は聞こえてこない。ものの二十年程度で、これだけ一気に変化すると、かならずその反動がくるのは当然であろう。今ではほとんど報道されることは無くなってきたが、ウイグル族の反政府運動は、ますます過激になっていると聞く。イスラム原理主義との連携なども心配されている。

それだけに、一九八〇年代に撮影したこれらの写真は、後世への貴重な資料ともなり得るのかもしれない。

ウイグル族の結婚式にて
タクラマカン砂漠のオアシスにて
カシュガルのバザールにて

支援ミッション団としてカシミールへ

ヒマラヤ山脈の西端近く、インドとパキスタンの国境:カシミール地方を震源とするマグニチュード七・九の大地震が、二〇〇五年一〇月八日に発生した。

パキスタン北部の『不老長寿の郷・フンザ』界隈には幾度も探査行にて訪れていた。しかし、この震源地であるカシミール地方は、国境紛争の現場でもあり、入域許可取得も困難な地域であった。得てして、人為的な紛争地域に自然災害が降り掛かるものである。

現在では、「南アジア大地震」といっても、記憶に残っている日本人はほとんどいないだろう。ヒマラヤ各地での調査から帰国するたびに、『今度は私が恩返しする番』と思っていた矢先の震災発生であり、いてもたってもおられない気持ちであった。

そして、当時所属していたNGOメンバーらとともに、医療品などの一次支援物資を多量に梱包し、イスラマバードへと飛んだのである。それが、地震発生後二週間くらいのことである。

イスラマバードには、昔から親しくしている現地の山岳エージェントがあり、そこに依頼して宿泊用のテントや炊事道具なども手配した。イスラマバードでも被害が発生しており、日本からの政府派遣者も被害にあっていた。イスラマバードからは、陸路にてカシミールへと向かうのであるが、急遽取得した短期滞在許可証のみが、唯一の保険でもあった。

峻険な山道でのアプローチは、困難を極めた。山の斜面ごとスライドし標高差五百メートルくらいの谷底へ丸ごと落ちている箇所が幾度も目の前に展開していた。未舗装の道路には、どでかい岩が『で~ん』と落下・鎮座なされたままであった。震源地であるカシミール地方に入域すると、至る所で被害が発生したままの状態であった。

政治的に緊張を強いられてきた(インドとパキスタンとの国境問題)地域であるので、政府、民間、海外からの支援はほとんどないといってもいい状況下にあった。確かに、外目に見える建造物やインフラなどにおいての復興はまるで手付かず状態にあった。

しかし、現地では『共同体レベルでの支え合い』による『心の復興』は着実に歩を進めているとも感じられたのである。

このような山岳辺境地域や僻地と呼ばれるエリアにおいては、自然災害後において『孤独死』という現象はほぼ起きていないだろう。地縁・血縁など『土縁』とでも言うべき、『見えないセーフティーネット』が確実に存在しているのを強く感じたのである。

私は、この支援活動において、『自然災害被災への海外からの支援』の在り方について多くのことを学んだと思う。

その後、二〇一五年四月に発生した、ネパール大地震への支援活動を継続していく上においても、このカシミールでの活動で学んだことが生かされている。

土砂崩れで立ち往生する車

赤道直下にての危機一髪

インドネシア(スマトラ島)での危機一髪物語りである。

一九八〇年代、スマトラ島でのフィールドワーク・プログラム時のアクシデントである。当時のインドネシアは経済成長もまだまだの段階であり、なおかつスマトラ島の僻地の道なんて、舗装も完備されていなかった。道路の側道は、溝が掘ってあるだけで、ガードレールなんて代物はどこにもありゃしない。

そんな未舗装の道路を、写真のような当時では高級バスが、土埃をあげて疾走していく。未舗装の道での七十~八十キロの速さは、まさに『バスの暴走族』状態である。座席の前にあるバーや、窓枠などに掴まりながら、窓外を流れていくインドネシアの穏やかな農村風景を眺めていた。

すると突然、バスが急ハンドルをきり、『あれれれれ~・・・』なんて、スローモーションの如くに、道の真ん中からズレていくのである。『ええ~なんで~?』と思うヒマなく、『どっしゃ~ん、ゴゴゴゴ~、ズリズリズリ~』そして、『ガシャーン』。

それは、前方からこれまた疾走してきた『暴走トラック』を避けようとした、我がバスの運ちゃんのなせる技であった。

正面衝突→両車の全壊・炎上?→同行している高名な学者先生御一行様昇天?という最悪のケースを、この運ちゃんの見事?なハンドルさばきにて回避したのであった。

奇跡にも近いのだが、バスの右側側面のガラスが破裂したにも関わらず、また、ガードレールがない側溝に車体が写真のように横倒しになったにも関わらず、乗客、そして運ちゃんにも、まったくのケガ人はなし! 私の額に少したんこぶが出来た程度。

この一行には、当時すでに九十歳を超えたNさんという好々爺の方がいた。その方曰く、『いや~、戦地で体験したことよりも、もっと怖かったやん、これで、また長生きさせていただけるわいさ』とのご感想。

やはり、明治生まれは『豪傑が多い!』そして、確か同行の先生からだったと記憶するが、『おい、清水君、記念に写真撮っとかなアキマへんな~』なんて、関西弁でのお言葉がけをいただく。

代替えの車両の到着まで数時間あった。赤道近くの夏は、異常に暑い。ということで、幸運の女神である運ちゃんの帽子を拝借し、半裸で裸足の私が『OH~、NO~』といったポーズで、写真にオサマッタのである。

スマトラ島縦断中のアクシデント

タイのアヤシイ入れ墨師

場所は、タイのバンコクから車で約三時間。低湿地帯にある、ほんとうに怪しげな集落であった。一九九〇年代後半ころだったろうか。幻覚をみていたようなので、記憶も定かではない・・。タイの空軍の特殊部隊への現地取材で、バンコクにて滞在中、タイ人の知人からオファーがあった。

『ちょっと危ないけど、妖しい人に会ってみない?』

このチョット危ない、ダイブ妖しい、なんてフレーズに、私が反応しない訳はないだろうに。という訳で、その知人に連れられてやってきたのが、『犯罪者やハグレ者、その他アブナイ系の人達の集落』であった。そして、とある高床式の木造家屋の怪談?いや、階段を上ることになるのである。わお~。ここから先は、写真を見ながら、下記のエッセイを読んでほしい。

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入れ墨師・ネズミ先生

タイに住む友人から「ネズミ先生」と呼ばれ、尊敬されている人物を紹介されたことがある。ネズミ先生の住む町は、土地が低く、雨期にはほとんどが水に浸かるらしい。そんな住環境の悪さからか、町の住民は世の中の裏街道を歩く人たちが多いとも聞いた。簡素なつくりの彼の家の玄関は、脱いだ靴で一杯だった。ミシミシと鳴る粗末な木の階段を二階に上がったとき、思わず私はたじろぎ、足がかすかに震えた。

私の目には、三十人ほどの上半身裸の男たちが映った。その裸の背中では、彫られた入れ墨が舞う様に踊っていた。ネズミ先生の生業は「入れ墨師」だった。タイでの入れ墨の歴史は古く、戦士たちが戦闘の際に、恐怖心に打ち勝つために守護神の彫り物を体に刻んだのが起源らしい。カラフルな日本のそれとは違い、墨の単色で図柄も仏教の守護神やお守りの呪文が多い。ネズミ先生が、長さ六十センチの針を両手で構え持ち、微妙に右手を勤かすと、若者の背中や太股、さらに頭部にまで見事な絵が浮かび上がってくる。彼は、入れ墨を施す前に誓いをさせる。

「ウソ言わない」 、「父母の悪口は言わない」 、「麻薬と酒に手を出さない」 、
「他人のカアチャンに、手〜ださない」など、

わかりやすい言葉で説かれた人の道である。誓いを破ると、背中の守護神の怒りに触れるらしいので、若者たちは神妙にうなずいている。でも、先生は休憩の時間にタバコをうまそうに吸いながら、ミネラルウオーターをガブガブと飲むような、庶民的な雰囲気の人である。私は、「ネズミ先生」とはよく命名したものだ、と妙に感心していた。人の道に外れそうになり、良心の呵責に苛まれた若者を、ネズミ先生は独自の導き方で諭すのである。私が子供の頃、近所には必ず「雷おやじ」と呼ばれる人がいた。他人の子供でも、人の道に外れると叱り飛ばしていた。

怖い存在だったが、叱られた言葉は妙に頭に残っている。日本の経済成長とともに、そんなおやじはどこかへ消えてしまったようだ。最近、殺人事件や家庭内虐待のニュースが毎日のようにテレビで流される。物質的に豊かになればなるほど、私たちの心の貧困さが浮き彫りになってくるのはなぜなのだろう。雷おやじが存在しない現代では、自らが胸に手をあて、心に良心を取り戻す作業を繰り返しおこなうことしかあるまい。

アヤシイ・入れ墨師

神話と伝説の土地での『世紀』というスパーン

二十世紀から二十一世紀にかけて、地球上に「秘境」と呼ばれる場所は加速度的に減少している。

二〇〇五年夏、日本山岳会百周年記念事業の一環で、数少ない秘境を訪れる機会を得た。およそ百年前、一人の日本人僧侶が単身ヒマラヤを越えて禁断の土地・チベットヘ潜入した。「河口慧海」その人である。ムスタンと呼ばれる土地から、八千メートル峰・ダウラギリの北側の峻険な山腹道をヒマラヤ越えした。その冒険行は「チベット旅行記」となって当時の人々を驚愕させた。

その約五十年後、同じ西ネパール・ドルポ地域を訪れた、文化人類学者でKJ法の創案者・川喜田二郎氏は帰国後「鳥葬の国」を上程し、ベストセラーになった。ニ〇〇五年夏、私は先人達の足音を求めて馬上の人となった。日本出発の三日後くらいには、いきなりの四千mの峠越え…。冷気をいきなり吸い込んだせいか、手先が痺れ始め馬上から崩れるように地面に這い降りたこともある。

千尋(いやいや万尋かな?)の谷のような深い峡谷を幾度も越えた。まるで悪魔の喉を通過しているような不気味な斜面も登った。地図上ではなかなか判明できない谷を悪戦苦闘しながら遡行した。地球の終わりかと思われるような、そんな風景が幾度も眼前に展開した…。それに加えて、反政府勢力・マオイストのゲリラ軍団とも対峙した…。

河口さん、川喜田さん、ご心配に及びません。一世紀という年月は、さほど人間の生活を変えていないこともありますで。私は多少複雑な思いで一ケ月を馬上で過ごした。話は変わるが、昔、ブータン国から広島に来日した僧侶をアテンドしたことがある。彼は言った。

「信じられない。原爆で破壊された街と同じ街だとは…、」

彼は、ブータンの学校で見た、被爆直後の広島の写真をイメージしながら来日した。ヒマラヤの王国・ブータンでは五十年や百年では、風景や人の心の情景にはなんら変化がない生活を送っている。「国民総幸福量」という、GDPなどの数値ではない基準での最高値をはじき出す、ブータンという国から来た人ならではのコメントだと感じた。そうなんだ。五十年、百年では世の中そんなに変化しないものなんだ…。

戦後の日本というのは、その社会が世界の常識ではない。特殊で、ある意味人類にとっては、マイナスのスピード実験的な試みなのではないか,と思ったものだ。河口慧海師や川喜田二郎氏の記述を馬上にて思い出しながら私は、「世紀」という時間のスパーンについて、物思いに耽っていた。

これまでの人生で、地球上のさまざまな土地を訪れた。その多くは、「秘境」や「辺境」と呼ばれる土地だった。二十一世紀にこんな生活を送っている人たちがいるんだ、とか、それまでに獲得した常識の範囲では、なかなか理解できない人たちやその文化背景があった。市場経済至上主義やグローバリズムといった、その時の流行りの思想信条だけが地球を席巻していないことも確認できた。 

秘境や辺境の土地から帰国するたびに、私の脳は見事に「時差ボケ」に陥る。言ってみれば、「価値観」「人生観」「死生観」「幸福感」の時差ボケである。日本の、見えない常識の枠に左右されながら、ボーダレスなグローバル時代のリアリティとの狭間で、心のメトロノームが揺れるのだ。哲学者・内山節さんが言っている。「日本人はいつからキツネにだまされなくなったのだろう?」 

社会のすべてが、合理的な論理で動いてゆき、あやふやで、危うく、霊性を持った世界はすべて拒否されてしまう。人間の体への不思議さが残されているにも関わらず、社会には「不思議」を追求する時間も余裕もない。目を覆いたくなるような悲惨な事件は、河口慧海師や川喜田氏、そして私たちが通過した西ネパール・ドルポでは、千年前から現在に至るまで決して起きていないのだ。

まだまだ神話や伝説の残る社会では、人が人間のココロのヒダを大切にしながら生きているのだろう。神話や伝説は、その大切さを後世に伝えようとする物語に違いないのだ。確かに、西ネパール・ドルポでは、地形的な景観のみならず、居住する人々の描く、心の風景までもが世紀を越えても、微小な変化のみだった。やれやれ、神話や伝説が形骸化した時代に生きているわれわれは、なにを座標軸に明日を生きていけばいいのだろうか…?

ヒマラヤにて
ヒマラヤにて

ダライラマ十四世との出逢い物語

ほほえみの贈り物

私は、その人の微笑みに吸い寄せられるように、歩みだしていた。重要人物の身辺警護をするSP(特別警察官)が、両手を広げて私を遮ったにもかかわらず、その方は優しい微笑みを向けてくれていた。一九八〇年、京都の一流ホテルのエントランスでの出来事である。ダライ・ラマ十四世。微笑みの主は、チベット世界の精神的指導者だった。

学生時代から私は、ヒマラヤやチベットに大きな関心をもっていた。一年間大学を休学してチベットに潜入しようという無謀な計画を企んでいた矢先に、師の来日記事を読んだ。「どうしても会いたい」と講演終了後、宿泊先のホテルヘと先回りし、ファンのように待っていたのだ。

交渉の結果、翌日の朝二時間ほど、師の部屋で話をすることができた。瞑想を終えた後の師のまなざしは、深遠な海を見ているようにも感じた。微笑みながら語るバリトンの声は、私を優しく導いてくれているようだった。 温かさに包み込まれた二十歳の私。

とげとげしい心の角を溶かすような深みのある微笑みは、幼少からの悲劇を経て生まれたと後になって知る。人生には、数々の出会いがある。後で振り返ると、あのときの出会いが人生の夕―ニング・ポイントであったと思うことがある。私にとって、師との出会いは、まさしくそうだった。

その後、私はインドのチベット難民の村で語学を学び、ヒマラヤ山麓の寒村でも長期滞在した。帰国後、さらにチベットやダライ・ラマ個人に関する文献の多くを読みあさった。チベットに入れるようになってからは数度渡航し、師が亡命前に住んでいたポタラ宮殿にも足を運んだ。

私はダライ・ラマ師を通じて、世界の山岳辺境地帯の魅力の虜になった。一人の人物の微笑みとの出会いが、その後の私の人生をすこしずつ熟成してくれたのである。言葉の通じない旅先では、やさしい笑顔に出会うと心の扉が開く瞬間がある。

出会いはなにも旅先だけでなく、庭先や街角、通学通勤途中、夜の盛り場など、日常のありふれた場所にも訪れる。たったひとつの微笑みが、人を励ましたり、救ったり、安らぎを与えたりする。

ダライ・ラマ師から教わったのは、微笑みは温かい心のメッセージだということだった。

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★ 写真にあるように、個別会談の後、ツーショットの写真も撮影したのである。それも握手付き。私は、この日の後、約半年間くらい右の手を洗うことはなかった・・。

京都のホテルにて

トラベルセラピー・正解のない時代の癒し術

物質的に豊かな先進国では、さまざまな局面で人々のとまどいの表情がますます色濃くなり、醜い事件が多発している。その一方で同時代に、過酷な自然環境下で暮らす人々は、貧しさの中で輝くような笑顔を絶やさないのはなぜなのだろうか。

男達は凛として立ち、顔の中に深いシワを刻みながら、真摯に『 時代の波 』と対峙する。女達はやさしく、そして堂々と大地を踏みしめながら『 時代の面 』を闊歩する。子供達は裸足で太陽を追いかけ、老人達は矍鑠として昨日と今日、そして明日を見つめている。

自然という非論理性の高い世界を身近にしながら、生を育む人達は心の豊穣さをもちながら生活を営んでいる。かたや、政治や経済、教育・福祉などあらゆる社会問題においてますます混迷度を深め、閉塞感を拭い去れない現代社会。

旅行為は、心と身体の浮遊感、不安定感を再発見し、新たなる未来を創造する活力となり得ると信じる。 自身の肉体をあえて、未知の環境下におき、肉体と内なる魂を浮遊させる。この行為は、あえて己を迷わせ、シャッフルさせる『 遊動的スクラップ&ビルド 』行為でもある。

太古の昔に、樹上より見たであろう遥か彼方の光景に強烈な好奇心を抱きながら、ヒトの祖先が安住の地を離れていった行為は、論理的解釈では解けない。彼等にも明確な『 行動への動機 』 はなかったはずだ。彼らもあえて、迷いの世界へ勇気を持って、一歩を踏み出したのだ。

未来への旅とは、自と他 ( 自身の魂と世の中の森羅万象 ) への内なる知的好奇心への衝動を、自己の肉体を舞台に展開させる、台本の無いドラマ、その幕を自身であける行為であるはずだ。

勇気をもって"未知“という迷いの世界へと旅に出よう。

ブータンの薬草調合
イリアンジャヤにて

標高四千メートルでの『脈診』

標高四千メートルでは、平地の酸素濃度に比すると約六十%~七十%ぐらいにはなるだろうか。現代医療の世界では、『アブナイ領域』になる。そんなアブナイ領域、標高四千メートル付近で私は、チベット医師(アムチ)による巡回診療に立ち会ったことがある。

そこは、単色の色彩世界である。赤茶けた色が視野のほとんどを占める。群青の空が、どこまでも突き抜けるかのような深みで頭上を覆う。ネパールの秘境中の秘境、西北地域のドルポエリアである。

私自身、このエリアに入域したその日には、酸欠と冷気の急激な吸い込みにて、躰全体に麻痺様の症状が出た。下半身から上半身へと、次第に躰の自由が失われていく恐怖は、言葉では表現できない。思わず馬上から這うように地面にずり落ちたのである。そんな、空気の薄い高地での脈診。

どんな脈を打つのか、このアムチに頼んで、写真の女性の脈をとらせてもらった。なんと、どっくんどっくん、と見事に『実』の脈打つ音であった。生まれながらにしての環境順応といえばそれまでだが、あまりの鼓動にのけぞったものである。

もうひとつ、注視してもらいたいものがある。脈診の女性、そして、薪木を運ぶ女性たちの手首である。そう、貝殻のアクセサリーなのである。標高四千mのこのエリアから海までは、相当の距離がある。日本各地の縄文遺跡や弥生遺跡からも、貝殻アクセサリーが出土している。

その多くは、鹿児島県や沖縄近くの海でしか取得できない貝の種類だったりすると聞く。古代の日本では、海のネットワーク網を使いながら、女性たちの装飾心や慰撫心を満たすグッズが運ばれていたのである。かたや、ヒマラヤの奥地のドルポでも、女性だけが手首に貝を装飾するのである。

今から二億五千年ほど前、現在のヒマラヤ山脈のある広域ゾーンは、『海』だったのである。北のユーラシア大陸と、南のインド亜大陸が、プレートテクニクスにより接近、衝突、そして隆起したのが、ヒマラヤ山脈である。現在も活動継続中である。

事実、ヒマラヤ山脈中から、アンモナイト(巻貝)の化石も多く出土している。私自身も、小さな鍋蓋サイズのアンモナイトを現地で拾ったことがある。それは、家宝となってもいる。

太古の昔に海だった名残りを示す『貝』。その貝の装飾品を一生、手首部分にハメている秘境ドルポの女性・・・。おそらく、どっくんどっくん、という明瞭で力強い脈音は、地球の鼓動音と共鳴しているサウンドなのだろう。

ネパール西部・ドルポ地区での脈診

南米大陸最南端・パタゴニア探査行

人間半世紀以上近く生きてくると、「偶然と思える出来事も、必然の結果なのでは…」と感じる場面に多く遭遇する。ニ〇〇六年十ニ月に関野吉晴さん(医師・探検家)の講演を聴いた。壮大な人類の移動の歴史を、関野さんはまるで絵巻物を紐解くように、言葉を噛み締めながら語ってくれた。その朴訥な語りは、ほどよく抑制された高質度のドラマのナレーションを聞いているかのようだった。

関野さんの著書「グレートジャーニー全記録(移動編)・我々は何処から来たのか」の本編冒頭は、ブンタアレーナスという町の描写から始まる。ニ〇〇七年一月九日昼前、その町の空港に私は降り立っていたた。降り立った目的は二つ。南極での探査、そしてパタゴニア地方での最新山岳事情調査である。

関野さんの話を聞いてから一ケ月後に、グレートジャーニーの出発点であるパタゴニア地方を訪れるという幸運…。そして二〇〇七年は日本による南極観測開始五〇周年にあたる年。 宇宙飛行士の毛利衛さんや作家の故・立松和平さん達が昭和基地を訪れ、いつになく南極の露出度が高まっていたその年に、私自身も南極に足跡を残すことができた幸運も加算されたのである。

もうこうなると、偶然の出来事であっても、なにか大きな力によって、地球の裏側まで導かれたのではないか、と思うのである。

“ なにか、大きな力 ”、そうなのである。旅の道中、いつもこの言葉は私の心を揺さぶっていたのである。不思議なことに、パタゴニアの大地を移動していると、私の脳裏には幾つかの光景が浮かんでは消えるのである。

それは、アラスカの原野にボツンと置き去りにされていた廃屋であったり、チベットのチャンタン高原を砂埃をあげて疾走するガゼルの群れや、タクラマカン砂漠のオアシスで接した節度と誇りある村人たちの表情であったりした。

「 なぜなのだろう? 」

昨今のパタゴニア地方も、ご他聞に洩れずインターネット社会がすでに到来している。プンタアレーナスの町中にあるインターネット・カフェでは、日本語でヤフー検索画面が表示される。

隣の席にインターネットでテレビ会話を楽しんでいる若い娘がいるくらいだ。長距離バスの運転手がスマホ電話で諸連絡を取り合い、国立公園内のロッジでは流暢な英語を話す女性がフロントに座っている。

チリの良好な経済状態を反映しているのか、社会的インフラの整備は急速に進んできたように感じる。しかし、なにかが確実に失われていないのである。もちろんパタゴニアの大地を吹き荒ぶ風や浮かんでは流れ消えてゆく雲、延々と続く無辺の大地やそこに生息する生き物達、など大自然が醸し出す幾多の表情も失われていなかった。しかし、私はそれ以上にもっと大切なものが失われていない気がしていた。

それは、白髪のウェイターの目線の配り方や送迎車の運転手の口調、ホテルの女性スタッフの何気ない物腰などから感じるものなのだ。「フロンティアの空気感」とでも言っていいだろう。私にとっては非常に居心地が良く、心地いい感触-その触感がパタゴニアでは失われていなかったのだ。

背伸びすることなく、しっかりと大地に踵をつけながら、自然の恵みに感謝し、人肌の温かさを裏切らない日々の暮らしを大切にする…。

そのフロンティア特有の空気感は、アラスカの原野やチャンタン高原、タクラマカン砂漠、そして世界の秘境・辺境地に暮らす人々に共通している日々の営みの風景でもある。

私をパタゴニアに導いてくれた” なにか、大きな力 ”、それは関野さんをはじめ、「 フロンティアの空気感 」に居心地のよさを覚える人達の「 ご縁 」ではなかっただろうか。

パタゴニアの峰々
南米最南端にあるインターネット・レンタル屋

泰澄が導いた、ヒマラヤへの道

高校時代は、ワンダーフォーゲル部であった。当時( 一九七〇年代半ば )の我が高校では、県外での合宿が禁じられていた。 そこで、我々の学年(リーダーの関君が中心となり)が顧問の先生の協力のもと、学校側と交渉し始めて、二年次の夏合宿の県外計画が初めて認められたのである。

北アルプス連峰のいずれかの山などを仲間内で希望はしていたが、最終的に姫路市からの距離、ならびに難易度から鑑み、『 白山 』に決まったのである。当時、どのルートから登ったのかも思い出せないし、なにより白山の歴史的意味や意義などまったく関心外であった。

高校時代のワンゲル同期生は、『 卒業後は、アルプスやヒマラヤで再会しようぜ 』なんて言葉を残しながら、日本各地の大学へと散っていった。大学入学後、山岳関係の活動を継続したのは、前述のS君と私の二人だったと思う。その後、大学時代から『 ヒマラヤでのエスノグラフィdays 』が始まる。ネパールの東から西、南、そしてヒマラヤの北側チベットと足跡を残してきた。

ふと、思い返すことがある。『 なぜ、こんなにまでしてヒマラヤやネパールとのご縁が深いのだろうか 』と。ヒマラヤには、登山やトレッキングでも訪れてきたが、スポーツ登山にはほとんど関心を深めることはなかった。

四畳半の下宿部屋の読書棚にも、「 西川一三・秘境西域 」とか「 河口慧海・チベット旅行記 」、「 キングドンウォード・植物巡礼―プラント・ハンターの回想 」「 ダライラマ自伝・この悲劇の国、わがチベット 」などなどが並んでいた。

いってみれば、「 ヒマラヤ 」を( 登山の場 )としての対象地としてではなく、( 精神世界の探求の場 )として捉えてきたように思う。もちろん、二十歳代の頃には、そんな言葉では表現していなかったと思うが。つい先日、梅原猛氏・対談集を読んでいたら、次のような文章に目が止まった。話し手は、中沢新一氏である。

『 日本で修験道を始めたのは、役行者だと言われている。しかし理論的に仏教と結びつけたのは泰澄である。泰澄の白山信仰が神仏習合の初めである。また、木彫仏を創った最初も泰澄であり、その流れは行基・空海・円空にも繋がる 』

そして、梅原猛、中沢新一氏ともに、“ 泰澄の思想の深層部分と、ヒンドゥーイズムにおける『シヴァ神』、ギリシャ神話における『ディオニッソス神』の深層部分とには、共振する世界がある ” とも述べている。

組織化する大宗教( 仏教・キリスト教・イスラム教など )が歴史上に登場してくる前に、世界各地にて信仰されていた、「 大地母神 」「 産土神 」などの、精霊の働きのようなものだろうか。

世界最高峰エベレストにも幾度も出掛けたことがある。エベレストとはもちろん、英国人がつけた後世のネーミングである。古来からエベレストのことを、チョモランマ・Çhomolungma、( 中国表記で珠穆朗瑪峰 )と呼んできた。

それは、〈 大地の女神 〉〈 世界の母神 〉の意である。ネパール人は、〈 サガルマーターSagarmāthā 〉と呼ぶ。それは、サンスクリット語に由来する語で、〈 大空の頭 〉〈 世界の頂上 〉の意である。

そして、「ヒマラヤ」の語源は、「ヒマ・アラーヤ」であり、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか、蔵」)となり「白い雪(神々)のすみか」という意味となる。ちなみに、大乗仏教の根本思想に、阿頼耶識(アラヤしき)がある。

このアラヤ(ālaya)も前述の、(アラーヤ)と同じく、サンスクリット語で「住居・場所」という意味であり、仏教(大乗仏教)において人間存在の根本にある「蔵」であると考えられている。

白い雪(神々)の住むヒマラヤ。そして、泰澄が開山した「白山=しらやま」。私が第二の故郷と考えるヒマラヤの国であり、お釈迦さま生誕の国・ネパールへの憧憬は、すでに高校生時代の白山登山から繋がっていたのだろうか? 

世界最高峰・チョモランマ
五千メートル峰からの眺め

マチュピチュの祈祷台にて

すでに八回くらいになるだろうか。地球の裏側・マチュピチュへの探査回数である。日本人が訪れたい世界遺産、というランキングで必ずトップとなる、マチュピチュ遺跡。ここは、確かに『魂が揺さぶられる土地』のひとつであろう。行かれた方はお分かりだろうが、その地形景観が大きな要因でもある。その地形景観の中でも、際立って特異なものが、「ワイナピチュ」と呼ばれる、砲弾形の岩峰であろう。このワイナピチュは、現地の言葉で「若い峰」である。それに比してマチュピチュとは「年老いた峰」という意味である。屹立する岩峰は、やはり『若い』のである。そして、平らな地形のマチュピチュは「辛酸を舐めてきた年老いた」場所なのだろう。

そんな若いワイナピチュ岩峰の突端部近くに、祈祷台(写真)様の窪みがある。ちょうど、人ひとり分が座れるスペースが刻まれている。そして、その下は、千尋の谷底なのである。写真の私は、なにげなく指さしているが、身体全身から冷や汗が噴き出ているのである。すこしでも、風に吹かれると、一気にインカの藻屑となってしまう。眼下には、マチュピチュ遺跡群がまるで、コンドルが羽根を広げたように位置しているのがわかる。まさに「コンドルは飛んでいく」の世界が、アマゾン河の源流奥深い場所に存在しているのが、実感できるのである。そんな、マチュピチュについてのエッセイである。
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アンデス山脈の深い渓谷の下では、アマゾン河に注ぐ濁流が渦を巻いていた。山肌につけられた、つづら折の道をバスが喘ぎながら上ってゆくと、その遺跡は山の頂に忽然と姿を現した。ペルーのマチュピチュ遺跡。訪れたとき、遺跡が残る山全体は、流れる雲に霞んでいた。峡谷からは絶えず風が吹き上げ、流れる雲の間から石積みの住居跡などが垣間見えた。まさに空中都市遺跡の名がふさわしい景観だった。遺跡の中を歩きながら、私の頭は謎で一杯だった。

「神と交信するために、山の頂に生活空間を求めたのだろうか」
「生活のための水はどうしたのだろうか」

次から次へと疑問が湧いてきた。おそらく、疑問への答えはすでに分析され、解説書に記述されているだろう。でも、私はあえて自分だけの空想の世界に、しばし心を遊ばせていたのだ。私は、旅のときでも日常生活でも、この空想の時間を大切にしたいと思っている。先日、池でカメを見ていたら、子供らから質問攻めにあった。

「どうして足を互い違いに動かすの」、「カメのしっぽは、なんで短いの」、「じっとして、何を考えているのかな」、「動きが少ないから、長生きするの」

素朴な疑問に即座にいい返事が見つからず、ウーンとしばらくうなっていた。あわててネットで検索し、そこに書いてある答えを、棒読みすることもできたかもしれない。しかし、私はそのときも子供と一緒に空想の世界へ旅立つ言葉を探していた。現代の生活は、日常の隅々まで情報が溢れている。子供の素朴な疑問にも、パソコンでキー操作すると、短時間で科学的な答えを引き出すことができる。しかし豊富な情報がある生活は楽で便利だが、自ら考えることなく、解答を性急に求めてしまいがちになる。空想は、自分勝手な想像の世界であり、正解を求めるためのものではない。だからこそ、日常の生活の中に自らの力でファンタジーの世界を作り出せるのだ。子供にとっては、毎日が謎や不思議に満ちた時間なのだろう。そんな彼らは、自分だけの小さな発見に驚きの表情を隠さない。子供とともに、休日の昼下りは空想の世界へと旅立ちたいものだ。

ワイナピチュの祈禱台にて

凍てつくオホーツクの海で、ロシアスパイと間違われる

(別名・流氷の上での踏査計画)

この極寒時期のオホーツク沿岸計画は、確か大学探検部の複数年次にわたる長期プロジェクトであった。 それは、冬場・極寒期に、オホーツク海から流れてくる流氷の上を歩こうというものであった。今から思えば、とてつもなく無謀な計画である。それも、複数年次にわたり、分割しながらオホーツク沿岸から知床半島を一周する、というものであった。実際、四次にわたり四~五年間の期間にパート分けしながらおこなったと記憶している。

毎回何かのアクシデントが発生したのであるが、最後の四次目のアクシデントは大きな人的損傷にまで発展してしまった。しかし、これは一二〇%予測がつかない事態からの発生であり、避けることは不可能であったと信じている。そのアクシデントは、知床半島の海辺を一周し、あと一日で羅臼に到着という海岸で発生したのである。

それは、海岸の浜(といっても冬場なのでほとんど氷)にてテントを張っていると、夜中に崖の上からエゾシカが誤って落下し、テントを直撃したというものである。猿も木から落ちるように、冬場のエゾシカも足を滑らすものであるのか?この時テントの中では、夕食後の団欒のひと時だったという。このアクシデントもその後、大変な経過と結末を迎えるのだが、その話は一旦置いておこう。

この時、私自身はすでに留年して五回生であり、この踏査隊には参加していない。第三次においてのアクシデントも、相当冷や汗ものであった。まあ、これは私も当事者であるので、後に記述しようと思う。今日の「物語り」は第二次遠征の時のことである。確か、第二次は、枝幸(オホーツク沿岸)という場所から東へと海岸に沿って流氷上を歩く、というものであった。

我々三人(先輩のEさん、私、後輩のA君)は、極寒の枝幸の町から海辺へと出た。最初のスタート日であったこともあり、気分は非常に高揚しており、マイナスの気温もあまり苦にならなかったと記憶している。三人でのパーティ編成であるので、まずは、ジャンケンポンにて、氷上歩き二名と、陸上歩きサポート一名に分けた。一日おきにその編成を変えていこう、というものであった。幸運?にも、スタート初日のジャンケンでは、私は陸上サポートの一名となった。

そのことが、これから大いに変幻していく、今日の物語りの端緒的事象でもあったのであるが、その際にはそんなことを想像だにできなかった。さて、この年は相当な冷え込み(通常でもシバレル北海道だが)の年であったので、流氷の着岸もしっかりと確認できたのである。スタートの日、記憶では午前九時頃であったろうか、EさんとA君の二人は、意気揚々と岸から氷上へと歩を進めていった。先頭のEさんの手には、物干し竿が握られており、「こつんこつん」と氷上を叩きながら、安全確認しながら歩を進めていくのである。

私は、トランシーバーで時折連絡をとりながら、氷上の二人の影を眼で追いかけながら、浜辺の陸地を移動していた。 スタートしてから、ものの三十分くらいか四十分くらいが経過したころだろうか、小さくなりながらも確認できていた、氷上での二人の影が、突如消え失せたのである!あれ?大きな氷塊の陰にでも隠れたのかな?でも、なかなか姿が現れないぞ。もう少し様子みようか。うん?やはり、なかなか姿が・・。

よし、トランシーバーで連絡だ。「こちら陸上隊、氷上隊とれますか?」「・・・・・」。「こちら陸上隊、応答願いま~す!」「・・・・」。「もしも~し!!」・・。ありゃりゃ~、どないなってしもたん?? 

意気揚々として寒さを感じていなかったのが、一気に冷気が肌を突き刺すように感じ始めたのである。「Eさ~ん! A~!」と、届かないのがわかっていても、氷上に向かって大声で叫ぶ、その声が自分でも、とてもとても震えているのが自覚できたのである。 わァ~、初日やで~、それも歩き始めて三十分やで~、どないするん・・。 私は、意を決して陸地から氷上へと歩みを進め始めようとした。私にとっては、最初の氷上への一歩・・、手には『竿』はない。とっても緊張した~。
と、その瞬間、氷上からEさんの声がしたのである。

「お~い、落ちた~」

まことに簡潔で意味深い、しかし、どことなく九州育ちのEさんの、いい意味で「のほほ~ん」とした叫び声が聞こえてきたのである。あとでわかったことであるが、まず先頭を歩いていたリーダー格のEさんが、氷の裂け目から海へ落ちたのだった。そして、遠征前に何度も繰り返し確認していたことを、後方の約10mの距離を歩いていたA君は、 すっかり動転してしまい、その大切な事項を忘れてしまったとのことである。それは、「万が一、先頭が海に落ちたら、後方員はすぐに助けようと接近せず、互いの腰に結び合ったザイルの紐で、(離れた場所)から引き上げる」
というものであった。

そこは氷の上、ということは「海に浮かぶ氷の上」であるのだから、接近してしまうと、その人間も氷地獄に落ちる。そうです! 氷の裂け目から落ちた先頭を助けようという、陸上では当たり前の気持ちは、氷上では通用しないのであ~る。繰り返し確認したのにね~。だから、(離れた場所)から引き上げる。が大事になってくるのです。A君は、遠征前に何度も確認していたにも関わらず、いざアクシデントが発生してしまうと、そこを陸上と勘違いしてしまい、冬の海でもがいているEさんの元へと駆け寄ってしまったのである。あちゃちゃちゃ~・・・。でも、気持ちは痛いほどわかるけどな・・。

賢明な読者の方は、もうお分かりでしょうな。私が、トランシーバーや肉声にて、「お~い、お~い、大丈夫か~」と叫んでいたとき、彼らは二人とも、氷地獄の責め苦に喘いでいたのであった。しかし、神仏や、アイヌのコタン(神)は見捨てなかった。先に落ちた九州生まれのEさんが、なんとか次々に割れていく氷に阻まれながらも、ふんばって氷上へ登ったそうな。そして、京都生まれのA君を、オホーツクでの凍死から救い出したのである。

なんか、救助の順序が逆のような気もするが。ただ、これで解決した訳ではないのである。問題はここから佳境へと入っていくのである。さて、冬の海から上がってきた「トド二匹」、いや、EさんとA君は、その担いでいたザックをオホーツクの藻屑にしてしまっていた。さらに、氷点下十数度の外気の中で、全身ずぶ濡れ状態なのである。さあ~たいへんだ~、たいへんだ~。一応、元気なのは、陸上隊の、播州生まれである私一人のみの状態である。そして、不幸中の幸いであったのは、歩き始めてものの三十分程度でのアクシデント発生。

遠征として考えれば、完全に失敗例ではあるが、命を救うという意味では、これがもっけの幸いだったのである。私は、すぐに陸上を凝視した。と、少し先に人家らしき建物が目に入った。そして脱兎のごとく、その建物へと助けを求めに走ったのである。その建物は、長距離トラックの運ちゃんたちの「たまり場」であった。

冬の北海道をご存じの方は、お分かりになると思うが、人家は二重窓、扉も二重となっている。そして、室内では暖房がガンガンに炊かれており、運ちゃんらは半袖だった。そんなことで、外気と室内の温度差は、約四十度あまり。そして、脱兎の如く走ってきた私は、「ぜ~ぜ~は~は~」状態である。一刻でもはやく、メンバーの命を救わねば! との一念しかない私が、その二重扉をあけて「助けてください~!」としゃべろうとしたその時・・。

まず最初に出たのは、言葉ではなく、多量の鼻水であった! あまりの温度差に、鼻腔がついていけなかったのだろう。「あひょあひょ~、むじゅ~。ずりずり~」 。人間のものとも、動物のものともわからなくなってしまった、我が鼻腔を押さえながらも、なんとか救いの手助けを求めねば。
温度差約四十度、息絶え絶え、と二重苦に喘ぎ、死ぬ前の北極グマみたいになっていた、私の口からでた言葉は、「〇△◇%&??~!!!」となってしまっていたようだ・・。 それも、鼻水ずりずりの共鳴音付き、、。自分の唇が言うことを(唇は一応言うことを言う為にあるのだが)効いてくれないのだった。

そこで、もう一度「&%$$$〇△★!!!!」と声をさらに大にして叫んだのである。その時の私は、昔の山岳ヤッケに長靴、そして目出し棒(一応顔を出してはいたが)であった。突然、上下濃紺ヤッケの男が、それも、訳の分からない叫び声で飛び込んできたのである。運ちゃんらの気持ちは十二分に理解できる。当然彼らは、驚くと同時に、身構えた。とその時、さらに、運ちゃんたちの、拳と二の腕に力を込めてしまうことが起こっていた。

それは、オホーツクの海でずぶ濡れ状態となり、私と同じく濃紺上下のヤッケのEさん、A君に至っては、濃赤のヤッケ、の二人が、二重扉から、ぬそ~っと、室内へと入ってきたのである。特に、A君は二十代(彼は二浪の上の入学であった)初めにも関わらず、顔面髭もじゃなのであった。1970年代の大学生にはいたな~、このタイプ・・。 そして、Eさんは九州・久留米の呉服屋の跡取り息子で、いい意味で「ぬ~ぼ~」とした外見・物腰であったのだ。

さあ、運ちゃんたち、本気で身構え、鼻息も荒くなりはじめ、手には箒や灰皿を持ち始めた・・。 ように記憶する・・。今にも大乱闘になろうか、という時分になって、最初に室内に入った私の唇が、ようやく「言うことを効き始めた」のである。 「しゅみまひょ~・・。いや、す、す、すいましぇ~ん、あ、あ、怪しいものではありません。内地の学生なんです。え~と、さっき、海に落ちまして・・」。十二分に怪しいモノではなかったろうか・・。

この時ですら、まだまだ、運ちゃんらは、「このロシア人、日本語をよ~く練習してきとるな・・」とでも思っていたのだろう。 あとで仲良くなった運ちゃんらの話では、やはり「ロシア・スパイ漂着説」を強く思ったと笑いながら語ってくれた。 そのスパイ説を裏付ける極めつけアイテム事項は、A君の「顔面髭もじゃ」と「濃赤の上下ヤッケ」だったそうな。やはり・・。君はトルストイか?

ほんとうに、あの時、「たまり場」にいた運ちゃんの人達、ありがとうございました。やはり、私達はどうみても「怪しい探検隊」でした・・。お詫びついでに、報告しておきますと、私達、内地の学生は、このアクシデントにもこりず、翌年別の場所にて、新種のアクシデントを発生させてしまったのですが・・。題して、「サロマ湖での物資・人心の水没事件」である。それは、またの機会にということで、おあとがよろしいようで・・・。

凍てつくオホーツク沿岸にて

馬乳酒にて草原に沈没す

国立民族学博物館の創設者・梅棹忠夫先生の愛弟子・文化人類学者の藤木高嶺先生。その先生に帯同しての、内蒙古での『ジンギスカンの夢の跡を探査』する旅にて計二回ほど大草原に足跡を記してきた。

一九八〇年代であったので、まだまだ北京などにても、高層建築物は一切ない。中心地の公園では、毎朝老人たちが太極拳を無言でおこなっていた。北京から鉄道にて、まず内蒙古自治区の区都・フフホトへと移動する。

そこは、炭鉱の町のように町全体が煤っぽく、空気が澱んでもいた。しかし、フフホトの町から車にて三十分程度北上すると、そこには、心待ちにしていた『草原の青空』が両手を広げて待ってくれていたのである。

フフホトから車にて四~五時間程度、草原の中を砂埃をあげながらランドクルーザーが疾走した先には、パインホソという、『草原の生産大隊』拠点があった。そして、その生産大隊拠点からしばらく草原をゆくと、そこに遊牧民が使っていた『包=パオ』が並んでいたのである。

そのパオに宿泊しながら、ジンギスカンの末裔たちと連夜にわたり、熱烈歓迎の酒宴が繰り広げられたのである。その酒宴は、二十歳代の日本の若者を、彼の酔夢の中で、見事に遊牧民に化身させてくれたのである。

すなわち、海から来た倭寇の若者は、草原の覇者・元寇の手練により、草原の夢露と化したのである。

内蒙古にての習俗探査
毎夜繰り広げられた酒宴

地球のテッペン・北極点

ま~るい地球のテッペン・北極である。それも、『点』が加わる北極点。地球は丸いということは、計測器で正確に測定していくと、限りなく『とある点』に近づいていく。それが、北極点である。

東洋医学的にいうと、人体の頭頂部のど真ん中にあるツボ『百会(ひゃくえ)』に相当する。昔の中国人は、やはり奥が深い。百というのは『数量が非常に大きい』という意味があるそうな。いってみれば、頭頂部のツボ『百会』は、『数限りないナニモノカが出逢う場所』という意味とも読み取れる。

では、数限りないナニモノカ・・、とはいったい何を意味するのであろうか。というのが、この北極点調査行の『個人的な関心事』であったのだ。その時のことをエッセイにしている。

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北極点に立つ(人の存在を溶解させる無の世界)

人には忘れられない体の記憶がある。気温マイナス二十七℃。しかし、私の足を小刻みに震えさせた原因は、その寒さだけではなかった。北極点にはじめて足が触れようとする瞬間、その震えの波動はしっかりと体の隅々にある細胞へも伝播していった。全身が打ち震えるような感動のひと時は、人生の中でもそう多くはないだろう。私にとって北極点での経験は、体に刻まれた数少ない、感動の記憶であった。

北極点へのフライトは、ひたすら北へと向かうシンプルなものだった。植村直己さんら多くの冒険家・探検家たちが極点計画への最終準備をおこなった町、カナダのレゾリュートが出発点である。そこからさらにユーリカという粗末なロッジと簡素な滑走路のみの基地へと空路移動した。

ここから北極点まで片道五時間。途中氷上での無人給油中継点を経て地球のテッペンを目指すのである。巨漢のカナダ人パイロットの第一声は・・、『膀胱はカラッポかい?』 ”何だ、そりゃ・・" 軽量化が徹底された小型飛行機では、トイレ設置が無く、機内で催す尿意が一番の難敵なのだ。 残り一滴まで残さぬよう、寒風吹きさらす掘っ立て小屋のトイレでジュニアを絞り上げた。

出発後三十分もすれば右手前方にエルズミーア島の突端岸壁が見えてくる。『エルズミーア島は<北極のオアシス>とも呼ばれ、初夏にはチョウノスケソウなどの植物群やジャコウウシなどの貴重な生物の姿も見ることができる、云々…』

持参した文献資料よりも、どうも尿意の方が気になってしかたがなかった。そんな気持ちを見透かすように眼下の風景は不気味な北極海へと変化してゆき、一層尿意への不安感が増長した。

憂鬱という言葉を溶かし込んだような鉛色の空、絶望という言葉で凍らせたような白濁の海氷…。時おり、氷原帯が裂け、どす黒い海面が顔を出す。さらには氷原帯同士がぶつかり合い、接触面に白い牙のような氷塊が一列に並ぶ。 ところどころ霞んで見えるのはブリザードでも吹きすさんでいるのだろうか。

“うわ~、まいったな~こりゃ”

同行者たちの会話はすでに途切れており、機内ではプロペラの回転音のみが響いていた。機内に澱み始めたなんとも言えぬ不安感や虚無感を、「ブオーン」という人工音がなんとか払拭してくれていた。

途中、給油の為に着氷するという。“えっ、どこにスタンドがあるん?” 北極海を浮遊する氷原帯の上にその無人スタンドはあった。氷の上に置かれた数個のドラム缶に発信機がセットされていた。 その電波をキャッチし、狙いを定めてランディングするのである。同乗のアメリカ人たちは「セルフヘようこそ!」なんてはしゃいでいた。

「さあ、ここからがクライマックスだよ!」 パイロットの言葉とともに機体は北の空へと再度舞い上がった。給油後も針路はひたすら北である。飛行機の計測器が限りなく北緯九十度に迫る頃、機体は幾度も幾度も旋回を繰り返しながら高度を下げ始めた。

ランディング・ボイントの探索なのであろうが、どうも機体のトラブルではないかとの疑念が消えない。上空からは白一色に見え平坦にも思える氷原面は、接近するごとにその凹凸の形状がくっきりと浮かび上がってくる。

“ほんま大丈夫かいな?” 着氷時の機体へのトラブルは帰りの切符の放棄につながる。常にジョークの絶えなかった巨漢パイロットの背中に 、『ちょっとだけ真剣』というムードが漂い始めたと思ったとき、

「ガガガー、ゴゴゴー、ガクンガクンガクーン!」 、“アア!、おカアちゃ-ん”

これが、私の地球テッペン到着時の第一声であった・・・。

地球のテッペン・北極点にて

地球の軸足・南極に立つ

「いつかは実現できるだろう・・」、地球をまるごとサンドイッチ!  一九九二年四月。地球のテッペン・北極点で私は新たな夢を抱いていた。ま~るい地球にも軸足がある。それが北極と南極。この二つの極地を訪れ、自分の足で『地球をサンドイッチ』してやる、というものだった。 マイナス二十七度の北極点で、私の胸だけは沸々と熱気が上昇していた。(それから十五年、ほんまに実現できるんかいな) と薄々諦めかけていた。が、チャンスはやはり到来したのである。

二〇〇七年一月。南極へと向かう小型飛行機の機内。荒天で名を馳せる、南米最南端・ドレーク海峡の上空で、硬くて狭い座席にサンドイッチされながら、身動きできない私は一抹の不安を抱いていた。前日は南極上空の天候が好転せず、行程半ばにして泣く泣く引き返していたのだ。残されたチャンスはこの日のみ・・。 日本から北極点までは片道五日だった。

奇しくも今回同じ日数をかけて南極へと到達しようとしていた。太平洋上空にて日付け変更線をひとっ飛びし、座席に根が生える直前にチリのサンチャゴ着。翌日の朝、時差ボケの頭にスペイン語のモーニングコールが陽気に響いていた。南米大陸南端の街・プンタアレーナスまで国内線で四時間半。座席では尻から新しい根が育とうとしていた。

マゼラン海峡からの心地いい風で、強張った尻の筋肉がようやく解れようとした矢先だった。「 セニョール! ×△※○×□※、sorry ! 」 、「えっ何ゆうたん? ソーリーって、お宅何でアヤマっとるん?」。

振り返りもせず、南極行きのパイロットは頬に笑みを浮かべながら消えた。南極フライトの同乗者、スペインのワイン城のオーナーが訳してくれた。「天気悪いんやて。気長にいきまひょ、やて」えっ!「オーマイヒップ!」思わず臀部に手が伸びた。

それから延々と出発ゲート内や中継地空港の掘っ立て小屋の中では、キョロキョロとしてはヨタヨタと歩き、座ってはウ~ンと唸ってモゾモゾと身をよじる妙な一団の姿があった。少々お尻を突き出しヨロヨロと数歩歩いては、相性の合いそうなベンチを空ろな目で探す。私達は南極に到達する前に、自らが少々くたびれた新種のペンギンと化してしまった。

「とうとう来たで~!」

度重なるスケジュール変更や長時間の移動距離に対する忍耐力と少々の経済力さえあれば、南極到達の旅は一般人にも門戸が開かれている。南極の中でも比較的温暖な気象条件下にある、キングジョージ島まで片道三時間のフライトだった。タラップを運んで来るチリ観測基地のスタッフは、日本の冬山程度の装備だった。扉が開く瞬間、冷気の進入に身構えたが、なんと外気温はプラスの二度。

「えっ!ほんまにここが南極?」

大陸全体が厚い雪氷に覆われ、ブリザードが一瞬にして視野を白濁させる、そんな南極に対しての固定観念が多くの人にはある。しかし、南半球の一月は夏真っ盛り。さらにキングジョージ島は南極の中でも比較的温暖な気候に属している。ゴムボートに乗って向かったペンギン営巣地では、ペンギン達が快適に海水浴しているような光景にも出会った。アザラシ達は柔らかい砂地の海岸でお昼寝の真っ最中だった。室温調整中とはいえ、ロシア基地内のコックやチリ基地内の土産物ショップのオネーさん達は、額に汗を浮かべながら半袖で忙しく動き回っていた。

「地球をサンドイッチしたお味のほどは?」

南極から日本に帰国した数日後のこと。北海道がマイナス二十度前後というニュースを聞いた。片道五日の南極より、空路に時間前後の北の大地がよりシバレていたなんて。地球をサンドイッチして味わった食後感―それは、意外にもシンプルなものだった。「やっぱり自分の目で見てこなイカンな~」ということ。

チェリー・ガラードは「探検とは知的情熱の肉体的表現」と述べている。与えられた画一的な情報ではなく、自らの五感で感じ取る肉体的情報が新たな知的情熱を育むのではないだろうか。

地球のお尻(南極)から、各地への距離を示すボード
お昼寝中のアザラシ

日本海の水を太平洋へ運ぶプロジェクト

私が所属していた大学探検部では、「大学三年次」に部長となり後輩の指導と、国内でのプロジェクトを推進する。といった決まりがあった。大学時代、私は山岳部と探検部の恩恵を受けていた。山岳部所属の際に、過去の先輩方の偉業「アンデス・アマゾン計画」に大きく触発されたのである。それは、「未踏の領域にての、登山とラフティング」を同時に連続しておこなう画期的な遠征計画であった。アンデスの未踏峰に登山し、その後アマゾン河をボムボートにて航下する、といったスケールと発想のワイドなプロジェクトであった。

当時の山岳辺境分野においても、このように、発想自体が壮大な計画は類をみないものであった。すでに部室には、その際の報告書もあった。探検部所属時代に、その「アンデス・アマゾン計画」のミニチュア版のようなプロジェクトをリーダーとなり企画実践した。それは、「日本海の水を太平洋へ運ぶ」~北アルプス縦走+天竜川航下~というプロジェクト名である。

概要は、まず新潟県の親不知港にて、日本海の水を掬う。そして、そこから北アルプスに入山し、ほぼ全山に近い山脈を南下縦走する。北アルプス縦走の下山口は上高地となり、そこから松本へでる。あらかじめ、高校時代ワンゲルの仲間(信州大学山岳部に所属していた関君)の下宿に、ゴムボートを宅配していた。

松本へ出、関君の狭い狭い下宿に、髭もじゃもじゃの、二週間以上風呂に入ってなかった仲間四人が雑魚寝した。そして、一泊ののち、諏訪湖湖畔へとゴムボートとともに移動した。諏訪湖の釜口水門から航下スタートであったが、この水門があまりにも重層的な建造構造であったので、鉄道駅でニつ分くらい下に移動し、その河原でボートを膨らませた。そして、その後は、水まかせである。特に飯田市の山間部あたりは、天気も良く、極楽のような世界だった。

その先では、「佐久間ダム」が待ち構えており、ゴムボートを一旦岸にあげ、重量二十キロを超えるゴムボートを、その他の荷物とともに、ローカルバスで少し南へと移動。そして、再度天竜川にゴムボートを浮かべたが、このあたりから、下流域となり流れがどんどん緩やかになる。この年の夏は、異常に暑く、流れが「瀞状態」の箇所では、まるで奴隷船のように、全員が半裸で汗だくになりながら、オールを漕ぎまくった記憶がある。

そして、今でも後悔の念で苛まれている出来事が起きる。あまりにも、奴隷船のような状態が三日くらい連続していたので、私の頭に悪魔の囁きがしてきたのである。それは、「このまま浜松近くの海へ出ると、人家のない浜辺となり、そこから交通機関のある場所まで、この重量を担ぎながら戻るなんて、あ~いやだ~!」日本海の親不知からスタートして、二十日以上も漂泊の日々を送っていた私の心の「弱虫」を、その悪魔の囁きは日増しに刺戟していったのである。

そんな私の視野に、前方にバスが走る「橋」が入ってしまったのである。そして、おもわず・・。「ここで、ええんとちゃう~? 海に出たのと一緒やん?」 と言ってしまった。他のメンバー三人が、それぞれ「そうかもな~」とか「いや、そりゃちがう」とか、「う~う~」とか三者三様の反応であった。しかし、このプロジェクトのリーダーは私であったのだ。最終的に三人は「リーダーの判断に従うしかないの」ということになった。

そして、私達は、バスが通る道路端の河原を最終到着地とし、ゴムボートを撤収した後、近くのバス停(といっても、数キロほど離れていたが)まで移動、そして京都へと戻った。そう、疲れ果てていたのである。が、しかし、計画貫徹まであともうちょっと、という距離での終了決断・・。

京都に帰ると、アフリカのサハラ砂漠をラクダにて二百日以上かけて横断していた、飯田先輩から大目玉をくらったのである。「あほ! 清水! その(もうちょっと)が、何かを変えるんやないけ~! その時の判断にて、今回の計画全てがおじゃんでんがな!」

大目玉をくらった私は、それから相当期間、落ち込んだのである。 なにせ、北アルプス全山縦走は、三十キロ近い荷物を背負って(途中針ノ木峠にて食料補給のサポートは受けたが)二週間以上のテント泊山行。諏訪湖近くからの天竜川航下期間も含めると、総日数約一月弱が、「おじゃん」になったことが、ボディブローのように当時の私を嬲っていくのである。

今でも、あの「判断を下した瞬間」を思い返すと、胸がキリキリと締め付けられる。一緒だった三人のメンバーにも、申し訳ない気持ちでいっぱいとなる。それ以来、いつかいつか、その時に残した天竜川河口部分を、徒歩でもいい、カヌーでもいい、泳いでもいいから、我が身を移動させなければ、と思いながら早や四十年弱の歳月が過ぎていた。

死ぬまでには、必ず、この残り部分をなんとかしないと、それこそ、「三途の川」を渡ることができないのでは、と思っていた頃に、その復活劇が訪れたのである。東海地方に住む知人と、新潟県の日本海沿岸を探査した際、ふと復活への想いがムクムクと持ち上がり、海岸で日本海の水をペットボトルに汲んだのである。

そして、岐阜で知人を別れた後、単独にて浜松へと移動し、レンタカーを借りて天竜川河口まで移動。最後のやり残していた距離の一部を徒歩にて歩き、太平洋にペットボトルの水を流すことができたのである。もちろん、その際には、学生時代のボートに同乗していたメンバーの名前を、詫びながら連呼していた。

北アルプス縦走時のショット

韓国・慶州のナザレ園にて

心に響くハーモニカ

盲目の老女が奏でる、ハーモニカの音色。ビデオから流れるそのメロディーは、老女の苦難の人生が刻み込まれており、聞く者の心に重く響き渡る。 老女の名前は、山崎繁栄さん。一九一〇年佐賀県生まれ。彼女は、生まれてまもなく失明する。大正三年に父親の仕事の関係で朝鮮半島へと渡り、その後現地の方と結婚。半島を大きく揺るがした第二次世界大戦、そして朝鮮戦争へと続く動乱の時代に彼女は夫と一人娘を亡くし、彼女自身も行き場を失ってしまう。

それからの彼女は,、近くの子供の子守などをしながら、山に掘った穴の中で四年間も暮らしたという。一九九四年に亡くなられるまでの八十四年間、彼女の人生を追想することは、想像の域を遥かに超えることであり私には困難である。が、ハーモニカに込められた彼女の心の音色に、私は強い衝撃を受けた。そのハーモニカの音色は、韓国の慶州のとある施設の中で静かに流れていた。

慶州ナザレ園。

山崎さんは人生の静かな終末をこの地で過ごされた。おだやかな風景がひろがる慶州は、古来より韓国の古都(新羅国)として栄えてきた。近郊には歴史上の古蹟が散在している。ナザレ園は慶州の町はずれ、長閑な田園風景の中にある。一九七二年に開設されたこの園は、在韓日本人妻達を救援する活動をおこなってきた。在韓日本人妻は、第二次世界大戦前後に、夫である韓国人男性とともに日本から韓国に来た日本人女性達。第二次世界大戦終結直後の韓国には、約二万人弱の日本人妻の人達がいたともいわれている。

朝鮮戦争の動乱期に一家離散となったり、戸籍を消失、紛失した人など、韓国と日本との国交が回復した後にも、日本に帰る事ができなくなった女性達。生活にも困窮していた彼女達に救いの手を差し伸べたのは、父を日本軍に思想犯として処刑された金龍成(キム・ヨン・ソン)氏であった。朝鮮戦争後の荒廃した人びとの生活と心を復興する為に、金氏は孤児院や福祉施設を建設した。ナザレ園もその一つである。ナザレ園に関しては、作家・上坂冬子さんの著作にてすでにご存じの方も多いことと思う。

終の家での穏やかな日々

一九九五年五月に私がナザレ園を訪れた時には、当時七十二歳から九十四歳までの二十四名の日本人妻婦人が暮らしていた。ほとんどの方が高齢者であり、中には寝たきりの人、痴呆がでている人もいた。彼女らの一日は、午後三時に讃美歌を歌い、食事や風呂の時間こそ決まっているものの、その他は自由にすごされている。 日中は連れ立って近くの共同墓地を散歩されたりもしている。彼女達の楽しみを聞いてみた。

とりわけ人気なのが、日本の相撲中継やのど自慢、NHK朝の連続ドラマである。特に『おしん』が放映された時は、ドラマの時代背景と自分史とを重ね、食い入るように見られていたそうだが、最近の朝の連続ドラマにはあまり興味がないらしい。かえって韓国の家庭ドラマのほうが、心情的に共感を感じられるらしい。 ナザレ園では、日本の童謡や唱歌がよく歌われる。忘れかけていた日本語が懐かしいわらべ唄のメロディーとともに蘇ってくるともいう。国交が回復した後、日本へ帰国していった人も少なからずいる。が、すでに高齢となっている彼女達は、日本へ帰ることをそこまで望んではいない。 わらべ唄の歌詞とメロディーの中に、故郷・日本ヘの望郷の思いだけを託しているのだ。

魂は海峡を越えて戻る

彼女達は生きている間は、このナザレ園で過ごすことを強く望んでいるが自分の死後、魂だけは日本に帰らせたいと願う。 韓国にはこのナザレ園に住む以外にも、日本人妻と呼ばれる婦人がおよそ数百人ほどいると言われている。ナザレ園の収容能力にも限界があり、それ以外のところにも住んでいる人達がいる。中には、韓国で幸せに暮らしている日本人妻がいるのも一方の事実であると聞く。

しかし、身寄りも少なく心細い生活をする婦人が多く、ナザレ園では収容できない人に対しては送金援助をしたり、在宅サービスを行ったりもしている。だが、このナザレ園が果たす歴史はそう長くはないともいわれる。園長である韓国人女性・宗美虎さんは、あと十五年(二〇一〇年)くらいでナザレ園の仕事は終了すると言う。高齢者の多い日本人妻達は幾人かが毎年亡くなられているのである。

現在の慶州は、玄海灘に接する大都市・釜山から高速道路にて約一時間。玄海灘は高速船にて三時間で越えられる。距離的には、ナザレ園からものの半日もあれば、故郷日本の山河に触れる事が出来る時代である。

しかし、彼女達にとっての日本は、未だに近くて遠い故郷である。玄海灘を望む丘の上に、彼女達の墓地は建てられる。 半世紀前に、それぞれの新天地を求めて越えた海峡を見下ろす丘である。彼女達の魂は、わらべ唄のメロディーに乗り海峡を越えて故郷へと向かう。

『夕空はれて、秋風ふく~』、山崎さんが吹いていたハーモニカのメロディーも風に吹かれて、東へ東へと流れているはずだろう。

ナザレ園内での撮影

危機一髪、9・11には北米にいた

それは、九・一一の時のことである。私は、この日北米のカナダに滞在中であった。ロッキー山中にてのフィールドワークが終了し、バンフの町へと降りてきたら、どうも、町の様子が変なのである。あまりにも、人や車が見当たらないのである。そして、建物上には、カナダ国旗の半旗が。

う~ん、だれか著名なカナダ人でも亡くなったのかな?なんて悠長に思いながらホテルの部屋へと戻ったのである。そして、何気なくテレビをつけてみたら・・。高層ビルが崩落する映像が次から次へと流れて来るではないか。なんなんだ、これは映画か?大変なことがアメリカで起こっているな~。しかし、ここはカナダだから問題ないかな~。なんて思っていると、そのうちに、カナダとアメリカの国境が閉鎖される、だとか、カナダの出入国も一旦クローズになる、とか怪しげな雰囲気が濃厚になってきたのである。

そして、決定打が下された。カナダやアメリカの国内線全てが運航取りやめ、再開のめどなし、ということになった。四日後には、バンフ→(陸路)→カルガリー→(空路)→シアトル→日本というルートで帰国する予定であった。まず、カナダとアメリカの陸路国境が閉鎖という情報、そして、カナダ・アメリカの空の便がすべて運航中止。

どうすりゃ、よかんべ~。打つ手がない! という事態が迫ってきた。

さてさて、こんな時、むやみに焦っても埒が明かないのは、これまでの危機突破経験からも体得できている。しかし、これだけの未曾有の出来事は、私にも経験のないことであった。正直頭を抱え込んでいた。予定帰国便までのリミットも迫ってきていた。まあ、その帰国便そのものが運航されるのかどうかも不明の状態であったが。

しかし、幸運の女神は現れるものである。日本のカウンターパートナーとの連携により、急遽バスを仕立たててシアトルまでの陸路爆走突撃とあいなったのである。陸路爆走突撃って言ったって、国境が閉鎖では?との問いに、カウンターパートナーは『とりあえず、国境まで行ってみましょう!』なんて前向きなお返事。

よっしゃ、そんなら突撃したるわい! 

しかし、その時には、カナダ・ロッキー山中からからシアトルまでの、陸路移動距離や時間などは全く頭になかったのである。グーグルアースにおいて、コンピューターがはじいた最短距離は、なんと九百キロ!時間にして十時間!である。九百キロっちゃ、日本で言や、東京・福岡間(直線にして)くらいでっせ。それも、南北に伸びるロッキー山脈を何度も越えなくてはならない。さらに、その時間帯(シアトルの予定便に間に合うためには)は、午後から出発し、深夜のノンストップに近い走行になったのである。

私は、カナダ人ドライバーが居眠りをしないかどうかが、心配のあまり、運転席横の助手席に座り、絶えずドライバーとの会話に努めた。しかし、あまりにも疲れ果て国境近くにては、後方の座席にて眠りこけていた。突然、躰をゆすられ、起こされた。それは深夜三時頃のことだったろうか・・。いかつい顔をした(しかし東洋系の顔だったので先住民かな?)制服姿で腰の拳銃に右手を添えた国境警備官だった。

『Show!  your passport !』

え? 国境まで来たん?パスポート見せろ、ちゅうんのんは、『国境開いたん?』と喜んだのもつかの間だった。私のパスポートには、カナダ渡航の直前に渡航していた、パキスタンの査証スタンプが押されていたのである。さあ、警備官さん、そのスタンプと私の顔を交互にジロジロと眺め始め、私とパスポート君は別室に連れていかれたのである。ああ、なんでパキスタンなんかに行ってたんかな~、タイミング悪いな~、なんて思っていると、先住民の警備官さんが言ってくれたのである。

『アンさん、そんなに悪そうな顔やないな、俺と同じDNAを感じる』

だったと記憶(寝ぼけ眼状態なので鮮明ではない)しているのだが・。事なきを得、漆黒の闇の中アメリカ本土に入国した。しかし、飛行機予定時間まで残り僅か・。目が真っ赤のドライバーちゃんを、励ましながら疾風怒濤の如く、シアトルエアポートへと走らせたのである。そして、夜がしらじらと明ける頃、シアトルの高層ビル群が目に入ってきた。

よし、これで何とか間に合うかも???

と甘い期待をもって、シアトル空港に到着したら、『なんなのこれ~?』。シアトル空港は、九・一一から数日間閉鎖状態であり、この日に始めて一部の路線を再開しはじめたのである。なので、チェックインカウンターからは、まるで『ヤマタノオロチ』のような長蛇の列、列、列・。この長蛇の列に並びながら、『はあ~、最後に高いハードルが待っていた・・』とショゲていたら、なんとそこにも女神が顕現したのである。

『今日のフライト予約している人を優先します。その方はいますか?』

なんて、大声で叫んでいる空港職員の女性がいたのである。今でも思い返すと、その女性職員さんの顔は、アメリカの自由の女神、はたまた、阿弥陀如来、そしてヒンズー教のターラ神になって私の脳裏に浮かんでくるのである。

結論から言えば、私たちのチームは、なんと予定されていた到着時間より三十分程度も早く、成田空港に到着したのである。アンビリーバボー!!

旅のエスノグラフィーとは

人生はよく旅にたとえられる。成人とは「人に成る」、こと。どのような人になるのかが問題である。日本にも昔から一人前になる儀式があった。

しかし今日のように一斉に二十歳で成人式を迎えることはなかった。一人前になることは、人によって違っていたからだろう。では、何が一人前になる上で違うのか?世界にも、いろんな成人の儀式がある。それも、一斉におこなうのではなく、一人一人が一人前になる心の準備ができた時おこなう。

南太平洋の島では、簡素なやぐらから足首だけにロープを縛った状態で地面めがけてバンジージャンプをする勇気を問う成人男性への儀式。

ヒマラヤでは、越冬の為に家畜のヤクという大型ウシ科の動物を解体する。そのときにあばれまくるヤクの内懐に飛び込み、最初に心臓にナイフを突き刺す勇気が試される。

エスキモーの男の子が一人前に認められることは、犬ぞり用の長いムチを自由自在に操り、大型エスキモー犬を何頭も操る事が出来る能力ができること。

アフリカのサバンナでは、ある一定の年齢になった男の子を一人旅に出させる。狩猟も自分でおこなう。自活する術と他の社会を見聞する期間が一人前になる儀式。

インドネシアの島では、一定期間女の子が隔離され、そこで女として生きてゆく上での生活技術を伝授される。その間は外界との接触を一切さけさせる。

昔は一人前になることとは、自分で家族や地域社会を支える為の自活手段や掟や伝統という生活技術を身につけることとイコールであった。

現代日本では、農業や漁業、林業などの一次産業が盛んな時代ではなく、成人の八割以上がサラリーマンやサラリーウーマンという時代。昔のように、一人前になるということが、見えにくい時代である。

それだけに、心が成人してゆくということが重要になっている。心が成人するとは、どのようなことなのだろうか。私は、旅、それも一人旅という行為が、心の成人の道への栄養素になると考えている。私にとっても、旅が私の心の成人に大きく関与してきたと思っている。

私は関西の鉄鋼の町に生まれ、巨大なアパート群の中で育った。小さい頃から、なぜか自分の知らない世界へ行きたいという願望が強くあった。兄弟が多かったので、自分のアイデンティティを探していたのかもしれない。

大学に入ると山岳部や探検部に入部した。そのときのクラブのモットーに「自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じる」というフレーズがあった。このフレーズに従い、自分の五感を研ぎ澄ますこと、他人の目や流行に囚われない、集団で群れたり集団に埋もれてしまわない。

といった、自分磨きの作業を開始していったように思う。その延長線上で、一年間大学を休学してインド、ネパールへ出かけたのである。その前にはダライ・ラマ十四世とも出会った。

若いことの特権というのは、怖いもののほんとうの怖さを知らないことである。それは、石橋を渡る前に、叩いて叩いて叩きまくってその石橋を壊すことなく、また、石橋の下になにが隠されていても渡る無鉄砲さでもあった。

私は、その無鉄砲さを武器にしつつも、多くの失敗や反省を伴いながら自分の内面を真摯に見つめ直す為の旅を繰り返してきた。

その後、旅で噛みしめてきた果実の味を、多くの人と共有したいという思いがあり、秘境・辺境を専門とするエージェンシーに勤務し、世界各国へのフィールドワークを手掛けた。

しかし、何年かすると、このままの自分でいいのだろうか、と思い始めた。自分自身がワクワク・ドキドキすることが少なくなってきたのである。

安定してはいるけれど、安定は「退屈」という病気を育むのである。それを打破すべく、新たな転機を自らがつくり始めたのである。三十五歳の時に脱サラをする。

そして東洋医学の針灸の専門学校に入った。東洋医学の世界では、養生という言葉がある。心と身体の養生が、人間にとって最高の幸せであり、その道を追求してみたかったのである。

そうして、旅の世界を軸としながらも、旅養生やトラベルセラピーの世界へと視座が拡大してゆく。ふと気が付くと、日本の旅の原点は、お伊勢参りや西国お遍路旅、富士山への講による参拝など心身の養生が目的であったことにも気がつくのである。

旅することの原点は、人生の養生にあり、その原点に立ち返ることから始めようと考えたのである。

釈迦生誕地での旅セラピープログラム探査

これからの展開について

四十歳代前半の頃、中央アジア・天山山脈にコーディネーターとして出かけた際に撮影した写真である。今から約二十年ほど前である。その頃は、中央アジア諸国が旧ソ連邦から独立しはじめた黎明期でもあった。中国・新疆ウイグル自治区側(東側)からの天山山脈は、それまで幾度も探査や調査に出かけていた。隣接するタクラマカン砂漠やパミール高原にも足跡を残してきた。

一方、その当時は殆ど手付かずであった、西側からの天山山脈へのアプローチには少々興奮気味であった。現地を訪れたら、期待通りの時空間が展開していた。特に天山山脈を背にし、雪解け水が流れる小川沿いを、数頭を連ね疾駆する馬上人らの姿が目蓋に焼き付けられた。以降、心の中には絶えず「内陸アジアをの移動する人々」というテーマへの、憧憬の眼差しが消える事はなかった。


自分自身の海外渡航(調査やコーディネートなど)や、国内での関心フィールドの遍歴において、このテーマが、過去・現在・未来のフィールド各地との結節点となり、一本の糸として繋がりはじめる予感がしている。

日本の古代(縄文系まつろわぬ民) ⇄ 渡来系文化 ⇄ 朝鮮半島 ⇄ 中国領シルクロード ⇄ ステップルート ⇄ モンゴル文化(遊動文化) ⇄ チベット文化(即身成仏文化) ⇄ 仏教伝来ルート ⇄ (道教との融合=修験道誕生) ⇄ 中央アジア=東西交流十字路  ⇄ スキタイ文化(鉄の伝搬) ⇄ カスピ海 ⇄ トルキスタン ⇄ イスラム文化・ユダヤ文化(神秘主義)⇄ 旧東欧諸国(ジプシー文化) ⇄ 欧州の精神文化(巡礼文化)・(集合的無意識)⇄ イベリア半島(大航海時代スピリット)

と言った具合の『好奇心という名で紡ぐ内陸アジアのつづら糸』。この「つづら糸」においては、さまざまな分野にて歴史上闊歩した人物群も見逃せない。特に、日本から求道や探検、そして学術調査などにて内陸アジアの奥深い辺境地へと足跡を残した人たちである。大谷探検隊、河口慧海、能海寛、山田虎次郎、中村春吉、岡倉天心、高楠順次郎、今西錦司、梅棹忠夫、などなど・・。

これからも、主軸のテーマを『内陸アジアを移動する人々』に設定しながら、各分野・各地域でのエスノグラフィー活動を継続していくつもりである。

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これまでのフィールド遍歴を整理してみた。


十八歳 ・

初めての海外。関釜フェリーにて釜山へ。朝焼けの釜山港を船上から眺めながら、頭の中ではユーラシア大陸最西端・ポルトガルのロカ岬に想いを馳せていた。


二十歳代

特に、チベット(吐蕃)文化圏諸国と海のシルクロード(香料諸島など)諸地を活動フィールドにしてきた。国内ではまだまだ登攀活動もしていた時期である。

三十歳代

伝統医療(東洋医学やシャーマニズムなど)の世界や、日本の古代史、山岳修験の世界への関心を深めていく。また、中国領シルクロード探査を集中させた時期でもある。鍼灸師の資格を取得したのは三十八歳の時であった。

四十歳代

旧東欧諸国やトルコ、そしてカザフスタン、キルギスからの天山山脈などを巡る。また国内にては、たたら製鉄と渡来系諸氏に関心を深めていく。また、エベレスト遠征隊や日本山岳会百周年記念・学術遠征隊(河口慧海足跡探査)に参加する。

五十歳代

西日本では、古事記や日本書記などに記載されている神話や伝承の土地を巡り、東日本では縄文文化の痕跡を辿りはじめる。海外にては、欧州にての巡礼文化圏や、ユダヤ・イスラム文化圏に比重を置いて探査し、モンゴル西部の岩絵や鷹匠、そしてモンゴル仏教も探査した。また、大学院にて健康とツーリズムについて学び直す機会を得た。

六十歳代(六十二歳時点での記述)

釈迦生誕地・ルンビニにての(仏教の過去・現在・未来を俯瞰)する為の、多角的なフィールドワークを展開した。また、大谷探検隊を含め、幕末から昭和初期までの、日本における仏教の刷新・復興活動などについてもリサーチをしている。



勿論、これで全ては網羅できないが、ザックリとしたフィールド遍歴である。自身の足跡を改めて俯瞰して気がついた事がある。それは、ユーラシア大陸の東西南北、そして大陸と日本を接続する『結び目』を探してきた歴史でもある。その『結び目』の核心部が、モンゴル西部から中央アジア諸国、トルコまでのトルコ系諸部族ゾーンである。

このゾーンは、遊牧生活圏とも、シルクロードのステップルートともシンクロしている。人と物が移動し交流し、反発しながらも融解していく。既成価値に埋没せず、絶えず刺激の海に身を泳がせる。土地に縛られることの少ない遊牧世界は、まさに『漂えど沈まず』であり、『去る者は残さず』である。私は、そこにこそ『躍動する美』を見出したい。

回想のエスノグラフィー2

2023年4月13日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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