spine
jacket

───────────────────────



鍼灸師・地球のツボを探る

清水正弘

深呼吸クラブ出版



───────────────────────

 目 次


二十一世紀の旅心
最終の水場
物言わぬ十二角の巨石
極上のひととき
サグラダファミリア
スメタナホール
凍てつく誓いの鍵
イギリスの田舎で迎えた早暁
バチカンの至宝
ピカソ美術館
ピレネー山中の教会
雲上の展望台にて
天才のピアノ
白鳥の湖
世界最大級のバザール
ラジャスタンの踊り子親子
この世の果てにある石組み橋
巨大文明の痕跡地・兵馬俑
砂に埋もれた城壁跡に立つ
提灯と路地
断崖にある虎の巣
チベットの聖地・白巌窟
聖地の夕暮れ時
真冬の莫高窟
道端の学習場
鉄とヤマタノオロチ

二十一世紀の旅心

~正解のない時代の旅~

★ アフリカの大地での出来事である。

むかし、むかし、アフリカの大地にてジャングルの中にある、とある峡谷を挟んでヒトの祖先と、その他類人猿達の祖先が分かれたそうである。

ヒトの祖先はなぜ、大型野生動物に捕食される脅威のない、安住の樹上より地上へと降り立ち平野部へと出てきたのだろうか・・。

類人猿達の多くはいまだに森の深い所に住んでいるというのに…。

私は、人間の旅心というものの発生は、この樹上より地上へと降り立った瞬間ではないだろうかと思う。

ヒトの祖先は地表に生活の場を移しても、安住の樹上から垣間見たであろう、遥か彼方の光景の残像を網膜に、そして、その残像に対する強烈な好奇心を脳裏に焼き付けた状態で、地表に降り立ったのではないか、と仮説を立ててみたいのである。

ヒトの祖先は、そこまで高度に発達してはいなかった、大脳新皮質の中に『遥か彼方への、内なる心の衝動』を確実にインプットした状態で、地表へと生活の場を移したのではないだろうか。

地表にて生活を始めた、我々の祖先は直立二足歩行への肉体構造変化により、食物の運搬をより効率化できる両腕、柔軟な背骨、広範囲な視野、そしてより高度な精神活動をおこなう頭脳を持ち始める。

高度な頭脳は、同時に近未来の可能性を予測できる能力の発育、言葉をかえれば『欲』というやっかいな自我をも同時に生み出したのではないだろうか。

★ 直立二足歩行の功罪

直立二足歩行による、肉体的構造変化が生み出した人類の行動の諸様相の中で特筆すべきは、骨盤の変化により妊娠、出産、育児という仕事が非常に難事業になったということである。

このことが父親の存在意義を明確化させた。外敵から長い期間、身を守る為の『住居』の必要性が生じる。

移動機能が著しく低下する妊娠したメスを守り、補食するエサと格闘し、住居へと運搬する役割分担がオスに与えられた。

そして、最小グループ単位としての家族が形成され、秩序が必要とされてゆく。

さらに、安定した近未来を予測できる能力を有しはじめたヒトの祖先は、効率的なエサの捕獲のため、集団化をすすめてゆく。

また貯蔵という行為の発見が、ヒトの欲を限りないものへと拡大させた。

やがて、メソポタミアにて今から約五千年前に、集団の共有する欲の実現の為に都市が発生した。

私達は後年になり、ヒトの祖先が積み重ねてきた歴史のあらゆる資産を享受している。

しかし、二十一世紀の現在、世界各地でとまどいを隠せない事象が多く発生しているのも事実である。

★ 人類学者、デービッド・ピルビームは語る

『人類の進化の過程において、今までは答えを出しそうな人が常に脚光をあびてきた。これからは正解のある問題と、それのない問題とを区別できる人に栄誉が与えられるべきであろう』

安定した明日を勝ち得る為の問題には、常に論理的な解答が用意されてきた。

しかし、情動や心のカオスなど、非論理性という正解のない問題への考察は、文章化し、記録し、伝達してゆく作業が困難である。

日本では、三木清が旅について次のように語る。

『旅は未知のものに惹かれ、旅においてはあらゆるものが既知であるということは有り得ない』と。

旅とは、人間にとり根源的に、不安定感の上に立脚する行為ではないだろうか。

近代社会における習慣的、既知的な世界という近未来への予測が可能な、安定感のある土壌からの脱出行為が、旅ともいえよう。

『漂泊』とは、肉体と精神の浮遊感を意味するのではないだろうか。

★ ヒトはなぜ旅にでるのだろうか

その昔、『遥か彼方への光景に対する強烈なまでの好奇心』、という情動をDNAの中に組み込み、地表へと降り立ったであろう我々の祖先。

人類は、直立二足歩行による高度な社会を形成してきたその一方で、不安定感を希求する情動を遺伝子レベルにて確実に伝達してきたと思う。

狩猟採集生活の時代では、生産性は低いが、自然の中にまだ人間が溶け込んでいた。移動する、という浮遊感のなかに、好奇心への情動を重ね合わせてもいた。

農耕牧畜生活へと移行し、富をストックしはじめると同時に、精神と肉体の不安定感、浮遊感を必要としなくなる。

物質的に豊かな先進国では、さまざまな局面で人々のとまどいの表情がますます色濃くなり、醜い事件が多発している。

その一方で同時代に、過酷な自然環境下で暮らす人々は、貧しさの中で輝くような笑顔を絶やさないのはなぜなのだろうか。

男達は凛として立ち、顔の中に深いシワを刻みながら、時と対峙する。

女達はやさしく、そして堂々と大地を踏みじめながら地面を闊歩する。

子供達は裸足で太陽を追いかけ、老人達は矍鑠として昨日と今日、そして明日を見つめている。

自然という非論理性の高い世界を身近にしながら、生を育む人達は心の豊穣さをもちながら生活を営んでいる。

かたや、政治や経済、教育・福祉などあらゆる社会問題においてますます混迷度を深め、閉塞感を拭い去れない現代社会。

旅行為は、心と身体の浮遊感、不安定感を再発見し、新たなる未来を創造する活力となり得ると信じる。

自身の肉体をあえて、未知の環境下におき、肉体と内なる魂を浮遊させる。 この行為は、あえて己を迷わせ、シャッフルさせる行為でもある。

太古の昔に、ヒトの祖先が樹上より見たであろう、遥か彼方の光景に強烈な好奇心を抱きながら、安住の地を離れていった行為は、論理では解けない。

彼等にも明確な答えはなかったはずだ。しかし、あえて、迷いの世界へ勇気を持って、一歩を踏み出したのだ。

★ 二十一世紀から二十二世紀ヘ

二十二世紀に生きる我々の子孫が、二十一世紀を振り返った時、「過去の経験が熟成し、新たなる時代が始まった世紀」、 と拍手できるような、そんな世紀を是非とも構築していきたいものである。

未来への旅とは、自と他 (自身の魂と世の中の森羅万象) への、内なる知的好奇心への衝動を、己の肉体を舞台に展開させる、台本の無いドラマ、その幕を自身であける行為であるはずだ。

勇気をもって " 未知 “ という迷いの世界へと旅に出よう。

最終の水場

アフリカ最高峰・キリマンジャロには、四度ほど登っている。富士山と同様に、ひたすら登り坂を高度を上げていくスタイルである。いわゆるアップダウンはない。そして富士山と似ているもう一つは、ある一定の標高からは樹木などは一切消えてしまうことである。

ということは、水場というのも同時に存在しなくなるということでもある。キリマンジャロの最後の水場は、意外にも標高の低い場所にあるため、そのポイントから頂上までの距離は、あまりに遠い。それだけに、『Ⅼast Water point』という標識の、切実さがより身に迫っても来る。このポイントを超えると、風景は一変し、まるで月面のような乾燥砂漠が延々と続いていくのである。

旅においても、最終の水場的な場所がある。そこから先は、相当の覚悟を持って臨まなければならない関門。その関門の見極めを誤らないことである。

物言わぬ十二角の巨石

太陽の都と言われる、ペルーのクスコ。インカ帝国時代の首都である。スペイン統治時代の名残りが色濃く漂う街中の一角に、巨石のブロック積み壁がある。その巨石積みは、見事な直線の切断面と十二角の複雑な組み断面を有している。

この十二角の巨石の接触面は、接着剤も使っておらず、剃刀の刃一枚通さぬ建築工法と説明されている。この石積みの壁は、インカ時代の遺構であり、今から約七〇〇年〜一三〇〇年前のものと推定されている。

また、この辺りがマチュピチュへと繋がるインカトレイルの発点ともなっている。文字を持たなかったインカ文明は、このような「物言わぬ巨石」にその歴史の痕跡が刻み込まれている。

旅の途上においては、このような『物言わぬモノ』からのメッセージを見逃さないことである。

極上のひととき

アルプスの国スイスを訪れる日本人は年間数十万人近いといわれている。スイスやオーストリアに対して私たちが抱くのは、アルプスの峰々や高原の湖などのクリーンなイメージ。 アニメの「アルプスの少女・ハイジ」や映画「サウンド・オブ・ミュージック」によって素晴らしい山岳風景に親近感を抱いているからだろう。スイスの国土は九州よりやや小さい程度なのにもかかわらず、その中になんと約五万キロにも及ぶハイキングコースが整備されている。

地球一周分の四万キロを超えるほどの距離だ。夏ともなれば、世界各国から、絵のような山岳風景をバックに、自分の足で「思い出」という絵を描きに訪れるハイキング客で賑やかになる。山麓を歩いていると、シルバー世代の夫婦連れ、子供を肩車した家族、明るい学生グループなどにすれ違う。「ハーイー」「ボンジュール」「コンニチワー」など、各国の挨拶が笑顔とともに飛び交う。

高原の牧草地からは、カウベル(牛の首に付けた大きな鈴)やアルペンホルンの音色が、心地よい風に乗って、どこからともなく聞こえてくる。その音色は、自銀のアルプスの峰々から緑深き谷間まで静かに流れてゆく。そうしてマッターホルンを仰ぐ位置にたどりつき、ザックをおろしての休憩となる。そこで、足を投げ出し、草地に寝そべる。山頂を見上げると、流れる雲。風の強い日には、まるでまつわりつくように刻一刻とその形を変えてゆく。

私たちは、ただそれをじっと見つめている。だれも何も話さない。静かな時間だけがそこにある。そしてふと気がつけば、地面からは花や草の香り……。極上の時間の費やし方といえないだろうか。スケジュールに追われる旅にはない旅である。スイスアルプスのハイキング道は、世界でも最も贅沢な散歩道なのである。旅とは、移動距離をいたずらに長くして多くのモノをただ単に「見る」ことではないと思う。帰国後アルバムに張る写真の数の多さでもない。

旅先で感じた心の贅沢をこそ、人生というアルバムに記憶させたかどうか。それが、旅の質の深さを計るバロメーターではないだろうか。

サグラダファミリア

未完の世界遺産と称せられる、バルセロナにあるこの贖罪教会。設計者である、アントニオ・ガウディ生誕百年にあたる2026年に完成させるとなっている。三〇〇年以上かかると言われていた工期を大幅に短縮させたのは、IT技術と観光客増加に伴う多額化した寄付金とも言われている。

数度訪れた者から見れば、尖塔とクレーンのコラボ風景も一興ではあった。また、訪れる度に変化する内部も見応えを感じていた。それは、『歴史の途上に立ち会っている』という感覚が味わえる数少ない体験でもあった。

あと数年以内に完成なので、おそらくはまだ生きているはず。クレーンが取り除かれた状態を見に行ってみると、意外にも感動が薄かったりはしないだろうかと、余計な心配をしている。

スメタナホール

チェコの国民音楽創始者として知られるスメタナを記念する音楽ホールである。旧東欧時代には、音楽の聖地とも称せられた場所である。現在は、明るい色調になっているが、旧東欧時代にはその憂鬱とした『わが祖国』の音調と同様に、重厚さに包まれた場所でもあった。スメタナは、わが祖国の第二曲・ヴルタヴァ(モルダウ)について、次のように語っている。

この曲は、ヴルタヴァ川の流れを描写している。ヴルタヴァ川は、Teplá Vltava と Studená Vltava と呼ばれる2つの源流から流れだし、それらが合流し一つの流れとなる。

そして森林や牧草地を経て、農夫たちの結婚式の傍を流れる。夜となり、月光の下、水の妖精たちが舞う。岩に潰され廃墟となった気高き城と宮殿の傍を流れ、ヴルタヴァ川は聖ヤン(ヨハネ)の急流で渦を巻く。そこを抜けると、川幅が広がりながらヴィシェフラドの傍を流れてプラハへと流れる。そして長い流れを経て、最後はラベ川(ドイツ語名:エルベ川)へと消えていく。

凍てつく誓いの鍵

一時、旧東欧諸国への旅プログラムに集中していた時期がある。ベルリンの壁が崩壊し、欧州における東西融和の時代が一九九〇年代に始まった。

しかし、旧東欧と言われる諸国(ポーランド、スロベニア、スロバキア、チェコ、ルーマニアなど)、やバルカン半島の諸国などは、より一層混迷を深めていた。

共産圏時代には、表面化していなかった民族間の憎悪、貧富の格差拡大などの諸課題を抱えながら、未来像を描こうと喘いでいた時期であった。

少なからず、共産圏時代の名残といえる諸風景(建築などの外観、人々の暮らし風景など)がまだまだ色濃く残っていた時代でもある。

西欧の資本主義的価値観が浸透しない段階で、旧東欧諸国の諸相を確認しておかねば、というのが渡航をこのエリアに集中させた背景でもあった。その最初の渡航先として、スロベニアを選んだ。

まだまだ凍てつく厳寒期のさなかであった。あえてオフシーズンを選び、その時期にしか見られない事象を観察したかったのである。いつものように、早朝、日暮れ時を選んで市内を散策していたら、写真のような光景に出逢った。

写真は、『肉屋の橋』と呼ばれている、首都リブリャナ中心部にある三本の橋の一つからのショットである。 肉屋の橋はリュブリャニツァ川に架かる歩行者用の橋で三本橋と竜の橋の間にかかっている。

リュブリャナ中央市場とペトコヴシェケの土手を結んでおり、橋はスロベニア人彫刻家ヤコヴ・ブルダルの作品で飾られている。

この橋はスロベニア人建築家・プレチェニクが設計したものの、長年「幻の橋」と言われていた。構想から百年を経た二〇一〇年に完成している。橋の両脇はガラス張りになっていて、その下の橋に張られたワイヤーにはたくさんの南京錠がかけられている。

この南京錠は恋人たちが永遠の愛を誓い、錠前錠を橋にかけ、一生鍵が開かないよう鍵を川に投げ入れる。恋愛スポットとして人気があるらしい。

その光景には、スロベニアの若者らの、恋愛のみならず『希望を託す、未来への誓い』が込められているようにも感じられたのである。

イギリスの田舎で迎えた早暁

イギリスの繁栄は、意外にも短期間であった。産業革命から第一次世界大戦前までといってもいいだろう。現在の混迷ぶりを見ていると、過去の繁栄にしがみつこうとするあまり、欧州での孤立感を深めているようにも思える。しかし、この国の「虎視眈々ぶり」が尋常ではないことを、近代の歴史が証明している。

そんな、イギリス復活の前兆のような朝焼けを、田舎町にて体験したことがある。当地の人に聞いてみると、こんな朝の光景は珍しくはないという。緯度が高い影響なのか、異様に空が焼けるのである。

こんな、狂おしいまでに焼ける空を朝から見ていると、やはり「野望」「復活」などへのエネルギーは、枯渇することはないのではと思ってしまうのである。

チッピングカムデンの街にて

バチカンの至宝

あまりの列の長さに、おもわず踵を返して帰ろうか思ったくらいだった。春節でもないのに、イタリア全土にはお隣の国からの観光客で溢れかえっていた。

この宮殿入り口も、龍のような人の行列、、。なんとか辛抱して内部に入っても、中国語の嵐が吹きまくる。

一九八〇年代は、この嵐が日本語だったのだろうなぁ〜、とさらに辛抱しながら順路を進む。

流石に、このシスティーナ礼拝堂に入ると、嵐は小康状態になっていたが。新教皇を決める、コンクラーヴェの会場としても有名なシスティーナ礼拝堂は、バチカン宮殿にある礼拝堂である。

この礼拝堂は、ローマ教皇シクストゥス四世によって一四七三〜一四八一年に建設された。設計はバッチオ・ポンテッリである。この礼拝堂には、ユダヤ・キリスト文化圏での『至宝』ともいうべきフラスコ画が掲げられている。

特に、天井画は一五〇八年から十二年にわたり、ミケランジェロによって描かれた。礼拝堂の五〇〇平方メートルの天井には、「天地創造」、「アダム・イヴと楽園追放」、「ノアの洪水」のエピソードやキリストの先祖たちなど、三〇〇人を超える人物が描かれている。

天井画は、中心の九枚の「メインストーリー」、その周囲に位置する「聖人と巫女たち」、「四つの物語」などが描かれた四隅の絵画などにて構成されている。

メイン・ストーリー部分は、「神による天地創造」、「アダム、イヴと楽園追放」、「ノアの物語」の三部構成となっていて、それぞれが合計九枚の計三枚のパネルで成り立っている。

その九枚のタイトルは、「光と闇の分離」「太陽、月、植物の創造」「大地と水の分離」「アダムの創造」「エヴァの創造」「原罪と楽園追放」「ノアの燔祭」「大洪水」「ノアの泥酔」となっている。

お気づきだろうか、カオスの空間⇒天地創造⇒ヒトの出現⇒原罪の発生⇒自然界からの鉄槌⇒人間の混迷、という物語なのである。

ユダヤのモーゼやキリストという、預言者や神の子が出現する前には、世界各地の神話と同じく、混沌世界や天地創造というストーリーが展開していたのである。

ピカソ美術館(バルセロナ)

鍼灸師である私は、治療の際、自分の指頭に『気』を集中させ患者さんの『ツボ』からの触知感を探っている。また、同時にトラベルセラピストとして、これまで国内外の数多くの土地を、全身の五感にて触知して来た。

同時代の地球上にては、人体のツボ同様に、現代人への治癒となる場所、場面が点在している。この場所もその一つであろう。それは、『絵画』という世界にて、人々の心に新たな刺激と、同時に安らぎを与えてきたアーティストの展示物があるからである。

この美術館にて、ピカソの「時代を見つめる気」が凝縮した作品群が展示されている。そして、美術館がある場所もいい。バルセロナの下町のど真ん中にあるのである。小さな路地が入り組むこのエリアは、さしずめ『現代社会からの逃避迷路』と呼ぶにふさわしい。

写真は、ピカソ美術館・出口にて

ピレネー山中の教会

ピレネー山中といっても、スペインやフランスではない。ここは、アンドラ公国という小さな独立国である。この国の存在は、欧州にても以外と知られていない。

ましてや、東洋の日本では、ほとんど無名に近い。しかし歴史は古く、古代ギリシアの歴史家ポリュビオスによる『歴史』の中に、この地域の谷に先住民が住んでいることの記述があるくらいである。

一九九三年、スペインの辺境領の統治をしていたウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会民主主義制国家となる事が決定されている。

立地的にスペインとフランスに挟まれたピレネー山中にあり、現在は、タックスヘイブンや免税ショッピング、スキーリゾートとして知られてもいる。

この地を訪れたのは、サンタ・コロマ教会というプレロマネスク様式で建てられた教会を訪れる為でもあった。この美しい教会は、小さな国の最古の建築物の一つであり、十世紀を中心に設立されている。外観は至ってシンプルであり、どこか禁欲的な様相でもある。

灰色の石で積まれた建物は、要塞のようでもあり、修道院に隣接する鐘楼は、物見櫓のようにも感じられる。おそるおそる内部にはいって見ると、ちょうどミサの時間であった。

外観に比べて内部は、どこか包まれる雰囲気でもあり、欧州独特の、中世の香りが十二分に味わえる空間となっている。

教会の外観

雲上の展望台にて

スイスアルプス・ゴルナーグラード展望台へは、シーズン中には世界中から多くの方が訪れる。

よって、早朝一番電車に乗ってアプローチしない限り、ごった返す人影を入れずにアルプス展望写真を撮影することは困難である。

そんな中、少ない人影シルエットとアルプスの貴重なコラボ時間に出逢う事ができた。湧き上がる雲が、高度感を強調してくれる見事なアクセントになっていた。

この展望台へは、意外に誰でも簡単にアプローチできる。スイスの山岳リゾート地・ツェルマットの街から登山電車を乗り継いでの、雲上の鉄路旅である。

天才のピアノ

ハンガリーのブタペスト市内・リスト音楽院のある、Oktogon駅から一駅分歩いた、Vőrősmartyutca駅に、リスト・フェレンツ記念博物館がある。外観は普通のアパートにちょっとした案内板が掲げられているだけなのである。ここは、天才ピアニスト・リストが実際に住んでいたアパートの一部を使っており、使用していたピアノ、家具や調度品、ゆかりの品々、肖像画、再現された部屋などを見学できる。

リストは、若いころにイタリアの作曲家であり名バイオリストであった、パガニーニ(Niccolò Paganini)の演奏を聴いたことにより、ピアノ演奏への情熱を高めていく。パガニーニの完璧で卓越した演奏技巧は、リスト以外にも、シューマン、ブラームス、ラフマニノフなど数多くの作曲家に多大な影響を与えた。リストは初恋に破れ沈んでいた二十歳の時にパガニーニの演奏を聞いて、「僕はピアノのパガニーニになってやる」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話も伝わっている。

白鳥の湖

数年前にロシアを訪れた。メインはトルストイの世界観を探るプログラムであったが、現地にてロシア・バレエの公演を観劇した。

モスクワ市内の劇場に向かう際、日本から持参した『ちょっとした正装』姿に着替えていた。馬子にも衣装、といった感じでどうもお尻が落ち着かない気分でもあった。

しかし、そんなフワフワした心もちを、舞台上の華麗なバレリ-ナたちの舞いが、見事に吹き飛ばしてくれた。小一時間の公演時間中、ほとんど身じろぎひとつ変えなかったのではなかったろうか。

それだけ、食い入るように舞台を眺めていた記憶がある。確かに、ロシアを代表する超一流のバレエ団ではなかったかもしれない。

そんな事はどうでもいいのである。バレエ観劇の素人を小一時間どっぷりとその世界へと誘ってくれたのである。

舞手の指先や足先からは、瑞々しく華麗な飛沫が飛び散っているようにも感じられた。肉体をどこまでも研磨し、物語の世界観に心身をどっぷりと浸しているのがわかるのである。

それだけに、一五〇年弱の長きにわたり、ロシアを中心にこの舞踏が演じ続けられてきたのであろう。チャイコフスキーによって作曲され、一八七七年三月四日 モスクワ・ボリショイ劇場バレエ団が初演をおこなっている。

※ 上演中は撮影が禁じられている。終了後に撮影時間がほんの少し設けられている。

バレエ鑑賞ホール

世界最大級のバザール

正式名称は、カパルチャルシュ(トルコ語: Kapalıçarşı)である。トルコ・イスタンブールにあるバザールである。日本では英語での名称である「グランドバザール(Grand Bazaar)」とも呼ばれるが、一般的には、フランス語での名称「グランバザール(Grand Bazar)」の方が通りがいい。
十五世紀にその基礎は作られ、現在は屋根付きバザールの周囲に四千軒の店舗がある。外国人は、とにかく中に入ると迷いやすい。というのも同じような品物を扱う店舗が集中して並んでいるせいもある。

大学生の頃、『ミッドナイト・エキスプレス』という映画が流行ったことがある。その映画は、西欧の若者が中東のカオス的(といっても、西欧的価値観から見て)なイスタンブールの「ぬかるみ世界」に嵌っていく、というストーリーであった。このグランバザールに行くたびに、その映画のシーンを思い出すのである。現在のトルコは、経済的にも発展してきてはいるが、やはりこのバザールには『東西の十字路』としての面影が色濃く漂ってもいる。

ラジャスタンの踊り子親子

インドのタージマハール廟近くにて出会った父娘。インド北西部、ラジャスタン地方から来ている。ラジャスタン地方は、ジプシー発祥の地とも言われている。私は何故かわからないが、流浪の旅芸人にはいつも心惹かれてしまう。

アジアの僻地には、まだまだ彼らのような、移動しながら遊芸を披露しながら生計をたてている種族が少なからず存在している。インドを発祥とするジプシーの伝統は、意外にも旧・東欧諸国などで残存している。日本でいえば、さしずめ『フーテンの寅さん』といったところだろうか。

民俗学者の宮本常一氏の著作の中に、「世間師」という職業について記載がある。戦前までは、少なからず日本各地に存在していた世間師。旅で見聞きした事象や出来事を、次の旅先滞在地にて話すことで、旅から旅への暮らしを送る人々。何故か、憧れてしまう存在である。

この世の果てにある石組み橋

ここは、秘境中の秘境、と呼ばれるヒマラヤ山中の「アッパードルポ地区」である。

明治時代に単身、仏典をチベットに求めてヒマラヤ越えをした、河口慧海師の足跡を辿る学術調査隊参加時のものである。

石組みの橋の下は、ヒマラヤの雪解け水が轟轟と音をたてて流れている。ちょっとでもバランスを崩せば、一巻の終わり、である。

実は、このような「一巻の終わり」という場面は、毎日のように展開していたのである。

一瞬の気も抜けない場面が毎日のように繰り返されると、高度障害もあいまって、体重が見事に減っていくのがわかるのである。

このヒマラヤ山中に、合計二ケ月に渡り滞在していたのだ。毎日にようにフィールドノートに記録をつけながらの調査行であった。

二ケ月の後、日本に帰国しさらに後追い調査のために、すぐにヒマラヤへ引き返し、約二週間聞き取り調査を続行した。

都合七〇日を超す長期の調査終了後に体重を計ると、なんと十数キロ落ちていた。ベルトもゆるゆるの状態であった。

この時以来、ヒマラヤ・ダイエット養生プログラム、なんていうのを考案し、実際に何度か実施したこともある。

ただ、二週間ばかりの緊張感の少ない旅だと、なかなか体重も目に見えて落ちないので、早々にプログラム内容を改定したが・・

巨大文明の痕跡地・兵馬俑

これまでの人生にて、「ぶったまげた~」と驚愕したのは、数度しかない。この場所は、その数少ない驚愕の声を洩らしてしまったうちのひとつ。一枚の写真には、収まりがつかないくらいの、人や動物、兵器の塑像群。現在においても、継続的な発掘調査が進められていると聞く。

古代の皇帝などの死後における生活を考えた上で、埋葬用として制作された人馬の塑像群。その数は途方に暮れるくらい無限にも感じられる。秦の始皇帝・兵馬俑の内部を見学すると、やはり中華文明は巨大な山や岩の如くに感じられる。

その山や岩から破砕した欠片が、朝鮮半島、日本列島、インドシナ半島、チベット高原、そしてシルクロードを伝って欧州大陸へと伝播していったのだと、深く納得してしまうのである。

砂に埋もれた城壁跡に立つ

西域南道、天山北路、パミール高原、カザフスタン領天山山脈など、シルクロード各地はこれまで数多く訪れてきた。そんな中でも深い心象風景として脳裏に刻まれているのが、写真の場所・嘉峪関である。長安から西域に派兵される防人たちは、この嘉峪関を越え西に向かう際、望郷の念にかられた歌や詩を詠んでいる。

この嘉峪関を過ぎると、風景が一変するのがその背景にある。いきなりと言っていいほど、砂礫帯が展開し、吹き荒ぶ風には温かさは微塵も感じられない。タクラマカン砂漠の端緒にある関所。タクラマカンとは、一度足を踏み入れたら、二度と出てこれない、という意味を持つ。

砂に埋もれた関所の城壁跡に立ち、防人たちの気持ちになって、虚空が広がる遥か西方を指差してみる。

提灯と路地

世界で一番人口密度が高い路地である。それも時間限定で。その限定とは、提灯に明かりが灯る頃からの三〜四時間である。台湾北部の丘の街・九份(きゅうふん)。スタジオジブリの映画に出て来る『湯婆婆の館モデル』としても有名である。

提灯が灯る坂道は、身動きが取れないほどの混雑ぶり。ただ、ひっそりとした裏道はあるものである。この裏道は意外にも知られていない。メインのストリートはまるで芋の子を洗うが如きである。しかし、裏道を歩くとほとんど人影には出くわさないのである。

その昔、この町は炭鉱で栄えただけあって、掘削した後のトンネル道がひっそりと存在している。さらには、そのトンネルを結ぶような、抜け道的路地もあるのである。 ぜひ、(人生の?)裏道・抜け道・そして寄り道を楽しんでもらいたい。

断崖にある虎の巣

ここは、ヒマラヤの国・ブータン。昨今は『幸せの国』としてや『若き国王のいる国』として紹介されている。そのブータンは、チベット仏教を信仰する国である。その信仰の中でも聖地中の聖地とされているのが、このタクツアン僧院である。

チベットから虎の背に乗って、聖者がブータンへ仏教を伝播しにやってくる。その聖者が降り立った場所が、この僧院ともいう伝説がある。この僧院へは、ちょっとした登山行為を経なければ到達できない。馬に揺られる手もあるが、急傾斜にての乗馬を、ほとんどの外国人は恐れている。

私はすでに、ブータンへは十数度渡航している。このブータンには、広島出身の女性が現地で長きにわたりブータンと日本の友好交流に尽力されている。行く度に、その方とも再会しブータン社会の変化についてお聞きするのが楽しみでもある。

チベットの聖地・白巌窟

ここは、明治時代に単身チベットへ仏典を求めて旅した、河口慧海師が滞在した聖地のひとつ、白巌窟(はくがんくつ)である。私が訪れたのは、河口師の後約一〇〇年後(二〇〇五年)である。

この時代のチベットは、まだまだ中国政府の統制下にあるとはいえ、秘境部へはその影響力は少なかった。なので、このような巡礼者の姿も多々見受けられていたのである。

しかし、近年になり、より一層中国中央政府の少数民族同化政策などが強力に推し進められ始めている。それだけに、訪問するとすれば早い方が望ましいだろう。

ただ、アプローチには少々気合を要する。とりあえずチベットの首府・ラサまで行こう。そこからは四輪駆動車などを駆使して、数百キロ以上の冒険行となるので、充分心して望まれたし。

聖地の夕暮れ時

大学生の頃だった。一年休学し、インド大陸を放浪していた。確か、シーク教の聖地・アムリッツァへと向かうローカルバスの中だった。隣には、一八〇センチ・一〇〇キロ、見事な口髭と頭に白ターバンの恰幅良い偉丈夫が座っていた。そして、脚の間にはサーベルが屹立し、その鞘の上には野太い手掌が重ねられていた。

その横で、大和の国からの貧乏学生は、身を竦めながら縮こまって座っていた。ガタガタ道をバウンドしながら、土煙りをあげるバス。その窓からは地平線に落ちてゆく、バカでかい夕陽が流れていくのが見えていた。サーベルおじさんも、その流れていく夕陽を凝視していた。 ほの紅く染まりはじめるサーベルおじさんの横顔と、窓外を流れる夕陽を交互にチラチラと見ていた。やはり、夕陽は地平線に沈むのが一番似合う。大陸を旅する魅力は、この夕暮れ時にある。

写真は、ネパール南部・お釈迦様生誕地・ルンビニである。

真冬の莫高窟

一月の厳寒期に、中国シルクロードの拠点である莫高窟に訪れたことがある。気温は、マイナス十数度。中国人の国内旅行者の姿はゼロであった。

好き好んで、真冬の仏教遺跡を目的地とする酔狂なツーリストはいないだろうと考え、あえてこの時期を選んだのである。

ここは、二十世紀初頭、イギリスの探検家・オーレル・スタインや、日本の大谷探検隊、そしてロシアからの遠征隊など、各国からの調査遠征隊(中には領土拡張の命を受けた隊もある)が跋扈していた地域である。

私自身、大学生時代にはスタインやヘディン、大谷探検隊などの報告書や書籍をむさぼり読んでいた。ネパール南部にて生誕した釈迦牟尼の教えは、インドから中国へと伝わる過程で、荒涼とした砂漠を通過することとなる。

大唐西域記を記した玄奘三蔵が、十七年間のインド滞在の後、中央アジア・パミール高原・シルクロードを通過して長安へと戻っている。

その波及伝播過程にて、アフガニスタンにあるバーミアン、パキスタン北部のタキシラなどの仏教拠点が構築されていくのである。

ガンダーラに残る仏陀像がそうであるように、砂漠にての宗教は、どうしてもストイックで厳格な色が強調されてくるのあろうか。

真冬の莫高窟に残る修行僧らの洞窟は、そのストイックさをシンボライズしているように感じられたのである。

道端の学習場

ネパールにはすでに三桁に近づくくらいの渡航回数である。そのネパールの中でも、最もフェイバリットな場所が、ここバンディプールである。ネパールの中部辺りの丘陵地帯に位置するこの街は、その昔主要な街道筋の集落であった。近代になり、河川沿いに舗装道路ができた影響にて、往時の賑わいはなくなった。

しかし、その分昔のネパール山村の風情を色濃く残し、レトロな街並みは世界からの旅人に心地いい郷愁を感じさせている。そんなバンディプールの黄昏時、町のはずれを歩いていたら、写真のような光景に出逢った。家人が働いている畑のすぐ傍らの道端で、中学校~高校くらいの年齢の男子二人が、教科書を開いているのである。

その日の学校での復習か、宿題をしているのかもしれない。もしかすると、家人の手伝いの合間に教科書を見ているのかもしれない。それは、なんとも長閑で落ち着いた山村のあぜ道にて、明日への希望や期待という、小さな花の芽吹きを感じさせてくれるひと時であった。

鉄とヤマタノオロチ

鉄の産鉄や製鉄におけるテクノロジー開発は、人類史上最大のエポックだったとも言えるだろう。現代の日本において、その歴史的分岐点となった「古代製鉄法=たたら工法」を継承する唯一の工房が、島根県奥出雲にある。

ただ、写真のような現場に居合わせられる幸運は、厳寒の一月、二月辺りに限られる。また、一般への公開ではなく、会員のみしか立ち会えない。ここ奥出雲は、ヤマタノオロチ伝説の本場でもある。船通山を源流とする斐伊川は、古来暴れ川だった。

その暴れぶりは、中、下流の稲田を耕す民にとっては、厄介な生き物(ヤマタノオロチをイメージ)であった。困り果てた稲田の民は、河川土木修復工事のテクノロジーを有する半島からの渡来人(スサノオをイメージ)に、助けを求める。この半島からの渡来系技術集団は、土木技術のみならず、製鉄、養蚕などのテクノロジーにも長けていたのである。

鍼灸師・地球のツボを探る

2023年4月14日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

bb_B_00176335
bcck: http://bccks.jp/bcck/00176335/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

jacket