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鍼灸師
地球のツボを探るⅡ

清水正弘

深呼吸クラブ出版



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 目 次

旅の原点回帰
物語の舞台
未病を防ぐ処方箋
「里」で出会う偶発的瞬間
百のスキルと自然が響きあう磁場=里山
里からのサイレントボイス
自然療法の舞台・里地里山
自分だけの聖地を持つ意味
囁きの空気感
伝統的な蹈鞴(たたら)操業
国譲り・国引き、神話の浜
朝鮮半島からの技術系渡来人
伊勢神宮の巡り方
下り坂参道を持つ鵜戸神宮
祭りの高揚リズム
もののけの森から
海を見下ろしていた弥生人
弥生人のインナーボイスが聞こえる
山陰の妙好人とは
嘆きの壁
木漏れ日と鳥打帽
死海のほとり
水と森の精に出逢う
砂塵に消えゆく方向感と重量感
雲上の巡礼団
風に運ばれる物語とは
螺旋形に巡る死生観・宇宙観・幸福感
宇宙それ自体が記念碑

旅の原点回帰

民俗学者の柳田国男は『旅』の語源を次のように推理した。

「タビとは給えであり、交易を求むる声であったと想像している」(豆の葉と太陽)

給えとは、相手に物事を依頼する言葉である。昔の交易においては、金銭は介在せず、生活に不足するものを、お互いに交換していた。

二十一世紀の日本の社会では、大多数の人々が物質的な豊かさを享受している。物欲をセルフコントロールさえできれば、日々の生活に不足感を感じることは少ない。にもかかわらず、現代人は旅に出掛ける。それも辺境と呼ばれる土地への旅人が増えてきている。

さて、人は何を求めて辺境の地へと旅立つのであろうか。

とにかく海外へ出たかった大学時代の私に、衝撃的な出来事がおきる。チベットの精神的指導者である、ダライ・ラマ十四世との出逢いである。

蹴上(京都)の都ホテルでダライ・ラマ師と話した一時間強が、人生のターニング・ポイントになるとは、当時二十歳の私にはわかる筈もなかった。

師との出合いの後、私は一年間大学を休学し、ダライ・ラマ師が居住するインドの町に遊学した。難民の子供達と一緒の教室でチベット語を習得した。そしてヒマラヤの交易商人に混じって、チベットへ潜入しようと考えていた。

計画はヒマラヤの山中で頓挫してしまうのだが、この旅は大きく私を成長させてくれた。多様な価値観が混在する多民族社会。人生の価値観が異なる人たちからは、多様な幸せのあり方を教わった。

豊かさの意味についても考えさせられた。そして長期のひとり旅は、自分の弱さとも真摯に向き合える時間を与えてくれた。

この旅は、若い私の心を見事に崩壊させたのだ。辺境の土地への一人旅は、未完成の心の不足感に気づき、それを補ってゆく旅でもあった。ダライ・ラマ十四世との出合いは、その気づきへの旅の始まりであったと勝手に思っている。

卒業後、辺境の旅の持つ魅力を多くの人へ発信する仕事に従事してきた。鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得し、大自然とそこに暮らす人々に出会う旅を『心身の養生プログラム』として提案している。

この地球上には、人間の体と同様に、磁場としての「ツボ」が存在すると思う。人への癒しと明日への活力を発するエネルギーを流入してくれる場所。

多くは辺境の地にあり、厳しい自然環境下にある。物質文明の恩恵をあまり受けておらず、人々の生活はシンプルで余分な欲を膨らませなくてもすむ場所。

「人生観が変わった」この言葉を、旅の同行者より幾度となく聞いてきた。地球のツボのひとつ、ヒマラヤ山麓にあるキャンプサイトで迎えたある朝。

薄ピンク色から黄金色にしだいに変化してゆくヒマラヤの山肌。壮大な自然が繰り広げる、シナリオのない一度限りのドラマが展開する。ものの十五分程度のそのドラマが、五十年、六十年生きてきた人たちの人生観を変える魔力を持っている。

「人生観が変わった」とは、辺境への旅の醍醐味が凝縮された言葉ではないだろうか。

二十一世紀の現在、日本には約三万軒近くのコンビ二エンスストアがあると聞く。二十四時間開いているコンビ二のお陰で、日常生活で物の不足を感じることはまずない。

しかし、ふとこれまでの人生を振り返った時、満たされない心に気がつくことがある。何か人生で置き忘れたものはないだろうかと自問する。目には見えない心の不足感が、人々を辺境の旅へと誘うのだろうか。

私たちの心の不足感を補ってくれるものは、自然の織りなす一瞬の造形美であったり、その地に住む人たちの豊かな心の表情であったりする。

彼らの心の豊かさとは、着るものや食べるもの、住む家といった世俗的な物欲とは対極にある豊かさではないだろうか。生きることにシンプルな節度と誇りをもつ人々の心の泉では、豊かな表情の湧き水が絶えることがない。

人間にとって、一番辛いことは心の泉が渇いてしまうことではないだろうか。

コンピューターを駆使する社会に住む私たちは、無機質な時間が多くなると、心の泉が渇きそうになる。そんな時、みずみずしい命の輝きや、力強く逞しい生命力、穏やかで静かな安らぎの時という処方箋が必要になる。

旅とは、玉ねぎの皮をむくような行為だと私は思う。

安定しているが少々退屈な日常は、心から緊張感を失わせ、ため息の多い生活を生んでゆく。いつのまにか心は、常識や固定観念、先入観といった玉ねぎの皮で覆われてゆく。皮が固くなると、心の五感である感性の色彩までが色褪せ始める。

旅とは、予測可能な日常の習慣的生活から、ひととき自主的に脱出する行為である。未知の世界に我が身を浸し、自分の魂を浮遊させることができる。

そして魂が揺さぶられるような出会いの瞬間、心の中では感動という火花がスパークする。その感動の火花が、固くなりかけた玉ねぎの皮を溶かしてくれ、心に豊かな感性の色彩を蘇らせてもくれる。

辺境の地への旅は、そんな火花を弾かせる為の導火線ではないだろうか。そして、その導火線に火を点すのが、幾つになっても失ってはいけない「知的好奇心」ではないだろうか。

旅とは、心の「玉ねぎの皮むき」である。
ヒマラヤで迎えるご来光

物語の舞台

多様な日本の里地・里山の自然。

ご存じのように日本列島は縦長である。その弓状の国土の中には、亜寒帯、冷温帯、暖温帯、亜熱帯の気候帯を含んでいる。

この気候帯の違いによって、日本列島のなかでも自然環境の諸相やその変化のあり方、そして自然と共生する人々の営み風景も異なっている。

北海道の森に入ると、エゾマツやカラマツなどの木肌に凍裂(木肌に水分が入り込み、冬に凍ると膨張に、木肌に裂傷を負わす)の縦割れ筋があり、シベリアや北欧の自然を想起させてくれる。

一方、南の島・屋久島では、巨大な杉の樹木が幾千年の静かな物語を紡いでいる。南の暖かい気候の中での育まれた森の物語は、多くの人を魅了している。

その両者の間においても、列島の各地では四季折々の表情豊かな風景が展開している。その風景を担っているのが、里地・里山ではないだろうか。

日本海に浮かぶ島・佐渡島の東端の岬では、黄色のかんぞうの花が辺りを染め上げる時期がある。同じころ、尾瀬沼は水芭蕉により淡い白色の色彩美の世界が展開している。

日本における里地・里山の風景は、自然と人間の営みの結晶である。

言い換えれば、自然と人間がどのように「折り合い」をつけてきたのか、という「物語の舞台」でもあったのである。

それだけに、その風景の美しさは、自然と人間が創り上げてきたといえないだろうか。

屋久島・白谷雲水峡
佐渡ケ島にて

未病を防ぐ処方箋

近年における国内にての自殺者数は、多少前年対比で減少したとはいえ、三万人前後の大台を記録しているという。心の病に悩む人や生活習慣病に苦しむ人も多い昨今である。

自分の満足感というものを、絶えず他人と比較することで確認しようとする生活は、エンドマークのない追跡劇を演ずることになる。追跡の先にあるのは、「手ごたえの無い幸福感」。

そこでは、おおいなるモノに抱かれる極上の至福感を味わうことはできない。味わえるのは、他人への嘲笑と自分へのエクスキューズくらいである。問題は、これらの味が人間の心身や社会に与える「病の連鎖」を構成してゆくことである。「未病を防ぐ」とは、東洋医学の大きな柱でもある。

自己治癒力を高め、疾病に罹患しないような体質改善をおこなうことが、「未病を防ぐ」ことに繋がる。

ヒマラヤにあたる朝陽のドラマのみならず、故郷の小さな里山で出会う一瞬の自然が放つ輝きからも、私達は「なにが大切なものか」ということに気づかされることがある。山や自然を愛すると自称する者たちは、自然からの恩恵を社会の未病を防ぐための処方箋として、自分たちの住む社会に還元してゆくことが問われているのではないだろうか。

備中国分寺(岡山県)にて
八重滝(島根県)

「里」で出会う偶発的瞬間

虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け、山野の香気に全身が洗われる気がする時がある。

自然界のささやかではあるが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのが体感できる。

その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのである。

それは、淡い緑の森にて若鳥のさえずりを聞いた時や、清澄な空気の漂う湧き水を口に含んだ時、木漏れ日の彼方から吹いてきた風が肌を擦った時、腰掛けた岩に付いていた苔の匂いをおもわず嗅いだ時、

そして、はらはらと揺れながら舞いおりる落ち葉にしばし目を奪われた時、などの偶発的瞬間なのである。

その瞬間心の奥では、ささくれだっていた襞が静かに打ち震えはじめ、見えない内なる鎧や錆付いた棘がおもわずポロリと脱げ落ちているのかもしれない。

百のスキルと自然が響きあう磁場=里山

碩学の宗教人類学者・中沢新一氏は次のように語る。

日本では『農民』ではなく、『百姓』という言い方をします。百は数字の一〇〇で、姓(かばね)は職能的な関係で組織された一族、転じて職業という意味ですから、文字通りには、「一〇〇の職業をもつ者」、すなわち、どれかひとつが優れているわけではないけれども、あらゆる生活の技術をこなす人間のことをいう。

このなんでもできる人たち、自然を相手に平均的にすべてのことをこなす人たちが、里山という環境をつくりあげてきたのです。

白川郷にて

里からのサイレントボイス

里地・里山がなぜ今、注目されているのだろうか?

里山という言葉はすでに市民権を得ている。それに対して「里地」という言葉はあまり聞き慣れないだろう。でも、「雑木林」とか「鎮守の森」という言葉の中に出てくる、「林」や「森」、そして「草原」や「湖沼」「小川」など自然一般を指すといってもいいだろう。

昨今では「里山歩き」がブームとなっている。このブームも、どちらかというと「頂上を目指す登山」という印象が強い。しかし、頂上までの途上に出逢う、さまざまな自然の諸相風景に、思わず足を止めたことはないだろうか。

それは樹林の木漏れ日に包まれた瞬間であったり、路傍の可憐な花に目を奪われたり、天を突くような巨樹を見上げた瞬間であったりする。その対象物は、山里の和風家屋の苔むした石垣や、奥深い森の中で偶然出会った炭焼き小屋の跡地であるかもしれない。

日本の里地・里山の自然には、これまでの人々の営みの痕跡が濃密に残されている。だからこそ、里地・里山を歩いていると、なぜか訳もなく郷愁を覚えているのだと思う。

そうなのだ。「里地・里山は、私達の心が還っていく場所」なのかもしれない。

昨今、デトックス(解毒)効果を求めて、多くの人が自然に回帰してきている。特に若い世代の女性が山や里に出掛け始めている。ストレスの多い現代社会から、ひと時の癒し空間を求めて自然の中に入るのだろうか。

身体と心のデトックスを求めて、自然へ還ってきているのだろうか。人間の身体も自然の一部である。だとすれば、都会での暮らしに身体の内部の自然が悲鳴を上げ始める時、身近な里地・里山が「還っておいで」と呼んでいるサイレントボイスが聞こえてくるのかもしれない。

遠野の河童淵
福井県・白山平泉寺

自然療法の舞台・里地里山

自然界からの恵みを受けながら歩くことは、「観る」「聴く」「匂う」「味わう」「感じる」という五感を新たに研磨できるだけでなく、「何かに包まれる」や「何かとつながる」、といった六番目以降の感覚に気づく機会を与えてくれるのかもしれない。里地・里山・里海・里森といった「里」という文字の付く土地は、大切な何かについての気づきの場であると同時に、私たちの人生にナチュラル・メディスンを処方してくれるホスピタリティー溢れる空間なのである。

そんな現代人にとっての自然療法の舞台として、日本の里地・里山を見つめ直す時期が来ているのではないだろうか。

九州・九重山

自分だけの聖地を持つ意味

旅をつづけることの醍醐味の一つは、自分なりの聖地を見つけていくことにあると、私は考える。もっというなら、聖地巡礼こそが、旅なのである。それは、宗教的な聖地にかぎらない。もっと世俗的なものでも何でもかまわない。

たとえば、ギャンブル好きなら、世界中の競馬場が聖地になるかもしれないし、美しい布のある土地ならそこが聖地になるという人だっているだろう。人間、毎日、仕事ばかりしているわけではない。いろいろなものに興味を持ち、心を奪われていく。

仕事の中からだって、好奇心が沸き、行かずにはいられない場所が出てくる。それが、自分にとっての聖地である。逆にいうなら、旅することは、自分の聖地探しでもある。この聖地は、自分でつくるものであり、他者からの借り物ではつまらない。

だから、深田久弥氏おさがりの百名山ではつまらないのだ。日本で自分のオリジナル百名山をつくったっていいし、一〇〇にこだわる事もない。

あるいは世界に目を向けてもいいだろう。わりと知られていないが、旧東欧あたりにはいい山や森が多いのだ。

つまり歩いて楽しく、接する風景も手垢がついてなく素晴らしい。この(手垢)というのは、他者の評価を気にする、己れのココロもちであるとも言えよう。

日本にての情報量が少ないエリアには、自ずと他者の評価も少ないし、それに右往左往されることも無い。

さらに言えば、自分自身のオリジナルなガイドブックを作る気持ちで旅をして欲しいのだ。自分にとっての未知だけを問わず、既知の土地や事象へもオリジナルな視座をいかに持てるか、が問われているのではないだろうか。

仏教聖地・釈迦生誕地(ネパール)
播磨陰陽道の里

囁きの空気感

ふっと考えることがある。神社や仏閣、仏様を撮影しているとき。『なんでもない場所や場面に、何故魅了されてしまうのだろうか?』と。

もちろん、それらの佇まいに美しさを感じているのだろう。しかし、それ以上のなにかに引き寄せられている。その場に漂う、超然とした気配が肌に取りつく・・・。

その感触に、体の細かい細胞が耳を澄まし始めているような、そんな気がするのだ。それは、もしかすると、多くの人々の『祈り』の声なき想いの囁きが、古の時代より蓄積されているからではないだろうか。

『心が、安らかで、そして穏やかな状態』を願う、人々の『祈りの時間』が刻み込まれている空間。

それは、奈良や京都などの有名な名刹・古刹だけではないだろう。地方のなんでもない無名の祠やお地蔵さん、などにもその『囁きの空気感』が漂っている。

身体の細かい細胞がその『囁きの空気感』に触れたその瞬間、私はカメラのレンズをその対象空間へと向けてしまっているのかもしれない。

写真の構図を考えるということは、その場の空気感をできるだけ洩らさずに取り込んで、伝えようとする行為ではないだろうかと思う。

それは、撮影技術テクニックとは別もののような気がしている。写真を見るとその人の心の心象風景が現れてくる、とも言われている。

それは、撮影者がその空気感をどう感じたのか、という内なる囁き声が、作品から滲み出てくるからではないだろうか。

西中国山地の山間部にある神社にて
嫗嶽稲荷神社(大分県竹田市)

伝統的な蹈鞴(たたら)操業

厳寒の奥出雲地方にて、平成最後の『古代の炎』が舞い上がった。

この舞い上がる炎の熱をまじかで浴びたことがある。『ふいご』から送られる風により、一定の間隔をあけて舞い上がる炎・・。この炎が無ければ『日本刀』は生まれない。

(土)でできた炉心に、(風)が送り込まれると、燃料の木炭(木)から、(火)がゴーッという咆哮とともに、炎の舞いを演じ始めるのだ。そのさまは、(水)の神・龍神が真っ赤に燃え上がりながら昇天していくようでもあった。

(土 ) (風) (木)(火)がシンボライズされた要素が凝縮され、炎上することにより、龍神(水)という幻想世界と、硬質の現実世界・玉鋼(金)とを産出する。

古代製鉄法=蹈鞴(たたら)の郷・奥出雲は、ヤマタノオロチ伝説の本拠地でもあるのだ。蹈鞴製鉄とは、自然を構成する六大要素の結集されたプログラムなのではないだろうか。

近年になり、日本刀への注目度が新たな高まりを見せている。武器としてではなく美術品としての価値は、海外からも熱い視線が向けられている。

現在、日本各地には約二〇〇ケ所の日本刀を製造する鍛刀地(たんとうち)があり、刀鍛冶(かたなかじ)職人が伝統工芸の世界に身を浸している。

その日本刀・作刀の素材に欠かせないのが、高品質の和鋼(玉鋼・たまはがね)である。

この素材は、現代の先端工業技術でも製造することが困難であり、古来より継承されてきた「たたら(蹈鞴)工法」が唯一その生産を担っているのである。その生産の本拠地が奥出雲地方である。

島根県奥出雲町には、日本美術刀剣保存協会が運営する「日刀保たたら」と呼ばれる工房があり、
伝統工法技術の継承と同時に玉鋼の生産を現代において担っているのだ。

また雲南市吉田町は、たたら生産で栄えた町であり田部家土蔵群など見所が多くある。

その田部家が所有していた「たたら場」が、隣接する菅谷たたら山内である。ここには、江戸時代から大正十年まで一七〇年間操業されてきた「高殿(たかどの)」があり、内部を見学することができる。

奥出雲町のタタラ場にて

国譲り・国引き、神話の浜

国譲り神話の浜としてその名を知られているが、別の神話の地にも近い場所だということは意外にも知られていない。この稲佐の浜に立ち、南西方向を見てほしい。浜に打ち寄せてくる波の上に、ほれぼれするくらい優美な尾根ラインを見せている山がある。

国引き神話に登場する三瓶(さんべ)山である。その三瓶山方面へと弓状に続いていくのが、国引きの際の綱になったといわれる長浜海岸(薗の長浜)である。

日本歴史にとり重要な二つの神話が接する場所としても、稲佐の浜の魅力がわかっていただけるだろう。その浜にはぜひ出雲大社から徒歩にてアプローチをしてほしい。

人出の多い大社を西に抜けると、すぐ閑静な住宅地へと入っていく。左手には、出雲阿国(歌舞伎の原型を創始した安土桃山時代の女性芸能者)の墓所や諸寺の墓地が連続してくる。墓地群が終わるころ、前方から波が浜に打ち寄せる音が聞こえてくるだろう。

その打ち寄せる波の音とともに、旧暦十月の神在月(かみありつき)に全国から八百万の神々が出雲へと還ってくるのだろう。

稲佐の浜

朝鮮半島からの技術系渡来人

韓竈神社(からかまじんじゃ)。島根半島にある小さな神社である。参詣入り口にある鳥居前に佇み、上部に視線を向けると、思わず後ろずさりしたくなるかもしれない。それは、急峻な石段に気圧されるだけなのではない。この神域全体が持つ、圧倒的な存在感に気を呑まれてしまうからなのである。

鳥居に至るアプローチ道そのものが、静寂な森へのゲートウェイとなっている。鳥居近くには、素盞嗚命(スサノオノミコト)が、新羅から鉄器技術や植樹法を伝える為、乗って来た『岩船』との伝説が残る苔むした大岩があり、この神社の稀有な名前の背景がおぼろげながら理解できる。

おそらくや、朝鮮半島より渡来した先端的金属技術者集団の祭神であったのかもしれない。そんな古代歴史に思いを馳せながら急峻な石段を昇ってゆくと、眼前に巨大な岩塊が現れるのである。その岩塊の中央部には、幅約五十センチ弱の裂け目が縦方向に走っている。この裂け目を通過しないと、社殿には到達できなのである。魂の浄化の前には、身体のスリム化が求められているのかもしれない。

巨岩の裂け目が、自然の結界となっているのであり、古代人の自然崇拝の一端に触れることができる。この神社から、山陰地方の名刹である鰐淵寺まではさほど遠くないので、韓竈神社と併せて参詣されることをお薦めする。

伊勢神宮の巡り方

あまりに知名度の高い場所であるが、意外にも内宮だけの参拝で済ましてしまう人が多い。正式な参拝は外宮から内宮へと巡り、それぞれの境内にでは御正宮から別宮への順となる。平成天皇も外宮から内宮へと巡拝される。

それに従い外宮から始めたい。明るい太陽が射し込む開放的な内宮の雰囲気とは異なり、外宮では森の木漏れ日が玉砂利の上で揺らめく静謐さが漂う。その静謐さが生まれる源には、「まがたま池」をはじめとし、外宮の広大な森を取り巻く「水の結界」の存在があるような気がする。

外宮境内参拝後は、徒歩にてわずか十分の距離にある月夜見宮(外宮・別宮)へ。外宮北御門からほぼ直線に伸びる月夜宮への神路通は、天照大神の弟神・月読命(ツキヨミ)が夜中に外宮に通われる道と言われており、道の中央部分だけ色が変わっている。

月夜見宮ではご神木である楠の巨樹が出迎えてくれる。内宮にては数々の和歌にも詠われてきた五十鈴川の水辺へと下りてみたい。ここは御手洗場(みたらしば)と呼ばれており、古来より参拝者はこの水辺にて手と口を濯ぎ身を浄めた後に、社殿へと向かったのである。

月夜見宮のご神木である楠の巨樹

下り坂参道を持つ鵜戸神宮

神殿への参道は登坂が一般的である。身体を下降させながら神域へと接近する「下り坂参道」は稀少であり。主たる三大下り宮というのがある。群馬県にある貫前(ぬきさき)神社、熊本県の草部吉見(くさかべよしみ)神社、そしてここ鵜戸神宮である。

特に鵜戸神宮は、海際の岩礁帯へと降りていくので、荒波が打ち上げる波しぶきが身を浄めてくれる。まず、その奇怪な姿をした巨岩群に目を瞠ることだろう。まるでカッパドキア(トルコ東部)にある岩峰群を連想させてくれる。

神話上において、神武天皇の父親である日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の産殿の址といわれる洞窟は、高さ八・五メートル、東西三十八メートル、南北二十九メートル、の巨大な岩窟(海食洞)である。

日向灘に面したその洞窟の内に本殿が鎮座している。奇岩連なる岩礁には、主祭神の母君である豊玉姫が出産の折に乗って来たと伝えられる霊石亀石がある。

この亀石の背中に桝状の窪みがあり、この窪みに「運玉」を投げ入れることができると願いが叶うといわれている。

まるでカッパドキア

祭りの高揚リズム

その瞬間のことは、よく記憶している。というより、鼓膜に残響音がこびり付いている。山陰地方の山間部。出雲神話の残り香が、日常のそこかしこに垣間見れる小さな街での夏祭り。

西の山並みを紅色に染めながら、夏の夕陽は足早に去っていき、暮れ時が微睡みながら足踏みをはじめた頃。たかだか百メートルほどの、街のメインストリートが異様なほどの熱気に包みこまれてきたのである。

威勢のよい掛け声が、微睡む暮れ空を突き破り、その裂け目から力強い太鼓の音が飛び込んできた。顔にペインティングをした、女性の踊り手が飛び跳ね、往来の地面を震わせながら練り歩いてゆく。

山車の上では、二の腕と背中を露出した打ち手により連打される太鼓の音が、夜空を占拠しはじめた。そして、男女の打ち手が両手を突き上げ、咆哮のような叫び声を挙げたその時。

残響する太鼓音と、弾けるような花火音が、夜空の音楽ホールにて見事な協和音を奏でたのだ。偶然にもその瞬間に、山車の下からシャッターを切った私は、思わず身慄いしたことを憶えている。

もののけの森から

屋久島においては縄文杉の存在感は群を抜いている。ただ、この縄文杉に出会うためには往復十時間前後ものトレッキングが不可欠であり、一定の体力と周到な事前準備が求められる。

白谷雲水峡は、縄文杉への道ほどのハードルの高さはないが、奥行きの深い屋久島の森を全身で体感できる場所である。その森はかつて映画「もののけ姫」の制作時に、スタジオジブリの宮崎監督が「もののけの森」のイメージとして想定している。

年間三六六日降ると表現される多量の雨の恵みは、この森に無数の苔とシダ類を繁茂させ、訪れる人を濃淡織り交ぜた緑色世界へと誘うのである。苔むした巨岩の下では湧きいずる岩清水の水音が静かに響いている。

頭上を見上げると、前夜の雨にそぼ濡れた木々の柔らかい枝葉から小さな水滴がしたたり落ちようとしている。照葉樹と屋久杉が混生するこの森では、太古の時代から絶えず水と緑の交響曲が静かに奏でられてきたのだろう。

そんな森に佇み深く呼吸をしてみると、全身の細かな細胞の歓喜に沸く声が体の内部から響いてくることだろう。

海を見下ろしていた弥生人

鳥取県・妻木晩田(むきばんだ)遺跡。場所がもつ悠久の歴史もさることながら、展望地としての魅力も伝えたい。遺跡の敷地内からは、遥か北方に美しいアーク(弧)を描く弓ヶ浜とその背後に横たわる島根半島の峰々を見渡すことができる。

そして遺跡の南側には、「高麗の人々が、大山との背比べの為に運んできた」との説がある孝霊山がその秀麗な山裾を広げている。そしてその孝霊山の背後に、霊峰・伯耆大山の雄姿が見え隠れしている。遺跡周縁にて活動していた弥生人の日常は、当時でも桁外れに美しい風景の中で展開していたに違いない。

遺跡の見学は、史跡公園内にある「弥生の館むきばんだ」からはじめたい。ここでは妻木晩田遺跡の最新調査・整備状況の報告展示から、弥生遺跡に関する演目などの講座も開催されている。

遺跡の概要を掴んだ後は、復元された遺構群へと野外に足を延ばしたい。特に「洞の原地区」と呼ばれる一角では、土屋根竪穴住居、骨格復元竪穴住居、掘立柱建物などを復元建物として見ることができる。この掘立柱建物辺りから見る弓ヶ浜の景観は絶品である。

弥生人のインナーボイスが聞こえる

吉野ケ里歴史公園の基本コンセプトは、「弥生人の声が聞こえる」である。遥かなる古代からの声を聞くには、まず復元された南内郭の物見櫓に昇ることから始めたい。

ビルの四階に相当する高さ十二メートルからの眺望は圧巻である。眼下の環濠跡や水田、また墳丘墓などに目を奪われがちになるが、視野をもっと広角に広げてみてほしい。北方向に目をやると、そこには背振(せぶり)山と呼ばれる福岡県との境をさす山脈が、自然の障壁となって立ちはだかっている。

南に目を転じると、遥か彼方に有明海の姿が遠望できる。太古の昔、縄文時代前期頃には、有明海の海岸線は遺跡から僅か二~三キロの距離にあったと推定されている。弥生時代にも、有明海は身近な存在であったはずだろう。

物見櫓に立つと、この土地がいかに自然の恵みを享受していたかが納得できるのである。吉野ケ里に住んでいた弥生人たちは、恵みをもたらす自然のサイクルを見極めながら、祈りや祭儀などを司っていたにちがいない。物見櫓に吹く風は、そんな弥生人の心のインナーボイスを運んでくれるのかもしれない。

山陰の妙好人とは

禅の大家・鈴木大拙氏もとりあげた『妙好人・浅原才市』(あさはら さいち、一八五〇年生まれ)。江戸時代末期に生まれ明治を生きた、船大工を経て下駄職人となる市井の人である。妙好人を代表する一人で、 石見の才市とも呼ばれた浅原才市は島根県大田市・湯泉津町に住んでいた。

その簡素な住居は、現在も保存され一般にも公開されている。温泉町の華やかな一角から少し離れた場所。通りに面した長屋風の家。ガラス開き戸を挟んで、直ぐに仕事スペースである板場がある。その奥には、浄土真宗式の仏間。仏壇前の四畳ほどのスペースが居間兼寝所。あとは屋根裏スペースと、猫の額程度の裏庭。

合理的とか論理的、経済効率とか市場主義などという言葉世界とは、全く接点のない暮らし。自らの身体が覚えたワザと、鼓膜に塗布された真宗のオシエが生きる上での身上だったのだろう。

難しい仏教語彙をしたり顔で話す訳でもない。世間からの評価に一喜一憂する事もない。日々是好日の如く、穏やかに、和やかに、与えられた役割を淡々とこなしながら、静かに「生」をまっとうする。

そんな市井人の「生きざま」の中に、「悟りの在り方」を鈴木大拙や柳宗悦らは見出したのだろう。写真の板の間から仏間にかけては、その「悟りの在り方」という、見えない痕跡が漂っている。


妙好人(みょうこうにん)とは

妙好人を最初に取り上げた知識人は、鈴木大拙であった。その後、思想家の柳宗悦が鳥取県を対象としたフィールドワークを纏めて『妙好人 因幡の源左』を発表し、一般に妙好人という概念が広く知られる事となった。

また、小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』「因幡・伯耆のみち」において妙好人に触れ、日常の瑣末のことがらにまで仏教的な悟りに似た境地にある一般人を指すと言い、また同時に歴史的存在であるとも述べている。

嘆きの壁

嘆きの壁を写した写真は、壁と人のみの構図が多い。しかし、壁の手前ではこのような光景が繰り広げられている。言わずと知れた、ユダヤ教最大級の聖地である。

自分の願いや祈りを、紙のメモにして壁の隙間に挟みながら祈祷する人もいる。ローマ時代に破壊された神殿の一部であるこの壁には、ユダヤ人の祖国への希求の願いが込められている。

そして、この壁の上部には、イスラム教の聖地・岩のドームがある。ということは、ユダヤ人が沈黙しながら対峙している壁の上部で、イスラム教徒がアッラーに祈りの言葉を捧げているのである。

キリスト教もイスラム教も、そもそもオリジンはユダヤ教から派生している。それだけに、あまりにも距離感が近いと、愛憎が錯綜し、一筋縄ではいかないものなのだろうか。

木漏れ日と鳥打帽

国内の山や森を案内していると、ふとしたはずみに頭上からサーッと射し込んでくる木漏れ日に全身が包み込まれることがある。一瞬ではあるが、あまりの神々しさに思わず歩みを止めてしまうのである。

同じような場面は、なにも自然の中ばかりではない。写真は、ブルガリアの教会を訪れた際のもの。取材が終わり、石畳を歩いていると、なぜかしら背後に温かいものを感じて振り返ってみたのである。

礼拝堂横の樹林から漏れ射し込む光の筋が、朝露にそぼ濡れた石畳に柔らかく届いていた。その石畳の上を礼拝堂を開けてくれた鳥打帽おじさんが背中を丸めて歩いていた。

このおじさんは、どれだけの歳月にわたり礼拝堂の管理をしてきたのだろう。そして、どれほどの木漏れ日を背中や鳥打帽に受けてきたのだろうか・・。中年太りしたおじさんの体形とややくたびれた上下の服装、寒そうに両手をポケットにねじ込む姿。

物憂げな歩み方、そして、おそらくや何十年と彼の頭に乗っかった鳥打帽・・。その一瞬の光景は、私が勝手に抱いていた『旧東欧諸国の日常』というのを見事に具現化していたのかもしれない。

死海のほとり

長崎県外海にある遠藤周作記念館にて、『わたしのイエス』という氏の著作を買った。イエスの生涯を、狐狸庵先生風のタッチで描いている。同じ年に訪れたイスラエルにて、キリストに関わる聖地を各所訪れていた。

本に書かれている土地が、脳裏に蘇りながら文字を追うことが出来たのである。その中でも、淡水湖であるガリラヤ湖と、塩水湖である死海の風景比較が秀逸である。

ガリラヤのナザレにて生誕するイエスは、死海近くのユダ荒野にて、洗者ヨハネより洗礼を受ける。草木が乏しいユダの荒野での修行の中で、イエスは旧約聖書の父なる厳しさとは別種の「神の愛」について思索を深めていく。

淡水湖ガリラヤ周縁にては、動植物の多彩なイノチが輝いており、イエス自身も、慈母愛に目覚めていく。この辺りの歴史的物語を、異なる風土に照応させながら描写していくのである。

遠藤周作氏の「死海のほとり」や「私のイエス」は、キリスト教を理解する入門書として有効である。

水と森の精に出逢う

帰国してから、この写真を見返すたびに、「よく撮れていたな」、と思うのである。クロアチアにある、水の箱庭とも称せられる世界自然遺産・「プリトヴィツェ湖群国立公園」。

これまで数度訪れているが、なかなかベストな天候、水量、水色などに出逢うことは稀であった。滞在時間も限定されていたので、なかなか「これは」と思うような写真は撮れていなかった。数年前に訪れた時のこと。「下の湖沼群」の遊歩道を歩いた際、いつになく水量が豊富だなと感じていた。

それもそのはず、前日までの数日、降雨があったとのことである。見事な滝群や湖沼からの落水には、圧倒的な飛沫やしぶきが舞い上がっていた。そして、遊歩道の最終盤に斜面を登っていき、その途中からふとしたはずみに下部を振り返った時にシャッターを切ったのだ。

その構図は、なんとこの湖沼群を紹介する多くの雑誌やウェブサイトと同じアングルからであったことに、帰国後気が付いたのである。水量、水色、流水の点在、そして程よい数の歩きビト、、。撮影者自身、満足できるショットである。

砂塵に消えゆく方向感と重量感

その荘厳な大自然は、あえてこの過酷な道を通過する旅人への僥倖を数多く用意してくれていたのだ。なんといっても烈風に舞う砂塵に巻き込まれた時の記憶は忘れられない。

その日の午前中は快晴無風だったが、午後急速に空模様が変化した。烈風が砂の粒子を巻き上げ、灰色のベールとなって進行方向を覆い始めた。

砂漠から流れてくる砂は路面にも積もり始め、路肩がしだいに霞みはじめた。それは砂地と道との境が無くなり、道路という言葉が消えてゆく瞬間だった。

消えていったのは道路だけではなかった。

大気中に溢れ出た砂塵は、空と地面との境界線-すなわち地平線を視界から消失させていった。それからの数分間、我々の車は一切の「枠」というものが見えない空間を移動したのだ。

耳にするのは、風の音と車のエンジン音。体が感じるのは、小刻みに揺れる車体の振動のみ。確実に動いているのだが、距離感や速度感、さらには重量感といった「実感」が無くなり、心地いい浮遊感を砂の大海原にて体感できた。

このように自然が展開する非日常の諸現象は、旅人たちの心象風景に強烈なインパクトを与え、その旅にも彩りを添えてゆく。

「一度足を踏み入れたら、二度と出て来れない」

と称せられるタクラマカン砂漠。もしかすると、自然現象の奥深い魅力に取り付かれた人が命名した言葉なのかもしれない。

シルクロード上にある古代の城址跡
オアシスにて

雲上の巡礼団

ヒマラヤに残された数少ない秘境・アッパードルポ地区。サルダンという土地にアプローチしている途上、『天空の巡礼団』に出逢うのである。

この巡礼団は、目指していたサルダンという集落からの人々であった。チベットの高地にてヤクと呼ばれる、ウシ科の家畜動物が数十頭。その背中には、半月にわたる聖地での滞在に必要な家財道具や食料が積まれていた。

チベット文化圏では、まだまだこのような集落をあげての巡礼が行なわれている。聞いてみれば、前日まで我われが滞在していたシェーという巡礼聖地へと向かうという。標高五〇〇〇メートルを行く、集落をあげての巡礼団。壮観であった。

まるでお伽話の世界が目の前に繰り広げられている気分でもあった。ヤクを導く男の掛け声、乾燥した大地に響き渡る蹄の音、標高五〇〇〇メートルの高地に舞い上がる砂煙、巡礼団の一人一人の満ち足りた表情、どれも鮮明に思い出すことができる。

人生の記憶のアルバムの中でも、強烈に脳裏に刻まれたひと時であった。

風に運ばれる物語とは

生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。

木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。

いつか読んだ本(「ものがたり交響」谷川雁)にこんなことが書いてあった。

『 すべての物質は化石であり、その昔は一度きりの昔ではない。いきものとは息をつくるもの、風をつくるものだ。

太古からいきもののつくった風をすべて集めている図書館が、地球をとりまく大気だ。風がすっぽり体をつつむ時、それは古い物語が吹いてきたのだと思えばいい。

風こそは信じがたいほどやわらかい、真の化石なのだ 』

チベットへの峠にて

螺旋形に巡る死生観・宇宙観・幸福感

ブータンでは様々なものが「回旋」している。

お祈りの際に廻すマニ車、お祭り時に鹿の面などを被る仮面舞踏、仏塔や聖地巡礼での左廻り歩き、そして善悪所業の輪廻という概念……。

何ごとも直線的・二元的な動きでなく、螺旋型のリズムが精神の深層部分にあるといえるかもしれない。

また、ブータンでの伝統的着物は、見事なまでの染色デザインが施されている。

その手織りの現場に立ち会うと、ブータンの人たちの、死生観や宇宙観、幸福観といった目には見えないものが、魂の文様として織物の中に紡ぎ込まれていくかのようにも感じられる。

伝統的価値観というものは、口頭や文書で伝わる一方、生活のなにげない営み風景の中に螺旋のリズムで織り込まれていくのではないだろうか。

宇宙それ自体が記念碑

アントン・クレナック(アマゾンの先住民)はこう言う。

私たちクレナック族の伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。

「死」に恐れを感じる必要はないのです。人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、それだけ自分に自信がないのです。

なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。

これは、南米の少数民族クレナック族に継承されている『死生観』を言語化したもであろう。多くの原始社会においては、(生)と(死)は、連続性のあるものであった。

連続性を『円環性』と言い換えてもいいだろう。死は生の終わりではなく、新たな生への始まりである、という考え方であろう。

それは、太陽の日の出→熱光線の照射→日の入り→闇→日の出、という際限なく連続する天空の円環サイクルを、自らと周縁に生きる人々の、「命」に置き換えているのであろう。

その置き換えには、一片の邪念の入り込むスキはなかったのではないだろうか。しかし、いつの頃からか、生と死の狭間に「句読点」が侵入してくるのである。

それは、もしかすると(聖と俗)とが次第に分離していく頃と時を同じくしていたのではないだろうか。

『死』に対する『穢れ(けがれ)』も、その分離から枝分かれしていったのではないだろうか。
人生百年時代と少々世相に煽られはじめた昨今。百という日本人受けする数字に惑わされてはいけないだろう。

クレナック族は、こう言うだろう。

『一〇〇の年数を生きるのは、一〇〇の生き方を楽しむ為にある』

鍼灸師・地球のツボを探る2

2023年4月14日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

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