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『 世界一周旅行の詳細 』
●明治三五年(一九〇二)
(二月二五日)午後一時
丹波丸にて横浜港を出港。出発時の荷物は小計約八三キロ。本人の体重は六三キロ。総計一四六キロ。
(三月三日)
丹波丸は上海に入港。中村のことを新聞記事で見た、森洋行(会社)の榎本君が歓迎の為に中村を出迎える。
(三月八日)
香港に入港。(上海から香港は船便にて)豪州行を変更してシンガポールへと向かう。
丹波丸の行程(香港→海南島を右手→トンキン湾→サイゴン沖→マレー半島突端)
(〇月〇日)(日付記載なし)
自転車にてラングーンに向かってシンガポール出発すが、シンガポールへ翌日の夕方四時頃引き返す。
(三月十八日)
午前六時、シンガポールから英国汽船(ツー・バンド・ファナー号)にて出航。ラングーンへ向かう。
(〇月〇日)(日付記載なし)
ラングーン到着後、陸路カルカッタまでの詳細は全く記述されていない。
(〇月〇日)(日付記載なし)
カルカッタ到着時には、当地の日本人・金子という人物の家にやっかいになる。
(四月一日)
午前中に、カルカッタを出発し、ブッダガヤを目指す。
(四月二日)
ボードワンという地方に至り野宿する。翌日ラジャパンドに向かう。峻険な道をバグダットを経てアサンソールに至る。アサンソールはかなり繫華な町。ここからブッダガヤまでは一八〇マイル(二八八キロ)。
(四月四日)
カツラガハーに到着。
(四月十一日)
アサンソールから数十里(一六〇~二〇〇キロ)離れた場所での野宿の際、オオカミの来襲を受ける。高野豆腐の火の玉作戦。翌日(四月十二日)この場所から十二三里(四〇~五十キロ)にあるシロツテートという所に到着。この日の夜には、巨大な水牛に天幕を襲われる。
(四月十六日)
ブッダガヤに到着。二日間滞在し、仏跡訪問。その後ガンジス河の支流クドロー河の岸に達する。それ以降は、砂漠地帯の中を進むことになる。黒ヒョウにも襲われたが、黒ヒョウを退治してそれをその後四日間の食糧とした。
(四月〇日)(おそらく二十三~五日前後)
マンキボールという町に到着。マンギポールからは結構長い道のりを、ベンガルという村を経てミルザポール着。ミルザポールに滞在二日。ここより五十里(二〇〇キロ)山奥のアロハバッドという町へ。アルハバッドからは一五〇里(六〇〇キロ)離れたジャバポールへ。ジャバポール→イガポール→ボンベイのルートをとった。
(四月以降数か月)
ボンベイの日本物産陳列所に書記として雇用されている。子の期間中にはアシミア国(カシミール?)にも出かけている。また、インド国内商業視察として、ボンベイ→アグラ→ダジ(タージマハールか?)、ガンジス河上流のインド女王の墳墓→デリー→アグラ→ボンベイと巡っている。
この旅行中には、次の旅路を次のように考えている。アフガニスタンからペルシャを経て小アジアの難路を陸行しても、格別面白いこともあるまい。ボンベイから海路で欧州へ向かおう。
(十月十日)
ボンベイを海路、イタリア籍の船にて出発。一週間後の十六日にアラビア半島先端アデンに近づく。
(十月十七日)
アデンを出発して、紅海に入っていく。
(十月二十日)
スエズに到着。一旦上陸して自転車にてカイロまで行く。カイロを経てボーセットまで。
(十月二十一日の朝)
再びスエズから同じ船に乗船し、地中海へと入りギリシャ沖合を通過し、スパルジジエント岬を船は巡っていった。
(十月三十日)
午後三時頃に、イタリアのナブール(ナポリ?)に到着。ナブール→ローマ。十一月三日には、辺鄙なローマ村から都市ローマへの途上であった。
(十一月四日)
イタリア・ローマに到着。四日から九日まではローマ滞在。
(十一月九日)
イタリア・ローマ出発→ゼノア→スペンジャ→アルプス越え→キヤプレー。
(十一月十五日)
ゼノア着。日本領事館訪問。→アツキス地方を経由し、マルセイユに向かう。途中自転車の故障にて徒歩にて四五里(一八〇キロ)を進む。
(十一月二十日)
フランス・マルセイユ到着。ゼノアからマルセイユまで時間がかかったのは、徒歩(自転車を押しながら)もあるが、痔に苦しんでいた。マルセイユからリオンまでは六時間の列車移動。リオン郊外にて天幕にて一週間滞在し、痔も回復したので、自転車でパリへと向かう。
(十一月〇日)(およそ十一月二九日~三〇日)
パリに到着。ルーブル美術館、エッフェル塔、凱旋門などを見学。新聞各紙にて取り上げられたので、来客はひっきりなしであった。パリ滞在は約一か月前後。その後、パリ発→セーヌ河→ルウエン地方→イギリス海峡→ロンドン
●明治三六年(一九〇三)
(一月七日)
ロンドン到着。ロンドンタイムズにも記事が出ている。ロンドン滞在中は、金穴街や貧民窟なども見学。ロンドン→リバプール
(一月二二日)
リバプール港から汽船ブレーデン号の労働船客となって、北米大陸へ出発する。
(二月二一日)
通常は一週間航路であるが、途中気象が荒れたりした結果約一月後に、アメリカのボストンに着港する。その後、ボストン→ニューヨーク→ワシントン→パラモー地方→シカゴ→ミシシッピ川沿い→ネブラスカ州→ロッキー山脈越え→サクラメント→カリフォルニア→サンフランシスコ
(四月十日)
サンフランシスコ到着※アメリカ横断に約四十日~五十日
(四月二二日)
サンフランシスコの日本人が集まり、陸上大運動体会開催され、中村春吉も招待されている。そして自転車競走競技に出場。結果は悪かったが、現地日本人から賞品を贈与される。その賞品は、サンフランシスコから横浜までの船切符であった。それもその日の夜に出発する日本東洋汽船会社の香港丸であった。
(四月三十日)
ハワイ島に到着・同年五月十日横浜港到着。※下記『霊動の道』では帰国は六月となっている。
(五月十日)
香港丸が横浜港に到着した際、船から下船してきた中村を押川春浪の知人K氏が偶然出会っている。
(八月)
八月満韓に渡り国事に尽力。
☆明治三六年十一月中旬頃
博文館(雑誌社)の上村左川氏が押川春浪あてに、無銭自転車世界一周を試みた冒険家が博文館を訪れたこと。また、押川にその冒険談を雑誌にて記載してくれないかとの依頼があった。その依頼があった翌日に、押川と上村は中村の東京での宿泊先(神田区錦町にある榎本旅館)に出掛けた。
※ 次の文章は、とある地元(広島)の団体刊行誌への寄稿文である(二〇一〇年二月付)
中村春吉の面影をインドに求む
先月(本年一月)の中旬はインドにいた。目的は二つ。大阪の女性経営者会議メンバーとともに、変貌著しいインド事情の視察。もう一つは、広島出身の偉大なボヘミアン的国際人・中村春吉氏の面影を求めるものであった。
インドの変貌ぶりについては次号で報告するとして、まずは、中村春吉氏である。地元広島でも、ほとんど知られていない人物。しかしウイキペディアにはしっかりと掲載されている。
ということは、『知っている人には絶大な評価を得ているが、一般性のない人物。いわゆるマイノリティー』といったところか。
ただ、私自身は、この地元の偉大なボヘミアン的国際人が有していたバイタリティと行動力にスポットライトを当てることこそ、閉塞的な社会状況に『活!』を入れる可能性を秘めていると感じている。
明治三十五年・・。河口慧海師や大谷探検隊らと同時期に、単身自転車による世界一周無銭冒険旅行をした、中村春吉という人物のお墓は、現在の呉市御手洗地区にひっそりと佇んでいる。
横浜港を出発し、中国、シンガポール、ビルマを経た上で中村はインドの大地に到達する。そこから中村の冒険談のスペクタル編が始まる。
『人食い人種に拉致され、危うく食べられそうになった瞬間、決死の脱出劇を試みる』また、『数百頭のオオカミに囲まれ、夜明けまで油を浸み込ませた“高野豆腐製”の回転式火鉄砲で撃退する』などなど・・・、ハラハラ、ドキドキの連続なのである。
本編を読みたい人は、国会図書館にアクセスすると、デジタル書籍で『中村春吉自転車世界無銭旅行』を全文閲覧可能である。河口慧海師の『チベット旅行記』も永きに渡って『インチキ本』だの『架空の創作物語』だのと評価されてきた。
実際にその土地を訪れた者として、河口師の表記はまったくの事実であったことが我が目で確認できた(日本山岳会一〇〇周年記念事業・河口慧海師足跡学術調査隊に参加)。
今回、インドの大地にて中村氏の表記の信憑性を、状況的に追認できるような事象の多くを体感した。経済成長著しいインドでは、多くの場面で、まだまだ近代以前の世界の息遣いを感じることがあった。
その息遣いは、中村氏の表記の判断材料であるのみならず、二十一世紀の人類社会への一筋の光明であるようにも感じられたのである。それは、現在の中国からは微塵も感じ取れない光明でもある。『合理性』と『混沌』との融合的同居とで言えようか・・。
一〇〇年以上も前のインドでさまざまな事象に遭遇してきた中村氏は、晩年『霊動法』という精神医術の普及にも努めるのである。そして終戦の年に永眠する。奇しくも、河口慧海師と同年同月の永眠である。
『霊動法』については、現在も研究中ではあるが、心身の治療法に終わることなく、どうやら『世直しや、人心直し』的奉仕治療行為であったようだ。
インドの大地で遭遇した事象や、そこで体感した非日常的感覚などが、その道へと進ませたことに間違いはないだろう。
我々、山岳世界や辺境世界に身を浸す者は、通常の生活では味わうことのできない、非日常的体験や感覚を体得する機会が多くある。それも、自然界と対峙する中から取得した感覚や感性ではないだろうか。
今、切実に問われているのは、その感覚や感性をどのように現代社会へ還元してゆくのか、ということではないだろうか。経済至上主義が脆くも破綻し、日本のもの造りの伝統にも細かいヒビ割れが生じている現在。
日本のみならず、世界的にパラダイムシフトが静かに、確実に胎動している時代に要求されるものは、日々のルーティンワークや既得権に安住したなかからは、おそらく産出されないのであろう。
人々の幸せのあり方の再構築を模索する世紀に必要なものは、中村春吉氏のようなボヘミアン的国際人の人生の背景にもヒントが隠されているかもしれない。
そして、同時に、自然界と対峙しながら内なる会話をしている我々山岳界に住む住人たちも、その居住まいを正さなくてはならないのではないだろうか。

中村春吉氏は、大正時代に入った頃からは、「霊動法」という精神的医術の普及に努め、一九ニ五年(大正十四年)には、東京市四谷に「中村霊道治療所」を開設している。多くの弟子を集め、一時は隆盛を誇っていた。
関東大震災時には、各所にて霊動法による治療をボランティアでおこなってもいる。弟子の一人である、石川清浦という政府役人であった人による、「霊動の道 - 石川先生語録と門人感謝録 (霊動会)」という本にも、中村氏の事が出ている。
そして、中村氏の弟子である石川清浦氏のもとへ治療に来ていたのが、『世界最終戦論』の著者であり、晩年は東北で共同コミューンを構築した、石原莞爾(かんじ)である。
言ってみれば、中村氏が中興の祖である霊動法は、大正時代から昭和にかけての思想家たちにも影響を与えていたのである。
「霊動法」の始祖は「神田霊海」先生という人物であるが、実際にそれを完成し世に出した(大正二年)のが「中村春吉」先生ということになっている。ちなみに、神田先生という人は、霊動法を考案すると同時に、晩年は「金冠」という薬をつくっていたようである。
明治半ばくらいから大正時代にかけて、日本では催眠術や精神療法など各種の民間療術が盛んとなっている。臼井霊気療法や野口整体の「活元運動」も同時期に発足している。
おそらくや、中村氏は自転車による世界一周冒険中や、軍事探偵(一説によれば)活動中に、『絶体絶命のピンチ』や、『不可知的事象』の多くに出会ってきたのだろう。
その場面、場面において体得してきた、『人智を超越する時空』というのを、霊動法の基底においたと考えられる。実際に、中村氏が治療している際には、大きな気合いの声が鳴り響いていたと、御手洗の古老から聞いている。



私のフェイバリットな場所の一つに、広島県呉市御手洗(みたらい)がある。中世時代から汐待風待ちの港町として栄えた、大崎下島の小さな町である。
二十数年前くらいだろうか。何気なく、御手洗の街並みを散策していたら、小さな神社(天満宮)に行き当たった。そして、その神社の入り口横に、朽ちかけた標札があった。
『この御手洗出身の中村春吉という人物は、明治時代に単身・無銭・世界一周自転車冒険旅行をした』と書かれていた。
当時私は、明治時代の求道僧・河口慧海や大谷探検隊などの追跡フィールド探査などをおこなっており、同時期にユーラシア大陸へ雄飛した、中村春吉という人物に対する興味が俄然湧いたのである。
そして、中村春吉に関しての文献を渉猟し、御手洗の古老などからもヒアリング調査をした。さらに、古老から紹介を受けて、当時ご生存されている近親者にもお会いしたりもした。
明治という時代は、合理的な西欧主義が日本へ一気に導入されるとともに、古来の日本精神文化もそれに触発されて、復古刷新された時期でもある。河口慧海や大谷探検隊などの僧侶たちが、日本仏教の衰退を危惧し一種の原点回帰運動として、チベットへの潜入探査を試みたのが、明治三十年代である。
時を同じくして、その当時さまざまな分野での、冒険的行動が多発しているのである。南方熊楠も同時期に単身、アメリカ、キューバ、イギリスと渡航する。御手洗出身の中村春吉も、明治三十年代に「自転車による単身無銭世界一周旅行」を果たすのである。現代の冒険サイクリストの元祖であるといえる。
同時に、彼の凄さはその冒険行以降の人生にある。彼は、『霊動法』という気功法や気合術にも近い精神療法の中興の祖となっていくのである。当時のフランスにも招かれ、現地の西洋医学界の学術誌にも彼の治療法が紹介されたりもする。また、野口英世や大隈重信などとも懇意(手紙の往信記録がある)な仲となっている。
私は、四十歳代半ばの時に、河口慧海師の足跡を辿る学術遠征隊に参加し、約二ケ月をヒマラヤの奥深いエリアにて活動した。その前後に、同時期に海外へ雄飛した冒険者の足跡も同時調査していた。
そして御手洗の町に頻繁に通っていたある日のことである。地元の古い食堂にて昼ご飯をとっていたら、同じ食堂内におられた年配男性から声掛けをいただいた。
『あなたは御手洗の人ではないですね?』それは、翌日が当地のお祭りであった為、私が里帰りをした島の住民かを疑われたうえでのお声がけだったのだろう。
『いいえ、私は広島の中山間地域の住人です。』そして、思わず『中村春吉さんに関心があり、この町へは頻繁に来ているのです』。と言った瞬間から、新たなご縁がムクムクと顔を出したのである。
その年配男性が、驚きの顔をされながらお答えになられた言葉が・・。『な、なんと、中村春吉は、私の大叔父です!』
さらに、『中村春吉の書いた本や、大隈重信との往信手紙などの一部は、私が保管しているのです』 このお答えを聴いている私は、すでに興奮状態で血圧が三〇〇くらいに上昇していたのである。
『わわわ・・、なんというご縁!』
早速、お互いの連絡先を交換し、あまり日をおかずして、その方のご自宅へ伺ったのである。その結果として、大量の中村春吉さん関連のオリジナル写真をいただくことになったのである。残念ではあったが、大隈重信氏との往信手紙や著作は、未整理のためご自宅では発見されなかったということであった。
次節の年表以降にて紹介していく写真が、その時にいただいたものである。写真を丹念に見ながら、時代や場所をカテゴライズして掲載している。


中村春吉氏の略歴・冒険記録・その後の人生などは、次ページからの年譜を参照してもらいたい。
ただ、親族へのヒアリングからは、公になっていない中村氏の意外な一面も浮き彫りになっている。それは、激動する明治の時代背景も大きく関与しているのである。親族が話す、中村氏と乃木大将、大隈重信、頭山満、などなど名だたる明治の偉人・傑人らとの交流話しには、聞いている私自身が興奮状態となっていた。
特に、乃木大将が天皇陛下に最後に拝謁し、割腹自殺を遂げる寸前に、なんと中村氏と会って一言会話を交わしたというストーリーにはビックリであった。また、一時期満州滞在時には、後のロッキード事件で名をはせた、児玉誉士夫氏が中村春吉氏の「パシリ」をしていたとも聞いた。第二次世界大戦前後には、一説によると中村氏は、軍事探偵として満州や中国各地にて活動されていたとも聞く。確かに、紹介する写真にも、それを伺わせる内容のものもある。
二〇〇八年十二月〇〇日(日時は不明)
(対象者)御手洗地区元郵便局長・今﨑仙也さん
〇 今崎さんが子供のころ、春吉さんは『タ~、のオッサン』と呼ばれていた。
〇 天満宮横にある洋館に住んでいた。
〇 洋館は、玄関を通るとすぐに電気のスイッチがあった。
〇 その洋館は、中村氏の後は、2人の人を経て廃屋となっている。
〇 春吉さんは、晩年『エイ!・ヤ!・タン!』という掛け声による気合術にての病気治療をおこなっていた。
〇 春吉さんは晩年、御手洗地区でも変人としての存在であった。
二〇〇九年一月三日
(対象者)稲田厚子さん(六三歳?)※電話にての対話
稲田さんは春吉さんの姪の子供さん。稲田さんの母の父が春吉さんと兄弟。
〇 春吉の兄は(直吉)という。稲田さんの母親は、春吉の弟の子供である。春吉には八~九人の兄弟がいた。その中には姉や妹もいた。
〇 稲田さんの兄と姉は存命している。
〇 稲田さんが一歳の時(昭和二十年)に春吉さんは没している。
〇 春吉さんの長兄が下関で手広く商売をしていた。その関係か、春吉さんの出発点は下関だった。
船内で皿洗いなどをしながら働いていたと、稲田さんは実母から聞いたらしい。
〇 稲田さんの姉は、横田順弥さんの本には、春吉さんのいい時代があまり描かれていないという不満が少しあるとのこと。
〇 その不満は、春吉さんは当時隆盛を極めていた政財界の大物たちとの交流もあったということが描かれていないということ。
〇 大隈重信の奥さんから春吉さんへあての手紙が残っていた。それ以外にも、遺品の中にそのことを示す物品があったが、今は無いとのこと。
〇 一度、中国新聞に、英国から春吉さんを探していることが掲載されたことがある。それは、英国の方が身内の病気を春吉さんに治療してもらって大変感謝しているとのことだった。その記事がきっかけで、春吉さん直系の孫の方と稲田さんらが英国人に会ったという。その直系の孫の方は遠方に住んでいるとのこと。
〇 外務省の役人二人が御手洗に訊ねてきて、霊動法を広め、本も出版したとのこと。
〇 春吉さんは、晩年広島市内の白島にも済んだことがある。
二〇〇九年一月二十八日
(対象者)福田光重さん(七十八歳)※今﨑さんの義兄
場所は、御手洗の今崎さんのご自宅にて。福田さんは、青年団長・自治会長・二十年町会議員・消防団長などをの地区の役員を歴任された方。
〇 春吉さんは、中村とみこさんという少女と一緒に住んでいた。とみこさんは、光重さんの一歳年下でなので、光重さんの奥さん(今崎さんの姉)の一級上なので現在七十七歳であろう。
〇 春吉さんの葬儀は、御手洗でおこなわれた記憶がないので、御手洗以外の土地でお亡くなりになったはず。
〇 春吉さんが亡くなった後に、福田さんが春吉さんの自宅に入ったところ、ガラスのフィルムのようなものが一杯あった。
〇 春吉さんの霊動法にて治療を受けた人が、御手洗にも住んでいる。
二〇〇九年一月二十八日
(対象者)今﨑さん ※御手洗にて対話ヒアリング
〇 今崎さんが二十五・六歳のころ、盆踊りの日に酒を飲んだ若者が。オチョロ舟を手漕ぎにて六時間かけて、愛媛県のキクマというところまで数人で出かけるような冒険をしていた。
〇 御手洗の男は、若いころには一旦、広島や大阪へ商売の見習いに出掛ける風習があった。
二〇〇九年三月十日
(対象者)稲田厚子さんの実姉 場所は広島市江波の稲田さんのご自宅マンション。稲田さん同席
〇 春吉さんは、その生涯で三度の結婚をしている。最初の結婚は、清水ちよさんという方と。この方とは離婚。その後二番目は(さだ)と呼ばれる女性と。この(さだ)さんはお亡くなりになった。三番目は(のぶ)とよばれる女性。この方は二人の子供を連れての、後添いであったが子供が学校を卒業すると離婚した。
〇 春吉さんには、女の子が二人いた。一人は十九歳で亡くなっている。もう一人の女の子は『はるこ』と呼ばれ、長崎に嫁いだ。そのはるこさんには男の子供が二人いた。兄の名前は(かんじ)で、長崎で乾物屋をしていたが生涯独り者であった。弟さんとは付き合いがない。
〇 はるこさんの先夫との間の子供が(とみこ)さん。このとみこさんが、晩年の春吉さんと一緒に暮らしていた。
〇 春吉さんの広島での一番弟子である土井さん(男性)という人の叔母さんが、女子商の校長だったので、その関係もあり一九四五年四月に、とみこさんは女子商に編入入学する。
〇 八月六日の原爆投下時に、とみこさんは広島市内で被爆。鶴見橋にある中山小学校まで逃げたが、そこで絶命した。
※ 以下は春吉さんの個人履歴に関して(対象者は同じ稲田厚子さんの実姉)
〇 十八歳よりも前に船の飯炊きをしながら渡米した。
〇 春吉さんの実兄・直吉さんは、下関で手広く造り酒屋などを営んでいた。
〇 その造り酒屋(マルサン)は、知人の保証人となったりし借金がかさんで一代で倒産した。
〇 朝鮮の平城にある日本軍憲兵隊詰め所へ、稲田厚子さんの実母が春吉さんの紹介で尋ねたことがある。その憲兵隊の隊長が神田霊海(霊動法の創始者)ではないか。
〇 石川さんと同じ外務省職員であった、田中(おそらく田中義久氏?)さんは体が虚弱の為、春吉さんを頼ってしばらく御手洗に滞在した。
〇 片桐さんという男性が、晩年の春吉さんの周囲に出入りしていたが、ちょっと印象悪そうな人であった。
〇 広島の旅団長であった、土居原さんという方とも春吉さんは親しかった。その関係なのか、春吉さんは一時、八丁堀にも住んでいた。
〇 大隈重信にも、春吉さんは大量のミカンを送っていた。大隈候の奥さんからは巻紙状の礼状が届いていた。
〇 大長ミカンではないミカンを春吉さんが送った際には、大隈候から『ちょっと味が違う』というコメントもあったという。
〇 大隈候からは、数多くの手紙がきていたので、風呂を炊くのにその手紙を燃料代わりに焼いていたらしい。
〇 春吉さんの治療を受けたフランス人が『命の恩人』として春吉さんを探す為、御手洗にやってきたことがある。すでに、春吉さんが没した後だったので、田中さんが対応していた。
〇 関東大震災の被災現場を春吉さんは見たことで、洋館の耐震性を認識した。それで、御手洗に戻ってからは、西洋館を建てたが、田舎の左官屋に屋根を頼んだので雨漏りが酷かった。
〇 稲田厚子さんの印象では、春吉さんは怒りっぽい人だった。
〇 乞食でも家に上げて、食を提供するような人でもあった。
〇 広島市内の己斐町にも住んだことがある。お宮の下の二階建ての家だった。
〇 広島市内の江波神社には、春吉さんの名前が入った石碑がある。
〇 天満宮での写真、春吉さんの右側の人は、大長の福島のパン屋さん。
〇 昭和三年に御手洗の家が建っている。
〇 御手洗にある中村家の墓は、春吉さんが金を出したが、実兄の直吉さんが建てたことにしている。
〇 稲田厚子さんの実姉は、御手洗にて霊動法の治療現場を実際に見たことがある。春吉さんは広島から御手洗に戻ると、近隣の人を集めて治療をしていた。その家の中は、セメント臭がしていた記憶がある。
〇 春吉さんは、写真に凝っていた時期がある。資材繰りに困った写真屋には、気前よく機材を分けていたこともある。
〇 台湾から御手洗に、バナナ・パイナップル、ランの花などを送ってきたこともある。また、ミノムシのハンドバックが土産だったこともある。
〇 御手洗の家には、フランス製の大きなビンに入った香水があった。その香水は何年たっても匂いが消えなかった。
〇 御手洗の家には、真っ黒のロングドレスにビーズが飾り付けられた奇妙な服もあった。
〇 志那事変の時には、数名の同士を連れて中国に行ったこともある。
〇 野口英世から春吉さんへあてた手紙もあった。
〇 頭山満が直筆した、春吉さんの局部イラストの掛け軸もあった。
〇 横浜鶴見の(そう寺)の住職がかいた文書もあった。
〇 横山大観の掛け軸もあった。
〇 春吉さんは、家にどれくらいの金があるのかなどの俗事には、まったく無頓着であった。
〇 コウモリ傘が無かった際には、東京の(すずき)という大きな傘屋をしっているので、そこに注文しようという話もあった。
〇 大隈候から頂戴した紋付の家紋がやけに大きかった。紋付の下は、はかまであることは少なく、作務衣の下のようなものを着ていた。白足袋に履物は舞子さんのようないで立ちであった。
〇 広島市の八丁堀に住んでいたころには、中村天南と名乗っていた。
〇 葬式は御手洗でだした。
〇 御手洗の家は、稲田厚子さんの母の兄が土地の人に売り、大長の(すが)さんに渡った。
〇 宮島の大聖院あたりにも住んだことがある。
〇 三十センチくらいのドルジェ(密教法具)があった。そのドルジェは、稲田厚子さんの兄嫁(広島市戸坂に住む)が持っている。
●明治四年(一八七一)三月十日
中村春吉先生・広島県豊田郡御手洗町で誕生。父・重助、母・セイ。先祖は士族だという。
☆明治十六年
中村春吉十二歳で家出をして怪しげな漁船で朝鮮にわたる。韓半島で無銭旅行を試み、死ぬような目にもあったという。
(明治二十年代)
〇明治二三年
東京小石川にて医師・馬島東伯が日本初の『催眠術病院』を開設した。
〇明治二三年九月十六日
トルコ軍艦・エルトゥールル号串本沖にて遭難。
〇明治二四年五月十一日
ロシア皇太子ニコライが滋賀県大津にて切り付けられる。
同年五月・皇太子ニコライがウラジオストクにてシベリア鉄道定礎式の盛典を行った。
●明治二五年(一八九二)春。
中村先生(二十二歳)厳島弥山にて修行
〇明治二十五年四月
山田寅次郎、義援金をイスタンブールに運ぶ。
●明治二六年
中村先生、移民としてハワイへ渡る。明治三十年帰国
〇明治二六年五月十五日~十月三日
シカゴ万国宗教会議開催
〇明治二十七年(一八九四年)
甲午農民戦争(東学の乱)勃発。日清戦争への序章となる。
〇明治二十七年七月~二十八年四月
日清戦争
〇明治二十八年
グルジェフ『真理の探究者』という有志団体を設立。
〇明治二十九年
山田寅次郎、二回目のトルコ渡航。中村商店の支配人となる。
〇明治二十九年八月
フィリピン革命始まる。
(明治三十年代)
〇明治三〇年
河口慧海・第一回チベット旅行。
★明治三一年二月頃
馬関(下関)にて『馬関忍耐青年外国語研究所』を開設。一時は五百人を超える学生が集まる。
〇明治三一年三月
ロシア、清から旅順・大連を租借。
〇明治三一年四月
米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)始まる。
★明治三一年九月
一週間ほど隣国(朝鮮?)を旅している。その後、以前から夢想していた無銭での世界一周を実現目標とする。しかし実際には、明治三三年に印度へ一年間修行の後、世界一周旅への出発は明治三五年に入ってからである。
★明治三一年~出発まで
外国への輸出品を産する国内の各地を自転車にて巡ると同時に、外地での猛獣遭遇時などを想定した準備もしている。日清戦争時に高野豆腐に石油を染み込ませ松明にしたことを、猛獣遭遇時の対策案として考えたのこの時期である。
〇明治三二年十二月十七日
密教行者であり気合術師である、浜口熊嶽(当時二十二歳)の民間治療における裁判にて、浜口側の勝利となる。この裁判は大阪朝日新聞にて、十二月十七日全国的に報道される。翌年には浜口は大阪にて『大阪施術所』を開設している。
〇明治三三年
小野福平が東京本郷森川町にて『第日本催眠術奨励会』を発足した。これが、日本における催眠術ブームのはじまりと、井村宏次は『霊術家の饗宴』に記述している。
〇明治三三年四月
義和団の蜂起、北京を占領。北京-天津間の鉄道破壊。
●明治三三年
中村先生(三十歳)。印度へ渡り奥地でバラモン教の修行。明治三十四年帰国
★明治三四年十二月十一日
馬関から大阪を経て、東海道を経て東京へ。東京では三日間滞在の後、横浜へ。この横浜で、古くから知人・福井忠兵衛に会う。福井の厚意から丹波丸(上海まで?)の乗船券を受け取る。
☆明治三四年十二月初旬
大阪毎日新聞社の屋上にて、横浜へ移動中の中村春吉と押川春浪の友人K氏が初めて会っている。その際には、中村は今回の世界旅には大望があるが、今は公表しないとも語っている。押川の友人K氏が大阪で中村と出会った数日後に、東京の二三の新聞に、中村春吉の世界無銭自転車旅のことが記事となったとK氏は押川に後日語っている。ある新聞は、中村を山師・法螺吹き・狂人・無謀旅行家と嘲っていたとのこと。
〇明治三四年
女修験者・長南年恵が『惟神大道教会』を設立し、治病霊術を施している。
〇明治三四年
中村直吉、世界一周旅行に出発。明治四〇年に帰国
〇明治三四年
川合清丸による著作『無病長生法』が出版され、吐納法などの健康法が普及していく。
〇明治三五年
一月 日英同盟(第1次)締結。
〇明治三五年
八月 大谷探検隊ロンドンを出発
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(世界一周旅行時代・明治三五年~三六年)
※中村氏の世界旅に絞っての年表
●明治三五年(一九〇二)
中村先生、世界一周自転車旅行に出掛ける。二月二五日午後一時、丹波丸にて横浜港を出港。出発時の荷物は小計約八三キロ。本人の体重は六三キロ。総計一四六キロ。
★明治三五年三月三日
丹波丸は上海に入港。中村のことを新聞記事で見た、森洋行(会社)の榎本君が歓迎の為に中村を出迎える。
★明治三五年三月八日
香港に入港。(上海から香港は船便にて)香港の日本人らからの助言を受けて、当初の豪州行から南米行の予定を、シンガポール行・インド行きに変更する。シンガポール行き船便の費用も、現地日本人で写真館を経営していた梅屋という人物の寄付による。シンガポールへも丹波丸である。シンガポールでも現地で宿屋・日新館を経営する日本人(堀氏)の厚意にて、無銭投宿。
丹波丸の行程(香港→海南島を右手→トンキン湾→サイゴン沖→マレー半島突端)
★明治三五年〇月〇日(日付記載なし)
自転車にてラングーンに向かってシンガポール出発。二十里ほどすすむと峻険な山岳地域に入った。道も無いので、自転車を担ぎながら進むが一夜を山中で過ごしたのち、シンガポールへ翌日の夕方四時頃引き返す。
★明治三五年三月十八日
午前六時、シンガポールから英国汽船(ツー・バンド・ファナー号)にて出航。労働船客となってラングーンへ向かう。船中にてインド人と義兄弟となる。そしてインド人らに『禁酒』を約束させた。また、春吉自身は、世界旅行を成功させた大きな要因に、自身の禁酒をあげている。
★明治三五年〇月〇日
ラングーン到着後、当地の日本人商人・高橋徳太郎が春吉を訪ねてきた。また、ラングーンから陸路カルカッタまでの詳細は全く記述されていない。
★明治三五年〇月〇日
カルカッタ到着時には、当地の日本人・金子という人物の家にやっかいになる。その間に自転車の修理などをしている。出発時の写真をカルカッタ新聞社から五〇〇枚もらっている。
★明治三五年四月一日
午前中に、カルカッタを出発し、ブッダガヤを目指す。
★明治三五年四月二日
ボードワンという地方に至り野宿する。翌日ラジャパンドに向かう。高山の麓で野宿。その後、ヒマラヤ山脈の麓を数日走り、峻険な道をバグダットを経てアサンソールに至る。アサンソールはかなり繫華な町。ここからブッダガヤまでは一八〇マイル(二八八キロ)。
★明治三五年四月四日
カツラガハーに到着。
★明治三五年四月十一日
アサンソールから数十里(一六〇~二〇〇キロ)離れた場所での野宿の際、オオカミの来襲を受ける。高野豆腐の火の玉作戦。翌日(四月十二日)この場所から十二三里(四〇~五十キロ)にあるシロツテートという所に到着。この日の夜には、巨大な水牛に天幕を襲われる。
★明治三五年四月十六日
ブッダガヤに到着。二日間滞在し、仏跡訪問。その後ガンジス河の支流クドロー河の岸に達する。それ以降は、砂漠地帯の中を進むことになる。カラスの集団に食糧などを奪われたりする。また黒ヒョウにも襲われたが、黒ヒョウを退治してそれをその後四日間の食糧とした。
★明治三五年四月〇日(おそらく二十三~五日前後)
マンキボールという町に到着。マンギポールからは結構長い道のりを、ベンガルという村を経てミルザポール着。ミルザポールに滞在二日。ここより五十里(二〇〇キロ)山奥のアロハバッドという町へ。ここで数名の日本人と出会っている。その日本人は、醜業婦(売春婦?)。と、五十歳くらいの日本人男性の女衒。
アルハバッドからは一五〇里(六〇〇キロ)離れたジャバポールへ。ジャバポール手前の十数里(四〇~五〇キロ)には、千数百尺(五〇〇メートル?)の山脈あり。その山脈の下り道で、ハイエナの襲来にあうが、そのハイエナ(一メートル二十五センチ)を捕獲し、自転車にくくりつけて移動した。
ジャバポールは人口の多い街。この町のマホメダンという動物商人を通じて、在ボンベイ日本領事館へ捕獲したハイエナ二頭中、一頭を送っている。ジャパポールからボンベイまでは通常の自転車移動では二日程度。だが、今回春吉は、ジャバポール→イガポール→ボンベイのルートをとり、その道中ジャッカルを生け捕っている。このジャッカルとハイエナはボンベイから日本へ贈られ上の動物園に献納している。ジャッカルは日本到着後、気候があわなくすぐに死亡。ハイエナはその後も上野動物園で生きながらえたらしい。その檻には、『中村春吉贈』との標札があるという。
★明治三五年四月以降数か月
ボンベイの日本物産陳列所に書記として雇用されている。ボンベイからさほど離れていないアシミア国(カシミール?)の国王の宮殿が改築され、日本の敷物を購入した際、春吉が物産陳列所から指令を受けて、アシミア国へと持参し数百円の報酬を得ている。その数百円を元手に、インド各地巡察旅に自転車で出掛けている。
ボンベイ→アグラ→ダジ(タージマハールか?)、ガンジス河上流のインド女王の墳墓→デリー→アグラ。 デリーの町には尾長猿がたくさん住んでいる。
この旅行中には、次の旅路を次のように考えている。アフガニスタンからペルシャを経て小アジアの難路を陸行しても、格別面白いこともあるまい。ボンベイから海路で欧州へ向かおう。
★明治三五年十月十日
ボンベイを海路、イタリア籍の船にて出発。一週間後の十六日にアラビア半島先端アデンに近づく。
★明治三五年十月十七日
アデンを出発して、紅海に入っていく。
★明治三五年十月二十日
スエズに到着。一旦上陸して自転車にてカイロまで行く。カイロを経てボーセットまで。
★明治三五年十月二十一日の朝
再びスエズから同じ船に乗船し、地中海へと入りギリシャ沖合を通過し、スパルジジエント岬を船は巡っていった。
★明治三五年十月三十日
午後三時頃に、イタリアのナブール(ナポリ?)に到着。当地にて、日本人雑貨商の木村君と出会う。この章では、『イタリア・ナブールからフランスを過ぎ、イギリスを過ぎ、アメリカサンフランシスコまでの約六か月は、なかなか愉快なものであった』とも記述されている。
イタリアからは欧州アルプスを越え、バラモーの泥地を越えたりしている。ナブール→ローマ。十一月三日には、辺鄙なローマ村から都市ローマへの途上であった。
★明治三五年十一月四日
イタリア・ローマに到着。日本公使館で歓待を受ける。四日から九日まではローマ滞在。
★明治三五年十一月九日
イタリア・ローマ出発→ゼノア→スペンジャ→アルプス越え→キヤプレー。
★明治三五年十一月十五日
ゼノア着。日本領事館訪問。→アツキス地方を経由し、マルセイユに向かう。途中自転車の故障にて徒歩にて四五里(一八〇キロ)を進む。
★明治三五年十一月二十日
フランス・マルセイユ到着。ゼノアからマルセイユまで時間がかかったのは、徒歩(自転車を押しながら)もあるが、痔に苦しんでいた。マルセイユからリオンまでは六時間の列車移動。リオン郊外にて天幕にて一週間滞在し、痔も回復したので、自転車でパリへと向かう。
★明治三五年十一月〇日(およそ二九日~三〇日)
パリに到着。ルーブル美術館、エッフェル塔、凱旋門などを見学。新聞各紙にて取り上げられたので、来客はひっきりなしであった。パリ滞在は約一か月前後。
パリ発→セーヌ河→ルウエン地方→イギリス海峡→ロンドン
★明治三六年一月七日
ロンドン到着。ロンドンタイムズにも記事が出ている。ロンドン滞在中は、金穴街や貧民窟なども見学。ロンドン→リバプール
★明治三六年一月二二日
リバプール港から汽船ブレーデン号の労働船客となって、北米大陸へ出発する。
★明治三六年二月二一日
通常は一週間航路であるが、途中気象が荒れたりした結果約一月後に、アメリカのボストンに着港する。ボストンでは当地にて商会を構える松木文峡なる人物にお世話になる。その後、ボストン→ニューヨーク→ワシントン→パラモー地方→シカゴ→ミシシッピ川沿い→ネブラスカ州→ロッキー山脈越え→サクラメント→カリフォルニア→サンフランシスコ
★明治三六年四月十日
サンフランシスコ到着※アメリカ横断に約四十日~五十日
★明治三六年四月二二日
サンフランシスコの日本人が集まり、陸上大運動体会開催され、中村春吉も招待されている。そして自転車競走競技に出場。結果は悪かったが、現地日本人から賞品を贈与される。その賞品は、サンフランシスコから横浜までの船切符であった。それもその日の夜に出発する日本東洋汽船会社の香港丸であった。
★明治三六年四月三十日
ハワイ島に到着・同年五月十日横浜港到着。※下記『霊動の道』では帰国は六月となっている。
★明治三六年五月十日
香港丸が横浜港に到着した際、船から下船してきた中村を押川春浪の知人K氏が偶然出会っている。
●明治三六年
中村先生(三十三歳)、六月世界一周自転車旅行より帰国。八月満韓に渡り国事に尽力。
☆明治三六年十一月中旬頃
博文館(雑誌社)の上村左川氏が押川春浪あてに、無銭自転車世界一周を試みた冒険家が博文館を訪れたこと。また、押川にその冒険談を雑誌にて記載してくれないかとの依頼があった。その依頼があった翌日に、押川と上村は中村の東京での宿泊先(神田区錦町にある榎本旅館)に出掛けた。
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〇明治三六年一月十四日
大谷探検隊がインドに永らく謎の地の山であった霊鷲山を発見。
☆明治三六年五月二九日
満鮮旅への送別会が品川の芝浦館であった。出席者は、押川春浪・中澤臨川・平塚断水・山脇両(野球選手)・河岡潮風・中村春吉の六名。この会で、中村は八雲琴を奏でている。
〇明治三六年
桑原俊郎(天然)の著作『精神霊動・第一編催眠術』が出版される。翌年には、第二編精神論、第三篇宗教論、明治三八年には、『精神霊動奥義』も出版されている。
〇明治三六年
河口慧海・第一回チベット行より帰国。
〇明治三七年
河口慧海・『チベット旅行記』出版。
〇明治三七年二月
日露戦争開戦
〇明治三八年
岡田式静座法の開祖・岡田虎二郎がアメリカより帰国し、東京にて精神療法の看板をあげて活動を開始する。
〇明治三八年
一月 ロシアで血の日曜日事件。第1次ロシア革命始まる。
〇明治三八年
八月 孫文ら、東京で中国同盟会を結成。
〇明治三八年
九月 日露戦争終戦。日露戦争の講和、ポーツマス条約締結。
〇明治三八年
十二月 韓国総監府が設置される。
満州に関する日清条約締結。清が日本のロシア権益継承を認める。
☆明治三八年末頃
押川春浪宛ての中村春吉が朝鮮から出した便りが届く。その文面中には、『死に損なったのは四・五回』とも記述されていた。
〇明治三九年
日本、南満州鉄道株式会社設立。(翌年四月一日開業)
〇明治三九年
日本で『医師法』が制定される。
☆明治三九年末頃
中村春吉は朝鮮からひょっこりと帰国した。by 押川春浪。この際に出逢ったことを、押川春浪の弟子・河岡潮風が『快男児快挙録』に記述している。
(明治四十年代)
〇明治四〇年
中村直吉、六年間の世界一周旅より帰国
☆明治四〇年
中村春吉は子分を連れて猛獣狩りに満州へと渡ったというウワサあり。
〇明治四〇年
七月 激しい抗日運動の中で、高宗辞任。
☆明治四一年晩春
中村は帰国し、押川春浪を訪ねている。その時の中村の印象を押川は『とても文明人とは思えないくらい野蛮な外観、そして鬼気迫る雰囲気であった』とも語っている。その際に中村は押川に『満韓である事業をはじめたので、その準備で帰国した』と語っている。さらに、雑誌に連載されていた自転車世界一周のことを本にしてくれないかともリクエストしている。
〇明治四一年十一月
清朝、光緒帝(十四)・西太后(十五日)相次いで死去。
〇明治四二年
ピアリー、北極点に到達、
〇明治四二年十二月
安重根が伊藤博文を暗殺する。
〇明治四三年九月
韓国総督府が設置される。
〇明治四三年一二月
福来友吉により念写が発見される。
〇明治四四年
アムンゼン、南極点に到達。
●明治四四年
一月中村先生満韓より帰国
☆明治四四年六月十一日
長崎にて白瀬中尉の南極観測隊の宿舎を訪問している。早朝3時頃の訪問と記録されている。
※多田恵一著『南極探検日記』
〇明治四四年十月
辛亥革命
〇明治四四年
田中守平(太霊道開祖)は、この年から大正二年まで朝鮮半島や蒙古で霊子術の巡業をしている。
〇明治四五年
一月 中華民国発足。孫文、臨時大総統。
三月 袁世凱が臨時大総統就任。
(大正時代)
●大正二年(一九一三)
八月中村先生(四三歳)宇都宮憲兵隊長・神田長平少佐の勧説により、霊動法を世に公にする。
〇大正二年 浜口熊獄、郷里の三重県長島町に豪邸を建設。同年満鮮旅行。
〇大正三年
七月 孫文、東京で中華革命党結成。
〇大正三年
七月 第一次世界大戦開始。
八月 日本の参戦。ドイツに宣戦。
〇大正三年 平井金三による『心身修養 三摩地』という、呼吸法による修養法の本出版。
〇大正四年
一月 日本、中国に対し二十一カ条の要求提出。
〇大正五年 田中守平による、太霊道の組織化。
〇大正六年
二月 ロシアで二月革命(三月革命)起きる。
三月 ニコライ二世退位
十一月 ロシア十月革命(十一月革命)。ソヴィエト政権成立。
〇大正六年(一九一七年)
四月 アメリカの第一次世界大戦参戦。
〇大正七年
八月 アメリカ・日本など、シベリア出兵。
〇大正七年
十一月 ドイツ革命。ドイツ共和国成立。
〇大正八年
四月 インドでガンディーの指導する非暴力・不服従運動(第1次)起こる。
五月 中国で五・四運動。
十月 孫文、中国国民党を結成。
●大正九年(一九二〇)
五月中村先生、仏国に渡り霊動法の指導並に治療を行う。滞在一年三か月。その間ソルボンヌ大学研究所で、先生自身の故意にする収縮、静止によって生ずる心臓及呼吸運動の停止、体温の上昇等の実験を行う。
●大正十年
四月 仏国学士会院の一部門である仏国科学院の会報に、中村先生の霊動法が『解剖生理学、腹部マッサージの日本式療法に関する生理学上の研究』として、中村先生の指導を受けた仏国学者の名で紹介される。
十月 中村先生、仏国より渡米。ロックフェラー研究所に於いて野口英世博士其の他大勢の医師立会の許で犬への施術実験。次いで一般民衆に対して治療を施す。滞在一年十か月。この年、石川先生北京より帰朝。
〇大正十年
太霊道(田中守平)の本拠地とした岐阜県武並村にあった本部のシンボル的建築物・霊雲閣焼失。
●大正十二年
八月 中村先生米国より再び仏国へ渡ったが、関東大震災のため急遽帰国。※帰国は大正十三年一月五日か。
●大正十三年
中村先生 四国巡礼。
●大正十四年
中村先生(五十五歳)東京市四谷区大番町八十番地に、中村霊動治療所を開く。
〇大正十四年 浜口熊嶽、ハワイ~アメリカ巡業。自身の気合術を『人身自由術』と称していた。
●大正十五年=昭和元年(一九二六)
九月一日、石川先生(四六歳)芝間氏の勧めにより、中村先生を訪ね初めて霊動法を実践、中村先生の門人となる。
(昭和時代・十年まで)
〇昭和二年
松本道別による『霊学講座』が出版される。
●昭和三年
一月六日~二月四日まで、石川先生、中村先生先達の気合寒行一万行に参加。同行十二人。
七月 中村先生、霊動法創始十五周年を迎え、郷里御手洗を永住の地として同地に研究所を設立すべく世の後援を求める。
八月 中村先生、築地本願寺にて一週間の施療実施。
十二月 中村先生、御手洗に転居。門人・秋山彦一氏東京四谷の道場を継承。また門人・田中義久氏一家をあげて中村先生に従い、御手洗島に至り修行する。
〇昭和三年
清水英範(芳洲)による、『精神界』という精神療法業界紙を発刊。六年間継続された。清水自身は、軍人・新聞記者を経て清水式心理療法の開祖となる。
〇昭和四年
日本全国の療術家を紹介した、『破邪顕正・霊術と霊術家』が出版されている。
●昭和五年(一九三〇)
十二月二十八日 石川先生、中村先生ならびに田中義久氏と共に、厳島三鬼堂に参拝。
十二月二十九日 石川先生、中村先生とともに御手洗へ行く。
●昭和六年
三月十日 中村先生ご夫妻還暦を道場でもお祝いする。
●昭和七年
四月八日 中村先生上京。観音像を石川先生に贈る。
四月十七日 中村先生上京記念懇話会。(参加二十八名)
十二月 中村先生、広島市八丁堀に転住。
〇昭和八・九・十年
『日本治療師団体運動年鑑』に、中村春吉の治療所住所は、広島市八丁堀二十四番地と記載。
●昭和八年
三月四日 中村先生在仏中の記録の訳が出来上がり中村先生へ贈る。また一般にも頒つ。
七月五日 田中義久氏上京を機に、懇話会を開く。(参加三十四名)
八月四日 田中氏京都に治療所開設。(その後昭和十三年朝鮮に渡り、在鮮中も引き上げ後も依頼により治療を施している)
九月四日 中村先生夫人逝去。
十月八日 中村夫人追悼式。
●昭和九年
六月二日 中村先生上京。
六月六日 仏教雑誌社の主催で中村先生の講演(参加者六十余名)
六月十日 石川先生、中村先生と上泉中将を訪問治療。
●昭和十年
四月 中村先生、台湾へ行く。
八月三十日中村先生、神田先生を見舞のため上京。
九月三日 石川先生、神田先生を見舞い、中村先生と会う。
(昭和十年代)
●昭和十一年 石原莞爾と霊動法の出会い。
十二月 石川清浦氏の弟で、満州事変の殊勲者・石川勝三(当時砲兵少佐)の紹介で、石原莞爾(当時陸軍参謀本部作戦課長・その妻=鋳子夫人、元報知新聞記者=高木清寿が、石川先生を訪ねている。それ以降、石原莞爾は石川先生のことを『国宝的存在』と尊敬していた。
●昭和十七年
一月三日 石川先生、弥山三鬼様参拝。霊動縁故者の姓名を記し持参。
(昭和二十年代)
●昭和二十年(一九四五)
二月二十一日 中村春吉先生、御手洗島にて逝去(七十二歳)
●昭和二十六年
二月二十一日 中村先生七回忌。芝間、繁田、江川、脇田、篠崎、安藤、薬師神の八氏を併せ追悼する。
十月二十一日 石川先生夫妻、田中義久、片桐助一氏等と共に、中村先生の墓地に参り、中村先生の記念碑建立の相談をする。
●昭和二十七年
五月 石川先生の撰文並びに揮毫の『霊動法ノ祖・中村先生記念碑』を広島県御手洗島天満宮境内に門人並びに有志が建立する。建碑の議は、昭和二十六年秋にまとまり、多数の寄進により、その実行は大阪の田中義久氏と御手洗の片桐助一氏が中心となって進められ、地元有志の労力奉仕は千貫余りの台石を海中より引き揚げる作業にまで及びここに完成。東京では建碑供養の祈願が行われ、除幕式は六月三十日、門弟・田中氏の主催を以て天満宮神職祭主となり、地元有志多数参列して厳粛に挙行された。
六月二十九日 東京にて建立祝い。
●昭和二十九年
八月末 中村先生が在仏中、中村先生から霊動の指導を受け命拾いしたという、モノ―ヘルゼン博士(ハノイ大学教授)と田中義久氏が会見したとの通報があったが、ベトナムの独立運動のために急に帰国命令が出て上京を取り止め来場せず。
(昭和三十年代)
●昭和三十年
二月二十一日 中村先生逝去満十年。
●昭和三十六年
四月二十五日~三十日 石川先生夫妻、宮島弥山参拝の後、御手洗島に渡り、片桐助一氏の案内で天満宮参拝。中村先生記念碑参観。中村先生墓所に参拝。建碑尽力者に回礼して辞去。
●昭和三十七年
本年は中村先生が霊動法を世に公開してから五十年目に当たる。
※中村春吉さんの海外渡航歴
□明治二六年~三〇年(二二歳~六歳の四年間)移民としてハワイ
□明治三三年~三四年(二九歳~三〇歳の約一年間)インドでバラモン僧についての修行
□明治三五年~三六年(三一歳~三二歳の約一年間)自転車にて世界旅行
□明治三六年~四四年(三二歳~四〇歳の約八年間)満鮮にて国士活動
□大正九年~十年(五一歳~五二歳の一年強)フランスにて施術
□大正十年~十一年(五二歳~五三歳の一年強)アメリカにて施術
□大正十一年~十三年(五三歳~五四歳の一年強)フランスにて施術
□大正十三年一月フランスより帰国。この時五四歳。帰国後関東震災被害者へ施術。
□帰国後、四国巡礼の後、大正十四年(五五歳)に東京で施術所を開設。
□東京では二年半前後の施術後、故郷御手洗に移住し施術研究所開設。五七・八歳時か。
★中村春吉の人生において、二二歳から五五歳までの三三年間において、日本に滞在していたのは、二六歳から二九歳までの三年間と、三十歳から三一歳までの一年間、四〇歳から五一歳までの十一年間の、小計一五年間強弱程度である。彼の海外滞在期間を整理すると次のようになる。
★(二二~二六歳・ハワイ移民)
(二九~三〇歳・インド修行)
(三一~三二歳・自転車世界旅行)
(三二~四〇歳・満鮮にて国士活動)
(五一~五四歳・フランスやアメリカでの施術活動)
※ 下記の記述冒頭部分で、河岡が初めて中村春吉と出会ったのは、明治三六年であることが推察できる。その時、中村は自転車世界一周旅行から帰国直後くらいであり、同年六月には満鮮への旅に出発している。
『貧民の親友・中村長髪君の閲歴』
(車中の怪人物)
吾輩が先日、押川春浪氏と電車でさる所へ急ぐ途中の出来事だったとおもってくれ。今にも雨が来るようで、ボギー式の車内はかなりの人込みだった。その中に、遥か彼方の車掌台の近く、一人の獰猛な雰囲気を持った漢が座っていた。茶褐色を帯びた長髪は、フランスのルイ十四世のように、肩まで波打ちながら垂れ下がり、その目は若鷹のような鋭い眼で人を射ていた。身にはカーキ色の洋服をまとい、長靴を履いていた。
吾輩は、この人は日本人なのか?と訝しんだ。もし日本人であればいかなる人物なのかと、一挙手一投足に目を配っていた。すると、その人物と視線が行き交うと、突然その獰猛な空気感のある漢は、バネ仕掛けの人形のように跳ね上がった。
『やあ、押川さん!』お久しう!』
と、嗄れた大きな声を発した。そしてヒョイと人込みを越えてこちらへ向かおうとしたが、丁度電車が横揺れしたので、さすがの豪傑もよろめいて、傍にいた白靴のハイカラ紳士の足をイヤというほど踏みつけていたのである。
『失礼失礼』
と二足、三足進むと、今度はおとなしそうな奥さんの立派なこうもり傘を蹴飛ばしたので、その奥さんは真っ赤になってしまった。委細かまわず、尚も一両人を踏み分けて近づくやいなや、
『押川さん、私は先日朝鮮から戻ってきましたぜ』
と握手を求めた。車内のものの視線は期せずして、この長髪漢と押川氏と私に集まる。白靴ハイカラは、死んだら化けて出るぞと言わぬばかりの凄い顔で睨むのである。しかし、こちらは平気なり。忽ち吾輩も紹介され、大いに語ったのである。長髪漢とは誰のこと、それは自転車世界一周を企てた中村春吉君である!
なるほど、話をしてみればどこかの偉い處のある人物じゃ。(かつて五大洲を無銭旅行した人に、中村直吉君というのがあった。同姓ではあるが、別人だ。念のため断っておく)
(植民は現代の急務だ)
今や日本は年々に増えていく人口六十萬。生存競争は日に月に盛んになっていく。富の不平等と就職難ーそれもみな余分に人間が有り余るからである。学校を卒業しても下手にマゴつくと飯が食えぬ。独身者ならば、ロシャパンでもかじって下宿の四畳半に、膝小僧を抱えてコロンでいても済むが、いろいろ事情のある身では、やはりどうにかして飯の種をこしらえなければならない。ここにおいてか、天下の青年をもって自任していた硬骨漢も俗吏根生となり、小人の本性を現して腰辨主義(腰に弁当をさげてまじめな官吏主義)を発揮するのだ。
腰辨主義!腰辨主義!! ああ、なんぞ意気地なき主義なるや。言うべきことも遠慮して言わず。言いたくないことも、おべっかつかって言う。定見なく、主張なく飄々としている輩は人間の屑である。わが中村春吉君は御歳四十に近きも青春の徒を凌ぐ豪快男児である。余分の日本人を外国に移住さすのをもって生涯の目的とす。移民は出てゆく当人にとっても、国に残る者にとっても便利なものだ。無用なる生存競争と物価の高騰をさ避ける一法だ。春吉君がこのことを考え始めた動機はなんであったろうか。
※これよりの続きは、国立国会デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/885809)を参照されたし。
★ 雑誌「輪友」(第二号、明治三四年二四日発行)に小さく次のように掲載されている。
◎自転車世界周遊
十一月馬関の中村春吉なる人自転車世界周遊を思い立ち本月十四日横浜に向け発程せりと云う
中村春吉は、この馬関で明治三十一年に「馬関忍耐青年外国語研究会」という英語塾を開いていた。この馬関から明治三四年十一月十四日、自転車による世界一周の旅をスタートさせたのである。
雑誌「輪友」第三号、明治三十五年一月一日発行 中村春吉氏直話(読みやすくするため一部原文を補正)によると、
明治三十四年十一月十日十二時四十分に三田尻に着。その後後、久賀郡の知人宅で一泊。(久賀郡で二泊か?)
十一月十七日八時に久賀郡を出発して、広島に向かう。十三時に広島着。大手町の鳥飼繁三郎の家で自転車のベルを修理してもらう。それから赤谷という人から空気入れのポンプを入手。この日は深越村の大下龍之進の家に泊る。
十一月十八日七時三十分深越村の大下龍之進宅を出発。生まれ故郷の御手洗へ向かう。その途中の四日市西條というところに急坂があり、向こうから牛飼いが牛を牽いてのぼってくる。ベルを鳴らしたところ牛が驚いて暴れ出し、自転車にぶつかる。その瞬間に泥除けがはずれ、車輪に巻き込まれたため横転する。田圃の中に投げ出されて顔面を打つ。痛さをこらえながら再び自転車に乗って出発する。竹原町の警察署に寄り、旅の話などをする。それから写真屋を尋ね記念の写真を撮ってもらう。明神の鼻から便船に乗船し御手洗へ向かう。故郷の御手洗で十日程滞在する。
十一月二十七日七時三十分御手洗を出発し尾道へ。尾道では十四日町の鉄砲屋児玉という人の家に泊る。
十一月二十八日早朝、尾道を発つ。福山の親類を尋ねる。その後、岡山に向け出発する。途中、笠岡の手前で犬にほえられる。空砲を撃って追っ払うがなかなか逃げない。全部で四発撃ってやっと追い払うことができた。ところが近くの家から人が出てきて、鉄砲の弾が当ったという。空砲だと言うと、砂が顔に命中した勘弁できぬと騒ぐ、そこで笠岡の警察署に同道して事情を説明する。その男は警官に説得され帰る。その騒動の後、署長と歓談し、昼飯をご馳走になる。十三時三十分、警察署を出発する。岡山十七時に着く。その晩は、双輪会で歓迎会を催してくれた。このクラブに一泊する。
十一月二十九日早朝、自転車の損傷箇所を修理する。十一時四十分に双輪会のメンバーに謝意を述べ、出発して姫路に向かう。一九時三〇分姫路着。大工町の須貝潜の英語学校を訪ね一泊を請う。当初断られたが理解され、泊めてもらうことになった。その学校の生徒や教師の前で二時間ほど英語でいろいろな話をする。
十一月三十日七時二十分、須貝氏や学校の人々に謝意と別れをつげ出発、神戸に向かう。途中、猟犬を連れた猟師とトラブルがあったが、無事に神戸へ着く。元町の長尾商店で夏用の帽子をもらう。その後、橋本商会を尋ねる。店の小僧とトラブル。外国帰りの少年で英語で応対したため。当初、日本語ができないことを知らなかったため、生意気な小僧と中村は判断した。橋本商会では昼飯をご馳走になる。十三時に橋本商会を出発。十四時三十分に大阪着。大阪朝日新聞社に立ち寄り、自転車世界旅行の話をする。橋本商会大阪出張所にも寄る。二十時に難波の親戚の家に行き、泊る。
十二月一日、難波にある鉄工所の飾秀の親戚に昨日の夜から二日滞在する。
十二月三日、朝飯に雑煮をたくさん食べ九時に出発する。餅と饅頭をたくさんいただき自転車のカバンに詰める。再度、大阪の橋本商会の支店に立ち寄る。非常に歓迎してくれる。支店長の高谷さんが二里程送ってくれる。京都には十四時頃に着く。京都輪友倶楽部の人々の歓迎を受ける。この倶楽部の配慮により、高級旅館に泊ることができた。
十二月四日、朝京都を発ち四日市に向かう。途中、大津から鈴鹿峠までは自転車に帆をかけて走る。かなりのスピードが出る。水口というところの警察署に立ち寄って小休止をする。十二二十分、警察署を出発する。出発の間際に署長さんからたくさんのビスケットを貰う。十五時に鈴鹿峠を自転車で一気に下る。四日市新町には十九時に着く。本日の宿泊場所を探す。当てが無いので警察署や市役所を尋ねたが断られる。市役所の当直員からピンヘッドのタバコを貰う。思案の末、知人宅があることを思い出す。私立三重唖学院の高松清作院長である。そこで、この家を訪ねたところ歓待される。風呂に入ってから遅い夕飯を食べる。0時三十分に就寝。
十二月五日、朝、高松さんの案内で、この学院の教授方法を参観する。行き届いた教育法に感心する。九時に学院を出発する。十一時に木曽川の渡し場に到着する。無銭旅行の旨を渡し守に説明して快諾を得る。木曽川を舟で渡った後、最寄の警察署に寄る。お茶を一杯ご馳走になり、飲料水も貰う。十五時四十分に無事名古屋に到着。それから電気諸機械製造及輸入金物木材雑貨商の角田福次郎の紹介で、アンドリュース・ジョージ商会名古屋支店を訪問する。非常に歓待してくれて、旅館までとってくれる。その晩は洋食をご馳走になる。
十二月六日、早朝に自転車を清掃・整備する。その後、憲兵屯署に向かう。そこで近藤代三郎という人が来て、私の自転車を点検してくれた。スポークが悪いと言って、修繕までしてくれた。その上、ランプの油や機械油の提供までしてくれた。山中鍋太郎という人からは、タバコを貰う。十一時三十分にここを発ち、鳴海に向かう。三里ほど走り鳴海に着く。着いたころにサドルのネジが折れたので補修をする。そして岡崎に向かう。岡崎では飛輪会副会長の千賀千太郎氏方を訪問する。そこにちょうど会長と幹事諸君が来て、近くの料理店でご馳走になる。飛輪会の好意により岡崎一の旅館に泊めて貰う。
十二月七日、出発に際し、岡崎飛輪会のメンバーと記念の写真を撮る。八時四十分に岡崎を発つ。副会長の千賀君、幹事の牛田君ら四名が、会を代表して二里程送ってくれる。その後、御油に到着。警察署に立ち寄り小休止する。昼飯を食って行けと言われたが辞退する。十一時に警察署を出発。豊橋には、ちょうど12時ごろに着く。双輪会の会長宅を尋ねるが生憎留守であった。警察署へ行って、名刺を置き発とうとすると参陽新報記者の河合弘毅氏が来て、自宅へ寄って行けと言われる。河合氏と歓談し、昼食までご馳走になる。15時に河合氏宅を出る。遠州浜松へ向かう。途中、浜名湖を舟で渡るとき強風のため、岩に舟の舵が引っかかる。急遽、私は帆を下ろして櫓を一生懸命に漕ぐ。そして無事に渡ることができた。その時にたまたま沖商会の林五十三という人が同舟していて「君のお陰で助かった」と礼を言われた。浜松に着いたのは、十七時三十分頃であった。警察署に行き宿の手配を頼んだが、断られる。そこで、同舟した林五十三の宿所を尋ねる。よく来てくれたとばかり、歓待してくれる。そして同宿する。
十二月八日、朝八時に浜松を発ち、天竜川の橋に着く。ここの渡守は無銭では通させぬということになり、仕方なく小夜の中山経由で静岡に向かった。何という名前の旅館か忘れましたが、こころよく無銭で泊めてくれた。
(如何いう訳か十二月八日の天竜川から一日ずれてきている。中村春吉氏直話ではこの日は七日になっている)
十二月九日、七時三十分に宿を発ち、なにごとも無く沼津に着く。松本和平という大きな旅舎へ行き、宿泊を依頼したらすぐに快諾してくれた。
十二月十日、朝警察署を尋ねる。署長さんから無銭では手紙を出すのも不自由するだろうと言って、切手をいただく。また宿屋に戻り、箱根のくだりで使用する自転車の背負子を作る。九時二十分に宿を発ち、箱根を上る。箱根を越すときに一滴の水もなくなり苦労する。茶店に着き渇きを癒す。下り坂は自転車を背負って下る。ところがその途中空腹に耐えられなくなり、一軒の茅屋を尋ねる。無銭旅行を説明したところ、こころよく食事を提供してくれた。この親切な人は、神奈川県足柄下郡湯本村字須雲川の安藤寅吉という人だった。元気になったところで、湯本へ下る。福住という旅館を訪ね宿泊を依頼したら、主人は留守で、取込んでいるからという理由で断られる。しかたなく駐在所を尋ねる。ところが後から追ってきた福住旅館の若者が来て、いま主人が帰って来て、なぜ断ったと叱られ、おつれもうしてこいということで来たという。しかし、婚礼があり取込中のことだからと私は辞退した。そして、小田原へ向けて湯本を発つ。小田原に着いたのは二十二時頃になっていた。旅館片野屋を尋ねて宿泊を依頼したところ、混雑しているのにもかかわらずこころよく歓待してくれた。
十二月十一日八時に旅館を発ち、無事に神奈川に着く。自転車の油がきれたので、近くの貸し自転車屋に立ち寄り油をさしてもらう。東京に向かう途中で平岡宗之助という人に会って同行する。十三時に双輪商会の練習所に到着する。この旅行の経験で八時から十六時までに二十五里走ることは容易と分かる。そして長途の旅には必要の物以外は携帯しないこと。
この自転車無銭旅行の旅は、明治三十四年十一月十五日十二時に下関を出発し、明治三十四年十二月十一日十三時に東京に到着している。この長い助走期間と準備があればこそ世界一周も成功させることができたのであろう。
★ 中村春吉の無銭旅行について、当時もいろいろな評価があった。
松田歴山という人は、
無銭旅行、言い換えれば乞食旅行だ。紳士として好ましくない。なぜ金を貯えてから旅に出ないのか。湯本の福住などへよくずうずうしく只で泊めてくれと言えたものだ。天竜川でも橋銭を払わずに渡ろうとした。教育者としていかがなものか。ベルやポンプが三日と経たないうちに壊れるとは、世界を周遊しようとする人の用意とは思われない。縁もゆかりもない宿屋などは気の毒である。このような旅行は中止した方がよい。
と手厳しい。(明治三十五年二月十三日発行の雑誌「輪友」第四号より)
★ 馬関から東京まで無銭により長距離サイクリングをした中村春吉は、いよいよ世界へ旅立つことになった。それは翌年の二月に実行された。
雑誌「輪友」第五号、明治三十五年三月十日発行に次のようにある。
世界周遊者の見送り
世界周遊の自転車乗り中村春吉は去る二月二十二日正午横浜出帆の汽船丹波丸にていよいよ香港へ向け出発したければ那珂会長はわざわざ東京より来り、曽我部幹事長と共に本船まで見送りたり
明治三十五年二月二十二日に横浜を発ったとあるが、押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治四十二年八月十四日博文館発行)では、
汽船は日本郵船会社の丹波丸、時は明治三十五年二月二十五日の午後1時、いよいよ無銭冒険自転車世界一周の目的を抱いて、日本横浜港を出発することになりました。
とあり、三日のズレがある。馬関出発の日付でも明治三十四年十一月十五日と明治三十四年十一月十四日と一日ズレている。どちらが正しいのか今となっては分からないが、とりあえず明治三十五年二月二十二日横浜港出発と明治三十五年十一月十四日馬関出発を採用したい。理由は単にそれらが記述されている資料が古いからである。
明治三十五年二月二十二日、汽船丹波丸にて横浜を出向した中村春吉は、同年の三月十五日に香港に到着している。香港在住の日本人である梅谷正人氏の世話になり、領事館などを訪ねている。領事館での話によるとオーストラリア政府は規則を変更して東洋人の上陸を禁じることになった由で、彼はオーストラリア行を諦めシンガポールへ向かう。 自転車での走行記録は不明で、印度までは殆んど船での移動のように思われる。当時の治安や道路状況を考えれば、当然の結果かもしれない。
★ インド以降の消息を断片的に拾ってみると、
○イギリスのリバプールにて (雑誌「自転車」第三十一号、明治三十六年二月二十八日発行より抜書)
世界一週の自転車乗(下関市の一青年倫敦に入る)
倫敦エキスプレスの記者に語れる所によれば彼は日本山口県馬関の者にて中村某といい自転車の世界一周を思い立ちて既に其一半を終わり先ず日本を発足して支那、印度、露西亜、白耳義、仏蘭西国を縦断し伊太利、土耳古をも訪いたり・・・
(この頃まだ日本国内では中村春吉の自転車世界一周旅行について、それほど話題になっていなかったようである。中村某とあるところを見ると、関心の度合いも分かるような気もする。明治三十七年に押川春浪の冒険小説「中村春吉自転車世界無銭旅行」が『中学世界』に発表されてから彼の知名度は徐々にあがっていった。
イギリスのリバプールにて
○ニューヨークに於ける中村
(雑誌「自転車」第三十三号、明治三十六年五月十日発行より抜書)
米国の「自転車世界」という雑誌に中村春吉がニューヨークに到着したことを報じている。
去る土曜日にニューヨークに現れたり、彼は発熱のため・・・(どうやら風邪をひいたらしい)中村は一九〇一年一一月に東京を出て世界旅行の途に上れり、・・・(横浜港を一九〇二年二月二十五日に出帆したと思っていましたが、スタートは東京だったのか)故郷山口県にては彼は六百人の生徒を有する慈善学校の教師なり、・・・(馬関忍耐青年外国語研究会のこと) 我が用いたるアメリカ製自転車は充分満足を与えたり、・・・(彼がこの世界一周旅行に使用した自転車はアメリカ製のランブラーである。あの志賀直哉も乗っていた自転車である)
★★ なお日本自転車史研究会では、昭和59年1月1日に押川春浪の「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日発行)を復刻出版している。
写真は、一九八二年三月に編纂された、上野動物園百年史本編からである。明治の怪傑男子・中村春吉がインドから寄贈した、シマハイエナとオオヤマネコ、そしてジャッカルを受領したと記載されている。中村春吉さんがボンベイ(現・ムンバイ)から上野動物園に送ってから約八十年後の公式記録に、中村春吉さんの記述(インドから寄贈した)を証明する文言が出現しているのである。
インド横断中に遭遇する、前述した野生動物とのスペクタクルで活劇まがいの格闘劇は、ほぼほぼ真実であったのだ。さらに入手した新資料を読み解いていきたい。そして、今後のインドへの視察旅への予習ともしたいと思っている。できれば、近い将来中村春吉さんが視察旅をした、インド各地を追跡行していきたいものである。丁度二十年前には、明治の同時代にチベットへ向かった河口慧海の足跡学術調査隊に参加した。
明治時代の快男児らの足跡を追尾しながら、現代日本における『欠けているもの』とは何なのかを、旅の空の下で思索してくるつもりである。
これは、明治40年発刊の『実業の世界』という雑誌からである。ここでは、中村春吉は、朝鮮半島での殖民事業展開について自論を展開している。その自論も壮大なものである。朝鮮半島にて五里ごとに一軒の日本人植民家屋を建設するというものである。
また、半島における、農業や鳥類の猟、さらには鉱山開発などについても述べている。特に、鉱山開発については、大隈重信のバックアップを受けて『朝鮮鉱山協会』なるものの設立についても述べているのである。
中村春吉の世界一周旅の主目的は、インドへの商業視察であった。世界一周旅以降には、満蒙や朝鮮半島にて陰の活動が多かったといわれている。確かに軍事密偵説も濃厚ではあるが、この記事のように大陸での商業開発展開という目的も見逃すことは出来ない。
中村春吉と同時期に世界五大陸を旅した中村直吉という人物による『五大洲探検記第二巻』に、写真のような記述がある。
インドのムンバイ(旧ボンベイ)からペルシャ・中央アジアを抜けて欧州へと旅するのを、中村春吉と直吉は一緒に行動しようとしていたようである。中村春吉は、中村直吉のボンベイ着を数か月待機して待っていたそうである。
おそらく、この待機期間中にカシミール地方へとビジネスに出掛けていたのであろう。そして、中村直吉が情報収集した結果、ペルシャ・中央アジア通過にはロシアの許可も必要ということも判明している。
中村直吉が言うには、中村春吉はこれをもって陸路通過を諦めたという。しかし、中村直吉は信念を固くして陸路通過を選んだという。
※ やはり、中村直吉・春吉、と一字違いの快男児は接点が多くある。ただ、記述する際にはヤヤコシイのが難点であるな・・。
2023年4月14日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。