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人は誰でも心に地図帳を持っている。そして自分だけの羅針盤を持ちながら人生という旅を歩んでいる。
昨日までのページには、風雪に耐えた道、陽だまりに包まれた道、歓喜にあふれた道などの足跡が刻まれているはずだ。
しかし、ふと今日という峠から明日の方角を眺めた時、言葉にならない動揺や不安を覚えたことはないだろうか。
それは、「新たな私」というジグソーパズルを作っていく過程で、最後のワンピースがどうしても見つからない時のもどかしさにも似ている。
心の磁場が荒れることによって羅針盤が狂い始め、白紙である明日への道筋を見つめる焦点に澱みが生じ始めるのだ。
そんな時こそ、トラベルセラピーのフィールドへの旅を試みていただきたい。
トラベルセラピーフィールドが有する磁場エネルギーとは、心身のリラックスやデトックスという「解放」「休息」という抱擁力だけではない。
安息の時間とともに、手ごたえ感が回復した魂に蘇生力をインプットしてくれ、新たな人生を奏でるための心身のリズムを調律してくれる。
古代遺跡では時空を超える宇宙感覚を感受し、神話伝承の郷では物語に秘められた世界観と共振するひとときに酔いしれてほしい。
創生時代からの痕跡を残す地では地球の底力に圧倒され、修験道世界の山岳地では神秘的な空気感に身体の微細な細胞を震わせてほしい。
そしてそれらの土地で体感する風のそよぎ、木漏れ日の揺らぎ、清流のほとばしりといった、自然が奏でる旋律に我が身を浸してもらいたい。
誰もがその場に静かに佇むことによって、魂の深層に確実に響いてくる「大いなるモノ」の存在に気づかされることだろう。
その「気づき」こそ、白紙である明日というページの色彩を豊かにさせる羅針盤の主要な修復パーツではないだろうか。
今こそ、出発の刻(トキ)が来ているのではないだろうか。台所やオフィス、教室の窓から心と身体、そして魂を浮遊させる旅に翔び立とうではないか。
私の登山歴は十六歳から始まる。現在、山岳辺境トラベルセラピストであり鍼灸師としても活動する私は、単なる登山・トレッキングの目的地や旅の舞台として、ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域と付き合ってきた訳ではない。
『場(トポス)としてのヒマラヤ』は、その地を訪れるあらゆるタイプの人を、深遠さと温かさ、そして豊穣さをもって抱擁してくれるのを幾度も体感してきた。
また、中国を発祥とする鍼灸の基礎には、移り行く自然の変化と、わが心のありかを皮膚感覚で対峙させる中で生まれた独特の自然観や宇宙観を構築してきた歴史を有する。
古代中国の人は、人間の身体を小宇宙とみなし、「気」という肉眼では見えないエネルギーが出入りする磁場を「ツボ」と呼んだ。
片や、宇宙に浮かぶ生命体としての星・地球にも、人間の身体と同様に磁場としてのツボが存在すると私は思う。
こちらは、人間への癒しと明日ヘの活力を発するエネルギーを流入してくれる土地といっていいだろう。多くは辺境の地にあり、悠久でかつ厳しい自然環境下にある。
文明の恩恵をあまり受けておらず、人々の生活はシンプルで余分な欲を膨らませなくてもすむ場所である。そこは、環境に応じた人々の知恵の結晶である伝統医療が息づいている場所でもある。
それらの土地では、自然の中で心と身体のハーモニーを奏でている人たちが住んでいることを我が目で確認してきた。別の表現をすれば、『幸せの在り処』をしっかり見据えている人たちだとも言える。
私は、これら伝統医療が息づく辺境の土地は、地球のエコロジカルな調和状態を知る定点観測地ではないかと思い、その『場のエネルギー』を感じる養生の旅を続けてきたのだと思う。
だからこそ、「心身の養生場」としてヒマラヤや世界の秘境・辺境地域を捉え、多くの方をその場へと案内してきた。
コンピューターでは管理できない「匂い」や「触感」「味わい」を大切にしながらの、『地球のツボ・世界の秘境辺境』への旅は、今という時代を生きることの意味を探す旅でもある。
「ヒマラヤ・トラベルセラピープログラム」では、
〇 曙光に淡く輝くヒマラヤを前にしたメディテーション(坐臥や歩き瞑想など)、
〇 チベット医学のアムチ(伝統医療従事者)やアーユルベーダの術師からの講習、
〇 曼荼羅制作現場の見学、
〇 パーマカルチャー的ライフを実践するヒマラヤ山村での滞在、
などのエッセンスを組み込んできた。そのヒマラヤでのプログラムでは、時間を厳密に区切ったスケジュールは特には設定していない。
予測不可能で絶えず移ろう「自然環境」の中で、参加者の「心の環境(その時の気分)」をどう調和させてゆくかがセラピストとしての私の腕の見せ所でもあると思っている。
なにも、「心身の養生」や「デトックス(心身の解毒)」を目的とする環境設定は、ヒマラヤなどの圧倒的で壮大な自然環境下だけではない。
古来より日本の各地においては、山、森、巨木、岩、泉、滝、島、岬などには「タマ=霊」や「カミ=守」が宿るとされ自然崇拝の対象ともなっている。
里地や里山、里海とは、人間の俗なる生活の場であると同時に、「浄めの場」や「癒しの場」といった、聖なる非日常空間との結節点でもあったのだ。
虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け山野の香気に全身が洗われる気がする時がある。
自然界のささやかではあるが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのを体得する瞬間がある。その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのだ。
突然降り注ぐ森の木漏れ日に全身が包まれた時や、ふと顔をあげた瞬間に鳥のさえずり音で身体の動きが止まった時などなど。
このように自然界からの恵みを受けながら歩くことは、
「見る」・「聞く」・「匂う」・「味わう」・「感じる」、
という五感を新たに研磨できるだけでなく、
「何ものかに包まれる」とか「何ものかとつながる」、
といった六番目以降の感覚に気づく機会を与えてくれるのかもしれない。
里地・里山・里海・里森といった「里」という文字の付く土地は、大切な何かについての気づきの場ではないだろうか。
秒針が刻むリズムで管理される都市に住んでいると、予測不可能な自然から得られる「手応えのある至福感」といったものは、なかなか感じにくくなってしまう。
自らの五感や直感で感じる「至福感」は、人間の心身や魂に本来内在されている「自然治癒力」をあるべき姿へと導いてくれる源泉ではないかとも思う。
ヒマラヤなど世界の山岳辺境地域から、身近な里地里山での「心身養生の場」の設定・プログラム実践の主目的はここにある。
これまで、山岳・秘境・辺境世界と東洋医学の世界に身を浸してきた者として、『トラベルセラピー(ホリスティック・ツーリズム)』の普及活動が、豊かで成熟した社会の構築への一助になればと願っている。
● ヒマラヤの王国・ブータンの智恵
私が初めてこの国を訪れたのは、一九八〇年代後半。二十歳代後半だった。それ以来、地球の俯瞰的定点観測地の一つとして設定し、これまで十数回の渡航訪問をしている。
ブータンはヒマラヤ南斜面に位置しており、北にチベット(中国)、東西及び南でインドと国境を接する陸封国。
日本のように国境が海に接することなく、北は『世界の屋根・ヒマラヤ山脈』、南は『亜熱帯のジャングル』という自然の障壁に加護されている。
国土は九州くらいの面積で、人口も日本の約二〇〇分の一程度の小さな王国である。三十年弱にわたりこの国の変化を見続けてきた者として言えることは、
ブータンは、『近未来へ向けたホリスティックライフ構築の壮大稀有な実験場』ではないだろうか、ということである。
● 日本人はミラクルである
三十数年ほど前にこの国から来日したチベット仏教の僧侶が私に言った言葉である。広島に来た彼は、原爆投下直後の写真と、現在の街の景観を見比べながら頭を悩ませていた。
悠久の自然景観・ヒマラヤを背後に生活するブータンの人にとっては五十年や六十年くらいで、街の景観や物事の価値観は変わらないのだろう。
当時のブータンの首都ティンプー近郊でも、庶民の家にはテレビなどなく、バザールでの会話や祭りの時などが貴重な情報交換の場でもあった。
現在では、物質文化が徐々に浸透しているが、学生や公務員は日本の着物に良く似た民族衣装を着て、学校生活や執務時間内の仕事をしている。
寺子屋のような田舎の教室では、伝統的な文化や価値観がゆっくりとしたリズムの中で、次世代に受け継がれている光景を目にするのである。
● 国民総幸福量とは
先代の王・ジグメ・ワァンチュック前国王が掲げた、国民総幸福(GNH)という、近代化への速度を抑えた開発施策理念は、第九次五か年計画(二〇〇二~〇七年)を経た上にて、二〇〇八年に発布された成文憲法下でその方針が明文化された。
その柱は四つ。
① 経済発展、
② 文化的遺産の保全と振興、
③ 環境の保全と適切な活用、
④よい統治、
この四つの柱の中でも、最も大切な基軸とされているのが、②と③なのだ。
簡潔に言えば、『山川草木・森羅万象を含む“風土”との共生の上に、先人らが築いてきた伝統的価値観』の基底を忘れることなく、それぞれの時代に対応させていく為に、政治・経済という外的システムを整備していく。ということではないだろうか。
その成文化された憲法を縦軸とし、輪廻転生というチベット仏教の時空を横軸とする、世界で唯一無二の『幸せの座標軸』を設定している実験国家、それがブータンではないかと思う。
● 回旋する幸福感
ブータンでは様々なものが『回旋』する。お祈りの際に廻すマニ車、お祭り時に鹿の面などを被る仮面舞踏、仏塔や聖地巡礼での左廻り歩き、そして善悪所業の輪廻という概念。
何事も直線的・二元的な動きでなく、螺旋型のリズムが精神の深層部分にあると言えるかもしれない。また、ブータンでの伝統的着物は、見事なまでの染色デザインが施されている。
その手織りの現場に立ち会うと、ブータンの人たちの、死生観や宇宙観、幸福観といった目には見えないものが、魂の文様として織物の中に紡ぎ込まれていくかのようだ。
伝統的価値観というものは、口頭や文書で伝わる一方、生活のなにげない営み風景の中に螺旋のリズムで織り込まれていくようにも思えるのだ。
ブータン語(ゾンカ語)で『セムガェ=(心が晴れ晴れとする)』ということについて話そう。ブータンの庶民の人たちに、『どんな時にセムガェを感じますか?』との質問に、
『織物をしている時』
『娘の顔を見ている時』
『親の手伝いをしている時』
『バザールで客と話す時』
『久しぶりに友と会う時』
そして『全ての生き物の安寧を祈る時』
などの答えが返ってきている。
即ち、「関係性の中で、生きている手応えを感じる時」に、セムガェを覚えているのだと感じるのである。誰一人として、個人の所有欲の為に、何かをしている時ではないのである。
● 関係性の場より湧きいずるモノ
物欲などの我欲の達成時ではなく、関係性の“場”の中にこそ幸福感の源泉があることをブータンの庶民は知っているのだろう。
そして、その関係性の”場“とは、なにも現世上の人間関係だけではないのだ。輪廻転生という回旋する時空により結ばれる、過去・現在・未来という生命連鎖の”場“も含まれているのであろう。
さらに、その”場“は、人間という世界に終始することなく、生き物を含め森羅万象との関係性とも繋がっているのだと思う。
そのことは、成文化された憲法の中に、『国土の六十%以上を森林で保全せねばならない』という一節が存在することで証明されている。
その自然との共生に基軸をおいた伝統的価値観は、長寿を描いたチベット仏画(タンカ)にシンボライズされてもいる。
この長寿絵は、WWFとブータン王立自然保護協会(RSNP)が発行した環境教育のテキスト冊子の表紙にもなってもいる。
これらの長寿絵には、生命が長く続くことを祈願し、鳥、鹿、木、岩、水、老人の六つの必須アイテムが描かれている。
自由を祝福し不死である鳥はヒマラヤを渡るオグロヅル、鹿は平和と調和を現し、木は成長と繁栄、岩は不動の象徴である。
老人を長寿のシンボルとし、水が生物界の生命の源であることを示し、その循環に関わる人のあり方を教えているのである。
森羅万象との共生の中で、『手ごたえのある至福感』を体得しながら安寧の長寿人生を送る・・。
この壮大稀有な『ホリスティックライフ構築』への実験を取り組んでいる、ブータンの開発理念と理想像は、すでに中世に描かれた長寿絵の中に塗り込まれていたのである。
★ 田山花袋・花二三ケ所
春の色彩の一番濃やかだつたのは、何と言つても紀州の旅だ、あそこは春の来るのも、花の咲くのもぐつと早い。三月の末にはもはやあたりが菜の花や梨の花で彩られる。
大きな夏蜜柑が黄ろく熟して見られる。蛙が頻りに鳴く。唯、雨が多いが、それも取りやうによつては、却つて春を濃にした。私は今でも終日ぬれそぼちて岨から岨へと歩いて行つたことを、渓に沿つた路を歩いて行つたことを思ひ起す。
高い山の上に花の咲いてゐるのを見て、『いかにして種は生ひけんと思ふまで高き高根に花の咲くかな』と詠んだことを思ひ起す。
また凄じく巴渦を巻いた激湍に花片が絵のやうに淀んでつかへてゐたさまを思ひ起す。山から山。村から村。筏師の定宿になつてゐるわびしい小さい旅舎。
さういふ谷合に花の白く咲き満ちてゐるさまは、とても都の人達の夢にも見ることの出来ないものであらう。私は玉置山から中辺路を通つて、栗栖川から田辺の方へと出て来たが、その春の旅は今でも絵巻のやうになつて一つ一つ私の眼の前に展げられて来た。
★ 寺田寅彦・ロプノール
しかしとにかく現在の人間は、世界の気候風土が現在のままで千年でも万年でもいつまでも持続するように思っている。
そうして実にわずかばかりの科学の知識をたのんで、もうすっかり大自然を征服したつもりでいる。
しかし自然のあばれ回るのは必ずしも中央アジアだけには限らない。あすにもどこに何事が起こるかそれはだれにもわからない。
それかといって神経衰弱にかかった杞人でない限り、いつ来るかもわからない「審判の日」を気にしてその時の予算までを今日の計画の中に組み込むわけにも行かない。
それで政治家、軍人、実業家、ファシスト、マルキシスト、テロリスト、いずれもこんな不定な未来の事は問題にしていない。
それを問題にするのはただ一部の科学者と、それから古風な宗教の信者とだけである。
いちばん仲の悪いはずの科学者と信者とがここだけで握手しているのはおもしろい現象である。
★ 和辻哲郎・古寺巡礼
この心持ちは一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。
心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。
古人の抱いた桃源の夢想――それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、――それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。
しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。
それはわたくしには驚きであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。
★ 若山牧水・渓をおもふ
ぼんやりと机に凭よつてをる時、傍見をするのもいやで汗を拭き/\街中を歩いて居る時、
まぼろしのやうに私は山深い奥に流れてをるちひさい渓のすがたを瞳の底に、
心の底に描き出して何とも云へぬ苦痛を覚ゆるのが一つの癖となつて居る。
蒼空を限るやうな山と山との大きな傾斜が――それをおもひ起すことすら既に私には一つの寂寥である――相迫って、
其処に深い木立を為す、木立の蔭にわづかに巌があらはれて、
苔のあるやうな、無いやうなそのかげをかすかに音を立てながら流れてをる水、
ちひさな流、それをおもひ出すごとに私は自分の心も共に痛々しく鳴り出づるを感ぜざるを得ないのである。
★ ソロー・森の生活
原始の時代における人間の生活の単純と赤裸そのものは、少なくとも、それが彼をまだ自然における仮寓者にしておいたという、この利点をもっている。
食物と眠りとによって元気を恢復すると彼はふたたび彼の旅路を考える。彼は此の世にいわば幕屋に住めるごとく宿り、あるときは谷間をたどり、あるときは広野をよこぎり、あるときは山の頂きをよじつつあった。
ところが、見よ! 人はその道具の道具になってしまった。独り立ちで、餓えた時には木の実をもいでいた人間が農夫となった。
身をかばうために木の下に立った者が家持ちとなった。われわれはもはや一夜をあかすための野営をせず、地上に住みついて天を忘れた。
われわれは心地の開墾ではなくて単に進歩した地上開墾の一方法としてキリスト教を採用した。われわれは今の世界のために家族の住宅を作り、次の世界のために家族の墓地をきずいた。
最高の芸術作品はこの状態から自分自身を自由にしようとする闘いの表現であるが、われわれの芸術の効果は単にこの低調な状態を安楽にし、かのより高い状態を忘れさせるだけであった。
★ 坂口安吾・気候と郷愁
ドイツの暗澹たる雪空をのがれ、太陽をもとめて伊太利へ馬車を急がせたゲーテは、然し恐らく太陽を異国の空のものとしてもとめてゐたとは思はれない。
雪国の暗い郷愁の裏側にはいつも明るい太陽がある。雪国に忘れられた太陽は、その忘れられた故によつて、実は雪国のものなのだ。
雪国に土着する素朴な農夫達の話をきくと、彼等の最も待ち遠いのは春の訪れで、長い冬が終り、始めて青空が光りはじめた爽やかな日の歓喜は忘れることのできないといふ。
まだ根の堅い白皚々はくがいがいの雪原へとびだし、青空に向つて叫びたいやうな激しい思ひに駆られながら、とびまはらずにゐられないと言ふのである。
太陽の歓喜を最も激しく知るものは、実は雪国の人々であるかも知れない。雪国の郷愁の中にはいつも南国が生きてゐるのだ。
人間に気候の影響は甚だ大きい。私は理知の言葉と同じ程度に、気候の言葉を自分の裡にききがちだ。
気候の言葉が我々の裡に生きる限り、我々の理知は郷愁を否定することができないだらう。人間は気候の前では弱小である。
★ 幸田露伴・穂高岳から
時間が脱したようなのであるから、
次第を以て動く余地も無く、ハタと衝当った瞬間に、
吾が目は看ているに相違無く、吾が耳は聞いているに相違無く、
吾が魂は何物かに対しているに相違無いが、
時間というものを除けば万物は静止するような道理で、
吾も吾にあらず、彼も彼ならざるが如くになって、
吾が魂の全部が対境の全部であり、対境の全部が吾が魂の全部であるようになり、
即ち自他一如、心境同融の宗教的光景に入る場合である。
それは即ちアッと云って、
心身脱落したようになってその神境的山岳にたいした場合である。
★ 林芙美子・屋久島紀行
一切の強欲の軋轢の苦役から放免せられてゐる山々
一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地
鋭利な知能を必要とはしない自然
老境にはいつた都會を見捨てゝ柔い山ふところに登りつめる私
私はその樂しみの飽くことを知らない。
額に山の雨が降りかゝり冷してくれる
山の精力が細かな種子になつて降る
蔓どめ、ひこばえ、山うど、鬼あざみ
私は何でも觸つたものをつかむ。
トロッコで凱旋してゐる旅愁。
★ 木暮理太郎・山の魅力から
御来迎は日の出と縁がない訳でもないが、日の出そのものを指して言うのではない。
日の出よりもかえって日の入る時に起る場合の方が多いかも知れない位だ。
つまり日出後一時間或は日没前一時間位の間に、太陽と反対の方向に雲か霧が活動写真の映写幕のように工合よく拡がると、
それへ美しい真円な虹が現れ、虹の中に物の影が映るのであるから、高い山の頂上か又は尾根の上に立って居る時でなければ見られない。
昔の人は自分の影が映っているとは夢にも知らなかったであろうから、稀に之を見た者は仏様が出現したものと信じて、随喜の涙を流したものと思われる。
然しこの現象は昔も今もそう度々たびたびは見られないものらしい。
私も四十年来山登りを続けているが、僅かに朝二度夕方三度と合せて五度しか見たことはないのである。
★ 宮沢賢治・イーハトーボ農学校の春
けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、
見ているとまるでわくわくするよう、
かれくさも桑ばやしの黄いろの脚もまばゆいくらいです。
おまけに堆肥小屋の裏の二きれの雲は立派に光っていますし、
それにちかくの空ではひばりがまるで砂糖水のようにふるえて、
すきとおった空気いっぱいやっているのです。
もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでいられるでしょうか。
そうでなければ無理に口を横に大きくしたり、
わざと額をしかめたりしてそれをごまかしているのです。
★ 佐藤春夫・田園の憂鬱
広い武蔵野が既にその南端になつて尽きるところ、それが漸やくに山国の地勢に入らうとする変化――
言はば山国からの微かな余情を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、
目のとどくかぎり、此処にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、
また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下だつた草屋根があつた。
それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬へば三つの劇しい旋風の境目に出来た真空のやうに、
世紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。
● 物語は縁側からはじまる
人と人、人と自然、人と社会の物語復活へ・・・
私の居住する西中国山地の自治体では、「森林セラピー」を基軸とする「ヘルスツールズム」で町の再生活動を始動してすでに十年以上経つ。いわば、森の恵み、自然界からの恵みを地域おこしの素材にしようとしているのである。
この活発足時に、人材商品開発部会長として関与した私にとっての「町の再生」とは、「生きがい」「人の絆」「幸福感」などの再生からすべては始まると考えていた。
その上で、近隣の都市部や関西圏から九州までを対象にした、「養生の里づくり」までを構想していた。その後、国立大学大学院で健康開発学を専攻し、生物多様性のある自然環境を活用しながらのヘルスプロモーション開発プログラムを研究することになる。
その研究の主軸に据えたのは、生活習慣病予防対策プログラムのひとつとして、一週間程度の滞在スケジュールであった。
写経や座禅、ヨガなどの精神的修養体験や、有機農法での田畑作業体験、そして、森林にてのセラピーや環境整備体験などに参加していただきながら、地域の住民とともに、「 人と人 」「 人と自然 」、「 人と社会 」の関係を穏やかに見つめ直していただく「刻=とき」を獲得していただくような企画案であった。
その「 刻=とき 」を、訪れる側、迎え入れる側がともに共生しながら、「 手ごたえのある幸福感 」を再生し、現代人が忘れつつある「 人生の物語 」を創生することができる「 場づくり 」を、私が創案したヘルスツーリズムの基本理念としたからである。
● 「癒される」ことの意味を深めたい
セラピーとは「癒しの術」とも訳される。日本各地の里地・里山・里川には、その土地で継承されてきた物語が残っている。
その物語は、人々の自然観や死生観、健康観といったものを想起させてくれるものであり、現代の私達に「命の連続性」についても考える「 刻=とき 」を与えてくれる。
森林セラピーやトラベルセラピーにおいて「参加者が癒される」ことは、参加者自身の「 心の再生 」作業であると思う。
と、同時に個の心の「 再生 」が、半径一mで接する他者の心と「 共生 」することに繋がっていき、二つ以上の「 再生した心の共生 」は、社会の新たな「 総有する心の創生 」へと広がってゆくことにならないだろうかと考えるのである。
個が癒されることが、社会をリ・クリエイトすることにも繋がり、結果として多くの他(多)が癒されていく・・。セラピー=癒し、という言葉には、深い意味が隠されているように思う。
● パラダイム・シフトと、未来への伝達へのヒントに
二十一世紀も前半半ばとなり、これまで既存の価値観やパラダイムが、大きくシフトしていると多くの人が実感している。
十九世紀以降の科学万能主義の行きついた末に原子力があったり、遺伝子組み換えがあった。人間の生活を極限まで便利に効率的に、そして思考を論理的に合理的につきつめてきた歴史の中で私達は生きてきた。
でも、個々の「 人生の不可解さ 」は、根本的な解決策が提示されていない。「 不可解 」や「 不思議 」という言葉とどう対峙していいのかが現代人には納得・諒解できていないのではないだろか。
自然現象の多くは、「 予測不可能 」で「 不可解 」であり、「 不思議 」なものである。大きな自然災害などを目の当たりにすると、「 効率 」や「 合理 」は立ち止まらざるを得なくなる。
そこでは、「 温故知新 」がひとつの局面打開へのヒントを与えてくれることもある。
● 新たな縁を結ぶ活動を
一九七〇年以前の農村や山村、漁村での生活は、人間が生きてきた物語と自然が織り成す歳時記が、ホリスティック(全体的)に循環していたのではないだろうか。
私は、すでに百年を経ている古民家に暮らしている。夕暮れ時に、縁側で冷えたビールを飲んでいる際ふと思うことがある。
古い農家の縁側というのは家の内側の人と外側の人をつなぐ新しい「縁」を作る場だったのではないかと…。
家族や親せき以外の外の人が靴を脱がずに気軽に腰かけられる。家の人間がそこへお茶を運び世間話が交わされる、というなにげない「刻=とき」が流れていたのだろう。
新たな縁を作る場所だから、縁側と呼んだのかなとも感じる。そのような「人と人」「人と自然」そして、「人と社会」の縁が、共生し、再生し、創生していける「場づくり」が、トラベルセラピーを通じて実践できればと願っている。
● ヒマラヤにあたる朝陽に思う
『人生観が変わった』という言葉は、日常生活ではあまり多用しないだろう。
しかし、ヒマラヤにあたる朝陽の光景を目の当たりにした時、世代や国籍を問わず多くの人の口からこの言葉が洩れるのはなぜなのだろうか?そのヒマラヤの大自然が織り成す朝陽のドラマは、ものの十分程度のものなのだが・・。
ネパールという国は、ほんとうに不思議な国である。その不思議の国ネパールへの私の渡航回数は、三桁に近づいてきた。それでも飽きることがない。
行くたび毎に、この土地の放つエネルギーによって充電してくることができる。まさにそのエネルギーは、地球(ガイア)が秘めている、人間の心身への効果ある栄養補助剤(サプリメント)ではないかと感じている。
古来より、人間は文明を進歩させることで、過酷な自然から距離をとり始め、安楽に暮らせるようになった。それは、同時に人生から「手ごたえ感」という感覚を奪い取っていく過程でもあった。
いつもどこかに不足感を覚えながら、ぼんやりとした曖昧で不機嫌な空気が漂う日常を過ごしている。
● 「禊」の場としてのヒマラヤ
とある若い女性芸術家の言葉を紹介しよう。
『山を歩いていると、心の棘がぽろりと落ちた、と感じる瞬間がある。その瞬間、日々の生活の中で積もっていた圧迫感や苛立ちから解放され、心が息を吹き返す。
そう、私にとって山は「禊」の場でもあるのだ。「五体と五感をフルに使って楽しめる」というのも山の大きな魅力のひとつだろう。』
山歩きの魅力をこの芸術家は表現しているのだが、この「禊」の場が決定的に現代社会においては不足しているのではないだろうか。
身も心も浄化され、なにか「大いなるもの」に抱かれた、満ち足りた気持ち・・。「禊」の場で得られるのは、このような至福のひと時ではないだろうかと思う。
ヒマラヤにあたる朝陽が織り成す、一瞬の自然のドラマを見終わった時に、人々の口から洩れる「人生観が変わった」という言葉は、「禊」の場で体得した至福感から発せられていたのではないだろうか。
私もヒマラヤ山中で幾度もこの「至福感」を体感してきた。その至福感は、私の身体に潜在している「自己治癒力」をあるべき姿へと導いてくれる。
● 未病を防ぐ処方箋
ここ近年の自殺者数は、減少することなく三万人前後の大台を記録している。心の病に悩む人や生活習慣病に苦しむ人も多い昨今である。
自分の満足感というものを、絶えず他人と比較することで確認しようとする生活は、エンドマークのない追跡劇を演ずることになる。
追跡の先にあるのは、「手ごたえの無い幸福感」。そこでは、おおいなるモノに抱かれる極上の至福感を味わうことはできない。
味わえるのは、他人への嘲笑と自分へのエクスキューズくらいである。問題は、これらの味が人間の心身や社会に与える「病の連鎖」を構成してゆくことである。
「未病を防ぐ」とは、東洋医学の大きな柱でもある。自己治癒力を高め、疾病に罹患しないような体質改善をおこなうことが、「未病を防ぐ」ことに繋がる。
ヒマラヤにあたる朝陽のドラマのみならず、故郷の小さな里山で出会う一瞬の自然が放つ輝きからも、私達は「なにが大切なものか」ということに気づかされることがある。
山や自然を愛すると自称する者たちは、自然からの恩恵を社会の未病を防ぐための処方箋として、自分たちの住む社会に還元してゆくことが問われているのではないだろうか。
● ヒマラヤ養生塾・ホリスティック・ツーリズムの夜明け
プロの山岳ガイドと鍼灸師である私は、単なる登山やトレッキングの目的地として、ヒマラヤと付き合ってきた訳ではなかった。
「場としてのヒマラヤ」は、その地を訪れるあらゆるタイプの人を、深遠な光と温かい豊穣さをもって抱擁してくれる。まさに、「地球」という名のドクターからの処方箋(ガイア・サプリメント)ではないだろうか。
私が主宰する「ヒマラヤ養生塾」では、ネパールの各所(ヒマラヤ山中・タライ平野・ルンビニなど)を実施場所にしている。
これらの各地を、「心身の養生の場」の環境として設定してから、すでに三十数回にわたり養生塾ツアーを実施してきた。
● 女性参加者の多様なユニークさ
これまでの参加者の多くは三十歳代~五十歳代までの女性が主である。昨今の日本の山岳地にも若い世代の女性の姿が目立つようになった。
各種企画内容でも、「星空観察」や「山麓音楽会」など彼女らにとって親近感を覚えるイベントが目立っている。
私が主宰しているトラベルセラー国内プログラム(里地や里山、里海にて)にも同年代層の女性が多く参加している。
国内の日帰り企画やヒマラヤ養生塾に参加する若い女性達のほとんどは、いわゆる「登山」の素人たちである。そして「山へ向かう動機」は、「頂上を目指す」のではなく、「デトックス(心身の解毒)」や「心身の養生」が目的なのである。
心身のデトックスや養生を求めて里地・里山を歩き始めた三十歳代~五十歳代の女性達は、フットワーク軽く、そのコンパスの延長線上には、いとも簡単に世界の屋根・ヒマラヤを設定する。
中高年以上の世代が、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでヒマラヤ行きを決行したのは、すでに昔物語になっている。
そしてヒマラヤ山麓での彼らの行動はなかなかユニークなものだ。
朝陽に輝くマチャプチャレ峰に向かって「太極拳」を始める人。
乾燥した水牛の糞が点在する牧草地で、ビニールシートを広げていきなりの瞑想タイム。
着ぐるみ状態でもブルブル震えながら、寝不足への心配も関係なく、満天の星空を見上げ、流れ星の数をいつまでもカウントする。
また、現地の子供達に話しかけ、即席でのネパール・日本友好「歌と踊りの交流会」がはじまる。
至るところで笑顔が輝き、笑い声が弾けている。
● 主役は参加者自身である
ヒマラヤ養生塾では、時間を区切ったスケジュールは特にない。予測不可能で絶えず移ろう「自然環境」の中で、参加者の「心の環境(その時の気分)」をどう調和させてゆくかがコーディネーター役としての私の腕の見せ所でもある。
あくまで主体は参加者自身。私は「養生の場ヒマラヤ」という大きな舞台の裏方さんなのである。
現代の日本は大きな転換点に差し掛かっているように思う。これまでの価値観が崩壊し始め、共有される常識というのも減少してきている。
隆盛を誇ってきた産業や分野が、見えないネット世界という巨大な怪物の前で頭を垂れ始めている。
従来の考え方が通用しなくなった時に、人々は過剰な苛立ちと不安を覚える。近視眼的な流行や情報に右往左往することで妙な安心感が漂う社会。
哲学者・内山節氏は「都会にあって、里には無いもの」として「穏やかな不機嫌さ」を挙げる。私達は、家庭や職場、学校そしてテレビの前で、毎日ぎこちない笑いをしながら、その背後に潜む「穏やかな不機嫌さ」に自らが怯えているのではないだろうか。
● ナニモノにも替えがたいモノ
ここ数年、里地・里山からヒマラヤまで出かけ始めた若い女性たち・・。彼女達と接していると、「穏やかな不機嫌さ」からのエスケープ(一時避難)やリフレッシュ(再度調整)を希求していることがヒシヒシと伝わってくる。
経済成長神話が通用していた時代に、人生の成功フレーズとして言われていた「何者かになる」というフレーズではなく、「ナニモノにも替えがたいワタシ」を彼女達は模索している。
その行為は、若い女性だけでなく、全ての世代に共通している現代の課題なのであろう。その模索の場所として「里地・里山」や「ヒマラヤ」をはじめとする自然が選ばれているのである。
予測可能な人生や社会は、安定や安心を獲得することはできても、予測不可能な自然から得られる「手応えのある至福感」は、なかなか感じられにくくなっている。
自らの五感で感じる「至福感」は、人間の心身心に本来内在されている「自然治癒力」をあるべき姿へと導いてくれる。
「ヒマラヤ養生塾」の主目的はここにある。山岳世界と東洋医学の世界に身を浸してきた者として、豊かで成熟した社会の構築へ一助となればと願っている。
● 謎の空中都市・マチュピチュの魅力
インカ帝国時代の遺跡・マチュピチュは、幾度かトラベルセラピーの目的地として設定したことがある。日本人が一番行ってみたい世界遺産の第一位。なぜなのだろうか?
その謎に満ちた歴史的背景なのか? アマゾンの源流近く、アンデス山脈の深い渓谷の奇怪な地形的景観ゆえか?
明確な理由がある訳ではなく、日本人のロマンをかき立てる素地には、次のフレーズが言葉の刺繍として織り込まれているような気がしている。
『子供にとって、(知る)ことは(感じる)ことの、半分も重要ではない』 …レイチェル・カーソン
● 空中都市へと向かう
アマゾン河に注ぐ濁流が渦を巻いていた。山肌につけられた、つづら折りの道をバスが喘ぎながら上ってゆくと、その遺跡は山の頂に忽然と姿を現した。
「マチュピチュ」とは現地の言葉で「老いた尾根」を意味する。それに対して「若い尾根=ワイナピチュ」とは、私達が遺跡の写真でよく目にする鋭角の三角形の峰をさす。
現在ではその遺跡の存在意味を「神々との交信の役割を担っていた巫女たちの隠居場所ではなかったか・・」という説が有力となっているらしい。いずれにしても、諸説乱れ飛ぶのは遺跡発見当時からの常である。
でも、訪れるたび私は、しばし空想の世界に心を遊ばせている。解説書や歴史書などを丹念に読んでから訪問する人も多くいるだろう。
しかし、私は前述した、レイチェル・カーソン女史の「センス・オブ・ワンダー=不思議を感じるココロ」を取り戻す作業を遺跡の中で行いたいのだ。
現代の生活は、日常の隅々まで情報が溢れている。子供の素朴な疑問にも、パソコンでキー操作すると、短時間で科学的な答えを引き出すことができる。
しかし豊富な情報がある生活は楽で便利だが、自ら考えることなく、解答を性急に求めてしまいがちになる。空想は、自分勝手な想像の世界であり、正解を求めるためのものではない。
だからこそ、日常の生活の中に自らの力でファンタジーの世界を作り出せるのだ。子供にとっては、毎日が謎や不思議に満ちた時間なのだろう。そんな彼らは、自分だけの小さな発見に驚きの表情を隠さない。
● センス・オブ・ワンダー
私だちのようなトラベルセラピストは、自然と接する機会が多い生活を送っている。私たちの前には、「予測不可能」な世界である「自然(じねん)=自ずから然りなり」が展開している。
東洋的な死生観にも通ずる「自ずから然りなり」・・・。まさに私達日本人の山岳自然に対する敬虔な心情を見事に現してもいる。
知識で納得するのではなく、感性で「諒解する」ことの深い意味をマチュピチュなどの歴史的謎空間は教示してくれているのではないだろうか。
旅や自然を愛すると称する人間の前にも、マチュピチュほどではないが、日常生活においてもワンダーな世界が待ち受けている。
残念ながら、多くの人は、そのワンダーな世界を見過ごしてしまっているのだろう。というより、ほとんど関心のない生活ぶりとなってしまっているのかもしれない。
自然の前では、人間は静謐な時間と真摯な心持ちを取り戻せる可能性を秘めているからこそ、自らの人生の意味を「自ずから然りなり」と諒解することもできるのではないだろうか。
● 山田寅次郎から学ぶ異国でのセラピー
明治という時代が輩出した痛快人生を確認する旅に出た。向かう先は、アジアとヨーロッパの接点トルコである。
明治時代に単身トルコに渡り、日本とトルコの友好交流の礎を創った人物…、山田寅次郎の軌跡がイスタンブールにある。
明治という時代は、痛快な人生物語を幾つも輩出している。チベットに向かった河口慧海や能海寛、単独無銭自転車世界一周した中村春吉などなど。
私はヒマラヤにて、とある山岳団体の学術調査隊員として河口慧海の足跡を辿り、御手洗(広島県大崎下島)出身の中村春吉の足跡をインドに求めた。
トルコにて山田寅次郎の足跡を辿ることは、私にとって明治という時代の胎動を追跡し体感する三番目の旅となった。
● エルトゥールル号、秋山真之、山田寅次郎
歴史を語るに「if(イフ)」は禁物である。が、ハプニングとその後の展開・結果の因果関係が奇跡にも近い場合、「if(イフ)」を使用し比喩したくもなる。
明治二十三年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本沖にて遭難しなければ、日本は今頃ロシア領土になっていたかも…」と。
遭難救助されたトルコ軍人を支援する為、若き山田は全国を演説行脚して多額の募金を集めてオスマン皇帝へ献上しに単身イスタンブールへと渡る。
一方、救助された軍人を本国へ送還する軍艦に若き海軍将校・秋山真之が乗船していた。山田はオスマン帝国から懇願されて現地に逗留し貿易商店を経営し、秋山は近未来のロシアとの戦争におけるボスポラス海峡の重要度を我が目で確認した。
ここから歴史はダイナミックな物語の展開を見せる。
● 天気晴朗なれど波高し(東郷平八郎の打電文の一部)
明治三十八年五月二十七日、日本海海戦を前にロシアのバルティック艦隊を発見し、東郷平八郎司令官は大本営に打電した。
この海戦の勝敗が日露戦争の分岐点となったことは周知の事実である。しかし、その前にもっと大きな分岐点があったことはあまり知られていない。
その分岐点に関与した人物が秋山であり山田である。そして分岐点は、ボスポラス海峡を望むガラタ塔と呼ばれる場所が関与していた。
ボスポラス海峡を見た秋山にとって、海峡北側にある黒海を拠点とする「ロシア黒海艦隊」の動きは海戦の趨勢を決する大きな要因であると強く感じていた。
そして現地では、軍部からの依頼を受けた山田が毎日のようにガラタ塔に上り、海峡を往来する艦船・商船を監視することになったのである。
結果としては黒海艦隊は海峡を通過せず、日本に向かったのはバルチック艦隊のみだった。東郷の打電文の影には、単身異国にて国家の将来の為に粉骨砕身した男の物語が隠されているのである。
● 豪放磊落な人生軌跡とは
山田寅次郎は、その後日本に帰国して東洋製紙(現在の王子製紙)を大阪にて起業し、関西の財界の重要人物となる傍ら、茶道宗徧流の第八世家元として茶道界の重鎮ともなった。
彼の人生を短文で紹介することは無茶というものである。そもそも、「無茶苦茶に痛快な人生」を整理することの無意味さも感じる。
この山田といい、晩年は「霊動法」というちょっと怪しげな精神修練術の中興の祖となった中村春吉といい、現在では死語にも近い「豪放磊落」という言葉の具現者達ではないだろうか。
では、どうして明治時代には、豪放磊落な男たちが輩出され、現代では私も含めて、安心安全ではあるが軽薄小粒な人生のオンパレードなのであろうか。
おそらくやその背景には、明治時代の多くの行動者達が抱いていたであろう、利他の精神と高潔な大志があるのではないだろうかと思う。
このように、過去に生きた、一般的には無名の人物群像を辿る旅は、私たちに大きな教訓を与えてくれる。そして、自分自身が、どのような人生遍歴に感動を覚えるのか、ということも再発見できるのではないだろうか。
それは、翻って自身のこれからの人生における、良質のスパイスを得ることのできる、トラベルセラピーとは言えないだろうか。
● ドイツ人気質と日本的自然感
ドイツは昔からゲーテやベートーベンなど芸術家や哲学、文学者を多く輩出してきた国。その伝統は医学分野でも顕著である。
現在、予防医学やリハビリ分野において、自然環境を活用した「気候性地形療法」という分野にスポットライトがあたりはじめている。
その事情視察に一度、現地視察に出掛けたことがある。昨今、日本においても里山環境や登山という行為を活用した、自然治癒力向上や生活習慣病予防対策などの研究が進んできている。
ドイツはその先進国であり、原子力発電政策や環境保全政策においても世界をリードしている。そこには、ドイツ人気質といってもいい文化的背景があるように感じる。
明治時代、医師でもあった森鴎外が、ドイツ語の「ナツール」という言葉を「自然(じねん)」と翻訳したことから、日本語の「自然(しぜん)」概念が誕生する。
ドイツ人的気質では、自然を論理的に解釈していこうとする。ワンダーフォーゲルの語源はドイツ語で「若者に、野山を彷徨しながら哲学することを薦める運動であった」と聞く。
自然と対峙しながら自らの内面構築を図るのであろう。それに比して、日本人の自然に対する姿勢は、「自然(じねん)=自然と融け合い、一体化しながら共生する」という自然哲学がその背景にあるように思う。
● 気候性地形療法とは
ドイツアルプスは、ミュンヘンの南・オーストリアとの国境に展開する。その山麓にガルミッシュ・パルテンキルフェンという町がある。
晩秋の暖かい日差しの中、気候療法士が同行指導するプログラムに参加した。指導者は、二十四歳の美形スポーツマンタイプ。
気候療法士の資格を得るには、医療系もしくは運動系の国家資格を有しながら、特別講座の受講が義務づけられている。
ドイツ最高峰の山麓にあるアイブゼーという湖を一周するプログラムは、意外にも速歩に近い運動療法的コースであった。
参加者の中には、医師の処方指導を受けてプログラムに参加した年配者夫婦やスイスの山岳ガイド協会の重鎮、そしてドイツのリハビリが専門の医者などがいた。
ドイツでは気候性地形療法を受診する人への保険の適応が考慮されている。その他、クナイプ療法、温泉療法、音楽療法などなどの代替療法にも一部保険が適応になっているとも聞く。
ドイツではこのように、自然環境を活用しながらの予防医学やリハビリへの展開が新たな取り組みとして注目されているのである。
ドイツのみならず欧州の多くの国が、独自の自然環境を活用しながら、医療・教育・地域再生などのプログラム推進に取り組んでいる。
それは、人間の身体感覚を超越した、科学技術文明のさまざまな災禍からの再生や創生への模索の現れといっても過言ではない。
● 日本の里地・里山の今後について
歴史的に見ても、我が国では温泉湯治などの転地療法が盛んであった。温泉湯治場の多くは、奥山深い場所にあったが、アクセスの改善により現代では「里地・里山ゾーン」に含まれてきている。
日本の「里地・里山ゾーン」は自然からの恵みを享受しながら生活を営む場であり、心身の機能や状態の養生の場でもあった。
それは、日本人の自然観や死生観、人生観の大きな背景にもなってきたのである。名古屋で開催されたCOP10(生物多様性国際会議)以降は、日本語の「里山=SATOYAMA」が、その概念とともに国際語として普及するよう環境省が力を注いでいる。
自然環境下での活動(登山のみならず里山保全活動や地域再生)に関与する者の戒めの言葉としては、「ひと時の流行に左右されることなく、世紀を跨ぐ理念をもつ」ことではないだろうか。
山スカートを穿いた女性の存在は、数年の流行りで終了してしまった。そんな流行りに一喜一憂するのではなく、自然界からの「おおいなる声」というものに真摯に耳を傾けるべきではないだろうか。
私が居住する中国山地は、永年の長きにわたり、「踏鞴(タタラ)製鉄」の文化が蓄積されてきた。一見、自然と対峙するかのようにも思えるこの製鉄技法からは、「人間と自然」との共生の在り方へのヒントを学ぶこともできる。
意外にもトラベルセラピーの処方箋は足元に点在しているのかもしれない。
● ルンビニとは
ネパールと聞けば、多くの日本人は「ヒマラヤ」を想像するのだろう。しかし、諸外国人のイメージの中では、ヒマラヤのみならず、灼熱のジャングル地帯、そして宗教聖地を数多く持つ多種多様な国、なのである。
二〇〇九年二月にも、ネパールを訪れていた。その際の主な目的は、お釈迦様生誕地・ルンビニでの平和法要ならびに、広島平和公園内にある菩提樹の種の現地での植樹であった。
お釈迦様の生誕地・ルンビニがネパールにあることを、意外にも知らない人が多いのに少々驚きを隠せない。それだけ、日本社会から「信仰心」というものが欠落している証拠でもあるのだろうか。
約二五〇〇年前にお生まれになられたお釈迦様ゆかりの遺構群や諸外国から寄進された寺院群などが林立する平和公園は、丹下健三氏の総合プロデュースによるものである。
仏教に関心のある方であれば、遺構群への巡拝のみならず、各国の寺院建築様式を比較する楽しみもある。
● ヒマラヤという言葉の語源
私たちが、当たり前のように記述している「ヒマラヤ」という言葉。語源はサンスクリット語の「ヒマ・アラーヤ」。言葉の意味は「白い雪の住処」である。
聖地・ルンビニからも、よく晴れた日には、遥か北方に、白銀のヒマラヤを望むことができる。ルンビニは三月くらいから、日中気温が三十度を上回り始め、最暑期は四十度を軽く超える猛暑となる。
お釈迦様の時代にも、酷暑の下、遥か北方に「白い雪の住処」を眺めていたのであろうか?
● 約二億五千年前の大陸プレートの衝突隆起に起因する
ネパール南部ルンビニの標高は約一〇〇メートル程度。ルンビニが位置するタライ平原のジャングルには象やワニ、虎や犀なども生息する。そんな亜熱帯性気候の大地から遠望する「ヒマ・アラーヤ」。
チベット仏教の一説には、ヒマラヤそのものが「立体曼荼羅」であるとも言われている。確かに、ルンビニから遠望すれば、ヒマラヤが須弥山のように想念されもしよう。
そのヒマラヤが隆起山脈となったのは、地球の大いなる『営み』の成果なのであり、その営みは現在も継続されている。その継続活動は、『地震』となって現代人の眼を覚まさせてくれるのであるが・・。
約二億五千年前、ユーラシア・プレートとインド・プレートが徐々に接近し、ついには大陸同士が衝突するのである。
その時に生きていたら、さぞかし巨大で破壊的な音響を耳にしていただろう。その大陸同士が衝突した接触面は、メリメリメリと隆起を繰り返していくのである。
その隆起した接触面の一番高い場所では、なんと八〇〇〇メートルを八四八メートル超えるほどになったのである。
その場所を後世の人類は、世界最高峰・エベレストと命名したのである。よって、この最高峰はまだまだこれからも、その標高の数値を変えていく可能性もあるのだ。
● ルンビニの現状
そんな地球の営み・ヒマラヤ山脈を遥かに遠望する聖地・ルンビニ。現在は、仏教徒やヒンズー教徒以外の他宗教信者の数が日増しに増えているのである。
それは意外なことに「イスラム教徒」なのである。インド国境が近いので「ヒンズー教徒」と思われがちだが、インドからのイスラム教徒による入植のスピードが増している。
ルンビニの中心となる平和公園周辺を離れると、イスラムのモスクが目に入り始める。黒い衣装で全身を覆った女性の姿も目にする。
この入植者たちと古来タライ平原に居住していた原始宗教を信奉する「タルー族」との間で葛藤も生じ始めている。
タルー族が権利主張の為におこなう「パンダ(交通ストライキ)」が突然予告なしにあったりするが、そこまでの大事には至ってはいない。
現地の知人は、「イスラム教」も「原始宗教」も「ヒンズー教」「キリスト教」もルンビニは歓迎している、と語ってくれた。
世界中には「聖地」と呼ばれる場所が数多く存在する。ルンビニは、宗派を超えて世界中の仏教徒にとっての根源的な魂の聖地である。
人々の 「祈り」の思いが蓄積した場であるルンビニは、世俗社会の持つ「怒り」や「悲しみ」や「醜さ」などの負のエネルギーを浄化する磁場作用があるのではないだろうか。
「山は静かにして性を養ひ、水は動いて情を慰す」(松尾芭蕉)
「性」とは人の心の本体、「情」は人の心の作用を意味している。静の山に向かえば心そのものがゆったりと養われ、動の水を眺めれば心の憂いが癒されるということである。芭蕉は逍遥の旅道中にて、人の心身状態を健全にする場の力が、山水世界にあることを体得していたのだ。
「山紫水明」、「花鳥風月」といった日本の風土を表現する熟語も、そんな自然が持つ漠然とした、掴みどころのない霊力を言霊に変えたものと考えられる。
科学が万能でなかった時代の人間のほうが、自然の持つ霊力を素直に享受していたことだろう。
森羅万象の出来事と交歓し合うなかから編み出された旅日記や歳時記、伝承物語には、人々の自然観や死生観、幸福感などのエッセンスが包み込まれている。そんな、場の霊力を感じる山水世界の多くは、日常とは対極にある「辺(ほとり)」の土地にある。
「辺=ほとり」とは
古代漢字学で著名な白川静氏は、「辺」の旧字体である「邊」の語源を紐解いた際、境界への呪禁とする意味も導き出している。
すなわち異界・魔界、神域・聖域との接点としての場が、「辺=ほとり」ということだ。古来より人は、日常と対極にある空間、「端っこ、へり、隅」への憧憬の念を抱いてきた。
それは、信仰登山や熊野参詣、お遍路巡りなどの聖地への旅に象徴されている。しかし、非日常と接する場所はなにも聖地だけには限らなかった。
万葉人は野辺や山辺に出掛け、心を遊ばせ歌を詠むことで、身辺の彩りを豊かにしてきたのである。その背景には、非日常との接点、「辺=ほとり」が有している場の霊力がある。言ってみれば「辺の風景」とは、人間の魂を癒す原風景であり、なぜか郷愁をさそう景観ではないだろうか。
その場に佇むと、先人たちの祈り、願い、憧れなどが無言のうちに蘇り、喧騒と多忙に消耗した自分自身が救済される思いがする。
日常への内省を促してくれ、同時にひと時の安息も与えられる。そして蘇生、再生、復活への道へと導いてもくれるのだ。
里とは不思議な言葉である。「土」という文字の上に「田」がのっかかっているようだ。
「土」とは万物の源のひとつであり大地の持つエネルギーといってもいいだろう。その上に「田」という人の営み風景がのっかかるのである。
すなわち、「里」とは、自然界の土俵の上でなされる人間の営み世界と思うことができる。
古来より日本の各地においては、山、森、巨木、岩、泉、滝、島、岬などには「タマ=霊」や「カミ=守」が宿るとされ自然崇拝の対象ともなってきた。
里地や里山、里海とは、人間の俗なる日常と聖なる非日常とが入り混じる生活の場であると同時に、「浄めの場」や「癒しの場」でもあったのである。
虚心になり森羅万象の恵みの中で歩いていると、体中から娑婆気が抜け山野の香気に全身が洗われる気がする時がある。
自然界のささやかではあるが、営々と続いている大いなる命のハーモニー風景に出逢うことにより、身体の隅々にある微細な細胞群が喜びに溢れているのが体感できる。
その命のハーモニー風景との出逢いとは、ちょっとした刹那で起きる偶発的瞬間なのである。
このように自然界からの恵みを受けながら歩くことは、「見る」「聞く」「匂う」「味わう」「感じる」という五感を新たに研磨できるだけでなく、
「何かに包まれる」や「何かとつながる」、といった六番目以降の感覚に気づく機会を与えてくれるのかもしれない。
里地・里山・里海・里森といった「里」という文字の付く土地は、大切な何かについての気づきの場ではないだろうか。
里とつく名前のフィールドは、トラベルセラピーの実践場として有効性を維持し続けている。特に、人々の『心のふるさと(里)』は、人生の原風景的な存在ではないだろうか。
世阿弥が島流しにあった佐渡を訪ねたことがある。
佐渡ケ島では、一般人によって能文化が継承されている。
その多くは、地元の神社境内での夜間の演能となる。電気での照明ではなく、松明の火の粉が舞う薪能となる。
京都などの都においても、能が演じられるのは野外に設定されるものであった。
そして演じられる時間の多くは、写真のように宵闇せまる頃であったと聞く。夜の帳がおりるころ」とはよく言ったものである。
『帳(とばり)』という「時の結界」が解かれることにより、二元的世界の境界をぼかし始めるのだろうか。
有縁と無縁、日常と非日常、善と悪、愛と憎、男や女、などの二元的世界の境界からの解放の瞬間、魂において大きな迸(ホトバシ)りが発するのかもしれない。
その魂の迸りが、現実世界とは遊離した幽玄な幻想世界を舞台上にて描き出すのであろう。
帳(とばり)とは、現実世界から幽玄世界への扉にかかる幕(膜)のようなものなのかもしれない。
九州の地図を眺めると、この国東半島部分だけが「たんこぶ」のように突き出しているのがよくわかる。
その、たんこぶ様の半島全体が円に近い火山地形であり、標高七二一メートルmの両子(ふたご)山さんを頂点とする火山群の噴出物で形成されている。
その後堆積した土壌が侵食され、大きく六つの谷となって放射状に海岸へ延びたとされている。六郷満山の六郷とは、その六つの谷に開けた郷、
「武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)」、を意味している。
その六郷の地で、宇佐神宮での八幡信仰と天台系修験とが融合し、独自の宗教文化・六郷満山文化を育んでいったのである。
火山という地殻エネルギーの上に、神仏習合の山岳仏教文化が華開いたのだ。この地の修験道は、越前の白山、山陰の大山などと同じく、約一三〇〇年前頃からスタートするのである。
国東半島は、地殻の巨大なウネリの上に、人々の祈りのウネリが重層的に蓄積している土地である。
この地への旅人は、『地球と人が織りなした営みのウネリ』が放射する磁場エネルギーが、足裏から脳天へと突き抜けることを体感することだろう。
(日本の霊性・鈴木大拙著)より
生命はみな天をさしている。が、根はどうしても大地におろされねばならぬ。
大地に係わりのない生命は、本当の意味で生きていない。
天は畏れるべきだが、大地は親しむべく、愛すべきである。
大地はいくら踏んでも叩いても怒らぬ。生まれるのも大地からだ。死ねば固よりそこに帰る。
天はどうしても仰がねばならぬ。自分を引き取ってはくれぬ。
天は遠い、地は近い。大地はどうしても母である、愛の大地である。これほど具体的なものはない。
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大湯環状列石は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡である。
古代遺跡への旅には、時空を超えるダイアローグがある。
それは、風や土との接触から発せられる『声なき声』に耳を澄ますことからはじまる。
その『声なき声』は、古代人が踏みしめた大地や、意味をもって配置された石に刻み込まれている。
ヒトにとっての母なる根とは、時空を超えて聞こえてくる『声なき声』のことではないだろうか。
なぜ阿蘇にこれほどまで魅入られるのだろうか・・。未だ明確な解答は言語化できていない。ここは、巨大な阿蘇カルデラの外輪山。幾度もこの場所に佇んだことがある。佇みながら、阿蘇に惹きつけられる理由(わけ)を探してきた。が、それは意味の無い作業だと、この日没光に包まれた時に気がつくのである。
柔らかな血潮のような没光を浴びた噴煙は、まるで炎の舞龍の如く、東の宙へと無限の尾を延ばしていく。無限の尾を宙へと伸ばす龍の頭部は地底深くにあり、燃え盛るマグマの炎玉を咥えているのだろうか。
地底と宙とを結ぶ巨大な舞龍は、阿蘇に魅入られる理由(わけ)を探す行為を見事に粉砕してくれるのである。このような時空では、地球の胎動に我が身を委ね、地底と宙のバイブレーションに身体の細胞群を静かに共振させたい。
本州最北端に位置する青森県下北半島は、鉞(まさかり)の形をしている。その右上部にあるのが、尻屋崎と呼ばれる岬である。
本州最北端での早暁風景を求めて、暗闇の中を延々と車を走らせたことがある。東の空がしらじらとし始めると、気持ちも焦り気味になってきていた。
そんな時こそ、情報としての日の出時間ではなく、刻まれるトキに身をまかせようとハンドルを握る力を緩めていた。
尻屋崎漁港に到着すると、海鳥が活動をはじめる鳴き声に迎えられた。鳴き声に誘われるように、海辺近くにある小さなお社に登ってみた。
丁度その刻(トキ)のことであった。海へと突き出された鳥居の中から日の光が射し込んだのである。
地元の漁師らが幾度となくこうべを垂れた鳥居は、しばし映画のスクリーンに変身していたのである。
時間と時刻は元来別の意味背景を持っていたのではないだろうか。
時間とは、時(トキ)の間(アイダ)を計る量的なものであり、人間の計らいから生まれている。それに対し、時刻という言葉は、時(トキ)を刻(キザム)という質的なものである。
その人の心象風景に記憶という時(トキ)が刻まれるのは、人間の計らいを超える大いなる営みに身を委ねるからではないだろうか。
『ナギサ』、とは不思議な時空である。水際(みぎわ)とも言う。水際を英語に訳すると『Water's Edge』。
まさに、何かと何かのキワ(際)という時空である。渚に佇むという行為は、自己をボーダレスの時空に没入させることなのかもしれない。
海と陸とのボーダレス時空であるNAGISA。寄せては返す波によって、そのキワ(際)は、いつも洗い浄められている。
遥か彼方にあった太古の時代、生物の祖先は海から陸へと、このキワ(際)を恐る恐る歩んだことだろう。
その歩みは進化への旅と後付けされているが、彼ら自身にとってはボーダレス時空への素朴な好奇心ではなかったろうか。
そう、全てのイキモノには、ボーダレスというキワ(際)の時空に対して身が震える感覚が組み込まれている。
聖と俗のキワ(際)で信仰や宗教が生まれ、善と悪のキワ(際)にて倫理や哲学が語られてきたのかもしれない。
日暮れ時の、ナギサに佇む旅とは、これまでの自分と、まだ掴み切れない明日の自分を見つめるボーダレス時空への旅なのだろうか。
そんな、ナギサに佇む旅からは、Edge(エッジ)の効いた閃きが生まれる可能性を感じるのである。
写真は、北部九州のとある海岸である。古代この海岸には、大陸や半島からの渡来人が漂着している。古代人たちも、同じような日没風景に接していたはずであろう。
日本は恵まれた国である。というのも四方を海に囲まれた島国であり、『ナギサ』はどこにでも存在している。
貴方の住む地域の海辺にも、そして貴方のココロの内側にも、『ナギサ』は存在している。そして、絶えまなく打ち寄せるさざなみの音色を放ちながら、あらゆる人をキワの時空へと誘っているのだろう。
昨今の海外への旅では、交通の便が良くなり、秘境の地へも短い日数で行けるようになっている。自宅を出発した日の夜、ヒマラヤの山麓で地酒を飲むことも可能である。
衛星回線のお陰にて、アマゾンの奥地で蚊に刺されたかゆみを、リアルタイムで日本のわが家へ伝えることもできるだろう。
非日常世界である海外との距離がますます短くなりつつある時代。だからこそ日常におけるチョットした変化への視線を磨きたいと思う。
例えば早めに帰宅するときの電車の中。スマホばかりに目を落とすのではなく、普段は見ることのない窓の外の夕焼けをじっと眺めてみる。
スーパーで野菜の値段が変化していたら、旬に入ったのかと考え、作り手の顔まで思い浮かべてみる。街ではわき目も振らぬ歩き方をやめて、路傍に咲く名も知らない花に目を落としてみる。
すると日常にありながら、季節感に満ちあふれた非日常に心を浮遊させることができるかもしれない。コンビニエンス(便利)な世の中では、緩やかに変化する季節が感じ取りにくい。
でも仕事帰りの黄昏時などには、季節の移ろいと非日常の風景に触れる『掌(てのひら)サイズの旅』に出るチャンスなのである。
現代の「(町)マチ」での暮らしは、加速度的に変化している。
その社会の流れは、私たちから微笑むことの素晴らしさや人生への手ごたえ感を忘れさせ、無言の叫びや嘆息、悲しみや怒りといったちょっと暗めの色を人生のカンバスに塗り重ねていくばかりである。
そしてささくれだった心の襞が軋みはじめる頃、ようやく「和み」「安らぎ」「温もり」「癒し」といった心の保温材の大切さに目が向き始めるのである。
心が保温材を求め始めた際、なぜか人は古来より「山辺」「野辺」「浜辺」「川辺」といった「辺地」「端部分」に出掛けてきたのである。
「物見遊山」とは、「山野を遍歴しながら事物を観る、そして人生を見直す」ことだったはず。
また俳句や短歌を詠む風流さとは、自然の機微を感じることで強張った日々の感性を解きほぐすことだったのではないだろうか。
非日常の自然界の持つ力とは、人間の内なる自然治癒力を覚醒させることなのかもしれない。
物見遊山(山にココロを遊ばせ、モノの本質を見る)のタビには、「調息」「調身」「調心」といった人生を整える作業をおこなう機会を与える力が潜んでいる。
世界遺産に指定されている、日本で唯一の「道」である熊野古道。
この熊野古道は、その昔京都などの都人が『隈野(辺境の地)』として捉えていた熊野三山への参詣道でもある。
言ってみれば、平安人などの「祈り」や「俗世からの離脱」を願う気持ちが、道々に散りばめられてもいる。
そんな熊野古道を歩きながらのトラベルセラピーは、自らの歩幅で体得する癒し旅であろう。
※ ポエムで語るセラピータイム
影の旅路
夕焼け染まる 路地裏を
小さな影が走り去る
茜の空に 泣くカラス
心の旅路 いま遥か
たそがれせまる 坂道を
小さな影が揺れている
暮れゆく畦に 泣くわらべ
心の旅路 もう遥か
街の灯ともる 横丁を
小さな影が語り合う
星降る夜に 泣く汽笛
別府湾を北側から俯瞰する大分県日出町にある糸ケ浜海浜公園。
初冬の早朝。対岸の灯は星の如く暗闇の空に煌めきを放っている。
海岸沿いの干潟は、明けの暁光により恥じらい色に染め上げられていく。
昨日の出来事の『影』が、残り香となり漂う早暁のひととき。
ふと、過ぎ去りし日々に、思いを馳せてみたいと願うひととき。
※ ライアル・ワトソンより
われわれには、本質的な調和ともいうべきものについての意識と希求があるらしいのだ。
昔からそうだった。われわれはみな、本質的に大地のことを身体で知っていて、この天与の智慧を表現するゆとりさえ与えられれば、
この惑星上でもとりわけ調和がとれている場所の方へと苦もなく、しかも抗いがたく、流れてゆくものらしい。
そういうところでこそ、心安らかにくつろぎ、眠ることができる。
そこでこそ、思うままに夢を見、より偉大なるものに連なる喜びを味わうことができる。
人類が敬虔な心の表現としてその場を印し、石や木で飾ってそれを社とすることを始めたのは、そういう場所であったにちがいない。
そしてそういう初期の祭壇の周りに最初の素朴な寺院がつくられ、さらにはそうした原始寺院の跡に、のちの我々の神々を祀る建造物が建てられていったのであろう。
2023年4月15日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の創設者である。