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生とは草木が自然に生成し発展する姿で、その繁茂するさまをいう。生あるものは、すべて自己の種の保存と繁栄のために、殆んど天与のオ能と、自己犠牲に徹する生きかたをしている。
その意味において最も怠慢な者は、自然を制御し、支配することもできるという傲慢の思いをもつ、現代の人々であろう。
生か、外ならぬ命によって絶対的に規定されているという、存在の本質的な構造を無視して、恣意的な生活が可能であるとするのは、現代の人々の妄想にすぎない。
自然の秩序はあらゆる生物の世界に及んでおり、そこに大調和の世界がある。
人間の思考の方法は精彩を極めているが、それはこの大調和の世界から決して逸出しうるものではない。
唯一の正しい知恵は、
人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、
人は苦しみを通じてのみ、そこに到達することができる。
貧困と苦しみだけが、
他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ。
道得とか道取という字があるが、道はみちでなくて「言う」の義で、言葉で表現することである。これができるのは、体験とか体得とかいうことがなくてはいけないのである。この「飛びこみ」の体験を「横超」とも「飛躍」とも、「直入」ともいう。
そのほか, いろいろの名がある。つまり崖の上に立って、底も知れぬ谷の中に飛びこむことなのである。無限に虚なるものを見て躊躇することなく、その真只中に飛びこむことである。これを知的に表現すると、「悟り」ということになる。
いわゆる禅者の「見性(けんしょう)」である。東洋の人はこの悟りの経験なるもののあることを、実際自分で経験しなくとも、聞き伝えなどで、知っている。
これが強みである。西洋には、この悟りに相応するいい言葉が見当たらぬ。似たようなものがあっても、東洋人の耳には響かない。
「からだ」ではなく「身」で舞う
その深層の身体が「み」です。「から」の中に詰まっているもの、それが「み」なのです。
「み」は「身」であり「実」です。
筋肉でいえば身体の深奥に隠れている深層筋です。コアの筋肉群とも呼びます。
「み=身」は、急速に衰えゆく表層の「身体=からだ」と違って、体の内部に隠れているためになかなか衰えません。
深層の身体である「み」を使っていればこそ、能をはじめとする古典芸能に携わっている人たちは、世間でいういわゆる高齢になってもすばらしい動きをすることが可能なのです。
そして、「からだ」中心の身体から「み」中心の身体への変容、それが能の稽古のひとつの成果です。
最初は「み」を使うことが少なく、ほとんど「からだ」で舞ったり、謡ったりします。
それはそれですばらしいのですが、しかし何とも生硬な感じがする。
それが徐々に深層の「み」を使う度合いが多くなり、円熟した味が出てきます。
知識人だったと思いますよ。昔の山歩きをする人間は。
高野聖だとか。ヒジリとは言ってみれば、高野山で学問をしている学問僧からはずれて山を漂泊する、山を歩いていく人たちですね。
慈悲利益から来ているから、あるいは日を知るからヒジリ。要するに暦、天気、月読み。
そういう形で聖はいただろうし、修験者は呪術の方法を知っていたし、山の草や鉱物に対するさまざまな知識があった。
暦を知っているということは、昔は相当な力だったわけですね。世界を支配し、統御することですから。
早年にして成長のとまる人がある。
根をおろそかにしたからである。
四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。
私の知人にも理解のいい頭と、感激の強い心臓と、よく立つ筆とを持ちながら、まるで労作を発表しようとしない人がある。
彼は今生きることの苦しさに圧倒せられて自分のようなものは生きる値打ちもないとさえ思っている。
しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。
やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。
――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。
聖人は、常に「遊」の状態にあるのだから、生命の真を保つ、そして、あらゆる行為が宇宙の道(仏教的表現を用いれば法)に合致している。
老子はこれを、「無為自然」と呼んだ。
すべての行為から、自我的な作為が脱落しているからである。
東洋の文化は西洋のように「個」を主張するのではない。自我を脱落させる文化である。
だから東洋の医学も、「我」を脱落させることで内なる自然力を発現させ、無為自然ならしめる。
古典では導引・按蹻を、「 自我のこだわりから解放し、生命の永遠性に目覚めさせる方法 」、とまで述べられている。
日本人にとって、言語とは、ほとんど触覚を中心とする共感覚だった。
その最たる例が、平安時代の女性の本名である。女性が本名を男性に教えるということは結婚を承諸することと同じだった。
我々が知ることのできる「紫式部」や「清少納言」という名がなぜ本名でないか、ぜひ考えてみてほしい。
これは、決して当時に女性蔑視の風習があったからではない。むしろ、本名を簡単に言うことは、呪術的な禁忌なのだ。
そして、その呪術性は決して空想ではない。自分の名前が簡単に男性に「触れる」と大変だ、という緊張感があったのだ。
それはおそらく、私が共感覚によって女性の本名に、色や音を見聞きするだけでなく、実際に触覚も覚えてしまうのと同じことであるに違いない。
少なくとも江戸時代までの日本人男性は、五感を分断して世界を見ることを頑なに拒んでいた。
男と女、東洋と西洋、漢語と大和言葉…様々な観点から見ていかないことには、真に有意義な共感覚研究は難しい、のではないか、というのが、私の意見だ。
聖地が秘めるパワーの第四の要因は、最も不可解で、かつ最も理解されていないものです。
これは、人間の意図が蓄積され濃縮された結果として発現されるパワーです。
写真のフィルム(地球の小さな一片)が光のエネルギーを記録し、オーディオ・テープ(地球の小さなもう一片)が音のエネルギーを記録します。
同様に、聖地(地球の大きな一片)も、そこで儀式を執り行う何百万もの人間のエネルギーと意図を記録し再生する、あるいは何らかの方法でその媒体となることができます。
寺院や聖域(サンクチュアリ)では、無数の聖職者や尼僧、巡礼者たちが何百年あるいは何千年もの間集まり続け、歌い、踊り、祈り、瞑想してきました。彼らはこうして、愛と平和、癒しと英知のエーテルの場を絶えず充電し、増幅しました。
巨石のストーンサークル、ケルト人の癒しの泉、道教の聖なる山、マヤの神殿、ゴシック式大聖堂、イスラム教シーア派のジヤラート、ヒンズー教のジョティル・リンガ、仏教徒のストゥーパおよびエジプトのピラミッドは、濃縮された霊的大望の器(うつわ)であり、これは全人類によって達成されてきたものです。
これらの地は、また、ブッダやイエス、マホメット、ゾロアスター、導師ナーナク、マハーヴィーラ、その他の賢人やシャーマンたちが、霊的な英知の最も深い顕現に目覚めた場所でもあります。
マンダラとは、そもそもは仏教の修行場に築かれた円形の土壇のことであった。その土壇は、いうまでもなく、全宇宙をそこに縮小し、モデル化したものであり、修行者はそこに座すことにより、あたかも全宇宙の中心に身を置くかのように思いこんだのである。
つまり、円形の土壇はモデル化された象徴的空間であり、そこに座ることは、宇宙と一体になることであった。宗教史学者、エリアーデによると、どんな民族のどのような祭壇も、宇宙の中心に位置しているとのことである。が、そうした宇宙の中心意識を図像化したインドのマンダラは、おどろくベきイメージの飛躍、そして、知的な冒険であった。
インドはついに宇宙を"生けどり"にして、それを一枚の画布のなかへ押しこめたのである。彼らは図像化によって宇宙のモデルをつくりあげ、宇宙を精神的に征服したのだ。そして、その宇宙像がやがてシルクロードを渡って敦煌から中国へつたわり、空海によって、さらに中国から日本へもたらされたのである。
とうぜん、その間にマンダラの様式はすこしずつ変わっていった。各民族はそれぞれのイメージで、それぞれのマンダラを描きあげたのだ。日本につたわるマンダラは、密教の至高尊である大日如来を中心に、さはざ な仏を配置したもので、金剛界、胎蔵界の両界をそれらの仏たちによって象徴的に描いたいわゆる両界曼荼羅である。
これは中国の様式を忠実に踏襲したものといわれるが、いずれにしても、仏というイメージを通じて、物質(胎蔵)、精神(金剛)両界を象徴的に図像化したマンダラは、世界をとらえようとした。これは、人間精神の驚くべき所産であり、宇宙をモデル化しようという人間の強烈な意志のあらわれと見ていい。
いままで文明というものは、人間が自然を征服して、つくりあげてきたものだと信じられていた。
それで、自然からきりはなされた一つの独自の世界を、人間は地球上に構築しえたとおもっていた。
ところが、それはまったくのまちがいであったということです。じつは、われわれは文明をすすめることによって、自分の墓穴をほっていたんだ、ということになりかねない。
文明というものは、まさにそういう自分自身の存在の基礎をほりくずすことによって成立しているような、まことに矛盾にみちたものなんだという、そういう認識がでてきたんです。
山林文化の人は、山高きが故に尚からずと思い、山相を樹種で見る。
狩猟採集文化の人は、林野地形に鳥獣の多寡を占い、水田文化の人は、平野の草種と水利益を観察する。
畑作の人は斜面を見、そして冶金文化の人は、山のたたずまいや、岩石の色、河原の砂の色に、深い注意をはらったであろう。
文字以前、体系化された学問以前の、これらの古代の無言の知恵は、文字言語文化の爆発奔流する現代におけるわれわれの想像以上に深く、ひろがっていたのではなかろうか?
精神のとぎすまされた状態における、するどい観察眼、密度の高い注意力、体験によってきたえあげられた直観と推理、伝承や秘伝の形にまで、整理された、体験の集積。
そういったものの、尨大な集積は、いまどこにいっただろう?
それ自身は、すでに近代において、古びてしまっていても、その知恵のパターン、観察、推理、直観と、訓練のパターンは、現代に役だてられないものだろうか?
家を建てるのに四神相応の地、四方の神に相応した貴い地相を選べと言うけども、
北側に山を背負っていて、
南はずうっと低くて、
東に清流が流れていて、
西に道路があるっていったら、
絶対に湿気もねえし、風もこねえし、最高なとこ。
そこを選んで建てる。地山の高いところだったら一番いい。法隆寺なんかぴたっといってるんじゃない。法隆寺は地山も高いんだ。
裏に山を背負って、前が真っ平だったら快適そうやから、山を人工的にけずったという感じがあるところはそんなではないな。
それと東がどうのこうのといっても、これが日本海のほうに行くと違うんだよな。まったく反対、逆。
南が山で、北が海。お天道様は海側にないんだ。これはまた、その場所その場所で考えて生活をしていかなくちゃなんねえってことだな。
我々が古代を研究する場合、どうしても知り盡くすことのできぬ部分がある。
その際、その斷片をつなぎ合して一つの形を得るのは、我々の実感、直感である。
それで、物を採り入れる際には実感をもってしなければならない。
學問に對して科學的だとかさうでないとか言ふのは、幼穉な考へ方である。
我々の學問はもっと大きくならねばならぬ。
私自身は来世の存在を信じない。
来世が在るとすれば人間は二度生きることになる。現世が二つあるやうなものである。
さうすると現世の一回性とか尊厳とかいふものが壊されてくる。人生は絶えず死に脅されてゐる果無いものである。
しかしその果無さに人生そのものの強さがある。
人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれてゐるといふところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸かっているのである。
新たに「地方の時代」がつくられようとしている。だが、それは「地方の都市化」であっては意味をもたないだろう。
闇を闇としてゆったり保つ空間、この地方こそ、都市のありようを見極めることができるのだ。
修験道の行は、日本宗教史における闇の世界でのことだった。だからこそそれは、長いあいだ奇妙なこととして見過ごされてきたのだ。
この修験道が,、いま新たに問われるのは、光のなかにいるだけでは見えない、
もっと根源的な世界、何がいのちをいのちとして生かしめているのかという、
いのちの情報の発信地を知ろうとする思いにつながり、宗教を生命の問題として問わなければならない、その本能に発しているからではないだろうか。
彼ら(注:明治時代に来日した欧米人)の文明が達成した諸価値はことごとく、人間に史上最高の幸福をもたらすはずのものであり、その意味でそれはヒューマニティのための文明だった。
ところがそのような近代的ヒューマニティを保証する要件を根本的に欠く社会において、住民の顔は幸福感に輝いているのである。
較べて見れば明白であった。彼らが故国の都会でしばしば見出したような、憔悴と絶望と苦悩の表情は、江戸でも長崎でも目にすることはできなかったのだ。
彼らの近代西洋文明への自信が揺らいだというのではない。
だが彼らは、それとはまったく枠組を異にする文明が、住民に幸福を保証しうるという事実を承認せざるをえなかった。
したがって彼らは、しばし立ち停まって沈思したのである。
自分たちの到来が、この国にもたらそうとしている変革は、もともと無用なのではないか、この国は今のままで十分幸せなのではないかと。
つまり彼らは、おのれが西洋近代文明の一員であることに改めて優越をおぼえながらも、この国の住民にとって《近代》は必要ないのではあるまいかと、しんそこから感じたのである。
私たちのもうつの欠点は、自分の肉眼でなく、教えられた目で外界に対しようとすることだ。とくに美術品に対するときはそうである。
どのような美術作品の解説を読んでも、あくまで他人の感覚による感じとり方である。故事来歴など、ある程度の知識は必要だが、いくら知ったところで、美を感得する本当の役には立たない。
建築学や建築史による分析なども、専門家以外は必要ないし、別に美の鑑賞に役立つものではない。だが、美術品の展覧会や古社寺めぐりには、熱心な人ほど解説書と首っぴきという風景がつきものである。
そういうもは最小限でよいのだ。古社寺を訪れる人は、ただ自分の感覚で、そこをすまいとする仏や神の姿を見つめればよい。
仏像のある寺を訪れるとする。そこにひっそりと、あるいは賑やかにすまいしている仏を訪問するという感覚が必要なのだ。自分自身の目だけで接し、それであきたらぬ場合は、遠慮することなく問いかけてみてもよい。
虚心でありさえすれば、どのような愚問にも何かの答えを仏はしてくれるはずのものだからである。解説書と見くらべて目をはしらせているより、そのほうがはるかに真実な超越者とのふれ合いなのである。
人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き死んで行った。
私もその一人として生れ、今生きているのだが、
例えていえば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、
その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、
何万年経っても再び生れては来ないのだ。
しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
進歩というものが内包する影・・。
この短い時間の間に、私たちがどこまで来てしまったのか、そして一体どこへ向かっているのか。その道は本当に袋小路なのか、それとも、思いがけない光を人間はいつか見出すことができるのか。日々の暮らしに追われながらも、誰もがふと、種としての人間の未来に憂いをもつ時代である。
もうすぐ二十世紀が終わろうとしている。きびしい時代が待っているだろう。進歩というものが内包する影に、私たちはやっと今気付き始め、立ち尽くしている。なぜならば、それは人間自身がもちあわせた影だったのだから種の始めがあれば、その終りもあるというだけのことなのか。
それとも私たち人間は何かの目的を背負わされている存在なのか。いつかその答えを知る時代が来るのかもしれない。
中国の養生思想は、「虚空」に思いを寄せ、自らをそこに近づけていくという方法論をもっています。
「虚空の場」やポテンシャルの高さに同化することによって、その生命力を自らの内に取り入れるということです。
「虚空」に近づくための具体的な方法としては、みなさんよくご存じの気功があります。
もちろん、それがすべてではありません。鍼灸、漢方、食事など、自らの「場」をととのえ「虚空」に近づけようとする行為や運動は、それ自体養生にほかなりません。
また、心のもち方も大切です。気功とか健康法といわなくても、体内の「場」をととのえることはできます。
毎日の生活を心を込めて生きているだけで、それは立派な養生法のひとつといえるのです。中国でがんに効くとして知られる智能功という気功には、捧気貫頂功という功法が含まれています。
本来それは、宇宙からの「気」を体内に取り込むことを目的とする功法です。その功法からわたしがイメージするのは、中国内蒙古自治区に広がる大草原の空にほかなりません。
司馬遼太郎さんもある著書で「モンゴル草原は天が近い」といった意味のことを書いていました。
私達は全て「場」の中の存在であり、自分自身でしっかりとその「場」のエネルギー、いのち(生命)のレベルを高めていかなければならない。
また「旅情」とは患者の心のことであり、慈しみ育てながらいろいろな感情を溢れ出させ、相手と分かち合い、しっかりと尊敬、尊重しあうことが大切である。
そして、医療においても非常に大切な「祈り」。
だたしこれは「よくしてください」と祈るのではない、祈りに満ちた心(スピリチュアルな場に感謝しながら)、万物と一体になる心が大事。
最後に「直感」であるが、これは魂が体を離れ、虚空に登りつめたときに生まれる。エビデンスのないものについては直感を働かすことが大切である。
身体にだけ焦点を合わせていたのが壁にぶつかってしまい、不安になる場合がある。理屈で解決しようとするよりも「そういう風にできている」と考えて理解した方がいい。死後の生ということについても、知る必要はない。「ある」ものだ。
「命の目的とは成長すること」である。とにかくそれを信じ、生き方の問題や医学の問題を考えることが大切である。
歴史を解するには「時」を知らなければならぬ。
「時」を知るには、多少かの思索・反省・分析が必要である。併し只それだけではいけない。
思惟から直観へはひらねばならぬ。
即ち独尊者の実体を把握しなければならぬ、最も具体的か最も真実的で最後的なものを把握しなければならぬ。
その時、「時」の流れと云ふことの意味に徹底し得られる。
即ち本当に生きて行けると自分は信ずる。
瞑想については、さらに研究が必要であるが、脳内酸素の欠乏が脳内麻薬物質の放出をもたらし、それが純粋意識の体験につながるということは考えられないであろうか。
私たちは、至高体験とともに宇宙との一体感を感じることがある。脳があまり発達していなかった時期ー系統発生では下等な動物であった時期、個体発生では生後間もない時期ーには、主客二元的に外界を認識する脳の機構は発達していなかったであろう。
自分と対象物の区別のない、あいまいな世界に住んでいたのではなかろうか。やがて、私たちには自己感覚が芽生え、自己と対象物という認識をするようになる。けれども、これは、ものごとの真実の姿をゆがめて認識することにもなる。自己という強い視点に束縛されたものの見方である。
おそらく前頭葉を中心とする脳の発達とともに、私たちはふたたびものごとの真実の姿を認識する方向に進化しつつあるのではなかろうか。
『いのち』の帰還する場所
修験や巡礼におもむく人々は、険しい道を一歩一歩登りつつ、その苦しい息遣いの中にこそ、自分の有限生命が無限生命の中に呑み込まれてゆくことを体感していたのではないだろうか。
生と死をもつ小さな生命を数珠つなぎに繋ぎ止める大きな生命、それが山だ。山こそ、すべての生命のふるさと・・・、日本人は太古の昔から、そのように感じ取ってきたのである。(中略)
葬式仏教と揶揄される現代の日本仏教が、魂の原郷である山岳に帰還し、人間中心主義に冒されない、ホリスティックな精神性を獲得すれば、とかく方向性を見失いがちの現代文明人にも、大きな救いとなるはずである。
仏教には、まだまだ地球文明に貢献しうる精神遺産が包含されていると確信しているが、そのためにも、(いのち)の山奥深くに帰還し、今ひとたびの脱皮を遂げるべきだろう。
江戸時代の着物は、麻、絹、木綿などの素材のみならず、日本と海外の様々な植物染料によって作られている。その文様も、季節の植物や風景など、自然界と深いかかわりをもっている。
さらに、江戸時代の生活の基本である紙や布は貴重なものだったので、使い捨てられることはなく、幾度も再生使用され、最後にぼろぼろになって焼かれても、その灰が畑の肥料になって自然界に戻って行った。
ついでに言えば、江戸時代では人間の排泄物も「下肥(しもごえ)問屋」という問屋制度によって商品として扱われ、都市から畑へ戻って行った。江戸時代の商業活動と都市生活は、農業を中心にしたリサイクルシステムの上に成り立っていたのである。
私はその「もの作り」と「使い方」の姿勢に、江戸時代の価値観の根本がある、と思っている。そこで、当時のアジアと日本の布の交易も含めた布の世界を描こうと、何年も前から少しずつ研究してる。講義や、江戸文化一般の講演、執筆のあいだを縫ってのことなので、遅々として進まない。しかしそのあいだにひとりの協力者を得て、この布の研究に、本格的な動植物の問題を入れようということになった。
自然を人間世界の中に誘導することによって、日本の布や紙や木工や焼き物や建築物ができあがる。職人の技とは、その誘導の中にある。ねじふせ言うことをきかせるのではなく、自然を生かすのが職人の技だ。そのような技は、どうしても大量生産にはつながらない。その生産プロセスがまったく変わってしまうのが、産業革命であった。
ぼくは住まいを設計するとき、「国土」と「風土」、「郷土」という「3つの土」を基本に考えています。
まず「国土」ですが、日本は狭く、土地代がべらぼうに高い。バブルが崩壊した現在でも、大都市周辺はサラリーマンが働きづめに働いても、せいぜい三十坪の土地を買うのがやっと。この土地の制約をどうするかが第一。むろん法律的な制約もあります。
次に「風土」。日本の自然環境は、寒さが厳しい北ヨーロッパとはまるで違う。北海道や東北のごく一部を除いて、梅雨どきから9月ごろまで蒸し暑い日が続きます。日本の建築は、この「湿気」とのたたかいです。最近はともすれば軽視されがちですが、湿気をいかに制するかが建築家に課せられた大きな使命なのです。
そして「郷土」、ふるさとであり、自分をいつも迎え入れてくれる心のよりどころ。日本人ならだれしも持っている潜在的な志向───ぼく流に言うと、DNAにしみこんだ感性に呼応する家をつくるってことです。
つまり「土」の部分は、日本人であることをまぬがれないわけです。なのにカタチだけ欧米の住宅になって、暮らしや感性、家族のありかたと住まいとがチグハグになっているのが現在の姿だと思うんですよ。
ここで近代的人間の特徴を考えてみます。人間とは意識があるゆえに動物でなくて人間なのだ、といいだしたのも近代的人間ですが、その意識尊重をさらに拡大して、理性万能というところへもってくるんですね。
カントをはじめ、西洋哲学はみなこの傾向がある。そして、これがちょっと薬が効きすぎよった。
そもそも人間としてのできあがりというものを考えてみると、知識とか理性だけの人間というものは、できそこないの人間である。
人生を全うするためには、理性もおおいに使わんならぬやろうけれども、それだけでなくて、人生には理性やあるいは論理に地盤を置かない世界もある。
いろいろな遊芸の道というのがありますね。
それからもっと深いところには、本能の世界というものもありますね。
こういうわれわれにそなわったいろいろな世界のあいだのバランスをうまく保ってゆくことこそ、大切なのに、その中で理性の世界だけを取り出し、取り立てて、ほかの世界を無視したり、あるいは虐待したりしたところに、そもそも今日の文明の行きすぎの原因があるのでなかろうか。
われわれと種類を異にした多くの森林動物は、たぶん文明の犠牲となって、絶滅することでしょう。この問題をいま私は、開発かそれとも自然保護かとかいう問題として考えているのではない,。世界人口の急増は、現在間違いなく起こりつつある。だからそれに応じて、アマゾンやコンゴの大森林を開発し、食糧を生産するというのなら、ヒューマニティーの立場から、それはたいへん結構なことだといわれるかもしれない。
しかし、私の心配するのは、せっかくそれらの大森林を開発しても、人口の増加がやまなかったらどうするのか、ということである。
人類の未来として、世界連邦も結構ではあるけれども、世界じゅうが食糧生産工場になるよりも、適当に自然と人類とが共存していた方が、望ましいと考えるものにとっては、この人口増加の歯どめということを、なんとか考えておかないと、せっかくの人類の未来も、そのために台無しになるのでないか、ということがいっておきたかったのです。
日本人の基本姿勢を決める心の姿勢の修行と保存の場所は、寺院の中にある。
瞑想する僧侶の姿勢はそれに当たる。
僧侶は、人間でも「正真正銘の樽」になれる姿勢をしている。
適切に心を開き、適切に心を閉じ、人の言うことを聞きわけ、しまっておく用意ができている。
瞑想する僧の姿勢は、敬虔さを表わす基本姿勢であるが、日本人の目には、私たちにとっての、祈っている神父の姿とは別の形で、日常の姿勢としても手本となっている。
僧侶が神聖なものと結び付き、それを体得する願いを込めて、神聖なものに対して心を開く姿勢、
この姿勢は、大きな精神伝統がその心に生きているかぎり、国民もまた決してそれを忘れたり、捨てたりしてはならない姿勢である。
人生は、人々が宇宙秩序の枠組みの中にあることを自覚し、命の根本に対する感覚をもっているときだけ、
生の苦しみと充実感の中で作り出されるものだということを、誰もが知っている。
現在の日本仏教の何がいちばん問題なのか?」と聞かれて、私は、「僧侶が仏教を信じていないことでしょう」と答えたことがある。
多くの僧侶にとって、自分が仏教で救われたという体験はない。人生に対する問いや苦悩があって、様々な手段でその問いに答えようとしたが叶わず、ようやく仏の教えに出会って道が開けた、といったような、自分にとっての実存的な体験がないのだ。
在家者の場合、仏教は「選択科目」だ。誰もが仏教に出会わなければいけないというわけではない。しかし、だからこそ出会ってしまったときには、出会いが強烈なものとなる。作家や思想家の書く仏教論が感動的なのは、そこに出会いがあり、縁起があるからである。人生や世界に対する解きがたい苦悩や問いがまず存在する。
そこで、私たちは道元に出会い、親鸞に出会い、日蓮に出会い、空海に出会い、ブッダその人に出会う。だからこそ、そこには魂を揺り動かす感動があるのだ。
だれかの(顔)はときに、そのひとの漠とした後ろ姿でも、掌のたたずまいでもありうる。
だれかの (顔)は、そのひとの顔面のことではなく、気配とでもいうべきものだ。
だから声も、そのひとのことを想うときにかならず響いてくるものであれば、それはそのひとの(顔)だと言ってよい。
「きめ」は「肌理」とも書くが、まさに声はわたしの皮膚にふれてくる他者の(顔)なのだ。
神道では、死の直後の死者の霊を「死霊」と呼びます。この死霊は個性をもち、死穢(しえ)をもっています。
子孫がこの死霊を祀ることによって、死霊はだんだん個性を失い、死穢がとれて浄化されて行きます。一定の年月が過ぎて、完全に浄化された死霊は、"祖霊"となりよす。
死霊の段階では山の低いところにいるのですが、これが昇華、浄化されて祖霊となるにしたがって、山の高いところに昇って行くわけです。
高山の上に昇るにつれて、死霊は少しずつ穢(けがれ)や悲しみから超越して、清い和やかな神(祖霊) になります。
民俗学者の柳田国男は、そのような祖霊の山上神説を展開しました。この祖霊がさらに昇華されると、祖先神になります。それが氏神です。
地産地消は根本にある。日本の食事作法は、生命をいただく・食べるということから『「み」魂・霊)を食べる』と表現した。
「み」が抜けたものは「から」という。自分は何かしらの生命をいただき、自分がそこの生命世界にお返しをしているので、〈生命循環をそこなってはいけない〉という認識があった。
かつての人々は「つながる世界が健康である」と考えていた。だから食事も大事にするし、そのつながりの出発点は自然だ。そこに自然観がある。
五百年代に日本に仏教が入り、教典・仏像が取り入れられた。これが公式仏教だが、その以前に、人の移動とともに入ってきた民衆仏教があった。
国を守る仏教は、儒教と仏教が混じりあい、貴族たちは法華経を好んだ。それに対して民衆たちは仏教はつながる世界の表現・象徴としてとらえた。
つながる世界の化身が大日如来であり、これをつきつめたのは空海だった。つながる世界=曼陀羅と考えた。
人間は生きている過程で生命を殺しすぎたり、失敗もあるが、かつての人々が失敗を直そうとするときの問いは「我々はつながる世界を壊してはいないか?」ということだった。つながっている世界を信仰するから、たえずこのことを再確認していた。
われわれの世界には、文明社会もあれば未開社会もある。先進国もあれば開発途上国もある。大民族とならんで少数民族がいる。
人間だけでなく自然の万物がある。山河大地、草木虫魚がある。
天上の他界があり、地上の現世がある。
それらがモザイク状に入り交じって、万華鏡のなかの風景に似た趣を呈している。
そこで分裂と葛藤が繰りかえされているように思われる。
今、われわれの見ている世界は<コスモス>ではなくて<カオス>である。修羅の巷である。
それにもかかわらず、われわれは何としても<>コスモス>を見たい。<コスモス>を見なければならない。
われわれは、一体どのような場所にいったら、この世界をあるがままに<コスモス>として受け入れ、<コスモス>として展望することができるのであろうか。
フンボルトは当時知られていた世界の最高峰チンポラゾの山頂に立って、新旧両大陸の全容を視界におさめようとした。
しかしここでは、人間精神の最深部にくだって、その場に映る世界の風光を眺めてみたい。
このように、現在の言葉、特に学術用語には翻訳語が多く、われわれは欧米の言葉との関連でその意味を理解している言葉が少なくありません。
明治時代に外国語が入ってきた時に、日本語の在来の言葉と欧米の言葉とをすり合わせて理解することは、たしかに非常に難しい作業だったと思います。
ソサェティに対応する言葉は日本語の語彙にはありませんでした。そして当初は「会社」などと訳され、それがやがて「社会」と言い換えられて定着していったといわれています。
それらの言葉によって、われわれが西欧の学問や思想を理解することが容易になったことは間違いありませんし、これらの翻訳語が普遍性を持ち、アジアの諸国に影響を及ぼしたことも事実だと思います。
しかし、いま振り返ってみると、こうした翻訳語によって西欧の思想や学問の背後にある社会のあり方まで、われわれが本当に十分に理解できたのかどうかは、依然として大きな問題として残っているように思います。
また一方、翻訳語によって生活が成り立っているような状況が生まれたために、日本語の本来の豊かさを、われわれ自身が見失ってしまった一面のあることも否定できないと思います。
昔からあたりまえのようにあった身近な自然。それは、ときに厳しく、寛大でもありました。凍てついた厳冬期があれば、花芽吹く夏がある。
夏に飛来する渡り鳥、周遊するベルーガ、冬に氷の上でたたずむホッキョクグマ、雪氷から顔を出すアザラシ、すべての動植物と自然環境は先生であり、学舎(まなびや)でした。
イヌイットにとって、厳しい自然環境は彼らの文化そのものといっても過言ではありません。イヌイットに限らず、多くの人類は自然とともに過ごし、その恵みを受けて生活をしています。
日本も四方は海にかこまれ、国土の七割は里山ですから、例外ではありません。都会生活をしていると、このことをうっかり忘れがちです。
ときに悲痛なる自然の警笛、叫びは人類の文明文化に対する何らかのメッセージかもしれません。厳しい自然環境と隣り合わせで生きる極北地帯の民とわずかながらも経験をともにし、言葉を交わすと、「自然環境によって文化は生かされている」ということを実感します。
とあるイヌイットの言葉は、いつも私にそのことを思い出させてくれます。「きれいな水に命は宿る。私たちはそのことに感謝しなければならない」
自然環境との調和を大事にすることで、人類はここまで豊かな文化をつくりあげてきたのではないでしょうか。環境へのまなざしは、文化へのまなざし。少しずつ、少しずつ蝕まれていく地球を、イヌイットたちは文化の変容と感じているかもしれません。
地球から十四億㌔以上離れた土星からは、望遠鏡を使わない限り、地球は他の夜空の星々と同じ点にしか見えない。地球が広大な宇宙空間に佇む一つの点にしか見えないというのは、人類がいまだ経験したことのない状況である。
この視点から見れば、地球上の国や文化の差異はもう見えない。そしてその視点に立つ人々には、「地球文明」を異化してしまったことによる新たな思想と文化が育まれることになるだろう。
ここに来て宇宙がもたらすものは、地球全体を見ることによる普遍主義から、地球からの断絶がもたらす多様性へと変化する。
人類学者のレヴィ=ストロースが、
「創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが離れた相手に刺激を与える程度に発達した時代であった。それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である」
と言ったこの創造的な多様性が実現する場所は、グローバル化が進む地球上ではもはやなく、宇宙なのかもしれない。
すべて合成物は、例外なく、必滅にして安住なく、卑しむべきものである。定離にして、無常のものである。消えやすきこと蜃気楼のごとくまぼろしのごとく、泡沫のごときものである。
陶工のつくれる陶器の、ついにはこわれ砕けるごとく、人間の生涯もまた、かくのごとくにして終るのである。物質そのものの信仰は、曰く述べがたく、表わしがたいものだ。物質は物にもあらず。
日本の国民生活の最も著しい特徴ともいうベきものは、極度の流動性である。日本の国民は、そのひとつひとつの分子が絶えず循環作用を営んでいる、ひとつの媒体のようなものである。
運動そのものからしてが、すでに特異なものである。一点から一点にうごく移動は微弱であるが、西欧人種の移動にくらべると、ずっと幅が大きいし、また変化にも富んでいる。
しかも、たいへん自然だ。西洋文明にはちょっとありえないほど、それは自然だ。
前頭葉だけを機能低下させようとするのがインドの瞑想法であるが、その瞑想法も動物の静止ポーズと結びつければ、より積極的に前頭葉を機能低下させながら脳を活性化することができる。しかし中国の瞑想法はほとんどが亀や蛇さまざまな鳥、哺乳類などを真似して動作をしていく。
さまざまな身振りを十分に体験したのちに静止状態になれば、それはいきなり「前頭葉を休める」だけにとどまらず、さまざまな各部分の脳を活性化し、脳の血液の不足部分に前頭葉の過剰な血液を回していくことができる。
文字ができてから、といっていいのか知らないが、人間の教育は「前頭葉を鍛える」ことに向けられてきた。それ以外の脳を忘れ去ってきた。そして本当に希少なことに、人類の文化が「前進する前頭葉」だと大勢が考えるのに抗して、道教は「幼児に帰る」「農村に帰る」「動物と一体になる」ことで長いこと使われていない脳の各部分が時間遡行によって可能になると考えてきたのである。
人間は、ある時代・ある社会の中にしか生きられません。社会の行く末に、あるイメージをもたなければ、人生論もなりたたないはずなんです。
現代社会は、「ああすれば、こうなる」という機能主義にもとづいた世界です。私に言わせれば、それ自体が都市の発想なのです。田舎暮らしが、ものの見方を少しは変えるきっかけになるのではないでしょうか。(中略)
日本人は上手に自然とつきあい、そこから得られるもので暮らすという伝統をつくってきました。そこに戻って身の丈にあった暮らしをするのも悪くないんじゃないでしょうか。
畑仕事、里山の手入れ、大工仕事、手縫い仕事・・・、やることはいくらでもあります。しかし会社にいわれてやるわけではありませんから、時間にしばられるわけでもありません。それこそ最高のぜいたくじゃないでしょうか。都会にいても、今すぐできることがあります。
一日一回、十五分でいいから、虫でも木の葉っぱでもいい、人間がつくったものでない自然を観察してみてください。
たとえば葉っぱは、お互いが陰にならず、日照時間が最大になるように並んでいることがわかります。人間のつくっていないモノや事象にも、それなりの意味があって存在している。
それを眺めるところから、人生の問題へのヒントをみつけることもできるんじゃないでしょうか。そういう生活・考え方が、精神的・時間的なゆとりを生んでいくのだと思います。
バルドゥ・死と生の中間状態とは。
近代西洋医学では、「生」に焦点を当てて寿命を延ばす技術を発達させましたが、チベット医学は、養生の術と生活のアドバイスをたくさん含んで、「寿命」よりも「生命」を大事にしてきました。
チベット語で医学はソーワ・リクパと言います。ソーワは「治療する」「慰める」の意味があり、リクパは「智慧」の意味があります。
つまり、長く生きるための技術ではなく、善く生きるための知恵なのです。
チベット医学は人間が生まれ、老い、病み、死ぬと言う人生全体を考え、「生」だけでなく、死も中有(バルドゥ・死と生の中間状態)も含む大きなライフ・サイクル全体を考えているのです。
このような厳しい自然条件のなかでは、いろいろと判断を迷わせるようなたくさんの神々がいては困るわけです。神やリーダーはたった一人でいいし、その神やリーダーが、いつも東か西か、攻めるべきか引くべきかを示してくれないとやっていけません。あとはすべて「神の思し召し」に従うだけである。こうして、「砂漠の宗教」には唯一絶対的な一神教が確立し、二分法的な宗教文化や社会文化が広まっていったのです。一方、インドや中国や日本といった東洋の国々は非常に湿潤で、森林が多い。もちろん森林といえども生きていくことは決して容易ではありません。けれども、砂漠のような光と闇や、生と死に迫られるといった二者択一的な状況ではなかったはずです。
森林には前後左右、東西南北、いろいろの方面にさまざまな情報が待ちかまえているのです。東へ行けば滝や川があるかもしれなれないし、南へ行けば猛獣や猛毒の爬虫類がいるかもしれない。また、キノコや木の実や草の知識もいろいろ必要です。こういうところでは、人間はゆっくり思考し、さまざまな選択肢について思いめぐらすと言うことになります。また、多くの専門知識をマンダラ的にとりいれて組み立てる必要があるのです。
私は、いつも弱いもの弱いものへと眼が行く。私が縄文時代に興味をもったのは、当時まだ縄文文化が弱いものの立場におかれていたからである。
そして、現代において最も弱いものは何か・・・、それは自然である。森の中の動物たち、あるいは森そのものである。
こういうものがいちばん弱い立場にある。私は今、地球環境問題と取り組んでいるが、それもやはり、弱いものの視点に立つという哲学を実践していることにほかならない。
しかし、かつて弱いものの立場にあった縄文文化が、人類が地球との共存、自然との共存に行きづまった現在、はっきりと見直されている。
一万年以上にもわたって営々と維持された縄文人たちのライフスタイル、あるいは世界観が見直されている。
人間の意識性が非常に大切になり、単に理性に基づいて主観・客観と社会性の間を堂々巡りするのではなく、垂直性を有して宇宙あるいは自己(小宇宙)と交流することが重要である。
先に述べたように近年、WHOはこの観点を「霊性(スピリチュアリティ)」と表しているが、私たち日本人には、「気」という言葉で表現した方がわかりやすいであろう。
宇宙(東洋哲学では、天)を仰ぎみるとともに、自分と相対する日常空間に慈しみ(愛)を持って接するという気持ち(西洋哲学では、博愛)を大切にするということである。
東洋的にいうと「敬天愛人」あるいは「天・地・人の一致」すなわち「王道」である。これを西洋的にいおうとするとどうしても神を持ち出して「神の御前に清く、正しく、愛深く(キリスト教)」的な表現となる。
しかしいずれにせよ基本的には「ともに感じ」「ともに生き」「ともに繁栄をわかちあう」という社会共同体な考え方になろう。
そのために私たちが日常的に比較的無理なくできるのが、「気」を精神的(マインドコントロールメデイテーション)に、あるいは身体的(スポーツ、遊びあるいはプレイ、芸術や対人問、対自然あるいはアニマルなどとのコミュニケーションやチヤネリング)に養うこと、すなわち「養気」である。
神仙思想とは
仙骨という概念がある。生まれながらにして神仙になり得る性をいう。福地の山野をめぐって仙薬を求め、清静恬淡として精神を錬えて修行に努める。
山野を跋渉して仙薬を求めるのは足腰を鍛え体力をつける。無為清静の修行は欲を去り何事にも動じない精神を育む。
仙骨がなければ、崖から落ちて死ぬし、修行に耐えられず山を下りる。あるいは病を得て衰弱はなはだしくついには死去する。要するに淘汰されるわけである。
残ったものは、強い体力と精神力、それに高い免疫力をもち生きる知恵と運の良さをもった人物ということになる。
運という科学的には解明できない確率論を加えるのは、いささか抵抗があるが、一秒差で命を救われた人のいることは確かだし、五秒差で前の人が買った宝くじが一等に当たったというのもある。
運が良ければ崖から落ちることはないし、虎や毒蛇に襲われることもない。こうした過酷な生活に耐え残ったものだけが神仙となるのに相応しいが、それでも仙骨がなければ神仙にはなれない。
人間は、くり返すようだが、自然によって生かされてきた。
古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
その態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。
二十世紀という現代は、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
言葉の衰退
人間は、人間を他の被造物から分かつ言葉を通じて、それと同一の形態・運動の要素をーさながら谺のようにー自らの内部から発生させることができる。
いったい人間の本質、そして人間が発する音・声の正体は、創造的な宇宙の御言の栄光の反映にほかならない。
それゆえにこそ、この神秘が現実に体験されていた太古の時代にあっては、言葉は聖なるものとされていたのである。
言葉をもちい、言葉の力をあやつり、それと通じ合うことは、特別な場所においてのみ許されたことである。はるか後世にいたるまで言葉は、その創造的な力を失わず、たんなる意志疎通の道具に堕することはなかった。
けれども今日、われわれはこの言葉の力について、ほとんど知るところがない。聖なる神殿においてとりおこなわれた秘儀は、うつろな谺となって沈黙の中に消えてしまった。
広範囲に分散するわずかな芸術作品を通じて、その残滓が今日にまで伝えられてきたにすぎない。
そこから「大宇宙の創造的・形成的言語」の力が、人々の生活の中にいかに緊密に浸透していたかを知ることができる。
そもそも、精密に調整された機械ならともかく、人間の生体に欠如も乱れもない完全な平衡状態などのありえようはずがない。
生きているということは、つねに環境との微妙な関係のなかで変動し続ける「非平衡状態」を保っているということである。
人体がそこそこの平衡状態に達するのは、白骨かミイラになったときぐらいのものだろう。不完全で平衡を欠いた状態を「病気」と呼ぶのなら、病気こそわれわれが生きている条件だとすら言えるのだ。
もしも「癒し」という一言葉が、なんらかの意味での「健康」の回復と、病気からの解放を念頭に置いて語られるのであったなら、それは全くの幻想だということになるだろう。
人間の病気を「癒し」て健康にすることは人間であるかぎり、自分が癒されることも他人を癒すことも望むべきではないし、それを望むすべもないのである。
人間にとって「癒し」という言葉が唯一意味深いものでありうるのは、それがあらゆる病苦をあるがままに受け入れて、それをバネにして未来へ向かって生きるという意味で語られるときだけではないだろうか。
そして、人生を左右するような重大な病気で自然治癒が可能なのも、そのような生き方のもととに「自然な癒し」が訪れるときだけだろう。
古代の日本人のいう根の国は、生命の根源の国だから、海のかなたに生命の元を考えていたことになる。
この国はけっして地獄などではなく、ケルト人が死後に想定した常若の国のように、明るい永遠の国である。
古代日本人の中で、生と死とは断絶していない。
生と死とは親近し、自由に往き来ができるようだが、この二つの世界を区別するものは、今あげている生命の水である。
彼方の生命水の付与によって、コントロールされるのがわれわれの体であって、人間の意志によって左右されるものでもなければ、反対に物質的な破壊によって変化するものでもなかった。
こう考えてくると、人間の生命は濃密に水と関係していることを、痛感せざるをえない。
とりわけ「あめ」とよばれるものと生命的にかかわっているらしいのだが、そう思ってみると、さまざまな事柄が連想されてくる。しかも、これまた日本ばかりではない、普遍的な事柄として登場してくる。
日本文化は両極端のあいだを揺れ動く、驚くべき適応性をもっていることがわかります。日本の織物師が、幾何学模様と自然を写した絵柄とを好んで取り合わせるように、日本文化は反対のものを隣り合わせにすることさえ好むのです。
この点で、日本文化は西洋の文化とは異なっています。西洋の文化も、その歴史の過程で、さまざまな立場を取ってきました。
けれども西洋では一つのものを別のものと取りかえるのであり、後戻りするという発想はありません。
日本では神話と歴史の領域は相容れない関係にあると考えられていませんし、独自の創作と借用についても同様です。
もしくは ー美的側面の話題で議論をしめくくるならー漆芸や陶芸に見られる洗練を極めた技と、自然のままの素材や民芸風の製品ー、一言で言えば、柳宗悦が「不完全の芸術」と呼んだものー に対する嗜好とのあいだにも対立は感じられないのです。
さらに驚かされるのは、科学と技術の前衛に位置するこの革新的な国が、梅原猛氏がいみじくも強調したように、古びた過去に根を下ろしたアニミズム的思考に、畏敬を抱き続けていることです。神道の信仰や儀礼が、あらゆる排他的発想を拒む世界像を有していることを知れば、これも驚くにあたらないでしょう。
宇宙のあらゆる存在に霊性を認める神道の世界像は、自然と超自然、人間の世界と動物や植物の世界、さらには物質と生命とを結び合わせるのです。
泉や滝、川や海浜など、水のある場所、山や社寺の森など、大きな樹木のある土地は、聖地の中でもとりわけ心身にやさしい癒しの空間であった。
水や樹に触発され浄化されて、おのずから人はシャーマンになってゆく。
さらに深い自然との融合を求めて、山中深く分け入る者もいる。
川をさかのぼり、岩を越えて、山ふところ深く入ることにつれて、汗が流れ落ちるように、体中から娑婆気が排泄され、山中の香気に洗われて心身が清浄になっていく。
山は五感だけでなく六根を清浄にする聖なる道場、行場である。
そして六根清浄となった身体には、自然がもつ霊力がしみ透ってくる。自然治癒力の賦活である。
かつて山伏修験者や山林遊行が山中にこもって呪力を身に付け、自ら癒されるとともに癒す人になって帰還してきたように、山は、内なる自然治癒力をよびさまして、人を自然の行者に変容させる。
またしても、シャーマンが人の心の内に目覚めてくる瞬間である。
縁側の由来
居所の周り、イエのヘリには、ソトとの付き合いを優先するかのように、外の空気となじむように、縁は板や竹の素材が生かされ、無雑作につくられた。
半普請のようなその無雑作さがソトをウチへとりなし、ウチからソトへと向かうときもウチの構えをほどき、さらりと外気の中に漂い出る感じをつくった。
ウチとソトとが素朴な縁によって交感する。縁によってウチのたたずまいがゆるみ、ソトのしどけなさが調整されて、互いに譲り合い、引き立てあった。
縁によって内外とりどりのものが縁にあそぶのである。
身体の過労による突然死が、日本は世界一多いという。
突然死の背景には、現代人に多く見られる心身症がある。
心身症の病因となるのは、
感情と知性との交流が断絶する「失感情症」である、とアメリカのシフネオスは提起した。
日本での心身医学の提唱者で指導者でもある池見酉次郎氏は、
失感情症に加えて、身体感覚と知性との交流が途絶えて、身体からの声が聞こえなくなる「失体感症」が心身症の大きな因子であると指摘した。
さらに、現代人に特徴的な症状として、氏は「失自然症」を唱えた。
自然の大いなるいのちに生かされて生きていることに気づかず、自然への感覚·感性が鈍磨し、自然からの声が聞こえなくなる症状である。
外部環境としての自然破壊がすすむだけでなく、内部環境の荒廃もすすんでいると氏は警告した。
人生という物語は、死に至るまで、いまここに終わりということがない。生ある限り、自分の人生は完成した一つのストーリーとはならない。(中略)
物語をいきいきとさせるには、自分をはやしたて元気づけることである。自分の言動を受動から能動にすることである。自分の人生は、当然ながら、自分で生きる。筋のあらかじめ決められていない物語、すなわち、とらわれのない自分をとらわれなく活躍させる物語を、主人公として生きることである。
人生とは、即興のパフォーマンスではやしたて、自分を積極的に物語の中に活躍させること、そしてそのつど、自他の位置を確認しながら、アイデンティティを確保していくこである。『アイデンティティを深めるためには、自分のファンタジーをもたねばならない(河合隼雄氏による言葉)』し、「生涯の中で、その生涯にふさわしい自分のファンタジーをみつける必要がある」のである。
ファンタジーにのっとって生きるうちに、さらに新たな自己が創出され、また新たなファンタジーが創り出されてくる。ファンタジーとは、過去・現在のたしかめの上になされる、未来への投機である。
未来はつねにファンタジーの中に創出される。人生という物語も、過去・現在までのストーリーから完璧な筋書きをつくることはできず、計画どうりの物語も人生もありえない。いきいきした未見の未来はファンタジーの中にある。
新鮮な物語のたえざる創出が、つねに自分を新鮮な自分たらしめる。物語という人生を創出し、その物語を創造的に生きること、それがしなやかな自己治癒力を秘めた『物語療法』であった。
自分を超えた世界、自分の力を超えたものと交信する回路、
人智を超えた神仏と交信しうるただ一つの回路、
それが夢である。
正体を把握しえないはかないその回路にすがって、神仏の声を聞き、自分の心をのぞき見、自分が神仏と結縁していることを感じとる。
そこに安らぎがあり、癒しがあり、救いがある。
夢は、そのはかり知れない深遠な宇宙と、それぞれひとりひとり、結縁して生きていることを感得させる装置である。
そういう宇宙のなかに、心と体が、神仏の加護のもと、神仏と結ばれている、それを体得させるのが夢であった。
古代ギリシャ人も古代·中世の日本人も、そのことをはっきりとわきまえていた。
夢に対する深い叡知と敬虔な信頼が彼らにはあった。
夢にこそ、光の世界、俗なる世間にある表層の自分でない、深みをもった自分がひそんでいる。
夢にこそ、幽邃な宇宙と結ばれ、神仏とつながった真正な自分が見出せると考えていた。
インドでの聖なる行とは・・。
インドの仏跡巡拝に日本の宗教者たちがぞろぞろ出かけていく。
仏教の死滅した跡に立って、在りし日の幻影を見て坊さんたちは帰ってくる。
しかし、インドで見るべきは、仏教の史跡、いや死跡などではないはずである。
釈尊がカピラ城市の東西南北の四門から出て、貧や老、病や死に苦悶している民衆の現実をつぶさにみて人生の目を開かれたように、死せる聖地ではなく、なまなましいインドの現実を見、「聖なる行」をこそ見つめなければならないのである。
貧困と乞食者の群れに利己的な文明の暴力の跡を見、自らを深く省みなければならない。
そして文明が二百年以上にわたって行使してきた暴力と、現代日本が広くアジアで、世界で、行使している暴力を、悲嘆しなければならないのである。
それがインドの聖地巡拝であり、土産は仏跡での記念写真ではなく、インドが身をもって問いかけている「聖なる行」への共鳴である。
ガンジスは西欧の物差しでは測れぬほどに、時空を超えてゆったりと流れている。インドは人間のあり方、生命のあり方を根本から問直さしめる聖なる試練の場である。
かつてはたしかに、山には山祇、山の霊が、森には森の霊がありました。ネイチャーゲームのように、人工自然の中に鵜の目鷹の目で自然の霊や精気を求める必要はなく、山や森に入れば、自然の声はたちどころに聞け、匂いもかげました。
山や森と接する野辺という曖昧な境界を越えれば、もう俗界の空気は漂ってこない。そこは俗界からの避難所であり、聖域でした。聖域とは自然の音をそのままに聞きうるところで、自然に入ることはとりも直さず離俗の聖なる行為でした。
かつても森林浴に行くようにふらりと出かけるものもいましたが、世を捨て、俗縁を去るなど、もう少しまじめに自然に入るものは多く、自然もまた単なる避難所ではなく、霊性をたたえた生きた聖域でした。
だからこそ、遁世や隠遁は、現今のネイチャー·ゲームの比ではなく、人気をもちつづけてきたのでした。
古代神道と仏教の交流という点からみても、空海は最澄よりいっそう積極的な態度をとっている。空海が中央の文化から遠い地方出身者であり、また民衆修行者としての青年時代を送ったことから考えれば、彼の基本的発想が、大陸からの渡来僧やエリート出身の僧たちを中心にした都の仏教とちがって、底辺の庶民の古い呪術的習俗に親近感を示したのも当然である。
たとえば彼は、平安京の南端羅城門の東側に東寺(教王護国寺)を建立したときには、洛南の稲荷山の神を地主神として祀っているし、高野山(金剛峯寺)の建設にあたっても、寺を建てる前にまず土地の山神である丹生明神を寺域内に勧請している。
これは、その土地に住む精霊である神々から許可を得て新しい寺社の地域を定めるという、古代的信仰にもとづいた考え方からきたものであろう。この種の信仰は、世界の未開民族に共通して見出されるものである。
東アジアの思想的伝統には、人間と自然の関係について、西洋とは対照的な見方が見出される。東アジアでは、登山の習慣は神仏の世界に近づく行為、つまり修行法として始められたものであった。
葛飾北斎や安藤広重の描く風景画では、人と自然はとけ合っている。北斎の富士は現実にはありえない急峻な山容を描き出しているが、それを印象派的とか超現実主義的などというのは的外れだろう。
それは何よりも、この山の姿に神聖なものを感じた日本人の情感を象徴的に示しているように思われる。東アジアでは、自然は、老子の言葉をかりれば、万物を産み育てる「母」として捉えられてきた。
このような自然観は道教・仏教・神道などの基礎に共通して見出されるものであるが、この問題を最も深く哲学的思索の課題として追求したのは中国と日本の禅であった。
人体を小宇宙にたとえ、大宇宙との間に対応関係をみる考え方は、神話時代の世界のさまざまな文化圏に見出される。
原始の知性にとって、この関係は比喩以上の意味をもっていた。そこには、生命としての人間は大宇宙の存在と深くかかわることによって生きている、という直観が見出される。
言いかえれば、大宇宙と小宇宙の対応関係は、宇宙の存在の神秘と自己の内にある生命というものの神秘が一つに感じられるということを意味している。
神話は、この直観を象徴的イメージによって語る試みである。それは、宇宙における人間の位置と存在の意味を問う人類の最初の問いであった、といえるだろう。
人間の精神性についての探究はここから始まる。
私たちも、山の中に清浄な世界があることを何となく感じている。
山の自然にふれたとき、「身も心も洗われる」などと言う時もあって、自然の中にいると人間の清浄さが高まるような気持ちも少しはもっている。
現実に実行することはむずかしくても、俗世界を捨てて自然の下で清浄な生き方をしたいと、たまには考える人もいるだろう。こんなかたちで自然への信仰はなんとなく受け継がれているのである。
そればかりでなく、言葉による解釈や説明だけでは到達できないもっと深いものがある、という心情も多少は残っていて、だから私たちには「解説の上手い人」より「解説できない深いものを身につけている人」を尊敬する気持ちがある。
どんな分野の仕事であれ、「名人」の技はその人の身体とともにあって、言葉にはならない面をもつと私達は考えているし、近代工業のなかでさえ「身体で覚えなければだめだ」とう言葉がしばしば用いられる。
文章の書き方でも「行間で伝える」とか、言葉と言葉の間に生じる「間」で伝える、といったことを大事にしてきたのが日本語による文章で、言葉で書かれていることしか伝えられない文章を日本では下手な文章とみなしてきた。
修験道については知らなくとも、こんなふうに修験道とともにあった伝統的な精神は、間違いなくいくらかは現代の私達に受け継がれているのである。
過去をもつことで未来へのヒントになり、自分の思考の幅を広げることになる。例えば日本建築においても、歴史の厚みがヒントをくれる。
このセミナーハウス(会場)では床板に杉を使っているが、日本建築では床に杉は使わない。杉は柔らかいので傷がつくため塗装の力で傷を防いでいる。
伝統建築は劣化しにくい松を使い、塗装はしないで拭き掃除をする。日本建築の床は広葉樹系、ケヤキ、トチ、ナラ系の木を使う。
このセミナーハウスでは梁は集成材を使っているがもって五十年ぐらいだろう。集成材の接着剤は高分子系のものを使っているので当分劣化しないが、ある日突然劣化し始める。
それに対して天然の木は年数が経つほど強くなる。奈良の高円寺は建ててから一三一〇年ぐらいで、一五〇〇年ぐらいはもつ。日本の木造住宅は一〇〇年経ったら、さらに一〇〇年もつ。
改築による欠陥住宅も多い。母屋は柔構造なのに、中は剛構造(鉄筋)にすると地震がくると倒れる。どちらかに統一しないと地震に弱い。
柔構造で地震の力を吸収するが、木造の家に住むと改修することが多く、大工は今の現代技術で対応するので、工法を統一できない。
生きている木にあわせて直さないと少しでも狂うと欠陥住宅になる。在来工法は建ててからもメンテナンスをしながらつくっていくが、欠陥ではなく、「家が、生きている」のである。
「自然が有している非合理世界」というものが、中山間地域や島嶼地域など、これまで第一次産業を基軸としてきた過疎地域の活性化の隠されたキーワードである。
生物多様性や自然環境の大切さを唱えながらの、地域活性化プログラムにおいて、その担い手である過疎地域側には、
この非合理的世界への理解やその潜在的可能性(都市部住民へのプログラム提示における)への気づきを忘れてほしくはないのである。
自然の持つ「奥深さ」や「抱擁力」の背景には、必ずこの「非合理的世界」が存在している。
私が知見してきた多くの地域活性化プログラムの失敗例は、そのことを失念してしまっているケースがほとんである。
単年度予算消化というシステムの中で、一時の小さな「地域バブル」に踊らされてしまい、数年後に負の遺産を残してしまうのである。
そして、その地域には、「知恵の蓄積」が見られないまま、次世代がまた同じことを繰り返すのである。
風景は時間の蓄積であり、永遠性の母体ともなる。
三百年変わらない風景には、三百年の時間蓄積があると考える。
この時間蓄積の長さが、その風景を作り出した社会の安定的な持続を示しているのであり、風景の安定は地域社会の安定を表現している。
だから、安定した風景を維持することは、そこを訪れる旅人の心に安らぎを与えるとともに、そこに暮らしている人達にとっても、自分の地域社会が安定的に維持されているという安心感をもたらす。
すなわち、風景が変わらないことは、その地域社会が永遠性をもっていることの証明だと思われているのである。
村の風景が変わっていくとは、村の暮らし方が変わっていくことであり、山村らしさが失われていくことの表現である。
ここに公的な資金を大量に投じても、山村らしさと山村の風景を守っていこうという、ヨーロッパの発想が生まれる。
西洋の思想というのはもともと人間と自然を分離して、昔で言えば、自然と人間は対立するものとして捉えていくという発想が強かった。
しかし、日本では人間も自然も同じ世界の中で同じように生きていて、自然と人間は分けられないものという発想の生き方をしていた。
そのため、実は日本に「自然」という言葉が存在しなかった。
自然という字自体は「じねん」と発音され、「自ずからそうなっていく」という意味合いの言葉として昔から存在していた。また、「自然」は訓で「おのずからしかりなり」と読むことができる。
つまり「じねん」は「おのずからしかりなり」の形で展開している世界。自然界でいうならば、春になったらば木々が芽を出し、葉っぱを広げ、秋になれば紅葉して葉を落としていく。
人間で言えば、生まれてきて、いつかはこの世からは去っていく。つまり、自然界も人間界も同じように「おのずからしかりなり」の世界を生きているという、これが「じねん」の世界ということだった。
実は「じねん」の言葉の意味が、日本の人たちが考えている自然の世界に一番近かった。
資本主義は、それまでの経済システムを破壊しながら、自分が市場の新しい支配者になることをめざして活動していく。ここでは過去は乗り越えられるべきものでありつづける。重要なのは、現在であり、未来だけだ。そして、現在とともにある自己だけだ。
人間の普遍的な営みなど、ここでは視野に入らない。ところが、そうなればなるほど、私たちは自分自身を見失った。
個人が普遍の人間へと変わっていく物語がみえなくなったとき、私たちは普遍の営みを自分自身のなかに発見できなくなって、漂流する個人でしかない自分に気づくようになった。
そして、自分がなぜここで生きているのかもわからなくなった。そのことが自分らしさ、自分探しといった言葉を流行させ、しかしそのことは自己肯定以外の何ものも生まなかったのである。
「おのずから」とは、他から力を加えることなく、それ自身の力で、がもともとの意味である。自然に、ひとりでに、ということで、宇宙·天然のそのままのあり方のことである。
それはわれわれには、ときに必然と捉えられたり、ときに偶然と捉えられたりする、そうした、自然,必然,偶然と感じられるような働きが、まずある。
たとえば、今度のような大震災をはじめ、台風や四季折々の移り行きもそうである。また、生き物としてのわれわれには、生·老·病·死という働きも不可避,不可抗の働きである。
むろん、「みずから」がそこに関わることで、可能になったり避けられることもあるのであるが、その働きは、根本的にわれわれにどうにもならないものとしてある。
寺田寅彦も言っていたように、それは否定的なものにかぎらず、いろいろなものを生み出したり増やしたりする根源的な産出の働きでもある。
無常というのは、もともと仏教語で、人間をふくめてこの世界をつくりあげているものは、すべてたえず変化し生滅していくのであって、何ひとつとして永遠にとどまるものはないという考え方である。
それが日本の、こうした地震や台風、また刻々と変わりゆく四季折々の風景など、日本の自然風土とあいまって、独自の、いわば民族的メンタリティ-ともいうべきものになってきたものである。
「色は匂へど散りぬるを 我世たれぞ常ならむ 」という「いろは歌」は平安のむかしから、一国のアルファベットとして親しまれ歌われてきている。
こうしたところにも、いかに無常感が「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っている」かをうかがうことができる。
くりかえしておくと、無常観(感)は無常観としてのみ、独立に感じ取られているわけではない。
大きな「自然のいのちのリズム」のようなものと重ねて感じ取られるとき、その無常観は、「己れの力や意志をも包んで、すべて興るのも亡びるのも、生きるのも死ぬのも、この大きなリズムの一節である」という「諦念」となるということである。
「諦念」とは「諦め」である。「諦め」とは「明らめ」ということで「明らかに認識し、その認識したことを受けとりなおすこと」の意味である。
ここには、本来の仏教とは違って、どこまでも「はかない」「かなしい」「くるしい」と受けとめる「みずから」の主体である「我」というものがとどめられている。そうした主体をとどめながら、それを「大きなリズムの一節」へとあらためて位置づけ、感じ取るということが、この感受性のあり方のポイントでもある。
とぎれていた意識が、ある場所に行くと突然、増幅されたり、よみがえってきたり。
地形そのものに引き出されてくる強烈なあるイメージが自在に形をとり始める。
修験道の人によると大峰山でもどこでも必ず胎内くぐりがある。
岩の胎内の場合もありますし、木の胎内の場合もあります。
そこへ入って抜けてくることが非常に重要な意味を持っている。
おそらく昔はただ回るだけではなくて、籠もったんだろうと思いますけど。
南方熊楠の生命論的な視点からの「神池、神林、神森」の位置づけは、たんなる生態学や民俗学を超えた、生命宇宙論的な展開として特筆に値する。南方は、神社の「神池、神林」が生命のミステリーを産出するマトリックスであることを研究的にも体験的にも知りつくしていた。
南方が神島(和歌山県田辺市)保存にかけた願いは、こうした生命の磁場としての神池・神林の生命宇宙論的な意味の解読・覚知から発している。
いま、「古神道」が再吟味されるとすれば、まず第一にこうした生命宇宙論的な意味の掘り下げからはじめなくてはならない。
そのとき、南方熊楠、という動植物を自分の名前にもつ日本人の思想や行動がまことに重 要なインデックスとなって浮かびあがってくる。
折口信夫の愛したたぶの木もまた、そうした生命宇宙論から再解読される必要があるだろう。
聖地への旅とは、ある意味では自分が自分自身を失っていく忘却のプロセスであると同時に、
自分がもう一人の自分を発見し、もう一つの世界に目覚めていく覚醒のプロセスでもあるといえる。
私が「私」でありながら「私」を失っていき、同時に「私」に目覚めるための不思議の場所。
ドリームランドやワンダーランドのような不可解な探検や冒険や探求へと人を駆りたてる場所。
聖地とは、このように、ことに不思議な場所なのである。
私はこの聖地への旅をとおして、地球という水の惑星全体が聖地であるというヴィジョンを 語っていきたいと思う。
日と水と風と土によって生命の秘儀がくりかえし伝承されている聖地としての地球。
地球とは、それ自体が天然の生きた博物館であり、生命のミステリーが生まれつづけているスポットである。
錬金術や道教や密教の教理書や儀式が語っているように、人体が1個の聖なる神殿であるとしたら、それを生み出した地球そのものもまた一個の巨大な聖なる神殿なのだ。
ブナ·ナラ林と照葉樹林。この二つの森林が日本列島の東(北)の森と西(南)の森を二分する。
そして森林のちがいから、東西の文化風土のちがいが派生してくる。
たとえば、猛烈な神社統廃合の反対運動を展開した南方熊楠は、一時期、熊野山中にひとり住んでいたが、そこは典型的な照葉樹林の森である。
それに対して、生涯、岩手県花巻で暮らした宮沢賢治は、典型的なブナ·ナラ林の森に住んでいた。
たがいにアニミズム的かつシャーマニスティックな感性をもちながら、その上に独自の曼陀羅的思想をうちたて、野の科学を実践した南方熊楠と宮沢賢治。
彼らは日本列島における二つの森の世界を端的に表現し、生きた。
こうした森の文化は、七世紀以降の律令体制期に整備された「神道」の中にも大きな影を落としている。
いかにして生命種を生み出したのか、人類という生命種がつくりあげた文明とは、なんのために、そして文明の未来はどう生きられるべきか。現代文明は、霊と心と体の三層構造から霊と心を抜いたところで成立した文明である。
生命の秘密は、おそらくこの霊と心を含めて問いかえすことによってしか、あきらかにならないのではないだろうか。そしてまた、こうした生命問題が各民族の具体的な歴史的・文化的発展をとおして解明され、解決されるときに「古神道」の意味もまたあきらかになるだろう。
そのときの「古」の解明とは、たんなる日本の民族的「古」のみならず、生命や存在世界そのものの「古」の解明・開示とも通じているはずである。
その意味では、「古神道」とは、私たち一人一人に宿っている生命的記憶、あるいは太古の叡知そのものなのである。そしてそれは、地球という場所の記憶のメディアであり、インデックスなのだと私は考えている。
現代世界は伝統的な「普遍」を壊しただけで、新しい「普遍」をつくりださなかった。この時代を領導した価値観は、進歩、発展、改革、変化である。
たえざる変動によって過去を乗り越えていく時代。それは普遍的なものではなく新しいものを追い続ける社会を創りだした。しかもこの変化の主体に個人がおかれた。
一般的に、近代以降の時代は人間の欲望をためらいなく解き放ったといわれるが、その欲望は「つながり」のなかにある欲望ではなく、個人だけに還元されていく欲望だったのである。
こうしてバラバラになった人間たちが個人の欲望のままに生きる時代が生まれた。人々はそれを自由だと思った。
ところがイギリスの産業革命から約二五〇年、日本では明治維新から一五〇年近くがたってみると、人間たちはこの時代に大きな矛盾があることに気づきはじめた。
バラバラになった個人の問題がさまざまなところで噴出したばかりでなく、普遍的な価値をみいだすことなくその日のスケジュールに追われているだけの自分、毎日を消費しているだけの自己のありように気づかないわけにはいかなかった。
こうして人間たちは、安心感のない生活、充足感のない生活のなかに投げ出されたのである。
農山村・漁村での作法とは。
たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。
村の面積の九六パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をもたなかったら、人は暮らしていけない。
ところが村人は、〈自然について〉などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。
そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しょうとも考えない。
そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。
とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかと言う気がする。
日本における自然と人間の関係・「本質的なことは、説明不可能」
日本の人々は、伝統的に、もっとも重要なこと、本質的なことは、理解する対象ではないと考えてきた。理解する対象とは説明できるもののことである。
合理的な説明が可能だから、私達はその説明を理解する。たとえば、十個のものを五人で分けると一人二個ずつになる、というのは、合理的な説明が可能である。ところが、生とは何か、死とは何かという課題になると、たちまち合理的な説明はむずかしくなる。
心臓や脳の働きで生死を決めることはできるが、それだけでは生きているとは何かを意味することなのか、死とは私達にとって何なのかという根源的な問いに対する答えにはならない。
古代ギリシャに、プラトン、アリストテレスといった哲学者が登場してから以降の西洋哲学は、こうした課題に対しても、合理的な説明を与えようと努力してきた。どんなに難しい課題でも、いつかは合理的に説明できる日がくると人々は考え続けた。
ところが、日本の発想は違う方向にむかった。説明できるものは表層的なものにすぎないと考えたのである。それは根源的なものは説明できないということである。
つまり、悟ったり、体得することはできても、それを言葉で論じることができない、と。
私は、このような発想が生まれた原因のひとつに、日本における自然と人間の関係があったのではないかと考えている。
日本の自然は、一面では大きな豊かさを人間たちにもたらしてきた。高温多湿な夏は植物の成育を助け、多様な生物世界をつくりだした。
冬には渡り鳥が飛来し、四季折々の自然が人間たちの前に展開した。人々はそこに恵みの自然を感じとり、自然ほどありがたいものはないという感情をつくりだしていった。
ところが、その自然は、禍をもらたす自然でもあったのである。梅雨時の豪雨、豪雪、台風、そして地震、噴火・・・。しかも恵みの自然と禍としての自然を分けることもできない。
なぜなら、梅雨があるからこそ稲が育ち、しかもその梅雨はときに洪水を起こすように、恵みと禍は表裏のものとして人々の前に展開していた。こういう環境の下で暮らしてきた人々にとっては、自然の本質は恵みなのか禍なのかといわれても、答えようが無かった。
どちらの面もあるとしかいいようがない。本質はわからないのである。そこから、本質がわからないままに自然と付き合っていく精神を身につけた。
日本の民衆精神の基層に流れているもののひとつは、このような発想ではないかと私は思っている。
人々は日本的自然という、白黒はっきりつけられない、つけようとしても意味がない世界と深くかかわりながら生きてきた。
この伝統的な精神をなんとなく受け継いでいるから、わからないことは、わからないままにしておいても不安ではない。本質的、根源的なことは、いつかつかめるかもしれないが、説明可能なことではない。
山の神、水神、田の神、村の世界はさまざまな神々の世界であり、
それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった。
自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、
その「裂け目」の先には異次元の世界がひろがっていると考える人々も多かった。
その異次元の世界に、「あの世」をみる人もいた。
ときにはオオカミはこの「裂け目」を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人たちもいた。
鈴木大拙に教わった人の一人に、民芸運動などで有名な柳宗悦がいます。
彼は、「合理的な理解というものは、便利な理解ではありますが、深い理解ではありません」というようなことをいっています。
彼も合理的理解を否定してはいないのです。便利な理解として使えばよい、ということです。
ただし、そういうものに深い理解はない、ということを知っていなければいけない、ということです。
近代化された社会が壊してしまったものは、このバランスではないかと私は思うのです。その結果、合理性の破綻がすべての破綻になってしまう時代がつくられた。
私たちはもう一度、非合理な世界で働き生きることと、合理的な世界につき合うこととのバランスを、とり戻さなければいけないような気がします。
奈良盆地にヤマト王権の最初の都がつくられたのは、三輪山の麓・巻向の地であったと言われています。そのすぐ近くに記録にあらわれる最初期の市が出現したのです。
「いち」の語源ははっきりしていはせんが、「い」も「ち」も、霊力に関わりのある言葉であり、霊力にみちた神々を招いてお祀りすることを「いつく」といいますからいずれにしても地霊の力の強い場所でなければ、市場を開くことはできませんでした。
中世の記録にはよく「虹の立つ場所に市を立てる」という不思議な記事が見られます。
古代人にとって、虹は大地の底から空に向かつて吹き上げたエネルギーの飛跡をあらわしていましたから、これなども市場と大地の霊力との深い関係を物語っています。
山と里との境界にある、水とのつながりの強い場所に、山の神を「いつく=接待する」祭の場が設けられ、そこに市が立てられました。
資本主義の困るところは、市場という場が人間と自然を分離させてしまうことです。
僕は『日本の大転換』を書きながら、原発と資本主義がとても似ていると気づいた。
市場経済は農業に企業化を求め、原発は一瞬で莫大なエネルギーを作り出す恒星のしくみを、自然との媒介なしに直接地上に持ち込む。
どちらも人間社会と生態系を無視しているから、人間と自然が結んでいる環をほどいてばらばらにしてしまう。
これを結ばなければいけない。
宇宙の価値論というのは、私たちの世界がいま当たり前のように従っている価値論とは違います。
われわれの価値論は等価価値です。たとえばボールペンには値段がついていてお金と交換します。こうした等価交換で、経済システムをつくっているのです。しかし、宇宙はこの価値観ではできていません。
宇宙の価値論の根源は「贈与」です。
太陽エネルギーは、太陽が死滅するまでそれを与え続けて、われわれに代価も要求しません。
これこそがマハーヴァイローチャナ( 大毘盧遮那 )そのものではないでしょうか。
それが、古代人の発想としてはごく自然だったと思います。
満遍なく、四方に、差別なく、エネルギーが放射され、其れが現実世界をつくり上げている。
植物界·動物界·人間界という存在の世界の構造のあらゆる部分を貫いて、私たちの世界に遍満している。
そして、エネルギーを絶えず供給し続けている存在として、マハーヴァイローチャナはあるのです。
この中心部にあるものに、古代人(五世紀ぐらいの人)は大毘盧遮那仏=マハーヴァイローチャナと名づけ、これが、仏教が曼荼羅思想を思想的に取り入れる一番重要なポイントになっていったのです。
日本は実際地理的にも閉ざされた国だし、モラルの面でも習慣的に閉ざされて、弥生以来、今日まで連綿とそれが続いてきた。
毎年同じように田んぼが耕されて食糧が獲得できるという、馴らされた非常に平面的な感じがする。それにおれは憤りを感じていた。そのときに、縄文土器という空間的なものに出会った。
つまり平面的に納まっちゃって、波風も立たないという閉ざされた現代社会の対極にある、波と風とが竜巻きを起こしているような縄文土器の表情にである。
もし人間の心の深淵さの中に竜巻きがなかったら、あんな竜巻きのような表現ができるわけがない。縄文時代には心の中に竜巻きがあったのだ。
それがある時点から日本人には、心が燃え上がるような火炎土器と俗に言うが、炎のような心を持つ人間がついに出てこなくなったのだ。
高度な世界宗教では、はかることの出来ない、信仰の姿。そしてそれはまた、いわゆる未開社会の原始宗教とも、何か質の違う、――あえて言うなら、きわめて日本的な神聖感につらぬかれた、無垢な信仰だ。
それが素肌のまま生きているのを感じた。われわれの生命の初源的な姿、感動の根は、そこにあるのではないか。私という個人をこえて、民族の底にあるものを触発される思いだった。
日本中をめぐり歩いても、俗に輸入文化国などと言われるとおり(実は私はそういう単純な言い方には問題があると思っている)、あらゆる文化形式の、幾つもの層がぶつかりあい、積み重なり、そしてその情性と混乱の下に隠されて、初源的な感動はいかにも見失われているかのようだ。
信仰の素朴な根はいわゆる神社、お寺などの重たい形式・儀式で、厚くおおわれており、われわれは生れた時から、そういう出来上ったパッケージングしか見ないし、見せられていない。日本人として目隠しされているのだ。しかしそれはいつでも、運命的に何らかの姿で滲み出るはずだ。
生活の底に生きつづけているからこそ、その天地根元期のような清浄にふれると、それが幅ひろく、あらわにひらく。――神秘の実感である。そこに、独自の表現だが、私は日本人のロマンティスムというようなものを感じるのだ。
能登半島の真脇のウッドサークルに再びもどろう。
直径五〇センチから一メートルもある巨大な柱、その柱は曲線の部分を内側にしてそそり立っているのである。そのサークルは何を意味するか。
私は原始人の最初の驚きはやはり天体の運動だったと思う。太陽は毎日東に出て西へ没する。今日もまた同じような運動をくり返す。(中略)
人類の知恵は、日や月や星の循環する不思議さを感じとることからはじまったのではないかと思う。そしてこの根底に生死の循環の思想がある。
原始人はわれわれのように永遠の光熱体である太陽のまわりを地球がまわるとも、また一時代前の人のように地球のまわりを太陽がまわるとも考えなかった。
太陽は毎日夕べとともに死ぬのであり、夜明けとともに再生するのである。つまり太陽は生死をくり返していると考えられる。
その生死のリズムに合わせて人もまた生死をくり返す。それが覚醒であり、睡眠である。
岡本太郎が縄文芸術を発見したのは、ピカソが黒人芸術を発見したこととつながっているのである。
縄文人の世界観には、黒人の世界観と同じようなものがどこかにある。それは宇宙にみなぎっている霊への強い信仰である。
いろいろの霊が宇宙にみなぎっている。そのなかには良い霊も悪い霊もある。悪い霊を追いはらい、良い霊を近づける、そういう霊への恐怖と信仰のもとに縄文芸術はつくられたといってよいであろう。
岡本太郎はたしかに、縄文土器の背後に、かくれた巨大な霊の世界を直感したにちがいない。そしてその直感にもとづいて縄文土器を礼賛したのである。
日本の抽象画家にして、日本の抽象芸術というべき縄文芸術を発見したことはたしかに鋭い感性である。
しかし岡本太郎を含めた日本の抽象芸術の多くは、ピカソなどによるヨーロッパの抽象芸術の模倣にすぎなかったという点を、否定することはできないように思われる。
それはいってみれば模倣の模倣である。二重の模倣の上に日本の抽象芸術は成立していたといえる。
2023年4月16日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。