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その炎の揺らぎを仰ぎ見ながら、私は「鉄の道」に思いを馳せていた。数年前の年明け早々、奥出雲の船通山山麓は、まだまだ雪深かった。ヤマタノオロチ伝説の発祥地ともいえる斐伊川の上流にある、「たたら製法」の現場。現代の村下(ムラゲ)・木原さんら技師集団の手によって、炉心から舞い上がる炎・・。
炎と出逢う日の朝には、安来町の金屋子神社へも参詣してきた。ここは、鉄の技法(たたら)を伝えた金屋子神(カナヤゴノカミ)の神話の発祥地である。木原さんたち技師集団は、火入れの前には、必ずこの神社へ参拝するという。このように、我が国における金属の中で、「鉄」ほど神話や伝説など、伝承された物語の素材や舞台となっているものはないだろう。
それだけ、「鉄」が日本の歴史みならず大陸との交流の歴史に大きな影響を与えたことが想像される。鉄器文明は人類が隕鉄を手にした時から始まったといわれている。隕鉄とは、星の爆発などで生じたもの。大気圏を突入する際にほとんどが消滅するといわれているが、ものの一部が地球に到達し、 その破片を人類の誰かが偶然手に取り、その効用を発見した。
諸説あるようだが、紀元前一一八〇年頃トルコ東部のヒッタイト地方にて、人類初の製鉄技法が発明された。シルクロードを東へと向かうラクダや馬の背に乗せられ、長安の都、韓半島などを経ながら、山陰地方の沿岸にその「技法」が伝わってきたのだろう。私たちの祖先は、その「技法」を日本の風土の中で昇華させてきた。それが「和鋼」の製法である「踏鞴(たたら)」である。
海の外から運ばれきた技法を、日本の自然環境と調和させる技術に仕上げた。 その技術の背景で活躍したのが、中国山地の砂鉄と広葉樹の森だった。全国の刀匠たちへ、日本刀の素材である「玉鋼(たまはがね)」を供給できるのは、「たたら製法」の炎を継承している島根県奥出雲町の工房だけであると聞く。美術品としてではなく、日本人の心の佇まいを表象するともいわれる、「日本刀」の未来は、「たたら製法」の存続に委ねられている。
私たちが「たたら」について考える、ということは、少し大げさではあるが、私たち日本人の「昨日までの歴史」と「明日からの歴史」、 この双方を考える視座を養うということかもしれない。「たたら」は産業としては衰退したが、歴史上にその時系列の縦軸を刻み続けているのである。
三十歳代後半に、島根県雲南町にて『蹈鞴(たたら)』の関連施設・菅谷山内に出逢ったことが、そのきっかけであった。中国山地の各地には、砂鉄から鉄をつくる『蹈鞴(たたら)工法』の跡地などが多く点在している。三十歳代から四十歳代にかけては、その多くを自分の足で巡ってきた。五十歳代に入ると、その魅力を知人友人に伝えはじめ、一緒に彼の地を再訪したりしていた。
そんな『たたら』との付き合いの中でも、村下(ムラゲ=職人頭)である木原さんとの出会いは強烈だった。
写真は、三十歳代で初めて出会った時。
木原さん(中央)
紹介してくれた奥出雲町の職員(右)
筆者(左)
木原さんは、日本刀剣美術保存協会(略して・日刀保たたら)の技術者の方である。ただ、技術者というくくりでは収まりきらないだろう。というのも、この方がいないと「日本刀」を製造することができないのである。昔のタタラ製鉄においては、技師長的役割の人を「村下=むらげ」と呼び、職人集団の中で最も尊敬をされていたのである。
現在わが国には、刀鍛冶は二五〇人程度いるようである。その刀鍛冶の方へ、日本刀の素材である「玉鋼=たまはがね」を供給しているのが、この木原さんをはじめとする、タタラ師なのである。日本刀の素材である「玉鋼」は、科学的な製法では生産することができず、昔から継承されてきている、「たたら製鉄」の技法でないと造れないのである。
木原さんとは、島根県仁多郡奥出雲町大呂という地区にある、日刀保たたらの工房で幾度かお会いしている。最初に会った瞬間から木原さんの背中に一本の軸を感じとっていた。その軸とは、ゆるぎない匠の技への自信と、伝統文化を継承している責任感が素材となった「男の玉鋼」のようなものであったと記憶している。やはりいるもんなんだ・・。「生き様」という名の釉薬でもって、自然に顔の表情を見事なまでに熟成させている「男たち」が・・。とも感じていたのである。
言わずと知れた「奥出雲」の魅力・・。それは神話と伝説に彩られた物語の土地にある。旅とは、不思議なものである。その魅力ある土地を訪れた際の天候によって、その印象度の深みが変わってくるからである。交通機関のスケジュールは自分で管理することができても、「天候」だけは事前に予約することができない。
そぼふる雨の中、「船通山(せんつうざん)」へと出かけてきた。幾度となく訪れているのだが、意外にも雨の日が多いのに気がつかされた。斐乃上荘から傘をさして、亀石コースの林道へと入る。小さな橋を渡った瞬間から、その空気感が非日常のものとなってゆく。なんともいえない「濡れた」感じがとても心に響いてくるのである。
ヤマタノオロチの伝説をもつ船通山。『古事記』では鳥髪(とりがみ)の峯として登場する神話の霊峰である。歩きながら考えてみれば、山の名前にも、そしてその神話の物語にも「水」が、その背景にあることにはたと気がつく・・。そうだったか・・。この濡れた感触、というのは、神話の物語には必須アイテムなのか、と。
そう思うと、登山道の脇を流れる清流のせせらぎも、水滴を蓄えながら静かに時を刻む緑の苔たちも、流れるガスにその幽玄さを演出する冬枯れした樹木たちも、すべてが神話の物語のわき役のようにも見えてくるのである。「あいにくの雨で・・」なんていう言葉は、どこかに霧散してしまっている。「雨でないと」「雨だからこそ」、味わえる風情の妙味というものがあるはず・・。
船通山に降り注ぐ小さな雨は、山肌を縫うように下ってゆき、やがて斐伊川に流れ込み、そして宍道湖へと注いでゆく。この水の流れが、タタラ製鉄には欠かせないものであったのはいうまでもない。山から川、そして川から海、そして蒸発して雲となり山に還ってきて、再び雨を降らせる・・。砂鉄の採集できる上流部分にてタタラ場ができ、中国山地の豊かな樹林がその脇役となる。
雪深い冬の三昼夜、タタラの炎は燃え続ける。温められた地熱と人々の熱気が、奥出雲の雪をゆるやかに解かし始めるのだろうか・・。雪解けの水は、やがて斐伊川を潤し、中流から下流の人々の営みの糧となってゆく。その水流を使い、「玉鋼」たちが出航を待つ北前船へと運ばれたのだろう。そして、日本海沿岸、関門海峡、瀬戸内海航路を伝って、玉鋼は大阪・堺を経由して全国の刀鍛冶の手へと渡っていったのである。
船通山が蓄える雨水は、日本刀の唯一の素材である、「玉鋼」の「産湯」といってもいいのではないだろうか。奥出雲に降る雨は、遥か太古の昔から繰り返されてきた、自然と人間の循環物語への旅を提供してくれるのである。それ故だろうか・・、奥出雲には雨が似合うのである。
宗教人類学者の中沢新一氏は著書『虎山に入る』にて次のように語る。
宇宙の底には、目に見えない、見ても何だか大きすぎてわからない、龍や蛇のようなものがうごめいています。その状態は混沌なので、人間が生きるためには、これを何かの形で停止させ、そこから物質の世界を噴き出させなければいけない。そこで、古事記のスサノオの神話のようなものが語られるようになりました。
つまり巨大な蛇がいて、ヤマタですから八つも首がある。八つあるというのは要するに、頭が無数ということです。それが大地の底にいる。これをスサノオが殺すと、ヤマタノオロチの尻尾から刀が取り出される。これは王権を象徴しています。この神話は、王権の発生を語っています。人間の王が出現する前は、この世界は混沌とした龍、自然力が支配しています。
そこにスサノオが剣を下ろし、龍を殺す、即ち、流動していた流れの中に剣を刺して位置を固定します。そしてそこから噴き出したものが王権の剣として、人間の世界に秩序を作り出す王様の印になる。この王様の印はもともと、ヤマタノオロチのものでした。つまりこの世界の秩序も力も、実のところ目に見えないヤマタノオロチのものでしたが、それを我々の世界に噴き出させる必要があったのです。そのために目に見えないものに戦いを挑み、あるいは交渉して、踏み込んでいく乱暴な人間がいました。彼の行為によって事態は変わり、今まで見えなかった力が外へ噴き出して剣などの物質になる。神話はこういう思考方法を取っています。
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★ 砂鉄から玉鋼を産出し、その玉鋼から刀を創る。その刀で勢力を拡大し、自らの支配圏を確立していく。そして、刀は『神の剣』となり、権力のシンボルとなっていったのであろう。天皇家の三種の神器のひとつに、『剣』がある。
島根県奥出雲町は、ヤマタノオロチ伝説の本場でもある。船通山を源流とする斐伊川は、古来暴れ川だった。斐伊川は、船通山を源流とし、奥出雲町、そして島根平野を流れ、江戸時代前までは出雲大社の近くへと注いでいた。江戸期に大規模な河川改修工事がなされ、現在の河口は宍道湖となっている。その暴れ川ぶりは、中、下流の稲田を耕す民にとっては、厄介な生き物(ヤマタノオロチをイメージ)であった。
困り果てた稲田の民は、河川土木修復工事のテクノロジーを有する半島からの渡来人集団(スサノオをイメージ)に助けを求める。この半島からの渡来系技術集団は、土木技術のみならず、製鉄、養蚕などのテクノロジーにも長けていた。そして、斐伊川を改修工事をしていく際、良質の砂鉄が産出することに目をつけたにちがいない。それ以降は、山陰地方では奥出雲町を中心にタタラ製鉄の本場となっていくのである。
その奥出雲町にある船通山。この山麓にある鳥上(とりがみ)の滝という場所には、ヤマタノオロチが棲息していたという伝説が残されている。暴れ川の源流域にある、ヤマタノオロチ棲息地伝説。そして、このヤマタノオロチをスサノオが退治した際に、オロチの尾っぽより取り出されるのが、『草薙(くさなぎ)の剣』。この剣は、代々の天皇家における『三種の神器』のひとつとなっていくのである。タタラ製鉄の地で剣が産出される。その物語がヤマタノオロチ伝説なのであろう。
厳寒の奥出雲地方にて、平成最後の『古代の炎』が舞い上がった。この舞い上がる炎の熱をまじかで浴びたことがある。『ふいご』から送られる風により、一定の間隔をあけて舞い上がる炎・・。この炎が無ければ『日本刀』は生まれない。(土)でできた炉心に、(風)が送り込まれると、燃料の木炭(木)から、(火)がゴーッという咆哮とともに、炎の舞いを演じ始めるのだ。そのさまは、(水)の神・龍神が真っ赤に燃え上がりながら昇天していくようでもあった。
(土)(風)(木)(火)がシンボライズされた要素が凝縮され、炎上することにより、龍神(水)という幻想世界と、硬質の現実世界・玉鋼(金)とを産出する。古代製鉄法=蹈鞴(たたら)の郷・奥出雲は、ヤマタノオロチ伝説の本拠地でもあるのだ。蹈鞴製鉄とは、自然を構成する六大要素の結集されたプログラムなのではないだろうか。
近年になり、日本刀への注目度が新たな高まりを見せている。武器としてではなく美術品としての価値は、海外からも熱い視線が向けられている。現在、日本各地には約二百カ所の日本刀を製造する鍛刀地(たんとうち)があり、刀鍛冶(かたなかじ)職人が伝統工芸の世界に身を浸している。その日本刀作刀の素材に欠かせないのが、高品質の和鋼(玉鋼・たまはがね)である。
この素材は、現代の先端工業技術でも製造することが困難であり、古来より継承されてきた「たたら(蹈鞴)工法」が唯一その生産を担っているのである。その生産の本拠地が奥出雲地方である。島根県奥出雲町には、日本刀剣美術保存協会が運営する「日刀保たたら」と呼ばれる工房があり、伝統工法技術の継承と同時に玉鋼の生産を現代において担っているのだ。また島根県雲南市吉田町は、たたら生産で栄えた町であり田部家土蔵群など見所が多くある。
その田部家が所有していた「たたら場」が、隣接する菅谷たたら山内である。ここには、江戸時代から大正十年まで一七〇年間操業されてきた「高殿(たかどの)」があり、内部を見学することができる。
鉄は、人類史上最も重要な発明の一つであり、その伝搬の歴史は非常に興味深いものである。鉄器時代は、人類の文明の進歩と発展において重要な役割を果たしている。特に現在のトルコ東部エリアは、古代においては『ヒッタイト』と呼ばれていた。鉄の歴史は事実上、このヒッタイト地方から始まると言っても過言ではないだろう。ヒッタイトは、紀元前一五〇〇年頃に小アジアで栄えた古代国家で、鉄器を発明し、鉄の加工技術を発展させてきた。ヒッタイトは、鉄を広く利用し、戦争においては鉄の武器や防具を使用している。また、ヒッタイトは、鉄の加工技術を周辺の国々に伝え、鉄の生産と加工が広まるきっかけとなっている。
その後、鉄器時代は中東や地中海地域に広がり、紀元前一二〇〇年頃にはヨーロッパにも伝わっていくのである。古代ギリシャやローマ帝国では、鉄器が広く使用され、鉄の加工技術がさらに発展していく。中世に入ると、鉄の需要が増加し、鉄鉱石の採掘と鉄の生産が各地で盛んになっていくのである。近代に入ると、鉄は産業革命の重要な材料となり、鉄道や機械工業など、多くの産業において鉄が必須のものとなったのである。また、鉄は軍事技術の発展にも大きく貢献している。
以上のように、鉄の伝搬は古代から現代に至るまで、人類の歴史と密接に関わっているといえるだろう。ヒッタイトが鉄の発明と加工技術の発展に貢献したことは、人類文明の進歩に大きな影響を与えたと言えるのである。そして、内陸アジアにて創出された産鉄の技術は、なにも西方向ばかりではなく、東へも伝搬していったのである。その役割を担ったひとつの移動種族が、スキタイ民族であるといわれている。スキタイも黒海やカスピ海周縁を拠点とする移動民であった。
スキタイは、紀元前七世紀ごろ、史上初の騎馬民族軍団を組織してギリシアの植民都市と交易し、周辺諸国家を支配していくのである。スキタイ文化の影響はユーラシアの草原地帯に広がり、東の中央アジアを経由し、モンゴル高原、朝鮮半島を伝いながら日本の製鉄技術へも影響を与えたのである。特に、日本への産鉄技術の伝搬には、朝鮮半島の地質的な特徴が大きく関与している。朝鮮半島は、古代から鉄の産地として知られていた。特に朝鮮南部には次のような3つの鉄鉱石産地が存在していたのである。
〇 慶尚南道晋州市
晋州市は、朝鮮半島南部の慶尚南道に位置し、古代から鉄の産地として知られていた。紀元前四世紀頃から鉄器が作られ、鉄の生産量が増加している。特に、百済時代には、晋州市で生産された鉄が朝鮮半島内外に広く輸出され、晋州市は鉄の交易の中心地となっていたのである。
〇 全羅南道鎮安郡
鎮安郡は、朝鮮半島南部の全羅南道に位置し、古代から鉄の産地として知られている。鎮安郡では、百済時代から高句麗時代にかけて鉄の生産が盛んに行われ、特に高句麗時代には、鉄の生産技術が発展し、高品質の鉄が生産されるようになっている。
〇 慶尚北道慶州市
慶州市は、朝鮮半島南東部の慶尚北道に位置し、慶州市では、新羅時代には鉄の生産が盛んに行われ、十世紀頃には、鉄の生産量がピークに達している。また、慶州市では、鉄の生産に必要な水力資源が豊富にあり、鉄の生産に適した環境が整っていたことが、鉄の産地としての発展に大きく貢献していたのである。
以上のように、朝鮮南部には古代から鉄の産地が存在し、鉄の生産が盛んに行われていた。この朝鮮南部エリアは、『倭国』と呼ばれていた時代の日本とは、多くの交流があったことは歴史的事実である。そして、鉄の技術に関しても、多くの技術者、知恵者の来訪や交流などが盛んにおこなわれていたのであろう。その日本側における交流の担い手の多くは、日本海側(現在の島根県や福井県、石川県、新潟県など)に居住する集団であたのだろう。
先日訪れた、鳥取県日南町阿毘縁(あびる)地区。イザナミが葬られた「黄泉の国」伝説・お墓山、が残る土地である。その地区に隣接するのが、タタラ製鉄(日刀保タタラ)などで知られる奥出雲横田地区。その横田地区の南には、山脈を挟んで比婆山を有する庄原市がある。国土地理院の地質解析・シームレス地図も用いながら、このゾーン(比婆山信仰圏⇒庄原市教育委員会の稲村秀介氏によるネーミング)を多角的に俯瞰する必要性を感じている。それは、過日発生した韓国・浦項(新羅国時代に渡来人が出航した港のひとつ)での地震も含めて、古代より連動する「共鳴する地殻の動き」を通じて妄想を膨らませる行為でもある。
日南町に「福寿実」とか「福万来」という、素敵な地名の場所がある。この一帯は、七月初旬にヒメホタルが乱舞するという小川が流れている。その小川の源のひとつに、標高六四六メートル峰がある。国土地理院のシームレス分析図によると、この峰は「火山」となっており、横田火山帯の中心的位置とされている。横田火山帯とは、鳥取県日南町から島根県奥出雲町の横田地区にかけての一帯のことであり、数十万年前には広域の火山帯であったという。シームレス分析図によると、山陰における大きな火山帯には、大山、蒜山、三瓶山、そして、この横田火山帯である。火山と地名には少なからず因果関係があるという説がある。
日野郡・・・火の群、(郡=群はちょっとした遊びだが)
日南町・・・日野郡の南⇒火の国の南、
斐伊川・・・火威川、
日登(ひのぼり・島根県雲南市)・・・火登り
国文学者の、益田勝実氏は「火山列島の思想」の中で、次のように述べている。
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原始·古代の祖先たちにとって、山は神であった。山が清浄であるからではなく、山が神秘不可測な憤怒そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった。この自明のようなところへ、日本の神道史学の山の神の探究をもどしたい、とわたしは考える。
ブナ林に関しての考察
とある日、広島県庄原市の里山をガイディングした。神話の里山を歩こう、というタイトルのものであった。イザナミの命の墳墓という説のある、比婆山御陵への参詣道であったルートである。その帰路に、県内有数のブナ林を通過した。その際、幸運なことに、小雨模様となった。霧がかかるブナ林というのは、なんともいえない神秘的な空間を演出してくれるのである。そのブナ林は、生態系の宝庫ともいえる。食物連鎖の最終ランドにいるツキノワグマもその恩恵を享受している。
そして、東北の地では、その白神山地などのブナ林で、マタギとオヤジ(熊)の格闘が繰り広げられた歴史がある。マタギの教え、というのに惹かれて、阿仁集落を訪れたことがある。現代人にとっての『森と人』『自然と人間』の折り合いの付け方を考える際に、これら森の中で生きてきた山人(マタギ、修験者、忍びのもの、サンカ、杣人、タタラ集団、木地屋など)たちの智慧から学ぶものは多いと思っている。
柳田国男氏の『遠野物語』に出てくる物の怪(常民=農民からみての)のような集団は、おそらくや「土地に根づかない、森を移動する山人」なのであろう。遠野物語の冒頭部分には、『国内の山村にして、遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。』とある。遠野よりさらに物深き所・・・、そこには『ブナ林』が広大に広がっている森がある。広島県の神話の里にも、有数のブナ林が展開しているのである。
ブナ林とは、そんな『 平地人を戦慄せしめる 』くらいの慄然とした世界があり、現代の悩める時代の処方箋ともなるヒントの多くが、『物語』や『伝記』、『昔話』として残っている世界なのである。そして、タタラ製鉄には、このブナ林をはじめ広葉樹林が欠かせないのである。
島根県安来市にある金屋子(かなやご)神社の総本山である。社殿は総檜造りで、日本でも稀有な存在となっている。「鉄」に関わる伝説や神話の各地を巡る視察やプログラムの実施をする中で、鉄の神様・金屋子神(かなやごしん)を強く意識するようになっていた。
伝説によると、この鉄の神様は、播磨の国から白鷺に乗って、この島根県(神社のあるところは安来市と奥出雲の境あたり)に飛来し、人々に鉄の製造技術(タタラ製法)を教えたという。その白鷺が飛来して止まったとされる、桂の木がご神木としてこの神社の裏手にある山麓に、代替わりを重ねながらも人々から尊崇を集めている。
島根県奥出雲町にある、古代タタラ製鉄工法で産鉄するタタラ師たちは、毎年冬の操業前には、この神社まで歩いて参拝に訪れている。
まつろわぬ民=東北地方に古代いた蝦夷(エミシ)は、漂泊する産鉄民でもある。そのエミシと蹈鞴(タタラ)工法を介した奥出雲との紐帯とはいかなるものだったのであろうか。そんな思案をしている最中に、とある文章に出会ったのである。その文章には次のように記述されている。
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そもそも、蝦夷とは小中華思想に凝り固まった朝廷側からの蔑称であり、陸奥国の住民は、未開の蛮族ではなかった。その証拠の一つとして、 日本刀の原型となった古代の蕨手刀(わらびてとう)が、主に東北地方から発見されていることがあげられる。柄(つか)や鍔(つば)が、反りのある刀身と一体になっている共鉄造(ともがねづくり)の蕨手刀は、その改良型である後世の太刀と同じく、騎馬による斬撃を想定して作られた武器であり、朝廷側の剣とは形も使い方も全く異なつていたのである。
この蕨手刀をかかげた蝦夷の騎馬軍団が、歩兵を主体とする朝廷軍の前に立ちふさがつている情景を想像していただきたい。圧倒的に数で勝る朝廷軍が、三十年間も苦戦していた理由が理解できるのである。蕨手刀は、東北地方に多い鉄山での鉄鉱石の採掘や、砂鉄と餅鉄(もちてつ=川底の磁鉄鉱)の採取、踏輔(たたら)製鉄や鍛造に関する技術と知識の結晶である。
鬼門(都から東北方角・東北異界)の先にいる鬼(エミシ)たちは、朝廷の支配に抗う鍛冶・鉱山師だったのである。古代の製鉄は西高東低で、東北地方での本格的な製鉄は平安時代から始まるというような説については、疑間を禁じ得ないのである。
江戸時代・松江藩には、たたら製鉄の御三家というのが存在した。田部(たなべ)家、絲原(いとはら)家、そして、櫻井(さくらい)家である。藩主から製鉄操業の許可をもらい、西中国山地の巨大な面積の山林を所有していた。その山林近くを流れる河川沿いにて砂鉄を採取し、山林の中では燃料となる炭をつくっていたのである。
田部家は、島根県吉田町を拠点としていた。その往時の面影が現在の街並みに残っている。本町通りと呼ばれる中心部は、緩やかな石畳の坂道となっており、 田部家土蔵群や番頭屋敷、目代屋敷、いくつもの小路などが往時の面影をとどめている。また、鉄の歴史博物館があり、館内にては、昭和期に最後のたたら製鉄操業がおこなわれた際の、貴重な映像をみることもできる。
絲原家の住居も、現在は資料館となっており一般にも公開されている。そして、櫻井家の住居は、往時の名残をのこした旧家である。旧家の中にある中庭は贅を凝らしたつくりとなっており、松江藩藩主が、この庭を好んでよく来訪していたとも聞く。
山内(さんない)とは、日本古来の製鉄法であるたたら製鉄に従事していた人達が日々働き、生活していた地区の総称である。高殿、元小屋、長屋などが残っており、当時の風景を今に伝えている日本でも稀有なエリアである。たたら製鉄が行われていたのが「高殿」で、日本で唯一当時そのままの姿が残っており、映画『もののけ姫』に登場するたたら場は、ここがモデルといわれてもいる。
この集落に居住される朝日光男さんとは、長いお付き合いである。この方のタタラ説明の口調は、おもわず引き込まれそうになる名口調なのだ。朝日さんの背後にある写真は、タタラ製鉄の現場には必ずあるといわれる桂の木。四月の下旬には、この桂の木がまるで炎のように真っ赤に燃え上がるという。
奥出雲たたらと刀剣館
島根県奥出雲町にある、日本の鉄文化を紹介する施設である。この施設は、地元のタタラ製鉄や踏鞴製鉄の歴史や文化、鉄の製造工程などを展示している。また、鉄の歴史を紹介する常設展示室や、踏鞴製鉄の実演場所、体験コーナーなどがある。
広島県安芸太田町加計(かけい)町には、吉水園(よしみずえん)という名所がある。ここは、中国山地のタタラ製鉄で財をなした、加計家(町の名前は、この方の家名からきている)の山荘として建てられた。地元の政財界の重鎮や湯川秀樹さんなどもこの山荘に宿泊されたことがあるという。ここは、紅葉の名所でもあり、穏やかな日和が差し込む縁側からの眺めは一興である。
この山荘から小道を登ると、タタラ製鉄の神様である、金屋子神(かなやごのかみ)を祭る神社もある。この加計家には、とても重要な歴史的絵巻が残されている。江戸時代に描かれた「たたら絵図」である。この絵図のおかげで、江戸時代の製鉄手法の詳細が後世の人間に理解できたのである。
私の旧姓は、市橋(イチハシ)である。父方の出自は、江戸時代前くらいから、兵庫県生野にある銀山経営だったらしい。そのずっと前は、佐渡島の小木港がルーツだと聞いたことがある。ただ名前だけに注視したルーツ探しをすると、岐阜県南西部に行き着く。とある日に、JRにて移動していたら、西岐阜駅の一つ西にある駅(穂積)に停車した。ふと窓の外を見たら、ナント「市橋屋」の看板が!
やはり、岐阜市南西部には、市橋の本拠地がある。市橋小学校、市橋と言う信号、昔は市橋村が有った。それもそのはず、織田信長の家臣に「市橋」と言う武将がいる。江戸時代には、佐渡島や琵琶湖湖畔にも領地を持っていた。
私の想像は、こうである。
半島北部から満州にかけての領域から、鉱山技術を持った渡来人が船にて佐渡島に辿り着いた。そこで、金鉱脈を見つけ時の権力に情報提供する。鉱山技術集団は、やがて武士階級となり織田信長の家臣へと昇り詰めていく。その鉱山技術集団の分派が、日本海経由にて兵庫県生野に辿り着く。
生野町の町誌には、市橋家が銀山を経営していた記述があるそうだ。確かに幼い頃の祖父の写真を見ていたら、相当裕福な家柄であったことが想像できる。私の亡き長兄は、考古学にハマり発掘という土を掘り返す作業をしていた。次兄は銀行員だったので金融界に身を浸した。そして私は、金鉱脈には縁が無いが、しがない山野を彷徨する遊牧家業、、。やはり先祖からの血は、継承されていくみたいだなぁ〜。
2023年4月16日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。