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蝦夷(エミシ)は、日本の歴史において古くから存在する部族集団の一つで、主に東北地方に居住していたとされている。同じ漢字表記である、蝦夷(エゾ)は、近世になってより北海道の先住民族居住エリアを指す用語として公的に使用されることとなっている。
※ この考察においては、蝦夷(エミシ)と蝦夷(エゾ)を明確に区別している。
蝦夷(エミシ)の歴史は古く、古代から中世にかけての東北地方の歴史において重要な役割を果たしてきた。古代の東北地方は、中国や朝鮮半島との交流が盛んであり、特に五世紀から七世紀にかけては古代日本の支配層であるヤマト朝廷との交流も活発であった。七世紀後半頃より、東北の蝦夷(エミシ)居住エリアにはヤマト朝廷の影響が次第に及びはじめ、エミシとヤマトとの衝突も多発化しはじめている。中世に入ると、蝦夷地域の多くは独自の文化を築きながらも、支配領域を拡大してくるヤマト朝廷への従属的な関係性も、保持していたといわれている。
ただ、一部の先鋭的な蝦夷(エミシ)の中には、ヤマト朝廷に対して徹頭徹尾、抵抗姿勢を崩さなかった集団もいた。阿弖流為(アテルイ)を頭とする集団などである。江戸時代に入ると、蝦夷という呼称は、北海道の蝦夷地として統合され、蝦夷(エゾ)という用語が広く公的に使用されはじめる。この時期には、蝦夷が居住する地域は蝦夷地と呼ばれ、蝦夷という用語には差別的な意味合いも含まれるようになっていくのである。
明治維新後、蝦夷地は北海道として単位化され、蝦夷という用語も北海道の先住民族を指す用語として用いられるようになり、東北の蝦夷(エミシ)の存在感が極めて薄くなってしまっている。この探査行においては、その極めて薄くなっている、「東北蝦夷(エミシ)」の歴史的考察を関連地でのフィールドワークをもとにおこなうことを目的とした。
阿弖流為(アテルイ)は、古代日本の豪族・武将で、『日本書紀』によれば、日本の奈良時代末期から平安時代初期頃に活動している。特に倭国の第十三代の王・仲哀天皇の時代(注・仲哀天皇とは、三韓征伐で名を馳せた神功皇后の夫である)に、東北地方の一部を支配していた豪族の一人であるとされている。現在の秋田県から岩手県付近を中心に活躍し、蝦夷(エミシ)と呼ばれる地域を支配していたとされている。アテルイは、東北地方における古代の最も勇敢な人物として知られている。
『日本紀略』によるとアテルイを「大墓公」と呼称している。「大墓」(たのも) は、地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明である。有力な候補地としては、田茂山 (岩手県奥州市水沢区羽田付近) とも考えられている。この頃の東北では、縄文文化の流れを汲む部族社会が点在していたといわれている。族長を代表として血族を中心とした一〇〇人程からなる共同体であり、狩猟民族として狩・漁・稲作などを「共同」で行い、暮らしていたとされる。
七二四年に多賀城(宮城県)に陸奥国府が設置されると、日本の中央政権(朝廷)は軍事力で、東北の陸奥地方の蝦夷をも支配下に置こうとし、支配圏を拡大しようとしていく。アテルイは、ヤマトの帝 (ミカド) を中心とする、農耕を軸とした国家が、自分たちの狩猟文化と違っていることを強く意識していたにちがいない。やがて彼は、各地に点在している部族をまとめ「蝦夷連合」的な組織化をして、自らの土地・文化・文明を守るために、ヤマト朝廷と戦う決意をするのである。ヤマト朝廷側の資料に出てくるだけでも、十三年間、アテルイは朝廷からの派兵団と戦闘状態になっていたという。
そして、その戦闘の多くで、アテルイ側は、朝廷側 (官軍) を何度も撃退していたのである。おそらくや、騎馬などによる奇襲作戦などを多用していたのであろう。延暦二十一(八〇二)年には、朝廷から坂上田村麻呂が、蝦夷平定を目的として陸奥国・胆沢城を造営するために東北へと派遣される。坂上田村麻呂は蝦夷に対して、帰順する者には、新たな土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めた。その一方で、抵抗する蝦夷に対しては、断固たる態度で臨んだのである。そして多くの帰順者を得ることで、アテルイとの戦いを有利に運んでいく。
桓武天皇から節刀を受け坂上田村麻呂は、大規模な蝦夷征討を行い、アテルイの拠点のひとつでもあった、胆沢 (いさわ) 地方を平定する。その結果、胆沢 (現在の岩手県奥州市) と志波 (後の胆沢郡、紫波郡の周辺) の地から蝦夷軍が一掃され、坂上田村麻呂は胆沢地方を開拓し、稲作を普及させていったのである。同年中(八〇二年)には、坂上田村麻呂から朝廷へ、アテルイとその配下五百余人が降伏したと報告されている。捕縛されたアテルイは、裁定を受ける為に都へと移送される。
坂上田村麻呂はアテルイと副将・母禮(モレ)を連れて七月十日に、当時の都・平安京へ凱旋するのである。そして、彼はアテルイとモレの助命嘆願をするのである。坂上田村麻呂は、帰順した上でのアテルイやモレの統率力をもって、東北運営を任せるべきである、と提言していたのである。それぐらい坂上田村麻呂にとり、敵将としての彼らの統率的存在感はとても重厚なものとして、尊敬もしていたにちがいないだろう。
しかし、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、同年八月に河内国の植山という土地にてアテルイとモレは処刑されたのである。そして、その斬首及び墓の場所については諸説あるが、候補として現在の、枚方市、交野市、寝屋川市、などが挙げられている。その中において、地元民によって永らく語り継がれてきた墓地(首塚)がある。それが、写真の場所である。大阪府枚方市にある片埜神社隣の牧野公園にある、アテルイとその部下・モレの塚、である。後になり、この盛り土は、別年代の古墳であろうと推定されている。しかし、地元民やアテルイを信奉する東北の人々いとっては、「聖地」的な場所ともなっている。
場所は、京阪電車の牧野駅から徒歩十分圏内の場所である。東北蝦夷の雄の首塚が、なぜ大阪の枚方市にあるのか? その背景については、某新聞の記事を参照してほしい。
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桜の名所として知られる牧野公園(枚方市牧野阪)。その中央のヤマザクラとカシの大木の根元に、真新しい石碑「伝・阿弖流為(あてるい)、母禮(もれ)之塚」が立つ。近くには、「首塚」と伝わる、碑名のない古い石塚もある。阿弖流為は、東北の民「蝦夷(えみし)」の将の名、母禮はその副将の名だ。
平安時代の歴史書「日本紀略」によると、延暦二十一年(八〇二年)、阿弖流為は、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の率いる朝廷軍と戦い、同族約五百人を伴って降伏した。田村麻呂は、阿弖流為と母禮を連れて上京し、朝廷に助命を嘆願するが、聞き入れられず、二人は河内国で処刑された――。歴史は勝ち残った側が作るからだろう。田村麻呂は有名だが、阿弖流為と母禮はほとんど知られていない。
牧野公園の周辺でも、石塚は長年、「悪者の首塚」と恐れられてきた。一九七〇年に公園が整備される前、一帯は、近くの片埜(かたの)神社が管理する雑木林で、古い石塚が二つ並んでいた。やがて一つが消え、もう一つが現在地に移された。同神社宮司の岡田広幸さん(四十六)は小学生の頃、祖父から、「北方の首長の首塚」と教えられた。「神社に記録はなく、それ以上のことはわからなかった。誰かがたたりを恐れて、一つだけ残したのでしょう」
一方、阿弖流為の故郷、岩手県奥州市(旧・水沢市)では、民衆を守って命を落とした英雄の最期の地を探していた。歴史書の記述から河内国にあたる府東部を調べ、石塚を知った。有志らが二十数年前、枚方市を訪れ、その後慰霊碑の建立を要請した。驚いたのは、石塚周辺の住民らだった。牧野歴史懇話会長の笠井義弘さん(七七)は「祖母から『あの場所に近づいてはいけない』と言われて育ったが、東北の人たちの思いを知り、何とかしなければならないと思った」と振り返る。同会が中心となって約八〇〇人から寄付を集め、二〇〇七年に石碑を完成させた。
奥州市の「アテルイを顕彰する会」会長の及川洵さん(八四)は「東北にとってかけがえのない場所を、枚方の人たちも大切にしてくれるのはありがたい」。時々、市民らでツアーを組んで訪れ、石塚に手を合わせる。石碑と石塚は現在、地元住民でつくる「伝 アテルイ・モレの塚保存会」のメンバーが清掃、管理する。同会会長の中野一雄さん(七六)は「朝廷に抵抗した悪者という意味で、言い伝えが残ったのかもしれない。命をかけて人々を守ろうとした英雄の姿を、子どもたちに伝えたい」と話す。悪者から英雄へ――。一二〇〇年の時を経て、誇り高い雄姿が生き生きとよみがえった。
※ アテルイらが斬首された当時の河内国は、淀川の河畔であり河内潟の沿岸であり、ジメジメした湿地帯であったという。
『火怨』は、高橋克彦氏による長編歴史小説である。平安時代初期の東北地方を舞台にした坂上田村麻呂とアテルイの戦いを、アテルイ・蝦夷(エミシ)側からの視点から描いている作品である。この本を読み進めながら、文中にて取り上げられている、朝廷(大和朝廷)と東北蝦夷の三十年戦争の舞台を、時系列に沿ってグーグルマップに落とし込んでみた。
このように、縄文系末裔である東北蝦夷の活動足跡を地図上にて俯瞰していくと、盲点だった事にも気が付かされる。それは、『宮沢賢治の宇宙』や『遠野物語の異界』との時空を超えて通底する世界観についてである。地図上で確認できるのは、宮沢賢治の『花巻』や、『遠野』は、アテルイをはじめ、東北蝦夷族の拠点であった地域とオーバーラップしていることである。
宮沢賢治の『宇宙や動物群』、『自然認知と共感覚』、そして遠野物語の『異界の物の怪』などの世界観は、縄文の自然観を始原とし、蝦夷の中央権力への反骨という歴史の糧を加えたものなのではないか。定住型生産様式を軸とする権力側の意向にて、次第に統一されていく価値観(人生のつくり方)や倫理観(善悪の判断基準)、宗教観(信仰の在り方)や自然観(生命の捉え方)。
そして、生き物が共通に有する『センサーとしての五感』までもが科学的に区分され統一されてゆく。その統一へのプロセスに、息苦しさや身の置き場の無さを感じる『まつろわぬ民』。東北蝦夷や宮沢賢治、遠野物語の素材群らは、自らの意志にて『まつろわぬ民』へと身を投じた人物群であり群像ではなかったのだろうか。
故郷・岩手の歴史を小説で描いてきた。阿弖流為を主人公にした小説「火怨(かえん)」を出版したのは、一九九九年。東北でも、阿弖流為は朝廷軍に対抗した「逆賊」とみなされ、タブー視されていた。しかし、各地に残る伝承や伝説を調べていくと、違う姿が浮かび上がった。
「民を守ろうと戦った。東北人にとってはありがたい英雄だった」
研究により蝦夷の歴史が解き明かされ、再評価され始めた時期でもあった。阿弖流為は勝った戦いでも、京都まで攻めに行くことはしなかった。あくまで朝廷の攻撃から民を守るために戦い続けた。
「祖先の姿を知ることで、東北人としての誇りを持てるようになった。敗者の物語は歴史から抹消されるが、東北にも歴史はあった」
枚方と蝦夷の関係もわかった。当時、枚方を治めていた百済王(くだらのこにきし)俊哲は朝廷の命を受けて、田村麻呂よりずっと前から蝦夷と戦い、負けてきた。阿弖流為が降伏したとき、すでに俊哲は亡く、「父の思いを引き継いだ息子に、朝廷が処刑を命じたのでは」と推測する。その枚方でも、英雄として顕彰されるようになった。
「敗者と勝者の違いを超えて評価され、誰よりも阿弖流為が喜んでいるだろう。末永く見守ってほしい」
東北・蝦夷(エミシ)のルーツは、古代出雲にあり、物部氏とも深い関係性がある。と言う説が高橋氏の著作文中に登場してくる。(破線以降は、著作中からの抜粋)
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「日本」・・・・
「蝦夷はもともと出雲に暮らしていた。出雲の斐伊川(ひいかわ)流域が蝦夷の本拠。斐伊を本(もと)とするゆえ斐本の民(ひのもと)と名乗った。それがいつしか日本と変えられて今に至っておる。宮古や玉山金山の辺りを下閉伊と呼ぶのもその名残であろう」
なるほど、と阿弖流為(アテルイ)たちは頷いた。
「大昔の話ゆえ俺もよくは知らぬ。祖父や親父は俺が物部(モノノベ)を継ぐからにはと、たびたび聞かせてくれたが、そんなのんびりとした世ではなくなっていた。 昔のことがわかったとて大和朝廷に勝てるわけではない。それでもそなたより多少知っている。」
天鈴(物部氏の末裔者)は蝦夷と物部の繋がりを話した。(※ 天鈴=この物語では物部一族の大棟梁)
「出雲を纏めた大国主命(オオクニヌシノミコト)が蝦夷の祖先に当たることは俺の親父から聞いておろう」
阿弖流為は首を縦に動かした。
「その大国主命の子に長髄彦(ナガスネヒコ)という者がいて大和を纏めていた。一方、我ら物部の先祖はニギハヤヒの神に従って海を渡り、この国にやってきた。
ニギハヤヒの神は、今の天皇の遠祖と言われるスサノオの命の子であったらしい。本来なら大国主命と敵対関係にある。なのにニギハヤヒの神は長髄彦の妹を妻に娶って大国主命の親族となった」
「なぜにござる」
「強引に国を奪うをよしとさなんだのであろう。そこに今の天皇の祖先たちが乗り込んできた。大国主命を幽閉し、力で国を奪わんとしたが、長髄彦は激しく抗った。結局、長髄彦は敗れてツガルへと逃れた。
ニギハヤヒの神は同族であったがためになんとか処刑を免れ、我ら物部も朝廷に従うことになった。しかし、一度は敵対した物部への疑念はいつまでも晴れぬ。
冷遇が目立つようになり、ついには都を追われた。ツガルを頼るしかなくなったとき、そなたらの祖先らは、我ら物部を喜んで受け入れてくれた。以来、物部と蝦夷はしっかりと手を結んでいる」
「この国のすべてが、もともとは我らすべてのものであったと?」
「そうだ力で奪ったくせして、朝廷は出雲の民から継承したものだと言っておる。蝦夷を執拗に憎むのは、己の罪を認めたくない心の表れであろう。獣に近い者ゆえに追いやって当たり前と己に言い聞かせておるのだ」
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小説での語りではある。がしかし、東北地方のエミシと島根県出雲地方との深い関連性について、逞しい想像力が発揮されている文章といえよう。また、この文章を読むと、東北(蝦夷居住区)と、出雲地方の類似点にまで思いを馳せていくことができる。
★ 古代製鉄法である、「タタラ」は奥出雲地方を中心として栄えた。中国山地以外の国内では、奥羽山脈など東北地方にてタタラ製法は栄えている。『南部鉄』などはその末裔である。
★ 蝦夷が崇拝した「アラハバキのカミ」の「アラ」は、鉄の古語であり、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという説を唱える学者もいる。
★ 奥出雲には、松本清張著の『砂の器』に関する亀嵩(かめだけ)という土地がある。『砂の器』にも出てくるが、この奥出雲・亀嵩で使われている方言は、秋田県地方の方言と極めて似ている。そのことが、小説の核ともなっている。
高橋克彦氏の小説『火怨(かえん)』は、東北蝦夷の雄・アテルイのヤマト政権への反抗物語を取り上げている。この本を読み進めていく中で、ふとしたはずみに素朴な疑問が湧いてきた。それは、私を含めて現代日本人は、いつ頃から『日本列島に住む(先住民)』に関心を持ち始めたのか、ということである。高橋氏の本の第一刷は、二〇〇二年である。枚方市牧野公園にある、アテルイとモレ(エミシの副将)の顕彰碑が建立されるのは、二〇〇七年(平成十九年)三月である。
この、日本の先住民に対しての『新たな関心』は、どのような契機が背景にあるのか、というのが素朴な疑問であった。その疑問に、この本(※写真)が応えてくれたのである。この本の著者・沖浦和光(おきうら・かずてる)先生とは、一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、約十年間にわたり毎年インドネシアの辺境に住む先住民へのフィールドワークをしていたことがある。世界人権会議で採決されたウイーン宣言によつて、一九九五年から二〇〇五年までを「世界の先住民の国際一〇年」と決議された歴史がある。そして、この本の中に『先住民サミット』に関しての記述がある。次はその抜粋である。
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一九九二年と「第一回先住民サミット」・・・その状況が急転換したのは、九〇年代に入ってからである。バルセロナ・オリンピツクの開催年であった一九九二年は、コロンブスの新大陸発見から五〇〇年目だった。スペイン女王イサベル一世の援助を受けたコロンブスが、インドを目指して未知の大西洋へ船出したのは一四九二年だった。それを記念して、スペインを中心に、「新大陸発見五〇〇年」を盛大に祝う祭典が提唱された。
だが、長年植民地とされてきた中南米諸国では、その提案に激しく反対した。それに抗議する「先住民・黒人・民衆の抵抗の五〇〇年」キャンペーンが、各国の先住民の間で大々的に繰り拡げられた。コロンブスは、多くの民衆に苦難と抑圧をもたらしたインベーダーのリーダーにすぎない、新大陸を発見したのはわれわれ先住民の先祖であってそれは三万年も前だと、先住民の運動団体は断固反対の旗を高く掲げた。
国連総会では、「新大陸発見五〇〇年」記念行事は、わずか五票の賛成票であったので、否決された。そしてラテンアメリカ・アフリカの諸国を中心に、「世界先住民の国際年」が逆提案されて、それが圧倒的多数で可決された。 翌一九九三年には、その運動のリーダーのひとりだった、グアテマラのマヤ系キチェ族の女性リゴベルタ・メンチュがノーベル平和賞を受賞した。彼女の呼びかけで、一九九三年五月にグアテマラで「第一回先住民サミット」が開催された。世界各地の先住民の代表が、初めて一堂に会したのである。その記念すべき第一回サミツトは、日本の新聞やテレビでも大きく報じられた。´
その年に開催された世界人権会議で採決されたウイーン宣言によつて、 一九九五年から二〇〇五年までを「世界の先住民の国際一〇年」とすることが決議された。わが国でも、国連で定められた一九九三年の「世界先住民の国際年」をきっかけにして、新聞・雑誌などのジヤーナリズム、NHKをはじめとしたテレビ報道で何回か大ぎい特集が組まれた。この日本列島では、先住民問題といえば「アイヌ」であり、それと関連したところで「琉球」の問題も話題になった。「蝦夷」・「アイヌ」と連なる民族的系譜の問題は、一九七〇年代から人類学・古代史学・歴史民俗学の領域で注目されていたが、一九九〇年代に入って一段とヒートアップした。
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★ 先住民族サミットは、日本では平成二〇年(二〇〇八)に北海道で初めて開催された。さらに平成二十二年(二〇一〇)には愛知で開催されている。
★ このように、日本のおける先住民(蝦夷やアイヌなど)への再注目度が高まるのは、高橋氏の著作が世に出る少し前、一九九〇年代よりの世界的な動きに連動していたのであろう。
達谷窟は坂上田村麻呂ゆかりの地でもあり、アテルイの伝説地でもある。延暦二十年(八〇一)この地を平定した田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、遠征前より祈願していた京都の清水寺に模した堂宇を建立した。そして、そこに武将の神として毘沙門天を祀ったのである。それが達谷窟毘沙門堂とされている。その後もこの場所への崇敬は篤く、奥州の藤原氏や伊達氏などが敷地内へ堂宇を建立している。
文治五年(一一八九年)には、源頼朝が平泉平定後にこの場所へ立ち寄ったことが『吾妻鏡』に記載されてもいる。それだけ、「武人」にとっては聖地とも言える場所となっていたのであろう。そんな「窟」には古来言い伝えが残されていた。この窟には、「悪路王」という鬼が住み着いていたという。悪路王は赤頭・高丸という名前の仲間とともに近隣を荒らし、また京の都にまで現れては姫君を奪っていったという。
悪路王はその名前から、蝦夷の族長であったアテルイの存在がモチーフとなっている推定されている。悪路王の極悪非道ぶりは、最終的な支配者となる朝廷に対しての、頑強な抵抗を行った史実の裏返しであることは容易に想像できる。記録は、最終的には勝った方のいいように編纂されてしまうからである。
場所は、平泉・中尊寺からであると約六キロ離れた土地にある。紅葉の名所である、厳美渓へと繋がる道路沿いにある。お寺の境内という立地概観である。ただ、神仏混淆の社寺であるので鳥居をくぐっての入域となるのも一興であろう。道路沿いからも、目印として巨大な岸壁が見えてくるので、迷うことはないだろう。
岸壁の大きさは、東西幅が約一五〇メートル、最大標高差およそ三十五メートルもある。その岸壁に這うよう毘沙門堂はある。坂上田村麻呂は、京の清水寺を模して建立し、また鞍馬寺にならって、一〇八体の多門天を奉ったのが毘沙門堂の始まりとされている。切り立った崖の上には、人力にて掘られた磨崖仏があり、大日如来あるいは阿弥陀如来と推定されている。これは、「北限の磨崖仏」と言われている。境内の庭には、蝦蟆ヶ池(がまがいけ)と呼ばれる人工池があり、四季折々の季節の変化を水面(みなも)に映している。
宮沢賢治は、この達谷窟を『原体剣舞連』という詩の中に登場させている。この詩は、自然と人間の関係をテーマにした作品であり、賢治の代表的な詩の一つとして知られている。「原体」とは、自然の原初の姿や素朴な姿を指し、「剣舞連」とは、剣舞をする人々の集団のことを指している。この詩は、自然の原初の姿を思い起こし、その姿を現代の人々が受け継ぎ、自然と共存することの大切さを説いたものと理解されている。
詩の冒頭には、「人は人を知るために生きる」という言葉がある。この言葉は、人間が自分自身を知ることで、他の人や自然とのつながりを理解することができるということを表している。そして、詩は、自然の中での人間の生き方や、自然と共存することの大切さを描写しているのである。詩の中で、賢治は、風や水、樹木、虫たちなど自然界の生き物たちが、それぞれが本来持っている力を発揮しながら、自然と調和して生きている様子を描写してもいる。
人間もまた、自然と調和することで、自分自身や他の人、自然とのつながりを深めることができるということを説いているのだろう。「原体剣舞連」は、自然と人間の関係を描写した賢治の代表的な詩の一つであり、その深いメッセージは、現代においても多くの人々に愛され続けているのである。そんな、詩の中になぜ達谷窟が登場するのであろうか・・。その部分を見てみよう。
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むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
まっくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面のこけおどし
太刀を浴びてはいっぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎったぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
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東北を中心フィールドとした民俗学者でもある、赤坂憲雄氏はとある論評で次のように述べている。
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「打つも果てるもひとつのいのち」という、「原体剣舞連」の末尾に語られた思想とは、いったい何か。それはたぶん、あらゆる生命は根源においてひとつであるが、それが現実の生においては別々のかたちを取って対立している。だから、根源の一性を恢復し、この世の葛藤や対立からの救済を見いださねばならない・・といった、方位や水準において読まれてきた。天と地を結ぶ宇宙のリズムのなかで、本質的に多数である生命たちが、同じ時の流れを経験する。賢治の東北からの思想への、すぐれた垂鉛がそこにひとつ降ろされたことを、喜びたいと思う。生の本質的な多様性の喜びにみちた承認と肯定において、賢治の思想を読みぬいてゆくことだ。
★ 前述の宮沢賢治の詩『原体剣舞連』には、アテルイ(東北蝦夷の雄)と思われる人物のことも表記されている。達谷(たった)とは、現在の達谷窟のことであり、悪路王とはまさにアテルイを指しているのだろう。この詩を読み直し、上述の赤坂氏の論評も併せて考えると、人と動物の敵対的共生のみならず、人(朝廷側)と悪路王(蝦夷)における同様の関係性についても、賢治は言及しようとしたのではないだろうか。
胆沢城は延暦二十一年(八〇二)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって造営されている。大同(たいどう)三年(八〇八)までには、それまでの東北支配の拠点であった多賀(たが)城(宮城県)から「鎮守府(ちんじゅふ)」がこの場所に移されている。当時の朝廷にとっては、西の拠点は九州の太宰府とし、東の拠点として東北の胆沢城を設定したということであろう。近年の発掘調査によっても、古代陸奥国の北半部を統治する機関であり、古代城柵であることが判明している。
ヤマト王権やその後の朝廷の東北経営の北進に伴い、八世紀後半の頃に、律令政府の攻撃目標が陸奥国最大のエミシ勢力の拠点「胆沢の地」にしぼられてきたのである。胆沢という土地は、「山海(さんかい)二道」の重要拠点、すなわち『栗原方面の山道(さんどう)』と『北上川流域の海道(かいどう)』が、北方で合流する場所と認識されていた。朝廷は、胆沢城造営の翌年、再度田村麻呂を遣し、志波城(しわじょう・現在の盛岡市)を造営、弘仁三年(八一二)には水害のあった志波城を廃止し、徳丹城(とくたんじょう・現在の矢巾町)などを新たに造営してもいる。
胆沢城の往時には、東国の十か国(駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野)の浪人四千人が、胆沢城の守備を交替で命じられていたとも言われている。発掘調査によると、二重の堀で囲まれた中央に九十メートル四方の政庁があったとされる。八一五年には城兵として七〇〇人もが常時駐屯したと記録されている。
多賀城は、日本の宮城県多賀城市にある古代の城跡で、当時は多賀柵とも呼ばれおり、軍事的拠点として七二四年に按察使・大野東人が築城開始している。当時、この地域は東北地方において蝦夷(えみし)族の支配下にあったが、ヤマト王権が蝦夷地への支配を強めるために建造した城であった。多賀城は、国内最大級の丘陵・平城であり、周囲約一五〇〇メートルの方形をした城郭で、東西南北に門があったとされる。
城内には、多数の建物が建てられ、ヤマト王権の東北支配における、行政や文化の中心地として栄えていた。また、多賀城は、当時の先進的な城郭技術を導入しており、周囲に幅広い堀や土塁が巡らされ、攻撃から守る防御システムを備えていたともいわれている。多賀城は、天武天皇の時代には、現在の東北以北の蝦夷地を支配するための拠点として機能し、聖武天皇の時代には、蝦夷地の開発・統治の中心地として重要な役割を果たしていた。
七八〇年には、蝦夷一族の伊治呰麻呂の乱で、多賀城は略奪され、一時焼失しているが後に再建されている。胆沢城は平地に築城されているが、多賀城は丘陵もうまく生かした構造となっている。中世までに四度ほどの改修があったとされている。しかし、九世紀に入ると、東北地方における支配体制が大きく変化し、多賀城も徐々にその役割を衰退させていくのである。
多賀城は、その後、長い間忘れ去られた存在となっていたが、二十世紀初頭になってから多賀城跡が発掘・発見されていくのである。大規模な発掘調査が行われ、現在、多賀城跡は国の史跡に指定されている。また、多賀城跡公園として整備され、市民の憩いの場所ともなっている。
東北蝦夷と播州との関係性
播州出身の柳田国男氏(民俗学者)は、とある本で自身の先祖についての疑念を述べている。それは、自身の出自に、東北蝦夷の俘囚の血筋が入っているのでは、ということである。東北(特に岩手県南部)と播州との繋がりを探索する為に、岩手県加美郡色麻(しかま)町の役場を尋ねたことがある。この色麻(しかま)地区には、兵庫県播磨地方の、飾磨(しかま)郡からの移住者が根付いたという故事が町史に記載されている。訪問日は休日であったが、事前連絡していたので、留守役の方から『町名の由来』についての資料をいただく。
そこには、やはり、姫路市飾磨郡からの移住者によって云々・・、と記載されている。役場からすぐのところにある、『伊達(だて)神社』へも行ってみた。この神社の由来も、現在の姫路市にある総社(正式名称・射楯兵主神社=いたてひょうずじんじゃ)からの、射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を勧請したと記載されている。一説には、この伊達神社が、仙台藩・伊達家の名前のオリジンであるとか・・・。果たしてどうなのか?
ただ、道路標識の写真には、伊達政宗が初期のころに本拠としていた「岩出山」の文字も出てくるのである。兵庫県姫路市飾磨区に実家のある身とすれば、この地域は遥か遠くに住む親戚筋、といった親しみを感じてしまう。役場の方からも、『以前にも姫路市からお尋ねに来られた方がちらほらおられます』とのことであった。
2023年4月20日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。