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「縄文への回帰」とは、決して過ぎ去った過去を恋慕するだけの行為には終わらない。縄文時代は、紀元前一三〇〇〇年頃から始まり、約一万年以上もの長きにわたり続いたといわれている。歴史の教科書的な区分けから言えば、日本で一番長く続いた時代なのである。
縄文時代は、使われていた土器の特徴などから古い順に、草創(そうそう)期、早期、前期、中期、後期、晩(ばん)期の六つの期間区分に分けられる。多少の環境変化があるとはいえ、狩猟採集を主とする生活スタイルが、一万年ものスパーンで継続していたのである。
四方を海に囲まれ、外敵の侵略・支配の交代などの影響をあまり受けなかったという地理学的背景もあるだろう。でも、それだけで一万年もの歳月下において、さほどの社会環境変化がおきなかった理由とはならないだろう。
やはりそこには、「充足できる毎日」という、変化を希求しなくてもいい生活環境があったのではないだろうか。季節の変化に敏感に反応し、自然のサイクルと調和した生活を送る。そして、最小限度の共同体的な生活を営み、手仕事の範囲での芸術的感性を発揮していた豊かな毎日が存在していたのではないだろうか。
現代社会において縄文への回帰を促すこの本では、縄文時代の価値観や文化、生活スタイルに再び注目することにより、深い意味での持続可能な社会への視座を養うことにある。それは、なりわいや食文化、住居・建築、文化芸術、環境保護、コミュニティの形成など、縄文時代の生活や文化に着目して、現代の課題に対する解決策を模索することにも繋がるだろう。
この本では、今まで日本各地にておこなってきた、縄文時代に関係する諸土地や関連施設などへのフィールドワーク時の写真をもとに、その地や場所からの現代社会に対するメッセージを紐解くことに主眼をおいている。
日本は実際地理的にも閉ざされた国だし、モラルの面でも習慣的に閉ざされて、弥生以来、今日まで連綿とそれが続いてきた。毎年同じように田んぼが耕されて食糧が獲得できるという、馴らされた非常に平面的な感じがする。
それにおれは憤りを感じていた。そのときに、縄文土器という空間的なものに出会った。つまり平面的に納まっちゃって、波風も立たないという閉ざされた現代社会の対極にある、波と風とが竜巻きを起こしているような縄文土器の表情にである。
もし人間の心の深淵さの中に竜巻きがなかったら、あんな竜巻きのような表現ができるわけがない。
縄文時代には心の中に竜巻きがあったのだ。
それがある時点から日本人には、心が燃え上がるような火炎土器と俗に言うが、炎のような心を持つ人間がついに出てこなくなったのだ。
縄文土器の感覚は、その後の日本民族史上の「美」を語るにあたって、重要なテーマになる。それを「結ぶ感覚」といってもよいとおもう。
いわゆる産土や産霊の感覚ですが、それは一万年におよぶ縄文期の周期的なリズムから出たのでしょう。
日本人は、縄文の森に覆われた中で、ほとんど天と大地と海がもたらす狩猟採集の収穫サイクルだけから、何かを考えつづけ、リズムを覚えていった。
その後に入ってくる農耕といった、人間が労働をして自然周期にぴったり合わせた労働パターンを繰り返さなくてはならなくなった時期以前に、まずシンプルな大自然のリズム感覚のようなものが育ったのではないかとおもいます。
その「リズムをつかむ」ことを「ムスブ」といった。
この遺跡の存在はすでに江戸時代から知られていた。江戸期に東北の諸地を紀行した、菅江真澄(すがえますみ)の『栖家の山(すみかのやま)』という紀行文に、この場所にて土偶などの破片が見つかっていることの記述がある。
そして、大規模な環状集落であったことでも知られるこの遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約五九〇〇-四二〇〇年前頃)のものと推定されている。
この遺跡の中で注目度が高いのが、六本柱建物跡である。その巨大な建造物が何に使われていたのかは、まだまだ謎の中である。それ以上に興味をそそられるのは、それぞれの柱穴間の間隔、幅、深さがある一定の長さで全て統一されていることである。
このことは、既に測量をおこなっていたことの証左であろうとも言われている。当時においても高度な土木技術が存在していたのであろう。また、これほどの大きな建造物を建てるに要する労働力の集約ができていたことにも驚く。
それは、集落居住者間における組織力とともに、的確に指導できる指導者がいたことも推測できる。この建造物以外にも、幅十メートル以上にもなる大型竪穴建物群があるが、最大規模のものは、長さ三十二メートル、幅十メートルにも及んでいる。
この内部に入ると、とても広いスペースとなっており、共同家屋としての機能美が感じられる。その雰囲気は、ボルネオ島奥地にある少数民族のロングハウスにも似ている。また、竪穴建物(住居)跡も多数発掘されている。茅葺きや樹皮葺き、そして土葺きという三種類の屋根を持った建物がそれぞれ復元されてもいる。
この遺跡は、まだまだ周縁部において発掘作業が継続中でもある。場合によっては、その発掘作業中の現場も見学することができる。














青森県八戸にある縄文の博物館である。ここの最大の魅力は、「合掌土偶」であろう。平成二十一年七月には、国宝に指定されている。
土偶が出土したのは風張一遺跡と呼ばれる、八戸市中心部から南方へ五キロ弱の場所である。縄文時代晩期で有名な是川遺跡の対岸にある。
この合掌土偶が何を意味しているのかは、明確な答えなどはない。それだけに、見る者が自由にその背景を想像できる楽しさがある。この展示物を前にして、しばしのあいだ作成時の縄文人の気持ちに寄り添ってみたいものである。
それ以外にも、イマージョンシアターと呼ばれる映像シアター空間がある。ここでは、音響とともに縄文のイメージ絵図などが、見る者を異空間へといざなってくれる。
このシアタースペースは、常設展示室の手前にある。シアターの絵図と音響にて、脳内はすでに縄文世界へとワープしているので、常設展示室への導入として最適空間である。
そして、合掌土偶をはじめ、人間と蛇の合体した土偶などなど、現代アートを遥かに凌駕する縄文人の発想力に驚愕する、館内ショートトリップが始まるのである。
二十一世紀に入ってから、欧米において非常に注目されているのが、「遮光器土偶」である。亀ヶ岡遺跡は、その遮光器土偶のふるさととも呼ばれている。
二〇二一(令和三)年七月には、北海道、青森県、岩手県、秋田県の十七遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産へ登録された。
その際にも、青森県内八か所の遺跡群の中には、三内丸山遺跡・是川石器時代遺跡などとともに、ここ亀ケ岡石器時代遺跡も含まれている。亀ケ岡石器「時代」遺跡、との名称のように、亀ケ丘周縁での遺跡群は、ひとつの石器時代の区分けとしても際立つ存在なのである。
現在の遮光器土偶のモニュメント近くの湿地帯から多くの土偶や、芸術性の高い籃胎漆器(らんたいしっき)、漆塗土器など、個性的なデザインの器などが出土していた。江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と呼ばれてもいた。
そして好事家が発掘・収集し、果ては遠くオランダなどへ売却されたものもある。一説によれば、一万個を越える完形の土器が無許可にて売りさばかれたとも言われている。
遺跡のある湿地帯近くには、赤い鳥居が目立つ「雷電宮」がある。その昔、亀ヶ岡城築城の為この地を巡見した際、雷鳴が鳴り響き、荒天となるのを避けるために地元の神職に祈祷させたのが名前の由来である。
また、遺跡からさほど遠くない場所には、木造亀ヶ岡考古資料室があるので、ここも立ち寄りたい。遺跡から発掘された出土品が解説付きにて展示されている。
東北の環状列石といえば、秋田県の大湯環状列石が有名である。青森県にある、ここ小牧野遺跡(こまきの いせき)は、まだ知名度は高くはないが、相当のスケールを有する遺跡である。これから注目度が高くなってくるはずだろう。
この遺跡のある場所は青森市内が展望できる高台にあり、縄文人の土坑墓(どこうぼ)と呼ばれる、地面に穴を掘って埋葬した墓がある。
縄文時代の「死生観」についても思索できるという意味でのスポットライトがあたってくるだろう。
環状列石は、約三〇〇〇個の石で作られており、縦に置いた石の隣に横長の石を積み上げるという、非常に珍しい組み方での築石遺跡なのである。この組み方は遺跡の名をとって「小牧野式配列」と呼ばれてもいる。
東北地方に多い環状列石(ストーンサークル)は、縄文人の儀式の際に使われていただろうと推測されている。円形に並べられたサークルの中央部分には、ひとつだけ大きなストーンが配置されている。
この中央の石にてシャーマン的存在者が祈祷し、円形サークルの外に住民がそれを見守っていたのではないだろうか。
環状列石の近くからは住居跡なども発掘されており、その周縁から出土した渦巻文様がついた三角形の石の板などが数百個近くある。これらの出土品は、遺跡の近くにある「縄文の学び舎・小牧野館」に展示されており、一般者も見学可能である。
※ 縄文の学び舎・小牧野館・青森市野沢沢部108ー3
縄文人の精神世界は、常に自然と密接に関わることにより、豊かで奥深い物語性を持っていたと考えられる。それが、土偶や土器における美的センスを育んでいたことは明白であろう。
縄文人は、自然現象や動植物に対して畏敬の念を抱いており、それらを神聖視すると同時に、自分たちを包み込んでくれるグレートマザー的存在として感得していたに違いない。
平たく表現すれば、彼らは自然と調和した生活を送ることを大切にし、自然との共生を実践していたとも言えるだろう。昨今流行りのSDGs的な社会ライフをすでに実践していたのである。
彼らにとって、自然崇拝が彼らの生活や文化の中心的な要素であったことは否めないであろう。具体的な『神』という存在はまだ出現しておらず、『自然の現象や恵み』に対して真摯な感謝と畏敬の念を常に忘れることが無かったのであろう。
動物など生き物崇拝においては、イノシシや鹿、熊などの大型獣は狩猟の際に尊重され、狩猟の前後には祈りや儀式をおこない、捕獲物は「おおいなるモノ」からの贈り物として捉えていた。
樹木や植物などについては、その季節ごとに循環するサイクルの神秘性に、彼らの美的感性は強く刺激されていたことであろう。また、夏至や冬至など、太陽光線を巡る変化を重要視し、その節目に合わせて行われる儀式も編み出していったのであろう。
縄文人にとっての自然崇拝は、彼らの生活や文化の中心的な要素であり、彼らが豊かな精神世界を構築していく基盤となっていたことが伺えるのである。
岡本太郎が縄文芸術を発見したのは、ピカソが黒人芸術を発見したこととつながっているのである。縄文人の世界観には、黒人の世界観と同じようなものがどこかにある。それは宇宙にみなぎっている霊への強い信仰である。
いろいろの霊が宇宙にみなぎっている。そのなかには良い霊も悪い霊もある。悪い霊を追いはらい、良い霊を近づける、そういう霊への恐怖と信仰のもとに縄文芸術はつくられたといってよいであろう。
岡本太郎はたしかに、縄文土器の背後に、かくれた巨大な霊の世界を直感したにちがいない。そしてその直感にもとづいて縄文土器を礼賛したのである。日本の抽象画家にして、日本の抽象芸術というべき縄文芸術を発見したことはたしかに鋭い感性である。
しかし岡本太郎を含めた日本の抽象芸術の多くは、ピカソなどによるヨーロッパの抽象芸術の模倣にすぎなかったという点を、否定することはできないように思われる。
それはいってみれば模倣の模倣である。二重の模倣の上に日本の抽象芸術は成立していたといえる。
私は、いつも弱いもの弱いものへと眼が行く。私が縄文時代に興味をもったのは、当時まだ縄文文化が弱いものの立場におかれていたからである。
そして、現代において最も弱いものは何か・・・、それは自然である。森の中の動物たち、あるいは森そのものである。
こういうものがいちばん弱い立場にある。私は今、地球環境問題と取り組んでいるが、それもやはり、弱いものの視点に立つという哲学を実践していることにほかならない。
しかし、かつて弱いものの立場にあった縄文文化が、人類が地球との共存、自然との共存に行きづまった現在、はっきりと見直されている。
一万年以上にもわたって営々と維持された縄文人たちのライフスタイル、あるいは世界観が見直されている。
この旧・芸術館は宮城県加美町にあったが施設の老朽化によって閉館となり、今回紹介している展示物の一部や著書は、加美町中新田図書館内の「宗左近記念縄文芸術室」に移されている。
ただ、縄文時代をこよなく愛した詩人・宗左近(そうさこん)氏が収集し寄贈されていた芸術館は、その内部展示の素晴らしさと同時に、展示スペースの静かな佇まいが訪問者の印象に強く残るものであった。
往時の様子を伝えることもこの本の使命と思い、あえて写真などを含めて宗氏の縄文に対する思いと同時に人物像も浮き彫りにできればと願う。
福岡県生まれの宗氏は、フランス文学や詩に高校時代から親しんでいく。戦後は詩人として、また作詞家としても活躍していく。同時に、縄文時代の土器や土偶などの収集にも力を注いでいくのである。
詩人である宗氏は、縄文土器を考古学的資料として扱うのではなく、岡本太郎と同じく「美的造形物」として見ていた。著書の中にも、『私の縄文美術鑑賞』などのタイトル本もある。
秋田県北東部の鹿角市にあり、大湯川沿岸標高約一八〇メートルの台地上に立地している。国の特別史跡に指定されている、全国的にも名を知られた環状列石遺構である。
その特異な景観をもった遺構とともに注目したいのが、徒歩三十分圏内にある「黒又山(くろまたやま)」である。標高はたかだか二八〇メートルの里山であるが、この山は日本の超古代史におけるピラミッドの一つであると言われている。
アイヌの言葉で「神々のオアシス」を意味しているクルマッタという単語が、この山名の由来であるとも言われている。近年の学術調査によって、麓から山頂までが七~十段の階層を持っていると解析されている。
それも、人工的に造形された階層である可能性が高いといわれている。山頂の地下十メートル部分には空洞があり、何者かを埋葬している可能性も高いらしい。そんな古代の神秘的な場所が、環状列石のすぐ近くにあるのだ。
現在において、環状列石遺構は古代の祭祀や儀礼の場所であったといわれている。ピラミッド伝説の残る山と祭儀・儀礼をおこなっていた環状列石・・。ますます魅力度が深まっていく。
大湯環状列石遺構は、大きく二つの列石に分かれている。万座(まんざ)環状列石(最大径五十二メートル)と野中堂(のなかどう)環状列石(最大径四十四メートル)の二つの環状列石である。
それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置され、また、日時計状組石とよばれる特徴的な縦長の組石がある。
この日時計状組石の影が、一年の太陽の動きに合わせて伸縮し、特定の石組に当たることによって、夏至や冬至などの季節の節目を把握していたといわれている。また、環状列石の周辺からは、土偶や土版、動物形土製品、鐸形土製品、石棒、石刀などの祭祀・儀礼の道具が数多く出土している。
ユニークなのは、この二つの列石のど真ん中に道路があり、見学の車などや一般者などが通行していることである。それだけ、遺構群が身近な存在として感じられるのである。列石の近くには、出土品などを展示ガイダンスする、大湯ストーンサークル館もある。
※ 大湯ストーンサークル館 秋田県鹿角市十和田大湯万座四十五 電話:0186-37-3822
この考古館は長野県茅野市にある。茅野市は長野県の南諏訪地方に位置する自治体であり、八ケ岳、白樺湖、蓼科高原など自然景観が豊富な土地である。
また、中央構造線のど真ん中に位置している。中央構造線とは太古の時代に、東日本と西日本が接近衝突したボーダーラインであり、地層学的にも魅力溢れる境界ゾーンなのである。
この中央構造線沿いには縄文時代の遺跡が多く存在している。この理由にはいくつかの説が唱えられている。
西から稲作定住文化を有する種族がしだいに東進してきた。その勢力に押されて狩猟採集を主とする縄文種族が列島の奥エリアに追いやられたという、受動的な移動説。
そして能動的な説には、中央構造線という地層学的に変化に富んだ自然環境下にあって、そこに棲息する多くの動植物群を求めた結果だという説である。個人的には、後者の方を支持したいところである。
いずれにしても、日本全体からみれば、縄文時代の遺構は西日本に比べて東日本に多いのが特徴である。それは、やはり稲作文化が大陸や半島から渡来し、日本列島を西側からその文化圏を勢力拡大していった歴史がある。
狩猟採集を生業とする縄文系種族は、定住し大きな共同体をつくり始めた農耕種族により、列島の東や中央部分へと押し出されていったのであろう。
信州の縄文遺構からは、多くの縄文土偶が出土されている。その中でも著名なものが、ここ尖石遺跡から発掘されている。「仮面の女神」と「縄文のヴィーナス」と呼ばれている二つの土偶は、国宝にも指定されている。
そもそも土偶については、なんの為につくられたのかなどの詳細な解析結果は出ていない。精霊を表現して作ったものであるとか、精霊を呼び出して儀式をおこなうときの精霊の宿るものではないかなど諸説乱れ飛んでもいる。
中には出土した際に、身体の一部がすでに欠けた状態にて発掘されたものもある。これについても、一部を壊すことで儀式が完遂されるという説や、ケガをしたところと同じところを壊すことで治癒を祈ったものではないか、などなどいろんな説が飛び交っている。
文字での記録が残されていない時代というのは、後世の人間に自由な発想や空想を与えてくれるのである。特に土偶は、人をモチーフとした造形であるので、当時の縄文人とイメージ空間の中で会話ができる楽しさがある。
日本海に面した小さな湾の上にある遺跡である。この遺跡を見学するには、無理をしてでも日の出前もしくは月夜の夜に、環状木柱列の傍らに立ってみてほしいのだ。それは、太陽の光線が斜めから射す時間帯である。
例えば朝、東の空から次第に昇ってくる太陽の斜光を受けた十本の巨大な環状木柱列は、それぞれの影を草地に伸ばしていき、そして太陽の運行リズムに合わせて、どこまでも穏やかに離合を繰り返しながらゆるやかに回旋していくのである。
その光と影の織りなす至福のひとときは、かつてこの地に住んでいた縄文人たちの魂と、現代の私たちとを結ぶ通路が開かれた時間ではないかと思うのである。縄文人らの声なきメッセージが、回旋する木柱列の影に潜んでいるようにも思えてくる。
月夜の晩には、月光による影に幻惑させられることだろう。夜空に瞬く星々の下で、幻惑させられた状態にて縄文人と無言の会話が楽しめるのである。
草地にクリの大木で構成された木柱列は、これまでの発掘調査によって少なくとも六回の立て替えが認めらており、何らかの「聖なる場所」であったと推測されている。
ここ真脇遺跡は、三方を丘陵に囲まれ小さな入り江の奥にある沖積平野に立っている。海辺に近接している遺跡からは、 大量のイルカの骨も出土している。この周縁に棲んでいた縄文人は、漁労採集という生活スタイルを持っていたと想像されている。
また、能登半島突端部にある縄文人の遺構からは、日本海という海路を通じての各地との交流ネットワークへも思いを馳せることができるだろう。
最寄りの施設には、真脇遺跡縄文館があり、環状木柱列の巨大柱根や、 縄文時代に使われていたお魚土器と呼ばれる真脇式土器、 おびただしい量が出土したイルカの骨、土製の仮面など、多彩な出土品約三〇〇点あまりが展示されている。 野外の復元遺構と併せての見学をお勧めする。
また、早朝夜間の見学には、遺跡隣接の宿泊施設も活用したい。真脇ポーレポーレ・縄文真脇温泉がある。
※ 真脇遺跡縄文館 石川県鳳珠郡能登町真脇48‐100
電話:0768-62-4800
日本の森林に生える樹木の種類は、三百種をはるかに越える。
下生えの草や苔まで含めれば、森の育む植物の種類は、約一千種類ほどもあるという。
それに対してたとえばヨーロッパの森には、せいぜい三十種類ほどの樹木しか生えず、下生えもほとんど無い。
縄文時代の人たちは、実や根また葉やキノコなど、じつに多種類の食用植物の資源を得て暮らしていた。
縄文時代の人たちはそれだから、まわりの自然をじつによく知り、季節の変化にうまく順応することで、暮らしを支え、豊かにしていた。
現在も日本人の特徴となっている自然と季節の微妙な変化に鋭敏な感受性は、素地をこのような縄文時代の暮らしによって、培われたのではないかと思える。
秋田県鹿角市の史跡·大湯環状列石も、約七キロ上流から一二〇〇以上の石を集めて運びこみ、直径四十メートルに達するような輪を作っているのです。どんなに短く見積もっても二〇〇年以上かけています。石の摩滅具合により、この石は川のどのあたりの石なのかを判断できます。
それを延々と運んで一〇〇年以上もかけて、それを作り上げようとして取り組んでいるわけです。それはとても面白いことをわれわれに突きつけているのです。プランを完成させるとか、作業をいっきに終わらせようとかというのは、現代に身を置いているわれわれの考え方であるのですね。
縄文人はそうは考えない。現代人からすれば未完成のままだったらどうにも心穏やかでないのではと問いたくなるのですが、そうではない。継続のモーメント、でこぼこの中に示されるまさに生きているような動きが歴然とそこからほのかに立ちのぼる。
それが記念物の面白さです。大げさにいうなら、彼らの世界観が記念物に影を落としています。四千年の歳月を経て、再び整備されて我々のランドスケープ(景観)の中に入ってくるのです。
死を内部=中心に抱えこんだ円環のムラ=共同体を結んだ縄文の人々。
かれらが造形してみせた環状列石は、おそらく縄文人の精神の内なる風景、その世界=宇宙のイメージ、つまりコスモロジーを豊かに映しだしている。
すくなくとも、かれらの他界観は、死を外部に排斥した弥生以降の人々の他界観とは、決定的な一線を画されるだろう。
現在に生きる東北の常民たちの死者に寄せる想い、そして、他界の観念のなかに、いったい縄文的な他界イメージがどのように影を落としているのか。
東日本に主として分布がみられる環状列石や配石墓と、北海道で数多く発掘されているストーンサークル・環状列石墓・立石遺構との関わりが想定されるならば、むしろアイヌ民族の他界観との比較・検証が必要とされるのかもしれない。
岩屋岩陰遺跡(いわやいわかげいせき)は、通称、金山巨石群とも呼ばれている。岐阜県下呂市金山町岩瀬にある巨石で構成される遺跡群である。
金山町指定の史跡であり岐阜県の県史跡にも指定されている。これまでの発掘調査によって縄文時代早期から江戸時代までの遺物が出土されている。
またこの遺跡の魅力的な一面として、この遺跡群に点在する巨石が古代の天体観測に使われていたのではないかという説が挙げられる。ただ、この説は在野の研究者によるものであり、考古学的に実証されたものではないという。
ただ、考古学的に実証されないからといって、人々の自由な空想や妄想を阻むことはできない。文字に記録されていない縄文時代の遺構などでは、そういった広大無辺なイマジネーション世界を旅することができるのである。
天体の観測説については、巨石の隙間から射し込んだ太陽光が測定石と呼ぶ石面に当たる位置によって、四年ごとの閏年が判読できるともいわれている。すなわち、巨石の隙間から差し込む光線の角度などによって、春分・夏至・秋分・冬至などの節目を観測していたとする説である。
また、この岩屋遺跡には別の伝説も残されている。平治の乱(一一五九年)で平清盛に敗れた源義朝の長男善平(悪源太善平)が、この地に棲む怪物を退治したという伝承物語である。
悪源太は腰の名刀・藤捲の太刀(祖師野丸)にて岩屋の洞窟に逃げ込んだ怪物を征伐したのである。そして怪物を岩屋の中から引きずり出してみると、数百年を経た真白い狒々(ヒヒ)だったとのこと。
悪源太はヒヒを退治した太刀を村人に寄進した。それを記念して村人らは遺跡からほど近い場所に祖師野八幡宮を創立し、ヒヒ退治の名刀を宮の神宝として納めたという。
金山町内には、市民団体が主催する関連展示スペースがあるので、ここにも立ち寄りたい。
※ 金山巨石群リサーチセンター & ギャラリー 岐阜県下呂市金山町金山2142‐4
電話:0576-20-4118
火山列島である日本には、「埋没林」や「化石林」という名前がある場所が約四十か所ある。その中でも、さんべ縄文の森(小豆原埋没林・あずきばらまいぼつりん)が他を圧倒する背景がある。
それは、直立状態で残存する埋没樹のスケールは巨大であり、一枚の写真に収めるのに苦労するほどである。そのスケールは、世界的にも極めて貴重な存在であるという。
三瓶山一帯では、十一~十万年前には大噴火を繰り返したといわれている。その噴出した火山灰は東北地方まで積ったとのことである。三瓶山の火山活動は、三六〇〇年前(縄文時代後期)まで噴火・噴煙が上がっていたそうである。
約四千年前、この場所には千年以上の樹齢を有する、杉を中心とする巨樹の森が展開していた。天を衝く巨大な樹木が林立していたその森に、三瓶火山の噴火に伴う岩屑なだれが泥流となって流れ込むのである。
その泥流に一気に森は飲み込まれ、火砕物の二次堆積物がその上に堆積していったのである。天を衝く巨大な樹木が林立していたその森に、三瓶火山の噴火に伴う岩屑なだれが泥流となって流れ込むのである。
その泥流に一気に森は飲み込まれ、火砕物の二次堆積物がその上に堆積していったのである。この埋没林の発見は意外にも遅く、一九八三年である。二十世紀の終わりになって、ようやく太古の眠りから目覚めたのである。
地下十三メートルへと下ってゆく『根株展示』への螺旋階段は、まるで太古の地球へのタイムトリップのごとくである。そして、火山の噴火に対して縄文人がどのような感情を持っていたのかを静かに思索できるひとときでもある
さんべ縄文の森ミュージアムの近くには、島根県立三瓶自然館もある。ここでは、三瓶山山麓の自然環境や天体観測などについても学ぶことができる。近くには、温泉を伴う宿泊施設もあるので、ぜひ一泊をしながら縄文世界と天空世界を空想の中で繋げる一夜にしてほしいものである。
※ さんべ縄文の森ミュージアム
島根県大田市三瓶町多根ロ58‐2
電話:0854-86-9500
広島県庄原市から神石高原町に至る帝釈峡は、紅葉の名所としても知られている。
その峡谷のシンボル的存在である雄橋(おんばし)は、スイスのプレビッシュトアー、アメリカのナチュラルブリッジとともに、世界三大天然橋の一つとされている。
雄橋は峡谷の水による浸食作用により、高さ四十メートルもの巨大な天然橋となっており、その昔、地元の人たちはこの橋の上を歩いて往来していたという。
この雄橋の周辺には、縄文人が一万年以上も前から暮らした洞窟や岩陰遺跡などが五十か所所以上もあり、「帝釈峡遺跡群」と呼ばれている。
特に全国的にも稀な環境下にあるのは、この峡谷周辺が石灰岩地帯に立地していることである。
その環境下によって、古代の遺跡では残りにくい人骨や動物の骨、貝類などが残存出土されており、考古学や古生物学、地質学など広い分野からも注目されているのである。
帝釈峡遺跡群の中でも、国史跡である「帝釈寄倉岩陰遺跡」、広島県史跡「帝釈馬渡岩陰遺跡」「帝釈名越岩陰遺跡」などが重要な場所となっている。
特に帝釈寄倉岩陰遺跡は、観光地の上帝釈峡入り口近くにあり、駐車場から徒歩でのアクセスが可能である。
この遺跡からは、縄文時代早期から晩期にいたる遺物が順序となった地層から出土しており、歴史階層的にも重要な遺跡とされている。
また、縄文時代後期末から晩期にかけての地層からは、約五十体もの人骨が出土されている。
そして、それらの遺構からの出土品を、上帝釈峡入り口近くにある時悠館(じゆうかん)にて見学することもできる。
ぜひ、学芸員さんの説明を聞きながら、中四国地方での縄文時代の面影を追慕してほしいものである。また、時間が許せば、上帝釈から下帝釈までの中国自然歩道を歩き、神龍湖(しんりゅうこ)へと訪れて欲しい。神龍湖では遊覧船もあり、湖上から縄文時代に思いを馳せることもできるだろう。
※ 帝釈峡博物展示施設時悠館 庄原市東城町帝釈未渡1909
高知県では珍しい巨石群が集まる遺構である。それも、太平洋を望む高台にある。高知県土佐清水市にある四国西南端・足摺岬の山の中に突如不思議空間が出現するのである。
この不思議な林立する巨石群は、「唐人駄場遺跡」と呼ばれている。異人を意味する(唐人)と、平たい場所という意味の(駄場)。古代に、海の彼方から渡来してきた縄文系の種族が、この巨石群を棲み処としたのかもしれない。縄文前期には「縄文海進」といって、現在よりも十数メートルも海岸線が高かったのである。
遺構付近からは、縄文~弥生時代の石器や土器などが多数出土しているのである。現在、公園となっている敷地内には、埋め戻された世界最大級の環状列石などがある。
そして、公園の北側にある巨石群はぜひ訪れて欲しい。巨岩奇岩が連なっており、大きい岩は直径十メートル前後のものもある。古代の縄文人が儀式や祭儀、そして季節を読み取る場として使われていたのではないかと推測されている。
極上の切れ味のあるエッジとなっている「鬼の包丁石」や、舞いを踊ったと云われる千畳敷岩、そして正確に真南の方角を向いた亀石など、不思議な巨石が数々ある魅力あふれる巨石群である。
大分県の瀬戸内側にある小さな島・姫島の魅力は一言では言い表せない。この島は、古事記や日本書紀など記紀神話にも登場してくる。そして、三十万年前の火山活動が生み出した地質学的魅力を残す地域でもありジオパークにも指定されている。
さらに、蝶類に関心のある方にとっては聖地ともいわれている。それは、アサギマダラという渡り蝶の存在である。五月上旬から六月上旬頃になると、南の地より姫島の海岸に飛来し、しばしの休息の後北へと向かう。逆に十月には世代交代した蝶が北から飛来するのである。
フジバカマという植物の密を求めての飛来であるが、何か古代の渡来人たちの姿を彷彿とさせてくれるのである。その古代人は、丸木舟にて海を渡ってこの島へと渡来してきたのである。それは、「黒曜石(こくようせき)」を求めてであった。
姫島さんの黒曜石は、瀬戸内海という海路を伝い、中国四国地方へと運ばれていったのである。黒曜石は非常に硬く、槍の穂先や矢尻、包丁などに加工されたのである。丸木舟に乗って渡来してきた縄文人たちは、それこそ「豊穣の姫が住み給う島」として尊崇の念をもって接したのだろう。
その姫島は火山によって生まれた島である。黒曜石も火山岩の一種で、水の中で噴出する流紋岩質のマグマがその原型ともいわれている。割ると非常に鋭いエッジの効いた破断面を示す。それが鋭利な刃物の役を果たしていったのだ。
姫島は、日本各地六十ケ所前後ある黒曜石産地の中でも、佐賀県腰岳とともに九州の二大産地とされている。さらに、姫島は瀬戸内海海路の十字路的な地理的条件にも恵まれていた。縄文時代のみならず、その前後の約二万年にも及ぶ期間で、黒曜石は採取され交易されたのである。
姫島において黒曜石は、観音崎にある千人堂の一帯に露岩の状態で高い崖を形成している。崖は海中にも続き膨大な量と推定されている。国東半島の沖合四キロにあり、周囲十七キロ、東西七キロ、南北三キロ程度の小さく細長いこの島は、古代から多くの人々の羨望の的であったのだ。
アクセスは、国東半島からの船便しかないので、余裕をもった訪問スケジュールをたててもらいたい。できれば、アサギマダラ飛来の季節や、島の最大の行事である盆踊りの見学も併せて日程繰りしてほしい。
現在、日本における最古の水稲耕作遺跡である。佐賀県唐津市の西南部に位置しており、国の史跡にも指定されている。
この遺跡からは、縄文時代の水田跡が発見されているのである。縄文時代といえば、狩猟採集という生活スタイルが主であったが、さすがに大陸に近いこの場所には、早くも稲作文化が縄文時代には到来していたのである。
稲作文化は、中国大陸の長江の中・下流域で始まったとされている。そして日本への伝来ルートは、インド東部のアッサム地方や中国南部の雲南省あたりを経由したという説もある。また朝鮮半島を経て対馬・壱岐島などを伝い九州北部に伝来したという説もある。
いずれにしても、この定住型稲作文化の伝播によって、狩猟採集を主とする縄文文化圏はどんどん列島の東や中央部分へと追いやられていくのである。そういう意味では、この遺跡がそのスタートラインだったともいえる。
現在の遺跡は、海抜十メートルほどの緩やかな丘陵斜面に立地している。縄文時代晩期後半は、湿原が広がっており、丘陵地帯には照葉樹林が繁っていたといわれている。その湿地帯にて大陸から伝来された陸稲イネの栽培が日本で初まり、やがて水稲イネへと進化していくのである。
この遺跡は、一九八六年に工業団地を造成しようとした際に初めて発掘されている。地元の教育委員会の調査によって、縄文時代早期前葉から中世までの遺跡群を含む複合遺跡であることがわかったのである。
発見時には、遺跡群の最下層に当時日本列島で最古の大規模な定住集落跡も確認され、全国的なニュースとなっている。それは、縄文文化が日本の西端県の一つである鹿児島県にも最大級の集落跡があり、それまで常識となっていた東日本優位説に疑義を呈する発見ともなったのである。
上野原遺跡は,南に鹿児島湾や桜島,北に霧島連山を望む,鹿児島県霧島市東部の標高約二五〇メートル程度の台地上にある。推定約九五〇〇年前には定住集落が出来、約七五○○年前には儀式を行う場なども創設されたという。
遺跡発見からは、周辺の設備や施設も整備がすすんでおり、近くには鹿児島県立埋蔵文化財センターなどもある。そしてその学芸員などの協力を得ながら、古代の道具で火をおこしたり、自分だけの土器作りなどの体験イベントも主宰されている。また、遺跡保存館においては、発掘された時の集落状態をできるだけ保存して後世に伝えるような工夫が施されている。
屋久島はその面積の九十パーセントが森である。
屋久杉をはじめさまざまな樹木に島全体が覆われているといっても過言ではない。亜熱帯の海岸近くにあるサンゴ礁では熱帯魚が遊び、砂浜にはウミガメが産卵に上陸してくる。
ただ、雨は年間三六六日降ると言われ、冬場になると島の最高峰・宮之浦岳では雪と氷の世界が展開するのである。
亜熱帯の海にそびえる雪山をもつ、特異な自然環境下の島なのである。そんな変化に富む豊かな自然環境は、この島に大きな恩恵をもたらしたのである。
はるか縄文の昔から人々は、そんな豊かな自然の恩恵を享受できる場所を選んできたのである。屋久島の森は、そんな彼らにこの上ない生活環境を与えてきたのであろう。
森に暮らしながら、黒潮に乗って交易にも出かけていたのであろう。
屋久島においては縄文杉の存在感は群を抜いている。ただ、この縄文杉に出会うためには往復十時間前後ものトレッキングが不可欠である。
縄文杉への道ほどのハードルの高さはないが、奥行きの深い屋久島の森を全身で体感できる場所が白谷雲水峡である。
この森はかつて映画「もののけ姫」の制作時に、スタジオジブリの宮崎監督が「もののけの森」のイメージとして想定している。
多量の雨の恵みは、この森に無数の苔とシダ類を繁茂させ、訪れる人を濃淡織り交ぜた緑色世界へと誘うのである。
苔むした巨岩の下では湧きいずる岩清水の水音が静かに響いている。頭上を見上げると、前夜の雨にそぼ濡れた木々の柔らかい枝葉から小さな水滴がしたたり落ちようとしている。
照葉樹と屋久杉が混生するこの森では、太古の時代から絶えず水と緑の交響曲が静かに奏でられてきたのだろう。
そんな森に佇み深く呼吸をしてみると、全身の細かな細胞の歓喜に沸く声が体の内部から響いてくることだろう。
そして同じような感覚を得ていた縄文人の感性に近づくことができるのだ。
彼は縄文時代の狩猟文化にも関心を寄せている。この文化は宗教的・呪術的であり,そこではあらゆる現象は呪術的に解釈されている。縄文人にとって,狩猟は呪術と結びついていたのだ。
まず獲物を呪術の力でおびき寄せ,狩りをするのである。呪術がかからない場合は,誰かが禁忌を破ったりして,精霊が怒ったからだと考える。
狩りが成功した場合は,精霊に感謝をささげ次の狩りでのご加護をお願いする。また殺した動物の霊を慰める儀式を行い,その復讐を避けようとする。彼らの世界観は,このように呪術をベースにしている。
この世界観においては,動物は縄文人にとって戦うべき敵であるとともに,そのおかげで生命を維持できる神でもあるのだ。岡本はこう述べている。
「狩猟民族にとっては,獲物は激烈な闘争の相手であり,敵です。ところが彼らはそれを糧にして生きているのです。 獲物がないということはただちに飢えであり,死を意味します。彼らは全存在をそれにゆだね,かけている。だからこそ獲物は彼らにとってまた神聖な存在,つまり神なのです。彼らの狩猟は聖なる戦いなのだ。狩猟民にとって動物は自分を襲う怖い存在であるとともに,それを食べて生きていかざるをえない糧であり,生存を賭けた戦いを通して動物は聖なる存在なのである。」
岡本はここに戦いの原点を見る。そういった場合の縄文人の感情は,アンビヴァランスという愛憎が両立する感情である。
「人間の本能の深みにひそむ,愛するからこそ憎み,憎むからこそ愛するというアンピヴァランス」 である。そこには殺したくない神を殺さざるを得ない人聞の悲劇が読み取れるであろう。
古い神話では、女性は月と結びついていました。太陽はいつも輝いていて、たいへん肯定的です。
大きな権力が生まれ国家が形成されると、太陽が神話の主題になりますが、最も古い時代の神話では、月が重要でした。
新月になると真っ暗闇になり、新月から満月へ、そしてふたたび満月から新月へ、満ち欠けのサイクルを繰り返す月。
それは、神話が表現しようとしていた、生と死の根源にある何か、その循環の運動をあらわしています。
そして、月と同じ生理的なサイクルをもつ女性の身体は、まさに月と結びついた存在でした。
ですから、神話のなかでは月と女性は同視されますし、月や女性を表現しようとすると、生と死が一体となった状態になるのです。
簡素で、気品があり、それ故に美しい日本神道の様々な神事の形象(かたち)。
その美しい形象の背後には、私達の祖先が、はるか縄文時代から受け継ぎ、数千年に渡って洗練させて来た、わが国独自の自然観があります。
自然の全ての現象には、宇宙の大いなる意思の現れである八百万神(やおよろずのかみ)が宿り、私達人間もまた、その宇宙の大いなる意志に依って“生かされている”という自然観です。
この自然観は、母なる星地球(ガイア)はひとつの大きな生命体であり、私達人間はその大きな生命の一部分として“生かされている”という「ガイア理論」に通じるものです。
「第七番」では、この自然観の甦りを願って、神道の神事の様々な形象に目を向けてみます。
神道の源流には、今から五千年以上も前、我が日本列島に住み始めた祖先達の、大自然の見えない力に対する畏れと感謝の思いがあります。
次ページからの添付資料は、縄文時代に関しての講演時に使用しているパワーポイントからの抜粋
である。
2023年4月21日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会創設者である。