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南方熊楠(一八六七~一九四一)は、和歌山県を中心として、近代日本の環境保護運動に先駆的な役割を果たした博物学者・民俗学者であり、特に明治末期から大正期にかけて、一村一社の方針に基づき推し進められた神社合祀政策に対する反対運動に大きな功績を残したことで著名である。
熊楠の著作・記録・書簡等からは、多分野にわたる博識がうかがえるとともに、神社合祀反対及び環境保護の根拠となった独特の世界観・風景観が読み取れる。
一八八四(明治十七)年、熊楠は東京帝国大学予備門を中退した後、一八八七(明治二十)年に渡米し、一時期はサーカス団とともに中米カリブ海などへの巡業にも同行している。
さらに英国に渡って大英博物館で資料整理に従事した。約八年間の英国滞在中に、博物学・植物学・民俗学など多分野に及ぶ論考を総合学術雑誌である『ネイチャー』に発表し続けた。
帰国後は故郷の和歌山県の中でも熊野地方に近い田辺に居を構え、植物の観察・採集・標本作成に専心するとともに、特に粘菌類の研究に没頭した。
その過程で熊楠は生物間の多種多様な相互関係を表す「エコロギー」(生態学)を重視し、古跡・宗教・民俗・景色等の要素を含め、人間の精神的・物理的な関わりをも視野に入れた自然の機構総体の保護の重要性を主張した。
一九一二(明治四五)年二月九日に、植物病理学者の白井光太郎に送った『神社合祀に関する意見』において、熊楠は「わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん」と述べ、「特有の天然風景」は大日如来を中心とする「真言曼陀羅」のごとく自然・人文の総体が持つ有機的な体系の重要な部分であることを指摘した。
一九一一(明治四十四)年に柳田國男が印刷配布した『南方二書』、一九一二(明治四十五)年の『神社合祀に関する意見』において、それぞれ取り上げた神社境内及び景勝地の総数は三十七箇所に及ぶ。
そのうちの二十五箇所は、熊楠を先頭とする村人たちの努力により合祀を免れた神社又は合祀後に復社した神社の境内、粘菌類等の植物観察に好適の場所として保護を訴えた景勝地などであり、独特の地形・地質、植生から成る優秀な風致を今に伝えている。
南方熊楠(みなかた・くまくす)との縁起
中沢新一氏の著作に触れ始めたのは、二十歳代後半くらいからだったろうか。一九八〇年、私が二十歳すぎの頃、ネパールとインドに一年間滞在していた同時期、中沢氏も大学院の研究にてカトマンズに滞在していた。
当時、アセチレンランプが主流だったカトマンズの夜、どこかのチャイ屋で同席していたかもしれないと思うと、さらに親近感が増し、彼の著作を読み進めたものである。そんな関連著作の中に、『南方熊楠コレクション集』(中沢氏は責任編集)があり、そこで初めて南方熊楠の存在に触れたのである。三十歳代初めころだったろうか。
その頃は、関西に住んでおり紀州や熊野は近距離であったのに、なかなか熊楠関連地を訪れるきっかけを作ることができなかった。まあ、それだけ深い関心もなかったのかもしれない。不思議なものである。関西から離れた三十歳代後半から、やたらと熊楠のことが気になり始めたのである。
それは、彼の活動していた明治という時代への興味スペクトルが増したからであろう。同時代に生きた、仏典原書を求めてチベットへ潜入した河口慧海師の足跡を調査する学術チームの一員としてヒマラヤ奥地にて約二ケ月過ごした後には、熊楠という『破天荒』な生きざまにさらに魅了されてしまっていた。
明治三十年代頃に海外へと雄飛した青春群像の多くは、『破天荒』な人生を歴史に刻み込んでいる。その中でも、熊楠の足取りは、特異な光彩を放っているのである。そんな南方熊楠の足取りを追う中でのキーワードは、『萃点(すいてん)』と『曼荼羅』である。
この曼荼羅と萃点については、ユニークな説を唱える人もいる。次に紹介しよう。
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《南方(みなかた)マンダラ》を人間の脳の断面図とし、顕在意識や宇宙的無意識が乱雑に交差し、想念が多く重なる点を《萃点》として、その大本の中央の、**(イ)**とする丸印を、デカルトが「魂のありか」と呼んだ、《松果体》と見るのです。
松果体は、物質と精神が交差する点、第三の眼、七番目のチャクラと、様々な呼び方のある脳内の小さな器官なのですが、おそらく時間と空間、言語と感覚を超越する秘密はこの器官にあるのでしょう。
また、上部の二本の線は、宇宙的無意識の領域と考えた場合、ここに無限の智慧(情報)が漂っており、それは《萃点》or《松果体》を通して受け取る仕組みになっている。熊楠の記憶の方法や、世界認識の仕組みは、この辺りのシステムが大きく関わっていたのではないでしょうか?
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つまり、「モノゴトの核や核心」というのは、粘菌の動きのように、「近代サイエンスでは解明できない、偶然と必然からなる『無空の意志』の元」にある。
中沢新一氏や町田宗鳳氏、鎌田東二氏、内田樹氏、また能楽師の安田登氏らが唱える『野性の知』という想念の発露は、熊楠のいう《萃点》にあるのではないだろうか。
宇宙の成り立ちや、人と人の縁起というのも同じように、解析的ロゴス世界(顕在意識)だけではなく、流動的なレンマ世界(宇宙的無意識)によって絶えずシャッフルされている、という理解であろう。
そんな熊楠の関連施設を一気に巡ろうと五十歳代のとある月、紀州各地を一週間かけての、「縁起旅」をしたのである。この本は、その縁起旅・フィールドワークのレポートである。
すべてを巡ってみて改めて感じたことがある。南方曼荼羅の風景地とは、二〇一五年に日本遺産に指定されている。この十三ケ所の選択基準には、南方熊楠が記した「南方二書」と呼ばれる書籍が関与しているのである。
南方二書とは、東大植物学教授であった松村任三(一八五六~一九二八)宛の二通の長文の手紙(手紙は一九一一(明治四四)年八月二九日と三十一日に書かれている)のことである。
手紙という形ではあるが、これは熊楠の「熊野の森」物語であると言われている。同年九月、二通の手紙は、民俗学者・柳田國男の手によって刊行され、志賀重昂ら数十名の識者に配布されている。
その当時は、全国的に強力に神社合祀が進められていた時代である。三重県と和歌山県下の現状を具体的に詳しく記されている書物で、この中に熊楠が各地の貴重な自然、民俗を記録してもいるのである。
風景十三ケ所は、その二書に熊楠が記載した貴重な自然・文化地域のことなのである。実際に、すべてを巡ってみると、意外なことに「南方曼荼羅」と呼ばれる奇妙なイラスト図とのシンクロニシティを感じるのである。
熊楠が描いた曼荼羅イラスト図十三ケ所をグーグルアース上にてポイントアウトしていくと、奇妙にもそのイラスト図と照合できるのである。そして、萃(すい)点という言葉が改めて浮上してくるのである。
核の周りを動く電子の軌跡のような線と、そこにクロスする直線。熊楠は、すべての現象が一ケ所に集まることはないが、いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両面からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることのできる点「萃(すい)点」が存在すると考えたのであった。
十三ケ所のフィールドワークの後に、その萃(すい)点とされる大きなポイントに、どうも闘鶏神社が位置しているように思えてならないのである。闘鶏神社を中心に据えると、その他の十二ケ所との位置関係は、曼荼羅イラスト図へのおおまかな一致が見えてくるのである。
日本遺産に選ばれている『南方曼荼羅十三ケ所』とは、下記の場所である。(※全て和歌山県内)
田辺市 :
(神島)、(鬪雞神社)、(須佐神社)、(伊作田稲荷神社)、
(奇絶峡)、(龍神山)、(天神崎)、(継桜王子)、
(高原熊野神社)
上富田町:
(八上神社)、(田中神社)
白浜町 :
(金刀比羅神社)
串本町 :
(九龍島)
この社叢は巨木群の森となっている。一九〇六年(明治三十九年)に神社合祀令が発されると、各地で小社の合祀廃絶が相次いだが、それは当時近野村と呼ばれた中辺路町においても例外ではなかった。
加えて、熊楠が報告するところによれば、地元の有力者や一部の官吏が合祀令を悪用し、私利のために神社の土地や神社林の木々を売り払おうとする動きが見られた。
熊楠はこの動きに抗議し、当時の東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎らとともに、神社林の伐採を阻止すべく運動を行った。
一九一一年(明治四十四年)十二月、継桜王子の神社林にも伐採がついに及んだが、かろうじて中心部の杉だけは救われたのである。しかし、これは幸運な例に属する。
熊楠の奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れを押しとどめるには至らず、南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林も、この野中の一方杉の他にもいくつかあることにはあるが、ほとんどの神社は廃れて、結局は神社林を伐採されて姿を消している。
南方曼荼羅における、中心場所と推測される。南方熊楠は、三十歳代後半にこの神社宮司の娘と結婚している。その後は、神社から徒歩数分の場所に自宅を構えることになる。
この島は、南方熊楠が天皇陛下へ御進講した場所として多くの記録書に残されている。それ以降、島への立ち入りは禁じられている。
南方熊楠の死後、遺族により邸宅・書物・文献・書簡・標本等は保全されていた。二〇〇〇年最後に残った長女・文枝が亡くなるが、その遺志によって、それらは田辺市に寄贈された。田辺市は、痛みが激しかった南方邸を補修し、熊楠存命時の状態に復原するとともに、熊楠の生涯や文献を紹介・保存する顕彰館が南方邸の北隣に開館した。
和歌山が生んだ世界的な博物学・民俗学の巨星、また在野の学者として自然保護にも取り組み、「エコロジーの先駆者」として知られている南方熊楠の業績を七〇〇点余の遺品、遺稿で紹介している。また、熊楠が昭和天皇に御進講したことで有名な「粘菌(変形菌)」を顕微鏡で見ることもできる。屋上からの三六〇度の展望は素晴らしく、海辺からは磯の香りが漂ってくる。
南方熊楠の生命論的な視点からの「神池、神林、神森」の位置づけは、たんなる生態学や民俗学を超えた、生命宇宙論的な展開として特筆に値する。
南方は、神社の「神池、神林」が生命のミステリーを産出するマトリックスであることを研究的にも体験的にも知りつくしていた。
南方が神島(和歌山県田辺市)保存にかけた願いは、こうした生命の磁場としての神池・神林の生命宇宙論的な意味の解読・覚知から発している。
いま、「古神道」が再吟味されるとすれば、まず第一にこうした生命宇宙論的な意味の掘り下げからはじめなくてはならない。
そのとき、南方熊楠、という動植物を自分の名前にもつ日本人の思想や行動がまことに重 要なインデックスとなって浮かびあがってくる。
折口信夫の愛したたぶの木もまた、そうした生命宇宙論から再解読される必要があるだろう。
クマグスはこの世界には、事不思議と物不思議と心不思議と理不思議があるとみなしている。
この見方は今日からすると華厳経にもとづいているのだが、クマグスは密教思想から会得できたと確信していた。
近代科学は物不思議に中心をおいて理不思議に到達しようとした。まさにデカルトやニュートンがこれを成し遂げた。しかしこんなことだけでいいものか。
むしろ事不思議と心不思議とを重ねて理不思議に至ることこそ、試みられるべきことなのではないか。クマグスはそう実感してきた。それにはいったん思索の遠近を断つ萃点(すいてん)に入って、また出てくる必要がある。
それを繰り返すべきである。クマグスは達観して、このことを「心物両界連関作用」というふうに見た。こういうことは東洋は得意だが、原因から結果を三段論法してきた西洋ではこの出入りがヘタクソである。
座禅などはそういう萃点を仮想することによって自由な出入りができるようにするところがあるのに、西洋はここで神との合一などを望むから、思索の公式のほうがありきたりな原因結果論になってしまう。
「南方曼荼羅」はここを脱するものだったのである。クマグスは粘菌のもつ生命ネットワークに、自己変容性と自己多様性の愉快を感得した。
また日本の森林型の神祇にもとづいた「浄」の作用のなかに、神仏習合をものともしないメタファー性が自由にひそんでいたことを感得した。こういうものを曼陀羅のような図として提示できないだろうかと、
クマグスはこのことをかねて土宜法竜や柳田国男と見解を交わしながら(そのほとんどは書簡だった)、大いに考え込んだのだと想われる。
南方熊楠のエコロジーとは
私たちが暮らしている近代文明は「ロゴス」、つまり、言葉で言い表すことのできる論理によって動いています。
ロゴスの論理においては、生と死は決して重なり合わないし、動物と植物は別の生き物です。
ロゴスは言葉を順番にたどっていけば、必ず理解できる。「整理」や「秩序」の論理と言ってもよいでしょう。
しかし、仏教や古代ギリシャの思想には、もうひとつ「レンマ」の論理というものがありました。言葉では世界の本質はとらえきれない。
世界は多次元的に複雑に動いているのだから、時間軸に沿って整理するのではなく、直感的に、全体を一気に把握する必要がある。
これがレンマの論理です。「悟り」と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。
日本文化におけるアニミズム的感性が経てきた変容と持続の歴史をたどろうとするとき、南方熊楠や柳田國男、折口信夫に代表される近代の日本民俗学が挙げてきた成果は、とりわけ注目されるものであろう。
たとえば、博物学者でもあった南方の著作が描き出す民俗風景は、動植物と人間の間の交渉の濃密さに満ちている。
また、あらゆる意味で日本民俗学の焦点にあたる柳田の「遠野物語』の中では、山人やそれに関連する異形の存在とともに、猿,狼,狐,熊や種々の鳥、野草などが繰り返し繰り返し、里人の世界と密接に関わりながら登場する。
そのようにして、ともすれば規範的な言説の中に埋もれようとする細かな生活感情を取り上げたこれらの民俗学者の視線は、列島の自然世界との間に日本人が取り結んできた関係について、大きな示唆を与えてくれるのである。
今回のフィールドワークにて、最後に訪れた記念ミュージアム館。そこには、まるで古代ギリシャの哲学者の容貌をした、彼のデスマスクが展示されてあった。
太平洋戦争が始まった昭和一六年、十二月二十九日午前六時三十分、南方熊楠は七十四歳の生涯を閉じた。その夜、彫刻家・保田龍門によってデスマスクがとられたのである。
デスマスクの上に掲げられている写真は、死の瞬間の南方熊楠である。臨終の際、医者を呼ぶかと問われ「花が消えるから」と拒否したとのことである。
彼は、生前から幽体離脱や幻覚などをたびたび体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望もしている。現在、熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されている。
生と死、聖と俗、性の雌雄、マクロとミクロ、顕現と幽冥、さらには動と静としての、動物(可動体)と植物(静止体)、果てはリアルとバーチャル、そして所在と宇宙といった、いわゆる不可視をも包摂した境界的なものを超えてゆく、『通底路』を求め続けた人生であったのでは、と思う。
だからこそ、死後の世界との『通底路』として、デスマスクや脳の保存を望んだのではないだろうか。
そして、「医師」という他者に自己存在の連続性を委ねることを拒否した言葉が、「花(宇宙と連続している自己所在)が消される」という表現になったのではないだろうか。
私には南方熊楠という存在の「場」は、なぜかブラックホールとのシンクロニシティを強く感じてしまうのである。
2023年4月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極致へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。