spine
jacket

───────────────────────



里山モノガタリ
(広島県編)

清水正弘

深呼吸クラブ出版



───────────────────────

修験道の聖地・宮島弥山(みせん)

多彩な世界・宗箇山(そうこやま)

山の霊力・比婆山(ひばやま)

都会の縁側・恐羅漢山(おそらかんざん)

妖精が舞うブナ林・市間山(いちまやま)

仙人も酔いしれる・大弥山(おおみせん)

坂の街・巡礼路・尾道三山(さんざん)

天空の歳時記・天上山(てんじょうざん)

ピラミッド伝説・葦嶽山(あしだけやま)

物語の宝庫・権現山(ごんげんやま)

龍伝説・龍頭山(りゅうずやま)

海の守護神・古鷹山(ふるたかやま)

牛頭天王・牛頭山(うしずやま)


※この原稿は(牛頭山)を除いて、中国新聞セレクト版に2022年~2023年にかけて連載したものである。

修験道の聖地・宮島弥山(みせん)

大鳥居からの俯瞰
弥山を海上から望む
御山神社

漢字学者・白川静氏は、『字統』の中で、「弥」という字の由来について、「彌」(長生や魂振り儀礼に関する意味)の俗字であると記述している。また、この山の山麓にある原始林は、「瀰山(みせん)原始林」と表記される。「瀰」という漢字は、(果てしなく水が満ちて広がるさま)という意味だそうだ。山名の元字である、「彌」や「瀰」の意味背景が濃厚に感じられる信仰物語が厳島神社に残っている。それは神社本殿裏の森にある 「不明門」に関係する。この門は、古来人の出入りは固く禁じられている。祭神が弥山から流れ出る御手洗川(紅葉谷)を通路とし、この門を経て本殿に出現するという物語である。すなわち、弥山は神聖な水脈の源なのである。

このような神仙さを包含する山や森を抱く神の島・宮島は、歴史上の権力者や宗教者・修験者をはじめ、外国からの来訪者らからも尊崇されてきた。大正二年に原始林を訪れたベルリン大学の植物分類学者アドルフ・エングラーはその深遠さに驚嘆する。彼の進言もあり後にこの森は国の特別保護区に指定されている。その原始林は山岳修験者たちにとっても格好の修行場であった。弘法大師空海もその一人である。

山頂直下付近にある不動明王を本尊とする霊火堂では、西暦八〇六年に空海が護摩修行された際に残った火が現在まで毎日絶えることなく守り続けられている。この火が広島平和記念公園にある「平和の灯」の元火であることは良く知られている。霊火堂近くにある弥山本堂の扁額を書した初代総理大臣・伊藤博文は、私財を投じて弥山への登拝路を整備している。その登拝路の起点には、厳島神社の別当寺でもあり、空海が開基した真言宗御室派の大本山・大聖院がある。この大聖院には、ダライ・ラマ十四世訪問時(二〇〇六年)の玉座や貴重なチベット砂マンダラが保存されている。このように弥山周縁には、貴重な自然環境、歴史物語、信仰聖地などが多く点在しているのである。

弥山山頂
砂絵マンダラ

現地へのアプローチ

弥山への登山道は幾つかあるが、そのほとんどについて詳細な案内物が刊行されている。また、ロープウェイにてのアプローチも可能である。その場合は山上駅から徒歩半時間程度で山頂まで到達できる。登山初心者には、『紅葉谷コース』で山頂まで登り、駒ケ林を往復の後、『大聖院コース』から下山するのがお勧めである。駒ケ林は、毛利元就と陶晴賢との間で行れた厳島合戦の古戦場である。

このコースでは、祭神が降臨してくる路である紅葉谷、そして原始林、霊火堂、弥山本堂、三鬼堂、大聖院を通過することができる。山頂近くには、弥山七不思議の干満岩など巨岩奇岩などがあり、神秘的な空間を満喫できる。是非立ち寄って欲しいのは、霊火堂から南寄りある御山神社である。ここは、厳島神社の奥宮であり断崖絶壁に面した場所にある。ここからの展望はお勧めである。二〇二三年は、弘法大師空海生誕一二五〇年であり、宮島では各種行事が予定されている。登山と併せて訪れてほしい。

ダライ・ラマ十四世の玉座

多彩な世界・宗箇山(そうこやま)

この山は、複数の名前(植松山・三滝山)を持っている。それだけ多彩な表景や佇まいを有する、懐の深い里山だと言えよう。広島市街地を西方から包み込むかのように、穏やかで優し気な母性を感じさせてくれる里山である。広島の都心部からのアクセスも容易く、市民の散策地のひとつとしても親しまれている。武家茶の開祖として名高い上田宗箇が、広島城本丸・縮景園・上田家上屋敷(和風堂)の3ケ所から望める借景としてこの山の山頂に赤松(宗箇松)を植えたことでも有名である。

それは、古来この山が広島の地に住む人々にとって、身近な親しみを感じさせてくる存在であったことの証左であろう。山麓にある三龍寺は、都心から近距離にあるにも関わらず、深山幽谷の気分を味わえる霊域であり、中国観音霊場の十三番札所である。苔むした参道には原爆慰霊碑などや十五羅漢石仏などがあり、ストレスフルな都会人を静寂な癒し空間へと導いてもくれる。境内入り口の上に立つ多宝塔は、原爆死没者の慰霊のために、和歌山県の広八幡神社より移築され、慰霊法要などもおこなわれている。

山麓一帯では春は椿やツツジ、夏は濃緑と木漏れ日、そして秋には色鮮やかな紅葉と季節に応じた色彩美世界が展開し、登山者や巡礼者の目と心を潤してくれている。現在四代目の宗箇松がある山頂からの展望は素晴らしく、その壮大なパノラマを見ていると、思わず時の経つのを忘れそうになるほどである。眼下の風景は、幾筋にも分枝する太田川の煌めく川面からはじまり、微かに喧噪音の聞こえる広島市内の街並み、絵下山や野呂山など呉方面の山並み、さらには宮島や能美島など広島湾に浮かぶ多島美世界までのワイドビューが圧巻のスケールにて展開しているのである。

現地へのアプローチ

登山口である三滝寺境内には登山口を示す標識があるので見落とさないように注意する。トイレのそばから山道が始まっている。樹林の中を落ち葉を踏みしめながら上ってゆくこと二十分程度で尾根筋の分岐点に到着。整備された道の分岐点を左折し、さらに登り坂を進むと三十分で露出した大岩に出会う。この大岩の上からの広島市内の眺望は一見の価値がある。

大岩を過ぎると次第に勾配が急になってゆく。大岩から岩の露出した山道を上ること約三十分で頂上に到着する。頂上からの眺めを満喫後は、南方角へと続く縦走路に入る。しばらく尾根筋の快適な道を三十分程度歩いた後、分岐点からやや急な下り坂を降り始める。この辺りは、毎年五月頃になると淡いピンクのツツジの花盛りとなる。さらに下ってゆくと、見事な竹林が現われる。竹林の先にある砂防ダムを抜けると三滝寺最奥部分にある幽明の滝の水音が聞こえ始める。その後ユニークな表情をした十五羅漢の石仏や原爆の慰霊碑を見ながら、お寺境内の石畳の参道を下ってゆくと、登山口である三滝寺正面に戻ることが出来る。

美しい竹林を歩く

山の霊力・比婆山(ひばやま)

山頂にある御陵(イザナミ墳墓伝説)
聖と俗の結界・熊野神社
那智の滝は心身浄化の場所

この山を歩くたびに、私は『山の霊力』について考えさせられる。日本の里山には様々な営み物語が秘められており、その歴史的背景を辿りながら歩く魅力に勝るものはない。その昔に『美古登(みこと)山』と地元で呼ばれていた比婆山には、古事記神話という歴史的物語性が色濃く存在している。古事記神話によると、国生みの女神・イザナミは火の神を産んだ後亡くなってしまう。そして「出雲国と伯耆国の境にある比婆の山に葬られた」と記されている。

この比婆山については、古来多くの諸地説があり、確定的な論拠や根拠を示す学術的見解は未だ出現していない。ただ、その候補諸地の多くは、島根県安来町・奥出雲町から鳥取県日南町、広島県庄原市にかけてのゾーンに立地している。その中でも、ここ庄原市の比婆山は最も大きな山塊であり、かつ高所の要地である。さらに、頂上には御陵と呼ばれる円丘があり、御陵石や恵蘇烏帽子岩などの巨石が鎮座している。

また、隣接する山『吾妻(あずま)山』の名前は、イザナミが葬られた黄泉(よみ)国から逃げ帰った国生みの男神イザナギが『嗚呼、吾が妻よ』と嘆いたことに由来するという説もある。いずれにせよ、この比婆山を含め候補諸地ともに古来庶民の崇敬対象となり、善男善女が結界となる麓の神社にて潔斎した後、巡拝登山していた。比婆山への登拝には東西南北の四つのルートがあり、明治時代初め頃には毎日千人前後が山頂にあるイザナミ墳墓とされる御陵(円丘)を目指したとする記録もある。ルートの途上には、杉の巨樹が林立し、『木の霊力』が溢れる熊野神社や、『水の霊力』を触知できる那智の滝、さらには『土の霊力』を天狗が踏みしめた相撲場、などなど神話伝説の山が有する清浄無垢な時の蓄積音が心の襞にまで響いてくるのである。

ルート上にあるブナの巨樹

現地へのアプローチ

登山初心者であれば、県民の森からの周回コースもいいだろう。ただ筆者が勧めたいのは、やはり昔日の「山の霊力」を感じながらの登拝ルートである。聖と俗との結界である『熊野神社』手前には駐車スペースがある。そこから杉の巨樹群を抜け山道に入っていく。三十分程度で那智の滝である。さらに高度を上げると天狗の相撲場を抜けて竜王山に到達する。さらに歩を進め立烏帽子岩を越えて、山頂への稜線筋を登っていく。この稜線筋はブナの美林が連続しており、登山者の目を和ませてくれる。

山頂の円丘(御陵)が近づいてくると、意外にも平坦で幅広の道となる。登拝者が多かった時代には、このエリアに旅籠などがあったと聞く。このルートでの往復所要時間は約4~5時間。また上級者には吾妻山から比婆山への縦走路歩きもいいだろう。

※参考文献として「日本誕生の女神(伊邪那美(イザナミ)が眠る比婆の山 」を推薦する。

都会の縁側・恐羅漢山(おそらかんざん)

安芸太田町の表玄関
都会の縁側・養生の里
森林セラピー・ハンモック体験
認定を受けたセラピーロード
山頂からの眺め

広島県最高峰・恐羅漢山を有する安芸太田町は、ヘルスツーリズム推進に力を注いでいる。中山間地域の潜在的な自然・文化などの環境資源を活用しながら、心身の健康回復や増進を図ることを目的とするツーリズム展開である。その展開を要約するキャッチコピーは『都会の縁側・養生の里』。日本家屋における縁側とは不思議な空間である。そこは、家のウチとソトとの緩衝空間であり、さまざまなご縁が出入りを繰り返す場でもある。

ソトからの人が土足を履いたままちょっと腰掛ける。その人へウチの人がそっとお茶を出す。そのお茶からは、『新たなご縁』という芳醇な香りが立ち昇っている。都市部をしばし離れ、縁側(安芸太田町)に腰掛けながら、日頃のストレスを緩和し、心と身体を養生するのがヘルスツーリズムの趣旨である。そのプログラムの主軸フィールドとして、県内最初に認定された『森林セラピー基地』がある。恐羅漢山山麓にも、基地内設定のセラピーロードがある。森林セラピーとは、森という自然環境が施術者となる自然療法ともいえるだろう。

森林の中でのヨガや各種呼吸法、瞑想やアロマテラピーなどを組み込んだ心のリラクセーションプログラム。また、軽いウォーキングをしながら、五感を研ぎ澄ますような深部感覚のクリーンアッププログラムなどが有効とされている。セラピーロードには設定されてはいないが、この山の山麓には訪れる人を優しく抱擁してくれる森が点在している。山の西側に広がる『台所原(だいどころばら)』と呼ばれる空間は、知られざる隠れた癒しの森である。初夏から盛夏には、深緑のトンネルに迷い込んだような錯覚に陥る。山頂へ至るには、この台所原を経由するルートもあるので、森歩きが好きな方にはお勧めである。

神秘の森・台所原

現地へのアプローチ

標高は一三四六mもあるが、実質的な標高差は五〇〇m弱である。登山口である恐羅漢スキー場の駐車場からは、緩やかな森の小径が夏焼けのキビレ(通称・夏焼峠)まで続く。この森の小径が『森林セラピーロード』である。ここは心安らかにしてゆっくりと歩きたい。セラピー気分で歩けば夏焼峠まで小一時間程度。夏焼峠からは次第に勾配が増してくるが、約三〇分前後で台所原経由ルートとの分岐点に到達する。知られざる癒しの森『台所原』には、この分岐点から一度斜面を下り、林道歩きを経なければならない。

一般ルートでは、分岐点からそのまま稜線筋の登坂を約一時間あるくと山頂に到達できる。山頂に立つと眺めもよく、西中国山地がワイドビューで楽しめる。時間・体力に余裕のある方には、隣接する旧羅漢山への往復も可能である。山頂からの下りを、恐羅漢山東斜面にあるスキー場に沿った下山道を使うと、総時間三~四時間である。

妖精が舞うブナ林・市間山(いちまやま)

妖精が舞うブナ林

妖精が集う、天空のブナ林。それは、市間山から立岩山への稜線沿いにある。中国山地でのブナ林の多くは、急峻な山の斜面などに構成されることが多い。それだけに前後左右に見通しの効く、稜線沿いの台形状地形は、どこか欧州の森を彷彿とさせてくれる。特に秋の季節になると、この森の魅惑量はその深度を増すばかりである。

想像してみてほしい。過疎地にある知名度の低いブナ林が、欧州の森にも匹敵する上質な気品を携えた景観となっている。どこか、痛快で愉快な気分が沸き上がってこないだろうか。近年このブナ林を含めた一帯に大規模開発計画が立案されたが、地域住民が熟慮討議し、行政が土地供与に反対する決断を下している。その決断に至る要因には、この森が存続してきた歴史的背景がある。

このブナ林は、安芸太田町の筒賀財産区(旧・筒賀村村有林)と称せられる森林帯の一部分である。筒賀財産区は、江戸時代の『入会山(いりあいやま)』に始まり、明治二十三年には、旧筒賀村村有林に指定された歴史をもつ。旧筒賀村は、古来『山で暮らしを建てる』という文化的土壌が継承されてきた。入会山から村有林へと、森林からの恵みをコモンズ(社会財)とし、林業などの経済活動のみならず、公共施策へ多大な還元効果をもたらした。またそれは、住民参加のもとでの、『透明性、公平性、公共性』を十二分に備えての協議、合議、意思決定のプロセスを伴うものであった。

そのプロセスにおける人々の熟慮の記憶と記録の遺産が、この歴史的景観資源の奥深さでもある。すなわち自然と人が織りなした、『地域が誇る固有のアイデンティティ的景観資源』とも言えるだろう。妖精が集う、天空のブナ林の魅力とは、地域に住む人々によって継承されてきた、『こころの誇り景観』なのだということである。『風土』とは、こころの誇り景観が絶えることなく蓄積していく過程にて醸成されていくものなのだ。

現地へのアプローチ

なんといっても、ルート上でのクライマックスは、市間山山頂手前三十分程度にある、台形状のブナ林ではないだろうか。中国山地でのブナ林の多くは、急峻な山の斜面などに構成されていることが多い。それだけに、前後左右に見通しの効く、台形状の地形は、どこか欧州の森を彷彿とさせてくれるのである。この場所へと向かうには、それなりの体力と覚悟が必要となってくる。まず、安芸太田町筒賀の坂原地区から登りはじめる。

いきなりの急斜面は、まるで訪れる人の覚悟を問うているかの如くである。一旦、稜線に出てからも、立岩山から市間山へは、細かいアップダウンの連続である。いくつかの関門を経て市間山山頂手前まで来ると、必ずこの台形状の場所で休息をとってほしいのである。春には新緑の香りが、夏には木漏れ日が、そして秋には舞い落ちる木々の葉が、ブナの妖精たちのささやきとなって降り注いでくるはずだろう。

台形状のブナ林

仙人も酔いしれる・大弥山(おおみせん)

島の里山なだけに、砂浜にも降りれる
仙酔島への渡船場
大弥山の山頂手前
頂上からの鞆の浦展望

仙人が酔うほどに美しい島、と称せられる仙酔島。島の中には、浦島太郎伝説の浜がある。この島からみて瀬戸内海の対岸・香川県側にも浦島太郎伝説の土地がある。三豊市にある荘内半島である。荘内半島の最高峰は紫雲出山(しうでさん)。まさに、玉手箱を開いた時にモクモクと出てきた煙を、紫色をして出でたる雲、と解釈して名付けられている。この荘内半島突端部には、浦島太郎生誕地伝説の場所まである。仙酔島から荘内半島までは直線距離にして約三十キロ。もしやすると、浦島太郎が海中にて乙姫から饗応を受けた龍宮城は、仙酔島界隈だったのかもしれないと想像するだけでも楽しい。

周囲五キロ程度の仙酔島には標高一五八・七メートルの小さな山がある。その名は大弥山。『弥山(みせん)』と名付けられた山の多くは、山岳修験道となんらかの関係がある。宮島の弥山をはじめ、伯耆大山、石鎚山、大峰山などである。仙人伝説には、浦島太郎のみならず全国を行脚した山伏らの存在もその背景にあるのかもしれない。山頂を含めた周回登山路も、どこか俗世との隔絶感が感じられる。歩き始めには願掛けの『龍神橋』を渡る。そして小弥山、中弥山という小さな頂を越えると、学問の神様である普賢菩薩を祀る山頂に到着できる。

山頂からは、煌めく海面に沿うように並ぶ鞆ノ浦の歴史的景観が俯瞰できる。その後も、蝶が通る道と呼ばれる自然散策路や、ウバメガシが繁茂する森の小径を下ると、『閃きの門』と名付けられた彦浦という浜辺に出るのである。どこまでも穏やかな浜でのひとときは、太陽の光とさざめく波が共演する、微細な銀鱗の舞いを満喫してもらいたい。その後は、海沿いの遊歩道を海面と同じ高さの目線で歩いていけるのである。

海岸線沿いには,青・赤・黄・白・黒の五色の岩が二百メートル以上続く「五色岩」と呼ばれるパワースポット的奇岩群もある。「山紫水明」という言葉は、江戸時代の学者・頼山陽が仙酔島や隣接する瀬戸内海の美しさを見て生み出したという説がある。この島の山、森、浜、そして歴史や伝説に触れると、その説が充分なほど腑に落ちてくるのである。

彦浦から見る、閃きの門

現地へのアプローチ

標高的にはなんら問題がない登山路なので、登山の経験有無に関わらず誰にも門戸が開放されている。さらに、瀬戸内にある島なので、特に冬場の散策歩きにはもってこいではないだろうか。また、島内には海を眺めながら入浴する露天風呂の設備を有する宿泊施設などもあるので、寒い日の小旅行などの目的地にも最適ではないだろうか。そして、山歩きや散策歩きにこの島を訪れたなら、やはり隣接する鞆の浦散策も併せてスケジュールに入れて欲しい。仙酔島の弥山登山ならびに島内の散策であれば、二~三時間あれば大丈夫であろう。

さらに二時間程度の鞆の浦散策を加えた冬の一日を満喫してもらいたい。鞆の浦散策時のお勧めの一つには、町の西端にある医王寺(いおうじ)を挙げたい。この医王寺は山腹の中ほどに立地しているので、この境内から鞆の浦が一望できる。また、仙酔島の全景も展望できるのである。すなわち、弥山山頂からの展望と併せて、東西両面から鞆の浦を俯瞰できるのである。

医王寺から仙酔島を見る

坂の街・巡礼路・尾道三山(さんざん)

巡礼路は路地歩き
千光寺からの尾道水道
千光寺境内にある巨岩
街の至るところで出会うネコ
しまなみ海道も見える

尾道の街の魅力を三つ挙げよ、と問われたら私はこう答える。『坂道』、『寺社』、そして『尾道水道』。ほどよい傾斜のある山腹から、点在する寺社の塔や屋根越しに見え隠れする、緩やかな曲線を描く尾道海峡。このような尾道の景観は、多くの文学や芸術、そして映画の舞台や素材となってきた。街の至る所にその痕跡は残されている。文豪・志賀直哉は「暗夜行路」の草稿をこの街で執筆し、「放浪記」の著者・林芙美子は多感な少女時代をこの街で過ごしている。またこの街は、歌人・中村憲吉の終焉の地でもある。

このように多くの文人や歌人らの心を虜にしたのが、三つの小さな山の山麓にある坂の街・尾道の佇まいなのだろう。広げた両手のように街を包み込む三つの山とは、千光寺山(大宝山)・西國寺山(愛宕山)、そして浄土寺山(瑠璃山)である。それぞれ標高は二百メートルにも満たない低山である。この三つの低山を巡る際にお勧めしたいルートがある。「尾道七仏巡り」と称せられる巡拝の道である。三山の山麓に点在する七つの寺院(持光寺・天寧寺・千光寺・大山寺・西國寺・浄土寺・海龍寺)を歩くルートである。

全ての寺院にて御朱印をいただくと満願成就ともなる。七つの寺院名をよく見ると、尾道三山の名前の元となった寺院名もある。この巡拝ルートは、尾道三山の山麓にある寺院群を繋ぐ道でもあるのだ。巡拝ルートは距離にして約四キロ程度。さっと歩けばものの一~二時間程度で完結できる。
また、山頂三角点の確認を要する人は、プラス一時間もあれば足りるだろう。しかし、ルート沿いには思わず足を止めてしまう魅力的な時空間が満載されているのである。至る所で立ち止まり、振り返り、そして物思いに耽ってしまうことだろう。曲がりくねった路地裏には積み重ねられた濃密な営みの気配が漂っている。長い石段の途上にて一息ついた際には、思いがけず出くわした子猫に話しかけてしまう。

山上の寺院にて静謐なひと時を過ごしていると、列車が通過する柔らかい音の響きが下界から山肌を駆けのぼってくる。夕暮れ時になると、尾道水道の水面が茜色に染まり始め、各地の寺院の鐘楼から時を告げる音色が発せられてくる。一幅の絵のような景色が眼前に展開してくれるのである。このような尾道の風情は、必ずや肌寒い季節でも、訪問者の心の襞を温かく揺さぶってくれることだろう。

坂の街・尾道

現地へのアプローチ

日没時の尾道水道を一望できる場所がある。それは、尾道三山のひとつ、浄土寺山の山上にある展望台である。この浄土寺山は、尾道三山の中でも一番東に位置している。山上の展望台は、西向きのアングルへと広角な展望を提供してくれている。薄暗い尾道の街に家々の小さな灯りが次々と点灯し始めるころ、その日没ドラマは始まりの時を告げてくれるのである。尾道水道を渡る船の水紋が赤みを帯びはじめ、瀬戸内海に浮かぶ島々の背後に太陽が沈んでいく。

まさに浄土寺山から「西方浄土」を眺めている気分を味わえることだろう。この展望台へは、徒歩にての車にてのアプローチが可能である。徒歩にては、浄土寺裏手からの登山道を歩くことになる。往路約三十分程度の道のりではあるが、日没景色を堪能した帰路は足元が暗くなっていることは想定されるので、軽率な行動は慎んでもらいたいと願う。また、車でのアプローチ道は細く駐車スペースもさほど広くはないので、慎重に事前準備や情報収集に心掛けてもらいたい。

天空の歳時記・天上山(てんじょうざん)

ツガの巨樹(引き明けの森)
モミの巨樹(引き明けの森)
休憩スペース(引き明の森)
苔むした登り道’(秘境百選の森)

この山は奥深い魅力に溢れている。まずはその名前である。天上世界への憧憬が込められた山名は、その地域住民にとって神聖な領域であったにちがいない。『日本山名総覧(白山書房)』によると、天上山(てんじょうざん)という名は、全国に四つしかない珍しい山名である。その全ては、俗世からは隔絶された辺境地にある。東京都神津島(五七一メートル)、新潟県津南町(五八二メートル)、奈良県十津川村(八一七メートルm)。今回紹介する山が四つの中で一番標高が高い。

さらにこの山域は、「日本百選」に選出されている二つの貴重な風景を同時に堪能できる、全国的にも稀有な里地・里山エリアである。一つ目は、一九八九年に椎名誠やCWニコル、立松和平氏らによって全国から選出された「日本秘境百選」にリストアップされた引き明けの森である。炭焼き用に適さなかったツガやモミなど樹齢四〇〇年前後の巨木・古木群が原生的天然林となって残されている。この天然巨樹の森は、一九七四年に旧・筒賀村による村有林経営計画の中で、『学術参考林』として指定されており、自然環境の研究や観察の場となってきた。

また森の中には炭焼き窯の跡が幾つか点在しており、昔日の営み風景の面影も色濃く感じられる。ここ十年来は、住民有志(天上山結クラブ)のボランティア活動によってこの森を含めた登山道が整備されている。この森を歩くと、地域に住まう人々の世代を越えて継承された在来知の結晶の数々を目にすることができるのだ。

二つ目の百選は、農林水産省によって一九九六年に選ばれた「日本棚田百選」。広島県で唯一選出されたのが、天上山からさほど遠くない山並みに展開する井仁(いに)の棚田風景である。六〇〇年前後の歴史がある僻地の小さな山村の標高は約五〇〇メートル。その山肌には、穏やかで緩やかな棚田の曲線美世界が展開している。移住した若者が経営する喫茶室からオカリナのメロディーが風に運ばれ、その曲線美世界に寄り添うように流れていくのである。

まさに天上世界の風情がひととき味わえるのである。また田植え時期などには、都市住民との交流行事なども企画・開催されている。最後の魅力は、天上山から流れくる清冽な水脈の集積する龍頭峡である。筒賀地域には、前述の天上山、引き明けの森、井仁の棚田が関連する龍伝説がある。迷子になった子龍を助けるべく、雄龍が狩人に『智慧を授ける不思議な湧水』を与えたのが龍頭峡の名前の由来だという。まさに天上山一帯は、四季折々に変化する森、滝、棚田、そして伝説が織り成す天空の歳時記ワールドである。

現地へのアプローチ

お勧めのアプローチ法は井仁集落最奥部からの天上山林道を使い、車で引き明けの森入口付近(数台分の駐車スペース)へ移動する。ここから、天上山山頂までは標高差二三〇メートル。復路を旧筒賀村時代に植林された見事な人工林・横ぶけの森経由としても約二時間程度。その後、引き明けの森へと下り勾配の道を周回ルート沿いに歩く。巨木・古木の森をじっくり堪能しながら歩いても約一時間前後。途中には休憩できる屋根付きテーブルスペースがある。ぜひ森の新鮮な空気をおかずにお弁当を広げたいものだ。

少し体力に自信がある人には、龍頭峡(森林館前駐車場)からセラピーロードを経て、林道最奥部にある登山口からの往復登山(四~五時間程度)をお勧めする。下山後には、ぜひ龍頭峡の二段滝・奥の滝への散策道も歩いてほしい。どちらのルートにおいても、登山終了後には車にて井仁の棚田へ立ち寄り、棚田周囲を巡る舗装路も歩いてもらいたい。

※天上山林道は落葉・落枝・落石などの影響も受けやすいので、必ず事前に自治体関係部署へ確認しておきたい。

日本棚田百選(井仁地区)

ピラミッド伝説・葦嶽山(あしだけやま)

鏡岩(巨石群の中でも存在感抜群)
ドルメン石
神武岩
峠の東屋

この山を魅力を語る上で欠かせない一人の人物がいる。日本の超古代へ気宇壮大なロマンを馳せ、痛快無比な人生を送ったその人の名は『酒井勝軍(かつとき)』。明治七年山形県に生まれた酒井の波乱万丈人生は、二十歳代半ばでのアメリカ・シカゴ音楽大学への留学からはじまる。帰国後は、唱歌学校を設立したり、キリスト教伝道師などもしている。語学の才能をかわれ日露戦争に通訳として従軍する頃から、ユダヤ民族の研究者としても名を知られていく。そして、昭和二年に陸軍からの派遣でパレスチナやエジプトを訪問する。この時からピラミッドへの研究がはじまる。中東から帰国後、ピラミッドは日本が発祥とする仮説をたて、その検証のため日本各地を調査していくのである。酒井の説では、日本のピラミッドは、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて造られたものとしている。そして昭和九年に、この葦嶽山を最初の日本ピラミッドとして新聞で紹介したのである。

その後も、青森県や岐阜県などにてピラミッドが紹介されていく。それら各地のピラミッド伝説は一大ブームとなり、最初の伝説地・葦嶽山の知名度は全国区となったのである。どの方角から見ても綺麗な三角形の山容は、地元では神武天皇陵とも言い伝えられていた。その神秘的な美しさと隣接する鬼叫山(ききょうさん)に点在する巨石群は、昔から古代遺跡の謎とされていた。酒井の説では、葦嶽山は世界最古のピラミッド本殿であり、鬼叫山がその拝殿とされている。

特に鬼叫山にある神武岩、鏡岩、獅子岩、方位岩、ドルメン(供物台)などから伝わる沈黙の圧力には、思わずたじろいでしまうことだろう。葦嶽山からの帰路には、蘇羅比古(そらひこ)神社に立ち寄りたい。六世紀前半頃に創建された神社境内にある巨杉二本が出迎えてくれる。

蘇羅比古神社の巨杉

現地へのアプローチ

この山の魅力をより多くの方に体感していただけるよう、今回紹介するのは初心者でも安心できるルートである。庄原インターより国道四三二号・県道二三号・四二二号と経由し、葦嶽山駐車場へと向かう。県道四二二号途中分岐からは道幅が狭くなるので対向車への注意が必要である。駐車場からは複数の登り道があるが、葦嶽山山頂手前で合流する。山頂やや手前からは勾配のある整備された登坂となる。山頂が近づくと左手に巨岩・『鷹岩(たかいわ)』が出迎えてくれる。山頂からの展望は良く、隣接する鬼叫山を始め庄原市北部の山岳景観が満喫できる。山頂から巨石群へは一旦急な下り坂を東屋(あずまや)まで降りる。屋根付きの東屋は、風通しの良い峠(鞍部)にあるので、ここでぜひランチタイムとしたい。鬼叫山にある巨石群へは、東屋から再び登坂となるが、ものの五分以内にて最初の巨石・ドルメンに到達する。ドルメンから他の巨石群は、案内板とともに連続して現れてくる。

物語の宝庫・権現山(ごんげんやま)

現代の結界(赤い鐘楼)
森林浴の道
多宝塔からの日没風景
広島市内から広島湾までのパノラマ

古来人々は、霊山や聖地の山を仏菩薩や神霊の棲み処として畏敬の念をもって接してきた。『権現山』という名前がつく山は、日本全国に約九十近くあり、広島県内には九つある。全国的にみて四番目に多い馴染み深い山名である。仏菩薩が仮の姿(神)として現出して民衆を救済するという思想である本地垂迹。仏菩薩が「権(かり)に現われた」ので「権現」という尊称が発生し、山の神のことを権現と称してきた歴史がある。

今回紹介する権現山の魅力を一言で表現すると、『物語の宝庫』ということだろうか。古墳時代、中世、近世、そして近現代に至る歴史の中で、絶えず人々の営み風景の中にこの山は溶け込んできたといえるだろう。

畏敬の対象や信仰の場、さらには哀しみの癒し場として広島デルタ地帯に住む人々へ絶えず『畏怖』や『祈り』、『安らぎ』と『憩い』という空間を与え続けてきた。その時空には、さまざまな物語が蓄積しているのである。眺望のきく場所にある古墳時代の集落遺構からは、当時のほのぼのとした日々が追想できる。

また中世から信仰されている毘沙門堂界隈の参道筋には、現世利益を希求する人々の賑わいぶりが未だに漂っている。そして原爆犠牲者を供養する多宝塔周縁の木々には、物故者への供養と平和を願う無言の祈りが木霊として宿っている。

そんな物語の宝庫である権現山からの眺望は、訪れる人々に「ひとときの微睡み」を静かに与えてくれる。南方角の眼下には、緩やかに曲線を描く太田川が流れている。広島湾に注ぐデルタ地帯には、広島都心部の街並みが穏やかに広がりを見せる。その先には、煌めく水面の広島湾と瀬戸内海の小さな島々が展開している。

山麓にある巨石群

現地へのアプローチ

この山は様々なアプローチ方法がある。それこそ車で山頂近くまでヒョイっと近づくことも可能である。ただ、この山の持つ奥深い魅力を体感するには、ぜひ山麓の毘沙門天参道からの徒歩ルートを味わっていただきたい。安佐中学校東側に参道筋への入り口はある。往時の賑わいの面影が漂う登坂を三十分も歩けば、毘沙門天入り口である。まるで現代の結界的な雰囲気のする赤い鐘楼をくぐると、釣り竿と魚を抱えた恵比寿さんがニッコリと出迎えてくれる。本堂までは、絶えず木漏れ日が降り注ぐ森林浴の道。

本堂裏手にある巨大で荘厳な岩塊に圧倒された後には、西廻り遊歩道を里見観音を経て多宝塔、そして山頂へと向かおう。復路は、山頂手前の分岐標識から東廻り遊歩道を歩きたい。道沿いには、巨石群や古墳遺構、そして眺望ポイントなどが点在している。参道入り口からは往復約四時間あれば、初心者でも安心して歩けるだろう。

参道入り口にある石灯籠

龍伝説・龍頭山(りゅうずやま)

駒が滝
秋には落ち葉ふかふかの道となる
滝つぼでの飛沫浴
豊平方面への展望地

龍は古来想像上の生き物でありその歴史は古い。中国では紀元前十四世紀・殷王朝の頃、龍に相応する甲骨文字がすでに存在したともいわれている。そして龍は水棲の生き物とされ、水の持つエネルギーのシンボル的な存在ともされてきた。日本でも同じ考えのもと、龍は水がもたらす豊穣の象徴ともなってきた。その龍の頭を冠に持つこの山は、江戸時代には地元において『龍水山』とも呼ばれていたようである。すなわち、『豊穣』の源である龍の水=滝がこの山の麓にあり、広島城下にもその名が知られていた。その滝の名は『駒ケ滝』。

鎌倉時代におきた宇治川の戦いにおいて、先陣争いをした名馬(駒)がこの山麓を駆け巡って育ったという伝説からの命名であるという。また、芸藩通史には、平安時代に弘法大師空海がこの地を訪れたとの伝えがあることや、滝裏の窟に石仏像があり、滝の別称が観音滝であることも記述されている。この駒ケ滝に惚れ込んだ一人に、「岡岷山(おかみんざん)」がいる。

「芸備諸村瀑布図」や「厳島図(南・北面図)」でも知られている広島藩お抱え絵師である。その岡が寛政九年(一七九七年)に、七泊八日の旅を日記と風景写生に記録した二冊が「都志見往来日記・同諸勝図」。広島城下を出発し、現在の五日市、湯来、筒賀、加計などの各所にて諸滝を描いた後、龍頭山山麓を巡り安芸太田町澄合から川船で城下に戻っている。当時六十四歳。総旅行距離は約二〇〇キロにも及ぶ。

この旅行の動機として「名高き飛泉なれば、その真景を写さんと欲するの志、多年やむことなし」と記してもいる。滝を訪れたのは旧暦八月二八日、新暦に直すと十月一七日である。日記の中には、駒ケ滝の周辺ではトリカブトや秋明菊(シュウメイギク)の花々が秋を彩っていたとも記述されている。二〇〇年以上前の風景に思いを馳せながら歩いてみてほしい。

整備された山道

現地へのアプローチ

山頂からの展望

細い道ではあるが、山頂近くまで道路が伸びているこの山は、お散歩程度にて登ることも不可能ではない。最終の駐車スペースから山頂まではものの徒歩十五分程度である。そのルート取りの際にも、ぜひ途中の駐車スペースから下り道ではあるが、駒ケ滝には立ち寄って欲しいのである。山登りを楽しみたい方には、通称『滝見コース』と呼ばれる片道約二時間の行程がお勧めである。

登り口は、最近になりオープンしたグランピング場『りゅうずの森』近くの駐車スペース。旧別荘地の中の道を上り詰めると、山道となり途中では龍頭観音などの石仏が出迎えてくれる。駒ケ滝では是非滝つぼ近くまで近づき、滝の流水にて飛沫浴を満喫してほしい。滝から上部へも整備された道が山頂まで続いていく。山頂から都志見原方面へと縦走もできるが、体力に自信のない方は往路を引き返す方が無難であろう。

龍頭観音

海の守護神・古鷹山(ふるたかやま)

登山口にある案内板
広島湾の展望
鎖場
山頂からの眺め

『日本百名山』(深田久弥著)の全てを登ろうとする人は多いが、一つの山を百回登るのは極めて稀であろう。その稀人の一人が広瀬武夫である。日露戦争時に、旅順港閉塞作戦に従事し、戦死後には軍神として崇められた。生誕地である大分県竹田市には、軍神を祭る広瀬神社があり、厳冬期単独シベリア横断などの写真も展示されている。その広瀬が海軍兵学校(十五期)時代に百回以上登った山が古鷹山である。兵学校は、明治二一年八月に東京築地から江田島に移転された。

広瀬とほぼ同時期には、後に首相となる岡田啓介や『坂の上の雲(司馬遼太郎著)』に登場する秋山真之がいる。彼らも広瀬と同じく、古鷹山を肉体と精神双方の鍛錬の場としていただろう。昭和初期に教鞭をとった英国人セシル・ブロックは、『江田島⋯英人がみた海軍兵学校』の中で紀元節での登山を取り上げている。このように、鍛錬登山は、戦前戦後を通じて兵学校・海上自衛隊第一術科学校の生徒に受け継がれている。

筆者も登山中に出会った術科学校生徒より『山頂往復時間を少しでも短縮する訓練を幾度もしている』と聞いたことがある。山頂には、国内外各地の主要都市名が刻まれた方位盤がある。兵学校時代に故郷やまだ見ぬ海外へ想いを馳せた姿が偲ばれる。また登山路には、各同期会が植樹した桜の木が点在している。それだけ海のエリート達にとってこの山の存在は大きく、戦時中には軍艦の名前にもなっている。それは、古来伝えられてきたこの山名由来の物語とも繋がってくるのである。

嵐に巻き込まれ難破しそうな船の舳先に一羽の大鷹が舞い降りたという。そして縄を咥えて飛翔し入江まで導いた後、厳々たる山上に姿を消した。船人らは命の救主である鷹の霊を崇めるため、宮(後の古鷹神社)を建立して鷹宮明神を祭ったという物語である。すなわち、この山は海の守り神が住み給う処なのである。

山頂にある方位盤

現地へのアプローチ

幾つかの登山ルートはあるが、ここは海軍エリート達を偲びながら歩くルートを紹介したい。まず、海上自衛隊第一術科学校の北にある、奥小路登山口から歩きはじめる。竹林などを抜けながら次第に勾配を上げていく。途中には同期会植樹の桜などがある。東方面からの縦走路分岐を経て一旦緩やかに下る。そこからは、鎖やロープなどが設置された岩肌の斜面となり注意を怠らずに登っていく。山頂からの展望は絶品である。

北には広島市内、東には呉方面の山々、西には宮島や岩国方面、そして条件が整えば四国の山並みが南に展開する。山頂には方位盤とともに『五誓』と書かれた生活訓表示板がある。その表示板の背後下方に、術科学校(旧海軍兵学校)の校舎やグランドが見渡せる。体力に余裕のある人には、クマン岳方面への縦走もお勧めである。この古鷹山の登山路は、地元のボランティア団体や術科学校関係者らによって定期的に整備されていることを忘れてはならない。

五誓表示版

牛頭天王・牛頭山(うしずやま)

地元の古文書
牛頭山への登山口
冬場には降雪もある
山頂下部では、郭跡が連続する
牛頭山遠景
山麓にある沢田地区には立派な石垣がある

この山は、広島県安佐北区小河内(おがわち)地区に位置している。この地区の古老と一緒にその山麓の古道を歩いた時に、古老から意外な話を聞いたのである。「少し前のことじゃった。西アジア方面の容貌をした外国人が来て、この牛頭山のことを聞いてきたことがある」確かに、変わった名前の山であり山名由来などには以前から関心があった。西アジアの容貌をした外国人が、何を求めてこの山域へとやって来たのか、俄然好奇心の芽がめばえ、さまざまな文献資料をあたってみたのである。

まず最初に文献調査したのは、「牛頭山」というネーミングの山についてである。日本山名辞典などにて調べると、全国にたったニ山しかない。ニ山とは、この広島県の山ともうひとつは、山口県にあった。奇しくも二つとも中国地方なのであった。さらに古老から頂いた郷土資料の中には、『牛頭山』の命名には、『牛頭天王(ごずてんのう)』への信仰が背景にあったのでは?、との一節があった。

牛頭天王とは、インドの祇園精舎の守護神である。六世紀前後に、インドからの渡来僧・法道(ほうどう)によって日本にも招来されたと言われている。京都の祇園にある八坂神社をはじめ、全国の多くの神社にて『牛頭天王』は祀られている。兵庫県にある広峰(ひろみね)神社は、その牛頭天王招来の本山的存在であるとも言われている。そして、牛頭天王と『祇園』という地名との深い関連性にも気が付いていくのである。

広島県小河内にある牛頭山は、鎌倉時代に武田氏の居城(銀山城・かなやまじょう)の北の守護として築城されている。さらに、銀山城のある武田山の麓においては、その地区の名前が『祇園』なのである。インドの祇園精舎の北の守護神が牛頭天王であることを考えると、牛頭山の山名由来にも強い関連性を感じざるを得ないのである。山頂には、牛頭山城の城址が点在している。また、山麓の集落には、武人たちが住んでいた痕跡跡が多く残されているのである。

この山の地理的位置関係を俯瞰してみると、広島市内のちょうど北方方面にあり、山頂からは四方を見晴るかすことができる。さらに、山頂部からは、前述した武田氏の居城であった銀山城もしっかりと展望できるのである。お互いに、狼煙などにて連絡を取り合うには、都合のよい位置関係にあることも理解できる。武田氏一族は、安芸の国(広島)の土地を与えられ、一部勢力がこの地へと移住してきたのである。公的に認められた当時の記録がないので、明らかなことは言明できないが、私は次のように想像している。

武田氏の一部勢力は、安芸の国の中心地となる居住区(山城である銀山城の麓にある地区)の地名を『祇園』と定めたのであろう。それは、甲斐の国から安芸の国へと移り住む際、人心の安寧を希求して、インドの祇園精舎ゆかりの土地名を命名したのであろう。そして、祇園という名前の地区を守護する神=牛頭天王を祀るエリアを探したのだろう。そのエリアの最有力候補地として、現在の牛頭山が選択されたのだと思う。南方角には銀山城を望むことができ、東、北、西方角へは広角な視野が展開しているのである。

山頂にある城址を示す標識
山頂から東方面の展望

現地へのアプローチ

牛頭山の東側には、巨大な施設がある。広島市青少年野外活動センター・こども村である。この施設の許される範囲の駐車スペースまで車でのアプローチをしてみよう。そして、施設の案内板などに『牛頭山登山口』のマークを確認した後、そこまで徒歩にてアプローチ(約十分前後)しよう。登山口からは、最初少し登るが、すぐに下りとなる。その後、急傾斜の山肌につけられた登山道を登っていくことになる。この登りは、少々勾配率が高く、場所によってはロープ(危険度は少ないが)があったりもする。

一旦、尾根筋に出てからも、ややキツメの勾配が連続していく。山頂が近ずくにつれて、連続して『郭跡』の案内板が出てくる。そして、最後の郭をぬけると一気に展望がひろがり、山頂部付近にでることができる。山頂部からの展望は素晴らしいの一言である。東西南北、三六〇度大展望である。南は、広島湾から宮島、北には西中国山地の峰々、東には広島市郊外の里山、西には廿日市方面の里山・・。山頂には、それぞれの角度への案内表示板もあるので、しっかりと諸地域・諸山を確認してみたいものである。

そして、忘れてはならないのは、南方角にある武田山の位置確認である。この武田山の山頂付近に、武田氏の居城・銀山城(かなやまじょう)があったのである。

地域の文化を継承する古老たち

里山モノガタリ(広島県編)

2023年4月24日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

bb_B_00176367
bcck: http://bccks.jp/bcck/00176367/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

jacket