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私の旅の原点
この原稿を、下関から韓国の釜山へむかうフェリーの中で書いている。その昔、学生であった私は友人と二人で同じ航路での旅をはじめている。不安と期待が錯綜する若い二人を、玄海灘は荒れる波で歓迎してくれた。釜山港の沖合に停泊する船の上から、朝霞の中に浮かぶ釜山の街を見ながら、友人と理由もなく涙を流したことを思い出す。
高校時代からの「大陸」という言葉の響きへの異常なほどの憧れ。今、その大陸の末端である釜山の街を見ている。今回の玄海灘は非常に穏やかである。甲板には私一人。静かに、過去の歳月を回想している。海外への憧れは、若人にありがちな「他人とは違う生き方がしたい、波乱万丈の人生がおくりたい」といった想いからの発芽であった。 十九世紀から二十世紀初頭の冒険家、探検家達のノンフィクションを読みあさり、下宿で一人血湧き肉躍っていた。
チベットの精神的指導者である、ダライ・ラマ十四世と出会ったのも、ちょうどそんな頃のことだった。京都のホテルの一室で一時間半ほど話をする機会を得たが、彼との出会いはその後の私の進路に大きな影響力を与えたのだった。インドにあるチベット難民の町に私は六カ月滞在した。短期滞在の外国人である私を、チベット難民の彼らは家族同然のように扱ってくれた。この後訪れたヒマラヤ山麓の寒村でも同じような出会いがあった。今まで隠されていた若者特有のトゲトゲしい心の角が、旅を続ける中で融けはじめていった。
異国の人の温かい心の温度がそうさせてくれたのだった。アジアの伝統医学や、仏教などへの興味もこの頃から芽生えはじめた。
「旅」という行為は、外国の事物や事象に触れることである。学校の教科書に書いてある内容を確認するだけが旅の本質ではない。旅をすることとは、自己再発見の「気づき」なのだろう。大自然の中を旅する醍醐味をもつ魅力を、多くの人へ伝えたいという思いが次第に強くなっていった。
大学卒業と同時に、世界の秘境・辺境・山岳・アウトドア旅行を専門に扱うエージェンシーに就職し、各地にてのフィールドワークをおこなってきた。地球のテッペン・北極点、灼熱のシルクロード、緑の魔境・ニューギニアなどなど。当時、地球上に残された大自然、ドラマチックに生きる秘境の人々に数多く出会うことができた。
地球はまだまだおもしろい
海外渡航回数がいくら増えても、はじめて訪れる土地に到着する時は、ワクワク、ドキドキする。未知の物との出会いに心躍るのである。空港に到着する時は、自分の五感を研ぎ澄ます。事前の情報や理屈で事物を把握するのではなく、あくまで自分の肉体の感性でもって感じ取るためだ。自分の価値観や固定観念が揺さぶられるような出会いや瞬間を期待しているのだ。こうした心の未知なる世界への扉は、何歳になっても開けておきたいと思う。
旅することは、「タマネギの皮むき』に似ている。知らず知らずの間に我が心に覆いかぶさっている、固定観念、先入観といったタマネギの皮という名の鎧。そして旅の途上で、未知なる物との出会いにより、その皮が徐々にむかれてゆく。玉ねぎの皮むきには涙がつきもの。それは自身の心の涙でもある。そして皮をむききった時、裸の心が見えはじめる。幼い頃、野山で遊んでいた自分の姿がオーバーラップしてくる。それはため息が深呼吸に変わる瞬間である。地球上には、そんなため息を深呼吸に変えてくれる磁場を持つ土地が、まだまだ残されている。
過酷な自然環境下ではあるが、着実にカカトを地面につけ、堂々と生きている人達。誇りをもって伝統的な生活を送る人達。文明化の波間で揺れ動きながらも、未来ヘの鋭い選択眼をもつ人達。頼もしく、逞しく…。そして彼らの背後には、悠久で壮大なスケールを持つ大自然がある。私たちの住む、この地球はまだまだ捨てたモノじゃない。そして未知なる世界への、人間の可能性についても同じことがいえよう。
地球のツボを探る
先にも述べたが「五感を研ぎ澄ますこと」、言い換えれば「自分の体性感覚の復活」が、特に人工知能などが席巻している現代社会では問われているのである。旅で直面する事物を己の肉体の感性でもって感じ取るということだが、人間の肉体が持つ感性の可能性に興味を持った私は組織人を辞め、東洋医学の学校に入った。
鍼灸の技術はもとより、東洋に生まれた宇宙観、自然観、人間観をさらに深く学びたいと思ったのである。人間の体を小宇宙とみなした古代の感性の結集が『ツポ』である。「気」という肉眼では見えない感性のエネルギーを流出入するこのツポから、鍼灸師は身体の情報をキャッチする。いわばツポは、体性感覚の調和状態をはかるパロメーター点である。
この丸い地球にも、人間の身体と同様に磁場としてのツポ (場所) が存在する。『人間への癒し』と『再生活力』を発するエネルギーを有する土地だ。これらの土地は、地球のエコロジカルな調和状態を測る観測点でもあり、同時にその土地を訪れる者たちへ「深呼吸することの意味」を気づかせてもくれる。
そして固まりかけている、心のタマネギの皮をむいてもくれる場所でもある。
人間学の師匠との出会い
旅の分野でも飛躍的な変化が生じた二十世紀。その行動の軌跡が歴史の舞台を彩ったこともある、旅の達人たち。今回は、二十世紀から二十一世紀をまたいで活躍された旅の達人の一人であり、私にとっての人間学の師匠のことをご紹介する。朝日新聞社大阪本社内のとある部屋にて、私はその人物と初めて出会った。静かな物腰が、鋭い眼光と壁に響く低音の声にて増幅され、 一層迫力を醸し出していた。
故・藤本高嶺 (たかね) 先生―当時五十代。私は大学卒業したての二十代前半。憧れていた人物に対面し、頭がクラクラ、日の前が真っ白になっていた。何を話しかけられ、そして自分が何を喋ったのか、未だに思い出せない。その藤木先生から、私は公私ともに三十年前後にわたり教えを受けた。現在も、師からの言葉を思い出すたびに、背筋がシャンとなるのである。先生のお父上も朝日新聞勤務であり、記者時代にヨーロッパより近代アルピニズムを日本へ紹介した藤木九三氏である。夏の風物詩となっている、甲子園球場での球児達の熱闘。その応援舞台となっている「アルプス・スタンド」の命名もお父上である。
お父上を慕われご自宅に集まった、若き山岳人、学究の徒、ジャーナリストの人達と、先生は幼き頃から交遊された。その中には、日本が初めて派遣した南極越冬隊隊長の西堀栄三郎先生や、国立民族学博物館初代館長である、梅樟忠夫先生など当代随一の探求者の方々も多くいた。探検・冒険・民族学など活躍のフィールドを、グローバルサイズで求める群雄達の影響を存分に受けられ、先生も関西学院大学時代には、山岳部に所属しフィールド学の基礎技術を学ばれた。その後、朝日新聞社に入社、社会部を経て写真部へ。「記事がかける写真部員を目指す」をモットーに日夜飛び回られた。
フィールド学の基礎を学ぶ国内取材にて数々の華々しいご活躍の結果、本多勝一氏との運命的な出会いがあり、そしてコンピ結成となる。それからの二人の活躍は、「アラスカ・エスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」「ベトナム戦争取材」など精力的に海外へと伸びる。新聞記者が長期海外取材、それも辺境の民族への文化人類学的取材というのは、はじめてのことだった。「パイオニア・ワーク」という言葉がモットーであった、私の大学の探検部時代。お二人の著作は部室の本棚に並べられ、絶えず若い探検者達の憧憬の視野の中にあった。
先生は、新聞社の編集委員となられてからも、継続的に過去調査した地域を再訪調査された。一般の人達へ秘境や辺境の地の魅力を普及する活動の一環でもある。私は幸運にもそのご活動のアシスト役に任じられていた。先生とともに再訪調査へ出かけた地域は、内モンゴル自治区、中国西域、インドネシア領ニューギニア、ベトナム、ブータン、ネパール、ペルー、チベットなど多地域にわたる。
過去、大きな遠征隊の要職を歴任された先生からは、同行メンバーさらに現地スタッフ達に対しての細かな気配り、トラブル処理時の冷静な判断、そして写真やメモによる記録の方法や着眼点など多岐にわたり教わった。さらになんといっても、旅の間毎夜おこなわれる、アルコール付講話を一番多く聞いたひとりであると自負している。過去に探検取材された時の苦労話が関西弁の風味を加えて展開され、笑いの輪がひろがると同時に、心にズシリと響くものをよく感じていた。
一度、先生が神様といって尊敬されている梅悼忠夫先生との対談を私が企画したことがあった。その際、私のことを「マァ、弟子みたいな者ですワ」と紹介していただいた時の感激はいまでも忘れることができない。先生の弟子ということは、梅悼先生の孫弟子ということ? と、勝手に自認させていただいている。
通過儀礼としての旅の意義
先生は晩年、大阪の大学の名誉教授をされながら、探検・冒険・民族学などの分野での後進育成に力を注がれていた。日本の各分野において名を成した、ヨットの堀江健一氏、冒険家・植村直己氏、女性登山家の今井通子氏、その他有数の方々も先生と深い因縁を持たれていた。人の人生は、出会ってきた人物により大きな影響を受ける。自分にとり糧となることを静かに伝えてくれる人との出会いが、自分の骨や肉、熱き血となってゆく。私にとり、探検学、フィールド学、そして人間学といったものを師事した大きな人物―それが藤木先生その人である。
旅というものを、単なる物見遊山ではなく、人生にとっての通過儀礼、そして広く人間形成のフィールドとして考えられるようになったのも、旅の達人―藤木先生との出会いからである。一時期、広島市内の大学や専門学校にて若い学生と時間を共有する日々があった。単なる教科書を媒介とした接触ではなく、野外生活や旅から体得した裸の感性と生の体験を次世代へ伝える為の時間と思っていた。それは、旅とは、生涯学習の場としても多くのエッセンスを含有していると思うからであった。
※ ここからは、藤木先生への追悼文集に私が寄稿した文章である。
我が師匠の面影を偲ぶ
面影というのは不思議な言葉です。遠くに離れていても、その方を思い出すのは、掛けていただいたコトバや、モノゴシやシグサ、そして存在を包み込むオーラのような気配だったりします。ちょっと体を斜めに傾げられながら、スイングの入ったグラスを持たれて、「そうですねん……」と穏やかにお話になるそのお姿は、私にとって大切な藤木先生の面影のひとつです。
その面影の原点は、一九八〇年代半ばのベトナムはサイゴンにあります。場所はマジェスティックホテルの一室でした。同志社大学時代に山岳部・探検部に所属し、新聞学を専攻していた私にとって、『極限の民族』や『ベトナム解放戦線潜入記』などはバイブル本のような存在でした。
二十四歳の時に、朝日新聞大阪本社の一室にて先生に初めてお会いした際には、緊張で足が小刻みに震えてもいました。その先生が団長を務められるフィールドワーク訪問団のスタッフとしてベトナムへご一緒させていただいたのです。マジェスティックホテルは、大学時代に熟読した開高健氏の従軍記本にも頻出する場所なのです。
開高健氏や先生、本多勝一記者が宿泊されていたホテルなのです。その憧憬のホテル空間にて、ベトナム解放戦線潜入取材時の秘話や裏話などを先生から直接お聞かせいただいたのです。そのエキサイティングな秘話・裏話をお話しになる先生のお姿は、私の人生において忘れられない記憶のひとコマであります。そのひとコマは、先生の面影となって脳裏の奥深い場所に記録されたのです。
先生一行の「露払い役」としての任務は、ベトナム以外にも、ペルー・チベット・ヒマラヤ・ブータン・インドネシア・カンボジア・パミール高原・内蒙古など世界各地のフィールドに及びました。私の二十歳代半ば~三十歳代半ばの十年間の貴重な行動軌跡となりました。大学探検部の活動信条である、「ミズカラの目で見て、耳で聞いて、肌で感じる」を座右の銘としてきた私にとって、先生一行の露払い役は極上の任務であったのです。
二十一世紀はネット空間でのバーチャルな仮想世界が、あらゆる分野で席捲している時代です。また、ロボットや無人運転など、人肌感が介在しない便利さにも注目が集まっています。まさにデジタル技術無しでは物事が進まない時代になっています。それとは対極にあるのが、先生が「見ると聞くとは大違い」と言われてきた、世界の秘境・辺境の地ではないでしょうか。
秘境・辺境の地では今でも、「機能」だけで動く生命体はほとんどありません。あらゆる生命体の動きには、「他者」との関係性に伴う「意味」が付与されています。その意味が、「豊かな感情」の源泉にもなっているのだと思います。人間はその感情があるからこそ、遠い彼方に逝かれた方への思慕の念を持つのだと思います。
そしてその方の面影を偲びながら、生前に発せられたコトバの意味を辿る内なる旅を続けるのだと思います。先生の言われる「探検」とは、あらゆる分野において、この「本質的な意味」を探求する行為のことだと私は諒解しています。
「そうでんな……、シミズ君」いうお声が天上界から聞こえてきたような気もします。先生、天上界にてもお体を傾けつつ、美味なるスイングに舌鼓を打たれながら、「極上人生の続編」をお過ごしになってくださいね。
アジアの陸路国境
日本は、四方を海に囲まれているので、陸路の国境は存在しない。地政学的には、この条件がアジアの中でも日本の特殊性を際立たせてもいる。また、四方を海に囲まれていることは、歴史的、文化的にも、独特の風土を育んできた要因ともなる。世界でも四方を海に囲まれた国は、イギリスやミクロネシアの諸国などあるが、意外にも少ないのではないだろうか。とすれば、大陸にある国のほとんどは、陸路他国との国境が存在するのである。
ヨーロッパを国際特急列車で旅をしていると、 一日のうちに、二~三カ国を通過することもザラである。夜が明けると次の国に入っていた、,なんてこともあるが、日本では、トンネルを抜けたら雪国になるくらいであろう。日本や一部の国を除いた、アジアのほとんどの国は、大陸に位置しており、隣国と陸路にて国境を接している。陸路国境といっても、広大な土地に一本のラインが引いてあるわけでもない。東南アジアの場合、その国境の多くは鬱蒼とした密林のジャングルであることが多い。
密林のジャングルというのは、人間の視界が非常に狭められる。起伏のある地形に、樹木が生い茂っているのである。まるで、緑の海の中をさまよいながら、泳いでいるかの如くである。視界がきかない場所には、魃魅糧魅とした闇の世界が存在しがちである。ベトナム戦争の折に、明るいだけがとりえのアメリカの若い兵隊は、このアジアの密林のもつ、暗くて不気味な底力にかなり手こずった。
微笑みの裏にある悩み
東南アジアの中心に位置するタイは、国のまわりのほとんどが、陸路での国境線となる。タイ政府観光局などは、自国のPR文句として『微笑みの国・タイランド』というフレーズを使う。しかし、その微笑みの裏には、長い陸路の国境線を持つが故の悩みが隠されてもいる。東は、今でも多少とも政情不安定なカンボジアと国境を接する。北は我々には一番馴染みの薄い、ラオスがある。西は絶えず緊迫する状況下にあるミャンマーと接している。南はマレーシアだが、国境付近には共産グリラが時折り出没する。特に、北部の国境周辺には世界でも有名な麻薬の産地があり、ゴールデン・トライアングルとも呼ばれる。
麻薬の原料であるケシの栽培に適した気温と雨量を有するこの地域は、タイとミャンマーとラオスに接しており、その背後には大国中国が控えている。冷戦下の時代には、CIAや各国の謀報機関員たちが活躍する冒険小説の舞台のひとつであった。現在でも、少数民族武装集団や、国民党残党一派などゲリラ的な組織が覇権を争い、小さな武力衝突が絶えない地域である。
少年達の憧れ・特殊部隊
北部の武装集団の鎮圧や、隣国からの多数の難民の流入、政治亡命者や犯罪者の摘発などには、普通の警察や軍隊の力が及ばない事もある。そんな時活躍するのが、タイ版・グリーンベレー部隊である。数年前にその基地を取材で訪れたことがある。首都バンコックから車にて北東方向へ約二時間、サラプリという町にそのベースはある。いくつかある基地の中でも、このサラブリにある基地はタイの王室の人達も一定期間訓練を受ける由緒正しき場所である。
博物館もあり、入り口には兵士と鎌首をもたげた大蛇のレリーフがある。タイの諺の中に、『ヘビの背中を叩くと、必ず痛いシッペ返しにあう』というのがあるらしい。グリーンベレー部隊はヘビのような執念をもって対戦するぞ、ということか…。また、部隊のシンボルには、エラワンと呼ばれる三つの頭を持つ象がつかわれる。象はタイでは神聖な動物として扱われてきた。力持ちで思慮深く、勇敢であることの象徴として、三つの象の頭が使われている。そもそもエラワンの言葉の語源は、『空飛ぶ神』という意味を持つ。
国境地帯にて、一触即発状態の危険が迫ると、この基地からヘリコプターがスクランブル発進し、空からエラワンの紋章をつけた、精鋭部隊がパラシュート降下するのであろう。実際、この基地にはアジアで唯一の気球による降下訓練設備がある。訓練内容は、それ以外にも、樹木や植物や、有毒動植物への対処方法などの知識を習得するサバイパル訓練、また各種武器の実弾訓練や短時間での解体・組み立て訓練などなど多岐にわたる。訓練にはテキストブックがないという。悪用されるのを恐れてのことだと聞いた。ストイックなまでの訓練生活を強いられ、また戦闘への緊急出動など精神的に多大なストレスがかかるこの部隊は、タイに住む少年達の憧れの職業でもあるのだ。
心の涙腺に光が射す
刺すような朝の寒気に、身体より先に脳の芯が目覚める。早朝の柔らかい陽射しに薄ピンク色の朝化粧を始めるヒマラヤの山肌。朝霞の中、どこからともなく聞こえてくる鶏鳴と人馬の声。広い谷を挟んだ対岸の山腹には未だ、ランプがほのかな光線をくゆらしている。朝露に濡れるキャンプサイトに、人の影がやさしく伸びるヒマラヤの朝。日本から来た熟年の夫婦が、身を寄せながら頬に涙の露を浮かべている。その涙の露には、山肌の薄ピンク色が滲み込んでいる。人為的な演出の入る余地のまったくない早朝のドラマ。このドラマは、太陽光線が地表におちるまで、ほんの十分程度で幕を閉じる。
ヒマラヤ・トレッキング (山麓歩きの旅) の案内をしていると、このような早朝のドラマに幾度も出会う。どんなに仲の悪い夫婦でも、このドラマの舞台に対峙すると、同じ想いの涙を流すのかもしれない。ヒマラヤ・トレッキングーそれは、心にも涙腺があることをしっかりと再確認させてくれるドラマの舞台ではないだろうか。その代表的な場所・ネパールヘは、日本から直行便で約十時間の空の旅。アルピニスト達のみの栄光と悲劇の舞台であった頃のネパール・ヒマラヤは、すでにすぎ去りし過去の話である。
現在は日本をはじめ諸外国から、トレッキングという行為を楽しみに老若男女が集う。トレッキングとは山の頂のみを求めて格闘する行為ではない。山麓の風情と山岳展望を楽しみながら歩くのがトレッキングのスタイルである。
トレッキングー人生の道を歩く
ネパールは標高八〇メートルの亜熱帯地域から標高八八四八メートル・世界最高峰エベレストまでを南北約三百キロの幅の中に凝縮させた地形を持つ。人々は切り立った山肌にまで耕作地を作る。標高四○○○メートル付近まで開墾の風景がとぎれることなく連続して展開する。ネパールでのトレッキングとは、日本アルプスやヨーロッパ・アルプスでの山歩きとは異なり、人々の生活圏の中の道を歩く。江戸時代の街道である中山道などを歩くイメージである。生活道であるので、峠には茶屋がある。
茶屋では隣村からの帰りに一息つくおじいさんがいる。牛囲いの石垣が道の両サイドに続く。腰が曲がるくらいの大荷物を背負った担ぎ屋達が、その石垣のかたわらで煙草を吸う。学校帰りの小学生達が声を掛けてくる。茶屋のかみさんが乳飲み子を抱きながら竈に薪をくべる。そんな茶屋の前を、首に鈴をつけたロバのキャラバンが通りすぎる。鈴の音を耳にしながら仰ぎ見れば、ヒマラヤの勇姿が父のように堂々と、そして母の如く優しく峠の茶屋を泡み込んでいる。
ネパールの人々のあたりまえの人生、その一瞬のひとコマが目の前に展開し、そして流れてゆく。同時に心の中で、今まで歩んできた人生の道をフラッシュバックしている自分がいる。時速四キロのスピードで、ヒマラヤの山麓筋をそよ風に吹かれながら歩いていく。額や首筋を伝う汗は、浄化されつつある心の涙。なんともいえない爽快さが末端の一つ一つの細胞までも再活性化させている。身体の細胞の雄叫びが鼓膜の内側から聴こえてくる。鼓膜の外側をそよ風がやさしくさすり、鼓膜をはさんで至福の時が流れてゆく。
心に歌垣を結ぶ――仲間たち
一日の行程は徒歩・平均四~五時間。ネパールヒマラヤ・トレツキングのもう一つ大きな魅力は、現地同行スタッフ達との出会いである。シェルパと呼ばれる山岳案内人。荷担ぎのポーター達。ヒマラヤに生を育んでいる、彼ら山の紳士達は総じてはにかみ屋さんである。モンゴリアン系の顔立ち、そして仏教を基盤とする倫理感が、我々日本人の心の琴線を強く弾く。黙々と働くが、絶えず白い歯を見せる。そんな彼らの姿に古き良き時代の日本の若者像をダプらせる熟年層。穴のほころびたシャツの袖から赤銅色の腕。細いがカモシカのように無駄のない二本の足。
ためらいながら、恥じらいながら語る…『この仕事を終えたら、久し振りに故郷へ帰り彼女に会うんだ』。我々の為に、タ飼の支度をしながらも、彼らの心はしっかりと故郷を見ている。彼らの見せる白い歯にヒマラヤを背景とする故郷の風景を、そして、彼らの恥じらいの語り口に、伝統文化への強い誇りを私は感じるのである。日中、黙々と働いた彼らは、夕食後エンタティナ-に変身する。カラオケなどのセットは彼らには必要ない。
簡素な作りの笛と太鼓が彼らを変身させる。とぎれることなく誰彼が次々と唄を口ずさみ、月夜のキャンプサイトに踊りの輪が花開く。日本からの参加者も、炭坑節や童謡・唱歌で互いの心に歌垣をつくる。月の光に照らされ、闇夜にほのかに白く浮かび上がるヒマラヤの懐深くへ、歌垣の音色が染み渡ってゆく。月が姿を消し、闇夜に星たちが光の競演をはじめる頃、キャンプサイトに静寂が訪れる。それから約六~七時間後、新たな一日の始まりとともに、早朝のドラマが幕を開けるのである。
『歩く』という、あたりまえの動作を繰り返すのがトレッキングである。ただしかし、心の沈殿物を浄化する汗をともない、末端細胞を再活性化する深呼吸を繰り返し、そして、そよ風が心に虹色の歌垣を結んでくれるのである。
アルプスの国・スイス
スイスを訪れる日本人観光客は年間約百万人前後にも上るといわれる。この数字は、スイスが日本人にとって非常に親しみやすい国の一つであることを証明している。何故そんなに多くの日本人がスイスを訪れるのだろう。スイスといえば、国連本部など各国際機関の存在する永世中立国、時計をはじめとする精密機械産業、チーズやバターの酪農国、おいしい生チョコレート、アルプスの山々や高原の湖などなど、国自体にクリーンなイメージがまず浮かんでくる。
さらに、息子の頭に乗せたリンゴを弓で射たウイリアム・テルの伝説、アニメの『アルプスの少女・ハイジ』などを通じて、スイスの持つ歴史や自然の魅力はひろく日本にも浸透している。欧州アルプスに拡大すれば、女優ジュリー・アンドリュースが子供たちと一緒にエーデルワイスやドレミの歌を歌っていた、名画『サウンド・オブ・ミュージック』の中のシーンを懐かしむ年配の方も多いことであろう。
彼女が歌うその背景には、欧州アルプスの素晴らしい山岳風景がひろがっていた。スイスのアルプス地方はマッターホルンやユングフラウ、アイガーなどの白銀に輝く四○○○メートル級の山々やその山麓高原に点在する美しい湖、牧歌的な緑の草原などが特徴であろう。そして世界的にも名高い山岳リゾート地、ツェルマットやグリンデルワルドなどの町並み、それらが織り成す山岳風景がまるで絵画のように展開するのである。
地球一周より長い散歩道
夏ともなれば、世界中からその山岳風景のキャンバスのなかを、自分の足で思い出色を描きに訪れるハイキング客で賑やかになる。スイスはその国土の七割が山岳地で占められる。山岳地を中心に、スイス国土には総距離五万キロにも及ぶハイキングコースが整備されている。地球一周の距離が四万キロ。九州よりやや小さいスイスの国土のなかに網の目の如く散歩道があるのである。これらの散歩道をヨーロッパはもちろん世界各国からのグループや個人のハイキング客が歩いている。シルバー世代の夫婦連れ、子供を肩車した家族、明るい学生達…。歩いていると、「ハーィ」「ボンジュール」「コンニチヮ」など世界各国のあいさつが笑顔とともに飛び交う。
高原の牧草地からはカウベル (放牧牛の首につけられた大きな鈴 )の音色が心地好い風に乗りハイカーを迎えてくれる。ハイキング中継地の小屋付近からは、アルペンホルンやヨーデルの音色も聞こえる事もある。その音色は白銀のアルプスの山々から緑の深い谷までこだまのように流れてゆく。七、八月にはハイキング道の両サイドに色とりどりの高山植物が咲き乱れる。アルプスの名花と呼ばれる、エーデルワイス、エンチアン、アルペンローゼなどもそよ風に揺れている。ハイキング途上の牧草地に寝そべり、花や草の香りや匂いに身をまかせてみるのも極上の時間の費やし方である。是非、読者の方にもスイスでのアルプス・ハイキングを紙上にて楽しんでほしい。初心者の方でも安心して楽しめるハイキング術をご紹介しよう。
雲上のパラダイスヘ
日本からスイスヘゆくには、北回り・南回りともに空路移動が可能である。直行便などでは、日本を出発したその日(時差の関係上)のうちに、スイスの表玄関口であるチューリッヒヘ到着できる。スイス国内は鉄道路線が充実しており、時刻表さえあれば自由に目的地までの路線を選択できる。日本出発前に「スイス・パス」という周遊券を購入しておけば、好きな所での途中下車などが可能となる。
スイスの鉄道利用での移動では、ゆっくりと変化する窓外からの美しい田園風景や山岳風景、そして途中駅の風情や車中の人々の表情など、旅情豊かな時間を提供してくれる。この旅情は、大型観光グループが専用バスなどで移動すると絶対に味わうことができないものである。スイスの山岳地帯は古くから山岳交通機関が整備されてきた。急峻な山肌を縫うように登山鉄道の路線が続く。おもちゃのようなSL機関車が高原をのんびりと走る。牙のように屹立する岩峰ヘロープウェーのケープルが伸びる。チェアーリフトからは眼下に緑の草原と街の教会が遠望できる。
スイスのハイキングでは、このような山岳交通機関を利用することで、労せずして標高の高い展望地まで移動できる。標高四○○○メートル近い展望地からは三六〇度に近いアルプスの大パノラマや、長く伸びる氷河や深い峡谷、そしてこれから歩こうとするハイキング道が、延々と山麓の村々を抜けて街まで下ってゆく光景が展開する。ハイキングといっても、標高の高い展望地からの下り道か、もしくは水平道を歩くといった、登りはほとんどないコースも選択できる。また、途中には山岳交通機関のステーションなども点在しており、安心して歩きだすことができる。ホテルを起点とした、さまざまなプログラムにての日帰リハイキングが楽しめるのである。
山麓の瀟洒なロッジにて、アルプスを眺めながら、バルコニーでリッチな気分で昼食をとることもできるのである。地球上にての最も贅沢な散歩道を歩く―それがスイスでのアルプス・ハイキングである。
ハイキング術の指南
スイス・アルプスハイキングの続編である。ハイキングはホテルを起点とし、日帰りのハイキングである。アルプスの夏は、日本の信州の気候くらいと考えて良い。日本のように湿気は多くなく、日中暑くとも日陰にはいると爽快な気分になれる。ただし、標高の高い展望地では、気温は下がり風が吹くと意外に冷えるので、防寒には充分注意したい。また、散歩道とはいえ山道を歩くのであるから、靴選びは充分配慮したい。
スニーカーではなくトレッキング・シューズとよばれる、足首部分が長く、裏底に厚いビブラムと呼ばれるゴムが取り付けてある靴が望ましい。山歩きではアキレス腱などの足首部分、そして膝関節部分を痛めやすく、また靴の裏底が薄いと下肢に疲労が蓄積されやすい。背中には、水筒や雨具、貴重品くらいが入るデイ・パックの大きさのザック。まさに日本で近郊の山を日帰リハイキングするスタイルで充分なのである。スイス・アルプスだからといって特別気負って追加準備することもない。さあ、ハイキングヘ出掛けよう。
雲の上へ出発・ツェルマット編
ツェルマットの街はガソリン車が走れない規制がある。牛乳を配達する電気自動車の静かな動力音を聞きながらホテルで朝食をとる。食堂の窓からマッターホルンの勇姿もチラチラ見える。早朝の街中を駅までのんびりと歩く。マッターホルンを望む絶好の展望地・ゴルナーグラートヘ向かってみよう。といっても登りは登山電車での移動。急勾配の山腹をのんびりと進むこの登山電車は、絶えずマッターホルンの姿を我々に提供してくれるパノラマ路線である。
ゴルナグラートからは、モンテローザやプライトホルン、リスカムといったアルプスの名峰群が屏風のように展開する。眼下には白い大河のような表情を持つ、ゴルナー氷河が見下ろせる。ハイキングはここから、逆さマッターホルンを映す山の上のかわいい湖・リッフェルゼーを経てリッフェルベルクまでの約四時間コース。登りはほとんどなく、水平道か下り道ばかりをのんびりと歩く。スケッチプックに山のデッサンをしたり咲き乱れる高山植物の写真を撮影したりしているハイカー達とも出会う。
次のコースでは、ロープウェー駅ではヨーロッパ最高所である、クライネ・マッターホルン (標高三八八三メートル)へ。ロープウェーは一気に二○○○メートルも高度を上げ、白銀の世界へと我々を運んでくれる。夏でも雪が残るこの展望地からのマッターホルンは絶景である。また、蛇行する大氷河などの大パノラマが満喫できる。一旦途中の駅まで下り、山の上の湖・シュワルツゼーヘ向かう。ここまでくるとさすがにハイカーの数もそんなに多くない。
湖畔には小さな礼拝堂がひっそりと建っている。ここからは、マッターホルンの岩壁直下を巡るハイキングが始まる。アルプスの名峰が見上げるほどのスケールで眼前に迫ってくる。展望の良い場所の道端には、ベンチがそれとなく設置されており、心憎いまでの配慮に感心すると同時にひと休みしたくもなる。コースは次第に高度を下げていき、スイス山岳地方特有の山村風景であるツムット村に到着する。山小屋風のレストランのパルコニーで軽食をとりながらゆっくりと休息した後、ツェルマットまで下る約四時間のハイキング。
花の道へ出発・(グリンデルワルド編)
ツェルマットから緑の谷の呼称で知られる第二の山岳リゾート地・グリンデルワルドヘ鉄道とフェリーで移動する。ツーン湖を横断するフェリーは、これまたのんびりと湖畔の村々を結ぶ各駅停車の船旅。湖上を飛来するカモメが旅の同伴者である。グリンデルワルドの街は居ながらにして、アイガーやユングフラウ、メンヒなどの秀峰群の大パノラマが楽しめる。ここでの代表的な展望ハイキングは、まず鉄道駅としてはヨーロッパ最高所にあるユングフラウ・ヨッホ駅へ向かう。
この登山鉄道はアイガーの大山塊の中をくりぬいたトンネルの中を上ってゆく世界でも珍しい路線である。途中駅からはじまる、下りのハイキング道は、すぐにお花畑の山腹の中に入る。色とりどりの高山植物の花々が、そよ風に揺れてハイカーの気持ちを和ませる。花の時期は六月中旬から七月中旬がベスト。キャンパス地としての山の斜面が高山植物の花々の色(黄、赤、青、紫色等)で染められているかの如くである。
クライネシャイデックという途中駅のレストランにて極上の昼食タイムを取った後、山腹を巻く様にとりつけられた水平道をメンリッヘンまで歩く。この水平道の両サイドの斜面は、まるで花々が縫い込まれた絨毯の如く色彩豊かである。チョットひと休みをし目を転ずれば、可憐な花々で埋め尽くされた斜面と、白いアルプスの名峰群、そして山麓の緑の草原が見事な色彩コントラストを演出している。メンリッヘンからはゴンドラにて一気に下る約五時間、のんびリハイキングコースである。
その他にも初心者にとっても魅力的なハイキングコースが数多くスイスには設定されている。地球上で最も贅沢な散歩道―スイス・アルプスを歩くと知らず知らずのうちに溜め息が深呼吸に変わってゆくのである。
季節の異なる国
南半球の国の特徴といえば、季節が正反対であることだろう。日本が夏の時は冬、冬の時は夏、といった具合である。簡単に例えてしまうが、結構ユニークなことも生じる。南半球の国でのクリスマスは、真夏の季節の行事となる。暑さでフーフーいいながら、子供にプレゼントを配るサンタクロースなどなかなか想像できない。しかし、季節が異なるということがプラスにはたらく場合もある。例えば、日本では冬の木枯しが吹き始める頃、ニュージーランドでは春から初夏への植物達の花盛りとなる。
現在、ニュージーランドまでは直行使などで約十時間の行程。コートの襟を立てながらチェックインし、機内食を食べ仮眠をとっていると、春の香りが漂う南国の飛行場に到着するのである。北半球在住のスキー選手などは、真夏の練習場所として南半球のスキー場を選んだりもする。同じ南半球のオーストラリアは、平均標高が三百三十メートルにすぎない平坦な大陸であるが、ニュージーランドは日本の地形によく似ているといわれる。ニュージーランドには、サザンアルプスと呼ばれる、標高三千メートル級の山脈があり、アウトドアに適したフィールドが展開する。
ここ二十年ほど前からニュージーランドヘの渡航者は増加傾向にある。そのほとんどが、ニュージーランドの自然景観に憧れている人達である。緑の牧草地帯に点々と白い羊の群れが延々と続いてゆく。国民一人あたり羊の数が十頭を超えるというくらいの多さである。やがて雪を抱いたアルプスが遠望できる頃、氷河にせき止められたコバルトブルーの湖が顔を出してくる。偏西風の影響で、降水量が多く温帯では珍しい多数の氷河が形成されているからである。
たなびく白い雲の誘い
特にニュージーランドの南島には、氷河地形を有する山脈が多く存在する。その山脈をここちよくトレッキングする旅が最近注目されている。いかにもイギリス植民地時代の名前である、クライストチャーチという国際線の空港のある町から車にて約六時間で、ニュージーランドの最高峰マウント・クック峰の山麓に到着できる。途中、羊が草をついばむ牧草地の上空には、白い雲が長く幾重にも流れている。先住民であるマオリの人々は、この国のことを『アオテアロア(長く白い雲のたなびく国)』と呼んでいた。そのとおりの風景が広がっているのだ。山岳風景が近づき始めると、緑の牧草地は姿を消し始める。そして、平坦で乾燥した土地の中から唐突にコバルトブルーの湖が現れるのである。プカキ湖だ。
この湖にはマウン卜・クック山麓の氷河から流れ出る水が注ぎこむ。マオリの人達が、「アオランギ(雲を突き抜ける山)」と称えたマウント・クック峰を含む山々からの水は、この湖の色を限り無く青々とさせている。湖畔にある無人のテーブルで羽根を休める鳥は、まるで雲の一片が舞い降りたようにも感じる。白くたなびく雲に誘われて、さらにハイウェイを約一時間弱走ると、トレッキングの基地である、マウント・クック・ビレッジにようやく到着する。六時間の行程ではあるが、車の窓外に流れる風景すべてが、まるで動く絵葉書を見ているかのようでもある。
マウント・クック・ビレッジを起点とするトレッキングには、二つの代表的なコースがある。どちらも山歩きの初心者でも安心して歩く事ができる。コース標識や案内板などもしっかりと整備されている。一つ目は、限り無くマウン・クック峰へとアプローチする道。釣り橋や桟敷状の道など変化に富んだフッカー谷をゆくコースである。最終目的地となる氷河湖までゆくと、ブルーアイスが湖に浮かび、その背後に秀麗な峰々が展開し、息を飲む程の美しい空間に身を浸すことができる。
二つ目は、少々の勾配を登り、セアリー・ターンズという山腹の小さな湖までのコースである。晴れた日には、サザンアルプスの山々がこの湖に映り、逆さアルプスとなってトレッカーの心と体に素晴らしい休息の時間を与えてくれるのだ。より一層絵はがきの中へ浸りたい方は、時期の選択が必要となる。南半球のニュージーランドでは、高山植物などが満開となる季節が、日本とは異なることに注意が必要である。白く可憐に咲く、マントクック・リリーやピンクや紫の花弁をつけるルーピンなどは十二月から一、二月の期間内に満開となるのである。
十二月の花の満開時期にあわせてこのエリアを歩くと、『白銀の峰々』『白くたなびく雲』『山腹の小さな氷河湖』『可憐な花々』と、まるでおとぎの国に迷い込んだ気分にさせてくれ、命の洗濯にはもってこいの場所であることがわかる。
ヒマラヤでの新世紀幕開け
二十世紀終末と二十一世紀初頭をヒマラヤ、それも世界最高峰エベレストを眺望しつつ味わう、という企画をたてたことがある。あたりまえのことであるが、自然の造形物であるヒマラヤは世紀が移ろうとも、その姿には変化は感じられない。何万年前から一年に数センチほどの動きしかない氷河。工ベレストの山項からジェット気流に吹き飛ばされる、雪煙の風景も何等変わらない。
土地の人々も、彼等独自の暦による生活を静かに送っている。日本では、新世紀の幕開けをマスメディアが大々的に報道し、何か新しい時代がスタートするかのような雰囲気づくりが始まることは予想できていた。私にとってヒマラヤは第二の故郷だと自認している。だが、幕開けにヒマラヤを選んだのは、それだけの理由ではなかった。それ以上に、太古の昔よりほとんど姿を変えてこなかった大自然の中に、我が身を浸しながら、じっくりと新世紀という時代の幕開けを噛み締めたかったのだ。
世界最高峰の出迎え
工ベレストはその期待を裏切らなかった。二十世紀最後の十二月末、徒歩にてヒマラヤ山中を数日歩いていた。ヒマラヤは冬場でも、晴天であれば日中は気温が上昇し、非常に暑くなってくる。標高は、四〇〇〇メートル近くまで上がっていたので、同行者の中には酸素が不足しておきる高山病の初期症状を示す人もでていた。とある、峠の曲がり角に達した時、世界最高峰は、その勇姿を我々の眼前に堂々と現わした。おもわず、固唾を飲んで呆然と佇むばかりの時間が続いた。同行者も言葉を失っていた。世界最高峰・工ベレストのみならずヒマラヤの大自然に対峙すると、人々は驚き、感動し、そして自然を畏怖する気持ちにもなる。
しかし、世界最高峰はその中でも特別の存在だと、このたび再認識させられた。確かに他の峰々を圧倒している。なんの前知識もなく、初めてこの山を見た人の気持ちを考えた。その山のスケールは、その人の過去における想像力を遥かに凌駕していたであろう。事前知識のある我々でさえ、何度見ても言葉を失っている。ヒマラヤの美しさに涙を流す人さえいるのである。このような、美しい自然景観を提供してくれる星に住んでいる幸せを体感する瞬間でもある。
タンボチェという四〇〇〇メートル近い標高の村には、ゴンパ (僧院) がある。五十人前後の僧侶が、ヒマラヤの大パノラマに抱かれながら、毎日仏教の修行をしている。彼等僧侶達は、多少俗っぽい部分もあるが、最高のロケーションにて修行の時間を持てている。皮肉っぽい言い方をすれば、異邦人には感動し涙を流すまでの光景でも、日常の風景となれば感じ方が違うのかもしれない。それでもタンボチェの僧院からの眺望は、悟りへの道筋上にある光景ではないだろうか、と強く感じた。
ヒマラヤからの電話
ナムチェバザールという集落にて、我々は新世紀の幕開けを迎えた。この集落は、ヒマラヤの山岳案内人として世界にその名を響かせている、シェルパ族の村である。命の代償として、各国からの大きな遠征隊よりの、多額のガイド料収入がこの村の経済を潤している。この二十年ほどで、村人達の生活はガラリと変わってきた。今では瀟洒な山小屋風のロッジが立ち並び、村人の多くは流暢な英語を話す。急峻な山肌に馬蹄形状に形成されたこの村は、 山岳地に建設された小型飛行機しか離発着できない飛行場の村から徒歩二日もかかる場所にある。
しかし、村の至るところには、衛星アンテナが立っている。 山小屋風のロッジの中では、カラーテレビとビデオデッキが大事そうに木箱の中に入っている。そして、ロッジの電話で世界中へ、ダイヤルインにて国際電話をすることが可能なのである。シェルパ族の人々は彼等の暦をもっているので、 世紀の変わり目を特別祝福することはなく、静かに日付が変わってゆくだけの日。世界最高峰を眼前にし、大自然の偉大さに我が心を洗い流した、と思っていた私は、電話の前で逡巡していた。
人間のあさはかな自我というものを、瞬間でも払拭する為にやってきたヒマラヤ。 そして期待を裏切らなかった世界最高峰。静かに、時の移ろいだけを星空の下で味わおうとしてやってきたヒマラヤ山麓歩きの旅。でも、私は自我に勝てずロッジの受話器を上げ、日本の我が家の電話番号を押さえていた。
「ツルルル・ツルルル・・・ ハイもしもし、清水です」
聞き慣れた女房の声とその向こうに、テレビで流れる除夜の鐘が聞こえていた。
地球の鼓動を感じたい
あれは小学生の頃。兄と一緒にねぼけ顔を必死にこらえて、テレビの画面に向けていた。画面ではアポロ十一号による人類最初の月面着陸のシーンが映しだされていた。旧ソ連の字宙飛行士ガガーリンによる「地球は青かった」という言葉とともに、宇宙から見た地球の美しい姿に幼い心をときめかせてもいた。自分達の住んでいるこの地球を、宇宙空間から眺められたらどれだけ幸せだろうか。それが無理であるなら、地球という物体の鼓動を自らの五感で感じてみたい、そう夢想する少年時代を過ごしていたように思う。
夢が現実に近づいたのは三十代のころ。地球のテッペン・北極点への旅企画をガイドする機会を得た。日本出発から帰国までの総日数僅か十一日間。しかし参加費用は三百万円・・。小型飛行機による北極点到達、そして帰路グリーンランドヘも立ち寄るスケジュールだ。日本出発前に現地手配エージェンシーより、足のサイズを知らせるよう連絡が入った。極地用に開発された特別製の靴を手配する為だ。私は現地手配先にわかりやすいようにと、コピー用紙の上に自分の足型を描いた。
「ああ、この足が地球のテッペンに着地するのか」
そう思うと、アポロ十一号の飛行士の気持ちに少しばかり接近することができたのだった。少年時代に戻った私の心と身体を乗せた飛行機は成田空港を飛び立ち、 一路カナダのモントリオールヘ。ここでアメリカからの同行者達と合流する。現地側のガイドはなんと妙齢の女性。ガイドも同行者達も絶えず笑顔を振りまくナイスな人達ばかり。
針路は北、いざ北極点ヘ
モントリオールから国内線を乗り継ぎ、北極点探検の基地でもあり、極地観測所があるレゾリュートヘ。ここは冒険家・植村直己さんをはじめ多くの極地冒険・探検家達が最終準備をする場所である。ここからさらに北へ飛び、粗末なロッジと簡素な滑走路のみがあるユーリカという土地へと移動する。北極点へのフライトはこの土地から出発するのだ。我々は使用する小型飛行機の整備調整の確認も兼ね、北極点フライトの前に北磁極を訪れた。
「磁石(方位計)がクルクルとまわる」というのがこの北磁極のキャッチフレーズ。
まさに地球の磁力を全方位に発散・集約している場所。外気温度マイナス三十五度、着膨れした防寒着のポケットから磁石をとりだす。困惑したかのように磁石の針は揺らめきながらガラスケースの中を回転していた。小型飛行機は機動性を重視する為、トイレの設備がない。北極点へ向かう日の朝、巨漢のカナダ人パイロットが参加者へ問う。『膀胱の中はカラッポかい?』片道五時間のフライト中に尿意をもよおしても、北極海上に公衆トイレなんてものはもちろんない。
わがジュニアが悲鳴をあげるほど出発前に絞り上げる。片や簡易トイレの重量分にも相当するくらいの巨漢パイロットの腹の脂肪をうらめしく思いながら、いざテイク・オフ ! ユーリカを飛び立ちしばらくは大地の上。エルズミーア島の突端岸壁を右手前方に望む頃、北極海が眼前に現れる。機窓から海上の氷原帯が間近に観察できる。氷原帯が裂け、どす黒い海表面が顔を出す。氷原帯同士がぶつかり合い、接触面に白い牙のごとく氷塊が一列に並ぶ。遠方の空は鉛を溶かしたような不気味な色。プリザードでも吹いているのか、白濁する海表面。
途上、給油の為に着氷した。北極海を浮遊する氷原の上に、ドラム缶が数個置かれている。ドラム缶にセットされた発信機からの電波だけが頼りの、極北の無人ガソリンスタンドである。
地球最北・驚異のドラマ
飛行機の計測機が限りなく北緯九〇度に迫る頃、機体は何度も旋回を繰り返しながら高度を下げてゆく。ランディング・ポイントの探索である。上空からは白一色に見え、平坦にも思える氷原面は、接近してみるとかなりの凹凸がある。この着氷ポイントを誤ると確実に天国への片道フライトとなる。
『ガガガ、ゴワゴワ、ガガガー』
絶対的な静寂世界に人工の音響がこだまする。地球最北地点への到着だ。月面に降り立った宇宙飛行士と同じように、スローモーションにて我が最初の一歩を北極点に降ろす。音の全く無い、色は白のみという世界が視野の全部を占める。痛いほどの寒気が防寒着の細かい繊維の隙間から容赦なく肌を刺す。自分がたてる『カリカリ』という無機質な足音だけが鼓膜を震わす。圧倒的な「無」の世界に己の身体までが透明感を有しているかの如く錯覚し、人間の存在が薄く危うくもなる。我々は約一時間程、地球最北地点に滞在した。機体のプロベラが回り始めた時、パイロットがコックピツトから振り返リニヤリとした。
『着氷地点から四キロ移動してるぜ』
計測機による換算では、我々はなんと、成人が一時間に歩くスピードで動いていた。地球最北の厚さ三十メートルもある巨大な氷原帯は、音を一切たてず時速四キロのスピードで動いていたのだ。『地球の鼓動』というのは、人間の想像力を遥かに超えた世界で日々繰り返されている。地底深くにてはマグマが流動し、 一日に数ミリ単位で氷河は移動している。やはり私達人間は地球に生かされている。
大地に根づいた足
薄暗い明かりに照らされた、その足を前に私はとまどっていた。
簡素な家の窓を吹きすさぶ寒風が揺すっている。近藤亨さん―七十八才。ヒマラヤの大地を踏み締めてきた彼の足に、私は鍼を刺そうとしている。野太い足だ。異郷の地をほとんど一人で歩いてきた、彼の足の力強さに、私は圧倒されていた。鍼先が跳ね返りそうな気がするほどの生命力を感じさせる足に出会ったのは、この時が初めてである。孤高の魔術師―近藤さんは、ヒマラヤの奥地・ジョムソンに住む。ムスタン地域の中心地であるジョムソンは標高二七一三メートル。ダウラギリ、アンナプルナという八〇〇〇メートル峰の背後にある、ネパールでも最も過酷な生活環境下にある村のひとつである。
大ヒマラヤ山脈の裏側にあるので雨の恵みは少ない。乾燥した大地に絶えず烈風が吹き、冬は雪に閉ざされる。人間の足にも年輪というものがあるとすれば、彼の足にはヒマラヤの風雪の時の輪が刻まれているのかもしれない。近藤さんは、大正十年に新潟で生まれる。新潟大学農学部助教授を経て、五十五才の時に国際協力事業団の派遣にて初めてネパールを訪れる。果樹栽培専門家としてネパール各地にて農業指導に従事された。彼がその本領を発揮するのは、国際協力事業団退職後である。
七〇才を超えてから、ネパールの中でも最も過酷な自然環境下である、ムスタン地区に入域。農業だけではなく、教育、医療など幅広い地域改善の事業を個人の立場で取り組み始めた。七〇才を過ぎた老人が、後ろ盾のない個人としてヒマラヤの僻地へ、単身乗り込んだその勇気には頭がさがる。彼には夢があった―『自分ならあの特異な気象条件・地理的悪条件を逆に武器として活かして、きっと彼等に貢献できる』
夢への挑戦
馬上の近藤さんの背中からは、大正人の気骨が感じられ、白髭が風に揺らぐ。彼の夢への挑戦の舞台へ、馬が案内してくれた。彼のプロジエクトを紹介しよう。山腹の地形を利用したリンゴ栽培、氷河からの天然流水を活用したリンゴの冷温保存室、淡水魚の養殖場、野菜栽培、激流河川への橋梁建設援助、医療施設建設、教育施設建設、などなど。技術と経験の蓄積がなければ着手できない事業ばかりである。もちろん現地の人々の理解と協力も必要である。
ネパール各地の不毛の地にて、果樹栽培を今までにも成功させてきた近藤さんは、いつしか「くだもの作りの魔術師」と呼ばれている。私が最も感動した彼の魔術は、チューリップ栽培である。最初にフイールドを案内された時、その可憐さに心を奪われた。荒涼とした大地に、赤や黄、紫など色彩豊かなチューリップが畑を覆っていた。灰色と赤茶色が視野の多くを占める中、その空間だけがまさに桃源郷の風を感じさせてくれた。
気骨という名の鐙
馬上の近藤さんは、時に威風堂々と、時に瓢々と夢への挑戦を語る。その上半身は、彼の意志の強さと同じく揺らぐことはない。烈風の中で聞く馬上の私の背筋も自然とビンと張る。彼と会う度に、私は勇気づけられる。夢への挑戦には年齢は関係ない。逆に夢への挑戦を忘れた時に、人の加齢スピードは加速する。『気骨』などという言葉は、もはや現代の日本の中では死語に近い。だが、ドッコイ、ヒマラヤの山奥にて、この言葉が生きている。数年前に脳梗塞で倒れ、車椅子での生活を余儀なくされた近藤さんは、気骨という鐙に足を乗せ、再び馬上の人となった。「夢探しを忘れた人をここに連れてらっしゃい」。鍼を刺す私に、彼は静かに、そしてにこやかに語られた。
ポランティア・国際協力といった言葉が汎用される時代である。大学や高校でも国際交流の講座や授業がおこなわれる。机上での学問は基礎理論の習得には役立つが、生身を削る作業ではない。物質的な豊かさを享受できる世界では、生身を削る作業は疎んじられる。それだけに、七十八才の近藤さんの夢への挑戦を広く紹介したいのである。彼の著作には、「魔術師の果物作り』(くもん出版)、『ムスタンの朝明け」(かんぼう)などがある。また、読売新聞朝刊にて池澤夏樹氏による近藤さんをモデルとした小説が連載されたこともある。
最後に、近藤さんの自作による詩集『ニルギリの白嶺に誓う』より一篇の詩を抜粋する。
朝日さす ニルギリの山嶺
仰ぎつヽ 村人ここに
集いけり 若き生命と
たぎり立つ 力合わせて
いざ立たん 国を興さん
岩を噛む ガンダキの河
これぞ汝が 大の恵みぞ
荒れ果てし 不毛の台地
いつの日か 緑したたる
桃源の沃野と為さん
あヽ友よ 疾く目覚めてよ
この山河 君が故郷
歓びも悲しみもともに
手を握り いざや進まん
ムスタンの永遠の栄えに
第三の極地・世界最高峰
世界最高峰である八八四八メートルの山は、三つの呼び名を持っている。一つ目は工ベレスト、これは、一九世紀にインドの測量局長であった英国人ジョージ・エヴェレスト卿の名前を一八六五年につけたもの。二つ目は、山の南側にある国・ネパールの言葉でサガルマータ。サガルは、大空・世界を意味し、マータは、頭を意味する。三つ目の呼び名は、チョモランマ。山の北側にあるチベットの言葉で『世界の母神』を意味している。
こうして三つの呼び名を比較してみると、工ベレストという名称のみが特定された人名からの由来である。皮肉にも、我々が古くから親しんでいる名前が一番俗っぼいのである。古来人間は、山に対して畏敬の念をもって接してきた。日本においても山登りのオリジンは、信仰登山であった。山には神が住んでおり禁断の領域のひとつでもあった。ヒマラヤは、七千メートル級や八千メートル級の高峰群が、眩いばかりにそそり立つ山脈である。二十歳の秋、小型飛行機の中から初めてヒマラヤ山脈を見た私は、おもわず涙をこぼしそうになった。
「地球上にこのような美しい世界があるとは…」「ここは、神々が住む領域だ…」
あえて言えば、このような言葉の表現が思い付く。しかし、四十年前の機上の自分を回想すれば、ただただその美しさに圧倒され、言葉を失い、唖然とするばかりだったような気がする。ヒマラヤ山麓に住む人々が、世界最高峰の山をチョモランマー世界の母神、サガルマーター世界の頭と命名したのは、ごく自然のことであり深く共感を覚えもする。
天空・禁断の山への道
世界最高峰 (チョモランマ) の山頂を極めることはプロの登山家でも至難のワザである。一九五三年五月二十九日に、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが人類初めてこの山の頂に立った後、テッベンにはわずか千人程度の足跡のみが残されている。しかし、世界最高峰への道は、一部の限られた人のみに許されたものでもない。現代では、一般の人でも『世界の母神』の懐深くまで近づくことが可能になっている。それもアプローチは、文明の利器『車』によってである。禁断の領城への旅の起点は、チベットの中心地・『太陽の都」と呼ばれているラサ。
まず、ラサから平均標高四〇〇〇メートル台のチベット高原地帯を疾風怒濤の如く、西南方向へ突っ走る。年間降雨量が非常に少ないチベットの乾燥した大地からは、モウモウと砂埃が立ち上がる。五〇〇〇メートルを越す峠では、風が足下から舞い上がる。チベット第二の町・シガツェやシガールといった集落で宿泊をとる。途上、人家の全く無い道程が三~四時間続くことがザラにある。出会うのは、ほんの一握りの巡礼者と遊牧民のみ。目的地への最終日には、とんでもない悪路が待っている。
この道は、中国が国の威信をかけて派遣した、チョモランマ遠征隊の為に岩石を切り崩し、人海戦術にて築いたものである。四輪駆動車のタイヤが悲鳴をあげると同時に、我々の内臓の位置がずれまくる。雪解けで増水した河川の渡河では、タイヤがほとんど水没し、なかには立ち往生してしまう車もでる。ラサを出発してから約三~四日で、ようやくチョモランマのチベット側べースキャンプに到着できる。このベースキャンプ地の標高はすでに五〇〇〇メートルを越えている。山から流れ出る氷河の舌端にキャンプ地はある。ここから仰ぎ見る世界最高峰は、あまりにも巨大すぎる。見る者の視野のほとんどが、その姿で占められる。まさに天空の巨大スペクタルな劇場空間だ。
天空世界からの帰還
天空世界への旅は、片道切符のみの購入ではいけない。中には酸素が少ないこの地にて、残念にもそのまま昇天してしまう人がいることも事実である。事前の周到な準備と心構えが厳しく問われる旅でもある。天空世界への招待状は、気軽に受け取る訳にはいかないのである。俗世界への帰還の道もまた、難行苦行が待ち受けている。ベースキャンプ地より車で約二~三日あれば、ネパールの首都カトマンズの日本料理屋にて祝杯のビールを痛飲することができる。しかし、このビールにありつくまでのハードルはかなり高い。世界の屋根ヒマラヤのどてっばらを縦断突破する悪路がビールの前に立ちはだかる。
平均標高四〇〇〇メートル台のチベット高原から一気に約二〇〇〇メートルほどを下るのである。目も眩むような断崖絶壁にとりつけられたガードレールのない道。どう見ても一車線幅しかないのに、荷物満載のトラックが前方から遠慮なく近づいてくる。ひとかかえもある岩石が道の中央にドカッと横たわり、さらに土砂崩壊にて各所が寸断されている。おまけに驟雨到来にて、泣きっ面にハチ、そのハチも女王蜂クラス・・。カトマンズに無事到着し、俗世界にて祝杯をあげる時、いつも「二度と行くまい」と心に誓う。しかし、天空世界の誘惑の魔力に勝てず、招待状を四度も受けてしまった。
そろそろ、五度目の招待状が舞い込んでくる時期でもある。心の奥底にある「冒険心」という名の郵便ポストをソット覗いてみようかな・・。
カナディアンロッキーの魅力
私達日本人が、カナダの印象は? と聞かれた時にまず思い浮かべるのは、その広大で無垢の自然ではないだろうか。同じ北米大陸にあるアメリカについて思い浮かべる印象とは、どこか異なるものがあるようだ。ラスベガスやニューヨークのプロードウェイなど大衆娯楽や都市犯罪など多くの人間臭さを、私達はアメリカという国から情報受信している。それに比べ、カナダという国からはその人間臭さ、生活情報はあまり多く受信されていないようだ。
しかしカナダはモザイク国家とも呼ばれる。国の歴史が浅いのは、アメリカと同じであり、先住民と各地からの移民で構成される多民族国家というのも同じである。広大な国土の東にはフランス語を自国語だとするケベック州がある。また、南米からの労働者も東部には多い。北部や山岳地帯には、先住民であるイヌイットの人達や俗称インディアンと呼ばれる人達が住んでいる。西海岸部では、日本や韓国、ベトナム、香港などのアジア方面からの移民の人達が多く住む。
多くの民族を抱える点では、隣国アメリカと同じであるが、カナダからはそのキナ臭さは漂ってこない。それは、広大で清廉な美しさを誇るカナダの自然環境が、そのキナ臭さを浄化するひとつの濾過器になっているのではないだろうか。その自然環境の中心が、カナディアンロッキー山脈である。北米大陸の西に背骨のように峰を連ねるロッキー山脈には、魅力的なスポットが点在している。そんな大自然の中を自らの足でトレッキングする旅をご紹介しよう。
針葉樹の森と湖の世界ヘ
冬季オリンピックが開催された街として有名なカルガリーから車で約三時間ほどドライプすると、レイクルイーズという小さな町に到着する。この町は、英国の王女ルイーズの名前を冠とする麗しい湖がある。湖畔にはシャトー・レイクルイーズと呼ばれる世界的に有名なホテルもある。湖の真正面には、マウント・ビクトリアがその勇姿を誇っている。湖畔で散策を楽しんでいる世界各国からの観光客を横目にしながら、針葉樹の森へとトレイル(道)を歩み始める。ものの数分もすると、湖畔のざわめきが薄れ始め、耳を澄ますと野鳥のさえずりや小さな生き物達のかすかに動く音が聞こえ始める。
カナダの国立公園では、出来る限り人の手が介在しない森の復元を目指しているので、トレイルの側には倒木などもある。そんな倒本を観察していると、生き物達の音のない声が聞こえてくる、と現地のトレッキング・ガイドが教えてくれた。
「これは、今日の朝、リスが餌を求めて留った跡ですよ。」
「倒本に寄生するこの小さな苔は、すでに五十年ほど生きていますよ」
生き物達の営みに小さな感動を得ながら山腹を進むと、目の前にアグネス・レイクと可愛い名前を付けられた透明感あふれる湖が現れる。湖畔の道を歩いていると、人なつっこいリス達が岩影からヒョコッと顔を覗かせている姿に出会う。まるで自分が童話の森を歩いている主人公のような気になり、なぜかしらウキウキと足取りも軽やかになっている。深呼吸のひとつもしたくなる。クライマックスは、ピックビーハイブ (大きな蜂の巣) と呼ばれる小さなピークの上からの展望である。上方には、氷河を抱いたロッキー山脈の峰々が太陽の光を浴び、燦々と輝いている。眼下の下方には、レイクルイーズの湖面と湖畔に建つ、白亜のシャトーレイクルイーズ・ホテルが見下ろせる。
森と共生する為のルール
このレイクルイーズから車で三十分ほど離れた所にあるもうひとつの湖、モレーンレイクも見逃せないスポットである。湖畔のロッジにたむろする団体観光客を尻目に、ジグザグの登り道に入るとそこは別世界。ふたたび、童話の森へと踏み込んでゆくのである。とはいってもカナダの森のトレッキングは、コース標識や案内板などしっかりと整備されており、非常に快適な空間と時間を楽しむことができる。初心者でも、気軽に童話の森へと旅立てる様に工夫がなされている。それだけに、森への旅人が守らないといけないルールも厳守されている。
ゴミを持ち帰るといったことは当然のこと。植物の採集などはもってのほか。道を外れて歩く事も気をつけなければならない。何一つ森の物を人為的に動かしてはならないのだろう。カナダの森は、我々人間以外の生き物の為に守られている世界なのだ。この森を訪れる我々人間は、あくまで訪間者であり通過者である、という意識が徹底されていると感じる。「環境にやさしい」とか「地球にやさしい」といったフレーズが巷に溢れ、自然と人間との共生を模索している現代社会。アスファルトジャングルの中に身を浸しながら模索していても、音のない森の声は聞こえてこない。カナダの森のルールのように、もっと私達は謙虚に、この地球という星の通過者としての姿勢を見つめ直したいと願う。
グッド・モーニング・サーブ
「グッド・モーニング・サープ (旦那様) 。モーニングテイー・プリーズ」。
イギリス流に訓練された、 一日のはじまり言葉とともに温かいミルクティーが運ばれる。ヒマラヤ・トレッキングでの朝の光景。前夜のキャンプサイトでの宴の余韻が残る身体に、薄いテントの生地を通して、朝の光線がやさしくふりそそぐ。テントのジッパーを下げると、朝露に濡れた草地と薄ピンク色に染まるヒマラヤの山肌が朝の挨拶をしてくる。さあ、深呼吸して胸をふくらませ、今日もいい汗をかこう。刻一刻化粧を変えてゆくヒマラヤを望みながら、テーブルでの朝食は珠玉の食事。テーブルや椅子、テント、炊事用具など共同で使用するものは、すべてポーター達が運搬してくれる。朝食がすむ頃には、キャンプサイトはほとんどの撤収が終わり、出発の準備がととのっている。さすが山に暮らす民族、手際がスピーデイでさわやかである。
午前八時前には、「ホナ、ぼちぼち、いきましょか」の声がかかる。ヒマラヤ・トレッキングは一日平均四~五時間程を歩く。ヒマラヤを歩くといっても、現地の生活道や街道筋を歩くので、厳しい山岳登攀などは一切ない。標高四〇〇〇メートルぐらいまでは、ネパールの人々の生活圏である。さらに、シェルパと呼ばれる人々が、道案内やキャンプサイトの整備をおこない、コックが料理をつくる。そしてポーターが荷物を担いでくれる。日中は、自分の個人装備や貴重品など約五キロ程度の荷物を背にのんびりと歩くことができる。言ってみれば、ヒマラヤ山麓にて殿様気分を味わうことができる。
ヒマラヤの街道筋・西東
スイス・アルプスのハイキング・コースは、昔から整備されてきたのでトータルすると約五万キロ、地球一周強分。それに比べ、ヒマラヤではまだまだ人跡未踏の地域もあり、トレッキングできるコースは幾つかに絞られる。世界最高峰エベレストが眺望できるカラパタールの丘までのコースは、ダイナミックなヒマラヤの山並みが手をのばせば触れるぐらいの醍醐味がある。しかし標高五〇〇〇メートルを超える場所まで到達するので、酸素が薄くなり身体に相応の負荷がかかる。
事前の充分な対策や的確な状況判断にもとずくセルフコントロールが必須となる。いわゆる危機管理能力が乏しい幾人かの人が、毎年命を落とすコースでもある。初めてヒマラヤにてトレッキングを希望される方へすすめるのは、アンナプルナ連峰山麓コースである。穏やかな山並みが続くこのコースでは、ヒマラヤの山々が屏風をひらけたように展開する。八〇〇〇メートルを超す巨大な山塊、秀麗なヒマラヤひだを有する七〇○○メートル級の鋭鋒群などなど。
このコースでは、なんといっても街道筋に暮らす人々の生活風景の変化が興味深い。急峻な山肌に、空まで届くかの如く棚田が連続する。敷き詰められた石畳からキャラバン隊の馬のヒズメの音が響く。標高の変化と呼応するように、沿道の民族が変化し、家のつくりや人々の服装が異なってくる。ある著名な登山家が「世界で最も美しい谷」と形容した、ランタン谷のトレッキングコースではシーズンオフである夏でも、めずらしくまた美しい高山植物の群落に出会うことができる。白銀に輝く麗峰・ランタンリルンが遠望できる場所には、ひっそりとチベット仏教の僧院があり、心を浄化するにはもってこいのコースである。
,ヒマラヤへは最近、多くの中高年の方々がトレツキングに出かける。なぜだろうか、と数年来考えてきた。自分も中年と呼ばれる年齢にすでに到達している。ヒマラヤなど辺境の自然は、確かに悠久の時を感じさせるが、同時に過酷で厳しい。そのような環境下では、人間は長いスパーンでものを考え、同時に余分なものをそぎ落としたシンプルな生活をせざるを得ない。日常において「欲」がそれほど膨らまず、純粋になれる時間と空間が、辺境という土地にはあるように思う。
そのような土地を自らの足で、汗をかきながら歩いていると、異邦人である旅人は自らの生き方に自然と、そして素直に向き合うことができるのだろう。そして豊かさの意味を自問するのだろうか。ヒマラヤをはじめ世界の辺境・秘境・山岳地帯を旅する中で、価値観を揺さぶられた中高年の人達を多く見てきた。言葉には出されないが、自分の生きがい探し、生きていく上での座標軸を雲上にて刻む為に、ヒマラヤトレッキングを旅の目的とする人は多い。何日も風呂に入れない山での日々が続き、いわゆる物質的な贅沢さは一切ないヒマラヤ。
しかし……、
汗ばんだ肌を氷河からの融水で冷やす時、満天の星空をテントのジッパーを少し開き見上げる時、そして早朝、寝袋の中で「グッド・モーニング・サーブ」の声を耳にする時、私達は最高の心の贅沢を感じずにはいられない。「生きている」という実感とともに、「生かされている」という感激が素直に心と身体を震わせてくれる。読者の方々へも、ヒマラヤにて心の汗を流す旅―ヒマラヤ・トレッキングに出かけることをおすすめする。
ドラゴン伝説の国
ドラゴンは架空の動物である。時には嵐を呼び起こす魔神ともなるが、多くは人間が崇める存在である。過去に大ヒットした、スタジオ・ジプリの映画『千と千尋の神隠し』にも、白龍が登場する。この龍 (ドラゴン) が国旗の中に登場する国がある。それが、ヒマラヤの小国ブータンである。おそらくや、ドラゴンが国旗の中にまで描かれた、世界唯一の国であろう。国旗の中で勇壮な姿で舞うドラゴンの純白の色は、国民の忠誠心を表現し、牙をむき出す目は守護神のエネルギーを示す。そして、足で握られる玉石は、国土の豊かさと国の平安への願いが込められている。
ドラゴン伝説は、広く東アジアには残っている。インドなど南アジア諸国になると、ナーダと呼ばれる大蛇がドラゴンと同じような役割を果たしている。私が思うに、東アジアと南アジアの境にあるブータンは、ドラゴン伝説の残る一番西の国ではなかろうか。知られざるヒマラヤの王国ブータンという名前を聞いて、すぐに頭の中で地図上の位置関係が描ける人は、かなりの辺境通といってもいいだろう。この国は、ヒマラヤ山脈の南に位置し、大国インドの北端にある。簡単な世界地図では、その表記された名前が地図上のブータン国土全部を占めるくらいの小国である。
こういえば思い出す人もいるかもしれない。昭和天皇崩御の際、この国の先代の国王が、日本のドテラに似た民族衣装で葬列に参列していた。この前国王(現国王の父親)の名は、ジグミ・シンギ・ウォンチュック。 一九七二年に即位している。この前国王は、知恵者であり国民からも『龍の国の尊い支配者』の称号を与えられていた。ドラゴン伝説や、ドテラに似た民族衣装は日本との類似性を示してもいる。実際、この国の人々の顔は、我々日本人にそっくりである。学者の中にも、この国が日本人のルーツではないかと説をたてる人もいるほどである。田園風景などは、ちょっと昔の日本の田舎とそっくりでもある。でも、食に関しては少々違いがある。
数年前に訪れた時、現地の知人から松茸の話を聞かされた。ブータン産の松茸を日本で輸入しないかと誘われた。ブータンでは、松茸が多く自生するという。しかし、現地ではほとんど食べる習慣がないらしい。時期になると、自生している山麓は、松茸の匂いで充満していると知人は言っていた。日本人にとっては、なんとも贅沢な宝の持ち腐れと感じてしまう。ブータンの人々の生活は、深い仏教への信仰が背景にある。民家には必ず仏間があり、朝夕の祈りは欠かさない。また、町の中心にはゾンと呼ばれる城壁に囲まれた僧院兼政務所がある。昔は、必ず一家から一人の男の子を僧侶にする習慣もあったらしい。僧侶は、民衆から尊敬されており、高僧の中には、国会に議席をもち政治にも発言権を有する人もいる。
それだけ日常生活の中での仏教信仰は根付いているのだろう。十回前後この国を訪れているが、いさかいの場面に遭遇したことがなく、いつも穏やかな人々が出迎えてくれた。それだけに、仏教にまつわる伝説や儀式を人々は非常に重んじている。
虎の巣・タクツァン僧院や仮面舞踏
例えば、「トラの巣」という意味のあるタクツァン憎院。この僧院は、九百メートルを超える断崖絶壁に建てられている。絶えず谷から吹き上げる風に晒されてきた僧院である。この僧院には、聖者の伝説が残っている。聖者の名前は、パドマ・サンババ。インド北東部に生まれたこの聖者は、ナーランダの仏教大学で修行をした後にブータンヘやってきた。八世紀の中頃ブータンを訪れたこの聖者は、なんと空飛ぶ虎の背中に乗って、この僧院へと舞い降りてきたらしい。
また、ブータンにはチェチュと呼ばれるお祭りがある。この祭りの主役は仮面舞踏である。ラッパやシンバル、太鼓にドラと賑やかしい音楽が流れる中、シカの面などの仮面をつけた踊り手が、昔の伝説や生活上の戒めなどを、仮面劇で表現するのである。伝統を重んずるこの国の公務員達は、就業時間内に全員民族衣装の着用が義務づけられている。学校の制服も民族衣装である。自国の文化と伝統をどのように継承していくかを絶えず考えているのである。
外国からの訪問客には、一定額以上の旅行費用を設定している。その費用は他のアジアの国を旅する時と比べ少々高額であるがゆえに、目的意識をもたない旅人はほとんど訪れることはない。資源を持たない内陸国ゆえ、外国の文化を冷静に観察しながら、自国の文化の継承と国の将来を見極めようとする姿勢が見受けられる。二十一世紀になっても、このような国が世界には存在しているのである。伝統的生活をいかに継承するかは、 一人一人の国民の知恵の結晶であることを教えられる国である。
『未知』が無くなる二十一世紀
昨今は、民間計画による月着陸などの話題が飛びかっている時代である。宇宙空間から撮影された、非常に鮮明な地球の画像なども出回っている。このような画像は、自然災害のメカニズムが解析できるなど、人類にとって有益なことに使用されてもいる。鮮明な画像はそのうち、道端にて立ち小便している男のトボケ顔まで、宇宙から眺めることを可能にするかもしれない。急速に進歩してゆく科学技術のスピードは、長年各所を神秘のベールなどにて覆ってきた、恥ずかしがり屋の地球を丸裸にしてゆく。二十一世紀中には、地理学上における、「未知」とか「神秘」という言葉は死語になっているのだろう。
緑の魔境へのアプローチ
一九八〇年代半ばに私が初めて訪れた時、その空港は現代に残されたロストワールドヘの玄関口のようにも感じられた。グリーンランドに次ぐ世界第二位の大きさを持つニューギニア島。緑の魔境という呼び名にふさわしく、この島のほとんどは熱帯雨林のジャングルに覆われている。島の中央部に国境線が引かれ、東はパプア・ニューギニア、西はインドネシア領ニューギニア・俗にイリアンジャヤと呼ばれる。ロストワールドヘの玄関口であるヮメナ空港は、イリアンジャヤの中央高地にある。多島国家であるインドネシアの中でも、最も辺境部にあるこの地域へ行くには、日本から三日もかかる。
一旦、日本から空路ジャカルタかバリ島へ。そして国内線にてイリアンジャヤの中心地・ジャヤプラヘ。ここから小型飛行機にて約一時間。この一時間のフライト中、眼下には鬱蒼としたジャングル地帯と、蛇行する泥色の河川が見えるのみ。視界には延々と緑色が続く。果てしない樹海からは、酸素がフツフツと沸き上がってくるような気もする。私は、機内で深く深呼吸をし、新鮮なエアーを肺に注入した。
ロストワールドでの出迎え
ワメナ空港に到着した小型飛行機の窓から見た光景は、未だに忘れる事が出来ない。簡素な空港の脇に、数人の黒い男の人影が遠望できる。目をこらすと、人影の手には長い槍、中には弓矢を持った人もいる。さらに目をこすると、その人影は全身裸なのである。イヤ、一カ所のみ隠された部分があった。男の局所にのみ『ゴサカ』と呼ばれる、ペニスケースがついている。このペニスケースはヒョウタンから出来ている。出迎えがこのような風景である空港は、世界ひろしといえど、ここワメナ空港を含め、ニューギニア高地にしかないであろう。
プロペラの轟音の中、誇り高く屹立している槍とペニスケース。タラップを降りながら、インディージョーンズの映画の世界に入った気持ちでワクワク、ドキドキしていた。私たちは、ワメナがあるニューギニア高地のバリエム谷に数日間滞在した。このパリエム谷にはダニ族と呼ばれるニューギニア高地人が居住している。空港で出迎えてくれたのもダニ族の男達である。彼等は、文明化の波の影響を少しずつ受けながらも、石器時代さながらの生活をいまでも送っている。ワメナ郊外の村々を歩いて巡ると、その様子がよくわかる。ジャングルの中を簡素な舟で川を横断したり、いまにも倒れそうな一本橋や吊橋を渡ったりしていると、とんがりキノコの形の家々があるダニ族の集落が現われる。
家の中は非常に暗く、ただでさえ黒褐色の肌をしたダニ族の人々であるので、ほとんど見分けがつかない状態である。集落では、焼け石を使ったストーンポイル (石蒸し) のイモ料理や、ご馳走であるプタも目の前で解体された。
地球上に残したい美しきもの
外国人がたまに訪れると、集落中のほとんどの人が集まってくれる。集落の長らしき男のペニスケースは見事な長さと太さを有している。長いのは切っ先が首くらいまである。子供達のペニスケースは、微笑ましいサイズである。現地ガイドによると、ダニ族の少年達は、立派なペニスケースを身につけるべく、河原で自分のイチモツをペッタン、ペッタンと石でたたいて膨張化に努力しているらしい。一人前の男になるには、痛く厳しい修練が待っているのである。かたや女性は親族が死亡すると、自分の手指の関節部を切り落とす習慣がある。身内の死の悼みを我が身の痛みでもって共有するという。
ある集落では、家々から持ってきた品物で店開きをしてくれた。並んだものは、ペニスケースや弓矢、石オノ、動物の骨や牙でつくったアクセサリーの類いなどである。強引な客引きなどはなく、地べたに品物を並べ、静かに煙草をくゆらせているだけである。彼等は物静かで、かつ恥じらいの心を持っていた。子供達も我々の手をとり、いつまでも一緒に歩いてくれた。その彼らの手の温もりは忘れ難いものとなった。『緑の魔境・ニューギニア』というプレーズを、スペースシャトルからの鮮明画像などが葬り去ってゆくのは遠い将来のことではない。しかし、身をまとう物が少ない分、ピユアな生き方をしているダニ族の人達の心は、遠い将来も地球上から葬り去りたくないものだ。ロストワールドとは、我々が置き忘れてきた世界・・・、それは美しい心をもつ世界のことだったのかもしれない。
バブル時代にバブルなお中元
今はすでに遠い過去の話となったバブル時代。多くが虚飾と誤った贅沢の泡にまみれていたが、少なからずユニークな発想も生まれていた。
『北極海の氷・アラスカ湾の氷をお中元にどうぞ』
というキャッチフレーズのチラシを見たのは、奇しくもアラスカから帰国した翌日のことであったろうか。原材料費がタダ。唯一の経費は現地からの輸送費のみ、というその品物は一袋約二千円程度だった。
『こころの涼をお届けします』
という直筆の文書とともに、アラスカ湾の氷を幾人かのアルコール愛好家へ発送した。期待通りすべての人から『こころニクイ着想と太古の大気に感謝』などの返信をいただいた。世界中には、野生の自然と太古からの時の移ろいを肌で実感できる場所は、まだまだ多く残されている。そんな中でも、アラスカは筆頭クラスの雄大な自然景観を我々に提供してくれる。その昔、領土拡大に執念を燃やすロシア人が、どうしようにも開発できないというので、当時の価格にしてとんでもない安価にて、アメリカヘ売却した土地である。
アメリカに領土権が移った後、砂金や石油などが発掘され、ゴールドラッシュの時代を迎えたのを、ロシア人は歯ぎしりしながら見ていたともいう。そんなアラスカの大自然は、デナリ (旧名・マッキンリー) という北米大陸最高峰の山塊、そして観光対象として世界最大の氷河・コロンビア氷河に代表される。私がアラスカ湾の氷をお中元として着想したのは、このコロンビア氷河を船にてクルーズした時の経験から思い付いたのである。
太古の空気の弾ける音
その瞬間、私を含め船の同乗者全員は身をデッキに乗り出し、両耳に神経を集中させていた。
『パチパチパチ…、プチプチプチ、パチパチプチプチ…』
ぬけるような紺碧の空には、雲ひとつなく、風もほとんど吹いていない。海面に漂う氷塊の上にアザラシやラッコもグーグーと昼寝をしている。船上では、だれ一人咳ひとつしていない。「パチパチ、プチプチ』の音の発生源は、浮遊する氷であった。世界最大級の氷河・コロンビア氷河から流れ出る氷塊が、砕けて海面を漂っている。大きいのや小さいのや、形のいびつなもの、まさにオンザ・ロックの氷状態で浮かんでいるもの、などなど視界に入る青い海面の半分以上は、白い色で占められていた。燦々と降り注ぐ太陽の光線が、氷に乱反射し、目と額が痛い程である。氷河からの氷塊は、海水の温度に少しずつ溶けはじめる。氷河は何万年の歴史を経て形成され、絶えず流動を繰り返す。
最も贅沢なオンザ・ロック
太古の時代に、固まりかけた氷はまだ密度は希薄であり、細かい粒子の間には、気泡が含まれている。悠久の歴史と上部にできた新たな氷の重みにて、次々と水の内部の密度は圧縮され始める。粒子の間にあった、小さな空気の気泡は、小さく身を潜めながら再生の時を待っていたのである。一年間に数ミリという、気の遠くなりそうな氷河の歩みのなかで、太古の気泡はまろやかに熟成するのであろう。氷河の末端から押し出され、生物の母である海の温かさに触れた瞬間、そのまろやかさを、やさしげな音の囁きとして私達の鼓膜に届けてくれたのである。
『パチパチパチ、プチプチプチ』
この太古からの空気の静かなシンフォニーは、まるで母の子宮の中での、細胞の息吹のような印象を私に与えてくれた。アラスカン (アラスカ人) のクリューが、タイミングよくウイスキーのグラスを運んできた。海面から引き上げた氷塊の一部を砕き、それぞれのグラスヘと落とす。グラスという世界(小さなシンフォニーホール)にて、気泡達の奏でる太古の音律が流れ始める。グラスを自分の耳元に近付ける。グラスを軽く揺らすと音の旋律が変わり始める。何万年の年月を経て固まった氷は、製氷室で短時間に作った氷など比べられないほど、ほんとうにゆるやかに、まろやかに溶けていく。こんな氷にオンザ・ロックされたウイスキーは、こころなしか嬉しそうな表情を醸し出しているようにも思える。
「ああ…、みんながハーモニーを奏ではじめたんだ…」
そう思い始めると、不思議なものである。氷塊の上で昼寝をしているアザラシやラッコまで交響楽団の一員のようにも見えてきた。氷河の氷から弾け出る、太古の気泡の音は、私に自然のうち懐に抱かれる心地よさを与えてくれた。防寒服を着るくらいの寒さであったが、私の心は清々しい気持ちでいっぱいであった。この清々しい気持ち(心の涼)を持つ事は、現代社会ではなかなか困難なことである。それだけに、お中元をお送りした人達にも、是非気泡の奏でるシンフォニーを聞いてほしかったのである。
ヒマー・アラーヤ(雪の住処)
我々に、強い憧憬と柔らかな懐かしさを呼び覚ます、『ヒマラヤ』という言葉。語源は古代サンスクリット語にある。昔日のインド人は灼熱の平原より遥か北方に望む白い峰々に、俗界と天空世界との境界線を感じ、崇高な神々が鎮座したまう白無垢の空間としてとらえていたのであろう。我々日本人の考える狭義のヒマラヤは、世界最高峰・エべレストを擁するネバールヒマラヤであるが、 一方グレート・ヒマラヤという広義の解釈エリアがある。ユーラシア大陸の真ん中にある中央アジアの山岳地帯を西端とし、東端をミャンマーやタイの山岳地帯とする広大な地域のことである。
まさに十九世紀から二十世紀初頭の頃に、西欧列国や日本の探検家・冒険家。発掘調整隊・動植物ハンター達が闊歩していたエリアである。私も大学生時代、京都の下宿や安飲み屋でこれらの地域ヘの夢を馳せていた。西は中央アジア・タクラマカン砂漠・ゴビ灘、東は横断山脈、照葉樹林のジャングル、北はステップルートやモンゴル高原、南は神々の座・ヒマラヤ、インド平原。壮大でかつ過酷な大自然が悠久の時を超えて厳然とある。人々のあたりまえの生活がゆるやかに時を刻む。そこでは厳粛で、凛とした空間が現在もなお流れている。日出ずる国に生まれた若人が胸を焦がすのも無理はない。ヒマラヤ山脈の北にある、チベットの象徴的な建造物・ポタラ宮殿の写真に出会ったのは高校二年生の頃か。「太陽の都」と称されているチベットの中心地・ラサの岩山に建つ白亜の宮殿。黄金の屋根が高地の強い陽射しに輝いていた。
ダライ・ラマ十四世との出逢い
インドに亡命しているチペットの精神的指導者、ダライ・ラマ十四世に出会ったのは二十歳の時。京都のホテルの一室で約一時間半、彼の深遠なまなざしとパリトン・ポイスに至近距離で接した。包み込まれるような甘い時間が流れた。私の手をそっと持ち上げ、「手の平の肉が厚いのは自分と似ている。このタイプは時計など機器修理の趣味を持つ人が多い」と言われた。十四世は幼少の頃より、時計の解体や機械修理が得意だった。車のメカにも詳しいと聞いている。今でも機械音痴の私は思い出す度に恥ずかしくなる。ポタラ宮殿は、歴代ダライ・ラマの居所でもある。映画『セプン・イヤーズ・イン・チベット』でも描写されているが、十四世もこの宮段にて少年時代を過ごされている。
波乱に富む人生を歩まれながらも、彼の温かい人柄は、まなざしやポイス、そして身体全体からの磁力に現われていた。ダライ・ラマの「ダライ」とは、『大きな海』という意味がある。まさにその通りの人物であった。高校時代からワンダーフォーゲル部に所属していた私は、当初ヒマラヤを山登りの対象としてでしか把握できなかった。それがダライ・ラマ十四世との出会いにより、過酷で厳粛な自然環境下に息づく、崇高な精神世界に強烈に魅了されてゆく。
大地の磁力と人間のエネルギー
古代インドの人々が天空世界との境界線として感じた、ヒマー・アラーヤ。グレート・ヒマラヤに属する地域には、灼熱の乾燥砂漠や岩石だらけの平原地帯、高温多湿のジャングル地帯、激流渦巻く大峡谷地帯、牙をむくようなクレパス (裂け目) を有する氷河など、想像を絶する自然環境がある。朝陽や夕陽の光彩で化粧を刻一刻と変えてゆく巨峰の山肌、紺碧の空に浮遊する流れ雲、烈風に舞い上がる砂塵と蜃気楼、満天の星空と轟音をたてる闇夜の雪崩・・・。過酷な自然環境は同時に、俗世界を超越する事象を展開させている。
北極点直下の厚さ三十メートルもの氷原帯が音もなく時速四キロのスピードで動くときに感じる地球の鼓動などなど。このような地球のサイレント・ムープメントなどを、古来人間は真摯に享受してきた。同じ地球 (大地) のエネルギー (磁力) をグレート・ヒマラヤと呼ばれる地域からも充分に感じ取れる。ご存知だろうか。世界最高峰・エベレストの頂上は、約二億年前には海であった。プレートテクトニクスといわれる大陸同士の衝突によって、ヒマラヤ山脈はせり上がったのである。その高度八〇〇〇メートル級の自然障壁をチベット高原から渡り鶴が越えるのである。
渡り鶴の眼下にある乾燥砂礫帯の中では、アンモナイトの化石が地中にて悠久の時を刻んでいる。人間はその狭間の空間にて、古代より現代に至る六道輪廻の螺旋階段を巡っているのであろう。多彩な自然環境が設定されているこれらの地球には、繰り広げられたであろうさまざまな『生のドラマ』があったはずである。それは自然環境への適応と調和、そして格闘のドラマであった。風寒湿熱などの地球の息吹き、山川草木の消長盛衰などの流動的な環境下で、ヒ卜は生への格闘、生への調和を綿々とおこなってきた。グレートヒマラヤの地域では、現在もなお粛々とその活動・作業が繰り返されている。そこでは地球の鼓動・磁力を謙虚に享受しながら、生きる活力を育んでいる人々がいる。心の沈殿物を浄化してくれる磁場をこれらの地域は強く持っているように思う。
ユーラシアのエアーポケット
アメリカにおいての同時多発テロ事件以来、日本のお茶の間では、連日大量の内陸アジア情勢に関する情報が流れていた時期がある。アフガニスタン・パキスタン・ウズベキスタン・タジキスタンなど。旧ソビエトのアフガニスタン侵攻の時に比べても、これらの地域へのメディアやお茶の間の関心の高さは異常なほどであった。ウクライナ問題など、新たな世界情勢諸問題が発生する前には、イスラム原理主義のことが各メディア報道の主軸であった時期もある。頭にターバンを巻き、見事な髭と彫りの深い顔立ちの男達が、灰色と薄茶ぐらいしかない、乏しい色彩の乾燥地帯で動き回る映像は、日本人にとっては別の世界の出来事に思えていたことであろう。
多くの日本人にとって、これら内陸アジア諸国に関する事前情報は、世界史の授業で習った『文明の十字路』であった地域ということぐらいだろう。確かにこれらの地域へは、西からアレキサンダー大王が遠征で訪れ、東からは玄奘三蔵法師が聖地への巡礼途上に立ち寄っている。タリバン勢力に破壊されたといわれるバーミアンの石仏は、この地域が仏教伝搬途上の土地であった証しでもある。我々は、歴史の史実の上でのみ内陸アジア諸国の事を知っているが、現在その土地に息づく人々の日々の暮らしについては、関心の度合いは小さい。パキスタンからトルコに至る、中央アジアや西アジアのイスラム諸国は、日本人の海外理解度や親近感において、スッポリ開いたエアーポケットのようなものである。
桃源郷への道
そんなエアーポケットのエリアの一角に、桃源郷の里と呼ばれる土地があることは意外に知られていない。パキスタンの北部のはずれで、中国の西端とアフガニスタンのワハン回廊に接する場所にその里はある。標高七〇〇〇メートルを越えるカラコルム山脈の山々に囲まれた、すり鉢状の谷あいの里は『フンザ』と呼ばれている。この里の周りを『天使の首飾り』と呼ばれるラカポシ峰や、日本の作家が『白きたおやかな峰』と呼んだウルタル峰など、万年雪を抱いた秀麗な山々が取り囲んでいる。春になると、桃の花やアンズの花が谷あいに点在し、紺碧の空の青、氷河の白といった広大な自然のカンパスを豊かな色で染めはじめる。それは、まさに桃源郷の風景となるのである。
このフンザの里への主なアクセスは、パキスタンの首都・イスラマバードから車で約二日がかり。それも、断崖絶壁につけられたガードレールもない道をゆく。この道は、「カラコルム・ハイウェイ」と呼ばれている。確かに信号はひとつもない。信号がないかわりに、何か所にもわたる道路崩壊現場が車の停車時間となる。運転手は睡眠不足の目を赤く腫らしながら、ところ構わずアクセルを深く踏み込む。カープではツルンツルンのタイヤが老婆のような悲鳴をあげる。そのタイヤの悲鳴が聞こえると同時に、運転手は『インシャーラ』という言葉を発する。
「アッラーの神の思いのままに」という意味のあるこの言葉が聞こえると、私の体は硬直し強く目を閉じてしまうのだ。時速一〇〇キロ近くで、ガードレールもない断崖絶壁の、それも前方が確認できないカープの手前で『インシャーラ』なのだから・・。こんなテンションのかかるエキサイティングな二日間の旅を終えると、桃源郷の里へと辿り着くのである。
不老長寿の物語
この桃源郷・フンザの里は別名「不老長寿の里」とも呼ばれる。確かにこの里では、歳を重ねた人達を多く見掛ける。春の穏やかな日だまりの中で、畑仕事をしたり、家の白壁の横でタバコを吸っているシワだらけの老人に出会う。この里に生まれ、日本の女性と結婚した友人がいる。彼は、妻の父親に痴呆の症状が出た時、はじめてアルツハイマーという単語を知ったという。不老長寿の里では痴呆になった長生き老人はいないという。清澄な空気や乳製品の多い食生活が長寿の要素であると何かの本で読んだ事がある。
確かにフンザの里は、この要素をそなえた生活環境であるが、私はもうひとつ重要な事がある様に感じる。フンザの里では、人々が土と絶えず接しながら人生を完結させている。言い換えれば、自然の変化に自分達の生活のリズムを調和させているともいえる。たとえ、ストレスを感じたとしても、大自然という大きな濾過器がそれをこしてくれている。生きてゆく上で何が最低限必要なのかを、自然の摂理の中で選択している。
この里を訪れる度に、長寿国と呼ばれる日本の裏事情に憂いを覚える。介護老人を抱える家庭の悩み、生きがいを模索し続ける中高年、自己中心的にエネルギーを暴走させるだけのパカな若者達。構造改革がほんとうに必要なのは、政治や経済のシステムではなく、崩壊しつつある日本人の心の骨組みなのではないだろうか。
ポタラ宮殿の謎
この地球上には、人智を超えた不思議と呼ばれる事象や現象が多くある。人体の世界においても、脳やDNAの解析が進んでいるとはいえ、まだまだ未知で不思議な領域は存在している。世の中の森羅万象すべてが、科学的に分析されてしまうと、創造や夢やロマンの入り込む余地がなくなり、いわゆるオモロイ世界が消失してしまうのも事実である。「世界七大不思議」というキャッチフレーズが、古くより興奮の媚薬として人々を魅了してきた。七つの不思議の選択に関しては諸説がある。しかし、禁断の高地チベットにあるボタラ宮殿の謎を、七大不思議の一つから外すことはできないだろう。世界の宮殿の中でも、もっとも謎に満ちた宮殿といわれるのが、標高三七〇〇メートル弱の高地に厳然と聳え立つポタラ宮殿である。
このポタラ宮殿に関する謎は、アメリカ映画『インディ・ジョーンズ』のヒントにもなっているくらいだ。それは、チベットのどこかには秘密の聖典が隠されており、この秘密の聖典を手に入れた者は、世界制覇も不可能ではないというものだ。第二次世界大戦前には、ヒトラーのナチス・ドイツやアメリカの諜報機関、さらには日本の秘密機関らがこの聖典を求めてチベットにやってきた、という説もあるくらいだ。そして、その聖典がこの宮殿に隠されているとも噂された。その真偽はともかくも、このような不思議な謎を多く伝えるポタラ宮殿は、高さ二〇〇メートル弱、横幅四〇〇メートルもの巨大な建造物である。この宮殿は、チベットの中心地・ラサの小高い丘にあるので、数キロ離れたラサ郊外からも、その威容を眺めることができる。
まさにチベットを象徴する建物である。宮殿の頂きの部分には、歴代ダライ・ラマの居住していた部屋がある。その部屋の屋根は金色であり、紺碧の空の下、燦然と輝くその姿からは、人智を超えた聖地の威厳さが充分に感じられる。
宮殿の内部を巡る
この宮殿の不思議さは、内部に入ってさらに体感することになる。宮殿の内部には、部屋が千、いや二千もあるといわれている。この多くの部屋が複雑に入り組んでおり、そこはさながら迷路のようでもある。加えてポタラ宮殿の内部は、外部の光がほとんど入ってこない構造になっている。明かりといえば、昔ながらの灯明があるくらいで、内部は実に薄暗い。この薄暗さが迷路の印象をさらに強め、人を圧倒する。また、灯明の燃料となっているのは、動物性の油脂で、その油脂の匂いが宮殿中に充満している。油脂は部屋の壁や柱、階段にもべとつくように染み付いている。
現在、宮殿内では、外国人旅行者やチベット各地から訪れた巡礼者の姿を多く見掛ける。巡礼者達は、小声でチベット仏教の経文を唱え、手に掛けた数珠を一球ずつ指で繰りながら、各部屋を巡拝する。彼等の多くは、チベット高原の各地から長旅の末、ラサに到着する。もちろん移動手段は徒歩がほとんどである。我家から何ケ月もかけ、チベットの乾燥高原を横断してくる人もいる。ホコリにまみれた民族服や日焼けした彼等の顔が、その厳しい道程を物語ってもいる。
巡礼への旅路
ポタラ宮殿の他にも、巡礼者が訪れる聖地が、ラサ市内に幾所かある。その中でとりわけ日本人になじみ深いのが、ラサ郊外にあるセラ寺である。ここは大阪・堺出身の日本人僧・河口慧海ゆかりの寺。慧海は二十世紀初頭にたった一人で、苦難のヒマラヤ越えの末チベットヘ潜入した。仏典の原書を求めて、当時鎖国状態にあったチベットヘ二回入域している。 一回目の滞在は約一年程度、その多くの日々をセラ寺にて過ごしている。当時のセラ寺は、若き僧侶が仏教を学ぶ大学的存在であり、慧海はここで経典類の収集と勉学に専念された。慧海が滞在している頃に比べると、数は減ったとはいえ、現在も境内では若い僧侶達が修行している。
ラサ市の中心部に建つ、チョカン寺にも巡礼者の姿が多い。彼等は寺の正面入り口の前で、 一心不乱に「五体投地」と呼ばれるチベット独特の礼拝動作を繰り返す。「五体投地」とはまさに、全身関節の屈曲・伸展を繰り返しながら、我が身を地面に投げ出す。それは運動量の多い、激しい礼拝スタイルである。自宅からラサまでの巡礼旅を、このスタイルにて進む人もいる。その姿は、まるで尺取り虫の動きとスピードでもある。彼等の膝、肘、足先はボロボロになっており、分厚い服もつぎはぎだらけである。
このチョカン寺の広大な境内の外周は、土産物屋などの商店が軒を連ねている。巡礼者はこの外周道を、時計の針と同じく右回りで巡回する。片手にマニ車と呼ばれる仏具、そして数珠をもう一方の手に持ち、口では経文を小さく唱えながら巡礼する。外周の一角に佇み、彼等巡礼者の姿を見ながら、信仰の厚み・深さについて考えている外国人もいる。最近、西国八十八ケ所巡りが盛んである。信仰なき時代を生きる日本人も、心の安らぎを求めて旅立とうとしているのだろうか。
体の危険度センサー
タイといえば、昔は通貨危機を招き経済が破綻しかけこともあったが、現在はアジアの優等生に入る経済先進国である。学生時代に貧乏旅行をしている時、バンチパーマに白のエナメルの靴を履いた異様な日本人グループと機内にてよく乗り合わせたことがある。彼等は,、今は懐かしの売春ツアーの団体さんであった。日頃はおとなしいオトーサン達は、なぜかタイに旅行する時には、かのファッションをした時代もあった。昔のタイは、出かける方もアブナい人が多かったのであるが、現在のタイ旅行の主流は、OLさん達や、中高年のオバさん達となっている。
出かける方も受け入れるタイの方も、健康的でかしましいぐらいの、賑わいを見せている。昔から私は、なぜかアプナい匂いのする場所に足が向いてしまう。危険というのは、 一度経験すると体がその危険度に順応する。私はスピード狂ではないが、気持ちはわからないでもない。さらに危険度の高い場所や空間を、体が求めはじめるのだろう。自分でもヤッカイな性分だが、それが若さを維持する原動力とあきらめている。健康的になったタイに滞在中、非常に刺激的な村を訪れたことがある。正確な場所を明かす訳にはいかないが、そこは盗人や犯罪者の住む村であった。タイの友人から、この村に住むネズミ先生を紹介してあげると聞いた時、久し振りに危険度を感知する体のセンサーが高らかに鳴ったのである。
タイのアブナイ村
首都に注ぐチャオプラヤ河の中流にあるこの村は、土地が低く、雨期の期間はほとんど水に浸かるらしい。乾期に訪れたが、地面はジトジトとしており、蒸し返すような熱気が蜃気楼のように漂っていた。村の裏手には広場があり、ネズミ先生の館はその一角にあった。簡素なつくりの家の入口は、脱ぎ散らかした多数の靴で一杯だった。ミシミシと嶋る木の階段をあがる。二階にあがった私は、 一瞬たじろぎ、足がわずかに震えた。十畳ほどの広さの二階には、三十名ほどの上半身裸の男達が入り口に背中をむけて座っていた。私の眼の中では、彼等の背中に彫られたイレズミが舞っていた。私は、盗人や犯罪者の土地ならではの、『ネズミ先生』という命名だと妙に感心していた。
そのネズミ先生は、白い装束にて男達の前に鎮座していた。年齢を聞くと、ニヤリと笑いながら『四十は越えているはず』との答え。現地で聞いた話では、タイにての入れ墨の歴史は非常に古いらしい。その昔、現在のカンボジアの中部にあるコムという王国にて戦争があった。文字を読めない戦士達が、戦場にて恐怖に打克つときの守護神として、体に墨を入れたのが起源らしい。体に入れる墨は、仏教の守護神や、お守りの呪文などがデザインされたと聞いた。呪文は古代インドの文字であるパーリ語である。ネズミ先生のいれる墨は、その起源の考えに従い彫られる。日本の刺青のように、デザインも色彩もカラフルではなく、色も一色のみである。
しかし、モノクロの写真の方が、以外にも説得力を持つ場合があるように、私は単色の人れ墨の持つパワーに圧倒されていた。彼はこの村に住み、盗人や犯罪者の背中やふともも、はては頭部にまでも入れ墨をしている。たまには舌部にも彫ることがあるともいう。
タイの有名な映画俳優に彫った時の写真や、シンガポールに招かれた時の写真、地元や海外の新聞に紹介された記事なども見せてもらった。彼が入れ墨を彫るその手さばきは、まるで芸術家のようでもあった。彼が、長さ六十センチの針を両手でかまえ持ち、微妙に右手を動かすと、たちまち若者の背中に見事な守護神が描かれてゆくのである。
ネズミ先生・五つの誓い
彼は、タイの若者に入れ墨を施す前に、五つの誓いを約束させている。
『麻薬と酒には手をだすな』・『動物の殺生はならぬ。しかし食べるのはOK』・『父母への悪口を絶対言ってはならない』・『人の恋人や妻を盗ってはならない』、そして『ウソを言ってはならない』この五つである。
この誓いを破った者は、背中の守護神が逆に本人を攻めはじめるという。しかし、この誓いからも、また休憩の時にはミネラルウオーターを飲み、タバコを吸うネズミ先生からは庶民的な雰囲気が滲み出ている。世界には、貧困で心の持って行き場のない若者は多くいる。ネズミ先生のように市井に住み、不思議な魔力と独自の導き方を持った導者は、まだまだ必要とされている。彼等は、その時代の大衆にとって、行き場のない心の癒しの術者として、ある種ガス抜きの役割を担っているのだろう。館に上半身裸でいた、タイの若い僧侶のまなざしが、心の術者の必要度を物語っていた。
エベレストに十一回登った男
工ベレストはいわずと知れた、世界最高峰の山である。標高は、八八四八メートル。人間の定住可能最高標高は約四五〇〇メートル。この山の上部四三〇〇メートルのエリアは、人間の匂いを一切感じさせないエリアとなる。実際に、この山を登った著名な登山家も、八〇〇〇メートルにあるサウス・コルと呼ばれ、頂上への途上にある場所を、「ここは、死の匂いがする」と述べているほどだ。一九五三年に人類が最初にこの山の山頂に立った時より、現在まで約千人以上の人がこの山頂にたっている。もちろん、登山途上にて残念ながら命を落とした人も数多い。スッパリと亀裂が入り、底が見えないクレバスや突如発生する雪崩や氷解。そして時には風速五〇メートルを超えるすさまじいジェット気流や、想像を絶する寒さとの戦い。
極め付けは、息をするのに十分な酸素の絶対量が、山頂に近づくほど少なくなる。過酷な自然環境が、人間の挑戦の前に大きな壁となって、立ちはだかる。一般の人なら、その厳しい自然条件を聞いただけで卒倒するほどの世界最高峰に、なんと十一回(二〇〇一年・四月現在)も登頂した男がいる。『アパ・シェルバ』、その男の名である。工ベレスト山麓のターメという寒村に生まれた彼は、小さい頃から外国からの遠征隊のサポートをする仕事に就いていた。
ヒマラヤ登山はプロジェクト計画
ヒマラヤ山麓には、シェルパ族といわれる民族が住んでいる。標高二〇〇〇メートル以上の高地に住む彼らの存在なくして、ヒマラヤの高峰登山の成功はない。ヒマラヤ高峰登山は、準備期間から登山期間を通じて、非常に長い日数と高額の費用が必要である。現地事情の情報収集、登山の戦略的分析、物資の調達と輸送、そして遠征費用の工面・・・。成功するか失敗するかは時の運もある。しかし、その運を自ら呼び寄せる為に、自国を出発するまでの準備を各隊とも、慎重に、緻密に、計画的におこなうのである。何かに似てはいないだろうか?そうである。企業においての新規事業計画と同じなのである。
時間をかけマーケットを調査分析する。同時に他社の動向をリサーチする。調査部や開発部などの部署など、企業の総力をあげて新規開発商品の展開を図る。プロジェクト推進と同時に、多額の投資資金が必要とされるのである。ヒマラヤの高峰登山においては、強靭な肉体以上に、このプロジェクトを推進する時の感覚が必要とされると思う。ヒマラヤ登山においては、プロジェクトを成功に導く際、現地側スタッフのサポートが欠かせないのである。アパ・シェルパは、現在六十歳代である。二〇〇一年当時にすでに十一回も登項に成功している彼は、ラッキー・マンと称賛されてもいる。数多く登ったことで付いたラッキーさではない。プロジェクトの成功を導く『運』を彼が持っている、という意味である。
シェルバとしての誇り
シェルパ族として生まれた男の子は、ほとんどが登山隊のサポートの仕事に憧れを持つ。しかし、経験のない若者には修行の期間が待っている。まず、キッチン・ボーイと呼ばれる仕事から始まる。キャンプ生活で、食事の準備や後片付けの雑用係である。雑用をしながら、調理の仕方や味付けなどを学ぶのである。また、初めて外国人と接触する機会でもある。雑用係の次は、アシスタント・シェルバと呼ばれる仕事。この仕事では、外国人との会話も必須となってくる。英語圏からの遠征隊だけではない。フランス語、イタリア語、スペイン語、日本語など各国の言葉と文化に直接触れるのである。さらに、各種の役割と技術研鑽を経て、ようやくシェルパ頭となれるのである。経験と才覚がなければ、どこかの段階にてストップしてしまう。
外国からの遠征隊は、いわゆる命をかけたレジャーとしてヒマラヤヘ来る。しかし、シェルパの人達は、命をかけた『仕事』をする。登頂に成功すれば、多額の報償金も出る。しかし、一歩踏み誤れば、自宅への帰りの切符を失うことになる。工ベレスト山麓には、その切符を失った幾人ものシェルパ族のメモリアル碑がある。そんな、綱渡りのような仕事をヒマラヤの高峰でおこなうシェルパ達の誇り―それは、頂上一歩手前の一瞬に現れる。どんなに、自分が先行し頂上に手が届く位置まで達していても、外国からの隊員に先に頂上を踏ませるべく、極悪な条件下でも、頂上一歩手前で立ち止まり、道をあけるのである。請け負った仕事とはいえ、この瞬間こそ、彼らは一番誇りとしているにちがいない。事業プロジェクトを推進する際に、ヒマラヤのシェルパ達のような人材に恵まれたいものだ。
モンゴルに魅せられて
モンゴルという地域に憧れを持つ人は多い。草の海と称せられる、限り無く続く草原地帯、砂埃をあげながら疾走する馬の群れ、そして地平線に沈んでゆく真っ赤な夕陽…。その昔、ヨーロッパまで席巻したモンゴル族の騎馬軍団。チンギス汗やフビライ汗などの群雄達の物語は、歴史のページに確実に刻み込まれている。少年時代の私は、大陸の遊牧民や馬賊の生活にも憧れたものだ。馬の背をねぐらとし、草の海を漂うような生活は、島国に生まれた少年の心を捉えるのだろうか。チャレンジ精神や冒険魂を強く喚起させる響きが、モンゴルや大陸という言葉には秘められているように思う。
現在のモンゴルは正確には、一つの国と一つの地域に別れている。国としてはモンゴル人民共和国。地域は中国の北部の内モンゴル自治区である。最近の我が国の大相撲で人気を博しているのは、モンゴル人民共和国よりの力士たちである。かの国でも相撲は国技であり、チャンピオンは国民的ヒーローである。チンギス汗の末裔である草原の男達は、裸の馬を自在に乗りこなし、草原の彼方へ弓矢を飛ばし、力くらべに相撲をとる。なんともシンプルだが、ストレートに骨太魂を表現できる、草の香りがする紳士達なのだろうか。
緑の海に白い島・パオ
内モンゴル自治区のパインホソという集落を訪れた時の話である。一九八〇年代に中国政府の指導にて、定住化を始めた遊牧民の集落である。といっても、区都であるフフホトから延々と草の海の中を四時間のドライプ。草の海の中では、白い羊の群れが、まるで波間に漂う小さな海鳥のようでもあった。突然、ヒョッコリと移動式家屋であるパオの白い列が現れた。そこがパインホソの集落だった。集落自体も海に浮かぶ白い島のようだった。モンゴルの遊牧民は、家畜の餌を求めて草原を移動する。移動に適した家屋・パオは、組み立て式になっている。お椀をかぶせたような内部は、木製のフレームが扇状に広がる。そのフレームにフェルトの布を被せれば出来上がりである。
移動の時、家族で布とフレームを折り畳むのに、ものの二十分もあれば終了である。内部の家具も少なく、非常にシンプルな生活である。土地に執着しない遊牧生活のキーワードは「シンプルさ」にある。それは緑の草原を疾駆する裸馬の群れに、風の美しさや清涼感を感じる心を呼び覚ませてくれるのだ。
草枕で見た酔夢
パインホソ到着の日、村長主催の歓迎会があった、村長は伝統的な民族衣装を身にまとい、日焼けした顔の面積は私の一・五倍ほどもある恰幅のいいオジサンだった。彼の全身から草の香りが漂っていた。歓迎会のテープルには、草原の味覚がズラリと並んでいた。串焼きされた羊肉は本数を数えきれないほどの量が並ぶ。生温かいピールとともに馬乳酒と呼ばれる地酒も提供された。モンゴルの草原では、遠来の客人に対して丁重なもてなしをする習慣がある。草原や砂漠での遊牧生活を送る民族の多くに残る習慣でもある。家族や一族のみの移動生活では、旅人や遠来の客人は貴重な情報源であり、時には家族の危機を救う女神にもなり得るからであろう。移動生活からあみだされた知恵のひとつである。
村長のもてなしが始まった。村長と私が椅子から立ち上がる。まず、村長が草原に伝わる民謡を朗々と歌いはじめる。イカツイ顔に似合わず、彼の声は清涼感に富み、ここでも風の美しさを感じてしまう。歌い終わると、アルコール度数六十度を超える地酒の杯を、主人と客人は飲み干さなければならない。一滴も残っていないことを示す為に、両者はその杯を頭の上で逆さにする。次は客人の番である。私は黒田節を下腹に力を込め歌い、そして二杯目を飲み干した。この繰り返しが延々と続くのである。私は四杯目ほどから意識が朦朧とし、体は馬上で揺られているごとくユラユラとし始めた。
記憶がないので定かではないが、いつのまにか私は草原の中へと出ていたらしい。同行者に起こされるまでの数時間、私は野外のトイレの側で眠りこけていたのだ。モンゴル式のもてなしは、これまた骨太くシンプルであり、私に草枕での酔夢まで与えてくれたのだ。野外トイレから漂うクサイ匂いを嗅ぎながらも、おそらく心のスクリーンでは、夕陽に向かって裸馬を疾走させている私がいたにちがいない。これまでの人生で、幾度か意識と記憶が飛んでしまうほどの酪酎状態はある。しかし、このモンゴルの草原での草枕ほど体と心が酔いしれたことはない。月夜の晩まで頭は割れる様にガンガンしていたが、心の中では草の清涼感あふれる香りのする風が吹いていた。
ヒラヤでのめまい
その瞬間、私は軽い目眩を覚えた。ヒマラヤの奥深い山村に、前夜初めて冠雪があった十一月の朝。私の脳裏に、澄みきった空の「青」、地表と山肌に積もる雪の「白」、そして生暖かい動物の血の色「赤」・・、その三色の筋が閃光の如く走ったのだ。秘境ムスタン地区にある、標高三六一二メートルの寒村・ジャルコツトでの出来事である。その日は快晴無風。家畜囲いの庭で越冬の為の準備が始まろうとしていた。そのドラマが行われる庭には子供を含め女の姿はない。積雪の中、男達だけの準備の手作業。精悍さと陰りを同居させる男達の横顔にも、高地の強い陽射しが降り注ぐ。
美しい光景である。そして、ドラマの幕が上がる。数人の屈強な男達がつくる、人の輪がジリジリとその半径を狭めていく。人の輪の中には、家族が越冬するに必要なタンパク源を体にちりばめた家畜のヤクがいる。ヤクとはヒマラヤの高地のみに生息するウシ科の大型動物。普段は、黙々と荷役や開墾作業を担う静かな動物である。狭まる輪の中にいて、彼は逆らえない運命の順番を確実に感じている。しかし、後ろ足が大地を蹴り、砂埃があがっている。ヤクの丸い目が鋭角となり、眼球に血筋が走る。呼吸が乱れ、口角から粘液状の糸が垂れる。肌を刺す寒気の中で、運命への抵抗の唸り声、男達の吐く白い息、輪を狭めようとする摺り足の音だけが、秒針の如く空気と時を切る。
縄で編んだ四つの小さな捕縛輪っかに、ヤクの足が入った瞬間、「ドォゥオット」と地面が震える。捕縛されたヤクの足を、多人数でひっくり返したのである。白い腹を太陽に晒すヤク。強烈に長い角と四つ足を断末魔の如く振り回す。石垣から顔だけ覗かせていた村の男の子たちは、恐怖のあまり思わず背中を丸めて顔を隠していた。
共生への格闘
一瞬のことだった。一人の若者が右手にナイフを握り締め、断末魔と化しているヤクの懐に飛び込んだのだ。運命の道ずれを得たかのように、仰向けの状態でもヤクはその若者に力の限り挑みかかっていた。男の子達の憧憬のまなざしが、その勇敢な若者へと降り注ぐ。輪の男達は両手を広げ、勇者を鼓舞している。古老の口からは紫煙が洩れていた。切られていた空気と時が、急激に濃度と温度を上昇させていく。私の手掌がジットリと発汗し、拳を握り締めたその時。若者は手の中のナイフをヤクの心臓に突き立てたのだ。取り巻く男達の奇声、子供達の喚声・・、そして古老が立ち上がる。断末魔となったヤクの喉笛がヒューッと鳴っていた。
振り回す四つ足と長い角がやがてスローに空を切り始める。若者はヤクの腹に身を預けたまま、右手の力をさらに込め小刻みに回転させる。角と四つ足が震え始め、ヤクの口端から僅かに泡が出ていた。役割を終えた若者は起き上がり、その代わりに古老が水を片手にヤクへと歩み寄ったのである。
そして時がまた止まる
水を浸した綿を持つ古老の右手が、ゆっくりとヤクの口へと動いていった。家族以上に時を共有したであろう家畜へ、仏教徒としての最後の供養・死に水を与えたのだ。それから、私の視野の中では、男たちが無駄のない動きでヤクを解体し、男の子たちがその作業を手伝う光景が展開していったのである。それはナイフのみの作業であった。まだ喉の奥の渇きが消えない私の網膜に映る眼下の動きは、あまりにも早いものだった。ヤクの腹が開かれ、内臓に光が差し込んでいた。チャンといわれる地酒が振る舞われ、その中に、生の最後の証であるヤクの生血が注がれ、湯気が立ち昇っていた。男達は私にもグラスを渡し、儀式への参加を促した。そして、グラスを真っ青な空に掲げ、一気に飲み干すよう促されたのである。飲み干すと同時に、真っ赤に染まった男達の歯が見えたその瞬間、頭の奥の視界に、「青」「白」「赤」、三色の閃光が走り、私は軽い目眩を覚えたのだ。
勇者のナイフ
尻尾付近の皮膚の内側に付着する、一番美味で栄養価のある脂肪の塊は、ナイフの若者に与えられた。地酒と生血、そして御相伴に預かった脂肪分が、私の消化管だけでなく魂まで揺さぶっていた。酒精と血精にてようやく喉の渇きが癒された私は、ヤクに向かい供養の手を合わせた後、解体作業に加わった。長い腸を取り出し、川の水で中身をきれいに取り除き、その腸へ細切れに砕いた内臓の肉片と生血を詰め込んでゆくのである。胆のうと思われる臓器が古老の手で慎重に切り取られた。この部分は、珍重される秘薬となるのだろう。
内臓をすべて取り除き、次はあばら骨へと移る。あばら骨は二つに割って取り出された。そして竈の上に吊し、冬の間、煙に燻されながら、子供のオヤツになるのである。子供は腹が減ったらナイフで、その硬くなってゆく肉片を切り取り、口に含みしゃぶるのだ。断末魔と化したヤクの最後の慟哭が聞こえてから約五~六時間後。ヒマラヤに西から淡い落日の光が差し込んでいた。生を育むための、死のドラマがおこなわれた庭には、四つのヒズメ部分と固まった血痕だけが取り残され、洗われたナイフに落日の光が落ちていた。
二十一世紀の現代社会における諸問題は混迷の度合いを深めるばかりである。若者は夢やロマンを自ら見出すことを諦め、エネルギーを持て余す。一方加速度的な社会の流れに翻弄され、自己への自信を喪失する中高年達。物質的な豊かさの背後にある心の内戦であろうか。無言の慟哭や溜息が学校、家庭、職場から流れ出ている。そのような現代社会にて、本当に研磨しなければならないのは『勇気』という名の心のナイフではないのだろうか。私やあなたもちょっと前まで、ヤクの最期のドラマを石垣から眺めていた子供と同じだった。心の渇きを癒す水の源泉は、自分史との謙虚な対話の中にあるのではないだろうか。
心に響くハーモニカ
盲目の老女が奏でるハーモニカの音色。ビデオから流れるそのメロディーは、老女の苦難の人生が刻み込まれており、聞く者の心に重く響き渡る。老女の名前は、山崎繁栄さん。 一九一〇年佐賀県生まれ。彼女は、生まれてまもなく失明する。大正三年に父親の仕事の関係で朝鮮半島へと渡り、その後現地の韓国人男性と結婚。半島を大きく揺るがした第二次世界大戦、そして朝鮮戦争と続く動乱の時代に彼女は夫と一人娘を亡くし、彼女自身も行き場を失ってしまう。それからの彼女は、近くの子供の子守などをしながら、山に掘った穴の中で四年間も暮らしたという。
一九九四年に亡くなられるまでの八十四年間。彼女の人生を追想することは、想像の域を遥かに超えることであり私には困難である。が、ハーモニカに込められた彼女の心の音色に私は強い衝撃を受けた。そのハーモニカの音色は、韓国の慶州のとある施設の中で静かに流れていた。慶州ナザレ園。山崎さんは人生の静かな終末をこの地で過ごされた。おだやかな風景がひろがる慶州は、古来韓国の古都として栄えてきた。近郊には歴史上の古蹟が点在している。ナザレ園は慶州の町はずれ、長閑な田園風景の中にある。
一九七二年に開設されたこの園は、在韓日本人妻達を救援する活動をおこなってきた。在韓日本人妻は、第二次世界大戦前後に、夫である韓国人男性とともに日本から韓国に来た日本人女性達。第二次世界大戦終結直後の韓国には、約二万人弱の日本人妻の人達がいたともいわれている。朝鮮戦争の動乱期に一家離散となったり、戸籍を消失、紛失した人など、韓国と日本との国交が回復した後にも、日本に帰る事ができなくなった女性達。生活にも困窮していた彼女達に救いの手を差し伸べたのは、父を日本軍に思想犯として処刑された金龍成(キム・ヨン・ソン)氏であった。朝鮮戦争後の荒廃した人びとの生活と心を復興する為に、金氏は孤児院や福祉施設を建設した。ナザレ園もその一つである。ナザレ園に関しては、作家・上坂冬子さんの著作にてすでにご存じの方も多いことと思う。
終の家での穏やかな日々
一九九九年五月に私がナザレ園を訪れた時には、当時七十二歳から九十四歳までの二十四名の日本人妻婦人が暮らしていた。ほとんどの方が高齢者であり、中には寝たきりの人、痴呆がでている人もいた。彼女らの一日は、午後三時に賛美歌を歌い、食事や風呂の時間こそ決まっているものの、その他は自由にすごされている。日中は連れ立って近くの田園地帯を散歩されたりもしている。彼女達の楽しみを聞いてみた。とりわけ人気なのが日本の相撲中継やのど自慢、NHK朝の連続ドラマである。
特に『おしん』が放映された時は、ドラマの時代背景と自分史とを重ね、食い入るように見られていたそうだが、最近の朝の連続ドラマにはあまり興味がないらしい。かえって韓国の家庭ドラマのほうが、心情的に共感を感じられるらしい。ナザレ園では、日本の童謡や唱歌がよく歌われる。忘れかけていた日本語が懐かしいわらべ唄のメロディーとともに蘇ってくるともいう。国交が回復した後、日本へ帰国していった人も少なからずいる。が、すでに高齢となっている彼女達は、日本へ帰ることをそこまで望んではいない。わらべ唄の歌詞とメロディーの中に、故郷・日本ヘの望郷の思いだけを託しているのだ。
魂は海峡を越えて戻る
彼女達は生きている間は、このナザレ園で過ごすことを強く望んでいるが、自分の死後、魂だけは日本に帰らせたいと願う。韓国にはこのナザレ園に住む以外にも、日本人妻と呼ばれる婦人がおよそ八百人ほどいると言われている。ナザレ園の収容能力にも限界があり、それ以外のところにも住んでいる人達がいる。中には、韓国で幸せに暮らしている日本人妻がいるのも一方の事実であると聞く。しかし、身寄りも少なく心細い生活をする婦人が多く、ナザレ園では収容できない人に対しては送金援助をしたり、在宅サービスを行ったりもしている。だが、このナザレ園が果たす歴史はそう長くはないともいわれる。園長である韓国人女性・宗美虎さんは、あと十五年くらいでナザレ園の仕事は終了すると言う。高齢者の多い日本人妻達は幾人かが毎年亡くなられているのである。
現在の慶州は、玄海灘に接する大都市・釜山から高速道路にて約一時間。玄海灘は高速船にて三時間で越えられる。距離的には、ナザレ園からものの半日もあれば、故郷日本の山河に触れる事が出来る時代である。しかし、彼女達にとっての日本は、未だに近くて遠い故郷である。玄海灘を望む丘の上に、彼女達の墓地は建てられる。半世紀前にそれぞれの新天地を求めて越えた海峡を見下ろす丘である。彼女達の魂は、わらべ唄のメロディーに乗り海峡を越えて故郷へと向かう。
『夕空はれて、秋風ふく~』、山崎さんが吹いていたハーモニカのメロディーも風に吹かれて、東へ東へと流れているはずだろう。
北の大地に馳せる心
友人を訪ねて北海道の道東・釧路へ旅をしたことがある。友人の車に乗り釧路から摩周湖、屈斜路湖方面をドライプした。冬の道東は夕刻四時ともなると山の端へ夕陽が傾き始める。穏やかなスロープを描く山並みと、針葉樹の木立ち・・。その白き雪化粧の姿にほのかな淡い紅色が混じり合う時、窓外に流れる寂蓼感漂う北の大地を見ながら、私はある風景と時間を思い出していた。旧ソビエト時代のゴルバチョフ政権の末期の年。厳寒期の二月に私は極東ロシアの沿海州を訪れていた。
沿海州は、その名が示す通り、日本海に接するロシア東端のエリアに位置する。ロシア帝国・旧ソビエト時代より、地下資源や不凍港を求めて開発が進められた地域でもある。ユーラシア大陸の東端に位置する、この地域の中心地であるハバロフスクが、新潟空港から空路三時間の近距離にあることや、ロシア極東軍事戦略上重要な拠点であるウラジオストック軍港がこの沿海州にあることなどは、意外に知られていない。まだまだ『近くて遠い国』のひとつである極東ロシア。沿海州もかつては脚光を浴びた時代があった。すでに後期高齢者となっている団塊世代が、青春を調歌していた一九六〇~一九七〇年代頃。若人の貧乏旅行の出発地は、この沿海州の港町・ナホトカであった。
新潟港から日本海を船で越えナホトカヘ。さらにシベリアの荒野を鉄道にて約一週間、ようやくヨーロッパの土を踏んだものだ。時間はかかるが、当時一番金のかからないヨーロッパヘの渡航ルートであった。希望で膨らんだ背中のザックを最初に下ろすユーラシアの大地―それがこの沿海州であったのだ。
ロシア風・男のもてなし方
シベリアという広大無辺な荒野が隣接するこの沿海州には、まだまだ手つかずの自然がふんだんに残されている。想像を絶する長い冬の寒さが、「手つかず」という言葉の背景となっている。そして短い夏―奥深い森には熊やシベリア虎などの大型野生動物が徘徊し、流れる川では、イチメートル強ものイトウ (幻の淡水魚ともいわれている)が飛び跳ねると聞く。「狼の遠吠えが子守歌だった」と、ウォッカ片手のロシア人達はうそぶく。そんなモスクワから一番遠い距離にある沿海州での滞在中に、私はロシア人の心の故郷を感じる体験をした。ハバロフスクとウラジオストックとのほぼ中間点に位置する町・アルセニエフ。極東ロシア空軍の精鋭部隊の駐屯地でもある。この町から車にて郊外へ約二時間。タイガ(針葉樹林帯)の中に、イズパタと呼ばれる古いロシア式の民家がポツポツと点在している場所がある。近くにはシベリア抑留日本兵士が森林伐採した跡地もある。厳寒の二月―これらの民家のまわりは凍てつく氷と雪だけの世界。雪の上には、狼の足跡が残っていた。
男達だけの宴
すでに廃屋となっている民家を利用し、ロシア人の友人が私に伝統的な家庭風のもてなしを提供してくれた。まずペチカ(暖炉)に勢いよく薪をくべる。そしてボルシチにウォッカで体の芯を温める。男達の素朴で質素な手料理である、グリヴェと呼ばれるキノコ料理を食べる頃には、家の中も体の中もポカポカだ。二重窓の外はマイナス二〇度の世界だが、家の中では汗ばんだ上着を脱ぎ、ペチカの傍らで男達全員が上半身裸となる。ここからロシア男の心ずくしのもてなしは佳境にはいってゆく。一人の男がギターを持ち出した。ロシアの民謡を歌う男達の野太い声が凍てついた闇夜に響きわたる。
ウォッカと雪中沈身
ウォッカと歌で盛り上がった厳寒のロシアの夜に欠かせないのが、サウナである。民家の屋外にはパーニャと呼ばれるロシア式の簡素なサウナ室が作られている。立て付けが悪く、すきま風がピューピューとはいってくる庶民のサウナ。サウナの中はかなりの高温で熱せられているが、容赦ない外の冷気が混ざり適温の状態。汗が吹き出してくると、男達同士が火照った体を互いに白樺の葉で叩き合う。この後の仕上げがチョット凄い。ロシアの男達は、奇声を発しながらスッポンポンの状態でマイナス二〇度の外へと飛び出すのである。
何をするのかと思えば、満天の星空の下、雪の中に体をジャンピングさせていくのだ。こうして火照った体を冷やし、体が寒さに悲鳴を上げる寸前に、またサウナヘ飛び入るのである。「汗を出す―白樺の葉で相手を叩く―奇声を発する―雪中沈身」を幾度も繰り返す―これがロシア流伝統的な裸のつきあいなのだ。そして部屋に戻り、またウォッカのグラスをかかげ、男達は狼のように闇夜へ咆哮する。このような、ロシアの昔ながらの田舎風情を求め、都会に住む人が週末を利用しカントリーライフを懐かしんでいるらしい。
『厳寒の世界は人を哲学者にし、厳寒の中、暖炉のぬくもりは人を文学者にもする』、
十九世紀から二〇世紀にかけて、ロシアではドフトエフスキーやトルストイなどの文豪やレーニンなどの政治家を多く輩出した。彼等の多くもウォッカと雪中沈身の洗礼を受けているはず。思想の是非はともかくも、骨太の男達であったことはまちがいないようだ。
三つのチキ
私が愛読している作家・開高健氏の言葉の中に確か次のようなフレーズがあった。
『いい男とは次の三つのチキをもっている者である。 一つは痴気、 一つは稚気、 一つは知己』
痴気とは、気違いっ気があり、発想が常人の枠を超えるということだろう。つまらない常識にとらわれない発想力を持っているということ。稚気とは、子供の目線を維持する、ということだろう。何事にもピュアな好奇心をもって接し、空想を楽しむ心を持っているということ。知己とは、多くの友人知人を持っていることだろう。それも、己の分をわきまえる者同士の強固な繋がりということ。くだらない虚栄心や見栄という邪心を限り無くなくす努力をする仲間たち。六十年近く人生の年輪を重ねてくるなかで、この三つのチキを持ち合わせる、いい男の幾人かに出会ってきた。
故・秋田吉祥氏―ネパールに住む私の古くからの友人として長くつきあってきた歴史がある。私は毎年ネパールヘ数度渡航する。仕事での渡航が多いのだが、毎回秋田氏と会う時間を設定し、我が心に活力を注入してきた。生前の秋田氏の名刺には、『ボディ・バランシング・トレーナー』と『仏教美術監督』という肩書がついていた。
現代のアラビアン・ナイト
生前の、とある日の秋田氏の一日を紹介しよう。まだ明けきらぬ早朝、雇いのネパール人・仏画絵師とともに自宅を出発。カトマンズ郊外にある小高い丘へと向かう。薄暗い小道を絵師とともに軽やかに丘の頂上へと歩いてゆく。ヒマラヤの稜線をほの白く染め始めるご来光。ヒマラヤに射す日の出の淡い光線を二人はじっと観察している。彼等の頭の中では『阿弥陀如来来迎』の仏画作成へのイメージが膨らんでゆく。自宅に戻ると、ネパールで最大のサービス会社の社長が秋田氏を待っている。ネパールでは珍しい仕事人間のこの社長は、毎朝体のケアを秋田氏に依頼している。
お昼は自宅で昼食をとる。この日から四日間、お釈迦様の生誕地ルンピニにある僧院での修行に出る十五歳の息子・寅吉君に声をかける。午後の束の間の休息をとり、また白衣に着替える。家の前にはすでに、ネハール王室からの迎えの車が横づけされている。現国王(当時の)のお妃の母親と妹の待つ大豪邸ヘと白衣の秋田氏は吸い込まれてゆく。ピアニストでもある秋田氏は、治療の前に豪邸内にあるピアノの調律を兼ね自作の曲を奏でる。王室の人々の体のケアは、毎日夕刻から晩にかけて予約されている。秋田氏が帰宅するのは、ほとんど夜九時を過ぎる時間となる。
帰宅後、仏画絵師の描く阿弥陀如米来迎の図の進行状況をチェックし、明日の指示を与えてから就寝となる。まるで、現代のアラビアン・ナイトのような生活を送る秋田氏は、大阪のお寺の子として生まれる。東京の大学時代にはすでに、米軍キャンプ地近くにてジャズ・ピアニストとして活躍していた。現在の奥さんである、ラチミ(ネパール人)さんと出会った後、大阪で仏教美術の店を開く。この時に私は彼の知己となっている。
心の美的バランス
秋田氏は一九九〇年代、家族にてネパールヘ移住した。当初は、マンダラや誕生仏像などの制作を主に手がけていた。彼の美的感覚は、彼が師と仰ぐ西村公朝氏も絶賛するほどである。西村氏は戦後、京都の三十三間堂の仏像群の修復をはじめ、数多くの仏教美術に関して当代一の権威者の一人である。素人の私は、仏画全体の構図やその意味、背景などの詳細を秋田氏から教わってきた。そんな師である秋田氏が仏画や仏像を評価する際によく口にされていた言葉が、『バランス』である。素人には理解するまで時間がかかる、『美的な心のバランス感覚の視線』を仏画へも投げ掛けていたのだろう。
ピアノの調律においても同じ感覚が必要とされたのであろう。絶対音感を有する人は、少なからずこの世の中には存在する。しかし、目の前にあるピアノという美的工芸品を前にし、心のバランス感覚でもって、音のハーモニーを作り上げる、これが真の調律師ではないだろうか。仏教美術やビアノの調律において、天性の才能を発揮されていた秋田氏が、人間の体の不調和音へ関心が向くのは至極当然の軌跡であった。ヒマラヤの山麓を訪れる世界各国からの観光客や、三十を超えるネパールの少数民族達が往来する、カトマンズのパザールで秋田氏は深く思索したのだろう。
彼の着眼点は『歩き方』であった。人種が違えば、肌の色、言葉の差異が当然生まれる。さらに、民族が遺伝子において伝承する、体格、骨格、食生活、その背後には色とりどりの文化がある。秋田氏は、個人個人の歩き方に注目し、体が素晴らしいハーモニーを奏でる歩き方が、健康と長寿の秘訣であると仮説をたてた。日本から医学や健康学の書籍を多数取り寄せ、さらにインドやアジアの伝統医療の根本精神も現場で直に体験した上で、自身の仮説検証を繰り返していたのである。とある年の九月に彼の自宅を訪れた際、ノルウェイの民謡をピアノで奏でながら、秋田氏は妖精達の森に心を遊ばせていた。
霧雨の奈良・正倉院
奈良という街は、何故か雨が似合う。それも霧雨…。何故だろうかと思案に耽った。雨の法隆寺、薬師寺、東大寺…。なかでも霧のような驟雨の中、正倉院に佇む時間は、私にとって堪らない魅力である。ジワリと湿り気を含んでくる木の柱と自分の肌。雨露がスーッと伝わる屋根と傘。そんな時私は、光がほとんど差さない倉の中にある宝物群に想いを馳せる。正倉院の宝物群の中には、遥か西方の国からラクダの背や船に揺られながら旅をしてきたものがある。
その旅路は、決して安らかなるものではなかったはずだ。幾多の人の手を渡り、戦乱の火を逃れ、熱砂の砂塵に耐えながら東へ東ヘと運ばれてきたのだろう。そして奈良の正倉院にて旅路が終息し、安息の時を迎えている。雨の中、宝物に想いを馳せながら、私の頭の中では走馬灯のように、灼熱のシルクロードの風景がクルクルと回っていた。
中国西域地方を通るシルクロードには、大別すると三つのルートがある。
天山山脈の北側の草原を通過する天山北路、
天山山脈の南麓のオアシス群を繋ぐ天山南路、
そしてタクラマカン砂漠の南縁沿いで、崑崙(コンロン)山脈の北縁沿いの道でもある西域南道。
この三つのルートの中で、旅人達の足跡の歴史が最も古いのが西域南道である。
タクラマカン砂漠の脅威
一九八〇年代後半、私はこの西域南道を通過した旅人達の仲間入りをした。ラクダに乗ってユ~ラユ~ラ…、といきたかったが、時の中国政府の許可はおりず、四輪駆動車にての旅。総日数は二十一日間。全走行距離は二三〇〇キロを越えた。シルクロードが交差する街・カシュガルを出発、西域南道を走破し、最終日的地は敦煌であった。ラクダにてキャラバンを組み、このルートを通過した昔日の旅人達の苦労には及びもつかないが、車両にての走破にも過酷な自然環境が障壁となって幾度も行く手を阻んだ。崑崙山脈からタクラマカン砂漠へと流れ込む雪解け水が、毎年流れを変えて道路を直撃する。
タクラマカン砂漠を吹き荒れる風により運ばれた砂が、路面を覆い道路を消失させてゆく。消失するのは道路だけではなかった。大気中に常時舞っている砂塵に光が乱反射するのか、空と地面との境界線―すなわち地平線までもが視界から消えた。「タクラマカン」という言葉の意訳は、 一度足を踏み入れたら二度と出てこれない――ということ。昔の旅人の記録には「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と、この砂漠をことを表現しているくらいである。
日中の気温は摂氏四〇度を超えることもあり、冬は飲料水代わりとして氷が運搬されるぐらい、冷え込みが厳しい。人間や動物の屍が、道標でもあったとも記述されているくらい、古来この交易路は命も取引の代償であった。現代の旅にても、ルート上に点在するオアシスでの食料、燃料、水などの補給の問題、車両のメンテナンスなどなどハードルは高い。しかし、決して大自然の脅威に怯えるばかりではなかったのも事実である。あえて、この過酷な道を通過する旅人にだけ与えられる特典が数多くある。
砂塵舞う旅路の果てに…
「シルクロード」の重要度に多大な影響を及ぼした玉石を産する街・和田(ホータン)では、日曜日毎に市が開かれる。赤や黄色などカラフルなデザインの服装の女性が埃っぱい乾燥地帯のパザールを歩いている。その姿はまるで砂漠に咲く花のようでもある。オアシスの生命線である、カレーズと呼ばれる地下水路で冷やされたハミ瓜。甘くたおやかな水分を含むこの瓜の味は、砂漠の旅人達の脳細胞にある味覚野に確実に刻み込まれる。その他にも、砂塵の彼方に揺れる蜃気楼、西遊記の舞台のような崑崙山脈やアルティン山脈の偉容、乾燥高原帯を疾走する野生の獣達…。
遠く昔日より、ほとんど変わらない風景と光景がこの西域南道には残っている。そして旅人達のロマンや冒険心を喚起し続けている交易路なのだ。オアシスの街中に、延々と続いているボプラ並木の下を歩きながら、私は考えていた。ユーラシア大陸のど真ん中・中央アジア、また遠くは地中海沿岸部や中近東などから、美術品や工芸品が運ばれてきた。砂漠の舟と呼ばれるラクダの背に揺られながら美的感性が東へ運ばれたのである。冒険心溢れるシルクロードの旅人達の手をへながら、中国という大きな濾過器の渦の中に入り、美的感性はさらなる研磨を受けたのだろう。
地中海性気候や乾燥砂漠で育まれた美的感性の結晶は、ユーラシア大陸を横断し、そして海を越えた。砂塵の旅路の果ては、湿潤な奈良盆地。宝物群は正倉院の暗い倉の中で、雨音を聞きながら、故郷の地よりの旅路を回想しているのだろうか。流砂の交易路・西域南道は、私達現代の旅人へ栄枯盛衰の歴史と同時に、光り輝く人間の営みの素晴らしさをも教えてくれる道である。
兄からの無言のメッセージ
私が自然への旅や海外の僻地への旅に興味を抱いたのは、今は亡き長兄の影響である。三人兄弟の末っ子だった私は、いつも兄達の行動を意識しながら育った。長兄は中学校で郷土研究会を立ちあげ、故郷の古墳を巡り始めた。高校時代にはワンダーフォーゲル部に所属し、自然をフィールドとした。大学時代には探検部に入り、活動の幅を海外にまで広げていった。長兄の行動は、私にとっていつも眩しいくらい輝いたものに見えていた。私も高校時代からは、長兄と全く同じ足跡を辿る事になった。少年時代の私にとって、長兄は道標的な存在だった。
残念ながら、その長兄は悪性リンパ腫瘍という病と闘った後、若干三十三歳でこの世を去ってしまっている。彼の人生が最後を迎えたその日、私はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)にいた。その日の明け方、彼は私の夢の中に現れた。無言の別れのメッセージが、日本の病院のベッドから南シナ海を越えて、サイゴンにまで運れてきたのだ。死の間際には立ち会えなかったが、何物にも代えがたい兄との新たな絆が、私の心の中に刻まれたと思っている。
人と人を結ぶ心の絆は、目で見たり手で触れたりすることはできない。それだけに移ろいやすく、はかないものかも知れない。しかし同時に、見えない心の絆は、一人では決して生きることのできない人間へ、安息の時と明日への活力を与えてもくれるものだと思う。肉親との絆だけでなく私は数多くの旅の途上、さまざまな人との心の絆を結んできたように思う。
旅の出会いと心の絆
これまで多くの土地を訪ねてきた。極寒の北極圏、灼熱のシルクロード、緑の魔境ニューギニア、世界の屋根ヒマラヤ、野生の王国アフリカ、地球の裏側パタゴニア、南極大陸などなど。息をのむような大自然が、まだまだこの地球上に残されていることをわが目で確認してきた。そしてそこに住む多くの人たちと出会ってきた。ダライ・ラマ十四世、バンコックの売春婦たち、不老長寿の里フンザの老人、ヒマラヤの密貿易人、オアシスの踊子達、キリマンジャロの担ぎ屋たち、インドの世捨て人、チベットの巡礼僧、パリの広場の芸人、カナダのナチュラリスト、ボルネオの呪術師、ハバロフスクの旧KGB職員…。
記憶に残る人々は、生きることの意味を咀嚼する時間を与えてくれた。旅の途上にて遭遇した大自然の営みと人々との出会いの縁は、青年期の私の心の糧となった。その心の糧は、私だけのものであり、生きる上での座標軸を形成してくれた。所詮、一生の間で出会える人の数は知れている。同時代に地球上で生を育む数十億の人のうち、奇跡にも近い偶然で人との出会いと縁が発生する。限られた出会い人とどれだけ濃密な心の絆を結ぶことができるかが、人生の彩りを左右する。
旅は不安時代の処方箋
二十一世紀になっても、相変わらず世の中には暗いニュースが流れている。エリート達の堕落や一流企業の汚職や倒産、家庭内での虐待や青少年の凶悪な犯罪。海外に目を向けても、絶えずどこかで流血の事件が発生し、国家間での戦争も絶えない。これまで信じていた価値観が揺さぶられ、人々は過度の不安に怯える日々を過ごしている。情報化時代に入り、昨日までの経験が明日には役に立たないくらい、社会の変化スピードを加速させている。
現在日本の中高年たちは、戸惑いながら生きがいという人生の軟着陸場所を探し求めている。そして若者たちは、夢やロマンを自ら見出すことができず、生きる情熱を失い始めている。一方、この地球上には、しっかりと大地にカカトを踏みしめながら生きている人達がいる。母なる大地からの恩恵を謙虚に享受し、心の誇りと節度を自然の摂理の中に求めている人達である。地理的に辺境と呼ばれる土地に住む彼らの生活は、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさに満ちている。
子供は明日のことなど関係なく、一瞬一瞬のときめきを大事にしている。質素な食事であっても温かい団らんの中で、彼らは父親の力強さと母親のやさしさを学んでいく。大人達も背筋を伸ばしながら、粛々と一日を終える。そして人と人との絆を大切にしながら人生を完結してゆくのである。辺境の地での夕暮れ時は、家族の小さな幸せが、夕飯の煙に混じって夕焼け空に漂っている。郷愁を誘うその風景は、誰にとっても安らぎをもたらす、心の原風景ではないだろうか。そこには、ストレスをろ過してくれる時空がある。
生きている物同士が、年齢に関係なく思いやりと優しさ、そして厳しさをもった生活風景からは、穏やかな心の安寧感が感じられるのだ。私は、辺境の地への旅を、不安の時代における『心の処方箋』としてとらえている。それは、不安という見えない病魔におかされた人を癒す転地療法であり、同時に不安に対する自己治療力を高める可能性を秘めているからである。
2023年4月27日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。