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序文 御旅所としての里海
(一) 宗谷岬 (北海道)
(二) 利尻島 (北海道)
(三) 礼文島 (北海道)
(四) 尻屋埼 (青森県)
(五) 仏ケ浦 (青森県)
(六) 松島 (宮城県)
(七) 佐渡島 (新潟県)
(八) 南島 (東京都)
(九) 駿河湾 (静岡県)
(十) 能登半島(石川県)
(十一) 橋杭岩 (和歌山県)
(十二) 敦賀湾 (福井県)
(十三) 白山洞門(高知県)
(十四) 知夫里島(島根県)
(十五) 小豆島 (香川県)
(十六) 遊子段畑(愛媛県)
(十七) 壱岐島 (長崎県)
(十八) 下甑島 (鹿児島県)
(十九) 福江島 (長崎県)
(二十) 対馬 (長崎県)
(二十一)鵜戸神社(宮崎県)
(二十二)佐多岬 (鹿児島県)
(二十三)沖縄北端(沖縄県)
※ 表紙の写真は、福岡県三苫海岸(半島からの渡来人が流れ着いた岸辺)
※ 裏表紙の写真は、山口県東後畑棚田(夕暮れとともに、漁火が見え始める)
日本は四方を『海』に囲まれている。
倭の国においては、地平線よりも水平線が古代より『異界』との境界線として意識されていたはずだろう。民俗学者・折口信夫は、『マレビト』は海の彼方から来訪し、祭事が終わると再び水平線へと消え去っていくとも語っている。
『マレビト』ーすなわち、日本の神々は常在するのではなく、「やって来て、帰る」という性格を持っている。日本の神々は、『移動するカミ』なのである。そのカミが人の住むエリアに来訪し、しばし逗留する場所のことを、『御旅所(おたびしょ、または、おたびどころ)』と呼んできた。
すなわち、『(俗)のエリアに一時的に発生する(聖)スポット』とでも言えようか。そんな(聖)スポットの多くは、『辺(ほとり)』と言われる、俗との境界線エリアに多い。この本では、そんな『御旅所』として相応しい(辺の景)を有する里海の各所を紹介していきたい。
里海の辺の景とは、(島)(岬)(浜辺)(岩礁)(海が見える丘)などなどである。
『里』の語義について
日本古代文学者である古橋信孝氏は、里(サト)の語義を次のように解説する。
里は、(サ)と(ト)に分けられる。(サ)は早乙女、小百合などの(サ)で、いわゆる接続語だが、充足した共寝を(さ寝)というように、特別な状態を表した。五月、早乙女の田植えとのかかわりから、(サ)を穀霊とみる説があるが、小百合やさ霧など、必ずしも穀霊でなくてもいいわけで、霊威の満ち満ちている状態を表すとみたほうがいいだろう。
(ト)は、場所、霊威がおもてに現れた場所をいう。大和(ヤマト=山の霊威が現れた場所)や、港(ミナト=水の霊威が現れる場所)などの例からいえる。したがって、(サト=里)は、霊威の満ち満ちて現れる場所のことである。
『海』の語義について
海は『水+毎』の組み合わせで成り立つ漢字である。「毎」の字は「母」と同源とされており、「子を産み増やす」という語義がある。水が媒介となって、あらゆる生命体の母胎となっているのが、海ということだろう。
すなわち、「里海(サトウミ)」というのは、『水を媒介とする生命体の母胎として、霊威溢れる場所』と理解できるのではないだろうか。では、その『里海』にある「辺(ほとり)の景」とはいかなる景観を指すのであろうか。
『辺(ほとり)の景』とは
古来、人は日常と対極にある空間、「端っこ、へり、隅」への憧憬の念を抱いてきた。それは、信仰登山や熊野参詣、お遍路巡りなどの聖地への旅に象徴されている。しかし、非日常と接する場所はなにも聖地だけには限らなかった。
万葉人は野辺や山辺に出掛け、心を遊ばせ歌を詠むことで、身辺の彩りを豊かにしてきたのである。その背景には、非日常との接点、「辺=ほとり」が有している場の霊力がある。言ってみれば「辺の景」とは、人間の魂を癒す原風景であり、なぜか郷愁をさそう景観ではないだろうか。
その場に佇むと、先人たちの祈り、願い、憧れなどが無言のうちに蘇り、喧騒と多忙に消耗した自分自身が救済される思いがする。日常への内省を促してくれ、同時にひと時の安息も与えられる。そして蘇生、再生、復活への道へと導いてもくれるのだ。
「物見遊山」とは元来、「山野を遍歴しながら事物を観る、そして人生を見直す」ことだったはず。また俳句や短歌を詠む風流さとは、自然の機微を感じることで強張った日々の感性を解きほぐすことだったのではないだろうか。非日常の自然界の持つ力とは、人間の内なる自然治癒力を覚醒させることなのかもしれない。
日本各地の「里(サト)」と「海(ウミ)」が交じり合う場所には、「調息」「調身」「調心」といった人生を整える作業をおこなう機会を与える場の力がまだまだ潜んでいる。そんな霊力を感じさせてくれる「御旅所」としての「里海・辺の景」。
日本国内における、これまでのフィールドワークにて撮影した写真とともに、その旅所での「旅養生」のポイントを紹介していきたい。
一般人がアプローチできる日本最北の岬である。北緯四十五度三十一分二十二秒に位置する。
天候などの諸条件が良ければ、サハリンの島影をクリアに遠望することも可能である。岬の先端には、「日本最北端の地の碑」が立つ。また、探検家・間宮林蔵(まみやりんぞう)の立像もある。
この地の魅力のひとつに、稚内公園内にある「氷雪の門」がある。白い二本の柱が空に向かって屹立し、その柱の間にブロンズの女性像。この公園は、別名「氷雪の丘公園」とも呼ばれている。
異国になってしまった樺太への望郷の念と、そこで亡くなった人たちの魂を鎮めるための慰霊碑である。公園内には、「開基百年記念塔」があり最上階は展望台になっている。この展望台からは三百六十度の大パノラマが展開する。
稚内公園は二〇一八年に「日本夜景遺産」に登録されている。この公園から稚内の市街地の夜景とともに、オホーツク海の闇夜と星空を満喫してほしい。
高層湿原で出会う花々
利尻島は海に囲まれた島であり、その中央部に利尻岳がある。この島の最大の魅力は、鋭角に尖った利尻岳を見ながら高層湿原を歩けることであろう。海の傍には、大小の湖沼群・「メヌウショロ沼」や「オタトマリ沼」などが点在している。
高層湿原では、五月のミズバショウを皮切りに、六月のワタスゲ、七月のカキツバタ、そして八月のタチギボウシと季節に応じた花々が展開してくれるのである。島内には、花に詳しいネイチャーガイドも常駐しており、事前に予約さえすれば、詳しい解説を聞きながら水辺の散策歩きを楽しめる。
花の浮島のトレイル歩き
「礼文(レブン)」という島名の語源は、アイヌ語の「沖の島」に由来するといわれている。それだけ北海道のアイヌの人たちにとっても、遠く沖合いに離れた島、として認識されていたのであろう。
その礼文島は、お隣りの利尻島と比べて大きく異なる点がある。それは、利尻岳のような鋭角の山が島内にはないということである。島の東海岸はなだらかな丘陵性の地形が広がっている。そして、西側は、冬の厳しい偏西風を受けて切り立った断崖絶壁が連なっている。
その断崖絶壁の上は、意外にも台形の地形である。その台形の地形は、真夏でも涼しい気候の影響下にあり、約三〇〇種類の高山植物が咲き乱れるのである。では、なぜ高山でもない地形に「高山植物」が多種自生しているのであろうか。その背景を紐解くことが、この島の魅力を分析することに繋がるのである。
前述したように島全体はが平べったい地形である。そして、海が近いので絶えず強い海風が吹く。この条件下では、冬場の降雪は風で飛ばされてしまい、深い積雪となることがないのである。特に雪が積もらない礼文島の西海岸では、地面が寒さに無防備な状態で晒され、土の中の深いところまで凍結してしまうのである。
このため、北海道内各地でよく見られるササなどの植物は根を張ることができず、寒さに強い寒冷性植物である、いわゆる高山植物だけが生き残ったのである。このような背景があり、列島の北はずれにある礼文島は、多種の高山植物に彩られる、「花の浮島」という呼称がつけられているのである。
特に希少種でもあるレブンアツモリソウをはじめ、レブンウスユキソウ、レブンキンバイソウ、レブンシオガマなど、「レブン」の名が付く花が多数ある。多くの花が鑑賞できる時期は、四月から九月頃までとなっている。その貴重な花々を見るために幾種類のトレイルが設定されている。
ぜひ、この場所にての日の出を拝みに出かけて欲しい。尻屋埼の北側は津軽海峡、そして東側は太平洋である。
周辺の海域は、津軽海峡から太平洋へと潮の流れが変わりやすく、また濃い霧がよく発生するため、海上交通の難所として古くから恐れられていた。北海道における蝦夷地の本格的な開発は、この海域を通過する際の安全な航路と海洋技術の開発を待たねばならなかった。
明治九年に岬の突端部に尻屋埼灯台ができていたが、その後もこの海域では海難事故が相次いでいた。それだけに、この地を拠点とする漁師たちにとっても、海の安全祈願はとても重要な行事であった。その安全祈願の為に、港の一角にある岩山の上に小さなお宮が設置されている。
鳥居は太平洋に向かって屹立しており、仕事を終えた漁師たちを静かに迎えていたのであろう。このお宮に上がり、鳥居の中から昇ってくる日の出をぜひ拝んでほしいのである。太平洋の水平線が鳥居の枠内に、横の境界線を引く。その境界線から、静かに一日の始まりを告げる日の光が差し込んでくるのである。
大正十一年にこの地を旅した紀行作家で登山家でもあった大町佳月が、その美しさを「神のわざ、鬼の手づくり仏宇陀(仏ヶ浦)、人の世ならぬ処なりけり」と詠っている。確かに、初めてこの地を訪れた人には、神や鬼の仕業によって形成された奇景観と感じられるだろう。大町佳月の紹介によって、この地は全国にその名をしられていくのである。
約二キロわたり連なる奇岩・巨岩は、太古の神秘さとともに地球創生時代をも感じさせてくれる。その圧倒的スケールと自然が作り上げたとは思えない奇跡の造形美である。その造形美は、約一五〇〇万年前に起きた海底火山から噴出した火山灰がその源である。押し固められた火山灰は凝固し、その後、雨や波で削り取られていくのである。
自然の産物とは思えない姿をした奇岩は、仏の顔や香炉の形をしたもの、そして花のような形をしたものもある。それらの奇岩・巨岩が織りなす景観には、「如来の首」や「五百羅漢」、「一ツ仏」や「極楽浜」など、仏にちなんだ名がつけられ、極楽浄土を思わせる世界が広がっているのである。
誰もが知っている「日本三景」のひとつ、東北の名勝・松島。この場所は、万葉の昔より歌枕として頻度高く用いられている。広島県「宮島」、京都府「天橋立」と並び日本三景の一つと言われはじめたのは、一七一四年ごろからである。
江戸の儒学者・林羅山の三男である林春斎がその著書「日本国事跡考」において、「日本三処奇観」と記したのに始まるといわれている。俳聖・松尾芭蕉は、奥の細道の中で「松嶋の月まず心にかかりて」と記してもいる。芭蕉にとっても、垂涎の地であったようだ。
そして、もうひとりこの場所と深い因果を結んだ人物がいる。西行法師である。西行法師も諸国行脚の折りに、松島を見下ろす丘に立ち寄った。その丘にある松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、松島行きをあきらめたという由来の地がある。
現在は公園地となっており、春は桜そして秋には紅葉の名所となっている。展望台からは桜や紅葉の背景画として、名勝・松島とその湾の景色が展開してくれるのである。
薪能(たきぎのう)
佐渡はその昔(室町時代頃まで)流刑の島とされてきた。しかし、佐渡に流されたのは順徳上皇をはじめとした皇族や貴族、僧侶や文化人などの政治犯であった。その中には、「能」の大成者として知られ、能の宝物書・風姿花伝(ふうしかでん)を創った世阿弥も含まれている。
しかし、意外にも佐渡で「能」を広めたのは世阿弥ではなかったようなのだ。佐渡で「能」が広まったのは江戸時代に入ってからになるという。佐渡金山が発見されると、徳川幕府は佐渡を直轄地とし、大久保長安を初代の佐渡奉行に任じた。
この大久保長安の祖父が能役者だったことから、広く佐渡の領民に「能」を奨励したと言われている。その結果、佐渡では農民が農作業中に「能」を口ずさむとも言われている。これほど庶民の間に能が広まった地はたいへん珍しいのである。
佐渡島にては、毎年六~七月に各地にて薪能が開催される。夕闇が迫るころ、島内各地のお宮に地区の人々が集まってくる。そして、能を演じる者、囃子(やはし)手の者はすべて地区の住民なのである。すなわち、素人の手によって薪能は継承されてきたのである。
トビシマカンゾウの群生地
また、五月下旬~六月にかけてが盛りとなる、トビシマカンゾウの花の群生地がある外海府海岸(そとかいふかいがん)も一見の価値がある。萱草(カンゾウ)は、中国の古書『文選』には「憂いを忘れさせる草」と記されており、日本に伝わって後に「忘れ草」というロマンチックな呼び名になっていく。
都を風情を恋慕した古跡
さらに、佐渡島には都を追慕した人たちによって、造られた古跡が残っている。その代表格として、「清水(せいすい)寺」がある。ここには、京都の本家・清水(きよみず)寺のミニチュア舞台がある。残念ながら常駐する僧侶などの方はおらず、少々メンテナンスがおろそかにはなっている。
しかし、その「適度なおろそかさ」が、妙な具合に、訪れる人々に「時の盛衰、時の移ろい感」そして「古刹の侘び・寂び」などを実感させてもくれる。観光マップにもあまり載らない、地元民が知っている古刹に漂う空気感は、清冽さと妖しさを併せ持っている。
東京の遥か南方にある「小笠原諸島」。諸島の中心地・父島へは船便しかない。そして、東京の港からの船便も頻度は低く、さらに時間がとてつもなくかかるのである。東京から父島までの距離は、九八六キロ。二十四時間の船旅である。それも、大海原である太平洋をひたすら南下するのである。その船旅を耐えれば、そこは珊瑚がひしめく海辺が待っている。
波打ち際にある珊瑚は、引いては寄せる波の指揮のもと、絶妙のハーモニーを奏でてくれるのである。できれば、早朝の時間や日没時に磯辺に佇み、この音の世界に身を浸してほしい。その父島からさらに南の海上に、無人島である「南島」はある。ここは、国の天然記念物に指定されている絶景の無人島なのだ。
独特の植生を保護するため、上陸には自然ガイドの同行が義務つけられており、一日に上陸できる人数は一〇〇名と制限されている。そしてその滞在時間は二時間以内となっている。
緩やかで美しい曲線を描く駿河湾。日本の「湾」の中で、これほどの優美なラインを見せる場所は稀であろう。さらに、その優美な曲線ラインの彼方に、霊峰・富士山が姿を現すのである。そんな駿河にまつわる言い伝えがある。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」。白隠とは江戸時代初期の禅僧のことである。
現在の沼津市原にあった商家の三男として生まれている。幼名は岩次郎。十五歳で駿河湾のすぐそばにある、松蔭寺の単嶺和尚のもとで得度し、慧鶴と名付けられた。その後諸国を行脚して修行を重ねていく。
長野県飯山の正受老人(道鏡慧端)の元で修行を繰り返し、のちには禅修行のやり過ぎで禅病となる。その病は、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれている。更に生涯にわたって修行を進め、四十二歳の時にはコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したともいわれている。
「内観の秘法」とは、気功でいう気海丹田式の功法に似ており、天台小止観と同じ手法とも言われている。白隠は、自身の経験にもとづいた「軟酥(なんそ)の法」という修行法も編み出している。晩年には、地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、臨済宗中興の祖とされている。白隠の墓は原の松蔭寺にある。
日本三大パワースポットに選ばれているのは、静岡県の富士山、長野県にある分杭峠、そしてここ石川県の珠洲岬(すずみさき)である。この岬は、能登半島の最北突端部に位置している。そして、岬の先には、通称「青の洞窟」と呼ばれるケーブがある。この洞窟は、養老二年(七一二年)にインドから渡来した法道という仙人が天へ登るための修行をした場所という伝説もある。
ここは、南からの海流(対馬暖流)と北からの海流(リマン寒流)が波状的に集結して交わる“海流の十字路”であり、海の自然エネルギーの交換場所ともなっている。青の洞窟は、奥行き約一〇〇メートル、高さ約二十メートルもある。五〇〇万年もの歳月をかけて自然のエネルギーが蓄積したパワーホールとなっている。
また、この洞窟には源義経が奥州へ向かう際、強風を避けて逃げ込んだという伝説があり、“舟隠しの洞窟”とも呼ばれている。近くの磯には、黒く古風な造りの、「ランプの宿」もあり、隠れた人気スポットになっている。
大地が鳴動する音響が聞こえてきそうである。が、その音響は鼓膜を揺することはなく、眼膜に響き渡るのである。その「大地の鳴動」が眼前にて繰り広げられるのは、早朝日の出前の橋杭岩においてである。和歌山県南部・紀伊半島の南端に近い場所にある。
橋杭岩とは単独の岩ではなく、串本側の海岸から紀伊大島に向けて大小四十余りの連なる奇岩群のことである。その奇岩群は約八五〇メートルにわたって一直線に並び、太古の地殻運動のなごりを色濃く残しているのである。その見事なまでの景観は、弘法大師が橋の杭を造ったという伝説が生まれているくらいである。
一四〇〇万年前に、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し火成岩となり、その後全体が隆起したのである。そして、長い歳月をかけて、紀伊半島の南を流れる黒潮の荒波によって、柔らかい泥岩が剥がされていき、硬い火成岩だけが残った上での造形美だといわれている。
悠久の歴史の中で地球が織りなしてきた『時の刻み方』を前にすると、自分が棲んでいる星のダイナミズムを感じずにはいられない。隣接場所には無料駐車場があるので、出来るなら車内泊をオススメする。そうすると、翌朝には、車内からでもこのような景色が眼前に展開するのである。
京都府と福井県とが接する若狭湾には、第二次世界大戦時に注目された港が二つある。一つは、大陸からの引揚者や兵卒の帰還してきた港・舞鶴港である。そして、もうひとつが「人道の港」と称せられている、敦賀港である。何故敦賀港が「人道の港」と呼ばれるのか。そこにはユダヤ難民と、「東洋のシンドラー」と呼ばれた一人の日本人外交官の存在がある。
その外交官の名前は、杉原千畝(ちうね)。杉原は、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちがリトアニアにも逃げてきていた。
そのユダヤ難民の窮状に杉原は同情し、日本本国からの訓令に反しながらも、ユダヤ難民へ大量の通過ビザ(査証)を発給したのである。杉原からビザを受け取った難民は、シベリアの大地を鉄道にて東進し、ウラジオストクおよび満洲里を経由し、一九四〇年七月以降に敦賀港に上陸した。
この洞門の名の由来は、白山権現にある。加賀国(現・石川県)にある白山比咩(はくさんひめ)神社の白山権現を勧進したことが始まりである。その白山権現は、太平洋の荒波に洗われる、白山洞門の巨岩の上に祀られていた。この権現を祀った白山神社は、四国八十八箇所第三十八番札所である金剛福寺の奥の院である。
神仏習合の時代に、白山権現は金剛福寺の守護神の一つとされ、土佐藩主山内氏が崇敬したと伝えられている。藩主がこの社殿の修復に関わったとの記述が金剛福寺の棟札に伝わっている。足摺岬は海蝕による洞窟、洞門に恵まれているが、白山洞門はその中でも最も大きく、高さ十六メートル、幅十七メートルの大きさがあり、花崗岩洞門では日本一の規模と言われている。
隠岐の島といえば、その昔「流刑の島」として知られていた。この島に島流しとなった歴史上の人物に、後鳥羽上皇と後醍醐天皇がいる。後鳥羽上皇は鎌倉幕府の政争に乗じ、倒幕の兵を挙げる(承久の乱)が失敗。現在の隠岐郡海士町(あまちょう)に流された。その後は、本州に帰ることなく隠岐諸島で亡くなっている。一方、正中の変・元弘の変で失敗した後醍醐天皇も隠岐に流された。最初に上陸したのが、この知夫里島(ちぶりじま)である。現在も島内には、その際に逗留したお寺が存在している。後醍醐天皇は隠岐に流されても倒幕の意志を捨てず、やがて島を抜け出し島根県の船上山という場所で協力者とともに挙兵し、都へと戻っていくのである。
後醍醐天皇は、もしかするとこの隠岐諸島の持つ、地底からのエネルギーを感知し、それを我が物にしていったのではないかとも思われるのである。その地底からのエネルギーの一端を、島内の「赤壁」という場所で感じることができる。赤壁とは知夫里島創生期の噴火活動の痕跡である。
鉄分を多く含んだマグマが吹き出し、空気中で酸化鉄となり赤い錆び色の溶岩が降り積もり、その後日本海の激しい波風に削られ、火山をざっくりと半分にしたような姿になっている。マグマが通った火道も観る事ができる非常に貴重な絶壁で、国の天然記念物に指定されている。特に日没の時間は、紺碧の海に夕陽に染まった赤壁が映えるドラマティックな景観が楽しめる。
天使の散歩道(エンジェルロード)は、香川県小豆島土庄町にある砂洲である。この砂洲が、一日二回の干潮時に、天使がお散歩する道となって海上に出現するのである。地元では、「大切な人と手をつないで渡る」と、恋愛成就するとも言われており、ロマンティックな場所とされている。
また、砂洲手前にある弁天島には、「約束の丘展望台」がある。その展望台にある幸せの鐘を恋人と一緒に鳴らすと、さらに願いが叶うともいわれている。砂洲は、本島側の前島から沖に浮かぶ中余島を経て大余島までの約五百メートルも続いていく。しかし、大余島はある民間団体に所有権があり、大余島の手前までしか歩いていくことができない。
遊子(ゆす)とは、愛媛県の南予地方にある三浦半島の北岸から、宇和海及び宇和島湾に向かって分岐する岬の小さい集落のことである。この海沿いの小さな集落には、「耕して天に至る」と形容される段々畑が、急峻な山の斜面に石垣を積み上げて造られている。古代遺跡のような景観から「宇和海のピラミッド」とも言われ、四国八十八景にも入っている。
その稀有で雄大な景色は、国の重要文化的景観や日本農村百景に選定されているほどである。残念ながら、高度経済成長期には耕作放棄地が激増したが、現在では地元のボランティア団体によって景観の保全などの活動がなされている。
この段々畑地を地元では「段畑(だんばた)」と呼んでいる。平均斜度四〇度ある傾斜地に築かれた高さ一メートル以上の石段の間に幅幅一~二メートル程度の畑を造っている。石段は六十段以上あり、最も高い所では海抜九十メートルの山上まで連なっている。約三・四ヘクタールに千近い段畑がある。
江戸時代の幕末頃に人口が増え、明治時代にかけて斜面のほとんどを開墾したという。当時は養蚕が盛んになるとカイコの餌となる桑畑も必要となり、大正時代にかけて石垣を築いたという。
壱岐の島といえば、南北十七キロ・東西十四キロ程度の小さな島である。しかし、この島の魅力を語るには多くのページが必要である。通常の観光案内では、まず「原の辻遺跡」など古代の遺構群であろう。ただ、この島には隠れた魅力あるスポットが点在しているのである。それは、訪れる者の興味関心の枠をどこまでも拡大させてくれるのである。
「奥の細道」といえば、松尾芭蕉の名作である。この道中、芭蕉を支えた弟子がいた。彼の名前は河合曽良(かわい・そら)。そして、なんとこの曽良の墓がこの島にある。奥の細道同行の後、巡国使として壱岐の島にわたり、島内にて亡くなっている。
また、干潮の時に波紋がつけられた砂地の道で繋がる「小島神社」。そして、およそ約一キロほど続く断崖絶壁の「左京鼻」。左京鼻には、海中から突き出る細い柱が連ねたような「観音柱」と呼ばれる奇岩がある。その昔、この島が流されないように打たれた八本の柱の一つだという伝説もある。
江戸時代の陰陽師がこの場で雨乞いの儀礼をおこなったという言い伝えもある。大陸との中間点ということもあり、元寇の勢力もこの島を席巻している。その際の激戦地が故地として残されている。
二〇〇八年、甑島列島に分布する白亜紀後期の地層「姫浦層群」から、鹿児島県で初めて恐竜化石が発見されている。それ以降においても、アジアで三例目となるケラトプス類の歯根の一部や、竜脚類の歯、ハドロサウルス類の大腿骨など、重要な発見が相次いだのである。
それだけ、この列島の地層学的な深度には、計り知れないものを感じる。約五~八千万年前に形成された巨大で美しい地層が断崖に刻み込まれているのだ。そして、その地層には恐竜の化石が、想像を遥かに超える量で眠っているとも言われている。
そんな地層的魅力だけではない。太古に形成された地層の上では、可憐な花々が競演する季節がある。ユリ科ユリ属の多年草であるカノコユリや、ハマナデシコが七月下旬~八月上旬にかけて満開となるのである。
この島は、長崎港の西約百キロに位置している。五島列島の中でも最大の島であり、五島の政治・経済・文化・観光の中心地である。大陸や半島との中継地として栄えてきた歴史をもつ。古来都から派遣された遣唐使などは、この島を去れば異国だという意識をもっていた。
弘法大師・空海もその一人であった。福江島の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島は、遣唐使船の最終寄港地であった。柏崎公園内には、「辞本涯(じほんがい)」の石碑もある。「辞本涯」とは「日本の最果ての地を去る」という意味であり、唐に渡った空海の書物に残されていた言葉である。
公園内には他に、万葉集で詠われている「遣唐使として旅立つ我が後の無事を祈る母の詠」が刻まれた歌碑も建立されている。また、キリシタン禁教令の解除後、五島における最初の教会として設立された堂崎教会をはじめ、数多くの教会が島内には存在しており、潜伏キリシタンの面影を偲ぶことができる。五島列島は、二〇一八年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界文化遺産に登録されている。
対馬は古来、朝鮮半島との境界線の島であった。モンゴルの元寇も、まずはこの島に立ち寄り、その後壱岐の島を経て、博多湾へと攻め入っている。対馬の領主・領民たちも、日本と韓半島との勢力図を天秤にかけながら、バランス感覚よく国際情勢を乗り越えてきた歴史をもつ。
天候など諸条件が整えば、韓国南部にある釜山の夜景も眺望できるとも言われている。それぐらい、韓半島との地理的距離は近いのである。その対馬には、不思議な神社がある。竜神伝説が残る、「和多都美神社」である。五つある鳥居のうち、二つが海中にそびえ立っている。
また、境内には竜神伝説を裏づける木の根や、「磯良恵比須」という岩を祀る三柱鳥居もある。三柱の鳥居は、京都の太秦にある「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の石造りの三柱が有名である。
この太秦の神社も、渡来系氏族の秦氏に深く関係しているという説がある。すなわち、対馬の和多都美神社も、地理的位置関係からも渡来系氏族との関係性が深いのであろう。
荒波が打ち寄せる岩窟に入ると別世界である。最奥まで入域し、そして振り返ってほしいのである。訪れる時間帯はできれば、朝方や夕刻が望ましい。何故かと言うと、その時間帯には太陽の光が斜めから差し込むからである。この斜めから岩窟へと差し込む光が織りなす神秘的な空間に酔いしれてほしい。
岩窟そのものが御霊域とされている。高さ二十メートル、幅八メートル、奥行は四十メートルもある。上部には人が削った跡も残っている。おそらくや、人の手でこの霊域が掘削されたのであろう。その人為的な掘削は、なんと龍神の姿を窟に与えたのである。斜めに差し込む光によって、窟の入り口部分が輝く「昇り龍」となって眼前に展開するのである。
古来、この周縁の地では龍神信仰が盛んであった。大御神社近くには、神座と名付けられた「さざれ石」があり、その水窪に鎮められた龍の卵を思わせる霊玉石もある。
※知名度の高い「鵜戸神宮」とはちがうのでご注意を。
本土の最南端に位置するこの岬は、北緯三十一度線上に位置している。人が歩ける南端の断崖から約五十メートル沖には、日本最古の灯台の一つ「佐多岬灯台」もある。この灯台は、明治四年に英国人の設計によって建造された歴史がある。このエリア一帯は、霧島錦江湾国立公園に含まれている。
左手には太平洋、右手に東シナ海、右後ろに錦江湾と三方を海に面し、天候が良い日には種子島、屋久島、硫黄島など見ることができる。そして、なんといっても鹿児島県の秀峰・開聞岳の雄姿が一望できるのである。駐車場から岬までの遊歩道は、亜熱帯植物が繁茂する森の中を片道八〇〇メートル続く。
ブーゲンビリア、ソテツ・ガジュマルなど佐多地域ならではの亜熱帯植物に囲まれ、南国情緒が強く感じられる。この岬を訪れる際には、できれば日没時間帯を組み入れて欲しい。本土最南端で迎える日没風景は、日ごろのストレスを一掃してくれる魔力を有している。
沖縄の魅力は、(辺=ほとり)にあると思っている。いわゆる観光案内書には記載されていない、僻地にあるスポットに大きな魅力が隠されていると感じる。その名前からして僻地感たっぷりなのが、本島の最北端にある辺戸岬(へどみさき)である。那覇市内から約一二〇キロも離れている。
この岬の一番の魅力は、その特異な地形的特質を背景とした景観である。隆起したサンゴ礁の断崖絶壁からは、太平洋と東シナ海の紺碧の海原が一望できる。その雄大な海の先には、天候が良ければ与論島や沖永良部島を望むこともできる。その岬には、祈りの象徴として「日本祖国復帰闘争碑」がある。
沖縄がアメリカから日本に返還され、沖縄県になった証として一九七二年に建立されている。また、岬の磯には砂浜が広がっており、南国情緒あふれる風情を訪れる人々に届けてくれている。近くには、「やんばるの森」があり、ネイチャーガイドの案内で森を歩くこともできる。
2023年4月30日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。