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旅のフィールドワーク
(イスラエル編)

文・写真 清水正弘

深呼吸クラブ出版



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序説

地中海沿岸エリア

■ テルアビブ
■ ヤッファ旧市街
■ ハイファ・バハーイ教寺院
■ アッコ・十字軍時代の要塞

ガリラヤエリア

■ 山上の垂訓の教会
■ 五つのパンと二匹の魚教会
■ ナザレ・受胎告知教会
■ ナザレ・カナの婚礼教会
■ 聖ヨセフ教会
■ メギド要塞
■ イエス宣教の拠点・カベナウム

死海エリア

■ エリコ遺跡
■ ヨルダン川河畔の洗礼場
■ マサダ要塞

エルサレム・エリア

■ ベツレヘム聖誕教会
■ スークの夜と朝
■ イスラエル博物館
■ オリーブ山
■ ビア・ドロローザ
■ 聖墳墓教会
■ 岩のドーム
■ 嘆きの壁(西の壁)

■ 序説

パレスティナ自治区にて
ユダヤ人の母子

現代において『イスラエル』という国を俯瞰する意味は深いものがあるだろう。日本人にとってみれば、絶えずアラブとの紛争を繰り返している国、そして世界経済を牽引するユダヤ系資本、また最近では最先端の技術産業立国というイメージが先行しがちである。

しかし、イスラエルの歴史を紐解く作業は、世界的宗教であるキリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の相関図を俯瞰することに等しいのである。さらに、近現代のみならず、中世・近世における世界情勢の謎解きにも通じていくのである。

それだけこの国、ならびに広く中東というエリアは、人類の歴史上において多くの分野におけるキーポイントとなる場所なのである。ユダヤ教からキリスト教、イスラム教が派生していき、その宗教間の争いが、世界の情勢に大きなターニングポイントをもたらしてきている。

イスラエルという国を広くフィールドワークする行為は、欧州や中東地域から派生していく世界的諸問題についての歴史的背景が俯瞰できることに繋がっていく。

この本では、イスラエルをエリアごとに分けて俯瞰していく。地中海沿岸エリア・ガリラヤ湖エリア・死海エリア・そしてエルサレム周辺エリアである。

地中海エリアでは、古代の中継都市文化や十字軍遺構などから歴史を紐解き、ガリラヤエリア・死海エリアでは、イエスキリストという人物背景と悲劇のユダヤ民族史を探る。そして、エルサレム周辺エリアにおいては、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における相互関係などにも注目していく。

■ テルアビブ

テルアビブと聞けば、ある一定以上の年齢層は、空港乱射事件が頭に浮かぶだろう。犯行を実行したのは、当時の赤軍派幹部の奥平剛士(当時二十七歳)、京都大学の学生・安田安之(当時二十五歳)、鹿児島大学の学生・岡本公三(当時二十五歳)の三名である。

ローマからのエールフランス機でテルアビブ国際空港に着いた彼ら三人は、旅客ターミナル内の乗降客に向けて無差別に自動小銃を乱射したのである。

そんな危ない雰囲気はすでに過去の話である。アラブとの緊張関係にあるイスラエルの中でも、このテルアビブは意外にも治安は落ち着いている。それは、エルサレムなどの政治色中心の街ではなく、ここは経済中心の街だからと言われている。

また、「白い都市」としても知られている。一九三〇年代のバウハウス様式の建物が集中している一角は、白い壁を持つ建物が多いのである。

メインストリートを歩くと、白壁の家並みが点々としており、情緒溢れる景観となっている。

同じメインストリートには、一九一〇年に入植者二ハ〇人から街づくりを始めたという記念碑もある。記念碑にはスコップや一輪車で土木作業をしている人たちが描かれている。

また、その近くには、ロシア系移民であり、最初のテルアビブ市長となったディーゼンゴフの像がある。彼は馬に乗ってこの地に来たと言われている。

その像の向かいには、イスラエルの国旗が掲げられている独立記念ホールがある。この建物は、元々はディーゼンゴフの家であったそうである。

現在のテルアビブ国際空港
夜中も開いている食料品店
テルアビブの夜明け
メインストリートにあるハンモック
ロシア系移民でテルアビブの初代市長ディーゼンゴフの像
レンタサイクルが街中に点在している。

■ ヤッファ旧市街

海からの潮風が抜ける道

ヤッファ(またはヤッフォ、英語名:Jaffa)の街の名は、ここからエルサレムのヤッファ門へ至る巡礼路・ヤッファ街道の起点としても知られている。十九世紀から二十世紀にかけては、多くの欧州から来たユダヤ人入植者らがこの港で下船した後、ヤッファ街道をエルサレムに向かい巡礼したのである。

この地中海に面した港湾都市は、紀元前二千年前後のエジプト第十八王朝時代には既に存在していたとされている。旧約聖書にもその名前は登場し、ユダヤ人の伝統的解釈においては、預言者ヨナが乗り込んだフェニキアの貨物船はこの港から出港したとも言われている。

中世には、イスラム教徒による征服後、ヤッファは重要な交易港として発展していく。また、十字軍時代には、ヤッファは十字軍国家の一つの拠点となり、さらに繁栄していくのである。

近現代においては、オスマン帝国の支配下時代に港湾施設が整備され交易港として物流の拠点となっていった。このような地中海に面した良港をもつヤッファの街には、積み重ねられた歴史を充分に味わえる旧市街地区がある。ここは、さながら迷路のような小さな路地が入り組み、石畳の上を歩きながら往時の繁栄に思いを寄せることができる。

旧市街地へのエントランス
石畳の路地

■ ハイファ・バハーイ教寺院

キリスト教においてもカソリック的宗教観からの刷新を求めてプロテスタントが離脱したように、各世界的宗教においても、おのおの内部刷新の歴史がある。

イスラム教においても、同様に内部の腐敗に対しての刷新活動がたびたびおこなわれた歴史がある。その中でも最大級といえるのが、このバハーイ教の出現である。十九世紀前半,イランで起こったイスラム改革を唱えるバーブ教から派生した宗教である。

シーア派の再興と既成の宗教儀礼の廃止,そして階級的差別の撤廃を目標に宗教改革運動を起こしたのは,バーブ教の教祖セイエド・アリー・モハンマド〔1820-1850〕である。もちろん、この運動に対して既成宗教側からの弾圧は激しいものであり彼は投獄されたのである。

ただ、その刷新の動きは止まらず、彼の弟子であるミールザー・ホセイン・アリー〔1817-1892〕らはバグダッドにのがれて布教を続けるのである。さらに、パレスティナのハイファにその本拠地を移し、バハー・アッラーフ(神が現し給う者)と称して新教団を創設していくのである。

その宗教的主張は、人類の平和と統一,男女平等,教育の普及,世界語の採用などであり、従来のイスラム教とは質的に変化していく。教団が成立して二百年に満たない新しい宗教教団ではあるが、現在信者総数はおよそ六百万人ほど。信仰共同体は世界二三六の国や地域に広がっている。

その伝播範囲は、キリスト教に続き世界で二番目であるとも言われている。そのバハーイ教の本部がハイファにあるカルメル山にあり、巡礼地として毎年数千人が訪れているのである。この本部の中心は、バハーイー教の創始者らが眠る荘厳な廟群である。

また周辺には二十六の建造物や記念碑があり、二〇〇八年には「ハイファと西ガリラヤのバハイ教聖地群」の名称で、新宗教の宗教施設としては初めて世界遺産に登録されている。

山の展望台から地中海を見る
巡礼者が絶えない
廟群へのエントランス道
ハイファの街並み

■ アッコ・十字軍時代の要塞

アッコは現在においても、パレスチナ人の居住区となっている。この街の歴史は五千年にもわたるが、その多くは目まぐるしいほどに錯綜している。

現在の街の外観は、十八世紀から十九世紀にかけての、オスマン帝国が築いたものとなっている。ただ、地面の下には、錯綜した歴史を証明する遺構が数多く残されているのである。その代表的なものに、十二世紀ころに十字軍によって築かれた要塞跡がある。

キリスト教の礼拝堂や、脱出用のトンネル、商店街などの遺構が地下に眠っていたのである。さながら、巨大な地下都市空間となっているのである。旧市街にあるこの巨大な地下遺構は、一九五〇年代に発掘されている。しかし地上に人が住んでいたため、発掘が始まるまでには四十年ほどの歳月を経たというのである。

十字軍により建てられた建築物が単体ではなく、街全体として残っているのは世界でもこのアッコの旧市街だけといわれている。夏の酷暑時期には、この地下空間が有効に活用されるようになっている。それは、コンサート会場や各種イベントの会場として活用されているのである。

アッコの街並み
オスマン帝国時代の城塞
地中海に面したレストラン
パレスティナ系住民
下町のバザール
地下にある要塞都市跡
地下空間
十字軍時代の要塞跡

■ ガリラヤ地方

ガリラヤ湖の日の出前

ガリラヤ地方はイスラエルの北部に位置している。その中心地は、イエスが育った街・ナザレである。このナザレは、意外にも砂漠や荒野的風土ではなく、平原で緑が多いのである。それだけに、遥かな古代から人の往来が多く、重要な交易ルートや幾多の王国の係争地にもなってきたのである。

なかでもイズレエルという谷あいにあるメギドという都市国家は、最終戦争ハルマゲドンの地とされていたのである。ハルマゲドンとは、ヘブライ語でハル=丘+メギドンすなわち「メギドの丘」を意味している。

ナザレの街はこのメギドからさほど遠くない場所にある。平原地の中に盛り上がった丘という地形的な立地をしているのである。丘の上にあるために、ナザレの町は坂道が多く、イエスも幼少時代にはこれらの坂道であそんだことであろう。

ガリラヤ湖周辺には、イエスが布教活動を行った「パンと魚の奇跡の教会」、重要な説教が行われた「山上の垂訓教会」などがあり、キリスト教徒にとっては、とても重要なエリアなのである。

ナザレのイエス

■ 山上の垂訓の教会

祝福の山と呼ばれる丘に建つ八角形の美しい教会である。山上の垂訓の八つの句説はイエスの思想、教義の最も重要な部分がまとめられたものであり、教会内にラテン語で記されている。

山上の垂訓とは、マタイの福音書においてイエスが最初に説教した内容として提示されているのである。「(心の)貧しい人々は、幸いである」といった多くの衝撃的なメッセージが述べられ、キリスト教の真髄とも言われている句説である。

現在の山上の垂訓教会は、ビザンツ帝国時代の遺跡の地に、カトリックのフランシスコ会が一九三〇年代後半に建てたものである。

平面図が八角形の近代的な教会堂となっており、祭壇の前には、八つの祝福を意味するモザイクが床に埋め込まれている。

教会内部
八角形の回廊
虹も出現する
ガリラヤ湖の展望が素晴らしい

■ 五つのパンと二匹の魚教会

この教会は、イエスが起こした奇跡の物語の場所である。お腹をすかせた五千人以上の人々を前にして、少年が差し出したほんの僅かな『五つのパンと二匹の魚』。

その僅かで粗末な食糧をイエスが手に取り、弟子たちを通じて飢餓に苦しむ多くの人に分けていったところ、ほぼ全員が空腹を満たすことができたという奇跡である。

この物語はさまざまに解釈されてきているが、今ある資源で可能な限り目の前の課題に対処していくことの大切さを伝えようとしているといわれている。

教会のエントランス
多くの巡礼者が訪れる
教会内部
静寂な空気が漂う

■ ナザレ・受胎告知教会

教会内部

この教会は、イエスの母・マリアが受胎告知された洞窟跡にある。一番最初の教会は、三五六年にコンスタンティヌス帝の母・エレナによって洞窟跡に建てられている。その後、支配・被支配などの複雑な歴史を経て、一九六九年にキリスト教・フランシスコ会によって新たに建築されている。

比較的新しい建造であるので、そこまで古色蒼然たる感じは受けないが、シンプルさの中に荘厳な雰囲気が感じられる上質感漂う教会である。イスラエルでは、唯一無二のキリスト教教会とも言われたりもしている。

■ ナザレ・カナの婚礼教会

イエスは生涯に数多くの「奇跡」を起こしたと伝えられている。その最初の奇跡が、このカナの地であったと伝えられている。この場所でイエスが聖母マリアの要請で、水をワインに変えたのが最初の奇跡だということである。

カナの婚礼教会はその奇跡を記念して建てられている。狭い路地を挟んで二つの教会があるが、フランチェスコ修道会による教会とギリシャ正教会によるもの。また、カナの街はアラブ人の人口が多くなっている。

アラブ人の店

■ 聖ヨセフ教会

聖母マリアの夫であるヨセフの名を冠した教会である。ヨセフの職業は大工であった。現在の教会の地下は発掘中であり、その場所にはヨセフの仕事場があったとされている。

ヨセフは絵画や彫刻で、年配の男性という姿で描かれている。実際に、ヨセフとその妻マリアの年齢差は結構あったとも伝えられている。

これは聖母・マリアの純潔性を浮き彫りにさせる為に、あえて生殖能力のない男性として表現したためも考えられている。この教会は、受胎告知教会のすぐ隣にある。

教会外観
地下の発掘現場

■ メギド要塞

ひと昔前は、『ハルマゲドン』と聞けば、世紀末の不安を煽って信者獲得をしていたオウム真理教と結びついた言葉であった。この『ハルマゲドン』とは、本来は新約聖書のヨハネ黙示録にある最終戦争を意味している。

そして、その最終戦争=ハルマゲドンという言葉の語源は、このメギドなのである。古来この地は、東西交通の要衝であり軍事上の要地でもあった。古戦場として知られており、ハルマゲドン(メギドの丘)は、終末論的な決戦の場として選ばれたとも言われている。。

メギドの丘
遺構資料室
軍事要塞跡
要塞遺構

■ イエス宣教の拠点町・カベナウム

イエスはナザレの街を離れ、カペナウムという街に移りそこで説教を始める。カベナウムという名称は、説教場としても広く使われたりもしている。

このカベナウムでの説教においては、悪霊が突如出現し、その悪霊に憑りつかれた人が絶叫をあげるが、イエスが叱り諭していくというストーリーもある。

そして集った人々により、イエスの噂はたちまちガリラヤの至る場所までひろまっていったというのである。ここでもイエスが起こした奇跡が語られるのである。

■ 死海地方

日の出前の死海

死海は一年中温暖な地域として季節を問わず死海浮遊体験を楽しむ訪問者が絶えない。また、美容業界では、死海の成分を使った泥パックや石鹸などがとても注目されてもいる。

その死海は、海面下四百メートルという低い標高なのである。地球の表面で最も低いとも言われている。死海には、ヨルダン川をはじめ多くの川の水が注ぎ込んでいる。

低い標高の死海に閉じ込められた水は蒸発し、濃厚で豊かな塩とミネラルの混合物が残ることになる。

この混合物が、美容品のみならず、諸産業においての上質な原材料として利用されているのである。海水の数十倍の塩分濃度とともに、鉱物素としてマグネシウム・ナトリウム・カリウムなどの含蓄率も高いのである。

その上質な成分水は、古代のヘロデ王やエジプトの女王クレオパトラなどを魅了させてきたのであろう。クレオパトラは死海を訪れ、化粧品の工房を創設したとも言われている。

現代においても、多くのハリウッドセレブたちが、美や癒しを求めて死海を訪れているという。

死海の浜にて
死海浮遊

■ エリコ遺跡

エリコの町は、紀元前約八千年前から人が住んでいたといわれている。城壁を持つ世界最古の町ともされている。海抜マイナス二百数十メートルの、死海から続く地溝帯・ヨルダン大峡谷帯にある

地中から発掘した壁には、縞模様が幾層も重なっており、その層の数だけ幾重にも繰り返された新旧支配の交代歴史が刻まれている。エリコの町は第三次中東戦争にて、一旦はイスラエル領となったが、その後返還されて現在はパレスチナ自治区になっている。

■ ヨルダン川河畔の洗礼場

この地は、ナザレのイエスが洗礼者ヨハネにより洗礼を受けた場所として信仰されている。ヨルダンの首都アンマンから五十キロ、死海の北約九キロという、イスラエルとヨルダンの国境にある。

川幅がさほど広くない河川沿いには、教会や礼拝堂・修道院などもある。また、隠遁生活のための洞窟や、洗礼が行われたとされる水場も残っている。

この水場には、現在でも多くの巡礼者が訪れ、川の水を使っての洗礼儀式なども行われている。

■ マサダ要塞

第一次ユダヤ戦争の紛争地である。ユダヤ民族とローマ帝国との戦闘は、最終的にローマ帝国によって、要塞に立てこもった婦女子を含め多くのユダヤ民族が虐殺されている。そういった歴史的背景もあり、マサダ要塞は、現代ユダヤ人にとり民族の聖地となっている。

イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、士官学校卒業生は山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓うのである。

■ エルサレム・エリア

エルサレム・エリアは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と複数の宗教の聖地として崇められる地が混在しているエリアである。神殿の丘には、イスラム教のモスク「岩のドーム」があり、そのすぐ側にユダヤ教徒が祈りをささげる「嘆きの壁」が立っている。

近くのトンネルを抜ければキリスト教徒たちが十字架を背負ってイエスと同じ道をたどる姿が見られる「ビアドロローサ(悲しみの道)」につながる。少し離れたベツレヘムは、イエス生誕の地とされている。

■ ベツレヘム聖誕教会

ヘブライ語で「パンの家」を意味するベツレヘムは、イエスキリスト誕生の地として有名である。世界中のキリスト教徒にとり、生涯一度は訪れたい巡礼地のひとつであるこの教会は、エルサレム郊外のパレスチナにある。

二〇一二年には、世界遺産にも登録されている。この教会はローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会の共同管理下にあるというのも歴史性を感じさせる。イエスが生まれて飼い葉おけに置かれたとされる場所へは、芋の子を洗うが如き人の波が常時出来ている。

■ スークの夜と朝

国内外にてのフィールドワーク時には、できる限り早起きして、近隣の市場・バザールなどをウロウロすることにしている。

早朝の市場やバザールほど、日常における、市井の人々の表情が垣間見える場所はないだろう。イスラエルなど中東諸国では、市場のことを『スーク』と呼んでいる。

エルサレムの下町で偶然出会ったスーク。その夜と早朝の表情を写真でレポートしている。

ここまでが夜の撮影である
ここからは早朝の撮影である

■ イスラエル博物館

二十世紀最大の考古学的発見ともいわれる『死海文書』なども保管されている。

ユダヤ教徒にとっては、この文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持っているとされている。

第二神殿時代のエルサレム市街地の広大な模型が建物の外にあり、そこを散策しながら往時の面影を追想することができる。

広大な街の模型
博物館の外観
展示物

■ オリーブ山

オリーブの木

現在では、エルサレムの街を展望する高台というイメージがあるが、この地は聖書の中で重要な場所と位置付けられている。マタイ伝・福音書によると、イエスが最後の夜に弟子たちに説教をした場所とされ、ルカ福音書では、捕縛される前の最期の祈りを捧げた場所とされている。

古くからこの海抜八〇〇メートルの丘では、オリーブが栽培されていたので地名の名前にも『オリーブ』が付けられている。エルサレム旧市街より数十メートル高いので、ここからの展望は人気が高いのである。

エルサレム旧市街を望む
展望広場
万国民の教会内部
イエスが祈ったといわれる岩

■ ビア・ドロローザ

聖書に記されているように、イエスは十字架刑が宣告されるだけでなく、自ら十字架を背負わされて民衆の目もある中辱めを受けされられる。

そのゴルゴダの丘への道が『ビア・ドロローザ』である。日本語では『悲しみの道』や『苦難の道』と訳されてもいる。

現代においてビア・ドロローザは、メシア(救世主イエス)の苦悶を偲び、自らも体験する宗教儀式の一つとして、世界中のキリスト教徒にとって重要な位置づけにされている。毎週金曜日には、十字架を背負って歩く体験コースも設定されている。

ビア・ドロローザのルートの道中には、十四ヶ所の留(りゅう)と呼ばれるステーションがある。

全ての留で起きた出来事を知ることでイエスの足跡を辿ることができると言われている。第十留以降は聖墳墓教会内部にある。

物語りがある「留」
多くの巡礼者が歩く
第四留(苦悩の母マリア教会)
土産物店などが軒を連ねる
第十留以降は聖墳墓教会内部にある。

■ 聖墳墓教会

教会入り口。この鍵をイスラム氏族が管理している。

イエスが十字架刑の処せられたゴルゴダの丘にある。この教会ならびにイエスが亡くなった場所については、古来伝説や物語が多く語られてきた。

その中でも、ローマにおいて初めてキリスト教を認めた皇帝・コンスタンティヌスの母親ヘレナについての物語が一番多く語られてきた。

ヘレナは熱心なキリスト教信者であり、ゴルゴダの丘の場所を求めてエルサレムを四世紀に訪れたのである。そして現在この教会が建っている丘を特定したのである。

「ゴルゴダの丘」の場所は、二度に渡るユダヤ戦争やその後の開発整備などにより、後世の人間にはわからなくなってしまっていた。皇帝の母ヘレナ一行は磔用の十字架を立てた岩やキリストが埋葬された場所を特定し、その土地へコンスタンティヌス帝が礼拝堂や聖堂を建てたのである。

また、十一世紀にはエルサレムを陥落させた十字軍によって、ロマネスク様式の聖堂が建設され、聖墳墓教会の基礎が整備されていったのである。ユニークなのは、この教会の鍵はイスラム教徒が持っていることである。

それは、現在この教会はキリスト教の複数教派によって共同管理となっているからである。東方正教会(ギリシャ正教)、アルメニア使徒教会、カトリック教会、コプト正教会、シリア正教会などえある。

教会の管理や優先的な利用を巡って、各教派間でのいさかいや争いが絶えなかったのである。そこで、キリスト教各教派に対して中立である、イスラム教の二つの氏族に鍵の管理をゆだねたのである。

イエスの墳墓教会の鍵をイスラム教徒が管理しているというのは、意外にも知られていない事実であり、このことが宗教間の争いなどへの戒めとなってほしいものである。

塗油の石
この奥にイエスの石墓がある
巡礼者が絶えない

■ 岩のドーム

「コーラン」第十七章一節には、イスラム教を創始した預言者ムハンマドの夜の旅という項目がある。ムハンマドはある夜、メッカからエルサレムまで天馬ブラークに乗って旅をした。そして天に昇って神の声を聞く。その際天に昇る際に足をかけた石が、このドームの中にある聖石といわれている。

その石の表面には、ムハンマドの足跡が残っていると信じられている。この伝承によってエルサレムはイスラム教徒にとって、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地と定められたのである。
 
七世紀半ば頃にアラブのムスリム軍がエルサレムを征服したとき、カリフのウマルはみずからこの地を訪れ、土中から聖なる岩を見つけ出して礼拝した。その後、七世紀後半になりウマイヤ朝カリフのアブド=アルマリクによって、岩を覆うモスクが建設されている。イスラム世界においても最古の建造物のひとつである。

そのすぐ下方には、ユダヤ教徒が祈りを捧げる「嘆きの壁」がある。また、近くのトンネルを抜ければ「ビア・ドロローサ(悲しみの道)」に繋がっていくのである。この岩のドームがある神殿の丘周辺は、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教という宗教のおける聖地が隣接共存している世界でも稀有な場所となっている。

嘆きの壁と黄金のドームの位置関係に注目

■ 嘆きの壁(西の壁)

この嘆きの壁がある神殿の丘(イスラム教徒はハラム・アッシャリーフ=高貴なる場所と呼ぶ)周辺は、十九世紀半ばまで住民すべてが城壁の内側で生活していた。

北西部分はキリスト教徒地区,南西部分はアルメニア人地区,中央部の南はユダヤ教徒地区,北東部から中央部にかけてがイスラム教徒(ムスリム)地区と分かれていた。

紀元前九六五年頃、ソロモン王がモリヤの丘に神殿を建てる。その後、紀元前二十年にはローマ帝国がユダヤの王に任命したヘロデ王によって大改築されるが、数年後にはローマ軍によって破壊されてしまうのである。

以降ユダヤ人はエルサレムから立ち退かされ、二千年近くにわたる世界流浪の民となっていくのである。四世紀には一年に一日だけ神殿跡への立ち入りが許されるようになり、残っていた神殿の壁に、祖国の喪失を嘆くとともに祖国の復興を祈ったのである。

現在の『嘆きの壁』は、そのようなユダヤ人の嘆きと願いが積み重ねられてきたのである。このように、この周辺地は繰り返される支配・被支配の係争地としてなってきたのである。

嘆きの壁・内部での祈り

旅のフィールドワーク・イスラエル編

2023年5月3日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸クラブ出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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