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かつて日本列島には、人間社会のなかでうまく立ちまわることのできる「スマート(利口)な知」とは異なる「自然のなかに生きる野生の知」が息づき、世代を超えて伝承されてきた。山伏とは、それを森羅万象のいのちの思想と結びつけ、体現してきた存在であろう。
山伏は、自然のなかで「知恵といのち」を学び修めることで「修験者」となり、祈りと修練によって、人びとの暮らしのなかに共生のロジックを表現してきたのである。
近年、世界的に目覚ましい発展を見せているAI(人工知能)やスマートシティの可能性は、スマートフォンから人工衛星までさまざまなレベルで実装され、私たちの生活をより豊かに、便利なものにしている。
他方で、このような「スマートな知性」では掬い取ることのできないものとして、ローカルな現場に生きている知恵の思想、私たちの身体の内側に宿るいのちの感覚が、世界的に再発見されつつあるのではないだろうか。
次に記すのは、町田宗鳳著・「山の霊力」の中で、『いのち』の帰還する場所 と題する章からの抜粋である。
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修験や巡礼におもむく人々は、険しい道を一歩一歩登りつつ、その苦しい息遣いの中にこそ、自分の有限生命が無限生命の中に呑み込まれてゆくことを体感していたのではないだろうか。
生と死をもつ小さな生命を数珠つなぎに繋ぎ止める大きな生命、それが山だ。山こそ、すべての生命のふるさと・・・、日本人は太古の昔から、そのように感じ取ってきたのである。(中略)
葬式仏教と揶揄される現代の日本仏教が、魂の原郷である山岳に帰還し、人間中心主義に冒されない、ホリスティックな精神性を獲得すれば、とかく方向性を見失いがちの現代文明人にも、大きな救いとなるはずである。
仏教には、まだまだ地球文明に貢献しうる精神遺産が包含されていると確信しているが、そのためにも、(いのち)の山奥深くに帰還し、今ひとたびの脱皮を遂げるべきだろう。
父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女(伝説では刀良女とも呼ばれた)。生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。白雉元年(六百五十年)、十六歳の時に山背国(後の山城国)に志明院を創建。翌年十七歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされている。二十代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったとも言われている。高弟には、治療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足がいる。
出羽三山(でわさんざん)とは、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。日本三大修験道の一つとされており、修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社・出羽神社・湯殿山神社」である。
毎年八月下旬から九月頭までの七日間行われる羽黒修験の「秋の峰入り」。秋の峰入りは羽黒山伏になる資格を得るための入門儀礼であり、地位を上昇させるための儀礼でもある。山伏の目的は即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行をし、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することである。秋の峰入りはこの擬死再生(生きながら新たな魂として生まれ変わる)の儀礼を現在に残す唯一の山伏修行といわれている。明治初期の神仏分離令と廃仏毀釈によって、現在は出羽三山神社が行う神式に改められた「秋の峰入り」と羽黒山荒澤寺で行う神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが行われている。(※写真は峰入り明けである)
月山神社(がっさんじんじゃ)は山形県の月山山頂(標高一九八四m)に鎮座する神社である。『延喜式神名帳』において名神大社とされた式内社で、明治の近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多くの修験者や参拝者を集めている。神仏習合により月山神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになったが、八幡神の本地仏である阿弥陀如来が、月読命になぞらえられた月山神の本地仏となったのは東北的な特性であると言え、浄土教の浸透が阿弥陀如来信仰を月山に導いたと思われる。室町時代まで月山の神は八幡大菩薩とされていた。なお、月山の縁年は卯年とされ、卯年に参拝するとご利益が上がると言われている。
大峯修験道とは、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)とも呼ばれ、吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道のことである。高い場所では標高千九百ⅿ前後の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約八十キロに渡る古道のことを指す。
今回は「秘密の行場」を紹介する。前鬼の下流にある「前鬼・不動七重の滝」はかつて「前鬼の大滝」と呼ばれ、峠越えの道から遠くに眺めるだけの深遠な存在であった。また、「大丹倉(おおにぐら)」は高さ二〇〇m、幅五〇〇ⅿに及ぶ大絶壁で昔から修験者たちの聖地だったところである。そして裏行場である「不動窟鍾乳洞」である。
龍泉寺(りゅうせんじ)の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れており、修験者たちから「清めの水」とされている。その先は池となっており大峰山の第一の水行場とされるなど修験道の道場として著名である。龍泉寺は、奈良県吉野郡天川村にある真言宗醍醐派の大本山の寺院であり、山号は大峯山である。山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つであり、本尊は弥勒菩薩。洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている。
平安時代以降に神道と仏教が結びついた「神仏習合」の聖地として信仰を集め、朝廷からも一目置かれる存在であった英彦山。その後、明治五年の「修験禁止令」公布から徹底した神道化が推し進められ、ここで修行をしていた山伏(修験者)は離散し、峰入修行も断絶してしまった時期がある。江戸時代は「彦山(英彦山)三千八百坊(三〇〇〇人の衆徒と八〇〇の坊舎)」と謳われるほどの都市機能を有する巨大な門前町であったが、当時の風情を残す古坊も十数坊ばかとなってしまっている。峰入り修行は、宝満山と英彦山を結ぶルートのことをさす。
英彦山修験道におけ「春峰」とは、二月十五日に始まり四月十日に終える、英彦山から宝満山(福岡県太宰府)までの峰入修行である。その英彦山と宝満山とのほぼ中間点には、小石原皿山という地区があり、ここにある「行者堂」は重要な修行場であった。また、行者堂に近い場所には、修験者たちが献木(挿し穂)した、行者杉と呼ばれる巨樹林がある。幹回り約八m、樹高約五十五mにも及ぶ「大王杉」と名付けられた巨木をはじめ、「霊験杉」や「境目杉」、「鬼杉」など、行者堂周辺は修験道の聖地にふさわしい霊験あらたかな大樹の森となっている。
古くから霊峰として崇められ、山頂の巨岩上に竈門神社の上宮があり、全山花崗岩で、英彦山、脊振山と並ぶ修験道の霊峰とされてきている。別名を御笠山(みかさやま)とも、竈門山(かまどやま)とも言われてきた。古くから大宰府と密接に関わった歴史があり、古代から近世の遺構が多く残っており、日本の山岳信仰のあり方を考える上で重要な山として、二〇一三年十月付で文化財保護法に基づく史跡に指定されている。山の名前由来は、神仏習合によってこの山に鎮座する神が「宝満大菩薩」とされたことを起源としている。大宰府政庁の鬼門(北東)の方位にあたり鬼門封じの役目ともいわれている。
『北海道の屋根』とも称せられるこの山は、アイヌ語で『ヌタクカムウシュペ』と呼ばれてきた。特に石狩地方に住むアイヌ民族にとって、この山は自然災害から住民を守護する神の在所として崇められてきた。
その神々が山中に降臨する場所のことを『カムイミンダラ(神々の遊び場)』と呼んできたのである。伝説によると山頂直下には池があり、その傍にあるお花畑に神々が集ったということである。
日本三大霊場の一つである。他の二つは、比叡山・高野山である。貞観四年(八六二年)に慈覚大師・円仁によって開かれたとされている。中世から近世にかけて、天台宗・真言宗から曹洞宗へと管轄する宗派に変化はあったが、一貫して蝦夷地から畿内なで広く多くの参詣者があったという記録が残されている。
さらに視覚的障害を持つ『イタコ』と呼ばれる女性が巫女となり、死者の霊を憑依させた語り(クチヨセやトイクチ)などでも知られている。また、現世利益を求めての地蔵信仰の霊場としての歴史も有している。
山麓にある岩木神の社は、山頂部にある奥宮と麓の下居宮(おりいのみや)の二社からなる山岳信仰の神社である。旧暦八月一日には、津軽に住む多くの人々が五穀豊穣を祈って『お山参詣』をするのである。
この参詣は男性が成人になるための通過儀礼としても継承されてきたのである。参詣の前には、集落内の神社や若者宿に逗留し精進潔斎をした後、御幣や供物をもって岩木山の山頂(奥宮)を目指したのである。
岩手山は現在も活動をする複式コニーデ型の火山である。古来近隣の住民は、この山を『岩鷲(がんじゅ)山大権現』と称して崇めてきた。まるで大きな岩のような鷲を想像したのであろうか。この山への信仰の原初には、古代における蝦夷討伐の長・坂上田村麻呂が関係している。彼は、この山に(オオナムチやヤマトタケル)など三柱の神々を勧請したと言われている。
明治の神仏分離によって名称変更された岩手山神社は、山頂を本宮とし里宮を有する。里宮は盛岡藩主・南部重信によって造営されている。
明治三五年の冬に発生した、歩兵連隊の大量遭難(犠牲者数一九九名)によって全国的にその名を知られてきた山である。そんな悲劇の山としてのイメージが先行しがちであるが、古来地域の住民は、この山を(農神の山)として日々の営みにおける感謝の念をもって接してきたのである。
特に、山肌にできる雪渓の姿が変化していくのに沿って、農事の節目日を設定したりと、山の季節変化そのものを農業の暦としても考えてきたのである。
山名が示す如く、この山は『馬(駒)』に関する信仰の山としても知られている。現在三県(岩手県・秋田県・宮城県)が接する県境の山であるが、その昔宮城県側からは『駒ケ岳』と呼ばれてきた。俗に(お駒様)として親しまれてきた麓(宮城県側)にある駒形(こまがた)神社は、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。倉稲魂命とは日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。そして、創建は大同年間(八〇六年-八一〇年)征夷大将軍・坂上田村磨呂によると伝えられている。
この山は火山性爆発と深い縁がある。大同元年(八〇五年)に大噴火が起きている。その翌年に、平安初期の法相(ほっそう)宗の僧であった徳一によって、山の南西麓に慧日寺(えにちじ)が開創されている。それ以降、火の神を崇める山岳信仰の場として尊崇を集めてきたと言われている。近代に入ると、明治二十一年(一八八八年)にも大噴火が発生し、地震と噴火が繰り返されたのである。その結果、小磐梯山は爆発的噴火によって山体崩壊を起こしている。巨大噴火によって五百名弱の住民も命を落としている。
修験道の開祖・役行者が吉野の金峰山から金剛蔵王大権現を勧請したことにより、この山名が付けられたとされている。江戸時代には山頂の社を『蔵王権現社』と名付けられ、宮城県側の金峰山蔵王寺によって統括されていたという。
一方、山形県側においても熊野神社が熊野岳に造営され、ここを離宮として、本宮を瀧山に設営されてもいた。この瀧山の本宮が後に、修験道の一大拠点となていくのである。往時には三〇〇を超える修験者用の宿坊を有していた時期もあったといわれている。
この山は、歌枕『安達が原』にも関係している。元禄二年(一六八九年)には、松尾芭蕉が「おくのほそ道」を執筆中に、地区内にある「黒塚(安達が原)」へ立ち寄り、明治二六年(一八九三年)七月には正岡子規も立ち寄っているほどの名所が麓には存在している。
明治三十二年前後には、度重なる火山噴火をひきおこしている。山頂付近は大きな岩塊を露出したままとなっており、当時の噴火の凄まじさを想起させてくれる。
なんといっても、この場所を著名にしたのは次の句である。「閑けさや・巌に染み入る・蝉の声尾」。この句は、元禄二年(一六八九年)に、この地を訪れた松尾芭蕉による発句である。江戸期以降、出羽三山への参詣の途上にこの山寺を訪れるのがブームとなった時期がある。寺の正式名称は、宝珠山・立石(りっしゃく)寺。天台宗の名刹である。貞観二年(八六〇年)清和天皇の命によって、円仁が開山したとされている。最澄を師とする円仁による開山寺の幾つかは霊山としてその後も人々の信仰を集めているのである。
関東平野にある独立峰である。独立峰であるため、その標高(千mに満たない)の割には、堂々とした山容である。山頂周縁は広く岩山となっており、ピークは二つ(男体山と女体山)に分かれている。それぞれ筑波男神、筑波女神が祀られ、二峰の間にある平坦地は御幸ヶ原(みゆきがはら)と呼ばれている。室町時代を中心として、筑波山禅定(仏教修行)が盛んとなり、山中にある巨石や岩窟などを巡行していたという。巡拝所などは山中を中心に六十六ケ所もあったといわれている。
日本国内で年間を通じて一番登山者が多い都市近郊の山としても知られている。また、天候条件などが整えば、山頂エリアから西方向に富士山も望めることでも知られている。山内の薬王院は、新義真言宗智山派の関東三大本山の一つである。ちなみに他は、成田山新勝寺・川崎大師平間(へいげん)寺である。天平一六年(七四四年)に、行基が聖武天皇の勅命によって開基したと伝えられている。昭和二十三年には、薬王院の僧侶を中心として高尾山修験道の『三寶(さんぽう)会』が新たに組織化された。現在は『護法会』と改称し活動を継続している。
戦国時代末期に、長谷川角行(かくぎょう)という人物によって、富士山を根本神とする現世利益的活動組織・『富士講』の基礎がつくられている。この富士講は江戸市中にて多くの団体が構成され、中には富士山中の岩陰にて入定する者まで現れている。十八世紀半ばになると、江戸市中においての富士講は禁制とされるくらい広がりを見せていったのである。近世においての富士講は、富士山一山教会や北口教会などに再編され、その中から新たに神道十三派と呼ばれる実行教や扶桑教、丸山教などが分派していくのである。
立山連峰の最高峰は、大汝(おおなんじ)山である。しかし、山岳信仰における立山とは、雄山(三〇〇三m)が中心となってきた。その雄山を中心とした立山連峰は、日本三大霊山(富士山・白山・立山)の一つとされてきた。その立山は意外にも開創者が明確にされていない。無名の狩人という説や、越中国守の佐伯氏、僧・康済(こうさい)律師などという複数の開創物語が存在している。近世にはいると、麓の芦峅(あしくら)寺や、岩峅(いわくら)寺などを中心として、雄山信仰が盛んとなっていく。
嘉祥三年(八五〇年)に学問(がくもん)行者によって開山されたとされる。行者が飯綱山から金剛杵を戸隠山に向かって投げたところ、この山に住む九頭竜権現が現れたと言われている。この九頭竜権現を行者は山の洞窟に祀り、その前に顕光寺を造営したとされている。
平安末期には、霊場としての戸隠は京の都でもよく知られていたらしく、修験道場・戸隠十三谷三千坊といわれている。『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とうたわれるまでになっていたといわれている。
二〇一四年九月の大噴火の記憶がまだ鮮明である。その前昭和五四年(一九七九年)の噴火では、山体崩壊を起こしている。この御岳山は、中世から信濃の国峰(くにのみたけ)として多くの参拝信仰者が集ってきた。主な参拝口である黒沢口は覚明、王滝口は普覚という江戸時代の宗教家によって開拓されている。この二人によって中興された御嶽講は、中部地方を中心に全国的な広がりを見せたのである。明治時代には、御嶽教として確立され昭和四〇年には本部を東京から奈良へと移している。また、別派として木曽御嶽本教なども設立されている。
古来は『シラヤマ』と称せられ。富士山・立山と並び日本三霊山とされている。開祖である泰澄は、当初白山を遠くに臨む越知山にて修行をしていた。養老元年(七一七年)に霊夢にて白山登拝を決意したと伝えられている。この山には三方からの禅定道が発展してきた。越前・加賀・美濃の三方である。越前からは、平泉寺が拠点寺院となっている。加賀からは、白山比咩神社が拠点となり、美濃からは現在は廃寺となっている長滝(ちょうりゅう)寺であったとされる。
山名の由来には、胞衣(出産後に輩出される胎盤・エナ)が関係する。一説によると、天照大神が誕生した後の胞衣が、この山に埋められたことが山名の始まりであるとされている。山頂には、イザナミとイザナギを祀る奥宮が鎮座している。
江戸時代には、多くの行者が恵那神社前宮近くの川で禊を済ませた後、登拝に向かったと言われている。明治から大正にかけては、御嶽講の影響を受けて恵那講という組織も発生したといわれている。また、山中には風神神社があり、幽玄な空気を漂わせている。
伊勢湾からの眺望が素晴らしい山である。伊勢参りとともにこの山への参拝も盛んとなっていくのである。天長二年(八二五年)、虚空蔵求聞持(くもんじ)法を習得した弘法大師・空海によって、金剛証寺が建立されたとされている。その後、臨済宗の僧・東岳がここを中興し、真言宗から臨済宗に改めている。山頂部には、八大龍王が住む池があるとされており、雨乞いの修法が行われてきた歴史がある。また、金剛証寺奥の院への参道筋には、巨大な木製の卒塔婆が林立していることでも知られている。
古くから霊峰とされ、『古事記』、『日本書紀』においてはヤマトタケルが東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されている。古くから神が宿る山として信仰の対象であった。
室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。この山と鍼灸で活用される『もぐさ=ヨモギ』は、深い関係にある。明治以降に近代登山の対象となっていき、深田久弥の百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度が高まっていくのである。
最澄が開山した延暦寺でその名は知られているが、すでに『古事記』の中にも、この山については記述されている。天智天皇の大津遷都の際、三輪山の大物主神を迎えて大比叡神としたとされている。そしてすでに奈良時代には、山中にて修行をする僧が発生している。最澄は延暦寺を開創した際には、この大比叡神や地主神を寺の鎮守神として祀ったとされている。そして日吉(ひえ)神社の主祭神ともしたのである。また回峰行は貞観年間(八五九~八七七年)に、相応和尚によってはじめられたとされている。
鑑真の弟子である鑑禎(がんてい)は、宝亀元年(七七〇年)に鞍馬寺を創建したといわれている。平安京の北方を守護する寺院とされ、毘沙門天の霊場として信仰を集めてきた。
なんといっても、牛若丸(後の源義経)の修行の地であり、「鞍馬天狗」でも後世によく知られていくのである。山名起源には、古名を暗部山とする説がある。暗い場所を意味する「暗部(闇部)」の読みが鞍馬に転じたとする説である。
天応元年(七八一年)に、和気清麻呂と僧・慶俊(きょうしゅん)が阿多古(あたご)社を山城国からこの山に移したことが開山起源とされている。中世になると神仏習合が色濃くなっていき、浄瑠璃『あたごの本地』などで天狗が活躍する舞台としてその名が広く知られていくのである。江戸時代には、愛宕講が畿内を中心に結成されていく。特に『鎮火の神』としての信仰が深まっていき、『鎮火講』などへと改名されてもいくのである。麓の集落内では、火除け地蔵などが多く祀られていくのである。
麓にある大神神社には本殿という建築物は存在せず、この三輪山そのものがご本尊である。すなわち『神奈備(かんなび)』の山として古代から尊崇されてきたのである。こうした形態は、自然そのものを崇拝するという特徴を持つ古神道の流れに大神神社が属していることを示すとともに、神社がかなり古い時代から存在したことをほのめかしている。『古事記』『日本書紀』にも三輪山伝説として大物主神の伝説が記載されており、三輪山が神の鎮座する山(神奈備)とされている。
古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来た事がある。吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・修行道大峯奥駈道の北端にあたる。
七世紀(飛鳥時代)に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(金剛山・大和葛城山)、大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる。
大峯山奥駈道沿いにある。大峯七十五靡(なびき)第十番の宿所であり、熊野本宮の奥の院にあたる。平安時代に盛んになる奥駈修験において、玉置山は胎蔵界中台八葉院の毘盧遮那如来の嶺に充当されていく。第十代崇神天皇の時代に、王城火防鎮護と悪神退散のため、玉置神社は創建されたと伝えられている。その玉置神社の基となったのが玉石社である。玉石に宝珠や神宝を鎮めて祈願したと伝えられている。大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしである。また、境内近くには、樹齢三千年と言われる神代(じんだい)杉や、常立(とこたち)杉、大(おお)杉などの巨樹を含む杉の巨樹林が林立している。
二上山周辺は、海上の交通の要所、大阪湾・住吉津・難波津から、政治の中心の舞台である飛鳥地方への重要ルートとなり、二上山の南に、日本で最初の官道として知られる竹内街道が作られた。二上山の石切場から切り出された石材が高松塚古墳に使われた。謀反の疑惑をかけられて自害した、大津皇子の墓が雄岳山頂付近にある。(※大津皇子の移葬先については複数の説がある)
また、麓にある当麻寺は、民俗学者・折口信夫による『死者の書』でその名を一躍知られたのである。それは、当麻寺に伝わる当麻曼荼羅縁起・中将姫伝説に想を得て書かれた幻想文学作品である。
北の二上山や南の金剛山に連なる金剛山地の山の一つである。かつては金剛山を含む葛城山脈を総称して葛城山と呼び、大和葛城山は大和国では戒那山(かいな)、天神山あるいは鴨山と呼ばれ、河内国では篠峰(しのがみね)と呼ばれていた。山頂の東北には『天神の森』と言われるブナ林宇があり、葛城天神社が祭られていた。山麓には、鴨山口神社・葛木水分神社・葛木坐一言主神社・葛木大重神社・火雷(ほのいかづち)神社などがある。山頂付近は葛城高原と呼ばれ、ツツジの開花時期には多くの観光客が訪れる
山名起源は、聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れた逸話が基となっている。敏達天皇十一年(五八二年)の、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天を聖徳太子が感得し、後にその加護によって物部守屋に勝利したことから、用明天皇二年(五八七年)七月三日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として朝護孫子寺を創建したと言われている。そして、山号を「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとされている。寺の至る所に張り子の虎が置かれているのは、その逸話に由来している。
生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(六五五年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝えられている。その当時は都史陀山・大聖無動寺(としださん・だいしょうむどうじ)という名であったという。江戸時代の延宝六年(一六七八年)に湛海(たんかい)律師が再興するが、この時が事実上の開山だと思われる。延宝八年(一六八〇年)正月には村人や郡山藩家老らの援助により仮本堂が建立され、後には大聖歓喜天を鎮守として祀ったとされている。貞享五年(一六八八年)には新本堂が完成して伽藍の整備が終わり、寺名を寳山寺と改めている。
鎌倉時代に記述された『諸山縁起』によると、役行者は十九歳の折にこの山の麓にある箕面滝にて千日参篭修行をしたということである。その後、熊野に向かい修験者として大成していくのである。修験道においては、箕面滝は役行者の「受法の地」とされ、箕面山天上山は「入寂の地」、そして、箕面山吉祥寺瀧安寺(箕面寺)は「廟所」とされている。瀧安寺は役行者の開基とされており、役行者作と伝わる弁財天像を本尊としている。またこの寺は、宝くじの起源である富籤(くじ)発祥の地とされている。
歴史的には南北に連なる金剛山と葛城山(大和葛城山)との総称として用いられた。その第一峰を高天山と称し(『大和名所図会』)、金剛山の別称は金剛砂を産出したことによる(『大和志料』)とも、また金剛山転法輪寺の山号にちなむともいわれている。貝原益軒の『南遊紀行』では現在の葛城山をさして「葛城(金剛山)の北にある大山をかい那が嶽といふ、河内にては篠峰と号す、篠峰を葛木といふはあやまりなり、葛城は金剛の峰なり」とある。また本居宣長の『菅笠日記』には「古は二つ(金剛山と葛城山)ながらを葛城山にてありけんを金剛山とは寺(金剛山転法輪寺)たててのちにぞつけられん」と記述されている。
平安時代の弘仁七年(八一六年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地のひとつである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。空海は在地の神である丹生(にう)明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。
熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称。日本全国に約三千社ある熊野神社の総本社である。平安時代の中期に鎮源によって記された『大日本国法華経験記』には壱睿・義睿・明蓮・といった僧侶が熊野山中で法華経にまつわる不思議な経験をしたことが記されており、古くから極楽往生を望む僧侶にとって霊場として理解されていた。熊野三山への参拝者は日本各地で修験者(先達)によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内された。熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように民衆に熊野信仰を広める者もあらわれた。
甲山の名称の由来は昔大きな松の木が二本生えていて、その兜のような形状から呼称されているという説があるが、田岡香逸によれば、元来、「神の山(コウノヤマまたはカンノヤマ)」だったと考えられている。山麓にある神呪寺にある碑には、禅僧・虎関師錬が編纂した元亨釈書の記述に基づき、十四代仲哀天皇の皇后神功皇后が国家平安守護のため山頂に如意宝珠及び兜を埋め、五十三代淳和天皇の勅願により天長八年(八三一年)十月、神呪寺を開創大殿落慶したと伝えている。そのためか甲山のどこかに宝が隠されているという俗説が地元ではあった。
摩耶山の名は空海が天上寺に釈迦の生母・摩耶夫人(まやぶにん)像を安置したことに由来する。古くは八つの国が見渡せるため八州嶺とも呼ばれていた。山頂近くの掬星台展望台(標高六九〇m)よりの阪神間の夜景が美しい。日本三大夜景のひとつとされている。山麓には、六甲山修験道の聖地ともされる、摩耶山真言宗の大本山・忉利天上寺(とうりてんじょうじ)がある。本尊は十一面観音菩薩と仏母摩耶夫人尊。釈迦の生母である摩耶夫人を本尊とする日本唯一の寺である。通称は天上寺という。新西国三十三箇所第二十二番札所。
「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。開基は若いころに九州(背振山)にて修行をした、性空上人とされている。
山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。室町時代の応永五年(一三九八年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰ったと言われている。
慶雲三年(七〇六年)に、三仏寺の開祖とされる役小角が蔵王権現などを祀った仏堂を、法力でもって平地から山に投げ入れたという伝承に由来している。永和元年(一三七五年)紀の修理棟札の墨書中に「伯州三徳山之鎮守蔵王殿」という文言があり、「蔵王殿」が投入堂の本来の名称であったとみられる。平安後期(寛治七年(一〇九三年)とみられる)に、三徳山(当時:美德山)の僧兵集団が伯耆大山寺の内紛に介入し、その報復として寺の子守・勝手・蔵王堂・本堂・講堂を完全に焼き払われたという記録が『伯耆大山寺縁起』(続群書類従・巻八百十五)に残されている。
平安時代の大同元年(八〇六年)に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。山頂付近には御山神社(みやまじんじゃ)、山頂付近から山麓にかけては大聖院の数々の堂宇、裾野には厳島神社を配し、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説や、元は「御山」(おやま、みやま)と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。なお、山頂にある三角点の名称は「御山」である。麓にある大聖院には、ダライ・ラマ十四世の命によって作成された、チベット砂曼荼羅が祀られている。
この山は、「西大峯山」と呼ばれることもある、修験道の中心地として栄えた山の一つであり、今日でも美作市側にある道仙寺奥の院の周囲は女人禁制とされている。後山そのものは役小角により開かれたと伝えられているが、道仙寺は建長年間(一二四九年~一二五五年)に僧・徹雲法印によって開かれたとされており、実際の後山における修験道の発展は十三世紀以降と見ることができる。今日でも五十以上の行場が存在し、様々な形での修行が行われている。九月七日と八日には、道仙寺の奥の院と護摩堂にて、紫燈大護摩法要が行われ、全国から一万人余りの修験者達が訪れる。
周辺の地域では古くから大山信仰が根強く伝承されてきている。現存する最古の記述は『出雲国風土記』の国引き神話で、三瓶山と二か所に杭を打ち、そこから縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとする物語である。『出雲国風土記』では「火神岳」(ほのかみだけ)または「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれていた。そして、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれていくのである。北西の山腹には大神山神社奥宮や大山寺阿弥陀堂があり、明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領とされ、一般人の登山は禁止されていたのである。二〇一八年には、開山一三〇〇年祭が開催されている。
船上山は山岳霊場として、和銅年間に赤衣上人か智積上人によって、智積寺として開基されたと伝えられる。南北朝時代の初めには、隠岐を脱出した後醍醐天皇を伯耆の豪族、名和長年が迎え、船上山に行宮を築いた。後醍醐天皇方の名和長年と鎌倉幕府方の佐々木清高との間で激しい戦い(船上山の戦い)が繰り広げられた古戦場である。山頂付近の蒲ヶ原には行宮碑がある。頂部は広くなだらかだが、その周囲は急峻な斜面となっていて「屏風岩」と呼ばれている。この山容が船底の形に似ていることから船上山と名付けられたともいわれている。
古代の石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場する。国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山と共に国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。奈良時代の二字好字令によって「三瓶山」と表記されるようになった。北麓の三瓶町多根小豆原地区には約四千年前の活動で埋積された巨木群が存在し、「三瓶小豆原埋没林」として国の天然記念物に指定されている。スギを中心とする森林がそのまま埋積されたもので、大きなものでは高さ十二m、直径二・五ⅿを超える幹が直立している。この埋没林は「三瓶小豆原埋没林公園」として公開されている。
立石山、または石立山と呼ばれていたが、中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つである長福寺が享保二年(一七一七年)龍光寺と改名し、この山の開発に取り組み劔山本宮を創立し別当となり、また宿泊所となる藤の池本坊も創設し、山名も修験者や民衆受けする剣山と改名し繁栄していった。方や、その繁栄を見て円福寺も江戸時代末期に別当となる劔神社を創設し人々を集め、木屋平と祖谷山からの二つのルートが開かれ剣山への参詣登拝は発展していった。
別名「阿波富士」と呼ばれ、地元民からは「オコーツァン」とも呼ばれている。山頂には、役小角が七世紀に建立したと伝えられ、空海が修業に訪れたとされる高越寺がある。女人禁制が解かれた今も、八月十八日の十八山会式だけは女人禁制で紫燈大護摩が開かれる。また、山内には、中の郷という庵の前に「万代の池」という池があり、「のぞき岩」の行場などがある。鎌倉時代には高越山を中心とした修験道の信仰圏が成立していたとみられる。麓の山川町山崎に位置する忌部神社を阿波忌部氏の守護神として年二回の会合を開き、本寺は忌部神社の別当としても活躍し、忌部修験道ともいうべき独特の形態を生んでいったといわれている。
厳密にいえば、独立峰の山塊全体を琴平山とすると南側半分が象頭山であり、北側半分は大麻山(おおさやま)であり、両方合わせた全体を「象頭山」として瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物に指定されているのである。釈迦がカッサパ3兄弟とその弟子千人を改宗させて説法をしたというインド中部の伽耶の西方の山のブラフマヨーニは、象頭山(ガヤーシールシャ、和名で伽耶山)と呼ばれていて、当山と山容が似ており、また、金毘羅大権現が鎮座した聖地であることから当山も象頭山と呼ばれた。インド渡来僧・法道仙人によって、この山に金毘羅神を招来したという説もある。
日本七霊山のひとつとされており、霊峰石鎚山とも呼ばれる。石鎚山脈の中心的な山であり、石鎚国定公園に一九五五年に指定されている。また、四国八十八景の六四番に西日本最高峰からの眺望が選定されている。最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高一九八二m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高一九七四ⅿ)・南尖峰(なんせんぽう、標高一九八二m)の一連の総体山を石鎚山と呼んでいる。その三峰を頭部に三角点山を胸部に見立て、星が森からは涅槃弘法大師の姿と、西条市北部からは涅槃釈迦の姿といわれてきた。
四億五千万年前の「コノドント」と呼ばれる化石が発見された山である。NHK朝ドラのモデルにもなtった、植物学者・牧野富太郎の研究の場でもあり、一三〇〇種類もの植物がみられる植物の宝庫の山でもある。
さらに、平家末期の安徳天皇が隠れ住んだといわれる平家伝説から宮内庁管轄となっている同天皇の陵墓参考地が残されている。麓には、横倉山自然の森博物館があり、この山の成立過程や植層などについて詳しく展示解説もされている。
古くから修験道の霊山として修行が行われ、一八七〇年頃の明治時代前期まで山岳信仰が行われていた。中世初期までは英彦山の影響下にあったが、中世末期には聖護院に属し、座主の格式を得て近世までは約一八〇坊を有する勢力を持った。その後、幕末期には五十四坊を数える程度まで衰微し、明治時代の神仏分離によって求菩提山護国寺は国玉神社となった。山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。
蔵持山は、「英彦山六峰」の一つに数えられる豊前(ぶぜん)地方屈指の霊山で、千年以上の歴史を誇っている修験の山である。山内にはその歴史にふさわしい数々の遺跡が残され、一部は今なお信仰や生活の場として利用されてもいる。蔵持山遺跡は大きく、(一) 聖域(山の神の住む浄域。磐座、禁伐林、社殿など)、(二) 行場(山伏の修行の場。窟、岩場、森など)、(三) 集落(「坊」と呼ばれる山伏たちの住宅)、(四) 墓地、 (五) 生産地(山伏たちの副業である農業や暮らしに必要な資材を得る場)と、(六) これらを結ぶ道路(行者道・生活路など)からなっている。それらが「四土(四種の悟りの世界)」という天台密教思想のもとに秩序だてて配置されている。
「脊振山」は江戸期までは山系一帯にある坊の総称であった。現在の脊振山山頂は「上宮獄」と呼ばれていた。隣山である千石山の中腹(佐賀県側)に今も残る霊仙寺跡(現・吉野ヶ里町文化財)は脊振山中宮に当時あった中心的な坊の一つである。天暦二年(九四八年)参籠修行中の性空上人(後に播州の書写山を開基する)は、法華経八巻二八品暗誦したと言われている。脊振山頂には脊振神社の上宮があり、弁財天がご神体として祀られている。五穀豊穣の神として、肥前や筑前の農民の信仰を集め、現在も参拝者が多い。なお、霊仙寺跡付近は、栄西が中国よりお茶の種を持ち帰り日本で初めて栽培し、日本の茶の栽培の発祥地とされる。
六郷満山は、大分県国東半島一帯にある寺院群の総称である。六郷は両子山を中心とした山稜の間に開かれた六つの郷、満山はそこに築かれた寺院群を指し、古くから六郷満山文化と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄えた。古来の山岳信仰が、近隣の宇佐神宮及びその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰、さらには天台系修験と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと言われる。今日でも、三十三の寺院と番外に宇佐神宮を加えた「国東六郷満山霊場」(国東半島三十三箇所)が構成されている。
役行者は九州に下って豊前の英彦山を開き、五十歳代の頃、阿蘇に来て根子岳を開いたとされている。根子岳の三つのウド(谷)のうちのネコウドの奥の院で国家安全・国土安泰を祈ったとされている。食物は木の根・草の実を常食としたので支障がなかったが、水がなかったので祈って水を湧かせたとも言われている。空を飛ぶこと鳥の如く、水上を渡ること地を歩くが如しと言われ、根子岳の絶頂から鳥のようにあちこち飛来し、天狗岩に立って火口を飛びまわったので、時の人は天狗と称し、或あるいは火乱坊(がらんぼう)とも呼んだと伝えられている。
古くは中腹に温泉が湧く山として温泉山(おんせんざん)と呼ばれていたが、そこから温泉山(うんぜんざん)に変化したとされる。大乗院満明寺は行基が大宝元年(七〇一年)に開いたと伝えられているが、満明寺の号は「温泉(うんぜん)山」である。雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。なお『肥前国風土記』では「高来峰(たかくのみね)」と呼ばれている。雲仙普賢岳は一九九〇年に一九八年ぶりに噴火活動を開始し、その後、普賢岳山頂部に溶岩ドームが成長し始めて主峰を超える高さとなり平成新山と名付けられた。
北麓には、この山をご神体とする薩摩一之宮であった枚聞(ひらきき)神社がある。社名の号には(開聞)や(海門)などがある。本尊は聖観音であり、寺の開基は智通(ちつう)和尚と伝えられている。開聞神社には、古くから和多津美(わだつみ)神社の名前が使われていたという。すなわち、海神を祀って来たのである。このように航海者にとってこの山は、海上からの極めて鮮明な目印的存在として崇められてきたのであろう。その姿は円錐形で端正なものであるから、薩摩富士とも称せられている。
霧島山とは、最高峰の韓国岳(標高一七〇〇m)と、霊峰高千穂峰(標高一五七四ⅿ)の間や周辺に山々が連なって山塊を成している。古代においては天孫降臨説話の舞台とされ、高千穂峰の山頂には天孫降臨に際して逆さに突きたてたという天の逆鉾が立てられている。「霧島」が最初に文献に登場するのは承和四年(八三七年)の続日本紀であり、諸県郡の霧島岑神社を官社とする旨が書かれている。十世紀中頃に性空が修行に訪れ、山中の様々な場所に分散していた信仰を天台修験の体系としてまとめ、霧島六社権現として整備したとされている。
2023年5月10日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極致へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。