spine
jacket

  登場人物
西藤 司 (さいどう つかさ)
   満寿賀(ますか)   西藤の妻
   汽仙 (きせん)     長男
   歌門 (かもん)     三男
   カナ         西藤の母
三杉 留平 (みすぎ)   西藤の親友
山岡 久住 (やまおか)  高志隊の同級生
杉元 八郎 (すぎもと)  メモを残す(高志)
戸困 伴克 (とこま)   西藤の上官(高志)
東河高志隊 (とうこうこうしたい)
花池 通          隊長(開戦時)
仁木 加一 (にき)    特策科長(特公)
基末 龍二 (もとすえ)  特策付
西藤 司          消脅担当(減脅) 
岳山 鹿三 (たけやま)  外時担当(外交)
由斐 快  (ゆい)    外時付
  国・都市。他
高志隊(こうしたい) 民陣の守備任務部隊
穂国 (ほこく)   西藤の母国
大国 (たいこく)  連合国のリーダー
安国 (あんこく)  世界4大文明発祥
長国 (ちょうこく) 賦界関係の当事国
東河 (とうこう)  安国北部港湾都市
梅江 (ばいこう)  中部の重要都市
銀海 (ぎんかい)  南部の港湾都市
新都 (しんと)   安国の首都
天京 (てんきょう) 穂国の首都
鳥鳩 (とりはと)  プリズン穂国の戦犯収容所
レッドポール     銀海にある刑務所

東河賦界接収     開戦時の行動
丘陣師校事件     派閥から発生の事件

 MASUKA 目次 

1 出立

富々丘とどおか高志隊

3 開戦と賦界ふかい接収
4 新都へ
5 終戦
6 西藤逮捕
7 レッドポール刑務所
8 帰還
9 天京へ
10将棋戦
11満寿賀の闘い
12西藤の死
13歌門と汽仙
14天成の砦


1出立

振り返ると、母は既に小さくなっていた。西藤士つかさはいよいよ故郷の飛村を後に、出立す
るところである。穂のくに、山合の深い所が士の郷里であった。時は1908年秋、西藤は
6歳になる。昼下がり山々は堂々重々しく、巨人の寝姿、そして天を仰いでいる。山のオ
デコ部分は天を睨み、顎はグッと引き締め、胸はグッと突き出し、仰向いた姿は雄大であ
る。
道は西に向かう、川もそれに沿う。村はずれ道は、左にカーブしている。風が少しある
ものの木々が騒ぐ程でもない。心地良い風だ。いつかも昼下がり、家で感じていた陽気に
似ている。遠くで子供の声がする。それともお別れだ。川のせせらぎも背中を押す。士は
家に帰ることはないと聞かされていた。
母の名はカナ。カナの実家の、たたら鉄製造業が大きく転換している時のことであった。
それはカナが嫁いだ後、離縁で実家に帰っていたことから説明しなければならない。
カナは結婚の後、長男を出産した。それが士だった。悲しい事に子供が生まれた直後
に夫が死亡した。旧家で歴史もある家であったが、時代の波もあったのか悲劇が生まれた。
何故こんなことになったのか分からない。
長男の子、士は叔父から母子とも追い出される始末となった。カナは赤子の士を連れ実
家に戻る羽目となった。士も後々、母からこの間の事情を聴く機会がなかったことを悔や
んだ。士の人生から俯瞰するに、その家を引き継いでいたら立派に家業を発展させていた
であろう。カナは実家に帰るが、別の悩みもあった。それは家業にあった。
西藤家は代々、たたら製鉄の生産をしていた。
しかし、時代の波には抗えないものである。というのは、鉄生産の原材は砂鉄だった。
それが鉄鉱石に代わり、従来の手工業的方法から、大製鉄一括生産に変化した。工場は山
中に作るのでは間に合わない。鉄鉱石から取り出す新製鉄業は広大な敷地を必用とした。
勿論大量の真水も必要だった。火力は石炭を要した。原材料を搬入し製品化する、できた
鉄は陸海運で運ばれる。人材も多様化する。総合的に工場は港湾を求めて行った。この流
れはダイナミックだった。
不思議な話だが、カナと同世代の女史に石炭積出港の、大親分と結婚していた者がいる。
カナと同じ村の南部出身だった。名前をセンと言った。センもカナもそれぞれの子供は戦
の中で活躍した。カナも不思議な縁で結ばれていたのだが、勿論両者は知る由も無かった。
新しい製鉄業は、人の流れも山から平地港湾に移って行った。カナが育った、たたら鉄
の頃は、山林を必要とした。精製は川を求め、砂鉄が必要、熱源は山の材木である。
更に土地は借用でなく購入し確保する。生産の目処が立つと、直ぐ次の土地に移ること
を考えなくてはならない。新しい土地も購入するのだ。
産業としてもこれほど難しい条件の仕事は少ない。大変な手順と内容なのだ。
木々を伐採し、火力確保し作業に入る。鉄を作った後の土地は、用が済むと更地に戻した。
植林と灌漑を施して売却し、別に土地を求めて行った。
口で言うほど易しくない。勿論将来を考えての、後地の植林だった。このように従来の
作業は大変なものだった。此の転換期、カナの脳裏には家業の将来が不安で、心配が尽き
なかった。しかも一族の先行き、そして士の将来が心配である。一時期悩みは大変なもの
だった。然し実家に帰り現実の対応しかなかった。泣く暇もなく、転換期の家業を続けつ
つ、更に士の将来をじっくり考えて育成を黙々とやって行きたかったが、時代がそれを許
さなかった。
西藤家はその村の旧家の一つだった。
士という名前は、地元の先達から名付けられた。地元から、著名な人物を多く輩出して
いた。その一人に将校で姓は違うが名前が士という先達がいた。
世界は覇権主義が色濃くなり物不足から、いがみ合い、物の取り合いが始まり、人々の
考えもグニャグニャに曲げられていった。
飛村藩は他の雄藩から何等直接の影響は受けていなかった。しかし、時代に後れを取っ
たわけではない。重要な役目を担っているが、このことはあまり知られていない。
カナは腕白に育つ士を、よく叱った。此の頃であるから、叱りも手ぬるいものではない。
親が片親だからと云って優しくばかりはしない。それは世の中に良くある親の心境であろ
う。士も悪餓鬼だけでなく、確りしていた。カナは安心する面も有った。強く生きてくれ
るだろうし、人に優しく、気性の強いのは安心できることだった。一人子は育てにくいと
いうが、親は自立させるのが一番だ。
そして西藤を見送るのは、母のカナ一人である。士は2年の年季奉公だったが、本人
は長い別れになると感じていた。士の感じるように家に帰る暇も無いほど、変化は激しかっ
た。不思議と涙はなかった。年季満了後その先はどうする、今カナは頭でグルグル考えて
いる真最中だったのだ。
カナは額に手を当てている。日差しを遮るためだけでなく、涙を見せないためでもある。
村のはずれで我が子は手を振った。きっと育ってくれる。信じている。親子の別れである
のに苦しさや辛さはない、将来を、お互い見据えていたのだろう、明るかった。
「頑張るのだぞ。」
カナは男の口調で唱えていた。士は見えなくなった。

「只今到着致しました。」
「西藤か、良く参った。」
着いた家は商家である。
「母上は達者であったか。お別れをして来たのだな。」
「はい。」
答えたものの、年端の行かない子供、別れることすら受け入れ難い身、辛いのは自然だっ
た。しかし、悲しみは乗り越える為にあるようなもの、士は良く判っていた。店主は次々
と仕事を云いつけた。店の仕事は多岐に亘った。そこはやる気に満ちた者のすること、気
持ちは固まっている。落ち度はない、結果も上々である。

しかし、ある日のこと、向学心に燃える士は、寝床に入った。大丈夫と考え、カンテラ
で明かりを取っていた。それも見つかると中止されるので、寝床の中で明かりが漏れない
ように引き込み、隠れて読書をしていた。火事には十分な配慮をしていた。
しかし、漆黒の闇、無理な話だった。たちまち光は漏れ見つかった。
「何をしているか。」
夜は深く、火事の危険性もある。烈火のごとく怒る店主だった。当然だった。深く反省
する士だった。士は後々、わが子にこれほど自分は厳しい環境の中で、勉強をしたかった
のだぞと諭した。
ただし苦しいことばかりではない。向学心に燃える士は、万事やるきそのもの、如何な
く実力を発揮した。店主も次第に士を認めていった。上級のしょうしゃに進学させるかどうかの話が、持ち上がった。店主は奉公後、進学させたほうが良いと言い出した。
そして、カナも進学することを選んだ。蓄えから捻出するという。
カナは此の頃再婚していた。再婚先は理解のある家で、進学に賛成していた。進学後優
秀な成績を上げた士は、更に進級していく事となる。奉公の経験も生きた。勉学は士に多
くの教訓を与えた。それは、元の店の経験も生きていた。
その事は士にもカナにも有難いことだった。然し、残念なのは世の中の動向だった。

世の中は、戦時色が強くなっていく。列強が大陸に次々と進出して行った。穂も流れの
ままに動いて行った。西藤は性格から将来の仕事をこう考えた。自分は几帳面だ。物事を
馬鹿正直に考えてしまいすぎる傾向があるかもしれないが、それは大事な事だ。そして性
格からやってみたい仕事は警邏である。然し、物事を徹底して進めることが、やり過ぎと
ならないだろうか。几帳面な性格が裏目に出ないか。先になってこの考えは、考え過ぎで
惜しいことをしてしまったという事が判明する。それは世の中の流れと、密接に関係して
いたのだったから難しい。そして選んだのが陣隊だった。
勿論陣隊から警邏への道も更に有ったのだから、物事はややこしい。陣隊とは邦を守
る警備隊である。守備の為、むしろ積極的に陣を構え前進することも有る。
陣隊には、丘陣と海陣があった。士は丘を選んだ、当時戦争となれば、当然出陣する。
戦争に行くのが嫌とかなんだとか言える時代ではなかった。嘗て負けたことのない穂であ
るから、他国に負けず大陸へ進出した。戦争となると戦線が拡大してしまう。戦地では敵
国となった相手だけでなく、風土病、飢え等自然との闘いがあった。そして味方に背後か
ら潰される現象も考えねばならなかった。
味方の心配をするとは、一般には理解し難いことだ。これは大変なことだったと経験者
は語る。またお国のため留守家族のため名誉の戦死は、避けて通れない場合があると考え
られていた。士は丘陣で高志を勧められた。
高志とは当初警兵隊の案があった。警兵隊の名称は取らなかったが内容制度は、他国の
それを範とした。陣務と司法警邏を兼ねた役目である。人心の安心と公安の維持、内地と
外地で管轄連系が異なった。
出陣先では、陣令高志となり、現地司令官に服す。内地では勅令高志である。陣民の安
寧を全うする任務、縁の下の力持ちである。ただ高志は有能な人物でないとなれなかった。
役目柄当然だ。しかも素行調査、思想傾向・家庭環境まで厳しく確認される。昇格試験も
合格は少人数、難関である。結婚相手の身元調査もした。
何よりも西藤が困ったのは、一人親のことであった。士は観念した。親一人であるとだ
めなら仕方ない。書類選考或いは、面接で諦めるしかない。ところが成績抜群であり推薦
も強い、遂に条件をクリアーした。
高志に入ると高志校へ進んだ。高志校は丘陣師校と似通った学習過程だった。
入校すると同期に山岡久住がいた。優秀な人物で、二人は一位を争った。西藤と山岡は郷
里が隣藩同士だった。西藤は現場部門、山岡は事務的な部門を主に担当した。任務は先々
そのまま継続した。このことは、営業と事務の関係以上の差がある。何故なら現場は敵国
と直接接触し、命のやり取りが発生するのだ。事務方は総合的に人民を守る判断を本部で
行なう。二人は終戦まで任務を全うした。
高志校は丘陣師校の卒業旅行と行程が同じだった。記念写真も大きな汽船の船腹に蟻の
ように兵士が整列し写真を撮った。卒業大陸旅行の一コマであった。
この二人は、その後同時昇格を重ねた。しかし、大戦終了後二人には全く違う結果が待
っていた。
西藤が入隊したのは、狸里隊だった。ここで西藤は戸困伴克に会った。戸困は上官とし
て良く指導した。西藤はチームワーク良く活動した。上手くいったのは、共通点が有った為だった。
戸困の父親も早くに戦死していた。従い、母親に育てられていたのが共通点だった。
西藤は親から酒を禁止されていた。カナは酒色だけでなく、酒を客観的に見通した
ようだ。その為か西藤は宴会を好まなかった。一方戸困は宴会を好んだ。お店に皆勤賞を
発行させたりした。それでも何より仲が良かった証拠にこんなことが有る。
戸困に2番目の子ができた時のこと、その男の子に西藤の名の士を、名付けた。世の親
はわが子の名前を考えるとき、一生の事として真剣に名付けるものだ。
戸困士が誕生した。
狸里隊では西藤とのコンビで問題処理も迅速だった。将来の大悲劇は全く感じられなか
った。西藤が嫁を貰ったのも、この狸里だった。
嫁は満寿賀(MASUKA)といった。知人に勧められたのだった。ここ狸里の街は城
下町で旧雄藩の一つ。高家から嫁入りしている、歴史ある藩であった。
果物が美味しく、満寿賀にとっては忘れられない街となった。ただ新居は寂しいところ
に有った。家の裏は墓地で、夜な夜な士の帰りを待つ身は辛い心細いものだった。この街
で長男帰仙が生まれた。西藤が高志校に派遣されたのは、この狸里隊からであった。戸困
の後任の上官が推薦したのだが、戸困の影響もあったのだろう。
その後、天京で終生の友となる三杉とあう。此の時は高志校の入学前だった。これ以来
三杉とは長い付き合いが続いた。
一方、山岡は丘陣師校卒と書いたことも有る。西藤も同様、陣歴に師校卒の記載が有
る。それは始位候補16期と共通の教練もあったようだ。(始位は尉官では少尉)丘陣
師校からは丘陣大校へ進学できた。ただ大校への入学競争率は半端ではなかった。丘陣
大校からは多くの参謀を輩出した。参謀は常朝派(じょうちょうは)と専制派
に分かれた。戸困と同期のみちいじ(専制派)が大校に進学したが
上査で終戦した。
戸困は大校には行かなかったが、上査(大佐)で終戦した。
路は高志隊ではない。路が上査で終わったのは、原因が有ったのだろう。
上手くいけば中昇まで行っても不思議ではなかった。戸困の上査は高志隊の特徴
を表している。高志では始昇以上が昇格として殆どない。司令官には有るが特別なものだ。
(中昇は中将、始昇は少将)何故か、高志隊の位置付けを考えたものだ。丘陣では懲罰の
実践、取り締まりの実行を高志隊にさせるのが都合よかった。司令部、実行部の組み合
わせである。丘陣の組織上こうなったと考えられる。最高高志司令官は丘陣から転配が
可能だった。高志隊を大規模組織としたくなかった。主客逆転となる場合もあるからで
ある。この事は、戦の最初の頃と、敗色強い頃の高志隊の人数、陣容配置を見ると判る。


2富々丘高志隊(とどおか)

高志隊卒業後の赴任は富々丘高志隊だった。穂の邦の中西部農業主体の地である。戦が
無ければ、そのまま食糧藩で子供も伸び伸び育っただろう。素晴らしい地方都市となって
いたに違いない。
しかし戦は足音もなく近づいて来た。士がまだ高志校にいた頃のこと、丘陣師校事件が
発生した。路制治が中心人物、戸困と丘陣師校で同期の男である。路は専制派の急進派と
言っても良かった。常朝派とは一線を画す。戸困は両派に組みしないというのだが、専制
派に近いようだった。専制派は覇権欲が強く、穂を導いたが結果は思わしくなく、賛否は
分かれる。統領格の北定景史は最も重い責任を負わされた。北定が力を入れたのが、高志
であった。北定高志ともよばれた。
路は並外れた豪傑である。陣の訓練の時も靴の中に石ころを入れ、それを踏みしめ行陣
した。同僚部下は舌を巻いた。並みの人間の出来ることではない。丘陣の上査で終戦した
が、将官への昇格は叶わなかった。戦後身を隠し、間留飛方面に行ったという説が有る。
路は常朝派を強く意識し対立を煽った可能性が有る。丘陣師校事件がそれである。この事
件は穂の邦を揺るがす大事件の一と、考えられるのだ。それは後の大事件の遠因とみるフ
シもある。常朝派が事件をおこしたのは確かに不味い。しかしその前にデッチあげ事件を
起こすのは如何かと指摘されるのだ。路は不穏な動きが相手側に有ると扇動し、先手を打
った懸念がある。謀議であると問題視させ、結果的に常朝派の一部の幹部を免職同然にし
た。
例え路が先手を打ったとしても、やり過ぎであっただろう。野に放たれた分子は荒れ
る。その後の世の中は収拾のつかない方向に向かった。穂の体質は責任の無いことが長く
続いた。これは相当根強い傾向だったことが分かる。路は自己都合で策力的に、高志を抱
え、都合よく戸困に被せた。戸困も事件に関係せざるを得なかった。このことは平成最後
の頃、現実本が出始めたが、まだ研究の序である。
「貴様を高志の唯一の連絡先とする。」
路は戸困に話し、巻き込んだ。これを受けた戸困は上司への報告をせず、越権行動を取
ったと考えられた。その後、落ち度を責められるが、何故か大問題とはならなかった。高
志も組織である。現兵の範として、疎漏をきたす行動は厳に慎むべきであったろう。
路と戸困他1名、計3名はデッチアゲ事件の首謀者として誣告罪で訴えられたが、事件
はうやむやのうちに葬り去られた。一連の流れは、西藤の富々丘高志にも影響を与えてい
た。教練その他に徐々に影響を及ぼし実戦へのきな臭い匂いになっていく。
西藤は高志精兵の育成に腐心した。戦地は命がけである。勇猛果敢、迅速性に富み正確
な判断力敏捷性のある、高志隊員が望まれる。精鋭の育成は急務で、冷静な判断力、計画
推進力何を取っても人一倍の技術を持たせたい。しかしレベルは急には上がらない。西藤
は苦渋の連続だった。
富々丘のある日。
この日も練兵場で訓練をしていた。西藤は一日が終わり、帰宅した。
「今日もみていたな。」
訓練場は官舎から見通せた。家族は時々、訓練を垣間見ていた。それを西藤は察知して
いた帰宅して、見ていたかどうか確かめた。
満寿賀と娘は吃驚して顔を見合わせた。どうして分ったのだろうか。今日こそ絶対に見
つからない筈だ。親子はよほど興味が有ったのだろう。その日も訓練の様子を、障子越し
に実は見ていた。母親と娘で見ている姿は、決して西藤から見える筈はない。例え千里眼
でもすべて見えるはずはない。
実は答えるほうが、顔に出していた。西藤は確かめただけで、その表情を見逃さなかっ
た。母子はいつも分かってしまうのは不思議だとずっと感じていた。

西藤は富々丘から岐川高志隊に移った。大陸の玄関口である。この町は人々の往来が激
しく、安全管理の難しい港湾都市である。過去には弾丸列車の海峡トンネルの大陸側の玄
関駅、大陸への一歩を踏む計画が有った。
岐川(きせん)に赴任し、西藤は第一声を発した。
「私は皆さんと同じ仕事をやって来た。皆さんの気持ちはよく判っている。」
部下は今度の隊長はいつもと違うぞと感じていた。これは歌門に、嘗ての部下が直接語っ
て呉れたのである。一方満寿賀は、岐川のリンゴに感心していた。穂にはない甘さと艶、
硬さである。
「シジミいらんかね。」
辻から声が聞こえてくる。街は自然でこのまま続くと幸せそのものだった。戦も現実化
していないし、ある意味で人々の安らぎでもあった。
西藤は隊へ馬で登退庁した。ある日西藤が帰って来た時、ガチャガチャと陣刀の音がし
た。これは機嫌の悪い日だった。この雰囲気はいつも満寿賀が察知し、取り成し抜群の才
能を持っていた細君だった。
この地で歌門は生まれた。歌門は後に西藤の逮捕劇を究明していく事となる。兄の汽仙
は青春期をこの町で経験する。列車で景昌まで受験に行ったが、かなり遠かった。
列車は内地に準じて鉄道網が整備されていた。
スピードは今一だったが、汽仙の早国SL経験は貴重なものだった。窓からみる眺めは、
長閑であった。

汽仙は大戦によって全く思いの通りには行かず、何もできず帰国することとなり、運命
に弄ばされた。しかもこの後、穂の邦で大校進学を果たすも、又も断念する羽目になる。
その経過は後に見るが、その苦しみは当人のみしか判らないものだった。されど汽仙は愚
痴を一切言わなかった。勿論詳細が分からないこともあった。それは歌門によって顕在化
した。そのことが良かったかどうか、このあとを辿り吟味していきたい。話は開戦に移る。

3 開戦と賦界接収

1941年12月遂に開戦となった。西藤は家族を岐川に残し、東河に赴任していた。満
寿賀は岐川も油断できない、家族を団結させた。
東河は安国の首都である新都の外港都市だった。街に賦界があった。この賦界は古く、
安国でも早い時期に設置されていた。賦界とは他国が境界線を引き、自国に準じた占領地
区とし、治外法権にした。穂は長国が租借していた賦界地を、開戦と同時にそこのけと取
ったのである。
開戦と同時に賦界を穂が占拠した時、虐待が有ったのではないかとの疑念を提起した。
がそれは作為か自然発生かが問題になっていくのである。それが焦点だった。疑いを東
河の高志隊に絞って、そこに目を行かせたのである。
即ち編成表が突如出現し、そこから事件となり、あらぬ疑いが掛かることとなり、疑い
は深くなっていった。歌門は調査して行く。
それは虐待事件の創造から、冤罪に繋がっていないかが問題だった。編成表は東河高志
隊のものだった。
冤罪の根源が、此の時始まっていた可能性が高くなって行く。当初はまだ証拠のある話
は全くなかった。
しかし、東河の前に梅江を見たらハッキリしていたのである。梅江は安国の中部の重要
都市だった。梅江同様の仕組みで冤罪を作っていた。それが、東河だったことが後に判る。
東河で西藤は担当が全く違っていて、虐待懸念と全く関係のない部署だった。しかも虐
待など全くなかった。此の時の東河の高志隊の誰が責任者であるかは編成表から明確だっ
た。
しかし何故か西藤に、疑いを持たされることになった。即ち虐待を高志隊一部にするス
トーリーが出来上がっていた。だとすれば何故だったのか。歌門の疑念の最初である。
東河港には穂から船便で渡れる直行ルートが有った。上陸し、そして新都に向かう方法
が有る。
一方、岐川からは陸路で、東河、新都方面に向かうことができた。安国は首都である新
都、東河方面、そして中部の梅江、南部の銀海これが3大都市圏だった。この首都である
新都行きのルートは、それぞれ目的によって選んだ。ほとんどは岐川から鉄道を使い新都
に入っていくのだった。

実際の話であるが戦後の引き上げ(帰還)には、東河港から乗船し帰国するケースも多
かった。終戦の後、東河に大陸から何とかたどり着き、船を待ったのである。この戦後の
引き帰りは、命を守る戦いがまた新しく発生したのが大悲劇だった。それは酷寒の地での
死闘が代表され物語っている。
大陸奥地から身の危険を感じつつ、命を守り運よく東河港にたどり着いたら、帰国でき
る準備段階が出来ただけで、更にそこから乗船は船便が無く簡単ではなかったのである。
流転の王妃もこのルートと思われた。

一方岐川も帰国の玄関口であったが、こちらは新都或いは大陸東北部から陸路でたどり
着き、民衆団の固まりとなって大変な混雑を示した。東河港と岐川港は様々の経路で、苦
労を重ねつつやっとたどり着いた人々で混雑は極まっていた。実に、語るに忍ぶもので、
経験者にしかわからないものであった。
大混乱の中、頭で動物的勘を働かせ進路を選び、人々はより早く穂国に帰りたかった。
早国内にいる人々は陸地を南下し、港を岐川に求めるのが早かったのである。それは地続
きによる為だが、距離の問題も大きかった。
南下すると一言で言っても、たどり着くのは容易な事ではなかった。中には過去の素行
が、評価され手厚く港まで案内される者のケースが有った。戦後の混乱から東河も岐川も
大変な状況を呈した。命を繋ぐのが大変な事だった。
さて開戦後破竹の勢いの穂は、各地で思うような進出を重ねていった。この東河の地も
進め進めの一方的矢印で奥地へ向かっていった。
開戦と同時に、東河市内の全高志隊はかねて手はずの通り、賦界の接収を図った。長国
の賦界など従来入れなかったが、この日以降は穂が独占した。陣、警、政府の要人を移動
させた。それらは、東河高志隊隷下各部隊が、実施した。その時の特策科長は、仁木加一
始査、隊長は花池通中査。責任ラインである。
高志隊の編成表に隊付として、西藤大位が記載されていた。しかし、西藤さんは賦界接
収とか、外時関係は担任外であった。もっぱら消脅工作指導将校だった。と杉元は言う。
脅威の撲滅担当である。
杉元は高志隊員であったが、西藤よりかなり若い。杉元は西藤と悉く勤務地が異なった
ことに、不思議な思いが強く西藤に言ったことが有る。
「よくこんなにすれ違ったものですね。」
運命か、すれ違いの多い西藤と杉元だったが、しかし東河では二人が掲載されていた編
成名簿があった、正にそれが渦中の重要資料だった。杉元は重要な時期によく話に出てく
ることとなる。
杉元は西藤に近い人物である。賦界当時の編成表を連合国側が偶然入手して、その編成
表に基づいて、生存帰国将校を一斉逮捕したのだろうと杉元はいう。偶然発見が戦後1年
以上経過し、戦犯追及は徐々に小さくなろうとした時の発見も、吟味されることとなる。
西藤も戦後に賦界接収事件と称される出来事が、疑いと共に発生している話など思いも
よらなかったのである。
例え戦で誰が担当しても、虐待など起きよう筈は無かった。そのような対立も必要性も
なかったのである。
西藤は岐川の家族と連絡する余裕もない状態で開戦を迎えていた。
東河高志隊は階堂寺に構えた。東河は安の大河の1つが流れ、水運は良かった。従い現
在でも河を散策、或いは花を愛で小鳥の声を聞くにはもってこいの眺めである。
春先の桜や日向ぼっこは極楽といって良かった。新都の高志隊と東河の隊は密接な体制
で活動した。特に安邦事変と言われる過去の行き違いの事件は根深くそして、残念ながら
行き着くとこまで、とことん行かねばならない、残念な経過を辿った。東河市内を流れる
川は、そのことを詳しく知っていた。
西藤は川を見るにつけ、本当に水は歴史を知り尽くし流れゆくものだと感心していた。
故郷の飛村を出てから川をじっくり見る暇も無かった。勿論今は川どころか山も街も眺め
る暇はない。戦争中心の世界なのだ。毎日の事件は西藤を落ち込ませることも有ったが、
西藤は上官から好かれた。それは軟弱な体質を好まず厳しい高志隊員の姿勢、西藤にはそ
れがあった。それだけ自分にも他人にも、社会にも厳しかったのである。
東河では賦界接収が後々問題になるので見て行こう、賦界とは他国が一定地域に境界線
を引き、その中に自国民を住まわせた。一種、治外法権のきく場所だった。
あたかも準自国領の如く占拠した地域であった。本来は健全な時は、お互い認めあった
ものだった。これは正常な国同士の場合、理想的な関係になることも有った。ただ占拠側
にエゴが有ると返還は先の話と成っていくのである。返還まで残念な歴史をたどることが
多い。中には少し内容が違うが、相当の年数を要したことも有る。
東河の賦界は歴史がある。安国でも早い時期に作られていた。長国は世界中に上手に
数多く租借地を作り、それは他国が羨ましがり真似したがるほど上手だった。東河にあっ
た長国の賦界を、穂が手を出し取り上げてしまったので、長国は困惑したのだった。
共同賦界の長国の部分を占拠した。この時代強者のまかり通る世界、それは良し悪しを別として、恰も自然のような流れにも見えた。これは、奇しき因縁の話でもあった。
勝てば官軍の状態に似ている。賦界接収時、後に問題となるのは、虐待が有ったのではないかという話で、後付けの感もあった。
即ち穂の陣人が長国の民間人、兵士に暴力など与えていないか。これが吟味されることとなって来た。その根拠として、東河の高志隊の編成表がものを言っ
た。記載された人物に疑いが全員持たされた。西藤も名簿に氏名が記載されているが、
接収の直接担当ではない。西藤は消脅工作を担当していた。只1年以上経っての出現のた
め、逆に事件を大きくし意見沸騰、問題がブリッ返してしまった感が有る。逮捕令状に
もっと早く記載されても、不思議のない人物の名が有るのも不思議である。そして梅江市
の流れを、東河にあてはめているのだった。

問題となる東河高志隊編成表
「本来のもの」(杉元メモから)
東河高志隊編成 1941年12月8日
本部
隊長      中査 花池 通
特策科長     始査 仁木加一
 付       層長 基末龍二
外時警邏    始位 岳山鹿三
消脅工作     大位 西藤 士
長賦界分隊   主任 岳山鹿三兼務
付        陣層 由斐 快
東河城址分遣隊
付        班長 杉元八郎陣層

隊長は開戦時、花池 通 であったが、逮捕は川下一郎であった。
編成表は西藤が指摘したものだが、正鵠を射ていて、次のようであった。
隊長は花池から川下に代わった。杉元は12月8日付の表の後、間もなく川下に代わった
という。間もなく交代したとの意味は、賦界接収時は花池が責任者であるという意味だ。
杉元は正にこの時、この編成表に記載されている。その城址分隊にいたのだから正当と思
われる。
高志隊の残されている隊長名簿では、川下は当年11月1日に純粋赴任としている。
従い、渡されたであろう編成表は、川下が東河高志隊長で出された可能性はある。しか
し、当時純粋赴任、辞任の区別はなかっただろう。言語から察するに、後付けでやや苦し
い表現をしている感が否めない。純粋の意味合いが中途半端である。杉元の現地の一員と
してのメモの方が価値あるようである。
この名簿と逮捕者の相違は、大変なことだが、編成表自体に疑義があり、作為の心配も
有るので、詳しい吟味が必要である。例え隊長の赴任時期に調査しきれない部分が有ると
しても事は逮捕である。隊長に責任が行かないとして、軽々に事を運んでいないか。そし
て、責任者を別に求める努力は尋常のもではなかったであろう。川下は後に逮捕された
のである。その後、鳥鳩の担当官と川下は、やり取りする時間が十二分に、あったと思わ
れる。確り吟味したい。人の命に係わることが簡単に扱われ、逮捕令状が出ていいものだ
ろうか。逮捕されない者は、高志隊の矜持で対応する必要が有ったのではないか。
しかし編成表から、基末・岳山両名の名前を書き違えて照会を起こしているため、信憑
性の低いこと、何故かの大疑問が生じていた。
偶然発見で有れば、その名簿から、氏名相違で逮捕状は発行されないであろう。これは
詳しく見ていく。ややこしいのだが、前出名簿は、正当で、基末と岳山は別名で作られた
編成表が別途あり、それから照会状が発行されたのだった。従い編成表は作為の可能性が
非常に高い。そして編成表は2通のうちどちらかの可能性がある。恐らく2であろう。

1 は杉元のもの。(正当と考えられる掲示のもの)
2 は隊長が川下。(花池でなく)
そして岳山、基末の名前を変えている。

西藤が言うように、自分を中心に事件捜査を始めるはずがないのが、正しい編成表だっ
た。西藤を芯にして、話を進めるのは梅江の農美を責任者に必死にした梅江案件と同様、
誰かの思惑が垣間見えた。
後に検討を加えるが責任ラインは特策の仁木と外時の岳山である。基末は仁木の副官と
して、先に逮捕又は事情を聴かれても当然だった。事実照会は西藤の逮捕以前に、回答さ
れており吟味の時間は十分あった。この話が進まなかったのは、此の時既に西藤の話は出
来上がっていた可能性が高い。基末から仁木の照会は進まなかった。仁木の回答は後に見
るが、西藤達が海外へ連れられて行った翌日だった。梅江の農美は後に詳細を見る。
尚、東河高志隊の上層部は安邦派遣、総司令官 水町靖治 北安邦派遣高志隊司令官
白山好春だった。後にHMKからの逮捕請求に、両名そして西藤他12名が記載されていた。
あたかも東河の編成表が、竜巻を起こしたのではないか。此の逮捕状も穂国側で、詳しく
調べた資料から出来ていた。1辺の編成表だけから作成された、逮捕状では済まないこと
は明瞭だった。というのも一篇の編成表から安国進駐のトップの名前は出てこない。
従い花池、川下の吟味も十分出来る時間はあった筈である。
しかも逮捕状記載の司令官白山は既に自決していた。逮捕状名簿に白山を記載させて
おくのは、誰かに都合が良かった懸念がある。勿論、水町達と農美の対応が先に有って、
西藤組がその後、乗って行った可能性も有る。

4新都へ

西藤が東河にいたのは短い期間だった。次の新都で活躍するのだが、その勤めの中で特
筆される活躍もしていた。そして新都で終戦を迎えている。
新都で特筆されるのは、狙撃事件だった。穂の高級幹部が狙撃され死亡者が出たのだ。
調査は西藤初め数隊が必死に当たった。しかし、ようとして犯人は捕まらない。
新都の庫道が入り組み調査に支障をきたしていたのだ。
独特の路地の構造だった。庫道こどうと言われ昔か
ら、手狭を生活と自己防衛に生かし計画されたのだ。犯人が逃げ込むには持って来いであ
る。
西藤は特殊機関と共に解決に当たる。西藤の偵察網に犯人関係者が次々と掛かる。西藤
の犯人捜査は、囲碁将棋のカンが当たったのではないかとも思える。しかし犯人検挙した
ものの、その後が大変である。
簡単には自白しない。解決は難しかったが、西藤は決して無理はしなかった。食事も十
分与え、家族は罰しない等と説く。
驚くのは犯人だった。最後はこのような扱いが穂のやり方と分かっていたら、狙撃など
しなかっただろうとまで言わしめた。残念ながら高官1名は尊い犠牲となってしまった。
遺憾な事件であったが、これ以降は大きな事件は終戦まで発生しなかった。新都の事後の
状況は特筆に値する。
問題が無かったことは、高志隊の質の問題と高い処理能力で有った。そして、結果から
模範であったと言わしめた。
戦であるから穏やかには行きますまいが、整然とした行動、規律ある態度は決して出来
ない話ではないことを物語る。
一方西藤の詰所は、西藤事務所と呼ばれることが有った。新都第一の宮・鼓庭は西藤事
務所に近かった。西藤は事務所を極力オープンにした。長くその姿勢は保たれてきた。
例えば、隊長の散髪である。床屋を出張させ髪を刈らせた。顔剃りに入り、間違えて眉
毛を剃り落としてしまった。大変な事である。床屋はそそくさと帰って行った。隊長は気
が付いたが、勿論床屋を呼びつけ叱ることなく1月過ぎた。次の時、
「今度は、眉を落すなよ。」
驚いたのは床屋である。叱ることなく諫める。見事なものだ。この話は西藤のことに、
違いないものだった。違っていても西藤にも当てはまる雄大な話だった。この話は歌門も
嬉しかった。歌門はこの話を神田神保町で入手する。
そして、子供も西藤を慕っていた。
「西藤大人いないの。寂しいよ。」最初に行った時の新都であった。
西藤が慕われていた証拠である。これらの話は、戦時にも関わらず実際の出来事だった。
鼓庭は規模の大きな宮廷だ。世界でも珍しい大建築物である。西藤は新都に2回赴任し
ており、余裕のある時内部を見学している。

2度目の新都では、五条公館を任された。
鼓庭は水の引き込みが巧みである。上中下の湖を見事に結び、夕刻もゆっくり過ごせる憩
いの場所にしている。これは最大のロマンである。いずれにしても新都は見事に抑えてい
たようで、思わぬ落ち着きを見せていた。
西藤は安料理を嗜むことも忘れていない。穂に帰った後も、安の料理に最も近い味の店
を把握していた。1959年4月継宮様の結婚式の後のパレードを見ての帰り、安の料理
を食した。安に一番近いと、西藤は子供たちに説明した。その店は天京の一角にあった。
歌門はその際の家族の面々を忘れない。

さて親友の三杉が訪問したのは、前の岐川であった。三杉が訪問したのは、西藤が悩み
行き詰まった時のことである。三杉は船を乗り継ぎ西藤に会いに来た。三杉は西藤の顔を
見た時、目を見て大丈夫と感じた。それはこの目の奥に目ありの目、をしていたという。
仕事は継続し、後に栄転ともなった。
三杉は西藤の新都の2回目にも訪問し、1個大隊並みの公館陣容に驚きこれを高く評価
した。西藤は中査として申請されていた。三杉は歌門に新都の西藤事務所をよく知ってい
ると内容を詳しく手紙に書いて来た。
高志隊では大隊並みの規模のものは数多くは無かった。三杉は西藤の部隊を見て吃驚し
たようだった。
西藤は手厚くもてなした。他人には身内以上に良くするのが西藤流だった。これは次男
がよく似ていた。

5 終戦

1945年8月終戦した。
終戦の時西藤は新都にいた。家族は早国の岐川にいた。
9月2日朝、岐川から安康丸は帰国穂国人約7500名を乗せ、今次大戦の公式引き上
げ第1船となり出発した。天京湾の大国戦艦ズーリミ号上で穂国代表が降伏調印をし、占
領軍の先陣を切って大国第8軍が与越果へ上陸した日だった。
安康丸に家族は優先案内された。満寿賀を初め子供4名が乗船した。歌門は1歳になっ
ていなかった。無事に帰国の手筈となるが、西藤士の情報は全くなかった。ずっと後に家
族のもとに帰ることができたのだが、詳細は一切語らなかった。
満寿賀は帰りの船で様々の光景を目にした。船中は皆打ちひしがれていた人々で一杯だ
った。中には将来を悲観して子供を海に落とそうとする。隣人がこれを止める。確かなの
は船が穂を目指していることだった。最短コースは取れない。海峡に機雷が敷設されてい
た為だった。船は穂の内海に行けず、北海岸の千咲港沖に接岸することを選択した。
例え終戦したとはいえ、船は途中で何が起きても不思議ではない。機雷に触れ沈没する
危険性も非常に高かった。やっと、穂の陸地が見えた時満寿賀は、涙が出てきた。
皆、体は疲れ気力も落ち、服装も汚れ乱れていた。しかし、将来を見据える心構えは、
皆出来ていた。
千咲港には夕刻たどり着いた。港と言っても安康丸は接岸できない。船は沖合に停泊し
た。陸までは小舟に乗り換え向かった。
船が沖で投錨する時、大きく船体が傾いた。それは乗船者が陸地側に集まった為だった。
一瞬満寿賀は何が起きたのか分からなかった。転覆するのではないかとさえ思った。構造
上簡単には倒れないだろうが、大揺れしつつ元に戻っていった。安康丸は港に着くと、今
度は早国の人々を乗せ、反対に岐川に帰っていく。西藤一家とすれ違う、その人々の荷物
は、穂国人の何倍もの量だった。
大活躍した船だったが、その船影は残すも船体はもう無い。船の錨が2か所記憶として
置いてある。歌門はまだ現物をみていない。
折しも天空は真っ黒に、今にも雨がふりそうだった。船に乗るとき、貴重品を布団の奥
に押し入れ荷物運送をしていたが、全て無くなっていた。さすがに布団はあった。しかし、
穂に帰って来ただけでもいい。今は現状を受け入れるしかなかった。
帰還先は錦条である。錦条は飛村の隣村だった。満寿賀の実家に帰って来た。どこの家
庭でもいや穂国全体で、ともかく復興の為時間が欲しかった。この郷里で家族は
10年を過ごすこととなった。歌門は幼少期、錦条の山々を見て大きくなっていった。
生活は苦しかった。まだ電気は点いていなかった。冬になると薪が必要だった。山から
杉の枝を集めてきた。水は湧き水を使った。満寿賀は風邪に弱かった。体力が落ちてい
たのだろう。
収入は少なく大変な思いをする。歌門は配給を覚えている。ビスケットの大缶入りだ。
田舎だから自然は豊かだ。植物、動物語るに事欠かなかった。特に夏のセミは懐かしい
思い出が有る。田植えや稲刈り、秋祭り色々あった。

1946年1月西藤は突然帰国した。これは周囲に驚愕の目で見られた。後に杉元もメ
モしたが、新都脱出は不可能な筈だった。終戦と共に、天地がひっくり返ったのだから当
然だった。士は解除命令で行動した。しかし穂の解除は安国に繋がるものではない。寧ろ
相手国は戦犯探しに拍車がかかる瞬間である。終戦後の経過を西藤は一切明らかにしなか
った。杉元も想像することすら出来ない。
士の帰還で、長男の汽仙は久しぶりに家族が愁眉を開いて歓談したという。
汽仙は華都の合支舎に進学した。西藤は教育の大切さを理解していた。長女も天京の最
高学府に進学させたかった。満寿賀も勿論同意見だった。生活も苦しいながら徐々に、普
段を取り戻していけると皆が感じ始めていた。
士は仕事を求めて天京に出た。穂の首都であるが敗戦後の状態は、まだまだ悲惨な景観
だった。歌門もずっと先で僅かに残っていた痍痍の陣人を目にした。白い包帯が辛いもの
だった。悲しいアコーデオンの音もしていた。
西藤の帰還は、勿論戸困の知れるところとなっていた。戸困は、戦後処理の事務局にい
た。この部署は元高志から1名は配置する必要があるだろう、とのことから実施した選抜
配置であった。それは帰庶局といった。天京にあり、帰還者は陣人又民間人迄幅広く全員
把握していた。当然西藤も記録されていた。
連絡が有り天京で二人は会った。西藤は詳しく家族の実情を戸困に話した。
「汽仙は華都の合支舎に進学した。」
「それは良かった。」
「長女は最高学府、天京大校を受験させたい。」
それは天京のトップ校である。逆に戸困は先になって長男をこの学校に転校進学させて
いた、順調であれば西藤の長女と学年で1年違いとなっていたのである。これが叶ってい
たら、現実は全く違っていたのである。
「なるほど進学は大事だな。」
戸困は西藤の計画は大変参考となる話だと心に刻んでいた。
「どうなるか分からないが、やれるだけやってみる。」と西藤が言う。
「なるほど、しかし俺はどうなるか分からん。」
同僚も引っ張られているから・・・・と戸困は言い、更に
「同僚の証人で法廷に出る余裕もない。」と言った。(木崎のことだった。)
終戦迄戸困の同僚はかなり重要な部署にいた者が多い。かなり厳しい結果の者がいた。
一方戸困の下宿先はHMKから2km手前の平地にあった。HMKに非常に近く、歩い
て行ける距離だった。後で考えると相当の恐怖を抱かせるのに十分な距離だった。それは
当然追放者であることを鑑みての話であった。この家は後に詳しく見る。HMK占領側の
統領は末笠大昇だった。
開戦時と終戦時に天京高志隊にいたのは戸困しか居なかった。終戦時は弟宮様の強い意
向が有り、赴任していた。偶然とはいえ、それぞれ抜擢に近かった。それほど偶然とはい
え運命の真っただ中にいた高志隊員だった。

「何も無ければよいが。」西藤は言った。
「今、俺は城下に仮住まいしている。」
戸困は言う。
「追放者には仕事は難しいものだ。」
西藤はしみじみ言った。
「ところで今俺は帰庶局にいるが、どうする今後。」戸困は聞いた。
「明日帰庶局に来ないか。」戸困は更に誘う。
「何か。」
「自分は長くは勤めないかもしれない。仕事を一緒にしないか。」
「上手くはいくまい。」

と西藤は言ったが、その仕事を受けたのである。西藤が困戸と会った場所は、HMK近
い自分の下宿ではない感じだった。
戸困は何故か、この後浪人生活に入った。運命の分かれ道だった。この後西藤は運命の
日々を辿り始めた。戸困と入れ替わるように西藤は帰庶局に入った。何故西藤は受けたの
か。それは、追放処置者には、仕事が無かった。その為、西藤は長く務めるつもりはない
ものの付き合った。

この局が戦犯を扱っていたことも、西藤は気になっていたのかもしれない。復員者は、
氏名帰還先、時期等詳細が把握されていた。西藤が心配したように、正に自分がその目的
の対象者とされていたのだが、知る由もなく、不思議な話となっていったのである。
戸困のHMK近くの下宿というのが、下田友江宅であった。かなり前から重宝していた。
天京の中心部南九険にあった。当時電話回線の有る家は少なかった。下田は仕事の関係が
有ったのか持っていた。下田には夫が居なかった。一方戸困は、家族を疎開先に置いたま
まである。呼び寄せるには金が無いという。天京からそう遠い距離ではなかったにも関わ
らずである。呼び寄せるのが無理との話は、後に大事な事実となってくる。戸困も西藤同
様、家族を田舎に置いていた。戸困が家族を置いているのは津之宮だった。戸困も困った
問題を抱えていた。
戸困の間留飛の後任将校は逮捕されていた。戸困は身に迫る危険をひしひしと感じ始め
ていた。
「こういう時は両山白と決め込むか。」戸困は強がりを言った。
逮捕された同期の証人になるどころではない。自分もいつ引っ張られるか知れたもので
はない、は現実化していった。戸困の陣位、上査は最高位であって、高志の司令官の位が
上にあるだけだった。弟宮様の好意も受けていた戸困は、先の丘陣師校事件など、どこか
に行ってしまった感が有った。
下田の住む南九険からHMKは歩いて行ける距離であることは、日に日に心配が強く迫
ってくるのだった。毎朝毎夕、今日は大丈夫だったなあ。それを繰り返していた。神経を
尖らせていたのは、当然だった。追放者が住むには、余りにも大胆な天京の中心の中心だ
った。
ここで西藤逮捕、農美逮捕の経過も見聞きしていたのである。関与をしたのかどうか、十
分な検討が必要で、明確な証拠が必要だった。

歌門は西藤の経過を見るに何故逮捕の話が進んだのか、不思議で仕方なかった。西藤以
外に同じようなケースが有るのではないか、どうしても東河だけに限らない気がしてなら
なかった。そして難解な追求だったが、遂に発掘した。やはり他にはないのかとの疑問は
正しかった。
西藤と同様の事件が有ることが発見された。切っても切れない関係が出て来たのだった。
西藤の内容を調べるほど別件と酷似して来た。冤罪を強く感じさせるものだった。それ
は三大高志隊の内、西藤の北部、そして中部の梅江で行われていた。それは歌門の推理か
ら解明されたものだった。特に梅江のケースは目を覆うほど酷い強引なものだった。これ
は歌門があまりにも東河が奇妙な内容だったから、じっくり考えてこれはおかしい、何の
ためにしたのか、伏線があるのではないか。この推理から判明したのだが複雑に、双方と
も大国と長国が関係し、しかも相互に関連していたのだった。
複雑に絡んだ難しい問題を秘めていたが、それを徐々に詳しく述べる。
そして残る一つ南部の銀海はさらに高志隊として、やるせない経過をたどっていた。
奇妙な話だが、北部中部の高志隊に深い関係のある戸困は、実は南部にも関係していたのだ。
南部の経緯から、その状態も気にせざるを得ないものだった。それは先輩後輩の関係、そ
して引継ぎとの兼ね合いもあった。順番に述べていきたい。このような背景の人間はHM
Kの直ぐそばで生活するのは、1名ではとてもやって行けない。
そして下田宅は大切な存在だったが、結果から見ると実に上手く進んで行った。
仲間に丘陣経験の男性も必要だった。南九険に自分の都合に会った人物を引き寄せる作
戦を取った。即ち研究会を主宰したのだ。高志隊で鍛えた同胞もいなければ難しかった。
ただ、不可能ではなく難しい話ではあるが、手順が明確であったから進め得たのである。
ある日戸困が帰宅した。南九険の下田友江宅に電話が掛かって来たと言う。
名前は言われません。
「昔一緒だったと伝えてくれ。」
と言われました。
戸困は大体想像がついた。電話の主は、専制派の人物のようだった。この人物は戸困と
同期で親しい人物だった。しかもHMKとしても喉から手の出るほど欲しい人物だった。
戸困も細心の注意を払ってその人物の為の時間稼ぎをした。
さて大陸の梅江に戸困が赴任していたころの話である。遅木寂軽じゃっけいという人物に戸困は会
った。遅木おそきは陣の幹部と親しく、梅江でも行動的で顔も広かった。高志への出入りも頻繁
であった。政府要人、高家の御曹司とも親しかった。そして戦後の活動へ上手に繋いでい
った。遅木は英語も操り、しかもHMKの幹部とも親しかった。この遅木の実力は戦争の
時代、ある意味天分とも言えた。遅木は戸困をHMKに連れていける存在だった。此の頃
追放を受けているものが、HMKを訪問などとても出来ない事だった。
「戸困さん、戦争が長引いて全員玉砕したらどうしたか。」
HMKの幹部が聞いた。
「その時は、最後の最後まで戦う。」
「そうですか、律儀ですな。」
戸困とHMKのやり取りだった。
帰庶局は一期上の丘陣師校の先輩荒川孝行が纏めている。荒川はHMKにも繋がってお
り、帰庶も抑えているのだった。西藤に帰庶局の引継ぎが行われる頃、戸困の同期の木崎
毅の知らせが入った。
木崎と戸困は梅江で分隊の引継ぎをした仲である。その他木崎は芙留品ふるひんへ、戸困は間留飛まるひへ、行く先は違うが、同時赴任して行った時期が有るなど関係は近かった。HMKは木
崎に決定を下したHMK発信。

木崎武志
判決・・・(注1)
木崎の裁判中に、戸困は弁護にすらいけない、彼の弁護どころではないということは、
この結果の通リかなり切迫した現状だった事がわかるのである。
この情報は 戸困を苦しめた。芙留品中心に攻められた木崎よりも、間留飛やその他を
含め危ない隊を多く経験している戸困は更に厳しい筈だった。特に梅江の分隊が問題だっ
た。梅江は湖西分隊を基幹として出来ていた。その湖西で事件が起きている。
長国人が逮捕され、後に保釈後病気とは言え入院していた。この分隊で捕虜の虐待が有
ったと長国は断定した。戸困に遠因となっても不思議ではない事件だった。それが農美才
造に繋がっていくのである。農美は後に詳しく見ていく。農美は梅江の最高の被害者であ
る。長国は開戦から終戦まで徹底的に調べ挙げていた。戦犯裁判も悲惨な例をいくつも現
出した。
それだけ東河も編成表以降、徐々に梅江の影響を受けていった。木崎は遺書を書いてい
た。
木崎の遺書は、物事には、念には念を入れよという内容だった。勿論もっともっと人間
に踏み込んだものであった。
高志にはこのように高潔な人物が多かった。世間一般のイメージとは別の面を持ってい
た。
戸困は木崎の経過を憂慮する、と同時に自己保全が大事なことを痛感した。出来ればど
こかに逃避したい気持ちにまでなっていた。
一方西藤は帰庶局の仕事に、益々疑問を感じ始めていた。引き継いだ仕事に、
危険な内容が混入していることに気づいていた。
それは情報の一方的使用にあった。

6 西藤逮捕

西藤は帰庶局の仕事を、早めに終わりたかった。理由は判らないが、自己の目指す
ものと違っていたのかもしれない。それでも1年は勤務した。この時期仕事が他に有るわ
けでもないので、余程でないと辞めるのは惜しかった筈だ。郷里にむかったのは1946
年の暮れも迫った頃だ。西藤は郷里でお正月を迎えたかった。
西藤が天京を出て郷里へ向かった後に、基末にHMKから照会状が出た。それは何かの
きっかけから時計の針が反対に回り始めた瞬間であった。基末は東河高志隊で西藤と一緒に
仕事をした仲間だった。この照会状は基末の逮捕に繋がっても不思議ではないものだった。
基末は東河高志隊のある疑念の重要人物の一人であった。
一連の事件の始まりだった。
しかし奇妙なことに、基末龍二が正しいのに、照会状の名前が違うのである。基過龍二
で出たのだ。
タイプ印字された照会状の名前は、手書きで直され正しく基末となっていた。タイプで
打たれたのが最初基過であったが、その時は恰も正しいとされていたことを示していた。
「基過」であるタイプを訂正し、手書きで「基末」
と正しい名前に照会状がなっていたのは、どういう経過だったのか。
それは編成表から発したものであれば、編成表自体が相違していることを示した。
どの時点で正しく直したか不明だ。逮捕に関する照会文でしかも2名立て続けに
相違するのは、奇妙で済まされる話ではなかった。
もう一名は岳山である。岳山は後に述べる。偶然発見された編成表が2名も間違えて、
出て来る筈は無かった。
基末龍二に照会して確認したかったのは、現住所であった。住所を特定し、出頭を命じ
る書面を送るのである。
この照会は、戸困の1期上の帰庶局長荒川孝行にも伝わった。荒川は帰庶局を含む復員
機関の全般の部長だった。基末の住所は判明していたが、少し遅れるも岳山ほど遅れてい
ない時期の回答だった。本来なら基末は重要な立場だった。しかし追跡調査されることは
なかった。次の岳山にも出たがその回答は、西藤が鳥鳩刑務所から、何とレッドポールに
移された4日後に回答している。岳山は基末どころではなく当事者そのものだった。そし
て仁木への照会も有ったが、その回答は、西藤が出発した、翌日に回答している。このよ
うに回答等を1日遅れで出すケースは他でも出て来る。そして一連の遅れは責任ラインの
人物たちのものだった。ただ責任ラインに近い基末の回答は届いたにも拘わらず無視され
た。そして、次第に西藤に不利になっていくのだった。
さて西藤はお正月を郷里で過ごし、家族と別れるところであった。同じころ、第2弾の
先に指摘した照会状が出た。即ちそれが岳山宛である。奇妙にもこれも名前が相違する。
岳山鹿三でなく、鷹山鹿三で出た。(第1弾は基末)
タイプで「鷹山」となっていた。恰も正当であるような照会状である。これを、手書き
で、「岳山」と正す。
誤った鷹山の名は何故印字されたのか、正しい岳山にいつ直したのか。逮捕状その他
が、このように齟齬が生じることは前例が無かった。相次いで2名、相違した名で出たの
であった。これは出所のデータがおかしいことを示していた。岳山もやり取りが有ったの
か、手書きで訂正し、岳山鹿三と直されていたのも偶然ではないどころか激しい作為があ
る。調査者を惑わせる内容に大いなる疑問が生じた。勿論タイプ後にすぐ直す可能性はあ
るが、他の照会では殆どかかる例はないことから、時間稼ぎとも考えられる、この事は何
を意味するか。まだ誰も何もわかっていなかった。

長男の汽仙は合支舎に通学し1年経過し春休みを郷里で迎えていた。西藤は汽仙の3歳
下の長女の受験も考えなければならない。出来れば天京で最高学府に入れたかった。汽仙
は華都で進学したが、できれば次の子は天京が希望だった。

ある日天京で戸困と三杉が会っていた。
「西藤はどこにいる。」戸困が聞いた。

これは西藤が天京を去り郷里で正月を過ごす為、出てから1~2カ月経った頃だった。
遂に、ある案件が勃発したのだ。
西藤に関係ないと言いながら、結びつけようとしていたのだった。しかし絡繰はまだ誰
も知らなかった。三杉は西藤の逮捕に関して何もタッチしていなかったと考えられる。戸
困は何が何でも西藤を探し出し追走したかった。更に戸困は続けた。
「大国から話が来ている。西藤には関係のないことだから、進んで名乗り出るべきだと思
う。」
三杉は余りにも突然のことで全く判らなかった。詳しく聞くと、どうも大国HMK経由
で来ている話のようだが、どうも長国の関係で疑いが発生しているらしい。

「今頃は、郷里だと思う。」
「西藤が東河の特策科長の時の話で連絡が来ている。西藤には関係のないことだから、
話して俺の処に連れて来てくれ。」

三杉も少しおかしいと思った。戦犯で追放されているものが、同僚を自分の処に連れて
きてくれ等あり得ない話だった。朝に夕にお濠脇のHMKを見て生活している御仁は、恥
もルールも無かったのではないか、トップの末笠も戦犯者から見ると、とても怖い存在だ
った筈だ。しかし、三杉はこう考えた。これまで仕事をして来た仲間である。問題はある
まい。隠しだてはよくないだろう。三杉も過去に苦い経験を持っていた。或る疑惑がかけ
られ留置された経験を持っていた。
「急がないから、温州で1週間位温泉にでもつかり連れてきてくれ。それでも十分間に合
うから。」

この後三杉と天京で別れた戸困は、早速急報の西藤逮捕のお達しを、天京警邏から全国
に発した。勿論三杉には内緒だった。
錦条と中屋に対しては恐らく電話の手段を取ったのだろう。またこれらの逮捕者名は後
に西藤が手配の名前を見て気が付いた。それは編成表の存在だった。
中屋は三杉と西藤が落合う約束をしていた場所だった。中屋と錦条の双方の警邏に確実
に通知が行っていた事が明確となる。

そして関連する先を初め全国に、逮捕者名西藤士は燎原の炎となって広がっていった。
警邏まで手配されているとは露程も知らない三杉は、中屋へ向かって出発して行った。
西藤と会うためだった。
一方西藤は、家族との団欒を済ませ、出発の虎野駅に出た。
「それでは行って来るぞ。」
時に1947年3月16日。
家族は辛い別れになることを全く知らなかった。皆手を振り、列車は大汽笛を鳴らしゆ
っくり出ていった。時計は朝7時23分をさしていた。蒸気が激しく撒かれた。下り坂へ
一気に進み、先で大きく曲がり加速前進して行った。ポー汽笛も小さくなり、やがて
見えなくなった。
満寿賀と家族は見送りを済ませて家に帰った、一休みと思っていたときの事である。

「西藤士はいるか。」
数名の警邏である。
「直ぐここに呼べ。」
満寿賀は吃驚した。家族も口が空くほどだった。
「今出かけたところですが、何か。」
嫌な予感がした。見送りのことを聞き、警邏は虎野駅に急行した。1名を残して。
西藤は行く先を家族にも告げていなかった。後に杉元は駅で警邏は切符を調べたのでは
ないかと推測した。
西藤は列車を乗り継ぎ閤坂でさらに乗り換えて翌日、中屋に到着した。西藤は多枡邸に
入る。外はもう暗くなっていた。その日は仲間と囲碁や、歓談で過ごしていた。三杉はそ
の日更に遅くなって到着した。
時に1947年3月17日。
翌日18日三杉は華都に出掛けた。西藤は終日話や、若者の意気盛んな意見を聞いたり
して過ごした。
「戦争に負けても決して悲観してはいませんよ。若い者は全部が腰抜けではありません。
安心して下さい。」
18日は無事過ぎた。多枡華都間200km。
19日三杉はまた出かけた。今度は中屋に出掛けたのだった。多枡中屋間20km。三杉
の外出先は西藤が聞いた話であった。
それは中屋か華都か、正確かどうか吟味が必要だった。
その日夕刻9時頃だった。表が喧しい。何が有ったのか。
「どうする。もう手が回った。」
多枡が西藤に言った。西藤は尋ねた。
「何のことか。」
「君の戦犯手配だ。」
西藤は激しい衝撃を受けた。
「戦犯と言っても俺には何の心当たりも無いんだがいったいどこの関係だろうか。」
「長国の関係らしい。」
「何故か分からん。」
「俺もここから紐付きを出したくないし、逃げるなら今だ。」

西藤は徐々に平静になって来た。そして多枡が詳しく知っているのを不思議と感じた。
どうも自分を逮捕に来ているのは間違いないらしい。三杉が自分より後に来たのなら事
情を多枡に説明するには、西藤が既にいるから難しい筈だった。それなら自分が来る前に
三杉は多枡に会っていたのか。驚いたと同時に事情が分からなかった。
事前に電話で説明さえ難しい筈だ。やはり西藤が多枡に入る前三杉は来ていたのだろう。
そうでなければ、多枡に電話をした人物がいたのだろうか。
しかし、西藤は自分のあと来たと思っている。
「それで警邏は来ているのかね。」

西藤は聞く。
西藤が多枡にいることが、中屋の警邏本部に何故判るのか。家族さえも知らないのだ。
長国の関係であるし、自分には東河も関係ない筈だし、今更逃げたところで仕方あるま
い。しかも西藤は様子を聞くほど腑に落ちない事ばかりである。
「とにかく今は旅行の途中だし俺としては何とかして天京まで行きたいと思う。天京につ
いて警邏庁から行けば好都合なんだが。逃げると言ってもなかなかうまくいくまい。今逃
げるだけの決心はしかねる。」
西藤は覚悟した。
それでも朝から中屋に出掛けた三杉には会っておきたい。すると暫くして、三杉が帰っ
て来た。
「もう来たか、こなに早い筈は無いのだが。」

西藤は三杉も詳しく知っているので、更に不思議に感じた。
「実は昨日、戸困が話していた。長国の関係と言っていた。」
三杉は途中でゆっくり1週間、温泉でも浸かり、連れて来てくれと言われたことも話し
た。この話は歌門にも手紙で三杉は伝えたが、事実は意味深なものだった。歌門は1週間
かけてもいいからに着目した。三杉の昨日会った、ということは無かった。18日には
多枡に来ていたのだ。
只移動を考えると、ダイヤは次だ。
天京 中屋
7・40 急行 14・54
9・02 臨時 17・16
10・40 20・08
12・25 臨時・不定期 20・08
12・55 21・59
14.55 臨時 23・36
18・30 急行 25・50
以降1本あり
このダイヤは、三杉以外にも誰か利用したかも知れなかった。
三杉が、18日に戸困と話して、同日中に多枡に入るには朝早く、天京を出るしかない。
事実昨日という日はない筈で、もしそうなら、三杉がどこか近くで戸困と会ったことを
意味した。会っていれば、どこだったのか。
もしかすると中屋で会っている可能性すらあった。とても怖い話だった。
実際には、戸困は三杉に話すこととは違えて同時に、逮捕手配を天京警邏庁本部から発
していたことを三杉は知らなかった。それが中屋にも確実に着いていたが多枡邸まで把握
できていたか、不明だった。手配は三杉が天京にまだいた時から始まっていた。
  一方戸困の公職追放その後、原状回復は驚くべき回復を示した。西藤の手配はさらに
戸困の復帰の助けになったと言って良かった。公職追放どころか、警邏庁本部に出入りす
ることができるのであった。西藤も戸困の警邏庁への出入り許可は察知していたようだっ
た。梅江の案件も戸困に関係する所が有ったのだが、とても逮捕状が戸困に来るような状
態ではなかったのである。
梅江も西藤の東河と同じように異常な経過を辿っていたのである。これは一種のミステ
リーであり、それは車の両輪のように併行していた。詳しく見ることになる。
中屋での素早い逮捕手配は、三杉も驚いたのである。特に連れてきてくれと言ったこと
に拘った。自分を信じてくれないのか。連れて来てくれと言ったではないか。途中で変更
とは何事ぞ。三杉は自分を信じてくれなかったことが残念でならなかった。
後に三杉は歌門に手紙でこの気持ちを伝えたが残念至極だったのだろう。三杉は終生残
念だと思い続けた。
だが三杉は考え直した。戸困は嘗て西藤の上司、高志隊でやって来たし、悪いことはあ
るまい。再度そう考え西藤に不利な事はないだろうと、善解した。

「そうか、俺は全く知らなかった。長国なら関係ないし、後を一つ頼む。」
西藤は答えた。
西藤は家族にもここへ来ることを、話していないし、どうやって家族に逮捕を伝えるか
を考える暇も無かった。多枡は警邏に今日は遅いし、翌朝でダメか話した。断られ、西藤
は刈尾警邏に向かった。そして西藤は天京に連れていかれることを察知した。西藤はどう
しても戸困に会っておきたい気持ちになっていた。この事は重要な意味を持った。西藤は
一部始終を察知したようだった。

西藤の逮捕は通常の直接ルートで鳥鳩刑務所に向かうのと、天京警邏庁経由で向かう2
つの方法があった。行く先は鳥鳩刑務所である。逮捕の時、どちらのルートか判明してい
なかった。翌日ルートが確定し、天京警邏を目指すこととなった。
係官は西藤に念を押した。
「家族への連絡は十分でしょうな。連絡されていないことはないでしょうな。」
突然のことで連絡する暇も無かったのだ。警邏庁で唯一西藤に優しい言葉を掛けられた
瞬間であった。西藤は係官のことを思い、真実は話さなかった。どこまで人思いなのだろ
うか。
この動きを整理してみよう。
1947年
3月16日 西藤虎野駅出発
同日 警邏 自宅、虎野駅にくる
3月17日 閤阪経由 多枡邸に西藤が着く
夕刻 三杉来る
3月18日 三杉 華都へ
19日 三杉 中屋へ
夕刻 逮捕に来る その後
三杉帰宅 時刻21時 即警邏へ
19日 刈尾警邏で1晩
20日 中屋警邏で1晩
21日 中屋発天京へ(夜行)
22日 天京朝着

18日19日この2日間 三杉は何をしていたのだろうか。三杉が中屋などで両日人に
会う可能性は否定できない。しかも18日の華都は距離的に疑念がある。多枡と華都との
距離は200kmである。片道普通で4時間半(合計9時間)、急行で3時間半(合計7
時間)である。仕事の内容では日帰りが難しくなる。多枡と中屋は20kmほど。遠隔の
華都で18日に要件を実施し、19日は地元の中屋にした可能性はある。但し、両日中屋
で済ます可能性も強い。
両日行く先が同じ場合疑われる可能性が有り、攪乱の為とも考えれる。
多枡は19日に警邏が昼1回来たという。すると18日以前に警邏に話している。
誰かが天京から来るとすると西藤が着いた17日以前もある。18日は余裕がある。
19日の警邏事前訪問も指示できた。そうすれば18日19日の事前準備は十分の時
間が有る。
三杉は西藤が逮捕されるまで離された可能性が有る。作為的に離されたのなら、そ
れを取り持つには或る人物が必要であった。警邏が三杉を引き留めるはずはなかった。
西藤は戸困に警邏庁で逢っておきたいと言ったのは21日に係官に依頼した。
しかし西藤が戸困に逢っておきたいと言った前後の日、西藤の近くに戸困本人がいたの
なら、物凄いドラマだったのだ。
西藤は、一晩考えた。18,19日に三杉は出掛けた。何処で何が有ったのか分から
ない。そして、警邏で見た名前から、編成表の存在に気が付いた。更に誰かの介在がない
か。それには戸困に逢う必要が有る。そこで、警邏庁に知り合いがいるからぜひ会いたい
と依頼をした。戸困との面会の依頼を頼んだのだった。
この事は重大な意味を持った。もし西藤が帰って来られず、無実で策略なら、誰かに良
心は有るのか、自然な話なのかと無言で尋ねたかったのだ。
中屋で裏の人物の力が無いと進まなかった可能性が非常に強い。
これが逮捕前後の経過である。
本来責任者の替わり、即ち花池の代理川下はどうか。

3月19日午前10時25分 川下鳥鳩プリズン入所
3月18日に西藤が準確保された情報が無いと逮捕できないだろう。尚川下と仁木はいつ
でも逮捕可能者だった。

その後西藤は天京へ送られる。

3月21日 20時32分 中屋駅 夜行出発
22日 早朝5時25分 天京着
9時過ぎ 鳥鳩プリズン着

3月24日 仁木収監

3月31日 由斐収監

仁木は西藤の到着を待って実施している可能性が有る。

川下逮捕は西藤の逮捕が未実行の時実施している。これは不安だったろう。
(川下は戸困の先輩である。増して花池が対象者であれば、逮捕後照会があれば、回答を
若し求められていたら、戸困が傍にいない方が良いとも考えられる。)
西藤を確定して、川下を逮捕しないと出来なかったであろう。西藤が条件だった。
仁木は24日に逮捕している。
由斐は31日に逮捕している。由斐は岳山の部下で、本来対象外である。
このような複雑な経過を示す時、三杉がのんびり18日19日を過ごせる訳が無い。
戸困は自分に会いたい話と、三杉を立ち会わせる話はセットになり、その組み合わせに大
いに窮したのではないか。中屋に来ていない場合も来ている場合も、三杉を介在させる必
要は絶対に有った。それ以以降の西藤の予定や面談日等の打ち合わせは重要な手順だった。
まかり間違えると、三杉が義侠心で西藤の家族に面談予定を直接話されると困った筈だっ
た。
疑問は三杉が親しい西藤を置いて、何故華都や中屋に出掛けたのか。ゆっくり連れて来
てくれと言っても、他に用事があろう筈もない。分析のように戸困が中屋に来た可能性は
85%以上だろう。

別角度から見ると、戸困から、三杉へ伝達の方法は、今なら携帯やスマホがあるが当時
難しかっただろう。
若し中屋に戸困が来ていれば、話は早い。中屋の西藤の出発も確認を取ったうえで、戸
困は先に帰る等、動けたのである。しかし、気持ちは三杉を同行させた方が、都合が良か
った筈だった。
川下はまだ西藤が確実に逮捕されていない時点で実施するのはとてもできない話だった
ろう。自分が西藤の傍にいれば、川下を逮捕するのと、西藤を逮捕するのは容易だった
ろう。
遂にストーリー通り、川下、西藤、仁木、由斐に進んだのである。

戸困が関与していたら、良心の呵責から三杉から離れたくなかったのではないか。
この様に、西藤逮捕前後は、普通の流れではないことを示していた。

中屋駅の時刻表である・・抜粋
中屋 天京
7・37 16・40
9・40 18・40
11・47 21・40
13・24 21・30
20・32西藤 急行 翌朝5・25

この様に、進んで名乗り出る話どころではないのである。そして、検討している事が事実
なら、いかに無実の人間を引き回すのが難しいかということを、照明していたのである。
説明は書いても難しく、読み取っても分かりにくい。それが事件というものなのだろう。

西藤逮捕により最初に影響の出たのは汽仙だった。合支舎大校で1年生を終了するとこ
ろだった。学部は名門だった。退校しかなかった。
「もうこの学校にくることは無いだろう。」
実は汽仙は後に父親に会いに行くが、1日の違いで会えないこととなった。2度にわた
り苦渋を経験する。
家族は放心状態で夕暮れを過ごすことが屡々だった。案の定、汽仙は家族の為働く必要
が出て来た。家族は母を助け、兄弟は纏っていった。歌門は2歳だった。ずっと後ではあ
ったが、こんな日があった。
遠くで夜、列車の音がした。
「おっとうっ。」
夜汽車が通過するたびに、父親を呼ぶ歌門の声に、満寿賀は涙した。満寿賀は手紙した。
歌門も後に、残っていたこの手紙をみて胸が締め付けれた。そして涙した。

「待っています、元気で頑張ってください。留守家族のことは心配しないで。」
2歳の歌門は父親がどこかに行ってしまっていることを理解していたのだ。満寿賀は悲し
みに打ちひしがれる余裕は無かった。人前で悲しむ姿は見せられなかった。逮捕期間中の
出来事の一コマだった。

19日夜、皆と別れた西藤は、翌朝20日多枡と三杉が来てくれて見送った。中屋に向か
って徒歩で出発した。皆と別れて改札口を入るときはさすがに目頭が熱くなった。生きて
また相見ることがはたしてあるだろうか。
西藤は中屋署で手配名簿を見せられた。初めて自分の逮捕関係がはっきり判った。手配
名簿の他の人たちの様子を聞かれた。自分は東河の関係なら関係ないし、すぐにでも釈放
してくれるだろう。とてつもない甘い考えだった。そして、帰庶局の中屋支局の川中某と
いう人物が説明した。
「北安の関係なら銀海かもしれませんがいずれにしても長国は虐待が見受けられる、覚悟
してもらわなければなりませんな。」
西藤は1年帰庶局にいたが戦犯の実態に疎く無知な自分であることに思いが至り歯がゆ
かった。
「おい君のところの紳士は誰かね。」
「お気の毒に戦犯だとよ。」
「ほう御気の毒だね。」

西藤は中屋の留置場で壁の側に口をつけて話すと、3つくらい離れている部屋と十分話
が出来ることに驚いた。
肝心のこれからのことであるが。帰庶局員が言うには、長国は穂内に法廷を持たないか
ら、銀海かさらに南部のポールシンガに行くことになるだろうとのことだった。
1947年3月21日午後8時過ぎ列車は西藤を乗せ中屋駅を出た。集団移送は避けて
西藤1名だった。一路鳥鳩プリズンを目ざした。
天京駅には早朝5時過ぎに着いた。そして西藤が希望したように警邏庁に入った。そこ
には三杉と戸困が出迎えた。三杉は一足早く上天してくれていたと「追憶」に西藤は書い
たが、難しい移動だったのだ。
西藤が戸困荷警邏庁で最初に会った時、戸困は言った。

「おう来たか。」
「まあ和光会議までだろう。大したことはあるまい。監獄で更に将棋でもやって上手くな
るんだね、今度出て来ると人間が一段出来るぞ。ご苦労だが行ってきてくれ。俺も後から
行くような事になるかもしれん。」

この会話を歌門は見た時、これはいかんと感じた。果たして本当に心配してくれている
なかゆ通常大変なことになった場合、慰労することが多い。何とも言いようのない気持に
なっていた。しかも無事に出て来られるかどうか判る話では無かった。歌門は普通の逮捕
ではないと感じた。
戸困の話は、皆さんはどう感じられようか。西藤は果たして出て来る時機があるのか。
監獄に行かなければ出来ない人間も有り難いことではない。勿論一時的な気休めの激励で
はあるが、それでもこんな事を言ってくれる人が一人でもあることに感謝しなければなら
ないと西藤は思った。悲しむべき話である。ことは格子の中に置かれるのだ。戸困の話の
後、係官が西藤に次のように言った。

「東河の関係ですね。」
更に
「家の整理などは十分して来られましたか。何も後始末をする暇を興えなかったというよ
うな事はないでえしょうね。」
この質問は西藤を少し救っていた。
天京の下宿先の住所にも立ち寄れず、わずかに三杉に口頭依頼したにすぎなかった。
旅の途中であるし酷い話であったが、警邏が顔を見合わせているので、西藤は彼らに
迷惑が及ぶといけないと配慮し、実際には大変なことになっているのに問題ないと答えた
のだった。これが西藤の人間性だった。
この会話を歌門は何度も思い出したのである。
天京の鳥鳩刑務所に西藤は送られた。身長体重、指紋を取られる。全指紋である。写真
は前面と側面を撮った。表情は暗く恐怖も有り、辛い表情だった。その写真が残っている
のが凄い話だ。歌門は手元に置いて、何度も見られる写真ではないと感じている。
東河で逮捕されたのは4名いた。皆、生気がないのは共通していた。
表情はやっと立っているような状態だった。質問を受け部屋に送り込まれる。由斐は若
さからか写真の表情は明るい方だった。しかし若いだけに逮捕は将来を崩す危険性も高か
った。ただ由斐の若さは、他の皆にとって唯一の救われる材料だった。
西藤は刑務所で1人になった時、いよいよこれで鳥鳩プリズンの戦犯になったのだ。腰
掛に腰を下ろし、机に両肘をついて頭をかかえて過ぎ来し方、これからのことをあれこれ
考えていると、頭の中がいよいよ暗くなってきて涙が止まらなくなり、思いっきり泣いた。
西藤は東河の関係で、やはり入っている川下に食事の時間に会った。やっとのことで川
下に近づき会話した。

「午後の運動の時間に話そう。」
川下は状況が良く判っていないようだった。
この天京の刑務所は、内容が充実していた。西藤も中屋で逮捕以来、どうせなら早く鳥
鳩プリズンに行きたいと考えていた、その場所だった。北定京史は此の前年9月に入所し
ていた。
西藤は東河の関係を詳しく聞かれた。判らない旨答えると係官は怒鳴った。
[「今何処にいて、何をしているかを聞いているんだ。」
基末と岳山を含めた東河の事だった。これはいかに長国が真剣に対応しようとしている
かの証左だった。しかも最近急に起きた話の様だったが、西藤は知る由も無かった。勿論
逮捕の原因が長国資料から出たものだとの確証は無いのだが。岳山は2回も照会して無回
答だし、名前も間違って伝えられているので怒り心頭だった。他には医師、通訳まで未回
答だったのだ。回答が全くなく、焦れていたのだろう。

西藤は簡単に答えていたが、実は西藤は気付いていないが、答え方次第で危険な、不利
な厳しい対応も考えられたから、怖い。
岳山だけでも逮捕されていれば進行は違ったものになったであろう。岳山の住所は西藤
が銀海に向けて船で出た翌日以降回答された。岳山が逮捕されていれば、由斐の逮捕は無
かった。
これらは歌門にとっては大疑惑だされえる
「一体何のために私は調べられるのですか。何の事件の関係があるのですか。早く帰して
もらいたいですが。」
西藤は聞いた。
「俺には事件の関係は分らない。只本人に相違ない事を調べて報告するだけだ。これから
君等がどうなるか俺には分らないし、俺の関係する所ではない。」
突けんどんな答えである。西藤は予想される事件に関係無いんだから、此処で充分調べて
くれたなら必ずしも銀海やポールシンガ迄行かずに釈放され得るかもしれないと考えた。
しかしこれは実に甘い考えであった。5分位で終わった。西藤は4名の中で最後になった
ようだ。自分が首謀者であるような感じがした。第一回取り調べが終わると大体独居房か
ら雑居房に移るとのことである。
監獄では雑居房は天国である。鳥鳩では、朝6時起床、7時頃朝食、昼飯は12時、夕
食は4時である。監獄では一切刃物の使用を許さない。一番困るのは伸びた爪の処置であ
る。そこで最初は誰が始めたものか運動に出た時、煉瓦壁で爪をこするときれいに短くな
る。
独房から雑居房に移った。新室で東河の関係者4名が揃った。事件は東河における賦界
接収に係るものであろうこと、そして由斐は外字新聞の中に自分の名前がでているところ
を読み、虐待、侮辱他5件の事案について収容したとある。これが皆に関するものであろ
うということであった。そして結局は外地の銀海かポールシンガに連れていかれるのだろ
う。それなら一層早い方が良い。由斐の言う新聞は4月10日付だった。
雑居房に入って2日目、PMが面会だという。
戸困の細君だという。三重の網格子から、西藤は戸困の妻のベールを見ている。顔の輪
郭だけしか見えない。色々中と外の話の交換で終わった。制限時間は30分である。次は
1か月経たないと面会は無い。この面接は大事な話であった。西藤は家族の面談が後に不
調に終わることすら知らない。
それは西藤が銀海に出発した翌日に汽仙が来た。最初の面会は満寿賀が面接に行ったな
らベールを被る必要はなかったであろう。仁木の照会回答といい、汽仙の面接といい、そ
れぞれ翌日という問題を提起している。
まして戸困の細君のベールと言い誠に不思議な話で有る。手の込んだことと言えよう。
戸困の妻の前に西藤に会うのは、家族であるべき筈だったのだ。一方川下の面会は手厚い
内容だった。それは後に面会記録を見ても判る。汽仙は父親に会えなかった。それは、前
日に父親は移動転出したということだった。会えなかった話は後に見ていく。
雑居房に来て、1か月余り過ぎた。結局西藤たちは何処か海外へ運ばれるのは間違いな
いらしい。
5月18日西藤達4名と他から数名が廊下に呼び出された。
「今夕出発するから荷物をまとめて準備をせよ。」
この日は日曜日だった。翌月曜日、仁木の回答がなされたのである。このタイミングは正
確に把握するのは休日の為、誰も出来ない。そして、月曜日に回答も難しいものだった。
先になって吟味されても良かった話だろう。それは他の回答も、連続して移動転出後を、
見計らって出されていたのである。

西藤は列車護送の為駅に向かった。
「元気でしっかりやってくれ。」
「有難う貴方達も元気で最後まで頑張ってくれ。」
鳥鳩プリズンを出るとき仲間は激励した。
鳥鳩プリズの内庭で一人づつ、長国兵の出発前身体検査を受けた。庭の周囲には自動
小銃の引き金に指をいれて、高くかざして十数人が警戒していた。その中、検査後西藤一
行37名を、順次3台のトラックに積み込んだ。自動車に乗せられた西藤は夜の
天京駅に来たのだった。
天京駅を列車が滑り出た。ホームの時計は夜の8時30分過ぎを指していた。与越果に行
くのかと思った。
列車は走りに走り、翌日夕方、久連駅に着いた。
5月20日、久連港から船は出た。この後岳山のHMKへの回答が22日出た。仁木は
19日だった。更に農美の逮捕で重要な回答が23日出た。満永についての回答だった。
この3件は完全に連動している。示し合わせたように、何故何度も翌日等に回答するのか。
影の人物がいることを示している。
しかもこれらは別々の高志隊の問題だった。そして西藤も農美も何と、同じ船で運ばれて
行ったのである。

船中では経験のない辛い事が多かった。
しかしこんなことも有った。西藤が船中で最も悩んだのが煙草だった。護送兵の一人が
西藤たちを見て黒色の紙巻煙草をそっと持って来てくれた。
「これは自分の物だから将校に見つからないように吸え。」
此の時は実に嬉しかった。そのあとも無くなった頃をみはからって煙草を届けた。文字
通り地獄で佛の如く感謝した。
5月24日ワラデル号船中で
「この8名は銀海に於いて下船する。」
8名は東河4名と南方組4名である。西藤組と農美組が下りるのである。辻褄を合わせ
たように手配され、得体のしれない運命に弄ばれるのだった。

7 レッドポール刑務所

九虎に着いたのは対岸で、更に連絡船に乗り換えた。西藤は罵声を耳にした。中には「サ
タン」というものもいた。着いた島が銀海島だった。コンクリートの羊腸路を40分ばかり
進むと島の東南端に出た。正に別荘地帯のような風景である。その海に面した半島の一角
に低い城塞のような壁を巡らした煉瓦建築がそびえていら。
これがレッドポール刑務所である。
刑務所は長国租借地で銀海地区の唯一の刑務所で収容能力約3000名である。

第2回 取り調べ

「欧人の訊問をした事が有るか。」
「無い。」
「東河の警邏局長を知っているか。」
「欧人の警邏局長である。」
西藤の知らない事ばからいだった。
「知らない。」
「私の言う欧人の名前を知っているか、グリーンスレート・ニスデ。」
「知らない。私に関係のない人物である。」
悉く外時の関係である。西藤は外時に関したことが全然無かった。取調官は極めて横柄
尊大な態度であるが余り執拗ではなかった。実質的に西藤は事件の中心ではないのである。
しかし、先方は訊問の内容から外時の主任将校と間違えているようだった。そうだとす
ると、これを反駁するのに手間がかかる。当時の上官の証言が要る。それも上手くいくと
ばかりは考えられない。そして最も西藤が恐れたのは、安国人関係で適当に持ってこられ
はしないかということである。安国関係もラフな対応が目立った。東河関係の被害は欧人
に限るのだろうか、そうならば天下泰平である。西藤は今度の戦犯は此の辺が山であると
思った。
刑務所では囲碁将棋が出来た。明日からワーキングパーテイである。何処で何をするの
だろうか。ワーキングパーテイとは兵営の便所掃除、炊事場の掃除、ゴミ拾い、バタ屋、
土運び、石運び、道路掃除及び修繕、草刈、土堀り、地ならし、薪炭運び、耕地の整理、
倉庫の使役、錆びた食器みがき、硝子ふき、兵室掃除、ドブ浚え、壁塗り、荷物運び、雑
役一切あった。普通の生活でもここまではなかった。

兵の中にはこんな者もいた。
「俺は捕虜の気持ちはよくわかる。お前らは要領よくやれ。余り働く必要はない。」
西藤に極めて寛大でしかも上官の前でも決して過酷な労働はさせなかった。そかし反
対に長国将校の前ではことさら厳しく取り扱うものがいた。

そして、ワーキングは肉体的精神的苦痛の権化のようなものであった。
かくしてワーキングは6月5日~翌年1月31日迄243日、日曜日を除いて雨の日も
風の日も毎日続いたのである。
監獄での扱いが変わった。レッドポールにきて2ヵ月経ち慣れるころ、西藤たちの管理
が長国監獄当局に移管されることとなった。
新看守は言った。
「我々は3年8カ月の間、穂陣のため抑留されていた。その為著しく健康を損ねたものが
あるいだからと言って不合理な取り扱いはしないつもりである。諸君は獄則をよく守るべ
きだ。
兵隊式と違って、万事が細かい。取り扱いが報復的になって来た。
これまで兵隊式の管理だったが、純監獄式に改められた。その結果がこの様であった。
西藤は鳥鳩とは違う扱いに閉口していた。勿論例外もあったが大概厳しい内容だった。
監獄には「さそり」とあだ名される極めて陰険悪辣な長人看守がいた。もう一人は「狸」
と呼ばれる人物がいた。サソリとは違って親しみが持てた。
一方、ワーキングでも煙草の悩みは尽きなった。しかし、こんなことも有った。
西藤が官舎の付近の掃除をしていた。召使らしい安国婦人が西藤のそばを通りながら紙
に包んだものをそっと地面に置いてこれを拾えと合図する。拾ってみると、一片の菓子と
パンそれと別に紙に包んだ5,60本の吸い殻が入っていた。縁もゆかりもないこの
一婦人の行動には心から感謝した。
安国人の中にもこんな親切が時折あった。
今次の大戦でこのような配慮を受けた穂国人も多かった。そしてこのような関係の人間
には、戦争は違った感慨を持たせたのである。
長国は物資が極めて不足しているようだ。
大国と比べると非常な相違である。だから西藤たちに配る日用品でもなかなか支給して
くれない。この不足の中でやりくりしなければならない。

レッドポール刑務所に来て1週間目くらいであった。一同の演芸会が行われた。
銅澤中査が中心で実施。多くは歌であるが浪花節、物真似、都都逸、小唄、軍歌、流行
歌、詩吟、琵琶、歌等いろいろあった。
中でも銅澤中査の阿保の蠅取りと称する仕草は誠に堂に入ったものでやんや、やんやの
喝采を博した。最後は天京ラプソデーを合唱した。
その後演芸会は月に1~2回行われ、「沖ゆかば」を歌って締めた。

戦裁判とは

裁判の要領は次の順序で行われる。
一 被告氏名
二 裁判関係者の宣誓
三 裁判長開廷宣告
四 検事による起訴状朗読
五 検事側証人の証言開始
・宣誓・証言
・検事の主訊問
・弁護人の反対訊問
・裁判長の補充訊問
六 被告の主訊問及被告側証人の証言
・弁護士の主訊問
・検事の反対訊問
・裁判長の補充訊問
七 検事の論告
八 弁護人の弁論
九 有罪無罪の言渡し
一〇 判決

弁護士も付いたが、甚だしいものもいる。

「あなたがたは国を出るときは到底命は無いものと一度は覚悟されたものであろうから、
極刑になってもあきらめてもらうんですなあ。なかなか戦犯弁護はむずかしいですよ。」
唯一の命の綱とたのむ弁護人のせりふがこれである。

捜査の方法として主として用いられるのが首実検である。被害者と称する者を西藤たち
の前に連れて来て加害者は誰誰と指で指示させるのである。西藤たちの写真は事前に被害
者にみせている。裁判所でまごつかないためである。およそこんな首実検が果たして証拠
価値があるのかどうか、だれでもわかるのであるが、長国の戦犯裁判では証拠となるので
ある。
大変怖い話である。
こんな調子であるから、将棋でもやってくるんだね、どころでは無いのである。
一歩間違えば命は無かった。例え冗談で指さされてもアウトである。街の掲示板から名
前を覚えて、名乗り出れば、支援を受けられるし、作為的にすることも可能だった。
損害は賠償するような掲示だから、誰が紛れ込んでも不思議ではない。戦時における現象
はとても一言では言えない。そして、後々西藤は此の時の苦しい思いが、脳裏に深く突き
刺さったままであった。相当の期間続いたのである。勿論歌門にも一生の思いとなり、繋
がっていった。

被害者を広く次のように募集していたのである。
「此の写真の主に不合理な取り扱いを受けた者は届け出よ。その被害の程度によって損害
を補償されだろう。」
これは西藤が勤務した場所にその写真を公示して広く被害者を募集していた。
東河も梅江も、刑事は可能だった。都市であったし、裁判官も選び易い環境に有った。
過激な経験をした者は何を訴えても通ってしまう傾向もある。戦犯調査官を探すのも
容易なことだった。
西藤、農美とも、共通する話、虐待懸念であった。そして虐待が無かったことを証拠づ
ける事でもあったが難しかった。首実検は思わぬ結果を招いても仕方ないものだった。
東洋人と西洋人の違いもあるし、戦争に対する主観は各自違うし、弾みで何が起きても
不思議ではなかった。
戦犯調査官は東河を熟知した者であったり、あるいは事件の直接関係者で有るという場
合は裁判の進行に都合がよいわけであった。事件調査は、真実よりも西藤たちが勤務した
当時の公私の人気が、非常に重要な影響を与えた。西藤も農美も掛る困難を乗り超えたの
は神の加護があったのではないだろうか。

戦犯の人心 西藤曰く
『私はかつて軍隊で立場上、上下関係,職務上の位置にあった上官、部下、同僚、そして
人を裁く裁判官すらもすべて人間であると思った。今まで教養とか職務とかで包まれてい
た人間もそれらがすべて取り払われた時、ほんの昔ながらの素朴な、そして本能といわれ
るもののみが残った正真正銘の人間だけであった。
これが運命のぎりぎりの場に立たされた人間に対する私の感じである。』(原文ママ)

西藤はこの経験からやや、寂しい考えを捨てきれなかった。それは法律に対する灌漑で
ある。歌門が法律の学習をすることに難色を示したのも、この辺に基因していた。西藤は
否定的という簡単なものでなく、激しい拒否をしたのである。恐らく法を曲げられたとい
う程度の物でなく、全く信じられない深みに陥られたのではないだろうか。

遂にレッドポールキャンプの生活が終わりを告げるときが来た。
1947年も暮れて翌年1月21日朝監獄を出ることとなった。

「お前ら4名の者は釈放されることとなった。明朝か明後日兵隊が迎えに来るはずだから、
いつでも出発出来るように荷物をまとめて待機せよ。」
まだ俄かには信じられないものだった。だが同僚も今度こそ本物だろうと言っているも
のがあった。
しかし喜んでばかりいられないことが有った。極刑囚との別れが言葉に表せないほどと
ても辛かった。銅澤中査との別れであった。前年10月30日に極刑宣告され、1948
年2月19日処刑された。西藤と別れた29日後だった。
銅澤は目で知らせた。西藤はこの一瞬を一生背負って行くこととなった。
中査は演芸会などで率先して皆の気持ちを引き上げた。後に銅澤の部下は、何の問題の
ない隊長迄極刑にされたと言った。銅澤は銀海の2代目の隊長だった。歌門は金丘でこの
無実だとの話を聞いたのである。旧陣の潜水艦の武敏士官が案内してくれた。

「銅澤さんは何等責任が無い筈であった。」
歌門は心の痛くなる話を銅澤の部下氏から生に聞いたのである。銅澤は前任の賢間隊長
を手ひどく処断していた関係から、その影響を受けた可能性すらあった。
そして農美も西藤と同じ経過を入所以来辿った。只農美には更に辛い経過が待っていた。

8 帰還

3月8日監獄から直接釈放される者10名を加えた26名、法廷から帰る弁護士、通訳7
名、回送船の船員37名と共に総勢70名、が乗船。西藤が行きに乗ったワルデラ号である。
往きも帰りも偶然同じ船とは奇妙なものである。船の総指揮官は鎌田口中昇であった。鎌
田口は、南の監獄に縛られていた。4日半の航海が始まった。昨年3月19日から12ヵ月
実に350日であった。何と、帰路農美と西藤は同船だった。
これでいよいよ長国の手をはなれるのである。銀海島を離れるとき戦犯極刑者を水葬さ
せたというところで、島に向かい皆黙祷した。

いよいよ船は穂に帰って来た。
穂国に帰り懐かしい人達に守られて原島に着き、さらに団平船で相島に迎えられた。内
地での一夜は相島で送られた。相島は先の大爆死の多くの被災者を弔っていた。西藤は更
に辛い経験を重ねていったのである。
明くれば1948年3月13日
午後2時30分原島発
夕暮るる6時30分虎野駅に定刻より1分遅れで、着いたのである。

9 天京へ

忍び寄る黒い影は西藤を徐々に蝕んで行った。戦争後、命のある将校でも西藤のように
苦しむこととなったのは、誠に不運であった。
西藤が錦条に帰り、暫く家にいるように勧めたのは、満寿賀だった。
「少し休養を取ってください。」
「そうだな。」
錦条は飛村から近く、士の母カナは亡くなっていた。お墓参りをして、ともかく体調
を整えること、精神的にも肉体的にも、狭い田舎暮らし、休んでいても西藤はどこか違う
と感じていた。時間が経っても、どこかすっきりしないのは何故か。

やっと手掛けたのは大工仕事だった。
木材は正直である。作業は、型に嵌まった手順が必要である。木材は正直に答えた。材
木から玄人にも負けない木工品を作った。
兎も角生計を立てたい。子供に教育が必要、それにはまず健康が第一だ。その一方でタ
バコは辞められない、甘い物もやまない。
満寿賀が甘いものダメ、餡子も駄目、魚は白身に限る。一方士はステーキOK,餡子大
丈夫、牛乳平気である。対照的な二人だった。それは育ちに影響されていた。

西藤は天京に出て生計を立てようと考えた。
天京に出た西藤は、信頼する旧陣の将校から紹介を受け研究会に入った。心は晴れない
が、以前上天した時とは全く違う環境だった。
給与は良くないが、ともかく一縷の望みは仕送りが出来る事である。家族は汽仙が華都
から帰り、紆余曲折を経たが、臨時教師になっていた。徐々に生活のスタイルが決まりそ
うだった。汽仙は錦条に基盤をつくり残らざるを得ない。
暫くして、妻や他の子を西藤は天京に集めた。天京に5名が揃う、錦条には汽仙が残り、
長女は十日市に残った。
歌門の上天は夜行列車だった。士が往復した路線、汽仙が父親に会いに走った線路だっ
た。歌門は深夜に通過した駅が奇妙に懐かしかった。それは前に名前を聞いて知っていた
ので、そう言う気にさせていた。
即ち港辺、州間、赤位である。ここは全国的に有名な海岸線である、一度は見たい景色
だ。が今は夜だった。嘗て遷都の経験もある街もロマンがあった。列車は人っ気のないホ
ームを疾駆した。少しでも外を見たいが深夜の為、心眼で感じるだけだった。
これから始まる天京の初めての生活を目の前に、少年には無限の可能性を与えようとし
ていた。その前夜祭であるには、余りにも静寂過ぎた。

遂に翌日、天京に着いた。歌門に数十年に亘るドラマが待っていた。西藤はゆっくり妻
と過ごす時間は、これまでも余り無かった。忙しかったし、高志の時は仕事に没頭してい
たからだ。
しかも官舎は広く歓談どころではない。西藤は一人で思考を巡らす日々だった。
そして戦後の夫婦の会話は、子供達も大きくなり育った後にゆっくりできた。
しかしそこにはなかなか行き着かなかった。西藤の心に恐怖を抱かせるのは、銀海での
入獄の経験からだった。
夜中に魘される毎日になった。深夜を過ぎるころ、次第に大きくなる唸り声、満寿賀は
いつも宥め役である。いつしか歌門も耳にした。段々大きくなる声は最後には叫び声とな
り、止めなければいけないと感じさせた。相当苦しい思いをしたのだろう、
それは、法廷で証人となった住民が西藤を指さすことで、極刑を意味した。この証人喚
問は長く、士の脳裏を苦しめた、どす黒い魂が駆け巡るのである。家計はと言えば、少し
改善したかに見えた。しかし、上り坂になるのは、まだずっと先だった。
ある日、戸困から西藤に電話が有った。
満寿賀は西藤に声を掛けた。
「もう、電話に出ませんか。」
高志隊だった戸困から電話で話したい事があったようだ。それは戦いが終わって10年
は経過しいた。
いつしか西藤はトイレで壁に頭をあてる日が始まっていた。その壁は黒く丸い跡がつい
ていた。黒く煤汚れていた。士が一人で苦しむのはこの場所しか無かった。人前では見せ
られない。歌門は黒丸の跡を見るたびにその姿を連想しつつ、一体何が有ったのか、一層
一連の経過を調査したい気持ちになった。しかし、昔の事で手の施しようがない事と、高
志隊の資料は極端に少なかった。というより殆ど無かった。そして虚しい日々が果てしな
く続いた。
士はトイレの中にいる時間は、長くなることが屡々だった。その解決には時代が変わら
なければならなかった。
士には心に隙間が出来ていた。黒い影の連鎖、現実からの逃避だった。そして伴侶以外
に目が行きかけていた。満寿賀も後に察知したようだった。
歌門は10歳を過ぎた頃から、元気のない士をじっくり考察し始めた。何故寡黙な
父なのか、何を考えているのか、過去の栄光を考えているのか、子育てを考えているのか、
政治が心配か、答えが出る暇も無かった。ある日の出来事までは。
その日、歌門に父親の書き置きが有るとの話が伝わった。何故どういう経過でそうなっ
たのか分からない。
それは士の『追憶』の出現だった。
真実の記録〃悪夢350日〃とある。

歌門は満寿賀から戦前、戦中大変だった事を耳にしている。その原因の一旦が判る。何
故錦条で苦しい生活を送る羽目になったのか。戦争が悪いのか、運命か人災か、人の心の
持ち方がいけないのか。歌門も生活の苦しさは嫌というほど痛感した。貧乏はこれなのだ
と、どやしつけられた。
しかし、目の前のやらなければならないことは当然として、或いは貧乏は仕方ないとし
て受け止め、進んでいかなければならない。本当に筆舌に尽くしがたい苦労が歌門に襲い
掛かってくるのは、直ぐだった。
その一方、昔のことは徐々に歌門に話した。
その中で歌門はどうも変ではないかと感じることが有った。何か鮮明にならない。そし
て疑念は膨らんでいくのである。その解決に士の記録は指針を与えた。何故戦犯なのか、
どのような経緯からそうなったのか。まだこの時は士の資料しかなかった。士も見に覚え
のない事から逮捕されたと、『追憶』でいう。
残念なのは、質問が出来ない事だった。
そして逮捕は何の為だったのか、全く判らないのだった。

10 将棋戦

士の楽しみは将棋だった。他の趣味は、ビリヤードだ。杉元が説明して判った。安国
の新都時代、自分用の道具キューを店に置くほどの熱心さだった。新都には戦前も赴任し
ていた。
西藤は歌門と将棋の駒落ち戦を楽しみにしていた。歌門は定跡で対抗した。士は大駒を
落していたが、飛車落ちはまだ良かったが、角落ちとなると西藤も力強かった。それで
も何回か、半香まで行った。(半香は平手に近い)
歌門にしてみると、士との闘いは別の意味が有った。主に労いが大きかった。将棋には
不思議な魅力が有った。それは戦地の陣人が、国を忍ぶのに素晴らしい道具だった。駒は
西藤たち兵隊の心の拠り所だった。本当に穂に生まれて来て良かった。しかし、それは生
きて帰国して初めて実感することだった。
西藤はこよなく将棋を愛した。何度国で将棋を指す夢を見たことか。歌門は将棋を指す
ことで、父の真のねぎらいになったと感じた。
いくつか映画も案内した。それは小さい時父親が連れて行った、チャンバラの映画のお
礼返しだった。一方将棋は不思議な力を感じさせるものと感心した。そして二度と戦争は
してはならない。この事を駒は教えていたのだ。

11 満寿賀の闘い

 満寿賀は無欲の勝利を得た。それは結果で示した。本来は子育ての最中に、夫を取られ、
それが冤罪では我慢出来ない話であった。満寿賀の心は、歴史を紐解いて初めてわかるの
だった。
 西藤が高志隊の隊長の時は、戦争との兼ね合いから、苦労も多かった。しかし、満寿賀
は一切愚痴を言わなかった。
 満寿賀は5人の子供を育てたのが自慢だった。そして自分が長く生きることで、子供た
ちの指針になろうとした。好きな食べ物は酢のものだった。錦条では野菜で育った為、贅
沢はしていなかった。魚は脂ものが駄目だった。白身の魚は喜んだ。
西藤は陣で頑張るのが子供への指針になると考えた、昇格もその一つだった。
 しかし満寿賀は簡単に生きたのではなかった。お腹の調子を崩すことが多かった。弱い
と言えば風邪をよくひいた。歌門も苦い思い出がある。学年試験の度、健康を損ねたのが
満寿賀だった。昔は医師の診察の替わりに、ムルチンの注射が最高の薬となっていた。そ
してある時、胃に潰瘍ができた。良性だろうとの診断だったが、満寿賀は胃を殆ど切除し
た。万が一を考えての判断だった。手術は成功した。しかし、腸を壊し下痢が止らなくな
り、その治療で問題が起きた。下痢止め薬である。
 スモン病に罹患した。
 歌門は何故だ、残念で仕方がなかった。
 不治の病である。スモンはキノホルムが原因だった。下痢は止まったが、足に痺れを残
したのだ。医師は一生治らないと、くぎを刺した。両脚の浮腫みは治療を許さない。立っ
ての歩行を困難にした。歌門は一生治らないと医師から聞いた時、悔しさが倍加した。何
故これほど苦労した人間に悲しみが与えられるのか、とても苦しい思いをした。何とか人
並みに寿命を延ばしたい。本当に苦労した人なのだ。楽しみも控えた人生ではないか。5
人の子を育てたではないか。士と二人でゆっくり旅行する機会も無かったではないか。成
人する子達を楽しみに、これからという時に、どうしてくれるのだ。
 神が幸運を下すことは全く期待できなかった。それは運命というものだったから。不自
由ながら満寿賀が愚痴一つこぼさず生きたのが、子供達にとっては幸せだった。

 
12 西藤の死

西藤が死んだ。歌門は死に顔を見て、心で言った。やっと楽になりましたね。正に西藤
は心安らかな顔をしていた。タバコの好きな父は、肺 癌の心配或いは高血圧いろいろ心配
は尽きない人生だった。水虫、痔など、小デパートの如く悩みは揃っていた。しかし老衰
に近い死だった。傘寿を迎えていた。
西藤の人生は、事件事変の近くを歩いたものだった。幸運も有るには有った。
しかし、冤罪は一歩間違えば最後だった。西藤は、体力は人並み以上のものが有ったと
思われた。囲碁、将棋、剣道重剣術等々武術も有段で計十段以上、ビリヤードに段位が有
れば取っていただろう。一句残した。

ふりとせば 部下とし仕ふ 上官も

並の人とは なり果つるかも

西藤の嬉しかった経験は、2代前の先主即位が 華都であり、警備を選抜高志隊に
て実施、参集の誉を得たことだった。

13 歌門と汽仙

歌門は天京で思い出の地を4つ持った。
第一は道岩坂を経て渋台駅に出る場所であった。有名となった秋田犬と同様、別種の子
型犬であるが飼っていた。そこは「湖畔の夜戸」の歌手の家だった。

第二は天京中心部大きな教会を下った所の住まいである。今でこそ中心の中心であるが
当時はまだ長閑な一面もあり、書店街も近かった。夏の須田川花火は屋上から見えた。果
てしないロマンも悲劇も感激も大事件も学生闘争も見下ろして来た協会であった。

第三が真塾区である。ここは有名な「湖畔の夜戸」の作曲者の住まいの隣だった。近く
にテレビ局が出来た。官立の第一病院はすぐ隣だった。

第四は、今度は進先組の副長の故郷だった町であった。

ある日歌門、汽仙。満寿賀が話していた。そこは真塾区だった。

歌門「話を始める前に、先ず戦犯について考えてもみよう。」
満寿賀「どういうこと。」

汽仙
「事件が有った場合、下手人と命令者の何れに責任が有るかということ。」
歌門
「穂の場合かなり命令者も罪を問う。時には下手人以上だ。」
汽仙
「長国大国では、下手人に重い責任を持たせているようだ。」

歌門
「どちらかということであろう。」

汽仙
「下手人が実行するかしないか、連合国と穂で受け止め方が違っているかも知れない。
嫌で辞められるのか。穂のように命令が絶対で、服さないと逆に処罰される。穂と
外国で環境が全く違うようだ。」
歌門
「確かに穂と他国の違いは有る様だった。ただ上司が部下を庇って自己の責任である
と主張したケースでは、意外と上司の罪も、部下も軽くする場合が他国ではあった
様だ。」
汽仙
「結果だから何とも言えないが、人の為と思って、言い出すことは難しい。一歩間違
えば、はいそうですか、そこで処刑されてしまうことも有りうる。」
満寿賀
「戦犯を考える時大事な点だわね。」

歌門
「結論を先に言うのおかしいが、西藤は冤罪に悲憤の血涙を呑むと言っている。」
満寿賀
「苦しい話だわね。」
汽仙
「次に父上の逮捕時の経過を見てみよう。」
歌門
「はい。」
満寿賀
「その前に冤罪なら何の為、そして本当に冤罪が解明できるの?」
歌門
「そうですね、何から話してよいやら。」
汽仙
「結論は正論になっているかどうかだろう。」
満寿賀
「知りたいことが先に説明されれば、分かりやすいですね。」

先ず逮捕時の経過から見よう。

三杉は逮捕時の経過を歌門に手紙した。その文面は複写したものであった。内容的にも
信憑性が低かった。西藤の「追憶」など想像も出来ないだろうから、無理はない。自分の
文面が全てだと宣伝したかったのだろう。
それは西藤の死後歌門に送られてきた。そして満寿賀の話とも、完全に違っている内容
だった。

歌門
「三杉は西藤の妻の里の錦条に、2回行ったと言う。逮捕前に迎えに行った。それと
逮捕後に荷物を届けたという。」
汽仙
「2回というのはあっていますか。」
満寿賀
「いいえ、三杉さんは1回だけで、荷物を逮捕後持参下さっただけです。」
歌門
「勘違いでしょうか。こんな大事な話を間違えるはずは無いのですが。」
汽仙
「人が逮捕される時、記憶喪失が有れば別だが、間違う筈は先ず無いな。」
歌門
「これについては杉元も、三杉の勘違いという。」

歌門は逮捕の経過に深い関心を持った。それには、士の「追憶」「手帳」と杉元のメモと
三杉の手紙は大切な資料だった。

満寿賀
「三杉さんの西藤逮捕の時の話はどうなの。」
歌門
「西藤と多枡邸に着いたら、そこに警邏がいた。三杉は虎野駅から西藤と同行し多枡邸に
着いたと言います。」
満寿賀
「それでは私たちが見送ったことになるのね。」
汽仙
「奇妙だな。」
歌門
「警邏は直ぐ追いかけた。西藤が着いて2日後に逮捕した。」

以前、健在だった三杉に歌門は面談に行ったことが有った。玄合灘の島に住んで居た。

満寿賀
「どんな様子だったの。」
歌門
「すでに杉元から話があったのだろう。お茶も出なかった。言葉も少なかった。」

杉元は、三杉が高齢の為、兎も角穏便に済ます事を願っていた。と同時に昔の話を蒸し
返しても何にもならない、という考えだった。

歌門は訪問時、三杉にその場で追求することはしなかった。勿論追求するために訪問し
たのでもなかった。議論し西藤と三杉の友情を傷つけたくもなかった。
三杉は岐川に近い島に住んで居た。故郷でもない島に何故住んでいるのか不思議であっ
た。高志隊を早く退官した三杉に当たり前の話を続けることは無理だった。
場合によっては、島に住む理由に関連してくるかもしれなかった。西藤だけでなく、梅
江でも冤罪の可能性が有ったのであるから、話はとんでもない方向に行く可能性が有った。
梅江とは中部の中心都市だったが、ここも大疑惑があったのだ。

三杉の錦条2回訪問説は士の「追憶」を否定することだった。三杉は歌門にこう言った。

「士に似ているね。」
夕刻も迫り、会話も殆どなく三杉に別れて港に出た。三杉の妻が見送りに来てくれてい
た。あやうく歌門とすれ違うところだった。
出発間際に会うことが出来た。妻は目に涙が一杯だった。恐らく三杉から何か聞いたの
だろう。妻の身悶えするような悲しみ方は尋常なものでは無かった。

妻の振る手が次第に遠くなった。渡して呉れたテープは歌門に初めて港の別れを経験さ
せた。妻の渡した白いテープは最後に歌門を強く引っ張った。力に限りのあるテープであ
るが、一瞬引き戻すのではないかとさえ思わせた。これまで多くの人は波止場でこのよう
な別れのテープの強さを経験したのだろう。テープは切なさを思いっきり人間に与えた。や
がて切れたテープは船と岸壁の間に落ちた。
歌門はこれが海の別れというものだろうと辛い実感を持った、。
悲しみの中、船はゆっくり出て行った。島は小さくなった。しみじみと波止場の別れは
陸の別れと違う悲しみを感じさせた。
三杉の妻は西藤の戦後の問題と、死亡している西藤に関する事実を聞いていたに違いな
い。
暗くなる島は暮れなずむ前の、語らいをそれぞれの人に暫く持たせようとしていた。

汽仙
「そうな、それくらいで良かったのではないか。」

三杉は詳細を妻に勝ったのかもしれない。しかし、今歌門達が語っている事実は、三杉
が知らないものが多々あるのだった。

歌門はその後かなりの時間を掛けて調べ続けた。事実関係の解明は大変難しい問題だっ
た。この経過を見て行く。

満寿賀
「三杉さんは献身的に尽くして下さったことも忘れないようにね。」
歌門
「はい。」
満寿賀
「只錦条に2回来られたことは無いのよ。」
歌門
「そうですね。」
満寿賀
「1回荷物をもってこられたのよ。」
歌門
「父上の逮捕後ですね。」
満寿賀
「三杉さんはなんて言われているの。」
歌門獎
のように言われています。」

三杉から歌門への手紙
『冠省
お母さんの書面、荷物を運んだ件だが。
小生リュックを持ち歩いたのは本人が引っ張られた後日、戸困に頼まれて大獎塾から
戸困の別宅迄。錦条にはテブラで行った。戸困も誤算があり余分な手配をしたのでは
ないかと判断せざるを得ない。』

歌門
「話しが事実と違うようです。」
満寿賀
「西藤の荷物を別宅まで運んだ。その後、テブラで錦条に来られたと言われるのね。」
汽仙
「荷物を置いて来たのではなく、それを持参してくれたのだったな。」

歌門
「手ぶらでないと錦条2回訪問ができないようだ。」
満寿賀
「西藤退避後に来た。それはテブラできたと言われるのですね。」
歌門
「そうです。2回目は荷物を持って来たと言いたいのでしょうが不明です、訳が分か
らなくなっているのでしょう。」
満寿賀
「確か荷物をもって来られて、面会が出来るようになったら、連絡する。そのようだ
ったわね。」
歌門
「そうです。その後の連絡で汽仙さんが行ったのですね。」
満寿賀
「この辺の話は、錯乱されたのかしら。」
歌門
「そうですね。私は知らないから自己流の話で、手紙されたのかも知れません。」
満寿賀
「一寸待って、面談の話をよく思い出さなければいけないわね。」
汽仙
「そうでしたね、確か面談できるようになったら、連絡するということでしたね。」
満寿賀
「皆真剣に聞いていたけど、直ぐは出来ない感じだったわね。」
歌門
「問題は、ベールの婦人の面談日があった。それを錦条に連絡することはなかった、
という事実です。」
満寿賀
「戸困夫人が会ったのはいつなの。」
歌門
「入所後20日経って雑居房に来ました。その2日後、22日目に面談でした。」
汽仙
「そうすると次の月も、様子は判っていたな。」
歌門
「そうですね。」
汽仙
「ウーン困った話だったな。」
歌門
「どこかおかしい。」
汽仙
「しかも私が上天した時、三杉を呼んでいた。それが昨日出発したとはな。」
歌門
「巧妙に仕組まれていたと言ってもいいかどうか、吟味したいですね。」
汽仙
「あまり攻めるわけでは無いが、それと西藤の荷物を下宿先から、戸困の別宅に運ん
だのは確かだな。」
歌門
「別宅で中身を確認したのでしょう。しかも三杉は荷物を置きっぱなし、曖昧な話で
す。」
汽仙
「一方的に責められるべきではないが、真相解明には付き合ってもらおう。」
歌門
「士と言わせてもらうが、『追憶』では冤罪だと言っている。」
満寿賀
「そう決めつけるのはどうなのですか。」
汽仙
「戦犯でもそうだったが、冤罪にも2つの場合がある。1つは犯人が取り違えられる
場合、2つは犯罪そのものが存在しないケースだ。」

歌門
「詳しく検討しよう。」
汽仙
「戦勝国は東河高志隊を調査しても不思議ではない。」

歌門
「ただ経過が大事である。士はその為に記録をのこしたのではないか。」
汽仙
「事実関係だけで冤罪の検討が十分に出来るかな。」
満寿賀
「そうはっきりしないと無理ですよ。」

満寿賀は大戦に対して愚痴は一切言わなかった。そしてかなり先を見て、子育てをし達
観していたフシがある。

満寿賀
「冤罪だとするば西藤は、間違って死刑か終身刑を受けるのも避けられない事ですよ。
慎重にね。」
歌門
「はい。」
満寿賀
「それと冤罪は全くないという観点から考えてみては。」

ところで「追憶」は戦後書かれたものだが、日の目は見なかった。汽仙はそれを
『父の幾山河』と言っていた。今から思うに最初子供には見せなかった。
はっきりと冤罪と言っているし、子供にどのような影響が出るかを心配したのだろう。
しかも関係者は生きている。西藤のことだから自己を犠牲にしても人を守るところが
有った。
ある意味ではいじらしくてしょうがない話である。
「追憶」は記録された後、暫くは秘諾された。

ただ歌門は記録そのものが破棄されなかったことを感謝した。歌門は冤罪が有れば家族
に影響を与えていると思った。無ければ生活が違う方向に推移したと考えた。
過ぎたことは仕方が無いが許すわけにもいかない。
最も大切なのは負けの人間にならないことだった。

この様に汽仙の30歳前後、「追憶」は伏された。歌門の30歳頃には西藤は喜んで
見せた。両者は16歳の差があった。
汽仙が、やっと「追憶」を読んだのは1965年の頃だった。暫くして大変驚き、戸困
に一言聞きたい心境になっていた。それより前何かで、歌門が疑問を指摘した際、汽仙は
古いことだからと受け流していた。そのことから後になって、初めて「追憶」を読み、また
自分の人生をじっくり考えていた頃、事実関係が判って来たのか、激しい怒りになった
時期が有った。汽仙が聞いた。
「戸困はどこにいる。」
「戸困はもう死んでいる。」

今の話し合いに戻る。

歌門
「それでは、事実を見ていこう。犯罪になるのか、犯人がいるのかどうか、見て行こ
う。」
汽仙
「そうだね。」
歌門
「確かに東河は3大拠点の1つだった。南部の銀海ではいち早く逮捕が始まった。こ
れは事実です。」

銀海高志隊は終戦と同時に踏み込まれた。勢いから殆ど無実の幹部迄極刑にしたといえ
る。それに対して中部の梅江、北部の東河は、悪く言うとでっち上げが成立した。何故そ
うなったのか調査と吟味が大事である

汽仙
「その通りだ、東河を確り確認しよう。勿論戦勝国の特権を格別に認めるわけではない
が。」
歌門
「梅江も安国や長国の意向により、流れに任されて行った傾向がある。梅江の農美才造
が逮捕されるいわれは全くない。これも吟味されてよいものだ。この2つは冤罪の可能
性があった。」

梅江の農美才造と西藤は同じ冤罪経過を辿っていた。従い理不尽なものだった。これは
歌門が東河を調べるうち、どうもおかしい、何故こんなことが起きるのか。他にも何かあ
るのではないか。
もしかすると本当にあるのではないか。その疑問から推理し、遂に発見したのだった。
進める内に、事実関係が判明し唖然とした。
なんと梅江に同じような傾向があったのだ。

東河

西藤は編成表で逮捕
編成表の作成者は誰か、発見過程が疑問で冤罪の可能性が高い。

梅江

幹部責任者は不在のまま、部下を逮捕し進めた。激しい恣意がある。冤罪の可能性は、
100%以上だろう。

銀海

終戦時に早速逮捕者を出した。隊長は2代に亘り責任を取らされた。

銀海の高志隊員に歌門は後に会った。その時、
隊員は語った。
「銅澤隊長は一切責任が無い。ところが最高刑を受けさせられた。」
歌門は辛い気持ちになった。

銀海が終戦と同時に逮捕者を出したのに対して、西藤は1年4カ月経て逮捕された。何
故1年以上も掛かったのか、理由を徐々に見て行く。

汽仙
「そうだな、梅江と東河に似たような冤罪が有るとすれば、偶然の一致では無いな。」
満寿賀
「言いたいことは判りますが、話を続けて。」
汽仙
「東河で最も無理な逮捕であったと考えるところは。」
歌門
「西藤は東河の特策科長ではない事、責任者ではないからだ。」
汽仙
「三杉が、戸困に何も関係ないから、西藤は進んで名乗り出たら、と言われたね。」
歌門
「そうなのです。ここは編成表で再度確認したいですね。」

汽仙
「関係が無いものが、出て行くとほど切迫したのかな。」
歌門
「必要な範囲でなら、まだ考えれますが、幹部の問題であり、精査が望まれます。」
汽仙
「そうだな。」
歌門
「戸困は西藤が特策科長の時のことで、と話しており三杉が聞き逃さなければ、変だ
と感じている筈だ。」
汽仙
「かなり異常時の会話として考えてみよう。」

満寿賀
「戸困さんは、特策科長と言ったの。」
歌門
「そうです。それは三杉さんが私へ手紙に書いて送っています。」
満寿賀
「勘違いしたのかしら。」
歌門
「考えにくいです。そして関係のない者が進んで名乗り出るべきでしょうか。」
汽仙
「そうだね、強制的に逮捕されてしまう可能性がかなり高いな。」
歌門
「戸困が三杉に西藤は何処にいると聞いた。三杉が答えた後、確認し次の逮捕手配に
移ったのだろう。そして川下の逮捕手続きに入っている。それほど西藤は大事だったの
だろうか。」
汽仙
「相当大胆な手順だな。」
歌門
「川下の逮捕の時、戸困が関与したとすると、とても傍にはおれなかっただろう。」
汽仙
「川下は丘陣師校の先輩でもあり、正当な花池が判ってくると、一連の流れが壊れる
な。」
歌門
「川下には隊長として、花池が責任者と理解出来るので、軽く感じたかも知れなかっ
た。自然に分ると感じた可能性がある。西藤が鳥鳩でやっと話すことができたが、
あまりよく判ってなかったというのが表している。」

汽仙
「そうだな、更に上層部まで名前が出て来るので、様子を見るしか無かっただろうな。」
歌門
「川下は恐らく編成表だけではないと理解したのかもしれないな。」
汽仙
「西藤が鳥鳩で、川下と少し話をした内容で大事な点は。」
歌門
「やっと話したようです。川下が良く判っていないと感じたようだが、かなり強く自
分には関係ないと確信していたのかもしれない。」

それと同時に、責任者が西藤と察知していた可能性があった。

汽仙
「それと、川下の面会記録は実に丁寧にされていたね。」
歌門
「そうです。西藤や農美また由斐の記録とは雲泥の差があります。というより3名に
は面会記録が無いのです。」
満寿賀
「えっ、西藤の面会に戸困さんの妻の面会記録が無いの。」
歌門
「有りません。不思議です。」

川下は例え身代わりでも、責任ライン上でどう扱われるか分からなかった。ただ、西藤
を主務者にしていることはかなり高い確率で知っているのだった。それは西藤の面接順の
話で判明する。

汽仙
「最高司令官水町の名前を、川下が知った時、筋違いだと理解しただろう。」
歌門
「川下といえども、銀海に連れていかれるのはどうしようも無かった。」
汽仙
「銀海に出た後、私が西藤に会いに行ったのだな。」
歌門
「そうです。言いづらいのですが、昨日出発したと言われたと思います。」

歌門は満寿賀から、昨日出発したと言う話を前に聞いていた。

汽仙
「そう言っていた。」
歌門
「昨日であれば、正確には昨夜となる筈です。」
汽仙
「それで。」
歌門
「前日夜の事が、兄上が面談に行った次の日、その事を答えられるでしょうか。」
汽仙
「難しいな。」
歌門
「本当に昨夜なら、夜の列車同志、天京中屋太閤線ですれ違っていたのです。」

汽仙
「確かに情報が出来過ぎているな。」
歌門
「心配な事が有ります。面談を実施すると困ることが有ったかもしれない事です。」
汽仙
「というと。」
歌門
「一寸でも冤罪の様子が判ってしまうと困るわけです。」
汽仙
「考えたくないがそうだな。」
歌門
「奇妙な話は他にも有ります。」

汽仙
「なんだい。」
歌門
「汽仙さんが行く前に、戸困さんの奥様が面談に行っています。」
汽仙
「そう記録にあるな。」
満寿賀
「西藤は戸困さんの奥様が来てくれたと書いていたわね。」
歌門
「そうです。」
汽仙
「まてよ、戸困の家族は、天京にいなかったのではないか。」
歌門
「住まいから何回か乗り換えてくれば来られるが、ダイヤから見てとても日帰りは出
来ません。」
満寿賀
「泊まられたでは。」
歌門
「疑っているわけではありません。しかし下田の家は無理でしょう。女性の一人住ま
いですし、まして面接のため来ましょうか。或いは旅館を取ってまで会いに来まし
ょうか。」
汽仙
「確かに家族を呼ぶ費用も無いと言っていたね。」

歌門
「西藤は訪問した戸困の妻はベールを被り顔はよく見えなかったといっていた。」
汽仙
「世間話で終わったと行っていたね。」

この一連の流れは、後に杉元に一部だけ質問したことが有った。杉元は答えた。

『今更過去のことを言っても仕方あるまい。名乗り出たところで、この期に及んでどうし
ようもない事だ。問題がこじれるだけだろう。』

真実を求める話であって、人や国を攻めているわけでは無いのだ。しかも長国に問題が
あるかどうかも分からないのだし、言いたい事すら決まらないし、正確なことを知りたい
のだ。

そして吟味したいことがあるのだ。
杉元のこの手紙が来た頃は、まだ証拠は殆どなかった。

汽仙
「愚痴を言っているのではない。事実の確認であるし、情報の整理である。」
歌門
「実際の事なら、自首を進めることもあるでしょう。」
満寿賀
「それは判るけど、西藤は少し違うようね。」

歌門
「そうなのです。行き過ぎの感じがしてならない。」
汽仙
「途中で逮捕とか、自分の処へ連れて来てくれというのもおかしい。それ以外にも変
なことがあるなあ。」
歌門
「名乗り出るのを三杉に依頼した。その一方で逮捕手配を2か所以上にしている。
この点はどうしたことか。」

確かにその通りだった。岳山など住所照会をしていたのは、当局は事実確認と逮捕も辞
さない覚悟でしていた筈であった。
西藤が本当に必要なら、住所照会がされるのだ先だった。自分の処に連れて来てくれ、
これは作為が非常に強いものだった。

汽仙
「確かに逮捕手配した。自己保全の為ではないかと思う側面もある。しかし流れから
やったことも検討しよう。ただゆっくり連れて来てくれとか、直ぐ逮捕手配をする
とか不思議だな。」
歌門
「それは逮捕の切掛けの編成表だけではない。詳しく事前に話をHMK側に伝えてい
る疑念が拭えないことだ。」

逮捕は4名だった。責任ラインの高官には、逮捕状に Forfar Rosd jail とある。(注2)

歌門は意訳として、罪には程遠いと解釈した。そうであればどいうことだろうか。逮捕時
に結果のようなものを書いてどうするのか。

そして逮捕後のこの者は、責任ラインには無い質疑となっている。寧ろ西藤が責任の筆
頭になっている。汽仙は西藤が何故主務者なのか非常に強い疑問をもっていた。
それは何等かの誤った説明を事前に相手側に話していれば、解決する話だった。

汽仙
「戸困は警邏庁に出入りできるな。」
歌門
「通常追放者は入れない。」

汽仙
「何故出来たのか分かるか。」
歌門
「西藤の一件は、チャンスだった可能性は有る。」
汽仙
「もしそうなら、長国の関係として、大国に持ち込んだかもしれないことだな。」
歌門
「その場合両天秤を掛けて、駆け引きが出来る。それは保身の為の、最高の材料だっ
たろう。」
汽仙
「西藤が戸困に逢っておきたいというのは、良くわかるな。」
歌門
「逮捕の手順は正に高志で行われる方法そっくりだった。」
満寿賀
「西藤が責任者と勘違いされる訳は。」

確かに簡単に西藤が主務者とは判断されない筈だった。

歌門
「偶然発見された、編成表なら西藤は責任者にはならない。」
満寿賀
「それで。」
歌門
「編成表が作られたか、口頭で何等かの説明を加えた可能性がある。」
満寿賀
「それは困るわね。」
汽仙
「その実物の編成表が出てくるとなあ。」

それは単に願望の問題ではなかった。但し、杉元が言うように、説明のつかない可能性
が非常に大きい。時代が変わり出来る場合が有るかもしれないが、重要視される可能性も
低い。そして未決記録の保存は、HMKでなく長国の為未知数だった。長国訪問、記録保
管庫を開放されても、自己で調査できる可能性はとても難しい。勿論原語である。
(特記・・長国は令和に入りアーカイブスを変えて呉れたようだ。)

歌門
「特策科長の仁木が入所している。従い西藤は指摘出来たはずだ。しかし、話が進む
ことは無かった。この点は西藤の書き置きから確認してみたい。」
汽仙
「そうだな。何故戸困は西藤を特策と言ったのか大切な点だな。」
歌門
「当初岳山を中心にして調査をしようとした。」
汽仙
「その後回答が無かったのだな。」
満寿賀
「その名前も違っていたのね。」
歌門
「そうです。岳山を松山で出している。基末を基過で出している。」
汽仙
「その照会も、編成表の発見後だな。」
歌門
「そのようになっています。編成表より前には照会に入っていないようだ。」
満寿賀
「再確認だけど、岳山さんは編成表の後から照会あれたのね。」
歌門
「そのとうりです。」
汽船
「編成表の説明にも疑念があるな。」
歌門
「それもそうです。編成表が唯一の材料のようですが贋作されていた可能性もあり
ます。」

汽仙
「編成表で他の疑問点は。」
歌門
「先ず再三検討するように何故西藤が主務者になったか。」
汽仙
「逮捕時に責任者と思しき人物が入獄したのに何故西藤を責任者にしたのかというこ
とだな。」
歌門
「そうです。かなり工夫が必要だったのではないか。口頭で説明の可能性が高い。そ
して西藤は他人の不利な点は一切指摘していないのだ。」
満寿賀
「大事な話ね。でも苦しかったのではないかしら。」
歌門
「そうだと思います。他には、編成表は偶然発見か、作為で出来たものかです。」
汽仙
「偶然説は編成表からの照会が氏名相違で出されることはないと言う事だな。」
歌門
「そうです。編成表発見後、住所照会や逮捕活動に入っている。」
汽仙
「偶然説は杉元が言っていたね。」

歌門
「そうです。事実は偶然から作為に代わってきているようですね。」
汽仙
「作為だと、西藤は責任者になりうるのだな。」
歌門
「そうです。併せて、住所照会者の氏名も、変えて記載可能です。」
汽仙
「そうか、だいぶはっきりしてきそうだな。」
歌門
「岳山は住所照会を2回もされている。」
汽仙
「なかなか回答しなかったのだな。」
歌門
「その点は資料館でも疑問視しているようでした。」
汽仙
「確かに分かっているものを回答せず、しかも2回もさせる手順は前代未聞と言って
良いな。」
歌門
「そのようです。編成表と回答の時期は一覧にしてみます。」
汽仙
「それと、編成表は手書きかタイプか、という問題は無いか。」
歌門
「そうですね、手書きで氏名相違は書きにくいのではないか。タイプでも手書きでも
原稿があって転記の時、敢て変えて行っている可能性が有る。」
汽仙
「タイプと考えた方がいいのではないか。物は公式なものだからな。」
歌門
「何れにしても作成する場所は、秘密な場所が考えられます。」
汽仙
「タイプでも原稿が必要だな。」
歌門
「原稿段階の人間とタイプする人間と、人が違う可能性はあります。」
汽仙
「タイピストも原稿をよく見ているはずだな。」
歌門
「そうです。実際原稿を見て、何かおかしいと感じたら、打ちにたくなくなるだろう。
従い、上手く案内されたのかもしれない。」
汽仙
「まてよ、簡単に書き換えたというが、大変な事だぞ。」
歌門
「そうです。簡単な事ではないし、良心の呵責は有るでしょう。」
汽仙
「そう言えば三杉は、戸困の下宿先を事務所と表現していたな。」
歌門
「少し気になりますね。」
汽仙
「ところで、編成表以外で別のものだがデータは考えられないか。」
歌門
「それは無かったのでしょう。西藤は編成表だと直感している。」
汽仙
「確かに一気に大量逮捕請求活動に入っているが、他は口頭で実施だろう。」
歌門
「西藤が天京にいた時には、逮捕令状は出ていない。」
満寿賀
「その後天京を出てから、始まったのね。」
歌門
「そうです。」
汽仙
「編成表には最高司令官は載っていないぞ。」
歌門
「そこも大事な点です。」
満寿賀
「司令官も西藤と同じ令状通知なの。」
歌門
「そうなのです。一斉に動いています。」
汽仙
「編成表で自分が生き延びようとしたら、これはいかん。詳しく確認しないと
な。」
歌門
「私もその点は、決めつけないで確認をして行きました。」
満寿賀
「ところで何故1年4カ月も経って出てきたのかしら。」
歌門
「疑問です。作為があれば諸般の都合でしょうか。」
汽仙
「梅江の農美さんと関係が出るかもしれないな。」

その通リだった。西藤に力が入っているが、それは農美の梅江の進行が型に嵌まっ
た可能性が有った、それを示していた。

ここで西藤逮捕の切掛けの編成表について見てみよう。
発見された時期はいつか。

① 1974年1月15日
「基末」軍歴照会
「基過」で出た

② 1947年1月27日
「岳山」軍歴照会の為の住所照会
「松山」で出た

何れも氏名相違である。

従い 1947・1・15 直前に編成表が出た(編成表参照)

西藤は編成表上、岳山の次に書き、恰も同じ外時の指導者にするので、肩書の内容を変更
しているのだろう。

汽仙
「この氏名相違は、捜査の攪乱にならないか。」
歌門
「よく検討してみましょう。」

或る疑惑が湧いてくるのだ。
岳山と基末は、何故逮捕されなかったか。
岳山は直接の賦界接収時の外時の責任者である。当然に住所照会回答されていれば、逮捕さ
れている筈だ。編成表が偶然あるいは作為いずれでもそうなるのだ。
そして偶然説の場合は回答を遅らせる理由がない。
作為の場合は、名前の相違も、回答の遅れも全く自然のように見えるのだ。
基末は回答されたが、進展していない。これも疑問だった。
しかも責任者仁木の部下なのだ。
実は基末の進行が無かったことは、重要なポイントだった。逆に問題なしにされている為、
先に回答しているのだ。
殆どの者が、銀海へ西藤が出発した後に回答しているににも拘わらずである。
従いこの時点で、西藤に完全にシフトしていたのだ。

汽仙
「東河の逮捕される責任者は、花池通では無かったか。」
歌門
「開戦時の責任者は花池です。」
汽仙
「ところが、花池は別件で、既に刑務所にいたんだな。」
歌門
「そうです。」
汽仙
「逮捕請求に最高幹部の名が有ったね。」
歌門
「白山好春ですね。高志隊の最高幹部です。東河高志隊の上部組織で最高の責任者です。」
汽仙
「その白山さんが自決されていたんだね。」
歌門
「そうです。自決者も載せていたのです。」
汽仙
「更に逮捕指令には、安国最高司令官 水町靖治が記載されていたのだな。」
歌門
「その通りで、両名は西藤の編成表からは直接出て来ません。」
汽仙
「すると別ルートが有るのか。」
歌門
「梅江の関係で出た可能性は有りますが、そうであれば猶更西藤は疑問視
されるわけです。」
汽仙
「大幹部は梅江に居た人物もあり、梅江は念頭にあるな。」
歌門
「この幹部に至れば、鳥鳩の戦犯レベルであり、連合国の意思が働く筈です。」

汽仙
「ということは、必要ならかなり前に逮捕請求が有っていいということか。」
歌門
「そうです。編成表の段階でここまでの幹部の名が繋がると言うことは、詳しいもの
の介在がないと無理のはずです。」
満寿賀
「良く判らないけど、西藤が最初から問題じゃあなさそうですね。」
歌門
「そうなのです。それが西藤は何処に居るかで始まる焦り、梅江の行き詰まり、農美
確保からの動きが連動しているようです。」

汽仙
「編成表が出た後、どのような動きかな。」
歌門
「経過、照会・回答は次のようです。」

川下 未回答

仁木 銀海出発翌日 5月19日の回答

西藤 回答有

由斐 同

岳山 1回目未回答(1月27日照会分)

2回目回答 1947年5月22日 西藤出発4日後回答

基末1947年1月15日 照会 2月10日回答

川下 仁木 西藤 甲斐 5月18日 夜出発

基末は仁木の副官である。仁木が英文に有るように、軽い扱いの為追求がされなかった
可能性が有る。」本来は仁木、基末のラインが本命だった。仁木は逮捕された。本来なら
基末も逮捕対象だった。進まなかったのは、仁木を救助することと同様、主務者西藤が
出来上がっていた為、基末の進行が中止した可能性が高い。
それは西藤に不利だった。歌門が調べているうち、更に奇妙なのは基末に子供がいたよ
うだ。その子の名前は、数由だった。この名前は戸困の長男と同じ名前だった。偶然か不
自然か、後に歌門は思いを語る。これも歌門の調査中に発生した、大疑問の一つだった。

汽仙
「まてよ、岳山の回答が遅いな。西藤が出発した後出たのか。」

岳山の担当自体が直接の、責任部署だった。

歌門
「西藤の出発の4日後に出ています。」
汽仙
「仁木の回答は西藤が出た翌日回答だな。これも直後は変だな。」
歌門
「そうです。」
西藤逮捕の時の経過は調査が必要だ。

汽仙
「ところで、歌門が疑問なのは他に何か。」
歌門
「1 父親と汽仙の面接失敗。
2 西藤と妻満寿賀の面接不可能。
3 西藤の逮捕後の荷物の確認。
4 梅江と余りにも似通っていること。
完全犯罪となる可能性すらあった。」
汽仙
「怖い話だな。」
歌門
「とても怖いです。」
待ったをかけたのは神のみであった。

汽仙
「話しが出来すぎていないか。」
歌門
「そのとうりで、この出発と回答を合わせ判断できる人間はほとんどいない。」
汽仙
「岳山の5月22日の回答も怪しくなるな。」
満寿賀
「確かに5月18日出発後に合わせ出すのは普通無理ですね。」
歌門
「西藤の出た5月18日は日曜日です。従い部外者が西藤の出発を知るのは無理だ。仁木
の回答(19日月曜日)を出すまでの時間が無いようですね。そして、岳山(22日)へと
筋書きが出来ている。」(以下梅江の回答農美の23日へ続く。)
汽仙
「これは大変な問題だな。時間刻みの話だぞ。」
歌門
「そうです。単純な話ではありません。」
汽仙
「驚いたな、これは詳しい吟味が必要だな。」
歌門
「恐らく作為が有ったとすれば、後世誰も指摘できないと考えたのだろう。」
汽仙
「しかし、隠し事はいつかわかる。」

そのとうりでHMKが勇断を持って穂国に対応してくれたのは神の加護に匹敵した。
それはこれからの世界の動向にも実に大切な姿勢だった。
民主主義というものの一端ではないか。

歌門
「ところで、確認です。再度言いますが、下田友江の下宿先に電話が必要なわけです。」
満寿賀
「よーく確かめてみて。」
歌門
「はい。」
汽仙
「西藤は鳥鳩の事前面接で、岳山、基末について厳しく質問されていたね。」

歌門
「そのとうりで、西藤も詳しく回答することは避けたようだね。」
汽仙
「岳山の照会は住所照会だったな。かなり欲しがったんだね。」
歌門
「住所の回答は、西藤が銀海へ出た後された。」

汽仙
「一連の流れでは発案者、実行者、段取りを含め2名以上の人物が要るな。」
歌門
「西藤の出発から、即仁木の回答を出すことは、個人では出来ない。何故なら大責任
を伴う。」
汽仙
「そうだね、実行者への確認が必要となる。」
歌門
「それが例えば下田宅である戸困の別宅の電話の存在だ。」
満寿賀
「かなり具体化してきましたね、」

汽仙
「逮捕状に意見として牢獄に遠いとのような表現があったな、他にはないか。」
歌門
「いい質問です。川下と仁木に対して記載されている言葉が有るのです。」
それには 次のように記載されていた。

川下
Forfar Road Jail 刑務所(注2)

仁木
Off in Charge (注3)

歌門
「私は 罪に遠いと 理解します。」
汽仙
「意訳だろうが、それに近い感じがするね。」
歌門
「逮捕前に、意見を書く事は通常ない。」
満寿賀
「一寸待って。西藤に会いに来たご婦人は奥様でなかったら、誰なの。」
歌門
「断定はできませんが、戸困は会える人物ということになります。」
汽仙
「すると、戸困はこのご婦人を知っていることか。」
満寿賀
「そいうことね。」

そして満寿賀は続けた。
満寿賀
「農美さんのお話をして良いですか。」
歌門
「どうぞ。」
満寿賀
「梅江はどのようなの。」
歌門
「梅江は責任者を農美にしていますが、それは誤りです。正当は光永です。」
満寿賀
「何故取り違えるの。」
歌門
「西藤と似ています。農美は光永の代理です。光永は別件で逮捕されているのです。
それも西藤の花池が海外に居たのと違って、光永は鳥鳩に居ました。」
満寿賀
「それは大変ね。」
歌門
「農美さんも強く抗議したようです。」
汽仙
「そうか辛い話だな。ただ最終的に西藤も農美も同じ船でいったのだね。」
歌門
「終戦から1年4カ月の逮捕はかなり遅い。そして銀海のレッドポール刑務所も店仕
舞いする時だったのだ。」
満寿賀
「確認と何故かについて、よく調べてね。」

 確かに梅江が先行しているのに、なぜ西藤と一緒になるのか。それは、梅江の進行が、
東河の趨勢を支配したと考えれるからだった。農美の問題は、長国が大きく関係したの
だが、農美の最高の上司は下樹中昇だった。下樹の逮捕は長国の意見が賛否に分かれた
ようで、彼も入所退所を繰り返した。その間、責任者満永を逮捕できかねて、試行錯誤
を重ねたようだ。それには農美が確保されないと進展しない段階を踏んでいた。農美に
ついて、下樹がこういう。

 問題のない温和しい、妻帯者を探していた。農美を捉えた時点で、梅江は再進行する
こととなった。下樹の意見は怖いものが有った。それは妻帯者で、温和しい人間の選出だ。

こんあ事をやられたら、たまったものではない。苦情を言う程度を和らげたかったのだ
ろう。

 梅江が進展することとなり、運命は東河に移った。辛い話で有る。

 何故か帰庶局長が逮捕されていた。
1948年7月~1949年3月だった。これは西藤達が銀海から帰って来た後だった。

汽仙
「戸困の追放解除が遅れたな。」
歌門
「和光会議の1か月まえです。」
汽仙
「なかなか解除にならなかったのだな。」
歌門
「和光会議が1952年4月28日から効力発効となった。その直前ともいえます。」
汽仙
「和光会議までには、戻ってくるだろうという話があったな。」
満寿賀
「西藤逮捕の時の事ね。」
汽仙
「そう、奇妙な話となったな。」
歌門
「先の帰庶局長の逮捕と関係が有る可能性は有ります。」
汽仙
「最終列車で何が有ったのか、局長の逮捕時以降のデータは公表されていないのだな。」
歌門
「その通りで一般の方法では無理のようです。」
満寿賀
「将来開示される可能性は有りますね。」
歌門
「戦時の大物は大勢いました。それよりも解除が遅れるのは極めて異例です。」

 大国も解除とか、吟味とかの対象にならないと考えたかもしれない。
西藤達を吟味した、そのレベルに達しないと考えた可能性はとても高った。それは単に
時間がないという問題でもなく、悟らせたのではないだろうか。
 追放解除の対象にすら、ならなかったし、解除もしなかった可能性も有った。

和光会議が放つ光の平和追求は、冤罪なら決して2度とするなと
言っているようだった。
汽仙
「大国の記録や機密文の扱いは参考にしていいな。」
歌門
「そうですね。高い見識もあり、国民性の違いで済まさないほうが良いものが
沢山ありそうです。」
汽仙
「確か高志隊の反省として、HMK側に資料を提供し自己保全を図った者がいるのは
残念だったと書いていたね。」
歌門
「そうです。実際に有ったのでしょう。何れにしろ、高志隊員最後の解除です。」
満寿賀
「農美さんのご家族は判るの。」
歌門
「長女の方は逮捕時4歳のようです。」
満寿賀
「4歳ですか、農美さんも若かったのね。」
歌門
「農美さんは31歳でした。奥様はふみ子と言われます。」
汽仙
「西藤と比べても若いな。」
歌門
「西藤は46歳でした。」
汽仙
「年齢だけでも、農美さんは梅江の責任者には程遠いな。」
歌門
「そう思われます。」
汽仙
「忘れていたな。農美さん逮捕は何時だ。」
歌門
「1947年2月28日です。」
汽仙
「そうだろうな、微妙な時期だな。」
歌門
「西藤に話が決まって来た時期だ。」
汽仙
「基末の回答が2月10日だな。」
歌門
「梅江は農美で一段落の筈。」
汽仙
「10日の回答から、基末を調べ、仁木に行くのが筋だったが実施していない。」
歌門
「前に検討した通リ、此処で話は出来上がっていたのでしょう。」

満寿賀
「農美さんは助かったのね。」
歌門
「大変な経過だったようです。」
満寿賀
「そう。長女さんを大事に育てられたのでしょうね。」
歌門
「私に近い年齢のようです。恐らく宝物のように育て上げられてたことでしょう。」
汽仙
「消息は不明だろうな。」
歌門
「機会が有れば会いたいですね。」
汽仙
「消息不明と言えば、由斐はどうか。」
歌門
「分からないです。高志隊名簿にもありませんし、せめてお墓参りはしたいものなの
ですが。」

歌門は由斐の故郷に車で出かけた。距離的に近いのと探すには車も便利と考えていた。
手がかりは無かった、しかし故郷の雰囲気は十分判った。最後に道を挟んで、由斐の
元の家の方角が判る反対の丘に登った。
反対側に出ても仕方ないと考えたが、そうか写真を撮れるではないか。
1枚の写真は今も歌門の机に飾られている。

汽仙
「そうだな、由斐は英語に堪能と言われていたな。」
歌門
「そうです。主張は英語で出来たと思います。」

由斐は戦後西藤宅を訪ねた可能性が有る。歌門がうすうす気付いている。

そして西藤は、編成表問題の東河から、昇格して新都に移っており、こちらは師団
クラスの高志隊だった。西藤事務所と言われ、責任範囲も広い。


西藤は疑われるなら、むしろこちらの方が気になった一面は有ったようだ。即ち守備範囲が
広いのと、部下の質・行動で様々の心配も去来していたのかもしれない。
西藤と満寿賀は、子供たちに模範を示したかった。西藤は丘陣高志隊で頑張って、努力の結果を
出したい。それは当時であるから、昇格を含んでいた。表彰も勿論だが、公位を受けたことも
有った。表彰は数回受けた。勲〇等の〇宝章と言っていた。その褒章だった。西藤は自分が
受けた欧公位の例は他には、少なかったと言っていた。将官で査官に位置した。が、高志中査
の申請が出ていた。
 学問を求めた子は飛村を出てから、丘陣の最高学府への進学は叶わなかったが、出来る
環境での努力は達成したのではないか。
満寿賀は健康で長く生きて模範を子供たちに示したかった。その努力のお陰で、100歳まで生きた。あと2カ月で101歳だった。

『私が長生きをすることで子供たちが、それに見倣い頑張ってくれるといいと思って、頑
 張っているの。でも大変なのよ。』

当時100歳以上は現在ほど多くはなかった。歌門は母の言葉も有り難かった。勿論
西藤の頑張りも嬉しい話しだった。満寿賀は近在の方々の多大な尽力が生命の源だった。
素晴らしい両親だった。
母親も体調の悪い頃長生きするとは、思っていなかっただろう。生きるとは不思議なもので
ある。
95歳を過ぎていた頃、突然満寿賀が言った。
「いくつ迄生きたらいいの。」
歌門は慌てた。もう少しで100歳までと言いそうだった。答えは持っていなかったが。
「105歳まで。」

歌門には気になることがあった。

基末の住所に、戸困の長男の名前の人物の存在が有った事は、記述した。それは基末数由
と言い、戸困の長男の名と同一だった。

西藤の名前が、過去に戸困の次男に名付けられたが、それに似ていた。父親の元に
一応手紙を出してみた。戻り便にはならなかった。詳しく調べる必要は無かった。
今の人達はもうタッチしなくていい事件かもしれなかった。大事な事を除いて。
西藤の「追憶」に、陣人のこんな句があった。

 もののふに  生まれたる身の 甲斐ありて
      散りゆくきわも  心やすけし     T

歌門の大好きな句だった。

ある日歌門は、岐川に船で向かった。
海峡を眺めつつ、誰でも生きる望みや愛が無くなる時、防ぐのは先ず歌とスポーツ
しかないと考えていた。

 14 天成の砦

天成とは人の力の 及ばないものを言う。
砦とはそれに耐え抜く構えを言う。
二つは合わさると、天に流されないのが普通だ。
ところが、砦を守っている人が、天成を起こしてしまう事が有る。
自分はガードが有る。しかし周りの人間は流されてしまう危険性がかなり高い。
そこでしなければいけないことが有る。
例え及ばずとも、正しい事であれば、毅然として、天と砦、両方を作った人間に、立ち
向かう必要が有ることを示している。それは見えない敵と戦うことでもある。
そして悲劇は繰り返してはならないのだった。
悲劇の中に、あってはならない事の心配が有った。
戦後、戸困は民間会社に入った。陣の経験から厳しい決まりを作った可能性が高い。
この十訓は、最近変わって来たが数十年の間影響を受けた人々が居ないことを、
願うばかりだった。

出典
注1 Guilty. sentenced to be hanged. (極刑)
   SCAPIN  966

注2 For far Road Jail 川下
   SCAOIN 1516

注3 Off in charge 仁木
   SCAPIN 1546

参考文献
  「戦犯裁判の実相」  木下栄一 (巣鴨法務委員会)

  SCAPIN 及び recuest (GHQ)
「追憶」・「手帳」田森正
「日本憲兵正史」 (全国憲友会)
「殉国憲兵の遺書」 (東京憲友会)
「或る情報将校の記録」塚本 誠

あとがき
戦後76年が経過する中、本書は60年以上検討されたものです。
発行は事実を基本にしていますが、やむを得ず修筆がございます。更に素人で一方的
表現や要改善箇所も多々あると存じますが、ご容赦ください。人生で辛い時、支えに
なれば、何回でも手に取って下さい。
執筆に当り外交史料館様に大変お世話になりました。英字の引用文はSCAPIN
さんからお借りしています。
故村松氏、故松本氏、故武本様、大学教授の方々、憲友会の皆さま(諸資料共)
厚くお礼申し上げます。
この本を 父と母に 捧げる事をお許し下さい。

最後まで読んでいただき感謝申し上げます。
西藤もお礼を申しあげ、喜んで居ると存じます。
尚電子版は 文字が飛んだり、数字が横を向いたりして、分かりにくいと存じます。
 硬い本のため、休憩を兼ねてご笑読お許し下さい。

2021年5月12日
(2023年6月21日電子版) 


[
 






bccksエディタへようこそ!

この本文を入力する[本文panel]をつかって、かんたんにbccksエディタの使い方をご紹介します。この[本文panel]は本文を入力するパネルです。上の[見出しpanel]には見出しなどを入力します。その上のメニューの【本文】【見出】【画像】【余白】ボタンで、必要なパネルを追加できます。[見出しpanel][本文panel]などの集合を[記事]と呼びます。BCCKSの本はすべてこの記事で作られています。[記事]は右列の[この本の記事リスト]に並びます。【あたらしい記事を追加】ボタンで追加することができます。テキストや画像を読み込んだら、右上の【この記事をプレビュー】ボタンをクリックしてみてください。あなたのコンテンツが美しいレイアウトでプレビューされます。詳細は、ポップアップヘルプ(ボタンにマウスを乗せると表示されます)、または、『本づくりの参考書』([あなたの書斎」→「書斎TOP」に置かれています)をご覧ください。★エディタの使い方ビデオもあります。http://www.youtube.com/user/BCCKS/

MASUKA電子図書版2023年6月23日 発行 初版

著  者:藤原洋発  行:モリタ出版

©2023 モリタ Printed in Japan

bb_B_00176496bcck: http://bccks.jp/bcck/00176496/infouser: http://bccks.jp/user/151416format:#002tPowered by BCCKS株式会社BCCKS〒141-0021東京都品川区上大崎 1-5-5 201contact@bccks.jphttp://bccks.jp

jacket