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十代の後半をスタートとして、私は世界の山岳・辺境・秘境地帯の各地にて、エスノグラフィック・フィールドワークの実践を重ねてきた。
そして、三十代後半より、西中国山地の中山間地域に居住するようになってからは、海外での探査活動と並行しながら、『日本の里地・里山』へのフィールドワークも加えていったのである。
特に、中国山地・山陰・九州・四国・瀬戸内海をはじめ、日本各地の霊山や聖地、そして民俗学的風土が残る土地などがその足跡場所であった。その活動の最中に、渡来系で古代最大の氏族である秦氏に纏わる伝説や物語が残る多くの土地に接してきた。
両親から譲り受けた私自身の血液の中には、太子町という聖徳太子所縁の地縁や生野銀山の鉱山師という稀なDNAが含まれている。渡来系・秦氏の来歴地などを巡ると、不思議なことにそのDNAが静かに震えだすのを体感していたのである。
私にとって秦氏を追尾・探査していくことは、同時に自らのルーツを大陸の彼方へと引き延ばしていく行為に等しかったのである。それは、身体は国内にありながら、深部の遺伝子を大陸のどこかにある故郷へと回帰させるインナートリップなのであった。
古代より、大陸から渡来してきた多くの氏族集団が、北部九州から山陰、そして能登半島や佐渡島あたりまで船で着岸している。(もちろん、南洋渡来の集団もあったであろう。)その中の代表格である『秦氏』。彼らの渡来ルートを遡っていくと、魅惑的なワールドが無限に広がっていくのである。
京都周辺には秦氏の氏寺である広隆寺がある。ここは、世阿弥による『風姿花伝』によって、能楽(猿楽)の創始者とされている、秦河勝(はたのかわかつ)によって創建されたといわれている。その他、秦氏によって創建された寺社は、松尾大社や伏見稲荷神社もある。
五世紀~八世紀頃を中心に、日本の各分野へ大きな影響を与えてきた渡来系の秦氏。この秦氏は特に日本における殖産事業に大きく貢献してきたのである。養蚕、機織りをはじめ、製塩、銅山、灌漑治水などである。
その殖産における技術は、半島や大陸で伝播していた時代に秦氏の先祖が習得していったものであろう。では、秦氏の祖先は大陸や半島のどのあたりから倭の国へと東漸してきたのであろうか。
その東漸ルートを巡っては、諸説乱れ飛んでいるのである。それだけ、秦氏の祖先を巡る謎は深遠なものがあるのだろう。現代においても、確定的な学説は未だに確立されてはいないのである。
いや、確立することが困難なぐらいに、この秦氏を巡るネットワーク網における時間の縦軸、空間の横軸ともに広大無辺に広がっているのである。そのこと自体が、秦氏を巡る追尾・探査の最大の魅力と言えるだろう。
確かに、現在の当該学会においては、秦氏の由来は朝鮮半島(新羅国や百済国)説が濃厚となってきている。しかし秦氏一族は、朝鮮半島も一時的に寄留していた「異邦人」に過ぎなかったとも言われている。
秦氏のルーツを遡ると、秦の始皇帝の子孫である可能性を秘めているという説も浮上してくるのである。さらに、日本にも渡来した秦氏の王族・弓月君の「弓月」姓のルーツを遡ると、中国の西端部・新疆ウイグル自治区やカザフスタンのエリアに展開していた、弓月国(クンユエ)という国に辿りつく。
秦氏の故郷とされる、古代中央アジアに展開していた『弓月国』を、世の中に知らしめたのは広島出身の言語学者・佐伯好郎氏である。佐伯氏と同じ説は、アメリカ人のラビ(ユダヤ教指導者)で教育者である、マーヴィン・トケイヤー氏も唱えている。
彼らの説によると、弓月国へはイスラエルの「失われた十支族」の末裔が西からすでに移動してきていたという。その末裔の一群が弓月国からシルクロードを経て中国へと伝播させたのが、『景教(キリスト教ネストリウス派)』だとも論じられている。
イスラエルから弓月国、そして中国や朝鮮半島を東漸しながら、さまざまな殖産技術を倭の国へと伝えたのが、渡来系氏族・秦氏であるというのだ。この来歴説は、一部ではあるが日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だとする、「日・ユ同祖説」を唱える人たちの根拠ともなっているのである。
このような、『秦氏=ユダヤ系説』などを含め、戦前から学会や民間の間にては玉石混交状態なのである。ただ、形態人類学という遺伝子を解析する分野の研究者・埴原和郎氏の著作などから、秦氏を含め大陸からの渡来系集団のルーツの一つは、中央アジアくらいまで遡れることがだいたい判ってきているらしい。

広島県に住む同県人として、佐伯好郎氏のことを深く知ろうと思い、一時期廿日市の関係施設などへと通ったことがある。佐伯氏は戦後に、広島県廿日市市の行政長を務めるなど、故郷の復興発展にも貢献しているのである。そのお陰で、廿日市市の図書館には佐伯氏の著作を集めたコーナーが設けられている。
佐伯氏は、もともと原始キリスト教の流れをくむ東方キリスト教のひとつである「景教」の研究者であった。その研究で早稲田大学名誉教授、東京文理科大学学長を歴任した歴史民俗学者・言語学者である。
佐伯好郎氏は、「秦氏は『資治通鑑』(十一世紀の中国の史書)に出てくる弓月王国の末裔であり、その秦氏が古代日本に初 期のキリスト教をもたらした」と主張した。また、佐伯氏は私見として、うづまさ(太秦)、すなわち秦氏の拠点について次のように述べている。
「うづ」は“Ishu” 即ち “Jesus” 又、「まさ」は “Messiah” の転訛語に外ならぬものである。それは、アラマイク語及びセミチック語の“イエス・メシア” Jesus the messiah の転訛語に外ならぬ。
前述しているが、ユダヤ教のラビ(教師)、マーヴィン・トケイヤー氏も、「秦氏ユダヤ人景教徒説」を支持している。トケイヤー氏は、以下をその根拠としてあげている。
〇 モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭「御頭祭(おんとうさい)」が信州・諏訪大社に古来伝わっている
〇 イスラエルの契約の箱と神輿の類似性
〇 イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性
〇 古代イスラエルの風習と神主のお祓いの仕草の類似性
〇 イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性
これらの根拠をあげたトケイヤー氏は、秦氏はユダヤ系であり、日本人の先祖の一部はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だ、と論じている。
仮にこれらが真実であるのならば、フランシスコ・ザビエルよりもさらに遡ることおよそ千年以上も前に原始キリスト教徒・ユダヤ教徒が日本にやって来たことになる。
この教徒らは、ヨーロッパに伝播して独自の発展を遂げたローマ・カソリックやプロテスタントというヨーロッパ型の白人キリスト教とは異質のものである。
さらに驚くべきストーリーもある。ゴルゴタにて磔にされたキリストはキリストの弟・イスキリであって、本物のキリストは密かに日本に渡り天寿を全うして亡くなったという伝説が青森県三戸郡新郷村戸来に伝えられているのである。
二〇〇四年(平成十六年)六月六日のキリスト祭においては、イスラエル在日大使館一等書記官が、新郷村の「キリストの墓」を訪れ、イスラエルストーンを寄贈しているという。イスラエル国家はこの伝説を肯定も否定もしてはいないらしいが。
このように、秦氏をとりまく謎は、文献史実や状況証拠に頼る従来の歴史学、民族学では解けない部分を抱え込んでもいる。
日本史において最古の文献である、『古事記・日本書紀』とて政治的な意図、思惑で書かれており、書いた側の思惑により記述操作はあって当たり前と見なければいけないだろう。
いずれにせよ、日本は表面上、仏教、神道の国(歴史上は神仏習合の時代が長い)ではあるが、ご先祖様・土産神・八百万の神々など土俗的な神々、また山岳修験・神仙・道教・儒教などの東アジア系信仰、さらにゾロアスター教・景教などのユーラシア大陸西方の古代宗教などが習合・混合を繰り返しながら、多元的な階層を精神世界の深い地層に蓄積・継承してきているのだろう。

戦前においては、秦氏は中国の王朝遺民(秦の始皇帝の子孫説など)が有力となっていた時期もあるが、戦後は、そのルーツは慶尚北道(新羅王国)あたりとする学説が有力になってきている。
これは、現在の慶尚北道蔚珍郡海曲県の古名が「波旦」であることが根拠のひとつとなっているのである。新羅国とは、現在の慶州も含まれる。この慶州には石窟庵や仏国寺という名刹もあり、半島の中でも精神文化の中心地でもある。一方、百済国の由来説もある。百済国の中心地は扶余であり、ここも定林寺など名刹がある。
中国の隋の国から日本へ渡って来た官人による『隋書』倭国伝に、「秦王国」と命名された国の記述がある。この国は「竹斯国」(筑紫国)の東にあったとされている。筑紫国ーすなわち太宰府あたりから東方向であろう。
その場所は、現在の筑豊エリアから豊前(大分県中津市・宇佐市)エリアではないかとされている。その根拠として、二つの大きな理由がある。一つは、筑豊エリアにある香春岳および山麓の香春神社の存在である。そして、もうひとつは、宇佐神宮と中津市にある薦(こも)神社である。
『豊前国風土記』には、現在の香春岳の周辺のことを、「新羅の国から神が渡来し、この河原に棲んだ。河原の北には三つの山からなる峰があり、その第二の峰に銅がある」と記載されている。
まさに香春岳は、三つの山が連なる連峰となっており、その山中からは黄銅鉱が掘削されているのである。
香春岳の東山麓には、宇佐八幡宮に奉納する神鏡用の銅を採掘したという「神間歩(間歩は採掘坑道)」や、その鋳造所とされる清祀殿があったといわれている。
技能氏族としての秦氏は、最初は養蚕や機織り技術に長けていたが、その後は灌漑治水や製錬、製塩などの分野においても、その技能力をおおいに発揮していくのである。
この筑豊エリアにおいては、特に香春岳山麓における、銅の採掘、製錬などに従事していたと思われる。
そして、製錬されたものが次章で述べる宇佐神宮へ奉納品として運ばれていったのであろう。
司馬遼太郎氏の「街道をゆく三十四: 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」の中に、中津の薦(こも)神社についての記述がある。
この薦(こも)神社は、宇佐神宮の祖宮と言われている。さらに神社に隣接する三角池は、池自体がご神体とされており、池に生える「真薦」(まこも)という植物で枕が作られ宇佐八幡宮にて祀られている。
このご神体である三角池の治水・灌漑を担っていたのが、秦氏であると言われている。
伊予(現在の愛媛県)の国にある鬼北町には、父野川富母里水銀鉱山などがあり、七世紀ころには、朱砂(水銀の一種)が採掘されていたという。
『続日本紀』に、文武天皇の二年(六九八年)に「伊予の国から白鉛、鉛鉱及び朱砂の献上があったという記録がある。
そして、この伊予の国にも、筑豊や豊前エリアからの製錬技能集団が来訪していたのではないかと推測されているのである。
現在の総社市には「秦」という字が付く地名が多く残されている。古くはこの一帯を「秦原郷」とも呼んでいたそうである。飛鳥時代に建てられた秦原廃寺という寺院もあったという。地元では、機織りの技能集団がこの地に渡来したのではないかとも言われている。
総社市あたりは、古代吉備王国とも関りが深い土地でもある。また、岡山県美作市生まれの法然上人の母親は、秦氏族である。
秦氏の一族には、奈良時代に塩田開発に従事した人物もいる。記録に残っているのは、播磨国に住んでいた、秦大炬(はたの おおい)である。
奈良時代の貴族(姓は宿禰・すくね)である、大伴犬養は、天平勝宝五年(七五三年)に赤穂郡に塩田を開くために、秦大炬を代理人として塩堤を造らせたが失敗して二年後に断念したとの記録がある。この大伴犬養という人物は、なぜか当時秦氏の勢力圏である、山背国・播磨国・美濃国の地方官を歴任してもいるのである。秦氏との深い関係性も感じられる。
秦氏は、新しく入植した土地においても柔軟さをもって地元豪族などと付き合っていったのである。
それは、元々その土地で祀られてきた神々を尊重するとともに、その神々への祭祀をも継承していったのである。
秦氏自身が大陸から持ち伝えてきた神には、『古事記』の大年神の系譜にある「韓神」という神がいる。あきらかに、朝鮮半島にて信仰されていた神であろう。
ただ、この韓神という存在を、うまく倭国在来の信仰神と擦り合わせていったと思われるのだ。
このように、大陸や半島から持ち込んだ自分たちの信仰を強固に固持することはなく、在来の神祇信仰に接近し、これと融和的な姿勢を維持したのである。
そのことが、古代最大の勢力(政治分野へはあまり接近していないが)を保持した背景ではないかとも言われている。
秦氏は、まず五世紀前半に渡来し、北部九州・瀬戸内海地方を経由して、畿内においてはまず葛城山麓あたりに居住したと考えられている。その後、五世紀後半には、山背(京都の伏見と太秦)に本拠を移したと言われている。
奇しくも、古代の豪族・賀茂氏(鴨・加茂・加毛)も同じ時期に葛城から京都に移っている。これは、雄略天皇と争って負けた葛城氏の衰退が背景とも見られている。同時期に京都に移ってからも両氏は良好な関係性を継続させていくのである。上・下の賀茂神社と松尾大社・伏見稲荷は畿内最古級である。
秦氏と伏見深草との因縁は深いものがある。欽明天皇がまだご幼少の頃、夢の中にて「秦の大津父(おおつち)という者を登用すれば、将来天下をうまく治めることができる」という託宣を得たという。
天皇は目覚めてから早速使者を出し探し求めたところ、山背国紀伊郡深草里という土地に住む、秦の大津父を見出したのである。
「深草」という地名は、まさに深い草が生えている池か湿地帯だったのであろう。ここでも、秦氏の灌漑・治水の技能と居住場所の関係性が伺えるのである。
秦大津父は、当時水銀などを産出していた伊勢国へと頻繁に往来をしていたとも言われている。そして、水銀に纏わる交易などにて財をなしていたのであろう。天皇に徴用されてからは、当時の大蔵(財務管理)の重要ポストに任じられるのである。
伏見稲荷神社の稲荷は元々「伊奈利」と書かれていた。『山城国風土記』に〈伊奈利と称するゆえんは、この地に古くから住む秦氏族の伊呂具が餅を的にして矢を射ったところ、餅が白鳥と化して飛び立ち、山の峰に降り、そこに稲が成ったので社名とした〉と記述されている。
「伊奈利」の、伊奈は「稲」を意味し、「利」は稲穂を鋭い刃物で刈り取る様子を表しているとも言われている。すなわち稲の収穫のことであろう。
「深草」という地名は、湿潤な土地を意味し、そこに水利・灌漑技術をもった秦氏が葛城方面から移り住み、現在の伏見稲荷神社の周囲にて稲作を始めたということが想像できるのである。
そして、秦氏の本拠地はこの伏見深草から太秦へとしだいに移っていくのである。
広隆寺は、創建当時は現在の場所ではなく、北野白梅町あたりに建造されたといわれてもいる。現在その場所からは、創建当時の証左とされる発掘物も出土されている。
この地が手狭になったため、現在の土地へと移転されたというのが最近の学説である。
創建当時は、葛野(かどの)の秦寺とも蜂岡寺とも呼ばれていた。聖徳太子が秦河勝へ仏像を授けられ、その仏像を祀るためにこの寺が建造されたともいわれている。
太子から授けられた仏像というのが、一九五一年に国宝彫刻第一号とされた、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)である。通称・宝冠弥勒(ほうかんみろく)と呼ばれている。
ただ別説では、太子が授けたのは、その隣にある通称『泣き弥勒』と呼ばれている半跏思惟像と併せて二体ではないかとも言われる。
この泣き弥勒は、明らかに新羅国の仏像スタイルであり、秦氏渡来地説の一つである、新羅国由来の裏付けともなっているらしい。
明治時代になるまで、この松尾大社の神官は、秦氏一族の末裔が務めていたといわれる。社伝によると、大宝元年(七〇一年)に、山背(太秦エリア)に住み着いた秦氏によって建てられ、京都で一番古い神社であるとされている。
この神社の背後にある山は、大きな岩が点在しており、神社創建の前から山自体が信仰の対象となっていたともいわれている。平安時代よりも前には、上賀茂神社・下賀茂神社、そして松尾大社が代表的な三社であったといわれている。
平安京の大内裏は、この三社を直線で結んだ真ん中辺りに造営されたとのことである。賀茂神社の位置を大内裏の鬼門とし、松尾大社は裏鬼門の位置になる。その為か、古来「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称されている。
神聖な霊山を背景とし、この大社は良質の湧き水が出る場所であり、酒造りの殖産にも寄与した秦氏にとって、この地は垂涎の場所であったのかもしれない。そして醸造の神様として酒造関係者からの尊崇を集めていく。
『亀の井』と呼ばれる湧き水は、腐りにくい酒を造るための神水とも言われており、現代においても、日本全国から酒造家が参拝に来ている。また松尾大社の御祭神は、筑紫胸形に坐す中部大神が鎮座したとする伝承と、近江国の日吉大社と同じ大山咋神を祭るとする伝承とがある。
筑紫胸形に坐す中部大神とは、九州の宗像神社に祀られる三柱の神のうち、「中津宮」に坐すという「市杵嶋命」であろうと推定されている。別途記述する、壱岐の島由来の葛野坐月読神社とともに、海人系信仰へも濃厚な関係性が感じられる。
やはり、朝鮮半島を経由し、対馬、壱岐、九州北岸などを経て、豊前国、瀬戸内海沿岸と東漸してきたルートに信憑性が増すのである。
この葛野坐月読神社(かどのにますつきよみじんじゃ)の創建は、壱岐の島にある月読(つきよみ)神社を勧請したと伝えられている。
秦氏系の神社には、松尾大社の宗像(むなかた)やこの壱岐の島のように、海人系信仰の地とのかかわりが深い。これは、半島からの渡来の途次に、各地地元系氏族との交流が平和的に継続した証左ではないだろうか。
月読神社の祭神は月読尊である。天照大神の弟神であり、素戔嗚尊(スサノオのみこと)の兄神である。天照大神が太陽神であるのに対して、月読尊はその名の通り月神である。そしてこの月読尊は、壱岐の島との関係性から海神の性格も併せ持つ神とされている。
この月読神社に関わる人物として神功皇后がいる。身重だった神功皇后は月神の託宣を受けて、神石をもって腹を撫で、 無事に男児(後の応神天皇)をお産みになったという。その石がこの月読神社にある。
その名も『月延石』。神功皇后の伝説と、“月のもの”が延びるという名前から、安産のご利益があるとされている。
昭和の時代には三つあったが、現在は一つだけとなっている。
秦河勝は、聖徳太子に重宝される秦氏を代表する人物である。彼の名前『河勝』は、まさに河に勝つ、という意味(願望的意味かもしれないが)なのであろう。
『秦氏本系長帳』という文書には、葛野(かどの)大堰(おおい)という堰をつくっての治水工事の記録が残されている。これは、秦の王朝時代の治水工事にも匹敵するとも書かれている。
この葛野は、現在の桂川の渡月橋あたりだと推定されている。桂川北東岸の太秦では、六世紀に大型前方後円墳が五基造営され、秦氏の首長の墳墓と推定されている。
五基の内、最後の首長墓が、蛇塚古墳といわれている。蛇塚古墳の埋葬者を秦河勝とする説もある。
当時の治水灌漑においては、その他、河内の茨田(まんだ)の堤(現在の寝屋川市)も記録に残されている。なんと寝屋川には、太秦とか、秦という地名が多いのである。太秦古墳群という二十五基もある五~六世紀の古墳群もある。
『播磨風土記』には、この寝屋川付近にいた秦氏が集団で、揖保郡太子町佐用岡(その昔は、枚方の里と呼ばれていた)移住したと記されている。揖保郡太子町とは、聖徳太子の時代に斑鳩(いかるが)寺が創建されており、聖徳太子と深い因縁のある土地でもある。
御祭神は、秦の始皇帝、弓月君、秦公酒
この神社の祭りとして有名なのが“牛祭り”である。“摩多羅神”なる神様が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという、摩訶不思議な祭りである。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には『ミトラ教』なる教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。
ミトラ教とは
起源はインド・イランのアーリア人の信仰に遡る。ギリシア・ローマに広まった頃には秘儀の宗教となっており、牡牛を屠る儀式をおこなっていたとされる。一時的にローマ帝国で爆発的に流行したが、キリスト教が国教化されて急激に衰退する。秘教であったこと、キリスト教徒によって徹底的に破壊されたことによって、ミトラ教の全容は明らかではない。一方で、ミトラは「弥勒」の名称で別の信仰対象とされていくことにもなる。
とても長い名前の神社である。(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)と読む。別名は、「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも呼ばれている。
本殿の東隣にある蚕養神社がその別名由来である。渡来人であった秦氏が養蚕技術をこの地にもたらしたことと関係する神社だと推測できる。また、古くから祈雨の神として信仰されていたとも言われている。
創建の詳細ははっきりとしてはいないが、一説には秦氏が広隆寺を創建した際、同じ時期にこの神社も創建したとも言われている。そして、なんといってもこの神社の最大の惹きつけポイントが、『三柱鳥居』である。
「京都三珍鳥居」の一つにも数えられているこの鳥居は、三本の柱を組み合わせて三角形を作った鳥居である。このスタイルからさまざまな憶測を生み、「景教(ネストリウス派キリスト教)の遺物」という説も生まれているのである。
ただこの鳥居のスタイルは、なんと壱岐の島(和多都美神社)にもあるのである。壱岐の島といえば、松尾大社の摂社・葛野坐月読神社も壱岐の島から勧請されているので、やはり海人系の信仰も加わっているのかもしれない。
太秦の住宅地の中に突然現れる横穴式石室をもつ古墳である。古墳時代後期の七世紀頃に築造されたと考えられる巨大な前方後円墳の一部が巨石とともに復元されている。
一説には、秦氏最大の貢献者で、聖徳太子の寵愛を受けた秦河勝の墓であろうと推定されている。蛇塚の名前は、その昔この石室内には多くの蛇が棲息していたことに由来している。
後円部の石室は全長十八メートル弱、玄室床面積二十六平方メートル弱もある。
池田市は猪名川という河川によって発展してきた歴史を持つ。そして、その猪名川の東側の土地には、もともと(秦上郡)とか(秦下郡)という名前が付けられていた。
池田茶臼山古墳の鉢塚古墳などは、六世紀にこの地に移って来た秦氏のものではないかとの説もあるくらいである。
また、市内には『呉服(くれは)神社』という興味をそそられる名前の神社がある。
呉服(ごふく)の名の由来ともなる、この(くれは=呉服)神社に関わる歴史には、渡来系・秦氏の存在が見え隠れしている、とする説もある。
呉服神社の由緒書きには、応神天皇時代に、中国は(呉)の国から機織り技術を伝えに来た織り姫伝説も記述されている。さらには「呉春」という名の酒造屋が現在でも操業している。
機織り、酒造、と「秦氏」が担ってきた生業(なりわい)の痕跡を色濃く残す町=それが池田市であるのだ。
日本沿岸には、多くの渡来系氏族が到来している。福井県から京都府にかけての若狭湾もその代表的な場所であろう。若狭(ワカサ)という地名の語源は、朝鮮語のワカソ、すなわち(往来する)ではないかとも言われている。
若狭湾は、湾内に敦賀半島をはじめ数多くの入江や島が点在している。また、朝鮮半島沿いの海流がこの湾の沖合を通過していくのである。
海流に乗ってやってきた、半島や渤海地方からの渡来人にとっては、若狭湾は船着き場としてとても最適な場所のひとつであったのだろう。
特に新羅や加耶系氏族に係る伝承や伝説が当地には数多く残されてもいる。そして神社の祭祀氏族として、秦氏が圧倒的に多いのである。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」や「信露貴彦(しろきひこ)神社」、小浜市の「白石(しらいし)神社」などは、新羅国との関係性が推測される。また、「気比(けひ)神社」「角鹿神社」なども、新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。
室町時代を代表する能楽師・世阿弥は、その著作(能の理論書)である「風姿花伝」の中で、次のようなことを記述している。
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推古天皇(すゐこてんわう)の御宇(ぎよう)に、聖徳太子(しやうとくたいし)、秦河勝(はたのかうかつ)におほせて、かつは天下安全(てんかあんぜん)のため、かつは諸人快楽(しょにんけらく)のため、六十六番(ろくじふろくばん)の遊宴(いうえん)をなして、申楽(さるがく)と号(ごう)せしよりこのかた、代々(よよ)の人(ひと)、風月(ふうげつ)の景(けい)を仮(か)って、この遊(あそ)びのなかだちとせり。
そののち、かの河勝(かうかつ)の遠孫(えんそん)、この芸(げい)を相続(あひつ)ぎて、春日(かすが)・日吉(ひよし)の神職(しんしよく)たり。よつて、和州(わしう)・江州(かうしう)のともがら、両社(りやうしや)の神事(しんじ)に従(したが)ふこと、いまに盛(さか)んなり。
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すなわち、能楽の始まりは、聖徳太子に命ぜられて秦河勝が、六十六番の芸能を作って、これを申楽(さるがく)と名付けてた。その後、河勝の子孫たちがこの芸をずっと継承していった。というのである。
能楽の始祖については諸説はあるだろうが、世阿弥にとっては、秦河勝が自分たちの芸能・能楽を始めたと認識していたのである。それも、聖徳太子に命ぜられてのことである。
この世阿弥説をもとに考えると、秦氏は、在地の神々への祭儀や奉斎などにおける舞いや音曲などにも深く関与していたことが推測できるのである。その舞や音曲から『能楽』などの芸能文化が派生してくるのであろう。
秦氏の代表格的人物・秦河勝は、大化三年(六四七年)に八十余歳で死去したと伝えられている。そして、世阿弥の風姿花伝など(世阿弥の娘婿・金春禅竹による『明宿集』にも記載あり)には、秦河勝の死に際物語も記述されている。
それによると、秦河勝は自分の死期を悟った際、摂津国難波の浦より、(うつぼ舟)に乗って、風にまかせて西の海へ出発したという。そして、現在の兵庫県赤穂にある坂越浦に着いたというのである。
民俗学者・折口信夫によると、(うつぼ舟)とは、(虚・うつろ)舟とも言われ、他界から来た神がこの世の姿になるまでの間入っている「いれもの」のようなものとされている。
この死出の旅たちに舟を使った伝説には、もう一つの秦河勝に纏わる物語が大きく関与していると考えられる。それは、秦河勝の誕生物語である。
それは、欽明天皇の時代のこと。大和国初瀬の河に、ひとつの壺が流れてきたという。ある人がその壺を開けると、中に赤子が入っていたそうである。その容貌は穏やかで、玉の如く美しかったそうである。これは天から降臨した人に違いないと、宮廷に報告されたという。
その夜、天皇の枕元に「我は大国・泰の始皇帝の再来である。倭国に機縁ありて、今現在す」と語る幼子姿の秦河勝が立っていたというストーリーである。
すなわち秦河勝は、生誕時には壺の中に入って、天から水の流れに沿って現(うつつ)の世に降臨してきた伝説をもっているのである。そして、死期に際しては、虚(うつほ)舟にのって、川を下って海へと流されていくのである。
現(うつつ)の世に出現し、そして虚(うつほ)の世界へ、水を介して生死の循環をしているとも考えられるのである。
赤穂市の坂越(さこし)に漂着した後、地元の民がその霊を祀ったのが当神社の創建といわれている。神社の正面海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があるとされ、神域となっている。そして現在でも人の立ち入りは禁じられているのである。
この神社の名前『大避(おおさけ)』は、京都の太秦にある『大酒(おおさけ)神社』に通じるものがあるだろう。「大酒神社」の「元名」である「大辟」という神の名は、赤穂の「大避」と共通しており、災いが外から入るのを防ぐ道祖神であることを示している。
※ 秦河勝の墓としては、寝屋川市内にも伝承地がある。
2023年5月19日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。