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宗教人類学者・中沢新一氏は、その著『虎山に入る』の中で、神話の捉え方について次のように語っている。
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宇宙の底には、目に見えない、見ても何だか大きすぎてわからない、龍や蛇のようなものがうごめいています。その状態は混沌なので、人間が生きるためには、これを何かの形で停止させ、そこから物質の世界を噴き出させなければいけない。そこで、古事記のスサノオの神話のようなものが語られるようになりました。
つまり巨大な蛇がいて、ヤマタですから八つも首がある。八つあるというのは要するに、頭が無数ということです。それが大地の底にいる。これをスサノオが殺すと、ヤマタノオロチの尻尾から刀が取り出される。これは王権を象徴しています。
この神話は、王権の発生を語っています。人間の王が出現する前は、この世界は混沌とした龍、自然力が支配しています。そこにスサノオが剣を下ろし、龍を殺す、即ち、流動していた流れの中に剣を刺して位置を固定します。
そしてそこから噴き出したものが王権の剣として、人間の世界に秩序を作り出す王様の印になる。この王様の印はもともと、ヤマタノオロチのものでした。つまりこの世界の秩序も力も、実のところ目に見えないヤマタノオロチのものでしたが、それを我々の世界に噴き出させる必要があったのです。
そのために目に見えないものに戦いを挑み、あるいは交渉して、踏み込んでいく乱暴な人間がいました。彼の行為によって事態は変わり、今まで見えなかった力が外へ噴き出して剣などの物質になる。神話はこういう思考方法を取っています。
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中沢氏が語るように、神話における世界観では、この世界は混沌=カオス(chaos)が根源にあったという考え方であろう。カオスとは光も形もない「虚空」と言い換えてもいいだろう。ギリシャ神話では、この虚空からガイア(大地の女神)・タルタロス(冥界)・エロス(愛の神)を誕生させている。
大地の女神・ガイアはウラノスと結ばれ、地上に山や木、花、鳥や獣を、また天には星を産み出していく。やがてウラヌスが降らせた雨によって湖や海ができた。天(ウラノス)は大地(ガイア)を包み込み、天と地が創造されていく。
「虚空」が意味するものとは、中沢氏の語る「目にみえないもの=不可視世界」に通底する世界観であろう。神話時代の人々にとっての不可視世界とは、不可知(人間の思考を超越する)世界と置き換えてもいいのではないだろうか。
現代における最先端科学である宇宙物理学や素粒子解析の世界において、この「不可知世界」が注目されている。それは、マクロコスモスである宇宙やミクロコスモスである素粒子は、極限までの解析による紐解きでは、「わからない」という結果が導きだされるからである。
マクロ・ミクロいずれの世界においての「わからない=不可知」な世界を、神話時代の人間たちは皮膚感覚で触知していたはずであろう。それは、天変地異などの諸現象、生命の誕生や不慮の消失などに直面した際に体得する感覚であった。
そして「わからない=不可知」な現象世界に「超越する聖」という非日常性を織り込ませていったのであろう。それは、原始宗教における超常体験にも近似している。「超越する聖」を固有名詞化したものが、神話上における神々となっていったのであろう。
二十一世紀初頭からの二十年強を、後の世紀の人たちが振り返った際、「混迷と混沌の時代」と名付けるかもしれない。遥か彼方にある宇宙空間への解析技術の飛躍的進歩とは裏腹に、隣人達や隣国の境となる、パーソナルスペースや国境という概念が大きく揺らぎ始めている。
また、生と死に関わるこれまでの倫理基準や規範といったものが崩壊しはじめているが、さりとて新たな死生観を構築し得る概念の誕生する兆しは見えない時代である。祈りにおける狂信的な原理主義が、信仰の本来的目的である心の安寧ではなく、不安と懐疑の溝をより深めているのが現実の世界であろう。
ただ、私たち人類は、パラダイムが大きく転換していく時代の溝を、これまでの歴史上にて幾つかの節目として刻んできたのも知っているのである。十二~三世紀、イタリアの都市国家を中心に勃興した「ルネサンス」もその節目の一つである。中世キリスト教世界観への疑義から古代ギリシャ・ローマ時代の神話や文化への見直し作業が始まるのである。
パラダイムが転換せざるを得ない時代には、必ず温故知新の作業が伴われている。それは、表現を変えれば、「永く継承されてきた原初の事物や事象の背景を再生・復古する」作業であり、「有史以来伝承されてきた此の世を創生した物語や、此の世に生きる人間の在り様の結び目を再び紐解く」作業であるとも言えないだろうか。
イタリアのルネサンス時代の美術には、ギリシャ神話をモチーフにしたものも多いのである。フィレンツェにあるウッフィツィ美術館所蔵のボッティチェリ作・「ヴィーナスの誕生」や「春」は、どちらもギリシャ神話がベースとなっている。
ギリシャ神話は、人間味あふれる多神教の神々が織りなす人間臭い愛憎ドラマなのである。自然界に存在する多くの神々が織りなす愛憎溢れる物語は、日本の古事記神話にも共通アイテムとして見出すことができる。
神話研究の分野では、すでに「古事記」と「ギリシャ神話」の各所には、似たようなストーリー展開があることは知られていた。たとえばどちらも冥界訪問神話といえる、伊弉諾尊(イザナギノミコト)の黄泉の国訪問神話とギリシャの琴の名人オルフェイスが恋人を冥界から連れ戻す神話の近似性。
スサノオの狼藉に腹を立て、アマテラスが岩戸に隠れて世界が暗くなる話と、大地の女神デメテルが冥界の神ハデスに娘をさらわれ、腹を立てて世界を冬にしてしまう話の類似性。さらには、混沌(カオス)から多くの神々が誕生するという物語展開における、天地創生起源における世界観の同一性においてである。
神話には伝播説と普遍心性説とがあることを唱え、有史以前のユーラシア大陸での神話伝播の仮説を打ち立てた民族学者の大林太良氏は、著作『日本神話の起源』の中で、大陸を移動する遊牧民(スキタイ)によって神話の原型が西へ東へと運ばれていったと語ってもいる。
ここまでくると、アカデミア世界に身を浸していない素人には、お手上げの状態となる。が、素人なりにも思うことがある。この日本神話とギリシャ神話における、それぞれ共通する「結び目」についてである。日本の神話は、戦時中の忌まわしい記憶がバリア―となって現実生活からは疎遠となってしまいがちである。
しかし、ギリシャ神話は、西欧における基礎的教養として、いつの世にも変わらず共通の話題となりうるのである。それは、神話が人間相互の愛憎を巡る心理面の断片を神に擬人化してストーリー展開してきた故であろう。
神話とは、文字や紙などの記述・伝達手段が無い時代に、自然現象への畏敬の念やおおいなるモノの存在や気配の読み取りをいかにして後世へ伝えるかを模索する中で誕生してきたものである。
と同時に、甘美なエロティシズムやジェラシーに基づく極めて人間的なエモーショナルな世界をストレートに描き上げ、物語の色彩を豊かにしているのである。
絶対神という人間が創り上げた固有名詞の神との対峙ではなく、森羅万象の自然現象の気配や面影を、おおいなるモノに投影・転写していったのが、ギリシャ神話であり日本の神話ではないだろうか。それ故に、それぞれの神話の「結び目」における共通アイテムを探し出すことができるのである。二十一世紀初頭の現在、EU経済圏の中で経済不安要素が高まっているギリシャ。しかしそのギリシャの経済を下支えする、
神話の舞台への訪問客は絶えることはなく、その経済還元効果を見過ごすことはできない。混迷と混沌の時代であればこそ、人々は人類のオリジン世界へと回帰していくのではないだろうか。とすれば、東洋の端っこにある国の創生オリジン物語へのスポットライトも少しづつその光源を増していくのではないだろうか。

先日訪れた、鳥取県日南町阿毘縁地区。イザナミが葬られた「黄泉の国」伝説のひとつ、お墓山が残る土地である。その地区に隣接するのが、タタラ製鉄(日刀保タタラ)などで知られる奥出雲横田地区。その横田地区の南には、山脈を挟んで比婆山を有する庄原市がある。
国土地理院の地質解析・シームレス地図も用いながら、このゾーン(比婆山信仰圏⇒庄原市教育委員会の稲村秀介氏によるネーミング)を多角的に俯瞰する必要性を感じている。それは、先日発生した韓国・浦項(新羅国時代に渡来人が出航した港のひとつ)での地震も含めて、古代より連動する「共鳴する地殻の動き」を通じて妄想を膨らませる行為でもある。
日南町に「福寿実」とか「福万来」という、素敵な地名の場所がある。この一帯は、七月初旬にヒメホタルが乱舞するという小川が流れている。その小川の源のひとつに、標高六四六メートル峰(位置は添付写真ー下中ー参照・山名をご存じの方は教えていただきたい)がある。
国土地理院のシームレス分析図(写真・下左)によると、この標高六四六メートル峰は「火山」となっており、横田火山帯の中心的位置とされている。日南町から奥出雲町の横田地区にかけての一帯は、数十万年前には広域の火山帯であったという。
シームレス分析図によると、山陰における大きな火山帯には、大山、蒜山、三瓶山、そして、この横田火山帯である。火山と地名には少なからず因果関係があるという説がある。
日野郡は(火の群)
日南町は(日野郡の南)(火の国の南)
斐伊川は(火威川)
日登(ひのぼり・島根県雲南市)は(火登り)
国文学者の、益田勝実氏は「火山列島の思想」の中で、次のように述べている。
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原始·古代の祖先たちにとって、山は神であった。山が清浄であるからではなく、山が神秘不可測な憤怒そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった。この自明のようなところへ、日本の神道史学の山の神の探究をもどしたい、とわたしは考える。
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近年になって始まった「国民の祝日・山の日」においては、日本全国における、
「山と地形で紐解く、神話の物語」とか、
「時系列で俯瞰する、山岳地相と人間歴史相」とか、
「山・森・川・海の連関性と循環型社会の未来」とか、
「古代から近世にかけての、日本人の山岳信仰観とは」とか、
「世界各地のネイティブピープルにとっての山域とは」とか、
「アジアの宗教(ヒンズー教・チベット仏教・儒教・道教・神道)における修行フィールド・~山~」
といった感じの、時空を大きく俯瞰しながら「山」を考えるイベントなどが増えていくといいのだが・・。
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★ 是非読んでいただきたい文章がある。それは、「日本誕生の女神・伊邪那美が眠る比婆の山」南々社刊。その本の、P二一七〜二二一である。筆者は、庄原市教育委員会の稲村秀介氏。美しい調べを感じる、秀逸で格調高い「郷土・国土の未来への提言文」である。

天地のはじまりの時、高天原という場所に、神々が出現した。はじめに出現したのは天之(あめの)御中主(みなかぬし)の神、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、その次に神産巣日神(かむむすひのかみ)だった。
その後、地上世界がまだ未成熟で、水面に浮いた脂と同じく、クラゲのように漂う状態であった時に、葦の若芽のように萌えあがるものによって出現した神は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、ついで天之常立神(あめのとこたちのかみ)であった。
ここまでの五柱(ごはしら)の神は、「他と区別された、特別な天神(あまつかみ)」である。次に国之常立神(くにのとこたちのかみ)と豊雲野神(とよくもののかみ)が出現した。ここまでに出現した七柱の神はみなペアとなる神を持たずにそれぞれ単独で出現した神で、その身を隠しなさった。
これ以後に出現する神はそれぞれ男女ペアで出現することになる。まず宇比地邇神(ういじにのかみ)・妹須比智邇神(すいじにのかみ)、次に角杙神(つのぐいのかみ)・妹活杙神(いくぐいのかみ)、次に意富斗能地神(おおとのじのかみ)・妹大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、次に於母陀流神(おもだるのかみ)・妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、次に伊耶那岐神(いざなきのかみ)・妹伊耶那美神(いざなみのかみ)が出現した。
この国土をしっかりと作り固めるよう天の神さまから仰せを受けたのが伊邪那岐命・伊邪那美命であった。伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神さまは国作りとして、まず天の沼矛(あめのぬぼこ)という矛を授けられたのである。
二柱の神さまが、天の浮橋(あめのうきはし)という大きな橋の上に立ち、下界の様子を眺めてみますと、国はまだ水に浮いた油のように漂っていた。さっそく二柱の神さまは、神々より授けられた矛を海水の中にさし降ろすと、海水を力いっぱい掻き回し始めたのである。
しばらくして矛を引き上げてみると、矛の先より滴り落ちる潮が、みるまにも積もり重なって於能凝呂島(おのごろじま)という島ができあがったのである。そして二柱の神さまはその島に降りたつと、天の御柱(あめのみはしら)という大変大きな柱をたて、柱の回りを伊邪那岐命は左から、伊邪那美命は右から、それぞれ柱を廻ったのである。
そして出会ったところで「ああなんと、りっぱな男性だこと」、「ああなんと、美しい女性だろう」と呼び合い、二人で多くの島々を生んでいく。はじめに淡路島、つぎに四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島をつぎつぎと生み、最後に本州を生みだすのである。八つの島が生まれたところから、これらの島々を大八島国とよぶようになった。 これが日本の国土のはじまりである。
日本の神話の原点といえば、古事記や日本書紀。それぞれの始まり部分には、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男性神と女性神が、国生みをおこなう場面がある。その国生みの物語の、これまた最初の部分に、「オノゴロ島」というのが出てくる。両神が「オノゴロ島」にて夫婦の契りを交わしたのち、淡路島から始まる大八島を造っていった、との記載があるのである。
淡路島や壱岐、隠岐、四国などなどの島々の名前は、現代にも受け継がれており、地名としても確認できるのだが、「オノゴロ島」については、場所の確定などが不明瞭となっている。この「オノゴロ島」は、実際に存在している島なのだろか?という疑問に応えてくれる、周囲十キロ程度、人口四百五十人前後の島がある。
江戸中期の国学者、本居宣長は『古事記伝』により、オノゴロ島は淡路島北端にある絵島と見立てており、絵島説は大神貫道の『磤馭盧嶋日記』でも記載がある。さらに、オノゴロ島の候補地は様々な見解があるものの、淡路島周辺の小島であっただろうと考えられている。その中でも最有力候補として推定されているのが、淡路島の南海上四・六㌔先に位置している離島・沼島である。
沼島の海岸線には奇岩や岩礁が多く見られ、東南海岸には、矛先のような形をした高さ約三〇メートルの屹立する巨岩「上立神岩(かみたてがみいわ)」がそびえ立ち、国生みの舞台を思わせる象徴的な存在となっている。この上立神岩は、神話に登場する「天の御柱」とも言われ、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神が降り立ったと伝わっている。
日本の国土ができると、伊邪那岐命と伊邪那美命は多くの神さまを生んでいく。ところが最後に火の神さまを生むと、伊邪那美命は大火傷を負って亡くなってしまうのである。悲しさのあまり伊邪那岐命は、死者の国である黄泉の国へ伊邪那美命を連れもどしに出かけてに行くのである。
しかし、黄泉の国の食事をしてしまった伊邪那美命は、もうもとの国には帰れなくなっている。伊邪那岐命が迎えにきたことを知った伊邪那美命は、くれぐれも自分の姿を見ないよう、伊邪那岐命にいい残し、黄泉の国の神さまのもとへ相談に行くのである。
待ちきれなくなった伊邪那岐命は、髪にさしていた櫛をとって火をともし、辺りを見回したのである。そこには何としたことか、妻の姿が見るも恐ろしい姿となって、横たわっていたのである。あまりの恐ろしさに、そこから伊邪那岐命は逃げ出してしまったのである。
自分の醜い姿を見られた伊邪那美命は、髪を振り乱してその後を追いかけていく。予母都志許売(よもつしこめ)や雷神を追っ手に遣わすのである。身につけていた髪飾りや櫛を投げつけながら逃走していた伊邪那岐命だったが、黄泉比良坂よもつひらさかの坂本まで来たときにとうとう雷神に追いつかれてしまう。
そこでイザナキは、そこに生えていた桃の実を使って雷神どもを追い返す。すると今度は伊邪那美命自身が追いつき、伊邪那岐命が塞いだ大きな岩を間に挟んで、お互いに言葉を掛け合うのである。
「あなたの国の人を一日千人殺してしまおう」と言ったのである。これに対し伊邪那岐命は、「それならば、私は一日に千五百人の人を生もう」と告げたのである。それ以来、一日に多数の人が死に、より多くの人が生まれるようになったということである。
揖夜神社。この神社は『いふや神社』とも称せられてきた。
「いふや=伊賦夜」であり、黄泉の国への入り口である、伊賦夜坂(いふやさか)と同義語でもある。国生みの女神・イザナミが亡くなった後、入滅していく先が黄泉の国である。
確かに、この神社にほど近い場所に、『黄泉の比良坂』比定地があり、イザナギがその入り口を塞いだとされる大岩が鎮座している場所がある。
この揖夜(屋)神社も、その黄泉の国への入り口として、『闇世界・死後世界・夜の世界』へのゲートウェイ的存在であろう。
伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん。これは、とある古代文献に記されている文言である。
すなわち、朝日が上がる伊勢神宮と、夕陽の沈む日御碕神社が太陽運行上において対となっている。
その出雲にある日御碕神社から車で約三十分の場所に、写真の「猪目(いなめ)の洞窟」がある。小さな漁村のはずれに、夜(黄泉・死後)世界への入り口の穴が開いている。日の沈む宮の近くに、夜(黄泉・よみ)への進入路があるということになる。
夜はいずれ明けて朝が来るのと同じく、黄泉(よみ)は、黄泉がえり(甦り・蘇り)とも同義である。蘇り伝説のあるこの洞窟では、弥生時代から古墳時代にかけての人骨が十数体が発見されてもいる。古代人にとっても、死後における霊の蘇りを願って、この洞窟に葬られていたのかもしれない。
日本の国生み神話には、イザナギ(伊邪那岐)命とイザナミ(伊邪那美)命が夫婦の神として登場する。夫であるイザナギが,先立たれた妻を慕って黄泉国(死後の世界)を訪ねて行く際、その黄泉国の入口とされているのが黄泉比良坂だと伝えられてきた。
古事記では、この地を出雲国の伊賦夜坂であると記されている。さらに、黄泉国から逃げ帰ったイザナギは、黄泉比良坂に巨大な石を置いて黄泉国への道を塞いだとも伝えられている。また、この坂は「オオクニヌシの根の国訪問の話」にも登場する。
根の国に住むスサノオからの試練を掻い潜り、愛するスセリビメと手を取り合って黄泉比良坂まで逃げ切るという物語である。これらの神話に登場するように、黄泉比良坂とは「黄泉(死者の世界)と現世(生者の世界)を結ぶ通路なのである。
日本各地に黄泉比良坂の比定地はあるが、この場所には、「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」と刻まれた石碑が建っており、その隣にはイザナギが通路を塞ぐために用いたとされる巨岩もある。ただ、「伊賦夜坂へ」と表示された表札の先をしばらく進むと、黄泉国ではなく住宅街に出るのはご愛敬というものか・・。
色彩豊かな落葉広葉樹の森を有する比婆山は、広島県庄原市にある。日本の国生み神話の舞台ともいわれる『比婆山山系』である。その山麓には『出雲峠(いずもだお)』という名の出雲国との境目となる峠もある。比婆山が位置しているのは、庄原市の北端部にあり島根県奥出雲町に接している。
そう、この峠を越えるとそこは『奥出雲』なのである。国生みの女神・イザナミノミコトは、火の神カグツチを産んだ後、出雲と伯耆の国境にある『比婆のお山』に葬られると古事記には記されている。
『比婆のお山』は、いわゆる黄泉の国である。イザナミの亭主であるイザナギノミコトは、恋慕する亡き妻を求めて黄泉の国へと出かけてゆく。
しかし、変わり果てた我が妻イザナミの姿に驚き、黄泉の国からほうほうのていで脱出してくるのである。これが、『黄泉(よみ)がえり=蘇り・甦り』の始まりである。
蘇ったイザナミノミコトは、『身を清める』為に、目や鼻を聖水にての禊ぎをするのである。そして、右目からはアマテラスオオミカミ、鼻からはスサノオノミコトが成る(誕生する)のである。
そんな、古事記・日本書紀冒頭部分の舞台の一つである比婆山や吾妻山(ああ、我が妻よ)をいただく中国山地の魅力は、今後ますます多くの人々を惹きつけることであろう。
黄泉国=イザナミ墳墓伝説地の一つである、広島県庄原市にある比婆山には四つの参拝ルートがあったと言われる。その一つ、備後東口からの参道において下斎所とされていたのが熊野神社である。私はこの神社境内に足を踏み入れる度、身体の周囲の空気が一変するのを感じるのである。
それをあえて言葉で表現すれば、「ツーンとするナニモノかが、頭頂部から体幹深くを突き抜けていく」、と同時に、「フワ~とするナニモノかに、身体と周縁の空気が包みこまれていく」といった、「浄められながら溶かされていく」ような感覚であろうか。うららかな春先、木々の葉が揺らめく盛夏、寂寥感に包まれる晩秋、そして空気までが凍てつく冬。いずれの季節に訪れてもこの感覚は変わらなかった。
科学的には数値化できない一個人の身体が記憶する感覚は、あくまで獏として空ろであやふやなものである。しかし、似たような身体の感覚記憶の蘇りを、私はこれまで国内外の各所にて体感したことがある。
それは、霊峰・白山の禅定道入口である神社境内の流水場や、空中都市と称せられるインカ帝国の遺跡・マチュピチュにある巨石の祭壇、さらには、神々の座と呼ばれる世界の屋根・ヒマラヤ山脈で迎える曙光時などにてである。
私は、それらに共通していることは、「山の界(聖)」と「里の界(俗)」を結ぶ「結界的時空間」ではないかと思うのである。それでは、代表的な比婆山の登山ルート沿いに、共通する「結界的時空間」を持つ土地と照らし合わせながら、「山の霊力場」としての比婆山の奥深い魅力を紹介していくことにしよう。
明治九年頃には毎日幾千人もの登拝者が、四つの参拝ルートから御陵を目指したという調査記録もある。その善男善女たちの幾人もが、神社境内にある巨木の森にて身を凛と引き締めた後、「山の界」へと歩を進めていったのだろう。約三十分後に彼らを待ち受けたのが「水の霊力場」である。
二ノ宮手前の巨岩(神の蔵)辺りから、左手沢筋の清涼な水音が聞こえはじめる。その上流方向に耳を澄ませながら登っていくと、森の風に乗って「流音」が運ばれてくる。鳥尾の滝(ちょうのおのたき)である。この滝の飛沫を浴びながら登拝者たちは、壮大無比な天鳥船(あまのとりふね)を、奥出雲にある船通山山麓の鳥上滝(とりがみのたき)とを結ぶ天空のライン上に飛翔させるイメージを想起したことだろう。
鳥尾峯(ちょうのおのみね)という古名を持つ比婆山や船通山一帯の山岳地域は斐伊川・日野川・高梁川・江の川の分水嶺でもある。では、せっかくなので、この滝場ではちょっとひと休みをして、霊峰・白山を心に浮かべてみることにしよう。
霊峰・白山は、富士山、立山と並ぶ日本三霊山のひとつである。万葉集にも「志良夜麻(しらやま)」として登場してくる。白山を開山した秦澄が山頂で出逢った白山妙理権現は、江戸時代に菊理媛尊(くくりひめのみこと)と同一視されていく。
日本書紀での菊理媛尊は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)との夫婦喧嘩を仲裁し、さらには、黄泉の国から戻った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)へ「禊・祓い」を進言した女神である。言うなれば、死の世界からの黄泉がえり(蘇り)を担う存在である。また石川県側山麓にある白山比咩(ひめ)神社では、山からの伏流水による冬場の禊行が続けられている。
その白山は、手取川・九頭竜川・長良川・庄川という四つの河川の分水嶺に聳え、流域の人々に豊穣の実りをもたらす源でもある。このように比婆山と白山は、神話の系譜において、また水の霊力に対する信仰においても、近似値を示す多くの要素が点在しているのである。
それでは、ゆるりと腰をあげてさらに登拝の道を進むとしよう。鳥尾の滝からしばらく登ると、峡谷沿いの狭い道から尾根筋の開けた道へと変化していく。太陽光線も差し込み、樹間を渡る風にも柔らかさが増してくる。流音から土の匂いへと移行していく。聴覚から臭覚へと、鋭敏となる五感分野にも変化が生じ始めるのがわかる。
そこには、「天狗の相撲場」と呼ばれる場所がある。善男たちが踏み締めた「土の霊力場」を感じさせてくれる、標高一〇〇〇mを超す天空の神事武芸場である。そして雨乞いにも関連する山名・竜王山からの大展望を満喫した後は、立烏帽子山という屹立する岩山へと登る。
その途上には、備後東口からの参道において上斎所とされている「備後烏帽子岩」と呼ばれる巨岩がある。比婆山一帯には、冠に烏帽子と付けられた山がもうひとつある。それは、山の頂部の御陵北側にある展望の良いピークである。その二つのピークを結ぶ尾根筋沿いには、巨石や巨岩が点在し、山麓にはブナの巨樹が林立する原生林が展開している。
「水」・「土」の霊力に続いては、「石(岩)」、「樹」のエネルギーが感じられる世界が待っているのである。屹立する岩峰・立烏帽子山の山頂部から、聖地・御陵を眺めながら、地球の反対側にある岩峰群に囲まれた巨石遺跡に思いを馳せてみることにしよう。
日本人が最も訪れたい世界遺産ランキングで常時1位となるマチュピチュ遺跡は、地球の裏側ペルー国の内陸部・アンデス山脈中にある。大屈曲するアマゾン河源流の、複雑な峡谷が形成する急峻な尾根上に、その空中都市はある。
標高二千四百ⅿ前後に展開するマチュピチュ遺跡は、その両サイドを大きな岩峰に挟まれる地形となっており、双方の展望所・ワイナピチュとインカゲートからはマチュピチュ遺跡の全貌を遠望することができる。
特に砲弾を立てたような姿のワイナピチュは、どこか立烏帽子山と似かよった山容でもある。互いの山頂部近くには、岩を基盤にした斎所や祭壇などがある。ワイナピチュの祭壇は、シャーマンがそこに佇み、宇宙の神との交信をしたのではないかとも言われている。
斎所においても、これから神仏に仕えるため,けがれた物に触れず心身を清らかにしておく潔斎が求められたに違いないだろう。不動であり冷厳さのシンボルである「石や岩の霊力場」は、地球の反対側でも同じような環境下に設定されていたのである。
立烏帽子の山頂部からは、越原越(おっぱらごえ)まで下り、そこからは再び御陵まではブナの美しい森を見ながらの登りとなる。御陵手前にくると、意外にも平坦で幅広の道が待っている。昔日からの登拝者の参列が起こす賑わい音が、門栂であるイチイの古木に耳をあてると聞こえてくる気がする。
同時に人々の、聖なるものへの憧憬、清浄なるものへの思慕という、時の蓄積音が心の襞まで届いてくる気がする。このように無音の時が刻まれる、「時の霊力」を世界の屋根ヒマラヤで私は幾度も体感した。
ヒマラヤは二億五千年前まで海だった。プレートテクニクス理論によると、大きな二つの大陸が少しづつ接近し、さらに衝突隆起したのがヒマラヤ山脈であり、その隆起エネルギーは今でも継続中なのである。
まさに億年の歳月を超えても、地球という星では、天地の創生物語は完結していないのである。そんなことを考えながら、御陵の円丘の前に佇んでいると、一陣の風と一条の木漏れ日の中に、伊弉諾尊と伊弉冉尊が微笑む「気配」が感じられるかもしれない。
そう、比婆山(黄泉の国)を歩くということは、何かおおいなるモノに導かれながら、身と心が浄められていることに気付くことではないだろうか。
黄泉国(よもつくに)から逃げ帰ったイザナキは、黄泉国のけがれを祓おうとして日向(ひむか)の阿波岐原(あわきはら)というところで禊ぎをする。
そこで自身が身につけていたものや体に付着していたものを払ったところ、そこからまたさまざまな神が出現するのだが、最後に左の目を洗ったところ天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、右の目を洗ったところ月読命(ツクヨミノミコト)が、鼻を洗ったところ須佐之男命(スサノオノミコト)が出現した。
三柱の貴い神を出現させてイザナキは大喜びして、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の食国を(かたすくに)に行きたいと言って泣いてばかりいて、そのおかげで父のイザナキの怒りを買って追放されてしまう。
その後は高天原(たかまのはら)に行って姉の邪魔をし、大暴れをして姉の石屋(いわや)籠もりの原因となる行為をする。高天原の神々の働きによってアマテラスは再び出現するが、その原因を作ったスサノオは追放される。
その直後、スサノオは大気津比売神(おおげつひめのかみ)という女神を殺害するが、出雲に降った後には八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、大蛇に食われる運命にあった女神を救うことになる。
対立と和合を繰り返す、アマテラスとスサノオの姉弟の狭間(繋ぎ目)には、ツキヨミがいる。ツキヨミは神話の中では、殆ど存在感は露出してはいない。
しかし太陽(アマテラス)と、海=地球(スサノオ)の狭間には『中空としての月』が、不可視ではあるが重要な役割を果たしている。
古代から、日本人にとって『中空』を象徴するシンボルが『月』だったのではないだろか。
それは、皆既日食や月食という、信じ難い驚天動地の天空ショーを目の当たりにしたからに違いない。その中空である月が有する幻想世界は、出来得る限り後世へも残しておきたいものである。
昨今は、人工的に流れ星を発生させたり、月の裏側にいる?ウサギの数までカウントできるテクノロジーが開発されている。
ファンタジーとは、手の届かない遥か彼方にある世界への憧憬から、生まれ出ずる世界であろう。我々は、月夜に吠える狼に思いを馳せるひとときを、取り戻さなければならないと思う。
あまりに知名度の高い場所であるが、意外にも内宮だけの参拝で済ましてしまう人が多い。正式な参拝は外宮から内宮へと巡り、それぞれの境内にでは御正宮から別宮への順となる。平成天皇も外宮から内宮へと巡拝される。それに従い外宮から始めたい。明るい太陽が射し込む開放的な内宮の雰囲気とは異なり、外宮では森の木漏れ日が玉砂利の上で揺らめく静謐さが漂う。
その静謐さが生まれる源には、「まがたま池」をはじめとし、外宮の広大な森を取り巻く「水の結界」の存在があるような気がする。外宮境内参拝後は、徒歩にてわずか十分の距離にある月夜見宮(外宮・別宮)へと向かいたい。外宮北御門からほぼ直線に伸びる月夜宮への神路通は、天照大神の弟神・月読命(ツキヨミ)が夜中に外宮に通われる道と言われており、道の中央部分だけ色が変わっている。
月夜見宮ではご神木である楠の巨樹が出迎えてくれる。内宮にては数々の和歌にも詠われてきた五十鈴川の水辺へと下りてみたい。ここは御手洗場(みたらしば)と呼ばれており、古来より参拝者はこの水辺にて手と口を濯ぎ身を浄めた後に、社殿へと向かったのである。
九州にての養生プログラム。最終盤になり、ほどよく肩から力が抜けてきたのだろうか。結界ゾーンを超える際にも、身体に「無理がない」感覚を得てきている。結界について、松岡正剛氏は下記のようにとあるウェブにて記述されている。名文である。
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結界には定義はないが、何かが囲われることによって、そこに「おとづれ」が生じるところのことを言う。古代中世の結界には依代(よりしろ)や物実(ものざね)のようなエージェントがあったけれど、利休の「かこい」も結界なのである。
もう少し広げていえば、ロジェ・カイヨワの言う「ル・サクレ」(神聖な畏敬力=動物から人までが抱く侵しがたいこと)であって、またミルチャ・エリアーデの言う「エピファニー」(自律する顕現性=見えなかったことが現れること)がおこるところというものだろう。
何某かが来て、何事かが生じる。それなのにあらためて確認しようとすると、もう何かが了っている。そういうところ、あるいはそういう仕掛け、それが結界だ。
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※ 伊野神社は神殿や建物の配置も伊勢神宮を模して築造され、天照大神・手力雄神・萬幡千々姫命を祀る神社である。
「風土」の著者である思想家・和辻哲郎は次のように述べている。
『上代人がその素朴な驚異の心をもって、いかによく自然の美を感じていたかは、あらゆる恋の歌に詠み込まれた自然の情趣によっても明らかに知られる。彼らは自然を愛して、そこに渦巻ける生命と一つになる。自然の美は直ちに彼らの内生である。この親密な自然との抱擁は、自然を思惟の対象とすることを許さない。
また自然を感傷的な、主観的詠嘆の奴隷とすることをも許さない。しかし彼らがその内生を歌おうとする時には、それは必然に自然の印象によって現わされる。それほどに自然は彼らの心と親しい。』(※和辻哲郎著の日本古代文化より抜粋文)
このような、恋愛と自然に対する情を、和辻は「湿(しめ)やかな心情」とよぶ。この湿やかな情において、上代人の最も著しい特性が見られるというのである。三輪山山麓にての、大神(おおみわ)神社は力強いパワーを出す男神のエネルギーを体感し、一方で檜原神社は、清らかで澄んだ女性神のようなエネルギーを感じられるとも言われている。
ここ檜原神社は大神神社の摂社とされているが、摂社と言うよりも、大神神社と檜原神社の二社でペアのような、両方で陰陽のバランスが取れているという説もある。三つ鳥居の左手には、天照大神の神霊を、崇神天皇から託された豊鍬入姫命の御霊を奉る宮が建てられており、天照大神が伊勢に移られる前の、『元伊勢』であるとも言われている。
スサノオが高天原にやってきたとき、アマテラスは「弟はこの国を奪いに来たに違いない」と疑いの心を抱いた。自らの潔白を証明しようとしてスサノオはお互いに「うけひ」をして子神を生もうと提案する。
お互いの持ち物(スサノオの剣、アマテラスの玉)を交換し、それぞれに口に含んではき出した息の中から、スサノオは五柱の男神を、アマテラスは三柱の女神を出現させるが、アマテラスは、子神の所属はそれぞれの持ち物の元の持ち主によると宣言する。するとスサノオは、自分が女神を生んだのだから、自分の勝ちであるとの勝利宣言をし、その勢いに乗じてさまざまにあばれる。
まずアマテラスが営む田の妨害をし、その田で取れた稲を食す儀式を行う場所に糞をまき散らす。アマテラスは、はじめはその行為を咎とがめないで寛大な態度を示すが、スサノオはさらに暴れて、機織はたおりの作業をする殿に皮を剥いた馬を投げ入れた。するとそれが原因で、機織殿で機を織っていた女神が驚いて梭ひで陰部を衝いて死んでしまった。
ここに及んで、とうとうアマテラスは石屋に閉じこもってしまう。すると高天原も地上世界も真っ暗闇になってしまった。困りはてた八百万(やおよろず)〈大勢〉の神々は天安河原(あまのやすかわら)にお集まりになられ、御相談かわすのである。
御相談の結果天岩戸の前で色々な事が試されて行く。まず、長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせてみたりしても失敗する。 次に、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が招霊(おがたま)の木の枝を手に持ち舞をされ其の回りでほかの神々で騒ぎ立てる。
天岩戸の中の天照大御神は「太陽の神である自分が隠れて居るから外は真っ暗で、みんな困って居るはずなのに、外ではみんな楽しそうに騒いでいる。これはどうした事か?」と不思議に思われて天岩戸の扉を少し開けて外を御覧になった。
もう少しよく見てみようと扉を開いて体を乗り出したその時、思兼神(おもいかねのかみ)が天照大御神の手を引き、岩の扉を手力男命(たぢからをのみこと)が開け放ちまして天照大御神に天岩戸から出て頂くことが出来たのである。
そして、世の中が再び明るく平和な時代に戻ったと言われいる。暴れた須佐之男命は、その後反省し、天岩戸の里をはなれ出雲國《島根県》に行かれ、八俣大蛇(やまたのおろち)退治をするのである。
天照大御神は弟の荒ぶる神、須佐之男命の乱暴ぶりに耐えかね怒って天岩戸の岩屋の奥に隠れてしまい、世は闇に閉ざされた。困った八百万の神々はこの天安河原に集まり、天照大御神に岩戸より出てもらう為に対策を練った。
岩屋の前で宴会をして天照大御神の興味を惹こうということになった。芸達者の天鈿女命が賑やかに舞い踊り、それを肴にみなでその周りで宴会を始めたところ、その騒ぎに興味を示した天照大御神が岩戸を少し開けたところを手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸を開け投げ飛ばし、世に再び光が戻ったと高千穂町の神話に伝わる。岩陰の奥に神社があり、その裏に石の祠が残っている。
また、天岩戸神社の東本宮も必見である。ここには、七本杉と呼ばれる、根っこが繋がっている巨大な七本の杉がある。また、社の背後には、不思議な御神水が湧いている。巨杉の根っこ部分にある空洞から水が湧いているのである。
須佐之男命・御魂鎮めの御社である。出雲国風土記に、「この国は小さい国であるがよい処である。」とある。須佐之男命は、「自分の名は石木につけない、この土地につける」とが仰せらた。
そして、大須佐田、小須佐田という地名を定められ、自分の御魂を鎮められたという意が書かれてある。この神社は、スサノオの尊の御本宮として霊験あらたかな御社であり、社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝えられている。
高天原を追放されたスサノオは、出雲の肥(ひ)の河上、鳥髪山の地に降り立つ。川の上流から箸が流れてきたのを見て、上流に誰かいるのだろうと思って訪ね上る。すると、真ん中に少女を置いて、両側で泣いている老父と老女に出逢った。
スサノオはその者たちの名と、泣いている理由を尋ねたところ、「自分たち夫婦は足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)、間にいるのは娘の櫛名田比売(クシナダヒメ)だ」と答え、「自分たちには八人の娘がいたが、毎年八俣大蛇(ヤマタノオロチ)が訪れて娘をひとりずつ喰われてきた。今、最後の一人が喰らわれる時期となったので、泣いているのだ」と答えた。
スサノオはそのヤマタノオロチの姿形を尋ね、退治するための秘策を練り、娘を自分の妻として奉るように要求する。老父の言ったとおり現れたヤマタノオロチをスサノオは酒で酔わせ、眠ったところを剣で斬り刻んで退治する。
その時、大蛇の尾から一本の剣が出現し、ただの剣ではないと感じたスサノオはこれを天上界のアマテラスに献上した。これが後の草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)である。また、ヤマタノオロチが再び蘇らないようにするために8つの頭を全て切り落として埋めたという。頭を埋めた場所に8本の杉を植えて目印にしたとされる。
島根県奥出雲町にある「船通山(せんつうざん)」。ここは、島根平野を流れる斐伊川(ひいかわ)の源流域となっている。その源流にとある滝がある。その名は『鳥上の滝(とりがみのたき)』。この滝は、ヤマタノオロチの棲息地として古来伝説の地となっている。
神話によると、ヤマタノオロチは天照大神の弟、スサノオに退治される。その退治された際に、オロチの体内から『剣』が出てくる。この剣が、後の天皇家三種の神器のひとつ『草薙の剣』となるのである。船通山の山頂には、そのことを記す剣型の塔もある。
昨日の船通山は天気も素晴らしく、山頂からは伯耆(ほうき)富士とも呼ばれる名峰・大山や、三瓶山(さんべさん)などが遠望できた。別の神話では、大山と三瓶山の二つに杭が打たれ、島根半島を引き寄せたという『国引き神話』の舞台ともなっている。ここ船通山は、前述の二つの山の中間点にあり、山頂からの眺めは『国引き神話』の背景が納得できる展望が楽しめるのである。
社殿後方には「奥の院」が鎮座し、「鏡の池」と呼ばれる神池や「夫婦杉」と呼ばれる二本の大杉、「連理の椿」がある。「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。
社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かぶという手法。紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれる。このため、軽い一円玉を使うのを避け、十円もしくは百円で占いを行う。また、紙の上をイモリが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるという。
クシナダヒメと結婚したスサノオは、出雲の須賀に宮を作り、そこで結婚をし、子神を誕生させる。子神はさらに次々に次代の子神を生んでいく。やがてスサノオの六世孫として誕生したのが大国主神(オオクニヌシノカミ)であった。この神には、またの名が四つあった。大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)・葦原色許男神(アシハラノシコオノカミ)・八千矛神(ヤチホコノカミ)・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)である。
オオクニヌシ~古事記などでは、オオアナムジの名で表される~は、兄の八十神(やそがみ)たちと一緒に稲羽(いなば)の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚に出かける。その際に稲羽の素兎(シロウサギ)を助け、シロウサギからは「あなたがヤガミヒメを得るでしょう」と予言される。
その予言どおりにヤガミヒメから求婚の承諾を得たオオアナムジであったが、それがもとで兄神たちの恨みを買い、命を狙われてしまう。二度も殺されてしまったオオアナムジであったが、母神の助力によって二度とも復活する。しかし、このままでは本当に殺されてしまうと危惧した母神は、オオアナムジにスサノオのいる根の堅州国へ行くようにと指示する。
指示に従って根の堅州国に出かけたオオアナムジは、そこでスサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)と出逢って結婚する。その後、スサノオからいくつかの試練を与えられたオオアナムジは、スセリビメの助力を得てそれらの試練を乗り越え、最後にスセリビメを連れ、スサノオの琴・弓・矢を持って根の堅州国から逃げ出すことになる。
逃げるオオアナムジに向けてスサノオは、「お前はわが娘を正妻とし、その弓と矢でもって兄神たちを追い払い、オオクニヌシとなり、またウツシクニタマとなって、立派な宮殿を作れ」という言葉をかける。
アマテラスは、かつてスサノオとの「うけひ」で産んだ男神五柱のうちの長男である天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に、「この地上世界は倭が御子であるオシホミミが統治する国だ」と宣言をして、派遣する。
オシホミミは、いったんは天浮橋(あめのうきはし)に立ち、地上の様子を窺うが、地上世界はとても騒がしいと言って、高天原に還り上り、報告をする。報告を受けたアマテラス・高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は、高天原の神々と相談し、「この地上世界(葦原中国)は荒ぶる国つ神どもが跋扈ばっこしている国だ。誰を派遣して言向ことむけ(服従)させようか」とたずねた。
相談の上、まずはオシホミミの弟にあたる天菩比神(アメノホヒノカミ)を派遣するが、この神は相手に寝返ってしまって、還ってこなかった。次に天若日子(アメワカヒコ)を派遣するが、この神は自らが地上の主になろうという野心を抱いていたために、自分が天上界に放った矢を投げ返されてその矢に射られて死んでしまった。
三番目に派遣された建御雷神(タケミカズチノカミ)は、オオクニヌシとその子神の事代主神(コトシロヌシノカミ)・建御名方神(タケミナカタノカミ)を服従させ、国譲りを成功させる。オオクニヌシは、「天神御子の宮殿と同じように壮大な宮殿を、自分が鎮まるために建ててもらえるならば、出雲国に鎮まるだろう」と言って国を譲り渡した。
国譲り神話の浜としてその名を知られているが、別の神話の地にも近い場所だということは意外にも知られていない。この稲佐の浜に立ち、南西方向を見てほしい。浜に打ち寄せてくる波の上に、ほれぼれするくらい優美な尾根ラインを見せている山がある。
国引き神話に登場する三瓶(さんべ)山である。その三瓶山方面へと弓状に続いていくのが、国引きの際の網になったといわれる長浜海岸(薗の長浜)である。日本歴史にとり重要な二つの神話が接する場所としても、稲佐の浜の魅力がわかっていただけるだろう。
その浜にはぜひ出雲大社から徒歩にてアプローチをしてほしい。人出の多い大社内を西に抜けると、すぐ閑静な住宅地へと入っていく。左手には、出雲阿国(歌舞伎の原型を創始した安土桃山時代の女性芸能者)の墓所や諸寺の墓地が連続してくる。
墓地群が終わるころ、前方から波が浜に打ち寄せる音が聞こえてくるだろう。
その打ち寄せる波の音とともに、旧暦十月の神在月(かみありつき)に全国から八百万の神々が出雲へと還ってくるのだろう。
写真は、本殿の回廊を巡っている参拝者である。今年(二〇一三年)は、出雲大社の遷宮の年にあたる。この遷宮・・、大社の神様を祀る本殿の屋根を葺き替える為に、ご神体を別の場所に遷すのである。
それが六〇年に一度おこなわれる儀式なのである。六〇年に一度、ということはほとんどの人が、「人生にたった一度だけ」の出来事なのではないだろうか。なんたら彗星が地球に接近する・・、とか、ちょっと前までの阪神タイガースが〇〇年に一度だけ優勝する、とか、世の中には何十年に一度だけという出来事があるが、この出雲大社の遷宮は、そんじゅうそこらの出来事とは比較にならないのである。
なんたって、出雲大社は縁結びの神様というだけでなく、日本の国造り神話の故郷でもあるのだ。その日本の歴史に大きく関わる儀式のひとつが、この「遷宮」なのである。人生にたった一度だけの体験のご縁に感謝である。
拝殿の前にある、大きな〇3つ。この〇が、古代の出雲大社の謎を解き明かしてくれるのである。この〇は、神殿の巨大な柱だった痕跡なのである。この〇の部分に巨大な柱があったのだ。その柱の高さは、四八メートルにも及んでいたとも言われている。その柱の上に古代の神殿があったというのである。
二〇〇〇年に出雲大社境内から、直径約一.三五メートルの巨木を三本組にして一つの柱とする、一二四八年(鎌倉時代)に完成した巨大柱が発見されたことからも、四八m説は実存した可能性が高いと推定されているそうである。現代でいえば、十五階建てのビルに相当する高さなのだ。
この山の明媚な美しさへの深い理解は、とある場所と時間帯を知ることによって得られるはずである。
その場所とは、大山の北側に弧線を描くような波打ち際を有する「弓ヶ浜」であり、時間帯とは日の出前の黎明どきである。まさに、国引き神話(出雲風土記)に登場する杭(大山)と網(弓ヶ浜)にも通ずる位置関係である。
神話に登場する二つの場所を視野に収めながら、刻一刻変容していく空と海、そして山に射し込む光彩美の世界に浸れるのである。古代から変わらぬ夜明けの色調には、日本最古級の神山ならではの物語性が織り込まれているに違いない。
そんな神山・大山は二〇一八年に山岳修験道・開山一三〇〇年を迎え、改めて霊山としての奥深さがクローズアップされている。神話の物語性とともに、修験霊山としての神秘性が共存する稀有な山域として再注目されてもいる。
大山寺から大神山神社への参道筋は、苔むした石畳が敷き詰められており、夏は森林浴、秋には紅葉狩などで五感をを癒しながら歩けるのもいい。
天神の神と天満の神が祀られている池のほとりを歩く。六十年に一度の儀式をおこなっている出雲大社。
とある人から、出雲大社の秘所ともいうべき「北島氏のお社」を紹介された。もともと出雲大社には、国造家としてふたつの家があったのである。
出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が世襲している。出雲国造家は、南北朝時代(千一三四〇年頃、康永年間)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗り、幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していたという。
現在では、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教とそれぞれ宗教法人を主宰しているが、出雲大社自体は神社本庁の傘下であり、宮司は千家氏が担っている。この千家氏の出雲大社教のお社は有名である。なかには、このお社を出雲大社の本殿と勘違いしている人もいるくらいである
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今回、初めて北島氏の出雲教のお社の敷地内に入ったのである。こんなに静寂で、上品で、優雅で、そして凛とした空気感が漂っている場所があるとは驚きであった。出雲大社の奥深さを改めて知ることになったのである。
出雲国造家の一つ、北島家の庭。この庭の奥には滝がある。滝が流れ落ちる小さな池は、古木に囲まれており、幽玄な空気をその水面に漂わせている。池の出島には、少名毘古那神を祀る天神社があり、古木の林をすり抜けた木漏れ日を浴びていた。ここは、出雲大社に来る折には必ず立ち寄る場所である。
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少名毘古那神(すくなびこなのみこと)とは、《古事記》では神産巣日(かんむすひ)神の,《日本書紀》では高皇産霊(たかみむすひ)尊の子とされている。大国主神の国土経営に協力したが,伯耆(ほうき)国淡島で粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて常世(とこよ)国に行ったとされている。農業・酒造・医薬・温泉の神として信仰される。
導きの神・佐太大神を祀る佐太神社。本殿前の庭におかれている、不思議なモノ(海草や塩水のはいった竹)がある。
中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになった。
この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから、「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めている。
神職の方にお聞きしたところ、この風習は近隣の集落に残るものだそうだ。近親者の死亡などがあった場合に、このように海草などを海から採取し、境内に備えられた掛け木にかけるそうである。また、海水の入った竹筒もかけるそうだ。そうして、死者の鎮魂を願うそうなのである。
島根県邑南町にある(県)天然記念物「志都(しず)の岩屋」。まず、この神社へのアプローチ道には、神秘の森とも称せられる静謐の森がある。森の中には「くぐり岩」と呼ばれる巨石などある。その森の先には、柔らかい木漏れ日の射す登り参道がある。参道を登り切ると小ぶりではあるが、歴史を感じさせる拝殿が突如現れるのである。
拝殿を小ぶりに感じさせるのは、その背後にある巨大な岩の存在であろう。その巨岩が「志都の岩屋=鏡岩」である。この巨大な一枚岩は、縄文時代から信仰の対象となり崇拝されてきたと伝えられる。また万葉集にも詠われている。大国主命(大汝:おおなむち)と少彦名命(すくなひこなのみこと)がここで国造りをおこなったという物語である。
また、鏡岩の窪みに五円玉(写真左)をくくりつけると、良きご縁(ごえん)が訪れるとして、若い男女の隠れた出会いスポットでもあるらしい。巨大石の脇からは清らかな水が湧き出ている。この水は県の名水百選にも数えられている「志都岩屋の薬清水」と呼ばれている。
この岩屋は『弥山』と呼ばれる修験道の山の山腹に位置している。約20分程度で、その山頂までも登れるのである。その登山道においても、左右には巨岩や奇岩が迫ってくるのである。神話伝説、万葉集、そして修験道の故地として古来信仰を集めてきた聖なる土地である。
ここは、記紀神話の大国主神と少彦名神の国造り伝承に由来し、万葉集に収められている生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(おほなむち すくなひこのいましけむ しつのいわやは いくよへにけむ)」に詠まれた地の比定候補地の一つである。ちなみに、他の2つは、生石神社の石乃宝殿(兵庫県高砂市)と静之窟(島根県大田市)。
「オオクニヌシの物語」ゆかりの舞台である。『出雲国風土記』飯石郡の琴引山の条には、古老の言い伝えでは、この山の峯に窟があり、その内に天下造らしし大神の御琴があったので、琴引山という名となった、という由来が記されている。
『出雲国風土記』ではオオクニヌシを「所造天下大神(天下造らしし大神)」「所造天下大神大穴持命(天下造らしし大神おおなもちのみこと)」と記す。ここに登場する「御琴」は琴の形の石と考えられ、山の中腹にある「大神石」と呼ばれる巨石の中にある琴型と石だと考えられている。
山頂からは北方に三瓶山を望むことができる。琴引山の山頂をやや下がった巨岩の割れ目には琴弾山神社があり、大国主命と伊弉冊尊(イザナミノミコト)が祀られている。
韓竈神社(からかまじんじゃ)。島根半島にある小さな神社である。参詣入り口にある鳥居前に佇み、上部に視線を向けると、思わず後ろずさりしたくなるかもしれない。それは、急峻な石段に気圧されるだけなのではない。この神域全体が持つ、圧倒的な存在感に気を呑まれてしまうからなのである。
鳥居に至るアプローチ道そのものが、静寂な森へのゲートウェイとなっている。鳥居近くには、素盞嗚命(スサノオノミコト)が、新羅から鉄器技術や植樹法を伝える為、乗って来た『岩船』との伝説が残る苔むした大岩があり、この神社の稀有な名前の背景がおぼろげながら理解できる。
おそらくや、朝鮮半島より渡来した先端的金属技術者集団の祭神であったのかもしれない。そんな古代歴史に思いを馳せながら急峻な石段を昇ってゆくと、眼前に巨大な岩塊が現れるのである。その岩塊の中央部には、幅約50センチ弱の裂け目が縦方向に走っている。
この裂け目を通過しないと、社殿には到達できなのである。魂の浄化の前には、身体のスリム化が求められているのかもしれない。巨岩の裂け目が、自然の結界となっているのであり、古代人の自然崇拝の一端に触れることができる。この神社から、山陰地方の名刹である鰐淵寺まではさほど遠くないので、韓竈神社と併せて参詣されることをお薦めする。
藤森栄一氏は、その著書「古道」の中で、出雲族の東漸(諏訪地方への)を次のように述べている。
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まず、神話によると、弥生時代にきずきあげられた水稲農耕による先住の共同体を、正面から強引に乗っとろうとした人々がいる。高天原の神々ということになっているが、それも、遠からず該当者はわかることだろう。先住者のうちには、帰順したものと、抵抗した者とがいた。そのレジスタンスの英雄は、グリラになって戦いながら、信濃国州羽の海にたてこもったと伝えている。
名はタケミナカタといい、オオクニヌシの第二子、出雲族の代表者で、諏訪大社に祭られている。彼らの流亡の道はどこだったか。ところが、この出雲族の大移動については、肝心のよるべき文献『古事記』の記述が、出雲から一足とびに信濃にとんでいるので、古くから常識的に可能な、いくつかの道が考えられてきた。
幸いなことに、大正年代、諏訪教育会の『諏訪史』編集の仕事の一端として、官地直一さんが中心に蒐集した、これに関するあらゆる説話が残されている。要するに、信濃から流出する三つの川筋、姫川・信濃川・天竜川の交通である。その中でも姫川説ーこれがもっとも有力であった。
出雲に、その代名詞となったオオクニヌシや、コトシロヌシのゆかりの神社説話が多く、東へ移動して、能登の気多神社など、諏訪とよく似た祭事伝承を残すものは、当然のこととして、内陸諏訪への入口、越後には、諏訪神社数じつに一五二二社、その実数・分布密度ともに、日本一という諏訪信仰を残している。
国譲りの交渉が無事に終わり、ようやくアマテラスは子神を降臨させることができるようになる。当初降臨を予定していたオシホミミにアマテラスと高木神(タカギノカミ=タカミムスヒノカミの別名)が改めて降臨を命じたところ、オシホミミは、自分に子ができたので、この子神を降臨させようと言う。
その子が番能邇々芸命(ホノニニギノミコト)である。ニニギは五柱の随伴神を伴い、天久米命(あまつくめのみこと)・道臣命(みちのおみのみこと)を先導役とし、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流岳(くじふるだけ)に降臨する。筑紫の日向の高千穂の久士布流岳に降臨したニニギは、「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の御前(みさき)にまっすぐに通っていて、朝日がまっすぐに差す国、夕日の照り映える国だ。ここはとても良いところだ」と言って、壮大な宮殿を立てたのである(これが高千穂宮である)。
日向(ひむか)に降臨したニニギは、その後、笠沙の御前で一人の美女に出逢う。名を尋ねたところ、大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘で木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)であるという。ニニギは求婚するが、娘は、返事は父がするという。話を聞いた父神はたいそう喜び、姉の石長比売(イワナガヒメ)と併せて嫁がせようと言う。
しかし姉のイワナガヒメはたいそう醜かったので、ニニギは妹のサクヤビメだけを娶めとり、姉の方は返してしまった。父神は怒り、「姉を嫁がせたのは、天神の御子の命が永遠につづくためであった。妹を嫁がせたのは、天神の御子たちが繁栄するためであった。今、姉を送り返したことによって、歴代天皇の命は木の花のようにはかないものになるであろう」と言った。
その後、ニニギはサクヤビメと「一夜婚」を行う。するとサクヤビメは一夜で懐妊をした。ニニギはそのことを疑わしく思い、「その子は地上の神の子であろう」と言ってサクヤビメを責めた。サクヤビメは、自身の潔白を証明しようと思い、戸のない室に籠もり、火を放ってその中で出産をする。「これで無事に生まれなかったならば、この子は地上の神の子でしょう。無事に生まれたならば、そのときは間違いなく天神御子であるあなたさまの子なのです」と言い、決死の出産を行うのであった。
やがて無事に生まれたのか、火照命(ホデリノミコト・海幸彦)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト・山幸彦)であった。この後にいわゆる「海幸山幸の神話」が展開し、結果的に兄であるホデリは弟のホオリに従うところとなる。このホデリは、隼人はやとの祖であるという。
山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は『記紀』において、天孫族と隼人族との闘争を神話化したものといわれている。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれる。古代日本において、南九州にいたとされる熊襲の平定服従を元に説く日向神話(ひむかしんわ)に登場する。海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神ホデリ(火照)の末裔が、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人とされる。
なお、この神話は日本書紀を編纂した天武天皇が設定したとする説がある。また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島太郎の話の元になっているとされる。こうした「山幸彦と海幸彦」の話は、日本各地に「海彦と山彦」として伝えられている。
約一万年にわたり続いたといわれる縄文時代。その『持続可能性社会』の要因を探ることは、近未来の生物多様性など環境問題を考える上で大きな示唆を与えてくれるはずであろう。人の欲にとって『必要最小限度の境界線』をどの辺りに引けばいいのかも見えてくるかもしれない。
また、稲作経済を土台とし社会が組織化されるなかで発生した、『見えない権威や、マジョリティへの自主的隷属』という『泥濘の社会病理』を打破するヒントは、隼人や蝦夷・熊襲、土蜘蛛や国栖など朝廷への抵抗勢力や、遊芸・漂泊・修験道、流浪の民など『まつろわぬ民』の行動原理や精神構造を紐解くことで浮彫りになってくるかもしれない。
ホオリは、海神宮の娘、豊玉毘売(トヨタマビメ)を妻としていた。あるときトヨタマビメが、ホオリの子を懐妊したが、天神の子を海原で産むわけにはいかないと、海神宮からやってきた。トヨタマビメは、「私たちの国の者は、出産のときには本国の姿になって産むので、その姿を見てはならない」と言い、鵜(う)の羽を茅葺(かやぶき)とした産屋(うぶや)に籠もって出産をしようとする。
ところが産屋が完成する前に産気づいてしまい、ヒメはその産屋に籠もって出産しようとする。「見てはならない」と言われていたホオリは、見たいという気持ちを抑えることができずについ覗いてしまった。するとそこに見えたのは、八尋和邇(やひろわに)の姿となってのたうっているトヨタマビメの姿であった。ヒメは無事に子神(鵜葺草葺不合命=うがやふきあえずのみこと=神武天皇の父となる)を出産するが、見られたことを恥に思い、ホオリを恨んで海神宮の世界に戻ってしまう。
~下り坂参道を持つ鵜戸神宮~
神殿への参道は登坂が一般的である。身体を下降させながら神域へと接近する「下り坂参道」は稀少であり。主たる三大下り宮というのがある。群馬県にある貫前(ぬきさき)神社、熊本県の草部吉見(くさかべよしみ)神社、そしてここ鵜戸神宮である。
特に鵜戸神宮は、海際の岩礁帯へと降りていくので、荒波が打ち上げる波しぶきが身を浄めてくれる。まず、その奇怪な姿をした巨岩群に目を瞠ることだろう。まるでカッパドキア(トルコ東部)にある岩峰群を連想させてくれる。
神話上において、神武天皇の父親である日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の産殿の址といわれる洞窟は、高さ8.5m、東西38m、南北29m、の巨大な岩窟(海食洞)である。
日向灘に面したその洞窟の内に本殿が鎮座している。奇岩連なる岩礁には、主祭神の母君である豊玉姫が出産の折に乗って来たと伝えられる霊石亀石がある。
この亀石の背中に桝状の窪みがあり、この窪みに「運玉」を投げ入れることができると願いが叶うといわれている。
本殿正面に並ぶ五基の鳥居と、海から続く参道は圧巻のひと言であろう。
満潮時には社殿近くまで海水が満ち、その姿は竜宮城を思わせる。本殿には豊玉姫の御陵がたたずむ。
境内には三柱の鳥居もある。ここは、神武天皇の祖父母が祀られた竜宮伝説が残る神秘の地である。
海中にそびえる鳥居の姿が神々しい和多都美神社には、山幸彦として知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫が祀られており、竜宮伝説が残る場所としても名高い。
海で釣り針を失くして困り果てていた彦火火出見尊は、塩椎神(しおつちのかみ)に導かれて海神に会ったところ気に入られ、その娘である豊玉姫と結婚。
楽しく三年の月日を過ごしたが故郷を忘れられず、豊玉姫から宝の玉をもらい地上へ戻っていったという。ちなみに、彼らの子である鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は、豊玉姫の妹の玉依姫との間に神武天皇をもうけたのである。
吾平山上陵のある鹿屋市の「吾平町」(あいらちょう)は、かつて大隅国の姶羅郡姶良郷(あいらぐんあいらごう)であったところである。薩摩藩支配のあと一八八九年(明治二二年)から一九四七年(昭和二二年)までは肝属郡姶良村(あいらむら)であった。
宮内庁により、ウガヤフキアエズとその妻玉依姫命の御陵に治定されており、円形の塚の大きな方が前者の陵、小さな方が後者の陵であるといわれている。
ここは、アマテラス大御神の孫にあたる、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓比定地。この瓊瓊杵尊が、天孫降臨神話の主人公と言ってもいいだろう。古事記によると、日向の高千穂峯から吾田長屋笠狭岬に至り、大山祇神の娘の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚する。姫との間に火闌降命、彦火火出見尊らを得、久しくして崩御。可愛之山稜に葬られたとされている。敷地内には、クスノキの大木が林立しており、凛とした空気が張り詰めている。
宮崎の霊山・尾鈴山へ。その山麓にある『矢研(やとぎ)の滝』へ。この滝は、神武天皇が東征に向かう前に、自らの剣や矢などをこの滝の水で研いだ、という伝説がある。いわゆる、天孫降臨地である高千穂から、水路を日南の海岸へと移動し、さらに、そこから船出する。
その後は、瀬戸内海を経、熊野灘に一度南下。さらには、紀州半島を陸路北上し、橿原の地へと東征する。そして、奈良の盆地にて初代天皇として君臨していく神武天皇伝説。いってみれば、この滝周辺のエリアは、その『東征のはじまり』の地なのであろう。
『古事記』上巻は、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依比売(たまよりひめ)との間に四柱の男子が誕生し、その内の次男の稲氷命(いなひのみこと)が「妣(はは)の国」として海原に入り、三男の御毛沼命(みけぬのみこと)が常世国(とこよのくに)に渡ったというところで終わる。
中巻は、残った長男と四男とが、天下を治めるべき良き場所を求めて東へ行こうと相談するところから始まる。この長男が五瀬命(イツセノミコト)、そして末っ子の四男が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、すなわち日本初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)である。
一行は高千穂宮を出発し、筑紫・安芸・吉備などを経て大阪湾に入り、大阪方面から大和へ入ろうとするが、在地勢力の抵抗にあい、兄イツセは矢に射られて負傷してしまう。そのとき兄は、「日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。これからは迂回をして日を背に負って戦おう」と言った。
しかしその後、兄イツセは紀伊国において戦死してしまう。残った一行は紀伊半島を南下して熊野から大和へ入ろうとする。熊野に至った際には大きな熊が現れて、一行を気絶させる。そのとき、夢で高天原のアマテラス・高木神(タカギノカミ=タカミムスヒの別名)の命を受け、剣を授かった高倉下(たかくらじ)という者が、その剣をもたらしたところ、一行は目覚めることができた。
その後、タカギノカミが授けた八咫烏(やたがらす)の先導を受けたり、国つ神の服従を受けたりしながら、刃向かう者を征討し、苦労しながらもヤマトの畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)で即位する。
伝承によると、神武天皇は高千穂の宮を出てから宮崎県児湯郡都農町川北にある都農(つの)神社 に寄ったとされている。都農神社は『延喜式』にのっている小社で、祭神は大己貴(おおなむち)の神である。さらに、神武天皇は美々津(古名は美弥、耳津とも書く)に寄港する。ここから東征の旅に船出し たといわれている。美々津は西方は山、東方は日向灘をのぞみ、耳川が海にそそぐ。
美々津には立磐神社があり、神武天皇をまつる。この神社に神武天皇が順風を待つ間、 少し休憩したという腰掛石があり、「神武天皇進発の碑」が建っている。なお、美々津港の入り口にある黒島と八重島のあいだからは、古来船出をしない習慣が ある。これは天皇の東征軍がこの間から出航して、二度と戻らなかったので、それを忌むためとい れている。
美々津を出港後、北上して豊の国の宇沙(現在の宇佐)に着く。宇沙の国造の祖の宇沙都比古と宇沙都 比売が宇沙の川上に足一騰(あしひとつあがり)の宮をつくってもてなしたという。
『先代旧事本紀』によると、神武天皇の時代に高産巣日尊の孫の宇沙都比古を国造に定めたと記されている。
つぎに筑紫の岡の水門にいたる。筑前の国遠賀郡芦屋町で遠賀川の河口付近である。ここに岡田の宮をつくる。近畿へ行くには宇佐から直接東に向かった方が距離的に早いのだが、やや西よりの岡の水門の地に一時都をかまえたのは、北九州の旧邪馬台国の兵を鳩合するためか。
『古事記』によると、神武天皇は、岡田の地から出発して、安芸の国の多理(たけり)の宮(広島県安芸郡府中町)、そして、吉備の国の高島の宮(岡山県高島の地かという)をへて、大和に向かう。しかし、『日本書紀』では、途中、安芸の国の埃(え)の宮に滞在したことになっている。
『土蜘蛛』は、中世の『能』の演題にもなっているが、日本書紀(特に神武天皇東征伝)においても登場している。河内の国にての戦に神武天皇側が敗れる、その相手の長が『長髄彦(ながすねひこ)』である。脛の長い彦(男達)という種族への俗称であろう。
また、奈良県と大阪の境にある葛城・金剛山系には、『土蜘蛛塚』などの遺構が点在するのである。葛城山系といえば、山岳修験道の開祖であり、時の権力に歯向かった役行者の故郷でもある。居を定めず、山中異界を闊歩する『山人=山伏』。その開祖・役行者は縄文系の末裔であったと推定するのも、あながちハズレとはいいがたい。
ここでのキーワード群、縄文=東北蝦夷=宮沢賢治の宇宙=遠野の異界人=土蜘蛛=役行者=修験道、に通底するラインが朧気ながら浮彫りとなってくる。さらに、民俗学者・沖浦和光氏の記述にある「佐伯(さへき)」という種族も縄文系に連なるとされている。真言密教(東密)の開祖である、弘法大師・空海は、讃岐国の佐伯族が出自である。弘法大師は唐にわたる前、数年間にわたり畿内や四国の山中を彷徨していたとされている。
一説には、『丹=水銀』の鉱脈を探していたともされている。これにより、縄文人=狩猟採集=山中彷徨=鉱山師=修験道=密教、という大きな流れが見えてくるのではないだろうか。
神武東征神話は「旅立」→「試練」→「成就」という神話における共通構造を持っている。和歌山が描かれているのは、この中の「試練」の物語であろう。
神武天皇は東大阪の孔舎衛坂(くさえさか)で敗戦した後、兄神たちを失いながらも軍を南へ進め、紀伊半島の熊野に上陸する。
熊野では軍を率いて狭野(さの)を越え、熊野神邑(みわのむら)に着き、天磐盾(あまのいわたて)に登ったとされている。この狭野とは現在の新宮市佐野、神邑は阿須賀神社あたり、天磐盾は神倉神社のある神倉山といわれている。
その後、神武天皇は熊野の丹敷浦(にしきのうら)で丹敷戸畔(にしきとべ)という者を討伐したが、その場所は境内に神武天皇頓宮跡の碑が立つ熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)あたりとされている。
また、熊野那智大社も東征神話に絡む創建経緯があるとされ、そのシンボル・八咫烏(やたがらす)は道案内を務め神武天皇を助けたと伝わっている。熊野地方を抜けた後、奈良盆地に至り橿原の地に到達するのである。
中国の西南部、貴州省や雲南省に住む少数民族・ミャオ族の女性は、農作業の合間合間に、祭り用の衣装に刺繍を施す。そのデザインにおいて、蝶はミャオ族の始祖をシンボライズし、龍は雨と風を呼ぶ五穀豊穣を意味しているという。
文字を持たなかったミャオ族が、歌や口承によって伝え継いできた信仰や精神性などの民族知がその刺繍には縫い込まれている。さらに、衣装に付着されている金銀のアクセサリーの背景にも民族の物語が隠されている。
先祖は金や銀で造った柱にて混沌の天地を押し開き、金の太陽・銀の月・満天の星を鋳造したという物語である。民族の古書によれば、彼らの先祖は黄河流域の下流と長江下流の平原地帯で生活していた。しかし、漢族の勢力に敗れ西南方面への移動を余儀なくされたというのである。
一説によると、同時期にミャオ族とは逆方向に移動させられた部族がおり、その一派は流れ流れて東海の島へと辿り着いたという。彼らのことを『倭人(わじん)』と称し、後に彼らが創った国を『倭国(日本)』と呼んだともいわれている。
すなわち、ベトナムなどに隣接する中国西南部に居住する少数民族と倭人とは、遠くない関係性を過去に有していた可能性も示唆されている。そう思えば、輪の中心で踊りながら演奏する男性の持つ楽器は、雅楽で用いられる笙(しょう)に類似した形と音であったことも頷けるのである。
2023年5月22日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。