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騎士と夕暮れ

たいいちろう

ANUENUEBOOKS



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 その兵士は刃がこぼれ落ちたその疲れ果てた剣を砂に刺すと、ゆっくりとなにかを確かめるかのように鎧を脱ぎ捨て、夕暮れどきの砂浜に腰を下ろす。
 傷ついたその体に、夏から秋へと移行していく赤とオレンジの色が混ざった夕暮れの空から抱きしめられているかのような、抱擁の優しい日差しが彼に届いては、静かにどこまでも安らぎを与えてくれるその光が、海の表情をも温かいものへと変えていく。
 その光は太古の昔から存在しているかのようで、それは心に平穏を与えるひと欠片の星々が持つ模様のようでもあり、兵士の体じゅうに無数にできた多くの傷の痛みを癒してくれてもいた。
 その砂浜には誰もいない。
 傷ついた一人の兵士が、ただ一人で夕暮れどきの海辺の砂浜に腰を下ろし、どこか遥か彼方を眺めている。
「自分の生きてきた道とはなんだったのか?」
 彼はある王国の一兵士であった。
 小さなその王国のために、純粋にやみくもに命を賭けて闘ってきた。彼なりの闘う美学や目的がそこにはあった。
 人間は綺麗さだけの生き物ではない。目を背けたい人の一面がときには己の生きるための剣の牙を削り取り、その鋭い剣が折れてしまうこともあるのだ。
 それでも、剣の切れを磨き続ける器が、一流の兵士ならば必要なことでもあるのだろう。
 彼には体の無数の傷とともに、心にもまた多くの傷があった。
 自分のためではなく、王を守り、王妃を守るために、城を守るためにその傷はできたものだ。彼はずっと己のために生きることを忘れてもいた。
 今はその王国はなく、国を動かすことにおいて国王の横暴な判断により、その国は滅びてしまった。
 多くの兵士は行き場を失った。よその国側につくものもいれば、遠く離れた故郷などに帰る者などもいた。
 彼には戻る場所はない。なので、あてのない旅の果てに、気付けばこの美しい海のある見知らぬ砂浜に引き寄せられていたのだ。
 海の水平線を見ると、世界が丸いものだということを教えてくれる。
 彼は夕暮れの光に包まれながら、ふと時間が止まっていることに気が付いた。潮風も、流れる海の空気も、光に揺れる波も止まっている。
 それは過去のすべてがまるでなかったかのように。
 今を生きろと、なにもかもをもう一度、再生しなおすかのように。
 あなたの大切な心はあなたのものなのだよと、そう教えてくれているかのように。
 体がやがて熱をおびて発熱しだすと、兵士は自分が生きているという実感を、その自身が持つ全細胞から感じ始める。
 夢でもみているのだろうか?
 彼の隣には、なにか希望が寄り添うようだった。それを決して離したくはない、離れたくはないとそう感じる。
 生きるなにもかもが、幻のようにその意味を持たないとしても、この瞬間にあるものは確かなもので、時間が止まったなかで、優しい夕暮れの赤とオレンジの色が、その色をただ無条件に海の水平線をどこまでも広がっては、どこまでも伸びていく。
 やがて心はこの空の色と同化して染まっては、遥か彼方まで舞い上がっていくのだ。
 兵士は瞳を閉じた。
 見えない足元には細かく繊細な砂の感触を感じる。そして瞳を閉じて生まれた見えない世界から、もう一つの世界が瞳に映し出される。そこには鏡がある。
 鏡をよく見ると、その鏡の向こう側には、こことは別の世界がそこには広がっている。
 それはどこかの街。どこかの静かな街。どこかの夕暮れの街。
 鏡の向こう側から、美しい夕日が見えるのと同時に慈愛に満ちた優しい声が聞こえてくる。
 鏡の前に、兵士である彼は立つ。
 静かに穏やかに夕暮れが沈んでいくのが、視界に入ってくる。
 なんて、美しい夕日なのだろう。
 この夕日をその世界から届けて貰えていることに、鏡のなかのその光景を眺めながら彼は涙を浮かべた。それは遠い苦しい過去から帰還するようで、久しぶりに感じた心からの安らぎであった。
 鏡の向こう側から、彼の傷ついた心を慰め、その心を癒してくれる慈愛の言葉が、彼へと伝えられる。
 彼はその言葉に耳を傾け、耳を澄まし、心の中へと染みこませた。
 その愛が溢れる言葉たちは、彼の心と体にできた傷を、優しく癒し、治していく。
 彼は鏡に身を近づけて、そっと両の手の平をあてた。
 その鏡は色をつけず、世界のどんなものよりも透明で無限の光を宿し、無限の光を通し、彼の闇なるものを消し去ると、すべてを正しいものへと導いていく。
 鏡の向こう側の声をよく確かめると、その声の主は女性の声であった。
 愛や闘いの女神の神話を聞いたことがある。神話では彼女は海で生まれ、誕生したと伝えられている。
 女神アフロディテ。
 彼にとってその声はそんな女神の慈愛の言葉そのものであり、その慈愛の優しさを感じるたびに瞳から涙が零れ落ちる。
 そして、その涙の雫が静かに砂浜を濡らしていく。
 彼はこの声の彼女がこの世界に生まれてきてくれたことを心から感謝し、祝福する。そして、彼女がこの世界に誕生したことの祝いの言葉を心から伝えるのであった。
 やがて、砂を濡らした涙は砂浜に脱ぎ捨てた錆びた鎧を新しくし、刃がこぼれた剣を再び美しくする。
 疲れ果てた彼の魂を蘇らせ、その脚には脚力を取り戻させ、彼に兵士ではなく騎士としての誇りを取り戻させる。
 王国の為に命を賭けて闘った。
 だが、彼にはなにも残らなかった。国や人のために闘ったあとに残ったものがなにかあったのか。
 得たものは多くの無数の傷だけではなかったか。
 そうではない。騎士としての誇りを失っていたのだ。生きることの意味を見失っていたのだ。
 なにかはっきりとはしないが、大切なことを忘れていたことに、彼は気付くのであった。
 魂を正しい方向へと向かわせる、方向を見失った魂を連れ戻してくれる声。
 傷を癒してくれる、優しき奇跡のような言葉たち。
 久しく聞いたことのない言葉。
 その声は彼に思い出させる。
 己の生命を謳い上げる大切さを。その尊さを。
 兵士から騎士へと、彼のその魂が帰還する。
 鏡の向こう側から、慈愛の声が聞こえてくる。
 優しい声。
 安らぐ声。
 生きていてよかったとそう思える声。
 女神のその言葉はどこまでも己の魂を自由にしてくれる。
 美しくあれ。 
 人生とはよいものだ。
 悲しみに顔を曇らせず、光に目をむけよ。
 光に手をあてよ。
 その手に光を灯せ。
 灯したその手の灯りを自分の胸にあてよ。
 己の魂をその灯りで照らすのだ。
 その灯りを強く灯すのだ。
 己の生のある瞬間に、己の魂を灯し、照らし続けるのだ。
 誰もが人の心は自由なのだ。
 彼の心に刻まれた傷。彼の体に刻まれた傷。眉間の傷も脇腹の傷も背中の傷も、すべてが美しいものへと形を変えていく。
 兵士ではなく美しき騎士として、美しく生きなさい。
 心配するな。人生とはよいものだから。
 その優しい子守歌のようにも聞こえる歌声のような、慈愛のその言葉によって彼は心の柱を立て直し、再び立ち上がる。
 言葉では表現しきれない感謝と、女神がこの世界に生まれ、この世界に存在する祝福の思いとともに。
 ありがとう。目をゆっくりと開けるとその鏡は消えていた。
 だが、その騎士は瞳を閉じれば、そこにはいつもその鏡が存在していることを理解する。
 安らいだ心で砂浜に座り込み、光で揺れる海の波を見つめる。
 時間が動き始める。
 美しい夕日はそのままで、夕日の光は海の傍で優しい光を届けながら、揺れる波に寄り添い続けている。
 その夕日は鏡の向こう側で見た世界の夕日と同じものなのだ。
 心のなかで見える鏡の世界と、この世界が繋がっていることがわかる。
 彼はその女神のような彼女を心に抱き、砂浜の細かな砂をその手の指で確かめると、力強く立ち上がった。
 もうすぐ、夜になるのだろう。
 彼は夕日を見つめながら、女神に向けてこう呟いた。
「貴女に出逢えて、自分の生きてきたこの道が好きになれました」
 夜になるというのに、海には美しい虹が掛かっていた。
 それは、希望の虹だ。

騎士と夕暮れ

2023年9月28日 発行 初版

著  者:たいいちろう
発  行:ANUENUEBOOKS

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巡り会えたあなたに、
幸せが訪れますように…。

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