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     社は、布留の社。生田の社。旅の御社。花ふちの社。
     杉の御社は、しるしあらむと、をかし。
     ことのままの明神、いとたのもし。
    「さのみ聞きけむ」とや言晴れ給はむと思ふぞ、いとほしき。
                   (清少納言「枕草子」より)
















 バルセロナ、サン・ジョルディの日
 四月二十三日は、サン・ジョルディの日。
 その日、スペイン・バルセロナのメイン・ストリート、ランブラス通りの歩道には数百メートルに渡り古書店や花屋が並ぶ。
 サン・ジョルディ、つまりドラゴン退治の伝説をもつ聖ゲオルギオスはキリスト教の聖人で、このカタルーニャの守護聖人。四月二十三日は、彼が殉教した命日にあたり祝日になっていた。
 二十世紀になり、男性は女性に赤い薔薇を、そして女性は男性に本を贈るという習慣が定着し、今は、初夏の暑い陽射しの下、カタルーニャ人たちは、港へ続くランブラス通りを散策しながら、お気に入りの古書店や花屋を覗き冷やかしては、夏の訪れを楽しむのが風物詩になっていた。

 「そういえば、パフはどうしたんだろうな?」
 その朝、パフ・ダフィーリョの姿が見えなかった。
 バルセロナでも最古参の古書店の店主、パフ・ダフィーリョの出店の覆いは昨夜からそのままで、そこだけポッカリ眠りについていた。年に一度、数万人の観光客が訪れ大量に古書が捌けるその日、パフのことを心配しつつも、同業の古書店主たちは夜遅くまで立ち働いていた。

 夜、十二時過ぎ。
 カサ・ミラ近くの路地裏にある居酒屋セルベッサ・カタルーニャに集まった古書店主たちが歩道のテーブルでビールを楽しんでいると、警察の緊急車両がけたたましくサイレンを鳴らし、西へと走って行った。

 「被害者はパフ・ダフィーリョ。古書店店主です。昨夕、ランブラス通りで出店の準備をする姿を複数の者が確認しています。彼は笑顔を見せ元気だったようです。その後、自宅に戻りましたが、翌日朝、サン・ジョルディの出店には姿を現しませんでした。アパートメントの入り口に防犯カメラが一台ありますが、人の出入りが多く、犯人の特定はまだできていません」
 カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部は、部下の説明を背中で聞きながら、パフ・ダフィーリョの部屋を埃ひとつたてぬよう後ろ手で静かに歩いていた。

 書斎の壁には床から天井までの書棚があり、几帳面な性格だったのだろう、整然とした本の並びは一冊として乱れてはいなかった。重厚なチーク材の机の上には、キャップが外れた万年筆が転がっていた。手紙でも書いていたのだろうが、革のデスク・マットの上には手紙らしきものは無かった。

 「フィーゴ!」
 カザス警部が鑑識課のフィーゴ・ボナレウに声をかけた。

 「このデスク・マットと万年筆だが」
 「はい。これが?」
 「ああ。このデスク・マットと万年筆だが、至急証拠品として鑑識にかけてもらえないか?」
 「これを、ですか?」
 「ああ。パフ・ダフィーリョがこのデスク・マットで何を書いていたのかが知りたい」
 「了解しました」

 鑑識課の作業を背に、カザス警部は両開きの窓を開け、ベランダに出た。見下ろす街路には、サン・ジョルディの日の余韻を楽しむ酔客の波が西から東へ、東から西へと流れていた。熱気はもう夏だった。地中海から吹き寄せる熱風がFCバルセロナの本拠スタジアム、カンプ・ノウへと吹いていた。
 内ポケットから取り出した葉巻チャーチル・モーニングに火をつけると、カザス警部はゴッホが描きそうな夜空を見上げた。人間の欲望の湿度がからみ合い、黄色や紫色に折り重なり、このイベリアの赤土の空を怪しく彩っていく。

 「さてと、どうなることやら…。今年の夏も、暑くなりそうだ」と、カザス警部は葉巻を燻らせながら独りごちた。

 事任ことのまましょ
 京都・木屋町で、二人の女性がすき焼き鍋を堪能していた。

 「しかし、美味しいねぇ」
 「だね。たまには高級なすき焼きも良いね」
 追加の肉を数枚食べ終わり、口中が醤油と牛脂で濃くなった二人は生ビールを注文し、食後のひとときを楽しんでいた。

 「ローザ、京都までわざわざ来てくれたけれど、私に用事があったのかな?」
 金田モネが、ビール・グラスを机に置いた。

 「うん。あなたの先月の記事だけれど」佐々木ローザが、座布団の上で正座を崩した。
 金田モネは、京都にある東西文化資料研究所の古代国語学者で、これまでにもその研究成果を月刊誌「文藝東西」に定期的に発表していた。彼女の文章は読者目線でとても読み易く人気があった。
 もちろん、平安時代以前の国語学の若手研究者としては国内でも珍しいジャンルの存在だった。

 「あ、あの話ね」
 あの話とは、金田モネが所属する東西文化資料研究所の初代所長だった城島高和が遺した資料を調べ、要旨をまとめあげたものだ。金田モネが着任してしばらくし、掛川への調査旅行に向かう東名高速で、城島高和は突然の心臓発作で事故死した。

 「突然だった…。城島所長に誘われこの研究所に来たこともあったから、執念みたいな感じでまとめ上げたわけ。話のさわりだけだったけれど。で、文科省から追加調査予算が降りたから、これから本格的な調査に入る予定」
 「そうだったんだ。なんか、でも、不思議な話だね」
 「そう。『言霊喰ことだまはみ』の話はね」
 「まるで百鬼夜行の妖怪話みたいで、読んでいて面白かったよ」
 フリー・ジャーナリストの佐々木ローザは、金田モネの記事の不可思議な世界を思い浮かべていた。

 西暦七九四年の平安京遷都の、さらに昔。
 西暦五世紀の京都盆地には現在のような整然とした街路などはなく、沼地や湿地だらけの湿度の高い野原だった。やがて朝鮮半島から渡来したはた氏が現在の太秦あたりを本拠とし、嵐山を流れる桂川に灌漑用の堰を作り嵯峨野一帯を開墾し、さらに養蚕や機織りなどの新しい技術を伝え、広げた。聖徳太子から賜った仏像を祀るために建造したのが蜂岡寺で、国宝第一号となった弥勒菩薩半跏思惟像で有名なのちの広隆寺だ。
 この秦氏の一族だと思われる大弓月おおゆづき亀勝きかつという人物がおり、平安遷都間もなくの京の都に跋扈した「言霊喰ことだまはみ」という妖怪退治の命を朝廷から受け、日夜「言霊喰み」と闘いを繰り広げ、亀勝が六十歳となった夜、ある書物に「言霊喰み」を封じ込めると、長い闘いを終え精魂尽き果てたのか、永遠の眠りについたという。
 その書物は「事任ことのまましょ」と呼ばれ、宮中に納められたという説。現在の京都四条通りの西端にある松尾大社の西方の松尾山の祠に納められたという説もあった。この松尾山の神様を秦氏が総氏神として仰いだからという言い伝えが根拠のようだった。また、二つに分けられたという説もあった。ブラック・ホールのような歴史の暗闇に、真実は吸い込まれていた。
 やがて平安の世は崩れ、応仁の乱から戦国時代の動乱の世に「事任の書」は行方知れずになったという。

 「どうだった?言霊喰みも『事任の書』も初めてだったでしょ」
 「うん。初めて知った。まるで、妖怪談みたいな感じだけど」
 「そう言われてもね。だいたい、平安京遷都以前に京都盆地にやって来た秦氏が残した資料というのがほとんどないわけ。西暦五世紀にやって来て、平安京遷都まで三百年はあるのにね。当時、最新の技術を持っていた集団だから、古文書ぐらいはかなりの数が残っていてしかるべきなのに…」
 「この言霊喰みという妖怪や『事任の書』の話はどうやって調べたわけ?」
 「古文書や民俗学的な言い伝えとか。城島さんが遺した資料が膨大すぎて、その四分の一も目を通していないんだ。城島さんの研究ノートとか、研究のお手伝いしながら聴いた話とかもあるし…」
 「で、ほぼ見えてきたの?」
 「そうだねぇ。城島さんは『事任の書』研究は深遠で広大な面白い歴史研究になるとよく言っていたから、その端緒だけは見えたかも。でも、朗報があって。まだ不確かだけれど、スペインのバルセロナの古書店の店主から連絡をもらってね…まだ一報だけだけれど…」
 「スペイン?バルセロナ?」
 「そう。スペインのバルセロナ」
 「何で?」
 「それが…」

 日本の文物の危機は歴史上大きくは二度あった。
 まずは戦国時代。
 堺の商人たちは人身売買など日常茶飯事で、さらに神社仏閣や朝廷に巣食う公家衆などが、今なら重要文化財とされるような絵画や書物や仏像などを、平気でお金に替えていた。その時代に海外へと流出した文化財の研究者は残念ながら皆無に近く、実態は把握できていない。その次の大きな危機は幕末から明治にかけてだという。長崎の商人たちの輸出、そして明治時代の神仏分離令で仏教寺院が保管していた数多くの仏像などが破棄されたり二足三文で売られもし、歴史上重要な文化財は海外へと大量に輸出された。

 「ざっくりした話だけれど。明治初期に東京の国立博物館ができるまでは、もう酷いものだったみたい」
 「なるほどね」
 学生時代から、金田モネの話は分かりやすかった。
 古代国語学という誰も興味のなさそうな、そして小難しそうな研究に没頭していたが、研究オタクではなかったから、言葉は生き物だと理解し、新聞記者を目指していた佐々木ローザが理解できるよう、言葉を一旦噛み砕いては、研究の面白さを教えてくれたものだ。

 「で。スペインのバルセロナの古書店が?」
 「そう。そこの古書店の店主とSNSでは長年の友達でね。『事任の書』の話に興味を持ってくれて。数年前に、マドリッドで学会があったから、そのついでに一度会ったこともあって。人づてに聞くと、スペインでも有名な古書店の店主だって。それが、二ヶ月前。『事任の書』の半分を手に入れたって手紙が届いて…。第一報だけど。準備が整ったら、こちらに手渡してくれるって」
 「半分?」
 「そう。彼のメッセージには『半分』って…」
 「なるほど。半分の『事任の書』が、バルセロナにあった、と」

 時枝文治
 骨董愛好家グループ「風韻」の会長、時枝文治はそのでっぷりした巨体を革製のソファに沈め、目の前の男との会話の距離感を測っていた。相手は、与党の日本民主独立党創立者の一人、大道おおみち希信まれのぶ。九十歳を超える老人だが、眼光鋭く、長年豪腕を振るった超保守主義者の面影はまだ心根の奥底に居座っていた。この男とのつき合いは長い。日本民主独立党創立前後から、政界マネーロンダリングに手を染めていた時枝文治は、その主要な資金源を取りまとめてきた。文化財には敢えて登録せず、裏骨董市場で売買される骨董品、つまり闇骨董品に値づけをし、担保性を持たせ現金を買い手から受けとる。買い手は所有権だけを持ち、新たな闇骨董品が市場に出てくれば、その所有権と交換したり、現金をさらに追加し、闇骨董品の所有権を拡大させる。この手法は戦後間もなくから広がったという。やがて、世界じゅうで戦乱や国家解体などの大きな政変が起こると、世界各地から盗難にあった骨董品が持ち込まれ、市場は拡大の一途を辿ってきた。

 「で、ご用件は?」

 「ふむ。ひとつお願いしたいことがあって」
 大道希信は、着物の袖をはらりとさばくと、西陣織の金蘭で織られた茶巾袋から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。

 「これは?」
 「これは、『事任の書』の一部だ」
 「ことのままのしょ?」
 「私が長年探してきた古文書のひとつだと考えてくれれば良い。『事任の書』のことは、この雑誌に書かれてある…」と、大道希信は、月刊誌「文藝東西」を、時枝文治に手渡した。

 「金田モネという研究者が『事任の書』のことをここに分かりやすく書いている」
 「金田モネ?」
 「ああ。私が文科省に予算をつけて京都に開設した東西文化資料研究所の若手古代国語学者だ。初代の所長は城島高和。その後釜、『事任の書』の研究者がようやく現れた」
 「なるほど。ところで、その金田モネはこちらの動きは?」
 「知るはずがない。私が『事任の書』を長年探してきたことなど知るはずもない」
 「そうですか…。そして、私は何をすれば?」
 「それなんだが。この写真の『事任の書』はスペインのバルセロナにあったもので、どうやら半分だけがあっちで見つかった。残り半分はまだどこにあるものやらだ」
 「…で…私に調査しろと?」
 「ああ。そうしてもらえればありがたい。残り半分。あなたが見つけたなら、あなたに預けたい」
 「そして、私どもの『風韻』ルートにのせ『市場』へと?」
 「そうだ。そうして欲しい」

 時枝文治は、大きな息を吐くと目を細め、これからの政治スケジュールを頭で描いた。
 与党の日本民主独立党は衆参両院で過半数を確保しているが、数カ月後の衆議院選挙では過半数が取れるかどうかだと危ぶまれていた。時枝文治の経験では、裏資金として七十億円は必要になる計算だ。だが、この時枝さえ知らぬ『事任の書』という古書に七十億円の値づけをする者がいるのだろうか…。

 「時枝さん。…いるんだ」
 大道希信の野太い声で、時枝は目を見開いた。

 「それは…」
 「うむ。それは、まだ言えないが…」
 その先は、大道希信の信用に賭けねばならない。それが、この世界の仕来りのようなものだ。無言ほど力強い約束はない。二流の政治家は多弁で論理は薄く政治生命は短い。そうした政治家を嫌ほど見てきた時枝文治だった。

 「大道さん。その残り半分ですが…」
 「ああ。この雑誌の記事を書いた金田モネという研究者が、これから本格的に調査を始めるはずだ。本人は気づいていないだろうが、この記事が掲載されたのは、金田モネの調査研究プロジェクトに文科省の予算下りたからだ」
 「なるほど。つまり、こちらは、その金田モネの調査を追って行けば良いと?」
 「うむ。では。お願いする」
 大道希信は頭を下げると、ソファーに立てかけた太い杖を握りしめ巨体を起こした。時枝文治は玄関へと向かうその広い背中を見送った。玄関の椅子には数人の秘書が待ち受けているはずだった。そして、時枝文治の息子・文章が見送る手筈になっていた。

 大道が去ると、時枝文治は息子の文章を居間に呼び出した。
 文章は日本民主独立党の青年部を仕切っており、裏で父・文治の右腕として裏骨董品市場を差配していた。小柄でネズミのような男だが、なんとかやっているようだった。

 「父さん。大道さんの話を受けたの?」
 「ああ。もう少し生きていてもらわねばな」
 「そうなんだ。で、七十億円ってどうする?」
 「それは、大丈夫だ。大道を信じよう。それより、お前は金田モネの動きを徹底的に追ってくれないか。場合によってだが、手荒な真似をしても良い。面倒な話だが、あの男がここまで執着する『事任の書』は、金銭話を超えた何かがあるはずだ」
 「しかし、父さん。面倒を押しつけられたね」
 「面倒、とは?」
 「バルセロナのエイジェントとのコンタクト。大道さんは自分の秘書か何かを使っていたんだろうけど、これから僕がコンタクト先になって欲しいって……大道さんは逃げたんじゃないかな」
 「文章。そのとおりだ。そんなものさ、政治の裏を動かす連中は。ただ、その面倒を面倒だと思わず動けば、お前は評価されるわけだ。大道に。ま、ここは、はいはいと頭を下げて、その面倒を引き受けるのも手だぞ」

 バルセロナ旧市街
 サン・ジョルディの日が過ぎ、バルセロナは本格的な夏になった。太陽熱に炙られた街路がようやく冷めた夜十時、ラモン・カザス警部は旧市街のレストランで、黒鮪をつまみながら、冷えた白ワインを楽しんでいた。

 「それで、フーゴ・シュペルレの手口だと?」
 「ああ。もらった動画を見た限りは。そして、解剖写真から」
 古書店店主パフ・ダフィーリョの殺害現場で鑑識課がビデオ撮影をしており、そのビデオを、ラモン・カザス警部は元同僚のジョアン・ラポルタに見せていた。
 ジョアンは探偵だが、カタルーニャ州警察から捜査協力の要請があれば生活のために引き受けていた。ラモン・カザス警部と同僚だったころは、パートナーとして数々の殺人事件を解決した。犯人を追い複雑な殺人事件を解決したときの喜びは、何ものにも変えられなかった。
 ただ、カタルーニャ州北部のある街である事件の容疑者を追っていたときだった。背後から何者かのナイフがジョアンを襲った。最新型の防刃ジャケットを身につけていたが、犯人のナイフは金属とセラミックでできた編み目を易々と貫通した。
 意識不明の日々、そしてリハビリを終えたジョアンは、自身の失態にケリをつけるため辞表を出し、探偵事務所の看板を掲げた。
 あれから数年、未だにその容疑者とは決着がついていなかった。

 フーゴ・シュペルレ。
 ジョアンは、その名前を心に深く刻んでいた。
 「あのナイフ捌きは、あいつに違いない」と。

 「つまり、だ。新品のビニール袋で靴を覆っているはずだ。家具なども一切動かしてはいない。もしくは、元どおりに戻している。被害者と争った形跡がない。つまり、被害者はフーゴ・シュペルレの催眠術にかかった筈だ。それは、あいつのやり口だ。そして、肋骨の下から心臓へと抉るナイフの角度とナイフの抜き方…。それ以外にもいくつかあるが、このやり口はフーゴ・シュペルレの仕業だ」
 ジョアンは、タコのオリーブ・オイル煮を口に運ぶと、冷えた白ワインで流し込んだ。

 「ジョアン。フーゴ・シュペルレの仕業だとして、老いた古書店の店主を殺害するのが主目的だったとは思えないのだが」
 「うむ。そのとおりだ」
 フーゴ・シュペルレは骨董品専門の犯罪者で、マドリッドにある国家警察総局も美術品盗難容疑者リストの上位に置く人物だった。彼の縄張りは、スペインを本拠に地中海沿岸に面した各国だと言われていた。

 「つまり、パフ・ダフィーリョが所持していた骨董品を奪い取るために襲ったと?」
 「そうだな。ラモン。あの書棚なんだが…」
 「書棚?」
 ラモン・カザス警部は、現場で眺めた整理整頓された書棚を思い浮かべた。塵や埃がひとつとしてない、本が整然と並べられた書棚は、パフ・ダフィーリョの几帳面な性格を表していた。

 「ジョアン。その書棚が何か?」
 「ああ。あの一番左端の窓際の書棚だが、その一番上の棚にスペースがあって、一冊だけ本が傾いていただろ?」
 「そうだったかもしれないが…」
 「おそらく、分厚い本二冊分ぐらいの何かがそこにあったんじゃないかな…。フーゴ・シュペルレは催眠術を使う。おそらく、催眠スプレーのようなものも噴霧するのだろうが。催眠術にかかったパフ・ダフィーリョが自白したか、それとも殺害後、目的とするものを探して奪ったか」
 「ジョアン。そこに何かが?」
 「そうだな。そこに大切な何かがあった」
 「なるほど…それは、もしかして…」
 「もしかして?」
 「ああ。デスク・マットに残っていた筆圧で窪んだ文字を鑑識で再現してもらったんだが…」
 ワイングラスをテーブルに置くと、ラモンはジャケットの裏ポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 「ラモン、それは?」
 「ああ。これがその文字だ。ところどころ不明だが…」

 モネ・カネダ様
 …既報どおり「事任の書」の半分を入手し…西暦十七世紀初め、スペインの商人が貴国から持ち出した…その商人の家系を辿り…ブランコ城の城主…から入手しました。「言霊喰み」の伝説は…。まもなく、そちらに…

 「ラモン、どういうことだろ?」
 「分からんが…このモネ・カネダという人物をインターネットで検索したところ、日本の京都にある東西資料研究所の研究者のようだ。それ以上は分からん。ただ、パフ・ダフィーリョは殺害される直前、万年筆でこの手紙を書いていたことは確かだ。そして、その手紙は犯人、おそらく、フーゴ・シュペルレに持ち去られた」
 「なるほど。電子メールでもSNSでもなく手紙ということは、かなり重要な内容だったんだろうな」
 「そこだよ。俺もそう考えた。電子メールやSNSだと、第三者が見る可能性が高い。専制主義国ならそれが当たり前だが。そこでパフ・ダフィーリョは電子メールでもSNSでもなく、確かな通信手段、手紙を使ったわけだ」
 「しかし、遥か遠い日本か…」
 「ジョアン。それはなんとかする。日本の警察庁に特殊事案部というのがあって、そこのシンノスケ・ナカヤマという警部とは以前仕事をしたことがある。信頼できる男だ」
 「特殊事案部…」
 「ああ。面白い事案ばかりを扱っている。タフな刑事さ」
 「分かった。じゃあ、俺は、フーゴ・シュペルレの後を追ってみる」

 京都・百万遍のカフェ
 
 「この喫茶店は久しぶりでして」
 店内奥にあるテラス席で、男が名刺を差し出した。

 「警察庁。特殊事案部警部・中山新之助…」
 金田モネの三十年余りの人生で、初めて出会う警察関係者だった。

 「初めまして。私は…」
 「ええ。突然お呼びだてし、申しわけありません」
 「いえ。ただ、警察の方とはご縁が…」
 「そうですよね」
 元ラグビー部の厳つい体格だが、中山警部が笑みを見せると、周りの空気が柔らかくなった。

 警察庁からの電話で、金田モネは恐る恐るカフェにやって来た。
 人生で初めての警察からの電話で緊張していたが、カフェの奥のテラス席ににこやかな中山がいた。天然パーマの髪に濃いワインレッドのレインコート姿は、金田モネが抱いていた、いかつい刑事のイメージとは異なっていた。

 「ここのコーヒーも久しぶりです。学生時代は、この店のこのテラス席で、何も考えずにぼんやり過ごしていました」
 「そうなんですか」
 「ええ。何も考えずに…」
 「私もあちこち出歩けば良いんですが、東京から研究所に入ってから、自宅と研究所の往復ばかりで。百万遍に来ることもなく…」
 「そうでしょうね。ま、そんなものですよね。京都人が観光地を訪ねることなどないのと同じです」
 「そうですかね」
 「ええ。ところで早速話に入りたいのですが…」
 コーヒーカップにミルクを注ぐ中山警部が話を切り出した。
 天然パーマの髪を指で捻るのは、中山警部の癖のようだった。

 「早速ですが、スペインのバルセロナの古書店店主、パフ・ダフィーリョさんのことは知っておられると思うのですが?」
 「ええ。彼とは最初SNSで知り合ってから、かなり経ちました。学会でスペインに行ったとき、一度お会いしたことがあります。スペインでも有名な古書店の店主で、パフさんは古書の目利きとして著名だと知り合いが教えてくれました…」
 「そうでしたか…」
 「彼が、何か?」
 「彼、パフ・ダフィーリョさんですが亡くなられました」
 「え?」
 「先日、四月二十三日。サン・ジョルディの日に。ご自宅で殺害されました」
 「殺害?」
 「はい。誰かが自宅に侵入し、彼は殺されました」
 「彼が…」
 「はい。カタルーニャ州警察から問い合わせがありまして、パフ・ダフィーリョさんがどうやらあなた、金田モネさんに手紙を書いていたようで…」
 「彼が、手紙を?」
 「はい。その手紙は犯人に持ち去られたようですが、デスク・マットの筆圧から手紙の一部を復元したところ、金田さん、あなた宛だった」
 「私、宛の?」
 「ええ。これが、復元できた手紙の一部です」と言い終わると、中山警部は鞄の中から一枚の紙を取り出し、金田モネに手渡した。金田モネは震える手でその紙を受け取り、目を走らせた。

 モネ・カネダ様
 …「事任の書」の半分を入手し…西暦十七世紀初め、スペイン の商人が貴国から持ち出した…その商人の家系を辿り…ブランコ城の城主…から入手しました。「言霊喰み」の伝説は…。まもなく、そちらに…

 金田モネは気が動転しているようだった。
 東京の警察庁から突然連絡があり、京都にやって来たのが特殊事案部という聞きなれない部署の刑事で、知人の殺害を知らされた。動転しない者はいないはずだ。

 「金田さん。月刊誌「文藝東西」を読ませてもらいました。あそこに書かれていた『事任の書』とは、まさにパフ・ダフィーリョさんが手紙に書かれていたものですね?」
 「ええ。数カ月前に、彼から手紙が届きまして、『事任の書』の半分を入手できたと」
 「半分?」
 「ええ。意味が分からなかったのですが…半分と」
 「それ以外は?」
 「それ以降は何もなく…彼は手紙で連絡を取り合いたいと書いていましたので、私からは『楽しみにしている』とだけ。彼のことを信用はしていましたが、まさかスペインのバルセロナに『事任の書』があるとは思ってもいませんでしたから、半信半疑でした」
 「そうでしたか…」

 カスティーリャ=ラマンチャ
 ブランコ(白い)城は高台にあった。
 葡萄畑を走る細い道を低速で過ぎ、小高い丘の坂を登り切ると、ジョアン・ラポルタは城門の前に車を停めた。この町のビノス・デ・パゴ(単一葡萄畑限定のワイン)はジョアンが恋する銘柄で、帰りに醸造所の売店に立ち寄ろうと考えていた。
 「さてと」と城門を見上げたジョアン・ラポルタに、一人の老人が声をかけてきた。振り返ると、風貌はサンチョ・パンサのように小太りだが、身なりは紳士然とした男が、笑みを抱えていた。

 「オリベール・イニエスタさん、ですか?」
 「ええ。初めまして」
 このブランコ城の元領主だったオリベール・イニエスタとハグを交わし、二人は近くのカフェへと入っていった。初夏の太陽が照りつける店頭を避け、葡萄の葉陰が涼を蓄える奥の庭のテラス席につくと、店員が白ワインのボトルを抱えてやって来た。

 「これは…ビノス・デ・パゴの…」
 「ええ。よくご存知で。ビノス・デ・パゴの名品。ソル・ブランコ(白い太陽)です」
 ボトルを手にしたジョアンは喜びを隠しきれなかった。彼がこよなく愛するビノス・デ・パゴの白ワインの中でも、ソル・ブランコは最上級のもので、限られた本数しか作られず、市場に出回ることは皆無だった。

 「イニエスタさん。私はソル・ブランコは初めてです」
 「それは良かった。イニエスタ醸造所、つまり私がオーナーの醸造所で作っているんですよ。そして、この二〇一八年のソル・ブランコは最高の出来だと思います。ぜひお楽しみください」
 オリベール・イニエスタが冷やした白ワインを二人のグラスに注ぐと、カフェのウェイターがおつまみプレートを運んで来た。

 「田舎料理ですが、私は鴨の燻製とチーズがこのワインに合うと思います。お試しください」
 「ありがとう、ございます」
 一口目から、ジョアンはソル・ブランコに魅了された。芳醇なのにキリリと締まった、減量に成功し、タイトルマッチ前日には完璧に仕上がった世界ランクのボクサーのようだった。

 「そして…ここで、あの男性と同じワインを愉しんでいました」
 目を細めながらソル・ブランコを口に含むオリベール・イニエスタが、話を突然切り出した。
 「その男性…」
 「はい。あなたが、おっしゃっていた、パフ・ダフィーリョさんです」

 オリベール・イニエスタが、バルセロナの古書店店主のパフ・ダフィーリョに最初に出会ったのは数年前のことだった。
 パフ・ダフィーリョは一年の半分を古書探索の旅に費やしていた。紀元数世紀前のローマ帝国の支配、西暦八世紀ごろからのイスラム帝国の支配、そして十五世紀から始まった大航海時代と、時代の大きな揺らぎがあるたびに、海外から数多くの古書がスペインにもたらされた。パフ・ダフィーリョが特に興味を抱いていたのは大航海時代にもたらされた古書で、東アジアから南アジアにかけての古書に興味を持っていたという。

 「そして、私の先祖が領主をし、住んでいたブランコ城に、未整理の古書が膨大にあるのを知った彼は、私に会いに来られました。最初は気が乗らなかったのですが、私ももう八十歳になります。老いぼれですね。彼が自力で古書を整理してくれるのを条件に、未整理の古書が眠る部屋を開けました」
 「なるほど、そして彼は度々ここを」
 「ええ。彼によれば、私の家系には日本まで行った先祖がいまして、西暦十六世紀から十七世紀ですが、この未整理の古書の中に貴重な日本の古書が必ず眠っているはずだということでした」
 パフ・ダフィーリョは数カ月に一度カスティーリャ=ラマンチャにやって来ては、ブランコ城の一室に篭り、古書の整理を始めたという。そして、ある日、「事任の書」という古書を発見した。

 「そして、彼にその『事任の書』を売られた、と?」
 「結果的にはそうなんですが、最初は断りました」
 「それは?」
 「その『事任の書』というのがどのような古書なのか、まったく知識がなかったのもありますが、貴重だと言われると、人間の性ですかね、手放したくはないと思いました」
 「それは、そうでしょうね。でも、イニエスタさんはその古書を、パフ・ダフィーリョさんに手渡された」
 「最終的には…」
 このカフェの奥庭のテラス席で、パフ・ダフィーリョは、「事任の書」の言われを話してくれた。それは、西暦八百年ごろの日本の京都での話で「言霊喰み」という妖怪を閉じ込めた書物だという奇妙な話だった。さらに、本来あるべきページ数の半分だけがブランコ城に保存されており、残る半分は行方不明だという。パフ・ダフィーリョは身を乗り出し、「残る半分も探し出します」と強く説得したという。完全な形で保存されていなかった古書だったこともあり、また未整理だった膨大な古書を、有能な図書館司書のように再整理してくれたお礼の気持ちもあり、オリベール・イニエスタは、無償でパフ・ダフィーリョに「事任の書」を委ねることにした。
 パフ・ダフィーリョの古書へ抱く考えを聞き、納得したのもあった。彼は歴史研究に大きな疑問を抱いていた。特定の時代や地理に限定した狭い研究眼しか持たぬ歴史研究家が多くなったことを嘆いていたという。

 「イニエスタさん。それは、例えば?」
 「そうですね。例えば、西暦五世紀のバルセロナの経済だけ、とかです。もちろん限定した一時期の一つの土地を深く研究することは大切なのでしょうが、歴史のダイナミズムを忘れてしまっているのかもしれませんね。私たちも含めてですが」
 「歴史のダイナミズム…」
 「はい。彼は『事任の書』には、その歴史のダイナミズムをなぜか感じると、熱く語っていました」
 「なるほど…」
 「その熱量も私を動かしたのだと思います。ただ、それが彼との最後になりました」
 「イニエスタさん。その『事任の書』を発見したという話は、お二人だけの?」
 「そうです。二人だけ…。いや、京都の研究者に確認したという話をパフ・ダフィーリョはしていました。その名前は、モネだったかどうか…忘れましたが…」
 「なるほど…。それ以外には?」
 鴨の燻製を爪楊枝で刺し、口に頬張ったオリベール・イニエスタは、風にそよぐ葡萄の葉をしばらく見つめていた。

 「うむ…。そうだ、そのあと、ある男が私を訪ねてきました」
 「ある男?」
 「ええ。身長は百九十センチほど。瘦せぎすで、眼光が鋭く冷たい男でした。どこか、血の匂いが漂うような男でした」
 「イニエスタさん。そして、頬に傷がある?」
 「ええ。右頬に数センチほどの深い、何かで削られたような傷がありました」
 「名前は?」
 「それが、最初は名前を名乗らず」

 金田モネ、松尾山の祠へ
 京都の四条通りの最西端、嵐山から流れ下る桂川に架かる松尾橋を西へ渡ると松尾山があり、その麓に松尾大社が鎮座している。京都の事蹟を語るのは平安時代からというイメージがあるが、松尾大社の謂れは太古に遡る。
 太古からこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座いわくらに祀り守護神としたのが始まりだと伝えられている。西暦五世紀になると秦の始皇帝の子孫と称する秦氏の大集団が朝廷に招かれ、現在は映画村などで有名な太秦あたりを本拠とし、秦氏の首長が松尾山の神を総氏神として仰いだのが、この松尾大社の起源だとされている。

 汗をかきかき山道を登りながら、「子供のころは、友達とこの山を登っては、遊んでいたんですよ」と大山雄二が昔話を金田モネに語ってくれた。日焼け顔でまだ悪戯小僧の大山雄二が野生児のようにこの山を駆け回っていたのかと、金田モネはその姿を想像し、今もその少年がこの山で遊びに興じているような錯覚を楽しんでいた。
 大山雄二はある国立大学を退官した歴史学者で、平安遷都以前の京都盆地の歴史研究をライフワークとして今も研究に励む老人だった。老人だと言っても健脚は衰えず、八十歳を超えても、こうして京都近郊の山々を日課のように歩いているという。
 大山雄二の存在を知ったのは、金田モネが所属する東西文化資料研究所の初代所長の故城島高和の資料からだった。
 「この大山さんという方は、かなり研究されているから」と、城島所長からいつくか資料を手渡され、金田モネは大山雄二という民間研究者に興味を抱いていた。秦一族の末裔だとされる大弓月亀勝おおゆづききかつという人物が、西暦八百年ごろに京の都に跋扈した「言霊喰ことだまはみ」と戦い、「事任ことのまましょ」に封じ込めた。そして、その「事任の書」を、この松尾山のどこかに隠し納めたという伝説があると、大山雄二は個人的な論文に書き綴っていた。

 「金田さん。もう少しで頂上です」
 「はい」
 整備された山道は歩き易く一歩一歩足を進め頂上に立つと、標高三百メートルに満たない丘のような山だが、松尾山の下を流れる桂川の先に京都盆地がくっきりと現れた。

 「はあ。綺麗ですね」
 「ええ。あの京都盆地が沼地ばかりの時代。西暦五世紀のころ、秦氏の首長がここに立って目にした眺望ですよ。京都盆地の原風景ではないかとも思っています。そして、あの桂川の土手。大きく婉曲している大きな堤を作ったところから、京都盆地の歴史が始まったはずです」
 金田モネは額に片手を翳し、両目を細めた。
 確かに、大山雄二の話どおり、嵐山からの桂川は、大きく堅固な堤防で固められ、湾曲し流れ下っていた。

 「秦氏さまさまですね」
 「ええ。京都を語る歴史学者は数多いですが、その始まりはここだと私は信じています。平安京遷都より数百年も昔の話です」
 二人は京都盆地の眺望を楽しみながら、ミネラル・ウォーターを口に含み、しばらく身体を休めていた。

 「大山さん。そして、秦一族の末裔の大弓月亀勝が、西暦八百年ごろに『言霊喰み』と戦い、『事任の書』に封じ込めた。そして、その『事任の書』をこの松尾山のどこかに隠したわけですね」
 「…そうだと、私は信じています。大弓月亀勝について書き残された古文書はほとんどありませんが、彼の名前が記された十五種類の古文書から類推すると…。また、当時の呪術的な、原始神道から類推すると、『事任の書』を宮中に納めたよりも、大弓月亀勝の先祖の神様、つまりこの松尾山の神様に託したと考えるのが自然です」
 「なるほど。城島所長もここに来られたのですか?」
 「いえ。残念ながら…。城島所長も平安遷都以前の京都の歴史に興味を持たれており、『事任の書』を一度は目にしたいと言ってはおられましたが…。残念ながら亡くなられて…。でも、あなたが、月刊誌『文藝東西』に『事任の書』の話をまとめられ、城島所長も喜んでおられると思いますよ」
 「ありがとうございます。城島所長の意思を継いで、『事任の書』調査は私のライフワークになりそうな気がしています」
 「そうですか。ただ…」
 「ただ?」
 「ただ、気をつけてください」
 「気をつける?」
 「ええ。城島所長には何故か切迫感を感じることがありました。誰かから脅されているのかなとさえ思ったこともあります。あと、私のすぐ近くにも、何か黒い影が近づいているような気がしていまして」
 「黒い影?」
 「ええ」
 それは、金田モネが月刊誌「文藝東西」に「事任の書」の話を発表した直後からだという。論文調をあえて避けた読み物のような記事だったが、その記事には、金田モネの隣に座る大山雄二の小論文の引用も使い、大山の名前を公にした。それ以来だという。

 「あと、城島所長が亡くなられたタイミングも不思議でしてね」
 「不思議?」
 「はい。静岡の掛川に事任八幡宮という神社があります。まさに『事任ことのまま』です。創建は古く九世紀始めごろだったはずです。城島所長と資料を挟んでこの八幡宮の話をしていたところ、何かにピンと来られたようで、突然掛川に行くと言って…」
 「何かにピンと来られた…。学者の閃きですね。広く深く資料を読み込んでいるうちに、無意識のところである関連性を発見する。けれど、意識の上で論理的に言語化できない。そのとき、優秀な学者は閃きでその関連性を発見する。これも城島所長から教えてもらいました」
 「ええ。そのとおりだと思います。ただ、城島所長はいつも何かに急かされているような感じがしました。誰かに脅されているわけではなかったと思いますが。ま、学者の執念のようなものだったかもしれませんが…。いずれにせよ、城島所長は突然掛川の事任八幡宮に行くと言われて」
 「そうでしたか…。事任八幡宮を突然訊ねて、どうしようとされたのでしょうか?」
 「そこなのですが、城島所長はこれまでにも何度か掛川の方に何度か足を運ばれていて、現地で昔話のような説話を集められていたと思います。二つに分けられたという説も捨ててはおられませんでした。『事任の書』のもう一つの行方を探し求めているうちに、辿り着いたのが文字どおりの事任八幡宮でしたから」
 「では、『事任の書』の半分はこの松尾山のどこかにあり、もう半分は例えば掛川の事任八幡宮のあたりのどこかにあると?」
 「ええ。あくまで、私と城島所長とが『事任の書』にまつわる大量の資料を読み込んだり、説話などの聞き書きを再検証した結果としてですが…」
 「そして、城島所長は東名高速で事故で亡くなり、黒い影が大山さんの近くに…」
 「はい。なんとなくです。私の行く先々で、同じ人物を見かけるようで。カフェの窓ガラスに映った人影だったり、阪急電車の同じ車両だったり…小柄な男性です」
 「大山さん。その人物は何かを狙っているのでしょうか?」
 「さて。おそらく、その黒い影の人物は、私が『事任の書』を探し出すのを待っているのか、それとも私が真実を知っていると勘違いしているような気がしています」
 「すると、ここにも?」
 「ええ。松尾山にある祠としか公にしていませんが、どこにあるかは誰も知りません」
 「では、これから私たちだけが、その祠に?」
 「そうです。本当は城島所長をお連れしようと考えていたのですが」
 「大山さんはすでにその祠の中に入られた、と?」
 「ええ。子供のころは入り口までです。私が子供のころ松尾山を走り回っていたと話しましたが、実はそのときに見つけていた岩穴なんです。当時は何も興味はなくって、かくれんぼしたり、飛び回って遊んでいただけですが。じゃあ、行きましょうか」

 金田モネは大山雄二の後ろにつき、展望が開けた頂上から、西側斜面へと降りていった。獣だけが通るだろう道を、雑木を掻き分けながらしばらく降りると、やがて岩場が露呈し、そこに小さな岩穴が見えてきた。

 「大山さん。ここが?」
 「ええ。ここがどうやら…」
 「これまでも中に入られたことは?」
 「ええ。何度かありましたが、何も見つかってはいません。発掘調査を京都府や京都市に正式に申請できればとは思っていますが」
 「分かりました。先日、文科省から予備調査の予算が下りたので、次は正式な発掘調査に移れるかとは思います」
 「それは有難い。この岩穴は人工的に掘られています。そして内部は約五メートル。その先に祭壇の跡らしき形跡があります。その祭壇跡の奥に、これも人工的に削られ作られた岩の壁があります。単なる壁ではなく、何かを隠した跡かもしれません。ただ、残念ながら『事任の書』がここに眠っているとは、まだ言い切れませんが」
 「ここにはないと?」
 「はい。岩穴の入り口の状態やその中の状態を考えると、です。ただ、先ずは発掘調査をするべきだとは思っています」

 金田モネと大山雄二が岩穴の前で語らっていたときだった。
 嵐山から流れてきたのだろう、猿のグループが叫び声を上げながら木々を渡っていくや、遠雷が聞こえてきた。

 「雷雨になりそうだ。今日はここまでにしましょう」
 大山雄二の判断に、金田モネはうなずき、岩穴を後にした。

 ダイ・ハード
 鴨の燻製をひとつまみし、白ワインを口中で楽しむオリベール・イニエスタの風貌を見ていると、この地、カスティーリャ=ラマンチャを領地として生きづいてきた野生、そしてその野生を包む知性が、葡萄の木のあるテラス席に漂い満ちているようだった。

 「ラポルタさん。その男ですが」
 オリベール・イニエスタが無償で「事任の書」をパフ・ダフィーリョに委ねた数日後のことだった。眼光が鋭く冷たい痩身の男が、イニエスタを訪ねてきた。話は簡単だった。「事任の書」をパフ・ダフィーリョに委ねたかどうかだった。乱暴な物言いが好きではないオリベール・イニエスタは、すかさず「何故、そんな話になっているのだ」と間髪入れず訊ねた。
 勘違い甚だしい男とのやり取りの間合いを、オリベール・イニエスタは熟知していた。
 男は余計なことは話したくないようで躊躇していたが、やがて、パフ・ダフィーリョが「事任の書」をブランコ城で入手したと古書店仲間に話をしていたと、正直に言った。オリベール・イニエスタの記憶では、パフ・ダフィーリョは確か、日本の京都の知人にも「事任の書」を発見したと連絡すると言っていた。
 「『事任の書』はパフ・ダフィーリョの手元に確かにあるのですね」とその男が念押ししたので、オリベール・イニエスタは「ふむ」とうなずいた。「事任の書」という古い書物が人を狂わせるほどのものではないと考え、面倒な男とはそれ以上関わりたくないという思いもあった。

 「イニエスタさん。その男とはそれだけですか?」
 「ええ。私とは…」
 「あなたとは…?」
 「ええ。私との接触はそれだけです。けれど…」
 オリベール・イニエスタは元領主で今はワイン醸造所のオーナーでしかないが、この街の住人との繋がりはまだまだ深く、情報ネットワークは今も生きている。名前も名乗らぬ男が突然訪れたから、彼はその男の動きを追ってみた。もちろん、町の情報ネットワークを使ってだ。
 その夜。その男は街のホテルに滞在した。オリベール・イニエスタの友人が経営する由緒正しいホテルだった。

 「その男の名前は、フーゴ・シュミットでした」
 「なるほど…フーゴ…」
 ジョアン・ラポルタの瞳が冷たく光った。

 フーゴ・シュミットはホテル近くのジビエ・レストランで、日本人と夕食を摂った。日本人の名前は分からないが、ウェイターの話では「事任の書」の話をしていたという。

 「なるほど。ウェイターの耳は鋭いわけですね」
 「そうです。もちろんです。自分が受け持ったテーブルにはいつも気をかけるものです。客には悟られずに目と耳を澄ませ尖らせ、何を求めているのかを注視しているものです。一流のウェイターとなればですが…」
 「そうなんですか…」
 「ええ。店内がたとえ喧騒に包まれていても、一流のウェイターとなると、その雑音は無音になるようです」
 「そして、他には?」
 「ええ」
 フーゴ・シュミットと名乗る男は、日本人らしき男から「事任の書」を奪い取るように指示を受け、札束が入っているだろう封筒を受け取ったという。

 「そして、その翌日です」
 フーゴ・シュミットはホテルに泊めた車ではなく、日本人らしき男が乗ってきた車で、ホテルを後にした。車を交換し、フーゴ・シュミットは何ら特徴もない、黒色の古いプジョーのセダンでホテルを後にした。

 「古いプジョーのセダン…」
 「ええ」
 スマート・フォンを取り出すと、オリベール・イニエスタはそのナンバー・プレートの写真を見せてくれた。

 「これです。『67●●AAJ』。何かお役にたちましたか?」
 「はい。とても」
 「それは、良かった。ところで、ひとつ訊いても良いですか?」
 「ええ。私ばかりがお訊ねしてばかりですから…」
 「私が、先ほど、フーゴ・シュミットという名前を出したとき、あなたの瞳に氷の炎が見えたのですが?」
 「氷の炎、ですか?」
 「そうです。氷の炎。ここカスティーリャ=ラマンチャという土地に生まれ育った者だけが分かる言い回しですが、氷の炎」
 「分かりましたか?」
 「ええ。ここはラ・マンチャの男の舞台の地です。自由闊達な愚者たちが彷徨った土地です。大地には人の血と涙が沁みついている。つまり真性の男の闘いを知る土地です」
 「だから、氷の炎、を?」
 「ええ。我が家は代々数多くの血を見つめてきました。時代は変わりましたが、氷の炎を抱く男を温かく見つめることには長けています。きっと、その男、フーゴ・シュミットというのは偽名でしょうが、あなたの敵に違いない」
 「イニエスタさん。そのとおりです。ありがとうございます」
 「いえいえ。私は美味しい白ワインを作るだけが楽しみな男です。ビノス・デ・パゴという限られた葡萄畑からだけ獲れる葡萄の実、この大地から恵んでもらった葡萄の実から、美味い白ワインを作るだけが望みの男です。そうだ。この秋ソル・ブランコ(白い太陽)をお送りしますよ。今年はきっと最高のソル・ブランコになると思いますから」
 「それは、楽しみです」
 「ただ、あるお願いがあります」
 「お願い?」
 「ええ。闘いに勝った後に、コルク栓を抜いてください。これは我が家のことわざのようなもので、恐縮です。あの映画、『ダイ・ハード』によく似たことわざです」
 「『ダイ・ハード』?」
 「そうです。『ダイ・ハード』。死ぬ気で闘い勝った者こそ美しい。だから、美しき戦士にこの白ワイン、ソル・ブランコを掲げたいわけです」

 大山雄二の死
 梅雨入りの朝、警察庁特殊事案部の中山新之助警部が登庁すると、大山雄二が変死体で発見されたとの一報が入った。京都市西京区の嵐山近くの自宅の仕事部屋で、彼は誰かと争い、鈍器で頭部を殴られ亡くなった。金田モネからは、パフ・ダフィーリョの死去以降、逐次情報が入っており、大山雄二と二人で松尾山の祠を現地調査に行った日の夜のことだった。
 午後三時、中山警部は京都府警の一室にいた。鑑識からの情報、そして不審者特定情報のブリーフィングを受けながら、中山警部は目を閉じていた。
 大山雄二の死。そして、複雑に散ったジグゾー・パズルのピースを俯瞰していた。〈一つ一つのピースにだけ囚われず俯瞰して見るのも大切だ〉と、刑事として駆け出しだった中山に教えてくれたのは、勝村浩司という名刑事だった。
 中山警部は、このジグゾー・パズルのピースを時系列に並べ直していた。もちろん、月刊誌「文藝東西」に掲載された金田モネの「事任ことのまましょ」にまつわる記事も参考にした。

 ・西暦五世紀、渡来人の秦氏が京都の西、現在の太秦あたりに本拠を構え、松尾大社の背後の松尾山の神様を総氏神として仰いだ。
 ・西暦八百年ごろ。秦氏の子孫という大弓月おおゆづき亀勝きかつという人物が京の都に跋扈した「言霊喰ことだまはみ」という妖怪を退治し「事任の書」に封じ込めた。
 ・「事任の書」は宮中か松尾山の祠に納められたという説がある。
 ・応仁の乱から戦国時代という戦乱の世に「事任の書」の行方は不明となった。
 ・この「事任の書」を研究していたのは東西文化資料研究所の初代所長城島高和。彼によれば、「事任の書」は二つに分けられ散逸したという説も有力だ。掛川に向かう途中の東名高速で、彼は突然の心筋梗塞で死亡。彼の死に事件性はないと捜査当局は判断した。虚血性心疾患、つまり狭心症や心筋梗塞を持病として抱え、長年通院していたのも確認されていた。
 ・その研究を受け継いだのは同研究所の金田モネ。
 ・「事任の書」の半分は大航海時代のスペインへと流れた。
 ・スペインのカスティーリャ=ラマンチャ州にあるブランコ(白い)城の元領主オリベール・イニエスタの先祖が「事任の書」の半分を所有していたのが判明した。パフ・ダフィーリョがその城に眠っていた古書の中から「事任の書」の半分を発見した。
 ・金田モネが繋がりを持っていた、スペインでも有数の、バルセロナにある古書店店主、パフ ・ダフィーリョが「事任の書」の半分を入手したとの一報が彼女に入る。
 ・パフ・ダフィーリョ殺害容疑者(偽名・フーゴ・シュミット)が、ブロンコ城の元領主オリベール・イニエスタの元を訪ねる。フーゴ・シュミットは、ある日本人から、パフ・ダフィーリョの手元にある「事任の書」の半分の盗難を依頼された。
 ・サン・ジョルディの日(四月二十三日)にパフ・ダフィーリョは殺害され、「事任の書」の半分は再び失われた。
 ・城島高和と大山雄二は、松尾山の祠に「事任の書」が隠された可能性があると考えたが、正式な発掘調査はまだ行われていなかった。
 ・金田モネは大山雄二とともに、その松尾山の祠へと行き、ある岩穴を確認した。
 ・今回、大山雄二は誰かと争って殺害された。強盗犯かどうか、今後の捜査次第だ。平安遷都以前の京都盆地の歴史研究をライフワークとして研究。東西文化資料研究所の初代所長城島高和とは旧知の仲で、「事任の書」研究の第一人者の一人。

 そして、だ。
 城島高和、大山雄二、パフ・ダフィーリョ…「事任の書」を巡り三人の死者が出た。それは偶然とは思えない。裏で誰かが糸を操っているはずだった。フーゴ・シュミットに「事任の書」の半分の盗難を依頼した日本人がいた。その裏にはきっとキーマンが隠れているはずだった。

 何故、城島高和は「事任の書」に興味を持ったのか。
 何故、城島高和は掛川にある事任八幡宮に向かったのだろうか。
 何故、この三つの殺害の裏に隠れているキーマンは「事任の書」をそこまでして追い求めているのだろうか。

 この時点で、中山警部は、骨董愛好家グループ「風韻」の会長、時枝文治や、与党の日本民主独立党の創設者の一人、大道希信を知る由もなく、ジグゾー・パズルのピースは台紙の外周だけ組み合わさっているだけだった。しかもこの犯罪は立体的で三次元のジグゾー・パズルのようだった。台紙表面の外周にピースがいくつか収まっているだけで、その奥にある重なり合った台紙にはまったく手つかずだった。

 容疑者フーゴ・シュペルレ
 カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部が動き出した。
 調査依頼した、元同僚の探偵ジョアン・ラポルタがもたらしてくれた情報によれば、パフ・ダフィーリョ殺害容疑者、フーゴ・シュペルレは偽名・フーゴ・シュミットを名乗り、カスティーリャ=ラマンチャ州にあるブランコ(白い)城の元領主、オリベール・イニエスタに接触した。その後、現地で、フーゴ・シュペルレは日本人らしき男から「事任の書」の半分を手に入れるよう要請された。そして、フーゴ・シュミットを名乗る男は、黒色の古いプジョーのセダンに乗り、カスティーリャ=ラマンチャを去った。ナンバー・プレートは『67●●AAJ』だった。
 四月二十二日、サン・ジョルディの日の前日の夜。街角にある防犯カメラの映像を徹底的に調べた。コンピュータで映像を自動検索したが『67●●AAJ』のナンバー・プレートはヒットしなかった。情報鑑識課ではお手あげだと言われたが、ラモン・カザス警部は諦めなかった。警察予算が絞られ人員は限られていたが、非番の刑事たちが集まってくれ、手作業で映像確認作業が始まった。
 そして三日目の早朝、『67●●AAJ』のナンバー・プレートの古いプジョーが路上に停められた画像を発見し、その前後の映像、そしてパフ・ダフィーリョの自宅までに設置された防犯カメラの画像を追い、編集して繋げるとそこに容疑者らしき姿があった。身長は約百九十センチ。痩身の男だった。

 「フーゴ・シュペルレ…に違いない」とラモン・カザス警部は確信した。
 顔を隠していたが、その動きはプロのものだった。
 サン・ジョルディの日を迎える夜の人混みに、男は気配を見事に消していた。まるで亡霊のように、だ。
 そこからは、情報鑑識課に託した。
 四月二十二日夜十時過ぎ、その痩身の男は車に戻りどこかへ立ち去ったが、情報鑑識課での防犯カメラのリレー捜査で、数珠繋ぎに防犯カメラに残された映像を追う作業が始まった。
 バルセロナを出発した車は、バレアス海沿いを南西に向かい、バレンシアを経てムルシアの街で一泊し、翌日グラナダ、マラガを経由し、英国領ジブラルタルへと入って行った。距離にして約千百キロの逃避行だった。

 佐々木ローザと赤色のベンツ

 「大変だったね」
 佐々木ローザは、金田モネにかける言葉がみつからないまま、レモネードのストローに口をつけた。
 東京の女子大の「文章論」の講義で隣の席になり、講義の後のカフェで話をしてからの友人だった。マスコミ志望の佐々木ローザは快活なお喋りで、金田モネは古代国語学という地味な研究者を目指す物静かな女子大生だった。そして卒業し、佐々木ローザは雑誌社で見習いとして働き始め、金田モネは大学院を修了すると希望どおり古代国語学という地味な研究者の道を歩み始めた。

 「ありがとう。わざわざ京都まで来てくれて…」
 「ううん。大阪でいくつか取材が入ったから、ついでのようで悪いんだけど…落ち込んでいるんじゃないかって心配だったのもあるから」
 「本当に、ありがとう」
 「うん。あ、誕生日過ぎちゃったけど、これ誕生日プレゼント」と、佐々木ローザは和紙で包装した小箱をテーブルに置いた」
 金田モネは小箱を手に取ると和紙の包装紙を丁寧に解き、小箱の蓋をそっと開けた。
 「これは、香道か何かのかな?」
 「そうね。部屋に掛けておく『掛け香』というアロマみたいなもの。去年、ある香道グッズを扱っているお店を取材してね、私好みの香りを調合してくれるって言うから、オリジナルで作ってもらった香り」
 「へえ」
 金田モネが鼻を近づけると、透明感のある香りが鼻腔に届き、クシャミをひとつした。

 「あら強過ぎた?樟脳を少し強く調合してもらったから、モネには強過ぎたかも…」
 「ううん。私花粉症気味なのもあるから。でも、嬉しい。研究室のデスクに吊り下げて楽しむね」
 「もちろん、楽しんでね。あなたはラベンダー系のが好みみたいだけれど、たまには違う香りも良いかなと思ってね。一年は持つから。香りが」

 「それはそうと、あなたの知り合いだったんでしょ。大山雄二さんって」
 「うん。でも何故知っているの?」
 「それは、知っていたよ。モネの『事任の書』の話に出てきた人だったから。大山雄二さん。ネット・ニュースで京都の歴史研究家が亡くなったって出ていて、どこかで見たか聞いたかした名前だなぁと…。で、あなたに電話したってわけ」
 佐々木ローザの話は筋がとおっていたが、何かに引っ掛かった金田モネだった。

 「それで、大山雄二さんってどんな人だったの?」
 「え?」
 「一緒に、研究していたのかなぁって思って…。『事任の書』のことを…」
 「うん。所長だった城島さん、城島高和さんと『事任の書』のことを調べていた方で、城島さんが亡くなってからは、色々と…」
 「色々と…?」
 「うん、色々とね、教えてもらっていた…」
 金田モネは、無意識に言葉を濁した。自分では気づいてはいなかったが、佐々木ローザへの警戒心だった。

 「へえ。色々と…そう言えば、あなたの記事にあったけれど、大山雄二さんって『事任の書』の一部が松尾山の祠にあるかもしれないという論文を書いていたよね?」
 「ええ。そこまで読んでくれていたの?」
 「そう。こう見えてもジャーナリストの端くれだから、あなたの記事で引用していた論文を読むことぐらいは、ね」
 「ま、インターネットで検索したら読める時代だから…」、でも、そこまで熱心に『事任の書』の記事の引用論文までも読む佐々木ローザに、金田モネは少なからず違和感を感じていた。

 良いタイミングで、ミックス・サンドイッチとカレーライスが運ばれて来た。大山雄二のことを考えるのはまだ辛かったし、その辛さを超えて、佐々木ローザは取材記者のように金田モネの心に入り込もうとしていたから、好物のミックス・サンドイッチを楽しんで食べることで、話を反らせられればと金田モネは考えた。

 「ここのカレーは美味しいね」
 「うん。私の知り合いが昔よく来た喫茶店で、カレーも美味しいって言っていたよ」
 「そうなんだ…」
 「うん。ちょっとした知り合い…」
 少し前のこと、警察庁の特殊事案部の警部、中山新之助が紹介してくれたカフェだった。中山警部が、バルセロナの古書店店主パフ・ダフィーリョが亡くなったのを教えてくれた。京都の百万遍の交差点近くのこのカフェは、今出川通りを挟んで中山警部が通っていた大学があり、彼の憩いの場だったという。
 金田モネの東西文化資料研究所も目と鼻の先にあったが、宇治の自宅と研究所を往復する毎日だったから、カフェの看板は目にしていたがいつも素どおりだった。

 「ちょっとした知り合いね…」
 「そう」
 「大山さんってかなり突っ込んで研究していたんでしょ?『事任の書』のことを…」
 「そうだね。かなり、ね。さっき話したけれど、所長だった城島さんとは研究仲間みたいなものだったから…」
 「じゃあ、資料とかも、いっぱい遺っているんじゃない?」
 「大山さんの?」
 「そう。亡くなられたのは可哀想だけど、貴重な資料がいっぱい遺っているのかなぁ、って思って」
 「そうだね。かなり遺っているんじゃないかな。歴史研究家って、かなりの量の資料に目をとおすから。なんでもない、誰も興味がなさそうな古い資料の一つ一つが、実はとっても貴重な事実を語っている場合もあるから。あと、伝説とか」
 「伝説?」
 「そう。民俗学的な聞き書き。紙の資料として残っている情報だけが歴史じゃないから。全国各地の伝説の類いや、聞き書きなんかも、とっても重要な情報になる」
 「ということは、大山さんも、そして城島さんも、あちこちに出かけて伝説とかを調べていたわけだ」
 「そうだね」
 「なるほどね。だから城島さんは東名高速を走っていて…」
 「ええ」
 「掛川の事任八幡宮を訪ねようと…」
 「ねえ。何故、掛川の事任八幡宮に向かっていたのを知っているの?」
 「え?」
 「だから、城島さんが掛川の事任八幡宮に行こうと東名高速を走っていたこと」
 「ああ。それって、前に、あなたが教えてくれたんじゃない?あのすき焼きを食べた夜に…」
 「そうだったっけ?」
 「そう。あなたが教えてくれたはずだよ」

 記憶が曖昧な金田モネは口を噤んだ。
 金田モネは、城島高和の掛川調査旅行の理由を知っていた。彼の死後しばらく経ち城島の一人息子・城島高基から連絡が入った。父の自宅整理を終えた高基は、金田モネの研究に役立てられればと、自宅に遺された資料やメモを軽トラック一台分の段ボール箱に収め東西文化資料研究所に運んでくれた。
 膨大な資料やメモとは別に「この研究ノートが机の上にありまして」と受け取った研究ノートにはさまれたスケジュール・メモで、金田モネはその理由を知った。
 城島高和は、確かに掛川の事任八幡宮に向かったが、その途中、浜松在住の浅田ミレイという人物に会う予定だった。浅田ミレイは、原始神道の研究者で、その後調べてみると、浅田ミレイは事任八幡宮の研究も行っており、城島高和と頻繁にやり取りがあった。彼からその名前を直接耳にしたことはなかったが、在野の研究者として金田モネはその名前を知っていた。
 城島高和と浅田ミレイとの具体的なやり取りの記録を知りたかったが、息子の高基にスマートフォンを見せて欲しいとは言い難かった。

 「この資料がお役に立てば、父も喜ぶと思います」
 「お父さんが亡くなられたのは残念ですが、お父さんの意志をしっかり受け継ぎます」
 「金田さん。よろしくお願いします。父は、年に一度は車で静岡に戻っていたので、今回もいつものことだと心配しなかったのですが、残念です」
 「お父さんは、静岡に?」
 「ええ。城島家は元々静岡なんです」
 「静岡、ですか?東京ではなく?」
 「はい。先祖は今川義元やその息子の氏真に仕えた家臣でして、徳川幕府になって明治維新まで、ずっと今川家に仕えていた家系なんですよ。たまたまですが、城島家の先祖のお墓が静岡の掛川にあるので、年に一度は、父は静岡に戻って墓参りをしていました。戻る、という言い方は間違っていますが…父は〈戻る〉とよく言っていたので」

 城島高和の一人息子高基の話は、佐々木ローザには閉じた。
 執拗に情報を得ようとする佐々木ローザと距離を置くべきと本能が働いた。

 気まずくなったのだろうか、カレーライスを慌てて食べ終わった佐々木ローザは、スマートフォンで時間を確認すると「やばい。行かないと」と言い置き、手を振りながらカフェから逃げるように出て行った。

 〈何を、慌てていたのだろう。大阪に行くと言っていたから仕方がないか〉と、金田モネも席を立ちお会計で財布を取り出した。

 〈あれ?〉
 通りに面した大きなガラス窓の先、百万遍の交差点近くに停まる車に、佐々木ローザが乗り込む姿がチラリと見えた。〈ローザ?〉と目を懲らしたが、エンジンをかけていたのだろう、赤色のメルセデス・ベンツはすぐに発車し、今出川通りを西へと走り去っていった。
 〈見間違いか〉と半信半疑のまま、金田モネは二人分の支払いを終えて店を出た。百万遍の交差点には学生たちの賑やかな笑顔が満ちていた。受験勉強を終え、大学に入学し、つかの間の楽しい時間を目一杯楽しんでいるようだった。社会で汚れる以前の金田モネのようだった。

 スペイン領アルヘシラス
 フーゴ・シュミットを名乗る男、フーゴ・シュペルレらしき男は、黒色の古いプジョーのセダンで英国領ジブラルタルへと逃げた。足取りはそこまでは追えたが、その先は掴めてはいなかった。
 カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部は、この容疑者の逃亡ルートを車で辿ることにした。イベリア半島の東岸、地中海に面したバレアス海沿いを南西に向かった。ジョアン・ラポルタとは、ジブラルタル湾の西、英国領ジブラルタルの対岸にあるスペイン領アルヘシラスで合流する手筈だった。
 ステアリングを握るカザス警部は、バルセロナでパフ・ダフィーリョを殺害した容疑者になりきり、車を走らせていた。
 地中海沿岸国では有名なプロの美術品窃盗犯フーゴ・シュペルレについての捜査資料を読み込んだカザス警部は、フーゴ・シュペルレになり切ってみた。英国領ジブラルタルまでの道のりで、彼は何を考えていたのか、そしてその後の逃走経路は…。
 ロンドン警視庁、通称スコットランド・ヤードにも一報は入れていた。偽名パスポートを複数所持するはずのフーゴ・シュペルレが英国領に入国したか否かの確認など、スコットランド・ヤードでも困難なのは承知していたが、英国領ジブラルタルからの動きは限られているはずだった。英国領ジブラルタル警察にも、スコットランド・ヤードから一報は入っているはずだった。
 長距離を車で走りながら、カザス警部は、ある確信を抱いていた。〈フーゴ・シュペルレは、眠っているに違いない〉と。
 〈眠る〉、つまり身を隠している。
 時間が経てば、警察は足取りを掴む。
 一流のプロの美術品窃盗犯なら、慌てて動くことはない。
 慌てれば慌てるほど、ボロを出してしまう。
 これは過去の犯罪事例からも導き出されていた。
 警察が動き出せば身を隠す、つまり〈眠る〉のだ。そして絶妙のタイミングで目を覚ませ、次の動きに入る。フーゴ・シュペルレなら〈眠っている〉はずだった。英国領ジブラルタルの何処かで、だ。南北に約五キロ、東西に約一キロ、その狭い土地の何処かで眠っているはずだった。〈眠り〉ながら次の動きを考え、最善策を選択する。さらに、船に乗ればジブラルタル海峡の南にはモロッコがあり、東へ行けば広大な地中海へと逃避行が可能だった。逃げようと思えば、選択肢は無限にあった。
 北アフリカから吹く初夏の乾いた熱風を受けるジブラルタル湾の手前で、カザス警部は英国領ジブラルタルではなく、湾の西、スペイン領アルヘシラスの街へ向かった。

 「ラモン。アルヘシラスで合流とは、やはり刑事だね」
 ジョアン・ラポルタは、食後のシェリー酒を舐めていた。
 「どこに彼の目があるか、分からないからな」とカザス警部は氷を浮かせたパチャランを愉しんでいた。パチャランとはスピノサスモモの香り豊かなリキュールで、遥か北のピレネー山麓のバスク地方の酒だった。
 地中海沿岸を縄張りとするフーゴ・シュペルレなら、英国領ジブラルタルにも拠点があるはずだった。バルセロナから遥々車で訪れる観光客もビジネスマンも滅多にいない。そのまま英国領ジブラルタルに入国すれば、フーゴ・シュペルレの部下が動き出す可能性が高かった。もちろん、ここアルヘシラスも十分注意を払わねばいけなかったが。

 「ラモン。ここまでの経緯は共有しているが、これからだ、な」
 「そこなんだ。フーゴ・シュペルレは、お眠りをゆっくり貪っているはずだ。警察の力を借りて力づくで捜査するか、それとも敢えて逃すか…」
 「うむ。逃す…のも良いな」
 「カスティーリャ=ラマンチャからバルセロナ、バルセロナからあの英国領ジブラルタル…長旅だ。少し休ませてから、逃す」
 「ラモン。つまり、『事任の書』というのを日本人に手渡すまで、こちらはじっと待つわけだな」
 「ああ。日本の警察も動き出しているようだ。パフ・ダフィーリョ殺害の容疑者フーゴ・シュペルレに、『事任の書』盗難を持ちかけたのが日本人で、その特定には至っていないが…」
 「日本でも何か発生しているような口ぶりだが…」
 「そうなんだ。東京の警察庁の特殊事案部にいる中山警部からの話だと、『事任の書』を巡って殺人事件が発生したらしい」
 「…殺人事件…。古い本一冊で、か?」
 「そうだ。古い本一冊で、だ」

 大道希信の屋敷
 茶室の客人の見送りを終えた大道希信が、居間に姿を現した。
 広大な庭園は禅庭のように「粛」と静けさを纏っていた。作庭師の名は知らぬが遡れば江戸開府のころで、この邸宅も代々受け継がれてきたという。

 「時枝さん。お待たせしました。お忙しいところお呼びだてをし、申しわけないです」
 「いえ。こちらも、そろそろお話をと思っていたところで…」
 「今、帰ったのは、加納さんです」
 「ほぉ。加納首相でしたか」
 「ええ。彼は頑張っていますが…ご察しだと思いますが、次の衆議院選挙の件で…」

 〈七十億円が必要だ〉と言いたいのだろうと、時枝文治と文章親子は察した。わざわざ、加納首相を呼びつけ、衆議院選挙の裏資金の元手となる「事任の書」の話のために大道親子を呼びつけ…。

 「日本民主独立党も、大変なご様子ですね」
 「そのようです。文章さんが青年部に気合いを入れてくれているので若手は心配していないのですがね…」
 大道は〈裏資金で当選を重ねた大物議員が厳しい〉わけだと言外に匂わした。

 「ところで、『事任の書』の方は、いかがなりましたか?」
 「スペインの方は、なんとか…」
 「おお。それは良かった」
 「現状は、この文章が」と、時枝文治は息子の文章に話を渡したが、文章の説明は淡白だった。欧州の盗難美術品市場のドンと呼ばれる人物を介し、大道はエイジェントを雇い「事任の書」の半分をすでに入手した。そこまでは秘書が動かした。バルセロナで殺人事件が起きた。それは仕方がない。ただ、大道は念のため秘書を下げ、その後は、ここにいる時枝文章にコンタクトを任せた。

 「エイジェントはスペインで次の指示を待っています」
 時枝文章は事務的だった。

 無駄を省く時枝文章に、大道希信は好感を持った。
 無駄話が多い政治家ほど、何かを隠すダメな政治家だ。彼が創立に携わった日本民主独立党も、月日を重ねるにつけ、ダメな政治家が増えてきた。
 「なるほど。では、次の一手は?」
 「日本人ではない現地のエイジェントが『事任の書』を携えて来日するのはリスクが伴います。こちらから然るべき人物が現地に飛び、その人物が『事任の書』を携え帰国するべきです」
 「つまり、だ。例えば、外交特別ビザを持つ人物とか…」
 「はい。例えば、です。大道さんにご足労願うのが最善の策だと思っています」
 「私が…」
 「はい。大道さんなら、外交特別ビザを取得されるのも簡単だと思いますから」
 「なるほど…それは考えておきましょう。ところで、日本の方はいかがかな?」
 「金田モネという研究者の動きを探っています」
 「ああ。あの東西文化資料研究所の」
 「はい。城島高和という元所長の後任の研究者で、こちらの息がかかった人物が接触を重ねています」
 「それは、良いが、万が一を考えて欲しいのだが、こちらの動きが悟られぬように。ただ、手荒な真似はなるべく…」
 「ええ。時と場合により…」
 「そこはしっかり頼む。警察庁特殊事案部の中山新之助という刑事が動いている」
 「中山刑事?」
 「ああ。警察ルートから情報が入っている。中山という刑事だ。スペインの方の警察ともやり取りをしているようだ。くれぐれも、気をつけて欲しい」
 「はい。くれぐれも…」

 感情の抑揚を抑えた時枝文章は信じるに足る若者だが、大道希信は一抹の不安を感じていた。頭の切れる奴ほど、物事を俯瞰的に見られず、どこかでボロを出す。そして、ボロが出ているにも関わらず本人は〈自分は冷静でキレ者だ〉と酔い、それに気づかない。大山雄二という研究者も、小柄でネズミのようなこの男が殺ったのかもしれない。変死体で発見された大山雄二の情報は事件報道以来表に出ていない。警察庁の裏を探ったが、進捗情報は隠されていた。

 「大道さん。くれぐれも、気をつけます」
 「そうして欲しい。くれぐれも」
 力を持った男ほど、愛息には甘い。
 時枝文治の綻びがこの息子だと、大道希信の目には映っていた。

 小柄な男

 「顔見知りの犯行ではないかと考えています」
 京都府警鑑識課の長瀬直人課長は断定した。
 被害者の大山雄二は、誰かと争い鈍器で頭部を殴られ死亡した。公式発表では、頭部打撲による失血と頭蓋内損傷だった。犯人の指紋は残ってはおらず、机の上の資料が床に散乱していたことから犯人と争ったと判断された。
 ただ、強制的に侵入した形跡は認められなかった。
 玄関に訪ねてきた犯人を、大山雄二は家に入れた。しかも、客用のスリッパを犯人は履いていた。そして、書斎に向かい入れた。

 「長瀬課長。客用スリッパには犯人の靴下の繊維は残ってはいませんでしたか?」
 京都府警の横尾稔刑事が、証拠品のスリッパを両手にとり訊ねた。

 「ええ。客用スリッパの繊維を分析しましたが、犯人はビニール袋を靴下の上から履いていたようです。つまり用意周到な犯行です。大山雄二宅には、殺意を抱いて訪ねたと断定しても良いと思われます。ただ、盗難品は確定できていません。金品には一切興味がなかったようです」
 「中山警部。どう思われます?」
 横尾稔刑事が、リモート会議用のディスプレイに声をかけた。

 「そうですねぇ。横尾さん。少なくとも、大山雄二さんに生きていてもらっては困る犯人のようですが…。大山さんが誰かに恨まれていた形跡もないわけですよね」
 「はい。そこは知人関係などを調べましたが、大山さんはいつもにこやかな方で、人づき合いは限られていたようですが、特に恨まれるということもなく…金田モネさんからもお話を伺いましたが、その日、松尾山から下りると、二人は阪急電車の松尾大社駅で別れられたとのことです。大山さんは阪急電車松尾大社駅で乗車され嵐山駅で降り、その後は数十分かけて徒歩で帰宅されています。金田さんは、同じ駅から桂駅まで行かれ、乗り換えて京都河原町駅。そこから徒歩で京阪四条駅で京阪電車に乗られ、宇治駅まで…」

 「その後は、二人は接触していない、と?」
 「ええ。中山警部。念のため、その夜の、金田モネさんの携帯電話の位置情報を確認しましたが、その夜はずっとご自宅だったようです」
 「防犯カメラのリレー捜査はいかがですか?」
 「それが…」
 大山雄二は住宅街の一軒家に住んでいた。
 周囲には防犯カメラはなく、人の出入りは確認できず。最寄り駅は、JR嵯峨嵐山駅と、少し離れた京福電鉄の嵐電嵯峨駅があり、駅周辺には小さな商店街があり防犯カメラが複数設置されていたが、怪しい人影は確認できなかった。JR嵯峨嵐山駅から約五百メートル西にある京福電鉄の終点嵐山駅の防犯カメラには数人の乗客の姿があり、顔認証はできなかったものの、黒いハットを目深に被った小柄な男が怪しかった。服装はファスト・ファッション店でよく売られているデニムにパーカーだった。いわば、どこにでもあるような服装だった。

 「横尾さん。その小柄な男の足取りは?」
 「ええ。嵐山駅から終点の四条大宮駅まで乗車したようです。個人情報をとらえられるのを嫌ったのか、切符を買って。ただ、四条大宮駅からその足取りは消えました」
 「リレー捜査には引っかからなかったわけですね」
 「はい。四条大宮の交差点を渡り、路地に入ったところまでは追えましたが、その先はリレー捜査にはひっかかっていません」
 「そうですか。小柄な男…」
 「ええ。小柄な男…」

 原始神道研究家・浅田ミレイ
 城島高和と大山雄二が遺した資料は膨大だった。
 既存の書籍だけでなく古文書のコピー、伝説の類いの取材メモや思いついたことを殴り書きした紙切れなど、細かく目をとおせば目算で数十年はかかる分量だった。
 研究室の窓を全開にし、初夏の風を部屋に入れ、金田モネは冷静になろうとした。
 目的は、真実の「事任の書」を発見することだ。
 二つに分けられ、どこかに隠されたという「事任の書」だが、その一つはバルセロナの古書店主パフ・ダフィーリョが入手し、彼は殺害されその「事任の書」は行方不明のままだった。
 そして分けられたもう一つの「事任の書」は、この日本にあるならば、松尾山の祠なのか、どうか…。偶然かどうかは分からないが、事任ことのままという同じ文字を掲げる古い神社、静岡の掛川にある事任八幡宮に城島高和は興味を抱いていたようだ。その神社のどこかに「事任の書」の残り一部が保存されているというのだろうか。保存されていれば、すでに判明しているはずだったが。

 昨日、浅田ミレイとリモート会議で話をした。
 浅田ミレイは、高齢だったが着物姿の似合う理知的な女性だった。結婚を機に家庭に入ったが、長年在野で原始神道を研究し、城島高和の「事任の書」研究に助言を与えてきた人物だった。

 「細かなことは…一度、お会いしましょうか?」
 「はい。近々ぜひお願いできますか?」

 浜松に向かった城島高和に〈ある人を紹介する〉と約束していたと、浅田ミレイは話したが、その〈ある人〉は金田モネと会ってから教えるという。

 「そうそう。事任八幡宮の神様は面白くて、逆のことを願えば、願いは叶うという言い伝えがあってね。〈逆のことねぇ〉って考えていたら、『事任の書』も二つに分かれたとか言われているけれど、本当は分かれていなくて、とか…」
 「つまり、分かれてはいなくて、一冊だけが存在すると?」
 「いえいえ、ただ、そう思ったりして…」

 浅田ミレイの自宅を訪ねる日時を決め、リモート会議を終えた金田モネは、もう一度松尾山に登ってみようと考えていた。
 亡くなった大山雄二は、宮中でなければ、松尾山の祠に遺されているのではと考えていた。「事任の書」に「言霊喰み」を封じ込めた大弓月亀勝という人物の先祖は秦氏で、秦氏の氏神がこの松尾山の神様だったからだ。大山雄二の論文には「松尾山のどこかに隠し納めたという伝説がある」と可能性を示唆していたが、伝説は伝説で、その伝説の出自は未だあやふやだった。
 ただ確かなことは、あやふやであれ、その伝説を最初に広めた人物が必ずいるはずだった。誰が何の目的で、歴史学上、伝説になるほど〈強く〉語り広めたのだろうか。

 ジョアン・ラポルタ、英国領ジブラルタルへ
 スペイン領アルヘシラスに到着した翌日、ジョアン・ラポルタはジブラルタル港を渡り英国領ジブラルタルへ入国した。七平方キロメートルにも満たないこの街に三万人が暮らしている。人口密度はバルセロナとほぼ同じだが、混在する人種が、この街独特の空気を作り出していた。ホテルに置かれていたパンフレットによれば、英国系二七%、スペイン系二四%、イタリア系十九%、ポルトガル系十一%。さらにユダヤ人、モロッコ人やインド人のコミュニティーがある。そして、この人種が混在した街に、フーゴ・シュペルレは〈眠っている〉とラモン・カザス警部は睨んでいた。ジョアン・ラポルタを迎えてくれたのは英国領ジブラルタル警察のアデミール・ペレイラ刑事だった。

 「カザス警部は元気でしたか?」
 「ええ。相変わらず…」
 「そうでしたか、お会いしてお礼を言いたかったのですが」
 「お礼を?」
 「ええ。麻薬密輸事件でお世話になりまして」
 昨年、ペレイラ刑事は、北アフリカからの麻薬密輸組織を追っていた。自動航行する潜水密輸ドローンでジブラルタル海峡を渡り密輸を図る事件が発生した。数百キロの麻薬が運ばれ、スペイン各地で売りさばく麻薬密輸組織は、スペイン各地に組織化されていたが、その尻尾を握ったのがカタルーニャ州警察のカザス警部だったという。

 「そして、芋づる式に、スペイン全土で二百五十八人の組織関係者が逮捕されました」
 「あの、麻薬事件を、彼が?」
 「はい。カザス警部の粘り腰で、太い根っこを掴んだわけです」
 「ほお。それは、大変な事件を…」
 「ええ。実は、この話をした理由がありまして」
 その麻薬密輸組織の兄弟組織として、巨大な盗難美術品組織の存在が浮かんできた。その組織に関わる重要人物の一人がフーゴ・シュペルレだった。

 「ペレイラさん。フーゴ・シュペルレがその盗難美術品組織を束ねているとか?」
 「それが、まだ未解決のままで…。その盗難美術品組織は地中海沿岸国を自由に行き来しているようでして、まだその手掛かりが掴めてはいません。フーゴ・シュペルレがその組織のキーパーソンであることは確実視されています」
 「そして、フーゴ・シュペルレがわざわざこの英国領ジブラルタルの街に侵入し、姿を消した、と?」
 「そうなりますね。わざわざ」
 「ならば、この街の何処かに、その盗難美術品組織の関係者がいると…」
 「そのとおりです。我々も地道に捜査しているところです。ただ、まだ手掛かりが…あ、あの黒色の古いプジョーのセダン。ナンバー・プレートが『67●●AAJ』の車は発見しました」と、ペレイラ刑事が車の写真をテーブルに置いた。

 「これは…?」
 「港近くの広場に乗り捨てられていました。防犯カメラのリレー捜査では、暗がりに停められ、一人の男が旧市街へと歩き去りました。それ以後の足取りは掴めません」
 「では、少なくとも、この車に乗っていた男は、この街に辿り着いたのは確かですね」
 「ええ。その後の足取りは分かりませんが、盗難美術品組織の捜査線上に浮かんだ店が、港近くにあります」
 「それは?」
 「何でもない、地元の人がふらりと立ち寄るバルです」
 「バル…」
 ジョアン・ラポルタは、港に碇泊するトローリング・ボートを見つめながら、〈疑似餌〉というキー・イメージを思い浮かべた。

 「例えば私が疑似餌になるのはいかがですか?」
 「疑似餌、ですか?」
 「ええ。毎夜そのバルに顔を出し、店員にフーゴ・シュペルレという男を知らないかと訊ねる酔っ払いになる」
 「疑似餌…。ただ、こちらの動きを察知されると…」
 「ご心配かけると思いますが、盗難美術品を扱っているんだがと匂わし様子を見る。宿泊しているホテルの名前も伝えて」
 「危険では?」
 「はい、危険だと思います。この疑似餌にヒットすれば、盗難美術品組織の手掛かりを掴めるかもしれない」
 「それは、そうですが…」
 「では、疑似餌作戦で…」
 「分かりました。ただ、一人だけ、こちらの耳になっている人物を紹介しておきます。万が一のときは、役立つかもしれません」
 「ペレイラ刑事、それは助かります」
 「ええ。何事も無ければ良いのですが…。その人物のコードネームは、フランコです。あなたの動きを追わせますので、事態が急変したときは、フランコの指示に従ってください」
 「フランコ、ですね」
 「はい。フランコ、です。万が一の事態が発生するまでは、それが誰だか分からぬようにします。謎の人物で良いですか?」
 「ええ。見知らぬフランコ。なるべく会わぬよう祈ります」

 一方、ラモン・カザス警部は、スペインの国家警察総局、そしてジブラルタル周辺を管轄下に置くアンダルシア州警察の協力を得て、英国領ジブラルタル包囲網を築こうと動いていた。
 ジョアン・ラポルタに紹介した英国領ジブラルタル警察のアデミール・ペレイラ刑事とは麻薬密輸組織、そしてその関連組織と目されている盗難美術品組織の炙り出しで、同様の動きをとったことがある。毎日、スペイン側から越境出勤するスペイン人はおよそ一万人あまりで、その人の流れをすべてチェックするのは不可能だ。免許証やパスポートなどでチェックしようとも現代の偽造技術なら抜け道はいくらでもある。
 残された方法は、顔認証システムだった。
 バルセロナの防犯カメラに残されたフーゴ・シュペルレの画像は鮮明ではなかったが、マドリッドにある国家警察総局でその人相をAI技術で補正し、英国領ジブラルタルに出入国する主要な道路や港に、顔認証用カメラを配置した。その人相描きに右頬の傷が描かれていたのは言うまでもない。

 梅雨の終わりの浜名湖
 梅雨の終わりの雨が降っていた。
 ホテルのカフェから浜名湖が一望できたが、人の姿はなかった。梅雨が明ければ浜名湖も賑わいを見せるのだろうが、この時期はまだ我慢のときなのだろうと、金田モネは、どんより曇る空を映す浜名湖の湖面を眺めていた。

 「こんにちは」
 明るい声の女性、浅田ミレイだった。原始神道研究者だと聞いていたが、お花か茶道のお師匠のように清楚な和服の出で立ちだった。年齢は六十歳を越えたところだろうが、肌艶の良い快活そうな女性だった。

 「先日は、リモートで失礼しました」
 「いえ。本来ならこちらに来て、挨拶すべきところでした」
 抹茶セットを注文すると、浅田ミレイは居ずまいを正した。

 「お話は、先日のリモート会議で理解しました。城島高和所長と一緒に『事任の書』を探しておられたわけですね」
 「はい。実は、私が東京の大学の研究所の助手として燻っていたときに、城島所長に東西文化資料研究所へ誘ってもらい、『事任の書』の共同研究を始めました。共同と言ってもあくまで城島所長の助手のような立場でしたが、文科省からの予算も下り、ゆくゆくは共同研究書を出版するという話もありました」
 「そうでしたか。金田さんは、もともと古代国語学を専門とされていたとお聞きしましたが?」
 「ええ。縄文時代から弥生時代、そして古文書が豊富になる奈良時代から平安時代初期にかけてという幅広い期間ですが、この数十年、例えば遺跡から発掘された頭蓋骨の構造をコンピューター解析し、どのような発話が成されていたかなどを調べたり、文語体と口語体の違いの分析、民俗学的な聞き取り調査など…」
 「ほお。それは学際的なお勉強が必要な学問ですね」
 「ええ。城島所長は〈いつも学際的であれ〉という研究者でした。ついて行くのに大変でしたが」
 「そこで、『事任の書』がテーマのひとつとして?」
 「はい。研究所にお誘い頂くまでにも城島所長の論文などを拝見していて、何度かお会いしたこともあり、『事任の書』は面白いテーマだと思ってはいました」

 抹茶セットが運ばれて来ると、浅田ミレイは細くて長い指で茶碗をそっと手にし、一服を愉しんだ。

 「さて、何からお話しましょうか…」
 茶菓子をひと口頬張り、しばらく思案し、浅田ミレイは静岡の掛川にある事任八幡宮の話から始めてくれた。

 「事任ことのまま」という字面では、「事任ことのまましょ」と事任ことのまま八幡宮は同じだが、その関係性は分からない。西暦八百年ごろに大弓月亀勝が言霊喰みという妖怪を「事任の書」に封じ込んだのと、同じ時期の西暦八〇七年に征夷大将軍だった坂上田村麻呂が平城天皇の侍従として勅命を奉じ事任八幡宮を再興したというのは間違いないという。

 「浅田さん。つまり大弓月亀勝と坂上田村麻呂は同時代に生きていたわけですね」
 「ええ。そのとおりです。彼らは知り合いだったかもしれませんね。そして同じ時期に二つの『事任』という文字が現れてもいます。偶然かどうかは…」
 「ということは、可能性として、『事任の書』のすべて、もしくは一部が、事任八幡宮に遺されているとお考えですか?」
 「…そうですねぇ」と言葉を濁した浅田ミレイは、窓の外に広がる浜名湖の湖面に目をやった。梅雨の湿気た風が湖面に小さな波をたてていた。

 「金田さん。その点は城島さんとも何度も話をしましたし、事任八幡宮の関係者にも訊ねたことがあります。でも、残念ながら、『事任の書』が事任八幡宮に保存されているとは考えられませんでした」
 「それは、ほぼ可能性はない、と?」
 「はい。ほぼ、ありません」
 「では、何故、城島所長は浅田さんにお会いしてから、事任八幡宮に向かわれたのですか?」
 「ええ。それですが、リモート会議でお話したとおり、私がある人を紹介するとお話ししたからです」
 「ある人を?」
 「はい。事任八幡宮の近くに住まわれている品川花さんという方です」
 「品川花さん…。その方は?」
 「彼女は、先祖代々から『事任の書』に纏わる話を受け継がれておられます。私が地元の方々の聞き取り調査をしていて、偶然出会会った方です」
 「で、その品川花さんを、城島所長に紹介すると?」
 「ええ。品川花さんも九十歳近くで、お子さんもおられませんから、誰かに話を受け継ぎたいと話をされていて…城島所長ならと考えたわけです。城島さん自身が静岡と縁が深いということも知っていましたから」
 「そして、城島所長は東名高速で残念ながら…」
 「そうなんです。だから、あなたから連絡をもらったとき、あなたに紹介すべきだと考えたわけです」

 トローリングの疑似餌
 英国領ジブラルタルの旧市街、その路地裏にある地元のレストラン、プエルト・スール(南の港)はその夜も賑わっていた。
 人種が混在するこの街の夜は、ジョアン・ラポルタが慣れ親しむカタルーニャ人の夜とはまったく異なっていた。混血を重ねた人たちの風貌には北アフリカやアラブの痕跡が深く残っており、一種独特な喧騒が店内に満ちていた。
 テーブル席ではなくバーカウンターに落ち着いたジョアン・ラポルタはビールを注文すると、店内をゆっくり見渡した。人の知覚は驚くほど素晴らしいもので、一度でも記憶した人相は、記憶の奥に眠っていたとしても、意識に瞬時に上ってくる。客席で談笑を楽しむ数十人の客たちの顔をさっと見渡すだけで、どこかで見知った顔があれば、ジョアンの記憶に眠る人相書きが呼び出されるはずだった。ましてや、フーゴ・シュペルレが変装してその客席にいたとする。百九十センチは超える痩身の男は、この街には少ないはずで、一目でそれと分かるはずだった。
 ひととおり見渡し怪しい人物はいないと判断したジョアンは目の前に置かれたビールを片手に、次の動きを考えていた。
 地中海の夏の夜は静かに訪れ、夜が深まるにつれ賑わい、明け方近くまで喧騒が続く。ジョアンは、足早にとおり過ぎようとするウェイターを止めチップを手に握らせるや、「この店に、フーゴ・シュペルレは来ないか?」と訊ねた。ウェイターは、そんな人物は知らないと言い終わるや、足早に調理場に入って行った。
 ジョアンが目で追うその姿に、ウェイターの柔らかな物腰が消えていた。

 〈ビンゴ!だ〉
 二杯目のビールを飲み干したジョアン・ラポルタは店を出た。
 少し酔ったフリをし、旧市街の路地裏をゆっくり歩く姿は、まるで疑似餌だった。魚に興味を持たせ手繰り寄せる。
 十数分歩き埠頭に着いたジョアンは、ベンチに座るとタバコに火をつけた。埠頭に打ちつける波は穏やかだった。
 ジョアンは夜空を見上げ、客席を眺めながら記憶に納めたレストラン、プエルト・スールの店内のシーンを、写真のように一枚一枚思い出していた。喧騒漂う陽気な店内で、不審な人物はいなかっただろうか、と。カタルーニャ州警察で刑事になったころ、容疑者の写真を何百枚も記憶し、無意識野に落とし込み街を歩き、通り過ぎる人の顔を認証する訓練をした。やがて訓練の成果かジョアン・ラポルタは精度の高い顔認証装置を脳の無意識野に抱えていた。
 数十枚の脳内写真を繰っていると、店頭のテーブルの男の視線が引っかかった。その数枚ほど前の脳内写真には、その男があのウェイターと語らう姿があった。
 暗い瞳の小柄なその男に面識はなかった。縄張りに入って来た敵に警戒心を働かせた野犬のような男だった。

 〈さて、どう出てくるだろうか…〉
 欠伸をし、ジョアンはホテルへと戻って行った。
 レストランから埠頭、埠頭からホテルへと、あの男が様子を探っているに違いなかった。今夜の疑似餌の釣りはここで納竿すべきころ合いだった。魚は食いつきかけたが、警戒心を強めただろう。今夜は一旦ホテルに戻り、あの男の警戒心を少しだけ解く。疑似餌はホテルの一室だ。パクリと口にしたければ、向こうからやって来るだろう。

 今夜、ジョアンは、フーゴ・シュペルレがこの街に潜んでいると確信を得た。それだけで十分だった。
 フーゴ・シュペルレもまた、バルセロナの北、ジローナで昔に殺り損ねた獲物がジブラルタルの街に迷い込んだのに歓喜しているだろう。
 〈ここは、神経戦だ〉
 古い石畳の路地に、ジョアン・ラポルタの靴音が響いていた。

 大山雄二殺人事件の香り

 「中山警部、ご苦労様です」
 京都府警の会議室に、鑑識課の長瀬直人課長が現れた。

 「こちらこそ。元はスペインからの依頼で『事任の書』捜査に関わった流れで、京都府警にはご迷惑かと思いますが、どうも本件は複雑怪奇な展開になりそうで…」
 冷房が効き過ぎるのか、中山新之助は、いつもの、草臥れたワインレッドのレインコート姿のままだった。

 「ええ。お話は伺っています。大山雄二さんの殺害も、動機なき殺人ではないと考えています。何らかの明確な動機があるように思われてなりません。例えば、『事任の書』を巡る何か…」
 同席する京都府警の横尾稔刑事は、動機なき殺人などはないと考えていた。はっきりとした大きな動機の殺人事件もあれば、一方的な恨み辛みでの殺人事件もある。時には、殺人犯でさえ分からぬぼんやりとした動機の殺人事件もある。面倒なのは、殺人犯自身が動機に気づかず、ある日突然殺意が湧き上がり、発作的に殺人を犯す殺人事件だった。殺人犯にとっては、それは夢の中の出来事のようで、日常生活とは切り離された話になる。ここ数年犯罪心理学でも大きなテーマになっていた。そして、今回の殺人事件は、その面倒なタイプの殺人事件ではないかと横尾刑事は睨んでいた。

 「『事任の書』を巡る…」
 「ええ。ただ、犯人の足取りがどうも掴めません。ただ、鑑識課で空気分析の結果が出ました」と長瀬課長に促すと、会議室のモニターに化学分析結果数値のグラフが映しだされた。

 「あの。申しわけないのですが…長瀬課長」
 中山警部は、天然パーマの髪をゴシゴシ擦った。

 「ええ。分かります。このグラフだけだと、何のことやらで、さっぱり分からないと思います。このグラフは、大山雄二さんが殺害された書斎の空気を採取し、成分分析器にかけた結果です。ここの数値を見て頂けますでしょうか?醋酸リナリルとリナロールという成分が突出しています」
 「はぁ。醋酸リナリルとリナロール…」
 「つまり、ある種の香り成分です」
 「それは、つまり?」
 「ラベンダーです。北海道の富良野にあるラベンダー畑で有名な、紫色の…」
 「長瀬さん。大山雄二さんの書斎の空気にラベンダーの香りが漂っていたと?」
 「はい。翌朝、大山雄二さんの自宅を訪ねられた第一発見者の方、ご近所の囲碁仲間の方にも確認しましたが、大山さんは日頃香りが強いものを避けられていたようです。トイレなどの芳香剤には、若干の醋酸リナリルが確認されましたが、書斎の空気だけに強い反応がありました。殺害時間が夜だったこともありますし、書斎が北側の直射日光が差さない場所にありカーテンも閉じられていたこともあり、紫外線に弱い醋酸リナリルとリナロールの臭気は薄まらずに残っていたかと…」
 「長瀬さん。つまり犯人は…」
 「はい。玄関から書斎へと続く何カ所かで空気採取し成分分析器にかけ、書斎での数値が何倍も高い結果でした」
 「ということは、犯人はある程度長い時間、書斎に滞留していたとも言えますね」
 「そうです。この数値からだけですが、犯人は大山雄二さんの顔見知りで、ある一定時間書斎にいた。そして、その犯人は醋酸リナリルとリナロール、すなわち、ラベンダー系の香りを身につけていた可能性が高いと…」
 「ラベンダー。そして、黒いハットを目深に被った小柄な男…」
 京都府警の窓辺で、京都御所の蝉の鳴き声が響いていた。
 早鳴きの蝉は、梅雨明けを心待ちにしているようだった。

 その日、中山警部は大山雄二の自宅前から京福電鉄の四条大宮駅まで、小柄な男の足取り追ってみた。
 梅雨明け間近の湿気が身に纏いつき、レインコートの下のシャツは汗でびしょ濡れになった。四季を問わず学生時代から慣れ親しんだレインコートを脱げば良いのだが、それは肌の一部になっていた。
 大山雄二が殺害された夜、気温は二十五度、湿度は八十パーセントだった。パーカーに黒いハットでは汗ダクになる。わざわざ汗ダクになる服装の小柄な男はおそらくプロの犯罪者ではない。中山警部は、五百メートルほど歩き嵐電嵐山駅に着くと、喉を潤すために自動販売機で麦茶を買った。
 蒸し暑い夜に、黒いハットにパーカー姿の小柄な男は、この京福電鉄の嵐電嵐山駅から終点の四条大宮駅まで約二十分をかけ移動した。すぐに答えなど出てはこないが、中山警部の無意識に、ある像がぼんやり浮かんできた。
 ガタンゴトンと通称・嵐電に乗ると途中に太秦駅があり広隆寺の山門が見えた。「言霊喰み」という妖怪を「事任の書」に封じ込めた大弓月亀勝という伝説の人物の先祖が、この太秦の「秦」氏だ。そして、松尾山の神を氏神とした。
 やがて、嵐電は四条大宮駅に到着し、中山警部は観光客に混じり四条大宮の交差点に立った。この先、堀川通りを東に行けば祇園祭間近の街中は賑やかになる。
 中山警部は観光客の流れに混じり、四条大宮から四条河原町まで、何かに誘われるように歩いてみた。

 大道希信、ロンドンへ

 「大道さん、〈例の男〉から連絡が入りました」
 「例の男?」
 「はい。スペインの…」
 「ああ。あの男か…」

 大道希信の朝は早い。
 午前五時に目覚めると、寝間着のまま庭を望む縁側で胡坐をかき、ミネラル・ウォーターを飲み、秘書が準備したニューヨーク株式市場のデータに目を通す。それを終えると、果物だけの朝食を摂る。世界は二十四時間動いている。秘書を六人雇うのも世界の情勢をカバーするためだった。
 今朝、大道が朝食を摂っていると、時枝文章から電話が入った。

 「〈例のもの〉は手元にあるということです」
 「それは良かった。それで、この先は?」
 「例の男からの提案で、ロンドンではどうかと」
 「ロンドンで、か…」
 「先日お話ししたとおり、次は受け渡しです」
 「それは分かっているが…」
 「〈例の男〉は、英国領のある街に潜伏しています。どうやってロンドンまで移動するのかは分かりませんが、ロンドンでの手渡しという提案です」
 「そして、私が、外交特別ビザで英国に入国し、直々に〈例のもの〉を手にするということだな」
 「はい。今回は、最小限の人物だけが介在する方が良いかと…」
 「君や、君のお父さんでは、役不足だと?」
 「そのとおりです」
 「しかし、私がロンドン入りすると、駐英日本国大使館の連中や外務省の連中が、変に気を使うぞ」
 「大道さん。そこが狙い目です。歓迎会でも催してもらった方が良いかもしれません」
 「派手にしろと?」
 「はい。政治的な口実を作り渡英して頂く。英国政府の高官や、労働党や保守党の幹部を訪問するとか…」
 「なるほど。SPもつく、と」
 「はい。大袈裟な方が、目立たない」
 「英国政府の内務省やロンドン警視庁、つまりスコットランド・ヤードも大道さんを守る側に立つ」
 「うむ。分かった。で、いつだ?」
 「十日後の七月二十日です。現地時間の…」
 「しかし、時間が無さすぎるが…」
 「申しわけないのですが、それがベスト・タイミングだと、〈例の男〉は考えています。どうやらスペインの警察も動き始めているようですから」
 「そうか。分かった」

 〈然るべき人物が現地に飛び、その人物が『事任の書』を携え帰国する〉と時枝文章の話を受けた翌日から、大道は秘書を使い準備を始めていた。加納首相から外務大臣に話を入れ、外交特別ビザはいつでも発給できる体勢も整えていた。
 大道は秘書を呼びつけると、英国での主な外交スケジュールを調べさせ、正午前には報告書が上がってきた。
 七月二十日前後だと〈ロンドン・東京姉妹都市イベント〉が開催される。東京都知事の永江美津子は次の選挙を控えている。大道に、猫なで声で頭を下げに来るころだった。

 大道は秘書に電話をかけさせ繋がると、受話器をとった。
 「永江君。ロンドンに視察旅行に行く予定なんだが…」

 クスノキの香り
 数百坪の田舎家は、夏日だというのに涼やかな風が吹き抜けていた。その土地ごとに気候は異なり、家の作りも変わるものだが、品川花の家もまた、この掛川の地に古くからあり、この地の気候に寄り添って息づいてきたのだろう。長く続く土塀から木造の小さな門に入ると、樹木が綺麗に剪定されていた。ガラリと木戸を開けると土間があり、下駄を履いた品川花が出迎えてくれた。
 
 「はじめまして。金田モネと申します」
 「はいはい。浅田さんからはお話を聞いております」
 九十歳に近い品川花だが艶やかな肌と笑顔は年齢を感じさせず、生き生きとしていた。一人住まいだが今朝も畑仕事だったと笑う品川花は、お土産にとスーパーの袋に茄子や胡瓜を入れ、「忘れてはいけない」と、居間に通されるや金田モネに手渡してくれた。
 「最近忘れん坊で。何かしようと立つと、何だったか忘れたり。老いぼれです」
 「いえいえ。お身体もお元気そうで」
 「身体だけはね。お陰さまで、風邪ひとつひかないんですよ」と、品川花は慣れた手つきで掛川茶だと、緑豊かな煎茶を淹れてくれた。

 「で、そちらの方は?」
 「あ。すみません。私は、金田さんの友人で、佐々木と申します。フリーのジャーナリストで…」
 「ジャーナリスト?」
 「はい。雑誌やインターネットのニュースなどに記事を書いています」
 「はぁ。何か分かりませんが、大変なお仕事のようですね」
 「いえいえ」
 煎茶を淹れ終わると、品川花は座布団に座り直し、ふぅと息をついた。

 金田モネのことが心配なのか、佐々木ローザは頻繁に連絡を入れてきた。原始神道研究者の浅田ミレイと出会い、品川花という人物を紹介されたとメッセージを打ち返すと、同行させて欲しいという話になり、佐々木ローザと掛川駅で待ち合わせした。「『事任の書』探索記みたいなルポルタージュを書かせてね」という彼女の申し出に、「良いよ」と気軽に答えたのを、金田モネは思い出していた。ただ、こんなにも執拗に、取材旅行に顔を出してくるとは正直思ってもみなかった。

 「クスノキの香りですね」
 「え?」
 「お二人が来られたときからクスノキの香りがしています。良い香りですね。私の母も着物箪笥に樟脳を入れていましたから」
 「樟脳?」
 「はい。樟脳。クスノキの枝や葉っぱから取り出した結晶。防虫効果があるんだと、母から教えてもらいました」
 「おそらく、私たちが使っているアロマの香りかと」
 「そうでしたか…。母を思い出しました。良い香りですね」

 品川花は年齢のせいか、それとも彼女の性格なのか、牛の歩みのように遠回りしながら、本題に静かに近づいていった。

 「ところで、何の話でしたでしょう…」
 「ええ。浅田ミレイさんから、品川さんが、先祖代々から『事任の書』に纏わる話を受け継がれておられると聞きまして」
 「はい、はい」
 皺の寄った瞼を閉じ、品川花はしばらくもの思いに耽っていた。
 居間に流れるゆったりした時間に、佐々木ローザは苛立っているようだった。何事も時間どおりにテキパキと済ませたいタイプの彼女には、品川花は苦手に違いなかった。

 早蝉の鳴き声が雑木林から聞こえていた。
 ジリジリと聴こえるのはコオロギの仲間なのだろうか、軒下に住み着いた虫の鳴き声が、広い居間の空気を震わせていた。

 「あの…」
 「はい」
 品川花が瞼を開け、チャーミングな笑みをこぼした。

 「あの、『事任の書』の話ですが…」
 「はいはい。そうですね…『事任の書』というのが分けられて、どこかに納められたという話はご存知ですね?」
 「ええ。二つに分けられた、と」
 「その半分なのかすべてなのかは分かりませんが、その先にある事任八幡宮に納められていたという話はありました。けれど、それは伝説というか、神話に近い話で、事任八幡宮に関わっている人も、ただただ『事任(ことのまま)』という同じ文字だったからではないかと思っています。この私も、です」
 「つまり、事任八幡宮には納められていないということですか?」
 「そうです。いま、事任八幡宮を探してもどこにもないはずです」
 「では、品川さんが先祖代々受け継がれた話とは…?」
 「そうですね。戦国時代に今川義元候の息子、今川氏真候がお持ちだったと聞いております。確か、一五六八年、武田信玄に追われ掛川城に逃げ込んだ今川氏真候は、徳川家康に攻められ掛川城を開城し今川家は滅亡します。そのときまで、今川氏真候がお持ちだったと伝わっています。今川家が滅亡したあとは、氏真候は小田原、京都、浜松、近江と流転され、最後は江戸で亡くなられますが…」
 「品川さん。ということは、今川家が代々『事任の書』を持っておられた、と?」
 「そうだと思いますが…」
 品川花が言葉を急に濁した。

 〈何故、言葉を濁したのか…〉
 口を噤んだ品川花の優しい表情を見つめていると、彼女のが佐々木ローザを射った。それは一瞬のことだった。まるで金田モネにそれと分かるような視線だった。

 「品川さん。ありがとう、ございます」
 「いえいえ、他にも色々ありましたが、今日はどうやらボケているようで、お役に立てませんね」
 「こちらこそ、お時間を取らせ、失礼しました」

 呼び出しタクシーを玄関で待っていると、品川花は遠くを眺め、「あの山が雄鯨山と雌鯨山と言いましてね」と指差した。
 「おくじらやまと、めくじらやま、ですか?」
 「そうです。雄の鯨と雌の鯨、でね……あの山の奥に祠があると、父が話をしていました。何の祠かは知りませんが…」

 掛川駅でタクシーを降りると、佐々木ローザは時間がまだあるからカフェでコーヒーでも飲んでいると、手を振り別れて行った。学生時代から我が道を行くタイプだから仕方がないと、金田モネがその背を眺めていると、その先の駐車場に見覚えのある赤色のメルセデス・ベンツが停車していた。
 〈あれは?〉とも思ったが、人のあれこれを詮索する気のない金田モネは、新幹線の改札口に向かった。
 

 ジブラルタルの刺客
 ホテルへの帰路、ジョアン・ラポルタは敢えて遠回りの道をとった。埠頭から路地裏の石畳の道を歩いていると、背後に人の気配がしたからだ。竿を納めていたが、ジョアンは再び疑似餌を投げ、釣り糸を伸ばした。
 まるでトローリングだった。
 トローリング船のファイティング・チェアに座り釣り糸を延ばし疑似餌を海面近くに走らせる。疑似餌に気づいたカジキマグロは、最初は慎重に疑似餌を追うが、やがて精神を錯乱させ疑似餌に迫り、最後にパクリと食いつく。
 プエルト・スールにいた、眼球が濁ったあの男だろうか。
 酔客のような歩みのジョアンの背を追うあの男を、どうやって引きつけようかと思案していると、小さなバルのオレンジ色の街灯が路地を小さく照らしていた。
 ジョアンは、その光の下で、バルの中の様子をしばらく眺めると、素早く歩き出した。その先には闇夜が待っていた。
 男が街灯を過ぎ、闇夜に身を置いたときだった。
 ジョアンは、身を隠した家の軒先の窪みから飛び出し、男の腹にボディー・ブローを一発見舞った。
 崩れかけた身体をなんとか堪えた男は、ポケットからナイフを取り出した。

 「俺に、用事かな?」
 「……」
 「特に用事はないのかな?」
 「……」
 男の濁った目に、プロの殺意があった。
 感情など微塵もない殺意だ。

 「そうか…」
 ジョアンが両手を広げ間合いを狭めると、男は後ずさりした。
 〈ふむ。殺る気は、あまりないな〉と看破したジョアン・ラポルタは、左ジャブで男の右頬を撃った。
 拳が〈シュッ〉と空気を切った。
 男はぐたりと石畳に崩れ落ちた。

 翌朝ホテルのカフェで、ジョアン・ラポルタは大量のレモンを絞った水を飲んでいた。
 朝日はすでに登り、湿度の高い風が吹きつけていた。
 昨夜は、倒れた男を置き去りにし、ホテルに戻った。
 間合いを狭めると後ずさりしたあの男は、命までは狙っていなかった。脅しをかければ良いと思ったのだろう。あの時点ではまだ、ジョアンがあの店に現れたと、フーゴ・シュペルレの耳には入っていなかっただろう。

 そして一晩がたった。フーゴ・シュペルレの耳に入ったはずだ。奴にすれば、バルセロナの北、ジローナで殺り損ねた獲物が、わざわざ懐深く現れたわけだ。あの鋭い刃先を研いでいるに違いなかった。

 その夜、ジョアン・ラポルタは、プエルト・スールに再び舞い戻った。
 昨夜のウェイターの姿はなかった。
 冷たいビールで喉を潤していると、カスティーリャ=ラマンチャにあるブランコ城の元領主オリベール・イニエスタの話を思い出した。一流のウェイターの話だ。一流のウェイターは「自分が受け持ったテーブルにはいつも気を向けるものです。お客には悟られずに目と耳を澄ませ尖らせ、何を求めているのかを注視しているものです」と。
 昨夜のウェイターも、受け持ったテーブルではなかったとしても、ジョアンの一挙手一投足を、犯罪組織の一員として見つめていたに違いなかった。
 蛸と青唐辛子のオリーブ煮を摘んでいると、店主らしき人物がジョアンに声をかけてきた。

 「ラポルタ様でしょうか?」
 「ええ」
 「あちらで、お知り合いがお待ちです」
 「私の知り合いが?」
 「はい。古くからのお知り合いだそうです」
 「ありがとう。では…」
 席を立ち、調理室横の通路を抜け、重厚な木の扉を開けると中庭があり、そこに一人の男が待っていた。

 「久しぶりだな」
 「ああ。これは、これは、ジローナ以来か…」
 男は白ワインを注ぎ、グラスをジョアンに手渡した。

 「ところで、バルセロナの探偵が、私に何の要件があるのだろう?」
 「要件?」
 「そうだ。要件。私を探しているようだが?」
 「ああ。お前がどこにいるのか、知りたくて、な」
 「ほお。俺にもファンができたのかな。嬉しい限りだ」
 「そうだな。お前のファンかもしれん。熱狂的な」
 「ふふ…」
 「何をにやけているんだ?」
 「ありがたいことだと思ってな。でも、ファン・サービスはそのワイン一杯でおしまいだ。俺も忙しいから…」
 グラスに残った白ワインを飲み干し、男が木の扉へ姿を消すと、入れ替わりに三人の男が中庭に現れた。一人は昨夜、ジョアンの左ジャブで倒れた男だった。

 〈さてと…〉
 ナイフを手に持つ三人の男がジョアン・ラポルタを囲み、淀んだ殺気で空気を鈍く震わせた。
 ジョアンは面倒だなと席を立ち、息をひとつ吐いた。
 街のチンピラ以上だがプロの刺客未満だと見切ると、右のサイド・キックで一人の男の鼻を砕いた。
 すかさず左手の男が刃渡り三十センチのサバイバル・ナイフでジョアンの左肩を突いたが、スウェー・バックするや右手首を左拳で砕いた。その左手には鈍色をしたサックが光っていた。
 残るは一人。
 昨夜、石畳に眠った男だった。
 昨夜の間合いを覚えたのか、男は慎重に距離をとり、ジャケットに隠したホルスターから拳銃を取り出した。
 〈グロック十七、英国軍の正式拳銃か…〉
 男の拳銃を値踏みしたジョアンは、トリガーを引く時間を瞬時に見切ると、不敵な笑みをこぼした。
 中庭に強い風が吹き葡萄棚が揺れるや、トリガーが引かれた。
 銃声が冷たく木霊するや、〈どさり〉と人が倒れた。
 銃声音に気づいたのか、木製の扉が音をたてて開いた。

 「ラポルタさん、大丈夫ですか?」
 その声は、ペレイラ刑事の声だった。

 「ふう」
 暗闇から息つく男が立ち上がった。

 「ああ。ラポルタさん。良かった。怪我は?」
 「大丈夫でしたよ。ちょっと遊び過ぎて、危機一髪でしたが」
 男が右手の拳銃のトリガーを引くや、ジョアン・ラポルタは右前に身体を滑りこませ、男の足元から右拳を突き上げ、男の顎を砕いた。腕前が確かでない限り、トリガーを引くと拳銃は外にブレ、上にブレる。その真逆に身体を滑りこませれば、少なくとも一命は取り留められる。

 店に戻ると、店長を含む数人が手錠を掛けられていた。
 その中には昨夜のウェイターの顔もあった。
 表通りに出ると数台の覆面パトカーが停められており、見知らぬ男がジョアン・ラポルタに手を上げた。
 フランコに違いなかった。
 「フランコ、ありがとう」と声をかけると、彼はコクリとうなずいた。

 浜名湖のホテル
 掛川駅から新幹線に乗り数十分で浜松駅に着くと、金田モネは浜名湖湖畔のホテルに戻った。
 その夜、金田モネは一人で夕食を摂りながら、不思議な今日一日を反芻していた。
 これまでも、民話などの聞き取り調査を経験しては、デジタル録音機に記録した話を丁寧に聴き取ってきた。話す相手により、そこに個人の創作も混じることがあった。聞き取りに慣れると、話す相手の話し方や表情も見逃さないようにした。ちょっとした話し方や表情で、それが創作なのか否かが分かるようになっていた。
 そして、品川花だ。
 彼女の言葉にはどこにも疑いの余地はなかった。
 品川花は知っていること、つまり、先祖代々から受け継がれた話を実直に話してくれたはずだった。
 現在の事任八幡宮には「事任の書」は納められていない。
 今川義元の息子、今川氏真が「事任の書」を所持していたが徳川家康に攻められ掛川城を開城し今川家は滅亡する。
 その後、今川氏真は小田原、京都、浜松、近江と流転し、最後は江戸で亡くなった。
 佐々木ローザが同席していたからだろうか、品川花は言葉を急に濁し口を噤んだ。そして…。タクシーを待っていると、雄鯨山と雌鯨山の奥に祠があると、耳打ちするように話してくれた。

 翌朝、浅田ミレイがホテルを訪ねてくれた。
 品川花に一緒に会おうと誘ったが、浅田ミレイは、金田モネが直接会って話を聴く方が良いと浜松から掛川へと送り出してくれた。

 「いかがでしたか?」
 「ええ」
 品川花から聴いた話を伝えると、笑顔を見せた。

 「私も同じ話を聴きました。そして、そこに嘘はないと信じています。そして、雄鯨山と雌鯨山の奥にあるという祠の話ですが…」
 「はい。祠があるとだけ…」
 「そうでしたか、それ以上は?」
 「ええ。タクシーを待っているときに、小さな声で祠があるとお聴きしましたが…」
 「実は、その先があるんです」
 「その先が?」
 「はい。その先の話を私が聴いたので、城島所長に連絡をし、城島所長はこちらに来られようとしたわけです」
 「そこまで、して?」
 「はい。城島所長が品川花さんから直接話を聴きたいと言われて…」
 「浅田さん。ということは、雄鯨山と雌鯨山の奥にあるという祠に、いったい何が、あると?」
 「『事任の書』です」
 「それは、分けられた『事任の書』ですか?」
 「ええ。品川花さんのお話だと、そのようです」
 となると、スペインのバルセロナの古書店店主、パフ・ダフィーリョが発見したという「事任の書」が一つ、そして、もう一つが雄鯨山と雌鯨山の祠に眠っていることになる。品川花によれば、今川氏真が「事任の書」を所蔵していたが、今川家滅亡後、今川氏真は小田原、京都、浜松、近江と転々と流転し、江戸で亡くなった。

 「浅田さん。品川花さんのお話が正しいなら今川氏真が所蔵していた『事任の書』を自ら二つに分け、その一つを雄鯨山と雌鯨山の祠に納めたということですか?そしてもう一つの『事任の書』はどこかに納められていたが紛失し…と」
 「そうかもしれません。その一つを掛川の雄鯨山と雌鯨山の祠に、そしてもう一つを京都の松尾山の祠に。今川氏真は今川家が滅亡したあと、京都にも住んでいましたから」
 「すると、大弓月亀勝から坂上田村麻呂、事任八幡宮から今川家と『事任の書』は受け継がれ、今川氏真の代に二つに分けられ、雄鯨山と雌鯨山の祠、そして松尾山の祠に納められた…」

 浅田ミレイには、バルセロナの話はしていなかった。
 パフ・ダフィーリョが殺害され、「事任の書」の一部が盗難にあったことを話すのは、時期尚早だと考えていた。気軽にこの情報を入れると、浅田ミレイまで殺害事件に巻き込みそうだったからだ。
 真実の一つの「事任の書」と、二つに分けられた「事任の書」。
 「事任の書」は西暦八百年ごろから現代に至る千年以上もの長い歴史に揉まれてきた。
 そして、金田モネだけが、この謎に挑んでいる。
 研究者冥利に尽きる話になってきた。

 「金田さん。どうかされましたか?」
 「いえ。私がしっかりしないと、と」
 「そうですね。城島さんが亡くなられたいま、金田さんの肩にかかっていますから…」

 品川家

 「大道さん。ロンドンの件、ありがとうございます」
 「たまたま七月二十日前後に〈ロンドン・東京姉妹都市イベント〉が開催されるようでな、東京都知事の永江美津子に視察ついでに見学すると話すと喜んでくれたよ」
 「それは、もちろん喜ばれますね」
 時枝文章は、〈喜ぶ〉の裏の意味を理解していた。高齢だが勇ましいタイプの女性政治家は人気がある。永江美津子もその一人だ。女性なら平和主義で社会福祉を推進してくれるという逆性差別的な有権者にとり、永江美津子はブランドだった。だが、選挙戦の公約とは裏腹に、彼女も普通の政治家だった。化けの皮が剥がれ出しており東京都知事再選は厳しい戦いになると予想されていた。表向きは日本民主独立党とは一線を画しているが、裏では手を握り次期都知事選にはどうしても日本民主独立党の力が必要だった。そこに、日本民主独立党創立者の一人、大道希信からの連絡があった。大道がロンドン視察旅行ついでに〈ロンドン・東京姉妹都市イベント〉に顔を出してくれるだけで追い風になる。金も使わず、損はない。変な色もつかない。

 「では、外交特別ビザの件も順調ですか?」
 「もちろんだ。英国政府の外務省や労働党、保守党の幹部の日程も概ね握っている」
 「それは、良かったです」
 時枝文章は、これで自分の荷が降りると、声が軽くなった。

 「ロンドンの件で、連絡したんじゃないんだが…」
 「はい?では、何の件でしょうか?」
 「ああ。国内の方は、どうなっているのか知りたいんだが。ロンドンで『事任の書』の半分を入手したとして、あと半分の行方が知りたいのは分かっておると思うが…」
 「はい。国内の方は、金田モネの動きを適宜…」
 ある筋から掛川の事任八幡宮近くに住む品川花という老婆を金田モネが訪ねたという情報が入った。浜松に住む原始神道研究者の浅田ミレイという人物が紹介したという。
 品川花は、「事任の書」が事任八幡宮に納められていたという話はあったが、それは伝説でしかないという。先祖代々から品川花が受け継いだ話では、戦国時代に今川氏真の手にあり、その後行方不明になった。

 「そうか…」
 「大道さん。何か…」
 「いや、その女性の名前は、品川花と言うんだな」
 「はい、そのとおりです。静岡の掛川市に住んでいる老人です」
 「品川家か…」
 「はい。確かに、品川と…」
 「先祖代々語り継いできたということだな」
 「はい。その品川花という女性が言うには…。何か問題でも?」
 「いや、それは、こちらの話だ。ただ、もう少し金田モネを泳がしておいた方が良さそうだな」
 「はい。金田モネの近くに、私の〈耳〉を張りつけていますので、大丈夫です」
 「それなら良いが…」

 フーゴ・シュペルレ、地中海へ
 レストラン、プエルト・スール(南の港)でフーゴ・シュペルレに逃げられた翌日の午前七時、ジョアン・ラポルタは英国領ジブラルタル警察の会議室にいた。七平方キロメートルに三万人が暮らすこの土地には民族が混在し、裏社会が深く根ざしている。この地をよく知るアデミール・ペレイラ刑事は、フーゴ・シュペルレの逃走路をいくつか割り出していた。
 有力だったのが、〈大包囲戦トンネル〉だった。
 イベリア半島の南岸に突き出た半島にあるジブラルタルは、地中海と大西洋を繋ぐ出入り口として、歴史上極めて重要な戦略地で、これまで十四度も包囲戦が繰り返されてきた。その最初、つまり第一次ジブラルタル包囲戦は一三〇九年に勃発した。スペインをキリスト教徒の手に戻すレコンキスタというキリスト教徒の反撃が続き、キリスト教徒の勢力がジブラルタル湾に到達したころだった。以来、十数度ものジブラルタル包囲戦があった。この半島中央部にある通称〈ザ・ロック〉、ターリクの山の最北端には一七九七年に建設された大規模トンネルがあり、現在総延長は五十キロにも及ぶと言われており、一部を使いジブラルタルの歴史展示場にもなっていた。

 「ペレイラ刑事。つまり、フーゴ・シュペルレはその大包囲戦トンネルに逃げ込んだ、と?」
 「そうではないかと。昨夜、自動追跡ドローンを十機待機させていました。手のひらサイズの極小ドローンです。あのレストランから逃走する人物がいれば自動で追跡できるシステムを搭載しており、そのうちの一機があるオートバイを察知し、街外れにある大包囲戦トンネルに通じる入り口まで追跡しました。途中、何十枚かの静止画像を撮影しましたが、フーゴ・シュペルレだと確信しています。おそらく、十四世紀に作られたムーア人の秘密基地跡に入り込んだと思われます」
 「では、どうやってフーゴ・シュペルレを?」
 「あのムーア人の秘密基地跡は、東側に出口が一カ所、西側に出口が三カ所確認されています。西側の三カ所から奥へと進み、東側の出口で待機し確保する。ネズミ追い出し作戦ですね」
 「なるほど…」
 「すでに、すべての出口に警官を配備し終えています」

 午前八時、ネズミ追い出し作戦が実行された。
 ジョアン・ラポルタは東側に一カ所だけある出口で待機した。
 警官が二人一組で三つのルートから〈ネズミ〉を追い込んでいった。途中、昨夜乗り捨てられたオートバイが発見された。
 正午、西からのルートのひとつで、逃げる人の姿があったが捜査員は急ぎ足で追うことなく、同じペースで奥へとゆっくり歩いて行った。
 午後一時、西からの三ルートが一本の道になった。
 逃げた人物は、東への一ルートを辿っているはずだった。
 九人の捜査員たちは、一本になった東へのルートを一歩一歩進んでゆき、東の出口まであと八十メートルとなった時点で歩みを止めた。東側出口では、ジョアンの他アデミール・ペレイラ刑事はじめ五名の警官が待機しており、洞窟の九人の捜査員たちとは逐次連絡を取りあっていた。
 
 「あと、八十メートルでそちらの出口です。ここから〈L〉の字型に曲がっているので、先ほどの人物はそこに隠れている模様」
 「了解。ゆっくり進んでください」
 「了解」
 息を潜めながら九人の捜査員たちが曲がり角に達しようとしたとき、手榴弾が転がり出て目前の岩壁を破壊した。

 「どうした?」
 「……」
 通信が途絶え、東側出口から手榴弾の煙が吐き出された。
 〈自爆したのか?〉
 ジョアンが岩肌にできた穴を見つめていると、やがて、背の高い痩せた男が両手を挙げて現れた。

 〈フーゴ・シュペルレ。しかし、何故、手榴弾を後方に投げたのか…〉
 
 ゆったりと近づくフーゴ・シュペルレは不敵な笑みを蓄えていた。
 煙が消え、岩穴の前は静まった。
 投降するでもないフーゴ・シュペルレがあと十メートルの地点で歩みを止め空を見上げると、無国籍の高速度ヘリコプターが岩山の頂上から急降下で突っ込み、救援用ロープを掴んだフーゴ・シュペルレを上空へと一気に運び去った。
 
 「そして…」
 「東岸に二隻巡視艇を待機させていましたが、スクリュー網を仕掛けられ地中海に出られませんでした。残念ですが」
 「ペレイラ刑事、仕方がありません。彼らに銃弾を撃ち込むわけにはいきませんから」
 スクリュー網とは浮き網状の網で、スクリューに巻きつき船を航行不能にさせる。地中海に出た無国籍の高速度ヘリコプターは、フーゴ・シュペルレを地中海に落下させると、北アフリカへと消えて行った。

 「つまり、フーゴ・シュペルレは地中海に」
 「ラポルタさん。彼は地中海に落下し、潜水型ドローンで逃亡を図ったかと」
 「追跡はいかがでしたか?」
 「残念ながら、レーダー網では掴めない大きさです。地中海の麻薬密輸で頻繁に使われている自動航行型の潜水型ドローンだと思います。ただ、朗報があります」
 昨夜、レストラン、プエルト・スール(南の港)で逮捕された麻薬密売組織の容疑者のうち一人の男がフーゴ・シュペルレの逃亡先を吐いた。緊急の司法取引の成果だった。

 「ロンドンです」
 「ロンドン?」
 「ええ。司法取引に乗った男が、ロンドンへの逃走準備を手伝っていたそうです。七月二十日までに、フーゴ・シュペルレはロンドンへ入国するということです。あと朗報があります。フーゴ・シュペルレの人相を含めた身体認証データを読み取りました。フーゴが岩穴から現れるや身体認証用データ記録装置で。煙が漂っていたので、六十五パーセントの再現率ですが」
 「では、英国側にもそのデータを?」
 「それは伝達済みです。フーゴ・シュペルレが空港を利用したり一般的な交通機関を使えば、時差はありますが、認証可能です。もちろん、彼がそんなヘマをするとは思えませんが」
 ジョアン・ラポルタは、拳をぎゅっと握り締めた。
 フーゴ・シュペルレとは個人的な決着をつけねばならない。
 しかし、その前に、実行犯の彼の背後にいる指示犯を特定し、パフ・ダフィーリョ殺害事件の全貌を解明するのが先決だった。
 敢えて、ギリギリのところで取り逃がす作戦、泳がせ捜査は次の段階へと駒が進んだ。

 祇園祭の足跡

 「賑やかですね…」
 四条通りの歩道には観光客が溢れていた。

 「ええ。この時期は、鉾が建てられて、鉾の上からお囃子が流れます。もう夏ですね」
 警察庁特殊事案部の中山新之助警部は、東京に戻る前に、金田モネに会っておこうと、四条烏丸近くのカフェに誘い出した。

 「突然で申しわけないです」
 「いえいえ。土曜日の午後は休みにしようと思っていましたから、ちょうど良かったです。あと、大山さんの件がその後どうなったのかも気になっていましたから」
 「そうでしたか。あまり進んではいないようですよ」
 中山警部は、京都府警側で捜査を進めており、具体的なことは何も知らないというそぶりを見せた。

 「進んでは、いないんですね」
 「ええ。そのようです。別件でこちらに来る用事がありまして、昨日京都府警に顔を出しましたが、特に何もなく…です」
 「そうでしたか……。あの後、京都府警の横尾さんという刑事さんが研究所を訪ねて来られて、色々話をさせてもらったのですが…。松尾山から下りてからの大山さんのことは何も知らないので、捜査に協力はできませんでした」
 「いえいえ。あなたもショックだったでしょうし…」
 「ええ…」
 無意識に宿る捜査勘を、中山警部は信じていた。今朝早く、金田モネに会っておいた方が良いという勘が何故か働いた。
 理詰めでは説明できない捜査勘だった。
 昨日、大山雄二の自宅から四条大宮まで移動した。
 犯人かもしれぬ黒いハットを目深に被った小柄な男になったつもりで、だ。気温二十五度、湿度八十パーセントの夜、パーカーに黒いハットの小柄な男。その漠然とした人物像は、手を伸ばせばすぐに捕まえられそうで、手を伸ばすと遠のいてしまう。
 大山雄二の近くにいた金田モネならヒントとなる何かを持ってはいないかという期待もあり、土曜日午後の四条烏丸に彼女を誘い出した。

 「金田さんの方では、何か変わったことはありませんでしたか?」
 「変わったことですか…」
 金田モネは、首を傾げた。

 「変わったことは特にないのですが…。城島所長のお知り合いだった原始神道の研究者の浅田ミレイさんという方と浜松でお会いして、彼女から静岡の掛川に住まわれている品川花さんという方を紹介してもらいました。あの『事任の書』がらみで…。ところが謎が深まるばかりでして」
 「謎が、深まる、と?」
 「ええ。色々と…。古文書だけの歴史では見えない、深い淵の中を這いずり回っているようで」
 「それは、大変ですね」
 「ええ。ただ、これだから研究は面白いんですが…。あと、城島所長と大谷さんの遺された資料はほぼすべてご遺族の方から研究所の方で引き取らせて頂きまして…有難いことです」
 「ということは、金田さんは『事任の書』の第一人者ですね」
 「ええ。お二人のこれまでの個人的な資料や思考ノートみたいなものや。お二人の意思をしっかり受け継いでいければ、と」
 「それは、ぜひ」
 「はい。ありがとうございます」
 会釈をする金田モネは、どこか虚ろだった。
 普通の暮らしを過ごしていたのに、近しい者が殺害されれば動揺を隠せないのは仕方がない。ましてや、死が連続した。研究だけに神経を集中したいだろうに、金田モネの心は弱々しく、精神的疲労が溜まっているように見えた。
 話が途切れると、中山警部は、天然パーマの髪を片手でゴシゴシ擦りながら、アイスコーヒーを飲み、目の前の金田モネを観察した。〈遠近感だよ〉、〈素になることだよ〉と、退官した名刑事勝村浩司の言葉が蘇っていた。広い視野を保ちながら、目の前の細かなことも見る。既存のあらゆる考えを横に置き、素直に見つめることの大切さを教えてもらった。
 では、目の前にいる金田モネとは。
 北関東の古い宿場町で生まれ、父親は病院を経営している。東京の大学に入るまでは、その小さな町では優等生だった。目立つことなく静かに高校時代を過ごし、東京の大学に入学した。そして大学院修了後は歴史資料の研究所の助手として働き始め、地味な作業に明け暮れた。その頃に「事任の書」の話に出会い、個人的な興味で研究を始めたようだった。そしてある日、突然、京都にある東西文化資料研究所の所長城島高和から指名を受け、彼の助手に抜擢された。そして、城島高和と大山雄二が亡くなるや、金田モネは「事任の書」の第一人者となった。
 東西文化資料研究所の所長職は、副所長が代理をしているが、中山警部が調べたところ、文部科学省の内々の話では、この若い金田モネが所長に推挙されているという。
 行政を動かすような政治的腕力のカケラもない金田モネだが。

 「こんなところにお庭のテラス席があるとは知りませんでした」
 「でしょう。四条烏丸という街中ですからね。ここも古くからあるカフェで、学生時代にそこの大きな本屋をぶらぶらした帰りによく立ち寄っていたんです。京都もこのあたりはアスファルトばかりですから、土の庭だと心が落ち着くのも好きでして…。こうしていると、靴の底に土がこびりつくのが難点ですが…。あ、では、そろそろ、新幹線の時間もありますから、またぜひ」
 会計を終え、カフェの外に出ると人の流れが激しくなっていた。祇園祭のお囃子が夏の訪れを奏で、観光客はコンチキチンの音色に酔っているようだった。
 四条烏丸の交差点近くになると人の流れがさらに詰まり、中山警部は小柄な金田モネを守るように身を寄せた。

 〈うん?〉
 金田モネの頭髪から樟脳の香りが漂った。
 中山警部の祖母の香りが、祇園祭に蘇った。

 フーゴ・シュペルレ、ロンドンへ
 ヒースロー空港に到着した大道希信は、駐英日本国大使館員の出迎えを受け、一路クィーン・メイフェア・ホテルへと向かった。

 「長旅、お疲れ様です」
 「いやいや、たまには外遊をしませんと感覚が鈍るので」
 「大道さん。今回の日程を頂いていますが、変更点などあれば、いつでもお教えください」
 「ふむ。大丈夫だ。労働党の方は、まだ面会相手が決まっておらぬようだが…」
 「はい。現在調整中でして。今夜には確定できるかと」
 「それなら良いが…」
 大道は煉瓦色の縦に細長い家々が繋がるロンドン郊外の街並みが好きだった。派手な看板もなく、密やかな労働者の生活がそこにあった。造船会社を営んでいた父が倒れるや会社は乗っ取られ、大道の幼少期は貧しいものだった。歯を食いしばることばかりの日々は永遠に続くと思っていたが、夜間の大学を卒業すると不動産業の道に入り、事業を興し、父が手放した品川区の家を買い取った。学生時代の友人の一人が政界に進出すると、政治家を紹介してもらい、その利権を支える側に立ち、ときには手荒いことにも手を染めた。「何でも屋」と罵られたことも多々あったが、利権の闇に関わりたくない二世議員たちの代わりに動けば動くほど、力を得て気づけば「何でも屋」と罵る者は消えていた。もちろん罵った議員には手酷いしっぺ返しをした。
 政治家とはひ弱いものだ。そのひ弱さを突くのも、それを助けるのも人次第だ。大道はそのひ弱さを見つけると寝る暇惜しまずその政治家のために働いた。その政治家は大道に感謝し、やがて全幅の信頼を大道に置いた。そして、利権の根っこを握った。
 あっという間の人生だったが、貧しい幼少期ほど懐かしいものはなかった。あの日があったから今があった。
 ある日、「大道家をよくぞここまで立ち直らせてくれた」と見知らぬ老人が、大道の会社を訪れた。室町時代のとある大名の家老職を代々担ってきた家柄で、その老人の家系は大道家の世話になっていたという。
 父を亡くし、母子家庭で育った大道が家系の話を聞くことなどなかった。成人し社会に出ても、家柄など馬鹿にしていたから、その老人の話は初耳だった。

 「色々、あったもんだ」
 「はい。大道さん、何か?」
 助手席の大使館員が振り返ったが、大道はそれに応えず、過ぎゆく車窓の風景を眺めていた。

 クィーン・メイフェア・ホテルに到着し部屋で荷物を解いた大道は窓を開け、ロンドンの空気を部屋に入れ、大きく息を吸った。どの街を訪ねても大道は必ずその街の空気を吸う。そうすることで、身体の隅々までその街が感じられると信じていた。

 午後三時。
 大道はホテルのカフェで、前乗りした秘書・吉永守とアフタヌーン・ティーを楽しんでいた。ティー・ポットから注ぐ紅茶は、日本のものとは変わらぬ紅茶葉だが、気候が異なるからか、芳しい香りがした。日程を説明する秘書には悪かったが、日程は頭に入っていた。だが、儀式として秘書の仕事を取るわけにもいかなかった。

 「ありがとう。日程の変更はない、ということだな」
 「はい。現時点では」
 「では、君も紅茶を楽しみなさい」と、大道としては珍しく、秘書のカップに紅茶を注いだ。

 「大道様」
 コンシェルジェにいた男が大道に声をかけ、小さな封筒を手渡してくれた。

 「これは?」
 「先ほど、メッセンジャーの方がお持ちになられました」
 「そうか、ありがとう」
 手のひらサイズの封筒を開けると、〈ロンドン・東京姉妹都市イベントのパーティーにて〉とだけのメッセージだった。
 送り主はイニシャルFS。
 例の男からだった。
 ジャケットの内ポケットに封筒をしまうと、大道は胡瓜のサンドイッチを手にとった。
長い道のりだった。
 大道という家系を調べれば調べるほど、その家系の存在意義を証明するのは「事任の書」だった。
 もちろん、「事任の書」は日本民主独立党の裏の政治資金の元手にもなるはずだった。
 明後日の夜。
 ここクィーン・メイフェア・ホテルで、ようやく「事任の書」の一部が手に入る。
 胡瓜のサンドイッチを頬張る大道は次の手を考えていた。

 バルセロナに戻ったラモン・カザス警部の元に、朗報が入った。
 カスティーリャ=ラマンチャのブランコ城近くのレストランで、フーゴ・シュペルレに「事任の書」盗難指示を出した日本人の名前が浮かび上がった。〈マモル・ヨシナガ〉。東京在住の男で、一週間ほどスペインに滞在し、すでに日本に帰国していた。フーゴ・シュペルレが乗り換えた車、黒色の古いプジョーのセダン(ナンバーは『67●●AAJ』)は、マドリッドで、〈マモル・ヨシナガ〉が偽名で購入した車だった。
 ラモン・カザス警部は、早速、警察庁特殊事案部の中山新之助警部に情報を送るや署を出て、バルセロナ空港へと車を走らせた。向かうはロンドンだった。

 一方、ジョアン・ラポルタはロンドンに入っていた。
 七月二十日までにロンドン入りを果たしているはずのフーゴ・シュペルレと、最後の結末を迎える準備を整えていた。
 テムズ川沿いにあるロンドン警視庁(通称:スコットランド・ヤード)に来るのは数年ぶりのことだった。南にはビッグベンやウェストミンスター寺院が聳えているが、遠目で見るばかりだった。
 ロンドン警視庁の庁舎は銀色に輝き、昔の趣は失われていた。ジョアンは〈自分には不似合いな場所だが〉と、珍しくスーツを着こなし、庁舎に入って行った。
 カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部が紹介してくれたのが、リロイ・ロード刑事だった。英国領ジブラルタル警察のアデミール・ペレイラ刑事とともにカザス警部は巨大麻薬密売組織の全容解明のため、リロイ・ロード刑事の協力を得たという。北アフリカから自動航行型潜水ドローンでジブラルタル海峡を渡り密輸を図った事件が発生し、スペインでの巨大麻薬密輸組織が摘発された。しかし、その組織はヨーロッパ全域に広がっており、ロンドン警視庁との共同捜査にまで発展した。
 そのときの英国側担当者がリロイ・ロード刑事だった。

 「初めまして、リロイ・ロードです」
 頑強な体格のリロイ・ロードが差し出した手は厚かった。

 「初めまして、ジョアン・ラポルタです。ロンドンで数日お世話になりますが、よろしくお願いします」
 「もちろん、です。バルセロナのラモン・カザス警部からは概ね話はうかがっています。容疑者のフーゴ・シュペルレについては、こちらの美術品盗難犯のリストにも上がっていますので…。ところで、お時間は?」
 「ええ。今日は挨拶だけに伺いました」
 「では、私の行きつけのパブにでも…いかがですか?」
 ロンドン警視庁では顔認証システムは稼働済みで、さらにヒースロー空港からロンドン全域にフーゴ・シュペルレ探索指示が出されており、リロイ・ロードは待機するばかりだという。

 案内されたパブ、ザ・チャーチルズ・フットは、一七六〇年に遡る由緒正しいパブだった。大航海時代には海賊たちの溜まり場だったという伝説があり、裏庭の物置には当時の酒樽がいつくか眠っている。その後、馬車宿になり奥庭にあった厩舎は、今は調理場に変えられていた。英国の著名な文化人が通ったようで、古い写真が壁に飾られているが、その多くはロード刑事も知らぬ古の人物たちだった。第二次世界大戦となり、ロンドンはナチスドイツの大空襲を受けた。V1飛行爆弾やV2ロケットが飛来し、五十七日間に渡る夜間空襲で四万人以上の市民が爆撃で死亡し、百万以上の家屋が損害を受けたという。それでもザ・チャーチルズ・フットは店を開け続けたという。当時の店主が屋根に登り、飛来するV2ロケットに拳銃を撃ち続けたという伝説が残っていた。

 常連のリロイ・ロード刑事が顔を出すと、太って赤ら顔の店長が両手を広げ、笑顔で迎え入れてくれた。

 「あの奥の…」
 リロイ・ロードは勝手知ったる我が家のように、店の奥の部屋の扉を開けた。

 「ここは?」
 「ここは、我々の溜まり場兼作戦会議場です」
 ワン・パイントのグラスに、きめ細やかな泡を載せた黒ビールが運ばれて来ると、二人はグラスを重ね、喉を潤した。

 「これは、美味い」
 「そうでしょう。ここの黒ビールは絶品です。実は、いまの新庁舎があまりにも近代的で、我々は常連のパブに出かけ作戦会議するわけです。その方が頭も周りますからね。それはそうと、フーゴ・シュペルレは、ロンドンだと思いますか?」
 「ええ。彼はこの街のどこかにいるはずです。そして、〈マモル・ヨシナガ〉という日本人、あるいはその関係者と接触するはずです」
 「なるほど。先ほどお伝えしたとおり、出入国管理局から〈マモル・ヨシナガ〉が入国したと連絡がありました。宿泊先は駐英国日本国大使館近くのホテル、クィーン・メイフェア・ホテルです。オオミチ・グループという日本企業に勤めているところまでは判明しています」
 「追加情報は、日本の警察庁の特殊事案部の中山新之助警部が調査してくれています。間もなく彼から情報が入るかと」
 ただ、ここからが要注意だと、ジョアン・ラポルタは気を引き締めていた。フーゴ・シュペルレは常識を外れた動きを取る。しかも、極端な方法ではなく、何気ない動きで常識をスッと外れる。
 それは、まるで、蜻蛉の飛行のようだった。
 ホバリングしたり宙返りしたり、ときにはバックしながら飛んだり。不規則な規則と誰かが評したとおり、ある規則性はあるのだが、その都度不規則な動きを取る。

 「彼は、現れるとお考えですか?」
 「クィーン・メイフェア・ホテルに、ですか?」
 「ええ。〈マモル・ヨシナガ〉という日本人がチェックインした、あのホテルに」
 「はい。彼は、フーゴ・シュペルレは必ず現れると思います。ただし、我々の常識をスッと外れた絶妙な方法で…」
 「なるほど…怪盗シュペルレですね。そしてあなたは…ジュスタン・ガニマール、いやシャーロック・ホームズかな?」
 「いえいえ。そんな…。バルセロナ在住ですから、私立探偵カルバイヨの助手ということで」

 マモル・ヨシナガ
 カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部から警察庁特殊事案部に情報が入った。英国領ジブラルタルで、パフ・ダフィーリョ殺害の容疑者フーゴ・シュペルレを追い詰め取り逃がした。つまり、さらに泳がしたという。そして、フーゴ・シュペルレはロンドンへと逃亡した。彼に「事任の書」盗難を指示した日本人は〈マモル・ヨシナガ〉で、同姓同名の男が英国に入国し、ロンドン市街にあるクィーン・メイフェア・ホテルにチェックインした。
 〈マモル・ヨシナガ〉が勤務するオオミチ・グループとは、大道グループに違いなかった。代表取締役会長は同社の創業者・大道希信。与党の日本民主独立党創立者の一人で、その豪腕は今も健在だった。検察が与党議員の贈収賄事件に動き出すや、裏の手を使いその動きを何度も止めたと噂が絶えない人物で、警察庁内部にも彼の耳となる官僚が複数存在するという。さらに、政治資金の収集能力は極めて高く、裏骨董市場でのマネーロンダリングの噂も絶えない人物だった。
 五年前、中山警部が所属する警察庁特殊事案部が、その裏骨董市場捜査に取り組んだが、直属の局長が人事異動時期でもないのに突然異動させられ捜査は中断した。骨董愛好家グループ「風韻」の会長時枝文治と日本民主独立党との深い関係に捜査のメスを入れようとした寸前のことだった。
 念のため、中山警部は出入国管理局に問い合わせた。
 すると、吉永守だけでなく、大道希信もまた英国に入国し、ロンドンのクィーン・メイフェア・ホテルに滞在しているという。
 大道希信→吉永守→フーゴ・シュペルレ→パフ・ダフィーリョ。
 中山警部は、ひとつの美しいラインを描いたが、今後の捜査の厳しさを実感してもいた。次期衆議院議員選挙を見据える日本民主独立党にとり、創立者の一人、大道希信のスキャンダルは大きな波乱材料となる。力づくで捜査を潰しにかかるだろう。
 一方で、カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部は、殺人事件容疑者の背後に立つ指示者の検挙を追い求めるはずだ。
 スペインの警察庁にあたる国家警察総局に、日本政府が外交的な圧力を与えたとしても、独立気風に富むカタルーニャ州警察は、矛を収めるとは考え難かった。
 ようやく幕が上がりつつある「事任の書」を巡る舞台の最終幕に、どす黒い雲が待ち受けていた。

 ラモン・カザス警部、ロンドンへ
 七月十九日の朝。
 ラモン・カザス警部もヒースロー空港に降り立つやロンドン警視庁に入った。

 「ジョアン。どうかな?」
 「これまでのところ、フーゴ・シュペルレの所在は分からないが、明日、七月二十日、〈マモル・ヨシナガ〉と接触すると考えている」
 「明日…」
 「そう。明日。リロイ・ロード刑事と私の読みは、明日、クィーン・メイフェア・ホテルで開催される〈ロンドン・東京姉妹都市イベント〉の開会パーティーが怪しいとなった」
 「ジョアン。その根拠は?」
 「ラモン。東京の中山警部の情報からだよ。〈マモル・ヨシナガ〉が勤める大道グループの代表取締役会長,、大道希信も出席する。このイベントの企画会社からもこっそり参加者リストをもらい確かめた」
 「それは、つまり、大道希信という人物が裏の指示者だと推測したわけだな」
 「おそらく。もちろん、フーゴ・シュペルレは簡単には顔を見せないだろうが、我々の目的は彼を逮捕することに変わりはない」
 「うむ。さらに、だ。ジョアン」
 「〈さらに〉とは?」
 「バルセロナを飛び立つ前に東京の中山警部と話をした」
 フーゴ・シュペルレが吉永守か大道希信に接触する目的は、「事任の書」を手渡すことだ。真犯人、つまりパフ・ダフィーリョを殺害し「事任の書」を奪えと指示を出した人物が大道希信だとして、「事任の書」を手渡してもらわねばならない。さらに「事任の書」を日本国に持ち帰って貰わねばならない。そこで初めて中山警部は動き出せる。

 「分かったが…。フーゴ・シュペルレの身柄は?」
 「もちろん拘束したい。拘束したいが、タイミングが重要だ」
 「それは、つまり『事任の書』が日本に持ち帰られるや否やということだな」
 「そのとおり、だ。『事任の書』が受け渡されたこと、そして『事任の書』が日本行きの飛行機に持ち込まれたことを確認するのが先決だ」
 「とは言えフーゴ・シュペルレに逃亡を許してはならない」

 泳がせ捜査は難しい。
 絶妙のタイミングで、確実に逮捕しなければならなかった。
 そして、ジョアンが抱えるもう一つの目的があった。
 フーゴ・シュペルレと決着をつける。
 そのためには、ラモン・カザス警部やリロイ・ロード刑事とは別行動を取らねばならない。そして、その先で異なる道を選び袂を分かつ…ことになる。

 七月二十日、午後七時
 
 「…と考えております。ロンドンと東京が手を取り合い、新たな姉妹都市関係を構築し、世界へと発信できることを願っております。本日は、ありがとうございました」
 東京都知事の永江美津子の開会の挨拶が終わると、パーティー会場の照明が輝き、開会のファンファーレが鳴り響いた。
 シャンパン・グラス片手の大道希信は、政治信条などお構いなしの厚顔の知事を冷ややかに見つめていた。内心は次の知事選で戦々恐々となっているはずだが、政治家には必須の厚顔だけは見事なものだった。
 ロンドン市関係者と談笑していると、東京都の担当者を引き連れ永江美津子が満面の笑みで現れた。

 「大道さん。ここまで足を運んで頂きありがとうございます」
 心の籠もらぬ丁重な挨拶もここまでくれば一級品だった。

 「いやいや。たまに海外に顔を出さないと」
 「そうでしたか。で、今回は?」
 〈何か企みでも〉と訊きたいのだろう。

 「特にないんだが、英国の保守党や労働党の今後の日英関係の温度感を肌身で感じたいと思いまして」
 「そうでしたか…」
 大道の言葉に真はないと永江知事は聴き流し「では」と次の人の輪へと消えて行った。
 政界に出てきた頃は、マスコミでは平和で民主主義を守るヒロインという扱いだった。やがて化けの皮が剝がれ、内実は空洞だらけだったが、右へ左へと猫なで声で迫り、政敵が一人、また一人と引退するや一挙に東京都知事の職を得た。派手なスカート・スーツを着込んだ永江知事がパーティー会場の中央へと消えて行くと、秘書の吉永守が近づいてきた。

 「大道会長」
 「ん?なんだ?」
 秘書の吉永守が小さなメモを手渡した。

 「これは?」
 「先ほど、ホテルのスタッフが…」
 メモを開けた大道は、〈失敬する〉と手洗いに向かった。地下にある手洗いへと階段を下っていると、階下から上がってきた背の高い紳士が会釈し「324号室でお待ちしています」と、大道の耳元で囁いた。手洗いを済ませ、地下からエレベーターを使い324号室のドアをノックしようとするや、廊下の奥からパーティー・ドレス姿の女性が現れた。

 「これは、初めまして、大道さんですね」
 「はい。大道です」
 「あの、これをお預かりしていまして」と、女性が紙袋を差し出した。
 「これは?」
 「ええ。大道さんへのロンドン土産です」
 「ああ。これが、ロンドン土産ですか…」
 「ええ。では」と女性はエレベーター・ホールへ去って行った。

 館内の防犯カメラ室で待機していたリロイ・ロード刑事とジョアン・ラポルタは苦笑いをこぼしていた。
 〈下手な遊びだ〉と。
 フーゴ・シュペルレは時々遊ぶ。
 不必要で無駄な遊びで捜査を撹乱させるのを楽しむタイプの犯罪者だ。ただ、この先だった。紙袋の中を確認し、大道希信は次の指示に従うはずだった。紙袋を手にした大道希信は自室1248号室に入ると、パーティー会場には戻らなかった。

 午後十一時。
 大道希信は吉永守を引き連れロビー階へ降りると、タクシーを捕まえた。東へ五キロほど走りグリーンランド・ドックで降り、タクシーを待たせたまま、二人は川に舫ってある一隻のレジャー・ボートに乗り込んだ。
 時間にしておよそ三分。
 アタッシュ・ケースを手にした吉永守を背に、大道希信はタクシーに乗り込み、クィーン・メイフェア・ホテルへ戻って行った。
 大道希信たちの動きは防犯カメラと上空の監視ドローンで追っていた。
 その夜、ロックオンした人物は四名となった。
 地下から上がってきた背の高い紳士。
 大道に紙袋を手渡した女性。
 そして、グリーンランド・ドックに舫ってあったレジャー・ボートにいた男二人。

 大道希信はおそらく「事任の書」を抱え日本へと帰国するだろう。ヒースロー空港荷物検査事務所には大道希信と吉永守の荷物を検査し「事任の書」の有無を確認するよう要請済みだった。大道希信は外交特別ビザで入国していたが外交官ではない。あくまで時限的な扱いで、さらにロンドン警視庁の要請があれば手荷物検査の免除対象にはならない。もちろん、麻薬や武器などの不法な荷物ではない限り没収は不可能だった。
 ロックオンした人物四名は、そのまま泳がせた。
 ロンドン警視庁のリロイ・ロード刑事とジョアン・ラポルタは、もちろん背の高い紳士の後を追っていた。

 フーゴ・シュペルレも大きな地図を読んでいた。
 英国領ジブラルタルに入国したのも、その地図の一部に過ぎなかった。
 パフ・ダフィーリョ殺害の状況証拠は一切ないはずだ。
 「事任の書」という日本の古書は盗んだが手元には既にない。大道希信という男の手元にある。仕事の対価、三十万ドルは手に入れた。
 大道希信との間を繋いだのは吉永守という日本人。そして、メッセージ・アプリで、時枝文章という男とやりとりをしただけだ。
 フーゴ・シュペルレは、バルセロナから英国領ジブラルタル、英国領ジブラルタルから北アフリカのある国を経てロンドンに入るまでの自分の動きを反芻し、吉永守だけは命を取っておくべきだと結論づけた。吉永守から指示が出されたあの日、ヘマをした。
 カスティーリャ=ラマンチャのブランコ城の元領主、オリベール・イニエスタに会った夜、レストランで吉永守と合流した。
 そして当面の資金を手渡され、奴が乗ってきた古いプジョーでホテルを出た。吉永守から仕事の依頼を受けるために相手の要望に合わせたが、ど素人の吉永守の指示に従うべきではなかった。

 吉永守は、フーゴ・シュペルレのジョーカーになった。本人は気づかぬとも、他人の人生を狂わせる奴がいる。それがジョーカーだ。
 フーゴ・シュペルレは「一人五千ユーロで殺る」男に声をかけた。そして三時間後。クィーン・メイフェア・ホテルの内庭で、吉永守は刺殺された。朝食前に内庭を散策していた吉永守の背後に男が近づき、研いだアイス・ピックで心臓をひと突きした。
 吉永の死は大道希信への警告にもなったはずだ。
 余計なことは喋るな、と。
 ジョアン・ラポルタは、フーゴ・シュペルレを泳がせているに違いなかった。大道希信が日本に帰国すれば、日本の警察が捜査に入るに違いない。そのタイミングを見計らって、ジョアン・ラポルタは動き出す。

 フーゴ・シュペルレは、ジローナの夜を思い出していた。
 バルセロナから北東にある、中世のようなあの街の夜だ。
 ジョアン・ラポルタを背後から襲い仕留めたはずだったが、奴は一命をとりとめた。運の良い奴だった。
 バルセロナ港から盗難美術品を運ぼうとした仲間は警察に一網打尽になった。仲間内に警察への内通者がいた。埠頭近くで出港直前の密輸船に警察が乗り込む情景を見守っていたフーゴ・シュペルレは姿を消した。
 そして翌日、内通者の妻と子供二人を葬った。
 他の仲間への見せしめだった。
 当時はまだカタルーニャ州警察の刑事だったジョアン・ラポルタは、その内通者からフーゴ・シュペルレの情報を得ると、国境を越え執拗な追跡捜査を始めた。バルセロナからアンドラ・ラ・べリャ、モンペリエ、マルセーユ、ニース、ジェノヴァ、コルシカ…。ジョアン・ラポルタは背後まで迫ってきた。
 面倒になったフーゴ・シュペルレはジョアン・ラポルタの妻を殺害した。身ごもっていたようだが容赦はしなかった。もちろん、その手の仕事を生業にする男を雇っての殺害で、自分の手は汚してはいない。
 しかし、ジョアン・ラポルタは諦めなかった。
 身ごもっていた妻を殺され自暴自棄にでもなったのだろう、警察を辞め、探偵という不確かな肩書きを背負い、フーゴ・シュペルレを追ってきた。そして、ジローナの夜だった。誘いに乗りジローナに現れた奴の背中にナイフを刺した。決着はついたはずだったが、奴は蘇った。
 催眠スプレーを嗅がせ、千鳥足になったジョアン・ラポルタの背を狙った。ナイフの刃先が一センチは食い込んだが、ジョアン・ラポルタは前のめりに倒れると、くるりと反転し仰向けになるや拳銃のレバーを引いた。その数発のうちの一発がフーゴ・シュペルレの右頬を抉った。
 ジョアン・ラポルタは、いま、このロンドンの地のどこかに潜み、泳がせ捜査を楽しんでいるはずだった。
 〈ジローナの夜の再演〉
 フーゴ・シュペルレは、ニタリと笑みをこぼした。

 佐々木ローザ、浜松へ

 「浜松で取材があるから、ついでに浅田ミレイさんという方に会おうかと思っているの。私も『事任の書』に少しだけ興味あるから。じゃあ、何かあったら連絡するね」と、佐々木ローザは早口で話し終えると電話をオフにした。彼女は、金田モネの言葉を制し、用件だけを伝えようとした。
 金田モネと浅田ミレイとの二人だけで交わされた話を知りたかった。掛川の事任八幡宮近くに住む品川花の話は、なるほど面白かったが何の手がかりにもならなかった。ならば、品川花を紹介したという浅田ミレイに会えば、何かを教えてくれるのではないかと、佐々木ローザは考えた。
 金田モネが知っていることを、佐々木ローザがすべて分かち合えているわけではなさそうだった。金田モネは、意外と用心深い。学生時代から、自分のテリトリーが侵されそうになると貝のように殻をぴたりと閉じた。いまも同じだろう。
 浅田ミレイという人物の話は聞いてはいたが、「一緒に会いに行こう」と誘われたことがなかった。

 梅雨明け宣言の出た午後、佐々木ローザは、浅田ミレイの自宅を訪ねた。小さな一戸建ての家は木造で昭和の時代を匂わせていた。そして、その家にお似合いの着物姿の浅田ミレイが出迎えてくれた。

 「金田モネさんのお友達ですか?」
 「ええ。学生時代からの…。先日、掛川の品川花さんにも一緒にお会いしました。フリーで色々な記事を書いているんですが、彼女から『事任の書』のことを相談され、気づけば私も興味を持ちはじめまして…」
 「そうでしたか…」
 相槌をうちながら、浅田ミレイが急須を手にとり煎茶を淹れてくれた。その楚々とした所作が、彼女の人となりを語っているようだった。

 「金田とは情報を共有しているのですが、いくつか再確認というか…。浅田さんにお聞きしたいことがいくつかありまして」
 「ええ。何でも、ご質問ください」
 「ありがとう。ございます。それではお訊きしたいのですが」
 品川花は事任八幡宮には『事任の書』ないと言い切った。そして、今川氏真が『事任の書』を所持し、今川家滅亡後今川氏真は小田原、京都、浜松、近江と流転し最後は江戸で亡くなった。そして、『事任の書』はいつの間にか二つに分かれ行方不明となった。

 「品川さんからは、それだけの話で…」
 「はあ。それは品川さんが先祖代々から受け継がれた話ですね」
 「ええ。そう言っておられました。そしてその先です。今川氏真が所持していたか否かではなく、二つに分けられた『事任の書』がどこにあるのかを知りたいなと…」
 「なるほど。どこにあるのか…ですね」
 「ええ。どこにあるのか…」
 「金田モネさんにお話したのは、大弓月亀勝から坂上田村麻呂、事任八幡宮から今川家と『事任の書』は受け継がれ、今川氏真の代に二つに分けられ、雄鯨山と雌鯨山の祠と松尾山の祠に納められた…という話で。品川花さんもそう考えられているようですが」
 「雄鯨山と雌鯨山の祠、ですか?」
 「ええ。事任八幡宮近くにある雄鯨山と雌鯨山の奥の祠ではないかと。あと一つは京都の松尾山の祠ではないかと…。そして、金田さんは松尾山を登られた。まだ見つかってはいないようですが」
 「それは、伝説か何かでしょうか?」
 「伝説というか言い伝えというか…品川花さんが代々伝えられたという話のようで」
 「その他に、何か?」
 「何も聞いてはいません。品川花さんのお話が正しいかどうかは分かりませんが、『事任の書』の言い伝えというのは珍しいので、金田さんをご紹介したわけです」
 「なるほど、ありがとうございます」
 「佐々木さん。それだけで良いのですか?」
 「ええ。雄鯨山と雌鯨山の奥の祠と京都の松尾山の祠、それだけで…」

 大道希信の出国
 ヒースロー空港荷物検査事務所の係官は、外交特別ビザで英国を出国する大道希信のスーツケースを、三次元X線装置を使い「事任の書」らしき書物の存在を確認した。日本語の読めぬラモン・カザス警部たちの代わりに、東京へと画像を送り、警察庁特殊事案部の中山新之助警部に画像の再確認も行った。
 ファースト・クラスの待合室の深い椅子に身体を預ける大道希信は目を閉じ、帰国後の動きを考えていた。
 時枝文章からの情報だと、品川花は「大弓月亀勝から坂上田村麻呂、事任八幡宮から今川家と『事任の書』は受け継がれ、今川氏真の代に二つに分けられ、雄鯨山と雌鯨山の祠と松尾山の祠に納められた」と語っていたという。その二つに分けられた「事任の書」のうち一つは手に入れた。あと一つは、掛川か京都か、だ。大山雄二が殺され、時がまだ浅い。京都の松尾山はあと回しにした方が良い。まずは掛川にある雄鯨山と雌鯨山の祠だ。時枝文章には帰国後指示をすれば良い。万が一、金田モネが入手したとしても、なんとかなるだろう。
 それよりも、だ。
 吉永守の死は、困ったものだった。
 殺ったのは、フーゴ・シュペルレの手の者に違いなかった。グリーンランド・ドックに舫ってあったレジャー・ボートで三十万ドルを手渡し、「事任の書」を受け取った。それでこの仕事はジ・エンドになったはずだ。しかし、フーゴ・シュペルレは吉永守を殺った。「黙れ」という意思表示だった。
 大道希信は「黙れ」の意味を深く理解していた。ここまでのし上がるまで、大道希信も同じ手を再三使った。
 官僚が邪魔だてすると、その家族に手を回した。彼らはひ弱な存在で、家族を守る手立てがない。大道希信に守られないと事務次官にはなれないのが、この数十年の官僚の立身出世の常識になった。ときに、日本民主独立党に反する動きを示せば、人事権をチラつかせた。それでも動きを止めないときは、その家族をネタに脅しをかけた。
 政敵だと、さらに厳しい手を打った。
 本人や秘書、選挙を仕切る地元の有力者、そしてその家族。
 直接手を染めはしなかったが、これまで何人を葬ったか、いまとなっては数えきれなかった。

 吉永守の死は、困ったものだった。
 フットワークの良い秘書を一人失ったからだ。
 だが、フーゴ・シュペルレの意思表示は、気持ち良くもあった。
 〈これで、手切れだ。黙っていろ〉とは見事だった。

 「大道様。そろそろご搭乗のお時間です」
 航空会社の男の声で、大道希信は目を開けた。

 羽田行きのゲート前から離れた椅子にカタルーニャ州警察のラモン・カザス警部の姿があった。Tシャツにデニム、頭には古いヘッドフォンをした小太りの中年男は、コーラを満たしたコップを手に出発ゲートに視線を送り、まだ容疑者ではない大道希信が搭乗するのを見つめていた。

 フーゴ・シュペルレの逃亡
 ロンドンからパリ。パリからピレネー山脈を越えアンドラ公国の首都アンドラ・ラ・べリャへと、フーゴ・シュペルレは白のメルセデスSLを走らせ、ジョアン・ラポルタはアストン・マーチンDB5で追っていた。途中、フランス国家警察のサポートを受け、フーゴ・シュペルレの位置情報を把握していたが、アンドラ・ラ・べリャでは目視だけが頼りだった。ロンドン警視庁のリロイ・ロード刑事が提供してくれたアストン・マーチンDB5は整備もゆき届き快適な走りで、ピレネー山脈も難なく越えた。フーゴ・シュペルレは夏の長期休暇をとった自由人のように白のメルセデス・ベンツSLを軽やかに走らせていた。
 フランスとスペインに挟まれたアンドラ公国の国旗は、フランスとカタルーニャの国旗を合わせたデザインで、公用語はカタルーニャ語だ。ジョアン・ラポルタの生まれ故郷カタルーニャ州とは兄弟のような関係で、カタルーニャ人自体、この山地から南へと広がったとも言われている。
 フーゴ・シュペルレはホテルに到着すると、アルゼンチン料理店パンパ・カタランに徒歩で向かった。

 「フーゴ。久しぶりだ」と髭面のアルゼンチン人が席を立ち、両手を広げフーゴ・シュペルレを出迎えた。その男の名は、ビクトル・プッチ。南米を中心とした盗難美術品市場を取り仕切る大物で、年間数千万ドルの規模を誇っていた。

 「で、話は聞いたが、追われる身だってな?」
 「そうなんだ。追われる身だ。英国とフランスの警察の皆様方が総出で…」
 「それは、大物だな。フーゴ」
 「取材ヘリコプターが数十機この店の上をグルグル飛び回っても良いぐらいだ」
 「有名になったもんだな。サインでももらっておこうか?」
 「ああ。後でな」
 「じゃあ、フェルネ・ブランカで乾杯でもどうだ」
 ビクトル・プッチは、細長いグラス二つにフェルネ・ブランカを注ぐと、グラスを手渡し、グラスを合わせた。フェルネ・ブランカとはイタリア産の苦味を楽しむ酒だ。カモミール、リコリス、ジンジャーやサフランなど数十種のハーブやスパイスをワインとブランデーの原液に漬け込んだ酒で、ハーブ・リキュールの一種だった。食前に苦味を味わうこの酒を楽しむと、胃が元気になり、食事がより一層美味くなると、ビルトル・プッチは信じていた。

 「ところで、これからどうするんだ?スペインに入ったら即刻逮捕じゃないのか?」
 「いや。まだだろう。あいつらには逮捕するだけの証拠がない」
 「じゃあ、このままスペイン入国か?」
 「そうだな。とりあえず。ジローナまで」
 「ジローナ?バルセロナまでは行かないんだ」
 「ああ。バルセロナの前に、ジローナだ。因縁の地だから」
 「因縁?」
 「そう。因縁。俺の後を追っている奴との因縁の地だ。俺のファンが一人ついて来ている。ロンドンから」
 「ロンドンからここまでか?」
 「ああ。どうやら、俺のことが大好きなようだ」
 「で、どこで、殺るんだ?」
 「だからジローナ。決着をつけるなら、ジローナなんだ…」
 フーゴ・シュペルレは、親指の腹で右頬の傷を撫でた。
 「俺に頼みがあるんじゃないか?」
 炭火で強く焼き上げた熟成肉を、ビクトル・プッチが頬張った。
 「それだが、三人ほど、バックアップが欲しい」
 「三人…。ジローナで、か?」
 「ああ」
 「フーゴ。ジローナならお前の庭じゃないか?」
 「だから、だ。万が一だ。警察に捕まっても、こっちの組織の人間でなければ、警察も尻尾を掴めない」
 「捨て駒になる連中ということだな」
 「そう。捨て駒になる殺し屋だ。金は積む」
 「分かった。ロシア系の連中が近くにいる」
 「ありがとう」
 「俺の方からの頼みだが、北アフリカに数百万ドルの美術品がある、こっちに運びたいが…」
 「分かった。その件は、モロッコのラバトの連中を紹介しよう」

 アルゼンチン料理店パンパ・カタランに、古いカタルーニャ語で談笑する老夫婦が訪れ、入り口近くのテーブル席をとった。老女は、眼病の手術でもしたあとなのか、縁の太い医療用の予後向け眼鏡をかけていた。

 「セニョール。悪いんだが、彼女は眼の手術を終えたところで、ステーキをカットしてから持って来て欲しいんだが」
 ウェイターは老人の希望を快く受け入れた。

 「あなた。よく見えるわ」
 「それは良かった。あの席の紳士も見えるかな」
 「ええ、よく見える。あの右頬の傷の男がフーゴ・シュペルレ。ジョアンにも見えているかしら?」
 「そうだな。少し待ってくれるかい」と老人がスマート・フォンでジョアンにメッセージを送ると、〈よく見えている〉と即時に返答があった。

 老人は、出身地のアンドラ・ラ・べリャで退職生活を送るカタルーニャ州警察の元刑事で、若かりしジョアン・ラポルタが尊敬する先輩刑事の一人だった。予後用の眼鏡に仕込まれたカメラ映像は、近くのカフェで赤ワインを楽しむジョアン・ラポルタのスマート・フォンに送られていた。フーゴ・シュペルレと同席する男は、ビクトル・プッチに違いなかった。南米の盗難美術品市場の基礎を作ったのは、ナチスドイツがヨーロッパで略奪した美術品の一部だという噂があった。第二次世界大戦後、数々の政変を掻い潜り、一大盗難美術品市場を作り上げたのが、ビクトル・プッチの父親だったはずだ。
 その南米の大物がこのフランスとスペインに挟まれたアンゴラ公国に姿を見せ、地中海が縄張りのフーゴ・シュペルレと話をする。新たなビジネスの話なのかどうか…。
 ビクトル・プッチは、ロシアのワグネルなど民間軍事会社との繋がりが強かったはずだ。世界で紛争が数少なくなると雇われ犯罪にも手を出していると聞いていた。

 大道希信の帰国

 「時枝さん。これが、『事任の書』だ。『事任の書』と言ってもその半分だけだが…」
 時枝文治・文章親子は、象嵌が施された漆箱を見つめていた。
 大道希信が帰国した翌朝、時枝文治・文章親子は邸宅に呼び出された。バルセロナからロンドンへと運ばれた「事任の書」が大道希信の手で日本に戻された。
 どの時代にどうやって日本から持ち出され、スペインに渡ったのかの詳細は分からない。現在逃亡中のフーゴ・シュペルレから吉永守が聞き取った話によれば、十五世紀から十七世紀の大航海時代にスペイン船で運ばれたという。やがて、カスティーリャ=ラマンチャにあるブランコ城の古書蔵で眠りについた。それを掘り起こしたのがバルセロナの古書店主パフ・ダフィーリョだった。

 「大道さん。ところで『事任の書』を開かれましたか?」
 「いや、まだだ。和紙のようなもので巻かれていて、それを開けると小さな書物があり、その表紙に『事任の書』と墨字で書かれていた」と言い終わるや、大道が両手でそっと漆箱の蓋を開けると、時枝親子が身を乗り出した。

 「ほら、この和紙からも透けて読めるだろ」
 「はい。確かに…」
 「そして、あと一つの『事任の書』だが…」と、大道希信が時枝文章を睨みつけた。
 「はい。品川花の話から掛川の雄鯨山と雌鯨山の祠探索はすぐにでも」
 「それなら良い。ただ松尾山の祠には近づかない方が良い。それは分かっているな」
 「はい。大山雄二殺害事件ですね」
 「そうだ。君が手を下したと最初は疑ったが、どうやらそうではなさそうだが…」
 「もちろん、私の方が驚いています。金田モネと大山雄二が松尾山に登って行くのは、松尾大社近くで監視していましたが、まさか…です。城島高和所長は突然死で仕方がありませんが…」
 「それなら良い…。疑う気はないが。ところで、金田モネの動きはどうだ?」
 「ええ。彼女は研究所に篭ったままで動きがありません」
 「よし。では、今のうちに、掛川の雄鯨山と雌鯨山の祠へ行ってくれるかな」
 大道希信は秘書を呼び、漆箱を下げさせると、時枝親子に「よろしく」とひと言頼み、居間から去った。

 大道希信から吉永守刺殺事件の話はなかった。
 単なる物盗りの仕業のように日本では小さく報道され話題にもならなかった。
 時枝文治は、大道希信のやり口をよく知っていた。
 邪魔者を除く力は卓越していた。
 吉永守もそうして殺られたのかどうか、そして、城島高和も大山雄二も、もしかすると時枝文治の手がかかっていたのではないかと、時枝文治は疑心暗鬼に陥っていた。
 その牙がこちらに向かう可能性もあった。危険が迫れば尻尾を切る。たとえ肉親であっても。大道希信はそういう男だった。

 「(目に見えぬ)圧力をかける天才だ」
 「父さん、それは?」
 「いや、独り言だ」
 出迎えの車の座席の時枝文治は、その圧をひしひし感じていた。

 その夜、カタルーニャ州警察のラモン・カザス警部は、南青山のバーで、中山新之助と語らっていた。
 「フーゴ・シュペルレの方は?」
 「ジョアン・ラポルタが追跡中で、追い詰めているところです。彼なら心配ありませんから。それより、パフ・ダフィーリョの殺害指示を出した黒幕です。直接指示を出した吉永守は殺されました。あの大道希信の秘書です。アイスピックのような凶器でひと突きでしたから、あれはフーゴ・シュペルレの手下か雇われ人の仕業だと思います」
 「吉永守の口を封じた」
 「ええ。大道希信との手切れですね。ところで、中山さん。そちらの方は?」
 「大道希信ですね。違法薬物でも国宝でもない古文書を持ち帰ったからと言って逮捕するわけにはいきませんから、いまは、引き続き泳がせ捜査中ということになります」
 「バルセロナでフーゴ・シュペルレを逮捕するや否や、ということになりますね」
 「その予定です。フーゴ・シュペルレの自供次第です」
 「こちらの責任は重い…」
 「ええ。申しわけないのですが」
 夜十二時を過ぎてはいたが、時差が戻らぬラモン・カザス警部は眠気を忘れているようだった。

 「しかし、長旅、お疲れでは?」
 「いえいえ。大丈夫です。この入り組んだ事件をなんとか解き明かしたい…執念みたいなものですね」
 「執念…」
 「ええ。カタラン(カタルーニャ人)とはそういう民族です。いつもはおっとりと陽気に振舞っていますが…」
 「戦士ですね」
 「いえいえ、ただ諦めが悪いのかもしれません。ところで、日本でも今回の件で死者が二人でたとお聞きしましたが…」
 「ええ。『事任の書』の研究者が二人。一人は心筋梗塞の持病で亡くなったようですが、まだ調査中です」
 「二人も…」
 「その二人の死が偶然かどうかは分かりませんが…京都府警の鑑識課がここまでの調査結果をまとめているところです。明日、京都で会議がありますが、カザス警部も同席なさいませんか?」
 「ええ。それはぜひとも。パフ・ダフィーリョ殺害事件とは直接の関係はないでしょうが、根のところは繋がっているようですから。しかし、〈遠近〉ですね」
 「はい。〈遠近〉…。私の先輩も同じことを言われていました」
 「勝村浩司さん、でしょ」
 「え?どうして勝村さんのことを?」
 「彼は私の友人です。かれこれ、もう二十年以上にもなりますが、ある国際的な事件がありまして…」
 カザス警部が若かりし頃に刺さった、小さな傷が疼いた。
 その事件もある盗難美術品をめぐる事件で、日本とスペインの盗難美術品裏市場を仕切る大物を、勝村刑事とカザス警部は共同捜査員として追跡し、フィリピンのマニラまで追い詰めた。

 「その事件の結末は、確か…」
 「ええ。残念ながら、スペイン側の大物は我々の追跡をかわし、現在も逃亡中です。フーゴ・シュペルレに繋がっているという噂もあります。しかし…マニラで大捕物になりましてね、テレビドラマのような銃撃戦でした。相手側で五人、こちらの警察側で三人が亡くなりました」
 すべてが終わった帰国前日の夜、カザス警部はマニラのバーで勝村刑事と酒を酌み交わした。その時、勝村刑事がポツリと〈遠近だね〉とつぶやいたという。より広く俯瞰的に見ながら、より細かな事実に拘り、小石を積み重ねるようにして組み立てていく。

 「〈遠〉ばかりでも〈近〉ばかりでもダメだということです」
 「今回も…」

 京都府警鑑識課
 会議室の大型ディスプレイを四人の男、
 警察庁特別事案部の中山新之助警部、
 京都府警横尾稔刑事、
 京都府警鑑識課長瀬直人課長、
 そしてカタルーニャ州警察のラモン・カザス警部が、緊張した面持ちで睨んでいた。

 「歩行、香料、毛髪、靴圧、そして薬品、ですか?」
 「はい。中山警部。鑑識課ではこの五つの検証を行いました。ポイントだけまずご説明して良いでしょうか?」
 「ええ。カザス警部には私が英語で通訳します」
 「では…」
 手慣れているのか、長瀬課長はレーザーポインターを手にすると、最初の項目〈歩行〉をぶれることなくピンポイントで示した。

 まず〈歩行〉。小柄な男の身長と体重を割り出し同様の男女の歩き方をAIデータで検証した結果は七十二パーセントの確率で、小柄な男は女性の歩き方だと判明した。
 次に〈香料〉。大山雄二氏の書斎で採取した空気を成分分析器にかけると醋酸リナリルとリナロールという成分が突出していた。香り成分で言うならば、ラベンダーの香りが篭っていた。
 〈毛髪〉は…。大山雄二氏の玄関から書斎にかけ落ちていた髪の毛を綿密に腑分けすると、大山雄二氏の息子の妻と子供二人の髪の毛、そして女性の髪の毛が確認された。大山雄二氏の亡妻の髪の毛も落ちていたが、それとは異なる女性の髪の毛だった。
 〈靴圧〉は…。犯人は靴底にカバーをかけ靴底の模様を残さぬようにしていたが靴底の圧には気が回らなかった。玄関先の庭に残された靴跡からその犯人の靴圧、つまり靴底にかかる圧力の分布が判明した。靴のサイズも二十二センチ前後と判明。
 そして最後に、〈薬品〉については…。城島高和氏の胃液成分に心筋梗塞を誘発するコレステロール増進薬が溶解した成分が発見された。

 「長瀬課長、大山雄二さん殺害容疑者は、女性、ラベンダーの香料、毛髪そして靴圧とサイズで概ね見当がつくわけですね」と、腕組みをする中山警部が訊ねた。

 「はい。まだ確信的な証拠ではありませんが、この四つのポイントが重なる人物が容疑者として考えられます。さらに城島高和さんの場合は、東名高速での心筋梗塞による死亡とされていましたが、横尾刑事と話をし、念のためと調べたところ、コレステロール増進薬の溶解成分が検出されました」
 「それは、つまり、城島高和さんの死もまた誰かの手で?」
 「はい。その可能性はかなり高いと思います」
 「しかし…。二人とも、何かを盗まれたわけではない。ただただ殺されたわけですね。その犯人の動機がまったく見えませんね」
 「ええ。明確な殺意はあったはずです。ただ、その殺意の理由がまだ掴めません」
 「何故、この二人を殺さねばならなかったのか。さらに、同じ犯人なのか、それとも異なるのか…。横尾さんはいかがですか?」
 中山警部が、一点をじっと見つめる横尾刑事に訊ねた。

 「ええ。隠れ無衝動殺人のような」
 「〈隠れ無衝動殺人〉?」
 「はい。衝動的と言うと、犯人が意識できる衝動があることになりますから、犯人が無意識に衝動的に行った殺人、と言えば良いのかと」
 「横尾さん。犯罪心理学でも最近テーマになっている…」
 「ええ。犯罪を犯した後、犯人はまったく普通の生活に戻っています。何故なら、衝動的に殺害したことさえ覚えていない。以前。北欧で弟を湖に突き落とした男の子の話がありました。状況としてはその七歳になる男の子が突き落としたとしか考えられなかったわけです。両親は苦しみ、精神カウンセラーなどの力を借りて、その男の子の精神分析を行いました。弟の殺人に直接関わる質問になると、その男の子は満面の笑顔で話を逸らしました。けれど、直接ではないけれど、殺害に関わる質問をすると詳細に答えました。本人は自覚しているはずですが、自覚する自分を隠してしまう」
 「結局、その男の子は、どうなったのですか?」
 「いまも、両親と暮らしています。今回の件もそれに近いのではないかと考えています。ある意味のサイコです」

 雄鯨山・雌鯨山
 湿度の高い真夏日になった。
 早朝、東京を発った赤色のメルセデス・ベンツは、大井川を越えると東名高速を降り雄鯨山と雌鯨山へと走っていた。

 「なんか、やぶ蚊がすごそうだけど…」
 助手席の女は不貞腐れていた。
 外を歩くだけでも汗が吹き出す。
 しかも、富士山や八ヶ岳のように乾いて涼しい風がそよぐ高山ではなく、ヤブ蚊の大群が押し寄せそうな、ヤブ漕ぎの山登りにつき合わされることになった。「君の方が詳しいから」と言われても、雄鯨山と雌鯨山の祠にもう一つの「事任の書」があるという話を聴いただけだ。その山の由緒やどこに祠があるのかなど一切知らない。それでも、時枝文章は一人では嫌だと駄々をこね、挙げ句の果てには上から目線で〈これも仕事だ〉と言い切った。殴ってやろうかとも思ったが、寸前でこらえた。確かに、これも仕事には違いなかったからだ。
 視界に入った山を見て、「あの、二つの山が雄鯨山と雌鯨山だな」とドライビング・ナビの画面で再確認した時枝文章は、麓の藪の空き地に車を入れ、人目につかぬ場所に停めた。

 品川花から得た情報、〈雄鯨山と雌鯨山の祠にもう一つの「事任の書」がある〉という話を得るや、時枝文章はインターネット上でかなり調べたという。雄鯨山と雌鯨山にまつわる伝説や地勢・地質など、「色々と調べた」という。神社仏閣などに保存されていれば、すでに公になっているはずだから、松尾山の祠と同じく岩穴のような場所に違いないと考えた。
 その後、地質学を専攻する大学生たちをアルバイトに雇い、二回の地質調査を行った。彼らには、不動産開発の事前調査のためと偽り三日で六万円のアルバイト代を支給した。結果、彼らは岩盤が露呈する場所を確認し、祠跡と思われる岩穴も発見した。

 「ま、それは良いけれど。まだ?」
 「ああ、あと五十メートルぐらいだ」
 全身肌を出さぬサバゲー用の服装だが、それでもヤブ蚊は執拗に血を追い求め、女の首筋や手首に痒みが走っていた。役立たない携帯蚊除けを罵る言葉さえ失っていた。

 「ねえ。最悪じゃない、これ」
 「そう言うな。もう少しだ」
 立ち止まっては手にした地図で位置を確かめ歩いていると、目印の赤い布が目に入った。学生たちが残した目印だった。

 「あれだ」
 名も知らぬ雑木に服を引っかけながら崖を降りていくと、山肌に岩盤が露呈し、人の手でくり抜かれたような岩穴があった。三メートルほど匍匐前進すると、二メートル立方ほどの空間が現れ、祭壇のようにくり抜かれた棚に漆喰で固めた木箱があった。時枝文章は息を飲み、腰のカナヅチを手に取り、漆喰を慎重に剥がし落とし木箱を開けた。

 その夜、時枝文章と女は箱根のホテルで美酒を酌み交わしていた。汚れたサバゲー用の服は道の駅で捨て、カジュアルな服装に着替えホテルにチェックインした二人は、露天風呂で汗を流した。

 「で、あれを大道希信に手渡すの?」
 「いや。もちろん買い取ってもらう。大道希信は二つに分かれた『事任の書』を手にすることになる。良い値になるだろう…。とにかくこれで、一件落着だ。君にもお世話になった。ありがとう」
 「仕事だから…」
 「ま、仕事だ…。今夜はゆっくりしよう」

 時枝文治と大道希信

 「時枝さんにはお世話になった」
 大道希信が頭を深く下げた。

 いつもの客間ではなく、奥庭の茶室にとおされた時枝文治は、その姿に老いを感じていた。この男とのつき合いは長い。日本民主独立党創立前後から、その資金源を取りまとめてきた。裏骨董市場を仕切る時枝文治の政界マネーロンダリングの手助けが無ければ、この男も、そして与党第一党の日本民主独立党も足腰は弱いままだったに違いない。けれど時枝文治なりの希望は託したつもりだった。
 しかし、老人の希望など淡いものだった。
 議員バッチを胸に付けると、若い議員たちは変貌し、老人の希望や気骨など馬鹿げた話だと鼻であしらっていた。
 にも関わらず、大道希信という男は日本民主独立党を支えようとした。利権などもう不必要に違いない。ならば、何を目指してここまで動こうとするのか。古典的なやり口に、つき合いもこれで終わりだなと、時枝文治は考えていた。ここで袂を分かたねば、こちらにも火の粉が飛んできそうだった。

 大道希信が点てた抹茶を頂くと滋味が沁み渡った。
 奥庭の松の木の蝉が、ジリリと鳴き、夏風がそっと吹いた。
 その時を見計らったのか、大道が二つの漆の小箱を手にした。

 「その二つの漆箱に…」
 「はい。今回はお世話になりました。ようやく、これで『事任の書』が一つとなりました。そしてこれをあなたにお預けします。形の上ですが」
 「それは、つまり…」
 「骨董愛好家グループ『風韻』の会長であるあなたに、目録を手渡します。それを闇(骨董市場)に流してもらえれば、何人かの方が手を上げられ七十億円がすぐに集まるはずです」
 「何人か?」
 「はい。その話はつけておきました。あなたの『事任の書』目録を複数の者が名目上、所有するわけです」
 「分かりました。そしてその七十億円を…」
 「ええ。党(日本民主独立党)の選挙資金に回してもらいます」
 「大道さん。そして、私のメリットは?」
 「それは、別途、準備しました。あなたから依頼のあったご子息の出馬の件は、党の方で内々に進めています。党の青年部で活躍されていますから、ご子息の出馬に疑義を呈する者などいません」
 「派閥の方は?」
 「それですが、若手議員の筆頭として派閥横断的な勉強会を立ち上げてもらおうとも画策しています」
 「それは、つまり…」
 「ええ。老害の切り捨てです。このままでは日本は駄目になる。ご子息たちが活躍できるよう、最後のご奉公です」
 「大道さん。あなたは、それで良いと?」
 「ええ。『事任の書』を手にした今、大道家が胸を晴れるようになりましたから。私は、それで」
 「分かりました」

 茶室から出た二人は庭を散策した。
 禅の作庭を施した庭には、夏という季節だけがあった。
 大道希信は、嘘はつかない。
 しかし、話し言葉の外に、核心を秘める男だった。
 池の錦鯉が、ぽちゃんと跳ねた。

 ジローナの夜
 ジローナは、バルセロナから数十キロ北東にある中世の趣を残した古い街だった。
 アンドラ公国の首都アンドラ・ラ・べリャから、フーゴ・シュペルレの白のメルセデス・ベンツSLの後を、ジョアン・ラポルタのアストン・マーチンDB5が追っていた。犯罪の形式美にこだわるフーゴ・シュペルレの誘いに、ジョアン・ラポルタは敢えて乗った。その決着の舞台はジローナだった。

 ジローナの旧市街で車を停めると、フーゴ・シュペルレは石畳の細い道を歩き出した。夜が更けると旧市街は中世の世界に変貌する。コツコツと靴音が歴史に磨かれた石造りの街に木霊し、中世の時が彷徨い出す。
 フーゴ・シュペルレの歩き去った街路を確認すると、ジョアン・ラポルタも車から降り、後を追い歩き出した。
 中世の城壁の坂を登りきると、街灯のない門の暗がりでフーゴ・シュペルレが立ち止まった。ジョアン・ラポルタは呼吸を細めながら、一歩一歩、その門へと近づいて行った。

 夏の夜風が止まると、背後から男が三人現れた。
 靴音は傭兵が履く軍靴だった。
 ジョアン・ラポルタは、腹の支点に力を溜め肩の力を抜いた。
 〈かちゃり〉とナイフが服に擦れる音がした。相手の武器はナイフのようだった。
 ジョアン・ラポルタは、時を待った。
 背後から忍び寄る三つの影が石畳に映っていた。
 夜鴉がカァと鳴くと、夜風が吹いた。
 夜空に昇る細い月を見上げたジョアン・ラポルタが、突然テニス・ボールを空にぽんと投げ、相手三人の視線を集めた。
 〈シュッ〉と音を立てた小型ナイフが一人の男の首根っこに突き刺さり、男は石畳に崩れ落ちた。

 小走りで迫ってきた男に、ジョアン・ラポルタは全速で駆けた。
 戦場に慣れた傭兵の弱点はスピードだった。
 硬く重い筋肉は鈍い。
 相手の懐で沈み込むと、鈍色のサックを付けた右拳を突き上げ、顎の関節を砕いた。

 あと一人。
 戦場に慣れた傭兵の弱点は一対一の戦いに弱いことだ。
 周囲に屈強な仲間がいれば強気に出るが、自分一人だとひ弱になる。硬く重い筋肉は弱い精神の裏返しだ。
 両手を広げ、ニタニタと笑顔を零すジョアン・ラポルタが近づくと、男は戦意喪失の螺旋階段を転げ落ちた。心は逃げていた。
 〈シュッ〉と音を立てた小型ナイフが眉間に刺さった男は城壁の外に落ちて行った。

 「ふふふ。見事だな、ジョアン」
 門の暗がりからフーゴ・シュペルレの声がした。

 「ああ。ちょっと時間がかかり過ぎた」
 「ま、こちらは直ぐに終わるから大丈夫だ」
 消音器の筒が、暗がりから突き出された。

 「フーゴ。お前のお得意なナイフはヤメたのか?」
 「そうだな。時と場合による」
 「ジョアン。君を殺したのは、そこに転がるゴロツキということにさせてもらうが、良いかな?私ではなくて?」
 ジョアンはブレることのない消音器を見つめていた。
 消音器を付けた拳銃の重心は前にあり、プロでないと拳銃がブレるが、フーゴは一ミリもブレさせてはいない。
 蛇に睨まれた蛙のように、ジョアンの肩に力が入った。

 〈これは、マズい。右か左か…〉
 ジョアンは、右前方に身体を投げた。
 〈ピシリ〉と九ミリの銃弾が、左の肩を削った。
 石畳に倒れたジョアンは痛みに耐えていた。
 次は命が盗られるはずだった。

 フーゴ・シュペルレは、門の暗がりから一歩前に出た。
 手にした拳銃は、高性能の軍用拳銃、シグ・ザウエルだった。
 右頬の傷で引きつる顔が、ニヤリと笑みを蓄えた瞬間、ジョアンは城壁の上から身を投げた。
 二発目の銃弾が、石畳に跳ねた。
 ゆらりと落ち、柔らかな鉄板に叩きつけられる直前、誰かの声がしたようだったが、ジョアンは意識を失った。

 フーゴ・シュペルレがレバーを引くや、ジョアンは城壁から飛び降りた。自分で死を選んだ。馬鹿な奴だ。「チっ」と舌打ちをした時だった。「手を上げろ!」と背後の暗がりからロンドン訛りが木霊した。続けて、「おい、フーゴ・シュペルレ。手を上げろ!」と、前方の坂道から、ジブラルタル訛りが木霊した。
 夜鴉が一声鳴いた。
 それを合図にしたように、城壁の下から八機のドローンが現れ城壁を照らし出し、カタルーニャ州警察の特殊部隊員十名が坂道を上がって来た。

 「ジョアン。このメルセデス・ベンツSLは高いぞ?」
 「ああ…やっちまったか…」
 「一九六〇年代のだからな」
 ジョアン・ラポルタは城壁の上からメルセデス・ベンツSLの屋根に落ち、一命を取り止めた。「ラモン・カザス警部が、ジョアンは私怨でフーゴを殺すからと言われて来たんだ」と、左肩の止血をするリロイ・ロード刑事が笑うと、「俺も同じことを言われて」と、パクリと切られたジョアンの背中にタオルをあてるアデミール・ペレイラ刑事がつられて笑った。

 危機一髪の状況で、ロンドン警視庁のリロイ・ロード刑事と英国領ジブラルタル警察のアデミール・ペレイラ刑事が助けに来てくれた。ジョアンはフーゴ・シュペルレを一人で追った。決着の舞台はジローナなのは好都合だった。ラモン・カザス警部の言葉どおり、私怨でフーゴ・シュペルレを殺そうと思っていた。
 このジローナで。
 身ごもった妻を殺された恨みを晴らすために刑事を捨て探偵になった。私怨を晴らすだけなら殺人者と何ら変わりなかった。ただ、それでも本望だった。
 しかし、ロンドン警視庁、そして英国領ジブラルタル警察から、リロイ・ロード、そしてアデミール・ペレイラがかけつけてくれた。彼らにも執念があった。ジョアン・ラポルタに見えぬところで、泳がせ捜査を地道に続けていた。

 「ジョアン、ところで、お前の武器は?」
 「ああ。これだ」と、ジョアンは、右拳にはめた鈍色のサックをロード刑事に見せた。
 「ジョアン、お前は、素敵なやつだ」
 ロード刑事が、ジョアンの左肩を思わず叩いた。

 品川花からのプレゼント

 「遠いところ、わざわざ起こしいただきありがとうございます」
 「いえいえ。突然の申し出で…」
 紙コップのお茶を横にずらした品川花が、大判の風呂敷包みをテーブルの上に置いた。

 「品川さん。これは?」
 「はい。『事任の書』です」

 一週間ほど前の朝、研究室で資料整理に励んでいた金田モネに外線電話が入った。電話は、浜松に住む浅田ミレイからだった。佐々木ローザが突然訪ねて来た翌日、浅田ミレイは胸騒ぎがし、品川花に電話を入れた。電話口の品川花は相変わらず元気な声だったが、佐々木ローザの突然の訪問の話をすると、しばらく沈黙するや、「どうやら時はなさそうですね」とつぶやいた。
 金田モネにはこのやり取りは伏せた。
 ただ、品川花から金田モネに会いたいとお願いされたとだけ伝えた。

 「品川さん。この包みは…『事任の書』ですか?」
 「はい。以前お話ししたかと思いますが、今川氏真侯が大切に保管されていた『事任の書』です」
 「品川さん。それを品川さんがお持ちになっていた、と」
 「はい。徳川幕府になり、今川家は品川家に名前を変えました。つまり、私は、今川氏真侯の子孫の一人です」
 品川花が硬い結び目を解くと、風呂敷に包まれていた漆の箱が現れた。

 「金田さん。これが『事任の書』です」
 本来は、この研究所の所長、城島高和に手渡そうと考えていたが、彼は掛川に辿りつくことなく事故死した。彼の意思を継いだのが金田モネだった。浅田ミレイからも金田モネの研究熱心さが伝わった。ここ東西文化資料研究所なら安全に保管してくれるに違いないとも考えた。

 「だから、この研究所で『事任の書』を保管してもらえればと…。お願いしますね」
 「はい、品川さん。ありがとうございます。大切に保管させていただきます。」
 「そうそう、二つに分けられた『事任の書』のことは、金田さんの方で研究してください。あなた自身のためにも」
 「はい。何故、『事任の書』が二つに分けられたという話が伝わっているのか…」
 紙コップの苦い緑茶をゆっくり飲み干した品川花は、「では」と会釈を残し、研究所のロビーへと去って行った。

 任意同行
 逮捕されたフーゴ・シュペルレは尋問には応じなかったが、カタルーニャ州警察に移送された白のメルセデスSLの隠しボックスのなかから、彼のスマート・フォンが発見され、アプリ上は消去されたメッセージのやり取りをクラウドから復元し、一人の日本人、時枝文章の名前が浮かびあがった。

 「時枝さん。つまり、大道希信さんから、ロンドン出張のアレンジを頼まれただけということですか?」
 「はい。父の知り合いの大道希信さんが急遽ロンドン出張に行かれることになり、現地のエイジェントなのかコーディネイターなのかの人物とやり取りをして欲しいと…」
 「それだけ、ですか?」
 「ええ。それだけ、です」
 「その現地の方のお名前は?」
 「フーゴ・シュペルレという人物でした」
 中山警部は、天然パーマの髪をゴシゴシと擦ると、「では、別件ですが、この写真に見覚えはありますか?」と数枚の紙焼き写真を机の上に置いた。

 「これは、京都の松尾大社近くの駐車場、浜松湖のホテルの駐車場、そして掛川の道の駅の写真です。それぞれ防犯ビデオで撮られたものです。赤色のメルセデス・ベンツ。ナンバーも同一のものですが…」
 時枝文章は、答えようか否か迷った。
 警察がどこまで深く情報を握っているのか分からなかったからだ。特に、大道希信や父・文治だった。あの二人の言いなりに動いたと言えば良いかどうか。これからの自分の人生にとってのメリットとデメリットは何だろうかと考えようとしたが、皺だらけのレインコート姿で、ボサボサ頭の中山を前にしていると、どうでも良い気になってきた。

 「はい。それは、私の車ですが?」
 「ですね。ここ数年、捜査技術や法律も進歩しまして、被疑者だと裁判所で認定されれば、自動車登録番号票、つまりナンバー・プレートの自動追跡システムを運用できるようになりました。それを使って、〈ある古書〉にまつわる場所の防犯ビデオ画像を解析しました。すると、あなたの車が写っていました」
 中山は、ここでは「事任の書」という言葉を出さなかった。

 「〈ことのままのしょ〉のことですか?」
 「ええ。『事任の書』の、ことです」
 時枝文章が落ちた瞬間だった。

 「時枝さん。いま、あなたのお父さんの時枝文治さんにも事情聴取をさせて頂いています。バルセロナの古書店主、パフ・ダフィーリョさん殺人事件の容疑者がフーゴ・シュペルレで、彼に指示を出したのが吉永守さん。そしてその代役となり動かれたのがあなた、時枝文章さんだと、あなたのお父さんが確認してくれました」
 「父が?」
 「ええ」
 「でも、父は何も」
 「時枝さん。では、誰がパフ・ダフィーリョさんの殺人を、そして『事任の書』の盗難を指示されたと思われますか?」
 「それは…」
 「それは…言い難い人物でしょうか?」
 「……」
 時枝文章は、黙秘モードに入った。
 このモードに入った容疑者は、頑なに言葉を閉じる。
 中山警部は、矛先を変えてみた。

 「ところで、大山雄二さんが殺された話はご存知ですね」
 「大山雄二…」
 「ええ。『事任の書』の研究者です。京都のご自宅で撲殺されました」
 「はぁ、テレビのニュースか何かでは…」
 「そうでしたか…」
 時枝文章の反応は鈍かった。
 大山雄二が殺害された夜、時枝文章は東京都内にいたことが分かっていた。
 彼にはアリバイがあり、それ以上問い詰めるのは止めた。さらに、この段階では、大道希信との関係を問い詰めるのも懸命ではないと、中山は判断した。

 隣の部屋で様子を伺うラモン・カザス警部は、一つ一つ事実確認を積み上げる中山警部の手法に深く頷いていた。バルセロナでは、フーゴ・シュペルレの余罪を含め、かなり厳しい尋問が続いているはずだった。地球を挟み東京とバルセロナで、均衡を取りつつ、着実に事件の本命ににじり寄れればと願うカザス警部だった。

 衆議院議員選挙
 
 「では、政治ジャーナリストの田川さん、今回の結果をどのように捉えられているでしょうか?」のキャスターの言葉を受けカメラが田川四郎に切り替わった。
 「ええ。まず、与党の日本民主独立党ですが、今回は過半数には届かないと予想されていましたが、結果はギリギリ過半数を獲得しました。善戦でした。それは現実として評価されるべきです。加納首相の政権もこれでひとまず安泰とは言えます。ただ、投票率です。過去最低の二十五パーセント。つまり、有権者の七十五パーセントがいまの政治に背を向けたことになります。与党の日本民主独立党で当選したある議員ですが、百人の有権者のうち、投票者は二十五人。その二十五人のうち、十人の票を獲得して当選しました。つまり有権者の十パーセントだけが彼女を押した。残り九十パーセントの有権者は彼女に背を向けた」
 「田川さん。その衆議院議員は当選するに値しないと?」
 「いえ。選挙結果ですから。ただこの現状、投票率二十五パーセントでの当選をどう考えるのか。与野党ともに大いに問われるところです」
 「では、真摯にその現状を受け止めるべきだと?」
 「そうですね…。このフリップは、ある言語学者が、過去十年間の衆参の予算委員会の発言をデータ化し、コンピューターでAI分析したものです。結論は、残念ながら五歳児の発話と同等でした」
 「え!五歳児の発話と同等ですか?」
 「はい。話された言語がどの程度具体的な意味を示しているか、会話、ここでは議論ですが、それが横滑りしているのか、それとも深まっているのか…等々。これはあくまでコンピューターのAI分析の結果です。おそらくですが、実のない、魂の抜けた形骸化した言葉のやりとりばかりの政治に、有権者は嫌気を差したのではないかと、想像しています。これは政治家だけではなく…」
 「…厳しいお言葉…。政治ジャーナリストの田川四郎さんでした。ありがとうございました」
 保守派の論客を自負する田川四郎の厳しい言葉を早く打ち切ろうとしたのか、司会者は声色を急に和らげるや、予定より数秒早く動物園のカピバラの話題に移った。

 金田モネ

 「これで、金田さんだけが真実の『事任の書』の持ち主になられたわけですね。城島高和さんや大山雄二さんの意思を引き継がれ…しかも東西文化資料研究所の次期所長の噂もあるとか」
 「ええ。先週、『文藝東西』で発表させて頂くや、あちこちからお褒めの言葉を頂いて恐縮です…」
 「私も、読ませて頂きました。二つに別れた『事任の書』は偽物で、今回、今川氏真の子孫となる方から真実の『事任の書』を手に入れられた…。おめでとうございます」
 「中山さん、これも中山さんのお陰だと思っています。大山さんが亡くなったあと、いつも気にかけて頂いて…」
 「金田さん。それも私の仕事ですから。ただ仕事柄妄想癖もありまして困ったものです」と中山新之助は、レインコートのポケットに手を入れ、ゴソゴソと何かを探しているようだった。

 「どうか、されましたか?」
 「いえ。ちょっと待ってくださいね…。あ、あった。これこれ」と、ポケットから手を出すと、左手のひらに乗せた白い錠剤を金田モネに見せた。グミ好きの子供が友達に手渡すようなぎこちない仕草に、金田モネは微笑んだ。
 「すみませんね。これ。見覚えはありませんか?」
 「いえ。これは何でしょう」
 「そうですか、見覚えがない…。これはコレステロール増進薬です。どうも、妄想癖がありまして色々考えたわけです。私は」
 中山は、金田モネの瞳がわずかに見開いたのを見逃さなかった。

 「京都府警の鑑識課というのは粘るんですよ。城島高和さんのご遺体の胃液成分を改めて調べましてね、すると、心筋梗塞を誘発する薬品、コレステロール増進薬の成分が残っていました。持病を誘発するような薬品の成分です。城島さんの息子さんが研究室から持ち帰ったピル・ケースを調べると、そのコレステロール増進薬が入っていました。持病のお薬をひと月分ピル・ケースに入れ、研究室に置かれていたようです。が、誰かがすり替えた。抑制剤ならかなりの種類の薬品が売られていますが、増進薬というのは限られているようです。ある製薬メーカーからその配給網、つまり病院内の薬局を教えてもらうと、関東甲信越では五つの病院だけ。そのうちの一つが金田さん、あなたのお父さん、金田洋一さんが経営されている病院でした…」
 「はあ。それが、何か…」
 「いえいえ。先ほどお話したとおり、私は妄想癖が激しいようでして」と、中山は天然パーマの頭をグリグリと擦り、レインコートの右のポケットから皺になった一枚のメモを取り出した。

 「あと、色々ありまして。歩行、香料、毛髪に靴圧」
 「歩行、香料、毛髪に靴圧?」
 「ええ、まるで、おまじないみたいですね」
 「それが、どうされました?」
 「それが、ですね。京都府警の鑑識課とは本当に偉いものです。オタクだと言っても良い。あの大山雄二さん殺害事件の容疑者のことを頑張って調べてくれたわけです…」
 「その、歩行、香料、毛髪に靴圧で、ですか?」
 「そうです。歩行、香料、毛髪に靴圧」
 「〈歩行〉についてですが、コンピューターのAI分析というのをしたわけです。あちこちの駅に残っていたある人物の画像を。すると七十二パーセントの確率で小柄な男だと思っていたその人物は女性の歩き方だったわけです」
 「はあ。女性が…」
 「ええ。梅雨の熱くて湿度が高い夜に、黒いハットにパーカー姿の…最初は小柄な男だと勘違いしましてね。ところが女性だった。次に〈香料〉です。大山雄二さんの書斎で採取した空気の成分分析をすると醋酸リナリルとリナロールという成分が出てきました。ラベンダーの香りです。佐々木ローザさんにもお話をお聞きしました。あなたはいつもラベンダー系の香料ばかりだから、樟脳の香りが強い掛け香をプレゼントしたとか。この研究室もその樟脳の香りですが、後ほど、改めてご自宅にお伺いします。そして〈毛髪〉…」
 佐々木ローザの名前に金田モネの表情が強張ったが、中山は話を切らずに続けた。

 「〈毛髪〉ですが、大山雄二さんのご自宅の玄関から書斎にかけ落ちていた髪の毛をほとんどすべて集めて分析したわけです。すると大山雄二さんの亡くなった奥様やご親戚以外の女性の髪の毛、しかも数日のあいだに落ちた髪の毛がありました。後ほど、金田さんの髪の毛を貰えればと…。お願いします。最後ですが〈靴圧〉です。犯人は周到に靴底にカバーをかけていました。靴底の模様を残さないよう考えたのでしょうね。ところが靴底の圧には気が回らなかった。玄関先の庭に残されていた靴跡から犯人の靴圧、つまり靴底にかかる重心圧力の分布がわかりました。もちろん靴のサイズも二十二センチ前後と判明しました。先日、四条烏丸のカフェの庭でお茶を楽しみましたね。あの後、金田さんの靴の後を採取させてもらいました。すると、偶然なのか、靴圧がピタリと合って、驚いたわけです…」
 中山警部の証拠の羅列に、金田モネは強張っていた。

 「城島高和さんと大山雄二さん、お二人を殺害した容疑者の見当はつきました」
 「……」
 「金田さん。お二人の資料や、積み重ねられた業績をすべて手に入れ、そしてあなたは真実の『事任の書』を手に入れられた。そして、あなたのお父さんのお知り合い、大道希信さんの圧力で文科省を動かし、まもなく東西文化資料研究所の所長に推挙される」
 「……」
 「しかし、あなたは、個人が背負った歴史の重みを理解されていなかったようですね。私も、品川花さんにお会いし色々とお話を聴き、今回の背景を考えてみました」

 例えば、大道希信さんと城島高和さんです。
 起業家として大成功を収めた大道さんは大道家の歴史を辿りました。大道家は今川氏真の家臣でした。彼の曽祖父が明治時代になり家宝とされていた「事任の書」の漆箱を開けた。しかし、家宝は紛失していた。それを大道希信が知ることになり権力を持った彼は、自分の家の誇りを取り戻そうと「事任の書」を探し求め、文部科学省を動かし、東西文化資料研究所を創立し、「事任の書」の研究者だった城島高和さんを所長に抜擢された。
 城島さんの先祖もまた「事任の書」を、今川氏真から託された家臣だったことを知っておられたとは思いますが、城島さんも先祖が紛失した「事任の書」探し求められていたのでしょう。
 こう言うと失礼かもしれませんが、「事任の書」研究をさらに進めれば東西文化資料研究所の所長のポストを維持できる。それまでは、五十歳を過ぎても大学の准教授職を転々とされていたわけですから、城島さんにとっては突然降って湧いた所長職は願ったり叶ったりのはずでした。
 ちなみに、あなたのお父さん金田洋一さんの知人が大道希信さんで、東京の研究所で燻っていたあなたを京都の東西文化資料研究所に押し込んだのは大道希信さんです。

 「金田モネさん。あなたは知らぬ間に、真実の『事任の書』をすべて自分のものにしようと考えた。そうすれば、賞賛を得られ注目を浴びるからです。人の死などどうでも良いと考えた。古い言葉で言うならば、立身出世のために…。しかも、自分では気づかぬまま、自分の衝動を隠し、いやまったくの無意識で殺人に手を染めた」

 エピローグー歴史の真実と嘘

 「品川さん。金田モネさんから、これを品川さんにお返ししたいと託されました」
 「そうですか…」
 漆の箱を受け取った品川花は、丁寧に頭を下げた。

 「中山さん。お茶でもいかがですか」
 「はい、ぜひ」
 「掛川のお茶は美味しいんですよ」と、品川花は電気ポットから急須に湯を注ぎ、急須をゆっくり回した。
 煎茶道を極めた所作のような品川花の手つきに、中山新之助の心は解かれていった。

 「浅田ミレイさんから、お話は伺っていますが、色々と大変だったようですね」
 「はい。色々と…」
 「あら、ヒグラシ」
 品川花が耳に手を当て、〈カナカナカナ〉と盛んに鳴くヒグラシの聲を楽しんでいた。

 「中山さん、知っていますか?」
 「え?何をでしょうか?」
 「ヒグラシ。ヒグラシって季語は秋なんですよ」
 「夏じゃ、なく?」
 「ええ。秋。まだ夏が始まったばかりなのに、ね。えっと。何でしたっけ…。そうそう。誰にも話していないのですが、中山さんならお話しすべきだろうなと…」
 「話ですか?」
 「はい。『事任の書』のお話。城島さんや金田さんにもまだ話してはいない」
 「まだ、でしたか?」
 「まだ、でしたよ。何故か気が乗らなくて」
 「でも、私で良いんですか?」
 「ええ。中山さんなら、大切にしてくれるかと思いまして。誰も知らない歴史のお話ですが…少し長話になりますけれど、よろしいですか?」
 「ぜひ。お願いします」
 中山警部は、緑茶の芳しい香りを楽しみながら、品川花の話に耳を傾けた。

 歴史というものは虚実あい混じるものです。古文書として残された文字から描かれた歴史像は、歪んだ歴史像なのかもしれません。

 真実の一冊の「事任ことのまましょ」は、大弓月亀勝おおゆづききかつから託された坂上田村麻呂が事任ことのまま八幡宮に納めたという伝説があります。もうひとつは、大弓月亀勝が「事任の書」を二つに分け、一つは京都の松尾山の祠、もう一つは静岡掛川の雄鯨山と雌鯨山の奥の祠に隠したと嘘をつき、嘘を流布したという話があります。大弓月亀勝の先祖が祀った京都の松尾山や、掛川の事任八幡宮の「事任ことのまま」という文字が同じな神社近くの雄鯨山と雌鯨山の奥の祠に分けて隠したと周りに話せば信憑性があると考えたのかもしれません。いずれにせよ、大弓月亀勝は大嘘をついた。おそらく、偽の「事任の書」を作り二つに分けてどこかに隠したようです。

 話は飛んで、私の先祖、今川氏真の話です。
 武田信玄に追われ掛川城に入城した今川氏真は、真実の「事任の書」を守るべく事任八幡宮から持ち出し、掛川城に入城したと言われています。その後、徳川家康に負けて掛川城を開城し、掛川城を明け渡すとき、今川氏真は、真実の「事任の書」を手元に置き、つき従っていた今川家家臣の城島兼康と大道希助に「開けてはならぬ」と厳命し二つの小箱を託しました。彼らには「事任の書」を二つに分けて納めたと言い含めましたが、それもまた虚でした。今川氏真もまた大弓月亀勝の嘘を〈正しく〉伝承したと言えます。
 真実の「事任の書」を抱く今川氏真は掛川城を去り、小田原、京都、浜松、近江と流転し、やがて次男の今川高久が徳川家康から高家、つまり江戸幕府の儀式や典礼を司る役職の旗本として召し抱えられ東京の品川に屋敷を構え、今川姓を品川姓に変え、代々の徳川将軍に使え明治維新を迎えます。
 あの忠臣蔵で有名な吉良上野介もまたこの高家でした。
 明治維新後、明治近代化の時代となり、封をされた小箱を開けた大道希助と城島兼康の子孫は、そこには何もないことを知ります。二人は「事任の書」を紛失したと慄き、それを子孫に伝えました。その子孫こそ、大道希助であり城島高和です。
 真実の「事任の書」が、今川氏真の子孫の一人、つまり私、品川花に受け継がれ、現在に至りました。

 「品川さん。つまり、東西文化資料研究所の城島高和さんや、大道希信さんが追い求め、そして手にした二つに分かれた『事任の書』は誰かの手で作られた偽物だった。しかもその嘘は、西暦八百年ごろの大弓月亀勝の嘘、そして今川氏真の嘘から、だと…」
 「はい。そうだと思います。その偽物の二つに別れた『事任の書』は、大弓月亀勝なのか今川氏真なのか、それとも名も知れぬ誰かの手で作られたのでしょう。人の心は卑しいものです。言霊喰みという妖怪を封じ込めたと聞けば、誰かが興味を抱き、それを追い求めるでしょう。大弓月亀勝、そして今川氏真はそれを見抜き、後世を騙したわけです。歴史というものを、彼らはよくよく知っていたのかもしれませんね…。中山さん。もう少し、お茶はいかがですか。お茶の葉が慣れて柔らかい香りですよ」
 「ええ。ぜひお願いします」
 ザッと風が吹くと雑木林が揺れ、ヒグラシの鳴き声がぴたりと止まり、軒下からコロコロと虫の聲が微かに響いてきた。

 「はい。どうぞ。少し温いですが、この方が美味しくてね」
 一服口に含むと、〈お茶の葉が慣れて柔らかい香り〉がした。
 「品川さん。これも美味しいですね」
 「そうでしょ。でも、これは言葉のマジック」
 「マジック?」
 「ええ。中山さんは緑茶をわざわざ淹れて飲まないでしょ」
 「はい。家でもまったく」
 「だから、美味しく感じるの。あと、私が御託を並べるでしょ、すると中山さんは信じるわけ。言葉って面白いものでしょ」
 「はぁ。これは参りました」
 「いえいえ。それも冗談。それより、もうひとつ信憑性の高い伝説がありましてね」と、品川花が急須のお茶をさらに注いでくれた。

 もう一つ、残された伝説があります。
 今川氏の初代の話からになります。
 その初代は今川国氏という人物ですが代を遡り源頼朝の話から始まります。
 北関東の実力者だったのが今川国氏の曽祖父の足利義兼で、その力を借りたかった源頼朝は、北条政子の妹の北条時子を足利義兼の妻として娶らせました。そのひ孫が、今川氏初代の今川国氏で、三河国今川庄を領したことから今川姓を名乗りました。
 源頼朝が征夷大将軍になると、朝廷から真実の「事任の書」を託されましたが、源頼朝が亡くなり頼家、実朝と政治が不安定になり、北条政子は妹の北条時子を通じ、真実の「事任の書」を足利義兼に託したという話があります。それがひ孫の今川国氏へと受け継がれ今川氏が代々守り受け継いだようです。徳川家康も薄々その存在を知っており征夷大将軍となるや今川家を品川家として迎え、高家として徳川将軍に代々仕えさせたという伝説もあります。
 真実の「事任の書」は、大弓月亀勝から託された坂上田村麻呂が事任八幡宮に納めたのか、それとも、朝廷から源頼朝、源頼朝から足利義兼を経て今川国氏以来、今川家が守ってきたのかは誰も知らないことです。ただ一つ。大弓月亀勝の危惧から出た嘘が人の心を惑わしたのは言うまでもありません。

 「ところで中山さんは『言霊喰み』という妖怪はどんな妖怪だと思われますか?」
 「今回の捜査で、話だけは聴きましたが、具体的には…」
 「そうですか。では、お教えしましょう」
 言霊喰みという妖怪は、人の言葉から魂を抜き取り食べてしまう妖怪です。実のない言葉を人々が使い始めるのを戒めた架空の妖怪だと思います。平安京遷都のころには、すでに魂のない言葉が蔓延していたのでしょう。
 ご存知だと思いますが、大弓月亀勝と親交があったはずの坂上田村麻呂も、魂のない言葉に翻弄された人物でした。
 蝦夷討伐の後、首領だった阿弖流爲あてるいを京都に召喚します。
 坂上田村麻呂は阿弖流爲を胆沢へ返し懐柔しようと訴えましたが、朝廷に巣食う公卿たちは手のひらを返し、阿弖流爲は野蛮で、陸奥国に帰せば虎を養うようで憂いを残すとして、京都で切り殺します。自己保身だけを考えた、魂のカケラもない言葉が横行し始めていた良い例ですね。
 せっかく平安京に遷都したにも関わらず。
 言霊喰みという妖怪は、私たちの心のなかに連綿と棲み続けているのかもしれません。
 温くなったお茶を飲み干すと、品川花は庭に飛ぶギンヤンマを目で追った。梅雨も明け、夏日差す庭を楽しげに飛んでいたが、風鈴がチリリンとなると、それに驚いたのかギンヤンマは青空高く上っていった。

 「品川さん。言霊喰みは、封じ込められたのでしょうか?」
 「どうでしょう。大弓月亀勝の戒めなど解さぬ世の中ですから」

 ソル・ブランコ
 教会の墓地に眠る妻の墓に花を手向けたジョアン・ラポルタは、バッグを抱えボクシング・ジムへとやって来た。数カ月ぶりだった。
 
 「ジョアン、調子はどうだ?」
 「ああ。左肩が…」
 「まだ、傷が?」
 「そうだな。痛みはないが」
 「じゃあ、リングに上がってみるか?」
 トレーナーのハビエル・カスティージョがパンチング・ミットを両手につけ、ジョアンをリングに誘った。
 ハビエルは全欧ミドル級のチャンピオンだった。
 目にも止まらぬ左フックで十戦十勝無敗の欧州王者になったが、右目を負傷し、若くして引退の道を選ばざるを得なかった。
 ハビエルは天国と地獄を知る、闘い切った男だった。

 四ラウンドのミット撃ちで、ジョアンの呼吸は限界になった。
 腰の周りも遅く、手打ちになっていた。
 「おい、ジョアン、もうちょいだ」
 ミットを撃つリズム良いパンチの音が、ジムに轟いた。
 残り一分。
 ジョアンの連打が、ハビエルのミットを叩き続けた。

 ゴングが鳴り、ハビエルはジョアンを抱えた。
 「良いぞ、ジョアン。前より良いんじゃないか?」
 はぁはぁと肩で息吐くジョアンが、ハビエルのミットをポンと弾くと、笑顔を見せた。

 「ジョアン、良いんじゃないか?」
 ハビエルが、ベンチに座り込んだジョアンにミネラル・ウォーターのボトルを投げた。

 「ああ。まだまだだが」
 「で、大きな事件だったのか?」
 「そうだな。嫌な事件だった。だが、終わった」
 「そうか。終わったか…」
 「で、警察に戻るのか?」
 「いや。このまま探偵だ。まだ、闘える」
 バンデージを巻いた両手を見つめ、拳をギュッと握った。

 〈まだ、闘える〉
 ジョアンは、タオルで顔の汗を拭うと立ち上がった。

 「ハビエル、今夜、時間はあるかい?」
 「ああ。バルでも行こうか?」
 「良いワインがあるんだ」
 「良いワイン?」
 「ラ・マンチャの男からの贈り物、ソル・ブランコだ」
 「マジか?」
 「ああ。マジだ。お前と飲みたいんだ」

                                了

 あとがき
 
 「言霊喰み」をお読みいただきありがとうございました。
 この「言霊喰み」はハードボイルドというジャンルに入る作品かと思います。
 元々ハードボイルド作品が好きなのもあり、これまでに四作品のハードボイルド作品を物語化してきました。
 最初の三作品は、ハードボイルド三作品と銘打ったもので、「左手で、焼けた薬莢を握り締め」、「右手で、朽ちた銃架を握り締め」と「両手でそっと、銃を置く」を主要デジタル・ストアにて発行しました。その後、「復讐のインゴット」が四作目となり、この「言霊喰み」は五作目のハードボイルド作品になるかと思います。
 この五作品のいずれもが、日本の現在に限定せず、過去から現在、そして日本だけでなく世界各地を飛び回る作品となっています。時空を広く深く使いながら物語を動かしたい衝動がどこかにあるようです。またテーマも生物学、美学、宇宙物理学、地球物理学、歴史学と縦横に駆け回って、学際的な面白さを描ければと願っています。単なる私の好みでもありますが…物を語る者として、窮屈な世界観に囚われず、広く深い世界観で読者の皆さんとともに、物語という旅を楽しめればとも願っています。
 これからも、時間と空間を自由奔放に飛び回るような物語が書ければと、あれこれ夢想していますので、今後ともおつき合い頂ければ深甚です。
 読後感想等は、Facebook、InstagramやTwitterなどで「中嶋雷太」と検索して頂き、お寄せ頂ければと願っています。尚、お小言については密かにお教えください。

                                中嶋雷太
 

言霊喰み

2023年8月15日 発行 初版

著  者:中嶋雷太
発  行:Raita Nakashima's Cinema出版

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Raita Nakashima's Cinema

時代に振り回され、喜怒哀楽を重ねながらも、日々力強く生きる大人たちに、少しでも安らぎを感じてもらえれば幸いです。 2020年を超えて、日本および世界に向けて、「大人の為の物語」を拡げていきたいと考えています。見たい映画や演劇、そしてテレビ・ドラマを、物語という形で描き出し、織り紡ぎ出してゆければと願うばかりです。(代表:中嶋雷太) Established for weaving stories for adult people. For them, who are always struggling daily lives, we hope they enjoy the stories. Welcoming Mr. Ray Bun as a main writer (story teller), we would like to expand our stories over the world as well as in Japan, over 2020. Also, we would like to weave the stories for future theatrical films, theatrical play or TV dramas. (Rep: Raita Nakashima)

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