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古代のインド渡来僧

清水正弘

深呼吸出版



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 目 次

古代におけるインドからの渡来僧
古代(西暦六~八世紀前後)における東西交流
清賀上人とは

伝承墓所
怡土(いと)七ケ寺

 全体マップ
 雷山・千如寺
 染井山・霊鷲寺
 一貴山・夷巍寺
 小倉山・小蔵寺
 鉢伏山・金剛寺
 浮嶽神社・久安寺
 種宝山・楠田寺

清賀山・正覚寺(油山観音)
関連地・怡土城址
関連地・高祖神社
関連地・伊都国歴史博物館


※ このフィールドレポートは、二〇二三年六月に実施した現地調査を基に作成している。


古代におけるインドからの渡来僧

東大寺大仏の開眼供養(天平勝宝四年・七五二年)の導師は、インドからの渡来僧・菩提僊那(ボーディセーナ)である。彼は、遣唐使船で吉備真備や玄昉らとともに、ベトナム僧や中国僧を伴い来朝するのである。同時代には、鑑真和上も来朝しており、半島からは新羅僧や百済僧も来ていた。

明治時代の仏教学者・高楠順次郎はボーディセーナより前に、幾人かのインド渡来僧が来日していると講演などで語っている。その一人に法道仙人がいる。牛頭天王を姫路市にある広峰山に招来した人物である。この法道仙人が開基したと言われる寺院が、東播州一帯を中心に百を超えている。

同じく北部九州においては、清賀上人というインド渡来僧が多くの寺院を開基している。この二人(法道と清賀)と、ボーディセーナとの違いは明白である。中央(奈良)における文書に記録が残っているかいないか、である。残念ながら、二人(法道と清賀)は、後世の学者が参考にする公的文書にはその存在は記載されていないのである。

即ち、当該地においての各種伝承や口伝物語として伝えられてきた存在なのである。ただ私は思う。公的文書には記載されなくとも、大衆や地域社会にとり心の支えとして必要とされたからこそ、千年を超えて語り継がれたのだろう。少々怪しげな言い伝えを含めて、千年以上前に活躍したインド渡来僧について深掘りするべく、数年前からフィールドリサーチをおこなってきた。

清賀上人は奈良時代に聖武天皇の勅願を受けて福岡県糸島市にある、千如寺大悲王院をはじめとする怡土(いと)七ヶ寺を開いたとされる高僧である。別説では、西暦一七〇年代にすでに渡来してきているという。


古代(西暦六~八世紀前後)における東西交流

東西交流の絵図

井上靖氏著・『天平の甍(いらか)』を読み進めていくと、西暦七〇〇年代(八世紀)における、東西(東アジアと南アジア、東南アジア、中東周辺)交流の実態が垣間見えてくる。また、七~八世紀に渡来してきたと言われるインド(バラモン)僧(法道・清賀・ボーディセーナら)の渡海時における時代的背景が朧気ながら浮かびあがってくる。

鑑真和上伝・『唐大和上東征傳』の現代語訳本を手に入れ、その該当する記述箇所に注目すると、中東・南アジア・東アジア・東南アジア・朝鮮半島、そして日本列島におけるヒトとモノの交流は頻度が高いと感じざるを得ない。唐大和上東征伝は、宝亀十年(七七九)に淡海真人三船(元開)が著した鑑真の伝記である。

鑑真の従僧・思託の撰した『大唐伝戒師僧名記大和鑑真伝』(三巻)などをもとに一巻にまとめている。思託(鑑真の弟子)の撰した伝が失われたため、この『東征伝』が鑑真の伝記の基本資料となっている。井上靖氏の、『天平の甍』は、この資料を基として小説化されている。この資料の中で、天宝七年(七四八年)における広州(中国南部)における記述を抜粋して次に記すことにする。

この記述箇所を読むと、西暦七〇〇年代半ば頃には、すでに広州あたりにはインド、ペルシャ、その他南洋諸国などからの交易船の往来が盛んであったことが明らかになってくる。

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インド原産の(シクンシ科・ミロバラン。実は薬種になる) の樹が二株ありました。その実は大棗(おおなつめ)のようです。また開元寺に胡人 (中国西方の少数民族)がいて、白檀の華厳経九会(白檀の木に華厳経にある毘盧舎那仏の説法を彫り描いたもの)を造り、工匠六十人を率いて三十年かかって造り終わったそうです。

それには四十万貫の費用がかかったといいます。これを天竺(インド) に持ち運ぼうとしたのですが、採訪使劉臣鄰は書状を奏し、そこで敕が下って華厳経九会は開元寺に留めおかれ供養されていたのであります。七宝で飾られ荘厳にして(立派すぎて彫り描いた内容を)考えることができません。

また広州には婆羅門の寺が三カ所あり、そこには梵僧(インド僧)が居住しています。その寺の池に青蓮華 (青ハス) があり、花も葉も根も茎も盛んにかんばしい香りを放っていて奇異なことでありました。港になっている珠江の江中には婆羅門(バラモン・インド)、波斯(ペルシャ・今のイラン)、崑崙(こんろん・崑崙は当時のインドシナ半島から南洋群島を示している)等の船がたくさん停泊していて、その数は数えることができないほどです。

そしてこれらの船は香薬や珍宝を山のごとく積載していました。その船は大きく深さ(高さ) 六、七丈もあります。 師子国(獅子国・スリランカ)、大石国(アラビア・大食=石も食も通音)、骨唐国(不明)、白蛮(不明・蛮=ばんは南方の民族を指す。古代、今の雲南省に白蛮の記録あり。 今の欧州人の説も)、赤蛮 (今のアフリカ系人の説あり)らが往来し居住しています。

その種類は極めて多い。州の城は三重になっています。 都督は六森(ろくとう・六面軍中の大旗。唐代節度使の軍中で用いた)を執り、一轟一軍の威厳は天子と同じものです。紫緋 (しひ・官服の色)は城に満ちて、街中の家々は軒を並べて続き、にぎやかに迫りふさがっていました。和上は一春ここに居住しました。

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また、同時期に中国(唐)から天竺(インド)へと渡った二人の求道僧についても、そのエッセンスのみ記述しておく。

※ 中国僧・玄奘三蔵の記録

六二九年にシルクロードを陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って、六四五年に経典六五七部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。

※ 中国僧・義浄の記録

海路インドには西暦六七三年に到着し、十四年間インドに滞在し、そのうち一〇年間はナーランダ僧院で過ごした。帰路も再び海路で、マレー・インドネシア(スマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国の中心都市パレンバンなど)を経て、六九五年(証聖元年)帰国。二五年間に三〇余国を遊歴し、四〇〇部、五〇万頌のサンスクリットの経律論、金剛座、舎利三〇〇粒などを齎した。


清賀上人とは

清賀上人の開基とされる、福岡県糸島市の標高九五四ⅿの雷(いかづち)山中腹にある真言宗大覚寺派の寺院・千如寺(せんにょじ)の寺伝は次のように伝えている。

成務天皇四十八年(一七八年・仏教公伝より約三五〇年早い)に、天竺(インド)霊鷲山(りょうじゅせん)の僧「清賀」が渡来し、この寺を開創した。その後、聖武天皇により勅願道場となり、国司により七堂伽藍が建立され、以来、歴代天皇より綸旨を賜ったという。

(注・霊鷲山とはインドのビハール州のほぼ中央に位置する山。大乗経典においては、釈迦が『観無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られる)

ただし、江戸時代に貝原益軒によって記された『筑前国続風土記』には、奈良時代に聖武天皇の勅願により、インド出身の僧「清賀」により開創されたと記されている。また、建長七年(一二五五年)の当寺の文書には「法持聖人」「法持聖清賀」の別名で記されてもいる。

また、「大悲王院文書」の中の「雷山千如寺縁起」によると、かつての院号は、霊鷲寺(りょうじゅじ)であったとされる。(注・大悲王院とは千如寺のこと)

この霊鷲寺をはじめ、染井山霊鷲寺、一貴山夷巍寺(いきさんいきじ)、小蔵山小蔵寺、鉢伏山金剛寺、浮嶽久安寺、種宝山楠田寺の七ヶ寺が、怡土七ヶ寺(いとななかじ)とよばれる現在の糸島市周縁に存在する清賀上人開基の寺院群である。雷山・霊鷲寺は、その七ケ寺の中心本山として多くの僧坊が建ち、最盛期には三〇〇もの僧坊があったと伝えられている。



伝承墓所


地元(北部九州)の伝承おいては、清賀上人の墓所であろうとされる墓石は、雷神社の近くにある。雷神社の駐車場から道路を挟んで森の中に入っていくと、左手斜面に上る石段が現れる。その石段を上がっていくと、巨樹が林立している空間が現れてくる。その巨樹群の中に、小さくではあるが、幽玄な雰囲気を醸し出す二基の墓石がある。どちらが清賀上人のものかは定かではないそうであるが、ここに清賀上人は眠っているとされている。(※地図の赤矢印部分)


怡土(いと)七ケ寺

怡土とは、現在の糸島(いとしま)市の中でも、古代に伊都国として栄えたエリアを指すといっていいだろう。明治半ばくらいまで、現在の糸島市南部は怡土郡と呼ばれていた。怡土郡は脊振(せぶり)山地の北側斜面を占め,玄界灘に面し,『魏志倭人伝』では「伊都国」と書かれたところである。このエリアには、古代の怡土城跡や条里制の遺構なども多くあり、また弥生式住居跡,高祖神社(たかすじんじゃ)など歴史性豊かな土地である。

この旧・怡土郡を中心に、清賀上人開基とされる寺が多く存在している。地元の調査によれば、上人開基伝承や、上人所縁の寺・寺跡などは旧・怡土郡やその周辺にて二十八箇所にものぼるとされている。その中でも、これから紹介する七ケ寺は、代表的な場所とされている。『筑前國続風土記』巻之二十二(怡土郡・公領・唐津領 鉢伏山)の項にも、次のように記載されている。

およそ怡土郡七箇寺と云るは、みな真言宗なり。

 雷山千如寺
 染井山霊鷲寺
 一貴山夷巍寺
 小倉山小蔵寺
 鉢伏山金剛寺
 久安寺
 楠田寺

今回は、その筑前続風土記に記載された七ケ寺を、記載順に沿って紹介していく。


雷山千如寺

開山堂に祀られている(清賀上人像)
開山堂
木造十一面千手千眼観音像

怡土(いと)七ケ寺の中でも中心的存在であった。また、現在においては、七ケ寺の殆どが廃寺になっている現状であるが、この千如寺だけは隆盛を誇っている。それは、本尊である『木造十一面千手千眼観音像』の存在感が背景にあると思われる。

この巨大な像は、丈が四・八五mにも及び、国指定の重要文化財に指定されている。建造は鎌倉時代後期のものと推定されている。この像は、神仏習合時代には雷山中宮(現・雷神社)にあったとされている。明治の神仏判然令により、神仏分離を機に現・観音堂とともに現在の場所に移されている。


この千如寺を考える上において、前述の『雷神社(いかづちじんじゃ・俗称らいでんじんじゃ)』の存在を抜きにしては語れないだろう。背振山山系の中でも、特異な名前を持つこの神社は、標高九五五mの雷山(いかづちやま)の山麓にある。

『筑前国風土記』によれば、記紀に登場する「層々岐岳(そそぎだけ)」とは、この雷山のことを意味しているという。そして、この山はその昔、神功皇后が熊襲討伐のために兵を結集させた山だといわれている。

そののち、山そのものをご神体とし、水火雷電神を祀ることから、「雷山(らいざん)」と呼称されていったという。その雷山の山麓にある雷神社は、層増岐(そぞき)神社の上宮・中宮・下宮のうち、中宮として鎮座してきた歴史がある。

そして、下宮は現在の千如寺である。水火雷電神を祀る場所として昔から雨乞いの霊験あらたかの地であったという。境内には、樹齢千年を超える二本の観音杉(幹回り七m)と樹齢九〇〇年を超える大銀杏(幹回り七ⅿ)があり荘厳な空気感を漂わせている。そして、この神社から至近距離にある森の中に、清賀上人の伝承墓所もあるのだ。(注・伝承墓所の項を参照)

所在地:糸島市雷山六二六

護摩焚き法要

染井山・霊鷲寺

地蔵堂
染井神社参道
神池

現在では、この霊鷲寺は存在していない。霊鷲寺は高祖山の西側山麓に伽藍を構えていたと言われている。そして、『筑前国続風土記』には、寺は染井神社の下にあったとされており、地元では、神社下に石仏が安置されている二つの小堂がある場所辺りではないかとも言われている。山号である『染井』には、神功皇后による伝説が残されている。三韓征伐のおり、井戸に鎧を浸け、その色が紺色に染まったとされている。紺色に染まった鎧は、戦の勝利への象徴ともされていた。その井戸(染井の井戸)は、神社よりほど近い場所にあり古来霊域とされてきた。

所在地;糸島市大門六七二


一貴山・夷巍寺(いきじ)

ここはすでに廃寺となっている。ただ、集落入り口にある仁王門、ならびに中にある一対の仁王像は一見の価値がある。貝原益軒も、『筑前国続風土記』の中で、「此二王の像甚奇巧也」と記録しているように、ユニークな姿態の二像である。さらに、同書によれば往時には二十坊もの末寺を有する大寺であったらしい。

調査時には、地元の古老がこの仁王門の下で、日差しを避けながら休憩をとっていた。地元の古老(およそ八十歳台)が少年時代には、すでに寺の伽藍はなく、無人となっていたと聞いた。地元の言い伝えによると、この旧・夷巍寺は、神亀元年(七二四)頃、この地に聖武天皇の勅を請けて清賀上人により建立されたという。そして、南北朝の時代に一貴山の合戦で被害を受け廃寺となってしまった。

寺自体は廃寺となってしまっているが、仁王門から寺跡への道は、まるで時代をタイムスリップするかのような気分にさせてくれる。集落の中を流れる一貴山川は、透明度の高い清流となっている。またその流れは、集落の家々の傍をほどよい斜度にて流れていくのである。集落の佇まいは、まるで江戸時代の面影を色濃く残している。今でも生活用水として使われている山からの清流と古風な家並みは、訪れる人に『日本の原風景的景観』となって、穏やかに出迎えてくれるのである。

所在地:糸島市二丈一貴山

仁王像
廃寺からみた集落
廃寺の境内
古風な佇まいの家並み
仁王門の下での憩い


小倉山・小蔵寺(おぐらじ)

現在の寺
再興を記念する案内板
白糸の滝への観光客

現在の小倉寺は、紫陽花鑑賞の名所として名高い『白糸の滝』のそばに再興されている。元の寺(二キロ程度離れた場所)は、江戸時代にはすでに衰退しており、明治の廃仏毀釈によって廃寺同然となったという。現在の寺は昭和六二年に再建されたものらしい。

大同年間(八〇八年)には弘法大師が唐より帰朝時に当山にて滝行をされたとも言われている。また蒙古の大襲来の時は北条実政・英時をはじめ鎮西奉行・少弐経資、領主・原田公と共に滝に籠もり眼下に一望する敵軍の退散を祈願したと言われている。

所在地;糸島市白糸四五九ー一


鉢伏山・金剛寺

観音堂の案内板
観音堂は森の中にある
野外センターの案内板
観音堂への道標
観音堂左上にある露出した岩
無人の観音堂

金剛寺は、高祖山の東山麓に往時は七つの子寺を有する大きな寺坊であったらしい。現在は、観音堂(無人)の堂宇だけが残されている。ここへのアプローチは、今宿野外活動センターのメイン棟裏手の登山口より、山道を二〇分前後ほど登ることになる。また、この道をさらに登っていくと、高祖山への縦走路へと至る。伝承によると、清賀上人や弘法大使空海の使った鉄鉢を、寺の境内にあった巨岩の下に埋めたと言われている。しかし、現在の観音堂界隈には、そのような巨岩は見当たらない。堂の左上に露出した大き目の岩があるのみである。

所在地;福岡市西区今宿上ノ原九三二-七二


浮嶽神社・久安寺(きわじ)

浮嶽・久安寺は、隣接する浮嶽神社の境内に伽藍を構えていたという。浮岳神社の神宮寺として、往時には(院主坊、清水坊、浄至坊、奥坊、正桂坊、大門坊、寺司、正覚坊、杖立坊、道真坊)の十坊を有する有力寺院であったという。しかし、豊臣秀吉時代に権力に反抗したかどで、所属する僧侶の多数が殺されたといわれている。

その殺害の場所が、浮嶽神社の西南にそびえる十坊山(とんぼうやま)ということらしい。十坊の僧侶が殺害されたので、この山の名前になったとのことであろう。

所在地;福岡県糸島市二丈吉井九〇四

右手が久安寺跡。左手は浮嶽神社
久安寺跡地
案内板
浮嶽神社
浮嶽神社境内から西方向の景観
久安寺の跡か?


種宝山・楠田寺(くすでんじ)

荒れ果てた堂宇
大正時代の標札が残る
道路から左上に上がってすぐの場所にある。

怡土七ケ寺の中では、ここが一番荒れ果て感が濃い。場所的には、道路に近く人家もまばらながら点在しているので、地理的条件以外の理由による廃寺化なのだろうか。『筑前國続風土記』巻之二十二・怡土郡の項には、すでに次のような記述がある。『今は寺なく、民の柄となりて、住ける僧もなし。小なる地蔵堂一宇有り。』

すなわち、江戸時代にはすでに無住の廃寺となっていたと思われる。

所在地;福岡県糸島市東一二九八

清賀山(せいがさん)
 正覚寺(しょうがくじ)

この寺は、糸島市管内ではなく福岡市の城南区にあり、通称・油山(あぶらやま)観音と呼ばれている。臨済宗東福寺派の寺院である。福岡市の西南エリア(福岡市城南区・早良区・南区)にまたがる油山(標高五九七ⅿ)の山麓にある。山麓の寺からは、福岡市街地の展望が大きく展開し、夜景スポットとしても知られている。

寺伝によると、天平年間(七二九年~七四九年)に清賀上人が白椿に千手観音を刻んで安置して寺を開いたといわれている。また灯油の製法が知られていなかった時代、椿の実を絞って油による灯火の法を開いたといわれ、これが油山の名の起こりとなっている。『筑前國続風土記』巻二十一にも、清賀上人は聖武天皇の時代に油山に住んで油を製造していたと記述されている。

その後、多くの末寺が建ち、北部九州での仏教文化の中心となって栄えたといわれている。明治二十三年には、参道の終着門である桜門跡に、一人の修行僧が長い時間と精魂を込めて造った、新羅式石門が建っている。この石門は、古代の朝鮮から渡来した石門作りの技法で建立されていると聞く。また、境内には平成六年に美空ひばりのファンであった人の寄付によって、雲雀(ひばり)観音堂が建てられている。

所在地 : 福岡市城南区大字東油山五〇八

新羅式石門
福岡市街地の展望
行基菩薩と清賀上人などの記念碑
参道(終着点に石門)
ひばり観音の説明版

関連地・怡土城址

吉備真備の説明文
土塁にある記念碑
土塁の上からの眺め

高祖山(標高四一六m)の西斜面一帯に築かれた古代・中国式山城が旧・怡土城である。高祖山は、現在の福岡市と糸島市の境に位置している。博多湾の西側における拠点城として重要視されていたのであろう。

天平勝宝八年(七五六年)から約十二年の歳月をかけて築城されたと伝えられている。築城当時の責任者は、インド渡来僧ボーディセーナと共に遣唐使船にて帰朝した吉備真備である。

築城時をしのぶ遺構としては、八ケ所の望楼跡や、高祖山の山裾に南北約二キロにわたる土塁であろう。当時とすれば、巨大な山城としてその名を知られていたはずであろう。

清賀上人開基の怡土七ケ寺のうち、この山城付近に二つの寺が位置している。染井山・霊鷲寺と鉢伏山・金剛寺である。染井山・霊鷲寺は、まさに城内エリアにあり、徒歩数分の距離に、昔の城門(染井口)があったとされている。

八世紀に二度にわたり中国(唐)へと渡った吉備真備は、インド渡来僧についても既知であったはず。その吉備真備が築城当時の責任者であり、その城内に清賀上人開基伝説の寺があることは、何を意味しているのだろうか。

播州(兵庫県姫路市)における、インド渡来僧・法道仙人伝説と吉備真備も重複度が濃いのである。法道仙人が姫路市にある広峰神社に招来したと言われる『牛頭天王(ごずてんのう)』は、一説には吉備真備が招来したとも言われている。

吉備真備とインド渡来僧(ボーディセーナ・法道仙人・清賀上人)は、複雑に絡み合う糸のようでもある。

ボーディセーナとは同時期に日本へ。法道仙人とは広峰神社。そして清賀上人とは怡土城という共時性を感じざるを得ない。

土塁跡から高祖山を見る

関連地・高祖(たかす)神社

参道入り口

創建は不詳のようだが、社伝によると神功皇后が三韓征伐に向かう時、福岡市内にある香椎宮より当地まで御幸し、髙祖神(たかすのかみ)に勝利を祈願したと言われている。八世紀の中頃からは、吉備真備による怡土城(いとじょう)が築かれ、城の鎮護の神とされたようである。

清賀上人との関連性には直接繋がる事象はないが、神仏習合時代における歴史的拠点のひとつとして関連地としている。

関連地・伊都国歴史博物館

展示室
怡土城の復元

古代の伊都(怡土)国に関する貴重な展示物がある。平原遺跡など弥生時代の遺構からの発掘物も多いが、糸島エリアに関する歴史情報を視覚的に得ることができる唯一の施設である。ここには、怡土城の復元模型などもあり、古代山城のスケール感を体得できる。

直接的な清賀上人関連資料などは展示されてはいない。しかし、清賀上人伝承年代(八世紀前後)における、糸島周縁の歴史状況の概観を把握できる。また、三階には歴史郷土資料コーナーがあり、読書スペースも設けられている。

古代のインド渡来僧

2023年7月13日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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