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インド渡来僧(インドからの渡来僧)についてのフィールドワークリポートである。インド渡来僧・法道仙人が招来したと言われる『牛頭天王』についてや、北部九州に伝わるインド渡来僧・清賀上人については、すでに各々一冊の本にまとめている。今回は、法道仙人の開基した寺、関連地や所縁の史蹟などについての報告書として上梓している。
西暦六~八世紀前後の東西交流についての文献各種を渉猟すればするほど、現代人の想像を遥かに超える質と量にて、インドのみならず南洋諸国、さらにはペルシャ、果ては欧州各地と日本との交流事蹟が浮かび上がってくるのである。現在の仏教学会などにおいては、法道仙人に関しては民俗伝承の域を超えた論説は出てきてはいない。
それは、同時代における東大寺大仏開眼法要の導師となった、インド渡来僧・菩提僊那(ボーディセーナ)と対比しても一目瞭然である。菩提僊那は、天平八年(七三六年)に来朝し、天平勝宝四年(七五二年)に大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めている。そのことは、弟子である修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』や、『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記として残されているのである。
しかし、ほぼ同時期(仏教学者・高楠順次郎によると五十年先に法道仙人は来日している)に渡来してきた法道仙人や清賀上人に関しては、いわゆる公的な記録や伝記が残されていないのである。それでも、法道仙人に纏わる(開創・開基や関連地)諸地の数には驚きを隠せないだろう。
〇 兵庫県内 小計 二百二ケ寺
(丹波町内 四十八ケ寺)(豊岡市 一ケ寺)(朝来市 九ケ寺)(加西市 二十ケ寺)
(多可町内 十六ケ寺)(西脇市 六ケ寺)(加東市 十七ケ寺)(小野市 四ケ寺)
(たつの市 二ケ寺)(福崎町 六ケ寺)(神河町 五ケ寺)(市川町 二ケ寺)
(姫路市 七ケ寺)(加古川市 四ケ寺)(高砂市 一ケ寺)(稲美町 一ケ寺)
(佐用町 三ケ寺)(三木市 十四ケ寺)(明石市 一ケ寺)(神戸市 二十一ケ寺)
(三田市 八ケ寺)(宝塚市 二ケ寺)(西宮市 二ケ寺)(尼崎市 一ケ寺)
〇 大阪府内 小計 五ケ寺
(大阪市 三ケ寺)(堺市 二ケ寺)
〇 京都府内 小計 六ケ寺
(丹南市 一ケ寺)(与謝野郡 一ケ寺)(福知山市 三ケ寺)(舞鶴市 一ケ寺)
〇 和歌山県内 小計 一ケ寺
(有田郡 一ケ寺)
〇 三重県 小計 二ケ寺
(上野市 二ケ寺)
〇 新潟県 小計 一ケ寺
(糸魚川市 一ケ寺)
〇 石川県 小計 一ケ寺
(鹿島町 一ケ寺)
〇 富山県 小計 三ケ寺
(氷見町 一ケ寺)(砺波町 一ケ寺)(小矢郡 一ケ寺)
〇 鳥取県 小計 五ケ寺
(八頭郡 三ケ寺)(倉吉市 一ケ寺)(鳥取市 一ケ寺)
〇 島根県 小計 一ケ寺
(江津町 一ケ寺)
〇 岡山県 小計 二ケ寺
(倉敷市 一ケ寺)(瀬戸内市 一ケ寺)
〇 広島県 小計 二ケ寺
(福山市 一ケ寺)(神石高原町 一ケ寺)
〇 愛媛県 小計 三ケ寺
(東温市 一ケ寺)(西条市 一ケ寺)(四国中央市 一ケ寺)
〇 高知県 小計 一ケ寺
(高知市 一ケ寺)
〇 大分県 小計 四ケ寺
(中津市 一ケ寺)(宇佐市 三ケ寺)
総計では二百四十もの数にのぼるのである。特に兵庫県内、それも播州エリアに集中しているのがわかっていただけるだろう。これほどの数の寺院群に、法道仙人に纏わる開基・開創縁起や伝承・物語が残されているのである。
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※ 『法道仙人飛鉢伝説と海の道』御影史学研究会民俗学叢書二十三 嶺岡美見 著より。
明治時代から昭和にかけて日本におけるインド仏教学研究の先駆者であった、高楠順次郎氏は法道仙人に関する多くの論述を手掛けている。広島出身の高楠氏は、ニ十一歳の時、西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現龍谷大学)に入学している。在学中は同志を集めて禁酒運動を始め『反省会雑誌』(後の『中央公論』)を刊行してもいる。
その後、請われて神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でマックス・ミュラーに師事した。その後、ドイツやフランスにも留学。帰国すると東京帝国大学で教鞭をとり、一八九七年に梵語学講座を創設するほどの『インド仏教学研究』における大家の一人である。
そのインド仏教学の大家・高楠氏は、法道仙人の実在性について示唆する論究をされているのである。また、同時代に渡来してきたであろう、無名のインド僧侶や行者の存在についての言及もあるのだ。すなわち高楠氏は、西暦六〜八世紀頃の日本には、ある一定以上のインド渡来僧や渡来人が存在していたと認めているのだ。
では、その高楠氏による「 無名のインド僧侶や行者の存在 」についての論究部分を、氏の著作『聖典を中心としての仏教(昭和三年刊)』から抜粋してみよう。インド渡来僧・菩提僊那(ボーディセーナ)とベトナム僧・仏哲が、行基のお寺に招かれた際にインド音楽に併せて舞踊した。その音を聞いて裏の山から一人の翁が降りてきたという。この翁もインド渡来の僧もしくは行者ではないかと高楠が書いている。
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箸で調子を取って印度の歌を歌つて二人で踊り出した。踊ると云うとおかしいようですが、二人とも音楽家ですから、あり得る事です。そうすると、後ろの臥見(ふしみ)の崗に臥見の翁と號して居る人がいつも寝て居た。其翁はギロギロ目を動かして居るだけで誰が何と言っても物を言わぬ。唖(おし)だろうと云うので唖の乞食と云う事になって居た。所が其翁が今印度の音楽を聞いて、山から下りて、一緒になつて踊った。そうして、「 時なる哉、時なる哉、時至れり 」と大きな聲で歌った。
乃ち嘘では無かつたのでありますが、印度人であつたので久し振りに自分の國の音楽を聞いて下りて来たのでしょう。それからどうなったか分らぬ。兎に角そうゆう流浪の印度人とゆうものは、其時には随分日本に居った。
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また、高楠氏は同書の中で、法道仙人に関して次のようにも記述している。日本に『一切経』をもたらしたのは法道仙人であるというのである。
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今一番必要なのは、「一切経」の形式が印度から興えられた事です。之は別の人(※菩提僊那とは別の人という意味)で、五十年許り前に印度の摩陀國から法道と云う人が播州の印南郡大峯、もとの廣峯に来て『法華経』を本として法華経寺と云う寺を建て、そこへ毘沙門様を祠り又牛頭天王を祭つて居つた。法道の日本に居たのは孝徳天皇の御代の事であるが、大化五年の五月頃、天皇が御病気とゆうので法道は宮中に上つて修法する。(中略)
此法道とゆう人は佛教者として忘れてはならぬ人間だと思う。丁度婆羅門僧正(※菩提僊那のこと)が日本に字母表の形式を興える、仏哲(※菩提僊那の弟子でベトナム僧)は日本音楽の形式を興える、誰か知らんが印度美術の形式を興えて居る、それと同じように一切経聖典の根本を興えたのは此法道であつた。
其聖典に關する儀式迄も興えた。それ所でない、民衆的になつて居る祇園の祭・金毘羅の祭とゆうような儀式迄も興えた。『法華經』は或は其時に廣く教えられたのかも知れん。そうゆうように、直接非常に關係がある。之はみな印度から直接南道(南回りの海路)の橋の賜であると云つてよいのであります。
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さらに、高楠氏は別の著作『大東亜海の文化』の中で、日本と南洋海路で結ばれた諸国(インド・マレー文化圏)との頻度の高い交流について述べている。
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當時(※西暦六~八世紀頃)、日本に流泊した南洋人はその數想像以上に多かりしと思はる。聖徳太子の時の片岡山の道士(※聖徳太子と飢えた人が大和国葛城・現在の奈良県北葛城郡王寺町の片岡山で遭遇する伝説)は、達磨大師又は善無畏三蔵に非ずとするも異例の外したりしに相違なし。
越智山・泰澄に陥ひ、飛鉢の行を爲し、雪中にも安臥したりと云ふ「乱りの行者」も泰澄に随ひ入内し、宮中の人の笑ひしを見て憤怒したりと云ふ。これも南海人たりしに相違なし。役の行者に随ひし前鬼後鬼も同じく瑜伽行者たりしに相違なし。紀州熊野の湯泉窟に住した裸行者も南海人たるは推定に難からず。
印度と云ひ、波断と云へば、遠く天の彼方のやうに威するが、我が黒潮の最外圏を出れば、そのまゝ南海洲に出づる。その南海洲はインドネシャである。 印度と同じ印度馬來文明の中心である。



播州(姫路、加古川、加西、加東、揖保郡)周辺には、法道仙人開基のお寺が点在している。その中でも、ここ一乗寺はその筆頭格ともいえる場所であろう。年に二回しか一般公開しない(ただ事前予約すれば大丈夫みたいだが)法道仙人像もある。境内最奥には、法道仙人を祀る『開山堂』がある。
ここは西国三十三か所第二十六番札所である。天台宗の寺院であるので、本堂では木製(一木彫り)の『びんづる様』が出迎えてくれる。また本堂下には国宝三重塔がある。この三重塔は平安時代末期、承安元年(一一七一年)の建立とされており、日本を代表する古塔の一つでもある。屋根は、上に行くほど小さくなるように造られおり、安定感のある優美な塔である。
その他、石造宝塔など文化財が多く存在しており、特に国宝に指定されている「聖徳太子及び天台高僧画像」は有名である。民俗学者・柳田国男の生家は車で三十分圏内にある。
※ インド仏教学者の田中夕子氏は、論文・『法道仙人をめぐる信仰とその造形』の中で、一乗寺と法道仙人との関係性について次のように記述している。
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法道仙人伝説は東郷松郎氏によると平安時代末期から鎌倉時代にかけて普及しはじめ、十四世紀中頃までに急激に広がっており、内容は時代により、また寺院によって異なる。また、伝説には牛頭天王や住吉大神などさまざまな神があらわれており、この伝説は神仏習合をとげながら霊地に寺院が建立され発展していく過程の内から生まれひろがっていったのではないかと推測している。
薗田香融氏は『元亨釈書』長谷寺の条の開創者である「比丘道明。沙弥徳道乃法道仙人也」の記事に注目し、『増位山随願寺集記』や『峯相記』などにみられる徳道伝説の考察をとおして、法道伝説は平安時代末期の一乗寺三重塔建立に際し、喜捨を募る勧進活動のため長谷寺系勧進聖によりつくられたものであり、それは徳道の事蹟を核として、大陸の飛鉢説話がつけ加えられて、一乗寺でつくられたのではないかと推測する。
姫路市の広峯神社に伝わる伝説の一つには、天平五年(七三三)吉備真備が鎮祭したことに始まるとある。また、播州を中心に多くの寺院を開基した、インドからの渡来バラモン僧・法道が牛頭天王をこの地に招来したことを始原とする説もある。いずれも、神秘的な伝承伝説(法道は空鉢伝説。吉備真備は陰陽道)に彩られた幻想的世界を感じさせてくれる。
吉備真備により、インド祇園精舎の守護神である牛頭天王と須佐之男命を同一であるとする説が流布されていくとも伝えられている。この説によれば、真備が唐から帰国する途中、播磨の沖で陸を眺めると、気高く崇高な峰が見えた。あまりに脳裏に焼きついていたので後日登ってみると、一人の老人が現われ、「自分は、武塔天神の化身、牛頭天王である。民を守るためにこの峰に登って久しく住んでいる。速やかに自分の事を流布せよ」と言ったという。
そこで真備はこの播磨の広峯に牛頭天王社を造営し、武塔天神が降臨していると宣言したという。その武塔天神(牛頭天王)が降臨した場所が、神社境内の裏手にある白幣山(はくへいさん)山頂にある磐座(※写真あり)である。広峯神社へ参拝しても、この白幣山まで行く人は少ない。というのも、アプローチ道(※写真あり)が陰陽道御師(おし)らの住んでいた廃屋が点在する道なのである。現代人には、ある意味で『薄気味悪さ』を感じてしまうのだろうか。でもその薄気味悪さが、神秘世界へのゲートウェイでもあるのだが。
インド渡来僧・法道仙人と山岳修験道との関連は後にも記述する。そして、法道仙人と陰陽道との関連性もここ広峯神社を介して想起せねばならないと強く思うのである。吉備真備は播磨陰陽道とも深い関りを有する人物である。さらに、東大寺開眼法要の導師となったインド渡来僧・ボディーセーナの来朝時に同じ遣唐使船に乗船しているのである。
吉備真備自身、半島からの渡来系氏族を出自としている。二度にわたる入唐も当時とすれば非常に珍しい体験者であったはずだろう。当時の唐には、天竺(インド)のみならずペルシャや欧州、南洋諸国などとの往来が盛んであった。想像を逞しくすれば、吉備真備と法道仙人は知己の間柄ではなかっただろうかと思うのである。
明治の仏教学者・高楠順次郎氏によると、法道仙人は香川県の金毘羅山(象頭山)を経て、広峯山にて寺を開山したということである。それは、吉備真備とボーディセーナが帰朝・来朝する半世紀ほど前のことであったらしい。そこから推測すると、広峰神社の奥の院である白幣山の磐座は法道仙人が関係し、その後知己であった吉備真備がその地に祭儀所を建てたという仮説は成立しないだろうか。
いずれにしても、広峯神社のある播州という土地には、法道仙人に所縁のある寺院や関連地が国内で最多に存在している。古来、播州は渡来系氏族が拠点としていた歴史を有している。瀬戸内に面して海上交通の要所であり、また山陰へと抜ける街道拠点でもある。そして、都(奈良や京都)とは、近すぎず遠すぎない程好い距離で接しているのである。新しい文化や情報は、中央に入る前にこのような土地で咀嚼する為に一旦は留まったのではないだろうか。
牛頭天王に関して各地をフィールド調査していると、京都のみならず全国各地にて催される『祇園祭』のオリジンについても、興味深い説に出会ったりもする。下記は、その一説からの抜粋である。
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祇園祭りの山鉾巡行のルーツを南インド・タミール地方のクマーリー信仰に置くという。少女を祭主とする民俗行事だそうだ。このクマーリーを祀った有名な寺がインド最南端のコモリン岬にあり、ここの牛頭山のルーツであるマラヤ山があるとのこと。 『大唐西域記』にマラヤ山について「高い崖に嶮しい峰、洞穴の様な谷に深い谷川がある。」などと記されている。このような景色は日本では熊野地方(花窟神社)や南朝鮮の海岸、済州島の東の小島などがよく似ていると指摘される。
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※クマリという少女神を祀り山鉾巡業をする祭りは、ネパールのカトマンズで幾度かで会っている。
〇 素戔嗚(すさのお)神社
沼名前神社以外のニつは、まさにスサノオにダイレクトになる神社名である。『備後国風土記』には、『蘇民将来伝説の本拠地』として、この神社があげられている。蘇民将来とは、牛頭天王伝説と大きく関係する人物の物語である。その蘇民将来伝説の始原は、この神社である旨、備後風土記は記しているのである。
広い境内の中には、大きな巨樹・神木が何本もその存在感を示している。そして、茅の輪くぐり発祥の地との石碑があり、その背後に蘇民神社と疱瘡(ほうそう)神社がある。疱瘡神社はまさに、疫病に関係する神(牛頭天王)が祀られている。牛頭天王とは、インドの祇園精舎の守護神なのであり、日本各地の『祇園社』や『祇園』という町名の多くは、牛頭天王に関係していると考えられる。
〇 須佐(すさ)神社
往古より”小童(ちさ)の祇園さん”と崇められている。創建は不詳。社伝によると四十九代光仁天皇の宝亀五年(甲寅)四月(七七四)、天下に疫病蔓延人心恐々たる時、小童(ちいさいわらべの意)があらわれて、”我は須佐之男命の化身であるが、当地は昔から自神の鎮座の地であるが、年積りて祭祀もすたれ、祀る人もないのが甚だ残念だ、今復活して我を祀るならば、この里人等は悪病に悩まされることは無いだろう” と託宣があり、社殿を再建と伝わっている。
毎年七月に催される祇園祭では、五百年前に作られ県の重要文化財に指定されている重さ一点八トンの朱塗りの大型のみこしが練り歩く。さらに興味深いのは、この神社からさほど遠くない場所に、武塔(むとう)神社があることだ。(武塔天神)とは、まさに牛頭天王の化身である。
※ 武塔神社=広島県三次市甲奴町小童
〇 沼名前(ぬなくま)神社(※日本三大祇園社の一つ)
鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命をお祀りしている。今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀りになったのが始まりとされている。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになった。須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆町内の関町に鎮座していたが、慶長四年の火災で焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治九年綿津見神を合祀し、相殿として奉斎されている。
家の門前に、注連縄と対になった「蘇民将来子孫之家門」と書かれた護符(※写真)を目にすることがある。その蘇民将来(そみんしょうらい)とは以下のような説話上の人物である。
遙か昔のこと、頭に牛の角が生えた容貌魁偉な牛頭天王(ごずてんのう)が妻探しの旅の途中に立ち寄った村で、裕福な巨旦将来に宿を請うたところ、邪険に断られた。しかし、巨旦の弟の蘇民将来が貧しいながらもこころを込めてもてなしたことに感謝して、牛頭天王は彼に「茅の輪を身に着けておけば、お前の一家はすべての災厄から逃れられる」と言い残して立ち去ったのである。
やがて天王は、無事妻を娶って帰る途中に件の村を再び訪れ、茅の輪を着けた蘇民将来の家族だけを残して、巨旦将来一族を根絶やしにしてしまったという物騒な話なのである。牛頭天王は、神仏習合でスサノヲとも解釈され、京都の八坂祇園社のご祭神として知られる。彼の無慈悲で暴虐な振る舞いは、流行り病・疫病を象徴しているともいわれ、病魔退散を祈願する祇園祭の起源にもなっている。
ちなみに牛頭天王には八人の王子がおり、東京の八王子市の地名の由来ともいわれている。この説話の原典は、密教の「武塔天神王」や『備後風土記』に出てくる武闘神である「タケタフカミ・武勝神」とか、また朝鮮半島の土俗宗教「巫堂(ムーダン)」との関連が説かれたりもしている。中国山東省の八つの神の一柱・兵主神(ひょうずしん)は、別名を蚩尤(しゆう)という牛頭人身の荒ぶる神で、石や金属を食べると信じられたことから、この神を鉱山開発や冶金に関わった一族を例えたのではないかとも考えられてもいる。
この山東省の八神を芸能化したものが、後世の中国王朝の宮廷儀式の余興である百戯や散楽として催行され、そのなかの角觝(かくてい、角力、相撲)という格闘技は、牛の仮面をかぶって行われたということで、まさにこの兵主神こそが蘇民将来説話の原典ではないかともいわれている。そして山東八神を連想させる八幡神を奉ずる渡来系・秦氏は、鉱山の探索や貴金属の精錬を得意とし、養蚕や紡績のほか、散楽などの芸能に関わる職能民を束ねた一族であったので、牛頭天王の説話は、秦氏とともに広まったのかも知れない。
現代でも、雅楽や能楽に携わる人には秦氏の後裔を名乗る人たちがいる。また、かつての黄金郷の岩手県黒石寺などで牛頭天王を祀る「蘇民祭」が盛大に行われることも納得できる。天平時代から銅の採掘場として知られていた福岡の香春(かわら)町は、古代朝鮮語の「カグポル(金の村)」に由来するといわれ、また記紀神話の火の神「カグツチ」は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を指し、もしかしたら、良質な陶土の採掘で知られた橿原の天香具山(あめのかぐやま)も、どこかで秦氏と関係していたのかもしれない。
中国の秦王朝に起源を持つと称した秦氏は、山背国の太秦(うずまさ)に本拠地を構え、長岡京や平安京などの山背遷都に大きな影響を与えたと考えられている。そして八幡信仰とともに、歌舞音曲の芸能民や職能民を束ねて、日本の歴史に闇然たる影響を与え続けていたのである。
牛頭天王を日本へ招来したインド僧・法道は、兵庫県の赤穂に上陸しその後姫路の広峰山へ籠るのである。奇しくも、世界最古の舞台芸術「能」の祖とされる渡来人・秦氏の族長的な人物、秦河勝(はたかわかつ)が晩年をこの赤穂近くの坂越という土地で過ごしている。
白滝山に伝わる霊異記には、次のような事が記述されている。
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抑当山は古代に於ける山岳信仰の跡にして美事なる祭祀遺跡なり。さてこれ仏法に依りて開き給ひしは実に法道上人なり。上人は天竺の人にして霊鷲山の仏苑に住みしが、中国に渡り百済国を経て大化の頃本邦に来朝せられけり。上人は今昔物語、宇治拾遺物語や、信貴山縁起絵巻に見るが如き千手空鉢の法を得たまいしより空鉢上人或いは満来上人とも稱せられぬ。
木原の鉢ヶ峯、深安郡中條の円通寺、神石郡阿下の星居山にも併せて開き給いしと傳ふ。始め上人は鉄鉢を恣するや、鉄鉢は空をしのいで自ら飛び、山下の布刈瀬戸を往来する群船を廻りて鉢米を受けて山上に帰り来ると云ふ。或る時沖を通る大舟ありしが虚空より舞下りたる鉄鉢の中に舟人邪心を起して鰯を入りしが、その舟大きく波にゆれて海底に沈みけるとかや。かくてこの瀬戸を山伏の瀬戸と云ふ。法道上人は弟子白道上人をこの地に、万慶上人を鉢ヶ峯に残して自らは播州書写山に赴き給しと傳ふ。白道上人は細島にすみしよりこの島を山伏島とも云うとぞ。
下りて永禄十一年海の驍将にして東亞の天地に其の名高き村上新蔵人吉充この地の青木に本城を構えるや当山を控えの要害とし峯に観音堂を設けて常楽院静金上人を居らしむ。
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この伝承によると、法道仙人は弟子の二人(白道上人・万慶上人)に空鉢の術を伝授後、それぞれに担当地区を授けた後、兵庫県播州の書写山へと向かったことになる。白道上人には、三原市の沖合に浮かぶ『山伏島(現在の細島)』。そして万慶上人には、三原市木原にある『鉢ケ峰』を担当地区として割り当てたのである。
三原市木原にある観音寺にてヒアリング調査した際に、ご住職からいただいた『鉢ケ峰のご案内』には次のような事が書かれている。※鉢ケ峰は観音寺の奥の院のある場所である。
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鉢が峰は、今から一千二百年の昔、「万慶上人」という学徳兼備の高僧が、風光にすぐれた霊地であることをお喜びになり開山されたものです。上人は、この山にお堂を建立し、自ら彫刻した「虚空蔵菩薩」を安置して修法に務めておられました。上人の持する鉄の鉢は、常に自ら空を飛び、下の「梅が鼻」の沖を通る船に至り、供養の米などの喜捨を受けて山に帰ったと言われています。このことから、この山が「鉢が峰」と呼ばれることになりました。
ある時、越後の「秦」の某とかいう者がここの海を通った時、鉢が供養を乞うて来たが、彼は供養せずかえって悪口さえあびせかけたところ、舟はたちまち沈没し水夫らはようやく陸にはい上ったということです。そこで、彼は深く懺悔し、上人のもとに至って弟子となり、名を「信浄」と号して多年修行に励みました。
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白滝山の項にて既に記述しているが、備後地方に伝承されている法道仙人の伝説では、弟子二人にそれぞれの担当地区を授けたのである。この万慶上人は、鉢ケ峰を授かっている。奥の院には、その万慶上人ゆかりの五輪塔などもある。地元では、この五輪塔に家から持参した水をかけ、落ちる水を汲み取り飲んだり、頭や身体につけるとご利益があるとされている。
また、奥の院までは結構な登坂となるが、奥の院まで到達すると眼下には瀬戸内海の多島美世界が展開するのである。そして、その中には、法道仙人のもう一人の弟子・白道上人が担当した『山伏島(現在の細島)』や、白滝山のある因島も至近距離に眺めることができる。
インド渡来僧・法道仙人は、瀬戸内海周縁の各地のお寺を開基したという縁起をもつ。備後地方においては、これまで因島にある白滝山や三原市にある鉢ケ峰などを記述してきた。鉢ケ峰に所縁のある観音寺のご住職によると、鉢ケ峰から備讃瀬戸(三原市や尾道市など瀬戸内海沿岸地域)を通過する船舶に、法道仙人はお米を乞うために鉢を空中から船へと飛ばしていたという。その鉢が、一旦は因島の白滝山へと向かい、その後に神石高原町にある『星居山』へと飛んで行ったという伝説が残されているらしい。
千七百年代に書かれた、『精土山星居寺山記』では、山頂に虚空蔵菩薩を祀るお寺があり、法道仙人も滞在していた記述が見られるという。現在、山頂エリアは森林公園となっており展望台などが建っている。その展望台のすぐ下には、立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。この宝篋印塔は、なんと性空上人の墓であると伝えられている。この性空上人とは、兵庫県姫路市にある書写山・円教寺を開基した平安時代の天台宗僧侶である。備後地方での法道仙人伝承によれば、法道仙人は備後地方から書写山へと向かったとされている。この偶然はいかに考えられるのだろうか。
また、この性空上人は、修行時代に北部九州の背振(せぶり)山山系を彷徨しているのである。背振山山系といえば、九州にてのフィールドワークレポート(インド渡来僧Ⅰ)で記載している、もうひとりのインド渡来僧・清賀上人の地盤エリアでもある。時代背景の違いなどはあるが、北部九州での清賀上人=性空上人、そして神石高原町にての法道仙人=性空上人、さらには、播州地方(書写山・法華山)にての性空上人=法道仙人、というリンクの輪が繋がっていくのである。
また、彼らをリンクさせるもうひとつのファクターは、山岳修験道ではないかとも思えてくる。
背振山は九州でも有数の修験エリアである。星居山でも修験者が多くいたらしい。そして、鉢ケ峰(三原市)の沖合にある『細島』は、かつて『山伏島』と呼ばれていたようだ。この山伏島には、法道仙人の弟子である白道上人が住んでいたともいわれている。
※ 法道仙人の立像がある摩耶山天上寺は、現在でも各派の修験者が訪れていると聞いている。
朝日山・大日寺には次のような伝説が伝えられている。
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『播磨鑑』に次のような話がある。お寺を開いたのは法道仙人というインドから来た坊さんで、本尊も一緒に持って来たものだという。この仏像は始め家島の堂崎に安置してあった。仙人は空鉢を海上に飛ばして、往来の船に供米を乞われていた。
ある時、一人のいたずら者が、この鉢にいわしを投げ入れたところ、鉢の底が抜け、いわしは海中に落ち、鉢の底は元通りとなった。そしていたずらをした者の船は波間に沈んでしまった。その時より観音様は朝日山に移られ、今の本尊になったという。鉢は網干の沖の浜へ流れつき、現在大覚寺(姫路市網干にある浄土宗寺院)に伝わっている鉄鉢がそれだという。
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大日寺の本尊は、千手観音像である。大日寺には、昔三十坊余りの房舎が建ち並んでいた程の大伽藍で、鎌倉時代には心寂上人という智識のある坊さんが居られた。しかし、天文年中(一五三二~五五)に火災に会い、お堂も宝物も縁起もことごとく焼けてしまった。本尊も危くなったが、その時の坊さんが、ふだんでは二・三人がかりでも動かぬ仏像を軽々と背負って運び出したという。
心寂上人は『峰相記』によると、法然上人の弟子、信寂上人のことで、招かれ東の麓に堂を作り、 坊舎を建て一時播磨における浄土信仰の中心になったことが記されている。また、朝日山八十八m山頂には、法道像を安置する歓喜天堂がある。
高さ四㍍、周囲六.六㍍もある巨岩である。幻想的な空気が漂う河上神社近くから愛宕山合面へと登る山道を約十五分程度。案内標識に従い山腹をトラバース気味に進むと、突然眼前に巨大な岩塊が出現する。大きな岩塊が左右に展開し、その間をすり抜けることができる。右側の岩塊の面に、神域を表す注連縄も張られている。
法道仙人によると、「善人が押せば動き、悪人が押してもびくともしない。この岩を押して動かない時は自分に邪心があるから、罪悪を懺悔して正直慈善の人に立ち返りなさい」と人の心を試させたと言い伝えが地元には残っているようである。
根本中堂の裏手には、清水寺の名前由来とされ、法道仙人の所縁の伝説井戸がある。名称は、おかげ井戸「滾浄水」といわれている。この井戸に、我が顔を映せば、寿命が三年延びるという伝承が伝えられている。
札馬大歳神社の境内にある。まるで妖怪の手形のようである。これは、古墳時代の石棺を利用したものと言われており、「手跡石」とされている。また、大きな岩の塊が「腰掛岩」である。
法道仙人が投げたといわれるのが、『投げ松』である。地元の方々によって、今は祠の中に納められている。巨大な松は、地元での神木として祀られてきた歴史がある。
また、『駒の蹄(つめ)』は、多くの寺院に開基伝説を持つ法道仙人が馬で空を駆け、途中この場所に降り、後ろ脚の蹄の跡が岩に残ったと伝えられている。
堺市の東部に広がる新興住宅地。その裏手に残る丘陵地にある『法道寺』。大阪府下では少ない、法道仙人開基の寺である。この丘陵の頂上部には、法道仙人ゆかりの(鉢)が納められている『鉢塚』があるという。しかし、現在は立ち入り禁止になっている。
山頂部に隣接するバス停の名前が『鉢塚』であるのが唯一の名残りであろうか。文献によると、法道仙人はこの丘陵部から、大阪湾を行き交う船に『空鉢』を飛翔させていたそうである。
摩耶山天上寺は、大化二(六四六)年、法道仙人によって開創された古刹である。盛時には山陽道における八宗兼学の学問寺(宗派を超えて仏教を講究する寺)として、三〇〇余りの子院僧坊を擁する摂津第一の巨刹でもあったという。その後、弘法大師が唐に留学した際、女人守護の女身仏として、崇拝信仰されていた摩耶夫人(まやぶにん 釈迦の生母)像を日本に請来し、当寺に奉安されちる。それ以来、当山を「仏母・摩耶山」とよび、寺の名を摩耶夫人の昇天された忉利天にちなんで「忉利(とうり)天上寺」と号するようになったといわれている。
そして、この寺の開基は法道仙人と言われており、境内には仙人の像が建っている。また、この寺は六甲修験道の聖地ともされており、ご住職にお聞きしたら、現在でも様々な流派の山岳修験者が訪れるという。やはり、法道仙人ゆかりの地は、修験道とも大きくデュープする場所が多いのである。寺でいただいた開創縁起には次のように記述されている。
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当山は大化二年(西暦六四六年)に、梵僧の法道仙人が開かれた孝徳天皇の勅願寺で、弘法大師を中興の祖とする古刹であります。縁起によれば、法道仙人は仏法を弘めるために中国に渡られましたが、すでに中国では仏教が隆盛でありました。そこで、さらに東海の島国・日本へ仏教を伝える決意を起こされました。そして西明寺の道宣律師より釈迦感成の秘仏十一面観音の黄金仏を授かり、来朝し難波の浦に着かれました。仏法を伝えるために上陸されたので、伝法島という名が今に残っています。
仙人はこの地に立って四方を見渡されました。すると、戊亥(北西)の方角に五色の雲のたなびく霊山を発見されました。その霊山こそ、仏法有縁の聖地であり、秘仏を奉安し、仏教伝道の根本道場とするにふさわしいと確信されました。かくて、孝徳天皇の勅願を受けて当山を開創し、伽藍を建立して「切利天上寺穴、通称・天上寺)と名付けられました。これが摩耶山天上寺の起こりであります。なお、山の名を「仏母摩耶山」(通称・摩耶山)と名付けられたのは当山中興の祖・弘法大師であります。
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※ 西明寺の道宣律師とは、中国唐代の律宗の僧侶であり南山律宗の開祖である。(五九六年~六六七年)
さらに、山岳修験道との関連性についても記述されている。
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仙人は当山を山岳修験の根本道場とされ、摩耶山を中心に六甲山や再度山などの山系一円を巡る回峰行を開創されました。当山が摩耶修験の総本山と言われてきたゆえんであります。当寺では、観音参り。仏母参りの折りに、この法道仙人像と仏足石とをあわせて拝む慣わしが生まれ、さまざまな願かけがなされてきました。殊に、お釈迦さまと法道仙人の神通力や健脚や福寿などにあやかり、足腰健全・無病息災・息災延壽・気力(自信)回復・神仏加護などに効験があらたかであるという信仰が根づき、そのご利益に浴された方々は数えきれないほどであります。
(平成二十九年五月。天上寺による第二刷より抜粋)
六甲比命大善神社(ろっこうひめだいぜんじんじゃ)にある『雲ケ岩』。この神社は、法道仙人が創建した吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)の奥の院である。この奥の院境内(と言っても一面の森であるが)にある、雲ケ岩に毘沙門天が降臨したとされている。
この森の中にある磐座(いわくら)は、一説には天然に出来たものではなく、縄文中期(紀元前五千年頃)のころ、縄文人たちの手によって巨石を積み上げて出来た人工の磐座とも言われている。
九州においてはの法道仙人関連地は意外にも少ない。とある調査によれば、四ケ寺のみ。それもすべてが大分県中津市もしくは宇佐市にある。そして、四ケ寺中の三寺は曹洞宗、残る一寺は黄檗宗という禅宗系なのである。その中でも名が知られているのが中津市にある羅漢寺である。
山号は耆闍崛山・羅漢寺(ぎしゃくつせん・らかんじ)。中津市本耶馬渓町にある曹洞宗の寺院である。この羅漢寺は、渓谷美で知られる耶馬渓を代表する景勝地としても知られている。それは、巨大な岩壁に伽藍が融合し、四季折々に独特な趣を演出しているからでもある。無漏窟(むろくつ)に坐す日本最古の石造五百羅漢像や、普済楼(ふさいろう)の千体地蔵尊などをはじめ、数千体の石仏を境内の岩屋に安置されている。
羅漢寺の石仏群は国の重要文化財に指定されている。(平成二六年八月二一日指定)
2023年7月27日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。