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ヨーロッパの歴史を語る上において、古代ギリシア文明から説き起こす作業は必須であろう。それは現代ヨーロッパ文明の直接の原点であるローマ文明の「学芸の師」がギリシア文明であったからにほかならない。ヘレニズム諸国家やメソポタミア文明など様々な先進地中海文明を吸収して強大な国家を築きあげたローマ帝国。だが、その国家観や国家思想の本質に関わる哲学・美学は古代ギリシア文明から多大なる影響を受けているのである。特に、神話、哲学、美術などの領域において明白となっている。ローマ帝国に征服されて消滅したギリシア文明だが、その神々は逆にローマの神々を吸収してギリシア・ローマ神話として成立していったのである。また、オリンピック大会が古代ギリシア起源であることは周知のことであるが、聖火リレーの起源はランパデドロミアと呼ばれる古代ギリシアの松明競争、さらには、マラソン競技はマラトンの戦い(紀元前四九〇年・ペルシア戦争)で祖国に殉じた兵士たちを記念し供養するために始められた競技であったのだ。
ギリシアは地中海の東部、アドリア海・エーゲ海・黒海などに囲まれ、またバルカン半島の南端部に位置する。まずエーゲ海域が交易のルートとして早くから発展し、オリエント文明の影響を受けながらエーゲ文明が生まれた。その前半はクレタ島を中心とした海洋文明であり、クレタ文明といい、後半は本土のミケーネを中心としたミケーネ文明とされる。
ともに青銅器文明であるが、クレタ文明はギリシア人ではないアジア系の海洋民族が作った海洋国家であり、インドヨーロッパ語族のギリシア人が前二〇〇〇年紀を通じて長期にわたって南下してギリシア本土に定住しミケーネなどの小王国を作った段階がミケーネ文明である。それぞれ線文字Aと線文字Bという文字も使用しており、後者は解読されている。
前一二〇〇年頃、恐らくは海の民の侵攻などによってミケーネ文明は崩壊し、いわゆる暗黒時代となったが、その間に先住のイオニア人の他に北方からドーリア人が移住してギリシア民族が形成され、さらに鉄器文化への移行とともに人々は、前八世紀ごろから集住を開始して都市国家(ポリス)が生まれた。
ギリシアは平地や大河には恵まれず、山地が多いことから、大国は出現せず都市国家を発展させ、さらにギリシア人は、地中海各地に植民市を建設し、地中海交易で経済を発展させ、それと共に中産市民階級が成長し、民主政治を実現していった。
最も有力であったアテネでは、王政・貴族政・僭主政をへて市民が重装歩兵としてポリスの防衛の主体となることによって民主政を確立していった。一方、スパルタは強固な軍国主義をとりアテネに対抗した。前五世紀前半のペルシア戦争はポリス民主政の危機であったが、重装歩兵戦法や三段櫂船を駆使してペルシア帝国に勝利し、ポリス連合軍の中心となったアテネが有力となり、特にペリクレス時代にアテネ共和政の全盛期を迎えた。
アテネはデロス同盟の盟主としてギリシアの覇権を握ったが、ポリス間の対立が次第に深刻となり、前五世紀後半にはアテネとスパルタのペロポネソス戦争となり、スパルタが勝利したが、その後もポリス間の抗争、衆愚政治による政治の混乱などから、ポリス民主政は次第に衰退していった。
この間、北方のマケドニアが急速に台頭、フィリッポス二世が前三三八年にポリス連合軍をカイロネイアで破り、ギリシアのポリス共和制の時代は終わる。ただし、スパルタ、アテネなど有力なポリスの形式的な都市国家としての独立は維持された。
マケドニアのアレクサンドロス大王は、前四世紀の後半、東方遠征を開始してペルシア帝国を滅ぼし、東地中海からインダス川流域におよぶ大帝国を建設した。これによってギリシア文化はオリエント文明と融合することとなり、ヘレニズム時代が出現した。大王死後もギリシア系のヘレニズム国家に継承され、ギリシアの地はアンティゴノス朝マケドニアが統治した。ギリシア諸都市の中にはマケドニアに対抗して同盟したものもある。前三世紀前半にペロポネソス半島北部のアカイア地方の諸都市はアカイア同盟を結成した。スパルタとアテネはマケドニアにも、アカイア同盟にも属さず独立を維持したが、その両勢力のあいだで常に不安定な状態だった。
前二世紀までにイタリア半島を統一したローマは、東地中海にも進出、マケドニア戦争によって前一六八年にマケドニアを滅ぼし、ギリシア支配に乗り出した。ついで前一四六年にはアカイア同盟の一員であったコリントを征服、破壊した。さらに、小アジアのミトリダテス戦争に際して遠征したローマの将軍スラは、前八六年、抵抗したアテネを攻撃し、制圧した。これによってアテネの政治的自治は終わりを告げた。ローマ帝国のもとで、ギリシアは属州として支配されることとなった。
紀元前四三八年に完成した神殿は、重厚なドーリア式で建築されている。神殿の一部には優雅なイオニア式も見ることができる。創建当時には、アテネの守護神である女神アテナ像が祀られていたといわれている。「パルテノン」の名称はギリシア語の「παρθενών」(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたといわているが、その部屋の所在については諸説ある。

このエリアは、アクロポリスの麓に広がり、特別保存地域として古い街並みが遺されている地区でもある。細く入り組んだ路地、小さな古い家々の風景は歴史的な情緒も感じられ、現代のアテネが再開発される前の古い町の面影を残している。この地区には建築規制がかけられ、その歴史的な景観が変わらないように配慮されてもいる。細い道が迷路のように走っており、この間に迷い込むのが楽しみ方の一つでもある。ネオ・クラッシック様式の建築物やビザンチン時代の小さな教会も見事である。






アテネのアクロポリスの発掘現場から出土した文化財を中心に収蔵・展示している考古博物館である。青銅器時代から古代ギリシア・ローマ属州・東ローマ帝国時代を中心とした工芸品などを収蔵している。
一四〇〇〇平方メートルの展示スペースに四〇〇〇点近くが展示されている。場所は、アクロポリスの南西斜面に位置し、古代の「聖なる岩」に向かう道の上にある。パルテノン神殿との直線距離はわずか三〇〇ⅿ程度である。





この博物館は、とうてい一日では廻り切れない。しかし、そこはなんとか踏ん張って約半日くらいをかけてじっくりと巡ってみたい。歴史の順に展示されてあるが、その中でも特に、『先史時代』と呼ばれる年代の発掘物などに注視する時間割りを試みたい。ギリシャ時代といえば、都市国家などにスポットライトが当たりやすいが、その都市国家時代の前が先史時代である。日本でいえば『縄文時代』とも重なる年代である。
人間が集団組織化し都市を形成する前には、どのような精神構造であったのかを、日本の縄文文化とも対比・比較してみたい。この国立考古学博物館は、やはり欧州文化のルーツを自認しているのか、『全面的に撮影OK』なのである。やはり地球規模での俯瞰的思索を行おうとすれば、悔しくても、この考古学博物館の前に、頭を垂れなければならない。
いくら写真集や学術論文を読んでも、やはりその土地の匂いを纏うナマの発掘物には到底かないっこないのである。明治時代に来日した、ラフカディオ・ハーンや、フェノロサ、イザベラバードらが、虚心をもって当時の日本の基層文化を眺めたように、出来うる限り、(自律的に組み立てる複合的アングルからの目線と、絶えずシャッフルできる虚心)をもって現場に臨みたいと願うばかりである。
ギリシャのアテネ北東部にある海抜二七七ⅿの丘で、アテネ市街地では最も標高が高い丘である。古代ギリシア語の発音に基づきリュカベットスとも表記されている。この丘の山麓は松の木で覆われており、二つある丘の頂上には一九世紀に建てられたゲオルギオス聖堂やリカヴィトス劇場、レストランなどがある。
そして、お勧めはこの丘からの「夕暮れ時のパルテノン神殿」である。アテネの市街地やエーゲ海とともに、神殿が浮かび上がるのが見事である。ケーブルカーもあるが、徒歩にて丘の上まで歩いてみるのも一興である。
アテネの町は昔ながらの商店街やバザール(市場)などが点在している。それは、大型スーパーなどの建築規制もあるだろうが、アテネ市民のゆったりとした日常時間を好む生活が背景にあると感じられる。
市場では、その場で肉の解体販売などが行われ、早朝から活気にあふれている。そして豊富な果実類や花々も店先に並んでいる。また、骨董的な土産物屋も軒を連ねており、現代と過去とが雑居する魅力にあふれている。
なんといっても、夜のアテネの魅力はライトアップされたパルテノン神殿であろう。リカピトスの丘から眺めるのも一興であるが、町中から夜空に浮かび上がる神殿を見上げるのもお勧めである。
町の至る場所には、夕暮れとともに屋外にテーブルを出し商売をはじめる飲食店もある。アテネ市内には過剰なネオンサインなどは無いので、テーブルの上のキャンドルとともに、パルテノン神殿を満喫できる楽しみがある。
この修道院は九四五年に聖人ルカスによって創建された修道院である。アラブ人によって侵略されたクレタ島にことを、「東ローマ帝国のロマノス皇帝が征服する」とルカスが生前に予言していたことで、彼への崇拝が高まったといわれている。その後、この修道院は有名な巡礼地となり繁栄していくのである。ビザンティン時代の石材を使った建築と、内部の豪華なモザイク画が魅力的な建物である。門をくぐると前庭があり、現在も修道士たちが暮らす独居房がある。その先にはギリシア十字に構成された最も典型的な中央聖堂がある。この聖堂は、複合型スクィンチ式教会堂と呼ばれる中期ビザンティン建築特有の建築で、現存する建物の中でも傑作と評されている。
アポロン神殿の巫女による神託は、古代ギリシアの各ポリスで重視され、共通して従うこととされていたのである。神殿の入口には、「汝自身を知れ」という有名な格言が掲げられていたという。また、「分を越えるなかれ(過重なことを求めてはいけない)」と「無理な願いはしてはいけない」といった意味の言葉も掲げられていた。紀元前五世紀の後半、アテネで活動していたソクラテスは、「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の真理に至ったとされている。
ギリシャ北西部のテッサリア地方にあり、奇岩群とその上に建つメテオラ修道院群がある。メテオラとは、ギリシャ語の「メテオロス=中空に浮かぶ」に由来していると言われている。現在では、二四の修道院建築物のうち、六つは現在も修道院としての活動を続けている。奇岩群は、六千万年前頃から海底に堆積した砂岩が隆起してできたものだと言われている。標高は二十mから六百ⅿまでと様々である。その奇岩群の上から俗界風景を見下ろしながら、修道士は日々修行の日々を送っている。
エーゲ海東南部のペロポネソス半島東岸に位置するギリシャ領の島。サロニカ湾とアルゴリコス湾の間にあり、サロニカ諸島に属する。アテネやピレウスとは定期高速船で結ばれており、観光地として既に確立されている。島は自動車乗り入れ禁止となっており、観光客は徒歩かロバに乗るかして島を回る。イドラという島の名前の由来は、古代ここに泉があったので、その「水」(ギリシア語: Υδρέα、ローマ字:Hydrea)からきている。現在は干上がってしまい、飲料水はボートで本土から運ばれてくる。島内には荒涼とした丘陵地帯が広がり、その中に空き家となった農家や、ギリシャ正教の修道院がある。
ポロス島とペロポネソス半島は、わずか四百mの海峡で隔てられている。この島は、偉大な作家ヘンリー・ミラーが彼の作品「マーシーの巨像」で賞賛した美しい島でもある。ポロス島は大小二つの島で構成されており、現在は小さな橋でつながっている。表面積は三十一km2、人口は三七八〇人前後である。多くの富豪やスターによる別荘地が多いことでも知られている。
アファイア神殿は女神アテナに捧げられており、エギーナ島の丘の上にある。古代ギリシャの古代建築の代表的な一つとされている。紀元前四八〇年に建てられ、修復者の技術により、元の三十二本のドリアの柱のうち二十五本が残されている。
寺院の東には、舗装された小道と寺院へのスロープがある大きな祭壇があったといわれている。北側には寺院の屋上から雨水を集めるためのタンクがある。そのタンクの近くには、上部にスフィンクスがある大きな柱があり、この柱は紀元前六百年頃に建てられたと考えられている。
アギオスネクタリオス修道院は、近代ギリシャの聖人として知られ、神学者・哲学者・教育者・奇跡の治療者でもあった、アギオスネクタリオスが晩年隠棲していた場所である。彼は、修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られている。禁欲主義者で神秘主義者などと称されるほどの多才な面があったともいわれている。十三年間暮らしこの地で眠りについたアギオスネクタリオスは、教会外のプラタナスの木の下に埋葬されている。アギオスネクタリオスの墓の他、聖遺物を収容する二つの礼拝堂、アギオスネクタリオスの家などがあり、聖地としてたくさんの人が訪れている。
2023年8月5日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。