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トルコには数回(主にシルクロード遺跡の調査・地震被災支援などのフィールドワーク)訪れている。ここは、私の地球上での定点観測地点のひとつである。その背景の一つに、イスタンブールにあるとあるタワーがある。それは、ボスポラス海峡を望むことができる、ガラタ塔である。このガラタ塔界隈は、トルコでも歴史のある下町が広がっている。明治時代、この塔に毎日のように登っていた日本人がいた。
イスタンブールの虎、と呼ばれた『山田虎次郎』である。山田虎次郎は、とある目的のためにこの塔に登っていた。それは、ロシアの動向を監視するためである。トルコという国は、地政学的にも、文明学的にもやはり境界線上にあると思う。西洋人にとってみれば、この国から『アジア』が始まり、『イスラム教』との東の接点的エリアである。さらに、この国は海峡を抱えている。ボスポラス海峡は、東に『黒海』、西に『地中海』を結ぶ結節点である。
地中海は、ジブラルタル海峡を通過すると大西洋へとつながる。一方黒海は、どんづまりとなり、その最奥部分にはクリミア半島などがある。ロシアという大国は、この『どんづまりにある黒海』に、いつも悩まされてきた。不凍港を求めて南下政策をとる歴史の中で、国土の東(極東にある沿海州)はあまりに首都から遠すぎる。バルト海は、一年を通じての不凍港とはならない。そうすると、黒海のクリミア半島あたりしか選択肢がないのである。
クリミア半島から海路、外洋(大西洋という意味)に出ようとすると、まず接触するのがトルコなのである。トルコは、西洋と東洋、キリスト教とイスラム教の接点だけでなく、ロシア文明とも長らく背中越しに、肌を合わせてきているのである。それだけに、この国の動向や内情は、大きく世界情勢に影響を与えることが歴史上でも証明されている。ガラタ塔のあるイスタンブールの下町には、あらゆる国からの情報収集屋(スパイ)が集っていたといわれている。言ってみれば、ガラタ塔は、現代のバベルの塔なのかもしれない。
ややもすれば、一気に崩れかねない世界情勢の象徴的建造物といってもいいかもしれない。それだけに、このガラタ塔がシンボライズしているトルコ情勢を、私は国際動向における定点観測点としているのである。
(イスタンブールの歴史)
黒海の出入り口であるボスフォラス海峡に面し、ヨーロッパとアジアの接点にある要衝である。現在の正式な都市名はイスタンブルであるが、この町は前七世紀にギリシア人が建設したビザンティオンに始まり、ローマ帝国の都としてのコンスタンティノープルとなり、ビザンツ帝国に継承された。一四五三年、オスマン帝国のメフメト二世がコンスタンティノープルを攻略、ビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルと言われるようになった。しかし、オスマン帝国による征服後に、ただちに改名されたわけではない。オスマン朝の人々もこの町を「ベレデ・イ・コンスタンティニエ(コンスタンティヌスの町)」と呼び続けた。そもそもイスタンブルという名称そのものトルコ語に由来する訳ではなく、「イス・ティン・ポリン(町へ)」というギリシャ語の表現に由来していた。後になってイスタンブルが広く用いられるようになった。この町はローマ帝国、ビザンツ帝国、そしてオスマン帝国という三つの大帝国の帝都として栄え、「コンスタンティノープルを制する者は世界を制する」とさえいわれるほどの戦略的用地となった。
(オスマントルコ帝国の歴史)
十三世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、一二四二年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。
その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人であり、一二九九年、オスマンはガーズィを率いて小国家を独立させた。またその西のビザンツ帝国領を個々に浸食していった。第二代のオルハン=ベイはビザンツ領のブルサを奪い、一三二六年に最初の首都とした。小アジアの他の小さな君侯国を併合しながら、領土を拡大し、その間、イスラム法学者(ウラマー)を招いて国家の機構を整えていった。
最盛期の十六世紀には、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。特にスレイマン一世の時代、一五二九年にはウィーンを包囲(第一次)し、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威を与え、ルネサンス・宗教改革・大航海時代の世界史的背景となった。十七世紀からは大帝国の維持に苦慮するようになり、北方のロシア・オーストリア、西方のイギリス・フランス・イタリアの勢力がおよんでくるようになり、同時に帝国内の非トルコ民族のアラブ民族などの民族的自覚(アラブ民族主義運動)が芽生え、衰退期にはいる。
一六八三年には第二次ウィーン包囲に失敗、オーストリア軍などの反撃を受け、一六九九年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄し、バルカン半島で大きく後退した。十八世紀にはエジプトが総督ムハンマド=アリーが実質的に分離独立するなど、国力は急速に衰えるとともにオスマン帝国領を巡る列強の対立も激しくなった(東方問題)。
(現代トルコへの序章)
一九二二年、ムスタファ=ケマルの指導する大国民議会は満場一致でスルタン制を廃止(帝政廃止)を可決、メフメト六世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。なお、イスラーム教の宗教上の最高権威であるカリフも、一九二四年に廃止された。一九二三年七月、改めて連合国とローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土と主権の回復に成功、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。これによって近代トルコ国家であるトルコ共和国が成立し、同年、トルコ共和国は諸外国に認めていたカピチュレーションも廃止した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。
一八九〇年(明治二三年)九月一六日夜半にオスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本町沖にある紀伊大島の海上で遭難し、五〇〇名以上の犠牲者を出した。この時のトルコ側生存者を、日本の軍艦がイスタンブールまで送っていくことになる。イスタンブール到着は遭難の翌年一八九一年一月二日である。司馬遼太郎著・「坂の上の雲」の主人公である秋山真之は、この際に海軍軍人として日本軍艦に乗り込んでいる。トルコの兵士を日本の軍艦が送っていく際、スリランカに立ち寄っている。その時のスリランカでは、浄土真宗の二人の僧侶が上座部仏教の勉強をしていた。二人の名前は、小泉了諦(浄土真宗誠照寺派)と、善連法彦(浄土真宗仏光寺派)である。善連法彦は、仏教学の泰斗・南條文雄の親戚筋である。二人の若い浄土真宗僧侶は、艦内にいるトルコ兵士を説法にて慰めたのである。その慰めと励ましに感銘を受けたトルコ側は、この二人の僧侶をトルコへと誘うことになる。その僧侶らは、日本の軍艦に乗り込みトルコまで同乗した。さらに二人はフランスのパリへと向かうことになる。パリでは、知識人・著名人の前で報恩講を執り行ってもいる。
和歌山県串本沖にて、台風による転覆したトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難現場は、現在記念公園になっている。その公園内には弔魂碑があり、その碑文を記しているが浄土真宗西本願寺第二十二世・大谷光瑞師なのである。浄土真宗の若い僧侶がトルコとの縁を結び、そして宗門宗派を越えて、光瑞師によって慰霊碑文が記されたのだろう。また、前述した山田虎次郎は、この遭難事故における義援金を日本各地で集め、単身イスタンブールに持参し時の皇帝に献上しているのである。このエルトゥールル号遭難義援活動は、その後もトルコ人にとっての好日感情を育んでいくことになる。イラン・イラク戦争の際、四十八時間後に迫った攻撃の際、イランに取り残された日本人は二百十五名。日本からの救出機派遣がままならない中、トルコから駆けつけた救援機二機により全員無事にテヘランを脱出することができたのである。
※ ちなみに、エルトゥールルとは、十三世紀にアナトリア西北部で活躍したトルコ人の首長で、オスマン帝国の始祖・オスマン一世の父の名である。

ハインリヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家で、それが事実であった事を示唆する遺構も幾つかは確認されているものの、現在は城塞以外の遺構は殆んど残っていない。ギリシア神話においては、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましはホメロスの『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる都市国家である。遺跡の入り口には、有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。




トルコ西部のエーゲ海沿岸に紀元前十一世紀頃、イオニア人が建設したこの港湾都市は貿易によりしていった。ローマ支配下後はアジア州の州都として大いに栄えていた。なかでも群を抜く美しさを誇るのがセルシウス図書館の遺構である。壁には知識などを象徴する四体の像(レプリカ)が立ち、柱、梁は細部にまで精緻な装飾が施され、百十七年の完成当時はさぞ壮麗であったと思われる。かつては一万冊を超える蔵書を誇り、アレキサンドリア、ペルガモンと肩を並べる図書館であったとされる。保存状態の良い大劇場は二万五千人が収容可能という巨大なスケールである。丘を背にしたすり鉢状の構造は音響効果に優れ、今もオペラやコンサートなどが催されている。
雪のように白い岩の石灰棚奇観は、古くから綿の名産地だったことからパムッカレ(綿の城)と呼ばれてきた。炭酸カルシウムを含んだ温泉が山肌を流れ落ち、長い年月をかけて沈積してできた百年以上もの石灰棚が、昼間は空の色を反射して青く輝き、落日の頃には茜色に染まるのである。日本と同様に火山国であるトルコは随所に温泉が湧出している。現在は景観保護のため裸足になって石灰棚を歩くぐらいである。石灰棚の上に広がるヒエラポリスは、紀元前百九十年にペルガモン王国の都市として建設され、ローマ帝国に征服されてからは温泉保養地として繁栄を極めたといわれている。
一二二八年に中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がカイクバード一世の招請によってコンヤに定住している。一二七三年に亡くなるまで当地を拠点に活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いたとされている。コンヤにあるルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、一九二七年にケマル・アタテュルク政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。
シルクロード交易が盛んな時代には、商人たちは交易品を抱えてラクダや馬と長距離移動をしていた。その交易路沿いに作られていた商人や旅人のための宿泊施設がキャラバンサライである。トルコ国内には、このキャラバンサライが残存している。交易路沿い以外に、都市の商業施設であるスーク(市場)に隣接して作られた宿もキャラバンサライと呼ばれることもある。宿泊施設としての役割だけではなく、交易品を売買する取引所としての役割も担っていた。このため、キャラバンサライを利用する商人たちは、その土地を治める有力者たちから手厚くもてなされ、数日分の宿泊費や食事代金は全て無料で提供されていた時期もある。
このギョレメ小栗公園内には、奇岩群と古代ローマ時代にギリシア人のキリスト教徒によって建設された地下都市がある。カッパドキア観光の中心地であり、一九八五年、ユネスコの世界遺産(複合遺産)に「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として指定されている。この地域への初期の移住は キリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、岩から彫られた家々と縦抗がある。カッパドキアはいくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。
世界で最も美しいモスクと評され、一九八五年に世界遺産に登録された「スルタンアフメット・ジャーミィ」は、トルコ国内最大都市イスタンブールの旧市街、世界遺産歴史地区の中心エリアにある。「ブルー・モスク」の名で親しまれるトルコを代表するこの寺院は、オスマン帝国時代一六一六年に、十四代スルタン・アフメット一世によって建造されたものである。
モスク内のドームには、二六〇余りもの窓があり、どの窓にもステンドグラスの装飾がなされ、二万枚以上の青を主体としたイズニックタイル(イズニックはトルコ・ブルサの都市名でタイルが製造された地名が由来)で覆われている。太陽光がこのステンドグラスを通って、淡い青い光となりドームの中を照らし、イズニックタイルの色彩も、青が協調されて浮かび上がることから、ブルー・モスクと呼ばれるようになったといわれている。
内部の素晴らしさとともに、外観も巨大な建築構造となっている。直径二十七mもの大ドームを中心に四つの副ドーム三十の小ドームから成り立っている。大理石とタイルで作られた外観は、華やかな派手さはないものの圧倒されるほど厳格な重厚感を醸しだしている。
バシリカ・シスタンと呼ばれる地下宮殿は、四世紀にコンスタンティヌス帝の命でつくられた地下貯水池ある。ビザンツ帝国時代には、多数の地下貯水池がつくられたといわれているが、この地下宮殿が最大規模であった。長さ百四十m×幅七十ⅿの空間に、高さ八ⅿの三百三十六本の大理石柱が、二十八本ずつ十二列に立ち並ぶ様子は、さながら宮殿のようである。この地下宮殿は、古来この地の帝国が有する宮殿と周辺の建物に水を供給していたといわれている。何より象徴的なのは、横向きと上下逆さまに置かれているメドゥーサの頭部である。魔除けや柱の高さ調節などその起源には諸説ある。
トプカプとは、「大砲の門宮殿」を意味している。十五世紀中頃から十九世紀中頃まで、欧州から中東まで広大な勢力を誇示したオスマン帝国の君主が居住した宮殿である。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分にあり、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置している。この宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なる構造となっている。また数多くの庭園と離れ(キョシュク。キオスクの語源)を持つ建造物群である。このことから、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿様式とされている。
正式名称は、カパルチャルシュ。トルコ語では「屋根付き市場」を意味している。一四五五年から一四六一年にかけて、当時のオスマン帝国皇帝のメフメト二世の命により建設された歴史を持つ。十六世紀のスレイマン大帝の時代に大幅に拡張され、一八九四年の地震で一部は損傷したが修復されて現在に至っている。
広さ三万七百平方メートルで、六十六の街路、四千の店舗がある世界最大級の市場である。宝石類、陶器、香辛料、絨毯類を扱う業者が、業種ごとに同じ街路に集中して出店しているのも特徴的である。
世界最大ともいわれるグラン・バザールに比べると、少々小ぶりながらトルコの台所とも言われる「エジプシャンバザール」も存在感がある場所である。このバザールでは食料品を多く扱っており、最盛期には九十軒近くもの香辛料の店が並んでいたことから、別名「スパイス・バザール」とも呼ばれている、トルコ語ではエジプシャンバザールの事を「ムスル Mısır(=エジプト)チャルシュÇarşısı(=バザール)」と言われる、イスタンブールの旧市街・ガラタ橋からほど近い場所にあるアーケード市場である。香辛料以外にもナッツやドライフルーツ・からすみなどの乾物、はちみつやトルコの伝統的なお菓子など多くの食料品が売られている。
黒海からマルマラ海に通じる海峡をボスポラスと表記する。古来、アジアとヨーロッパの接点とされ、歴史的・地政学的に極めて重要な地点であった。この海峡はイスタンブルの市街に面しており、現在は幾つかの橋やトンネルでアジアとヨーロッパが結ばれている。海峡は、全長約三十キロ、幅は最も狭いところで六百九十八m。マルマラ海からダーダネルス海峡を経てエーゲ海に抜けていく。ギリシア人が植民してビザンティオンを建設し、後にはローマ帝国の都コンスタンティノープルとなり、さらに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)や、オスマントルコ帝国の都として繁栄した歴史を有している。
夕暮れ時から宵闇にかけてが、イスタンブールの一番幻惑的な時間となる。夕暮れ空に、その日終盤のコーランが響き渡るころ、ブルーモスクなどの建造物が静かにライトアップされ始めるのである。そして、コーランの響きが終わるころになると、街の表情は一気に夜の彩りを帯び始めるのである。
海が近いせいか、日中の暑気は一気に遠ざかり、潮風が石畳を冷やし始めるのである。そんな石畳の上を上気した表情の人々が行き交い始めるのである。
2023年8月6日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。