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ある一定の年齢層以上の日本人は、モロッコと言えば、映画「カサブランカ」が頭に浮かぶことだろう。そんなモロッコは、日本人にとって異国情緒が濃厚に感じられる国の一つであろう。それは、アフリカ、ヨーロッパ、そしてアラブ文化が交じり合ったユニークな文化があることも背景にあるのだろう。モロッコは、アフリカ大陸の北西部に位置し、地中海と大西洋に面している。そのため、ヨーロッパとアフリカの交易や文化交流が古代から行われてきている。イスラム教の影響もあり、ベルベル人、アラブ人、ヨーロッパ人、アフリカ人など、多くの異なる文化的背景を持った人々によって多様な複合文化が形成されている。伝統的なベルベル音楽や、アラブ風の建築物、そしてスペイン風の街並み、さらにはイスラム神秘主義思想などなど。
(古代において)
この地にはベルベル人の居住地であったが、前九世紀ごろ海岸地方には東地中海岸のフェニキア人の植民活動が及んできて、植民市の中の最大のカルタゴの支配を受けるようになった。内陸部にはベルベル人のマウレタニア王国が生まれた。紀元前二世紀前後のポエニ戦争の結果、カルタゴが滅亡するとローマの属州アフリカ州の一部とされたが、紀元後一世紀の中ごろにはマウレタニア王国も滅ぼされて属州マウレタニアとされた。
ローマ帝国が東西に分裂して西ローマ帝国の領土となったが、その支配力はすでに衰えており、四二九年にはゲルマン人のヴァンダル人がこの地を通って東に移動し、旧カルタゴの地にヴァンダル王国を築いた。ヴァンダル王国は、五三三年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス帝に滅ぼされ、モロッコもその支配に入った。
(イスラム進出の時代)
七世紀に成立したイスラーム教は、その信仰と政治を一体化させた帝国の支配を周辺に急速に拡大し、北アフリカでもビザンツ帝国を次第に駆逐していった。ウマイヤ朝は六七〇年にチュニジアにカイラワーンを建設、マグリブ進出の拠点とし、八世紀初めに将軍ムーサーがモロッコを征服、さらに七一一年にはこの地からジブラルタルを超えてイベリア半島に広がっていった。こうしてアラブ人がベルベル人を支配する社会となってベルベル人のイスラーム化、アラブ人との同化が始まった。しかし広大な領土もつに至ったアッバース朝は、都・バグダードから離れた地域への統制を次第に放棄するようになり、各地に地方政権が登場するようになった。その影響下では、次第にアラブ人支配からベルベル人が自立していったり、中央のスンナ派との関係で、イスラーム教の分派のシーア派国家が生まれていくことにもなっていく。
(中世から近世にかけて)
十五世紀からは、イベリア半島の勢力であるポルトガルやスペインの南下侵出が始まってくる。サード朝のもとで抵抗を続けるが、一六五九年にサード朝が倒れ、アラウィー朝(アラウィット朝ともいう)が成立した。十八世紀に入ると、ヨーロッパ各国の経済進出が著しくなり、一七五七年のデンマークを初めとする諸外国との通商を開始する。十八世紀末に地方の部族間の争いが激しくなるとアラウィー朝は鎖国政策を採ってタンジール港だけを開港地として他の港での通商を断った。
十九世紀中ごろになると外圧が強くなり、不平等な通商条約をイギリスとは一八五六年、フランスとは一八六三年に締結させられた。スペインはセウタで境界紛争を引き起こして一八五九~六〇年にモロッコに出兵、モロッコ戦争(アフリカ戦争とも言う)を引き起こし、六一年に通商条約を締結した。こうしてモロッコは開国し、イギリス・フランス・スペインとの不平等条約に苦しめられ、アラウィー朝は近代的改革を試みたものの不十分で、外債が累積し財政危機に陥った。このようななか、モロッコでも外国人排斥や列強に妥協的な王朝を否定する民衆の抵抗運動がスーフィズム教団に指導された宗教運動として起こってきた。
(第二次世界大戦後の独立へ)
第二次世界大戦中の一九四三年に結成された民族解放組織「イスティクラル(独立の意味)」を中心とした独立運動が都市部の労働運動や山岳部のゲリラ部隊(フェラーガ)の武装闘争と結びついて展開された。フランス総督は国民統合の象徴とされる恐れのあるスルタンのムハンマド五世を一九五三年にマダガスカルに追放して運動を抑えようとしたが、かえって混乱が増し、五四年にインドシナでディエンビエンフーが陥落して植民地支配に行き詰まったフランスのマンデス=フランス首相が自治を約束し、五五年にムハンマド五世が帰国して復位、五六年にアラウィー朝のモロッコ王国として独立を回復した。同年に独立したチュニジアと共に、一九六〇年のアフリカ諸国の独立(アフリカの年)の先駆的な役割を果たした。
(※参照 世界史の窓)
旅のフィールドワーク・ルート図
カサブランカ→マラケシュ→アトラス山脈→ワラサバード→エルフード→フェズ→ラバト→カサブランカ

「ジャマ・エル・フナ広場」(Place Djemaa el Fna)は、モロッコのマラケシュにある市場兼広場である。この広場は、アラブ世界最大の屋台街とも呼ばれ、世界無形文化遺産にも登録されている。十一世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心となっていたでもある。かつては公開処刑なども行われていた。現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せる。屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるが、屋台によっては衛生面に問題があり、腹を下すという話もたまにある。















アルガンオイルは、北アフリカ・モロッコ王国でしか産出されないという貴重な天然オイルである。モロッコの南西部のみに生育するアルガンツリーの実から採れた貴重なオイルがその元となっている。このオイルには、高濃度のオレイン酸とビタミンEが含有されていると言われ、その優れた肌への保湿性と活性化の働きにより、美容や調理などに活用されているのである。
アトラス山中においては、今でも伝統的な手作業による採取・調合などをおこなう工房が点在している。
イフレンは、モロッコ北部の中部アトラス地域にある都市である。人口は一万五千人前後。一六六五mにあり高山性気候のため、フランス保護領時代の一九二八年に町がフランス風に設立されていったのである。モロッコの中でも、ひときわ欧州風情が漂う町である。
すなわち、フランスをはじめヨーロッパ人がモロッコ内陸部の平原の夏の暑さを和らげるために、山々の高地に作ったリゾート地である。また、イフレンはその高地性気候の為、スポーツにおける高地トレーニングの目的地としても人気がある。
アフリカ大陸の三分の一近くを占める世界最大の砂漠地帯、それがサハラ砂漠である。そのサハラ砂漠の入り口(モロッコ側からの)にあたるのが「メルズーガ大砂丘」である。年間を通して降水量が少なく、夏の昼間の気温は四十度以上にも上り、逆に冬の夜間はかなり冷え込む。
一年中暑いイメージのサハラ砂漠だが、実は年間で見ると二十度以上の気温変動があり、多様な気象条件下にある。そんな過酷な自然条件下だからこそ、砂漠の絶景や満点の星空を求めて多くの訪問者が絶えない。
ワルザザートはキャラバンが立ち寄るだけの小さな村であった。それが一九二〇年代にフランス軍の基地が作られてから、町の規模が拡大した。マラケシュからアトラス山脈を越えて、その後はウジダなどへとに抜ける幹線道路の経路上に位置している。モロッコの乾燥地帯観光の玄関口としても機能している。ここから東のエルラシディアへと抜ける道は「カスバ街道」と呼ばれている。タウリルト・カスバはワルザザート東部にある大きな城塞(カスバ)である。十八世紀から十九世紀にかけてこの地を支配していたグラウィ家一族の住まいだった城塞である。内部は迷路のようになっていて、壁や天井を飾る美しいモザイクタイルや飾り窓を見ながら散策できる。
「トドラ渓谷」はモロッコ中部に位置している。四十キロにも渡って続く断崖絶壁の絶景は、アトラス山脈を流れるトドラ川が作り出したものである。ほぼ垂直に刻まれた断崖は、一番高いところでは百六十mにも達している。
サハラ砂漠にほど近いため、乾燥した大地と灼熱の太陽の下、渓谷に中にでさえオアシスがある。そして、カスバ街道沿いにあることもあり、カスバ(城塞)巡礼者が絶えない訪問地でもある。
フェズの町は陶器制作が有名な町として知られていている。白地に独自の青色で描かれた陶器は「フェズブルー」とも呼ばれ世界的に人気を博している。最初の工程では、併設の窯で焼かれた様々な色のタイルを細かく割って削って、必要な形に切り出していくという。これらをパズルのように組み合わせてモザイクの絵柄にして図柄を制作してく。そして、素焼きに使う窯はオリーブの枝やオリーブオイルの搾りかすを燃やして使う伝統的なものであるそうな。そうすると、普通の窯より窯の湿度が低く保てるのだそうだ。そして、幾何学模様の素敵なデザインを器に描いていく。
古代都市フェズは、カラフルな革の染色工房の町でもある。曲がりくねった路地の迷宮では、遠くから刺激的な匂いを嗅ぐことができるのだ。フェスは、革製品の伝統的な染色方法を今も維持している世界でも数少ない地域の一つとされている。地元の人々は、染色タンクのグリッドを配置し、伝統的な練りと風乾の古代の方法を維持し、革に自然な植物の色を美しく染め上げている。ここの革製品は、すべてのプロセスがこの伝統的な職人技に従って厳密に行われており、世界的な評価を得ている。染色トラフはすべて建物の最上部にあり、訪問者は近隣の家の屋上などから染色工程全体を見渡すことができる。
早朝の時間帯にフェズ旧市街を歩くと、このような野菜や魚など新鮮食料品の出店風景に出会うことができる。このエリアは、フェズ旧市街のはずれにある。やはり新鮮な食糧品を扱うだけに、迷路のような旧市街の奥深い場所ではなく、一般の人にも立ち寄れる場所にあるのだろう。
ラクダの肉を売る店先では、大きなラクダの頭部が吊るされており、外国人にはちょっと刺激的な光景ともなっている。
ハマムはモロッコ式の大浴場を意味している。日本のように湯船につかるのではなく、蒸し風呂(スチームサウナ)のことである。モロッコ人は普段、週に一~二回くらい通うほどみんなハマムを好んでいる。このようなスチームサウナは、二千年以上前にローマ帝国によって草案されているい。その後モロッコを含む地中海沿岸や中東方面にまで広まりを見せていくのである。しかし、現代においては、モロッコとトルコを除いては、各家庭のシャワーに入ることが多くなりハマム形式のサウナは減少傾向にある。
旧市街であるフェズ・エル・バリの、西の玄関として機能している。十二世紀から存在したとされるブー・ジュルード門は、とてもシンプルなつくりである。メディナ(迷路のような街並みの街区)を横断し、市の中心部であるカラウィーイーン大学へとつながる、スークの目抜き通りであるタラア・ケビーラは、この門から起点となっている。門の通路はタラア・ケビーラに対して垂直に、城壁に対して平行に通っているため、タラア・ケビーラへは門を入って横にそれるかたちとなる。このような設計はモロッコの旧市街においては一般的であり、外敵から守りやすくなっている。
ここほど、異邦人の気分に浸れる場所はないだろう。九世紀初頭に開かれたイスラム王朝の古い都フェズ。フェズ・エル・バリと呼ばれる旧市街(メディナ)には建物がひしめき、人がすれ違うのがやっとの狭い路地が無秩序に延びてる。常に外敵の侵略にさらされてきた地中海沿岸地域では、周囲に堅固な城壁を巡らせ、内部を複雑な構造にした都市が発達したのである。中でもフェズ旧市街は巨大迷路のような複雑さで、「世界一の迷宮都市」と形容されるほどである。そこは混沌と喧噪の世界が一気に展開する。車両が入れない路地を歩く人々や荷物運搬の手押し車やロバが煩雑に行きかうのである。散策には早朝の時間をお勧めしたい。
北アフリカにおける古代ローマ都市の、最良の保存状態を誇る遺跡のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されている。西暦四十年ごろ、アフリカ西端の拠点として築かれたのが、このヴォルビリス遺跡である。最盛期には、約二万人もの人々がこの都市で生活を営んでいたと伝えられている。
七世紀にアラブ勢力がモロッコを席巻するにつれ、国内の他のローマ時代などの遺跡は破壊されたり風化の憂き目に会ったが、このヴォルビリス遺跡は致命的な被害を受けることはなく、良好な状態にて残存されてきたのである。
モロッコの国王であったムハンマド五世(一九〇九~一九六一年)の霊廟である。フランスから独立を勝ち取ったモロッコの国民的英雄である。フランスから独立を獲得した後、一九五七年にモロッコの君主号をスルターンから国王に変更している。
ラバトのムハンマド五世大学、カサブランカのムハンマド五国際空港やモハメド五世スタジアムなどは、彼にちなんで命名されている。廟は一九七一年に完成している。彼の息子二人もこの廟に埋葬されている。
このモスクでの特徴的な建造物はミナレット(尖塔)である。モスクの南側に位置する。高さは二百十mあり、世界で二番目で高いミナレットである。ミナレットの頂上には参拝者にメッカの方角わかるようにレーザーが設置されている。モロッコのモスクでは、基本的に信者以外入ることができないが、このモスクはガイド付きであればイスラム教徒以外でも建物内に入ることができる。ハッサン二世国王が、モロッコ全土から腕利きの職人を集めて完成させたといわれている。ベージュの外壁にエメラルドグリーンの装飾が美しくマッチしている。現代モロッコの美的最高芸術建造物の代表的なものである。
2023年8月7日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。