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(建国神話の時代)
ローマの建国神話は国民的詩人ウェルギリウスの『アエネイス』の叙事詩に物語られている。ギリシアのトロイア戦争でトロイアが落城したとき、トロイアの勇者アイネイスだけが脱出することが出来た。トロイアの再建を念じながら新天地を求めて地中海各地を彷徨し、苦難のすえにようやくイタリアに上陸、ラテン人の住む土地にやってきたアエネイスは、ラティウムの王の娘と結婚し、そこに新たなトロイアの都を建設しラウィニムと命名した。
(都市国家への時代)
都市国家ローマは王政から貴族共和政へ、さらに共和政へと転換した。その間、イタリア半島を統一をすすめ、ローマは政治都市として発展した。ローマはイタリア半島中部のテヴェル川河畔に生まれた小都市国家に始まる。その住民はインド=ヨーロッパ語系のイタリア人の中の一部であるラテン人であった。最近の考古学の調査によれば、パラティヌスの丘にこの集落が作られたのは前十~九世紀にかけてのことで、ロムルスの建国伝承よりも前のことである。建国神話はなんらかのローマ人の記憶が反映していると考えられる。
(共和制の崩壊)
ローマの支配権がイタリア半島に留まらず、海外領土をも獲得するに至り、本来の都市国家としての共和政の原則は維持することが困難になっていった。海外の属州からの奴隷と安価な穀物の流入はラティフンディア(大土地所有)を拡大させ、中小農民の没落とともに大量の無産市民(プロレタリア)を出現させた。一方では属州の徴税請負人となって富を貯えた騎士(エクイテス)層が元老院議員層に次ぐ政治的勢力となっていった。このローマ共和政の動揺はさらに進んでいき、中小農民の没落はローマの市民軍を弱体化させ、ユグルタ戦争などを契機に、マリウスによる兵制改革が行われ、マリウスとスラという有力者がそれぞれ私兵を蓄えて抗争するようになった。こうしてローマ共和政は根本から維持が困難となり、前一世紀にはローマが帝政に移行する転換期となった。
(帝政期の時代)
前二十七年に初代皇帝アウグストゥスが即位しローマ帝国の段階に入る。アウグストゥスは、カエサルの事業を継承しながら、最も信頼した部下のアグリッパの助力を得て、アウグストゥス広場などの新たな公共施設の建設、水道の整備、都市行政区画の整備(ローマを十四区に分割)などを実施した。アウグストゥスは自らの業績を“私はローマを煉瓦の街として引き継ぎ、大理石の都として残すのだ”と述べた。その後歴代の皇帝は、自らの権威を誇示するため、また市民の「パンと見せ物」の要求の中の見世物のためのコロッセウムに代表される円形競技場や劇場、競馬場などの建設を競った。それは次第に帝国の財政を蝕むこととなった。
(崩壊の時代へ)
ローマ帝国は地中海をわれらの海として支配し、「ローマの平和」を謳歌した。その帝都としてローマは繁栄の絶頂期を迎えた。しかし、その統治範囲はローマだけで統治できるものではないことが次第に明らかになって行き、また元老院議員がローマ出身者で占められる時代もやがて終わり、各地の属州の出身者が皇帝になる時代を迎えた。ディオクレティアヌス帝はそのような状況に対応して帝国に四分統治制を導入したが、ローマは皇帝の居所とはならなかった。ローマ帝国の一都市に過ぎなくなり、しかも西の皇帝もガリア、ブリタニア、ヒスパニアといった地方を統治するために頻繁に各地を移動した。宮廷もミラノ(メディオラヌム)などに置かれることが多くなった。コンスタンティヌスが三三〇年に都をコンスタンティノープルに移したのはそのような流れの中でのことだった。こうしてローマは唯一の帝都としての地位を失い、相対的な衰退の時期を迎える。三百九十五年に東と分離した西ローマ帝国の都もミラノに置かれ、後にラヴェンナに移り、最後はそこで迎えた。
スパーニャ広場とも飛ばれている。この広場は、イタリア共和国ローマ市の中心街にある。「スパーニャ」とは「スペイン(エスパーニャ)」のイタリア語呼称で、間近にあるスペイン大使館にちなんで命名されたといわれている。この広場で何と言っても著名なのが、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続く「トリニタ・デイ・モンティ階段」、通称「スペイン階段」であろう。映画『ローマの休日』で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所である。当初、フランスの外交官の寄付によって造られたものの、スパーニャ広場にあるためこの名で呼ばれている。
この広場の中央には、四つの大河(ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川)を擬人化した彫像の噴水型のオベリスクがある。これらの彫像は、バロック時代に、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって造られたものとされている。広場は、一世紀にドミティアヌス帝が造らせたドミティアヌス競技場が元になっているといわれている。名称はキルクス・アゴニウスと呼ばれていたものが、中世にはカンプス・アゴニスとなり、アゴーネ、ナゴーナ、おしてナヴォーナと変化して現在に至っている。

ローマ市内のマルス広場にある神殿である。起源とすれば、紀元前二十五年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造されたローマ神を奉る万神殿であったとされる。二代目のパンテオン百十八年から百二十八年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建されている。現在、見ることが出来るのはこの再建されたパンテオンである。建物は、深さ四・五mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径四三m強の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは六ⅿにも達するのである。ローマの神々が信仰されなくなったあとも、この象徴的な空間性によって、六〇八年頃にはキリスト教の聖堂となり、破壊を免れた。









紀元前六世紀から紀元三世紀まで、古代ローマの政治・経済・商業の中心地として栄えたエリアである。元老院が置かれたクーリア、セベルス帝の凱旋門、バシリカユリア(ユリウスのバシリカ)、サトゥルヌスの神殿、ウェスタの神殿などなど、修復・再建されたものも含め多数の遺跡が残されている。
フォロ・ロマーノとは「ローマ市民の広場」という意味をもつ。最初は、ユリウス・カエサルが構想し、初代皇帝アウグストゥスが洗練されたヘレニズム文化を、本格的に採り入れてこのエリアを構築していったのである。
暴君として倒された皇帝ネロが、ローマの大火の後に建てた宮殿の巨大な銅像(コロッスス)があったところに、七十五年にウェスパシアヌス帝が建造を開始し、その子のティトウス帝のときの八十年に完成した。当時はウェスパシアヌスとティトウスの氏族名からフラウィウス円形闘技場と呼ばれたが、ネロの巨大な銅像をコロッススといっていたことから、中世以降はコロッセウムというようになった。従って、コロッセウムは固有の名称であったが、現在は、そこから生まれたコロシアムという語が円形競技場(ラテン語ではアンフィテアトル)を示すようになっている。なお、ローマ時代にはローマ以外の都市にも円形闘技場が造られており、その数は全部で二百五十にも上るという。
サンタンジェロ城は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。現地では本来、聖天使城(カステル・サンタンジェロ)と呼ばれている。百三十五年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟(ハドリアヌス廟)として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の百三十九年に完成している。霊廟はきれいな円形平面をなし、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。しばらくすると軍事施設として使用されはじめ、四百三年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れらている。ここから約七百mの距離にて、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂があり、城壁上の通路で繋がっている。
イタリアとバチカンの国境にあたる「天使の門」をくぐるとすぐに見えてくるのが、サン・ピエトロ広場である。この広場は、教皇アレクサンデル七世の命により、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計して一六五六年から一六六七年にかけて建設されている。ベルニーニは、古代ローマのコロッセオからインスピレーションを得て設計に生かしたと言われている。また、世界中から集まるカトリック信者たちの思いを包み込むような列柱廊のデザインは、「すべての教会の母であるサン・ピエトロは、母のように両腕を広げ受け入れる」という彼の思いを表しているとされている。
イエス・キリストの第一の弟子聖ペテロの墓所があったところに建てられたので「サン・ピエトロ大聖堂」という名前がつけられている。バロック様式のサン・ピエトロ大聖堂はキリスト教の建築物としては世界最大級のものである。六万人を収容できる聖堂内には、十一の礼拝所と四五の祭壇があり、主祭壇を覆う大天蓋は高さ二九mにもおよんでいる。一六二四年から約十ルネサンスの第一人者ミケランジェロ設計のクーポラの真下に鎮座している。そして、ミケランジェロが設計したクーポラを支えている四本の五角形の柱の下には、聖人像が飾られている。
バチカンはローマ教皇(聖座)によって統治される国家であり、カトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。公用語はラテン語であり公式文書に用いられる。警護に当たるスイス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語・ポルトガル語・英語も常用されている。
ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前百年~紀元前四十四年)を本名とする人物は、シーザーとしてあまりにもその名を知られている。共和政ローマ期の政治家であり、文筆家である。さらにその上、常に未来図を脳裏に描き、戦いの前には戦況を把握できていたという頭脳明晰な軍人であった。トッレ・アルジェンティーナ広場は、共和政ローマ時代の四つの神殿の遺跡が残され、同時にローマでは最初の常設劇場の建造となった『ポンペイウス劇場』の一部がある古代遺跡広場であるが、ここはカエサル(シーザー)が暗殺された場所でもある。
イタリアのファシスト、ベニート・ムッソリーニはヴェネツィア宮殿に執務室を置き、この広場に面したバルコニーから演説を行っている。その広場は、宮殿の名前・ヴェネツィア宮殿にちなんで名付けられている。広場は、カンピドリオの丘のふもとにあり、フォロ・ロマーノも近くにある。また、目の前にヴィットーリオ・エマヌエーレ二現在は中央が芝生になっており、フォーリ・インペリアーリ通り、コルソ通り(イタリア語版)プレビシート通りが接続するロータリーとなっていて交通量も多い。バス停も存在し、ローマ市内の交通の要衝でもある。
この広場は常に商業文化とストリートカルチャーの中心であり続けてきた場所である。周囲の通りには、ヴィア・デイ・バレストラーリ(クロスボウ製造者)、ヴィア・デイ・バウラーリ(金庫製造者)、ヴィア・デイ・カペラリ(帽子製造者)や、鍵メーカー、仕立て屋などなど古来の交易にちなんで名付けられている。フィオーリ(Fiori)とはイタリア語で「花」を意味している。千四百年頃までこの広場は菜園もあるお花畑だったという。そこからこの「フィオーリ」の名前がつけられている。他の言い伝えでは、紀元前の古代ローマの政治家「グナエウス・ポンペイウス」の恋人の名前である「フローラ」からつけられたという説もある。
2023年8月9日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。