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旅のフィールドワーク
ベネチア編

文・写真 清水正弘

深呼吸出版



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目 次

ベネチアの魅力とは
日の出時のベネチア

ベネチアの歴史概略

運河と橋の諸景
下町・路地歩き その一
アッカデーミア橋からの展望
アカデミア美術館
ゴンドラ諸風景
下町・路地歩き そのニ
サンタマリア・グロリオ・デイ・フラーリ教会界隈
サンタマリア・デッラ・サルーテ教会
下町・路地歩き その三
サンポーロ広場界隈
サンマルコ広場界隈
リアルト橋界隈

日没時のベネチア

ベネチアの魅力とは

ベネチアとその潟は、イタリアの北部に位置する世界遺産の代表的なものである。「アドリア海の女王」とも呼ばれ、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。百二十近くの島が百五十をこえる運河と四百の橋で結ばれており、独特な風景をもつ海の都だ。ベネチアは都市としての誕生が五~六世紀である。湾の周辺に暮らしていたヴェネト人が、蛮族に追われ、葦の生い茂る湿地(ラグーナ:潟)に逃げ込んだことから、その歴史が始まった。

人々は土台として硬い丸太を湿地帯に打ち込み、その上に石を積んで建物をたてて街を築いた。「ベネチアを逆さにすると森ができる」と言われるほど、多くの木が使われている。また、街中には大運河「カナル・グランデ」から、小さな運河がまるで毛細血管のように広がっている。これはもともとラグーナにあった自然の水路を、そのまま掘り下げて「運河」にしているからである。そのため潮の干満によって絶えず潟は浄化され、海水が流れることで生態系を保っている。

地上も狭い小道が多く、自動車の通行が禁止されているため移動手段は船か徒歩となる。観光客は風情のあるゴンドラで運河をわたりながら、街並みを徒歩にて散策することになる。それだけに、ゆったりとした時空間が時を越えてそこにはあるのだろう。海の都ベネチアは、自然を活かしながら人間がつくりあげた「人工美」の極致とも言えるだろう。

そんなベネチアは、さまざまな人物や文学作品を生み出す土壌でもあった。一二五四年この地で一人の旅行家が生誕している。「東方見聞録」を記したマルコ・ポーロである。そして、ウィリアム・シェイクスピアは、この地の商人をモチーフにした戯曲・『ベニスの商人』を著述している。

マルコポーロ
ベニスの商人・戯曲書
日の出時のベネチア

ベネチアの歴史概略

伝説では四一三年に創建されたと言うが、実際は六世紀中ごろ、ランゴバルド人のイタリア侵入の難をのがれ、パードヴァなどから移住した人々が、アドリア海沿岸の潟(ラグーナ)の島に都市を作ったところに始まる。ユスティニアヌス大帝時代以来、ビザンツ帝国の支配受け、その法的関係は長く続くが、次第に港市として発展し、独自に統領(ドージェ)を市民の中から選出して都市共和国(コムーネ)として自立していき、「アドリア海の女王」と言われる繁栄を実現する。

ヴェネツィア共和国は十一世紀には強力な艦隊と商船を有し、アドリア海から東地中海、黒海の海上貿易を独占、東方貿易(レヴァント貿易)の中心地として栄えた。東方からは胡椒などの香辛料、織物などを輸入、ヨーロッパからは初めは奴隷、後には羊毛製品を主に輸出した。十字軍時代にはその出港地として船舶を提供、また多くのヴェネツィア商人が同行して利益を上げた。特に第四回十字軍ではヴェネツィアが主導してコンスタンティノープルを占領、その商業的特権を独占して植民国家ラテン帝国を建国し、さらにクレタ島、キプロス島などに植民地を獲得して繁栄の基礎を築いた。

(十三世紀以降)

十三世紀末には上層市民が貴族として寡頭政治(少数の有力者が政権を独占する政治)を行う体制となった。一三八〇年には競争国ジェノヴァ共和国を、キオッジアの海戦で破り、地中海の覇権を獲得し、大いに繁栄した。十五世紀中頃から東地中海と東側の国境をオスマン帝国に脅かされるようになると、勢力を海上よりも内陸に向けるようになり、ローマ教皇やミラノ公国と争い、イタリアの強国の一つとなる。

国家間で互いに外交使節を常駐させるという近代的な外交関係は、一四五五年にミラノがベネチアに送ったそれが最初のものだと言われている。このような常駐外交使節制度はイタリアの都市国家間に始まり、十六世紀には大多数のヨーロッパ諸国間で行われるようになった。特にベネチアは小さな共和国であったが、諸国との間に広範な通商関係を発展させ、また東ローマ帝国と複雑な交渉を持った関係から、その外交技術は他の都市国家に比して著しい発達をとげた。

優秀な人材を外交使節に起用して行った巧妙な外交、派遣や接受に際しておこなわれる儀式などはベネチア共和国のそれをヨーロッパ諸国が模倣・移入されたものであり、近代ヨーロッパ外交の起源は中世後期のイタリア半島に発すると言われている。なお、ベネチアの常駐外交使節は、妻の同伴は禁止されていた。これは機密の漏洩を防ぐためであった。また料理人を同伴しなければならなかったが、それは毒殺されることを予防するためであった。

(十六世紀以降)

十六世紀にはオスマン帝国の進出、フランス、スペインのイタリア戦争の影響などで東地中海の領土と勢力圏を失い、次第に衰退していった。一五〇八年にはローマ教皇ユリウス二世と対立し、フランス王ルイ十二世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世、スペイン王フェルナンド五世がカンブレー同盟をむすび、ベネチアと戦った。さらにオスマン帝国の艦隊が東地中海に進出してきたことに対し、一五三八年にプレヴェザの海戦でスペイン(カルロス一世=神聖ローマ帝国カール五世)・ローマ教皇との連合艦隊を編成して戦ったが敗れ、地中海の覇権を失った。

その後、一五七一年にはスペインと協力してレパントの海戦でオスマン海軍を破って、地中海の海上権を回復したが、十五世紀末からの新航路の発見によって世界の貿易の中心が大西洋岸のリスボンなどに移るという、いわゆる商業革命に伴い、地中海の商業都市ベネチアは衰退せざるを得なくなった。十七世紀にオスマン帝国の弱体化が進み、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国領に進出するようになると、エーゲ海方面に勢力を有していたベネチア共和国もそれに加わった。オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の失敗を受けて一六八四年に神聖ローマ皇帝レオポルト二世を中心に神聖同盟が結成されると、ベネチア共和国もそれに参加し、一六八七年にオスマン帝国軍が守るギリシアのアテネを攻撃、占領した。このときオスマン帝国軍がパルテノンを爆破するという事件があった。

一七九七年にイタリアに侵攻したナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍との間のカンポ=フォルミオの和約によってベネチアはオーストリア領とされ、ベネチア共和国は消滅した。ナポレオン没落後のウィーン会議では、正統主義が理念とされ、ヨーロッパの秩序をフランス革命前に戻す事が原則とされたが、ベネチア共和国とジェノヴァ共和国は復活することはなかった。ウィーン議定書では、ベネチアは旧ミラノ公国と併せてロンバルド=ヴェネト王国となったが、実際にはオーストリアから派遣された総督が直接統治する傀儡国家にすぎなかった。

(十九世紀以降)

十九世紀前半のウィーン体制の時代には、ヨーロッパ中の自由主義・民族主義は厳しく弾圧されたが、そのような中でもイタリア統一運動(リソルジメント)が盛んになってきた。それはナポレオン支配の中で、自由や人権の思想が普及した事が背景にあった。まず一八二〇年代にナポリやミラノでカルボナリと称する民族派の蜂起があり、続いて三〇年代以降はマッツィーニが青年イタリアを組織して統一と共和政を目指す運動が本格化した。一八四八年革命の一連の革命運動はオーストリアにも及び、ウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚すると、イタリアではミラノ蜂起に続き、ベネチアでも市民が蜂起し、オーストリアからの解放を目指した。

またローマでは教皇が逃亡し、ローマ共和国が成立した。それらの状況を見てサルデーニャ王国のカルロ=アルベルト国王は、初めてオーストリアに宣戦(第一次イタリア=オーストリア戦争)した。一八四九年にかけて、これらの動きは、いずれもオーストリアの軍事力によって弾圧されてしまったが、次第にイタリアの統一という具体的な獲得目標が明らかになっていった。一八五〇年代から、イタリア統一をめざす運動の中心となったのは、サルデーニャ王国であった。

サルデーニャは首相カヴールが、フランスと同盟を結ぶことに成功し、オーストリアとの間でイタリア統一戦争をしかけ、ロンバルディアとベネチアの解放を目指し優位な戦いを進めた。しかし、この時はナポレオン三世が単独で講和を結んで戦線から離脱したため、サルデーニャはロンバルディアの獲得にとどまり、ヴェネツィアを解放することはできなかった。その後、もと青年イタリアのメンバーだったガリバルディが義勇兵を組織し、シチリア島からナポリを制圧して北上し、征服地をサルデーニャ王に提供したことによって、一八六一年にイタリア王国が成立した。

(イタリア領併合へ)

しかし、その時点でもベネチアはまだ含まれていなかった。ようやく一八六六年の普墺戦争でイタリアがプロイセンを支援してオーストリアが敗れたためヴェネツィア放棄に踏みきり、これによって一八六六年十月にイタリア念願ベネチア併合が実現した。さらに一八七〇年に、ローマなどがイタリア王国に併合され、翌一八七〇年にローマが首都となったことでイタリア統一は完成したと言うことができる。しかしベネチアの北部の南チロルと、東に隣接するトリエステは“オーストリア領として残されており、イタリアにとって未回収のイタリア”としてその併合が国家的要求とされることとなる。

(※世界史の窓参照)

運河と橋の諸景
下町・路地歩き

アッカデーミア橋からの展望

ベネチアを代表する橋のひとつである。リアルト橋に次いで二番目に大運河に架けられた橋であった、それまではリアルト橋が大運河に架かる唯一の橋として機能していた。最初は鉄製の橋として一八五四年十一月に開通している。その後、老朽化により再建される際、技師であるエウジェニオ・ミオッツィにより木製の橋として一九三三年一月に再開通されている。 次に造られる橋は、元通りの鉄製の橋にしようという声が上がっている。リアルト橋、スカルツィ橋(これもミオッツィの設計)、そして二〇〇八年開通したコスティトゥツィオーネ橋とともに、カナル・グランデにかかる主要な四つの橋の一つである。

アカデミア美術館

フィレンツェにも同名の美術館がある。このベネチアにある美術館は、中世後期から一八世紀にいたるベネチア派絵画の変遷の歴史を辿れる重要な美術館で、質量ともにベネチア派絵画の宝庫として知られている。規模の点でもイタリア有数の美術館の一つである。十四世紀から十八世紀までの絵画を中心とした収集品がある。ジョヴァンニ・ベリーニの作品や、その弟子ジョルジョーネの作品『テンペスタ』、そしてヴェネツィアの三大画家とされるティツィアーノ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼの代表作が見られる。

ゴンドラ諸風景
下町・路地歩き

サンタマリア・グロリオ・デイ・フラーリ教会界隈

教会はバラ窓やヴェネツィア特有の装飾で飾られた正面エントランスを持つ、十五世紀ゴシック様式で建てられている。サン・マルコ寺院に次ぐ二番目の高さを誇る七十メートルの鐘楼もある。。レンガの外壁はシンプルだが、一歩足を踏み入れると、数々の彫刻や大理石の柱の荘厳さに圧倒されることだろう。中央に、木製のレリーフや聖人の彫像で飾られた聖歌隊席が設けられている。ヴェネツィアでは唯一の木製聖歌隊席である。聖歌隊席を抜けた先の主祭壇を飾るのは、この教会の至宝・ティツィアーノの『聖母被昇天』である。天に昇る聖母マリアの晴れやかな姿とそれを崇めるように見上げる使徒たちなどが描かれている。

サンタマリア・デッラ・サルーテ教会

ベネチアを象徴する白亜の建造物である。救済の聖母マリア聖堂は、一般に「サルーテ」と縮めて呼ばれる、カトリック教会のバシリカ(教会堂)である。カナル・グランデとベネチアの潟の一つバチノ・ディ・サン・マルコの間に横たわる、狭い指状の土地の上に建っている。水上からサン・マルコ広場へ上がる玄関口の目印ともなっており、ベネチアを代表する風景の一つとされている。マイナー・バシリカの地位であるが、美しい外観と顕著な履歴を持ち、イタリアで最も写真におさめられる場所となっている。

サンタマリア・デッラ・サルーテ教会からの展望
下町・路地歩き


サンポーロ広場界隈

リアルト橋がある地区にあるサン・ポーロ教会の前の広場が、サン・ポーロ広場である。ヴェネツィアで二番目に面積の大きい広場ではあるが、意外にも人通りは穏やかで混雑することはない。というのも、周辺には派手な見どころは少な目であり、どちらかというと下町の風情が漂う落ち着いたエリアとなって入り。地元民相手の食料品や小さなカフェなどが点在している、庶民情緒漂う広場である。

サンマルコ広場界隈

ベネチアの中心であり、玄関口でもある広場である。サン・マルコ寺院、ドゥカーレ宮殿、コッレール博物館、新政庁、時計塔に囲まれたこの広場は世界で最も美しい広場ともいわれ、世界中からの訪問客が絶えない。ただ、季節と気象条件によって高潮の影響による浸水が広場に及ぶこともある。特に冬季に多くその現象が見られる。広場の名前、サン・マルコは、ヴェネツィアの守護聖人である福音記者マルコに由来している。普段は広場周りを取り囲むカフェバーやレストランのオープンな席が設置されており、生演奏の音楽も流れている空間である。

リアルト橋界隈

リアルト橋はイタリアの「ベネチアとその潟」を構成する遺産のひとつとして、世界遺産に登録されている。運河「カナル・グランデ」にかかる橋のひとつで、別名「白い巨象」とも呼ばれている。長さは四十八m、幅二十二mもあり、水面からの高さは七・五ⅿもある。橋は初期のころは木製の跳ね橋であったが、耐久性の問題や火災などが考慮され、十六世紀にアントニオ・ダ・ポンテの案が採用され、石造りの橋として生まれ変わった歴史を持つ。橋の上にはアーケードが作られ、商店が立ち並び、多くの人が往来している。

下町・路地歩き
日没時のベネチア

旅のフィールドワーク・ベネチア編

2023年8月9日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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