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なんといってもこの街は「ルネッサンス」と切り離せないだろう。イタリア・ルネッサンスを支えたメディチ家は、十四世紀に銀行家として大きな成功をおさめ、その財力を背景に、フィレンチェの共和国政府にもメンバーを送り込むなど、政治家としても台頭していたのである。そして、ボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの芸術家に対するパトロンとしても知られ、十五世紀に最盛期を迎えたルネサンス運動(ギリシア・ローマ時代の文化を復興しようとする活動)に大きな役割を果たしたのである。こうしてメディチ家の隆盛とともに栄華を極めたフィレエンツェであるが、十六世紀に入ると宗教改革が進み、ローマ・カトリック教会を中心とするイタリアの影響力が低下していく。スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスが海上での覇権を求めて争った大航海時代の到来で地中海貿易の役割も低下、しだいにこの都市も斜陽の時代となっていくが、それだけに中世前後の面影が色濃く残ったともいえるかもしれない。
十四~十六世紀、ルネサンスの中心地として繁栄した北イタリアの商業都市の一つである。十二世紀に都市共和国(コムーネ)として自立し共和政を発展させてきた。次第に銀行業で富を蓄えたメディチ家が政治的独裁権を握るようになり、かつルネサンスの保護者となった。共和政とメディチ家専制の対立からローマ教皇、フランスなどの外部勢力の干渉を受けるようになり、政治的混乱が続き、一五三〇年に都市共和政は崩壊し、メディチ家が世襲権力を獲得、トスカーナ公国となる。この都市の英語での発音は、フローレンスとなる。
(メディチ家と共和制)
ローマがイタリア半島の覇権を握る以前はエトルリア人(エトルスキ)が居住していた。中世の十一世紀にはカノッサのトスカナ伯マティルダの支配を受け、その後独立して都市共和国(コムーネ)となった。十三世紀以降は毛織物業と金融業で繁栄し、独自の金貨フィオリーノを鋳造し、有力な同業者組合(ギルド)が形成された。十五世紀からはフィレンツェ共和国では金融業を営むメディチ家が政権を握り、その保護のもとでルネサンスの最盛期の舞台となる。フィレンツェで活躍した人物はダンテ、マキァヴェリ、ミケランジェロ、レオナルド=ダ=ヴィンチなど、枚挙に暇がない。メディチ家のもとでトスカーナ大公国という君主国になり、途中でメディチ家は断絶してハプスブルク家が継承し一八六〇年まで存続していることも見逃せない。
ゲルフとギベリン共和国内部ではゲルフとギベリンの対立、市民層の上層と下層民の争いなどを経て、政治的にはゲルフ(教皇党)が優位に立ち、十三世紀の中頃にはギベリンは衰退した。しかし、フィレンツェのゲルフはより革新的な白派(ビアンキ)と保守的な黒派(ネリ)に分裂して再び激しい抗争を展開、両派の政権交代が行われた。ルネサンスの先駆者ダンテはこのころのフィレンツェで活躍した。十四世紀に上層市民による共和政が確立し、ルネサンスの時代を迎えたが、同時に黒死病の流行で打撃を受け、一三七八年には、下層労働者が毛梳き工が蜂起したチオンピの乱が起こった。反乱は鎮圧され、政権は上層市民が独占するようになった。
このころ、ペトラルカやボッカチォが登場し、フィレンツェはルネサンスの震源地となった。美術では、ジョット・マサッチョ・ギベルティが活躍し、ブルネレスキがサンタ=マリア大聖堂を建設、共和制時代のフィレンツェ=ルネサンス(十五世紀)の象徴となった。共和制への概略は、市民から選ばれる「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」が執行機関の最高責任者であり、八名の「総務(プリオーレ)」が一種の内閣を形成し、「人民(ポーポロ)評議会」が市民を代表して代議制が行われていた。
フィレンツェの住民すべてが「人民」とされたわけではなく、アルテという各種の同業者組合の構成員に限られていた。アルテには大アルテと小アルテがあり、毛織物・絹織物・梳毛業・商人・銀行・医師薬剤師・法律家公証人の七団体が大アルテで、豊かで発言力が強く「ポポロ・グラッソ」といわれ、小アルテは石工、肉屋、酒屋、大工、左官など普通の職業で十四団体で「ポポロ・ミヌート」といわれて区別されていた。かつては貴族の専制に対してともに戦ったが、この時代には、大アルテが権力を握った一種の同業組合国家という性格が強かった。参政権を持つ同業者組合構成員も全住民九万のうち、わずか三〇〇人ほどであったと言われている。次第に共和政は形骸化し、有力者による寡頭政治(シニョーリア制)の状況となっていく。
一四三四年以降は金融業を営み有力となったメディチ家が共和政の下で政権を掌握し、寡頭政治の形態が強まった。共和政の原則であるのでその地位は世襲ではなかったが、コジモ=ディ=メディチやその孫のロレンツォ=ディ=メディチはあいついで反メディチ派とたたかいならが市政の中枢を占めていた。この頃フィレンツェはイタリアの強国の一つとして、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、フランス王などが激しく競う国際政治においても重要な位置にあった。
(ルネッサンス全盛時代)
何よりもメディチ家は、その権威の強化のためにも、学芸・芸術の保護に熱心であり、その保護のもとでルネサンスは後期の爛熟期に入ったと言っていい。このころ、東地中海世界ではオスマン帝国の圧迫が強まり、ついに一四五三年にコンスタンティノープルが陥落するが、その前後にビザンツ帝国から多くのギリシア人の学者が難を避けてフィレンツェに亡命し、それによってギリシア思想を直接学ぶことができるようになった。コジモ=ディ=メディチは特にプラトンに傾倒し、一四五九年にプラトン=アカデミーを設立した。
一五一七年、ドイツのルターが宗教改革を開始、ヨーロッパのキリスト教世界の動揺の時代が始まるとともに、フランスのフランソワ一世と、神聖ローマ帝国のカール五世の対立が先鋭化して、政治的にも動乱の時期に入った。フィレンツェを含むイタリア情勢も再び動揺が及ぶこととなり、一五二七年に神聖ローマ皇帝カール五世は、ローマ教皇クレメンス7世(メディチ家出身)がフランスと結んだことを口実にローマの劫略を行い、ローマは皇帝の派遣した傭兵によって略奪された。
(共和政の終焉)
一五三〇年、フィレンツェはスペイン兵を主力とする神聖ローマ皇帝軍の十ヶ月に及ぶ包囲攻撃を受け、市民は焦土作戦を展開して抵抗(その中心は傭兵部隊であった)したが三万の犠牲を出し、八月についに降伏した。ミケランジェロはメディチを裏切った形になって身を隠したが、クレメンス七世に許され、再びローマに招かれて、一五三四年にシスティナ礼拝堂の奥壁に「最後の審判」の制作を開始する。
こうしてフィレンツェ共和国は崩壊し、教皇と皇帝の後押しによってメディチ家が復活し、再び専制支配体制をとるようになった。皇帝カール五世は一五三二年、メディチ家のアレッサンドロ(クレメンス七世の庶子)をフィレンツェ公としフィレンツェ公国が成立、メディチ家はその世襲の君主となったが、アレッサンドロは専制君主的な統治を行ったので反発を受け、一五三七年に暗殺されたので、分家のコジモがメディチ家の家督を相続しコジモ一世となった。
(トスカーナ大公国時代)
一五六九年にはメディチ家コジモ一世は神聖ローマ皇帝からトスカーナ大公の地位を与えられて、トスカーナ大公国となった。コジモ一世の後、メディチ家が代々、大公を継承した。十七世紀前半に、望遠鏡を自作して天体観測を行い、地動説の正しさを証明したガリレオ=ガリレイはトスカーナ大公付の数学教師としてフィレンツェで活躍した。十八世紀になると、イタリアの小さな君主国に過ぎないトスカーナ大公国は、周辺の大国に挟まれ、衰退を余儀なくされ、スペイン継承戦争の結果オーストリアの支配下に入り、一七三七年にメディチ家が断絶すると、トスカーナ大公の地位はハプスブルク家のロートリンゲン公フランツ=シュテファン(マリア=テレジアの夫で、後のオーストリア皇帝フランツ一世)が継承することとなった。
フランス革命が勃発すると、北イタリアのオーストリア支配を排除しようとして一七九九年にナポレオンによるイタリア遠征が行われ、トスカーナ大公国もいったん消滅した。ナポレオン没落後の一八一四年、ウィーン議定書で復活した。ウィーン体制のもとでヨーロッパ各地に自由と民族の独立、統一を求める声が高まり、イタリア統一(リソルジメント)運動が始まり、トスカーナ大公国でも一八四八年に大公が妥協し、憲法が制定された。この段階では他の都市と同じようにオーストリア軍の圧力で押さえられてしまった。
(イタリア王国の首都時代)
一八五九年、サルデーニャ王国によるイタリア統一戦争が始まると、トスカーナ大公国などの中部イタリアの小国も動揺し、併合を求める動きが強まり翌一八六〇年春、住民投票の結果、サルデーニャ王国への併合が多数を占め、これによってトスカーナ大国は消滅した。翌一八六一年、イタリア王国が発足、その首都は当初トリノであったが、イタリア王国がローマ教皇領やヴェネツィアの併合を進める上で、一八六五年に都をフィレンツェに移した。翌年、ヴェネツィアを併合、さらに一八七〇年にローマ教皇領を併合したことにより、翌年、ローマに遷都した。一八六五~一八七一年の間、フィレンツェはイタリア王国の首都であったことになる。
ウフィツィ美術館は、フィレンツェの支配者だったメディチ家歴代当主の莫大な美術コレクションを展示・所蔵する美術館である。美術館の建物は十六世紀後半のメディチ家当主「コジモ一世」が、公務のために建設した事務所(オフィス)が元になっている。イタリア語である「ウフィツィ」という言葉は英語の「オフィス」を意味し、作品の一般公開をスタートしたのは十八世紀後半以降。美術館は絵画展示をメインとしており、二階と三階合わせて約一〇〇ある展示室には、十三世紀〜十八世紀のフィレンツェ絵画を中心に、随時二千五百点もの美術品が展示されている。絵画のコレクションでは、質と量共にイタリア最大の美術館で、フィレンツェ絵画のコレクションでは世界一を誇っている。
聖ラウレンティウスに捧げられたフィレンツェ歴史地区に位置する最も古い教会の一つに数えられる。四世紀ころにアルノ河の支流ムニョーネ川付近の丘の上にユダヤ系の婦人ジュリアーナの寄付のお陰で設立されたと考えられている。既に三九三年には聖アンブロシウスと聖ザノービ隣席のもと自治都市フィレンツェの司教座大聖堂として殉教聖人ラウレンティウスに奉献されている。聖堂の右身廊に並ぶ礼拝堂には数々の作品が奉納されている。第一礼拝堂:ヤコポ・ダ・エンポリ(聖セバスティアヌスの殉教) 第二礼拝堂:マニエリスムの画家ロッソ・フィオレンティーノの傑作(聖母マリアの結婚) 第三礼拝堂:ニッコロ・ラーピ(聖ラウレンティウスと煉獄の魂) などなど。
聖堂はアッシジのフランチェスコ自身によって建てられたと伝えられている。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から南東八〇〇mのところにあり、元々は市の城壁の外側にある湿地帯であったらしい。一二九四年、町の裕福ないくつかの家が資金を出し、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で、現在の教会への建て替えが始まった。建物のデザインはフランシスコ会の質素さを反映している。平面はエジプト十字、あるいはフランシスコ会のシンボルであるタウ十字の形をしており、八角形の柱列によって長さ百十五ⅿの身廊、ふたつの側廊に隔てられている。主回廊にはパッツィ家礼拝堂がある。一四四二年から一四四六年にかけて参事会会議場として建てられ、一四七〇年に完成している。
フィレンツェの下町情緒あふれるエリアである。あまりツーリストも訪れないこの地区では、ゆったりとした時間が流れている。五世紀の建物に囲まれた広場は、中央に噴水のある庭園になっており、午前中はメルカート(市場)のブースが並び、買い物に来る地元の人びとでにぎわっている。十六世紀に建てられたグァダーニ宮殿とその手前にある十九世紀の政治家・農学者のコジモ・リドルフィの像がある。サント・スピリト広場のシンボルであるサント・スピリト教会には、十五世紀から十七世紀にかけての作品が多く、見ごたえがる。
ヴェッキオ宮殿前のL字形の広場である。フィレンツェ共和国の歴史の焦点であり、原点でもあり、今も市の政治的中心地としてその名誉を維持している。周辺にヴェッキオ橋、ドゥオモ広場、ウフィツィ美術館へ向かう道などがあり、観光客も多く、地元民の待ち合わせ場所にもなっている。ローマの都市だったころのフォルムであり、かつては周囲にローマ劇場、公衆浴場、市場などがあったとされる。五世紀ごろには広場傍に教会が建てられた。この広場は長い間穴だらけでひどい状態だったが、一三八五年に初めて舗装されたと伝えられている。一四九七年、ジロラモ・サヴォナローラが「虚栄の焼却」と称して本や贅沢品を燃やしたのもこの広場だった。
一二九九年から一三一四年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、初めは、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。一五五〇年から一五六五年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築された。現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われている。内部は、「フランチェスコ1世の仕事部屋」「五〇〇人大広間」「レオ10世の間」「ゆりの間」などの部屋に分かれている。二〇〇七年には、イタリア文化庁によって、レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が五〇〇人大広間にあるヴァザーリの壁画の裏側に隠されていると発表した。
アルノ川に架かる中世の橋。最初はローマ時代に架けられたが、数度洪水で流され、現在の橋は一三四五年に再建されたものである。この橋の名はイタリア語で「古い橋」という意味であり、フィレンツェ最古の橋。第二次世界大戦で破壊されなかったフィレンツェ唯一の橋である。石造りの三連のアーチ橋(およびその上に建造された、通路の機能も備えた建物)であり、橋の上の建物には川の両岸のヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊も隠されており、これはもともとメディチ家の専用通路として造られたもので、約一キロにわたり、ヴェッキオ宮殿からヴェッキオ橋の上を通ってピッティ宮殿まで一度も地上に降りることなく歩くことができるもので、「ヴァザーリの回廊と呼ばれている。
ドゥオーモとは、イタリア語で、イタリアでの街を代表する教会堂のことを意味している。ローマ以外での司教座聖堂の大聖堂と比定する意味もある。ラテン語が語源であり、神の家を意味しているとされる。ドゥオーモもイタリア全国の幾多存在しているが、一般的にここフィレンツェの聖堂を指すことが多い。聖堂の正式名称は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。
この宮殿は、「フィレンツェ歴史地区」にあり、トスカーナ大公の宮殿として使用されたルネサンス様式の広大な宮殿である。アルノ川の西岸にあり、ウフィツィ美術館とはヴァザーリの回廊で結ばれている。四〇〇年に渡りメディチ家が中心となって収集した絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数にのぼり、現在は美術館として一般に公開されている。収蔵作品の主なものには、ラファエロ、ルーベンス、ボッティチェリ、ティツィアーノなどがある。一九一一年、ヴィットリオ・エマヌエーレ三世によって宮殿は文部省に移譲され、美術館管理局の管轄下に入り、アンナ・マリアの遺言をかなえる形で宮殿と収蔵品は一般公開されるようになっている。
博物館のコレクションは多岐にわたっており、それらは以前メディチ家のコレクションであったものも数多くある。メディチ家のコレクション、特に十六世紀以降のそれは、美術作品や宝飾品に限らず、彼らが「驚異」と思うもの、「未知の世界からもたらされたオブジェクト」などを包括的に収集していたのである。バイロンが著した新大陸(アメリカ)に住む原住民の記述を忠実に再現した木製人形なども特徴的であり、このほか、日本をはじめとするアジア、アフリカ、オセアニアなど地域ごとに分類された資料が展示されている。訪れる人はまばらではあるが、見ごたえのある展示物である。
2023年8月10日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。