spine
jacket

───────────────────────



アウシュビッツ
フォトレポート

文・写真 清水正弘

深呼吸出版



───────────────────────


ホロコーストの背景とは


第二次世界大戦前からのドイツの政党・ナチスがユダヤ人を忌み嫌ったのは、彼らが過激な反ユダヤ主義者だったからである。ナチスはドイツの社会、経済、政治、文化における負の側面は、すべてユダヤ人のせいだというと偽りを唱えていた。

とりわけ、第一次世界大戦(1914年~1918年)の敗北については、その責任をユダヤ人の諸活動に求めたのである。第一次大戦敗北後の経済的、政治的危機への憤りがドイツ社会における反ユダヤ主義の台頭に寄与したのである。

ただ、ナチスが反ユダヤ主義の最初の活動ではない。欧州においての反ユダヤ主義は、歴史の中で多くの形を取りながら、広がってきた歴史的偏見でもあった。その起源は古代にまで遡る。中世におけるユダヤ人に対する偏見は、主に初期キリスト教の信仰や思想、とりわけユダヤ人がイエスの死に責任があるいう神話にもとづいていたのである。

近世になると、宗教的な偏見に根ざした不信感や差別が続いていた。『ベニスの商人』などにおけるユダヤ人への偏見などは諸文学作品の中にも顕著に露わてくるのである。十九世紀には、反ユダヤ主義者は近代産業社会の社会的、政治的悪弊はユダヤ人の責任だという偽りの主張もしている。

そして人種理論、優生学(人種改良学)、社会的ダーウィン説は、これらのユダヤ人に対する憎悪を誤って正当化していくのであった。ナチスのユダヤ人への偏見はそうした歴史的背景も加味された上で発生していくのである。

アウシュビッツへの道

二〇一四年春頃だったろうか。つきあいのある大阪の女性経営者グループと話しをしていたら、アウシュビッツ収容所の話題となったのである。

翌年の二〇一五年は、ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の象徴となったアウシュビッツ強制収容所の解放から七十年という節目を迎えるということであった。

同年(二〇一四年)の二月には、ロシアによるクリミア半島侵略という世界情勢の転換点的状況も発生していた。

そこで、戦争が抉り出していく人間の『負の側面』の極致とも言えるアウシュビッツを見ておこうということになったのである。

そして、二〇一四年七月にポーランドのクラクフを経由して、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所へと向かったのである。

その際に撮影したものをこの本にてレポートしている。



アウシュビッツ強制収容所は、アウシュビッツ第一強制収容所、アウシュビッツ第二強制収容所(ビルケナウ)、およびアウシュビッツ第三強制収容所(モノヴィッツ)の三つの大規模な強制収容所で構成されていた。これらの収容所内にては、百万人を超えるユダヤ人が命を失っている。

収容所の入り口にある看板には「ARBEIT MACHT FREI」と書かれている。意味は、「働けば自由になる」。実際には全く真逆の状況であった。


アウシュビッツ内のガス室にては、ツィクロンBと呼ばれる空気に触れると致死性ガスに変わるというペレット剤が使用されている。

ツィクロンBは最も即効性のある方法であることが認められ、アウシュビッツでの大量殺戮の方法として採用されたのである。

移送者数が最も多い時期には、アウシュビッツ収容所で毎日六千人ものユダヤ人がガス室に送られていたという。








住環境は非常に劣悪であった。この地域は、夏は最高三十七度、冬は最低ー二十度を下回る。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されていたが、収容所として利用された時には薪などの燃料は供給されなかったと言われている。

掛け布団は汚れて穴だらけの毛布(薄手の麻布に過ぎない)のみであった。カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられている。








強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、それらによる死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。

医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。

一方、当時のドイツ政府に組み込まれていた当時のドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。



収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる。公式には重労働者に二一五〇キロカロリー、一般労働者に一七〇〇キロカロリーの食事を与えるという規定があったと言われている。

配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館にはその当時の配給物の一例が展示されている。それは、朝食:約五十CCのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:三百グラムほどの黒パン、三グラムのマーガリンなどであった。



収容所内にては男女問わず頭髪をすべて刈り、消毒、写真撮影、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行われていた。

管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約四十万件とされる。私物は「選別」の段階までに、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収されており、与えられる縦じま(色は青と白)の囚人服が唯一の所持品となる。最後に、人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。

囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている

ドイツ統治下の各地より貨車などでユダヤ人が運ばれてきた。貨車の中は狭く多くの人がぎゅうぎゅう詰めに入れられた。運ばれてきた被収容者は、アウシュヴィッツの貨物駅で降ろされたのである。

貨物駅ではアウシュビッツ・オーケストラなる音楽隊が演奏を奏でて出迎えたと言われている。その後すぐに「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに区分分けされていくのである。

「価値なし」と判断された被収容者はガス室などで処分となっていった。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。




収容された後には、強制労働がが待っていた。主な労働は肉体的消耗を目的としていた。

たとえば、石切り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」がこれに該当する。場合によっては、「午前中は穴を掘り、午後その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業を命じられることもある。

懲罰部隊に組織された被収容者の多くは短期間のうちに死亡したとされる。

アウシュビッツ・フォトレポート

2023年8月10日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

bb_B_00177046
bcck: http://bccks.jp/bcck/00177046/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

jacket