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何のために書くかということは作家にとって大問題であるが、たとえば日本の純文学では、金や名誉のためではなく自己のために書くことがよいことであるとされる。しかし賢治の文学は自己のためにのみ書いたものではない。賢治は自らを救い、そして多くの人を正しい教えに導くために書いたのである。賢治からみれば、純文学は声聞縁覚の文学にすぎないが、賢治の文学は菩薩の文学である。しかも賢治の文学は日蓮と「法華経」の深い理解の上に立っている。
日蓮は、天台本覚論の山や川も草や木も仏性をもっていて、成仏するという思想を強く信じている。生きとし生けるもの、動物も植物もすべて仏性をもっていて、仏になれるというのである。賢治の童話においては、人間ばかりか熊や山猫やよだかのような動物、ひのきや柏の木やダリヤのような植物も人間と同じような心をもっていて、言葉を解し、互いに思いやりながらも修羅の戦いをしている。
賢治の童話は、イソップ童話のように人間を諷刺するために動物を登場させたというものではない。賢治の世界観は近代的世界観ではなく、「法華経」的な世界観である。賢治の数ある童話のなかでもとりわけ名作の一つである「なめとこ山の熊」は、熊を殺して生計を立てている淵沢小十郎という猟師が、その罪を感じて熊にわが身を捧げるという話であるが、小十郎は「法華経」にある、自分の身を殺して他人のために捧げるという薬王菩薩であるといってよかろう。
また賢治の多くの詩のなかでもっともポピュラーな「雨ニモマケズ」という詩は、同じように「法華経」にある、人から馬鹿にされながらも人を愛し、人のために尽くすという常不軽菩薩の生き方を自己の生活の理想として歌ったものであろう。日蓮以外に彼ほど「法華経」の精神をよく理解し、「法華経」に出てくる菩薩の心を自分の心として自分の人生を生き、自分の歌を歌った仏教者は存在しないと私は思う。宮沢賢治は、二十世紀の日本に出現した最大の菩薩であるといってよかろう。このような菩薩がまだ十人ほど出ないと、日本の仏教の復興は不可能だと思う。
賢治の世界には、宇宙に遍在する生命にたいする強い共感が見られる。
彼は多くの童話と詩を書いたが、けっして小説は書かなかった。
それは賢治の世界観と深く関係しているように思われる。
小説は、やはり人間中心の物語である。
賢治は人間だけが世界において特別な権利をもっているとは考えない。
鳥や木や草、獣や山や川にいたるまで、すべてが人間と同じように永遠の生命をもっていると賢治はみなしている。
永遠なる生命を付与されながら争わざるをえない人間の宿命と、
その宿命からの超越、それが賢治が詩で歌い、童話で語る世界である。
そのような世界観を、私はかつては仏教の世界観と見ていたが、
あるいはそれは、仏教移入以前の日本にすでに存在した世界観かもしれない。
そして、この東北の地が、そのような世界観を永く保存し、
それが賢治の詩や童話となってあらわれたと見るべきであろう。
宮沢和樹氏(賢治の弟清六氏の孫)によると、賢治が大事にしていた言葉、それは「行ッテ」でした。
宮沢賢治は、その場所に行って自分の身をおくことが大事であると考えていました。
悲しみに打ちひしがれている現場に行くと、今まで見えなかった世界が見えてきます。
疲れたお母さんのもとへ行ったら、お母さんが笑顔で待ってくれていたのでしょう。
自分が親の所に行って何かしてあげるのではなく、行けば「よぐ来てくれたね」と いうものになりたかつたのでしよう。
親がわが子を両手で迎えてくれる、そこに相手のぬくもりがあるのです。
「行ッテ」というのは自分の身体が行くだけでなく、心が相手に寄り添い、相手に自分が支えられるのです。
「打つも果てるもひとつのいのち」という、「原体剣舞連」の末尾に語られた思想とは、いったい何か。それはたぶん、あらゆる生命は根源においてひとつであるが、それが現実の生においては別々のかたちを取って対立している、だから、根源の一性を恢復し、この世の葛藤や対立からの救済を見いださねばならない・・・といった、方位や水準において読まれてきた。
中路はそうした、現在では「アニミズム」なるマヤカシの装いをもって登場してくるはずの思想に、否を突きつける。天と地を結ぶ宇宙のリズムのなかで、本質的に多数である生命たちが、同じ時の流れを経験する、それが喜びであり、歓喜であり、救済である、そう、賢治のこの詩は語ろうとしていたのだ、と中路は言う。
賢治の東北からの思想への、すぐれた垂鉛がそこにひとつ降ろされたことを、喜びたいと思う。殺す/殺される関係をギリギリの場所で引き受けること、そこから自己/他者や人/自然のあいだの差異を消去するのではなく、あくまでそれを認めながら、敵対的な共生のかたちとして、その来るべきイメージを紡ぎだしていくこと。賢治は、その可能性の糧であり、種子である。
中路の言葉を借りるならば、生の本質的な多様性の喜びにみちた承認と肯定において、賢治の思想を読みぬいてゆくことだ。
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上述の宮沢賢治の詩『原体剣舞連』には、アテルイ(東北蝦夷の雄)と思われる人物のことも表記されている。達谷(たった)とは、現在の達谷窟のことであり、この窟は、延暦二十年(八〇一年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた。正式には、達谷窟毘沙門堂である。
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むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
まっくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面のこけおどし
太刀を浴びてはいっぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎったぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
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この詩を読み直し、上述の赤坂氏の論評も併せて考えると、人と動物の敵対的共生のみならず、人(朝廷側)と悪路王(蝦夷)においての同様の関係性についても、賢治は言及しようとしたのではあるまいか・・。
『二度殺された宮沢賢治とは』
宮沢賢治は、これまでに二回殺されている。一回はほめたたえる人たちの手で、一回は批判する人たちの手で。一九三一年十一月三日の病床のメモ(「雨ニモマケズ」ではじまる)手帖は、ことにそのような賢治の運命を象徴している。
それはまず、世の道徳や修身の先生たちに通俗道徳の水準で、もてはやされることをとおして、たいくつな道徳教育の標語のようなものにされてしまった。ここで一回、賢治は圧殺されている。
感性の鋭い詩人とか思想家たちが、このような賢治の像に反発して、一斉に十字砲火を浴びせた。彼らはこの手帖の中に、賢治の敗北とか詩想の涸渇とか、あるいはかくされたエゴイズムとか、自虐に変形した上昇欲求とかを嗅ぎ出してもう一度ずたずたにした。
けれども賢治が、生涯にわたる苦闘の跡として残した詩篇や童話や断片は、このような道徳家たちや批判者たちの評価をつきぬけて、今も直接にぼくたちのうちに炸裂する洗浄力のごときものをもちつづけている。
山尾三省はこの本の中で、このような賢治の洗浄力に拮抗するじぶんの生き方の洗浄力をもって呼応することをとおして、二度殺された賢治をみごとに生き生きと現代の中によみがえらせている。三省にはじめてこのことができたのは、三省がみずからもまた賢治とおなじに「野の道」をゆくものであり、だから賢治を語るものでなく、賢治と呼応して語ることのできるものであるからである。
宮沢賢治が、山谷に咲くマグノリアの木に寂静印を見た時、彼はそこに法(ダルマ)を見たのである。法とは、もとより普遍の法である。一地方とか岩手とかの法ではない。
けれども法は、普遍性であるが故に逆に何処の誰にでも簡単に眼に見えるものではない。それを見るには、岩手山とか風の又三郎とかの具現物をとおして見ることの出来る人が見るほかはない。
宮沢賢治が、花咲くこぶしの木に寂静印を見、法を見たということは、実は彼は、場という普遍性を見たのである。
中央とか地方とか、田舎だとか都市だとか、あるいは文明国であるとか未開発国であるとか、あるいは仏教徒であるとかキリスト教徒であるとか、あるいはまた農民であるとか詩人であるとかいう、あらゆる対立、相対が消え失せてしまう、今ここのほかならぬ絶対の場のマグノリアの花を、彼は寂静印として受け止めたのである。
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著者である、山尾氏は屋久島にて農耕しながら詩作する人物である。一九七〇年代には、一年間をインド・ネパールを回遊し、当地の日本山妙法寺での托鉢行にも参加している。
山尾氏の言う「賢治にとっての、場の普遍性」とは、空間としての場のみならず、時空としての場においての「普遍性」や「連続性」という時空を超えて通底する心象風景を意味しているのであろう。
環境学者・レイチェルカーソンの文章は、宮沢賢治の宇宙を探るサブテキストとしてとても有用なものだと感じている。特に、「センス・オブ・ワンダー」の次の文章である。
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人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことは、どのような意義があるのでしょうか。
自然界を探検することは、貴重な子供時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。
地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。
たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通じる小道を見つけ出すことができると信じます。
地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘が隠されています。
自然が繰り返すリフレイン=「夜の次に朝が来て、冬が去れば春になるという確かさ」の中には、かぎりなくわたしたちを癒してくれるなにかがあるのです。
縄文の神は、大自然(なかでも山、とくに火山)と祖先であり、その神を祀る祭器が土器と土偶。
この詩人(宮沢賢治)の場合もほぼ同じ。その作品は、大自然および祖先との交感と交流であり、そのための祭器が作品。
宮沢賢治は農民とともに生きることを願いながら、じつは山の民の精神を絶えず訴えかけており、作品に農民感覚はない。
「風とゆききし、雲からエネルギーをとれ」の一行を含む『農民芸術概論綱要』を一貫する思想は、非農民のものである。それは、縄文を通底するものとの共有できる感性である。
また、縄文の芸術は、豪宕(ごうとう)で、同時に優しい。動力学と静力学の二つのつくる祈りの構造体。天空への螺旋上昇吊りあげられ運動をもつ。
この詩人の作品の場合もまったく同じ。『農民芸術概論綱要』のなかに、縄文人の言葉といっていいものを記している。
「まづもろともに、かがやく宇宙の微塵となりて、無方の空にちらばらう」
「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」
心象スケッチというのは、いわば三次元的な空間と、それに伴うもう一つの時間という、我々が体験する日常の現象的な直観世界と、概念的抽象世界の境界を綴るものです。それで、心象スケッチとしての詩の断片が全部連なっていった時に、四次元時空構造的な世界が、記述されるのだということを、賢治が主張しているのではなかろうか、と私は考えるわけです。
ベルクソン的な心象スケッチは、あくまでも現実を記述する詩人としての方法なのだと思います。そして、賢治が心象スケッチで描きたかったのは、先程のか細い、ちいさな橋梁の架かる法華経的世界、存在論的に四次元的時空構造を持つ世界です。
一所懸命に詩人として心象スケッチを記述していけば、それが全部束ねられた時に、それはひとつの四次元的な時空構造の記録、つまり絶対的なひとつの作品として残ると自負したのだろうと思います。
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金子氏の解釈によれば、賢治は「詩文における、各々の心象スケッチ」は、大宇宙の極微な塵の如くであり、その放散された無限の塵に、一筋の光明が差し込む事により、四次元空間への扉が開かれ、全ての関係性がスクラップ&ビルドされてゆく、と考えていた、という事だろうか。
日本が近代化を加速させていく、明治後半から大正時代。その時代に賢治は、物理学的宇宙と仏教的宇宙との新たな融合からの、新世界創出を試みようとしていたのかもしれない。
空間幾何学的な議論を一切とばしてかんたんにいうと、第四次元とは要するに、ぼくたちのふだんみている世界の「うらの世界」のことである。
みえている風景のほかに『うらの世界』(顕現していない世界)があるのだという感覚は、ホピの文化にも古代の日本人の心性の中にも共通してあった。
たぶん世界のいくつもの文化の底を通底する心性のように、さまざまな変異をみせながらひろがっている感覚の地層なのだろう。
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たとえば二次元の紙の表面に生きている虫は、紙の「裏側」があることをしらない。油滴の落ちることなどによって紙が透明になるときに、はじめて裏に描かれたものが、同じこの場所にあるものとして立ち現われる。虫の視覚は、この時『二重の風景』をもつことになる。
同様に、三次元空間を知覚しているふつうのときのぼくたちは、第四の次元、〈風景のうらの風景〉を視ることができない。
異次元の世界が立ち現われるのは、「小岩井農場」やそのほかの詩篇の中で賢治が記録しているように、風景がすきとおる時、世界が透明になる時である。
宮沢賢治は、岩石採取や引率登山などにて、東北各地の山を歩いている。その中でも、岩手山は格別な対象であったらしい。山歩き遍歴の表からも、岩手山へのアプローチ数は圧倒的に多い。宮沢賢治が学生時代を過ごした盛岡市は、市内至る場所から岩手山を眺める事ができる。岩手山山麓の土地は、宮沢賢治の童話や詩作の中に頻出している。小岩井農場、石ケ森、などなど。岩手山が噴火した際に、流れ出た溶岩流についても、詩作として取り上げている。
賢治と山に関して忘れてはいけないのは、「ナメトコ山」であろう。『なめとこ山の熊』に描かれる「なめとこ山」をめぐって調査が進められた結果、明治初期の「岩手県管轄地誌」に「那米床山」「ナメトコ山」という記述があることがわかり、同山が実在のもので位置が特定されたため、賢治の生誕百周年である一九九六年を機に国土地理院が二万五千分一の地形図「須賀倉山(秋田)」に山の名を記したのである。
盛岡での学生時代に、仏教学者で僧侶である島地大等(だいとう)の講話に多大な影響を受けている。賢治がその講話を聞いた場所が、盛岡にある『願教寺』である。紅葉の樹の下には、島地黙雷(もくらい)と島地大等の墓がある。大等は黙雷の娘婿である。島地大等は、大谷光瑞率いる西本願寺主導の、『中央アジア・インド探検隊』の一員としてインド、スリランカを探査している。
宮沢賢治は、島地大等著の『漢和妙法蓮華経訳』に影響を受けたと自ら述べている。影響を受けたのは、著作のみならず、大等のインドやスリランカでの仏教探査話もそうであったはずだろう。
島地黙雷・清水黙爾(もくじ)・島地大等・宮沢賢治
釈迦生誕地であるルンビニ(ネパール)への初期における日本人来訪者。その中でも大きな役割を果たしたのが、大谷探検隊(浄土真宗本願寺派)である。その隊員の一人に、清水黙爾(一八七五~一九〇三)という人物がいた。この人物は、インドにて若死にしてしまっているので、後の仏教界における知名度はほんの僅かなものである。
が、彼はなんと明治初期の仏教革新運動の中心人物である島地黙雷の次男なのである。島地の旧姓が清水である。すなわち清水は父親の旧姓と名前の一文字を継いだのである。また彼は仏教の求道僧でもあるが、同時に深い文学性を併せ持った人物であった。
彼の兄弟である、島地雷夢(彼も父の名前一文字を継いでいる)が編集をした紫風全集がある。紫風とは清水黙爾の(俳号)である。ちなみに、編集をした島地雷夢は、キリスト教徒に改宗している。このことに父親である島地黙雷は晩年相当に苦しんだと伝えられている。清水は、島地黙雷の次男として東京に生まれ、一八九四(明治二七)年五月に、浄土真宗本願寺文学寮に入学し、一八九七(明治三〇)年四月文学寮高等科を卒業している。
その後、真宗本願寺よりインド遊学を命じられ、まずはカルカッタに滞在するのである。そして、明治三十五年、大谷光瑞率いるインド探検隊に加わり、ルンビニなどを調査するのである。その後は、ベナレスで梵学(サンスクリット学)の研鑚に励むが、病に冒され当地で死去する。二十八歳という若さであった。
このベナレスでの梵学研究は、後に第二回チベット潜入前の求道僧・河口慧海に引き継がれていくのである。ここで、奇縁を感じざるを得ないのは、『文学性』というキーワードである。それは、宮沢賢治に繋がっていく奇縁なのである。
また、宮沢賢治といえば、田中智学による国柱会への参加が知られているので、日蓮宗との関係が深いと思われている。しかし、宮沢賢治の実家は熱心な浄土真宗門徒であった。その信徒である父親の家業が質屋であったことに大きな疑問を感じ、賢治は東京滞在中に日蓮宗へと信仰を深めていく。
インド留学途上に夭折した島地黙雷の息子・清水黙爾と、こちらも同じく無名のまま亡くなる宮沢賢治。二人とも信仰と文学に情熱をかけた明治の若者群像である。
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(島地家の人々)
島地黙雷とは=島地黙雷(旧姓:清水、幼名:謙致(かねとも)は一八三八(天保九年)、周防国(現:山口県)佐波郡にある西本願寺派専照寺住職清水円随の四男として生まれた。一八六六年(慶応二年)に同郡島地村妙誓寺の住職となり、姓を島地と改めた。
黙雷は学問、識見、人徳ともにすぐれ、大洲鉄然(おおずてつねん)、赤松連城(あかまつれんじょう)とともに西本願寺における維新の三傑と称せられた。一八六八年(明治元年)、大洲、赤松らとともに本山諸制度の改革を西本願寺に対して建議、改正局を設けて末寺の子弟教育に力を注いだ。
さらに黙雷は、廃仏毀釈で大きく揺らぐ明治初期の仏教界を憂い、時の政府に政教分離と仏教信仰復興を働きかけるのである。これは、彼が長州人であったことも大きく影響している。時の政府要人の多くは長州人であった。
また、一八七二年(明治五年)、本山の派遣で仏教徒としてはじめてヨーロッパ各国を視察し、先進国における宗教事情を学んでいる。仏教は明治維新後、新政府により従来の封建的特権を奪われ、未曾有の危機にさらされていた。これに対して黙雷は仏教復興を目指して奔走、その地位を確立させることに尽力した。
一方、東京麹町に女子文芸学舎(現:千代田女学園)を開設するなど女子教育にも携わり、その活動は宗教だけにとどまらず、社会事業や女子教育など多方面にわたった。一八九二年(明治二十五年)、数え年五十六歳の時に盛岡市北山の願教寺第二十五世住職となり、一九〇五年(明治三十八年)に奥羽開教総監の役名で退隠した。盛岡に着任した黙雷は一九〇八年(明治四十一年)に夏期仏教講習会を開催するなど仏教の布教に努めた。
島地大等とは=島地大等(旧姓:姫宮、幼名:等)は一八七五年(明治八年)十十、新潟県頸城(くびき)郡三郷(さんごう)村(現:新潟県上越市)西松之木の勝念寺の住職姫宮大圓、操子の次男として生まれた。四年間の上京をへて、一八九三年(明治二十六年)に京都にある西本願寺の文学寮(現:龍谷大学)に入学した。
大等は一八九七年(明治三十年)には大学林で、一八九九年(明治三十二年)には本願寺最高の学問所大学林高等科へと進学している。大等は同宿の学生にもいつ寝ていつ起きているのかわからないほど学道に励んだ。そのため、大等の学才と謹厳なる様子に対し周囲は大いに嘱望し、一九〇二年(明治三十五年)一月には、明治仏教を牽引し盛岡で願教寺住職を務めていた島地黙雷に見込まれその法嗣(ほうし)となった。
のちには黙雷の跡を継いで願教寺住職となっている。同年十月にはインドや中国の仏教史蹟を調査、帰国後は比叡山及び高野山にて諸古蔵資料の研究に没頭した。また曹洞宗大学(現:駒澤大学)、日蓮宗大学(現:立正大学)、東洋大学などで教鞭をとり、一九二三年(大正十二年)からは東京帝国大学にてインド哲学を教えている。一九〇八年(明治四十一年)からは義父黙雷とともに盛岡で願教寺夏季仏教講習会を開催した。この講習会には、宮澤賢治やのちの刑法学者小野清一郎らが出席している。
島地雷夢とは=近代日本における仏教革新運動のリーダーで浄土真宗本願寺派僧侶として名高い島地黙雷の長男として生まれ、旧制第二高等学校(仙台市)学生時代に吉野作造、内ヶ崎作三郎らと女性宣教師アニー・S・ブゼルに導かれてキリスト教に入信した人物である。
この建物は、日本最初の高等農林学校として、明治三十五年(一九〇二)に創立された盛岡高等農林学校の本館として、大正元(一九一二)年に建てられている。青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築物である。平成六年(一九九四年)には、国の重要文化財に指定され、ほぼ設立当時の状態に大修復が行われ現在に至っている。宮沢賢治は大正四~九年の間、本科生および研究生として在籍している。色白で、人を引きつける独特の笑顔のまじめな学生で、成績良く、級長、特待生、旗手などを務めたといわれている。仏教に関心を持ち、短歌などもよくし、文芸同好会(アザリア会)や校友会での活躍を通し、山野を跋渉しては自然との交感も重ねる学生であった。
清養院は宮沢賢治が盛岡中学時代に新舎監排運動で退寮を命じられた際、盛岡中学の書道の教師、山口剛介の紹介により、下宿をしていたお寺である。現在、知客寮と呼ばれている十二畳半の部屋で二ヶ月の間下宿していたと伝えられているが詳細は不明である。清養院の山門向かって右には「天気塔」が安置されている。近年、山門前の「天気塔」が宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の原点だという説を唱える賢治研究者もいる。
山号は「瑞鳩峰山」と号し報恩禅寺と称する。本尊は釈迦如来。境内にある五百羅漢で有名である。大光山聖壽禪寺、大寶山東禪寺、寶珠盛岡山永福寺、雍護山無量院敎淨寺とともに盛岡五山(盛岡五個寺とも)の一つとされる。宮沢賢治は、高等農林の学生時代に、たびたび盛岡の北山にある願教寺の島地大等の講義を聴き、同じ北山にある報恩寺では参禅したといわれている。秋の紅葉の名所でもある。
イーハトーブというのは、宮沢賢治が、現実の岩手の風土に立脚しながら、心のなかにさまざまと思いえがいていた夢の世界(ドリームランド)である。このイーハトーブ館は、賢治の夢みた世界への、頼りになる旅行案内所といってもよいだろう。賢治に関わるさまざまなジャンルの芸術作品や、研究論文といった形で発表された現物やコピー等を収集している。賢治世界に関心のある人であれば、誰でも自由に、触れたり、見たり、利用したりできるようにされている。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。…」。童話「なめとこ山の熊」はこう書き出される。ナメトコ山は明治時代の行政文書に記述されているものの、その場所が特定できないでいた。童話の舞台は豊沢川源流一帯の山々の総称かと思われていたが、地元の研究家などの調査によりその位置を、それまで無名の八六〇mの山に比定され、一九九六年には賢治生誕百年祭の年に国土地理院の地図に記載されることとなった。所々藪に覆われているものの登山道もつけられ、山頂まで登ることができる。
ポランの広場にある。宮沢賢治が羅須地人協会時代の教え子の依頼で花巻温泉遊園地のために設計したが、経済的、技術的条件で実現できなかったものを当時の設計書と手紙をもとに再現したもの。南斜花壇は南域の唐草模様を取り入れ、蔓草の茎を園路に果実を小円形花壇に見たて、相対象にデザインされている。また、日時計花壇は、文字盤の数字を花で描いた日時計を主にした異国風の模様花壇である。
賢治が法華経を埋納しようとした三十二の山「経埋ムベキ山」(きょううずむべきやま)のひとつ、胡四王山の中腹にあり、多彩な活動をした賢治の世界をうかがい知ることができる施設である。スクリーン映像や関係資料の展示、作品に至る創作過程などを紹介されており、賢治ワールドに浸ることができる。昭和五十七年(一九八二年)に、開館したこの記念館は、多彩なジャンルに及ぶ宮沢賢治の世界との出会いを目的とする施設である。
宮沢賢治童話村は、今にもジョバンニや又三郎、山猫がでてきそうな賢治童話の世界で楽しく学ぶ「楽習」施設である。「銀河ステーション」、「天空の広場」、「賢治の教室」、「妖精の小径」、「ふくろうの小径」、「山野草園」そしてメインに「賢治の学校」が設置されている。賢治の学校の中は、「ファンタジックホール」、「宇宙」、「天空」、「大地」、「水」の五つのゾーンに分かれています。また、ログハウス展示施設「賢治の教室」では、童話に登場する「植物」「動物」「星」「鳥」「石」に関する展示がある。童話村の入口には銀河ステーションがあり、ここからファンタジー世界が始まっている。
高村光太郎(一八八三年~一九五六年)は、一九四五年五月に東京の自宅兼アトリエを空襲で失い、宮沢賢治の父の宮沢政次郎および実弟の宮沢清六を頼って花巻の宮沢家に疎開した。しかし、宮沢家も同年八月に花巻空襲により焼失したため、同年秋から小屋を設けて住むこととした。それがこの高村山荘である。以来、十和田湖畔の「乙女の像」制作のため当地を離れる一九五二年までの晩年の七年間を独りで過ごしている。この生活には戦争中に戦意高揚のために多くの詩を作ったことへの贖罪の意味があったとされる。内部は、障子に書かれた日時計、厠の「光」という文字の明かり取り、般若心経の文字や光太郎の自画像などに至るまで、光太郎が生活した当時のまま保存されている。
2023年8月10日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。