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『関係性の“場”から湧きいづる幸福感とは』
私が初めてこの国を訪れたのは、一九八〇年代後半。二十歳代後半だった。それ以来、地球の俯瞰的定点観測地の一つとして設定し、これまで十数回の渡航訪問をしている。ブータンはヒマラヤ南斜面に位置しており、北にチベット(中国)、東西及び南でインドと国境を接する陸封国である。
日本のように国境が海に接することなく、北は『世界の屋根・ヒマラヤ山脈』、南は『亜熱帯のジャングル』という自然の障壁に加護されている。国土は九州くらいの面積で、人口も日本の約二百分の一程度の小さな王国である。
三十年弱にわたりこの国の変化を見続けてきた者として言えることは、ブータンは、『近未来へ向けたホリスティックライフ構築の壮大稀有な実験場』ではないだろうか、ということである。
「日本人はミラクルである」
三十数年ほど前にこの国から来日したチベット仏教の僧侶が私に言った言葉である。広島に来た彼は、原爆投下直後の写真と、現在の街の景観を見比べながら頭を悩ませていた。悠久の自然景観・ヒマラヤを背後に生活するブータンの人にとっては五十年や六十年くらいで、街の景観や物事の価値観は変わらないのだろう。
当時のブータンの首都ティンプー近郊でも、庶民の家にはテレビなどなく、バザールでの会話や祭りの時などが貴重な情報交換の場でもあった。現在では、物質文化が徐々に浸透しているが、学生や公務員は日本の着物に良く似た民族衣装を着て、学校生活や執務時間内の仕事をしている。
寺子屋のような田舎の教室では、伝統的な文化や価値観がゆっくりとしたリズムの中で、次世代に受け継がれている光景を目にするのである。
先代の王・ジグメ・ワァンチュック前国王が掲げた、国民総幸福(GNH)という、近代化への速度を抑えた開発施策理念は、第九次五か年計画(二〇〇二~〇七年)を経た上にて、二〇〇八年に発布された成文憲法下でその方針が明文化された。
その柱は四つ(① 経済発展、② 文化的遺産の保全と振興、③ 環境の保全と適切な活用、④ よい統治)。この四つを簡潔に言えば、『山川草木・森羅万象を含む“風土”との共生の上に、先人らが築いてきた伝統的価値観』の基底を忘れることなく、それぞれの時代に対応させていく為に、政治・経済という外的システムを整備していく。ということではないだろうか。
その成文化された憲法を縦軸とし、輪廻転生というチベット仏教の時空を横軸とする、世界で唯一無二の『幸せの座標軸』を設定している実験国家、それがブータンではないかと思う。ブータンでは様々なものが『回旋』する。お祈りの際に廻すマニ車、お祭り時に鹿の面などを被る仮面舞踏、仏塔や聖地巡礼での左廻り歩き、そして善悪所業の輪廻という概念。
何事も直線的・二元的な動きでなく、螺旋型のリズムが精神の深層部分にあると言えるかもしれない。また、ブータンでの伝統的着物は、見事なまでの染色デザインが施されている。その手織りの現場に立ち会うと、ブータンの人たちの、死生観や宇宙観、幸福観といった目には見えないものが、魂の文様として織物の中に紡ぎ込まれていくかのようだ。
伝統的価値観というものは、口頭や文書で伝わる一方、生活のなにげない営み風景の中に螺旋のリズムで織り込まれていくようにも思えるのだ。ブータン語(ゾンカ語)で『セムガェ=(心が晴れ晴れとする)』ということについて話そう。ブータンの庶民の人たちに、『どんな時にセムガェを感じますか?』との質問に、
『織物をしている時』
『娘の顔を見ている時』
『親の手伝いをしている時』
『バザールで客と話す時』
『久しぶりに友と会う時』
そして『全ての生き物の安寧を祈る時』
などの答えが返ってきている。
即ち、「関係性の中で、生きている手応えを感じる時」に、セムガェを覚えているのだと感じるのである。誰一人として、個人の所有欲の為に、何かをしている時ではないのである。物欲などの我欲の達成時ではなく、関係性の“場”の中にこそ幸福感の源泉があることをブータンの庶民は知っているのだろう。
そして、その関係性の”場“とは、なにも現世上の人間関係だけではないのだ。輪廻転生という回旋する時空により結ばれる、過去・現在・未来という生命連鎖の”場“も含まれているのであろう。さらに、その”場“は、人間という世界に終始することなく、生き物を含め森羅万象との関係性とも繋がっているのだと思う。
そのことは、成文化された憲法の中に、『国土の六〇%以上を森林で保全せねばならない』という一節が存在することで証明されている。その自然との共生に基軸をおいた伝統的価値観は、長寿を描いたチベット仏画(タンカ)にシンボライズされてもいる。
この長寿絵は、WWFとブータン王立自然保護協会(RSNP)が発行した環境教育のテキスト冊子の表紙にもなってもいる。これらの長寿絵には、生命が長く続くことを祈願し、鳥、鹿、木、岩、水、老人の六つの必須アイテムが描かれている。
自由を祝福し不死である鳥はヒマラヤを渡るオグロヅル、鹿は平和と調和を現し、木は成長と繁栄、岩は不動の象徴である。老人を長寿のシンボルとし、水が生物界の生命の源であることを示し、その循環に関わる人のあり方を教えているのである。
森羅万象との共生の中で、『手ごたえのある至福感』を体得しながら安寧の長寿人生を送る・・。
この壮大稀有な『ホリスティックライフ構築』への実験を取り組んでいる、ブータンの開発理念と理想像は、すでに中世に描かれた長寿絵の中に塗り込まれていたのである。
「貴方は今の生活に満足していますか?」良く聞く質問である。筆者はこう聞かれたら間違い無くNoと答える。まだまだ生活にも知識欲にも十分に現状は充足感を与えてくれていないからである。しかし、「貴方は今、幸せですか?」と聞かれたとすれば、間違いなくYesと答えるであろう。今の筆者の生活は日々充実し、発見の連続だからである。まだまだやりたい事が多く、時間が足りないと思える事は幸せ以外の何者でもないと思う。
物質的(名誉)に満足した状態は長続きせず、その当初の目標以上のもの(所有)を望む事で新たな満足を得ようと人間は行動する。それは有限の資源や自然環境の社会では破滅的な結果を招くのではないであろうか。まさに満足は幸福と正比例しないのであろう。
結局、人間は何を持って幸福と感じるのであろうか?物質的な充足を第一目的としていた時代は、その物質的なものを得るために努力する過程やその物質を得た喜びなどの心の動きは幸せを感じるのに十分であったであろう。
しかし、今の供給が需要を創造する時代にはこの考え方には自ずと限界があるように思える。既に充足した消費者に対して危機感や不安感をあおり、新たなニーズを生み出し、その充足によって人々が安心という心の動きをえる。
この手法によれば一時的な幸福感を得ることができるであろうが、もうこの手法は限界ではないか。そろそろ消費拡大型の思考からの脱却が必要ではないであろうか。人間は思考する動物である。思考こそは無限で、思考にまつわる満足や気づきこそ幸福感に繋がるのではないであろうか。
この思考による心の動きこそが幸福を感じる元になるとしたら、それこそ無限に拡大し続けるものではないであろうか。しかし、思考にはジレンマやストレスは付き物である。これを乗り越えるだけの精神力が無いと思考による幸福感は得られないであろう。


● シャプドゥンによる建国以前(~十七世紀前半)
ブータンの地が初めて統一され、国家となったのは十七世紀になってからのことである。しかし、それ以前からブータンには人が住み、文化が存在していた。七世紀以降、チベット文化圏の南端の国として、チベットから大きな影響を受けるようになった七
ブータンの伝承では、七世紀前半には、チベット(吐蕃)のソンツェン・ガンポ王(五八一~六四九)が、キチュ寺(西ブータンのパロ県)などの仏教寺院を建立したと言われている。また、タクツァン寺(西ブータンのパロ県)など、八世紀にブータンを訪問したとされるインド人ヨガ行者パドマ・サンバヴァ(グル・リンポチェ)に帰される十一寺院も存在する。
チベットでは九世紀に王朝が崩壊し、仏教も衰退していった。十一世紀以降、チベットで仏教が復興していく中、チベット仏教の諸宗派が、南隣のブータンの地で積極的に布教を始め、荘園化を進めていった。三千メートルを超えるチベット高原では得られる資源に限りがあったため、米・木材・紙・薬草・染料・竹製品などの産物が豊かなブータンは、チベット側にとって大変魅力的な地域であった。後にブータンの国教となるドゥク派は、十三世紀にブータンに進出を始めた。
● ドゥク派政権時代(十七世紀前半~一九〇七年)
中央チベットの中南部に拠点を持っていたドゥク派に変革が起こったのは、十七世紀前半のことである。ドゥク派史上最高の学僧ペマ・カルポ(一五二七~一五九二)の死後、二人の化身候補が現れた。一人はドゥク派第十七代座主のシャプドゥン・ガワン・ナムギェル(一五九四~一六五一)、もう一人はパクサム・ワンポ(一五九三~一六四一)であった。ツァン地方の摂政が後者を正当な化身と認定したことを受け、シャプドゥンは争いを避けるためにチベットからブータンへと拠点を移すことになったと言われている。
シャプドゥンがブータンに移動すると、ラマ五派と呼ばれる現地の仏教勢力との軋轢が生まれ、攻撃を受けることになった。それらの勢力と戦い、撃退していく中で、シャプドゥンはブータン全土に勢力を拡大していった。シャプドゥン率いるドゥク派は、ブータンの地を統一し、それまでヒマラヤの一地域にすぎなかったブータンが、初めて統一国家となった。
以後、ブータンは現地の言葉で「ドゥク派の国」(ドゥクユル)と呼ばれている。なお、ブータン(Bhutan)という呼称は、サンスクリット語のボーターンタ(Bhoṭānta, チベットの端)の発音がヒンディー語化され、英語化されたものである。以後、長期にわたりドゥク派による宗教政権が続いていった。
● ワンチュク王朝時代(一九〇七年~)
十九世紀には、イギリスやインドの干渉により、国家運営が不安定となり内乱が多発した。そうした状況下で、中央・東ブータンの領主であったウゲン・ワンチュク(一八六二~一九二六)がブータン全土を統一し、一九〇七年に初代ブータン国王となった。
ジクメ・ドルジ・ワンチュク第三代国王(一九二九~一九七二)の時代には、近代化と国際化が進み、一九七一年にはブータンは国連に加盟した。ジクメ・シンゲ・ワンチュク第四代国王(一九五五~)の時代には、近代化と国際化をさらに推し進め、国民総幸福(GNH)政策が開始され、ブータン王国は世界の幸福政策をリードする存在となった。
ジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュク(一九八〇~)が第五代国王の即位後、二〇〇八年には、ブータン王国憲法が制定され、国政選挙も始まり、絶対君主制から立憲君主制へと移行し、現在に至る。
標高約三一二〇mの垂直に切り立った岩壁に建てられているチベット仏教信仰の聖地であり、トラの巣という別名も存在する。僧院は一六九二年に建築が開始され、一六九四年に建立されている。
タクツァンは「雌トラの隠れ家」を意味し、パドマサンバヴァが雌トラの背に乗ってシンゲ・ゾンからこの地に降り立ったと信じられている。
皇帝の元妻であったイエイシェ・ツォギャルは雌トラへと姿を変え、パドマサンバヴァをチベットから現在のタクツァン僧院の建つ地まで背負って運んだとされている。
パドマサンバヴァはこの地にある洞窟の一つにて瞑想を行い、八つの化身として現れたことで、この地が神聖な場所となった。その後、この地は「トラの巣」と呼ばれるようになった。
十一世紀以降、ミラレパやダンパ・サンギエ、チベットでのヨギーニであったマチク・ラプドゥン、タントン・ギャルポなど多くのチベットの聖人や著名人が瞑想を行うために洞窟を訪れてもいる。
※ 僧院内部での写真撮影は禁じられている。
パロゾン要塞は、「要塞の宝飾品の山」を意味するリチンポンゾン要塞とも呼ばれている。ブータンで最も有名な寺院の一つであり、ブータンの古典的な建築の代表でもある。国際線空港の滑走路から程好い距離に位置しており、ブータンに空路入国の際には、最初に目に入るのが、この要塞である。
かつてはパロ渓谷を守るための要塞として使用されていた。ブータン映画「リトルリビングブッダ」が撮影された場所であり、トニーレオンとカリーナラウのウェディングドレスが撮影された場所でもある。
パロにあるブータン最古のチベット仏教寺院である。チベット初の統一王国である吐蕃 (とばん) を建てたソンツェン・ガンポが、悪霊の力を封印するために七世紀に創建した寺院の一つであるという伝承が残っている。三層の屋根をもつ新旧二つの堂があり、旧堂には釈迦や観音の仏像、新堂にはパドマサンババの像が安置されている。ソンツェン・ガンポはそれまでチベット全域に大きな力を持っていたポン教を仏教に変えるために、ポン教の神を悪霊とし、その体の一〇八のツボにあたる場所に寺院を建立したとされている。キチュラカンはその左足にあたる部分だと言われている。
パロからハに行く道にある標高三九〇〇mの峠である。ブータンの国道では最高地点であり、周辺では初夏にフラワーウォッチングを楽しむことが出来る。ブータンの国の花であるブルーポピーをはじめ多くの高山植物が咲く場所としてその名が知られている。
また、峠周辺からの展望も秀逸であるので、時間をとって散策を楽しむことができる。ブータンを代表する高峰群の展望も可能である。特に、秀峰・チョモラリは「女神の山」を意味しており、西部チベット国境にある標高七三一四mの山でである。
チベットの高僧タントンギャルポが造った「鉄の吊り橋」と、その先にあるチベット寺院、タチョ・ラカンである。高僧・タントンギャルポ(西暦一三八五年~西暦一四六四年)は、仏教の達人、施法師、ヨギであり同時に、医師、鍛冶屋、建築家、そして先駆的な土木技師とも知られていた。彼は、チベットとブータンの周囲に五十八本もの鉄鎖吊り橋を建設したと言われており、そのうちのいくつかは現在でも使用されている。また、チベットのチョン・リウォチェにある偉大なクンブムなど、珍しいデザインの大きな仏塔をいくつか設計している。デルゲにゴンチェン僧院を設立。そして、ラモと呼ばれるチベットオペラのスタイルの父であると考えられている。
ブータンの首都ティンプーにある城塞である。市街北部、ウォン川西岸に位置している。城の内部には、中央政庁をはじめ国王の執務室、国会議事堂など国内政治の中枢機関がありと同時に、国教であるチベット仏教ドゥルック派の総本山としての僧院もある。
一九五〇年代、第三代国王ジグミ=ドルジ=ワンチュクにより建造されていおり、釘を一本も使わない木組みだけによる伝統建築で建てられているのが特徴である。
また、この城内に入域する際には、ブータン人は正装することが義務付けられている。
首都ティンプーにある仏塔で、主要なロータリーとインド軍病院の近くの市内南中部のドゥブー・ラムに位置している。ドゥク・ギャルポ三代目ジグメ・ドルジ・ワンチュク王(一九二八~一九七二 年)を讃えるために、一九七四年に建てられたこの仏塔は、金色の尖塔と鐘があり、市内のランドマーク的建造物となっている。
また、同時にブータンで最も目立つ宗教的名所として広く知られていおり、一年三六五日を通じて参詣者が絶えない場所でもある。この仏塔は他の仏塔とは異なり、人間の遺骨を祀ってはいない。
首都ティンプー入口近くの左手の山上にある、黄金色に輝く釈迦の巨大な像である。ここは市街の南側の尾根に位置し、ティンプーを見守っているかのようなこの大仏が建つ場所がクエンセル・ポダン。地元の人々はブッダ・ポイントと呼んでいる。王政百周年を記念して二〇〇七年から開始されたプロジェクトであるが、中国の全面的な支援を受けており、噂では大仏の眼の中には監視スコープが備えられており、王宮方角をウォッチしているとか・・。大仏像自体は二〇一〇年に開眼供養が行われ、高さは約五一メートル。鎌倉大仏の像の大きさは約十一なので、どれだけ巨大かがわかる。
ブータンのプナカにあるプナカ地区の行政の中心地である。一六三七年から一六三八年に初代ザブドゥン・リンポチェ・ガワン・ナムギャルによって建設されている。ブータンで二番目に古く、二番目に大きいゾンであり、ブータンで最も荘厳な建造物の一つである。ゾンには、カギュ派南部ドゥルクパ系統の神聖な遺物が納められている。ランジュン・カルサパニ、ガワン・ナムギャルの神聖な遺構ともなっている。このゾンは、首都がティンプーに移転される一九五五年まで、ブータンの行政の中心地であり、政府の本拠地であった。
ブータンでは、伝統的医療の思想や技術を継承しようと国家レベルで取り組まれている。「幸せ度」を測る指標の一つに「健康」という座標軸がある。
ブータン人にとっての健康概念とは、現在の日本のそれとは少し趣きが異なる。最先端医療技術を駆使しながら健康寿命を延ばすことに躍起になるのではなく、いかに「安寧な日々を過ごす」事ができるかを追求することに重きを置いている。
チベット仏教やチベット伝統医療に基づく健康観や医療観、そして死生観などは、一〜二ケ月毎に刷新されるコンピュータのプログラムのような変化スピードは持ち得ない。半世紀くらいを単位とする、緩やかな社会の変革速度を、意識的にブータンの人々は維持しようとしているように感じるのである。
ブータンでは,医療サービスは旅行者も含めて無料(一部,個室料金やJDWNR病院の特別専門医外来,私立診断センターは有料)で提供されている。ブータンの医療機関では,伝統医学科も内科や外科などの西洋医学による診療科と同様に確立していることが特徴の一つでもある。
2023年8月11日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。