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  この本はタチヨミ版です。
















 はじめに
 この『アマゾンPOD版・聖ニコラスの機械式自動車』は、二〇一八年にBCCKや楽天、紀伊国屋等の主要デジタル・ストアで、ペーパーバックとデジタル版で発行した同名作品の追記・改訂版になります。
 それから五年ほど経ち、その間に新型コロナ禍やウクライナの戦争などもあり、世の中は知らず識らず変貌を遂げたように思っています。また、冬は厳冬、夏は酷暑と、気象異常がより一層深刻となり、二酸化炭素を出すガソリン車は悪の権現のように忌み嫌われているようです。
 そうした世の趨勢は必然だと思いますが、一方で、現時点で「悪」とレッテルを貼られたガソリン車は、文明史では評価してはいけないという風潮になってくるような気がしています。
『聖ニコラスの機械式自動車』では、鉄の塊のような自動車(機械式自動車)が築いてきたある種の文化を愛でる人たちを描いています。ノスタルジーではなく、私たちが失おうとしているものを愛する人たちです。お読みいただき、楽しんでもらえればと願っています。中嶋雷太
                               

 プロローグ ブレットウッドにて

 これは、長年の友人から聞いた話だ。
 ロサンゼルスのビバリーヒルズから海岸に向かうとブレントウッドという街がある。
 その街にあるイタリア料理店でその友人と食事を楽しんでいたときの話だ。

 彼は、元映画プロデューサーだ。
 一九七〇年代のハリウッドで何本か映画を作り、今は引退生活を楽しんでいる。
 代々裕福な家庭で育った男だが、彼の映画に「甘さ」はない。
 振り幅激しい政治の時代に、民主主義のあり方を力強く世に問う映画を、彼は作った。
 ある作品では、かなりシリアスな政治的題材を扱った。
 難しいテーマだが、劇場にやって来た観客の耳目をそのドラマに溶け込ませ、そして楽しませる力量に「これがプロの作り方か」と感服したことがある。まだ、彼に出会っていないころだ。
 その作品は世界じゅうで劇場公開され、何億人もの観客が絶賛し数多くの賞に輝いた。
 ある映画アワードの授賞式のレッドカーペットで撮られた彼の写真がある。
 満面の笑みで達成感に溢れているが、どこか陰を宿しているようにも見えた。

 「あのとき、どう感じていた」のかと問うと、彼はためらうことなく「ゆっくり、ゆっくりだ」と応えた。何事も突然変わらない。人の意識というのは何世紀もかけ変わっていく。突然変わったと思ってもそれは根のない変化で、劇薬で無理強いした変化だ。ムーブメントに乗っかって興奮する輩ばかりで、本質を落ち着いて考えることはない。考えたフリはするだろうが。映画に込めた政治的メッセージを消化し、やがて排泄する。「あのとき。レッドカーペットを歩いていたとき、それが分からずにイライラしていたんだと思う。それでも、何か残りはしたかもな」と、温めたミルクをエスプレッソに注ぎ、彼は小さなティースプーンを手にとった。
 麻のシャツにデニム、足には白のコンバース、無精髭だが、羨ましいほど様になっている。気負いなど一切ない。心に照かりはないが、枯れているわけでもない。
 偽りなく、自分の足で自分の人生を歩む男だ。

 彼の家のテラスで夜の海を見ていたとき、「ちょっと待ってくれるかな」と言い残し、彼はワインセラーに消えて行った。マリブの高台から見渡す夜の海は、排気ガスまみれのロサンゼルスにいるのを忘れさせた。感謝祭が終わりクリスマス・シーズンに入ると街の喧騒は高まるが、太平洋から押し寄せる波音が市街地の騒音を陸へと押し返し、静かな濃紺の波間に半月が漂っていた。
 しばらくすると、ワインボトルを両手に満面の笑みで彼が戻って来た。
 この夏、フランス南部で手に入れたワインで「開けるのを楽しみにしていた」と、子供のような笑みを零していた。

 「きっと良いワインだ。さあ、行こう」と目配せし、テーブルに無造作に置かれた車のキーを手にすると、彼は玄関先に停めた二人乗りの古いメルセデスに乗り込み、クロアチア人が店主だというイタリア料理店へ私を連れ出した。

 金曜日の夜。
 ハリウッド映画関係者が多いその店は、食事とワインを楽しむ大人たちが集っていた。
 テレビや映画で見知った顔もあるが、知らぬ顔をするのがこの店のルールだ。
 もちろん、プロデューサーだった彼は何人かの知り合いと目で挨拶を交わしていた。
 ハリウッド・メジャー・スタジオが劇場配給する映画の製作費は一作品何十億円もかかるが、大成功する作品は限られている。けれど、彼らは失敗しようとも前向きだ。夢を追いハリウッドにやって来て切磋琢磨の日々を送り、大成功を夢見る。それが一世紀以上も続いている。
 彼らの映画は、世界の観客に観てもらうのが大前提だ。
 そして、可能ならば、百年は持つ作品を作ろうとする。
 それは著作権期間を超え人々に喜ばれる作品であり、権利料が入り続ける資産になる。
 だから、なまじかな能力ではない。中途半端な能力だと、すぐに弾き出される。
 良い映画を作りたいという願いもあるだろうが、名声を得て金儲けをし、チヤホヤされたいという心根が潜んでいるのも確かだ。それを卑しいと受け取るかどうかは人による。私はその動物的な勢いのようなものが好きだ。何であれ、世界の観客を魅了しようとする姿勢が好きだ。
 以前、あるメジャー・スタジオの、彼の知人のオフィスに顔を出したことがある。そこでは、ある映画が開発段階だった。廊下を歩いていたときだ。ある会議室の扉が開いていて、壁には何百枚もの絵コンテが貼り付けられていた。

 「これは、すごいね」
 「そうか?こんなもんだ」
 「こうやってカット割りとか考えるんだ」
 「そうだね。いわゆる絵コンテというやつだ。このカットをあっちだこっちだと、色々考えあぐねるわけだ。何日もかけて」

 「紙と鉛筆さえあれば映画が練れる」のは真実だ。
 予算がないから映画が撮れないと言う者もいるが紙と鉛筆さえあれば映画が練れる。
 何年かのち、その作品は中規模のヒット作品となり、DVDの付録として開発段階で使われた何百点もの絵コンテが収録されていた。私は驚き喜び、テレビ画面でその絵コンテをじっくり楽しんだ。
 絵コンテを描き議論を重ねたその先に、全世界劇場公開がある。全世界に張り巡らされた劇場配給網という血管に濃い血流がドクドク流れ、上手くいけば何百億円もの現金が後を追う。ハリウッドの映画人たちに接すると、鬼気迫る熱意と苦渋、失敗を恐れぬ闘争心を胸奥に抱いているのが垣間見える。世界中の映画好きが熱狂し迎い入れる映画は生半可な仕事では作れない。何を言われようと、彼らは黙々と紙とペンを持ち、絵コンテを描き壁に貼り付け、あれこれ映画を練りこむ。

 彼もその一人だったはずだ。
 闘争心剥き出しの日々を送っただろう、時折見せる鉈のような眼差しは、私の瞳の奥底をいつも見据えている。

 「この夏、南フランスに行ってきてね。あ、その話はしたよな」と、彼は真剣な眼差しになりワイン・オープナーを手にとって一本目の赤ワインを開けた。
 「タンニンが強いが、もう少しすれば良い感じになる」とテイスティングを終え、デカンタージュする前にその濃厚な赤ワインを少し注いでくれた。
 濃厚な赤ワインが苦手な私は、ワイングラスを恐る恐る口に運んだ。
 口に含むと強烈なタンニンの苦味が襲ったが、やがてその荒々しい苦味がスッと消え、軽やかで潤沢な香りが口中に広がった。まるで彼の人生を物語るようだった。

 強烈だが、爽やかな人生。
 タイミング良く出されるイタリア料理を摘み、腹底からの酔いに漂いながら、彼の南フランス滞在記から始まった話は、クロアチア人の店主が開店するまでの苦労話やルーマニアのワインへと移り、やがて古い自動車の話になった。
 彼のガレージには何台かの自動車が眠っている。
 「近ごろは、あのメルセデス、古い二人乗りが好きでね」という。UCLAの入学祝いとして父親から譲り受け何十年も手をかけ、未だに現役だ。
 近ごろの無駄のないメルセデスも良いが、クラッチがカチリと入りエンジンが生真面目に吹き上がり車体を前に進める感じは「助手席に座っていても気持ち良い」と言葉を挟むと、彼は深く頷き、一拍置いて「そういえば」と機械式自動車の話を突然始めた。

 「そうだ、レイ」
 「え?」
 「面白い話があるんだ」
 「面白い話?」
 「そう。機械式自動車の話なんだ」
 「機械式自動車って?」
 私は、聞き慣れぬ言葉に戸惑った。

 「それは、だな」と、彼は赤ワインの香りを深く嗅ぐと、悪戯っ子の目で、機械式自動車の話を静かに語り出した。

 イン・ニューヨーク

 今朝早く、荷物が片づいた。

 大学院を修了し、ニューヨークでの仕事が決まり、荷物整理を始めたのが夏に入ったころだった。西海岸から東海岸へ、大陸を横断する引越しだが実感は湧かなかった。
 ニューヨークには何度か行ったことはあるが、観光という名の移動で気楽なものだった。
 ニューヨークに「住む」実感など住んでみないと分からないと自分を納得させると気が楽になり、最後の夏休みを満喫しようと頭を切り替えた。
 大学の寮を引き払うや、友人とキャンプに行った。森に囲まれた湖畔でぼんやりした時を過ごした。何も考えることのない日々が過ぎていた。それに飽きると、休む間も無く東南アジアへ旅立った。一度は巡って起きたかったベトナム、タイ、マレーシアやシンガポールの足早な旅だった。蚊や蚤に刺され噛まれ発熱や下痢を起こす放浪の旅だったが、結構楽しんだ。
 そして、気がつけば、時が経っていた。
 遊び呆ける者の時間は、実直に生きる者の時間より、物理的に短いようだ。
 アリとキリギリス、象とネズミだなと東南アジアからの帰りの機内で独りごちていた。
 実家に戻り、二十数年間部屋に溜め込んだあれこれを前にすると、何から手をつければ良いか、呆然となった。
 判断基準は、明確なはずだ。
 ニューヨークの生活に必要かどうか。
 けれど、思い出が積もるオモチャやガラクタを手にすると、荷物整理の手が止まった。
 壁に貼ったロックバンドのポスターを眺め、「ひと息」を何度かつけていると、その判断基準はあやふやになり崩壊し、時間だけが経っていった。

 「そうだった」
 スマートフォンの時刻表示を見て慌てたマイキーは、「ニューヨークで必要かどうかだ!」と自分に発破をかけ、三つの巨大な旅行バックに闇雲に入れた荷物をすべて取り出し、冷静になり考え直した。
 鉛筆に消しゴム、はいらない。
 洗面道具、はいる。
 壁に放り投げ時間潰しをする室内バスケット・ボールのリングとボール、はいらない。
 両親との写真、もいらない。
 結論は。
 持ち物は、ほとんど無い、だった。
 パソコンとスマートフォン。
 これだけあれば、十分だ。
 あと、洗面道具と衣服が少しだけ。
 わずかな物だけで事足りる。
 新しい生活に必要なのは「それだけ」だった。
 子供のころから溜め込んだおもちゃ、絵本、野球のバットやグローブ、壊れた自転車、そしてガラクタのような何やかやが部屋に溢れていたが、ニューヨークでの生活を考えるとすべてが不必要な過去だった。
 成虫になった甲虫が、草木の茎に残す脱皮のカケラのようだ。



  タチヨミ版はここまでとなります。


改訂新版 聖ニコラスの機械式自動車

2023年8月31日 発行 初版

著  者:中嶋雷太
発  行:Raita Nakashima's Cinema

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Raita Nakashima's Cinema

時代に振り回され、喜怒哀楽を重ねながらも、日々力強く生きる大人たちに、少しでも安らぎを感じてもらえれば幸いです。 2020年を超えて、日本および世界に向けて、「大人の為の物語」を拡げていきたいと考えています。見たい映画や演劇、そしてテレビ・ドラマを、物語という形で描き出し、織り紡ぎ出してゆければと願うばかりです。(代表:中嶋雷太) Established for weaving stories for adult people. For them, who are always struggling daily lives, we hope they enjoy the stories. Welcoming Mr. Ray Bun as a main writer (story teller), we would like to expand our stories over the world as well as in Japan, over 2020. Also, we would like to weave the stories for future theatrical films, theatrical play or TV dramas. (Rep: Raita Nakashima)

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