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バルセロナの歴史は、雷とともに始まったといわれている。伝説によると、バルセロナの街の基礎を築いたのは有名な将軍ハンニバルの父、ハミルカルだと言われている。ハミルカルがカルタゴ(現在のチュニジア)を出てスペイン半島に着いたとき、その土地に小さな入植地を作り、自分の名前を付けたのである。
ハミルカルのフルネームはハミルカル・バルサという。そして後にローマ人がこの土地をバルシノと呼ぶようになり、さらに年月を経て現在のようにバルセロナと呼ばれるようになったといわれている。
何世紀もの間、バルセロナはローマの支配を受けていた。その後、ムーア人による支配を経て、カール大帝のフランク王国の一部になっていく。バルセロナが首都になったのは九世紀である。いくつかの小国が統一され、後にカタルーニャ国となる地域の基礎を築かれていく。
十五世紀ごろ、この地域はヨーロッパでも有数の富裕な地域となっており、バルセロナは地中海の豊かな港町として栄えていた。カタルーニャとカスティリャの領主同士が結婚してスペインが統一された際、バルセロナもその領地に入っていたため、後にスペイン王国が成立した際にその一部になったのである。
しかし、そのような歴史がありながらも、カタルーニャはスペインの一部といいながら独自の言語と文化を持つ地域であり続けているのである。一九三九年にスペイン内戦が終わりフランシスコ・フランコがスペインの支配者になった。
フランコの独裁政治は一九七五年の彼の死まで続くのである。この時代、カタルーニャの文化は弾圧を受け、カタルーニャ語を話すことはおろか、生まれた子供にカタルーニャ風の名前を付けることすら禁じられていたのである。
しかし、その後の民主主義の成立に伴い、カタルーニャの地域政府は独立した権利と義務を獲得し、カタルーニャの旗が正式に使われるようになったのである。一九九二年、バルセロナはオリンピックの開催地になり、この大きな出来事を起爆剤として急速な発展をとげていく。
近代的な都市計画が実行され、新しいビルや新しい住宅地、さらには新しい海水浴場までが港の跡地に造られていったのである。現在、バルセロナの人口は推定約一五〇万人、郊外も含めると五〇〇万人が住んでいる。
それでも、一年間にこの街を訪れる観光客の数に比べればずっと少ないのである。昨今は、オーバーツーリズムによる市内での諸物価の高騰ぶりが問題視されてきている。
バルセロナで宗教関連の出版と書店を経営していたジュゼップ・マリア・ブカベーリャという人が、「聖ヨセフ信心会」という民間団体を一八六六年に創設したことが、この壮大な建築物の源泉である。
産業革命当時、バルセロナはスペイン第一の都市で近代化が進んでいた。そこではガウディのパトロンになるような大富豪が誕生したいっぽうで、無数の貧しい人々をも生み出していった。そんな貧富の差が拡大する状況を前に、貧困層の人々が自分たちの救いを求められるような教会制度をつくろうではないか、と考えたのがブカベーリャである。
聖ヨセフ信心会の本堂の建設を提案したが、当然資金集めは生優しいものではない。しかし彼は出版業に長けていて、機関誌『聖ヨセフ帰依の布教』を媒体としながら会員を集めたのである。中南米諸国やフィリピンなどスペイン語圏で機関誌が届くところなら誰でも会員になれて、その会員からの献金システムを作っていくのである。
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂というのが正式名称なのであるが、「贖罪」の意味するところは、貧しき人々がさらに犠牲を払って献金することで、自分の罪が洗われるということである。
こうして細々と始まった献金システムがまとまり、聖堂が建てられる可能性ができてきたところで、ブカベーリャはフランシスコ・デ・パウラ・ビリャールという建築家に依頼しサグラダ・ファミリア聖堂を作ろうとした。
初代建築家となるビリャールはガウディよりもひとつ上の世代で、ゴシック的な様式のもっと小さな教会を設計し、一八八二年に工事が始まったのである。ところがまもなく方向性をめぐってブカベーリャと対立が起き、ビリャールは降りることになってしまうのである。そこで白羽の矢がたったのがガウディであった。
一八八三年に当時三十一歳のガウディが引き継いだとき、もう工事は始まっているわけなので、「自分のアイデアで作り直せ」と言うこともできず、ビリャール案を少しずつ修正しながら徐々に自分のテイストを出していくのである。
しかし最初に予定されていたビリャール案は本当にいまのサグラダ・ファミリア聖堂からは想像がつかないコンパクトなものなので、これだったらとっくに完成していたのであろう。転機は一八九一年に巨額献金が入ってきたことにある。
このお金をどう使うか。貧しい人のための教会だったら、質素なかたちでなるべく早く完成させた方がいいという考え方もあるけれど、ここでガウディはある夢を描くのである。ガウディはこの恵みのような巨額の献金を使って、聖堂のスケールを拡大しようとしたのである。
より壮大で崇高な、カタルーニャやバルセロナのシンボルとなる新たなヴィジョンを構築したのである。ガウディは、そうすることでサグラダ・ファミリア聖堂は自分の死後も誰かが完成へと導くだろうという確信があったようにも思えるのだ。
着工当時は完成までに約三〇〇年かかるといわれていたが、技術の進歩によって工期は半分ほどに短縮され、完成は二〇二六年に予定されている。
また、現在完成している門(ファサード)は生誕の門と、受難の門の二つであるが、二〇二六年の完成までに栄光の門を含めて三つになり、現在計八本の鐘塔は十八本に増築される予定である。

(生誕の門)
生誕の門(生誕のファサード)は、イエス=キリストの誕生から初めての説教を行うまでを表現していて、ガウディ生前にほぼ完成の形となった唯一のファサードである。建設には四十一年の歳月が費やされました。また、三十三体の彫刻が置かれており、イエス=キリストにまつわる出来事が表現されている。入口である「慈愛の門の扉」は、日本人彫刻家の外尾悦郎氏の作品も残されている。
(受難の門)
受難の門(受難のファサード)はイエス=キリストが十字架にかけられた苦しみや悲しみを表しています。キリストの像の上を見ると、骨のような18本の柱が並んでおり、柱の上には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれた文字があります。内側の壁には聖書に登場する族長や預言者の名前が書かれています。ガウディ没後に彫刻家ジュセップ・マリア・スピラクスが12の彫刻群を手がけ、有名な最後の晩餐からイエス=キリストの墓までを表現しています。
(福音の扉)
受難の門の中央にある福音の扉。イエス=キリストの生涯最後の二日間について、新約聖書から八千字を抜粋し刻まれていて、重要な部分が金文字で装飾されている。複音の扉の前にイエス=キリストが柱にくくられ鞭打ちの刑をうけている像がある。ガウディは、壁から離した場所に置くことにより、教会に出入りする人が必ず観るようにと考えたそうである。
(天使の聖歌隊)~楽器を奏でる天使~
生誕の門中央の慈愛の扉口に、聖母マリア、ヨセフ、牛、ロバに囲まれ誕生したイエス=キリスト誕生の彫刻がある。イエス=キリストの誕生の音楽を奏でる天使たちや、祝福する羊飼いなどは日本人彫刻家、外尾悦郎氏が手がけたものである。
(イエスの像)
十字架に貼り付けにされているイエス=キリストと、ひざまずくマグダラのマリア。聖母マリアはヨハネに慰められている。イエス=キリストの足元にある頭蓋骨は死を象徴していて、上部にある丸い彫刻は月で夜を表現している。
(神秘の森)
ガウディは教会内部を、木漏れ日が差し込む巨大な森を想像し設計したと言われている。外観とは異なり、中は森の中にいるように、明るく色鮮やかな空間で、陽光が降り注ぎこむのである。殉教のシンボルであるシュロの木を模した高い天井に埋め込まれているのは、ガウディ考案の採光器である。
(ステンドグラス)
ガウディは光の入り方にこだわる建築家であった。この幻想的なステンドグラスに太陽の光が大量に入り込み、自然な明るさで内装をよりいっそう引き立たせている。最大の見せ場は西日が差し込む時間である。西日を受け黄色に色づくステンドグラスの光が、教会内部の床や柱を照らし、神秘的な空間が展開するのである。
(中央祭壇と天蓋)
中央祭壇の交差部は高さ六十mもあり祭壇は十二本の柱に支えられている。パラシュートのような天蓋の下に膝を曲げたイエス=キリストの磔刑像が吊り下げられている。天蓋の縁には葡萄の飾りや、五十個のランプ、屋根には小麦が立てられている。
(その他)
































スペインが生んだ偉大な芸術家パブロ・ピカソ。一八八一年にアンダルシアのマラガに生まれたピカソは、その生涯において一万点を超える油絵とデッサン、更に十万点にも及ぶ版画。
そして数百点の彫刻や陶器作品を製作するなど、非常に多作な芸術家としても知られ、それはギネスブックの世界記録にも登録されているほどある。
また、キュービズムと呼ばれる芸術動向の創始者とされ、従来の遠近法(一点透視図法)によらず、異なる複数の視点からとらえた物体の形を一つの画面に描写し、断片化された平面として再構成する独自の表現方法を確立したことで、世界で最も著名な画家の一人となっている。
そんなピカソが一八九五年から一九〇四年にかけて、多感な十代を過ごしたのがバルセロナある。
Museu Picasso(ピカソ美術館)は、バルセロナのゴシック地区の東に位置するMontcada(モンカダ通り)に十三~十四世紀に建てられた貴族の邸宅を含む五軒の建物を改装し、一九六三年に開館されている。
ここでの展示は、パブロ・ピカソの友人で秘書を務めたジャウメ・サバルテスの個人コレクションとバルセロナ市所蔵のピカソ作品を基礎とし、のちに画家本人やその家族・友人からの寄贈を受け、さらにコレクションを拡大したのである。
ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群、ディエゴ・ベラスケスの名作「ラス・メニーナス」を題材とした連作などがある。
また、この美術館すぐそばには、狭いモンカダ通りには昔のお屋敷跡が並び、今でも中世の雰囲気が色濃く残っている。散策歩きには最適な空間でもある。
(カサ・バッリョ)
一九〇四年にガウディにより増改築されたこの建物のテーマは海。内部は海底や海底洞窟が建築化されている。外観の骸骨をイメージしたバルコニーと所々で垣間見られる骨のデザイン、そして散りばめられた青いタイルに当たる光の反射が異彩を放っており目を引くのである。内側はすべてが曲線かと思えるほどに曲線美で埋め尽くされていて不思議な世界に迷い込んだ錯覚になる。リビングのステンドグラス、中庭の効果的に取り入れられた自然光と、それを囲むタイルの濃淡の変化は見る者すべてを魅了するのである。
(カサ・ミラ)
一九八四年に他のガウディ作品群とともにユネスコ世界遺産に登録された「カサ・ミラ」。バルセロナの高級ブランドショップが並ぶグラシア通り(Passeig d Gracia)に所在している。一九〇五年に結婚した実業家のペレ・ミラ氏とその妻が住まう邸宅として、ガウディに依頼をした建築物なのである。カサミラの工事はバルセロナ市の建築許可を得た後、一九〇六年にはじまっている。メインフロアは夫妻の住居として、その他のフロアは賃貸住居として、集合住宅の形で設計されたのである。
施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、一九〇〇年から一九一四年の間に建造された。
バルセロナにおいて工業化が急速に進んでいた時代。ガウディとグエルはこの場所に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとした。
しかし、ふたりの進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。
結局、広場、道路などのインフラが作られ六〇軒が計画されていたが、買い手がつかず、結局売れたのは二軒で、買い手はガウディ本人とグエイ伯爵だけであったという。
グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家が、ガウディ記念館として公開されている。
中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。
ムンジュイックの丘とは、「ユダヤ人の山」という意味合いを持ち、この丘にはかつて墓地があったので、こう呼ばれていた。実際、フランコ独裁政治時代までは、モンジュイック城を刑務所として使用し、銃殺刑に処された政治犯は近くの墓地に埋葬されていたそうである。考古学上確認されているように、この丘では、紀元前三世紀から紀元前二世紀頃のイベリア人の町の集落跡が発見されている。一九二九年のバルセロナ万博の際、丘の一部地域の開発が完了し、ムンジュイックの名の中心地域が整備された。
スペイン・バルセロナにあるサッカー専用スタジアムである。一九五七年に開場して現在に至るまでプロサッカークラブであるFCバルセロナのホームスタジアムとして使用されている。収容人数は九万九千七百八十六人でサッカー専用スタジアムとしてはヨーロッパ最大であり、世界規模で見ると世界三位である。FCバルセロナは、スペイン国内においては通算七十七ものタイトルを獲得しており、同リーグにおいて二十七回の優勝を記録している。(二〇二三年現在)最も著名な選手として、リオネル・メッシ、ロナウジーニョ、アンドレス・イニエスタらを輩出している。
2023年8月13日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。