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目 次
ボスニア・ヘルツェコビナの歴史概略
写真による諸風景
クロアチアとの国境付近
スタリ・モスト(モスタル)
モスタル~サラエボ間を走る
早朝のサラエボ市内散策
サラエボのモスク
夕暮れ時のサラエボ
下町の市場散策(サラエボ)
夜のサラエボ中心地
(古代~)
ローマ時代にはこの地域はイリリア人というインド=ヨーロッパ語系の民族が居住していたが、六~七世紀初頭に南スラヴ人が移動してきて定住した。十~十二世紀にはセルビア、クロアティア、ハンガリー、ビザンツ帝国などが交互にこの地を支配した。十二世紀後半からクリンという指導者が現在のボスニア中部を統一して中世ボスニア王国といわれる国家をつくり、ボスニア人という観念もそのころうまれている。
(中世~)
ボスニア王国は十四世紀にヘルツェゴヴィナ地方を併合して最盛期となり、一時はセルビア王国に代わってこの地方の最大勢力となった。この地にはキリスト教の異端のボゴミル派が有力であったらしい。しかし、十四世紀に小アジアからバルカン半島に進出したイスラーム教国であるオスマン帝国が急速に勢力を拡大させ、一三八九年にコソヴォの戦いで、セルビア、ブルガリア、ハンガリーなどと連合して戦ったが敗れ、オスマン帝国の支配を受けることとなった。
その支配が四〇〇年間続く中でイスラーム教徒が増加し、ムスリム化が進んだ。ムスリムは支配的地位についたが、ギリシア正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒などもムスリムの支配を受け容れる代わりにその信仰は保障され、宗教別で統治が行われた。
(近世~)
一八七五年、キリスト教徒農民がムスリム(イスラーム教徒)地主の専横に反発して暴動を起こし、それがボスニア=ヘルツェゴヴィナ全土での反ムスリム暴動に発展した。同じような暴動がブルガリアでも起こると、ロシアはキリスト教徒保護を口実にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。
それが一八七七年の露土戦争である。ロシアはオスマン帝国を破ってサン=ステファノ条約を締結、スラヴ系国家のセルビアなどの独立を認めさせると共に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの政治改革を約束させた。これによってロシアのバルカン半島侵出が一段と強まることを警戒したイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国が反発し、ビスマルクの調停によりベルリン会議が開催され、改めてベルリン条約が締結された。
このベルリン条約で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー帝国の統治権(領土支配ではなく、行政上の統治だけを行う権利)を認めることになった。この両州にはセルビア人も多数居住していたので、セルビアの反発は強く、ボスニアはバルカン問題のもっとも尖鋭な対立地点となった。
(近代~)
その後オーストリア=ハンガリー帝国は、パン=ゲルマン主義を掲げ、エーゲ海に面したサロニカに抜ける鉄道敷設を計画した。それに対して、パン=スラヴ主義を掲げるロシアおよび、スラヴ系民族のセルビアはますます反発を強めた。
一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとオーストリアは、オスマン帝国の混乱に乗じて一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の併合を宣言した。それに対してボスニア地方には多数のセルビア人が居住していたことから、その東に国境を接するセルビア王国が強く反発した。
ロシアはセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国との戦争の危機となったが、ドイツが強硬にオーストリア=ハンガリー帝国を支持し対抗する意志を示したことと、ロシアは日露戦争と第一次ロシア革命の痛手から完全に回復していなかったため、当面は戦争を回避した。
しかし、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合は、セルビア人などスラヴ系民族の反オーストリア感情を燃え上がらせ、一九一四年にボスニアの首都サライェヴォを訪れたオーストリアの帝位後継者フランツ=フェルディナントがセルビア人青年によって射殺されたサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発する。
第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が解体した後、ボスニア=ヘルツェゴヴィナは一九一八年にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国に加わった。この王国は、一九二九年よりユーゴスラヴィア王国と改称する。
第二次世界大戦では、ユーゴスラヴィア王国はナチスドイツに占領されて崩壊、ナチス=ドイツの傀儡政権クロアティア独立国が作られ、ボスニアもそれに編入された。ティトーに率いられたパルティザンがナチスドイツに激しく抵抗し、一九四五年四月にサライェヴォも解放され、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ人民共和国が成立、翌年、ティトーを指導者とする社会主義連邦制の共和国であるユーゴスラヴィア連邦に加盟した。
(内戦の混乱時代)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、第二次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国となった。ユーゴスラヴィア連邦はティトーに率いられて独自の社会主義と非同盟主義を掲げ、戦後の東西冷戦の中で特異な位置を占めていた。しかし、歴史的・文化的(宗教や言語、文字)で異なる民族を寄せ集めた多民族国家であり、「モザイク国家」ともいわれていた。
一九七〇年代から経済の停滞も目立ちはじめ、一九八〇年代に入ると東欧諸国での民主化運動の影響も波及し、複数政党制や言論の自由、経済の自由とともに連邦制の解体を求める声が強くなってきた。
ティトー生存中は連邦制の枠組みも力があったが、一九八〇年に彼が死ぬと、次第に分離主義の傾向が強まり、ついに一九八九年の東欧革命を経た一九九一年にスロヴェニア、クロアティア、マケドニアが分離を宣言、それを認めないセルビア・モンテネグロとのユーゴスラヴィア内戦が勃発した。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナも一九九二年三月に独立を宣言した。しかしその中心になったのは、ボスニアに居住するムスリム人・クロアティア人たちであって、セルビア人は連邦への残留を主張して独立を拒否し、直ちにボスニア内戦が勃発した。セルビア人勢力はセルビア共和国の支援を受けて、武力的な優位を背景に、ムスリム勢力・クロアティア人勢力を激しく攻撃した。
(現代)
一九九五年のデイトン和平合意では、三つの民族のうちのクロアティア人とムスリム人がボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国という国家を持ち、その二つの国家がボスニア=ヘルツェゴヴィナを構成する、という内容であり、それによって国際的に一つの主権国家として認定された。
スタリ・モスト(古い橋)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにある十六世紀の橋で、オスマン帝国によって作られた。もとの橋はネレトバ川にかかるアーチ橋で、イスタンブルのスレイマニエ=モスクなどを建設したミマーリ=シナンの弟子のミマール=ハイルッディィンが建造した。町の象徴となっていたこの橋は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にあたる一九九三年十一月九日午前三時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊されたが、その後復興計画が持ち上がり、二〇〇四年六月二十三日に復興工事が完了した。二〇〇五年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録された。現在も川の東側にはボシュニャク人、西側にはクロアチア人が住む。
2023年8月13日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。