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目 次
日本におけるキリスト教伝来の歴史
織田信長時代
豊臣秀吉のバテレン追放令
長崎二十六聖人の殉教
徳川家康の禁教令
ペドロ・カシイ岐部の陸路ローマへの旅
鎖国関連法令以降
隠れキリシタンの摘発
明治政府のキリスト教弾圧
異説・ザビエル伝来が最初ではない?
天正遣欧少年使節と千々石ミゲル
千々石ミゲルの生い立ち
有馬キリシタン遺産記念館
ペドロ・カスイ岐部とは
島原の乱と天草四郎
五島列島の潜伏キリシタン
五島における教会群
長崎県外海(そとめ)地区について
黒崎教会
大野集落
出津教会周辺
平戸エリアについて
春日集落
平戸へのキリスト教伝来
天草エリアについて
崎津集落
天草ロザリオ館
天草キリシタン館
天草四郎ミュージアム
殉教地・津和野
長崎市内エリア
日本におけるキリスト教伝来を考える上にて、欧州における『宗教改革』ならびにそれに伴う『カソリックの対抗宗教改革』運動への考察は避けられないであろう。ルターやカルヴァンなどの宗教改革によって登場した新教徒=プロテスタントの運動が強大となったことに危機感を持ったローマ教皇側が、プロテスタントを弾圧するだけでなく、カトリックの教皇庁や教会のあり方を改める運動を起こした。そのカトリック改革を「対抗宗教改革」または「反宗教改革」というのである。
対抗宗教改革の先頭に立って活動したのがイエズス会である。イエズス会は一五三四年にスペイン人のロヨラとザビエルによって創設され、一五四〇年にローマ教皇パウルス三世によって公認され、世界各地に布教のため多くのキリスト教宣教師を派遣したのである。ザビエルは初めて日本への布教を行い、マテオ=リッチは明代の中国で布教している。しかし、日本での布教は、豊臣秀吉のキリスト教禁教令によって断念し、中国においてもイエズス会の布教方針をめぐって典礼問題がおこり、キリスト教の布教禁止に追いこまれたという歴史がある。
イエズス会の創設者の一人であるフランシスコ=ザビエルが、インドのゴアから中国布教に赴く途中、フィリピンで日本人アンジローに会い、一五四九年まず鹿児島に上陸して、日本布教の第一歩を記したのである。日本人アンジロー(またはヤジロー)とは、鹿児島の出身で殺人を犯し国外に逃亡後、東南アジアを転々とし、マニラでザビエルにあったらしい。アンジローはザビエルから洗礼を受けて、日本人最初のキリスト教徒となり、ザビエルに伴って一五四九年、鹿児島に戻っているが、その後日本で伝道にあたったが、その後の消息は不明である。
ザビエルは、鹿児島にて領主・島津貴久に謁見した後、平戸、山口を経て京都に至り、将軍への謁見を願ったが、当時室町幕府の将軍足利義輝が細川氏の家臣三好長慶によって京都を追われていたため果たすことができず山口に戻っている。そこで大内義隆の保護を受けた。また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築いたが、一五五一年に豊後からインドに向かったのである。
特にポルトガルがアジア貿易の拠点として設けたマカオは、ポルトガルがローマ教皇からアジア布教の使命を与えられたことから、キリスト教布教の拠点となり、そこから日本に渡ったポルトガル商船に同乗したキリスト教宣教師が日本に渡来し、平戸や長崎を中心に布教活動を行ない、信者はキリシタンと言われるようになったのである。
織田信長時代
一五五九年、宣教師ガスパル=ヴィレラが京都に入って布教しようとしたが、京都は室町幕府の権威がまったくなくなって、戦国大名の争乱が続いており、比叡山や法華宗などキリスト教を非難する勢力も強かったので、布教は出来ないでいた。織田信長が一五六八年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス=フロイスらに京都での布教を認め、教会や教会学校(セミナリオ)が作られるようになっていく。キリスト教布教を積極的に認めた織田信長のもとで、安土城の城下にも教会やセミナリオ、コレジオ(神学校)が作られたのである。特に九州の戦国大名たちは、宣教師を通じてポルトガルとの交易である南蛮貿易を有利に行い、鉄砲や火薬などを手に入れるために、キリスト教に改宗しキリシタン大名となったものも現れた。代表的なキリシタン大名である大村純忠は一五七九年、長崎と茂木をイエズス会に寄進し、有馬氏は浦上村を同じく寄進している。また大村・有馬・大友の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、一五八二年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣、使節・伊東マンショらは苦難の航海の末、一五八五年にローマ教皇グレゴリウス十三世に謁見している。
豊臣秀吉のバテレン追放令
島津氏を討って九州を平定した豊臣秀吉は、長崎とその周辺がイエズス会領とされている状況を問題視し、一五八七年にバテレン追放令を発した。バテレンとは、ポルトガル語のパードレが訛ったもので、宣教師を意味する。ここでザビエル以来のキリスト教布教は三六年目で大転換し、自由な布教ができないこととなったのである。この時秀吉は、イエズス会に対して、(人民にキリスト教を強制している)(寺社を破壊している)(大切な家畜である牛馬を食べている)(ポルトガル人は日本人を奴隷として買い取っている)、の四点を詰問しており、長崎・茂木・浦上の地を没収して直轄領としたのである。
長崎二十六聖人の殉教
一五九六(慶長元)年十二月、突如、二十六聖人殉教事件が起こった。京都、大阪などで捕らえられた神父ペドロ=バプチスタなどのスペイン人やポルトガル人の六名と日本人信徒二十名は、片耳をそがれ、町々を大八車で引き回されたのち、長崎に送られ刑場で処刑された。最年少の十二歳の茨木ルイスは、信仰を捨てれば自由にするといわれたが、これを拒絶し十字架上で「パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えている。この事件はたちまち世界のキリスト教国に伝わって、一六二七年には教皇ウルバヌス八世によって列福式が行われ(聖者に次ぐ福者とされた)、一八六二年には教皇ピウス九世によって「聖人」に列せられた。昭和三六年には刑場あとに記念碑が建てられ、「殉教の丘」といわれてカトリック信者の世界的な巡礼地とされている。
徳川家康の禁教令
一六一二年に天領(幕府領)でのキリスト教禁止に踏み切り、さらに翌一六一三年に全国禁教令を発布して京都や長崎など全国の教会を破壊している。このとき、高山右近や内藤如安など信者の有力者はマニラなどに国外追放となっている。その背景には、一六〇四年以来、中国産の上質生糸である白糸を輸入する際、幕府の定める価格で一括購入し、特定の商人に分配して販売させる糸割符制度による貿易統制を強め、キリスト教宣教師を介した南蛮貿易への依存度が減少していたことがあげられる。
ペドロ・カシイ岐部の陸路ローマへの旅
一六一四年、江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭(神父)になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学んだ。しかし、マカオの上長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西・ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航した。マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこから岐部は一人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たしている。ローマにたどりついたのは出発から三年が経った一六二〇年のことであった。
鎖国関連法令以降
一六三〇年代には三代将軍家光のもとで次々と鎖国関連法令が発せられ、一六三九年のポルトガル人の来航禁止、一六四一年のオランダ商館の長崎出島移転で鎖国体制は完成する。ただし「鎖国」という言葉が当時使われたわけではなく、対外的な窓口が長崎だけになったというわけではない。徳川幕府はキリスト教徒を取り締まるために踏絵を実施し、また寺請制度によって檀那寺に登録することで管理していくのである。鎖国下の日本で、キリスト教が禁止され、その探索のために踏絵が行われていたことは、オランダ人を通じてヨーロッパにもよく知られていたようで、イギリスのスウィフトが一七二六年に発表した『ガリヴァー旅行記』でも出てくる。
隠れキリシタンの摘発
この長く厳しい禁教の中でも、長崎とその周辺にはいわゆる「隠れキリシタン」が信仰を守っていた。彼らは踏絵を踏んだあとは密かに「痛恨の祈り」を捧げてその罪をきよめ、仏壇の裏にイエスやマリア像を隠し、盆踊りにカムフラージュして集会をもつなどして役人の目をくらましていた。しかし、秘匿された信仰も時には露見し、長崎では一七九〇(寛政二)年の一番崩れ、一八四二(天保十三)年の二番崩れ、一八五九(安政六)年の三番崩れといわれる検挙が続いた。既に幕府が開国してかなり経った一八六七(慶応三)年の四番崩れでは、茂吉というキリシタンが死んだとき、檀那寺の僧を招かずに自葬したことに端を発し、浦上村の村民が寺請制度を拒否するに至った。捕らえられた外国人宣教師や信者に激しい拷問が加えられ、それに対してフランス、プロイセン、アメリカなど列国の公使や領事が抗議し、国際問題となった。しかし問題解決の前に幕府は倒壊した。
明治政府のキリスト教弾圧
ところが明治新政府もキリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し、三四一四名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに長崎一帯の村々に及んだ。浦上キリシタンはこの流罪を「旅」といったが、旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、五六二人が死んだ。このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は維新の立役者であった木戸孝允や井上馨であった。明治政府は、文明開化をめざしながらも近代的な人権思想に無知であり、新たな国家神道による思想統制をはかろうとしたものであったが、そのキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて、ようやく一八七三(明治六)年に禁教令を廃止し、家康の一六一二年の天領禁教令から二六二年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復したのである。
※参考文献 原田伴彦『長崎』など
司馬遼太郎氏は、作家デビュー間もない頃に『兜率天の巡礼』という作品を書いている。『ペルシャの幻術師』という作品集に収められた短編である。ここで司馬氏は大避神社(兵庫県赤穂市にある)を登場させ、古代の渡来系氏族である秦氏がじつはネストリウス派キリスト教徒の末裔であったという物語にしている。
昭和二四年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会う。その紳士は司馬の事を知らずに、「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。
当時、ザビエルの日本上陸四〇〇周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに十三世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。
ネストリウス派と呼ばれたキリスト教は、西暦四百三十一年エフェソス公会議において“異端”とされ、ヨーロッパを追われている。その後ネストリウス派はササン朝ペルシャに渡り、シルクロードを経て中国に伝わった。七世紀前半、中国は唐の時代であり、二代目の太宗の頃に伝わった。則天武后が活躍する約五十年前の事である。寺は波斯(ペルシャ)寺(後に大秦寺となる)と呼ばれ、中国では景教として流行した。その頃の日本は聖徳太子や推古天皇の治世を経て、中大兄皇子や中臣鎌足が大化の改新に取り組んでいる時代であった。
ここで、『兜率天の巡礼』作品のあらすじを紹介する。太平洋戦争中、南朝の北畠顕家について新説を立てたという理由で京都の大学を追われた閼(門構えに於)伽道竜(あかどうりゅう)は、終戦の日に妻の波那(はな)を失う。彼女は死の直前、にわかに発狂し、道竜に向けた眼差しが異邦人への恐怖と嫌悪のものであった。その意外な様子が、道竜の妻の血統とルーツを探る異常なまでの執念へ駆り立てた。
その過程で、兵庫県赤穂郡比奈の大避神社の禰宜をしている波那の実家の本家の当主から、彼女の遠い祖先がペルシャ系ユダヤ人の移民団の子孫である事を知らされて衝撃を受ける。彼らは古代キリスト教のネストリウス派の信徒で、日本へ渡来した際に、秦氏の一族と称してダビデ(漢字で大闢(門構え辟)(だいびゃく))の礼拝堂(後の大避神社)を建てたが、それは仏教渡来以前の事だという。
これを知った道竜は、文献を読みあさって想念を凝らすうち、幻想の空高く飛び立ち、5世紀の東ローマ帝国の都コンスタンチノープルに到り、ネストリウスとなって群集に自説を主張したり、7世紀の唐の都長安に到り、流亡の景教徒の長老となった。その後、道竜の幻想は、古代日本に到り、津、河内から、たけのうち峠を越えて大和に到着する。政権を支えていた聖徳太子と秦河勝とのやり取りの幻想を見ていた。
幻想から現実に戻った道竜は、洛西の廃寺(奈良時代に秦氏が建立した)の上品蓮台院の弥勒堂の壁に描かれている兜率天曼荼羅図を見つける。蝋燭の灯りでそれを眺めていた彼は、そこがコンスタンチノープルにも、長安にも見えた。そして、そこに亡くなった波那を見出す。意識は既に現実を抜け、壁の中に入っていた。持っていた蝋燭は落ち、弥勒堂は炎上、焼け跡から一人の焼死体が見つかる。性別さえも分別できない焼死体は1週間を経て道竜と判明した。
というものである。
一五八二年二月、長崎からローマを目指して旅立った使節団があった。天正遣欧使節である。イエズス会という一修道会が派遣した身内の使節団で、主なメンバーは千々石(ちじわ)ミゲル、伊藤マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンら四人の少年たちであった。
使節は大村純忠ら三人のキリシタン大名の名代として派遣されたとなっていたが、実際はイエズス会巡察使のヴァリニャーノによる独自企画と考えられている。それだけに出発当時は、関係者以外ほとんどの日本人が知ることのない、まさにひっそりと旅立った「小さな使節団」であったのだ。
ところがこの使節団は、その後の日本と西欧の交渉史に金字塔を打ち立てたと高く評価されている。それは、帰着するまで八年半もの辛い長旅をやり遂げたという英雄伝からではない。一五八四年八月、使節団は長く困難な航海を経て念願のリスボンに着いている。
四人にとってこの第一歩はキリスト教の理想郷に入る夢のような瞬間であったが、それを迎え入れる西欧側は全く逆で、珍奇な動物でも見るような好奇の対象であっただ。使節団が西欧に入る少し前、ローマ教皇が「彼らも人間である」と宣言したのですが、一般の西欧人などはまだまだ旧来の下品な情報しかもっていなかったのである。
このような見方をする西欧世界だったので、マンショら四人の使節には少しの無礼や失敗も絶対に許されなかったのである。この時から彼らの小さな両肩には、単なるイエズス会の「小さな使節団」という立場を越えて、最果ての国・日本を代表する「大きな外交使節」としての役割がのしかかってきたのである。
出発当時わずか十二歳から十三歳だった四人は、見事にその重責を果たしたのである。当時世界最強の覇者であったスペイン国王のフェリペ二世や、念願だったローマ教皇との謁見でも堂々と立ち振る舞い、文明国としての日本を認知させていくのである。もちろん、その歓待にはいろんな思惑もあったと思われるが、この壮大なドラマの中心は、四人の強靱な精神力と知的好奇心、そして彼ら自身の世界観にあったと思われる。
『天正遣欧使節記』という旅行記の中で、千々石ミゲルの言葉として「(自分は)全世界に直属する一個の住民であり市民だ」という文言が記されている。ここから彼の意識が「世界市民」という立場にあったことがうかがえ、地域や国家を飛び越えて世界的視野で物事を捉えようとする壮大な意思力が備わっていたことがわかるのである。
だからこそ年少とはいえカルチャーショックに惑わされることもなく、見事に外交使節としての大役を果たしたものと考えられている。しかも、この時彼ら四人が築いた西欧とのパイプは幕末・明治の近代化を押し進める原動力となり、優位な人材がこのパイプを通して西欧からやってきたのである。
ただ、一年八ヶ月の西欧滞在から四年数ヶ月を経てやっと帰国の途についた彼らには、出発時には予想もしていなかった厳しい現実が待ちうけていたのである。彼らが長崎に帰り着く三年前の一五八七年には、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。その数ヶ月前にはキリシタン最大の保護者であった大村純忠と大友宗麟が相次いで死去している。出発時とは大きく様変わりした政情、そして時代の激流に翻弄されながら、その後の四人にはいずれも厳しい運命が待っていたのである。
帰国の翌年の一五九一年、四人はそろって天草でイエズス会に入会したのである。しかし、その後他の三人とは異なり、千々石ミゲルが辿った生涯は数奇なものとなる。ミゲルの名は脱会者として知られていくのである。脱会後のミゲルについて、一部の宣教師の書簡などではキリスト教を棄てた裏切り者のような書き方をされており、それがそのまま通説となって、最後は哀れな「枯れない雑草」とまで酷評されている。
ミゲルは大村藩が一六〇六年にキリスト教を禁止すると日野江藩に移り、日野江藩が一六一二年に禁止すると当時「日本のローマ」といわれた長崎に移っていったと考えられている。こうしてイエズス会脱会後のミゲルの行動から考えると、キリスト教を棄てたとは到底考えられないのである。おそらくミゲルは、イエズス会という修道会は脱会したけれど、終生キリスト教の一信徒として生涯を全うしたのであろう。
千々石ミゲル夫妻の墓所であると特定された伊木力墓碑には、夫・ミゲルの逝去年を寛永九年十二月十四日(一六三三年一月二一日)と刻み、妻はその二日前の十二月十二日となっている。当時の伊木力村は、時津村や長与村同様に潜伏キリシタンが多くいた集落であった。晩年もミゲルは密かにキリシタン信仰を続けていたものと思われる。
千々石ミゲルが生涯を掛けた命題は、「一神教のキリスト教は、どうすれば在地の伝統文化や宗教と共存できるのか」ということであったのだろう。彼はインカルチュレーション(伝道先の異文化を導き入れて土着化すること)の重要性を認識していたし、日本人の伝統や文化を大切に捉えていたのだろう。
※参考文献 墓石調査プロジェクトなど
ミゲルは一五六九年頃に釜蓋(かまぶた)城の城主の子として、現在の雲仙市千々石町で誕生している。ザビエルの鹿児島上陸から約二十年後のことである。ミゲルが生まれる数年前の一五六三年には千々石家もキリスト教と関わりをもっている。
当時の千々石氏は、有馬氏の一勢力として佐賀の龍造寺勢力との戦いに明け暮れていた。父・直員(なおかず)は一五七〇年に戦地で亡くなり、その後を受け継いだミゲルの兄・大和守も、一五七七年に龍造寺軍の千々石攻略によって自刃したとされている。この兄の死を受けて、ミゲルは千々石家再興に向かうただ一人の嫡子となったのだが、このことが後々まで彼の人生に大きく影響したと考えられる。
龍造寺軍による千々石侵攻の前の一五七二年、ミゲルは四歳の時に乳母とともに大村に逃れたといわれ、その大村でキリスト教に本格的に触れたと考えられている。当時の大村家は叔父の大村純忠がキリシタン王国づくりに奔走していた時代であり、ミゲルが六歳になった一五七四年にはキリシタンによる神社仏閣の破壊がおこり、領内のほぼすべての宗教施設が灰燼となっている。
この時の光景はミゲルの脳裏に深く刻み込まれていたと思われるが、一五八〇年には洗礼を受けて有馬セミナリヨの第一期生として入学している。そのセミナリヨの学生の中からミゲルら四人の少年が選ばれ、天正遣欧使節という時代的快挙がなされていくのである。
作家・遠藤周作著の「王国への道」は、江戸時代初期にタイ国のアユタヤに渡った、山田長政と同時期にローマへと渡ったペドロ・カスイ岐部に関する物語である。
ペドロ・カスイ岐部は、一五八七年、豊後国(現在の大分県国東で、ロマーノ岐部とマリア波多(つまり両親共にキリシタン)のもとに誕生する。一六〇一年、 すなわち関ヶ原の合戦の翌年、一家は宣教師を頼って長崎へ移住し、岐部(十三歳)の時に島原半島有馬にあるセミナリオ(小神学校)へ入学。
六年間の過程を終え、卒業する。一六一二年、 江戸幕府はキリシタン禁制を法制化。 一六一四年、 幕府はキリシタン宣教師を海外追放しはじめる。同年二十七歳の岐部らは宣教師らと共に脱出船に乗り、マカオへ向けて出帆する。
マカオにても司祭になる希望が打ち砕かれた岐部は、他の二人の若者(一人は小西行長の孫・小西マンショ)と、カトリックの総本山ローマへ行く決心をする。三人は船に乗りマラッカからインド西海岸のゴアへ上陸。
ここからは、岐部は他の二人と別れて、たった一人で陸路にてローマへ向かうことになる。インドを北上、ペルシヤの砂漠を横断し、聖地巡礼をするべく、エルサレムに立ち寄るのである。さらに、パレスチナから船で一六二〇年頃、ヴェネツィアへと渡り、陸路ローマへと到達するのである。
一六一四年から一六二〇年までの六年間を、長崎からマカオ、ゴア、ペルシャ、エルサレム、ヴェネチア、ローマの旅に費やすのである。その旅そのものの詳細は明らかではない。しかし、単独徒歩にてインドからアラビア砂漠を抜けイスラエルまで到達したことは間違いない事実であろう。
『日本のマルコポーロ』とも称せられる彼の旅路は、もっと注目されてしかるべきだろう。このような壮大な旅を経験した彼の末路は、さらに衝撃的なものである。
ローマにて司祭の資格を取得し、喜望峰周りの海路にてキリシタン禁制下の日本に帰国後、彼は東北などにて潜伏しながら布教活動に邁進する。しかし、最期は捕縛され、浅草待乳山聖天近くの明地で穴吊りにされる。
そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、一六三九年七月四日(旧暦六月四日)に腹を火で炙られ殺されている。五二歳にて没。う~む、と唸るしかない人生である。
※ 写真は、ペドロ・カスイ岐部の出身地・国東半島にある銅像である。
島原の乱の前の世界情勢
キリスト教禁制は江戸幕府初期には貿易が盛んだったこともあって、緩められていたが、幕藩体制が整備されていくに伴い、キリスト教信仰が体制否定に繋がる恐れを強く感じるようになり、段階的に禁教令が出されるようになる。
まず、一六一二年に天領と直轄領の家臣に対して禁教令が出され、翌一三年にはそれが全国に及んだ。背景には新教国のオランダとイギリスが、カトリック国のポルトガル・スペインが布教を口実に植民地化を画策していると幕府に告げたことも上げられる。
一六一六年、家康が死去すると、その後の幕府はキリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策に急速に進め、同年に貿易港を平戸と長崎に限定した。さらに一六二四年にはスペイン船の来航を禁止した。
なお、イギリスは一六二三年にオランダとの東南アジアでのアンボイナ事件で衝突して敗れたため、日本貿易からも撤退し、インド経営に専念するようになっていた。この間、一六三七年に九州で島原の乱が起こって幕府は農民統制のためにもキリスト教取り締まりを強く意識することとなっていくのである。
島原の乱の背景
キリシタン大名であった有馬晴信と小西行長の領地であった島原・天草地方には、牢人や農民の中にキリシタンが多かった。新領主となった島原の松倉氏と天草の寺沢氏は、折りからの飢饉にもかかわらず、重税を課し、さらにキリシタンを厳しく取り締まった。
反発した牢人や農民は天草四郎といわれた益田時貞を頭領として一揆を起こしたのである。原城に立て籠もった一揆勢は三万に上り、幕府はその鎮圧に苦慮し、十二万の大軍で翌三八年にようやく鎮圧した。このとき、平戸のオランダ商館は幕府軍に大砲や銃器を提供し、「オランダの御忠節」と言われた。
島原の乱鎮圧の背景には、このように欧州の新興勢力であったオランダの思惑が濃厚に反映されていたのである。カソリック宗派国から、武器製造や貿易に長けたプロテスタント宗派国へとアジアの勢力分布が塗り替えられていく時期に相応しているのである。
天草四郎とは
上天草市出身の小西家の浪人、益田甚兵衛と同市出身のマルタ(洗礼名)の間に一六二一年に生まれた男児で、名は益田四郎時貞である。学問修養のために何度か長崎を訪れ、一揆(島原の乱)直前に父に伴われて天草へ移ったという。
キリスト教には長崎で入信したと推測されている。天草にいたママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民に向かって「二十五年後、十六歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」との預言を残し、マカオに追放されたと伝えられている。
天草四郎の登場は、まさにそのママコフ神父の預言が現実化したと当時の民衆には感じられたのであろう。四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まり、天草だけでなく島原一帯にも広まっていったのである。
そして、ついには一揆勢の総大将に担ぎ出されたが、総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われている。原城に籠もった四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されている。
五島列島の地理的・歴史的背景
五島列島は古代、遣唐使船が寄港する島々として日本と大陸を結ぶ重要な交易・往来の中継基地として利用されていた。十二世紀に平清盛による正式な日宋貿易が確立されると、福江島の南部の大浜遺跡にみられるように多くの貿易陶磁器が流入している。このことは、五島が日本と大陸との貿易ルートで重要な位置を占めるようになってきたことを表している。
中世の五島列島は、十四世紀ごろから倭寇、東シナ海周辺海域(主に朝鮮半島、中国沿岸部)で半商半海賊的な動きをおこなう集団の拠点であった。その後、将軍足利義満による勘合貿易という正式な日明貿易が開始されると、倭寇は終息し、正式に五島が交易上重要な寄港地になっていく。十五世紀になり、明の海禁(鎖国)政策によって、私的貿易がふたたび盛んになっていくのである。
五島列島へのキリスト教伝来
五島にキリスト教が伝わったのは一五六六年である。ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えた十七年後である。当時五島の領主であった第十八代宇久純定(すみさだ)は病気になったため、大村領の横瀬浦で宣教活動をしていたトーレス神父のもとへ、西洋人医師の派遣を要請したのである。これが、五島とカトリックの最初の接触であった。
つまり、カトリックへの興味ではなく西洋医療による治療を求めたことが、五島にカトリックが伝来するきっかけになったということである。その後、一五六六年修道士アルメイダと日本人伝道士ロレンソは島原半島の口ノ津から船出し、海路で福田(現在の長崎市)を経由、八日間かけて、五島灘を渡り、大値賀(福江島)の江川港に入っている。
アルメイダの投薬などの治療により純定の熱病が治ると信用が一気に高まり、以後、布教は順調にすすむこととなり、すぐに純定の配下の武士二五人が洗礼を受けることになったのである。同年、アルメイダを迎えた奥浦地区の村人は、日に二回の教理学習をし、およそ一二〇名が洗礼を受けたといわれている。信者らは、早速教会を建てたいと領主に許可を願うと、自分の別荘を移して教会を建てることを許し、配下の武士二四名と百名ほどの職人を派遣して教会を建てている。
その後、アルメイダの後任としてパブチスタ・モンテ神父が同年五月に豊後(現在の大分県)から来島、奥浦地区で初めてクリスマスのミサがおこなわれた。翌一五六七年、純定の二男純尭すみたか)は早速、モンテ神父から洗礼を授かり、霊名をドン・ルイスと称している。後に十九代領主を継いだ純尭は、熱心なカトリックの信仰に励んでいくのである。
五島列島での教会について
長崎県には約一三〇もの教会があり、そのうち五〇あまりが五島列島にあるといわれている。五島列島には江戸時代の禁教令下にキリシタンが移り住み、信仰を守ってきた歴史があり、現在でも人口の一~二割がカトリック信徒と言われている。江戸後期の十八世紀末、多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡ったのである。そして五島の島々に新天地を求めたのだ。
離島への大規模な移住には政治的な背景もあったといわれている。未開の土地を開拓する人手を欲しがった五島藩が、逆に人口が増えすぎて困っていた九州本土の大村藩に協力を求めたと言われる。その結果、三千人もの移民が五島を目指したが、その多くが潜伏キリシタンだったのだ。その後江戸末期から明治の開国にかけて、キリスト教徒を含む諸外国からの人の流入が急増し、長崎では潜伏キリシタンとして生きてきた多くの人たちが信仰を表した。だが、それによってキリシタンへの迫害はむしろ激しさを増し、五島でも「五島崩れ」と呼ばれる苛烈な拷問や虐殺、そして略奪などのキリシタン迫害が行われている。
堂崎天主堂
五島列島で最初に建てられたは堂崎天主堂である。明治時代に禁教令が解かれた後、五島における宣教活動の拠点として、パリ外国宣教会のマルマン神父によって建てられた仮聖堂を経て、後任のペルー神父により建て替えられ、一九〇七年に完成している。遠くイタリアからも資材の一部が運び込まれたと言われている。
レンガ造りのその教会は、対岸に住む信徒のため、海を見つめるかのように正面が海に向かっている。かつてのミサでは、開始の合図は対岸まで届き、たくさんの信徒が小舟で教会を訪れていたと言われている。現在は布教から迫害、復活に至るまでの信仰の歴史を伝える資料館ともなっている。
ゴシック様式の内装も必見である。五島のシンボルである椿をモチーフにしたカラフルなステンドグラスが、光の差し込みを受けて聖堂を輝かせている。教会を一歩出ると、波のない静かな入り江に透き通った美しい海。そののどかな風景からは、厳しいキリシタン弾圧の歴史があったことがにわかに信じがたいものに思える。
堂﨑における福祉事業
堂﨑の宣教師たちは福祉事業にも着手している。当時の五島は非常に貧しく、子供の「間引き」が行われていた。それを見かねたマルマン神父はそのような子どもたちの救済に乗り出していく。一八八〇年神父は大泊の一民家とカトリックの家族の娘たちの力を借り「子部屋」と呼ばれる養護施設(日本での最早期の児童福祉施設)を作ったのである。
一八八三年、収容された子どもたちの増加により堂崎へ移り「養育院」と呼ばれるようになっている。ペルー神父の着任以降は、赤瀬に山林を求めて開拓し、一九〇四年に新養育院が完成し移転している。その後建設用地を拡充整備して聖堂の建築に着手し、堂崎教会(現在県指定文化財建造物)は完成するのである。堂崎は名実ともに五島の司牧宣教の中心地となってきた。
一九〇九年、養育院は財団法人の認可を受け、「奥浦慈恵院」となる。また一九四八年、奥浦慈恵院は児童福祉施設として認可されている。その福祉事業を支えた女性たちの行為から、不幸な子たちや困窮した人たちを通して神に仕える使命に対する徹底した精神を知ることができる。このように堂崎の地は、日本のキリスト教史において、五島列島という信徒数の多い離島を舞台に、カトリック復活期の布教システムで大きな役割を果たしたといえるだろう。
外海の歴史概略
長崎県外海地区は、出津遺跡や宮田古墳群などの古代の遺跡をはじめ、中世の神浦氏関係史跡、近世の大村藩関係史跡、近代の社会福祉及び宗教関係史跡など、様々な文化財が数多くあり、出津・黒崎を中心にキリスト教の文化が色濃く残っている。一方、神浦には、江戸時代初期に創建された寺や古い歴史を持つ神社など古来の文化が集積してもいる。
特に、明治時代のフランス人宣教師ド・ロ神父の活躍とあわせて、キリスト教の歴史は外海地区の文化的特質の一つである。また、大中尾の棚田、牧野の石造家屋、丸尾の石塀など、当時の生活の様子が偲ばれる資源も残されている。
昭和二七年に松島炭鉱株式会社が池島で炭鉱開発に着手、同三四年に営業出炭を開始し、それまでの半農半漁の村から石炭産業を基幹産業とする町へと発展していった。その後平成十三年に、九州最後の炭鉱であった池島炭鉱は閉山している。
遠藤周作と外海
外海(そとめ)地区は、かくれキリシタンの里としても知られており、遠藤文学の原点とされる小説『沈黙』の舞台となった場所でもある。東シナ海を臨み、眼前に雄大な外海の自然が展開する素晴らしいロケーションに建つ文学館には遠藤周作の生前の愛用品、遺品、生原稿、膨大な蔵書などが展示され、彼の生涯や足跡を紹介されている。
また、出津文化村の一角には「沈黙の碑」があり、遠藤は、この地を「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と評し大変気に入っており、碑の除幕式後に、「あの碑と場所は私が思っていたとおりの場所で、(中略)とにかく私にとって、ベターではなくベストの文学碑」という言葉を残しており、遠藤のこの地に対する思い入れの深さをうかがい知ることができる。
黒崎教会
一八九七年に、フランス人ド・ロ神父の指導で敷地が造成され、一八九九年から建設計画が進行、一九二〇年に完成している。遠藤周作の小説『沈黙』の舞台ともなった黒崎の地に建つ教会である。聖堂は信徒が奉仕と犠牲の結晶として一つひとつ積み上げたレンガで造られている。煉瓦造、平屋、桟瓦葺(さんかわらぶき)の簡素な構成が煉瓦の美しさを際立たせており、深い奥行を持つ内部はリブ・ヴォールト天井と呼ばれ、ステンドグラスが印象的だ。付属する鐘楼は隠れキリシタンの帰依を願って設置されたもの。
大野集落
大野集落は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す四つの集落のうちの一つである。禁教期の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象をひそかに祭って拝むことによって信仰を実践した。また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになった。解禁後はカトリックに復帰し、外海の出津(しつ)集落にある出津教会堂に通っていたが、その後、大野集落の中心に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終了した。
出津(しつ)教会周辺
一八八二年、フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロが自ら設計・指導した外海地区の出津集落の高台に建つ教会である。一八九一年と一九〇九年の増改築によってほぼ現在の姿が完成し、真っ白な外壁と二つの塔が印象的な外観となっている。
ド・ロ神父が村民の貧しい生活を改善するために私財を投じ、信者たちと力を合せて完成させた教会は、明治前期に建設された希少な初期教会堂の一つとされている。建造から二回の増築まで同じ神父が設計・施工した大変価値がある教会で、国の重要文化財に指定されている。
できるだけ多くの場所から見えるように小高い斜面に建てた教会堂は、角力灘(すもうなだ)の強風に耐えるため天井を低くしたレンガ造り瓦葺きの平屋建てで、外壁はレンガに白い漆喰(しっくい)を塗り、質素ながらも頑強な建物である。
そして「アンジェラスの鐘」と搭上に立つ「マリア像」は神父がフランスから取り寄せたもので、今でも朝夕に美しい鐘の音を響かせ信徒たちの安らぎの場として地域を支えているのである。教会周辺には、「旧出津救助院」や「ド・ロ神父記念館」がある。
春日集落
春日(かすが)集落は、平戸島(長崎県平戸市)の北西部に位置する集落で、住所表示は平戸市春日町(旧北松浦郡獅子村春日免)である。二〇一二年時点では一八世帯七〇人が暮らしていた。いわゆる隠れキリシタンが切り拓いた棚田の景観が、対岸の生月島とともに「平戸島の重要文化的景観」の名称で文化財保護法に基づく重要文化的景観として選定されており、二〇一八年年の第四二回世界遺産委員会において長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の一つとして登録されている。
一五六一年(永禄4年)に宣教師ルイス・デ・アルメイダが春日集落を訪れ教会堂を建立したが、その際の様子をイエズス会へ報告した書簡には「春日に到着すると、十字架へ続く道は聖体の行列を待ち受けるときのような有様であった」と記述されている。豊臣秀吉によるバテレン追放令も波及し、平戸各地では神父不在状態で信仰を維持していくのである。
信仰は、地下組織化して仏教・神道や土着の民間信仰を装いながら、「納戸神」や「マリア観音」を奉じ、神棚にはロザリオを隠すなど偽装棄教を共謀していくのである。特に春日集落では、集落内の丸尾山や背後に聳える安満岳を遥拝の対象とする自然崇拝の要素も採り入れ、オラショを秘かに唱えるなどしたことで、本来のキリスト教の教義から乖離していく、いわゆるシンクレティズムを推進していくことになったのである。
平戸へのキリスト教伝来について
平安時代から平戸にその名が残る松浦(まつら)一族は、鎌倉時代に海の武士団「松浦党」として名をはせ、室町時代には戦国大名にまで上りつめた実力者である。勢力をのばすことができた理由に、中国、朝鮮、ポルトガル、オランダ、イギリスなど海外貿易による経済発展と、鉄砲などの武器輸入が考えられている。二十五代当主松浦隆信(道可)は、一五五〇年から始まったポルトガル貿易の見返りとして、キリスト教の布教を認めたのである。同年にはザビエルが「平戸」を訪れている。
これが最初のキリスト教伝来であるといえるだろう。当時家老だった籠手田一族と弟の一部(いちぶ)一族はキリスト教に入信し、彼らの領土に住む人々はすべてキリスト教へ一斉改宗させられた。平戸島の西に広がる春日集落もそのひとつである。弾圧が始まると籠手田氏と一部氏は信徒六〇〇名とともに平戸から長崎へと脱出。その後も追うように二〇〇名もの信徒が長崎へ逃れたのである。やがて、欧州各国との交易の窓口は、平戸から長崎(出島)へと移っていくことになる。
ザビエル記念聖堂
平戸の町の背後にある高台には、ザビエルを記念する記念聖堂がある。平戸では、禁教が解かれて五島や外海などの信徒が移り住むようになり、信徒が増えていくのである。当初は、マタラ神父によって一八九一(明治二四)年に建てられた上神崎教会(別名:潮ノ浦天主堂)の巡回地であったが、一九三一(昭和六)年に、大天使聖ミカエルにささげられた教会が建てられ、早坂久之助司教によって献堂式がおこなわれたのである。
この高台を選んだのは、当時日本の宣教のために働いていたパリ外国宣教会の宣教師たちが、教会建設のとき、教会がどこからでも見えるように高台を選んだことに早坂司教が倣ったということである。鉄筋コンクリート造りで、正面中央に巨大な尖塔と小尖塔が林立している。白を基調とした内部平面は三廊式で、壁や柱には、マーブル模様の伝統的な漆喰塗りの技法が彫刻が施されている。天井はリブ・ヴォルト(コウモリ)天井である。
一九七一(昭和四六)年七月、献堂四十年を記念してフランシスコ・ザビエルの像が建てられ、「平戸ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになったのである。教会敷地内には他に、平戸殉教者顕彰慰霊之碑、献堂七五周年とザビエル生誕五〇〇周年を記念して、二〇〇六年に建設されたルルドもある。また、教会に市街地から登る途中、坂の途中にある光明寺や瑞雲寺と重なって見えるため「寺院と教会の見える風景」として平戸の象徴的な景観となっている。
天草の﨑津集落は熊本県天草市河浦町に位置しており、禁教期において仏教、神道、キリスト教が共存(シンクレティズム)し、漁村特有の信仰形態を育んだ集落である。﨑津は一五六九年、イエズス会修道士アルメイダによって布教が開始され、ほとんどの村人がキリスト教徒となったのである。集落内には教会堂や宣教師のレジデンシア(住居)が作られ、教会を支援する信仰組織として三つの小組からなるコンフラリア(信仰組織)が形成されていた。
その後、天草はキリシタン大名である小西行長が支配し、一五九一年から一五九七年の間、宣教師を養成するコレジヨが﨑津の隣村に設置されてもいた。このコレジヨには天正遣欧少年使節団の四人も入校しているのである。彼らが持ち帰ったグーテンベルグ印刷機により、日本発のローマ字活版印刷が行われてもいる。
ルイス・フロイスの「日本史」によれば、﨑津集落は「さしのつ」と呼ばれ、信仰拠点として重要視されていたことが記されており、それを裏付けるように布教期のメダイやロザリオが伝来してもいる。島原・天草一揆の後、天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、絵踏みなど厳しくキリシタンを取り締まる仕組みが整えられていく。
﨑津の人々は、表向きは仏教徒を装いながら、潜伏キリシタンとして信仰を継続していくのである。一八〇五年の「天草崩れ」とよばれる取締りの記録では、﨑津村民の約七〇%が潜伏キリシタンであったと報告されている。
崎津教会
一八八八年、潜伏キリシタンとして信仰を続けた信者から﨑津諏訪神社の隣の土地の寄付を受け、旧・﨑津教会が建設されている。旧・教会の老朽化に伴い、一九三四年、﨑津庄屋役宅跡地に現在の﨑津教会が建てられている。これは、キリシタンが弾圧された絵踏みが行われていた庄屋役宅に、復活の象徴となる教会を建てたいというハルブ神父の強い願いによるものであった。
教会は神父の私財や信者の寄付金、信者の労働奉仕により完成し、現在も信仰の復活を示す集落のシンボルとなっている。教会内部は建設当初からの畳敷きであり、祭壇は「絵踏」が行われた場所に設置されたと伝えられている。
﨑津諏訪神社
この神社は、豊漁・海上安全祈願のため、一六四七年に創建したと伝わっている。境内には創建にかかわる一六八五年銘の鳥居が現存しており、天草市内でも最古の鳥居である。禁教時代、﨑津の潜伏キリシタンは、この神社の氏子となり参拝の際には密かにオラショを唱えていたという。一八〇五年の「天草崩れ」では、潜伏キリシタンが所有していた信心具を差し出すように指定された場所であり、取り調べを受けた信者はどちらへ参詣する際にも「あんめんりゆす」と唱えたことが記されている。
シンクレティズムとは
語源は、ギリシャ語の『第三者との結合』という意味を持っている。すなわち、別々の信仰、文化、思想学派などを混ぜ合わせることである。異なる信念や実践の組み合わせや、異なる複数の文化や宗教が接触して混交している状態や現象をさしている。違った背景をもち、互いに異質の宗教、哲学的立場、神学的立場を妥協させようとする行為、またその結果生まれる考え方とも言われている。「混合」(混合主義)、「習合」(習合主義)、「諸教混淆」(しょきょうこんこう)ともいう。また「融合」「混交」「複合」「重層」などの訳語も使用されている。
天草の崎津集落や平戸の春日集落の潜伏キリシタンのように、土着信仰と伝来キリスト教を混ぜ合わせすることで、厳しい監視下におけるキリスト教信仰を護っていく手段としても適応されていったのである。
大村は、日本で最初のキリシタン大名・大村純忠が治めていた場所である。純忠は一五六三年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)でキリスト教の洗礼を受け、重臣たちもともにキリシタンとなったのである。領主の改宗により、大村領内には、キリスト教が広がっていったのである。しかし、一五八七年に純忠が亡くなると、跡を継いだ息子の喜前はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗している。
さらに一六一四年、江戸幕府が全国にキリスト教禁教令を発布し、仏教徒に改宗してしまう領民も多く出たのである。それでも、厳しいキリシタン弾圧のなかにありながらも、信仰を守り続けるキリシタンたちがいたのである。
大村純忠は、天正遣欧少年使節を派遣したことでも知られている。この町には少年使節団を顕彰する記念碑などがある。
江戸幕府が瓦解後に、外国事務係となった井上馨、また参議となった松方正義が共に長崎に着任した。そして再びキリスト教の禁止が確認されると、井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。諸外国からの抗議もあり、処刑ではなく、流罪が決定されるのである。
木戸孝允などが中心となり、信徒の中心人物百十四名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降、一八七〇年(明治三年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処されていくのである。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であったといわれている。
長崎から津和野に送られてきた一五三人の隠れキリシタンは、この場所にあった光琳寺というお寺に収容されるのである。そして津和野藩の改宗のすすめに応じず、ついには拷問によって三七人が命を落とすことに。その中には小さな子ども達も含まれている。時代は変わり、明治二五(一八九二)年、乙女峠の隣の谷に葬られていた殉教者の遺骨は、一つのお墓に埋葬される。その後、昭和二一年に津和野カトリック教会に赴任したネーベル神父(帰化後は岡崎裕次郎神父)が、マリア聖堂を建てたり、周辺も現在のような場所へと変えていったのである。
現在の乙女峠は、津和野の町のはずれにあり、小さな谷を登っていった先にある。そこには、小さな教会と記念碑が建っており、またマリア像と檻に入れられた信徒の像なども設置されている。また、ここは秋の紅葉の隠れた名所ともなっている。
一八五四年の開国からまもなく長崎に来た宣教師たちは、「大浦天主堂」を建設し、居留地の西洋人のために宣教活動を行った。一八六五年、大浦天主堂の宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、多くの潜伏キリシタンが信仰を表明したため、再び弾圧が強化され、摘発事件が相次いだ。
やがて弾圧に対する西洋諸国の強い抗議が相次ぎ、一八七三年、明治政府は禁教の高札(こうさつ)を取り除き、キリスト教は解禁されたのである。潜伏キリシタンは、宣教師の指導下に入ってカトリックへ復帰する者、引き続き自分たちの信仰形態にとどまる者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれた。
このように、長崎市内においては、大浦天主堂、浦上にある天主堂などなど、潜伏キリシタンなどに関連する諸施設が多く点在している。
大浦天主堂
国内現存最古の教会として知られている。南山手グラバー通りに面して建ち、美しいステンドグラスが施されたゴシック様式の教会である。一八六四年末に竣工した翌年三月、浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となったのである。
建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教地である西坂に向けて建てられている。聖堂内のステンドグラスの一部は一八七九年の改築当時のもので、歴史ある荘厳な雰囲気に包まれている。レンガ造の教会だが表面は漆喰で白く塗られている。一九三三年に国宝となったが、原爆による損傷の修復が完了した後、一九五三年に再度国宝に指定されている。また、二〇一八年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつとなっている。
フランシスコ・ザビエルに始まる日本とヨーロッパの出会いから生まれたキリシタン文化と、キリスト教に対する迫害によって殉教した人々のメッセージを紹介する施設である。
この西坂の地では、一五九七年から十七世紀中ごろまで、キリスト教徒であるために、多くの人々が処刑され、殉教している。
浦上街道は、浦上から大村へと続く陸路の終点である時津を結んだ街道である。この道を、潜伏キリシタンの二十六聖人が、処刑の場所である西坂の丘へ向かう際に歩かされている。
一八七三年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって建設が計画されたのである。
ところが資金がなかなか集まらず、二十年余りの時を経た一八九五年にようやくフレノ神父の設計による教会の建設が開始され、一九一四年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式が建てられたのである。
正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられたが、一九四五年に原爆により建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちたのである。
現在の建物は一九五九年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、一九八〇年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されている。
周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘が時を告げている。
2023年8月13日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。