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旅のフィールドワーク
中国領シルクロード

文・写真 清水正弘

深呼吸出版



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目 次


文明の交差路・シルクロードを分割調査する(エッセイ)
シルクロードへの憧憬(エッセイ)
砂の海に地平線が消えてゆく(エッセイ)
蜃気楼とオアシス(エッセイ)
好奇心というココロの瞳(エッセイ)
玄奘三蔵法師の足跡をたどる(エッセイ)

一九八〇年代のパミール高原(写真)
一九八〇年代の天山南路(写真)
渡来系・秦氏の故郷説がある、『中央アジア一帯』(エッセイ)
一九八〇年代半ばのトルファンなどオアシス群(写真)
まなざしの記憶(エッセイ)
一九八〇年代の西域南道(写真)

タクラマカン砂漠の子供たち(写真)
一九九〇年代のカシュガルの諸風景

二〇〇〇年代初頭(二〇〇九年)の諸風景

 ウルムチ(写真)
 交河古城(写真)
 高昌古城(写真)
 火焔山(写真)
 ハミ~敦煌間・車窓から(写真)
 敦煌・市内や市場など(写真)
 玉門関・漢長城(写真)
 陽関遺跡(写真)
 鳴沙山(写真)
 莫高窟・敦煌(写真)
 西安・大雁塔、西城門など(写真)
 夜の西安市内(写真)

文明の交差路・シルクロードを分割調査する

シルクロードは、一応イタリアのローマから唐の都・長安を結ぶ、文明・文化の交差路とも呼ばれている。そのシルクロードに対する関心は、高校時代からのものであり、どうにかしてすべてを歩き通してみたいと願っていた。しかし、当時の中央アジア情勢などからも、分割して探査することしか選択肢はなかった。そこで、まず改革開放政策をとっていた、一九八〇年代の中国・新疆ウイグル自治区を重点的に探査することから始めたのである。中国・新疆ウイグル自治区内のシルクロードには、大別すると三つのルートがある。

天山北路、天山南路、そして、西域南道である。一番、自然環境が過酷なのが、西域南道である。天山北路は、いわゆるステップルートと呼ばれている。新疆ウイグル自治区でも北方、モンゴルとの国境あたりの草原地帯を抜ける道である。西域南道は、タクラマカン砂漠の南縁を敦煌を経由していくルート。そして、最後の天山南路は、タクラマカン砂漠とゴビ砂漠の間を抜ける道である。

改革開放政策をとる一九八〇年代の中国では、この天山南路が一番早く、経済投資の対象となっていた。今では、すっかり『石油開発』などのエネルギー資源供給地となってしまったが、当時は、その端緒でありまだまだ昔日往時の雰囲気が残ってもいた。北京から空路約六時間(現在では約二~三時間だと聞く)にて、自治区の区都・ウルムチへ。そこから、陸路にて高昌故城、交河古城、ベゼクリク千仏洞などを探査した。トルファンなどのオアシスでは、ブドウ棚の下で、ウイグル娘たちの舞踏も見学することができた。

それは、観光地のショー化される前の時代であるので、華美な装飾は一切なく、ブドウ棚横の倉庫で衣装替えや化粧をしていたのである。天山山脈からの、地下水路である『カレーズ』の内部にも入ることもできた。いまや高層ビルが乱立するウルムチでは、単に重苦しいだけの、旧ロシア領事館だった招待所が宿であった。そんな時代ではあったが、二〇〇〇年代初頭に再訪した時には感じられない『熱気』や『賑わい』があったように思うのである。

二〇〇〇年代初頭の新疆ウイグル自治区は、石油開発による超高度経済成長を遂げており、ウルムチの町では昔の面影を追うことができなかった。どこにも、シルクロードの香りがしない。単なる中国の一地方都市であり、他との区別が難しいのである。タクラマカン砂漠北縁には、無数の風車が巨大なプロペラを回していた。石油の掘削機も、ギュアンギュアンと回転音を鳴らし続けている。砂漠に機械の回転音は鳴り響いているが、街中からは馬車の車輪がたてる回転音は聞こえてこない。

ものの二十年程度で、これだけ一気に変化すると、かならずその反動がくるのは当然であろう。今ではほとんど報道されることは無くなってきたが、ウイグル族の反政府運動は、ますます過激になっていると聞く。イスラム原理主義との連携なども心配されている。それだけに、一九八〇年代~二〇〇〇年代初頭に撮影したこれらの写真は、後世への貴重な資料ともなり得るのかもしれない。

一九八〇年代後半、ウルムチのバザールにて

シルクロードへの憧憬

NHKにて放送された『シルクロード』はご覧になられただろうか? このシリーズは一九八〇(昭和五十五)年四月七日~一九八一(昭和五十六)年三月二日まで毎月一回、計十二回にわたって放送されている。喜多郎の音楽とともに、当時青少年だった人々の記憶にも、強烈なインパクトを残したのではないだろうか。

まさに、当時私は二十歳の大学生。山岳部や探検部に所属をしながら、世界の秘境や辺境へと、その眼差しを輝かせていた時代である。ダライ・ラマ十四世との出会いもこの年であった。このシリーズ第十一集『天馬のふるさと=天山北路』(一九八一年放送)は特に印象が深く、彼の地への憧憬の念が消えることはなかった。

二十歳代の半ばから後半にかけては、新疆ウイグル自治区のオアシス群、タクラマカン砂漠、崑崙山脈、アルキン山脈、パミール高原、天山山脈などへの足跡を残してきた。しかし、天山山脈の北側は、ウルムチからさほど遠くない『天池』までは行けたのであるが、それよりも北方は許可が下りなかった。

当時はまだまだ中・ソがいがみあっていた時代でもあり、ソ連やモンゴルとの国境付近は未開放エリアだったのである。シルクロードにある3つの主な幹線の内、(天山南路・西域南道)の二つは二十歳代で踏査することができたが、天山北路だけは未踏のままであった。

それ以降、三十歳代、四十歳代、五十歳代の半ばまでは、チベット奥地やインドネシア島嶼部、欧州の宗教聖地、その他さまざまな個人的テーマが増えたこともあり、天山北路踏査の機会は遠ざかってしまっていた。

五十歳代の最後に、モンゴル西端部のアルタイ山脈奥深くへと踏査に入ることができ、北側から『天山北路周縁部』をイメージ俯瞰することができた。この番組(第十一集)でも取り上げられているが、特にカザフ族の鷹匠やその技については、どうしても実地で体面・体得してみたいという強い願望があった。中国領内のカザフ族ではないが、アルタイ山脈山中にてカザフ族の鷹匠に出逢うことができた。

また、草原の民にとっての『テングリ=天』という思想の根源的風景にも幾度か体感する機会に恵まれた。二十歳代前半にテレビで視聴した中央アジアの遊牧民の姿は、その後四十年弱の歳月を経ても、私の脳裏から離れることはない。

今後の願望とすれば、黒海沿岸・カフカス山脈にて古代スキタイ文化(騎馬民族文化)の調査行や、仏教西端の国カルマイクなど、シルクロードに関連する土地への足跡を記していきたい。

砂の海に地平線が消えてゆく

中国領内シルクロード三つのルートの中で一番過酷な条件下にあるのが、タクラマカン砂漠の南縁を結ぶ西城南道である。「タクラマカン」という言葉の意訳は、一度足を踏み入れたら二度と出て来れない、ということ。この砂漠のことを「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と昔の旅人は記した。西や南を崑崙山脈やアルティン山脈、北は天山山脈などに囲まれるこの砂漠は、日本の山岳・探検分野の人にとって昔から垂誕の地であった。

特に砂漠の東方には、スウェイン・ヘディンの探検で有名な楼蘭やロプ・ノール湖がある。登山や探検行動の源泉であるパイオニア精神を鼓舞された学生時代、「タクラマカン」という言葉は、しっかりと私の心にも楔となって剌さっていた。 はじめて中国領シルクロードを探査したのは一九八〇年代後半のことであった。その頃の中国西域地方は、現在の経済成長がウソのような時代だった。複雑な許可取得手続きに悩まされた後、カシュガルの町を四輪駆動車で出発した。二週間強で西城南道を走りぬけ、総走行距離二三〇〇キロを超す敦煌までの旅だった。

ラクダによるキャラバン隊の苦労には及びもつかないが、想像を絶する強烈な自然環境が幾度となく私達の行く手を阻んだ。しかし同時にその荘厳な大自然は、あえてこの過酷な道を通過する旅人への僥倖を数多く用意してくれていたのだ。 アルティン山脈を横断中の夕暮れ時。道標としていた轍がいつの間にか消失した。その時、茫然自失の私達の眼前を、野生鹿の集団が疾風怒濤の如く走り抜けていったのだ。砂埃と地鳴りが収まった頃、まるで魔物の住処のような奇岩群が夕闇に浮かび上がってきた。それはまるで冒険映画のクライマックスのようなシーンだった。

また満月に近い夜のこと。米蘭(ミーラン)の遺跡に疲れ果てて辿り着いた。月明かりの下で、野晒し状態の遺跡群が淡く仄かに浮かび上がっていた。月の光と遺跡の影は見事なまでのハーモニーを奏でており、栄枯盛衰の歴史に想いを馳せながらの野営を満喫することができた。そしてなんといっても烈風に舞う砂塵に巻き込まれた時の記憶は忘れられない。その日の午前中は快晴無風だったが、午後急速に空模様が変化した。烈風が砂の粒子を巻き上げ、灰色のベールとなって進行方向を覆い始めた。砂漠から流れてくる砂は路面にも積もり始め、路肩がしだいに霞みはじめた。それは砂地と道との境が無くなり、道路という言葉が消えてゆく瞬間だった。消えていったのは道路だけではなかった。大気中に溢れ出た砂塵は、空と地面との境界線-すなわち地平線を視界から消失させていった。それからの数分間、我々の車は一切の「枠」というものが見えない空間を移動したのだ。

耳にするのは、風の音と車のエンジン音。体が感じるのは、小刻みに揺れる車体の振動のみ。確実に動いているのだが、距離感や速度感、さらには重量感といった「実感」が無くなり、心地いい浮遊感を砂の大海原にて体感できた。このように自然が展開する非日常の諸現象は、旅人たちの心象風景に強烈なインパクトを与え、その旅にも彩りを添えてゆく。「一度足を踏み入れたら、二度と出て来れない」と称せられるタクラマカン砂漠。もしかすると、自然現象の奥深い魅力に取り付かれた人が命名した言葉なのかもしれない。

ミーラン遺跡にて


蜃気楼とオアシス


「空に飛ぶ鳥なく、地に走獣なし」と表現されたタクラマカン砂漠。一度足を踏み入れたら二度と出てこられない、という意味のタクラマカン砂漠は中国の西域地方にあり、その縁をシクルロードが走る。幾つかあるシルクロードのルートの中で、一番過酷な西域南道を四輪駆動車で走ったことがある。

右手に崑崙山脈、左手にタクラマカン砂漠を見ながら疾走していた車が、突然の突風による砂嵐に巻き込まれた。細かい砂の粒子は灰色のベールとなり、進行方向を覆った。車内には、容赦なく砂塵が舞い込んでくる。そのときに私は、不思議なものを見た。舞い散る砂塵のかなたに、ユラユラと揺れるオアシスの影……。

一瞬であったが確実に見たのである。地図で確認すると、見えるはずのないオアシス。蜃気楼だった。既に幾日も砂漠の旅が続き、私は疲れていたのかもしれない。

昔の紀行文では、人や動物の屍が道標となったと書いてあるくらい、砂漠の旅は厳しかった。彼らも、同じ現象に出合ったかもしれない。吹き荒れる砂嵐に身を潜め、揺れるオアシスに一縷の希望を託したのではないか…。

私は、日常生活で辛いことや苦しいことがあったときに、砂漠で見た蜃気楼のことを思う。人生においては、嵐に身を伏せ、苦難の瞬間をやりすごす時期もある。三十五歳のときがそうだった。勤め帰りの満員電車の中で、ふと窓に映った自分の生気のない顔。

来年も、私はこんな顔をして年をとっていくのだろうか…。組織人を辞めようと決断した。しかし妻子を抱えて食べていけるのか、次の仕事(鍼灸師)の見通しはあるのか…、その混沌とした頭の中で見ていたのが砂漠の蜃気楼だった。

家族の死や受験の失敗、不条理なリストラ、嘲笑やいじめなど、人生の中では嵐に身を伏せる時期がある。中高年や若年層の自殺者の数が増えているというのは、心の砂漠に吹き荒れる嵐に耐えられなかったからだろう。

でも強い嵐に身を伏せながらも、蜃気楼の中で揺れる小さな心のオアシスを見つけることができたら、一瞬でも楽になれる。そのうち嵐は弱まり、いずれ去ってゆくのは間違いないのだから。嵐が強くなればなるほど、蜃気楼の中で揺れる『希望』という名の、小さな心のオアシスを見つけたい。

好奇心というココロの瞳

世界の秘境や辺境と呼ばれる場所で必ず出会う目がある。それは、はにかむ頬の上で光り輝く子どちたちの目である。テレビやコンピュータ―のない辺境の土地に住む子どもたちにとって、異国人との出会いほど刺激的なものはないだろう。 「ナンダ、コイツ?」から始まり、「どこから来たのかな?」、「ケッタイな服着とるな?」などなど。彼らにとって、異国人は不思議の館からの来訪者なのである。
 
中国奥地のパミール高原を訪れた時のこと。遊牧民の移動式テントの生活ぶりが珍しくて、ビデオ撮影に熱中していた。その時の私を写した友人の写真を見て驚いた。撮影者である私は、隣にいる遊牧民の子どもたちにしっかりと観察されていた。戸惑いとはにかみを示す距離を保ちながら、好奇心の光線を私の全身に浴びせている。その光は、まるで絵本をみている時に宿る、幼児の目の輝きに似ている。

そういえば、撮ったばかりの映像を彼らに見せた時も、同じ目だった。先ほどまでの自分達が小さな画面の中で動き、目の前の生活の品々が収まっている。異次元の世界をただじっと、食い入るようにみつめていた。秘境や辺境の地は、大自然の奥深い場所にある。私たちが当たり前と思っている便利さはほとんどない。

得られる日々の情報は、自ら感じたことや見聞したこと、父母や近隣の人から教えられたものくらいである。それでも彼らの目に出会うたび、人間にとって大切なことは獲得する知識の量ではなく、好奇心という『心の目』を育てることではないかと思う。

玄奘三蔵法師の足跡をたどる

クンジェラブ峠(パキスタンとの国境)

遥か昔に、現代人の想像の域を超える、時と空間を移動した人物の一人が、玄奘三蔵法師であろう。唐の都からシルクロードの砂漠地帯を越え、そして当時天竺と呼ばれていたインドへと向かう。経典を携えて再び往路を引き返した、その歳月たるや十七年。西暦六〇〇年代のことである。帰朝後に記した『大唐西域記』は、西遊記のモデルとなっていく。孫悟空の活躍する世界である。
その玄奘法師の旅の中でも、最大クラスの難関が、『パミール高原』である。

この高原を拠点とする遊牧民たちが、夏の間家畜の餌用の草を確保のために滞在するエリアから、さらに南下した場所に、秀麗な七〇〇〇m級巨峰がそびえている。ムスターグ・アタ峰である。手前には、カラクル湖があり、朝夕の湖面に輝く、逆さムスターグアタには言葉を失うほどである。このムスターグ・アタ峰への遠征隊に帯同して、地域の探査行も数度おこなったことがある。

そのうちの二回くらいだと記憶しているが、探査終了後、カラコルム山脈を越えてパキスタン側へと、クロスボーダーしたことがある。国境通過が外国人に開放された年の、通過第二団を率いたこともある。写真の場所は、標高五千m近い、クンジェラブ峠である。当時は、写真にあるような、味も素っ気もない標識石が建っているいるだけであった。いつも寒風が吹きすさび、国境警備の人民解放軍の兵隊もブルブルと震え切っていた。

パミール高原から連続する高地性の広大な草原状台地が延々とこの峠まで続くのである。が、峠を越えると景観は一変するのである。急峻で危険な崖に僅かながらの車の轍道があるのみ。四輪駆動車は慎重にハンドル操作しながら、静かに下っていくのみであった。中国とパキスタンとの国境検閲地点は結構な距離があった。ので、互いの検閲所間には、所属する国が明確でない緩衝ゾーンがある。その緩衝地帯の風景は、まさに人為の侵すことのできないほどの、美しさと厳しさをもった雄大で荘厳なものだったと記憶している。パキスタン側の最初の町は、不老長寿の里フンザである。このフンザにも北側から、そして南側から双方からフィールドワークをしている。

明治三十年代に、浄土真宗本願寺派が派遣した「大谷光瑞率いる内陸アジア探検隊」。その第一次隊として大谷光瑞自身が隊長となり、このパミール高原を通過(越境したのは別の峠であるが)したのである。一九八〇年代~九〇年代のこのエリアは、中国中央政府による管理・監視もそこまで強くはなく、大谷探検隊が見たであろう自然環境がまだまだ残っていたのである。

パミール高原を遥かに望む

一九八〇年代の天山南路

文明の十字路とも称せられた「カシュガル」。一九八〇年代の当地での諸風景である。同じ頃、日本では久保田早紀のCM曲(異邦人)も巷に頻繁に流されていた。もちろん、私自身もシルクロードやユーラシアの遊牧民には憧憬の念をもっていた。さらには、当時の中国が、未開放地区を一般外国人にも解放し始めていた時代でもある。当時の中国は、鄧小平時代であり、『富めるものから富み、後に続くものを引き上げる』という政策のもと、中国沿海部の開発を始めたばかりであった。

チベットや新疆ウイグル、内モンゴル、雲南・貴州省などの辺境部は、調査隊や遠征隊ぐらいにしか縁のない時代でもあった。私にとっての最初の入域は、師匠・藤木高嶺先生(ジャーナリスト・文化人類学者)が組織するフィールドワーク隊の一員としてであった。

道路のほとんどは未舗装状態。荷馬車が道路中央を堂々と往き、車はそれを避けて通過するという具合だった。タクラマカン砂漠からの砂塵よけである、ポプラ並木がどこまでも延々を続く中を、砂埃をあげながらジープで移動したのである。写真を改めて見直すと、ポプラ並木から伸びる柔らかい日陰の筋が、砂埃が舞う路に簾滝のように降り注いでいる。二〇〇〇年代初頭には、この路もアスファルトに舗装され、『舞い上がる砂埃と降り注ぐ日陰の筋』のコラボを見ることはできなくなった。

渡来系・秦氏の故郷説がある
『中央アジア一帯』

古代に日本へ渡来してきた諸氏族。大陸から渡来してきた集団が、北部九州から山陰、そして能登半島や佐渡島あたりまで船で着岸している。(もちろん、南洋渡来の集団もあったであろう。)その中の『秦氏』。この渡来ルートを遡っていくと、魅惑的なワールドが無限に広がっていく。ある大胆な仮説は、『秦氏=ユダヤ系説』も提示したりする。いろんな説が、学会や民間を含め玉石混交状態である。

それは、ひとえに『秦氏のルーツを辿れる史料がほとんど残されていない』ことが背景なのであろう。ただ、形態人類学という遺伝子を解析する分野の研究者『埴原和郎』先生の著作などから、秦氏を含め大陸からの渡来系集団の一部のルーツは、中央アジアくらいまでは遡れることがだいたい判ってきているらしい。俗説(学会ではまだ認定はされていない)によると、秦氏の発生場所は、諸説あるという。

そのなかでも、一番可能性が高いのは、『中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)』であると聞く。ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都(弓月国)自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。

古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。伊寧市、グルジャ市は、中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。

渡来系秦氏のルーツが、新疆ウイグル自治区にあり、また古代のシルクロード上を伝搬しながら、東端の日本まで渡来してきたとすると、異邦人のメロディーと写真のような景観が、一九八〇年代当時の日本人の心を、なぜ鷲掴みにできたのか、と妙に納得できるものがある。

★写真は、一九八〇年代半ばのトルファンなどのオアシス群である。

まなざしの記憶
一九八〇年代の西域南道

見るたびにその少年のまなざしは、私の心を揺さぶる。シルクロードのオアシスで何気なく撮ったバザールでのひとコマ。撮影時、目的の被写体は手前の手細工職人であり、少年の存在は私の眼中にはなかった。思い返してみると、大人の職人に混じって見習い中の少年たちが作業をしていた。そのなかのひとりなのだろう。鳥打帽をはすかいにかぶり、ちょっと得意げに腕を組んだポーズをとる。かすかに微笑みながら、カメラの向こうにいる私を見ている。

心の底まで見透かされるようなそのまなざしに、いつも私はタジタジとしてしまうのである。辺境の地でのバザールでは、このような子どものまなざしに遭遇することが多い。路地裏で鼻歌まじりに笑いながらミシンを踏んでいた少年。生地屋の店先で、黙々と経典を読んでいた少年。軒先に吊られた絨毯の陰には、妹をあやす店番の少年。注意深くバザールを歩いて見ると、多くのまなざしに出合うことができる。このまなざしに出合うたびに私はいつも考え込まされる。

辺境の土地では、まだまだ子どもたちも貴重な労働力である。彼らは働きながら、バザールの中で学校や親以外の人間と接触する。多くの人々の喜怒哀楽の表情を見ながら、自分も社会とつながっているという実感を日々獲得してゆく。彼らにとってバザールは、大人への階段の場所であり、人生の学習場所でもある。彼らの顔には、子どもと大人の表情が同居している。だからこそ、ふと見せる彼らのまなざしには、明日を夢見る希望と今の自分への小さな誇りが同時に感じられるのだろう。

残念ながら、今の日本でこのまなざしに出合う機会は非常に稀なことである。いつの間にか子どもから大人になってしまう現代の日本の社会。自分の強さ、弱さを自覚しないまま大人の世界に入ってしまう現代社会。自分の弱さに真摯に向き合う時間が、他者の痛みを共有できるココロの栄養素となるのだが、カラダは栄養過多なのに、ココロの栄養不足のまま大人になってゆく。果たして大人への階段のない社会を、ほんとうに豊かな社会と呼べるのだろうか?

※写真は、一九八〇年代の西域南道オアシス群(ホータンなど)である。

一九九〇年代
タクラマカン砂漠の子供たち


子供達は、大人から了解を得るまで、決して私たち異邦人にスイカをねだることはなかった。また、私たちとの間に『一定の距離』をおいているのがおわかりいただけると思う。この距離が、『戸惑いとはにかみ』の微妙な距離なのである。

この後、現地の大人たちに、私たちからスイカをプレゼントする旨を伝えたところ、代表格の大人が、なんとまず子供達にスイカを配っていったのである。それも、平等に、来るのが遅れた子供たちへも分配したのである。結果としてスイカがあたらなかった大人も幾人かいた。しかし、まったく意に介さない表情だった。

そんな大人たちにも『矍鑠とした一本筋の通った』ものを感じていた。この砂漠の縁にあった、小さな集落に住んでいる人々の心の縁には、大きな包容力と慎み深さ、そして手ごたえのある幸福感、といったものがしっかり息づいている・・。

※子供たちの写真の後には、一九九〇年代のカシュガルの諸風景である。

一九九〇年代のカシュガル
ウルムチ

交河古城

交河故城は世界最大、最古の土で築かれた都市遺跡で、保存状態のよい都市遺跡である。唐の時代に西域の最高軍事機関である安西都護府が設置されている。新疆ウイグル自治区トルファン市の西方十三キロにある島形の台地にある。二本の河が南側で合流することからその名がついた「交河故城」は昔、西域三十六国の一つ、『車師前国』の都であった。

交河故城遺跡の全長は約一六五〇メートル、幅は最大で約三〇〇メートルで、全体的には柳葉形に見える。トルファンは気候が乾燥しているので故城の保存状態は良好であった。建築物はすべてが天然の土を掘って作られたもので、配置が唐の都、長安に似ている。交河故城は寺院や議会の跡地、塔群、民家など様々な建築物が集まった古代遺跡であり、そのうち、寺院の敷地面積は五〇〇〇平方メートルで、大仏寺の前には井戸がある。仏塔群には百一基もの仏塔が整然と残っており、空から見ると交河故城は一枚の大きいな柳葉のように見えると言われている。

交河故城から出土した文物はたくさんある。例えば唐の時代の蓮花煉瓦、蓮花経巻が代表的なものである。最近、考古学の専門家たちは地下に建てられていた寺院と車師前国貴族の墓地を発見し、そこから仏舎利などの貴重な文物を出土している。交河故城は、紀元前二世紀~五世紀(今から二〇〇〇~二三〇〇年前)に車師国人によって建設されたものである。南北朝と唐の時代に最盛期を迎え、九世紀~十四世紀に戦火によって衰えていった。元末の察合台の時代にトルファン一帯は戦火に苦しみ、交河城は焼け落ちてしまったのである。

現在、古城遺跡はよく保存され、寺院エリア、官府エリアなどに分けられている。古城は総面積が約四十七万平方メートルで、現存する建築遺跡の面積はおよそ三十六万平方メートルある。城内の建築物はほとんどが唐の時代に建てられたものである。都城の構造は独特で、宋代以前の中原地域の都市にある建築物と同じような特徴を持っている。

二千年以上にわたる時を経て今でも高く聳え立つ交河故城は「世界で最もすばらしい廃墟」と言われている。


高昌古城


高昌古城の内外の建築は、唐代に建てられた長安城の形状と似ている。古城に入ると、外城壁、内城壁、宮城壁、カカントーチカ(可汗堡)、烽火台、仏教タワーなど、よく保存された建物を目にすることができる。

外城は正方形に近く、周囲の長さは約五キロメートル、城壁は土で作られ、基盤の厚さは十二メートル、壁の高さは十一・五メートル、厚さは八~十二センチ。西南側は、総面積十キロメートル平方の寺院が佇んでいる。

寺院は、門、庭園、経書の講堂、経書の収蔵楼、大殿、和尚の寝室からなっている。建築のスタイルや壁画の図案によると、大体六世紀ごろに建てられたと言われている。

また外城の東南方ではもう一つの寺院がある。多方形の塔と、宗教行事に用いられる洞窟がよく保存されており、城内で唯一完全な壁画が保存されている場所である。

内城の北面には、正方形の砦があり、その上にさらに高さ十五メートルのタワーが聳えている。西側には、地上地下二階の建物もある。現在は地下の部分だけ残され、南、西、北には広い階段が設置され、地下に繋がっている。

小規模であるが、これは現在残された唐代の最も豪華な宮殿のスタイルと同じである。かつては重要な宮殿だったと推測されている。


唐代の高僧・玄奘は、高昌を経由した時、経書を解釈し、仏教の道義を伝え、当時の高昌の王と兄弟関係を結んだと言われている。

高昌古城は、紀元前一世紀に城壁が建てられてから十三世紀に廃棄されるまで一三〇〇年余りの歴史があり、現在までに二〇〇〇年以上の歴史がある。

火焔山

火焔山は、全長が約一〇〇キロ、幅約十キロで、トルフアン盆地の中部に位置し、最高峰の海抜八五一メートルである。ヒマラヤの造山運動の期間に形成し、今から約二億年間、ジュラ紀と白亜紀第三紀の岩層赤色砂岩が主である。夏の地表温度は七十℃以上に達し、強い日光に照らされた赤色砂岩は、盛んに燃える火のように見えるのである。南北朝は「赤石山」、唐代は「火山」と呼ばれ、明朝に初めて「火焔山」と称されることになった。明代、呉承恩の著作『西遊記』には、唐僧、孫悟空師徒四人が天竺へ取経、この山を経由し、「八百里の火焔」と名付けたので、火焔山は一層不思議な色彩が漂う、有名な奇山になっていったのである。

ハミ~敦煌間
敦煌(下町)

玉門関・漢長城

玉門関は、シルクロードが北道に通るための要衝である。前漢、張騫が使者として西域に赴いて以来、中原地域のシルクや茶葉など、さまざまな品物は、関所の玉門関を通して、次から次へと西域の国々へ運ばれて行ったのである。

と同時に、西域各国の葡萄や瓜、果物などの特産品および宗教、文化も相次いで中原へ伝わってきている。当時、玉門関地域は、ラクダ隊商や人、馬の声で賑わい、キャラバンの姿が絶えず、使者が往来し、極めて繁栄した光景であったのだろう。

玉門関は、陽関と同じ時期に建てられたもので、前漢には、玉門都尉の治所であった。王莽が帝位を簒奪してしばらく、シルクロードが中断し、玉門関が封鎖されていた時期がある。その後、後漢の建武帝から延光帝までの百年余りの時期に、シルクロードは数回に渡り、開通されたり、封鎖されたりしている。

そして、後漢になり、玉門関は玉門都尉の管轄に属されたのである。両晋南北朝の時、戦争が相次ぎ、また、中国と西域各国の交流するための海のシルクロードが日増しに盛んになり、シルクロードはだんだん寂れていったのである。そして小方盤城の城門にきらきらとした玉石が鏤められ、関楼が一層雄大になり、それ以来、名前を「玉門関」と改められたのである。

前漢の時代に築かれた漢長城

陽関遺跡

陽関は、敦煌市の南西約七十キロにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の一つである。併せて設置された玉門関より南に位置し、そのため「陽関」と称された。玉門関と併せて「二関」と呼ばれる。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で建設した、西域交通南ルートのでの要所であった。

陽関は、中国で古代より孤独な生活を思い詠嘆する地で、特に唐代の詩人王維の詩「送元二使安西(元常の安西に使ひするを送る)」が有名である。「西出陽関無故人(西のかた 陽関を出づれば故人無からん)」の句は三度繰り返し吟じられることが多く、「陽関三畳」と呼ばれる。


鳴沙山


以前は神沙山と呼ばれていた。風が吹くと音をたてるので「鳴沙山」と呼ばれるようになった。「晴れた日に風が吹いて砂が流れると、管弦や兵馬が打ち鳴らす太鼓や銅鑼の音のように聞こえる」とも言われている。

『史記』には、「天気がいいときは音楽を奏でているようだ」とも記載されている。鳴沙山はすべて砂が堆積してできたもので、東西の長さは四十キロあまり、南北の幅は二十キロあまりもあり、山峰は険しく、その最高峰は二百五十メートルある。

山腹に水波状の砂紋がある。山頂から滑りおりると、砂礫が音を立てて一緒に落ちてくる。この砂漠地帯は昼夜の温度差が激しく、日中は砂が熱くて登ることはできない。

そのため市内からのツアーは日没に合わせて組まれていることが多い。夕日の中で金色に輝く姿は、昼間とは別世界のような幻想的な美しさだ。

莫高窟(敦煌)

真冬の莫高窟。一月の厳寒期に、中国シルクロードの拠点である莫高窟に訪れたことがある。気温は、マイナス十好き好んで、真冬の仏教遺跡を目的地とする酔狂なツーリストはいないだろうと考え、あえてこの時期を選んだのである。

ここは、二十世紀初頭、イギリスの探検家・オーレル・スタインや、日本の大谷探検隊、そしてロシアからの遠征隊など、各国からの調査遠征隊(中には領土拡張の命を受けた隊もある)が跋扈していた地域である。

私自身、大学生時代にはスタインやヘディン、大谷探検隊などの報告書や書籍をむさぼり読んでいた。ネパール南部にて生誕した釈迦牟尼の教えは、インドから中国へと伝わる過程で、荒涼とした砂漠を通過することとなる。

大唐西域記を記した玄奘三蔵が、十七年間のインド滞在の後、中央アジア・パミール高原・シルクロードを通過して長安へと戻っている。その波及伝播過程にて、アフガニスタンにあるバーミアン、パキスタン北部のタキシラなどの仏教拠点が構築されていくのである。

ガンダーラに残る仏陀像がそうであるように、砂漠にての宗教は、どうしてもストイックで厳格な色が強調されてくるのあろうか。真冬の莫高窟に残る修行僧らの洞窟は、そのストイックさをシンボライズしているように感じられたのである。


西安(大雁塔・西城門など)


(大雁塔)

市の南約四キロにある。唐の三代目の高宗李治が皇太子のとき、生母文徳皇后の冥福を祈り六四八年に建てた慈恩寺の境内に立つ塔で、西安のシンボルである。当時の規模はかなり大きかったが、唐代
末期に戦乱のため焼き払われ、現存するのは当時の十分の一に過ぎない。

六五二年にインドから帰った玄奘三蔵法師の願いにより、境内に大雁塔を建て経典を保存することにした。塔は煉瓦でできており、当初は五層の塔であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。

しかし、戦乱などで上部が崩壊し、現在は七層で、高さは六十四メートルしかない。内部の木製のらせん階段を登ると、最上部まで行くことができる。


(西城門)

西安古城壁は、完全に保存されている世界最大の古代城壁として、また世界で最も整った古代の軍事砦として有名である。現在、西安にある城壁は、唐の長安城を基礎に明の洪武年間(一三七〇年~一三七八年)にかけて、レンガを積み重ねて築かれた。

城壁は、周囲一万三千九百十二メートル、高さ十二メートル、底の幅十八メートル、頂部の広さ十五メートルある。厚さが高さより大きい堅固な城壁である。

唐の時代、西安は長安と呼ばれ、その時中国の茶、陶磁器、文化、科学はシルクロードより世界へ伝播されていた。

西安には敵から街を守る擁壁が約十四キロの長さで構築され、シルクロードの東側の起点に西城門があるとされる。西安の城壁で最大の西門はシルクロードの発着点ともなったのである。

大雁塔
西城門
西城門から西方角(ここからシルクロードが始まる)
夜の西安

旅のフィールドワーク・中国領シルクロード

2023年8月14日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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