spine
jacket

───────────────────────



旅のフィールドワーク
クロアチア編

文・写真 清水正弘

深呼吸出版



───────────────────────



 目 次


クロアチアの歴史概略
カルロバッツ野外戦争博物館
プリトヴィッツェ湖群国立公園
 下の湖沼群
 上の湖沼群
スプリト
スプリト夕暮れ時
アドリア海沿岸部
ドゥブロブニク町中散策
ドゥブロブニク城壁歩き
夕暮れ時のドゥブロブニク
早朝のドゥブロブニク
スルジ山からの展望

クロアチアの歴史概略

(古代~)

九世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の九世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、八七九年にローマ教皇ヨハネス八世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴのもとでクロアチア王国は発展をとげるが、彼の死後しばらくして、後継者争いから内乱へ突入した。

(中世~)

十五世紀にはオスマン帝国に征服され、その領域に組み込まれた(軍政国境地帯の内クロアチア軍政国境地帯とスラヴォニア軍政国境地帯にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。十八世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって領地は回復されている(ハプスブルク領クロアチア王国)。

(近代~)

これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、一八四八年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。一八六七年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチア=スラヴォニア王国に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だったとされている。

一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他二地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは十世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。

ラグーサ共和国として半独立していた時期もあるが、ナポレオン期のフランス帝国領イリュリア州(一八〇九年~一八一六年)を経て、以降一八一五年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領(ハプスブルク領イリュリア王国、ハプスブルク領ダルマチア王国)になるまでヴェネツィアの支配が続く。

一九一八年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。

一九二九年は国名をユーゴスラビア王国に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく一九三九年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設定したが、批判も多かった。

(独立~)

クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パヴェリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。一九四一年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。

それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とするパルチザンおよび旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心としたチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる。

ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は維持された。

しかし、一九八〇年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、一九八〇年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチを中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。

(内戦時代~)

東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め一九九〇年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。

一九九一年三月には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区→クライナ・セルビア人自治区、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍の間でにらみ合う事態となり、三十一日にはプリトビツェ湖群で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件)。

クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、五月十九日には独立の可否を問う国民投票が実施され、九十三%の圧倒的多数が賛成票を投じた。これを受けて六月二十五日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。

一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国)として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、九月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争へと進む九

結果一九九五年に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民を生み出した。これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は二十万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化路線を完了させる。なお、クロアチア政府は一九九二年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。


カルロバッツ野外戦争博物館

野外戦争博物館といっても博物館はなく、ただ、広場の中に内戦で使用した戦車、戦闘機、大砲、高射砲等が、無数の銃弾の跡がある風化しそうなビルの前に無造作に並べられて、内戦の悲惨さを表している。

このカルロバッツは激戦場の一つであった。この街でセルビア人勢力からの攻撃を食い止めたため、なんとか首都ザグレブは戦場にならずに済んでいる。それだけに、この街の至る場所では、未だに激しい銃撃戦の痕跡が残されている。

プリトヴィッツェ湖群国立公園
(下の湖沼群)

プリトヴィツェ湖群は一般にディナル・アルプス山脈と呼ばれる山地に点在するカルスト地形の一つで、標高一六〇〇m~八〇〇ⅿの山脈群に広がるプリトヴィツェ台地に位置し、湖群名もこの台地名によっている。

十六の湖は、山間から流れ出てくる水が標高六三六mから五〇三ⅿまで、およそ八キロにわたって南北方向に流れる中で形成されており、上流の湖群と下流の湖群がある。湖群はおよそ二キロに渡って広がり、一番大きな滝は下流のプリトヴィツェ川が流れ込んでできた大滝(落差七十八m)で、湖群の最下流にある湖からコラナ川に流れ出す。

上の湖沼群

スプリト

スプリトはアドリア海に面した港町。旧市街は、古代ローマのディオクレティアヌス帝が建造した宮殿と中世以降の建造物が混在し、今も人々が生活を営む稀有な世界遺産の町である。三世紀末、内戦の絶えなかったローマ帝国を安定に導いたディオクレティアヌス帝は、生まれ故郷のサロナに近いスプリトに宮殿を建て移り住む。高さ二十m以上の強固な城壁で囲み、四つの門を設けた宮殿には、皇帝の居室、霊廟、三つの神殿などがあった。現在は市民の憩いの場となっている列柱で囲まれた広場、ドーム天井の前庭や、皇帝の胸像や机、ローマ時代の水道管などが展示された宮殿地下など、随所に往時を彷彿させる遺構が残されている。

スプリット夕暮れ時
アドリア海沿岸部


ドゥブロブニク町中散策


一九七九年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。

アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は約四万五千人前後。クロアチア人は住民の九十%弱を占めている。

ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に五つの海洋共和国に数えられ、アドリア海ではドゥブロヴニクのライバルとなりうる都市国家はヴェネツィア共和国だけであった。

巧みな外交術と豊富な富に支えられ十五世紀から十六世紀にかけてはとくに発展している。一九七〇年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、一九九一年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって七ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。

ドゥブロブニク城壁歩き

現在の城壁の形状は、ヴェネツィアの宗主権から街が完全に独立した後の十四世紀に決定されている。建設の最盛期は十五世紀初頭から十六世紀後半まで続いている。壁は非常に頑丈に作られていたため、一六六七年に発生した強い地震での影響をほとんど受けずに済んでいる。ラグーサン要塞の継続的な開発と応急修理と工事に対する最大の効果は、特に一四五三年にコンスタンティノープルを征服したトルコ軍による予期せぬ攻撃からの回避で証明されてもいる。

何世紀にもわたって、ドブロブニクの人々は東と西の間を巧みに行き来することで都市共和国を維持することができたのである。トルコとの戦略的条約によりラグーザの自由が保護され、オスマン帝国とヨーロッパの間で主要な貿易上の役割を果たす機会が維持されてきたのである。

ミンチェタ塔は、トルコの脅威が頂点に達していた一四六三年に、ニキフォルランジナという地元の建設業者と教皇ピウス二世から派遣されたイタリア人技術者によって建設されている。元々は強力な四面の要塞であったが、陸地に向かう防御システムの中で最も顕著な地点となっている。

塔の名前は、塔が建てられた土地を所有していたメンチェティッチ家の名前に由来している。この塔は一四六四年に完成し、不屈の都市ドゥブロヴニクのシンボルとなったのである。

夕暮れ時のドゥブロブニク
早朝のドゥブロブニク
スルジ山

旅のフィールドワーク・クロアチア編

2023年8月14日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

bb_B_00177070
bcck: http://bccks.jp/bcck/00177070/info
user: http://bccks.jp/user/152489
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

jacket