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チェック人(チェコ人)の多い、ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア地方をあわせてチェコと言われる。九世紀には大モラヴィア王国、十世紀にはベーメン(ボヘミア)王国が成立。
十七世紀にはオーストリアのハプスブルク帝国の支配下に入り、その後長く支配された。しかし、プラハを中心としたボヘミア地方は商工業が発達、ハプスブルク帝国の一つの中心都市としてウィーンに対抗するようになる。
十九世紀の民族主義(ナショナリズム)が高揚した時期に、チェコ人の間にも独立運動が起こり、ハプスブルク帝国の支配にしばしば抵抗するようになった。その運動は第一次世界大戦の勃発と共に高揚して、一九一八年、スロヴァキアとともにチェコスロヴァキア共和国(第一共和国)として独立した。
しかし、ナチス=ドイツが台頭すると、ヒトラーはチェコにおけるドイツ人住民の多いズデーテン地方の併合をめざし、ミュンヘン協定でそれを国際社会に認めさせると、それをテコに、チェコ全土を併合してしまった。
第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアは独立回復から社会主義化へ複雑な経過をたどり、一九四八年から社会主義体制をとるチェコスロヴァキア社会主義共和国となった。
しかし、一九六〇年代にはソ連を中心とした東欧圏の社会主義経済が行き詰まり、チェコでも民主化を求める動きが強まった。
一九六八年には「プラハの春」といわれた民主化の試みが行われたが、ソ連軍とワルシャワ条約機構軍が侵攻するというチェコ事件で弾圧され、その後もチェコスロヴァキアの民主化運動は厳しく取り締まられた。
一九八九年の一連の東欧革命の中で、ようやくチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)を達成。その直後からチェック人とスロヴァキア人の間で民族主義的な主張が強まった。
チェコ側はスロヴァキアの工業原料を確保したい思惑から、分離に反対する意見が強かったが、スロヴァキアの分離要求が強く、一九九二年の議会で分離が決定し、一九九三年一月を以てチェコスロヴァキアの連邦解消に踏み切った。
チェコ共和国(Czech Republic)は、一九九三年にスロヴァキアと分離し、独立した。面積約七万八千平方㌔(日本の約五分の一)。人口約一千万。首都はプラハ。
初代大統領は、チェコスロヴァキア民主化運動の指導者ハヴェルが務めた(一九九三~二〇〇三年)。一九九九年にはNATOに加盟、二〇〇四年にはEUに加盟した。
ヴィシェグラード=グループ 一九九一年二月、分離する前のチェコスロヴァキアとポーランド、ハンガリーの三国首脳がハンガリーの都市ヴィシェグラードに集まり、歴史的・文化的に関係の深い三カ国が経済協力を進め、ヨーロッパ統合にも協力することを取り決めた。
チェコとスロヴァキアは分離後もこのこのヴィシェグラード=グループにともに加盟をつづけており、現在グループは四ヵ国となっている。
ヴィシェグラードは、一三三五年にハンガリー王、ポーランド王、ボヘミア(チェコ)王が会談を行い、商業ルートの設置や各国の政治協力を話し合った場所であった。現在、ヴィシェグラード=グループはヨーロッパ連合の一部を構成する地域共同体として存在意義が注目されている。
一九六八年、冷戦の重苦しい空気につつまれていた東欧の地に、にわかには信じがたい「春の嵐」が吹き荒れた。それが、チェコスロバキアが世界に示した一瞬の夢、「プラハの春」である。
始まりは、その年の一月にアレクサンデル・ドゥプチェクが共産党第一書記に就任したことだった。彼は、硬直化したスターリン主義的な体制に限界を感じ、まったく新しいスローガンを掲げた。人間の顔をした社会主義」である。
それは共産党の支配を捨て去るものではなかったが、検閲の廃止、言論や旅の自由、そして経済の民主化を認めるという、当時の東側陣営においてはあまりにも革命的な試みであった。自由の風が吹き抜けると、プラハの街は一気に活気を取り戻した。
新聞や雑誌はそれまでタブーとされていた政治批判を繰り広げ、カフェでは若者たちが未来の民主主義について熱く語り合った。人々は息を吹き返したかのように笑い、歌い、自国の変革に酔いしれた。このとき、チェコスロバキア国民が抱いた希望は、最高潮に達していた。
しかし、この「春」を、モスクワの Kremlin(クレムリン)は冷酷な眼差しで見つめていた。ソ連の指導者ブレジネフにとって、チェコスロバキアの自由化は東側陣営全体の崩壊につながる危険な「感染症」に映ったのである。
ソ連は何度もドゥプチェクに圧力をかけ、改革の停止を迫った。だが、自国民の圧倒的な支持を背負ったドゥプチェクは、対話による解決を信じ、引き下がらなかった。
そして、運命の八月二十日深夜、悲劇は突如として訪れる。事前の警告もなく、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍の戦車二千両、兵力二十万人という圧倒的な軍隊が国境を越えて侵入した。プラハの市民が眠りから覚めたとき、街の美しい石畳はすでに戦車の無限軌道によって踏みにじられていた。あまりにも突然の、そして理不尽な暴力だった。
市民たちは、武器を持たずに立ち上がった。戦車の前に立ちはだかり、「なぜ僕たちを撃つのか」「君たちの国へ帰れ」と兵士たちに涙ながらに訴えかけた。
道路標識をひっくり返して侵略軍を混乱させ、秘密の地下ラジオ局から世界に向けて「プラハはまだ持ちこたえている」と発信し続けた。それは、暴力に対する人間の尊厳の抵抗だった。
しかし、圧倒的な武力の前に、奇跡は起きなかった。ドゥプチェクをはじめとする指導部はモスクワへ連行され、事実上の降伏文書である「モスクワ議定書」への署名を余儀なくされた。
プラハに帰ってきたドゥプチェクの、涙をこらえ、途切れ途切れに国民へ語りかけるラジオ演説は、一つの時代の終わりを告げる葬送曲のようであった。
こうして、わずか八ヶ月あまりで「プラハの春」は凍てついた。その後、国は「正常化」という名の厳しい抑圧と監視の時代へと逆戻りし、人々は再び長い沈黙を強いられることになる。
しかし、一九六八年のプラハの街に刻まれた「自由への意志」は、決して消え去ることはなかった。戦車がどれだけ踏みにじろうとも、地中に埋もれた希望の種は、二十一年後の一九八九年、再び「ベルベット革命」という大輪の花を咲かせることになるのである。
一九一八年、第一次世界大戦の終焉とともに、中央ヨーロッパの地に一つの新しい国家が産声を上げました。それが「チェコスロバキア」です。かつてハプスブルク君主国の支配下に置かれていたチェコ人とスロバキア人が手を携え、自らの運命を切り開くために築いた、希望に満ちた民主主義国家でした。
戦間のチェコスロバキアは、周囲の国々が次々と権威主義へと傾倒していく中で、孤高の民主主義の灯火を守り続けました。首都プラハは文化と芸術の都として花開き、工業国としての確固たる地位も築き上げます。しかし、その輝きは長くは続きませんでした。
十数年という短い平和ののち、ナチス・ドイツの侵略という巨大な暗雲が迫ります。一〇三八年のミュンヘン会談により、英仏の裏切りに遭った国は解体を余儀なくされ、美しいプラハの街は深い絶望に包まれました。
第二次世界大戦が終わり、ナチスの支配から解放されたのも束の間、今度は東側からの冷戦の荒波がこの国を呑み込みます。一九四八年のクーデターによって共産主義政権が誕生し、かつての自由な気風は鉄のカーテンの向こう側へと隠されてしまいました。
それでも、人々の心の中にある自由への渇望は消え去りませんでした。その情熱が最も美しく、そして悲しく燃え上がったのが一九六八年の「プラハの春」です。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由や民主化を求めた変革の動きは、世界中に一筋の光を見せました。
しかし、その夢はソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍の戦車によって無残にも踏みにじられます。プラハの街に響いた戦車の轟音と人々の涙は、冷戦期の最も痛ましい記憶として歴史に刻まれました。
その後、二十年に及ぶ「正常化」という名の停滞期を経て、ついに奇跡の瞬間が訪れます。一九八九年、東欧革命の波の中で、人々は再び立ち上がりました。一本の銃弾も血も流すことなく、ただ民衆の連帯と意志によって共産党政権を崩壊させたその革命は、絹のようになめらかであったことから「ベルベット革命」と称えられます。ついに、チェコスロバキアは自由を取り戻したのです。
しかし、自由の光は同時に、長年心の奥底に眠っていたチェコとスロバキアの「互いの違い」をも浮き彫りにしました。経済的な格差や、国家のあり方を巡る議論の中で、両者は別々の道を歩むことを決断します。
一九九三年一月一日、チェコスロバキアという国は地図上から姿を消しました。それは決して流血の対立ではなく、互いの未来を祝福し合う、あまりにも静かで平和な別れでした。歴史家たちはこれを「ベルベット離婚」と呼びます。
わずか七四年という、国家の歴史としては短い生涯でした。しかし、チェコスロバキアが歩んだ軌跡は、激動の二十世紀そのものでした。抑圧に抗い、自由を求め、最後は互いを尊重しながら美しく幕を引いたその歴史は、今もチェコとスロバキアという二つの国の中に、気高い記憶として生き続けています。
カレル橋は、チェコ共和国のプラハを流れるヴルタヴァ川に架かる橋である。神聖ローマ皇帝カール四世(ボヘミア王カレル一世でもあった)の治世下、一三五七年に建設が始まり、一四〇二年に完成している。
建築家ペトル・パルレーの設計による。一八四一年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが、一八七〇年よりカレル橋と呼ばれるようになった。
橋の長さは五一五・七メートル、幅は九・五メートル。十五のアーチの上に、砂岩の切石の橋桁が渡されている。また橋を守るために三つの橋塔が建てられており、とくに旧市街側の橋塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には十五体ずつ、合計三十体の彫刻が並んでいる。その多くはバロック様式である。最も古いものは「十字架像」で一三六一年の文書に登場する。
その後ボヘミア王イジー騎馬像やライオン像などが据えられていたと考えられているが、三十年戦争の間に十字架像を除いて全て破壊されたとされる。その後一六八三年、ヤン・ネポムツキー像が新たに据えられた。
その後一七一四年までの間に合計二十八体の彫像が製作され据付けられた。これらの彫像の中で著名なものは「十字架像(ゴルゴダの丘で磔にされたキリスト像」、「ブルンツヴィーク像」と「聖人ヤン・ネポムツキー像」である。
この聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ多くの人に触られたためつるつるになっている。また、最も古くから存在した十字架像のオリジナルはプラハ国立博物館に保管され、現在橋に設置されているものは一六二九年に製作されたものである。
昼間のカレル橋は観光客で賑わい、橋の上には多くの露店が並ぶ。また、大道芸、見世物、ジャズ演奏なども行なわれる。夜になるとプラハ城やカレル橋がライトアップされ、夜の散歩を楽しむ人々の通りになる。






プラハという街は、地球の大きな「ツボ」のような場所である。
山岳ガイドとして世界の高峰や辺境を歩き、鍼灸師として人間の身体に流れる気血を整えてきた私にとって、旅とは単なる観光ではなく、土地の持つエネルギーに触れて心身を再生させる「トラベルセラピー(癒しの旅)」に他ならない。
中欧の古都プラハの石畳を踏みしめたとき、私の足裏からは、この街が何世紀にもわたって蓄積してきた濃密な大地の生命力がじんわりと伝わってきた。東洋医学では、滞った気を通すことで身体が癒やされると考えるが、プラハの街を南北に流れるヴルタヴァ(モルダウ)川は、まさにこの都市の巨大な「経絡(けいろく)」だ。
川にかかるカレル橋の上に立ち、冷涼な川風を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸をしてみる。すると、日常のせわちなリズムで浅くなっていた呼吸が、自然と本来のゆったりとした深さを取り戻していくのを感じる。黒ずんだ砂岩の聖像たちに見守られながら歩く時間は、まるで街全体が施してくれる大きな温灸のようだ。
プラハのもう一つの魅力は、五感を心地よく刺激する「陰陽のバランス」にある。
「陽」の情景:丘の上にそびえるプラハ城や、夕日に照らされて黄金色に輝く百塔の街並み。それは天に向かって開かれた、力強いエネルギーに満ちている。
「陰」の情景:一歩路地裏へ入ると広がる、中世の面影をそのまま残した静謐な石畳の迷宮。ひんやりとした日陰の空気は、高ぶった神経を優しく鎮めてくれる。
カレル橋の賑わいという「動」から、旧市街の古い教会の静寂という「静」へ。この絶妙な揺らぎを歩くこと自体が、現代社会で乱れがちな自律神経を調律する極上のウォーキングプログラムとなるのである。
旅の終わりには、地元のパブでチェコの伝統的なピルスナービールを味わうのもいい。大地の恵みをたっぷり含んだ麦の苦味は、歩き疲れた身体にすっと染み渡り、五臓六腑を潤してくれる。
人智を超えたヒマラヤの大自然や聖地が持つ強烈なパワーとはまた違い、プラハには「人間が歴史とともに醸成してきた、熟成された癒やしの力」が息づいている。忙しい日常から離れ、心身の錆を落として本来の自分へと還りたいとき、この「地球のツボ」はいつでも私たちを優しく迎え入れ、深い五感の癒やしを与えてくれるだろう。
千年の時を奏でる石の円舞曲――古都プラハが語りかける歴史の残響
プラハという街の美しさを語るとき、私たちはどうしてもその均整の取れた街並みや、夕暮れ時に黄金色に染まる百塔の景観に目を奪われがちになる。しかし、この街の真の魅力は、その美しい皮膚の奥深く、幾層にも重なり合った「時間の地層」にこそ宿っている。
プラハの石畳を踏みしめて歩くことは、そのままヨーロッパが紡いできた千年の歴史のページを、一枚一枚めくっていくような贅沢な体験に他ならない。プラハの歴史の幕開けは、九世紀後半、ヴルタヴァ川を見下ろす丘の上にプラハ城が築かれたことに始まる。
この地を統治したプシェミスル朝の時代から、プラハは単なる一地方都市ではなく、東欧と西欧、そして南北の交易路が交差する「ヨーロッパの十字路」としての運命を背負わされることとなった。
この街が最も眩い光を放ったのは、十四世紀、神聖ローマ皇帝神聖ローマ皇帝カール四世(チェコ名カレル一世)の治世である。彼はプラハをこよなく愛し、この街をキリスト教世界の中心にふさわしい一大首都へと改造した。
今も街の象徴として残るカレル橋の礎石が据えられ、ゴシック様式の傑作である聖ヴィート大聖堂が天を突くように聳え立ち、中欧最古の大学であるプラハ大学が設立された。この時代、プラハは富と文化、そして知性が集まる「黄金のプラハ」として、ヨーロッパ全土にその名を轟かせたのである。
しかし、十字路に立つ街の運命は、常に平穏であるわけではない。輝かしい繁栄の裏には、常に激しい歴史の嵐が吹き荒れていた。十五世紀初頭、教会の腐敗を厳しく批判したヤン・フスが火刑に処されると、プラハは宗教改革の激震地となった。
旧市街広場に立つフス像は、今もその時代の不屈の精神を象徴している。さらに一六一八年、プラハ城の窓からカトリックの使者が投げ落とされた事件(プラハ窓外投擲事件)は、ヨーロッパ全土を焦土と化した三十年戦争の導火線となった。
カレル橋の袂に並ぶ聖像たちは、その悲劇的な戦争の時代、そしてその後に訪れたハプスブルク家による徹底したカトリック化という「影の時代」を、黙って見つめ続けてきた証人たちなのだ。
そして時計の針は一気に二十世紀へと進む。プラハが経験した近代の苦難は、あまりにも過酷だった。ナチス・ドイツによる占領、それに続く第二次世界大戦、そして戦後に訪れたソ連を中心とする共産主義体制。
自由を求めた民衆の叫びが戦車によって踏みにじられた1968年の「プラハの春」、そしてついに自らの手で民主化を勝ち取った一九八九年の「ベルベット革命」。激動の二十世紀において、プラハの街頭は常に、人間が尊厳と自由を求めて闘う舞台であった。
これほどまでに激しい戦火や破壊の歴史を潜り抜けながらも、プラハが奇跡的に中世の美しい姿を現代に残しているのはなぜだろうか。それは、この街に生きた人々が、どんなに過酷な支配下にあっても、自らの文化と言語、そして街の美しさを命がけで守り抜こうとした強い意志があったからに他ならない。
カレル橋の上に佇み、ヴルタヴァ川の緩やかな流れに目をやる。川面は、カール四世の栄華も、フス派の怒りも、冷戦期の静寂も、すべてを飲み込んで静かに流れていく。街を満たすどこか物憂げで、しかし凛とした空気は、数々の悲劇を乗り越えてきた歴史の厚みが醸し出す「街の体温」のようなものかもしれない。
プラハは単に「古い建物が残る綺麗な街」ではない。そこは、人間が織りなした栄光と挫折、生と死、そして祈りの記憶が、石の一つひとつに染み込んだ、生きた歴史の博物館なのである。
プラハ歴史地区には、通称「城の丘」に鎮座する巨大なプラハ城がある。プラハ城は世界でも最も大きい城の一つでもある。
そのなかの広場は「アマデウス」や「レ・ミゼラブル」などの映画に登場している。
プラハ城が本格的な黄金期を迎えるのは十四世紀半ば。ボヘミアを統治していたカレル一世がカール四世として神聖ローマ帝国皇に選ばれ、プラハを神聖ローマ帝国の首都とすると、プラハ城とプラハの町は、急速に発展していったのである。
プラハ歴史地区は、プラハ城をはじめチェコにある千年以上の歴史を持つ世界遺産が多く存在している。この町は「ヨーロッパの魔法の都」とも称されている。
プラハはヨーロッパで最も古い都市であり、九世紀頃から文化の中心地でもあったのである。この地区を歩けば、バロック様式、ロマネスク様式、ルネッサンス様式など、様々な建築様式を見ることができるのである。
大聖堂が現在ある場所に最初の教会(これもまた聖ヴィートに捧げられていた)が建てられたのは九二五年のことで、ボヘミア公のヴァーツラフ一世(聖ヴァーツラフ)によって初期ロマネスク様式のロトンダ(円形建築)が建設された。
聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフが東フランク王ハインリヒ一世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからである。
また同時にヴァーツラフは、民衆がキリスト教への改宗に抵抗を感じないよう、スラヴ神話の太陽神スヴァンテヴィトによく似た響きを持つ名前の聖人を選んだともいう。二つの宗教人口は、キリスト教徒が増加し、土着の宗教人口は減少したが、少なくとも十一世紀まではプラハ城内に共存していた。
一〇六〇年にはプラハに司教区が置かれた。小さなロトンダでは熱心な信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ二世は大規模な教会の建築に乗り出した。典型的ロマネスク様式のかなり大きなバシリカが、同じ場所に建設された。
まだ完全には解明されてはいないが、側廊が三本のバシリカとクワイアが二つ、西の翼廊につながる塔が一対という規模だと多くの専門家は考えている。
大聖堂のデザインは神聖ローマ帝国のロマネスク様式であり、ヒルデスハイムの聖ミカエル教会やシュパイアー大聖堂に似ている。
ロトンダの南アプスが新しい教会の東翼廊に取り込まれたのは、そこに聖ヴァーツラフ、すなわち聖ヴァーツラフの墓があったためで、彼はこのときからチェコの王子の守護聖人となった。
司教の邸宅もまた新しい教会の南に建てられ、十二世紀中ごろにはかなり広げられて大きなものとなった。
(中世~)
築城については史実と伝説(リブシェ伝説など)が混在している。プラハ城の歴史は九世紀(八百七十年)にさかのぼる。考古学の発掘調査ではボジヴォイ一世(在位八七〇-八九四)によって創建された。壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会(英語版)であった。聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、十世紀の前半に建設された。
十四世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カール四世(=ボヘミア国王カレル一世)の支配の下、王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。
(近世~)
ルドルフ二世はプラハ城を主たる居城とした。ルドルフは宮殿の北翼を建設し、そこにスペイン・ホールを作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。一六一八年に起きた二度目のプラハ窓外投擲事件は白山の戦いの契機となり、戦闘の間にプラハ城は荒れ果てた。三十年戦争の過程で一六四八年、ルドルフ二世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った。
(近代~)
プラハ城の再建としては、十八世紀後半に女帝マリア・テレジア(ボヘミア女王)が行ったものが最後となる。オーストリア皇帝フェルディナント一世(=ボヘミア王フェルディナント五世)は一八四八年の退位後、プラハ城を居城とした。一九一八年、チェコスロバキア共和国の成立とともに、プラハ城には大統領府が置かれた。新王宮と庭園はスロベニアの建築家ジョゼ・プレクニクにより修復された。
チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキア共和国に別れた後、プラハ城には新しくチェコ共和国の大統領府が置かれている。初代大統領トマーシュ・マサリクがプレクニクに依頼したのと同様、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領はポスト共産主義建築家としてプラハ城の改修に取り組むようボジェク・シーペクに委託、城のギャラリーの絵も修繕された。
正式名称は、プラハ市民会館である。共和国広場に立つ、ひと際華やかなセセッション様式の建築物である。中央奥にあるホールが、クラシックファン垂涎の「プラハの春」音楽祭が開幕される聖地である。毎年五月十二日のスメタナの命日に、代表作《我が祖国》が演奏されることで知られる。
スメタナは、当時オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望やチェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。
そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。国際的には、六つの交響詩から成る『わが祖国』と、オペラ『売られた花嫁』、弦楽四重奏曲『弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」』が代表作として知られている。
『わが祖国』は、スメタナの祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品で、第二曲の「ヴルタヴァ」(モルダウ)が特に著名である。このホールはプラハ最大のホールで、舞台中央にスメタナのレリーフが象徴として収められている。
天井には、音楽、ダンス、詩、演劇の寓意のフレスコ画。彫刻やパネル、天井のガラスなど。二十世紀初めに活躍したチェコの芸術家たちが腕を振るった装飾は、細部にわたり素晴らしい。
チェコ・南ボヘミア州の小さな都市である。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語の(Krumme Aue)をその語源とする。
チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味であり、これによりモラヴィアにあるモラヴスキー・クルムロフ(Moravský Krumlov)と区別される。一九二〇年以前はクルマウ・アン・デア・モルダウという名称で知られ、古い地図には単にクルマウ(Krumau)と記載されていることが多い。
この街は重要な文化の中心地である。いくつものフェスティヴァルやイベントが毎年開催されている。最もよく知られているのは、六れる五弁のバラの祭典である。この際には、下町は歩行者天国になり、職人、芸術家、音楽家、地元の人々が中世の扮装をして、中世の町に模様替えした街頭へ繰り出す。
ジョスト、フェンシング、伝統ある民俗舞踊などの多種な催しがされ、城、地元の公園、河岸などで民俗劇が上演される。フェスティヴァルの最後を締めくくるのは、城で打ち上げられる花火大会である。一九八九年のビロード革命以後、一帯に八十軒を超える飲食店ができた。多くのレストランは川沿いと城周辺に集中している。
伝説によるとテルチの街は一〇九九年の創建とされるが、最古の記録は一三一五年で、十三世紀に森林を開拓して築かれたと考えられている。モラヴィア辺境伯領だったこの土地は一三三九年にヴィートコフ家のオルドジフの所領となり、本格的な開発が進められた。
ヴィートコフ家は十四世紀半ばにテルチを城壁で囲い、中央広場を中心に城内を整備し、城塞や聖ヤコブ長老教会を建設した。しかし、この時代の建物はほとんど木造で、一三八六年の大火で多くを焼失した。大火後、町はゴシック様式を中心に石造で再建された。
一四二三年にはローマ・カトリックに対する反乱であるフス戦争(一四一九〜三十六年)に巻き込まれ、フス派に占領されて被害を受けた。十五世紀に町は見本市や酒の醸造、塩の販売といった特権を手にし、城がゴシック様式で再建されたが、町の回復には時間がかかった。
十六世紀半ばにザハリアーシュ・ズ・フラデツがテルチを購入して君主となった。ザハリアーシュはルネサンスのヒューマニスト(人間性や人間の尊厳を重視する人文主義者)で、水道や病院といったインフラを整備し、最新の灌漑システムや農業生産法を導入し、ギルド(職業別組合)を設立して町の合理化を図った。また、イタリアの建築家や芸術家を呼び寄せてテルチ城をルネサンス様式に改め、同様にルネサンス様式での家の改築を奨励し、街並みを一新した。
チェコ・ボヘミアのクトナー・ホラ、小さな集落に過ぎなかったこの町を、プラハをも凌ぐといわれた都市に変貌させたのは、十三世紀に発見された銀鉱脈であった。十四~十五世紀には銀の採掘と銀貨鋳造によって繁栄し、その中心街は一九九五年、世界遺産に登録されている。
クトナー・ホラの銀産出量は豊富で、十三世紀にはヨーロッパの三分の一を占めチェコ黄金期の経済を支えてきた。十四世紀にはボヘミア王ヴァーツラフ二世によって王立造幣局が設立され、ここで鋳造された高品質な銀貨が中央ヨーロッパの共通貨幣となり、チェコに莫大な富をもたらしたのである。
造幣局は王の邸宅を兼ね、イタリア宮と呼ばれ歴代の王がしばしば滞在したため、クトナー・ホラはチェコの経済・政治・文化の中心的な都市となった。また十四世紀には、市民たちが資金を集め、鉱山労働者の守護聖人として聖バルバラ教会の建設も始めたのである。
それはゴシック様式の壮大な建築で、聖堂内には袈裟のような服装の鉱山労働者の像や、銀貨鋳造の様子を描いたフレスコ画があり、この町が銀鉱山で栄えたことを伝えている。今では銀の採掘で繁栄の極にあった往時を想像できないほど静かなクトナー・ホラであるが、修復された町並みや壮麗な建築群を前にすれば、プラハさえ影がかすむといわれた栄華を窺い知ることができるのである。
2023年8月15日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。