第二次世界大戦が激化し、日本が破滅に向かって突き進んでいた1944年11月25日、ひとりの青年がフィリピンのルソン島で戦死した。
その青年とは私の大伯父である。
その大伯父と同時代を生きた、美しい4人の女性芸術家たちがいた。
日本人として初めてショパンコンクールに出場し、世界へと羽ばたいたピアニストの原智恵子。それまでになかったモダンな雰囲気で日本映画界に新風を吹き込んだ映画女優の桑野通子。本格的なジャズ歌手の誕生と称賛され、戦後、ブギの女王となった笠置シヅ子。そして、命懸けで自分の愛する大切な歌を守り続けたブルースの女王・淡谷のり子。
きっと青年は、彼女たちの演奏や歌声をラジオを通して耳にし、映画を通してその演技を目にしていたことだろう。
それぞれの戦前・戦中・戦後を生きた女性たちと、戦後を待たずしてルソン島という戦場に散った大勢の兵士たちの中のひとりの青年の生涯を独自の解釈を交えて書き上げた渾身のレクイエム。
今一度知ってほしい、激動の時代を生きた4人の女性芸術家と、22歳の若さで戦場に散った名もなき青年の生きた証を。
この本はタチヨミ版です。
甦った幻の音
私の手元に一枚のビクターレコードのSP盤がある。
その白いレーベルには『ピアノ独奏 スケルツォ 変ロ短調 作品三十一 ショパンコンクール入選記念 原智恵子』と記されている。このレコードの演奏者こそ、一九三〇年代~一九六〇年代初頭にかけて、クラシックファンの間で絶大な人気を誇った美貌のピアニスト・原智恵子、その人である。
智恵子が「ピアニスト 原智恵子」として『第三回 ショパン国際ピアノコンクール』入選を記念して、その生涯でたった一枚、パリ・グラモフォン社に録音した貴重なSPレコードである。
私が智恵子のピアノ演奏を初めて聴いたのは、今から約二十年程前の冷たい雨が降る、或る冬の日のことだった。このSPレコードの復刻をはじめとする全三曲が収録された、智恵子のソロアルバム『伝説のピアニスト』の裏ジャケットの、猫を抱く智恵子の写真を初めて見た時、かわいい人だと思ったのと、そこに記されていたショパン『スケルツォ』モノラル、SP盤、復刻、一九三七年『ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調』一九六二年、ライブ、ドビュッシー、組曲『子供の領分』ステレオ、歴史的音源等のそれらの文面に非常に興味を惹かれたのを、昨日のことのようにおぼえている。
このアルバムの発売のきっかけとなったのは、智恵子が亡くなる直前に発売された、生前の智恵子と親交のあった、ノンフィクション作家・石川康子の手による同名タイトルの評伝であった。
自らの波乱の半生が記された本が書店に並び、まるでそれを見届けたかのような、智恵子の天国への旅立ちであった。その評伝がにわかに話題になり始め、智恵子が亡くなったこともあり、智恵子のピアノ演奏も記録に残そうという試みで、ピアニスト・原智恵子初のソロアルバムの制作が始まった。
しかし、その発売に至るまでの道のりには、乗り越えなければならない大きな課題があった。
まず、手始めにしなければならなかったことは、智恵子が生前、現役時代に残したであろう約半世紀も前の、放送録音の音源調査とその発掘であった。
公式なレコード録音は、後々、二曲のショパン録音の存在が判明するのだが、この時点では前述したショパンの『スケルツォ 第二番』のSPレコードの存在しか確認されていなかった。
この一曲のみでは智恵子のソロアルバムの制作は到底不可能である。
智恵子が最も活躍し、何かしらの形で録音も残っていると思われたNHKをはじめ、各放送局の録音記録の調査は行われたものの、智恵子のソロ音源は嘆かわしいことに皆無であった。
外国のアーカイブならば、今でも放送録音など少なからずも文化遺産として保存されているのかもしれないが、生まれた国が悪かったのか時代が早過ぎたのか、智恵子が戦後、日本を拠点にピアニストとして活躍した最盛期の一九五〇年代、テレビやラジオで放送される番組の殆どは生放送であった。
仮に演奏がテープやレコード盤に録音されていたとしても、一度放送したら最後、それを後世に残そうとするような時代ではなかった。それでも奇跡的に発見に至った音源が以下の二曲である。
ドビュッシー 組曲『子供の領分』全六曲
ショパン 『ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調』全楽章
ドビュッシーの組曲『子供の領分』は一九五九年に発売された十インチLP『中学校(改訂)学習指導要領音楽準拠 音楽鑑賞レコード 第一集』のB面収録曲としてコロムビアレコードに録音されたものであり、ショパンの『ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調』は一九六二年十二月四日、世田谷区民会館で現役最後となった智恵子の来日演奏の際、文化放送のラジオ番組『東急ゴールデン・コンサート』の放送用に日本フィルハーモニー交響楽団と共演したライブ録音で、両方共、録音から約四十年、日の目を見ることなく、静かにコロムビアレコードと日本フィルハーモニー交響楽団のテープ倉庫に、それぞれその存在を忘れられたまま長い間、手つかずに眠っていた音源である。
伝説のピアニスト・原智恵子は、皮肉にもその死と引き換えに、それまで幻となっていたその演奏を、四十年の時を経て現代に甦らせたのだった。
第三回 ショパン国際ピアノコンクール出場
私がまず初めに聴いたのは、一九三七年七月、フランス・グラモフォン社録音のSP盤からの復刻、ショパンの『スケルツォ 第二番 変ロ短調 作品三十一』だった。
この年、智恵子・二十二歳。
ここで、智恵子の誕生から『第三回 ショパン国際ピアノコンクール』出場までの略歴を、駆け足ではあるが短く紹介しておこう。
原智恵子は一九一四年十二月二十五日、兵庫県神戸市須磨に父・粂太郎と母・久子の第四子として誕生し、七歳の時からスペイン人ピアニスト、ペドロ・ビリャベルデにピアノを習い始め、須磨小学校四年の時に一家で上京し、幼少期を洗足で過ごした。
一九二八年、十三歳の時、画家の有島生馬に随行して渡仏。ジル=マルシェックスの個人レッスンを受けた後、ホームステイ先の銀行家、シャトネ家の一人娘からピアノのレッスンを受け始める。
一九三〇年十一月二十七日、パリ国立音楽院へ入学後はラザール・レヴィに師事し、二年後の一九三二年六月二日、日本人として初めて、名門パリ音楽院をプルミエ・プリ(最優秀)で卒業した。
それから間もなくして、有島からの電報を受け取った智恵子は、同年十月二日、約四年半振りに日本へ帰国を果たす。有島と智恵子の父が智恵子に一言の断りもなく、勝手に智恵子のデビューリサイタルを日本で開くことを計画し、それを実現させるために智恵子を日本へ帰国させたのだった。
パリ音楽院を日本人初の一等で卒業したことは名誉なことではあったが、だからと言って演奏会を開くとなれば話はまた別であった。智恵子がピアニストとして人前で演奏するには、あらゆる面でまだまだ十分な勉強が必要であることは、智恵子自身がいちばんよく分かっていたことであった。
帰国するにも現代のように、飛行機で日本へひとっ飛びという訳にはいかなかった時代のことである。船での長旅の間、ピアノの練習も十分に出来ない上に、帰国してからの体調のことも考慮すれば、智恵子にとってそれは無茶苦茶な話であった。フランスでの生活にも慣れて来ていた時期であっただけに、智恵子は日本での生活より、フランスでの生活を最優先したかったことだろう。
そんな状況下であっても父や有島、主催者らの顔を立て一九三三年二月九日、智恵子は二月四日の京都に続き、日比谷公会堂でも初の独奏会を開いた。
当日使用したピアノはブリュットナーで、プログラムは以下の曲目である。
バッハ『プレリュートとフーガ ハ長調 BWV五三一』 ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ 第十四番 嬰ハ短調 作品二十七の二 月光』 ショパン『練習曲 作品十の五、作品二十五の一』『スケルツォ 第二番 変ロ短調』 ドビュッシー『映像より~塔~、版画より~雨の庭~』 シューマン『交響的練習曲 作品十三』 リスト『ハンガリー狂詩曲 第十一番 イ短調』
デビューリサイタルの様子は批評と共に新聞各紙に大きく取り上げられた。
どの記事も、テクニックは申し分ないが人間的成長が乏しいと、世界から大きく遅れを取っていたドイツ音楽主流の日本のクラシック音楽の世界に生きる批評家たちは、まだ十八歳である若き才能溢れるフランス仕込みのピアニスト・原智恵子を絶賛もし、辛辣に批判もした。翌一九三四年五月二十三日、智恵子は日比谷公会堂で行われた新交響楽団の第一四一回公演に出演し、シューマンの『ピアノ協奏曲 イ短調 作品五十四』を共演したのをはじめ、数回だが各地で独奏会も開いた。
一時帰国から日本での生活も二年半が過ぎた一九三五年五月、智恵子は来日した世界的ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインと知遇を得る。この出会いが、二年後の『第三回 ショパン国際ピアノコンクール』出場の際、大きな助けになるとはこの時、智恵子自身知る由もなかった。
同年八月二十二日、智恵子の演奏を聴き感動したフランスの前文部大臣、アンドレ・オノラの働きかけで、フランス政府招聘留学で智恵子は再び日本を後にし、フランスへと渡った。
渡仏後はピアノの大家、アルフレッド・コルトーに師事し、助手としての生活が始まった。
コルトーからピアノに関する音楽的なことを教わっただけではなく、他の分野の様々な絵画や文学といった芸術に触れることの大切さも教えられた智恵子は、美術館や演奏会に足繁く通った。
翌一九三六年十月十日、アルベール・ヴォルフ指揮によるコンセール・パドルー管弦楽団と日本でも演奏したシューマンの『ピアノ協奏曲 イ短調 作品五十四』で共演し、パリの楽壇にデビューした。
この選曲は「デビューならシューマンの協奏曲で」と語ったコルトーの影響が大きいと思われる。
翌一九三七年二月二十三日、恩師、ラザール・レヴィをはじめ、周囲からの強い勧めもあり『第三回 ショパン国際ピアノコンクール』に、日本人として初めて甲斐美和と共に出場を果たす。
マズルカの解釈に納得のいかなかった智恵子は、日本に一時帰国中に来日し、リサイタルを行った際に知遇を得た、ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインにマズルカの指導を受けに行った。
タチヨミ版はここまでとなります。
2023年8月15日 発行 初版
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エッセイスト・作家。
2020年7月18日から2022年8月20日までの2年間と2日『Instagram』で毎日ポストを掲載。5000人以上のフォロワーの心を掴んだ。
複数のフォロワーからの熱い要望に応えてWebサイト『note』に活動の場を移し2022年6月より本格的に創作、執筆活動をスタートさせる。
エッセイ、短編人物伝、短編小説、ドキュメンタリー、スポーツレポート、短歌、詩を創作執筆。
1年を経た現在もWebサイト『note』に毎週水曜と土曜に好評連載中。
書き下ろし3本を含む本作『ルソン島に散った青年とその時代を生きた女性たち』で書籍デビューを飾った。